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大地の神だった者
序、異変
どうやら、金木の馬鹿息子を悪魔憑きにさせて、燐火にけしかけた神父が判明したらしい。
国でどうしようもない更生しようがない犯罪者を処理してしまうことはあるらしいのだが。
その仕組みを悪用して、燐火にけしかけてきた。
それも、ただ背後関係もなく。
教会で不遜な態度をとられて恥を掻かされたから。
それだけの理由であったらしい。
いわゆるノブリスオブリージュというのは燐火も聞いたことがある。人々に教えを説く筈の聖職もそれを持っていてしかるべき存在である筈だ。
だがカトリイヌさんが情けないと言っていたのも今ならわかる。
むしろ社会の上層にいる人間は、そんなの持っていないのが普通。
貴族のプライドがどうのこうのといって、結局不正と蓄財ばかりに励む。
神の救いがどうの民を導くがどうのと言いながら、裏では不正と蓄財にばかり励む。
一緒だ。
それはカトリイヌさんが、あのような有様を見せておきたいと考えるのも、納得がいった。
とりあえず、人間として燐火をおとしめようとしていた、或いは殺そうとしていた大人はこれでいなくなった。
おかあさんも退職前に色々警察で調べてくれていて。
今まで燐火がたたきのめした連中に何かしらの背後でのつながりがないか、とか。
金木家の残党が何かしていないか、とか。
そういうのも調べ上げ終えてくれていた。
今は引き継ぎもほとんど終わっているらしく、今までにないほど早く家に帰ってくるようになった。
おかあさんのおなかも少しずつ目立ち始めている。
燐火は別に子供をかわいいとは思えない。
そういう意味では、母親になるべき人間ではないのかもしれない。
ただ、おかあさんの子供だったら、それは大事にしなければならないと思う。
燐火の真似をさせるつもりはないし。
こうなってほしいとも思わない。
ただ、世話になっている分の恩くらいは返したいのだ。
こういうことを考えているから。
子供らしくないと言われるのだろうが。
神父の末路を聞いた後。
カトリイヌさんと会う。
燐火の背が随分伸びたと、カトリイヌさんは驚いていた。まあ、伸び盛りだ。中学になれば、もっと伸びるだろう。
燐火は小柄な方だったが、今では背丈についても女子の中ではかなり高い方になってきている。
今まで抑圧されていた体が。
今までの成長を取り戻すかのようだ。
或いは最初からまともな親のところにいたら。
今頃、もっと体格的には優れていたのかもしれなかった。
カトリイヌさんは護衛のうち、今回は若い方だけを連れてきている。おしゃれなカフェで話をしていると、咳払いされる。
大事な話、ということだ。
「少し大事な話になりますわ。 一応、盗聴器などは調べてありますけれど」
「わかりました。 それで何かあったんですね」
「……燐火さんを貶めようとした神父は死にました」
「はい」
それについては聞いている。
ただ、妙だとは思っていた。
死ぬほどの理由があったのか。
話を聞く限り、そもそも日本人を人間と思っているかすら怪しいような輩だったようだし。
「血筋が優れていない」子供の命なんか、それこそゴミとも思っていないような輩であったようだ。
それが人を殺した程度で自殺なんかするか。
一応、対外的には自殺と言うことにされているようだ。
まあ年ばっかり無駄にとって、最低限のエクソシストとしての能力しかないようだったから。
カトリイヌさん達一神教の魔祓いとしても、厄介払いが出来たのではないかと思っていたが。
確かに不審な点が多すぎる。
「実は、死に様があまりにも凄まじかったのです。 自殺などではありませんでしてよ」
「一体何があったんですか」
「破裂して飛び散りましたわ。 骨も肉も。 護送車はまるで挽肉をぶちまけたような有様だったとか」
「……」
それは、凄まじいな。
燐火もそもそもケルベロスとあったときは、死の臭いをこれ以上もないほど間近で嗅いだ。
それ以降も、色々と修羅場をくぐってきている。
死の臭いに近いものは、時々足を運ぶ充子の道場で、師範と相対した時にも嗅ぐことがある。
実力差がありすぎるのと。
凄まじい剣気を浴びて、身が危険を訴えているのだと思う。
いずれにしても、燐火はそんなことがあったのなら、確かに公開は出来ないなとは思った。
「燐火を襲った悪魔憑きは、それこそ人の原型をとどめていませんでした。 そういうことはよくあるんですか?」
「いえ、確かに強力な悪魔が人を異形に変えてしまうようなことはありますけれども、流石にこれほどの事は滅多にありませんわ。 エクソシストも何もしていなかった訳ではなく、名が知れているような強大な悪魔はあらかた現代までに祓ってしまいましたので」
「……だとすると、それらとは別口と」
「天罰を受けたのだという話もありますけれども。 今まで側に天使達がいて、悪行を見ていたのに、今更ですわね」
その通りだ。
ケルベロスがうっとうしそうに言う。
「そこのドミニオン。 おまえは天罰という意見についてどう思う」
「私はそうは思わないな。 神の御心であれば、もっと違う形で、しかるべき罰が下された筈だ。 あれはどちらかというと……」
「どちらかというと?」
「捕食されたように見えたな」
なるほどね。
捕食か。
だとすると、何かしらの別の神格とかが食ったのだろうか。いずれにしても、爆弾で自爆とかそういうのではないのだろう。
日本の警察は捜査能力が極めて高く、科学捜査に関しては世界でもトップクラスだと聞いている。
爆弾なんか使ったのなら一発でわかるだろう。
それが通常の警察ではなく、魔祓い関係でも同じ筈である。
「何かしら仮説はありますか」
「いえ、全く。 ガルドヴィ神父……貴方を襲わせた神父ですが、彼が持ち出していた対魔兵器は事前に回収済みです。 ましてや如何に堕落していたとしても、まさか黒魔術の類に手を出していたとも思えません。 念のためにカトリックから腕利きを派遣して調べてもらいましたのですけれど、その痕跡もなくて」
「いずれにしてもそんなことをやるようなカスだ。 どうせ余罪も山のようにあったのであろう」
「ええ。 その辺りの後始末もあって、直接謝罪に来るのが遅れましたわ」
頭を下げられる。
燐火としては、カトリイヌさんに恨みはない。
それに、実態を見てほしかったというのは事実だったのだろう。
それに関しては、燐火も有意義だったと感じているし。特に不満はない。
もしあるとすれば、だ。
「今、燐火の周りでどうも北欧系の悪神が動いている節があります」
「北欧系ですの?」
「はい。 もしかしたら、それに関係していないかなと思って」
「北欧……」
考え込むカトリイヌさん。
無口な若い護衛が、耳打ちする。
それで、頷いていた。
「北欧神話は、荒々しい人々の作り出した野性的な神話ですけれど、既に信仰されていたのは過去の話。 それもあって、ギリシャ神話と同じく、「物語」と化しているのが実情ですわ」
「それはケルベロスにも確認しました。 日本ではやたら知名度が高いこともあって、少しは力が発揮できるそうですね」
「ええ。 不可思議な話で、現地よりもこちらの方が力を発揮できるまであるとか」
「それはまた……」
妙な話ではあるが。
そういえば、菖蒲さんに言われたっけ。
仏教も発祥の地であるインドでは既にほぼ誰も信仰していない少数信仰と化してしまっており。
むしろ東南アジア、中央アジア。中華や日本が、その信仰の主体であるという。
北欧神話も13世紀には既に信仰は駆逐されて、その神殿はあらかた破壊されてしまったという話だが。
それと似たような傾向なのかもしれない。
ちょっと考え込む。
オーディンは日本ではなんだか格好良い神様と思われていて、もしもそれで降臨できたとしたら。
或いは確かに、今の北欧よりも、信仰してくれる人が出るかもしれない。
だが、それはあくまで物語として、だ。
今の日本人は、基本的に世界的に見て極めて異質な信仰をしている。
仏壇を家におき、神社に拝みに行き、クリスマスを祝う。
そんなことをやっているのは日本人くらいだそうで。
厳格な一神教徒から見れば、明らかな異端も異端、意味がわからない世界だという。
そういう混沌の中にオーディンをはじめとした北欧の神々が混ざるのは。無理だとは言わないが。
他の神々と同じように、祭壇でも作ってもらうのが精々だろう。
神社に飾ってもらったら、それで信仰してくれる人もいるかもしれないが。
精々お賽銭をもらって。
それで何か願いを叶えてくださいと言われるだけ。
日本では日女さんについている八幡神や、そのおばあさんに憑いている稲荷神をはじめとして。
多数の神様が、そういった素朴な信仰を受けている。
降臨したスレイプニルは実際それを理解できていないようだったし。
仮にオーディンが神威を示しても。
それが人々に最高の神として信仰されるかは、完全に別の問題である。
「どうもオーディンとは違う神が、変な動きをしているのではありませんか?」
「オーディンとは別の神ですの?」
「はい。 燐火はそれほど北欧神話に詳しくはないのでこれから調べますけれど」
「北欧神話ではロキという悪神がいますけれど、そいつはどちらかというと悪戯の神様であって、場を引っかき回して面白がるトリックスターに過ぎませんわ。 誰かしらの側で粘着して、悪事を重ねるような輩ではなく、気の向くまま悪事をして回るような神でしてよ」
なんだその迷惑な奴。
まあ、それが今のイメージと言うことなら、それはそれでいいが。
ともかく、そのロキはちょっと違うような気がする。
他にもいくつか情報交換をしておく。
今、日女さんにドルイドの手配をしてもらっているが、日本に来るまで一月くらいはかかるそうである。
前に呼んだドルイドのおじいさんは、まるで役に立たなかった。いや、役には立てたが、問題解決にはつながらなかった。
ただ、何か北欧系の神格が悪さをしている。
それだけは確かだ。
情報を交換して、それで戻る。
カトリイヌさんが所属しているカトリックは、魔祓いとしては世界最大の組織であるらしい。
まあエクソシストと言えば有名だし、そういうものなのだろう。
それで何かわかることがあれば良いのだが。
ともかく家に帰る。
ケルベロスが、ぼそりと言った。
「気づいていたか、燐火」
「なにが?」
