地平の果ての光景

 

序、青い水底

 

沖縄には、そうそう来られない。

飛行機代。宿代。いずれも、助教授の身の上にはつらいのだ。だから、一年に一度、来られるかどうか。

今年も、来た。

春が終わって、丁度海が一番良い季節。

海に入ると、本土とは比較にもならないほど澄んでいて。しかし、私は知っている。この海には、同じようにして、本土のものとは比べものにならないほど、危険な生物がたくさんいることを。

私が研究しているのは。そういった生物たちだ。

安月給では難しいから、大学に研究を申請して。旅行費を出してもらう。当然のことながら、泊まることが出来る宿は最低クラス。

しかし、それでも。

私は鼻歌交じりに、タモを動かして。

沖縄にいる毒生物たちを、ケージに入れていく。

アンボイナもとれた。

刺されたら高確率で死ぬ、猛毒の針を発射する貝。

毒性の強いクラゲたち。そして、さっき捕まえた大物こそは、エラブウミヘビだ。後ろのケージに入れてある。コブラ並の猛毒を持つ蛇だ。噛まれるとひとたまりもない。

「教授ー!」

助手が呼んでいる。

教授じゃなくて、まだ助教授。しかもなったばかりだから、大学での権力は、ないに等しい。

大学院を出たとは言え、既に二十八。

既にいい年だ。そろそろ結婚しろとも、親にも言われている。大学では、出世するまで時間が掛かると言っているけれど。

私のような変人では、それも難しい。

今いるのは、沖縄の海は海でも、海水浴場ではない。

海水浴禁止の岩場。

それも、地元の漁師に、わざわざ監視についてもらっての作業だ。密猟にならないように、海産資源にならない生物ばかりを漁っているのだ。

やっと助手が追いついてきた。

「あー、やっと追いついた」

助手は私よりかなり背が高い。

というよりも、奴の背が高すぎるのだろう。ただし、運動神経はどっこいどっこい。その上、こういった岩場では、私の方が上だ。

「よくこんな足場の悪い所で、猿みたいに動けますね」

「慣れてるからな」

「ほら、先生、いるよ」

漁師のおっちゃんが、教えてくれる。

毒性の強いイソギンチャクを、タモで拾い上げる。ゴム手は持ってきているけれど、それは最後の手段だ。

イソギンチャクをケージに入れる。

これくらいだろう。

今日は引き上げることにする。助手は役に立たなかったが、別に良い。

空が綺麗だ。

さっそく、アジト代わりにしている宿に送る。その後選別して、すぐに標本にするものは標本に。生きたまま持ち帰れるものはそうする。駄目なものは、観察などをした後、海に戻す。

