俺は地獄の番犬ではない

 

序、よもつひらさか

 

ここはどこだろう。

ランドセルを背負ったまま、斑鳩燐火は黙々と歩いていた。

さっきまで手も足も痛かった。

突き落とされたからだ。

突き落としたのが誰かは、わかっている。

ずっと燐火に目をつけていたクラスの女子グループである。

学校なんて大嫌いだ。

いじめられる方が悪い。

そういう理屈で学校が動いているのは、まだ十歳になったばかりの燐火でも知っていた。

それに対して、いじめる方は何をしても許される。

授業中にいじめられている子が殴られているのを見ても、教師は薄ら笑いを浮かべるばかり。

燐火は孤児院から来ていることもあって。

大人に相談することもできない。

それに、大人に相談することは卑怯だという理屈もはやっている。

結局、弱い者を好きなようにいじめるための理屈が学校のルール。だから、燐火はあそこがきらいだ。

クラスの女子グループのリーダーは親が金持ちだとかで、学校は何も言えない。

だからそのリーダーは好き放題授業中に暴れていて、それでもなぜかテストでは良い点数をつけてもらっている。

特に道徳とか音楽とかでは明らかなずるがされているのを燐火は知っている。

そのリーダーが気分次第でいじめる相手を変えて。

その取り巻き達と一緒にいじめて。

何ヶ月で転校するかを、賭けているのまで燐火は知っていた。

暗い道を歩く。

どこだかわからないけれど、さっき落とされて、手足がいたくて。上からげらげら笑う声がしていて。

それから多分眠ってしまって。

いつの間にか、暗い道を歩いていた。

どうせ誰も助けに来ない。

帰り道を襲われたのはわかってる。

燐火が何を言われても悔しそうにも悲しそうにもしないのに、あのリーダー格は相当頭にきていたらしい。

前にもこうやって誰かを大けがさせても、「子供のやったことだから」とかいう理由で全くあのリーダー格は何もされなかった。

それどころか、大けがをさせられた子が学校を出て行くことになった。

だからあの子はやることがどんどん過激になっている。

最近は気にくわない先生に花瓶を投げつけたりして、それで笑っていることもあるくらいだ。

面白いから。

それだけで崖から突き落とされた。

そういう人間が好き勝手をしている。

それを幼い頃から、燐火は思い知らされていた。

不意に周りが明るくなった。

道だったんだ。

それに、手足もきれいだ。

結構高いところから、何度もぶつかりながら落ちた。

ガードレールから放り投げられるようにして落とされたのだ。だから、骨だって折れたかもしれない。

最後に見えた、ニヤニヤしている数人の顔を覚えている。

あいつらの言うことを、大人は完全に鵜呑みにする。

今までもずっとそうだった。

いじめられている子が親に全て言っても、何にもならなかった。

でも、今は擦り傷もない。

手で顔を遮るように光を防ぐ。いきなり明るくなって、ちょっとつらいと思ったからだ。

燐火は明るいのが苦手だ。

これはただ、そういう体質である。

周囲にあわせなさいといって、無理矢理部屋を明るくされるのもいやだった。

周りもそうなのだからと言って、無理を言われる。

そういうのは、とてもつらかった。

「また随分と小さいのが来たな」

おじさんの声だ。

周囲をゆっくり確認するけれど。

道らしい場所だったのが、いつの間にか建物みたいになっていた。なんだろう、これは。

どこだろう。

孤児院に戻りたいとは思わない。

ただ、ぼんやりと、何がおきているのだろうと燐火は思った。

「どれどれ……これはまた随分とひどいな。 親は薬物中毒で両方とも死んで、それで孤児院に。 孤児院でも学校でも居場所なしと。 学校では……これはいじめというよりも犯罪だな。 そのあげくに突き落とされて致命傷か」

致命傷。

多分しぬような傷だということは燐火にもわかる。

上から降ってくる声は、見たこともないくらい大きなおじさんが話しているようだった。

「致命傷ではあるが、今なら間に合いそうだな。 ただ、本人の意思次第だが」

「このような幼い子供に決断など無理だろう。 どのみち体が必要だったのだ」

「そういうわけにもいかん。 人間の尊厳というのは馬鹿にしてはならぬものなのだぞ、ギリシャの冥界の番犬」

「そうだな、それはあまたの死者を見てきた俺も知っているさ」

ふと燐火は気づく。

となりにものすごく大きな犬がいた。

いや、犬なのか、それは。

頭が三つもあって、たくさんの蛇の尾を持っている。

それが寝そべるようにして、燐火を見ていた。

怖い、とすら思わなかった。

存在が違いすぎて、そう思うことすらあり得なかったのだ。

食べられて終わりかな。

そう考えている燐火に、大きな犬がしゃべりかけてくる。

「俺はケルベロス」

「……」

「ちと野暮用があって、この異国の地に来ている。 この地の神々と冥界に許可を得て、体を探していた」

体。

餌のことだろうか。

どうでもいい。

これから、何か良いことがあるとも思えない。

食べるならひと思いに、と思う燐火だが。

ケルベロスと名乗ったおっきな犬みたいな怪物は、淡々と言う。

「思念はわかっている。 その年で随分とひどいことになっているものだ。 この地でできることは限られているが、多少の運勢操作くらいならできる。 お前の生活を少しはましにしてやろう」

「……」

「まずはあのろくでもないクソガキとその取り巻きからだな。 あれらはどう処理しても構わぬな」

「こちらでも所業は確認している。 好きにするが良い」

おじさんとケルベロスという大きな犬が話している。

返事をどうしてもいいかもわからない。

というかだが。

ここしばらく、燐火はしゃべれなくなっていた。

何を言われても答えない燐火に対して、クラスの人間はあらゆる罵声を顔をゆがめながら浴びせてきた。

孤児院でもそれは同じだ。

よくわからないけれど、それは悲しいことなのかもしれない。

ただ、心が麻痺していて、よくわからない。

「用が済んだら体からは出ていく。 生きるかどうかは、その時決めると良いだろう」

「……」

何もしゃべれないまま。

光が全てを包んでいた。

 

目が覚めると、病院だった。

燐火は手を見る。包帯でぐるぐる巻きだ。

夢でも見たのだろうか。

不愉快そうな顔をしている孤児院の先生。お医者さんが来てにらむと、舌打ちして出て行った。

お医者さんが、何があったのか聞いてくる。

崖から数人の子供が燐火を落とすのを、崖の近くから通りがかった旅行者が見ていて、通報してくれたらしい。

それで救急車が来て、すぐに助けてくれたそうだ。

警察も来たとか。

それで警察には、クラスのリーダー格が、燐火が下をのぞき込んでいて危ないから助けようとしたとか言ったとか。

それを聞いて、燐火は違うと思ったけれど。

代わりに、声が出ていた。

「違います。 あの人たちに襲われて、崖の下に突き落とされたんです。 ガードレールから放り出すようにして」

「何だって。 警察が受けた証言とはまるで違うな。 それに撮影された映像や証言ともそれで一致する」

「あの子の親はお金持ちで、学校では何をやっても許される状態です。 先生もみんな親の言いなり。 あの学校のクラスから、たくさん不自然に転校している生徒達がいます。 調べてみればわかります」

「……わかった。 いずれにしても、目撃者も笑いながら落としているように見えたと言っていた。 警察に相談してみるよ」

医者が行く。

孤児院の先生が、それから戻ってきた。

高圧的なものいい。

良い孤児院はあるらしいけれど。燐火は見たこともない。

「おい斑鳩。 余計なことは言っていないだろうな」

「余計なこととは?」

「……お前、随分はきはきとしゃべるじゃねえか。 いっつも愚図みてえに黙り込んでいるくせによ」

「私が数人に襲われて突き落とされたことなら先生に言いました。 目撃者も他にいるそうですね」

それを聞いて、孤児院の先生の顔色が変わる。

見る間に怒りに顔が歪んでいった。

燐火は既に確認したが、手足は折れていない。

落ちたときに折れた感覚があったのだけれども、全部直っていた。

覚えている。

大きなおじさんや、ケルベロスのこと。

意思が、心の奥底からわいてくるようだ。

「余計なことを言いやがって! 金木さんはうちにもよくしてくれているんだぞ! その娘さんに迷惑がかかるようなことを言ったら」

「言ったら何です」

「……っ」

警官が医師と一緒に部屋に入ってきていた。

ナースコールを押していたのだ。

知っていた。

孤児院の先生が、この辺りの顔役だとかいって、クラスのリーダー格の親に、下卑た笑顔で手もみしているのを。

その親は孤児院の子らを舌なめずりするように見ていて、人間を見る目で見てはいなかったことも。

警官が手帳を見せて、孤児院の先生の周囲を囲む。

「県警です。 貴方の孤児院での性的虐待の容疑が出ていましてね。 ご同行願います。 それと、金木家から付け届けを受け取っていたこともわかっています。 納税もせず、私的に着服していたようですね」

「そ、そんなこと、誰が……!」

「確保」

悲鳴を上げた孤児院の先生を、警官がそのまま取り押さえる。

孤児院の先生がこっちを見る。

燐火は、多分冷たい目で見ていたと思う。

裸で写真を撮られたり、触られたことは昔はよく理解していなかった。今だとなんとなく何をされていたかわかる。

それを売って金にしていただろうこともだ。

女性警官が一人残った。

まだ若い警官だった。

椅子を医師が用意すると、どういうことがあったのかを丁寧に聞いてくる。

どうしてだろう。

不思議なくらい活力がわいてきて、今まであったことを全てすらすらと話すことができた。

あのクラスのリーダー格がいじめていた子の名前も全て覚えている。

燐火の前に突き落とされた子のことも。

取り巻きの名前も、全て言うことができた。

すらすらと言葉が出るので、女性警官は驚いていた。

「ここまで正確な証言ができるなんて。 子供の証言能力は裁判では有効にならないのだけれど、これだと話は違うかもね」

「三日前の伊月屋の監視カメラを確認してください。 その時、取り巻き達と一緒に私を襲って暴力を振るっていたのが映っていると思います」

「……わかったわ。 調べてみる」

女性警官が、どこかに連絡を入れていた。

なんだかよくわからないけれど。

燐火の周りにあったよくないものが、全て追い払われていくように思えた。

 