「あの娘、また随分と美貌に磨きがかかったな。 後、性格が多少は落ち着いたようだ。 ドミニオンが影響を受けていた」
「そういえば、少し大人っぽくなっていたね」
既に社会人として働いていると言うこともある。
日本基準の年齢だと今女子高校生の筈だが、飛び級で大学を出ているという話だから、その分社会の最前線で経験を積んでいると言うことか。
ただ、一時期アホな会社の社長が、中卒の方が社会経験が多くて使えるとか言う寝言をほざいていた事があったらしく。
それは実質、体育会系の言うことを聞くだけの部下で回りを固めるだけが目的だったらしい。
必ずしも社会に出るのが早いほどいいと言う訳ではないが。
カトリイヌさんもギャグキャラみたいな性格で青春を謳歌している暇もなく、大人になってきていると言うことだろう。
まともな大人なんて滅多にいないのが現実だから。
それで立派な大人になれるのなら、それでいいのではないのだろうか。
「まあ、ポンはまだ直っていないようだったがな」
「何かあったの?」
「……いずれわかる」
よくわからないが、ともかくそれはいい。
家では鍛錬を続ける。
この間、道場で師範に教えてもらった細かい調整をしておく。その話はケルベロスも聞いていてくれたので、燐火としても調整はしやすい。
本当に細かい調整をするだけで、剣筋がよくなる。
的を激しく打ち据えるが、鋭い音がして、実に心地よい。
おもりをつけた竹刀に、更におもりを追加するか。
鉄パイプを用いる場合は、もっと腕力があった方が良い。握力は鍛えられなくても、腕力はそうではないのだから。
夕方になって、ダイモーンが出る。大物だ。急いで着替えて、現地に向かう。既に冬は終わって、春になってきているが。
格好はいつもと同じだ。
ちょっとずつ丈を調整しているが、変身(着替えるだけ)の格好はあまり変わらない。
ただもらったお小遣いで白い布を買って、それを加工してもっと布の品質を上げたので。より激しい動きにも耐えられる。
ただしその激しい動きは、あくまで現地まで走って行くためのもの。
それに顔を隠しているから、白仮面呼ばわりされることに変わりはない。
山を抜けて、一気に商店街に。
おっと、あれは。
確かよくない噂がある政治家の事務所だ。
燐火も街の情報を集めているが、色々ろくでもない政治家はいる。
支持者を票田というらしいのだが、それがカルト団体だったり、或いはほぼ非合法の思想団体だったりするケースがあるらしく。
あの事務所は、その典型だ。
それに絡みついているのは、四つも首がある大物のダイモーンである。
前だったら、手に負えなかった。
ヘラクレスさんが対処する相手だっただろう。
だが、今なら。
文字を虚空に、つまり聖印を切る。
立て続けに、聖印をたたき込む。
爆ぜるカコダイモーン。首をふるって、凄まじい悲鳴を上げた。聖印の力が明らかに上がっている。
この魔法のステッキ(鉄パイプ)もそれだけ手に馴染んできたと言うことだ。
連続して聖印をたたき込み。
そのたびに、巨大な体が破裂した。
「いいぞ。 以前とは比較にならない火力だ。 一気に押し切れ」
「うん!」
そのまま、立て続けに聖印をたたき込む。
もがきながら、カコダイモーンがこちらを見る。
なんだ。
一瞬だけ、違和感を感じたが、容赦なく追撃を行く。少なくとも、あのカコダイモーンは倒せるだろう。
聖印を切るのも、以前よりずっと早くなっている。
それでいながら、一つ一つの火力も上がっている。
それだけあらゆる意味で鍛えたからだ。
徹底的に。
だが、まだ足りない。
燐火に妹か弟が生まれる頃には。
更に力を上げておきたい。
それは、燐火としての義務の一つ。
後、おとうさんとおかあさんには、敬語でなくしゃべれるようにしたい。そうして普通にしゃべれる相手を、少しずつ増やしたい。
それも本音だった。
悲惨な悲鳴を上げて、カコダイモーンがはじけ飛ぶ。
多少息が上がったが。
これでヘラクレスさんの負担も減るはずだ。
「見事」
「ありがとう。 ただ……」
「どうした」
「今のダイモーン、ちょっと違和感があった」
いずれにしても、これであの政治家には悪運が途切れた。
すぐに警察が来るようなことはなかった。ただ、おそらく今までの悪運が全て消え去り、反動が来るだろう。
何がおきてもおかしくない。
家に戻る。
そして翌日、ニュースが出ていた。
あの政治家の票田となっているカルト団体が一斉摘発を受けた。そしてあの政治家が多額の献金をしていたことも明らかになった。
早速市議会で締め上げられたらしく、議員除名はほぼ確定。
さらには余罪がボロボロ出てきたらしく、恐らくは確定で逮捕だそうである。
もう年が年だ。
刑務所から出てくることはないだろう。
悪運で今まで散々やりたい放題をしてきた人生だ。だが、詐欺などにも手を染めていたらしく。
資産はほとんど没収。
家族も離散だそうである。
燐火としては、そうかとしかいえない。
まあ、自業自得だし、それが裁かれない社会の方が問題だ。
だからそれでいいし、その後のことには興味もなかった。精々惨めな老後を牢屋の中で送れば良い。
そうとだけ思った。
ただ、あの違和感がやはり気になる。
燐火の周りで、何かおきているのかもしれない。だったら、何があっても対応できるように。
やはりもっと鍛えなければならなかった。
1、悪神暗躍
ダイモーンだ。
学校の帰りに、直行する。既に春だから、虫たちもたくさんいるが、しかしダイモーンに近づくと虫の声はほとんど聞こえなくなる。
走り抜ける燐火を見て、白仮面だという人もいるが。
スマホで撮影されるようなぬるい動きはしていないし。
監視カメラがある場所は通ることもない。
このため、仕事中の燐火の姿を捉えた写真は一つか二つくらいしかネットに出回っていないようだ。
それもブレブレ。
一応都市伝説としてそれなりに知られ始めているらしいが。
それでもこの写真では、誰も信じないだろうと燐火は思ったし。
実際SNSなどでは、懐疑的な声が強いようだった。
ともかく走る。
森の中を一気に駆け抜ける。
この街はもう燐火の庭だ。ほとんど隅から隅までわかる。ケルベロスが位置を教えてくれれば。
そこへ最適解を自分で選択していけるようになった。
ただ、靴の消耗が激しい。
足のサイズも大きくなってきているし。しかも履き替えるまで靴がもたない事もよくあるのだ。
勿論おとうさんはかなり稼いでいるし、貯蓄もしっかりしているので、それは心配していないが。
その投資に見合うだけの事はしたい。
それが燐火の本音である。
走る。
そして現地に到着。
今回もまたちょっと強めの奴だ。隠れて様子を見る。あれは、いわゆる珍走団……いやそれほど気取ったものではないか。
昔はあの手のバイクを乗り回して格好良いと思い込む連中を神格化する漫画とかがあって、それに影響を受けた多くのカスが迷惑行為をしていたらしいが。
それも最近では誰もやらなくなり。
どんどん高齢化して行っているらしい。
それでも一部、まだ警察に目をつけられているような集団もいるそうだが。
いずれにしても一時期は暴走族とか呼んでいたらしいが。
今ではすっかり人もいなくなったので、珍走団と呼ぶらしい。
それくらい恥ずかしい呼ばれ方をしたほうが、だれもやらなくなるだろう。実際問題、それで正解だと思う。
いずれにしても、バイクをふかしていきり散らかしているそいつには。
結構大きめのダイモーンがへばりついていた。
三人程度で走り回っているが、辺りに爆音で迷惑を掛けている。確か移動していれば爆音を垂れ流していても逮捕されないのだっけ。
それのせいで、過激派団体が訳のわからない車で大音量で走り回っているらしいけれども。
カスの考えることは、どれも同じなんだなと思い。
燐火はなんだか情けなくなった。
ともかく、片付ける。
聖印を切る。
立て続けに三回。
それで、ダイモーンが爆ぜた。
同時に、ゲラゲラ笑っていた珍走団……というには小規模だが。迷惑バイク乗り達が、何かの拍子で転び。
多重追突していた。
一人がそれで足を思いっきり挟んだらしい。
しかもバイクがそのまま横転して、激しくクラッシュ。
あの手の連中には、バイクは命の次に大事なんだったか。
ご愁傷様である。
いずれにしても、わざわざ警察を呼ばなくても大丈夫だろう。実際、すぐに近所の人が通報したらしく、警察と救急が来ていた。
足が足があと喚いている一人が、泣きながら救急車にて運ばれている。
さらには爆音で垂れ流されている音はそのままで、警察が止めろと命令して。それで残りの二人が、必死に止めようとしていたが、うまくいかないようだった。
いずれにしても改造車両、大音量のばらまき。
それにあの三人、結構いい年だ。
きちんと警察の世話になるだろう。
ふっと燐火は笑って、その場を離れる。問題は、ここからだ。
「この間の汚職政治家の時も感じたけれど、今のダイモーン何か混じっていたような気がする」
「しかし燐火は対応できた。 だとすると、一神教の悪魔などの強力な存在ではあるまい」
「……そうだね。 だとすると、一体何だろう」
「俺には感じ取ることが出来なかった。 燐火は既に魔祓いとしては、ギリシャ系としては一人前の実力がある。 だからその直感は侮れない。 もう少し、色々調べてみないといけないな」
そうか。
頷くと、燐火はそのまま家に戻る。
途中で、白仮面を見たとか話している子供を見かけた。
さっき燐火を一瞬だけ見た人だろうか。
まあ、どうでもいい。
家に戻ると、すぐに鍛錬を始める。
素振りをしていると、日女さんから連絡。
連絡にしても、急ぎの時と、そうでない時で連絡方法を変えている。今のは、急ぎではない。
だから気にせず、素振りを終える。
その後、正拳百回まで終わらせて。
柔道と合気の訓練を一通りやってから、連絡を受ける。
メールでの連絡だ。
内容としては、ドルイドの手配について、だった。
「涼子って子は無事か?」
「まだ時々体調を崩していますが、そこまで深刻な様子には見えないですね」
「そうか、それはよかった。 魔祓いについてだが、来月頭にはきてくれるそうだ。 やっと交渉がまとまったらしくてな」
「それはよかった、ですが……」
ドルイドの魔祓いはあまり多くはない。
そもそも北欧にしてもケルトにしても、ドルイドは一神教に弾圧されて、今ではほとんど生き残りがいないのだ。
文化的にも、人員的にもである。
ドルイドがやっていた儀式には失伝しているものも多く。
