魔法の杖と剣の道

 

序、戦うことはしなくとも

 

拾ってきた鉄パイプを燐火が見せると、おかあさんは微妙な顔をした。どうしてこんなものをと顔に書いていたが。

大事そうにしているのを見て、人に向けたり振るうなと念押しして。それで、捨てることはなかった。

それから、鉄パイプを大事に磨いた。

なんだかんだでちょっと気に入ったのだ。

燐火としても、重さ的にちょうど良いので、体を鍛えるのにもいいと思った。

武道の鍛錬をするようになってからわかったけれど。

重心がちょっとずれるだけで、体は鍛え方が足りないと簡単に傾く。

体幹を鍛えるには、しっかりと重いものを普段から扱う方が良い。

握力が鍛えてもあんまり変わらないとしても、他の体の部位は鍛えられる。

それで、鉄パイプを丁寧に手入れする。

おとうさんもそれは知っているらしく、あまり乱暴には扱わないようにと釘を刺したけれど。

燐火が危ないことには使わないと信頼してくれているのだろう。

それもあって、以降は何も言わなかった。

鉄パイプは汚れていたけれど、程なくぴかぴかになった。

後は、手入れをする。

さび止めのお薬をお小遣いで買ってきて、それを塗る。

その後は、持ちやすいように、合成皮を接着剤で貼り付けた。

そうして、無骨な鉄パイプが、燐火から見てどんどん格好良くなっていく。ちょっと満足した。

「良い感じ」

「そうか。 燐火が気に入っているのなら何よりだ」

「うん」

燐火が何にも興味を見せなかった、ということもあるのだろう。

それもあって、ケルベロスは丁寧に鉄パイプを手入れする燐火に対して、ああだこうだというつもりはないらしい。

本来はお水を通すためのものらしいけれど。

試しに何度か振るってみたけれど。

これは使い方次第では、簡単に人間の頭をたたき割ることが可能だろう。

いざというときには、人間に対しても、護身の切り札として使えるのではないかと燐火は思う。

どうしても体術だと限界がある。

おかあさんでも、体格がずっと大きい男性がナイフとか持っていると、制圧は難しいと言っていた。

そういうものなのだ。

いずれにしても、武道の鍛錬を続ける。

ついに、この間道徳のドリルが終わって、同学年の生徒に対するハンデがなくなった。ただ、他にもまだわからないことがある。

それも、誰でも知っているようなものが、だ。

スマホに関しても、たまにおかあさんのを触らせてもらって、機能について覚えていくようにする。

これは周りが使っているからで。

そういう点で、ハンデを抱えないためだ。

ただし、自分の子供用スマホを基本的に用いる。

責任を持てる年になったら、そういうものは使えば良い。

それは燐火にもわかっていることだった。

だから、今は周りへのハンデを一つでもなくす。

後は感情だろう。

とにかく、面白いと思うものを探せ。

そうケルベロスに言われて。色々試してみるのだけれど。

ゲームはあまり面白いと思わない。

本もしかり。

興味深いことはあるけれど、その先に行かないのだ。

涼子の家にお邪魔させてもらうと、ぬいぐるみとか結構あったりするのだけれども。そういうものをほしいとはまるで感じない。

身を飾ることも基本以外は興味がわかないし。

後は自分で何か見つけていくしかないのだろう。

時間になったので、鍛錬も切り上げる。

それから、宿題などの漏れがないことをチェック。ケルベロスが、ちゃんとできていると教えてくれる。

それだけで、かなり心強い。

「後は涼子さんに追いつくくらいは勉強ができると良いんだけれど」

「あれは優秀だ。 何も考えていない周囲の子供と比べると浮いているが、涼子のような人間と仲良くなっておくと後で色々と利がある」

「そうなんだね」

「悪友やろくでもない恋人の影響で堕落する奴はいくらでもいる。 そういう例をいくらでも見てきた。 たくさん友達を作る必要はない。 大事な友達を一人でいいから作っておけ」

頷く。

涼子はこっちを悪くは思っていないようだし。

燐火が変なことをしなければ、それで関係はうまくやっていけるだろう。

後は、わがままを言ってほしいみたいなことをたまにおかあさんに言われたりするのだけれども。

ちょっとおとうさんもおかあさんも忙しい様子を見ていると。

わがままなんていうつもりにはなれない。

宿題が終わったところで、メールが来る。

日女さんだった。

「燐火、今何してた」

「宿題が今終わったところです」

「真面目だな……」

「両親に迷惑をかけられませんので」

それに、勉強も遅れていたし。

今後何があるかもよくわからないから、勉強はしっかりやっておく方が良いだろう。ケルベロスも、無駄になる勉強などないと言っていたっけ。

「どうかしたんですか」

「面倒な奴が街に来る。 前に俺とちょっとやらかした奴でな。 顔写真は送っておくから、気をつけろ」

「わかりました」

写真が送られてくる。

ええと、これは確か貫頭衣とかいうのか。

見覚えがある。

確かキリスト教だかのシスターとかいう人が着ている奴だ。

目が青くて、自信満々の表情。

海外の人らしい。

うげっとケルベロスが声を上げる。

「一神教関係者の魔祓いか」

「嫌いなの?」

「嫌いもなにも、俺を地獄の番犬とか勝手に決めつけて、悪の存在に仕立て上げたのはこいつらだ」

「そう……」

地獄の番犬呼ばわりがケルベロスの地雷であることは知っている。

ケルベロスがいうには、ギリシャ正教とかいう代物で、ギリシャの神々の信仰を徹底的に否定したあげく。

全部悪魔呼ばわりして、散々におとしめた怨敵だという。

その後はイスラム教というのが入ってきて、更に滅茶苦茶にしたらしく。

キリスト教もイスラム教も、ケルベロスからすれば反吐が出るほど嫌いな相手以外の何者でもないそうだ。

「来るってことは、鉢合わせる可能性もありそうだね」

「面倒なのはこいつらは極めて独善的だということでな」

「独善的」

「自分たちの神以外は全部悪魔と言っている連中だ。 魔祓いであろうと、それは同じだろうな」

なるほどね、それは厄介だ。

実際、あの金木の一族は自分らを正義だと最後まで信じて疑わなかった。後から聞かされたが、金木の屑娘は自分は何も悪いことはしていない。いじめられるような奴が悪いとわめき散らしていたらしい。

そして少年院を兼ねた精神病院に入れられてからも、ずっとこれは不当な扱いだとわめき散らしているそうだ。

正義なんてそんなものである。

ましてや主観の正義は。

客観と主観の概念を知ってから、人間の主観が如何にいい加減で常に客観を考えなければならないことはわかったし。

そういう観点からすると。

お気持ちお気持ちで騒いでいる人間が、如何に愚かで滑稽かもどうしても身にしみてわかってしまう。

こざかしいかもしれないが。

燐火からすれば、被害を受けたのだ。

他人事でもないし。

こざかしかろうが、譲れないところだった。

「ただ、全員がそうでもない。 とりあえず、実際にあって確認をしてみるといい。 一神教に誘ってくるようなら断れ」

「うん」

「全く厄介だな。 一神教は現在世界で最も信仰している人数が多い宗教だ。 それもあって、どうしても独善的な輩は幅を利かせる。 人間という生物は、ずっと進歩しないものだな」

ケルベロスが悲しそうに言う。

燐火は、それに対して、何も言うことができなかった。

 

翌日。

涼子と一緒に歩いて帰っていると、ものすごいロングヘアの金髪のお嬢様が、使用人らしい人を連れて歩いていた。

ブランド品らしい服に身を包んでいる。ロングスカートを翻して歩いているが。外国人であり、育ちも違う。だから実際の年齢はよくわからない。

なんだあれ。

だが、顔を見て思い出す。

あいつだ。

ケルベロスが、うげっと呻いた。

「やはり天使憑きか」

「天使ってあの羽が生えてわっかがついているきれいな女の人?」

「それは後に作られたイメージだな。 天使は本来ゾロアスター教という宗教で生み出された概念で、一神教に取り入れられた頃には無数の翼に大量の目がついているような怪物然とした存在だった。 それが宗教的なシンボルとなり、美しい姿に変わっていったのだ。 それでも基本は両性具有であるのだがな」

両性具有。

確か男でも女でもあることだったか。

ケルベロスが、眠れないときとかに、寝物語にギリシャの神々のお話をしてくれる。

そういうときに、たまに出てくる言葉だった。

涼子もちょっと驚いたようだ。

黙々と道を歩いて、すれ違う。

一瞬だけ目が合った、

相手がこちらを見たのがわかった。

ふんと鼻を鳴らしたようだった。かなりいけすかないと思ったけれど、まだ話したわけでもない。

とりあえず、今は関わらないなら、それでいい。

涼子と今の人について話す。

「すごいきれいな人でしたね」

「だけどなんだか感じが悪かった。 見下している感じだったよ」

「それはそうでしたね」

「きれいだけれど、友好的ではない海外の人は苦手かな」

それは、仕方がないと思う。

日本で悪さをする海外の人は、どうしても最近目立つ。燐火も時々そういう話は聞くくらいである。

それもあって、涼子の口からそういう言葉が出るのも仕方がないのだと思う。

燐火はあまり良い印象がないらしい日女さんから話は聞いていたから、まあそれについては事前にわかっていたし。

どうでもよかった。

とりあえず分かれてから、自宅に向かう。

小走りで行く。時間が惜しいからだ。

ケルベロスが教えてくれる。

「あれについているのは中級天使だったな」

「天使に中級ってあるんだね」

「今の時代では、天使は九階級に分かれ、上級中級下級がそれぞれ三段階に更に分かれている。 あれに憑いていたのは、中級一位ドミニオンだ。 かなり強力な天使に分類される存在だ」

一位からの順番になるとすると。

全部の中で、上から四段階目になるのか。

燐火がふうんと思っていると、ケルベロスは言う。

「人間の会社で言うと、一神教の神を会長として、社長や取締役が上級一位。 中級は部長から課長くらいだ。 ドミニオンが憑いているということは、あれはかなり一神教の神々から愛されている存在のようだな。 あんな性格が悪そうな奴が、か」