金木産業はこの街の王だった。金木一族は金にものを言わせて、人口五千人ほどの小さな街を事実上支配していた。

警官すら、駐在は実質上買収されていた。

それらが、全て明るみになったのは。

時代が変わったから、だろうか。

この街はおかしい。

そういう情報が、ネットで拡散されていったのだ。それで、旅行者が面白がってくるようになった。

その一人が、録画したのである。

数人の子供が、崖から子供を投げ下ろす光景を。

この光景はSNSに投稿され、またたくまに大炎上した。

更にもう一つ問題が起きた。

この出来事と前後して、金木産業が地方議員に対して膨大な賄賂を渡していたことが、警察の内偵で発覚したのである。

様々なことで便宜を図らせるだけではない。

その中には、犯罪を黙認するように警察に圧力をかけるものまであった。

どちらかだけでは、もみ消されていたかもしれない。

だが、これが同時に起きたことが、金木産業にとって致命傷になった。

株価は一夜で紙くずになった。

更に従業員からの同族経営特有のえげつない労働が暴露されたことも、炎上を更に加速させた。

一瞬にして資産全てを失った金木一家は、まとめて逮捕。

学校で暴虐の限りを尽くしていた金木家の子供三人は、全員がそれぞれ少年院に送られることになった。

さらには、児童に性的虐待までしていた孤児院は摘発され。院長は逮捕。

20世紀末におきた事件の再来とまで騒がれた。

孤児院は摘発され、潰されて。其処でおきていたことが明らかになると、街そのものが悪魔の住む場所みたいに言われるようになった。

実際金木一族の暴虐は凄まじく、街そのものが陸の孤島に近いこともあって、誰も逆らえなかった。

様々な国の独裁者がそうであったように。

無能であっても独裁の才能だけはあったからである。

だが、そういった国家は度々一瞬で瓦解してしまうように。

金木産業もまた、一瞬で瓦解したのだった。

しばらくは、この一族の暴虐ぶりが世間を騒がせたが。

やがて、実刑判決が関係者ほぼ全員に出ると。

それで騒ぎは静かになっていった。

 

養子縁組手続きを経て、名前も変わって、新しい家に移ることになった。

相手はあの女性警官だ。

住んでいる県も代わった。

何回か警察で話をするように言われたので。孤児院で何があったのか、学校で何がおきていたのか、全て話した。

それらの話が裁判であのクラスのリーダー格が少年院送りになるのに随分役立ったらしいし。

孤児院の先生が実刑を受けるのにも随分貢献したらしい。

あたらしい家はそこそこ大きな家だ。

なんでも女性警官の旦那さんがそれなりに稼いでいるらしい。ただあまり忙しい仕事ではないらしくて。女性警官の方が家を留守にしているそうだが。

養子縁組を終えて、平坂という名字になり。

以降は斑鳩燐火から平坂燐火となった。

それでわかってきたことがある。

少しずつ自分でしゃべれるようになってきた。

今までは、きっと代わりにケルベロスがしゃべってくれていたのだ。

感謝している。

これでやっと、燐火は一人の人間として生きていくことができる。

たまに、ケルベロスが話しかけてくる。

頭の中に、だけれども。

「少しばかり運を操作した」

「運?」

「そうだ。 あのままだと、燐火はどのみち孤児院に連れ戻されたあげく、最悪殺されていただろう。 お前がまだ生きたいかどうかはこれから考えれば良い。 いずれにしても、あれらにはちょっとよくないものがついていたからな。 それを祓ったのだ」

よくないものというのはよくわからないけれど。

ただ、相応の報いがあったのはよかった。

あのリーダー格、金木麗美は、一体何人の子を不幸にしたかわからない。

女子の方が、いじめでは残虐だ。

燐火はよくそれを知っていた。

そしていじめで少年院に入ってくるような奴は、もっともいじめられるらしい。今度はあいつがいじめられる番。

もはやお金も後ろ盾もない。

それにあいつは、反省なんて何があってもしないだろう。だからそのまま、野垂れ死んでしまえば良いと燐火は思っていた。

「とりあえず、少しずつしゃべるようにしていこう。 俺を頼るなよ。 お前が実生活では自分で歩くんだ。 いずれ俺はいなくなるのだからな」

「うん……」

「栄養状態などは改善するはずだから、それでいずれはましになるだろう。 後は勉学だな。 俺はこの世界の学問については大してしらんから、自分で頑張るようにな」

勉強か。

あいつらが騒いで暴れていて、授業にならなかったのを思い出す。

何をやっていたかなんて誰も覚えていないだろう。

真面目にテストを受けているという理由でいじめられ、めがねをつけたまま顔面を石にたたきつけられて、視力を落とした子だっていたのだ。それについても話をした。少しはあの子が報われていると良いのだが。

ともかく、これからはまっとうな生活をしなければならない。

頷くと、燐火は新しい家で、やっていく覚悟をするのだった。

 

1、おとうさんはVtuber

 

学校は前とはまるで違った。ちゃんと授業を受けていて、それが驚きだった。

おとうさんとおかあさんがちゃんと調べてから、学校に通わせてくれたのだ。それで、随分楽だった。

授業についても遅れがあることは先生も知っているらしい。

授業中生徒が騒ぐようなこともなく。

先生も、きちんと生徒を見て指導していた。

どれだけそれがすごいことか。

燐火は知っていたので、うれしかった。

一応話しかけてくる女子もいたが、物静かな子だと認識されているようで、あまりグループに誘うようなことは強要してこない。

或いはだけれども。

訳ありだと理解しているのかもしれない。

学校で食事だってできる。

前は休み時間なんて暴力が常に飛び交っているような有様で、給食なんてまともに食べられたものではなかったのだ。

普通に給食を食べられるだけで、燐火には驚きだった。

ともかく、全く違う学校にしばらくは警戒していたけれど。

特に怖がることはなさそうだなと思って、やっと少しずつ安心する。

体のあちこちにあった古傷も、少しずつ消えていく。

一生ものだと教師が笑っていたっけ。

あの教師も、捕まったと聞いている。

学校にいた教師のほとんどが逮捕されたらしく。一度学校は廃校になって、再建するらしい。

まあ、それもそうだろう。

給食もあまりおいしくはないけれど、普通に食べられるものが出てくる。

以前はそれすら望めなかった。

なんでも給食業者が材料とか調理過程とか手を抜いていたとかで。

しかも、そんなまずいものを食べさせられた上に。

残そうものなら、容赦なく暴力を振るわれるのが当たり前だった。

それらを聞いたとき、おかあさんは言っていたっけ。

本当に令和の学校の出来事か、と。

その時令和というのもなんだか知らなかった。

それを聞いて、言葉もないという表情だった。

少しずつ、あらゆる全てを覚えていかなければならない。

勉強に関してはあまりケルベロスは関与しないという話だったので、燐火が覚えていかなければならない。

とにかく授業にはついていけないけれど。

それでも少しずつ、できることから覚えていかなければならなかった。

四則演算から練習していると。

隣の席のませた感じの女子が話しかけてくる。

柊涼子というらしいその子は。

前から燐火が気になっていたらしかった。

「燐火さん、前の学校で何かあったの?」

「ええと……」

「流石に勉強がとても遅れていると思って。 なんならお父さんとお母さんに教えてもらったら」

「おかあさんは忙しくて頼めません。 おとうさんも」

無言になる涼子。

それから先生に何か言ったらしく。

授業が終わった後に、勉強を教えてくれると言うことだった。

今、学校の先生はものすごく忙しいらしい。

だから渡されたのは、ドリルだったけれど。

それですら、負担らしい。

「平坂さんは、明らかに勉強が遅れています。 このままだと、色々と大変ですから、今のうちに取り返しておきましょう。 先生も、ご両親から実情を聞いています。 授業にも一生懸命取り組んでいるのは見ています。 それでも四年分の遅れは大きい。 だから、少しずつやっていきましょう」