魔祓いなどについては、更に弾圧がされて秘技が失われてしまっているものも珍しくない。
今ではドルイドの魔祓いとしてやっていける人も出てきているが。
それでもそれほど数は多くない。
だから、信頼性が高いかは、話が別だ。
あのおじいさんだって、昔は俊英としてならしていたという話だったのだから。
ともかく、続きを話す。
「昨日のダイモーンの現場、例のじいさんを連れて行ったが、おびえるばかりでどうにもな。 この街からさっさと離れたいとかずっとぼやいていてな。 これ以上はあのじいさんでは無理だろう」
「色々年齢的にも厳しいのだと思います」
「ああ、そうだな。 俺の方から、ばあちゃんに頼んでみる」
稲荷神が憑いているあの人か。
日本でもっとも信仰された稲荷については燐火も勉強したが、色々と混じり合った神格であるそうだ。
起源はインド神話のダキニ天とも言われているが。
元々日本に存在した豊穣神がベースとなり、それにダキニ天が混ざったという話もあるらしい。
いずれにしても、それらの話をまとめる限り、かなりの古代神格であり。
別文化圏の神に対してある程度探知は出来るかもしれない。
林西さんも動き始めているという。
林西さんは不動明王が憑いているらしいが。
不動明王は元々異神と戦う役割も持つ仏教神格の一つ、明王である。
それを思うと、確かにそれは出来るのかもしれないが。
やはり文化圏が違いすぎると、色々と厳しいだろう。
ともかく、皆で動いてはくれている。
それにスレイプニルがまたいつ動き出してもおかしくはない。それを考えると、あまりもたついてもいられないか。
勉強を進めながら、軽く打ち合わせをしておく。
ちなみに日女さんは勉強の方はそこそこ程度であるそうだ。恐らくは涼子の方が出来ると言うことで。
それを聞いて、燐火は苦笑いしていた。
まあ、誰にでも苦手分野はある。
日女さんには随分世話になっているし。
勉強出来る出来ないで、日女さんの事をどうこう判断するつもりはない。
とりあえず、宿題などは片付けた。
集中してやるとあっという間だ。
予習もある程度やっておく。
どうしても苦手な英語だが、涼子の調子が悪いので、カトリイヌさんに聞いてみることにする。
主要言語七つをしゃべれるという話だったが。
聞いてみると、英語についてはなんというか、ものすごく独特なことを言われた。
なんでも英語といっても、アメリカ英語とイギリス英語でかなり違うらしく。しかもそれぞれに訛りが色々あるらしい。
日本で教えている英語のテストを、アメリカの学生がやってみたら、ほとんど解けなかったなんて話もあるらしいし。
日本の英検一級を、日本語と英語が出来る人がやってみたら、意味すら理解できない文章が出てきて困惑したなんて話もあるらしい。
だから、しゃべることについては教えられるが。
テストなどについては教えられないと、論理的に言われてしまった。
なるほど、正論だ。
確かに日本の英語テストに関しては、出来ない人は一切出来ないという話を燐火は聞いている。
それもあって、燐火がこれは色々地力で解かなければならないのだろう。
ケルベロスが、教科書と悪戦苦闘する燐火を見て、ため息をついていた。
「言語というのはどれも欠陥があるものだな」
「ギリシャ語も欠陥があったの?」
「欠陥だらけだ。 それなのに、ギリシャ人は自分たち以外の民をバルバロイなどと呼んでいてな。 有り体に言えば蛮族くらいの意味だ」
「それはちょっと不愉快だね」
英語は元々、フランスの宮廷言語に、英国の言葉が混ざって出来たものらしい。それもあって、あちこちが極めて不完全な代物であるそうだ。
日本語に至っては、漢字、かたかな、ひらがなが混ざり合っている上に。
漢字の読み方は、一つが数十にも達することがある。
世界でも屈指の難読言語と言われる所以であり。
日本語をしゃべれる人が、漢字で書かれた文章を読めるかというと、かなり難しいらしい。
日本人だって、勉強をうまく出来なかったような人は、まともに漢字の文章を読めなかったりするらしいが。
海外では、なおさらだそうだ。
漢字を作り出した中華でも、日本語の文章はまるで読めないケースがあるらしく。
ややこしいことに、日本と中華で意味が違う漢字まであるそうだ。
そういう話を聞くと、ケルベロスは頭が痛くなるとぼやく。
いずれにしても、燐火としても、英語についてはもっと勉強がいる。
四苦八苦して、今日の勉強は終わり。
それからは、風呂に入って、汗をしっかり流しておく。
おかあさんはそろそろ完全に警察を退職する頃合いだ。
それもあって、家にいる事が多くなってきている。
時々一緒に料理をするが。
おかあさんの料理はお世辞にもあまり上手ではないので。
おとうさんがその時は、心配しながら側で指導するのだった。
翌日。
また涼子が来ていない。
連絡を入れてみる。少し遅れて、連絡が来ていた。
「心療内科に今日は行ってくるね。 父と一緒に」
「とにかくしっかり診てもらってください」
「うん。 出られるようだったら、午後から出るよ」
「頑張ってください」
メールくらいは、敬語でなくてしゃべれば良いだろうとケルベロスに言われたが。ともかくまだハードルが高いのだ。
おとうさんやおかあさんとしゃべるのに、敬語を減らそうとしているが、それもまだまだ片言になる。
どうしても頭の中でブレーキがかかっているのだ。
それはわかっているから、燐火としても色々歯がゆいのである。
転校生が入ってきたが、割とおとなしそうな男子だ。
転校があると色々と騒ぎになったりするが、燐火としてはどうでもいい。
悪漢でなければそれで構わない。
授業を受ける。
黙々と授業をしていると、先生が咳払いして、不意に話し始めた。
しっかり授業をして、いじめを防いでくれる立派な先生だ。
「今やっている歴史もそうだが、覚えるのには結びつけて覚えていくのがいいだろう。 例えば、この人には、こういうエピソードがある」
それで、今問題になっている歴史上の人物について、色々説明してくれる。
具体的にどんな人間だったのか。
どんな風に世界に影響を与えたか、ではなく。
最近の研究では、その人となりはどうだったのか。
それらをとても丁寧に話してくれる。
なるほど。
今、神話の勉強をしている燐火としては、理にかなうと思う内容だ。
神話も関係性を覚えていくと、一気に覚えやすくなる。
クラスの何人かは話を聞いていないが。
それでも、この話には意味があると燐火は思った。
人間くさいエピソードは。
その人物を、歴史の一パーツではなく。
過去に生きた人間として理解させてくれる。
どういう人だったのかわかってくると、その理解度も上がる。
テストの内容なんて、翌日には忘れてしまうような子供もいるが、それでは勉強をした意味がない。
その場しのぎのテストで点数なんかとって。
それで何の意味があるのか。
一夜漬けが如何に意味がないかは、燐火もわかっている。
先生は、それを教えてくれている。
「そういうわけだ。 今後も覚えにくい人がいたら、先生がその人のエピソードを教える。 遠慮せずに言ってくるように」
有意義だ。
それから、淡々と授業をする。
涼子は、予告通り午後から来た。
体調がよくなった、というよりも、診察が終わったからだが。
一応話を聞いてみると。
あまりよくない応えが帰ってきた。
「次にちょっと大きめの検査をするって」
「検査ですか?」
「一種の精神疾患の可能性があるらしいんだ。 ええと、ニンフォマニアっていったかな」
ニンフォマニア。
女性の性的欲求が異常に高い症状であるらしい。
涼子の場合はもしもそうであればかなり厄介な状態らしく。
もしもの場合は、投薬治療などをするそうだ。
ただ、である。
やはり涼子から何かの気配を感じる。これは魔なのか。いずれにしても、良い物だとは思えないが。
ニンフォマニアという病気なのか、それとも何かの魔が悪さをしているのか。どっちにしても、面倒な話だ。
ドルイドの魔祓いが来るのはもう少し先になる。
それまで、涼子は悶々とした状態に耐えてもらわないといけない。色々と大変だろう。同情してしまう。
「いずれにしても、先生のところに行ってきたのはよかったと思います。 やはり本職に聞くべきでしたね」
「うん。 燐火ちゃんも、笑えるようにちょっとそういうのやってみる?」
「……考えておきます」
そういえば。
涼子に心療内科を進めたが、考えてみれば燐火のもトラウマ起因だったりする可能性があるのか。
目が怖いというのは、ずっと言われている。
それもあって、確かに何かしらの治療は受けた方が良いのかもしれない。
だが、地力で出来ることはやっておきたい、というのも事実だ。
本当にどうしようもなくなった時。
病院に通うのが、選択肢になるだろう。
それでいい。
授業を終えて、一緒に帰る。
涼子は多少は気が楽になったらしくて、ある程度話をしたが、しかしだ。
やはり、その体にいる気配が気になる。
何かいる。
どうしても、その警戒が晴れない。
「燐火よ。 やはりいるんだな」
「うん。 間違いない。 でも、ドルイドの魔祓いの人が言っていたルーン云々が原因でわからないのかな」
「さあな。 ルーンについては本来の意味が失われて、今では断片的なものが伝わっているだけだからな。 ルーン占いなどもあるが、それも正確な形で伝わっているとは言いがたい」
ルーンは元々神の文字として神聖視されたもので。碑文などはほとんどなく、あったとしても欠損が目だつのだそうだ。
それに弾圧されて迫害され、消えていったという事もある。
文化というのは意外に簡単に消えてしまうのだ。
燐火もおかあさんの若かった頃の文化とか聞くと、そんなものがあったのかといつも驚かされる。
そういうものである。
ましてや、一神教によって弾圧されたとなればなおさらだ。
「涼子の件は、北欧の神が何かしら関わっているとしたら、鍵になる可能性はある。 それはそれとして」
「うん?」
「涼子が言っていた通り、燐火も心療内科とやらに行ってみたらどうだ」
「……」
確かに、それもそうか。
一応努力はしているが。それでもなかなか難しい事はある。
アニメなんかだと抱えたトラウマを色々なきっかけで克服するシーンがあるが。本職が頑張っても十年単位で回復しない心の傷はざらにあると聞く。
燐火の場合はまだ子供だ。
悔しいが、それは色々な場面で思い知らされる。
だから、医者に行くのは一つの手ではあるだろう。