大半はそうする。

サンプルを取るものや、標本にするものもある。海に返す事が好ましくないものなどは、殺して処分するのだ。

宿に戻った後は、汚い白衣を脱いで、シャワーを浴びる。

ぼさぼさのべたべたになっている髪を洗うと、だいぶさっぱりした。そんなことだから嫁のもらい手がいないのだと、何度も親に言われた。

苦笑い。

確かに嫁のもらい手は、これではいないだろう。

研究を済ませた後、すぐにケージを持って海に。生きているうちに戻せるものは海に戻しておく。

此処に本格的な研究施設を作れれば、こんな手間は必要ないのだけれど。

本土にある大学は、最近特にけちくさくなった。海洋大学などと言っているにもかかわらず、儲けに直結しない研究には、特に金を出し渋ってくる。

このままだと、教授に出世するのも、難しいかも知れない。

作業が終わった後、ベッドに。

論文はこれで書けそうだけれど、それ以外はどうも先行きが怪しい。沖縄に来られるのも、これが最後かも知れない。

しかも、だ。

教授の一人が、研究を寄越せと言ってくる可能性がある。

温厚だと自称する私だけれど。

もしそんな事をいわれたら、大学を離れよう。そうとも決めていた。

携帯が鳴る。

誰だろう。ワン切りかと思ったが、ずっと鳴り続けている。電話を取ってみると、また同じ声だった。

最近、時々電話を掛けてくる奴がいるのだ。

「やあ、天野助教授」

「またあんた? 私のようなしがない助教授に、何の用?」

「そう警戒なされるな」

くつくつと笑う声。

不愉快になって電話を切ろうとするが、その前に相手が切り出した。

「今、沖縄にいるのかね」

「ストーカーかあんたは」

「大学に問い合わせたら教えてくれたよ。 それと、調べて見たが、研究費用も殆ど出してもらっていないのだろう?」

その通りだが、こんな訳が分からん奴に言われる筋合いはない。

うんざりして、電話を切ろうとしたが。

相手が、咳払いした。

「研究費用を、出してやってもいいのだが」

「一個人に負担できるような金額じゃないかも知れないよ」

「問題ない。 どうせ七桁程度だろう?」

目を細める。

私はそう美人なほうじゃない。自分で言うのも何だが、ナンパされたこともないし、電車で痴漢に遭ったことも無い。

口説かれたことも、一度もない。

一応彼氏は何回か作ったが、どうも話していてつまらないらしく、一度も肉体関係にまでは進展しなかった。

それがどうしてこう執着されるかは、よく分からない。

「私の研究は、そんなに独創的な内容じゃあない。 私自身に、それほど魅力があるとも思えない。 何が目的?」

「君は自分を過小評価しているようだな。 イクチオステガ」

むと、思わず声が詰まった。

此奴。

どうしてその名前を、此処で出す。

イクチオステガ。

両生類の中でも、陸上に進出を開始した時代の、成功したモデルの一つ。

水辺からは離れられず、まだぎこちなくしか動けなかったが。いずれ地上における動物の最高傑作モデルとなった、爬虫類の先祖として、その大いなる一歩を踏み出した、種族の名前。

そして、私はどうしてか。

このイクチオステガの夢を、頻繁に見るのだ。

私は海洋学者で、専門は毒性を持つ生物。イクチオステガは古代の生物で、管轄が違っているのに。

更に言えば、特に好きな生物というわけでもないのに。

「君は十三の頃から、身長が伸びなくなっているね。 成長ホルモン剤を飲んでも、まるで効き目がなかった」

「それがどうだっていう」

「イクチオステガの夢も、その頃から見るようになった」

口をつぐむ。

此奴は一体、何を知っている。

確かに私は、中学の頃から背が伸びなくなった。ただ、その頃には155センチは越えていたので、どうにか平均値には届いている。

最初は妙に発育が良かったのに。不意に背が伸びるのが止まったのは、自分にとってはトラウマだ。

そして、気付く。

いつの間にか、此奴の話に、引きずり込まれてしまっている自分に。

「あんたは一体、何なのさ」

「私も君と同じような存在だ。 見つけ出すには苦労したがね」

「答えになっていない」

「本土に戻ったら、ポストを確認して欲しい。 同じような苦しみを抱えた者達が集まる会に、招待しよう」

電話が切れた。

ストーカーとして訴えようかと思ったが。相手は公衆電話から掛けてきているようだし、難しいだろう。これが無警戒に携帯電話などから掛けているのなら話は別なのだが、其処まで馬鹿では無いらしい。

嘆息すると、助手の所に出向く。

助手はと言うと、地元の若者に声を掛けられて、黄色い声で応じていた。此奴は。まだ私よりだいぶ若いし、何より私よりずっと女としての魅力もある。助手としての能力は底辺だが、男に困っているという話は聞いていない。

咳払いすると、助手が男を振り払って、こっちに来た。

「教授、どうしたんですか?」

「助教授だ。 資料はまとまったか?」

「はい。 目を通しますか」

「ああ」

受け取った資料を見るけれど。やはり今回も、誤字脱字だらけだ。此奴は本当に、どうしようもない。

頭を振ると、添削を開始する。

それが終わった後、助手に突っ返して、作り直させる。

ぼんやりしていると、いつの間にか眠ってしまっていた。また、イクチオステガの夢を見るのかと思ったけれど。

疲れが溜まっていたからか、或いは別の理由からか。

眠りに落ちた後は、ただぼんやりと、夢うつつの中をさまようばかりだった。

 