「はい」

「勉強に意欲的なのは何よりですね。 勉強を嫌いにならないように、先生の方からもサポートします。 だから、諦めずにやっていきましょう」

渡されたドリルを持って帰る。

家に帰ると、おとうさんは防音室にいた。

おとうさんはVtuberという仕事をしている。

なんだかいう企業に属しているVtuberだそうだ。

動画を配信して仕事をするもので、昔で言うタレントとかアイドルとかみたいなものだそうだ。

今の時代は、昔はテレビで活躍していたアイドルよりも、Vtuberの方が遙かに発信力が高く、勢いもあるらしい。

とはいっても、燐火はテレビなんてぼんやりとしか見ていなかったから。

昔をそもそも知らないのだが。

おとうさんは一度防音室に入ると、半日くらいは出てこない。

一緒に食事をしない日も多かった。

ただ、今日は出てきていた。

おとうさんは多少なよっとしているけれど、それでも普通のサラリーマンの十倍くらい稼いでいる。

だから、このうちの大黒柱だ。

「お帰り燐火。 それは」

「教師に渡されました」

「ああ、ドリルか。 見せてごらん」

「はい」

さっとおとうさんが見る。

平坂伍布という名前のおとうさんは、Vtuberとしてはかっこいい名前で活動している。ただ、体力的に厳しくなってきたと、時々ぼやいていた。

「なるほど、小学生入ったばかり位の内容だね。 無理はしないで、少しずつやってごらん」

「わかりました」

「……」

少し寂しそうに燐火を見るおとうさん。

燐火はおとうさんなんてものは知らないので、基本的にまだ少し怖い。大人の男の人が燐火にどう接してきたか。

今頃になって、それがわかってきたから。

余計に怖いと感じているのだと思う。

ソファでぐったりしているのを横目に、もらった部屋に入る。

黙々とドリルをやっていく。

ちょっと疲れるけれど。

これは、ある程度理解できる。

理解できる内容は、苦ではなかった。

「ふむ、子供にもきちんと教育をしているのはよいことだな」

「ケルベロスさんの時代は違ったの?」

「ああ。 俺がいた時代には、ギリシャは市民という者だけが教育を受けていた。 市民と言っても今の時代とは違っていて、特権階級だったがな」

「わからない」

色々わからないことを言われたので、ケルベロスは困ったようだったが。

ともかく、勉強については基本的には自分でやる。

ただ、細かいところで、たまに教えてくれるけれど。

「なんでリンゴとかミカンとかで考えるの?」

「四則演算というのは、数字を扱うものだからだ。 それは何も数字遊びをするためのものではなく、生活などで役に立っていくものなのでな」

「そっか」

「例えばリンゴを何人かで分けるこの問題は、実際に起きうることだろう。 じきにもっと大きな数字も扱うようになる。 だから、しっかり覚えておくと良いだろう」

なるほど、そういうものなのか。

後に生活で役立つ。

そう思えば、楽かもしれない。

ただケルベロスは、国語の時は完全にだんまりだった。文字そのものを読めないらしい。

実は燐火もひらがなはどうにか、だったので。

あまりケルベロスのことはいえない。

日本語は世界でも上位に食い込むくらい難しいそうで。

ケルベロスは翻訳して意思に話しかけてきているらしいのだけれども。それも時々ちゃんとした翻訳が出てこなくて困るそうだ。

勉強をみっちりやっていると、おとうさんが来た。

少し休んで、それで疲れがとれたらしい。

部屋の真ん中にある机にぺたんとすわって勉強していた燐火に聞いてくる。

「どうだい、できたかな」

「少しずつ頑張っています」

「見せてみなさい」

「はい」

ドリルを渡す。

さっと見ていくおとうさん。

なんでも勉強について扱うような配信をやるらしく、勉強については生半可な教師よりも知識があるらしい。

「ここが間違っているね。 一緒にやってみよう」

「わかりました」

「……」

少し寂しそうにするおとうさん。

どこがどのように間違っているか、丁寧に教えてくれる。理解しやすいように教えてくれるので助かる。

間違いの理由についても理解できた。

国語についても、ケルベロスと違ってとても詳しかった。

「馬鹿な教師の中には、文字の書き方にまでケチをつけるのがいるけれど、まあそんなのは気にしなくていい。 とにかく読める文字を書ければそれでいい。 数字についてもそれは同じだよ。 それで、ここはちょっと違うから、もう少しゆっくり考えてみよう」

「はい」

素直に答えているというよりも。

そう答えなければ殴られたから、そういう風な習慣がついた。

孤児院での話だ。

学校では授業なんて機能していなかったこともある。

座って勉強をすることさえ困難ではないかと言われていたこともあったのだけれども。燐火は座って過ごすのには慣れていた。

元々それほど活動的ではなかったからかもしれない。

「よし、正解だよ。 具体的にどうやったのか教えてごらん」

「ここのあまりを見逃していました。 それで」

「よくできたね。 飲み込みが早いよ。 そのまま、できるところまでやっていこう。 大丈夫。 勉強についていけていなくて、このくらいのこともわからない子はざらにいるからね。 下手をすると高校生でも」

「わかりました」

でも、それはとても悲しいことだなと燐火は思った。

できるだけ覚える。

その後は、問題を消して反復でやってみる。

間違える場所が出てくる。

おとうさんによると、間違えるのは仕方がないという。人間は、100やると1か2はどうしても間違えるのだそうだ。

重要なのは、その間違いを自分で見つける力だという。

終わった後、見直すことを教えてもらう。

それで、間違いはぐっと減った。

アラームがなる。

夕食の時間らしい。

おかあさんは今日もお仕事だ。おとうさんと食べる。

おとうさんはちゃんと料理ができるかというとできるのだけれど。ただ仕事が忙しくて体力が残っていない。だから食べるのは出来合いだけれども。

それでも孤児院で食べていたものが何だったのかわからないくらい、おいしかった。

「おなかとか痛くはなっていないね」

「はい」

「まだ体は万全じゃないから、栄養士に相談は受けているんだ。 出来合い中心の食生活だとどうしても厳しい」

それでもご飯はちゃんと炊いているので、おとうさんは立派だと思う。

その後、おとうさんは短時間の配信をするらしくて。

いざというときはならすようにと、ブザーを渡して防音室にこもった。

後は、黙々とドリルをやる。

見直しをするという癖を覚えたので。

それをやって、少しでもできるようになっていきたい。

でも、そうしていると。

愚図とか馬鹿とかずっと言われていたことを思い出す。

それが、時々足かせになる。

勉強の手が止まる。

顔をゆがめて、ブスとか愚図とか馬鹿とか。周りがゲラゲラ、心底楽しそうに笑いながら言う。

それを見て泣けばもっと笑うし。

感情が凍り付いて何も言い返さなくなってからは、顔をゆがめて暴力が振るわれるようになった。

それを思い出すと、時々手が止まる。

ケルベロスが、声をかけてくる。

「体の傷は治りつつあるが、心の方はそうでもない。 だから、今は少しずつやっていけばいい。 燐火よ、お前の集中力はずば抜けている。 お前を馬鹿にしていた者達の誰よりも、だ。 だから気にせず。そのままやっていけば良い」

「わかりました」

「もっとラフな感じで良いぞ」

「はい」

そう言われても。

どんな風に話せば良いかは、よくわからない。

言葉が戻り始めたのも最近なのだ。

ケルベロス相手には、多少は普通にしゃべれる。それでも油断すると、すぐ敬語になってしまう。

普通はおとうさんやおかあさんと、もっと違うしゃべり方をしているのだろうか。そう燐火は思った。

 

少しずつ、学校の授業について行けるようになった。

基礎からやっていくと、できるようになる。

そうケルベロスに言われたけれど。

本当だったんだなと、ちょっと驚いた。

ただ、体育は苦手だ。

どうしても体が他の子よりも小さいと言うこともある。

崖から落とされたときのけがはケルベロスが治してくれたらしいのだけれども。それはそれとして、元からの栄養が足りなかったらしい。走るのも跳ぶのも、他の子よりずっとできなかった。

こればかりは生まれついてのものと。

もっと幼い頃に培われる基礎体力というのが大事らしい。

燐火は実の両親なんて覚えていないけれど。

良い思い出なんてそもそもない。

それは要するに。

孤児院時代以上に、ひどかったと言うことに他ならない。

優しい親なんてものは見たこともないので。

今だって、丁寧に接してくれるおとうさんとおかあさんに、どう接して良いかもわからなかった。

体力だけはそれでもあるらしい。

あくまで人並みだが。

それで、体育の時間は飽きて遊び出す子を尻目に、黙々と言われたことをやり続けてみる。

それである程度ものになるのだから、よくわからなかったが。

「基礎体力がないから、どうにも困ると思ったが、根性はあるな。 そのまま、練習を続けていけば、周りにきっと追いつけるぞ」

「ありがとうございます」

「はっはっは! もっと子供らしい返事で良いぞ!」

そういって豪快に笑う先生は、女性の体育教師だが、背は男性の大人と代わらないくらいある。

体力もすごく、なんだかいう格闘技の大会で国の大会にでるくらいの腕前まであるらしい。

まあそれもあって、男子も舐めている生徒は一人もいなかった。

燐火は大人の悪意はいくらでも見てきているし。

この人に悪意がないのはわかるので、それで別に怖いとは思わなかった。

ともかく言われたメニューは様子を見ながらこなす。

他の子が親からもらったスマホをいじっている間に走る。勉強もする。

それを見て、真面目な奴と思われたのかはよくわからない。

ただ、勉強が遅れているからと説明して。

それでそうなんだとは言われたけれど。

だけれども、できなかったことができるようになり。

わからなかったことがわかるようになると。

それらは俄然楽しくなっていく。

かけっこで男子に初めて勝ったのは、学校に行き始めて七ヶ月たった頃だったか。足が速い子ではなかったけれども。それでも女子の大半が勝てない相手だったから、それはうれしかった。

走り方についても、体育の先生……教師と呼んでいたけれど、先生と呼ぶことにした。ともかく、体育の先生が教えてくれるとおりにやって、できるようになっていった。

勉強も、周りに追いついた。

ただ、まだできる子ほどじゃない。

最初は明らかに距離を置かれていたのがわかっていたが。

それも今では、普通に話しかけてくる生徒が増えてきていた。

でも、まだ普通くらいだ。

ケルベロスに言われる。

勉強に無駄など一つもない。

それに、追いつけたのは国語と算数。絶対に必要なものだけ。それを考えると、まだまだ先は長いのだと。

歌とか体育とかはまだまだ。

走るのはできても、とんでもない基本が全くできていなかったりする。

どうも燐火は興味がないことにはてんで興味を向けないらしく、ケルベロスにもそれは時々言われた。

これは単にやりたくないとかそういう話ではなくて。

そうすべきだと気づけないということだ。

今までは精神的に余裕がなかったから、それも仕方がなかったが。今後は他にも目を向けた方が良い。

ケルベロスにそう言われると、そうなのかと納得もする。

燐火はとにかく、それからも頑張る。

できるようになった国語や算数は、他の子に追いついたのだから、追い越すようにやっていこう。

そう言われて、頷くこともできた。

遊びたいという意欲はあんまりない。

おそらくだけれども。

あの前にいた学校。

それに孤児院。

後は、覚えていないけれど燐火の両親のところ。

それらで、根こそぎ削り取られたのだと思う。

欠落している。

そういう意識はある。

だけれども、今はどうしていいかすらもわからないのが燐火の真実だ。

それに、もう一つ気になることもある。

算数のテストで100点を初めて取って、それで少しだけうれしくなって。家に帰る。家によっては、100点はとって当たり前みたいなことを子供に強制する場所もあるのだとか聞く。