しかしながら、おかあさんの養子になった後、実は何回か医師の診断は受けているのである。
体に受けた傷だけではなく、色々とカウンセリングというものも受けたのだ。
それで出た結論は、今も覚えている。
とにかく時間を掛けて解決するしかない、だった。
燐火としても、時間を掛けていくしかないだろう。
小四の時にあの事件にあったから、今から二年前弱か。
いずれしてもまだ二年である。
「そうだね、中二くらいになって回復の見込みもなかったら医者に行くよ」
「そうか。 それにしても……」
「うん?」
「西洋では悪魔は人間の心の弱さにつけ込むとされている。 だがこの弱さにつけ込むというのは、人間の得意技だ。 魔は人間が生み出した事がよくわかる」
それは、その通りである。
ともかく、授業を終えて、一緒に帰る。
涼子は特に問題を抱えているようにも見えず、燐火と違って普通に笑いながら話している。
これだけ見ると、問題などなさそうなのだが。
実際には色々抱えているのだ。
よく他人に「悩みがなさそう」などという暴言を吐く人間がいるが。そういう連中は、他人を見下しマウントをとっているつもりなのだろう。
とにかく病み上がりということもあるので、涼子を家まで送ってから、自身は淡々と帰る。
今日は、ダイモーンは出なかった。
翌朝。
また涼子が休みだった。
やはり体調が悪いらしい。テストなどの成績は問題ない。欠席日数も、一応問題がない範囲だそうだ。
まあ、小学校は基本的に何も出来ずに卒業は出来る。
中学校までは普通はそうだ。
だから中卒なんて言葉が蔑称として使われるわけではある。
休み時間中涼子のためにもメモをとっていると、ひそひと声が聞こえた。
「あの子風邪って嘘じゃないの?」
「嘘だよ絶対。 昨日だって、全然元気そうだったもんね」
「どうせ学校の勉強なんてぬるくてやってられないとか、そういう理由でしょ。 毎回テストでほとんど100点とってるし。 それで体育も出来るんだから反則だよね」
「あの子達、勉強なんていらないよね」
そうか、燐火もそれに含むのか。
ちょっとイラッときたが、大きな咳払い。
体育の先生だった。
ちらっと見たが、ひそひそ話していた二人が連れて行かれる。そして、泣いて戻ってきた。
病気の人間は、ぱっと見ではわからないことも多い。
自分から見て健康そうに見えるなんてのは、医療知識がない人間が言って良いことではない。
ましてや知りもしない病気を理由にレッテルを貼るなんて、人としての最低な行為だ。
それらを、徹底的に怒られたらしかった。
どうも他でも陰口を叩いていたらしく、先生が流石に頭にきたらしい。
最近では生徒を叱ることが出来ない先生もいるらしいが。
しっかりやってくれて助かった。
燐火がぶん殴らないでもいい。
大人がちゃんとこういうことをしてくれれば。誰も泣かなくて良いのだ。
この学校では、それが今は為された。
燐火がカスを何人かわざわざ締めなくてもよくなったという事だ。
とりあえず、この学校は良い学校だ。
ただ、中学になる日は、それほど遠くはないのかもしれない。少なくとも、この一年がこの学校の最後。
それまでに、涼子に憑いている魔は。
どうにかしておきたかった。
2、呼ばれた異神
かなり大きめのダイモーン。
連続して聖印を切ってたたき込む。瀕死になって、ぼろぼろになりながら逃げようとするが。
背中からたたき込んだ聖印がとどめになった。
爆ぜて、飛び散る。
ふうと一つ嘆息する。これでどうにか片付いたか。
軽く汗を掻いた。それくらいしぶとい奴だった。
だが、駅前の大通り近くで、悪運を無差別にばらまこうとしていた。この辺り、たまに事故が起きることもある。
そんなことをされていたら、何が起きたかわからない。
今回のダイモーンは、人について回っていたのではなく。誰かを破滅させて、それからこちらに来たらしい。
いずれにしても万死に値する。
これをばらまいた人に悪意がないことはわかっているが。それはそれで問題だなあと思う。
ケルベロスが、その思考を読んだのだろう。
素直に謝ってきた。
「すまないな。 手間を掛ける。 多くの人間を不幸にもさせる」
「とにかく、早めにその人をみつけよう」
「そうだな。 今回収したダイモーンはかなり古い奴だった。 ただ……おそらくだが、かなり直近に、ダイモーンを撒いた神と遭遇している」
「!」
それは、大きな情報だ。
最近陰陽師の長倉院親子と一緒にダイモーンの大群を祓ったとき、近くにいた痕跡もあった。
神は言われるほど万能ではないようだし、或いはこの街の中を何かしらの手段で移動しているのかもしれない。
とりあえず物陰でささっと着替える。
連絡は先にしてあるので、カトリイヌさんが来てくれた。さっと残った悪運を祓ってもらう。
力がかなり上がっているようだ。
元々魔祓いとしては燐火より格上だったが。
今も、燐火より魔祓いとしての実力は上なのだろう。
後で合流する。
いくつか、反省点を話し合っておきたかった。
近くの喫茶に移動する。
燐火と違って、カトリイヌさんは相変わらず貫頭衣のままだ。シスターがいる。そんな風に周囲から視線を集めている。
カトリイヌさんはポンを出さなければ普通に美少女……いや、日本人に比べてとても大人っぽいから、美女の方が正しいか。
ともかくとても綺麗なので、衆目は集めている。
喫茶でいくつか話をしておく。
ちなみにドルイドが来る件については、とっくに共有されているようである。
「ああ、あの……」
「知っている人ですか」
「ええ、天才と名高いのに、カトリックからもプロテスタントからも掛かった魔祓いの声を断った有名人ですのよ」
「へえ……」
燐火は別にあまりほしがられなかっただろうし、どうでもいいだろうが。
カトリイヌさんが其処までいうからには、おそらく一神教徒から目をつけられていたのだろう。
ともかく、それなりの問題児らしいことはわかった。
まあ問題児扱いされているのは、燐火も同じだ。
親近感が湧くことはあっても、別に嫌いだとは思わない。
とりあえず、問題児であっても力量があるならそれでいい。
今回、必要なのは。
人間性ではなくて、魔祓いの実力だ。
燐火も人間性を軽視するつもりはない。ただ、今の時点で、苦しんでいる人に憑いている厄介なのを祓えるのだったら。
それは手段を選んではいられないだろう。
他にもいくつか打ち合わせをしておく。
駅前はどうもダイモーンが集まりやすい事もある。ここで仕事をするときの取り決めなどもしておく。
カフェで話していると、日女さんが来る。
呼んではいないのだが。
どうも学校の帰りらしくて、あまり似合わない制服を着ていた。
「おそろいだな」
「どうかしましたの?」
「ああ。 ちょっと面倒なことになってる。 しかも今、林西さんも菖蒲姉も遠出しているタイミングでな」
すぐに来てほしいと言われる。
燐火としても異論はない。
おそらく、これは危急時だ。カトリイヌさんも、護衛二人に声を掛けていた。
そのまま、さっさと行く。
また日女さんは背が伸びたと思う。これはひょっとすると、同世代の男子よりも背が高いかもしれない。
髪の毛をベリーショートにしているし、野性的な顔立ちだが。
髪を伸ばして刃のように鋭すぎる目つきと愛嬌皆無の表情をどうにかすれば、普通に綺麗で通るかもしれなかった。
まあ、燐火にはどうでもいいが。
カトリイヌさんと背もそれほど変わらない。
早歩きの日女さんに、黙々とついていく。
とりあえず、神社に集まる。
他にも何人か魔祓いが来ていた。
「危急時なら、先に連絡していただければよかったのに」
「あ、ダイモーンを魔祓い中と燐火が連絡していました。 それもあって来てくれたのだと思います」
「ああ、そういう」
前は犬猿の仲という雰囲気だった日女さんとカトリイヌさんだが。
今ではそれほど仲が悪そうには見えない。
日女さんは相変わらず野性的で好戦的な雰囲気ではあるのだが。
カトリイヌさんの方が丸くなったように思う。
とりあえず、手を叩いたのは、老僧だ。
魔祓いだろう。
実力はともかく、色々な国籍が混じっているこの組み合わせの中では最年長。いや、セバスティアンさんの方が年上か。
だが、セバスティアンさんはおそらくだがカトリイヌさんの従者という立場を崩すつもりはないだろう。
そうなると、この人が音頭をとるのが妥当という訳か。
「以前スレイプニルが現れた辺りで、また異神の気配だ。 悪神の可能性もある。 対神の能力を持つ魔祓いを中心に集めてほしいと言うことで集まってもらったのだが……」
「明王の加護を得てる林西さんと菖蒲姉は不在だ。 俺は八幡神の加護を受けているが、あくまで魔祓い専門だぞ」
「わたくし達は異神を退けることはどちらかと言えば得意分野ですわよ」
「そうだな。 そうやってずっと他の信仰を弾圧してきたものな」
ぼそりと言ったのは、見たことがないフードをかぶった少年だ。
見た感じ、黒人か。
日本語が流ちょうだが、或いは海外から来ているのだろうか。いや、違う。
胸元にぶら下げているのは、確か翻訳機能付きのスマホだ。
それで即座に双方の会話を翻訳している訳だ。
まだこの手の翻訳機能は専門的な会話には対応していないが、それでもこのくらいの会話ならどうにでもなるのだろう。
「とりあえず私が審神をします」
「そうか、頼むぞ。 悪神でなければ良いのだが」
「……」
この間は、下手をすると死人が出るところだった。
やり方が荒っぽい北欧の神格が悪さをしている気配があるし、気をつけなければならないだろう。
ちなみに審神というのは、どこの信仰でもやる貴方はどこの神、みたいな事らしい。
一神教の文化圏では、主に悪魔崇拝の時にやるらしく。
呼び出した悪魔の正体を確認するために行うのだそうだ。
審神をすると言ったのは、比較的若い巫女さんだ。日女さんより数歳年上そうだが、見た感じ実力は今の燐火と大差ない。日女さんの方が数段格上だろう。
車を自衛隊が用意してくれていたので、乗せてもらう。
何台かに分乗して行くが、いずれもが基本的に軍用車ではないので、そこまで周囲の視線は集めなかった。
黙々と移動する。
燐火はさっきの黒人の子と一緒になったが、向こうはあまりこちらをよく見ていないようだ。
「貴方はどこの文化圏の魔祓いですか」
「俺はブードゥー専門だ。 あんたは」
「燐火はギリシャ系専門です」
「そうかよ。 俺等のことをまだバルバロイだとか呼んでるのか?」
まさかと返すが。