焼け付くような日差しが、肌を痛めつける。

この光景は、知っている。

あこがれの大地。

ゆっくり、時間を掛けて、此処に上がるための準備をしてきた。いち早く陸に上がった、骨のない生き物たちを追うようにして。

一歩を、踏みしめる。

水の中でなら、軽やかに動く足が、とにかく重い。体を引きずりながら、自ら、体を引っ張り出していく。

凄まじい日差し。

それでも、私は。

前に出る。

前にあるのが、未踏の場所だと知っているからだ。

仲間達は、私を見ている。

彼らも、同じ種族。水中で暮らすことだけではなく。短時間だけなら、陸に上がる事も、出来るからだ。

それは、海から、川に適応したから。

浅い川には、海とは違う豊かな恵みがあった。魚の種類も違う。陸上には、植物がたくさん生えていて。

それらを餌にする骨のない生き物も、たくさんいた。

今なら、餌には困らない。

それなのに、他の奴らは、何を躊躇しているのだろう。

また一歩、前に出る。今までに無いほど、陸に上がった。水際まで繁茂しているシダの葉をクッションにして、腹がこすれるのを和らげる。知らない生き物が目の前を通り過ぎたので、口を動かして食べた。

小さくて、弱々しい。

魚よりも、捕まえるのは容易だ。

体が焼け付く。

限界を悟って、川に戻る。水で体を冷やしていると、どうにか生き返った気分になってくる。

次は、もっと長い時間、陸に上がっていく。

仲間達も、陸に興味を示し始めたようだ。

私が駄目でも、子孫達は。

体がもっと頑丈な者達が、現れれば。

骨がない生き物たちが好き勝手をしている陸上に上がって、勢力圏を広げる事が出来るだろう。

魚たちに、先は越させない。

 

昼間の日光が駄目なら、夜だ。

他の仲間達が眠っている中、陸に上がる。骨がない生き物たちは、夜にも活発に動き回っていて、喰うものには困らなかった。

夜の方が、多少は体が乾くのも遅い。

あまり深入りしすぎると、帰る事が出来なくなる。

だから、ある程度は自重しつつ、それでもできうる限り大胆に、陸に上がっていく。未知なる世界へ、踏み込むために。

私の名前は、イクチオステガ。

陸上を本気で目指した、初めての骨ある生き物。骨なき生き物たちの楽園だった陸上に、くさびを打ち込むために。今此処で、苦しみに耐える。

今日は、昨日よりもだいぶ長い間、陸上にいられた。

これならば、明日はもっと長い間、陸上に耐えられる。いずれにしても、昼よりも夜の方が、陸での活動はしやすい。

後は太陽の機嫌次第か。昼は出来るだけ温かい方が良い。その方が、夜に動くための力を蓄えられるからだ。

それから来る日も来る日も、陸を目指す。

仲間にも、真似をするものがではじめた。

だが、その先頭に立つのは、私だ。

例え私は果てるとも。私の子孫達は、必ずや陸というこの未踏の地を、支配するために一歩を記す。

私の名は、イクチオステガ。その名前を、地面にきざむように。

 

1、毒にむしばまれて

 

目を覚ました私は、そばにあった栄養ドリンクを手に取ると、胃に流し込んだ。今日も、ベッドでは寝なくて、机に突っ伏してそのままだった。

周囲には言われる。

少しは体をいたわらないと、もたないと。

しかしながら、昔からこうなのだ。

小学生の頃は、デスクが睡眠の際の定座だった。デスクで作業をして、そのまま寝てしまうことが多かった。

親に随分怒られた。

ベッドで眠るように、と。

幸いにも、私の親は口うるさかったが、それほど非道でもなく、ごく普通に愛情をもって接する人間だった。

今でも、時々心配した内容のメールが来る。

一人娘だったから、なおさらだったのだろう。

幸い、中堅所の国立に進んで、其処で大学院に。大学院に行く金くらいは出してくれた。ただ、私は一度として、急かされて勉強をした事はない。

全部自主的に勉強して。

それで、合格したのだ。

小さくあくびをすると、昨日進めていた作業の続きをはじめる。今回も、充分なデータは集まっている。

教授になれば、或いは沖縄に出張所を作れるかも知れない。

そうすれば飼育用のケージを充実させて、もっと本格的な研究が出来る。自分の研究なんて、今では殆ど出来ないのだ。

念の殆どは、他の教授のサポートが主体。

ろくでもない研究も多い。自然学部と言っても、所属している教授の質はピンキリ。中にはコネで教授になったような輩も多いし、そう言う連中はとてもではないが、まともな論文を書くとは言いがたかった。