前の学校とかの惨状を知っていると。

燐火はそれを決して笑えなかったし。

今、これでおそらくおとうさんもおかあさんも褒めてくれるだろうと思うと。

それで、家に帰ってみると。

おとうさんは防音室。

おかあさんはまだ帰っていない。

だけれども、待つことはできる。

待っている間に、ケルベロスに聞いてみる。

声に出さなくても、意思は通じるので、それはとてもありがたい。

「ケルベロスさん、聞いてもいい?」

「なんだ」

「用事ってなに?」

「ああ、お前を助けてこの世界で部分的に活動している用事だな。 ……そうだな、そろそろ話しておくか。 まず前提として、俺は元々この国の神格ではない」

それについては最近知った。

ケルベロスというのは、ギリシャって遠くの国の昔話に出てくる犬だ。

でも、悪魔とか言われているけれど。

実際には神が作り出した存在で、しかもケルベロスは神々の味方として活動している。

地獄の番犬とか言われていると聞いた。

それを考えていると、ケルベロスは珍しく怒った。

「俺は地獄の番犬ではない!」

「ごめんなさい」

「いや、これは勘違いが多いから仕方がないな。 ……俺のいたギリシャの地では、人間は死ぬと冥界にいく。 その中でも特に悪い奴が地獄に落ちる。 俺はその冥界の入り口で、死んだ人間がこの世界にさまよい出ないように見張る役割をしている。 地獄の方は、ヘカトンケイレスという三体の巨人が見張りをしているのだ。 強いて言うなら、地獄の番人がヘカトンケイレス。 俺は冥界の番犬だな」

「そんな大事な役割なのに、日本に来ていて良いの?」

今来ているのは、分身みたいなものなのだと教えてくれる。

いずれにしても、ケルベロスに地獄の番犬というのは地雷らしい。

地雷というのは少しずつわかってきた。

自分にないものだけれども。

それはそれとして、他の人が悲しむようなことはしてはいけない。これはおとうさんにもおかあさんにも教わった。

前の学校では、如何に人を苦しめるか。

苦しめることができる人間が偉い。

そういうことをずっと子供達がやっていた。

それにどうしてもなじめなかった燐火は、自分の方がおかしいのではないかとずっと思っていたのだけれども。

少なくとも燐火は、おとうさんとおかあさんの言うことを聞きたい。

「俺はこの地にさまよい出てしまった者を探していてな。 あまり俺も好きな相手ではないのだが、それでもギリシャの地の信仰は今色々厳しくて、動ける中で知名度がたかい俺に白羽の矢が立った。 幸いこの地の神々は寛容で、俺が活動することを快く許可してくれたのだ」

「単身赴任っていうの?」

「ああ、そんなようなものだな。 いずれにしても本来俺は日の光が苦手で、浴びることは好きではない。 だから用事が終わったら、お前に体を返して出て行く。 その時、場合によってはお前はどうするか決めて良い。 冥界に行くか、それとも生き続けるか」

この世界は、決して良い場所ではない。

ケルベロスはそう言う。

それは、燐火も思う。

孤児院の先生が、あの後逮捕されて。懲役三十年とかの判決が出たことは後から知ったけれど。

あの狂った学校の関係者全員が逮捕された訳ではなく。

中には平気でまだ先生をやっている人間もいるという。

それを聞くと、ケルベロスの言うこともわかるのだ。

「俺が探している奴は、ダイモーンを多数つれている。 おそらく俺が探している奴はそれを制御できていない」

「ダイモーン?」

「キリスト教でデーモンの語源になった言葉だ。 強いて言うなら霊とでもいうのが正しい。 人間に見えない不可思議な存在で、これ自体は悪にもなるし善にもなる。 キリスト教では悪魔と一括されたがな」

キリスト教はなんとなくわかる。

十字架が掲げられた教会というのは知っているからだ。

「基本的に戦うことはない。 ただ……」

「ただ?」

「まあ、いずれわかる」

そうか。

いずれにしても、燐火もケルベロスには助けてもらった。それも随分とだ。

だから、助けになるならしたい。

それは、心から思っていた。

 

2、壊れた心を拾い集めて

 

勉強はできるようになってきたし。

運動もできるようになってきた。

それどころか、勉強はむしろサボっているような生徒よりもうできる。それを、平坂燐火の隣の席にいる柊涼子は冷静に見ていた。

頑張り屋さんというよりも。

まったく笑わないので、機械みたいだ。

最初、いじめてやろうと目をつけていた男子もいたのだけれど。

ガラス玉みたいな目で見られて、それで黙り込んで、以降は基本的に話しかけることはしていない。

それになんだか異様な気配もあるのだ。

あいつ怖いから、近寄らないようにしよう。

そう男子が言っているのを何回か聞いた。

まあ、どうでもいい。

涼子はどちらかというと背が高い方で、発育は悪くない。この年くらいまでは、女子の方が男子より運動神経がよかったりするが、涼子もその一人だ。

たまに燐火とは話をする。

燐火はびっくりするほど忘れ物をしないので、たまに消しゴムとか貸してもらったりすることもある。

それはそれとして、目に光がないのはずっと代わっていないが。

ただ、無表情なのを除くと、随分とかわいい子である。

それについては、同性である涼子も、何かの訳ありだろうとは思っていたが。

終礼が終わったので、帰る。

燐火に声をかける。

たまには一緒に帰らないか。

そう提案すると、頷かれた。

昔は集団で登下校とかしていたらしいが、生徒の数が減った今では、それもなくなってきている。

生徒は適当に、仲良し同士で帰るのが普通だ。

まあ通学路にはボランティアのおじさんおばさんがいるのだが。

それはそれである。

一緒に歩いていて、燐火の体に所々あった傷がもうなくなっているのに気づく。

燐火は訳ありだ。

それは知っていた。

先生が警察と話していたし。何かあったらすぐに言うようにとも言っていた。

それに一切合切子供らしくない。

他の子が、休み時間には親にもらったスマホでゲームして遊んでいたりするのに、一切興味を見せない。

騒ぐこともないし。

異常に落ち着き払っている。

涼子も色々と訳ありではあるのだけれども。それでも燐火がどんな悲惨な目に遭ってきたのかは。

想像するのも恐ろしいと考えていた。

それにだ。

「ええと、燐火ちゃん」

「なんですか」

「ええと、同級生なんだし、敬語やめない?」

「ごめんなさい。 癖なので、簡単には崩せません」

そうか。

これも、とても近寄りがたい理由の一つだ。

燐火は丁寧に敬語でしゃべるのだが。

それもまた違和感だった。

敬語なんて、大人でも使いこなせている人は滅多にいないと涼子は知っている。世界でも屈指の難易度を誇る日本語の敬語は、使っている日本人ですら難しくて辟易するほどのものだ。

勿論たまに燐火も敬語を間違っているらしいのだけれども。

涼子にはそれはわからない。

「うちの学校はいじめとかは先生が見ていて、しっかり指導するようになっているから大丈夫だけれど。 進学すると、男子とか今よりずっと乱暴になるよ。 燐火ちゃん今悪い意味で目立ってるから、少しは自然にした方が良いと思う」

「ごめんなさい。 少しずつ慣れるようにしています」

「……」

ちょっと反応に困る。

それは早い話が、もともといた場所がろくでもないと、自白しているようなものだ。

涼子はどちらかというと、正義感は強い方らしい。

ずるを平気でする大人は大嫌いだし。

虚言癖のある人間も大嫌いだ。

ただ、燐火の両親がまともそうな人だというのも知っているし。

少しずつ色々できるようになってきていることも知っている。

だから、今の両親に問題があるのではないこともわかる。

問題があるとすれば、転校してきた前の学校だろう。

反吐が出る話だが、涼子の周囲にも、いじめはされる方が悪いと抜かすカスはいる。涼子は多少空手の心得があるので、そう抜かしていた男子生徒の腕をへし折って、力をうまく振るえないようにしたことがある。

それ以来その男子生徒はすっかり涼子におびえきっている。

あれは放置していれば、いずれろくでもない奴になって、周囲に災厄をまき散らしたことは確定している。

カス野郎の腕を折ったことは親に随分怒られたけれど。

涼子はそれで悪いことをしたとは思っていない。

ただ、常に自分が正しいとも思っていない。

正しくあろうとは思っているが。

「うちはこちらなので行きます」

「あ、うん。 明日も少し話そうよ」

「努力します」

やっぱり壁があるな。

そう涼子は思った。

今いる学校は、ランドセルは使っていない。昔はどこの女子小学生も使っていたらしいけれど。

今では使っていない学校もある。

家に戻る。

涼子の家は片親だ。

母親が浮気して出て行った。

それがばれたとき、母親は「真実の愛」がどうのこうのとか抜かしていたが。涼子ですら、相手がホストであり、金のために母親に甘い言葉をかけていたのはわかっていた。

あんたなんか親じゃない。

そう言い切ったとき、豹変した母親は涼子に花瓶を投げつけてきて、何かわめいていたけれど。

それが原因で余罪も追加されて、今では執行猶予中だ。

涼子の父は真面目に働いていて、家族のためにお金だって稼いでいた。そのお金を根こそぎホストにつぎ込んでいたカス。

そういうのがいるのを知っているから。

涼子は周りみたいに、ずるを平気でするような奴にはなれなかったし。

子供を産めば精神的に大人になるとか。

そういう寝言も一切信じてはいなかった。

家で、黙々と勉強をする。

さっさと自立して、最終的には弁護士か何かになりたい。

それには今のままでは駄目だ。

ただ、忘れてはならないのは。

あの母親のようになってはいけないということだ。

昔正義感はそれほど強い方ではなかった。

それでも、フェミニズムだとかいうのにはまって、父親の悪口ばかり周囲の「ママ友」に言いふらしていた姿は知っているし。

それを涼子に強要しようとしていたこともわかっている。

そして母親が慰謝料つきで放り出されたとき。

さっさとホストは逃げ出して。

それでありながら、周囲のママ友とやらは、母親の擁護ばかりをしていたのも忘れていない。

だから正義感が育った。

あんな大人にならないためにも。

涼子は身を焼くような正義感を持ち続けていなければならない。

デスクに向かうと、宿題は全て片付けてしまう。

実のところ、小六の勉強までは全て理解している。

中学受験をしてはどうかと言われたことがあるが、興味はない。

父は放任主義で、基本的に涼子に何か言うつもりはないようだ。今もしっかり稼いでいるし。

屑が家からいなくなったことで、むしろ生活は豊かだ。

黙々と勉強をする。

今の時点では、涼子も歪んでいるのかもしれない。

だけれども、「普通の人間」が如何に醜いかを知っているから。別に歪んでいても、どうでもよかった。

 

