こころの大事さ

 

序、ヘラクレス

 

そのダイモーンは、明らかに大きかった。今までの奴とは威圧感からして違う。多分、たくさんの人を破滅させて、悪運をばらまいたんだ。それが燐火にもわかった。すぐに字を書く。

剣道をやって鍛えたことで、より力強く鉄パイプを振るえる。

それが、書く文字の威力向上に役立つ。

だが、それでも今まで以上に手応えがない。

うごめいている巨大な黒い塊は、ヘドロのように辺りの人を飲み込んでいる。ただ物質干渉力はないからそれらの人は平気で行き交っているが。ただ、いずれもが、悪運を与えられて。

悪い成功体験から、絶対に身を持ち崩す。

だから、急いで倒さなければならない。

三度目の文字を書くと、やっとはぜた。

それでも致命打にはならない。

何度でも虚空に文字を書いてやる。

五度目で、こちらを見る。

顔、だろうか。

そこには三つの目があって、三角形に配置されていた。それが、じっとこちらを見る。無数の触手がうごめいていた。

更にもう一度。

ばつんとはぜるが、質量が大きすぎる。

あのカコダイモーンは、以前出てきた用語で言うと、悪辣化している。下手をすると、人間を直接殺せるほどにまで。

それがわかっているから、何度でも字を書く。

ケルベロスも、まずいなとつぶやく。

本当にそれだけ強大なカコダイモーンということだ。

呻きながら、カコダイモーンがこちらに来る。

立て続けに二度文字を書くが、まだ力が足りないことがよくわかる。目が潰れても、即座に再生する。

質量が大きすぎる。

あれがいずれも、人を破滅させて得た力だと思うと。

色々と救いがたい。

倒さなければならないだろう。

「あの筋肉だるまはどこで何をしている。 これは今の燐火に対応できる相手ではないぞ」

「それでもどうにかしてみる」

「無理をするな」

「やれるだけやる」

文字を書く。カコダイモーンが無数の触手をうごめかせ、こちらに迫ってくる。怖いとは感じない。

ただ、数歩飛びずさると、更に文字を書く。

カコダイモーンはダメージを受けていない。その証拠に悲鳴すら上げない。

本当に危険な段階まで成長したカコダイモーンなんだ。それがわかる。わかるが、倒さなければならない。

すうと息を吸い込むと、また文字を書く。

だが、効いていないというのがわかると、どうしても色々と厳しいと感じてしまう。

こういう精神的な後れをとると、やはりカコダイモーンへのダメージが減る。ケルベロスが、下がれと叫ぶ。

まずい。

全力で飛び下がる。

だが、カコダイモーンが動こうとして。

それが失敗した。

空から舞い降りたすごくでっかい人が、拳一発でカコダイモーンを粉砕したからである。凄まじい悲鳴。

あまりにも破壊力が違いすぎる。

その人は筋骨隆々としていて、何かの動物の毛皮みたいなのを羽織っていた。

見るだけでわかる。

今まで見てきた人なんて、この人の前には小バエも同然。

それくらい力の差がある。

完全に一発で勝負を付け、更に残っていたカコダイモーンの残滓を素手でつかんで握りつぶしてしまう。

やはり、周囲からは。

その人は見えていないようだった。

「遅かったではないかヘラクレス」

「む、ケルベロスか。 すまなかったな。 もっと強い奴の対応をしていた」

「……」

「見えているようだな、ケルベロスが力を借りている者よ」

とりあえず、場所を移すか。

その前に、カコダイモーンがばらまいた悪運の残滓を字を書いて祓っておく。それだけで、数回やらなければならなかった。

それから移動する。

本当にこれは人なのかと思うくらい大きい。

多分背丈は五メートルくらいはあるのではないだろうか。

ささっと着替えて、そして見上げる。

ヘラクレスと呼ばれていた。

燐火でも知っている。ギリシャ神話における、最高の英雄だ。日本でも知名度が高くて、ヘラクレスが出てくるゲームはたくさん存在しているらしい。

ケルベロスは信仰が薄れ、物語になってしまったと嘆いていた。

だけれども、ヘラクレスくらい知られていると。

その物語は勇気を与え。

人々から信仰を集めるのだそうだ。

なるほどね、と思う。

いずれにしても、燐火は軽く話をする。

助けてくれたことについて礼を言うと、ヘラクレスはちょっと困ったように頭を掻くのだった。

「いや、謝らなければならないのは私の方だ。 君はよくあれだけ悪辣化したカコダイモーン相手に踏みとどまってくれたな。 ケルベロスができる子だと言っていたが、大変に勇敢だ」

「ありがとうございます」

「改めて名乗ろう。 私はヘラクレス。 ギリシャの戦士だ」

「平坂燐火です」

互いに名乗る。

ヘラクレスはあぐらを掻いて座ったけれど、それでも立ったままの燐火よりもずっと大きかった。

熊なんて素手で簡単に引き裂いてしまうだろう。

そして気づく。

かぶっている皮は、ライオンのものだ。

「ライオンの皮ですか」

「ああ、これは私が過去に倒したネメアのライオンという魔物の皮でな。 私にとっては無敵の鎧でもある」

「こんなに大きなライオンですか」

「ああ。 武器では傷つかない強靱な体を持っていてな。 仕方がないから絞め殺した」

それはすごい。

ヘラクレスというと圧倒的な強さの逸話がたくさん残っている英雄らしいが。それにしてもすごい話だ。

とにかく、いくつか話をする。

時々とても強いダイモーンが出ること。

燐火も剣道を始めて二ヶ月で、かなり力強く鉄パイプを振るえるようになってきたけれども。

それでもまだまださっきみたいなことがあると対応できないこと。

戦闘はさせないとケルベロスは言っているけれど。

限界はあるのではないかとも思うこと。

そういう話をすると、ヘラクレスはふっと笑った。

とても大きいが、それでも邪悪な人ではなさそうだ。でも、ケルベロスの話によると、あまり理性的ではないそうだが。

「責任感があるのは良いことだ。 今の時代は、どこの国でもだまされる方が悪いというような悪しき理屈が幅を利かせている。 悪党が褒め称えられる世界など、ろくなものではない」

「ヘラクレスさんは、正義感が強いんですね」

「まあ、そうだな。 私も散々くだらない人間の諍いには巻き込まれ、様々な陰謀を見てきた。 だから、どれだけ人間が昔から変わっていないかはよく知っているつもりだ。 だが、それでも自分だけはまともであろうとは思う。 悪しき体質もあるしな」

「体質?」

ヘラクレスは、狂気にずっとむしばまれた人生を送っているという。

ギリシャの最高神ゼウスが浮気したことで生まれたヘラクレスは、ゼウスの正妻であるヘラから散々にいじめられて育った。

時々ヘラから狂気を送られて、無意味な殺戮をしたことが多々ある。

それだけではない。

今でこそ穏やかな英雄として知られるが。

その業績の中では、獣同然に振る舞うものも多い。

それは、古くの人間が、残虐で荒々しい行動を好んでいたからだと、ヘラクレスは言う。そして本質としては、今の人間もそれは同じであるのだと。

「私はその体質にずっと苦しめられ続けてきた。 今も義母であるヘラは私をずっと見張っている。 そしてことあるごとに嫌がらせをする。 ただ……人気が薄れた今となっては、その影響は限定的になったがな」

「……」

「信仰が薄れたことで、私はむしろ英雄としてあることができた。 おかしな話ではある」

それは、そうかもしれない。

いずれにしても有名税だとかいう奴の逆パターンか。

それに、ギリシャの神々がまた信仰されるようになれば。

ヘラクレスはまた、凶暴な獣のような存在になってしまうのかもしれなかった。

「とりあえず燐火よ。 君が有望な魔祓いだと言うことは見て理解できた。 今回は本当に危ない目に遭わせてしまったな。 すまなかった」

「いえ、もったいないお言葉です」

「それでは私は行く。 まだ数体、悪辣化したカコダイモーンが野放しになっている。 ケルベロスよ、こちらは任せるぞ」

「ああ。 今後もカコダイモーンを引き寄せて、退治はしやすくする」

ケルベロスは嫌そうだな。

ケルベロスの話は聞いた。

ケルベロスが言っていたとおり、十二の難行だとかの一つで。冥界の番犬をしていたところをいきなりヘラクレスに連れ出され、地上の光を浴びせられて泡を吹いたという逸話が残っている。

しかもかなり無理矢理連れ出されたらしい。

人情家の甘党であるケルベロスを知っていると、色々と言いたいことが多いが。

今更神話をかえることもできないか。

とりあえず、家に帰る。

腕が重くなってきた。

これでも自主練で散々竹刀は振るっているのだけれども。

「力不足を痛感したか」

「うん。 まだ全然弱いね燐火は」

「その認識を持つのは良いことだ。 自分をスペシャリストなどと思い込むと、人間は堕落する。 まだまだ全然くらいに思っていないと、進歩はない」

「じゃあ、もっと強く魔祓いをできるイメージを持たないと」

帰ったら、日女さんに相談してみるか。

そう思って、帰宅。

とりあえず、宿題などをチェック。急がないといけないものから、順番に片付けていく。

一通り片付けてから、もう一度チェック。

今日のカコダイモーンはかなり強烈だった。

少なくとも燐火に祓える相手ではなかった。

ケルベロスの話によると、燐火は筋は良いが魔祓いとしてはまだまだ全然だし。才能もそこまである方ではないらしい。

だからとにかく経験を積むことだと言われた。

それについてはわかったけれど。

カコダイモーンがばらまく悪運を考えると、経験不足だから戦えないとはとても言っていられなかった。

風呂に入って、疲れを流す。

それで夕ご飯を食べようと、冷蔵庫から出来合を出す。

これについても、そろそろ自分で買うことを覚えなければならないか。ただ、それは中学まではやらなくていいと言われている。

お金を扱うのは大変なことで。

責任を伴う、というのがおとうさんとおかあさんの共通した意見だ。燐火もそれについてはわかる。

実際持ってはいけない人間がお金を持つと。

金木の屑一家みたいになる。

子供でもそれは同じだろう。

燐火も、あのような連中の同類になるつもりはないし、なってはいけないと今でも考えていた。

風呂を上がって、それで。

日女さんに連絡を入れる。

日女さんからは、剣道の方はどうだと聞かれたので、順調だと答えておく。日女さんがいうには、実はまっとうな道場であれば、精神修養には良いかもしれないと言う。

「道場と言っても当たり外れがあるからな。 体育会系の精神論で回しているような場所は論外だ」

「精神論と精神修養は別物なんですね」

「別物だ。 精神論は根性とかで何でも解決できると思っているようなものだな。 精神修養はそれとは違って、自己制御を如何にするかの話だ。 それを武道を通して学ぶことができる場合がある」