「まだ話してみないとなんともわからないよ」

「……そうだな」

家に着く。

またメールが来ていた。日女さんからだ。

今日、問題の人が来たらしい。

帰り道で会ったと告げると、もう会ったのかと、面倒くさそうに日女さんは言う。

「以前の仕事で、日本の悪霊にあいつご自慢の天使の力が通じなくてな。 それで勝手に俺をライバル扱いしている。 面倒な話だ」

「それで押しかけてきたんですか」

「最近お前が関わっているダイモーン関係の事件が相次いでいるだろ。 それでちょっかいを出しに来たらしい。 あいつは財閥の御曹司らしくてな。 それもあって、無理も利くそうだ。 魔祓い……エクソシストとして一家全員が天使の加護を受けていて、それぞれ本職だって言う話だから、まあたいした一家ではあるんだろうな」

エクソシスト。

ケルベロスが、一神教の悪魔祓いだと教えてくれる。

とはいっても、一神教では他の宗教の神をことごとく悪魔呼ばわりしているので、あまり良いイメージは抱けないそうだが。

「一瞬だけ目が合いました。 おそらく、ケルベロスのことを認識されたと思います」

「はあ。 どうせうちに来るだろうから、話はしておく。 バチカンから来てるイタリア人だが、日系の血が入っているらしくて日本語は堪能だ。 言葉による行き違いはないだろう」

先輩に任せておけ。

そう日女さんがいうので、そうさせてもらう。

いずれにしても、ずっと年上に見えたし、魔祓いとしての経歴はずっと向こうの方が上だとみて良いだろう。

ちなみに名前はカトリイヌというらしい。

カトリーヌではなくてカトリイヌだというこだわりがあるそうなので、そういうものかと思って覚えておく。

黙々と帰ってからのルーチンをこなす。

宿題は最近は、すぐに終わるようになった。勉強に追いついたこともあるし。今やっていることが問題なくできるというのも大きいだろう。

分数の割り算で周囲が苦戦していたが、実際の数字に直して考えてみるとわかりやすいと言われて。

試してみたら、あっさりできるようになった。

分数の割り算に苦戦するかどうかが算数の分水嶺らしいので。

これを楽に突破できたのは、今後のためになるだろう。

黙々と勉強していると、おかあさんが帰ってきた。

この間半グレだかが車ごと吹っ飛んだ事件の余波で色々忙しかったのが一段落ついたらしい。

ケルベロスは、ああしなければもっとたくさんの人が不幸になっていて。警察の仕事ももっと大変になっていたといってくれたが。

それでもちょっと申し訳なさはある。

あの事件の後、クラスにいた金持ちの子が一人消えた。

転校していったのだけれど、先生は何も言わず。すっといなくなったので、燐火にもだいたい事情はわかった。

おかあさんは帰ってくると牛乳を飲むので、燐火が先に出しておく。

コップも渡すと、おかあさんは言う。

「ありがとねー。 助かるわー」

「お風呂も沸かしてきます」

「……」

ぐったりしているので、やっておく。

昔はガス湯沸かし器での火傷事故もあったという話だけれど。

今は自動で適温まで温めてくれるので、そういう恐れはなくなっている。

大変に助かる。

燐火でも、ボタン一つでできるからだ。

お風呂にお湯が入っていることを確認して、追い炊きにセット。後は、待っているだけでいい。

この程度の作業でも。

疲れ切っている人には、重労働だったりするのだ。

お風呂がわいたので、お母さんが入りに行く。

色々問題があったのだろうから、それについては何も聞かない。おかあさんも、燐火に愚痴を言うほど落ちてはいないようだ。

おとうさんはまだ配信だ。

こっちもこっちで家の大黒柱。

この家も、二年ほどで買ったらしいので、かなり稼いでいるのは間違いない。

実際問題、おとうさんの配信。

最近テレビで見た「漫才師」だか「若手お笑い芸人」やらの番組より、ずっと面白いし。

これに関しては、学校でもそういう話をしているようで。

今はテレビなんて誰も見ていない。

アニメですら、親が登録したアニメを配信しているチャンネルで見ていることが多いようだった。

だから、おとうさんの仕事も邪魔はできない。

おかあさんがお風呂から上がってきたので、適当にご飯をレンジでチンする。

こういう生活だから、炊いたご飯は基本的にパックに入れて、冷凍してあるのだ。それをチンする。

後は出来合が用意してあるから、一緒に食べる。

まあ出来合でもおいしいものはおいしいので、不満を感じたことは一度もない。

無言でもそもそ食べているおかあさん。

ちょっと申し訳なさそうだった。

「なんだか情けないわ。 自分で手本を見せないといけないのに」

「おかあさんが手本を見せてくれたからできるようになりました。 もっと色々できるようになります。 ドリルも終わったので、今後は時間をとれるようになりますし」

「そう、心強いわ」

「ありがとうございます」

おかあさんは色々限界なので、食べ終わると寝に行く。それを見送ると、燐火は宿題をチェック。

忘れがないかを確認してから、後は軽く体を動かしておいた。

今日のおとうさんの配信は、深夜まで続くものだ。

耐久配信だからかなり厳しい内容だけれども、それで生活が支えられているのだから、燐火は仕方がないと思う。

おかあさんもそれを理解している。

ただ、たまに不満そうな顔はしているけれど。できれば、関係が壊れてほしくないと燐火は思っていた。

 

1、お嬢様は傲慢シスター

 

クラスの席が空いても、誰かが代わりに来ることもなかった。少なくとも、あの一神教の魔祓いだという人は転校はしてきていない。

授業を受けた後は、休み時間で内容を反復。

確実にものにしていく。

他の生徒はスマホで遊んでいるが。

燐火は必要がなければスマホには触らない。

周りはそれを苦々しく見るようだが。

燐火はあわせるつもりはない。

自分は自分。

他人は他人だ。

とりあえず問題はない。算数は今の時点ではかなり勉強を進めているので、確認だけで大丈夫だ。

ちょうど日女さんから連絡が来たので、見ておく。

この間日女さんと話していたら、男子が引きつった顔で逃げていった。

なんでも日女さんは不良が青ざめて逃げるほどの武闘派らしく、中学でも一年で三年の不良生徒をあらかた「シメた」らしい。しかもシメられた不良女子生徒が呼んできた高校生の男子を返り討ちにしたらしくて、触ってはいけない存在扱いされているとか。

まあ、見ていてすごい実力はあるのはわかる。

燐火も武道をかじっているからだ。

それで男子は、まるで大魔王のように恐れているわけだ。

黙々と日女さんのメールを見ておく。

「この間来たカトリイヌな。 しばらくはこの辺りに滞在するつもりのようだ」

「それは厄介ですね」

「そうだな。 ただあいつは海外の学校を飛び級で出ているらしくて、学校に入ってくるつもりはないらしい」

「そうですか」

飛び級、か。

色々問題はあるが、できる人を抜擢する制度ではあるらしい。

ただそうやって抜擢された子がうまくやれるかは話が別。とても頭が良い子が、大学を出た後ことごとくうまくいかなくて。

結局小学校の先生に納まった、なんて話もあるそうだ。

更に言うと、裏口入学だとかいうのもあるそうで。

実態とはかけ離れた飛び級も当然行われることがあるのだとか。

そういう話を聞いていると。

いかにもお金持ちなあの人も、飛び級しているからすごいとは一概には言えないのだろうとは思う。

「この辺りで一神教の悪魔が暴れているという話は今の時点では八幡様も感知はしていないが、一神教の関係者は他の信仰全てを悪魔扱いしている。 ケルベロスに聞いたかもしれないが、お前のところの神様もだ。 なんか絡んでくる可能性はあるから、面倒だと思ったらさっさと逃げろ。 飛び級はしていても、あいつは運動音痴だ。 お前なら逃げられるだろう」

運動音痴といっても、中三を中一で「シメる」ような人基準の運動音痴だから、実際にはどうだかはわからないが。

ともかく、話はわかった。

授業を受けて、夕方に帰宅する。

涼子と色々話す。

やっぱり相当に勉強はできる。わからないところを聞くと、すらすらわかりやすく答えてくれる。

「なんだか派手なシスターが来ているのを見たけれど、この辺りに教会なんてあったかな」

「色々歩き回りましたけれど、それらしいものは見ていませんね」

「そうよね。 それともこれから建てるのかな」

「!」

足を止めた。

背後に気配だ。

振り返ると、例の「派手なシスター」がいた。

高校生くらいかと思っていたのだが、なんと日女さんと一つだけしか変わらないという。

発育がいいと言うことなのだろう。

じっと燐火を見ている。

左右には、黒スーツのサングラスの人が控えていた。

涼子が明らかに困惑している。

巻き込むわけにはいかないだろう。

「涼子さん、先に帰っていてください。 この人は燐火に用があるようです」

「ちょっと大丈夫なの」

「大丈夫です」

まあ、何かあったとしても、少なくとも血を見るような事態にはならないだろう。そこまでは心配しなくても大丈夫だ。

涼子を先に戻らせると。

漫画に出てきそうな美貌のシスターは、ふっと笑う。

昨日と違って、髪の毛はかぶっているものに押し込んでいるようだったが。

「邪教の犬を身に抱えているのは貴方のようですわね」

「日本語が堪能ですね」

「オーッホッホッホッホ! 八カ国語を操ることができる私には、これくらいは昼飯前ですわ!」

「朝飯前ではありませんか?」

うっと呻くシスターの人。

左右の黒スーツが口を引き結んだが、これは笑うのをこらえたのかもしれない。

大げさに咳払いするカトリイヌさん。

いずれにしても、友好的ではなさそうだ。

「それで燐火になんのようですか」

「そこの地獄の番犬を……」

「俺は地獄の番犬ではない!」

ケルベロスがキレた。

まあ、一神教徒がその嘘をばらまいたらしいし。それはそう言われれば怒るだろう。

ペラペラしゃべっていたカトリイヌさんがひっと悲鳴を上げて棒立ちになる。見てわかったが、体幹は本当にたいしたことがない。

タッパはあるが、多分格闘戦なら燐火でも勝てる。

問題は左右にいる黒塗りのサングラスおじさんたちで、こっちは本物だ。燐火どころか日女さんでも勝てないだろう。おかあさんでも一対一で勝てるかかなり怪しいとみた。

「おい、ドミニオン。 そのスットコ女に憑いているのはわかっている。 さっさと姿を見せろ」

「ふん、番犬風情がよく吠えるな」

「お前程度の天使が相手なら敵ではないからな」

険悪なやりとり。

同時に、天秤を持ったゆっくりした服装の男の人がカトリイヌさんの背後に現れる。

これが守護天使、という奴だろうか。

背中に翼。

頭にわっか。

でも、女性的ではなくて、男性的だ。

「何をしに来た主天使風情が。 ケルビムくらいになれば相手にもなるが、お前は所詮中級。 俺の敵ではないが」

「そうですね、確かに力をぶつけ合えば貴方の勝ちでしょう。 ただ、この国で異変が起きている。 お前の国の邪神が原因でしょう」

「邪神だと。 お前らにとっては全て邪神で悪魔かもしれないが、ただの迷子だ。 お前らに介入されるいわれはない」

「そうもいかないのですよ。 邪神は全て滅するのみ。 今回は威力偵察に来ています。 あなた方が悪事を働くようなら、即座に本隊が来られるように見張る。 それが私の役割なのですよ」