燐火は理科の勉強をしていて、ちょっと困っていた。

ケルベロスはだんまり。

わからないことについては教えてくれない。

それに、考えればできることについても、余計な口出しをするつもりはないらしい。

それでいいのだと燐火はわかっているけれど。

それでも、ちょっと困っていた。

おとうさんが防音室から出てきて、ぐったりした様子でソファにいる。

おとうさんの配信は見た。

十五も若い年の設定のキャラクターのがわをかぶって配信をしているのだけれども。ずっとリアクションをしていて、これは疲れるなというのがわかった。

のど飴も消費が激しい。

ちなみに似たようなVtuberが所属する会社にいるらしいのだけれども。

もっと稼いでいる人も珍しくないらしい。

昔、テレビタレントが稼いでいたくらいは稼いでいる人もいるそうだ。

昔と言われても。

燐火にはわからない話だが。

「燐火、苦労しているかい?」

「どうにか頑張ってみます」

「そうか」

ちょっと寂しそうだ。

理科の教科書を読み直して、ドリルをもう一度見る。やっぱりどうしても難しくてわかりにくい。

何度か苦労しながら空欄を埋めていくと、おとうさんが採点してくれる。

結構間違っている。

ちょっとため息が出ていた。

「うーむ、暗記は苦手かな」

「覚えることですか? 確かにちょっと苦手かもしれません」

「そうだね。 ともかく、理科も覚えて損がない分野だから、きちんと勉強しておこう。 ちょっと教科書を見せてごらん」

「はい」

そのまま教科書を出すと、さっと目を通すおとうさん。

おとうさんはVtuberとしては馬鹿なキャラクターをやっているのだが、実際にはとても博識だ。

ただそれはファンにはばれているらしくて。

ファンのコミュニティを見ると、明らかにファッション馬鹿だと言われているのがよくわかる。

ファッション馬鹿というのはよくわからないが。

どうもVtuberとしてのキャラクターとして、それで売っているらしい。

実際には厳格で真面目な人が、芸能人としてはいい加減な性格を装っているようなこともあったらしいから。

それに近いのだろう

珍しくおかあさんが早めに帰ってきた。

それで、疲れ切っている様子なので、教科書のこことここをよく読みなさいと付箋を貼り付けた後、夕食を作りに行った。

色々大変だ。

おとうさんだって、徹夜で配信とか普通にしているのに。

ただ、あの燐火を裸にして写真を撮ったり、触ったりしていた時の孤児院の先生みたいな、明らかに邪悪な目で見ていることはない。

今はそれがわかるから、ある程度安心はできていた。

「覚えるの苦手」

「ああ、どうもそうらしいな。 だが、俺が知る限り、理科の知識をきちんと身につけておくのは大事だ」

「そうなの?」

「ああ。 今は世の中に、嘘の情報がたくさんあふれている。 これから理科はもっと難しい内容に触れていくが、それらをきちんと覚えていれば、だまされないような情報も多い。 それにそういう情報は、学校の勉強なんて全部忘れているような人間を狙い撃ちにしている。 燐火はそういう悪意に勝てるように、勉強をしておくといい」

それは、わかる。

確かにやる意味はある。

黙々と、勉強に戻る。

世の中には悪い人がたくさんたくさんいる。いや、悪い人の方が多いくらいだろう。

今の学校だって、先生がしっかりしているから。いじめがあったら、すぐに摘発されて。相応のペナルティがある。

それでもいじめがしたくてうずうずしている奴はいくらでもいる。

人間はそんな程度の生き物なのだと、燐火は少しずつわかり始めてきていた。

ただ、おとうさんとおかあさんみたいに、それにケルベロスみたいに。

ましな人も少しはいると信じたい。

「あの涼子という娘な」

「隣の席の。 興味があるみたいだけれど」

「あれとは仲良くなっておけ。 あれはスペックからして数年分は他の子供の先を行っている。 それに、見たところ境遇もあまりよくない。 ある程度、話は合うはずだ」

「わかった」

ともかく、今は理科を覚えるか。

おかあさんを寝室に連れていくおとうさん。

すぐ戻ってきた。

限界だし、すぐに眠らせたというわけだ。

少し聞いたのだけれど、今とても難しい事件が発生しているらしくて、警察はとにかく大変らしい。

理科の教科書を覚えていると、おとうさんは一瞥だけして、それで防音室に戻っていった。

まだまだやることがあるらしい。

明日の配信の準備とか。

自分が所属している会社への書類の提出。

それになかまとの打ち合わせ。

そういうのもあるから、あまり休む時間もない。

ただ、二人とも、きちんと燐火には親として接してくれている。

涼子も言っていたけれど、同級生に敬語を使うのはやめなさいと言っていたっけ。

ただ、燐火はまだまっとうな言葉を覚えるところからだ。

必要な勉強はなんとかできるようになってきたけれど。靴のひもを結ぶとか、そういうのも少しずつ順番に覚えているところだ。

まだまだなのである。

だから、一度に全部はできない。

ましてや、これは殴られながら仕込まれたことだ。

簡単には抜けない。

今、周りが平和になって、少しずつわかってきているけれど。あの環境は明らかにおかしかった。

今は、違う。

だから、環境を崩すのは、勇気がいるのだ。

仕事が終わったおとうさんが、おかしを出してくる。

それにケルベロスが反応したのがわかった。

ケルベロスはとてもあまいものが好きだ。

特に蜂蜜には目がないらしい。

蜂蜜入りのクッキーが好きだというと。おとうさんはいつもは出せないけれどと言ったけれど。

それでも時々、いいのを買ってきて食べさせてくれる。

燐火は実のところ甘党ではなく、どちらかというと辛党なのだけれど。

ケルベロスにはお世話になっているので。

甘いクッキーを食べるのは、お礼も兼ねていた。

「ありがとうございます、おとうさん」

「ああ、いいんだよ。 それにしても、チョコチップとかでなくていいのかい?」

「これがいいです」

「わかった、また買ってくるよ」

目を細めてこちらを見ているおとうさんは、くたびれ始めている。

体もしまりがなくなってきているし、髪の毛だって薄くなってきている。

それでも、家のために働いている。

おかあさんとは十歳くらい違うらしいけれど。

おかあさんもおとうさんのことは誰よりも信頼している。

いい夫婦なのだと思う。

だから、燐火は其処に水を差したいとは思わない。

おかしを食べ終えると、もう少し勉強だ。ケルベロスがご機嫌なのがわかる。それに、である。

ケルベロスが教えてくれた。

「甘いものは必要な栄養の一つでな。 特に考えるのには大事な役割を果たすのだ」

「そうなんだね」

「ああ。 食べすぎると毒にはなるが、それでもきちんと食べておかないと、大事なときに頭が働かないぞ」

「うん」

ただ、甘いものには必ずしも最初からわかりやすく甘いものだけではなく。

例えばご飯とかも甘いものに分類されるという。

口の中でずっとかんでいると甘くなっているから、試してみろと言われて。それで確かに甘くなるので驚いた。

そういうものなんだと知る。

それが理科になるのだと言われて、少し興味が出た。

興味を持つと勉強が進むのは事実だ。

ケルベロスも満足そうだ。

この様子だと、どうやったら燐火に興味を持たせられるのか、考えていたのかもしれない。

いずれにしても、理科の勉強は、それから進むようになっていった。

 

鏡の前に立つ。

顔にあったいくつかの傷は、もうきれいになくなっていた。

ケルベロスがいうままに、口の横に指をやって、つり上げてみる。笑顔を少しずつ作れるようにするためだ。

表情筋が死んでいる。

そんなことを言われた。

まあ、笑おうが泣こうが殴られていたからだろうとケルベロスはいう。

記憶にはないけれど。

燐火の血縁上の両親はそういうことをしていた可能性が高い。

虐待を受けた乳幼児は泣くことをしなくなる。

それは決してよいことではない。

そうケルベロスは言うけれど、覚えていないことだから、なんともいえない。

「少しで良いから笑えるようにならないとな。 面白いと思えることに、もう少し興味をさいてみると良いだろう」

「面白いがわからない」

「ああ、そうだったな。 今、興味を持ったことができるようになってきているだろう。 その延長線上だ。 お前の父、ええとVtuberとしてはなんだったか」

「火柱烈火」

そうそうと言いながらケルベロスは続ける。

おとうさんの配信に興味を持っているなら、どうして面白いのかを考えてみるといいと。

理科の勉強も、同学年においついた。

箸の使い方とか、少しずつできるようになってきている。

だが、次は五年生だ。

五年生のクラスでも、周りが理解がある人間かはわからない。

それもあって、ある程度周囲になじむ方法を覚えなければならないし。

自衛の手段もあった方が良い、というのだ。

周囲になじむ方法と言っても、前の学校みたいな場所になじむ必要はない。ただ、なじめるなら、なじんだ方がいい場所だってある。

そう言われると、そうかもしれない。

ずっと周囲ににらみを利かせてくれていた涼子には随分助けられた。

結局敬語は崩せなかったが。

それは、これから少しずつ改善していくしかない。

ケルベロスには普通にしゃべれているのだ。

親しい相手には、敬語でしゃべれるようになっていくのが今後の課題だとケルベロスは言う。

とにかく表情の作り方を練習した後、いくつか他にもやってみる。

人間は基本的に、相手が気に入らなければどんな屁理屈でもつけて排除にかかるとケルベロスは言う。

勿論相手に媚態を尽くす必要はない。

要は相手に侮られないことだという。

何かしら弱点や、他と違うものがあれば侮ってくる。

そういう輩に侮られないためには、力を身につけた方が良い。

そう言われた。

「一番良いのは母親に稽古をつけてもらうことだな。 俺が見たところ、あれはかなりできるぞ」

「自分と体格があまり代わらない男の人を簡単に制圧していたっておとうさんがいっていたよ」

「そうだろうな。 パンクラチオンでもやらせたら面白い試合をするかもしれん」

昔ギリシャで行われていた激しい格闘技らしい。

咳払いすると、ケルベロスはいくつか教えてくれる。

それから、少しずつ表情を作れるようにすること。

自分を自分で守れるようにすること。

少しずつできることを増やしていく。

体力がついてきたことで、体の動かし方は少しずつわかってきた。それを、ケルベロスの指導で少しずつやれるようにしていく。

体も柔らかくする。

体は普通にしていると、あまり柔らかくならないらしい。

人間の体はただでさえ戦闘向きではないらしくて、意図的に鍛錬しないとまともに動かせるようにはならないとか。

それもあって燐火は黙々と言われたとおりに体を動かす。

遊んでいる暇なんてない。

燐火はとても周りから遅れている。

一年ちょっとで取り戻しているのは、むしろ奇跡に近いほどだと言われているくらいである。

だが、それでもまだ足りないのだ。

燐火の心にはひびが入っている。

そうケルベロスには言われた。

だが、それは少しずつ修繕していくことができるらしい。

最終的には笑えるようになろう。

そう、言われた。

 