二本目の栄養ドリンクを手にした頃、ドアがノックされる。

助手が入ってきた。

「あら、起きてた」

「あー」

「朝ご飯、持ってきますね」

いらないと言おうと思ったけれど。その時には、部屋を出て行っていた。

ひょろひょろのっぽの助手は、今大学院生。あまり優秀とは言えないけれど、仕事には一生懸命だ。

無能だと言う事は知っているし、実際いつも嘆いているけれど。

邪険にする気が起きないのは、此奴が一生懸命で。何というか、自分に似ている所があるからだろう。

作業を進めていると、助手が戻ってきた。

「はい、此処の朝ご飯美味しいですし、きちんと食べないと体に毒ですよ」

「わかってる」

「必ず食べてくださいね」

部屋から出て行く助手の後ろ姿を見送る。

そういえば、彼奴は男にモテモテだ。其処だけは気に入らない。別に特定の男が欲しいとは、今更思わないのだけれど。

ただ、やはり見ているとイラっと来る。

さっさと論文を書き進める。

昨日は変な電話も来たし、仕事に没頭する方が、気分転換にはいい。

しばらく無心に論文を書いていると、携帯が鳴った。また、公衆電話からだ。ただ、今度はただの間違い電話だった。

ため息が漏れる。

今日の午後には、もう飛行機に乗らなければならない。沖縄に来たのだから、少しは遊べば良いのにとか助手は言うが。

そもそも私は。

遊び方なんて、知らなかった。

 

自宅に戻る。

しがないアパート。

助教授になってから、お給金は一応出るようになったけれど。アパートで極貧生活をしていることに変わりはない。

これが教授になれば、もうちょっとましな生活は出来るけれど。

海洋生物学者なんていうのは、所詮「実用的ではない」学問に過ぎない。何処かの企業がスポンサーについてくれれば良いけれど、だいたいの場合はそうはならない。私は元々、儲かりそうもない学問をしている身の上だ。今後も、この安アパートで、寂しい生活をしていくことになるだろう。

ポストを見る。

ダイレクトメールの類に混じって、確かに変な手紙が来ていた。

開いて中を確認すると、妙なことが書いてある。

古代の生物の名前が羅列されている。先頭にあるのは、エンドセラスだ。

四億年前前後の海で、覇者となっていた直角貝。全長十メートルにも達する、史上最強の頭足類の一角だ。

「我々は君を待っている?」

鼻を鳴らすと、あくびをしながら、デスクに向かう。

沖縄で出来なかった作業を、今のうちにしておきたい。幾つかの企業に、売り込みもしておく。今のうちに地道な作業をしておけば、きっといつかは報われると、信じての行動だ。

いや、本当にそうか。

私はもう、何か希望を持てることがあるなんて、信じていない可能性が高い。結局惰性で動いているだけではないのだろうか。

栄養ドリンクを飲むと、作業を続ける。

この作業という行為自体が、昔からの習慣だ。子供の頃から、ずっとそうだった。他がおままごとだのボール遊びだのをしているのを横目に、ひたすら自分の作業に没頭し続けていた。

何かを、しなければならない。

そう、義務感に突き動かされていたのだ。

一応国立に入る事が出来たのも、それが故だろう。自分で言うのも何だけれど、私は頭が良い方じゃない。

それでも国立に入れたのは、他の連中が遊びほうけている間、勉強していたからだ。馬鹿でも真面目に勉強を続ければ、それくらいの成果は出せるものなのである。

今でも、それは同じ。

時々、君は助教授の割りには、血の巡りが悪いなと言われる。

理解力も、判断力も。周りにいるどの教授も、私より上だ。私を無能な働き者と呼ぶ周囲の人間は多い。

私は、何のために頑張っているのだろう。

そう思ったことも、何度もあった。

既に二十代も後半。

大学の教授、しかも国立大ともなると。教授には、名門でだったり、資産家だったりする連中も少なからずいる。

そう言う連中は、国の上層とも関わりがある場合が多い。

まるで競馬か何かのブリーダーか何かのように、結婚相手を管理している場合さえあるそうだ。

私がそう言う連中に目をつけられたという話は聞いていない。

結局の所。

私は努力をして這い上がったものの。無能者からは、生涯脱することが出来なかったのだろうか。

まだ二十代なのに。

どんなに気分が沈んでいても、手は動く。

嘆息すると、作業を進める。この論文を仕上げて発表すれば、沖縄に生息する毒性生物についての研究が、一歩進む。

ふと気付くと、また突っ伏して眠っていたらしい。

イクチオステガの夢を、また見たのだろうか。

あくびして、背伸びすると。

また、作業に戻った。

 