しばし殺気のこもった応酬が続く。

その間に燐火は、鉄パイプを取り出しておいた。

それを見て、明らかに引くカトリイヌさん。

こっちは自衛のためだ。

相手は超格上の護衛が二人ついている。カトリイヌさんの頭をたたき割るだけだったらすぐに終わるだろうけれど。

あの二人を相手にするなら、これでも心細いくらいなのだ。

「ちょっとドミニオン様! 普通の子供と聞いていましたわよ! これではまるで噂に聞く鎌倉武士ですわ」

「明らかに偏った知識ですね」

「だまらっしゃい! 三つも年上の相手の言うことはきくものですわよ! しかも私は大学を既に出ているのですから! 社会人ですのよ!」

「……」

呆れてしまう。

社会人だったら、もっと理性的な話をしてほしい。

いきなり二人黒服のサングラスおじさんをつれて現れて。

あわよくばケルベロスをやっつけるつもりだったのが見え見えだ。それとも、それが社会人のあり方とでもいうのだろうか。

そんなルールは知らないし。

あったとしても従うつもりはない。

世の中には人がたくさん死んでいる状態でも、法が優先で、其処に助けに行くことは悪だとかいう人がいるらしいけれど。

そんな法は法じゃない。

金木の一家みたいなのを守るためにあるような法なんて。

びりびりに破って捨ててやる。

ともかく、醜態をさらしているカトリイヌさんの頭に、ぽんとドミニオンが手を置いていた。

「忠実なる主のしもべよ。 とりあえず相手が神の威に従わぬ存在であることはわかりました。 ここは一度引いて、様子を見るとしましょう」

「そ、そうですわね。 デウスレウールト! 許しませんわよ邪神の巫女! いや邪神の駄犬の巫女! いずれはけちょんけちょんにして差し上げますわ!」

「カトリイヌお嬢様、旦那様からあまり無体はしないようにと仰せつかっております。 ましてや相手は小学生です。 高圧的に接することは、淑女のあり方ではないと思われます」

とうとうつれていた黒服サングラスおじさんにまで言われて、顔を真っ赤にして黙り込んだカトリイヌさんは。

知らない言葉で何か言うと、大股で歩いて行ってしまった。

ドミニオンすら呆れ気味だった。

黒服サングラスおじさんが一人残る。

若い方がカトリイヌさんを連れて行ったけれど、年かさの方のおじさんだ。

発音が色々と怪しかったカトリイヌさんと違って、日本語がとても流ちょうである。

「失礼しました。 カトリイヌお嬢様はどうにも勘違いと思い込みが激しいお方でして。 今の時代は、我が家でも他の信仰の魔祓いと連携して行くことが大事だと常に言っているのですが」

「ほう、面白い冗談だ。 さっきのはラテン語が語源の宣戦布告に用いる言葉であるだろう」

「お恥ずかしい話です。 なんでも「格好良いから」という御理由でお気に入りにしておられるのです。 失礼であったことはお詫びいたします」

この人にも天使が憑いているようだが、燐火には何が憑いているかはわからなかった。ケルベロスの声が聞こえているようなので、それなりの存在ではあるのだろう。

名刺を渡される。

一神教でも魔祓いは国の支援を受けているらしく、バチカンがその中心地の一つであるそうだ。

この人は理性的だな。

そう思って、少しだけ安心した。

名刺を受け取って、後は戻る。鉄パイプをもっておいてよかった。とりあえず大事にしまって、それで帰る。

涼子にメールを家で送る。

やはり、かなり心配していた。

「大丈夫だった!?」

「大丈夫です。 あのお姉さんはちょっと興奮していましたけれど、黒服のおじさん達は理性的で、宥めてくれました」

「そう、よかった。 無理はしないでよ。 ただでさえ鉄パイプとか持ってて怖いとか言われてるんだから」

「人には使いませんから問題ありません」

もっとも、殺すつもりで襲ってきたら、躊躇なく使うつもりだが。

金木のあれに放り落とされた。

それから時間がたって、今になってやっと理解できている。

身は守らなければならないと。

だから、身を守れるようにはしておく。鉄パイプくらいは、常に携帯して。最悪の場合、相手の頭をたたき割るくらいの覚悟はいる。

剣道についてもそろそろ習おうかと思っている。

真剣を振り回すのは無理があっても、ケルベロスの話によると、鍛錬をしないと剣の類いはまともに扱えないらしい。

今はそれなりに体が動くようになってきているけれど。

体術だとどうしてもタッパからしても限界がある。

それもあって、武器を使えるようにする。

それが今後は必須だと燐火は思っている。

ただ、おかあさんはあの忙しさだ。柔道と合気、それに空手を自己流でやっているけれども。

これに剣道となると、ちょっと道場にでも通わないと駄目だろう。

それについては、お願いでもすることになるか

黙々と宿題を終えた後、どれくらい時間が余るか確認する。

ケルベロスが、時間の計算をしている燐火に言った。

「今の燐火の体力では、剣の修行をするのは問題がないだろう。 基礎だけ習えば、後は俺が応用で見るが」

「……そうなると、体験入学がいいかな」

「ただ、剣としてはあの鉄パイプを振るうのか。 勘違いされがちだが、木刀と真剣は殺傷力でそれほど差がない。 あの鉄パイプも、剣を習った人間が振るえば、簡単に人間の頭なんかたたき割れる。 燐火がいざとなったら、問答無用であの勘違い女の頭をたたき割ろうと考えていたようだが、それは実行可能なことだ」

「覚悟は決めていたけれど。 それでも、身を守るためには仕方がないよ」

そうか、とケルベロスはちょっと寂しそうに言った。

いずれにしても、体験入学が良いだろう。

後でお父さんに話をしておくことにする。

それと、今では情報がネットでいくらでも見られる。スマホをいじって、剣道の基本を調べる。

なるほど。

握り方はこう。

動き方はこうするのか。

空手や合気を鍛える過程で、身体制御については色々勉強している。無駄には一切なっていない。

そういう観点では、とてもこれは勉強になる。

体だけで勝負する武道と違って、だいぶやり方が違う。

それにだ。

「剣を使って戦う人って、こういう動きをするんだね」

「燐火よ。 別に戦う必要はないからな。 ダイモーンは、敢えて俺が教えた神の文字を書けば倒せる」

「うん。 ただ、燐火にとって何か棒が必殺の道具となるとしたら、それを扱えるように鍛えた方がいいと思うんだ」

「何か明後日の方向にどんどんずれていないか」

ケルベロスに突っ込みを入れられてしまったので、小首をかしげる。

でも、今手元にあるおとうさんからもらったグッズや鉄パイプを更に強そうとイメージするには、やっぱりこれは必須だと思う。

ちょうどお父さんが配信から出てきた。

クッキーを焼いてくれるらしい。

疲れているのに。

ただ、蜂蜜入りの奴なのでケルベロスは喜んでいるし。おとうさんも疲労回復の理由もあるのだろう。

「配信はどうでしたか」

「今日はコラボだったし、大変だったよ。 僕が客側だったから、相手の配信を中心に動かさなければならないからね」

「ええと、相手は」

「男性ライバーだよ。 昔は異性のライバーとコラボするだけで騒ぎになったりしたのだけれど、今はそういうことも減っているね。 ただ今回は、箱でセットで売っている相手だから、同性でのコラボは普通だし、それに普通なぶんだれないように気をつけなければいけないしね」