3、ダイモーン

 

五年生になった。

クラスは涼子と同じ。

涼子と同じクラスなのは安心できる。

何人かの男子は、冷凍イカの目とか燐火の陰口をたたいているのを知っていたけれども。別にどうでもいい。

関わることはないし。

仲良くなろうとも思わないからだ。

人間の大半とわかり合うことは不可能だ。

それについては、ケルベロスに言われた。

友達がたくさんいるなんて言っている奴は、大半の相手を友達だと思っているだけ。

実際には、数人だけでいいから、本物の友達を作ればそれでいい。

だから、今は涼子と友達になっておけ。

友達は対等の存在であるから、敬語をできるだけ使わないようにしゃべれるところからだ。

そうも言われた。

五年からは道徳とかも授業が増えたけれど。これについては、他の生徒も同じなので、今までと違ってハンデはない。

それはそれとして、できることは一つずつやっていく。

歩き方とかも矯正される。

これも無駄が多い歩き方とかがあって、燐火はそれをやっていたらしい。

少しずつ運動神経もよくなってきていて、クラスの一番足が速い男子にこの間ほとんど同着した。

今後は力の差が出てきて、いずれは勝てなくなるらしいけれど。

体育の先生がとても褒めてくれた。

燐火が真面目に練習をしているのを見ていたらしい。

運動については、現時点では満足できる水準まで行っている。

後は体格だと言われて、食べる量を増やすようにケルベロスに指示された。

男だろうと女だろうと、体格がしっかりしている方が有利だ。

そういう話であるらしい。

確かに、少しずつ柔道と合気道、それに空手をやっている今。体格がどうしても足を引っ張っているとは感じる。

中学になると柔道を授業でやるらしい。

それもあって、今のうちからある程度できることはやっておけと言われている。

だから、やっておく。

遅れは取り戻しておく方が良いからだ。

遊ぶ暇は一切ないが。

それも仕方がないことだ。

周りの子供が遊んでいられるのは、それだけ今までの蓄積があるから。燐火にはそれがない。

黙々淡々と、やるべきことをやる。

それを見て、燐火を真面目ちゃんとか馬鹿にしている男子もいたが。

放っておけと涼子にもケルベロスに言われた。

ああいうのは、自分より下の存在を作って、それで満足したいだけの輩だという。相手にするだけ時間の無駄だと。

二人そろって同じことをいうので、ちょっと驚いたけれども。

或いはそれが真実だから、同じ言葉で一致するのかもしれない。

ともかく、五年生になってから、色々更にできることが増えた。

おとうさんとおかあさんと一緒に遊園地にもいった。

ただ、まだうれしいとか楽しいとかはわからない。

だから、二人に礼は言うけれど。

二人が意図していたような楽しさは味わうこともできなかった。

周りの全ては覚える。

とにかく、全て覚えていく。

無駄なことなど一つもない。

そうして、五月になった頃。

最初の、「仕事」がやってきた。

 

土曜日。

近くの公園があるので、そこで体を動かす。ケルベロスに言われて、体作りをしているのだけれども。

その最中だった。

ケルベロスが、不意に言う。

「手がかりだ。 匂ってきた」

「探している人の連れているダイモーン?」

「そうだ。 この国ではダイモーンはそれほど知られている存在ではなく、明らかに周囲の神霊と比べて浮いている。 概念としては霊だから、雑多な神霊と変わりはしないのだがな。 それでもギリシャ由来となると異質だ」

「どうすればいいの?」

ケルベロスは、戦う必要はないこと。

まずは、相手を見つけること。

この二つを教えてくれる。

おかあさんには、最低限の機能だけ持たせた子供向けスマホを渡されている。通話と居場所の確認だけできるものだ。

そもそも学校で見せることがないので、これを持っていることさえ周囲は知らないかもしれない。

同年代でも、暇さえあればスマホをいじっている子はいる。

それを思うと、色々と複雑な気分にはなる。

「走れるか」

「問題ないよ」

「よし。 片付けをしてしまってくれ」

「うん」

リュックに鍛錬用の道具を詰め込む。

それで担ぐと、走り始めた。

結構重いのだけれども、ずっと鍛えているうちに何も苦にはならなくなった。確実に筋肉がついていると言われて、そうかとだけ思う。

燐火に身を飾る発想はない。

周りには身を飾ることに執着する子もいるけれど。

燐火は、化粧は侮られないためにするものだと言われていて。

ましてや今はまだ必要ないとも言われている。

だから親が買ってくる服だけ着て、それで充分だった。

髪の毛も少しずつ伸ばしているが、これもいずれはもっと伸ばしてもいいと言う話だ。髪の毛がハンデにならない程度に動けるようになってきているから、らしい。

無言で走る。

この辺りはケルベロスに言われて散々歩き回っているから、土地勘はある。

走っていると、クラスの男子とすれ違ったが、無視。

相手は全力で走り抜ける燐火を見て、驚愕していたようだが。

ひょいとフェンスに飛びつくと、乗り越えて先に。

ケルベロスはこの先だという。

都会ではあるが、都心ほどではない。

だから里山だってあるし、子供が運動できる公園だってある。

一時期は子供は公園で遊ぶの禁止とか言う訳がわからない看板がたくさん立てられていたらしいけれど。

今はそういう馬鹿げた代物は撤去されたそうだ。

ケルベロスには世話になっているし、その手伝いをしようとは普通に思っている。というか、ケルベロスがいなければ最悪孤児院に連れ戻されて、あの変態に死ぬまでもてあそばれていただろう。

それどころか、崖から落ちた時点で死んでいた可能性だって高い。

金木の屑一家は未だにあの街で王様を続けていただろうし。

もっと多くの人間が不幸になっていたはずだ。

それを思うと、ケルベロスの手伝いをしない理由なんてないのだ。

そのまま、茂みを走る。

草の匂いが強いけれど、別に気にはならない。

走ることが多いから、体力はついてきた。今が一番元気に走り回れる年頃だそうだけれど。

それは体の軽さと筋肉のバランスの問題だそうだ。

燐火にはよくわからないけれど。

燐火はまだ周囲に比べて小柄だし、それで筋肉がついているから余計に動きやすいのかもしれない。

近づきすぎると危険かと思ったけれど。

ケルベロスの指示通り走れば問題ないという信頼の方が勝る。

そのまま走る。

やがて、止まるように言われたので、即座に足を止めて。そばにあった木に身を伏せた。息も切れていない。

できるだけ音も立てないように走ってきたつもりだ。

「近いな。 におう」

「……草の匂いがすごいね」

「人間の鼻だとそんなものだろう。 一応俺も犬の神格だからな。 匂いは情報の塊で、全てが役に立つ」

そういうものであることは聞いている。

動物にとって排泄物は情報の集まりらしく、それで犬はおしっこをあちこちにして回るらしい。

おしっこの匂いで犬のあらゆる情報がわかるらしくて、それでああいう行動をとるのだとか。

他の動物も似たようなことはするらしい。

いずれにしても、人間とはルールが違うのだと燐火にもわかる。

「そのダイモーンって、モンスターみたいなの?」

「いや、普通の人間には見えない存在だ。 物理的に干渉することはできない」

「危ないものじゃないの?」

「いや、危ないものだ。 ダイモーンには善悪それぞれいると言ったが、今探しているのはそのうち悪辣な方。 カコダイモーンと言われるものだ」

なるほど、そういうものか。

言われたことは覚えるようにしている。

とにかく伺っていると、やがて何かもやもやしたものが見えてきた。

それは人間に輪郭だけは似ていたけれど、ゆらりゆらりと森の中を歩いている。存在そのものが確かに人間とは似ていない。

でも、形が人間だ。

あれが、ダイモーンというものなんだ。

ただ、形状が不安定で、不意に崩れて、犬みたいになる。そうすると、四足で歩き始めたりする。

ふらふらしているけれど、あれはなにをしているのだろう。

「燐火はどうすればいいの」

「合図をするまで待て。 今はまだ機ではない」

「わかった」

「素直でよろしい」

ケルベロスは燐火の中にいる。

それはわかっているから、別に疑問は感じない。

最近は少しずつ壊れていた心が戻り始めているようだから、今後はずっと見られていることが色々と恥ずかしくなったりするかもしれないが。

今はそういうこともない。

そういうものなのかもしれないとは思っているが。

やがてもやみたいなものが、動きを止める。

山道の近くを、なんだか柄が悪いのが歩いている。ゲラゲラ笑っている、多分学校なんてまともにいっていなさそうなのだ。

高校生だろうか。

この近くにあんまり評判がよろしくない高校があると聞く。

そこの奴かもしれない。

誰々を殴ったとか、金をぶんどったとか、何人かでそんな話をしている。ただ、聞いていてわかる。

嘘だ。

一線を越えた奴の匂いは、なんとなくわかるようになってきている。

あれらは他人を図体で脅かして。自分が知らないことを言っている奴を馬鹿にして。それで自分が偉いと思い込んでいる連中だ。

ケーキが切れないとかいうのだったっけ。

勉強しないで育っていたら、燐火もああなっていたのだろう。

そう思うと、嫌いだと思う。

金木の連中ほどひどくはないけれど、あれの同類に機会がありさえすればなるような者だ。

それを、明らかにもやが伺っているのがわかった。

「手元に集中。 何でも良いから、棒状のものをイメージして……」

「ええと、これでいい?」

「……イメージすればよかったのだが、まあいいだろう」

燐火が木の棒を拾ったのをみて、ケルベロスはなんだかちょっと呆れたようにいう。何の変哲もない普通の枯れ枝だ。ちょっと枯れた枝の先に葉っぱがついていて、腐葉土で汚れている。