「なるほど」

そういえば、だが。

充子は燐火より年下だけれど、ものすごく落ち着いていて。とても小学生だとは思えない。

それくらい所作から言動までしっかりしている。

あれはしつけ云々の話ではなく、精神修養の問題だろう。

だとすると、あの道場は当たりか。

それとも、道場主が原因だろうか。

一応、日女さんに道場の話をしてみる。そうすると、知っているようだった。

「あそこは先代が有名なろくでなしでな。 一度つぶれかけた道場だったんだ。 厄介なことにそれでも剣道だけは強かった。 それを笠に着てやりたい放題をするような奴でな。 近所の愚連隊まで率いて、ショバ代まで取り立てていたらしい」

「そんなのがいるんですね」

「時々いる。 それも警察とかにコネがあるとかで、手が出せなかった。 それを黙らせたのが、現在の道場主だ。 師範代の一人だったんだが、長年横暴を黙っていて、やがて勝負を挑んで、完膚なきまでにたたきのめした」

「ほう。 なかなかにすごい話ではないか」

ケルベロスが喜んでいる。

確かに現在の英雄談といえるかもしれない。

「道場では絶対に逆らえない空気があったが、それが一気になくなった。 後は今の道場主が不正をあらかた暴いてな。 警察の方も、色々ばれるとまずいと思ったのか、即座に逮捕して、それで今は牢屋だ。 年齢からしても、もう出てくることはないだろう。 出てきても精神病院の隔離病棟行きだな」

「それで、今のしっかりした道場になったんですね」

「そうだ。 今までの俗悪な空気を一変させて、武道の精神を取り戻した。 それに、確か全国でも数少ない八段の段位持ちだと聞く。 精神修養を学ぶには良いかもしれないぞ」

なるほど。

ただ、あまり長時間拘束されるのは困る。

それについては、日女さんもわかっているようだった。

「悩みについてはわかる。 俺も修行と魔祓いを両立させるのは苦労してる。 俺もまだまだ修行中の身だ。 しかも仕事もあるから遠出はできない。 どちらにしても面倒な話だな」

「精神修養をするには、教わる以外に何か手はありますか」

「現代的な思考方法は、どんどん俗物的になっていやがる。 エゴをむき出しにしてやりたい方題するのが人間らしい、とかな。 そういった思考からは離れるのが大事だろう」

なるほど。

ケルベロスも、一理あると言う。

燐火は今の時点では、友人を増やすつもりはない。涼子だけいれば、後は野菜と同じである。

話しかけてくれば対応するが。

積極的に仲間に入れてもらおうとは思わない。

前にいじめをしようとしていた男子を制圧したとき。

助けてくれてありがとうと礼を言われたことはあるが。今ではそれらの子と仲良くなっているわけではない。

それらの子も、やはり燐火を怖いと思っているようだ。

先生達は燐火を問題を起こす生徒として認識しているようではあるのだが。

それはそれとして、別に叱責するようなこともない。

勉強もしっかりやっているし。

授業中に奇声を上げて走り回ったりするようなこともないからだろう。

「アドバイスありがとうございました。 精神修養については、道場主さんにも聞いてみるとします」

「それでいいと思う。 色々な人間からアドバイスを受けるのが一番だ。 俺の言葉が正解と言う訳でもない。 武道をやっても精神修養とは無縁な奴も多いしな。 それで強かったりするから、必ずしも精神修養が正解なのかというのも怪しいだろう」

それは、わからないでもない。

実際柔道とかでメダルを取ったような人が、後で色々と問題が発覚するような話は珍しくもないとか。

野球なんかは特に近年スキャンダルが目立っていて、心身を鍛えたはずの選手がごろつき同然なんて例も多いようだし。

サッカーのサポーターなんて暴徒同然になっているケースも珍しくないようだ。

そういうのを考えると、武道だってそれは同じだろう。

いずれにしてもそういうろくでもない輩は、話にならないとみていい。

燐火もそういう判断は、できるようになっていた。

いずれにしても、日女さんの話は参考になった。

ちなみに日女さんも剣道はものすごくできるらしい。

実際には文武両道らしいのだが。

男子からは恐れられ。

女子からも怖がられて近寄られないらしい。

あの人はきちんと理性的に振る舞っていると思うのだが。

まあ、人間なんてその程度のものであり、人を見る目を持つ人間なんてそうはいないということだ。

とりあえず信頼できる大人から、色々話を聞いてみることにする。

今回ヘラクレスさんが退治してくれたあのカコダイモーンは燐火の手に負える相手じゃなかった。

剣道でかなり自信がついたのに、いきなり鼻っ柱をへし折られたことになる。

だけれども、早いうちに挫折を味わったのは良い経験なのだと燐火は自分に言い聞かせる。

如何に金木の屑一家とあの孤児院の魔手から逃れられてからは、周囲に恵まれたとはいえ。

それでもまだまだ燐火は子供だ。

今のうちに、挫折と立ち直りは経験しておくべきだからである。

それを自分で判断できるくらいには。

燐火はなっていた。

 

1、大人達の意見

 

久しぶりに休みをもらったおかあさんが、料理を作っている。はっきりいってあまり上手ではないが。

お父さんがそばについて教えていた。

お父さんは料理はできるけれど、それをやっている余力がないのが実情である。それもあって、二人とも料理はあまりやれないのだ。

それでどうにか料理ができて、三人で食べる。

流石におかあさんも疲れているので、今日はお出かけをするつもりもない。

前は遊園地とかに連れて行ってくれることもあったけれど。

おかあさんがつらそうにしているのを理解していたから、少なくとも燐火からねだることはしていない。

それに、いてくれるだけで十分だ。

それも本音としてある。

食事を終えると、おとうさんはすぐに配信に戻った。

正確には、今日は二時間ほどの配信を二つ。

それが終わったら、色々書類を書いて出さなければならないらしい。

企業勢のVtuberはその辺りが煩わしいが。

その代わり他のVtuberとのコラボを比較的容易にやれたり。

或いは3Dでの配信のような個人では金銭的な意味で難しい配信をやることができたりと。

色々とメリットもある。

昔は、こういった企業は問題ばかり起こしていたようだが。

Vtuberというのができはじめて、二十年以上経過している今は。それも少しずつ解消して。

老舗と言われるような企業は、それなりにノウハウを蓄積し、タレントを大事に扱えているそうだ。

おかあさんと二人っきりになったので、精神修養について聞いてみる。

おかあさんはどうしてそれが必要なのかと聞いてくる。

まあ、そうだろうなと燐火も思う。

「剣道をやってみて、まだまだ自己制御ができていないと思いました。 しっかり自己制御ができる大人になりたいと思いますから」

「まだ五年生でそんなこと考えなくて良いんだよ」

「それが正論なのもわかっています」

「……いや、おかあさんが五年生の時なんか、アイドルのダンスをまねすることしか考えてなかったよ。 子供なんてそれでいいんだよ」

言いたいこともわかるけれど。

燐火は色々とハンデ持ちだ。

結局他人との壁は、一生涯消えないと思う。これについては、燐火の心にうがたれた傷の問題であり。

病院とかでも簡単には直せないだろう。

腕とか足とかなくなったら、人間はもう取り返しがつかない。

心だって同じだ。

燐火はハンデを抱えている。

それに何よりだ。

周りと同じにはなりたくない。同じになることでのメリットが見いだせないのだ。

丁寧に説明すると、おかあさんはそれを馬鹿にしなかった。

「わかった。 剣道の道場の先生が、その筋では結構有名だから聞いてみると良いかもしれないね。 後は……」

何人か、紹介してくれる。

警察の方ではなくて、個人のつてらしい。

なんでもおかあさんは中学くらいから柔道とかにはまったらしくて、その頃に武者修行みたいなことをしていた時期があるらしい。

今時珍しい話ではあるが、まあそういうのを真面目にやっていたということだ。

ともかくそれで出会った人が何人かいるので、連絡先をくれる。

少なくとも会える範囲にいる人は、自分で会いに行く。

そうでない人は、おかあさんかおとうさんが付き添ってくれるから。声を掛けるようにと言うことだった。

では、順番に会いに行くか。

ただ、それは一旦話を終わりにして。

おかあさんが一緒にゲームをやりたいというので、やることにする。

おかあさんはゲームも結構好きなのだ。

それで、高難易度で知られる狩りをするゲームを一緒にやる。ちまちまと育成していたのだが。

流石におかあさんのキャラクターはとても強い。

燐火のとは装備からして違って、ほとんどおかあさんだけで倒してしまう。これはすごいと思った。

素直に褒めると嬉しそうだ。

まあ、こういうので優越感を感じるのは、それはそれで良いのかもしれない。

 