ちなみに相手のライバーの方が設定年齢は上なのだが。

実際には二回り中の人間は年下らしい。

それもあって、たまに実際に会うときは、おごったり色々するそうだ。

クッキーが焼けたので、ありがたくいただく。

辛いのが好きなのだけれど、まあこれはケルベロスに世話になっているのだから仕方がない。

燐火がいずれ独り立ちでもしてから、辛いのは好きなだけ食べれば良い。

「おとうさん。 再来週の日曜日に、剣道の体験入学に行ってきても良いですか」

「体験入学か。 そうだね。 わかった。 再来週の日曜だったら、スケジュールは空いているから、どうにか仕事を入れないように頼んでみるよ」

「お願いします」

「いいんだよ。 燐火も貪欲になっていい。 ほしいものがあったら言って良いからね。 高いものは、お祝いの時くらいにしか買ってあげられないけれど」

これはおかあさんの方針だ。

甘やかすとよくないという考えらしい。

なんでも厳しい環境にいた子供をいきなり甘やかすと駄目になることがとても多いらしく。

燐火も、甘えるつもりはないので今のところ問題は起きていない。

それでいいのだ。

「学校では問題は起きていないかい」

「大丈夫です。 今日、帰り道にカトリイヌさんというシスターの人と話しました」

「へえ、海外の人かな」

「イタリアから来たそうです」

嘘は言っていない。

あの人は燐火のことを元からよく思っていなかったようだけれど、燐火は別にどうでもいいと思っている。

仲良くなったとは一言も言っていない。

嘘はついていないし、それでいい。

「イタリアの人かー。 それは良い出会いだったね」

「そうですか」

「知らない文化圏の人と話しておくのは貴重な経験になるよ。 僕も海外のVtuberと話すことはあるけれど、考え方が違って参考になるね」

ただこの文化。

まだ出始めて日が浅いと言うこともある。

色々と問題も多くて、トラブルを相談されることなどもざらにあるのだとか。

よくわからないことも多いが。

それでも、身になるとおとうさんが言うのなら。

それは貴重な経験なのだろう。

ただあのカトリイヌという人、どう見てもポンだった。

飛び級で大学を出たと言っていたし、日本語もペラペラだった。

あちこち発音とか怪しかったが、それでもあれだけ難読言語で知られる日本語をしゃべることができて。

ついでに意思疎通もできれば充分だろう。

ろくに意思疎通もできない人間は、日本語圏でも珍しくもない。

そういうのに比べればまだましだ。

とりあえず、剣道の体験入学について細かいところを詰めておく。既にドリルは終わって、勉強は同学年の生徒に完全に追いついた。

だけれども、まだまだ細かいところでは知らないことだってたくさんあるし。

本当に大事なのはここからだ。

世の中では、何でもできる人間が求められる、みたいな馬鹿みたいな風潮があるけれども。

実際には、なんでもできる人間なんていない。

ただ、それでも隙を作らないように。

燐火はあらゆることに目を通しておく。

ただでさえ色々とハンデがあるのだ。

それもあって、燐火は他よりも頑張らなければならないのだから。

「よし、じゃあこれで準備は良いね。 おかあさんからも剣道は教われるけれども、体験入学で良いのなら、それでやるよ」

「おかあさんは負担が大きいですから、少しでも負担は減らさないと」

「……わかった」

少しだけお父さんは寂しそうだ。

少しは頼ってくれてもいい。

そういう考えだったのかもしれない。

いずれにしても、燐火はこれからしっかりやっていかなければならない。剣道も、できるなら身につけておく。

それだけの話だ。

そのうち銃器とかも扱えるようになるべきなのかもしれない。

このご時世だ。

何があって、何がおきるかわからないのだから。

ただそうなってくると。

もう燐火個人が、合法的にやれるかどうかは、話が別になってくるだろう。ただそれは、大人になってから考えれば良い。

黙々と準備を終えておく。

とりあえずここからだ。

燐火にとってはまだまだ、スタートラインに立ったばかり。

知らないことを貪欲に取り込んで。

この世にいやになるほどあふれかえっている悪意に、少しでも対応できるようになっておかなければならなかった。

 

2、剣道を学びながら

 

体験入学に、おとうさんと一緒に出る。

それなりにしっかりした道場で、それはおとうさんが事前に調べてくれていた。鉄パイプよりは竹刀の方が健全だと思ったのかもしれない。

鉄パイプを取り上げて捨てようという雰囲気はなかったから。

おそらく剣道に熱中させて、飽きさせる戦略なのかもしれなかった。

おとうさんにはあらゆる意味で感謝しているが。

それについてははっきりいってどうでもいい。

感謝しているのと、全て思い通りになるのは話が別である。

道場に出ると、既に体験入学の人がそれなりに来ていた。一番年上の人は、社会人のようだった。

女子は燐火だけだ。

とりあえず、説明に沿って、道具をつける。

しっかりした道場だけ会って、道着はちゃんと子供用のものもあった。事前に身に付け方は調べておいたので。

おとうさんの手を煩わせることもなかった。

剣道は、あくまで精神鍛錬と、型を学ぶものだ。

剣道をやって実戦で剣を振るって強くなるかと言ったら、話が別。

ただし、元々実戦で使われていた型を元にしているものなので。基礎を学ぶことができるし。

日本の剣道で超強かった人物が。

フェンシングに転向しても超強かったという話もある。

「はい、それぞれ竹刀を持ってください」

指示に従う。

体験入学と言うことで、それぞれに指導がつく。

ケルベロスが、ちょっと冷笑気味に言った。

「これは基礎鍛錬以上でも以下でもないな。 確かに人体急所への致命打になる斬撃を美しく繰り出すこと、剣筋を学ぶことには大いに意味がある。 だが、それ以上でも以下でもない」