論文を提出して、そのまままっすぐ家に帰ることにする。流石に今手伝いをしている何人かの教授も。目の下に隈を作って、なおかつ白衣を禄に洗ってもいない私を見て、文句は言えなかったようだ。

コンビニによって、栄養ドリンクを補充。

助手の奴は、キャンパスライフとやらを満喫中で、顔も出さない。ゼミには一応足を運んだが、学生共に指示をすることもなかった。

家に戻ったら、次の論文についてまとめておく必要がある。

後は、他の教授の手伝いで、何が必要になるかも。今のうちに、整理しておいた方が良いだろう。

イクチオステガか。

どうしてあの古代生物を、夢に見るのかはよく分からない。

両生類として、陸上にはじめて本格的に進出した種族の一つ。海から川へと進出した脊椎動物は、無脊椎動物に遅れて、地上にも足を伸ばした。

イクチオステガは両生類としては非常にがっしりした体格の持ち主で、当時存在した脊椎動物の中では、もっとも陸上進出に適した体格をしていた。

何種類かの両生類たちが、文字通り体を張った挑戦を続けて。

やがてその苦労が生きて。

爬虫類が誕生する。

陸上生活に完全適応した脊椎動物の登場である。

生物の歴史にとっての、大きな一歩だ。

だが、それが自分に、何の関係があるのだろう。無能だと笑われながらも、ただひたすらに努力を続ける自分が、イクチオステガに似ているとでも言うのだろうか。

馬鹿馬鹿しい。

イクチオステガは、誰もがなせなかったことをはじめてなした、人類史上の探検家達とは比べものにならない偉業の達成者だ。

私など、比較の対象というのもおこがましい。

デスクにつくと、作業を始める。

携帯が鳴ったのは。

次の論文の構想が大体固まって、後は実地で調査するだけ、となったときだった。

また公衆電話からだ。

「はい、もしもし」

「あの、すみません……」

鈴が鳴るような、可愛らしい女の声。

この様子だと、中学生くらいだろうか。私の名前を聞かれた。一瞬人違いですと返してやろうかと思ったが、その方がより面倒くさい。何より、無碍にしたくない不思議な雰囲気が、声にはあった。

「そうだけど?」

「良かった。 天野助教授、出来るだけ早めに、其処から引っ越してください。 最近、変な電話が来るようになってきていませんか」

「今も現在進行形でその電話を取っているが」

「私の事じゃなくて……」

泣きそうな声。流石に眉をひそめた。

イタ電をしてくるにしては、随分気弱な奴だ。ため息をつく。説教してやろうかと思ったが、電話をそのまま切るにとどめた。

さて、どうしよう。

しばらくすると、また電話がかかってきた。

さっきの女の子の声じゃない。以前、ポストを見ろと言ってきた男の声だ。しかも、また公衆電話から掛かって来ている。

「天野助教授、手紙は見たかね」

「見たけど、何。 古代生物の名前書き連ねて、どういう暗号?」

「組織に所属する者達の名前だ。 いずれ君の名前、イクチオステガを此処に付け加えたい」

「何を馬鹿な」

鼻で笑ったのは、向こうの方だった。

近々、迎えに行くという。

電話が切れた。だから、電話先に、文句を言うこともできなかった。

ため息が漏れる。

本当に引っ越す方が良いのかも知れない。警察に連絡してやろうと思ったけれど、無駄だろう。

確か警察は、ストーカーに対しては、無力極まりない。何か事件が起きてからでないと、動かない。

変な奴から電話をもらっている、くらいでは。警察としても、動いてなどくれはしないだろう。

ましてや私のように、禄に社会的地位もない存在では、なおさらだ。警察に行っても、時間の無駄。

しかしそうなると、さっきかけて来た女の子は誰だろう。

聞き覚えがない声だった。

引っ越すにしても、ただではない。引っ越し費用なんて、簡単に捻出できない。荷物は結構ある。

いずれも論文関連の資料ばかり。

ただ、これがどれもこれも、結構かさばるのだ。

頭を掻く。

大変に面倒くさいが、ストーキングを受け続けるのもいやだ。そもそも私みたいなのをストーキングして、何の意味があるのか。

お世辞にも可愛い方では無い。年も既に二十代後半。背もどうにか平均という程度で、しかも金だってない。

追いかけ回す要素など、ありはしないのに。

面倒くさい。

いっそのこと、少し早めに沖縄にでも行って、論文の資料を採取するか。今まで大学に無理を言ったことは一度もないし。それくらいは通るかも知れない。

 