ダイモーンを片付ける。

迷いはない。

もっと短時間で処理したいという向上心はわいてきているが。自分が強いなんて燐火は間違っても思わない。

そもそも年下の充子にすら、剣道では勝てっこない状態だ。

同年代でも燐火より強い奴なんていくらでもいるだろう。

柔道も空手も合気も、まだまだ中途半端。

中華拳法でもやってみるかと思うが。

それにしても、現在ではまっとうに教えられる人がほとんどいないと聞いている。それもあって、色々と厳しいだろう。

ダイモーンを片付けて、とりあえずずっと膝を抱えて泣いていた女の人に声を掛ける。駅での話だ。

駅の影から隠れてダイモーンを始末したが。

泣いている女の人を、誰も助けなかった。

なんでも今はフェミニストとかいうのが暴れたせいで、女性に近づくこと自体がリスクになってしまっているらしい。

それもあるのだろう。

燐火が声を掛けると、顔を上げた女性は。

燐火の死んだ目を見て、それでひっと声を上げた。

ちょっといらだったが。

それでも腰を落として、話を聞く。

女性はがたがた振るえていて。燐火がバックに指したままの鉄パイプを主に見て怖がっていたが。

ともかく、このままではよくないだろう。

近くに交番があるので連れて行く。

ちょうど婦人警官がいたので、事情を説明して引き渡す。婦人警官が、燐火のことを知っていた。

多分おかあさんの関係者だろう。

見た感じからして、部下とか後輩とかかもしれなかった。

ともかく片付いたので、さっさと道場に出る。

残りの期間は短いが、それでもやれることはやっておきたい。

今日はカトリイヌさんがいる。

さっそくケルベロスとドミニオンがばちばちに喧嘩を始めたが、燐火としてはそれはどうでもいい。

まずは素振り。

それから、打ち合い稽古をする。

燐火は中三の男子と打ち合いをして、それでちょうど良いと思われているらしい。充子は高校生相手に打ち合いをしているので、更に格上だ。

中三の男子も最初燐火を侮っていたが、面を二回取られてからは、本気で向かってくる。それでいい。燐火としても、その方が鍛錬になる。

動きについても、リーチが長い、足が長くて速い相手とどう対応するかの勉強になる。

今後、実戦をする可能性を考えると。

こうやって、ずっと背が高い相手とやりあっておくのは。とても有益だ。

打ち合い稽古を終えて、それから試合をする。

今日は充子が相手ではなくて、代わりに高校生の男子が相手だ。

結構しっかりした雰囲気の男子だが。

どこかで燐火を舐めているのがわかる。

それに、充子の相手をしてやっていると思っているおごりもだ。

充子の実力を知っている燐火としては、ちょっといらだつ。

だから勝つ。

最初、気合いに押される振りをして下がる。

何度も竹刀で受けながら、一撃をそらす。

しばらくは押されて、それで。

相手が勝ったと思った瞬間に、裂帛の気合いとともに面を打っていた。

鋭い音とともに、一本が入る。

それで、一気に相手は顔を真っ赤にした。防具越しでも、それがわかるくらいだった。

それでいい。

挑発に乗ったと言うことだ。そのまま、相手は攻め立てようとしてくるが。さっきより明らかに隙ができている。

立て続けに二本とる。

何、充子に比べたら雑魚も雑魚だ。

相手は初段らしいが。初段までは誰でもとれるというのは本当らしい。試合が終わると、師範が出てきて。

高校生を叱責していた。

「中田。 お前は相手を侮ったな。 普段の練習を見ていなかったか、或いは周りが手を抜いているとみていただろう」

「す、すみません」

「そんなだから充子から一本もとれない。 その子ははじめて一月で充子から一本を取った子だぞ。 心を入れ直せ!」

「は、はいっ!」

凄まじい気迫で、道場がびりびりと来るようだ。

他の試合も始まる。

カトリイヌさんは年下の子とやりあっていたが、どうにか互角というところか。

フェンシングの経験があるらしいが、どうにも剣道では生かし切れないらしい。ドミニオンがため息をついているのがわかる。

ともかく、激しい泥仕合の末に、やっと二本とって勝っていた。

とても嬉しそうである。

相手もはじめてばっかりの小学生だから、フェンシングの経験があるのなら有利な筈なのだが。

なぜか燐火にも自慢げに視線を送ってくる。

どういう顔をしたらいいのか。よくわからない。

最後に充子が師範代と勝負をする。

師範代は流石に強く、充子と互角にやりあっていた。瞬く間に一本を取られたが、すぐに一本を取りかえす。

師範代は三人いるが、今やっているのは四段の人だ。

四段と渡り合うほどの実力。

全国で云々の話が出てくるのも、妥当というところだろう。

最終的に競り負けたが、師範代もかなり苦戦していた。ケルベロスが面白がっていた。

「見事見事! あの年でこれだけできれば、体ができた頃には無双の剣士となろう。 いやはや、先が楽しみなますらおであるな」

「悔しいですが、それについては同意しますよ」

「ほう。 天使の割には殊勝ではないか」

「優れた人間を導くのは天使の役割ですからね」

珍しくケルベロスとドミニオンが意気投合しているようである。ドミニオンは苦々しげに、だが。

とりあえず、稽古が終わる。

さて、聞いてみるか。

着替えを終えてから、師範に話しに行く。

師範は鋭い気配をまとっていて、いつもそれを崩さない。それで明らかに周りから怖がられてるが。

燐火は別に怖いとは思わなかった。

精神修養をどうすればいいか。

そう聞いてみる。

道場主は、しばし考え込んでから、言う。

「精神を鍛えて如何にする。 そもそも燐火。 君の剣は凶剣の類に踏み込み掛ける危険をはらんでいる。 理由次第では、精神修養はむしろ害になろう」

「燐火は色々と精神でハンデを抱えています。 剣の道とは関係なく、今後の人生を少しでも生きるために、必要な話です」

「……そうか、わかった。 少し時間はあるかね」

「はい」

ついてくるように言われた。

カトリイヌさんは疲れ果てて、でろんでろんになって帰っている。ドミニオンが呆れていた。

ケルベロスも、あれは警戒しなくていいなという。

ただ、カトリイヌさんの魔祓いの力は侮れるものではなく、一神教系の悪魔が相手であれば、十全な力を発揮できるそうである。

和室に通される。

向かい合って、正座して座る。

師範代の一人が、お茶を入れてくれた。

礼を言って、お茶をいただく。

師範は鋭い目で燐火を見ていたが。順番に話をしてくれた。

「幼い頃から精神修養をしても、どうしても限界はある。 うちの充子がそうであるようにな。 充子は精神修養をさせてはいるが、心のどこかでは友達をほしがっている。 それも対等な友をだ」

「悪くはないことだと思います。 実際には友達なんかじゃなくて、言うことを聞く下僕をほしがる人の方が多いんですから」

「そうだな。 ただ、それは子供の口から出てくる言葉ではない。 一体どんな人生を送ってきた」

「……」

少し悩んでから、話す。

金木家の事件については、師範は知っていた。

「なるほどな。 鬼畜外道に蹂躙された人生を、少しでも取り戻そうという心でいるわけか。 よく話してくれた。 つらかったであろう」

「いえ、それすら感じません。 あのときのことは、強い怒りを今では覚えるようになっています」

「精神修養をしようと判断したのは良いことだ。 そのまま怒りに身を任せていたら、燐火よ。 君は悪鬼羅刹へと変じていただろう」

嘆息すると、いくつか方法を教えてくれた。

精神修養というのは、結局のところ一人でやらなければならないらしい。

雑念の完全排除。

集中力の向上。

何よりも、我欲の抑制。

これらが大事になってくるそうである。

「世間では欲望まみれの存在が人間らしいと言うこともあるようだが、それはある意味でただしいだろうな。 ただし欲望を全てかなえていたら、法など存在しない獣の世界に成り果てる。 少なくとも、精神修養をするのは、そのような欲望を肯定する人間から離れる必要がある。 完全に欲望をなくす必要はない。 完全に制御すれば、それでいい」

そうして、いくつかやり方を教えてくれた。

何段階かに分けて、欲望の制御をしていく。

それだけで良いそうだ。

ただし、その何段階かの欲望制御が、とてつもなく難しいようだが。

スマホを出して、順番にメモをとる。

それを見て、時代だなと師範は言った。

「いずれにしても、大真面目に精神修養をすれば、「普通」とはかけ離れることになる。 それは覚悟はしておきなさい」

「元々「普通」に燐火は興味を持てなくなっています。 今日は色々とありがとうございました」

「それと、一人の父親として頼みたいことがある。 道場に長くは通えないとしても、充子と友達になってやってくれ。 どちらかと言えば境遇が近い君であれば、充子も多少は寂しくはなくなるだろう」

「……わかりました」

それについては、燐火も嫌ではない。

充子は非常にしっかりした子だ。

こちらとしても、関わることに異存は一切なかった。ああいう子と友になれば。それはとても良いことだろうと思う。

信頼できる友がいれば、少人数でいい。

そういうものなのだから。

 

翌日、日女さんと久々に直に会う。

前にあったときと比べて、また生傷が増えていた。絆創膏を貼っているが、本当に男子みたいだ。

それでいながらちゃんとしていれば多分きれいな方だと思う。

なんでも県外から来た半グレだかに絡まれたらしくて、それを全部ぶちのめしたらしい。危ない事はできれば避けた方が良いと思うのだが。

何でも日女さんの話によると、そういった奴には大体悪神が憑いているか、その影響下にあるのだという。

「悪神ですか」

「うちの国には八百万の神がいるとか言ってな。 得体が知れない神格もたくさんいる。 今でこそ神社があるが、元は明確に邪神だったやつもいる。 有名なのは常陸のやとのかみとか、後は諏訪のミジャグジ様とかだな。 どっちも非常に危険な神格だが、明治くらいまでにそれまでの魔祓い達が封印に成功はしたらしい。 ただ雑多な邪神となると、そうもいかない。 日本神話の天津系の武神は非常に強くて、神話ではほぼ負けなしだが、それでも例外はいるからな」

「調べたが、アマツミカボシとやらか」

「よく知っているな。 あの神格は今でもきちんと封じられているかはかなり怪しいらしい」

知らない話を日女さんとケルベロスがしている。

アマツミカボシというのは、この国の支配者階級の天津神が、唯一武で下せなかった強大な存在だという。

ただし「天津」と名がついている事もある。

謎が非常に多い存在で。

一部では明けの明星である金星と結びつける話もあるのだとか。

日本ではどちらかというと怨霊の方が恐れられる傾向が強く、特に三大怨霊の一角である将門公はいまだに大きな畏怖を集めていると言うことだが。

それはまた別として、悪神の類はいるのだそうだ。

「ぶちのめした半グレどもは悪神から悪運を授けられていたが、まとめて祓った。 あれは完全に今までの悪運に見放され、後は実刑を受けるだろうな。 それも余罪がまとめて表に出るだろう」

「まあ、自業自得ではありますね」

「そうだな。 それで今日は精神修養について、だったな」

「はい」

まずは道場主から聞いた話を軽く説明する。

うんと頷いて、日女さんはそれに付け加えてアドバイスをくれた。

「基本的にその人の言うことは概ね正解だ。 ただ、どちらかというと内向きの成熟を得るための武道だな」

「内向きですか」

「そうだ。 剣術にしてもなんでも、実際に使えないと意味がないってのは確かにあるんだ。 その人は単純に内向きの精神を鍛えて、それを使って体を鍛えているタイプなんだと俺は思う」