「それでいいんだよ。 まだ燐火は基礎も知らないんだから」

「そうだな。 確かにネットで聞きかじるよりは実際に手を動かすべきだ」

ケルベロスが信仰されていた時代は、当然剣術は盛んだったそうである。

ただケルベロスの時代は、戦場で使われた武器は主に槍と弓。

それを思うと、日本と同じだ。

調べたが、武士の道は弓馬の道、みたいな言葉もあったらしく。

早い話が、刀はあくまで狭いところで使うもの。

戦場で使われた武器は、あくまで長柄と弓。

それに投擲武器である石。

そういうものであったらしい。

「それでは、軽く竹刀を振ってみましょう」

指導が始まった。

言われるまま、竹刀を振るう。

それを見て、悪くないと指導の人はいってくれる。

まあ、それがモチベーションにつながるからだろう。

燐火も指導通りに体を動かす。

根本的には空手とか合気とか、柔道とかと同じか。

少なくとも体捌きはそうだ。

「何か燐火さんは武道をやっているのかな」

「空手と合気、後は柔道を少しだけやっています」

「そうか、基礎的な部分はとてもよくできているね。 剣も基礎を覚えれば、すぐにやれると思うよ」

この人は、燐火が鉄パイプをもっと的確に扱えるようになるためにここに来ていると知ったら、どんな顔をするだろう。

それはちょっと興味があったけれど。

ともかく、基礎動作を順番にやっていく。

竹刀の握り方については、すぐに理解した。

なるほど、そういう風に握って、如何に力を伝えるかの話になってくるわけだ。

腕だけで振るうのではなく。

体捌きと一体化している。

これは空手とか柔道、合気もそうだが。

基本的に腕だけ、足だけで何かをするということはほぼない。

武道は体全部を使って、的確に力を伝えていくものだ。

剣道も竹刀を握ってはいるが。

本質的にはどうも同じであるようだった。

「よし、良い感じだね。 それでは、同じくらいの年の子と勝負してみようか」

「はい」

まずは礼から。

礼に始まり、礼に終わる。

儀礼的だなとケルベロスが言う。

確かに、燐火もそう思う。

ただ、これはあくまで「剣道」であって、「剣術」ではない。

そもそも剣術についても、古いものは普通に体術なんかも入れていくのが普通であったようだし。

古流と言われるようなものは、槍なんかも一緒に教えるのが当たり前だったらしい。

槍は簡単に覚えられる上に、リーチの観点からも剣より遙かに強い、というのも事情としてある。

それもあって、ケルベロスは槍を覚えてはどうかと言う話をしてきた。

ただ薙刀はある程度武道として存在はしているが。

槍術を教えている道場は今はほとんど存在しない。

あってもさすまた講座くらいらしく。

それだと、燐火が求めているものとは違っているのが実態だ。

おないとし位の男の子と向き合う。

相手は素人となめてかかっている。

実際問題素人だ。

ただ、軽くステップを踏んで、間合いを取り合う間に、相手の力量はだいたいわかってきた。

踏み込んできた瞬間に、一撃入れる。

無効、と言われた。

「うむ? 今のは一発で終わりではないのだな」

「剣筋が美しくないんだね」

「そんなものか。 ただ相手が兜を着けている以上、そもそも剣で戦うことは現実的ではないのだが」

「まあ、そういう武術だから」

不審そうにするケルベロスに、そう宥める。

相手の男子は、まさかの素人相手にいきなりカウンターを入れられて、驚いたようで。

本気になったのがわかった。

次の立ち会い。

いきなり全力で詰めてくる。

だけれども、この子の身体能力を見極めたのはこっちも同じだ。

鋭い面への一撃をかわしつつ、胴をなぐ。

また無効、だ。

ケルベロスが不満そうである。

「怪我をしないための軽装鎧なのはわかるが、ちぐはぐに過ぎよう。 服だけでの戦闘だったら、致命傷だぞ」

「まあまあ、そういうものだから」

「……よくわからんな。 まあ確かに剣筋はまだまだではあるが」

ケルベロスは数限りない戦士を見てきたのだろう。

だから、どうしても実戦基準で考えてしまうし。

その観点から見ると、どうしても剣道のあれこれは、色々と不満があるのかもしれなかった。

そこで交代が入る。

不満そうな男の子が下がって、別の人が来る。

同年代。いやちょっと年下の女の子か。

だが、これは。

気配でわかる。

少なくとも剣道では勝てない。

「燐火ちゃんはある程度武道の心得があるし、剣道に触れるならある程度慣れた相手がいいだろうと思ってね。 充子、相手をしなさい」

「わかりました」

この指導員さんの娘さんか何かか。

礼をして、竹刀を持って向かい合う。

なるほど、これは勝てないな。

即座に一本入れられた。正中線を抜かれるような面だ。ケルベロスが、おおと声を上げていた。

「平和になれた国だが、できる奴はいるな」

「すごいね」

「ああ、少しでも技を見ておけ。 鉄パイプはともかくとして、格上の相手の技は勉強になるぞ」

「うん」

それから、何回かやるが、一発も入れられない。

これは経験の差だ。

この子はおそらくだけれども、剣道を生まれてから……いや流石にそれは大げさか。少なくとも物心ついた頃からずっとやっている。

体を鍛えているのは同じであっても。

一年ちょっと前から始めた燐火とはまだまだ立っている場所が違う、ということである。

それに、多分剣道そのものが好きなのだ。

それがびりびり伝わってくる。

「見事見事。 勝てない同年代の相手と一度あっておくのは良いことだ。 こういった公正な競技でな」

「うん。 今ならそれがわかる」

金木の屑一家に支配されていたあの街での抑圧と違う。

今、自由にやれる分野で。

公正な条件で。

それでこういった技量の差が見られるのだったら、確かに有益だと燐火も思った。ケルベロスの言葉には同意しかない。

それでそのまま、何本かやるが。

結局一回も反撃できなかった。

「いやあ、燐火ちゃん筋が良いね。 うちの充子は元々この年では異例なくらい強いんだけれど、手を抜いていないよ」

「ありがとうございます」

「正式に道場に通ってみないかい」

「……確実に時間がとれるかわかりませんので、おとうさんと相談してみます」

おそらくおとうさんは良いと言ってくれるだろうけれど。

問題は燐火には魔祓いがあることだ。

こういう道場は学校の部活、それも勘違いした運動部みたいな、勉強を全て捨てて生活まで犠牲にして打ち込むようなことは要求はしてこないだろうが。

それでも、定期的に通うことは要求されるはずだ。

それに道具一式、安いものではない。

事前に調べてあるので、どうしても冷静に考えてしまう。

とりあえず、後は軽く体験入学を流して、帰る。

充子という子は、道着を外すと髪が長くて、今時珍しいきれいなタイプの子だ。

大和撫子という奴か。

少なくとも大事にされているのはわかるし。

それでいながら、しっかり甘やかされないでしつけも受けていることもわかる。

金持ちの子が穏やかで理性的なんてのは大嘘だ。

それを身をもって知っている燐火は、これは充子の家庭が優れた環境にあるのだなとわかって。

ちょっとだけうらやましいと思った。

とりあえず道場から帰る。

おとうさんといくつか話すが。

実のところ、格上の相手と戦いながらも、剣筋や動きは見せてもらった。

ケルベロスの方もそうだったようで。

ある程度充子という子の限界と、その動きの特徴は理解したようだった。

「道場に出てみるかい。 ここだと近いから、それほど無理なくいけると思うけれど」

「考えさせてください。 道着などを買うにも、道場に通うにも、お金がかかってしまいますので」

「いいんだよ。 僕の稼ぎだったら、それくらいなんでもないから」

「頼もしいです」

頼もしくはある。

ただVtuberは過酷な仕事だ。

毎月のように、誰々が体調不良で倒れたとか、休止だとか、そういう話が出てくるほどである。

それも極めて頑健なことが見ていてわかるような人が、だ。

おかあさんがやっている警官も大変な仕事だが。

シフトで働いている警官よりも、ある意味仕事の苛烈さは上かもしれない。

である以上。

お金の無駄遣いは避けてほしいのだ。

ただ、ずっと通うのはともかくとして。

ケルベロスとちょっと話す。

「基礎はどれくらいで身につけられそうかな」

「そうだな。 俺は道場主の技が見てみたい。 三ヶ月程度あれば、余裕を持って基礎から実戦レベルの応用まで身につけられるだろう。 燐火が上達できなくても、以降は俺が教えられる」

「三ヶ月か……」

ケルベロスの話によると。

かなりの腕であるおかあさんよりも、あの道場主の方が上らしい。

ざっと見た感じでも、普通に切った張ったの戦場で通じるレベルだそうだ。

つまり儀礼的な剣道ではなくて、剣術の世界でもやっていけるレベルの使い手と言うことである。

そもそも剣道道場のことは事前に調べたが。

警察でも指導をしている人らしい。

警官は警棒を用いて暴漢を制圧することも多いらしいので。

それもあって、剣道の知識は必須になってくるそうだ。

「わかった。 三ヶ月で良いのなら、おとうさんと話してみる。 ただ魔祓いが優先だから、それはどうにかしないと」

「そうだな。 ある程度こちらの事情をくんでくれる道場だと良いのだが」

「……」

あの道場。

かなり厳しくやっているとみて良さそうだ。

そうなると、一度入門すると、それなりに拘束されるだろうし、何かあった場合抜け出すことも厳しくなる。

それに、である。

帰路で、ダイモーンの気配あり。

幸い即座に抜け出して対処しなければならないほどの相手ではないようだけれども。家に帰ってから、出かけてくると言って、家を飛び出した。

途中で着替えて、鉄パイプを握る。

これで随分と勇気が出る。

すぐに剣道の技を吸収できる訳がない。

燐火は別に天才でもなんでもない。

ただ、ケルベロスが指導はしてくれる。それに、丁寧に基礎鍛錬を続けているから。今までずっと実直に鍛錬をしてきた人間に、少しずつ追いついているだけだ。

ダイモーンは山道にいて、通行人を伺っていた。

獲物を見繕っているのだろう。

ろくでもない。

いずれにしても、たいした相手じゃない。

さっさと虚空に文字を書いて、消し飛ばす。

回収完了。

やっぱりだけれど。

鉄パイプで虚空に文字を書くと。おとうさんにもらったあの棒よりも、力強い気がする。

あくまで気がする、だけれども。

ただ、こういったものは。気分がかなり成果に関係してくるというのは、ケルベロスにも教わったことだった。

ダイモーンを片付けたので、家に戻る。

途中で、涼子から連絡が来ていた。

家に帰ってから返信を入れる。

剣道やるかもしれない、というと。

行こうとしている剣道の道場にいる子が、近場でも有名な剣道小町だと教えてくれる。小町とはなんぞやとケルベロスがいうので、燐火も調べた。

なるほど、すごい美人とか看板娘とかそういう意味か。

古くは歌人としても知られた小野小町という人をモデルにしている言葉なのか。

なるほど。

勉強になった。

「国によって様々な美女の表現があるのだな。 クレオパトラや楊貴妃は聞いたことがあったが。 ただ権力者の妻ではなく、文化人としての美女が知られるというのは面白いな」

「別に顔なんて三日で飽きるんじゃないの」

「そうだな。 どれほど若い頃美貌でならしても、年をとれば醜く老いる。 その時にものをいうのは心の方だ。 若い頃下手に美貌があったりすると、年をとってから逆に苦労することになろうな」

「……」

そういうものか。

ともかく、あの充子という子だろう。

あの子とは、接しておけば何かしらきっと利があるはずだ。

そう燐火は思う。

後は、洗濯をして。お風呂に入って。

ゆっくり休むことにする。

とりあえず、剣道は有益だ。

剣を振るって実戦で役立つかは話が別。

少なくとも、剣を振るう基礎についてはこれでしっかりと学ぶことができる。

それで、今の燐火には十分だ。

 

結局三ヶ月の短期で道場に通うことにした。もしいいようなら延期してもいいとおとうさんに言われたが。

大丈夫。

三ヶ月で全部ものにする。

それに、習い事はできるだけしたくないのだ。

習い事の最中にダイモーンが出る可能性があるし。対応していたら遅れる可能性だってある。

習い事で疲弊しているときにダイモーンが出たら、迅速に現場に駆けつけられないかもしれない。

だからケルベロスに指導を受けながら、自習するのがいい。

幸い、今はあらゆる知識が、真偽、情報の品質はまばらであっても。ネットにいくらでも転がっている。

ケルベロスはしっかり実戦の知識を持っているので、後はそこからケルベロスと一緒にまともな情報をすくい上げて、それを活用していけばいい。

燐火はまだ子供なので。

悔しいながらにそれはどうにもならないので。

ケルベロスの支援を受けながら、それを為していくしかないだろう。

ともかく、やれることは今のうちにやっておく。

道着については、購入ではなくレンタルで済ませるという。

それでいい。

燐火としても、あれを一式買うのは色々と骨だからだ。

洗うのもとても大変だし、汗がしみついてとてもにおうという話もある。それで正体がばれでもしたら困る。

ともかく、ダイモーンがいないことを確認してから、出る。

ちょうど道場に出る前日に、文字を虚空に三度も書かないと倒せないダイモーンが出たばかりなので。

ちょっと心配ではあった。

道場に出ると、体験入学の時とは空気が違った。

まずは正座から。

姿勢を正して、それから順番に色々と教わる。正座の時点で苦労している人も、かなり多いようだった。

「剣道は剣の道であって、剣術ではない。 技の破壊力などを高めても意味はなく、あくまで重要なのは精神だ。 それ故に剣の道である」

体験入学の時とはまるで空気が違う道場主。

指導員も、全員空気が違う。

なるほど、あれはあくまで客寄せのよそ行きの顔というわけだ。

ただ、これくらいで、みっちり短期間で覚えた方が都合が良い。

ただ気になるのは。

なんでカトリイヌさんがいるのか、ということだ。

正座はできるらしく、平然としているが。ただ、道場で顔を合わせたとき、えっと声が出かけた。

道着を身につけて、それで訓練から始める。

竹刀を振るう。

本格的に剣を身につけるなら、十年単位の時間が必要になる。それでも足りないこともある。

剣道主は、そう厳しいことを言った。

日本の武道では、帯で強さを表すそうだが。

今の剣道では、それはないらしい。

昔は一目でわかるようなものをつけていたそうだが、廃止されたそうだ。

また、現状だと最大で八段までで、九段十段は存在しないそうだ。

剣道は段位が一つ上がると実力が段違いに跳ね上がるらしい。中学二年より先になると段位を取得できるらしいが。

初段はほとんどが受かるらしいが。

二段以上になってくると、どんどん合格率が下がっていくそうだ。

そうなってくると、おそらく初段くらいまでは大して実力に差異は見られなさそうだなと、燐火は冷静に判断する。

三段四段くらいからは、段位の差が圧倒的な実力差につながってくるのだろうけれども。

まあそれは、燐火が求めるものではない。

基本的に雑談は絶対禁止、というものすごい静謐の空間だ。

ケルベロスが言う。

「多少は戦士の学び舎らしいな。 ただ、三ヶ月に限ったのは正解だ」

「どういうこと」

「これなら俺の知っている剣術とそれほど変わらん。 そこのスットコ女は良いとして、充子という娘、それから道場主の動きを見て学んでおけ。 あれらはギリシャの時代でも戦士として通じる」