虫もついているけれど、別にどうでも良い。

虫は孤児院で散々見たし、怖いと感じたことは一度もない。かむ奴に触りたいとは思わないけれど。

「私が指示するとおりに動かせ」

「わかった」

頭の中にイメージが浮かぶので、その図形を描く。

それと同時に、空中に光が浮かんでいく。

戦う必要はない。

ケルベロスはそう言っていた。

燐火はそれを信じる。

戦うのはあんまり向いていないと思う。体を動かせることや、柔道とかやって身を守れるようにしておくことと。実際に戦って、相手をやっつけるのは全然別の話になるからである。

これは教えてくれたおかあさんにも言われた。

燐火がブドウ、武道を学ぶのは身を守るため。

相手を傷つけるためじゃない。

そう言われて、そうすることを決めた。

だから、この体は戦うために使わない。

複雑な文字が虚空に浮かぶ。それをいくつも連ねていく。

途端に、ばつんとすごい音がしていた。

思わず顔をあいている左手でかばったけれど、それで終わりだった。

ダイモーンが消える。

騒いでいた不良高校生達は、すごい音に全く気づかず、ゲラゲラ笑いながら悪行自慢をしつつ道路を行くが。

トラックにはねられそうになって。

悲鳴を上げてすっころび。

トラックから顔を出した禿頭のおじさんに、気をつけろと凄まじい声で怒鳴られて。それで逃げ散っていた。

「これで終わり?」

「ああ、終わった。 今、ダイモーンを一体捕獲した」

「そう、よかった」

「基本的にあの手のカコダイモーンは人間にとりついて、悪行を増幅させようとする。 これはどこの国の霊でも同じだが、この国の霊はこの国の神が対応する。 ギリシャやローマを中心に活動していたダイモーンがこの国に現れたことは滅多にないからな。 俺が対応をこの国の神に任された、ということだ」

悪行を増幅か。

それで、ケルベロスは先手を打ってくる。

「あの金木という腐った一家にも、かなりたちが悪いのがとりついていてな。 目に余ると判断したこの国の神々が対処した」

「そうだったんだね」

「金木の一族にとりついていたのを処理したことで、そこから派生していた悪運が全て解除された。 基本的に悪しき因縁というのは、中心を断てばそれで片付く。 カコダイモーンはそれ自体は非力極まりなく、あくまで人間の邪悪を増幅するだけのものにすぎないのだ」

だとしても。

悪人の行動は許されるものではないと、ケルベロスは言う。

まあ、それは同意だ。

今、あの街から離れて。一年以上たって。

それであの街が如何に狂っていたのか、よくわかる。

ここだって、別に天国でもなんでもない。

たまたまおとうさんとおかあさんがやさしくて。学校でも先生がちゃんとしているけれども。

すぐ近くには、あんな与太者達が通うような学校があるし。

街でも普通に犯罪がおきることがあって、おまわりさんがサイレンを鳴らしてパトカーで走っている。

だけれども、危ないことをしなくてよくて。

これ以上の悪がはびこらないで済むのだったら。

燐火はそれをどうにかしたいと思う。

「先に空中に書いた文字については覚えたか」

「こう?」

「おお、いいぞ。 やはり興味を持ったことに関する覚えは早いな」

ケルベロスが褒めてくれる。

特に疲れるようなこともなかった。

基本的に戦うことはさせないと、ケルベロスは言う。ダイモーンについても、浄化した結果、カコダイモーンからアガトダイモーンに代わったらしい。

つまり、もう害はないということだ。

「使う棒はなんでもいいの?」

「別になんでも構わん」

「わかった。 とにかく棒で、あの文字を書けば良いんだね」

「俺が憑いている今だからできるというだけの話ではあるがな。 ただ、仮に未来に俺がいなくなっても、ダイモーンは見える。 ただ他の霊が見えるかどうかは話が別だ。 それは日本神話系の神々がやることだし、或いはそれの力を受けている……この国でいう巫女だとか神職だとか、或いは専門の坊主とかがやることだ。 お前には関係がない話になるな」

そうか、いずれにしても危険がないのなら何よりだ。

後は、森の中を帰る。

特にけがもしていない。

森の中を走ったりすると、慣れていなかったら足をくじいたりするのだけれども。ここ一年くらいで徹底的に鍛えた。

それもあって、大丈夫だ。

今ではクラスで足の速さでも一番を争える。

このまま頑丈になれば、中学の頃には男子に勝てなくなるとしても、それなりに走れるだろう。

森を出て、それですっきり。

森の中で動物の糞を踏むようなこともなかった。

後は黙々と家に帰るだけだ。

あの不良達が、残虐でどうしようもない連中に化けなくて、それはよかったのだと思う。

むしろトラックにひかれかけて、粋がっていたところを冷や水をぶっかけられて。互いにたいした存在ではないと思ってくれればいいのだけれど。

まあ、人はそんなに簡単に代わらないか。

ただ、邪悪な方向には簡単に転ぶとケルベロスは言う。

その後押しをするのが、カコダイモーンを代表するような悪しき霊なのだとも。

「どうしてギリシャのダイモーンが日本に来ているの?」

「それについてはそのうち話す。 今はとにかく、こっちよりも自分のことを優先しろ。 俺以外にも行動しているギリシャの神霊はいる。 危険度が大きい相手は、そっちが対応しているから心配するな」

「わかった」

ともかく、今は自分のことか。

毎日目標をつけて動くようになった。今は少しずつ、ケルベロス以外にも敬語ではない言葉でしゃべるようにすること。

これが、燐火の最大の目標だ。

 

燐火が眠った後、ケルベロスは意識だけ飛ばしてアクセスする。

ダイモーン対策に来てはいるものの。

そもそもとして、それの発生源になっている奴が極めて危険なのだ。

日本神話の神々に対してけんかを売るような真似はしないだろうが。いずれにしてもギリシャの者が対応しなければならない。

アクセスしたのは、ケルベロスと同じ。

後の時代に有名になった存在だった。

その方が、違う文化圏で動きやすいのである。

今の時代は、信仰している人間はともかくとして、神々は基本的に相争わない。面倒くさいし。

何よりも、そんなことをしている場合ではないというのが共通認識だからだ。

悪魔扱いされている神格ですらそう。

だからケルベロスも、わざわざ日本まで出向いてきているのである。

とりあえず、そいつに会う。

日本でも名前が大変知られている存在。

極めて筋骨隆々とした大男。

ケルベロスにはいやな思い出しかない相手。

ヘラクレスである。

ゼウスの妻であり姉でもあるヘラ(神々で近親交配は当たり前である)の栄光という意味で、ヘラクレスという名前を持つこの存在は。

世界でももっとも有名な英雄の一人だろう。

ギリシャ神話での活躍も、動物的な野性味あふれるもので。

決して紳士的ではない。

ヘラクレスにあやかろうと、その子孫を名乗るものは大勢いた。

それも、名前を知られるゆえんだったのかもしれない。

ともかく、ケルベロスから見ても見上げるほどの大男であるヘラクレスと、相対する。

間近で会うのはいやだから、意識だけ経由して、だが。

「最初の仕事、うまくいったようだな」

「おかげさまでな。 分霊体でもこの程度は軽いわ。 一神教のせいで地獄の番犬とか勘違いされているのは極めて不愉快だが、おかげでこの国でも知られ、動きやすいのも確かではある」

「私も近年では随分と行儀がいい英雄として考えられているようで、基本的に乱暴者よりも理性的な存在を好むこの国では動きやすい」

「ふん……」

ヘラクレスのどこが理性的なのだか。

いずれにしても、お互いイメージ違いのものをたたき込まれて困っている存在同士ではある。

軽く打ち合わせをしておく。

「基本的にカコダイモーンにとりつかれて凶暴化しているのは私が倒す方針に変わりはないな」

「ああ。 まだ人にとりついていないのはこちらで処分する」

「お前は昔から優しいな」

「……そうだな」

冥界に死んでしまった恋人を救うために降りてきたオルフェウスの竪琴に感動して、黙って通したのはケルベロスだ。

オルフェウスはあと一歩で禁を破り、恋人はまた冥界に落ちてしまったが。

二度目のオルフェウスも、黙って通してやった。

甘い菓子が好きで、人情家。

それがケルベロスの物語。

ギリシャ神話ではケルベロスは邪悪な存在とは描かれていない。邪悪の権化扱いしたのは一神教である。ダンテの神曲などに登場する邪悪な怪物のイメージは、一神教によって醸成されたのであって。

本来はごく真面目に冥界の番犬をしている、情もある存在なのだ。

そんなケルベロスを締め上げて無理矢理地上に連れ出したのがヘラクレスである。好きになれるはずがない。

ヘラクレスが神々から課された試練の一つだったらしいのだが。

何が試練か。

ケルベロスからしてみれば知ったことではない。

「ともかく目立たぬようにな。 この国の神々も支援はしてくれているが、この国でも悪しき霊は害を為しているようだ。 世界中が全てそう。 こんな時に、奴が脱走しなくてもいいものを」