「なるほど」

そういう鍛え方もあるのか。

それから、連れて行ってもらう。

日女さんの師匠。

今は引退している、祖母だそうだ。

母親は魔祓いとは関係ないので、この手の話には噛んできていない。それもあって、祖母と魔祓い関連で話をするときは、家族は皆別々に行動するのだとか。

神社に日女さんは住んでいるわけではなくて、ちゃんと実家がある。

それなりに広い家なのは、魔祓いとして実績を上げているから、らしい。国から補助金が出ているのだ。

こういう制度は明治くらいには整備されたらしいのだけれども。

その頃に西洋式の魔祓いを取り入れるべきだとかいう意見があって、すったもんだでもめたらしい。

明治時代の頃は公用語を英語にしようなんて話まであったらしいので。

確かにそれはそういう話が出てもおかしくはないだろう。

明治時代の人の努力で、それらはどうにか回避できたらしいのだけれども。

それにそうなっていたら。

この国の文化に基づく魔は、祓えずに横行していたのだろう。非常に厄介な事態が来ていたのだと思う。

そうならなくてよかったと燐火は思う。

ギリシャの神話が「物語」になってしまった過程は、ケルベロスから聞いている。

日本もそうなるところだったのだ。

家の中は和風でもなく、普通に洋間もある。

巫女服をいつも着ているわけではないのだとそれでわかる。学校の制服もハンガーに掛かっている。

日女さんがそれを燐火が見ているのを見て、ちょっと気まずそうにした。

「俺が行ってる学校、ちょっと難しいぞ」

「試験がですか?」

「いや、魔祓いの見習いが集められてるんだよ。 ただし日本系限定でな。 うちの国も少子化で色々大変だろ。 だから魔祓いはいざというときに確保しておこうと考えているらしくてな。 仏教徒の魔祓いもそれなりにいる」

「そうなんですね」

日本神話系の魔祓いとはやり方が違うので、対立することもままあるらしい。

まあ、ともかくだ。

客間でお茶をいただく。程なくして、まだまだ充分にきれいな日女さんの祖母が出てきた。

ただ、年齢は五十を超えているとみて良いだろう。

綺麗に老いる事も出来るんだなと、燐火はちょっと感心してしまった。今まで見てきた老人の誰とも違うタイプだ。

「お前が燐火だね。 お前のことは聞いている」

「よろしくお願いします」

「本格的に稽古をつけてやりたいところだが、そうもいかないだろう。 それにあたしについている稲荷権現の力だと、どちらかというと仏教系は多少相手に出来ても、基本は神道系だ。 ギリシャ系は流石に専門外なのでな」

稲荷権現。

日本で八幡と並んで最も信仰されている神。

神社の数は日本でも一番多く、もっとも素朴な信仰を受けている神格だ。

そう日女さんが説明してくれる。

なるほどと覚える。

いずれにしても、日本ではもっともポピュラーな神様と言う訳だ。

ケルベロスがうらやましそうにする。

「とりあえず、一目でわかった。 お前さんは基礎はその年とは思えないくらいしっかりしているよ。 問題はそこからだ。 精神修養に関しては、教わったとおりでいいだろう。 とにかく雑魚を倒して経験を積みな」

「その過程で助けられない人がいるかもしれないです」

「それはもう仕方がない。 今の力で出来る範囲のことをするだけさね。 お前さんは神でもなければ全能でもない。 全てを救うなんて事は、理想的な専制主義国家があったとしても、その最高権力者だって出来ないんだ。 だからそのたびに割り切って、やれる範囲でやっていきな」

ある程度諦めろ、か。

反発はある。

だけれども、それが正しいだろう事はわかる。

ケルベロスが言う。

「そうだな。 俺もこの老婆の言葉に賛成だ」

「ケルベロスも」

「燐火はまだ子供だ。 契約とはいえ、子供に過酷すぎる判断をさせる事は心苦しいし、それで間違いをすることもある。 失敗だってする。 だが、それで責めるつもりはない。 育ったカコダイモーンは、そもそも多数の存在を不幸にして、悪辣化を果たしている。 迷子がダイモーンをばらまき始めている事に気づくのが遅れた俺たちギリシャ系神格の落ち度だ。 如何に弱体化している、としてもな」

「その犬の神の言うとおりだ。 見たところケルベロスか?」

老婆にはケルベロスが見えているらしい。

頷くと、そうかとだけ言った。

具体的な精神修養のやり方を教えてもらった道場主と違って。この人は実戦での心構えを教えてくれた。

それで充分なのかもしれない。

日女さんにお礼を言って、それで帰ることにする。

帰りを途中まで送ってもらったが、日女さんに言われた。

「ダイモーンの処理は俺にはできないが、ただ後始末は出来る可能性がある。 倒したら俺に連絡を入れておいてくれるか」

「わかりました」

「じゃ、お互い頑張ろうや。 俺もまだまだだ。 人様を見下せるような立場じゃない。 そう思って、少しでも進歩しないとな」

手を伸ばされたので、握手をする。

このとき。

日女さんとは、初めて友達になったのかもしれない。

ただ握力が強くて、燐火はちょっと苦笑いしてしまった。

 

2、修練と成果

 