「うん」

ギリシャの時代も、華やかな文化が栄えたように思えるけれど。

実際は戦乱が絶えない時代であったそうだ。

それを考えると、ケルベロスの賛辞は最大級のものなのだろうと思う。

それに、である。

さっき道場主が、十年単位の鍛錬で剣を納めると言っていた。

それで剣を納めた人が、戦場でばたばたと死んでいたのだと思うと。戦争とは本当に理不尽の塊なのだとも思い知らされる。

とりあえず、しばらくは剣を振るう。

それを見て、細かく指導される。

指導員は、非常に厳しくて。

この間燐火と立ち会ったらしい男の子は、半泣きになっていた。別にそれを笑うつもりはない。

男は泣いてはいけないとか。

そういうことを言っているから、ストレスをため込んで人は壊れる。

それについては理解しているつもりなので、ただ燐火は今はできることを淡々とやっていくだけだった。

しばしして、試合を軽くする。

今回は、充子と師範代の試合を見る。

師範代は三段だが、充子の動きがいい。

これは、すごい逸材ではないのだろうか。ともかく見ているが、足裁きとか動きの切れとか。

今までけんかが強いとか自慢していたような男子とは次元違いだ。

戦闘はどうしても才能がものを言う分野ではあるらしいと聞いているが。

それでもこれは。

余程の鍛練を積んできている、ということだろう。

ただそれでも、師範代の三段の実力は伊達ではない。

流石にかなわず、一本を立て続けに取られて終わり。

ただ、それでもきちんと礼をして、試合を終えていた。

燐火が相手にさせられたのは、中学一年の男子だった。それくらいでちょうど良いと判断されたらしい。

相手もこっちをなめていない。

中一くらいになると、女子が勝てなくなってくる年頃なのだけれども。

確かに背は相手の方が高いけれど、これは互角くらいとみた。

試合開始。

流石に前に試合した男の子とはレベルが違うが、燐火が相手にできる程度だ。そのまま踏み込むと、一本を入れる。

確実になれてきた。

ただし、次に小手で一本をとられた。

どうも相手側は、燐火の早さに気づいたらしく、リーチを生かしての勝負に出たらしい。

卑怯とは思わない。

ケルベロスに槍の有用性は聞いている。

そもそも剣が実践的ではないのは、そのリーチの問題であって。

いにしえの時代の武将達だって、みんな実際に使っていたのは長柄である。

そういうこともある。

だから、燐火はそれでいいと思った。

だから、次からは一気に懐から入って、強気にひたすら攻める。

至近距離からぶつかり合うような立ち会いを挑んで来る燐火に、明らかに相手がひるむ。そこに、一本を入れる。

其処まで。

声がかかって、試合には勝った。

だけれども、相手が冷静に立ち回っていたら、どうなったかはわからないかもしれない。

カトリイヌさんが、試合に出るが。

燐火が対戦した同じ相手に、立て続けに一本を取られてぼろ負け。悔しそうにしていたが、視線をそらす。

憑いているドミニオンが呆れているようだった。

声は聞こえてくる。

「武術としてはフェンシングと同じですよカトリイヌ。 普段の実力を発揮すれば勝てない相手ではないはずです」

「ハ、そいつの力量は今ので大体わかったが、鍛錬が足りんな。 なんでもできるようにとでも仕込もうとしても、キャパオーバーという奴だ」

「おのれ……!」

ケルベロスとドミニオンがバチバチにやりあっている。

とりあえず、保護者同士のけんかはどうでもいい。

燐火は、今試合している充子に集中して、少しでも技を覚えようとしていた。

 

3、うなれ鉄パイプ

 

道場で、既にダイモーンが出たことはわかった。

一月ほど道場に通ったが、出る前に退治したのが一回。家に帰ってから退治したのが三回。

やはりというか、短期にしておいてよかった。

何度もダイモーンが出る。

ケルベロスがダイモーンを近場に集めている。

ケルベロスと一緒に戦っている強い英雄が、危険なダイモーンは倒してくれている。

それでも手が回らない。

だから倒せるときに倒しておかなければならないのだ。

今日の稽古はもう少しで終わりだ。

最後に試合をする。

相手は充子だった。

道場に通い始めて一月。体験入学の時を除いて二度対戦したが、どちらでも箸にも棒にもかからなかった。

今回は、一度くらい一本をいれたい。

ただ、充子ははっきりいって強い。

なんでもこのくらいの年の子が出る大会で、毎回トップかそれに近い成績をたたき出しているらしく。

いずれ国際大会などでも出場が見込まれている超有力馬であるらしい。

ケルベロスも、これだけ強いのに全く鍛錬を怠らず、どんどん強さを求めていると言っている。

だけれども、燐火も努力については負けていないつもりだ。

剣道一本でやっている充子とは違って、こちらには色々な武道をやっている強みがある。それを少しでも生かしたい。

はじめ。

声がかかる。

同時に、激しく打ち込んで、つばぜり合いをする。

声を張り上げるのは、気合いを更に高めるため。

インパクトの瞬間に声を出すことで、剣筋を更に美しく鋭くする。だが、既に見える。見えるけれど、それでもよけられるかは話が別だ。

一本。

とられた。小手だ。

気を取り直して、もう一度。

再び、苛烈に攻め込む。

身体能力でも充子は高く、多分燐火がもう追い越した中一の男子よりもあらゆる点で上だと思う。

今後当然成長によって差がついてくるだろうけれども。

それでもこの瞬間的に出せる速さと鋭さは、なかなか超えられないだろう。

ただし、燐火だって。

実戦を知っているケルベロスや、おかあさんに色々見てもらっているのだ。

がっと竹刀がぶつかり合う。

しんとはりつめた道場で、激しく渡り合う。

打ち込む。

一本だ。

はじめて一本をとれた。

また離れて、試合再開。

だが、瞬時に一本を取られた。まあ、こんなものか。礼をして、それで試合終了。とりあえず、現時点では十分な結果だろう。

着替えをして、家に帰る準備をする。

ダイモーン対策がある。

急がないといけないが、充子が声をかけてきた。

「燐火さん」

「どうしましたか充子さん」

「年上なのだから呼び捨てでいいですよ」

「すみません。 敬語以外でしゃべるのは苦手なんです」

ちょっと困惑される。

充子は剣道をしていないと、随分とかわいくて、同性でもはっとするほどである。

咳払いされた。

「本気で剣道をやってみませんか。 燐火さんくらいの実力の人が同年代にいると、張り合いがあります」

「残念ですけれど、色々と忙しいんです」

「そうですか。 でも、考えてみてください。 全国レベルにいかないと、戦える同年代の相手がいなくて。 はじめて一ヶ月の人に一本をとられたのは初めてです。 燐火さんだったら、全国でも行けると思います」

「全国とやらのレベルは知らんが、この娘は真剣を持たせれば生半可な大人より強い。 それを考えると、かなり褒められているとみて良いだろう」

ケルベロスがフォローしてくれる。

だが、ダイモーンが先だ。

やはりダイモーンによる悪運の拡散が何を引き起こすか見ていると、どうしても。自分のことは後回しだ。

それに燐火自身もまだまだ色々足りていない。

未だに笑顔の一つも作れない。

この敬語だって、崩したいのに。

普通にしゃべれるのは、まだケルベロスだけだ。それも実際に口に出さない思念での会話だけ。

「誘ってくれてありがとうございます。 いずれ……機会があれば、また剣道に戻ってくるかもしれません」

「本当ですか?」

「とりあえず、三ヶ月は道場に通います」

あと二ヶ月はある。

ただ、はっとしたように嬉しそうな充子の顔は、燐火としてもちょっと心苦しかったが。

基本的に他人に期待されるなんてことはここ最近で初めて経験した。

それもあって、ちょっと複雑な気分だ。

カトリイヌさんは今日はいない。

一緒の日は時々あるのだが、ケルベロスとドミニオンがいつもけんかするし。

カトリイヌさんは道場が終わるとハンカチ噛んで悔しそうにしているし。色々複雑な気分である。

ポンかもしれないが。

あんまり極悪人の類いには見えないのだ。

ケルベロスは油断するな一神教徒は独善的で極悪非道だといつも口を酸っぱくしていうのだけれども。

あのポンぶりや。

使用人達が困り果てている様子を見ると。

とても才媛だとか令嬢だとか。

極悪人だとかには見えなかった。

ともかく、道場を出ると、さっさと物陰で着替えて変身。着替えるだけだが、変身だとおもうことで確かにダイモーンへ文字で与える魔祓いの効果が上がる。

ケルベロスもなんでそれで効果が高まるのかはよくわからないと困惑してはいたのだけれども。

おそらく棒に使うものをどうするか、と同じ問題なのだと思う。

精神的な問題だ。

ダイモーンは信仰から生じたもので、霊だという。

だとすれば、どう考えるかで対策が変わってくるのはあるのだと思う。

それぞれの文化圏の神様が加担することで魔祓いができるというのであれば、それはなおさらなのだろう。

或いは名乗りを上げたりとか。

自分で格好良いと思う呪文とかを唱えたりすると更に効果が上がるかもしれないが。それはちょっとまずい。

ただでさえ赤マントとか白仮面とか話題になっているのだ。

これ以上露出が増えるとよくないだろう。

ともかく走る。

さっと駆け抜ける。

手にしている鉄パイプは、さび止めを塗って。塗装もして。それでカラフルになった。結果、ある程度はアニメのキャラが持っているようなものに近づいた。それでも、所詮はある程度、だが。

ケルベロスのナビに従って走る。

「今回のは少し手強いようだな」

「久しぶりに手強いのと会うかな」

「そうだな」

ケルベロスが言う手強いは、決して侮れない相手であることが多い。実際、何度も文字を書いてやっと撃退できる奴の時に、この言葉が出てくることが多いからだ。燐火も油断せず走る。

ひょいとガードレールを跳び越えて、森の中に。

腐葉土を蹴散らして走るが、動物の糞は的確に避ける。

倒木を蹴って跳躍。

ふわりと浮き上がった体を、地面にたたきつけるのではなく。可能な限り上手に衝撃を殺す。

そのまま走る。

体が重くなるほど、これは難しくなるらしい。

動物も、100グラムくらいまでは、どんな高さから落ちても基本的に死ぬことはないそうだ。

燐火ももう少し背が伸びて体が重くなったら、話は変わってくるのかもしれない。

そう考えると。

今のうちに、体の制御はできるようにしておかなければならなかった。

もっと、である。

今でもまだまだ全然足りない。

森を走り抜けて、またガードレールが見えてきた。

ケルベロスの案内が的確なのもあるが、いくつかの森の中はショートカットに使っているのだ。

見える。

誰か二人が口論していた。

胸ぐらをつかんで、今にも殴り合いが始まりそうだ。

道ばたでいい年をした大人二人が、である。見苦しいことこの上ない。

顔をゆがめて怒鳴り合っているのは、どちらも年配の女性に見える。

話している内容が断片的に聞こえてくるが。

ほとんど怒鳴り声になっていて、解析できるギリギリの範囲になっている。ただ、どう聞いても、まっとうな単語ではないようだが。

「なんだあれは。 何が理由で罵り合っている」

「ダイモーンは?」

「ああ、今回は地面に張り付いている」

「……本当だ」

道路が真っ黒な池みたいになっていて、あの二人を包み込むようになっている。本当に何でもありだな。

ダイモーンは余程強力なカコダイモーンにでもならない限り、人間に直に危害を加えることはできない。

これはケルベロスから聞いた話だ。

ただ、悪運を送られているとは思えない。

あの二人は、ちょっと今までのとは雰囲気が違う。

「あれはどういうことだ……?」

「ケルベロスにもわからないの?」

「ん、ああ、そうだな。 とにかくダイモーンを魔祓いしてくれ。 全てはそれからだ。 それと、録画をしておいたほうが良いだろう。 燐火の母に頼むことになるかもしれない」