「こんな時だったから、なのだろう。 ましてやこの国は奴にとって都合が良い場所でもある」

「……まだかなりのカコダイモーンがいる。 「奴」は力を蓄えている最中だが、あまり長い間放置もできまい」

「わかっている。 雑魚はこちらで始末する」

霊と言っても死者とは違う。

この国ではそういった解釈をする場合もあるようだが、本来は肉持たぬ存在、くらいの意味だ。

だからケルベロスも容赦するつもりはない。

よき霊アガトダイモーンだったらまだしも。

カコダイモーンはとっとと浄化するだけである。

ともかく、ヘラクレスとさっさと打ち合わせを終えたので、燐火のほうに意識を戻す。燐火を外から見ると、相変わらずだ。

笑顔一つ浮かべられない。

運動は多分素質があったのだろう。一年程度で周りに追いついた。いや、一年分くらいは追い越した。

学問も全てとは言わないが、重要なものから順番に周りに追いついている。

ケルベロスからいってちょっと問題なのは芸術関連だが、これは別に絵描きで食べていく訳ではないので、どうでもいい。

両親も良い。

これはケルベロスが現時点では運を操作しているのだから当然だ。

ケルベロスがいなくなって。

運が平常に戻ってからが、この子の人生の本当の始まり。

幸運に愛されるようにならなくなってから。

この子が地力で歩いていけるように、ケルベロスは準備を整えておかなければならない。

それに幸運と言っても限度がある。

現在警察は極めて過酷な仕事である。

最近できたばかりの仕事であるVtuberもしかり。

アスリート並みの体力があっても体を壊すような仕事なのだ。

この国の労働環境が過酷すぎる、というのもあるのだが。

特に日夜逆転の生活をしなければならないのが、どうしてもつらい。

ただそれでも、夫婦どちらもうまくやろうと工夫しているし。

「すれ違い」で分かれるようなことにならないとは今の時点では思う。

子供のことよりも自分を優先して、すれ違いだのを理由に分かれる夫婦なんてものは、ケルベロスには理解できない。

ギリシャ神話の貞操観念なんて皆無に等しい神々を見てきているが。

それと同じだ。

全部自分優先。

子供のことを少しは考えてやれと、ケルベロスは時々思う。

いずれにしても、燐火は今日も悪夢を見ているようだ。ただ、幸いなことに燐火は夢をほとんど覚えていない体質らしい。

それもあって、ケルベロスも安心して寝顔を見守れる。

偶然から、この子を救った。

本来だったら死んでいたところを、奇跡によって体を修復した。

そして本人の同意も得て、この国での活動拠点とさせてもらった。

だから、せめて目的を果たすまでに。

この子が生きたいと願うようにしたい。

ケルベロスが離れるとき、せめて笑えるようにしてあげたい。

今持っている確かな正義感を、平均的な人間がどれだけ邪悪だと気づいても、保てる強い心を持っている子にしてあげたい。

それがケルベロスの願いだ。

親としての考えではない。

ただ当たり前のことである。

情が移った訳でもない。

これくらいは、本来考えていて当然のことであって。正論をロジハラだの正論厨だの言って嘲笑し遠ざけようとする現在の観念がおかしい。

正しいことを守るから社会が円滑に回るのであって。

それを守れなくなったら、人間なんて猿以下だ。

しばらく、燐火を見守る。

レム睡眠が終わったらしく、うなされていた燐火が静かになる。

ケルベロスは悪夢の内容を見ているが、まだまだ燐火の心についている心の傷が疼いている。

それだけのことだった。

 

燐火が両親にもらった服を引っ張り出して、色々と調べている。色のセンスとか、そういうのを。

身を飾るのに興味がない燐火がこんなことをしているのには理由がある。

「また妙なことを考えたな」

「今のままだと格好がつかないと思って」

「うーむ、そんなものか?」

「それとも、ケルベロスさんが変身でもさせてくれる?」

ケルベロスが黙り込んだので。

燐火は黙々と服を選ぶ。

スカートがいいかなあ。

そう思いながら、順番に服を選んでいく。

燐火は青系が好きなのだけれど。今は赤系を中心に選んでいる。後は、着替えやすいのがいい。

それとおなかを出すのはいやだ。

というのも、最近鍛えているからか、腹筋が割れ始めたのである。

そういうのはあんまり他人には見せたくない。

羞恥心とかではなくて、知っているのだ。

違うことを人間は極端に嫌い、迫害したがると。

だから腹筋がこの年で割れているというのは、見せることではない。

そう燐火は考えていた。

「後棒もなにかかっこいいのないかなあ」

「なんでもいいんだぞ」

「うん。 でも不自然ではない範囲で、かっこいいのがほしい」

「……まあ燐火が自分で考えてやっていることだ。 好きにするといい。 俺は関与するつもりはない」

ケルベロスが呆れ気味だ。

燐火は頷くと、時間を見ながらコーデを考える。

最近は写真で移すと、それがどんな風になるのか。自動で完成図を作ってくれるソフトがあって。

最低限の機能しかない燐火のスマホでもそれが可能だ。

これでいいや。

そう思って。一式そろえた服をしまう。

服をたたんでしまうのは、この間できるようになった。

とにかく一つずつできるようになりたい。

次は料理だ。

背も伸び始めてきたので、キッチンに立てる。

おとうさんもおかあさんも忙しいので。燐火が少しでも役に立てるようになりたいのである。

おとうさんも料理上手ではあるけれど。

それもずっと頼りっぱなしではいけないだろう。

幸い今、おとうさんが防音室から出てきたところだ。

お料理を覚えたいというと、おとうさんは不思議そうな顔をした。

「まだいいんだよ。 ましてや今の時代、自分で料理する人なんてそう多くはないんだから」

「おとうさんの負担が少しでも小さくなるとうれしいと思います」

「その気持ちは嬉しいけれど、まだ燐火はそこまで考えなくていい。 今は、勉強でまだ追いついていない分野を頑張りなさい」

通信簿をもらうと、できるようになった分野は5をもらえているが。できない分野はとことん駄目だ。

それを考えると、おとうさんのいうことは正論である。

それに、親しい人には敬語以外でしゃべりたい。

それは、ずっとまだできていないことだった。

 

4、噂

 

涼子は聞いた。

なんだか変な子がいるらしい。

顔を隠しているから正体はわからないけれど、マントを翻して走っているらしい。それも、すごい早さで。

それでいつの間にかいなくなっている。

その後、何かしら小さな騒ぎが起きる。

どれもたいした騒ぎではないらしいけれども。

ただ事故未遂だったり。

或いはチンピラが逮捕されたり。

そういうことがおきるたびに、決まってマントの子供が目撃されているらしい。

それも赤い服でまとめていて。

怪人赤マントとか噂になり始めているとか。

赤マントという都市伝説があったことを、涼子は知っている。

知らないことを知っている人間を、「マウントをとっている」などという理屈で迫害にかかる周囲の人間のさもしさも。

だからその噂を聞いたときは、そんなものかと思ったのだが。

隣の席の死んだ目をしているクラスメイトの平坂燐火が、どんどん運動神経を伸ばしていて。

この間隣のクラスで、女子の髪をつかんで引っ張って泣かせていたデブの男子の腕を瞬く間にひねり上げて。

地面にたたきつけてだまらせたのを見ると。

どうにも無関係とは思えなかったのだ。

燐火は冷凍イカみたいな目をしていると周囲に陰口をたたかれているが。

いじめられていた子には慕われていて。

もしもなんかあったら言ってくださいねと、あの死んだ目でいじめっ子を見ながら言ったこともあって。

今では学校で静かな抑止力になっている。

おそらく本人は恐怖で周囲を制圧するつもりはないのだろうが。

運動神経がいかれてると周囲にささやかれ始めていることもある。

どうにも不可解だった。

今日も黙々と、二人で帰る。

涼子が何も言わない限り、燐火は口を利こうとしない。遊びに行って良いかと聞くと、駄目と言われた。

なんでも燐火のおとうさんがちょっと面倒な仕事をしているらしくて。

それで家に他人を上げると、素性が知られてまずいらしい。

ひょっとして配信者かなにかかと涼子は思ったが。

燐火は基本的に不要なことをしゃべらない。

涼子ですら、新しいことを知ったら他人に言いたくなる気持ちはちょっとはあるのだけれど。

燐火にはそういった感情があるとは思えない。

仕方がない。

涼子もあまり良い家庭じゃないけれど。

「燐火ちゃん、こんどうちに遊びに来ない?」

「構いませんけれど、何をして遊ぶか燐火にはよくわかりませんよ」

「良いよ。 漫画でもゲームでもあるし」

「わかりました。 スケジュールを調整して、遊ぶ日を作ります」

スケジュールの調整か。

この子は本当に、小学生なのだろうか。

いずれにしても、この子が笑顔を浮かべるところは想像できない。訳ありだとは思ってはいたのだが。

本当に一体何者なのだろう。

通学路で分かれると、家に戻る。

涼子の父親は、再婚の気配もなく、涼子には買える限りのおもちゃを買ってくるし。遊園地とかでもなんでも誘ってくれる。

お金自体はそれなりにあるのだ。

ただ強烈な女性不信に陥ったらしくて、女性に興味を一切見せないらしい。

会社の人がこの間家に来ていたのだけれど、そういう話をしていたのを覚えている。

まあ、そんなこともあるだろう。

家に戻ると、父親はメモだけ残して出かけていた。

会社の都合らしい。

普段はリモートで仕事をしているから、ほとんど家にいるのだけれども。それで息苦しくなったことはない。

ホストに入れ込んだあげく馬鹿みたいな理由で出て行き。ホストにも捨てられて。実家で幽閉同然の生活をしているらしい元母親がたまに涼子に連絡をしてくるが、完全に他人として接している。

あれは性欲を優先して、自我を制御できなかった猿だ。

あんなのと血がつながっているだけで反吐が出る。

ともかく、家事はやっておく。

元々家事もろくにしなかった母親のこともあり。家事ができる方ではない父親のこともある。

今では家事は大体涼子がやっている。

家事を片してから、スマホを確認。

クラスのグループラインで、また怪人が出たと噂になっている。

ついさっきだそうだ。

その後、近所で騒いでいた男が、静かになって。

それで警察が来て、おとなしく連れて行かれたらしい。

落ちていたナイフが拾われていったと言っていて。危ないこともあるものだなと思った。

ゲームをいくつかやっているが、パーティー向けのものはないな。

お小遣いで買える範囲のパーティー向けゲームを見繕うか。

燐火はあの様子だと、テレビゲームなんてやったことすらあるかも怪しい。

できれば簡単な奴が良いだろう。

去年の授業参観を見る限り、少なくとも母親は立派そうな人に見えた。とてもしっかりしている雰囲気だった。

だとすると、家庭がうまくいっていないということはないのだろう。

まあ、他人の家庭を詮索しても仕方がない。

黙々とカタログを触る。

他人が遊びに来るのに、四苦八苦している。

そういうところは、涼子も子供だ。

こういうとき、自分が子供であることを再確認して。

涼子はなんともいえない気分になる。

さっさと大人になってしまいたい。

そう、涼子は思っていた。

大人になっても、性欲に振り回される猿にはなりたくない。

そうとも思っていた。

 

(続)