精神修養のやり方は、人によって異なる。

いずれにしてもはっきりしたのは、空いた時間を無為に過ごさない事だ。正座をして、目を閉じて、集中する。

集中して、雑念を一切取り払う。

ただし、一切合切外部からの刺激を取り払ったらそれはそれでまずい。

必要なときはケルベロスに声を掛けてもらうのと。

スマホのアラームを入れておく。

そうして、無の境地に近づく。

勿論難しい。

仏教だとこの境地を悟りとかいうらしいけれど。実際に其処にたどり着いた仏僧なんて、どれだけいるのだろう。

ましてや始めたばかりの燐火なんかはまだまだ全然である。

ともかく。

黙々と座禅を組んで、集中する。

アラームが鳴った。

とりあえず、精神修養はここまで。以降は、実際に体を動かして、それで鍛えていく。また、宿題もおろそかにしない。

そうしていると、思った以上に時間は足りないのだとわかる。

素振りをする。

おとうさんからもらった棒を竹刀袋に包んだものを素振りに使うけれど。

おもりをいくつか乗せて、それで鉄パイプを振るうのと同等の条件へとそろえる。そうすることで、訓練を効率的にする。

進んで振る。下がって振る。

体重の移動、体幹の制御。

いずれも、怠らずにやる。

ケルベロスが褒めてくれる。

「剣筋がよくなってきたな。 この様子だと、充子には及ばないにしても、いずれそこに近づくことは出来るだろう」

「出来れば追いつきたいかな」

「そうだな。 それくらい求道そのものは貪欲でいていい。 ただでさえ燐火は無欲だから、強欲である部分もあっていい」

「そうだね……」

あまり無欲と言われても実感はない。

おいしい食べ物はそれなりにおいしいと思うし。

ただ、他の子は泣きわめいてもほしがるようなこともあるらしいから。そう考えると、なるほどなとも思う。

あれは強欲の結果なのだろう。

いずれにしても燐火は自分なりにやっていくだけだ。

道場主に言われたとおり。

このまま精神修養を続けていくと、普通からはどんどん離れていくだろう。だが、燐火は既に普通には興味を持てなくなっている。

だから、別にこれで構わない。

剣道の後は、柔道の鍛錬をやる。

次は空手。

さらには合気。

基礎をおかあさんに教わっているので、それを淡々と極めていく。

体を少しでも早く動かす。

腕だけで相手を投げるのではなく、全身を使って相手を投げる。

そうすることで、腕力だけで動いている素人を。燐火でも制圧することが出来る。

実際、日女さんが言っていた。

日女さんは今後もっと背が伸びて、力も強くなる。

だが、現状では中一の肉体で勝負しなければならない。

だったら、その時点で持っている力を全て生かし切る。

そうすることで、力の大半を遊ばせている男子程度だったら、だいたいどうにでも出来る。

ただし気配を常に研いでおいて。

勝てない相手からは逃げる。

まっとうに相手にはしない。

それが必要だそうだ。

あの日女さんでも、適当に空手をかじった程度の高校生男子が相手だともうかなり厳しいらしい。

それが何かしらの大会に出てくるような輩になってくると、相手にするには後三年いると言っていた。

そういうものだ。

更に戦闘は才能に依存する部分が大きいらしく。

それもあって、何もしていなくても強い奴は強いらしい。

そういう相手とは戦うのを避けるのも立派な判断。

ただし、逃げるだけではなく、戦術を選ばずに倒す手札も用意しておくべきだとも言っていた。

そういう相手とも戦わなければならないことが今後出てくるからだ。

燐火も、その言葉は正しいと思う。

金木の一家みたいな屑を相手にすることが、今後おきるかもしれない。

今の燐火では、戦いようがないのだ。

淡々と鍛錬をこなして、朝のノルマは終わり。

適当に汗を掻いたが、体力もついてきている。すぐに汗は引く。ご飯を食べるが、とてもおいしい。

ちなみに一人だ。

お父さんは長時間配信の最中。

おかあさんは、早番だ。

既に出来合を温めたりと、そういったことは一人で何の問題もなく出来る。最悪の場合はおとうさんに声を掛けるが、それは最後の最後だ。

おとうさんは家族がいることを公開していない。

そのお仕事を、燐火が台無しにするわけにはいかなかった。

何よりも、別に燐火は一人でいることが苦にならない。

寂しいのが駄目、という人もいるらしいが。

燐火はそれはないので、その点は色々な意味で有利だと自分では思っている。

食事を終えたら、学校に出る準備をする。

舐められないように身支度もしておく。

問題はないな。

確認を終えたので、そのまま学校に出る。

雑魚ダイモーンの気配があるらしい。

通学路の途中で軽く寄り道をして片付ける。時間的には余裕があるので、問題はない。これなら変身をする(着替えるだけだが)必要すらない。

ささっと文字を書いて、消し飛ばす。

それでケルベロスも、さっさと回収を終えていた。

「確実に力が上がっているな」

「ありがとう。 でもヘラクレスさんが倒したようなカコダイモーンを相手にするのはまだ無理だよ」

「それを自分で把握できていれば十分すぎるほどだ。 これからも鍛錬をしていけば、あれくらいなら倒せるようになる」

「……わかった」

ケルベロスは嘘をつかない。

これについては、ずっと話していてわかった。

言葉を濁すことはある。

どうしてもそういう事があるのは燐火もわかっていた。

ただ、燐火は子供が本来受けるべきではない刺激を、散々受けてきた。だから、今更ではある。

悪党も散々見てきた。

そして人間は簡単に悪党に転ぶことも、である。

燐火にとって普通は敵になりつつさえある。

だが、それでも。

ケルベロスが望むなら。

ダイモーンを倒して。無辜の民(無辜の民なんているのか燐火にはとても疑問ではあるけれど)を救うのは、仕事としてしっかりやる。

それだけである。

学校に着いた。

今日はいつもより少し遅めで、同じクラスの生徒も何人か既にきていた。まあ寄り道をしたのだから仕方がない。

机などをチェック。

丁寧にチェックをした後、鞄の中身なども確認しておく。

そろそろ消しゴムが減ってきたか。

補充がいる。

そう思いながら、教科書を出して、軽く復習をしておく。

予習は充分にしてある。

既に算数と理科は実のところ小学校ぶんは終わっていて、涼子と時々それについて話をする。

涼子は更に進んでいて、既に全科目で中学の予習をしているようだ。

燐火よりもずっと成績もいい。

武道の類をやってはいないが、代わりに勉強にそれだけ打ち込んでいる、ということである。

まあ全部の分野でトップになれると、燐火はうぬぼれてはいない。

いずれにしてもこのクラスでは、涼子と燐火で成績は既にツートップだ。

既にドリルに四苦八苦していた時代は終わった。

だが、あれは燐火の中で確実に力になっている。

軽く話した後、涼子に言われる。

「それで剣道はもう終わったの?」

「後二回ですね。 道場の充子さんとはアドレスを交換して、時々メールを送り合う仲になりました」

「あの剣道小町と。 あの子、将来ものすごくもてると思うよ」

「そうですね。 文武両道に容姿も優れていて、家も太いですからね」

そう現実的な話をすると。

涼子は苦笑い。

燐火もその手の話には興味がない。

というか、あの孤児院の時のことが、今になってわかってきたから。それで嫌悪感すらある。

充子が異性をどう思っているかはよくわからない。

ただ実のところ。

周囲の女子がアイドルの話をしているのに対して。

涼子がそれに乗るような事は一切ないので。

実は涼子も燐火と同じ穴の狢ではないかとも思っている。

それにだ。

涼子の家に何度か遊びに行ったが、母親が既にいないという話もあるのだが。その痕跡が一切ない。

意図的に遠ざけている雰囲気さえある。

それを見ていると、燐火はそれに触れてはいけないことを毎度強く思うのだ。

少なくとも、涼子は他の女子が喜ぶような、愛だの恋だのを尊んでいないのだろうなとは理解できる。

軽く話をした後、ホームルームが始まる。

その後は授業だ。

淡々と授業をこなしていく。

最近は授業中の空気が静謐で、とてもいい。

燐火としてもやりやすい。

既に学んだ学問は退屈、なんてのはまだまだである。

既にやったところだからこそ、復習が出来ていい。復習をして、ミスがないかを確認することが出来る。

いずれにしても問題はない。

燐火は淡々と授業をこなす。

前の方で授業について行けていない、興味もない男子が退屈そうにしているが。

そいつ自身に燐火は興味がない。

名前も覚えていなかった。

昼休みになって給食を食べたあと、軽く外で体を動かす。

ボールが飛んできたので、即座に受け止める。

ほとんど死角からだったが。

五感を研いでいるので、これくらいは難しくない。

飛んできた方を確認する。

少なくとも女子が投げた威力ではなかったが。

「おい、ボール返せよ」

「まず先に言うことはありませんか? 頭に当たるところでしたが」

「返せって言ってんだろ!」

此奴、確か以前ぶちのめした事がある六年の男子だ。喧嘩で、ではない。かけっこが得意で、それを自慢にしていた。

足が速ければ小学生の間はもてる。

それがどんなカスでもだ。

それを体現しているような奴で、勉強なんか一切出来ないのに、六年の女子の間では「かっこいい」とされているようだった。

ただしそれが燐火に公開処刑同然で、かけっこに負けた。

まぐれだというので、十五本、五十m走を連続でやった。

最後の方は完全にバテて、顔を真っ赤にして、それで。

以降、燐火に逆恨みをしていた。

飛んできたサッカーボールがきしむ。

握力は強くなくとも、これくらいは出来る。みしみしと、恐らくは自分の私物だろうサッカーボールが悲鳴を上げていること。

それに燐火にまっすぐ見られていること。

それで明らかに、その「足が速かった」男子はひるんでいた。

「お、俺のボールだぞ!」

「後ろから頭にぶつけようとしましたね。 何か言うことは」

「お、おいけんちゃん、やばいよ! こいつりっくんをぶん投げて、りっくん手も足も出なかったんだぞ」

「う、うるせえ!」

取り巻きらしい男子の方は完全に引いている。

燐火が一歩を踏み出すと、「けんちゃん」は明らかにひるんで、二歩下がった。他の男子は、もっと下がった。

燐火としても、こんなサッカーボールはドブにでもと思ったが。

そこで、ぽんと燐火の肩に体育の先生が手を置いた。

笑顔だが、目は笑っていなかった。

「其処までだ。 中山。 お前がわざとやったのは見ていた。 謝りなさい」

「だ、だってこいつが! 下級生のくせに生意気で!」

「お前のどこが偉い。 少なくとも、この子にお前は全てで負けている。 何か勝てる点でもあるのか? それに不意打ちをした時点で、あらゆる点でお前を擁護は出来ないぞ。 それに悪いことをして謝れないのは、幼稚園児以下だ」

「けんちゃん」の名前は中山というのか。

まあどうでもいい。

幼稚園児以下と言われて、流石に噴火した中山。

だが。

先生はサッカーボールを燐火から取り上げる。

「謝ればすぐに返してやる」

「た、た、体罰だ!」

「悪いが、一部始終は全て録画してある。 お前が意図的にサッカーボールを平坂の後頭部めがけて蹴ったところからな。 親を介入させるなら、この映像を公開するだけだ」

「……っ」

真っ青になって、ついに顔をくしゃくしゃにすると。

中山は泣きながら、燐火にごめんなさいと言った。

周囲の女子がひそひそと言っている。

これであれのプライドは完全に終わりだな。それに、クラスで偉そうにしていたのももう出来なくなる。

女子にもてたのも、文字通り過去の話になるだろう。

先生がひょいとサッカーボールを投げて返してやる。

中山が泣きながら戻っていくのを見て、先生は嘆息していた。

「平坂、スペックが根本的に違うんだから、多少は手加減をしてやりなさい」

「身を守っただけです」

「そうだな。 それでもあれだと、以降中山の生活に色々と支障が出るだろう。 とりあえず、担任の教師には言っておく。 中山は今後いじめられるかもしれないな。 だが、いじめはこの学校では絶対に許さん」

先生の言葉には、強い意志がある。

こんな大人がもう少しいてくれればな。そう燐火は思った。

 

今日は涼子の家にお邪魔させてもらう。家に戻って、宿題を片付けてからだ。ただ、途中でダイモーンが出た。

それもかなり強い奴だ。

これは、ちょっと遅れるかもしれないな。

涼子にはさっとメールを打って。

それで物陰で変身(着替え)して。すぐにケルベロスの指示で走る。

ブロック塀を蹴って、とんぼを切って乗り越える。

身体能力はどんどん上がっている。

更に先に行ける。

着地も問題ない。

かなりの高さから着地したが、柔らかく衝撃を殺せるようにどんどん進歩している。更に進歩がいる。

「まずいな。 今回のはギリギリの相手だ。 涼子の家に行く前に疲弊してしまうだろうな」

「大丈夫。 必要なことだから」

「そうだな」

走る。一気にショートカットルートを走り抜ける。

そして、藪を突っ切って躍り出る。道路を走り抜ける。白仮面だ。そういう声が聞こえたけれど。

振り返ることはしない。

白仮面は見かけもあって、それほど怪異的なものとは見なされていないようだ。

それどころか、赤マントが出なくなってから出るようになったという噂から。

白仮面が赤マントを倒したのではないか、という噂まであるらしい。

どっちも同一人物なのだが。

まあ、それはいい。

ともかく走る。

カコダイモーンは悪運をばらまく。

放っておけば、悪人がますます増長する。

悪人の被害を受けてきた燐火は、やはりそれを許せない。ただ、今は精神を集中する。精神修養をしてわかってきたことがある。

道場主……師範は内向きの武道を、強さに変えている。

それは効率が悪いようにも思うけれど。

実際には、確かに強さに変わる。

燐火より年下の充子が、高校生相手に剣道で全くひけをとっていないのと同じ事である。遠回りのようにも見えて、実はこれが近道なのかもしれない。

だけれども、もっと精神修養については、色々な意見を聞きたい。

こればかりはネットで会うのではなく、実際にあって、だ。

そうしなければ、見極めは難しいだろう。

近い。そう言われて、さっと木陰に隠れる。

さて、あいつか。

かなり大きなカコダイモーンだ。まるで巨大なナメクジである。

カコダイモーンが狙っている人は見当たらない。

いや、人はいないというか。

何かの雑居ビルを飲み込むようにしてカコダイモーンが張り付いている。おそらくだが、あの雑居ビルの中の人間全てに悪運を提供しているのだ。

ろくでもない連中が中にいる。

それはわかった。

即座に文字を書く。

今までにないほど、心が研がれていて。それで、文字の作り出す魔祓いの力が、段違いになるのがわかった。

ばつんと音がして、カコダイモーンの体がはぜる。

悲鳴が上がる。

あのカコダイモーン、近くで見ていて即座にわかった。おそらくだが、以前六回文字を書いて、やっと倒せたのと同格くらいの相手だ。

だが、今は、一度でかなりのダメージを与えることが出来た。

これならば。

そのまま、連続して文字を書く。

二度目。

全身が派手にはぜて、真っ黒い液体が噴き出す。辺りに広がっていくカコダイモーンの体液は、タールのようだ。

悲鳴も凄まじい。

これで誰にも聞こえていないというのだから、おかしな話だが。

そのまま、第三撃。

カコダイモーンが、苦しげにこちらを見る。

ナメクジそっくりだと思ったが、それにいびつな形で人間そっくりな目と、それに歯をむき出しにした口がついていた。

極めておぞましい造形、なのかもしれないが。

燐火にはどうでもいいことだ。

そのまま打ち倒す。

四回目の文字で、ばつんとカコダイモーンがはぜた。

後は、周囲の空気が一気に変わっていく。嘆息。ケルベロスが、驚いていた。

「これは。 俺が想像していた以上に進歩が早いな。 最後の聖印はオーバーキルも良いところだった。 以前までの倍にまで力が増しているな。 それも体力をほとんど消費していない」