翌朝。

大学で、さっそく論文のための費用を出して欲しいと申請したけれど。言下に却下された。

頭がはげ上がった教授は言う。

「君は何を勘違いしているのかね」

皮肉混じりの声で、教授は続ける。

此奴の声には、殺意さえ感じる。

「いつまで経っても芽も出ない君に出してやる金などないんだよ。 論文についても見たが、またくだらん内容だ。 金になるなら兎も角、海棲の毒を持つ生物なんぞ調べて、どうなるというのだね」

「早めに対策が立てられれば、被害者も減らせます」

「だから? 海なんぞで遊んでるようなノータリンの愚民共なんぞ、何人死のうが知ったことか」

さらりと、好き勝手なことを言ってくれるものだ。

そういえば此奴の家は旧華族で、相当な資産家だったか。庶民のことは、人間だと思っていないというわけだ。

分かり易いというか何というか。

笑いがこみ上げてくる。

近年、貴族という連中を持ち上げる風潮があるけれど、現実はこんなものである。

「とにかく、研究費などだせないよ。 文句があるなら、別の大学にでも行きたまえ」

「……わかりました」

「せめてもう少し色気があったら、二三回好き勝手させれば、金も出してやることを考えるんだがな。 お前なんぞ犯しても面白くないから却下な」

驚いて振り返るが。

むしろ、教授の方が驚いたようだった。

「何だね」

「今、セクハラに値するような発言をしませんでしたか」

「い、いやなにも」

動揺している。

確かに、此奴は何も言わなかったけれど。しかし、どうしてだろう。何か、声が聞こえたような気がするのだが。

しらけた目で見る。

「ああそうそう。 ボイスレコーダーは念のために動かしています。 不用意な発言は控えてくださいね。 この大学のためにも」

「……」

教授は青ざめている。

さっきの発言。愚民なんぞどれだけ死のうが知ったことかという言葉。あれをネットにでも流せば、大炎上は確定だ。

今の時代、ネットで炎上すると収拾がつかなくなることが多い。

如何に旧華族出身だろうが、それは同じだ。

まあ、一つ分かったことがある。

教授陣も、案外頭が悪い。私は自分が役立たずだと卑下していたけれど。此奴らも、あまり代わらないのかも知れない。

大学を出る。

助手は今日も姿を見せない。何だか面倒だと思って外に歩いて行くと、入り口の所で、妙に可愛らしい中学生くらいの女の子が、誰かを待つようにして立っていた。流石に中学生となると、ナンパの対象にもならないのだろう。男子生徒達が時々視線をやっているが、それだけだ。

側を通り過ぎようとすると。

不意に、そいつが声を掛けてきた。

「あの、天野助教授ですね!?」

「何だお前」

「篠崎といいます。 あの、先日、電話を……」

そういえば、此奴の声、聞き覚えがある。

見かけ、何処かのモデルかアイドルかというほどに顔立ちが整っている。私とはえらい違いだ。

それに、何というか。

この庇護欲を刺激する雰囲気。さぞや男にはもてることだろう。

苛立ちを刺激されるかと思ったが。どうしてか、見ていて不快にはならない。

「悪戯電話は感心しないな」

「アースロプレウラ」

「史上最大のヤスデがどうした」

「私の中にいる生物です。 貴方の中には、イクチオステガがいると聞いています」

普通だったら、鼻で笑っていただろう。

だが、そうはいかない。

此奴も、どうしてその名を口にする。

イクチオステガは夢の中に出てくるけれど。それを誰かに話したことはない。おろおろしている篠崎とやら。

このままでは、私が虐めているみたいではないか。

「いいから、こっちに」

近くの喫茶店を探す。

其処ででも話すべきだろう。此処で話していると、目立つ。私の場合、悪い意味で目立ちたくはないのだ。

しかし、喫茶に入るのは、いたい出費だ。

かつかつの生活をしている身の上だ。一応栄養ドリンク以外は自炊もしているのだけれど。

喫茶で軽く食べると、それだけで数日分の食事になってしまうことも多いのだ。

篠崎とやらは、とにかく女らしい。まだ中学生くらいなのに、男の視線を意識しているのかいないのか、非常に可愛らしいのだ。顔立ちも整っているが、それ以上に可憐さが全体的に目立っている。