少年の視線は冷たかった。
ケルベロスに聞いているが、ギリシャは昔中華思想をこじらせたあげく、ギリシャ語文化圏以外の人間をことごとく見下し、バルバロイとか呼んでいたとか。
この少年のブードゥーは確かハイチに連れてこられた奴隷の人々が。元々の信仰と一神教を混ぜ合わせて作り出したものだったか。
ゾンビなどが有名だが、あれは確か実際には薬で仮死状態にしてよみがえらせるものであって。
死者がよみがえって人を襲うようなものではなかった筈。
そもそも色々な信仰がごった煮である上に、苦労も重ねてきているだろう。
魔祓いとしてこの若さで来ていると言うことは。
或いは出稼ぎかもしれなかった。
この場に呼ばれていると言うことは、おそらく合法的な出稼ぎだろうか。
文字通り「湯水のごとく」清潔な水を使える様子を見て、好ましく思わない人は少なくないと聞いている。
この少年もそうかもしれない。
「少年よ。 そなたに憑いているのはロアか」
「ああ。 偉大な祖霊だよ」
「話せるか」
「俺経由でならな」
ケルベロスの声も聞こえているか。
ちなみにロアというのは、ブードゥーの信仰で扱う霊的なもので、色々役割があるらしい。
一神教の影響も受けているから、純粋な意味でのアフリカでの信仰とは違っているらしいが。
少なくともゾンビ映画などで喧伝されたような、悪辣な邪神ではないそうだ。
現地に到着。
スレイプニルの時にこの国も対策のギアを一段上げたらしく、既に其処でも数人魔祓いが来ていた。
いずれにしても、セバスティアンさんと日女さんがいるし、どうにかなるだろう。
燐火はさっと展開して、様子をうかがう。
あれは、なんだ。
「今度は人型か……」
「かなり強い力を感じるな」
「対神能力を持つ魔祓い、前に!」
「先に話を試みてみます」
先に審神が出来ると言っていた巫女の人が前に出る。燐火はいつ戦闘が始まっても大丈夫なように、既に備えていた。
何か話し始める。
順番に言語を試していくが、やがて聞いたこともない言葉に反応していた。
ケルベロスがぼやく。
「あれはバビロニア語か……?」
「それって確か形に残る中では最古の文明だよね」
「ああ、そうだな。 勿論神話の原型は更に古くまで遡ることが出来るのだが、バビロニア神話のティアマトは記録に残るものとしては蛇の系統の最古の神だし、マルドゥークも同じように牛の神としては最古のものだ。 勿論記録に残らないものとしては、もっと古いものもいるがな。 ただ既にこれも物語になってしまっている。 力などない筈だが……」
蛇の神と牛の神か。
神々の中の二大派閥。燐火も既に聞かされている。
いずれにしても、話は聞き取った方が良い。
「ええと、これか。 うわ、雑音が酷いね」
「俺もバビロニア語はわからん。 翻訳してくれると助かる」
貸し出されている翻訳用スマホの設定を合わせると、かなり片言だが、会話が流れてきていた。
ええと、何々
我はイシュタル。
うげと、ケルベロスが呻く。
小首をかしげると、心底嫌そうに言った。
「豊穣信仰には性行為と信仰を結びつけるものがあってな。 イシュタルはその元祖と言ってもいい存在だ。 娼館を神殿とし、巫女は娼婦でもあった。 重要な催事では、王と巫女の長である娼婦が性的な行為に及び、それを使って占いとした。 その流れを組んだ神は世界中のあちこちにいるのだが……」
「あいつが涼子ちゃんに悪さをしている相手では……ないかな。 気配が違う」
「そうか。 いずれにしても、お帰り願うべきだろう」
「待って。 何か大事なこと話してる」
ええと、何々。
イシュタルは、敵意はないらしい。
この地にも興味がないとか。
なんでも、この地である程度知名度があるので、少しだけ様子を見に来たが。
正直なところ、イシュタルのお眼鏡にはかなわないそうだ。
それはよかったと言いたいが。
その理由はなんとなくわかる。
現在、燐火の世代は、おそらく三割も結婚しないのではないか、とまで言われている。
男と女の間で壁が出来ているからだ。
この流れはお父さんのちょっと上くらいの世代からあったらしいのだが。
色々な理由が重なった結果、とにかく男女の間に壁が出来た。
特に女性がそれを助長した。
自分は選ばれて当然。
男を選ぶ権利は自分にある。
そんな考えを持った傲慢な女性が増え、自分より下と見なした男は人間とみなさない。そういう事が平然とまかり通るようになった。
価値観として、上か下か、みたいなものが絶対視されるようになったのも理由としてはある。
燐火が当たり前のように見てきた邪悪なスクールカーストも、肯定されるようになったのは結構最近だそうである。
あることを当たり前として誰もが受け入れるようになった結果。
スクールカースト上位の女性は、社会に出ても自分が何でも好き勝手を許されると思い込むようになった。
それを見て、面白くないのは男性も同じだ。
今では女性を基本的に避ける男性も珍しくない、ということである。
そういう状況をイシュタルは見てきて。
この土地の男女はなんとくだらぬことか、と吐き捨てていた。
燐火としてはよくわかる。
おとうさんとおかあさんだって、結婚するとき色々あったらしい。おとうさんはロリコンだとかなんだとか、色々陰口をたたかれたそうだ。
あんなに仲が良い夫婦なのに。
おかあさんはずっと警察の仕事で忙しいのに。
周囲の「ママ友」だとかいうネットワークでは、基本的におかあさんの事を悪くしか言っていないらしい。
自分らのコミュニティに加わらず。
仕事ばかりしているのが気にくわない、らしいが。
小学生とほとんど脳が同じである。
子供と全く脳が変わっていない。性欲が追加されたくらいだ。
これでは涼子が母親を嫌い、自分の中の女を嫌悪するのもわかる。あんな連中と同じには、絶対になりたくないと感じても不思議ではない。
審神の巫女さんは咳払いすると、聞く。
「偉大なる豊穣神イシュタルよ、それではなにゆえに降臨なされたのです」
「少し言葉が通じにくいな。 ええと、なぜ来たかくらいでいいか。 こちらには敬意が伝わっていないが、それでもある程度意思がわかるから許してやろう。 私に近しい存在が、この地にて活動している。 故に私が引き寄せられた、というところだ」
「引き寄せられた……」
「同じような状態にある神もいるかもしれぬな。 いずれにしても、引き寄せたものは意図的にそれをやった可能性が高い。 この最果ての地に興味はないが、精々気をつけることだな」
まあ、それもそうか。
勿論古代社会でも差別や分断はあっただろう。
だがケルベロスに聞かされたことがある。
昔は母系信仰というのがあり、蛇の系統の神はそちらに属することが多かったのだという。
そういった社会では女性は一定の地位を持っていて。
社会に影響力を強く持っていた。
遊牧民などはこの傾向が強く。
女性の社会的地位が、後々までずっと強かったらしい。
現在はすっかり遊牧民は各地の少数民族になってしまっているが。世界を征服しかけたこともあるのだ。
燐火としては、なるほどと思うばかりだ。
いずれにしても、イシュタルはこの地への滞在を臨んでいないし。
審神の巫女の人が声を掛ける。
この地を離れるための儀式をするためである。
何人か神道系の魔祓いが出て、なんだろう。
地鎮祭だったか。
そういうのみたいのを組み始める。
日女さんも、かなり手際よくそれを進めていた。
「ほう。 これは面白いな。 今ではこのようにして、神を祀り、或いは帰路へ誘うのか」
「はい。 いくつか手段はありますが、正式な方法でこうしてお帰り願う方法をとります」
「面白い。 私も呼ばれただけで、民に害を為すつもりはない。 儀式とやらを見届けたら、それで帰るとする」
やがて、巫女の人が大艸を振るいはじめ。
それで祝詞を唱える。
バビロニア語で翻訳されているようだから、きちんと伝わっているはずだ。
もしもこれでイシュタルに帰る気がないのだったら、当然通じないだろうが。イシュタルは、元々ここに滞在するつもりがない。
ぼやけた人型、くらいの姿ではあるが。
やがて、薄着の豊満な体型の女性であることが、なんとなくわかってきた。
ケルベロスがいくつか教えてくれる。
イシュタルは戦神でもあり。
気に入った男をつまみ食いしては、飽きたら捨てるような神でもあるそうだ。
それは悪い意味では淫売だが。
良い意味では奔放であるともいえる。
そういえば。
昔の漫画なんかでは、そういう女性キャラクターが一定数いたというような話がある。現在ではほとんど見なくなったようだが。
漫画は馬鹿に出来ない。
漫画などの文化は、人々の心を写す鏡だ。
Vtuberとして活躍しているおとうさんが、それは何度も言っていた。
今のVtuber文化は、そういった鏡としての側面も持っている。
だから、決して馬鹿にしたりせず。
どういうものかを見極めてほしい、と。
燐火もそれはわかっているので。
おとうさんの仕事を馬鹿にするつもりは毛頭ない。
とりあえず戦闘をする可能性はないか。
いや、そうでもない。
ダイモーンが集まってきている。
ケルベロスが、警戒を促した。
「燐火!」
「うん!」
「ダイモーンだ!」
誰かが叫ぶ。
雑魚ばかりじゃない。それなりの数がいる。
カトリイヌさん達が壁を作る。燐火は、即座に魔祓いを開始した。
愛用の魔法のステッキ(鉄パイプ)を取り出すと、聖印を切る。連続して。雑魚は最近では、まとめて数体消し飛ばせるようにもなったが。
大きい奴は、簡単には倒れてくれない。
うめき声を上げながらこっちに来るのは、明らかにカコダイモーンだ。物量がちょっと多すぎる。
しかし、光の壁が作られて。
その進路を塞いでいた。
カトリイヌさん。まあカトリイヌさんはおまけで、主力は後ろにいる護衛二人だが。
それに、黒人の少年も、聞いたことがない言葉で、何か唱えている。
そして、何か飛ばしたようだ。
あれがロアかもしれない。
いずれにしても、複数人の魔祓いが、ダイモーンを押さえ込む。
燐火は立て続けに聖印を切って。それでダイモーンを次々に打ち払った。今ならカコダイモーンでも対処できる。数が多すぎるから、一人では押さえ込むのは難しかっただろうけれど。
この人数が支援してくれるなら。
大きめのが、一体爆ぜ割れる。
更に、もう一体が全身からどす黒い悪運をばらまきながら、咆哮する。
一般人には全く聞こえていないだろう。
だが、辺りを震わせるような強烈な咆哮だ。
しかし関係ない。