「わかった」

スマホをセットして、録画する。

それと同時に、鉄パイプで虚空に文字を書く。

やはり、今までより力強く書ける。

というよりもだ。

剣道をしたことで、棒を使う方法がわかった気がする。

今までは武道で鍛えてきた体で、如何にして振り回すか、だったが。

剣道での経験で、どう棒を効率よく扱うかの技術が、肌に染みつき始めている。

竹刀よりも鉄パイプはだいぶ重いが、それはそれであまり関係がない。とにかく、すっと文字を書き。

それは今までよりずっと力強かった。

ばちんと、ダイモーンがはぜる。

凄まじい悲鳴がほとばしるが、あの口論しているおばさん二人には聞こえていないようである。

それどころか、更にヒートアップしているようだ。

もう一度。

ケルベロスに言われるまでもない。

二度目の印を切ると、まるで泥沼が吹き出すようにして、ダイモーンが二人を包んで、せり上がってきた。

勿論物理的に包んでいる訳ではない。

地面からせり上がってきたダイモーンは無数の触手を揺らめかせ、たくさんの目がある。目だけは人間のもので、ぞっとするほど動きも人間らしい。

立て続けに文字を書く。

三度目ので、触手がはぜる。

激しい破壊を受けて、ダイモーンが更に苛烈な絶叫を上げる。思わず顔をかばってしまうほどに。

大丈夫、続けろ。

ケルベロスに頷くまでもなく、四度目。

今までになく、力強く文字を書けた。

それと同時に、ダイモーンがはぜ割れて、消滅していく。かなりしぶとかったが、これで倒れたはずだ。

消えていくダイモーン。

だが、あのおばさん二人は、凄まじいダイモーンの悲鳴も。

その死に様も。

関係なく、まるで何もなかったかのように、罵り合いを続けている。

やがて、流石に誰かが通報したのだろうか。

警察が来ていた。

警察が二人を引き剥がす。だが、取り押さえにかかった警官に片方のおばさんが頭突きを入れた。それで、即座に公務執行妨害になる。

それだけじゃない。

もう一人のおばさんも、抑えようとした警官にかみついた。

これはもう、大変だなと、見ていて同情してしまう。

おかあさんが毎回苦労しているわけだ。

とりあえず、さっと姿を消す。

ただでさえ噂が流れているのだ。白仮面でも赤マントでもどうでもいいが、燐火が見つかるとまずい。

森の中で着替える。

さっとそれを終えて、それでケルベロスがそうか、と言う。

ダイモーンを回収したことで、何がおきていたか理解したようだった。

「一体なんだったの?」

「あれはたちが悪いマルチ商法をやっている人間だ」

「ああ、確かネズミ講とかいう」

「そうだな」

いりもしないものを売りつけて配当が手に入る極めて悪辣なシステム。これで国が傾いた事例すらあるらしい。

日本でもいくつかの要注意詐欺団体として監視されているものがあり。

それでありながら、のうのうと存在しているという話だから、救いようがない。

ケルベロスは言う。

「ダイモーンはあの二人にそれぞれ悪運を授けて、「商売」がうまくいくようにさせていた」「そこまでは普通と同じだね」

「ああ。 だが途中で敢えて両方の悪運を切った。 それぞれは互いが足を引っ張ったと思い込んで、それでけんかになった。 ダイモーンは、敢えてそれを傍観した。 実際につかみ合いのけんかになってから、其処で悪運をやって、生き残った方を更に悪運で搾取するつもりだったのだ」

東洋の呪法に蠱毒というのがあるらしいのだけれど。

まるでそれのようだと、ケルベロスが呻く。

ちょっと燐火はわからないけれど。

ダイモーンは、これは人間の悪いやり方を、急速に学習している、ということではないのだろうか。

燐火がそうつぶやくと、ケルベロスは察しが良いなと褒めてくれる。

「ともかく戻るぞ。 人間に悪運を授け、破滅したところを回収するというのはダイモーンのやり口だが。 それにしても今のは色々と不審がある。 ひょっとして……」

「どうかしたの?」

「人間のやり方を学習しているのかもしれない」

ダイモーンは基本的に、今迷子になっているケルベロスが探している存在が無意識で撒いているもので。

それ自体は別に必ずしもカコダイモーンとなるわけではないらしい。

中にはよい方向に……アガトダイモーンという、福を授ける存在になる場合もあるらしいのだが。

今、世界はどちらかというと強い悪意に満ちている。

そうなるダイモーンは少数なのだそうだ。

自宅に戻る。

少し遅くなったけれど、おとうさんはずっと防音室だ。基本的に余程のことがない限り、燐火はそれを邪魔はしない。

いざというときはブザーをならせと言われているけれど。

そのブザーにしても、おとうさんのところではバイブで稼働するらしくて。基本的に配信を邪魔しないように徹底されている。

家に戻ると、先に風呂に入っておく。

剣道道場だと、どうしても汗を掻く。まあ今走った分もある。それもきちんと流しておく。

昔は不衛生だとか、考える精神的な余裕さえなかったけれど。

今は、病気になるリスクを考えて。

できるだけ体は清潔に保つようにはしていた。

まあ、それもできるだけ、だが。

風呂から上がって、それで勉強をする。

今の時点で苦手な分野は復習しておく。淡々と勉強をしていると、メールだ。おかあさんからである。

今日は遅くなるそうだ。

ケルベロスが言う。

「マルチ商法の会員があれだけの騒ぎを起こせば、当然本部の団体にも捜査が入る。 それに悪運がもしもそっちにも作用していたとなれば」

「おかあさんには負担ばっかり掛けるね」

「だが、その分悪党がいなくなる。 警察の負担は増えるが、それだけ安全に暮らせる人間も増える」

「ねぎらってあげるにしても難しいね」

人間、疲れ果てると。

どんな言葉でも煩わしくなる。

それが事実だ。

おかあさんは燐火のことを大事に思ってくれているようだけれども。それでも本当に疲れて戻ってきたときは、寝室直行。

そのままずっと寝ている。

そういうものだ。

あれだけ体力があっても、そう。

人間はストレスには勝てない。だから、ストレスに勝てないのを理解した上で、活動するしかない。

燐火のおとうさんはその辺をわかっていて、たまに荒れているおかあさんを、無言で寝室につれていって寝かせる。

こういうのが世間で「すれ違い」とかを作って、それが離婚の原因になるらしいのだけれども。

そもそもストレスを制御できなくなるくらい働くのがおかしいのであって。

現状の日本の労働環境に問題があるとしか思えない。

ただこれは日本だけの問題ではないらしいから。

世界が全て色々な意味でおかしくなっているのかもしれないが。

今、燐火にできるのは。

ひどい仕事から戻ってくる両親に負担を掛けないことだけだ。

そう考えていると、ケルベロスが嘆息する。

「少しは子供らしく考えても良いんだぞ」

「今の家、とても居心地が良いからこれでいい。 またあの孤児院みたいなところに行くなんて、絶対にいや」

「今の燐火だったら乗り切れるのではないか」

「乗り切れるとしてもいや」

これは本音だ。

いずれにしても、勉強は淡々とする。

おとうさんが配信を終えて出てきた。こっちも耐久配信後で疲れ切っている。燐火は勉強を中断して、出来合を温める。

ぐったりしているおとうさんに、ご飯と出来合を温めて、出す。

まだ料理はあまり許してはもらえないけれど。

これくらいだったら、やっていいと認めてもらっている。

おとうさんと黙々と晩ご飯にする。

おとうさんも疲れ切っているので、今は話しかけない方が良いだろう。

「おかあさんが遅くなるのは知っているね」

「はい」

「チェーンは掛けないで、でも鍵は掛けるんだよ」

「大丈夫です」

おとうさんもこれは限界だ。

食事を終えて、風呂にいくおとうさん。

そのまま黙々と勉強に戻るが、疲労が限界でお風呂で溺死、なんてことは時々あるらしい。

おとうさんは配信はしているが、おかあさんほど体力があるわけでもないので、気をつけていないといけない。

やがて、ケルベロスがおいと声を掛けてきた。

スマホを見ると、ニュースが出ている。

なんだかいうマルチ商法の本社が摘発されたという。老人を狙った極めて悪辣なマルチ商法をしており、2000億円近くを詐欺にて奪った可能性が高いそうだ。

今、警官隊が多数本社に入っていて、それで次々と社員らしいのを逮捕して連れ出している。

代表取締役社長は、いかにもな反社で。

それが喚きながら、引きずられていく。

いい年をした老人が見苦しいが。

そんな奴が、たくさんの人を不幸にして、自分だけ肥え太っていたわけだ。

「これはあのダイモーンから間接的に悪運を受けていたな」

「ひどい被害だね。 少しはなんとかなるのかな」

「……」

ケルベロスも、この国の法律を全て理解できているわけではないらしい。それについては、なんともいえないらしかった。

十年くらい前に、十四歳の子供が主犯となって、実に六人を「いじめ」と称して殺した事件があり。それで議論の末に少年法が撤廃された。

それまで若年者犯罪を助長するだけだったと悪名高かった少年法がなくなったことは、多くの人に喜ばれたらしいが。

まだ法律は完全じゃない。

こういった犯罪はまかり通り。

被害者はたくさんいる。

人間は悪事をもくろむとき一番頭が働くというのは有名な話で、燐火ですら知っている。学校の勉強なんてさっぱりでも、詐欺にばっかり知恵が回る奴はたくさんいるそうだ。

「その迷子を捜すのって、まだどうにもならないの?」

「俺と一緒にこの国に来た英雄が探してはいるが。 なかなか難しい。 大々的に動くわけにもいかんのだ」

「どうして?」

「最大の問題として、俺たちギリシャ神話の神格は、力が衰えていてな」

ギリシャ神話の神々は、そもそもいた場所を異教に蹂躙されて、今ではすっかり「物語」になってしまった。

信仰なんて誰もしない神々。

その中で、名前が知られているわずかな神や英雄くらいしか、まともに動くことができないのだという。

「俺はその一角というわけだ。 もう少し神々に力が残っていれば、ヘルメスにでもこの役割が託されたのかもしれないがな」

「ヘルメス?」

「ギリシャ神話のトリックスターとして知られる旅の神だ」

トリックスターというのは、気分次第で動くような人物のことだそうだ。

日本の創作だと怪盗三世のヒロイン役とか、妖怪退治の専門家のそばにいるねずみな男とかが該当するらしい。

もっとも神話で有名なのは、北欧という地域の神話のロキという神様だとか。

ちょっと調べてみるが、本当に気分次第で好き勝手をする人たちなんだなと思って、燐火は呆れた。

ただそういう人だから。

グレーゾーンな解決でも、躊躇なく選べるのかもしれないのだが。

「力が衰えたり存在が曲解されているから舐められる。 たかがドミニオン程度に侮られるのもそれが理由でな」

「燐火はケルベロスに感謝しているよ」

「そうか、それは助かる」

「少しは力になると良いんだけれどね」

さて、ともかくだ。

この問題も解決した。

とりあえず、今日わかったことは。

剣道での鍛錬は無駄ではないということだ。三ヶ月と時間を制限したが。そのまま、できる限りのことは習得しておきたかった。

 