しかも、普通だったら女子から反感を買うタイプなのに。

どうしてか苛立ちがわき上がらない。どうやっているのか、聞かせて欲しい位だ。

「あの、研究、忙しいんですか? 白衣、随分汚れていますね」

「だから何。 そもそも私なんかストーキングして、何が楽しい」

「い、いえ、そういうわけじゃ……」

「そもそもどうやってイクチオステガの事を調べた。 中にいるって、何のことだ」

少し悩んだ後、女の子は。

側にあるカップを指さした。そして、巫山戯た事をいう。

「持ち上げて、みてください」

「何だよ。 え……」

持ち上がらない。

そして篠崎が指をそらした途端、持ち上がった。中身を零しそうになってしまったほどである。

何の手品だ。

精神的なものか。しかし、暗示を受けるような事は何もされていない。いつのまにか、何か催眠を掛けられていたのか。

話術か何かが原因か。

私が混乱しているのを横目に、篠崎は言う。

「まだ上手に使えなくて、うんと強くするか、うんと弱くするかでしか、調整できないんです。 ごめんなさい」

「手品か何かか」

「違います……」

悲しそうに眉を八の字にするので、此方が恐縮してしまう。

言われるままに、テーブルナプキンを折る。机の上に、鶴を置いて見ていると。篠崎が指先を向けた途端、それが潰れた。

思わず身を引きそうになる。

これは暗示だの何だので、どうにか出来ることではない。

「ど、どういうことだ」

「原理は私にもよく分からないんですけど。 こういう力が、古代のいきものを体に宿すと、つかえるようになります。 きっと天野さんも」

「原理がわからない」

「これから、天野さんに、怖い人達が接してくると思います。 天野さんがどういう力を使えるか、どう利用できるか、見極めようとすると思うんです。 わ、私の時が、そうだった、から」

つらそうにうつむく。

此奴は、嘘をついているようには思えない。

これは、引っ越しをしておいたほうが良いかもしれない。いずれにしても、今見せられた物は、手品でもなんでもない。

スプーン曲げとは状況が違う。

テーブルナプキンはずっと私のそばにあって、此奴が触る機会はなかった。しかも喫茶に入って、席を選んだのは私だ。

念のため、自前のハンカチで同じ事をさせてみる。

篠崎が指を向けると、やはり同じように、折って立てたハンカチが、押し潰されたように潰れた。

何かしらの細工をしていても、こんな事が出来るとは、思えなかった。

携帯を取り出して、さっと手品の種を検索してみる。

だが、これと同じようなものは、乗っていない。余程にマニアックな手品なのか、それとも。

本当に、訳が分からない能力を使っているのか。

「納得はしないが、何だかよく分からない事になっているのは確かなようだな。 それで、私になんで接触してきた」

「その、私達のグループの、副リーダーが。 陽菜乃さんって言うんですけれど。 陽菜乃さんが、天野さんと接触しろって。 それで、仲間にしろって」

「仲間ね……」

「その……陽菜乃さん、怖いですけど、いい人です。 私に酷い事をする人達から、助けてくれました」

いちいち煮え切らないが。

それから話を幾らか聞いてみると、要するに対立派閥があるらしいのだ。別に戦争をしている訳でもないのだけれど、フリーの能力者はいなくて、必ずどちらかに所属しているらしい。

相手側の派閥には恐ろしいリーダーがいて、発展途上国などで部下を使って暴れているという。

しかもその部下の中には、小国ではあるが、幾つかの政府を事実上乗っ取っている輩もいるのだとか。

信じられる話ではない。

いずれにしても、こんな話を鵜呑みに出来るほど、私は子供では無かった。

「わかった。 話半分に聞いておく」

「連絡先を、渡しておきます。 いつでも、連絡してきてください」

「不要。 口頭で。 覚えておくよ」

一瞬不安そうにしたが、電話番号を言ってくる。

多分使い捨ての携帯だろう。

何回か復唱して、覚える。私は頭が良い方では無いが、覚えるやり方は知っている。もっとも、此奴が見ていないところで、後でメモに起こしておくが。

頭が良いように見せておけば、損はしない。

そんな姑息な計算ばかり、この年になって働くようになっていた。

精算を済ませると、喫茶を出る。

いずれにしても、面倒な連中に目をつけられた可能性は高い。もう一つの派閥とやらが接触してきたら、双方の話を聞いてみて、結論を出すべきかも知れない。

篠崎というあの小娘が嘘をついているとは思えないが。

操っている奴は、嘘つきの可能性も高い。

見目麗しい小娘を使って勧誘をさせるのは、カルトの常套手段だ。私も、そんなのに引っかかるほど、世間知らずではなかった。

 