「とりあえず、悪運は晴らされたよね、あれは」

「ああ、着替えてしまえ。 見つかると面倒だ」

「うん」

すぐに着替える。

ささっと着替えるのは、もう相当に習熟した。

それから、日女さんに連絡を入れておく。住所をスマホのアプリで確認して、それで送ると。

そこかと、苦々しげに日女さんはいう。

なんでも違法カジノとやらをやっている場所らしい。

それで警察がそろそろ踏み込むつもりだったそうだ。

いずれにしても、悪運がなくなった以上、連中が好きかって出来ていたのもこれまでだ。さっさと捕まればいい。

後は、何事もなかったかのように涼子の家に向かう。

涼子もパーティーゲームを用意してくれている。

まだ全然面白いとは思えないけれど。

まあ、興味深く遊ぶことは出来るだろう。

「多少自分にご褒美をくれてやってもいいのではないか」

「自分にご褒美か……」

「ああ。 今のは、立派な成果だ。 勿論まだ先は長いが、それでもいずれ、ヘラクレスが対処しているようなレベルのカコダイモーンに対応できるようになるやもしれん」

そうなったら、ちょっと嬉しい。

ヘラクレスさんが叩き潰したカコダイモーンなんて、燐火がどうこうできる相手ではなかった。

あれをどうにか出来るのであれば。

確かに、とてもケルベロスにとっての助けになるはずだ。

涼子の家には、ギリギリでついた。

既に上がっていた息は、平常に戻っていた。

体力も気力もついてきたということだ。

それは、好ましいことの筈だ。そう、燐火は思った。

 

3、それは貪欲であってもいい

 

剣道の最後の道場通いの日。

なんと師範が直に稽古をつけてくれるということだった。

それにしても、これはすごい。

向かい合ってみると、圧倒的な力の差がよくわかる。

この人は、年齢的にはお父さんより上だ。

それでありながら、肉体は下手な二十代のアスリートなんかよりも磨き抜いている。

その上、武道に関しても徹底的に己に厳しく当たり。

頂点に近いところにまでたどり着いていると見ていい。

ケルベロスがぼやく。

「これはすごいな。 ギリシャにいたなら、星座にしてやりたいところだ」

「星座?」

「ギリシャにおいては星座は永遠不変と考えられていた。 つまりそれは、最大限に名誉なことだ」

「そうなんだね」

星は超新星爆発でなくなる。

実際有名なオリオン座は、いつ形が壊れてもおかしくないと言われている。構成する星の一つが、いつ超新星爆発してもおかしくないから、である。

向かい合って、礼。

今日はカトリイヌさんも来ているのだが。

カトリイヌさんを守護しているドミニオンが、一切何も言わない。

それくらい。すごい相手だということだ。

礼をして、立ち上がると。

その瞬間、勝てないことがわかった。

充子の比ではない。

即座に三度面をとられて終わり。

だが、道場主、師範の圧倒的な強さを見て、誰もが固唾を飲んでいた。

「これは負けてもまったく悔しくないね」

「ああ。 だが、いずれこの領域にたどり着くことを考えても良いのだぞ」

「そうだね」

燐火がこの後、どういう人生を送るかはわからない。

魔祓いは国から補助金が出るという話だ。

それで生活していくのも良いかもしれない。

ただ、今の武芸を身で受けたのは。

いずれ大きな財産となる。

立ち上がったのは、カトリイヌさんだ。

「い、一手、お手合わせ願いますわ!」

「良いだろう」

燐火に対抗意識を燃やしたのか、カトリイヌさんが前に出る。

ポンなこの人だが、上達は早くて、同年代の男子と互角に渡り合えるように既になっている。

フェンシングをしていたのも要因なのだろう。

ただ、礼をして向かいあった瞬間、わかる。

燐火の時以上の差がある。

完全に動けなくなった。

「虎ににらまれたネズミだな」

「残念ですが、同意見ですね」

ドミニオンが、ケルベロスとそんな会話をしている。

そのまま、一歩も動けないまま。カトリイヌさんは一本を決められていた。

漫画なんかにある気なんてものは存在しない。

気を飛ばして何か破壊するようなことなんて出来ることはない。

だけれども、今のは。

人間の根源的な恐怖を刺激して、それで相手の動きを完全に封じた。いや、ちょっと違う。

技術的にそれをやったんじゃない。

あの人ほどの達人だと、自然とそうなるんだ。

操気なんてのは、所詮は夢物語に過ぎない。中華武道における発勁なんてものは、実際に使えるとも思えない。

だけれども、こういう気迫で相手を圧倒するというのは実在するのか。

今までも剣道をしていて、見た瞬間勝てないと悟ることはあったけれど。

なるほど、ここまで自分を磨けば。

こういった、無駄な戦い、労力を避けることも出来るわけだ。

最後に、師範が話してくれた。

「短期で通ってくれた者も、またいつでも来てほしい。 我が道場はいつでも門戸を開いている」

「ありがとうございました!」

その後は、解散する。

ちなみに充子は、ちょっと遠い学校にいるので、学校で顔を合わせることはない。

まあそれはそれだ。

メールではやりとりするし、個人としては遊びに来るつもりだ。

充子は充子で、メールで話していると、色々とわかってくることもある。

意外と味覚は子供っぽかったり。

幽霊の類が苦手だったり。

色々と普通のところもある。

今後はもっと会う機会を増やしていきたいものだ。

カトリイヌさんが声を掛けてくる。

厳しい表情だが。

前とはちょっと雰囲気が違っていた。

「貴方のこと、少し見直しましてよ」

「どうしたんですか、急に」

「言葉通りですわよ。 あの師範、まるで虎のような気迫でしたわ。 私は動くことすら出来なかった。 それに対して、一瞬で負けたとはいえ、貴方は勝利しようと動くことは出来た。 だいぶまだ差がありますわね」

「……ありがとうございます」

礼は素直に言っておく。

相手が異教は全て悪魔扱いする一神教の魔祓いであっても。

それでも魔祓いとしては侮れないというのは、ケルベロスの話だ。

それで、別れる。

この道場では、多くのことを得た。

もう少し余裕が出てきたら。

また足を運びたい。そう思った。

 

翌日。

日女さんと一緒に、お寺に行く。

自転車があればもう少し楽だと言われたが。燐火は自転車に乗るつもりはない。走ればいいし。

ただ、自転車でも極めると八十qくらいは出せるらしい。

そうなると、下手な車より速いから、確かに便利ではあるのだけれども。そこまでいくのに、かなり鍛えなければならないだろう。

燐火にはそれをやっている時間が、残念ながらない。

いずれにしても二時間ほど歩いて。

途中でダイモーンの気配。

寄り道して、退治していく。

これに関しては、日女さんがやっているところをみたいというので、ついでに付き添ってもらった。

ダイモーンは正直たいした相手ではなかった。ケルベロスが呼び集めている過程で、ここに来る途中だったようだが。

いずれにしてもほぼ人間に悪運を授けてはいなかったようで。

カコダイモーンよりも、ただのダイモーンに近かったようだ。

虚空に文字一発で消し飛んだ。

それをケルベロスが回収して終わりである。

ただ、その辺りにいた不良に悪運を送ろうとしていたようだったので。事前に阻止できたのはよかった。

あの手の輩は、成功体験を積むといくらでも犯罪を重ねる。

だから、事前にひどい目にあっておけば、ある程度自制は出来るだろう。

事実ダイモーンがいなくなった瞬間、たばこを吸っていた一人が、手にたばこの灰を落としたらしい。

悲鳴を上げて転げ回っていた。

もう一人が、笑いながら何か言おうとした瞬間、警察が側に車を止めていた。

まあ、見た感じ中学生だし、補導対象だろう。

県によっては警官がまともに仕事をしないなんて話を聞くが。

少なくともここではまともに仕事をしている、ということだ。

連れて行かれる不良中学生二人。

着替えをそそくさと始める燐火を見て、日女さんが呆れ気味に言った。

「俺も仕事の時には仕事着に替えるが、何というか独特な格好だな」

「顔を隠すためだそうだ」

「そうか。 まあそれで力を高められるのなら良いんじゃないのか」

「ああ、そうだな」

ケルベロスがどうしてか諦め気味である。

燐火としてはよくわからない。

ともかく着替えも終わったので、そのまま寺に行く。

今日紹介してくれるのは、仏教系の魔祓いで、この辺りでは屈指の実力者だそうである。

あまり祖母とは仲がよくないらしいのだが。

日女さんとは仲が良いらしい。

現在では僧職は結婚してはいけないみたいなルールもないので。

それで普通に結婚もしているそうだ。

夫婦そろって魔祓いらしいが。

今回紹介してくれるのは夫のほう。

いずれにしても、とりあえず寺に。そこそこ立派な寺で、綺麗に掃除されているのがわかった。

静謐な空間だ。

道場と空気が似ている。

寺の奥に住居があり、其処で生活をしているらしい。

チャイムを鳴らすと、高校生くらいの女の子が出てきた。まあ随分と綺麗な人である。大人っぽいというか。

ただ、おっとり系ではあるが。

あまり縁がなさそうなタイプの人ではあった。

「あら、日女ちゃん。 お久しぶり」

「久しぶりだ菖蒲姉。 そっちが話をしておいた」

「平坂燐火です。 よろしくお願いいたします」

「菖蒲です。 よろしくね」

燐火の目を見ても別にひるむ様子もないか。

とにかく家に上げてもらう。

家については、日女さんの家と同じで、普通に裕福そうだった。魔祓いはそれほど数がいるわけでもないので。

補助金でそれなりに手厚く保護されているらしい。

結構悪神は日本各地で出るし。

仏教系で退治できる悪霊の類もたくさんいるので。

それらが害を為す前に退治できるのなら、裕福な生活くらいは別にさせても良いと政府が考えているらしい。

そういう話をされて、そうなのかとだけ燐火は思った。

客間に通してもらう。

しばらくして、お茶と菓子をいただく。

割とおいしいが、おとうさんの奴の方が上だな。そう思った。それにこれ、恐らくは手作りだ。

「日女ちゃんは彼氏とか出来そう?」

「いや別に。 俺よりも出来る奴じゃないと興味ないし」

「あら。 学校にはいないの?」

「学校は論外だ。 同業者でも現時点ではどいつもたいしたことがないな。 この間、五人がかりで対処できなかった悪神を俺が魔祓いしてから、周りが腫れ物扱いだ。 俺もまだまだなのに。 女の方だと多少は出来る奴が二人いるんだが」