そのまま聖印をたたき込んで、何度も破裂させてやる。もがいていたカコダイモーンが、やがて砕け散っていた。
汗が流れる。
大物を祓うと、どうしても消耗が大きい。
体力には自信がついてきたのだが、それでもだ。
別に体力勝負と言う訳ではなく、こういうのは精神力を如何に維持するか、でもあるらしく。
燐火の場合はまだまだ精神力と体力の交換が上手に出来ていないらしい。
つまりまだまだ精神修養が足りていないのだ。
それもあって、消耗が大きくなる。
だから集中する。
どれだけでも来い。
全部やっつける。
聖印を切り、迫るダイモーンを打ち払う。
三十体は倒しただろうか。大きいのはとりあえず、全部やっつけた。
後ろから、声が聞こえた。
「ギリシャ系の魔祓いよ」
「……燐火です」
「燐火というのか。 その奮戦、まだ未熟ながら見事である。 褒美をつかわす。 どうやらそなたの友を苦しめている者がいるようだな。 そやつこそが、私をこの地に引き寄せた存在である。 だが、油断するな。 そやつは今や悪神と化し、古くの豊穣の神としての心を失っている。 狡猾に隠れていて、そなたの友の中に直接住んでいる訳でもない。 うかつに手を出せば、体を粉々に砕かれるかもしれぬ。 くれぐれも、気をつけるのだ」
「わかりました」
どうやら、イシュタルは帰ったらしい。
カトリイヌさんが、光の壁を別方向に展開。
まだ蠢いているダイモーンの退路を塞ぎに掛かった。
敗残兵狩りだ。
イシュタルにお帰り願っていた神道系の能力者も、ダイモーンを抑えるべく、攻勢に転じてくれる。
後は、残った雑多なダイモーンを始末するだけだった。
3、異神の残り香
自衛隊が引き上げていく。神社で軽く話してから、流れで解散する。
審神をした巫女さんが、代表でレポートを書いてくれると言う。
それから、公務員らしい強面のサングラスの人と、日女さんとカトリイヌさんと一緒に、近くの建物に。
知らない建物だが、国が管理している家屋らしい。
そこで、休憩しながら話す。
燐火に対しては、何枚か契約書を渡された。
国が作った親が知らない預金通帳を登録し。
それに今回の仕事代を入れてくれるらしい。
未成年の魔祓いは少なくなく、一般家庭出の者もいる。
それでこういう対応のマニュアルがあるのだとか。
要するに正式に国からスカウトが掛かったと言うことか。まあ、別にいい。
燐火としても、色々と動きやすくはなると思う。
ただし、おとうさんとおかあさんのところから独立するまでは、そのお金に手を着けるつもりはない。
或いは、何か問題があって。
家にピンチが来たとき、くらいだろうか。
そういうときも、影からお金を手配する方法があるらしい。
それは日女さんが細かく教えてくれるそうだ。
契約書に目を通しながら、はんこを何カ所で押す。
はんこについても、燐火のを既に作ってくれていたようだ。
まあ、国としてもギリシャ系の魔祓いは貴重だから、なのだろう。いずれにしても、普通のサラリーマンの何年分もの年収のお金が通帳に入っていたので、ちょっと驚いてしまったが。
契約料と、今まで打ち倒したダイモーンの分であるらしい。
いずれにしても、燐火はケルベロスと連携して動いていることは告げる。
それも把握しているようだった。
ヘラクレスさんのことも知っているようなので。
ちょっと無言になってしまう。
思ったよりもこの国怖いな。
そう思ったのだ。
ともかく契約を済ませて、それから反省会に入る。
巫女さんも慣れない異神を送るので、相当に消耗したらしい。それもあって、かなり疲れているようだった。
カトリイヌさんは、ずっと光の壁を展開していたこともある。
何も喋る余力もないようで、机に突っ伏している。
契約書を書き終わった後、セバスティアンさんがコーヒーを入れてくれた。燐火はコーヒーはブラックでも平気だ。
ただケルベロスがどうしても蜂蜜入りの紅茶が良いと言うこともある。
今回はセバスティアンさんの好意に甘える。
かなりいいコーヒーらしく。
インスタント特有の酸味がほとんどなく、香りもよかった。
「カトリイヌ、生きてるか」
「ちょっと休ませて……」
すごく情けない声が出てきたので、燐火も苦笑いしそうになる。
あれ。
苦笑いは出来るかもしれない。
ちょっと口に指をやって見ると、日女さんが呆れていた。
「今無理に笑顔の練習をしなくてもいい。 それよりも、イシュタルが大事なことを言っていたが、覚えているか」
「覚えています。 やはり燐火の友達の涼子ちゃんに、何かが悪さをしているとみて良いでしょうね」
「そうだ。 問題はイシュタルの係累は山ほどいるってことでな」
バビロニアの文明が勃興したのは世界で最も古く、最も古い街の遺跡に至っては約一万年前。
これから世界中に、様々な神々の影響が広がっていったという。
イシュタルは広義で言うと蛇の神と牛の神が混ざったような要素がいくつかあるらしいのだが。
いずれにしてもその奔放な行動については、色濃く受け継いでいる最も有名な存在が、アフロディーテだそうだ。
ケルベロスにも聞かされた神だな。
ローマ神話ではビーナスと言われたこの神は。
イシュタルの係累らしく、男であればなんでも関係を持つような存在であり。
ギリシャ時代にそれが受け入れられていた、という意味で。
大きな文化的な指標ともなっているそうだ。
燐火としては、そうかとしかいえない。
ともかく、続けて話を聞いていく。
「もしも北欧神話の神々がここで悪さをしているとしたら、イシュタルの係累で考えられるのは……何人もいるんだが」
「何人もいるんですか」
「北欧神話はとにかく荒々しい原初神話だ。 ローマ神話の行儀が良い神々の影響を受けたのに、それが先祖返りした珍しい例でな」
ケルベロスが付け加えてくれる。
だから、北欧神話の神々には、イシュタルの係累。
性欲の権化みたいなのが、何人もいるらしい。
それはちょっと。
正直北欧神話の世界には行きたくない。
そもそもとして、北欧神話の死後の世界バルハラは、死んだ後も延々と「スポーツとして」戦争をし。死んだ奴は即座によみがえってまた戦争をするとか言う、どれだけ北欧の人間が戦争が好きだったのか察せられる場所であり。
そういう意味でも、北欧神話の世界は、出来れば足を運びたくないなと燐火は思った。
勿論、今とは文化が違うだけだ。
全否定するつもりはない。
燐火は行きたくない、というだけである。
そういう場所が好きな人は、それでいいだろうとも思っている。
「ともかくだ。 もしも最悪の相手だとすると」
「最悪の相手がいるんですか」
「ああ。 通称、全ての神々の恋人。 老若男女問わずにな」
それは何というか。
ちょっと爛れているな。
咳払いをすると日女さんは言う。
フレイヤ。
そういう女神だそうだ。
豊穣神系統の極北ともいえる存在。
イシュタルは別格としても。
アフロディーテと並ぶ、世界各地の神話におけるビッチオブビッチとして名をはせる、究極の淫売ともいえる女神らしい。
フレイヤには色々とろくでもないエピソードがあって。
とにかく性欲のままにあらゆる神と交わり。
たかが首飾りのために複数の小人と交わり。
気分次第で双子の兄であるフレイとまで交わり。
とにかく性欲を最優先目標として行動する女神であるそうだ。
ちょっと胸焼けがしてきた。
確かに今でも、一部では性欲を神聖視する人はいる。
海外でも強い女性の呼び方としてビッチを用いる人もいるらしいし。強さの象徴として、奔放に欲望のまま振る舞うことを肯定する人もいる。
別にその思想を押しつけてこないのであれば、どうでもいいと思うが。
ただ、押しつけられたら迷惑である。
それが燐火の嘘偽りない本音だ。
ともかくげんなりしている燐火だが。
日女さんは、淡々と続ける。
「イシュタルはああ言っていた……今のこの国の男女のあり方は気にくわないと言っていたが、あれはイシュタルが母系社会の神だからだ。 女性が一定の敬意を受け、女性も男性をそれで尊重する。 そういう社会の神だからな。 だからやり方は野性的で時に身勝手であっても、それでも互いに敬意を払うのが当たり前の社会の住人だ。 今は、ここにいる俺以外の女もみんなわかっているだろうが、腐りきったスクールカーストで醸成された上か下かの価値観のせいで、女が選ぶのは当たり前、自分を選ばない男の方がおかしい、家事は全部男がやるべきで、女はストレスから子供を殺しても罪にもならないとか考える輩が本当にたくさんいる。 イシュタルが嫌ったのは、おそらくそんな本当の意味で心が醜く腐りきった連中が、大手を振るっているこの国の現状、だろうな」
なるほど。
イシュタルは母系社会での、本当の意味での自立した女性を好むのであり、体現している訳だ。
今のフェミニズムだとかいうのをこじらせて、男性差別をしたり、社会的に弱い立場にいる男性を人間と見なさないような連中とはわかり合えない。女性の原初信仰であるが故に。
そういうことなのだろうと、燐火も理解した。
咳払いすると、日女さんは続ける。
「ただ、フレイヤも元は北欧での原初的信仰から、北欧神話に取り込まれた神格の筈だ。 もしもそれが今暗躍しているとすれば……」
「悪神に落ちた」
燐火がズバリ指摘すると。
嘆息しながら、頭を日女さんは掻いた。
ただ、今はまだ、フレイヤと特定するのはちょっと早いという。
それもそうだ。
実際問題、何か悪さをしている神がいるのは事実。
それがイシュタルの係累であるとしても。
それは世界中にたくさんいるし。
北欧神話でも、複数の女神がそれに該当しているのだ。
だとしたら、絞り込むのは少しばかり早すぎるだろう。
セバスティアンさんが少し困ったように言う。
「母系信仰の悪神に成り果てている存在だとすると厄介ですな。 元々母系信仰……蛇の神の系統は、ドラゴンや竜、ナーガなどとも通じます。 そういった神々は、いずれも強大です」
「あなたはそうとうなベテランらしいですが、そういうのと戦ったことはないんですか」
「いえ、当然あります。 ただし、魔祓いは基本的にその文化圏の魔祓いでしか出来ませんからね。 その時も複数の魔祓いで連携して当たりました。 ただ、数人が命を落としましたが」
日女さんがセバスティアンさんには敬語で喋っている。
まあ、そうだろう。
日女さんから見ても格上の相手だ。
ため口なんて、使う気にはなれないだろうし。
とりあえず、順番に方針を決める。