素振りをする。

おかあさんが竹刀をくれたので、それを使う。

おかあさんは若い頃から剣道をやっていたらしく、燐火の手に合うものもあった。剣道道場に通えるかはわからないから、それでまずは基礎を習う。

体を使う格闘技については、生身でやれるけれど。

こういうのは道具がいる。

鉄パイプは庭で振り回していたらそれで問題になりそうだから。

剣道をやっていると言って、竹刀を振り回していた方がまだ人を心配させずに済むだろう。

それで十分である。

黙々と訓練をして、アラームで気づいてやめる。

剣道をすると手にたこができるらしいけれど。燐火はコツをつかむのが早かったらしくて、それもなかった。

ただ、ケルベロスがとても具体的かつ丁寧に改善点を教えてくれる。

「努力しろ」なんて無意味な言葉ではなくて、具体的にどうして、どうやって工夫すればいいか教えてくれる。

これもあって、伸びは早い。

ケルベロスもあまたの戦士を見てきたのだ。

日本の剣術についても、短時間で把握したのかもしれなかった。

朝の自主練が終わる。

ドリルとかにとられていた時間を、こうやって別に振り分ける。勿論今までやっていた武道についても鍛錬はしている。

気持ちよく汗をかいたので、食事にする。

おとうさんはもうこの時間には配信をしていることも多い。

色々厳しい人生だ。

ただ、その結果、今のあまりよくない時代で。それなりに稼いで、家だってローンも組まずに買えている。

おとうさんとしても、配信はしていてとても楽しいらしいし。

そういう意味では、趣味と実益は兼ねている。

それでものすごく消耗するのは、仕方がないことなのかもしれない。

今日はたまたま、食事をおかあさんと一緒にする。

料理はおかあさんもあまりしている余力がない。

燐火が出来合を温めて並べて。

それでチンしたご飯と一緒に食べるだけ。

ご飯を炊くのはもう燐火もできるようになった。ご飯は基本的にいつ食べられるかわからないので。

炊飯器からすぐにタッパーに移して、必要なときに温めて食べるのだ。

「燐火も家事がほとんどできるようになったね。 そろそろ包丁の使い方も教えようかな」

「お願いします。 出来合以外にも食べられるようになっておかないと」

「うん。 でも教えるのはおとうさんの方がいいかな」

「教えてくれるのならそれだけで嬉しいです」

そう、とおかあさんは少しだけ寂しそうだ。

まだ敬語は抜けない。

こればっかりは、仕方がないかもしれない。

おそらくだけれど、燐火はあのとき。

よってたかって崖から突き落とされたとき。落ちていく様子を、ショート動画でも見てゲラゲラ笑っていたあの金木の馬鹿娘とその取り巻きの顔を見たとき。

やはり、他人に壁を作ったのだと思う。

よく相手の事情も考えずに壁を作るなとかいう奴がいるが。

知るか。

燐火は少しずつ自我が育ってきているから。

自分を虐げた連中に対する怒りは確実に育ってきている。

金木の一家がもしも現れるようだったら、躊躇なく制圧すると思う。今だったら、それができる。

ケルベロスが止めてくれなければ、殺すだろう。

今なら殺しもできる。

理性的には、両親に迷惑がかかるからやらない。でも、体の方は、おそらく反射的に動くだろう。

そしてあのカスどもは。

反省なんてするわけがないのだから。

食事を終えて、先におかあさんが出る。

燐火も準備を整える。ケルベロスはほとんど忘れ物を指摘しない。とりあえず準備は終わり。

後は持って行くだけだ。

学校に行く途中、珍しく涼子と合流する。

二つ隣の家が例のマルチ商法をやっていたらしく、昨晩家のおじさんが警察に連れて行かれたらしい。

かなり悪質な販売をしていたらしく。

涼子の家にも何度も来ていたそうだ。

そのたびに追い返すのに苦労していたらしかった。

「大変でしたね。 この町は良い場所だと思っていたんですが」

「どんな街にもゴミはいるよ。 学校はとても過ごしやすいけど、それも先生達が立派なだけだしね」

「そうなんですね」

「うん。 他の学校の話を聞くと、うんざりする。 今はどの学校でも、先生をこき使って使い潰すような働き方をさせてる。 だからいじめをするような奴が好き勝手に暴れて回る。 うちの学校は先生の負担になるようなことを極力減らして、それで生徒のいじめが起きないようにも目を配ってくれてる。 いい校長先生がいるんだよ」

そういう場所も、あるのか。

まあ、今実際に通っている学校がそうなのだ。

それについては。

幸運に感謝するべきだ。

それに、ケルベロスがある程度運勢を操作してくれているらしい。きっと、それも関与しているのだろうと、燐火は思った。

 

4、収穫

 

兄弟そろって少年院に入れられた金木家の長男、金木真一は今日も誰にも相手にされなかった。

学校では王様だった。

誰もが、教師すらもが機嫌を伺った。

後で金木家を継ぐのだ。

だから家でも使用人は奴隷として使っていたし。気にくわなかったら殴ってその上で追い出していた。

体格がどうだろうと関係ない。

相手は絶対に逆らえない。

駐在も金木家が買収していた。

だから、何をするのも許されたのだ。それなのに。

真一はずっと檻の中で、隅っこで震えていた。

同室の奴らは、体格が比べものにもならなくて、喧嘩でもまるで容赦がなかった。

真一は喧嘩が強いと思い込んでいたが。

それは相手が抵抗しないから成立していただけのことだと、今更思い知らされていたのだ。

何か逆らえば滅茶苦茶に殴られたし。

看守が助けてくれることだって一度もなかった。

隅っこで震えながら、どうして俺がこんな目にと、真一は思う。

何も悪いことなんてしていない。

金持ちなんてみんなやっていることだ。

俺だけがどうして。

この期に及んでそんなことまで考えていた。

ある日、課外授業があった。

基本的に脱走に備えて、警官まで配備されている。その中で、延々と草むしりをする。手が傷だらけで泣きそうだ。

もしもサボったら、容赦なく食事を抜かれ、反省文を書かされる。

理不尽な扱い(と真一は考える)に、世の中への恨みがたまる一方だ。何しろ真一は、自分は何一つ間違っていなくて。これは不当な扱いだと信じ込んでいたのだから。

課外授業の途中。

そんな真一に転機が来る。

隙が、できた。

強面の看守が、目を離した。今草むしりをしている場所の一角に、フェンスに穴が開いている。

そこから出られるかもしれない。

出てやる。

それで、家に戻って。

それで、俺を陥れた奴を全部探して。

全部殺してやる。

それは正義の行いだ。

許されるんだ。俺は何しろ、こんなに理不尽な扱いを受けているんだから。

真一は三人自殺に追い込んだ。

十九人に重傷を負わせ、退学に追い込んだ。

その全てで今までは罪に問われなかった。よそ者が余計なことをしたからこうなったのだ。

真一は本気で思っていた。

いじめはされる方が悪いと。

それなのに、今受けている境遇は理不尽だと考えていた。

このような矛盾しきった思考が疑問に思えなかったのは、自分は常に正しいと考えているからだ。

学校のテストなんて、教師が全部満点にしていた。

金持ちはみんなそうしていると真一は思っていた。

だからまともな意味で頭なんか使ったことはなかった。考えることなんて、部下にやらせればいい。

そううそぶいていた父も、同じように育ったらしかった。

フェンスをくぐって、森の中を走り出す。

脱出してやった。

さあ、まずは家に戻って。

それから、全部に復讐してやる。

笑いながら、真一は森の中を走る。だが、森の中を走ったこともない者が、そんなことをすればどうなるか。

悪運は。

既に真一を見放していた。

木の根に引っかかって、思いっきり顔面から地面に。

しかも腐葉土に突っ込んだのならともかく。思い切り石に顔面をたたき込んでいた。

体格が大きい他の少年院の受刑者にぶん殴られたより更に痛い。悲鳴を上げる。なんで俺がこんな理不尽に。

そうわめきながら転がり回る。

だが、その体が、乱暴に押さえつけられていた。

涙目越しに見えたのは。

熊だ。

体重150sを超えるツキノワグマ。ヒグマに比べるとぐっと小さいが、それでもこのサイズなら人を殺すのは余裕である。

本州でもこのサイズのヒグマは寒冷地を中心に存在している。

だからフェンスがあったのだ。

それを考えようとも真一はしなかった。

最後の瞬間、真一はみた。

得体が知れない存在が、ゲタゲタと笑いながら、虚空に消えていく様子を。

それをダイモーンと言うことなど。

真一は熊に顔面を食いちぎられて。

脳みそを頭蓋骨ごとかみつぶされても。最後まで、知ることはなかった。

真一は知らなかった。

金木の家が、とっくに会社が倒産して。

既に家そのものも売り払われて、それも買い手がつかなくて。取り壊されて。調度品から何から何まで、既に売り払われた後だと言うことを。

成人していた金木家の人間は、全員懲役三十年前後、場合によっては無期の実刑を食らって、刑務所から生きている間には一人も出られないこと。

さらには金木家が支配していた街では、既に金木家に阿諛追従していた人間が居場所をなくして、引っ越ししたり、リンチを受けて。それも警察が黙認したこと。

つまり、帰るところなどなかったことも。

最後まで、自分に都合が良いように考えていた金木家の人間が一人。

悪運に見放されて。こうしてこの世から消えた。

後でその遺体は発見されたが。

ツキノワグマに食い荒らされて、ほとんど残っていなかった。

そのツキノワグマはすぐに捕まって殺処分されたが。

死体は葬儀に来る人間もいないので。

簡易で火葬され。

無縁墓地に葬られた。

自業自得。

それだけが。この死に対する事実だった。

 

(続)