相変わらずねと、菖蒲さんが言う。

この人は、ちょっと考えがわからないな。

ケルベロスが言うには、魔祓いではあるっぽいが。何が憑いているかはよくわからないらしい。

「菖蒲姉が男だったら結婚したいくらいなんだが」

「まあ。 嬉しいわ。 でもちょっと年が離れすぎかしらね」

「たった四歳だろ。 俺はそれくらい構わねえよ。 相手が年下でも同じだ」

「うふふ、うまくいかないものね」

とりあえず、和やかに話をしていると、どうやら来たらしい。

僧衣に身を包んだ厳格そうな男性だ。

頭を剃っているが、それはそれとして目つきが尋常ではなく鋭い。

怖いもの知らずに見える日女さんですら居住まいを正す。菖蒲さんも、すっと背筋を伸ばしていた。

「林西だ。 今日はよく来てくれたな」

「燐火です。 よろしくお願いいたします」

「うむ」

じっと見られる。

観察されたようだが。一瞬で見透かされたような気がした。

「ほう、冥界の番犬か」

「お前は冥界の関係者か」

「似たようなものだ。 十王と同一視されることもある。 我が名は不動明王」

「ケルベロスだ。 その名はとどろいているぞ」

ケルベロスと、林西さんに憑いている神格が話し始めた。

咳払いをすると、林西さんは言う。

「精神修養について学びたいそうだな」

「はい。 今まで教わったことについて、まとめてきました」

「ほう、聞かせよ」

頷くと、順番に説明する。

実行もしている事についてもだ。

それを聞き終えると、林西さんは腕組みして、ため息をついた。

「その年で即身仏になるつもりか」

「即身仏?」

「生きたままミイラになる究極の修行だよ」

日女さんが教えてくれる。

即身仏か。

それはまた、怖い話だ。

「君の話は既に日女くんから聞いている。 地獄そのもののその目、確かにこの世界に希望など一切もてまい。 更に混沌を深める現在の世界情勢からも、その心があまりよい方向に動かないのはようわかる」

「はい」

「とりあえずもう少し楽しんでもいいだろう。 仏教は悟りに至る教えではあるが、全ての楽しみを排除せよと教えるわけではない。 正しく生きることを重視する思想だ。 そもそもインドでは苛烈な修行で身を持ち崩す行者が多数いた。 それらの体を壊すような修行をすることが本当に正しいのか、という思想から始まったのが仏教なのだ」

なるほど。

仏陀という仏教の創始者について教わる。

苛烈な修行で苦しんでいたとき、かゆをもらい。それで生の美しさを知ったのだそうである。

そういうものだ。

「見たところ、君は何一つ楽しいものがないのではあるまいか」

「そうですね。 正直何か面白いと思ったことはほとんどありません。 興味を持つことはありますが」

「それでそこまで心身を練り上げたのは立派だが、自身の好きなものをしっかり把握しておかないと、とんでもない方向に一瞬で堕落する事がある」

「覚えがある話だ」

ケルベロスがぼやいた。

ギリシャ時代にも高名な哲学者はたくさんいたらしい。

だけれども、ギリシャ哲学はやがて屁理屈をこね回す言葉遊びに堕落していったのだそうだ。

高潔な男が、たちが悪い女に引っかかって、一瞬で堕落してしまったりするのは。ケルベロスも何度も見たという。

「恋を知れとかそういうことをいうつもりはない。 ただ、知識は広範囲に持っておく必要があるだろう。 それと自身の快楽についてもある程度は把握するべきだ。 自身の弱さを自覚できていない人間は、落ちるのも一瞬だ」

「わかりました」

それから、具体的な話に移る。

精神修養についてのやり方についてだが。

堕落とはなぜおきるかを、自分で把握した方が良い、というのだ。

修行だけやって高度な精神的な領域にたどり着いたと思い込んだような輩は、実際にはただ魔道に落ちているだけの事が多いらしい。

それもあって、高僧が般若湯とか言って酒を飲み。子供相手に性欲を発散し。蓄財に励む事は珍しくもない。

これは洋の東西、信仰の種類、関係ない真理なのだとか。

お題目などどうでもいい。

どんな淫祠邪教でも理論武装だけはしているのだそうだ。

だから、実際に人を救うことを実践する。

それだけが信仰の大義であると。

そうとまで林西さんは言い切った。

坊主の筈なのに、ものすごいなとぼやくケルベロス。がはははと、面白そうに不動明王が応じている。

いずれにしても、参考になった。

細かい精神修養についての技術は教わったし、今の話については参考になった。ただ燐火は、はっきりいって男性に興味は持てない。

まだガキだというのも理由の一つだが。

それ以上にやっぱり、あの孤児院での出来事がトラウマになっているのだと思う。

ああいう輩だけではないとはわかってはいるが。

それでもどうにかして、いつかは克服しなければならないことなのかもしれなかった。

 

帰路。

今度は日女さんが、仕事だと言った。

日女さんの場合は、大艸だけあればどうにか出来るらしい。正装であれば更に力を出せるらしいが。

それはそれ、これはこれだそうだ。

今度は燐火が見せてもらうことにする。

燐火には見えない。

とにかく、悪霊がいるらしい。悪神ではないだけまだマシだと、日女さんが言った。

ただ、この国では悪霊が悪神なみの力を持つことは珍しくもないらしいので。

それでも、油断は絶対に厳禁だそうだが。

ともかく祝詞を唱え、そして喝を入れる。

それだけで、空気が変わるのがわかった。

なるほど、まだ技量は桁外れなんだなとわかる。燐火には見えなかったが、この様子からして。

悪霊は消し飛んでしまったのだろう。

「あれは死者の霊という扱いなのか」

「ん? ああ、この国では基本的にそうだな」

「霊と言っても色々だな。 俺の国では、ダイモーンはあくまで超自然的な霊的存在という扱いであったからな」

「そういえばギリシャ圏では基本的に死者は問答無用で冥界行きだったか」

ケルベロスと日女さんが話している。

ほとんど消耗はしていない。

まあ実力もある。この程度の相手なんて、問題にもならないのだろう。

燐火はダイモーンを祓った後、その土地の浄化までは出来ない事も多いので、確かに日女さんがいると助かる。

現時点では、ダイモーンと悪霊および悪神という対応できる存在の違いはあれど。

魔祓いとしての実力は、日女さんが完全に上位互換だ。

まだまだ実力をつけなければならない。

それは強く燐火は感じる。

歩いて、家の近くまで来た。

日女さんは、とりあえず何かあったら連絡しろと言ってくれたので。ありがたく言葉に甘えさせていただく。

燐火としても、まだまだ色々と足りないのだ。

それに、である。

「林西さんの言葉、参考になったね」

「ああ。 信仰には簡単なものと屁理屈をこね回すものがあってな。 仏教はその傾向が強いのだが。 ああいう風に、本来の思想に立ってものをいえる僧侶はなかなかに珍しい。 政治的に権力を得るタイプではないかもしれないが、紛れもなくあれは高僧であるよ」

「ケルベロスの信仰されていた時代もあまり変わらなかったんだね」

「ああ。 堕落神職はいくらでもいた。 今後も、人間が信仰とともにある限り、信仰を言い訳にして堕落し蓄財する外道はいくらでも出続けるであろうな」

いずれにしても、ろくでもない話だ。そう燐火は思った。

家に戻ると、とりあえず教わったことをまとめていく。

それぞれに相互で矛盾している内容はない。燐火でも充分に実践が可能だ。

今の年齢では、まだまだ何かを極めるなんてのは、とても無理。

特に武道やら武術やらなんかは、それこそ老境に入っても極められない人は極められないだろう。

それを考えると、丁寧に土台を作るのは大事だ。

それに、である。

転ぶなら、今のうちに転び方を学んだ方が良いかもしれない。

今回林西さんの話を聞いていて、それはわかった。

わかったが。

どうしたらいいだろう。

悩んでいると、ケルベロスが呆れた。

「そう悩むことでもあるまい。 燐火が好きなものを探して、それで一度大いに失敗してみればいい。 まだ色恋で悩む年でもない。 そうすれば、転び方を学ぶことが出来るだろう」

「そうだね。 林西さんの話は正しいと思う。 委員長タイプの真面目な人が、カスに引っかかって不良になるなんて話よくあるみたいだし」

「それがわかっていればいい。 堕落を受け入れるのは論外だが。 堕落を知って、それをはねのければいいだけだ。 今の燐火ならそれが出来るだろう。 出来るように、今から備えるには、まあ好きなものを作ることからだな」

頷くが。

別に味覚とかでも、「比べれば好き」といえるものはあっても、別にそれで失敗するような事はない。

今の両親は好きだが。

関係を壊すのはまずい。

わがままでも言ってみるか。同年代の子供がやるように。

それで失敗してみるか。

お金が絡む失敗はやめた方が良さそうだ。だとすると、大事なものを何かしらの形で失うのがいいか。

座って考える。

アラームが鳴った。休憩時間を過ぎた。

外で、鍛錬を始める。

雑念の払い方を覚えたからだろう。とにかく、上達が明確に早くなっている。単純動作を順番にこなしていく。

正拳突きを何度か練習した後、拳を実際にたたき込んでみる。

練習用のベニアに、手応え充分にあり。

これは人間にたたき込んだら、普通に骨まで行くな。同年代の子供だったら、内臓が破裂するかもしれない。

抑止力としては申し分ないが。

ただ、まだまだ全然足りないな。

更に拳をたたき込む。

これは、楽しいか。いや、楽しくはない。興味は持てるが、それだけだ。ふっと心が静かになる。

そのまま、淡々と拳をたたき込む。

やがて、ばきりと音がした。

かなりしっかり作ってある打撃用の的だったのに、割れてしまった。

それで、すっと心がまた冷えた。

おかあさんが作ってくれたのに。

そう思うと、どっと後悔が来る。

ダメージが入っているのはわかっていたのに。そう思うと、とても申し訳ないことをしたと。

燐火は思った。

 

何かを壊したことに対して、それほど罪悪感は感じない。

本物の悪人を見てきた燐火だ。

悪人相手だったら、身を守るためだったら何をする覚悟でもある。

だが、やっと出来たと今ならわかるまともな家族が用意してくれたものを、なんとなしに破損させてしまった。

意味があってやったことではなかった。

それが、とても神経に来た。

おかあさんに事情を告げて謝る。

おかあさんは現物を見て、それでため息をついていた。

「もう少し長持ちすると思ったのだけれどね」

「ごめんなさい、おかあさん。 無心で正拳突きを入れていたら、興味がどうしても出てしまって」

「ああ、いいのいいの。 これは壊れる事を前提で作っているから。 ただ、小五で壊されるとは思っていなかったのよ」

「そうなんですか。 それでも調子に乗ってしまっていたと思います」

自省の念が強い。

そして、やっと少しだけ理解する。

これが林西さんの言っていた感覚だ。

人生全部うまくいっていた人は、おそらくこういう感覚すらも味わったことがないのだと思う。

本当に邪悪な人間が持っている闇を見たこともなければ。

失敗したとしても、顧みることすらない。

だから、いざ闇と相対したとき。

簡単に落ちてしまうのだろう。

おかあさんが物置から、色々出してくる。

そのまま燐火も手伝って、前よりも更に頑丈な的を作る。そして、おかあさんが手本を見せてくれる。

ずんと、すごい音がした。

「相手がゴリラでもない限りは、これくらいの打撃を入れれば、悶絶して動けなくなるものよ。 人間の体というのはもろくてね。 筋肉なんてどれだけ鍛えたって、質量弾の前には無力なの。 どうしてもおかあさんも腕力では体格に勝る男には勝てないけれど、それでもやりようによっては勝つ手段がある。 それを理解するために、これはあるの。 壊れてしまった分は、燐火に色々教えてくれたのだと思う。 だから、感謝してあげて」