まず、ドルイド系の魔祓いが、そう遠くない日に来る。ちょっと遅れているらしいが、それでも来てくれる筈だ。
それを起点に動く。
問題は涼子の体に直に悪神が巣くっている訳ではなさそうだ、ということだ。
涼子に母性信仰をこじらせた悪神が影響を与えているとしたら。
おそらく悪意で、母親の醜行を憎んでいる涼子に性的欲求を強烈に与えることで、苦しむ様子を楽しんでいるのだろう。
許せない。
解散して、それで家に戻る。
家は近くなので、送ってもらわなくて大丈夫だ。
書類については、国で銀行で保管してくれるらしい。
貸金庫は時々トラブルが起きることで知られるが。
こういう魔祓い専門の、一般で使うことがない銀行であるらしい。
それもあって、貸金庫が荒らされる恐れはないそうだ。
家に戻ると、つわりでおかあさんが吐き戻していた。燐火はさっさと手伝いをする。
汚してしまった分は、綺麗にすれば良い。
おかあさんも調子が悪そう。
燐火に武道のイロハをたたき込んでくれて、生半可な腕前ではないし。鍛え方だって違うのに。
それでもこれだけ弱体化するのか。
そう思うと、複雑な気分である。
とりあえずベッドに連れて行く。
もう警察には、後数回行くだけだそうだ。
残務の処理で終わり。
それに、これだけつわりが酷いと、荒事もある警察ではとても働けないだろうとも思うし。
「ごめんね燐火。 迷惑掛ける」
「大丈夫ですよ。 とにかく、子供を大事にしてください」
「そうだね……」
「水です」
冷えすぎていない水を持ってきて、ゆっくり飲んでもらう。
さっき問題になっていたフェミニストの中には、おなかの子供を子宮内物質とか呼んで、堕胎するのを平気でやるような連中がいるらしいが。
そんな連中は地獄に落ちれば良いと燐火は思う。
気にくわない女性を「名誉男性」とか抜かして、差別の対象にする連中だ。
まだ小学生の燐火ですら、許しがたい相手である。
そんな連中の様子を見て悪神が笑っていて。
涼子を苦しめていると思うと。
なおさら怒りがふつふつと湧く。
とにかく、おかあさんをしばらく見ながら、側で勉強をする。勉強については、わからないところは涼子にメールを送ったり、ケルベロスと相談しながら進める。
黙々と進めていると、おかあさんは眠ったらしかった。
冷蔵庫を確認しておく。
おとうさんは最近は多めに休憩を入れるように、配信時間を調整しているようだけれども。
会社とはなかなか交渉が難しいらしい。
最初の頃のVtuberはもっと大変らしかったけれど。
今ではしっかりやってくれている企業も出てきているらしく。おとうさんが所属している会社もそうらしいのだけれども。
それでもこの苦労があるというのは。
要は楽な仕事ではないということだ。
おとうさんが出てきたので、おかあさんの状態と、冷蔵庫の中身について説明をしておく。
おとうさんも疲れているようだが。
わかった、ありがとうと答えてくれる。
少しずつ、敬語ではなく普通に喋る努力も始めているが。
燐火はまだまだ、この呪縛からは逃れられそうにはない。
おとうさんが買い物にいく。
とにかく消化にいいものを。栄養がいいものを。
もうちょっと状態が重くなり、子供が育ってきたら、病院におかあさんは移ることになるそうだ。
そうなれば多少は負担は減るか。
だが、恐らくは生まれてからが本番だ。
病院におとうさんが出る訳にはいかないだろうし。病院には燐火が行くことになるだろう。
ケルベロスがぼやく。
「これでどちらかの祖父母の片方でもいれば、だいぶ楽になるのだがな。 この国では少し前に三世代での生活を捨ててしまったのだろう。 いや、この国だけではないか。 自立を歌いながら、人間の強みを捨てるのはなんとも馬鹿げた話だ」
「そうだね。 ただ、燐火はそうはならない。 今回は良い機会だ。 子育てについても、経験を積むよ」
「その考えやよし。 自分をあらゆる全てから最優先する思考回路は明確に邪悪だ。 少なくとも最終的には誰も得しない。 燐火はそうではない。 それでいい」
ただ、林西さんに言われたように。
欲を知ることも大事ではあるのだろう。
最近、おとうさんにゲーム機とソフトを買ってもらった。
それを遊んでいると、たまにDLCがほしくなることがある。
燐火がやっているのは宇宙での発達と戦争を行うゲームなのだが。倫理観をドブに捨ててきたような内容で。
そういう意味でも勉強になる。
即身仏にでもなるつもりか。
林西さんに言われたとおり、燐火は今のうちに邪悪を知っておかなければならない。だから、こういうのを見ておいた方が良いだろう。
まあ、あまり長い時間遊ぶことは出来ないのだが。
おとうさんが戻ってきた。
その後は、二人並んでキッチンに立つ。
まだ包丁は許してもらえないが、それでも簡単な料理だったら出来るようになってきている。
卵はもう片手で割れる。
自分たちの夕食はさっさと済ませる。
そしておかあさんのために。
栄養のある食事を、おとうさんが運んでいくのを見守りながら。
燐火はちゃんと子供が生まれてくれるといいなと、心から思った。
イライラが止まらない。
涼子は、また父が馬鹿みたいな女に引っかかりかけている事を知って。それで激怒していた。
相変わらず女は嫌いだ。
涼子は自分が女であることに明確な嫌悪さえ覚えている。
父の愚かさにも頭にくる。
さっさと家を出て、それで。
燐火ちゃんが男だったらなあ。
そう思ってしまうこともある。
目が死んでいて、にこりともしないけれど。
それでも奇声を上げて暴れ回ることしか出来ないような「普通の」男子や。笑顔を浮かべて近づいてきて、搾取することしか考えていないような「イケメン」よりはよっぽどマシである。
父は金持ちであり。資産家だが。
涼子はそれで恩恵を感じた事なんて一度もない。
前に、家に来ていた婚約者候補の会話を盗聴器で拾ったことがあるが。
あのクソガキを如何にして放り出すか、みたいな話を、貢いでいるホストと話していた。
それを突きつけて、父の目を覚まさせたが。
どうして毎度毎度カスに引っかかるのか。
そういう意味でも、父には失望している。
それにだ。
このまま成長すると、父は涼子に欲情するかもしれない。
まさかそんなことはないとは思うが、どうもあのカスみたいな行動ばかりしている父を見ると。
そういう懸念が湧いてきてしまうのだ。
いや、違う。
それは涼子もだ。
涼子も母の血をやはり感じる。
父がイケオジといわれるような容姿であることは理解している。
行き場のない欲望に振り回され始めている涼子だが。それがまさか父に向いたりしないだろうな。
涼子はカス(母)の娘だ。
それもあって、どうしてもそういう恐怖が浮かんできてしまう。
燐火に武道をやらないかと勧められた。
精神修養になる武道もあると。
だが、涼子は運動は出来るけれど。燐火のは桁違いだとみていてわかる。あの子はおそらくだが、ギフテッドだ。運動に関しては、天才の素質があったのだと思う。武道に関してもだ。
うっすらと事情を聞いてはいるのだが、あまりよくない出自で、今の学校に来るまでは、ほとんど遊ぶことも出来なかったらしい。
それが環境に恵まれてから、あの凄まじい進歩だ。
もしも幼い頃からちゃんとした親の下で訓練を受けていたら、どれほど化けたのか見当もつかない。
オリンピックも余裕だったのではないのだろうか。
そういう子が、武道をやって見ないかと誘ってきても。
どうしても尻込みしてしまう。
情けないな。
自分に涼子は怒りを感じる。
行き場のない怒りだ。
悪いのは涼子。
それにあのカスにばかり引っかかる父。
今回も興信所に連絡して、交際相手を調べてもらっている。実は既に何度も調査をしたこともあって、涼子は興信所に知られているのである。
今日結果が来る。
やがて、連絡が来ていた。
やはりか。
今度の女は、会社の重役などを狙って、いわゆるハニトラを仕掛けて回るカスみたいな奴だ。
背後には反社もいる。
まだ父とは関係を持っていないが、危ないところだったと興信所は言う。
すぐに警察を手配してもらう。
父にも、即座に連絡を入れた。
仕事中だった父だが、興信所からのデータを送ってやると、絶句したようだった。
警察を手配したことも連絡しておく。
あの女には絶対に会うな、ということも。
父はしばらく返事を送ってこなかったが。
ごめんと、一言だけ返してきた。
欲望をコントロールできない人間が、これだ。
父は資産家で、会社ではそれなりに出来る方である。だが、性欲のコントロールが決定的に出来ない。
その辺り、父と母は似たもの同士だったのだろう。
悪い意味で、だが。
その血がどっちも涼子に継がれている。
反吐が出る話だ。
集中が切れた。
燐火から質問が来たので、答えておく。まだ英語などは特にそうだが、涼子の方が勉強はずっと出来る。
燐火は欲望と完全に切り離されているような人格を持っていて。
何かを親にねだるような事は想像も出来なかった。
既に自立のために人生設計をしている涼子でさえ。
父には、これ以上女をあさろうとして、醜態を重ねないでくれとねだりたいくらいなのに。
それをやめて、まともに生きてくれるだけでいい。
どうしてそれが出来ないのだろう。
わかっているんだろう。
不意に、そんな声が聞こえた。
おまえだって同じ穴の狢だ。
今だって男がほしくて体が疼いている。
まだ小学六年なのにな。
幻聴だ。わかっている。
おっさんが喜んで読む馬鹿週刊誌でもあるまいし、発育がいい小学生は早々に初体験を済ませるだのな訳がない。んなことを実行するは、ごく一部のアホだけである。
それを全体だと思われても困るし。
涼子がそうであるはずがない。
だが自家発電による性欲の解消を覚えたのは比較的最近だ。
それもあって、涼子はニンフォマニアかもしれないと言われたことが、ずっと気になっていた。
トラウマがずっと頭の中で渦巻いている。
涼子も同じ穴の狢。
そう言われると、どうしても否定できない。
涙が出てくる。
自分がとにかく情けなかった。
意外と粘るな。
そうそのものは思った。
オーディンと袂を分かって行動を開始してから、確実に地盤を構築しているが。今もてあそんでいる子供が、思ったより墜ちないのだ。
元の芯が強いのか。
それとも。
子供なんて誘惑に弱いものだ。何かのきっかけがあればあっという間に悪に転ぶ。大人ですらそうなのだ。
さらには、今は欲望を肯定する風潮もある。
普通なら簡単に墜ちる。
少なくとも、今まで堕として遊んできた子供は、みんなそうだったのだが。
あの涼子とか言う子供。
少なくとも、意外と侮れない。
そして奴が友としている燐火とか言う子供は。
ケルベロスも憑いている。
そう簡単には手出しできないだろう。
色々な方法で誘惑をかけてみようかとも思ったのだが、思った以上にこちらも守りが堅い。
心の隙間は当然ある。
だが、それもなかなか突く暇がない。
手近にいる涼子という子供で遊ぶにしても。
母親が起因となる女への嫌悪。
それでいながら自分が女であるギャップ。
普通だったらこれを突けば簡単に墜ちるのだが。此奴はどういうわけか、高僧を自称していたような奴よりも余程粘り強い。
理由はわからない。
魔祓いとしての力でも秘めていて。
何かしらの神が支援でもしているのか。
いや、それにしても妙なことが多い。
いずれにしても、どうにかして堕としてやりたいのだが。それもなかなか、うまくはいかないとみた。
苛立ちを感じ始める。
既に自分の存在が悪神に墜ちている事は自覚している。
本来の神としてのあり方を逸脱していることも。
ただ、それは一神教によるネガティブキャンペーンの結果も大きい。北欧の神々を信仰することを文化的ではないとか喧伝したあの腐れ一神教のせい。
そのせいで北欧神話は物語と落ちはて。
神殿も信仰も破壊され尽くした。
どこでもそれは同じだ。
一神教が通るところ、土着信仰は踏みにじられた。
他の信仰だったら、習合などを経て、神として生き残る事はいくらでもある。それなのに。
苛立ちが判断力を鈍らせる。
ただ、それは自覚しているので、気分を変えることにした。
あまりおおっぴらに姿を見せるわけにはいかない。
オーディンの一派はこの国の神々を侮っているようだが。
世界的にも珍しい特異な信仰が根付き、一神教の侵攻を阻んできた文化圏である。根付いている神はとても強力で、魔祓いに宿る分霊体だって侮れる相手ではない。
それを冷静に判断できる程度の頭は持っている。
そうしなければ、生き残れなかったのだ。
繁華街に触手を伸ばす。
おつむが弱いのを見つける。
この手の奴は、身内には際限なく甘く、身内以外には何をしてもいいと本気で思い込んでいる。
北欧の古い時代のノルマンの民も同じだ。
ゲルマン民族の中でも極北の存在だったノルマンの民は、それそのものが海賊というとんでもない集団だった。
略奪殺戮、暴虐の限り。
それらを尽くしながら、自分たちは強壮な存在だと誇っていた。
中毒性のある毒キノコを食わせて狂戦士などというものを作りだし。
生物兵器として活用していたような連中だ。
それの価値観は。
国そのものが、チンピラと同じであったといえる。
だから行儀がいいローマ神話を祖に持つテュールは根付かなかった。
そしてそいつらに影響を受けたのだ。
同類の臭いはすぐにわかる。
一人、適当なのを堕としてやろう。
そう忍び寄ろうとした瞬間。
凄まじい殺気を感じ、全力で逃げた。
危ない危ない。
危うくやられるところだった。だが、引き際もわきまえている。今更、簡単にやられはしない。
舌打ちしたヘラクレスは、ケルベロスのところに連絡を入れに行く。
ケルベロスは既に深夜だと言うこともある。
燐火が眠っているので、一緒に寝ていたが。ヘラクレスが出向くと、起きて思念を飛ばしてきた。
「何だ。 燐火は今が大事なときだ。 きちんと寝かせてやれ。 寝ないと育つものも育たん」
「わかっている。 だから明日の朝、おまえから話してやってくれるか」
「何があった」
「おそらく涼子という娘にちょっかいを出している神格が、繁華街で与太者に手を出そうとしていた。 一瞬早く私が対応したが。 非常に狡猾な奴だ。 逃げられてしまった」
無言になるケルベロス。
しばしして、燐火の方を見ながら言う。
「そいつの正体はわかるか」
「なんともな。 この間の話で、イシュタルの係累ではないかという結論が出たようだが、近くで感じた気配はどちらかというと……」
「うん?」
「完全に悪神に転じているな。 あれは淫魔に近い」
淫魔。
性欲で相手を惑わす邪悪な魔だ。
勿論性欲自体は必要なものだが、それにも限度がある。
ちなみに有名なサッキュバスは淫魔ではない。あれは都合が良い夢を見せて人間から精気を吸い取る夢魔である。
「淫魔にまで墜ちた存在か。 千々に砕いてしまって良さそうだな」
「ああ。 神は滅ぼしても簡単に死ぬことはない。 再生して、善神に戻るように促してやろう」
「そうだな。 とにかくまだ燐火も発展途上だ。 大物のダイモーンの駆除は、優先して頼むぞ」
「わかっている。 そちらも任せておけ」
ヘラクレスは、燐火の家……平坂家を後にする。
どうやら母親には子供が宿っているようで、ふっと静かに笑う。
この家だったら、きっと幸せな人生を送れるだろう。子供が幸せに生きられるのが、一番いい国だ。
そうヘラクレスは、長い経験からも知っていた。
自分のような目には子供を遭わせてはいけないのだ。
そうとも心の底から思っていた。
4、最後の一人
金木家は文字通り全員が投獄された。大人達は二人が死刑。残り全員が無期かそれに近い刑を受け、残りの一生を牢獄で過ごすことになる。
街を私物化し。
其処で悪逆の限りを尽くした人間達としては、当然の報いである。
というよりも、そうしなければ法の意味がない。
犯罪者の人権を守ることだけが法ではないのだ。
そして、子供らのうち、上二人は既に死んだ。
最後の一人。
金木家崩壊の原因となり。
一度は燐火を殺した者。
末の娘、麗美。
それは、今精神病院の隔離病棟で、髪を振り乱して暴れ狂っていた。
こういった危険な患者を隔離する病棟は、昔は鉄格子などがはめられている事も多かったのだが。
今は独房のようになっている。
いずれにしても暴れ回って手が着けられない事もある。
食事からは塩分などが抜かれているが。
それでもまだ、暴れ狂う。
それもあって、看護師達は手を焼いていた。
隙を見せれ噛みついたり引っ掻いたりする。
しかも今の時代、こういった人間も「人間的に」扱わないと、どんなところから変なクレームが飛んでくるかしれたものではない。
人権団体などと言うのは、実際には弱者の権利なんて守っていない。
それを、こういう場所で働いている人間は、嫌でも悟ることになる。
ともかく、起きれば暴れ、疲れ果てても暴れる。
もはや言葉にならないわめき声を上げながら、辺りに暴力を振るう。ドアに体当たりをして、こじ開けようとする。
最近では食事もまともにとらず、放り投げることも多い。
この凶暴さは異常だ。
そう診察した医師は判断していた。
その診察も、看護師達が苦労して押さえつけて、拘束衣を着せた上でやらせなければならなかった。
それくらい厄介だったのだ。
いずれにしても。これは隔離病棟から出すわけにはいかない。
そういう報告が上がり。
国でも受理された。
暴れ回るせいで全身があざだらけ。食事をとらないから、体も治らない。それでも、何もかも壊れるまで暴れ回る。
そんな意思すら感じさせる金木麗美は。
完全に人間として壊れていた。
否。
本来これが本性だった。
それが皮を被って、人間の振りをしていた。それだけの存在だった。しかも金持ちの娘というだけで、その異常性が許されていた。
スポイルされてこうなったのではない。
元から、これはこういう存在だったのだ。
しばらく暴れ狂って、それでやっとおとなしくなる。
その耳元に、何かがささやきかけていた。
「おまえの兄貴二人は死んだぞ」
「……っ! ぎいひっ、ひぎゃああああああっ!」
また吠え、喚き始める麗美。
名前とは真逆のその姿は、もはや完全に制御不能の狂獣だった。
更に耳元に、何かがささやく。
上の兄は熊の餌になった。
そして下の兄は、あの燐火に殺された。
それを聞くと、その瞬間。
怒りが頂点に達した麗美は、興奮しすぎて、脳の血管を切った。
鼻血を垂れ流しながら、床に倒れる。
監視カメラで見ていた看護師は、死んだふりを何度かされて、そのたびに噛みつかれていた事もある。
慎重に様子を見てから、その様子を見に行き。
そして、重度の脳出血で、麗美が死んだのを確認した。
誰も悲しまなかった。
金木家の未来は、これにて完全に絶えたのだった。
金木麗美の魂がたどり着いたのは、地獄の十王の前だった。
暴れようとする金木麗美を鬼が苦もなく取り押さえる。もっと危険な悪霊を何度も取り押さえているのである。
いくら頭のリミッターが外れていても、子供一人取り押さえるのなんて、鬼には朝飯前だ。
十王の一人であり、死者の処遇を決める裁判官でもある秦広王は、不動明王とも関連付けられる存在であるが。
普通地獄での審理は、罪が重い場合は次の審理に回し。最終的に閻魔大王が裁くことになる。
閻魔大王が恐れられるのは、最も罪深い罪人を裁く存在だからで。
別に閻魔大王自身は地獄における最高裁判官で、魔王でもなんでもない。
ともかく秦広王は、軽く金木麗美の罪を確認して、それで判断していた。
閻魔大王まで回す必要すらもないと。
「これは論外だな。 地獄行き。 大焦熱地獄」
「わかりました」
金木麗美が何か喚く。
もはや言葉にもなっていなかったが、不当裁判だとか、弁護士を呼べとか喚いていたようだ。
残念だが地獄の審理に弁護士はつかない。
というのも、十王は罪人を裁くためにいくつかの道具を持っており、それで生前の罪を見ることが出来るからだ。
それで金木麗美は地獄に落ちた。
他の兄二人は、それぞれ別の地獄に落ちたので、二度と会うこともない。
後は文字通りの地獄の炎が全てを焼き尽くす大焦熱地獄にて。
ほとんど永遠に近い時を、焼かれる苦しみを味わい続ける。
ただそれだけだった。
人倫に反し続けた一族の末娘は。
その腐りきった人格にふさわしい罰を受けたことになる。
世の中には子供だからとか言う理由で罪を軽くしようとする輩がいるが。
子供だろうが悪意を持って人を殺せば裁かれるのは当たり前。
ましてや金木麗美はどれだけの人間の人生を狂わせたかもわからない。
だから、これは妥当な罰であったといえた。
ただ、秦広王は小首をかしげる。
最期に金木麗美に何かささやいた存在がいる。それが何かまではわからなかった。
一応今連携して動いているケルベロスに、連絡だけはしておくことにする。
それで、今は良いはずだ。
(続)
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