「はい」

壊れてしまった分は、そのまま分解する。

そして、どうにもならないベニヤの部分はゴミとして出す。

使える部分は、とっておいて。

そのまま、次の的に再利用した。

今度は漠然とした的ではなくて、人体の形状にする。

「出来れば動く的が良いのだけれど、燐火の年だったら、まだ動かない的の方がいいかな。 ただ、今度のは見て」

的の支えに柔軟性が持たされている。

つまり実際の人間と同じように、棒立ちではないということだ。

棒立ちの相手だったら、今の燐火でも内臓にまで痛打を入れられるとおかあさんは説明してくれる。

だが、相手が棒立ちではない場合は。

そう簡単にはいかないそうだ。

「格闘技の知識がある人間なんかは、どうしても攻撃を受け流してくる。 そうすると、筋肉の壁がちゃんと意味をなしてくる。 銃弾とかが相手になってくるともうどうしようもないけれど、人間の拳なんて、ボクシングのヘビー級のチャンプでもせいぜい六十q程度しか出ない。 そんなものだったら、人間の動きでいくらでも緩和できるのよ」

「そうなんですね」

「だから、緩和した上でも通るように打撃は練習する。 まあ、言うよりも実際にやる方が早いわ。 見本を見せておくから、自分で練習しなさい」

「基礎から応用に移行だな。 ミスを発展につなげることが出来た。 それだけでよしとしよう」

ケルベロスも言ってくれるが。

これはひょっとして。

燐火の運勢を操作して、燐火がへこむような、実際にはたいしたことでもないミスをするように仕込んでくれたのか。

だが、それが仕込みであったとしても。

燐火は感謝するしかない。

おかあさんが手本を見せてくれる。

今までとは別次元に動きが速くて、打ち込んだときの音も、ドスンとすごかった。

これは暴漢を黙らせるのも難しくないわけだ。

ただ、これでもナイフ持ち相手だと厳しいという話である。

鍛えることには限界があるな。

それは燐火も、よく理解できた。

とにかく、失敗をすること。

それの意味は少しだけだがわかった。

今後、更に大きな失敗をするときに備えて、今回のことはしっかり覚えておかなければならなだろう。

まだまだ世界には悪意が満ちている。

そもそもカコダイモーンは、あれは人間を堕落させるのではない。

堕落している人間を、更に加速させるものだ。

これに関しては、日女さんが相対している悪神や悪霊などもほとんど同じであるらしい。

基本的に堕落した人間か。

それとも弱っている人間を狙う。

堕落している者を更に堕落させ。

悪人を更に悪に走らせ。

弱っている人間を更に弱らせる。

そういうものだそうだ。

おかあさんの指導を受けながら、的に正拳をたたき込む。

今までの武道の練習で得た動きを、全て活用するが。まだ燐火の練度では、おかあさんみたいな強烈な音は出ない。

本当に人を殺せる音だ、あれは。

燐火のは、まだよくて同年代、少し年上の男子を悶絶させて、白目むかせる程度である。

「よし、基礎はかなりよくなってる。 このまま、おかあさんがいない間も、基礎を積み重ねて、少しずつ応用をやっていこうね」

「はい」

「まあ、この程度のミスでこれだけ反省できるなら、それはよかった。 何やっても間違いを認めないような最低の人間にならないことがおかあさんの願いだ。 だから、燐火はきちんと育っているよ」

それについては、ちょっと寂しい。

まだケルベロス以外の相手には、敬語を崩してしゃべることが出来ないし。

ろくに笑顔だって浮かべることは出来ない。

何度も鏡の前で練習しているのだけれども。

どうにも上手に表情筋を作れないのだ。

何よりも、相手に笑顔というのをどう浮かべて良いのかよくわからない。それが一番問題なのかもしれない。

欠落している燐火だが。

今日、一つ学びを得た。

ただ、もっとまずい深淵を、見るのではなく体で早いうちに味わった方が良いのかもしれない。

それについては、なんとなくわかったのだった。

 

4、今時の魔祓い

 

西宮菖蒲は魔祓いである。仏教系の魔祓いとしてはかなり若く、そして将来を期待されるものだ。

今日は会合に出ている。

ある寺の堂を使って、円座を組んで話をしていた。側で見下ろしているのは千手観音の像だ。

周囲の者は、頭を剃っているものとそうでない者が半々。

その中で、学校から直帰してきた菖蒲はちょっと格好では浮いていたかもしれない。

まだ女子高校生だが、菖蒲は非常に美しいと同業の間でも評判だ。学校でも評判の美少女が、とか言われるし。

本人もそれを意図的に武器にしているが。

それを利用して男あさりをするつもりは菖蒲にはない。

魅力を活用する気はあっても。

堕落する気はないからだ。

仏僧は昔から、堕落とは縁を切れなかった。これは他の信仰でも僧侶がそうであったのと同じだ。

高度な理論で武装する仏教だが、だからこそ周囲を煙に巻くことも簡単になる。

本場のインドでは、あまりにも難しすぎること。

それに何より、仏僧の腐敗もあって、ヒンドゥーに後れをとることとなった。

アジア全域に広がった仏教だが。インドでは今や少数しか信仰するものがいないのも。

それだけ腐敗が著しく。

人々の心を集められなかったからである。

ちなみに今回の会合は、高校生から大学生くらいの魔祓いが集まっているが。

魔祓いは才能の世界なので。

年齢はあまり実力と関係がない。

今回はただ、情報交換が目的だ。

「最近活動しているギリシャ系の霊ダイモーンについてだが、情報が得られた。 どうもギリシャ系の神格が迷い込んでいて、それがばらまいているようだ」

「ああ、確か西宮が対策に出張ってきた神格と接触したとか」

「正確には紹介してもらっただけですよ。 私が接触したのはケルベロスの力を借りている子でした。 ギリシャ風に言うなら聖人。 女性の聖人だからアギアとでもいうべきでしょうかね」

「どんな奴だった」

周囲がデリカシーもなく聞いてくる。

菖蒲はちょっといらだった。

燐火の事情は日女に聞いて知っている。

だから、適当に説明だけをする。

「いやあ、あれはちょっとなかなか見ないほどあれた環境にいる子ですね。 目が完全に地獄でしたよ。 笑顔を一つも浮かべず、周囲に敬語でしかしゃべらない。 紹介してくれた子の話は聞きましたけれど、ちょっとこの世の業を煮詰めたみたいな環境で育ったみたいですね」

「力不足ではないのか」

「あの年としてはできすぎるくらいですよ」

というか。

ここで雁首そろえている連中よりも出来る。

菖蒲にはまだまだ及ばないが、それも二年後にはどうなっているかわからない。それくらい出来る子だ。

あれはケルベロスに選ばれて魔祓いをしているタイプだが。

ケルベロスが目的を達成するなりしていなくなっても、他の神格が即座にほしがるくらい器として優れている。

仏教系に勧誘したいくらいだが。

はてさて、乗ってくれるかどうか。

それに、だ。

所作が小五のものではなかった。

育った環境が悪すぎたというのもあるが、とにかく全くというほど子供らしくない。

菖蒲の年だと、既に実際には大人も同然。

子供だってその気になれば産める。

それについては、父からも厳しく言われている。

その年だと、簡単に魔道に魅入られる、と。

それは菖蒲も理解している。

ひょうひょうとしている菖蒲だが、それでも父に厳しく色々言われて育ってきたし。今ではそれが真だとわかっている。

多数の悪霊を魔祓いしてきたからこそ。

人間の闇は見てきているのだ。

この間なんか、たちが悪い半グレに十四で孕まされ、人生を滅茶苦茶にされたあげくに飛び降り自殺した女の子の悪霊を成仏させたが。

成仏させる過程で、カス野郎に如何にして滅茶苦茶にされたかを全て見た。

なお、カス野郎には、その後菖蒲が憑いている愛染明王が仕置きに行った。

翌日、バイクで飛ばしているところをブレーキが利かなくなり、停車中のタンクローリーに突っ込んで炭も残らず消し飛んだが。

それもまた自業自得。

生きているだけで周りに害を為す輩だ。

死んだことで、心が痛むことはない。

「いずれにしても小五だと聞く。 支援が必要だろう」

「それなら私と神道系の手練れがつきます。 説得次第では、一神教の手練れも手伝ってくれるかもしれませんね」

「……そうか。 ならば頼むぞ」

会合が終わる。

それにしても一人、ずっと菖蒲の胸と足下ばかり見ていたな。あれは近いうちに守護している十二神将の一角に見放されるだろう。

堕落はすぐ近くにある。

こういう場所で会合を行うような魔祓いでもだ。

さて、帰るか。

帰り道に、変な男が絡んできた。既にナンパという行為は都会では絶滅したらしいが、この辺りではまだたまにある。

フルシカトすると、流石に傷ついたようで、悪態をついて去って行った。

愛染明王が、いらだっているようだった。

「あの若僧どもは駄目だな。 どいつも実力も修行も足りておらぬわ。 菖蒲、おまえが頼りだ。 くれぐれも堕落はしてくれるなよ」

「わかってる。 私も色々見てきたからね。 あっち側に行くつもりはないよ」

「……そうだな」

「ただ、結婚して子供は作りたいかな。 まっとうな相手と、だけれど」

別にそれは堕落には当たらないだろう。

愛染明王も、それを否定するつもりはなさそうだ。

途中、日女から連絡が来た。

あの後、燐火と合同で魔祓いをしたが、やはりかなり腕が上がっているという。

この様子だと、ダイモーン騒ぎが終わった後には、燐火の争奪戦が始まるかもしれない。

その時のためにも。

今のうちに、もっと強めにコネを作っておいた方が良いかもしれない。

そう、菖蒲は思った。

 

(続)