2、孤独の上陸

 

真似をして、仲間も少しずつ上陸するようになりはじめた。

だが、やはり無理は禁物。

体に負担が大きい。慌てて水の中に戻ってしまう仲間も多い。そんな中で、私はひたすらに、夕方から明け方を選んでは、陸に上がり続けた。

勿論、体は傷つく。

だがそれ以上に、未知の土地を踏みしめているという達成感が大きいのだ。誰も足を踏み入れていない場所。

起伏に富んでいて、気をつけなければ、帰れなくなる可能性も強い。

ああ、もっと乾燥に強いからだが欲しい。

そうすれば、いちいち水に体を濡らさなくても、行動できるのに。

限界を感じて、川に戻る。

だが、群れに戻ってみて、気付く。

いつの間にか、同胞達が、自分を避けるようになっていた。奇異の視線が向けられている。

何故だ。

お前達は、未知の場所に興味が無いのか。

其処には苦難もあるだろうが。

その一方で、うまい餌だってあるかもしれない。

誰もまだ足を踏み入れていない場所なのだ。大きな動物だっていない。つまり、好き勝手に振る舞うことだって出来るのだ。

それなのに、どうして。

だが、同胞は乗ってこない。

私は、無念だと感じた。しかし、未知への探求心は、衰えることがなかった。川岸で仲間達は満足してしまっている。

それでは、先に進めないと、私は思う。

だから、自分だけでも、少しでも。

未知の土地に踏み込む。陸上を進むと、見たことが無いものばかりがある。体は重い。歩くと苦しい。

しかし、それ以上に。

探求心が満たされる。

もっと此処を進みたい。それには、この体では無理だ。

私にもわかる。この体は、あくまで水の中で暮らすためのもの。もしも、陸上で暮らすなら。もっともっと渇きに強くならなければならない。

どうすれば、そうなるのだろう。

限界が見えてきた。

ただそれが、悔しかった。

 

目が覚める。

携帯が鳴っていた。電話を掛けてきているのは、助手だ。

思えば彼奴もよく分からない。私みたいな、大学でも権力がないしがない助教授に、どうして纏わり付いているのだろう。

他にもこびを売るべき教授なんて、いくらでもいるだろうに。

私の研究だって、そんなに凄い物ではない。

海棲生物の毒物研究なんて、別に珍しくもない。毒に対する研究はまだまだ進んでいないが。

はっきりいって。

私なんていなくても、研究は進む。

そんな事は、自身が、一番よく分かっていた。

いずれ何処かの大学で、画期的な研究が発表されて。アンボイナやフグにやられて死ぬ人間はぐっと減るだろう。

時計を見ると、まだ六時だ。

電話に出てみると。ひょろっと背が高い助手は。珍しく、声を上擦らせていた。

「せ、せんせい」

「どうしたー?」

「電話を替わりましょう」

不意に、声が変わる。

これは。

あのストーカーだ。篠崎の方じゃない。もう一人の、公衆電話から時々掛けてくる奴。

一瞬で、意識が覚醒する。

篠崎に言われたことを思い出す。まさか、こんなに危険な場所に、足を踏み入れていたとは思ってもみなかった。

「さて、天野助教授。 お久しぶりです」

「私の助手に何をしている」

「ちょっと私のアジトに案内している所ですよ。 昨日、近代派閥のアースロプレウラに接触しましたね」

罵声を飲み込む。

これは、想像以上にヤバイ。

此処も、監視されている可能性が高い。

「此方としても乱暴なことはしたくないんですが、本気だと言う事をわかってもらうには、これが一番だと思いまして」

「こんな事をして、無事に済むと……」

「済みますよ。 我々の組織は、この国の奥深くまで噛んでいます。 殺人くらい簡単にもみ消せるほどにね」

話を聞く限り。この親父は、篠崎とは対立している派閥に所属している、とみるべきなのだろうか。

どちらにしても、此処ではもう、どうにも出来ない。

アパートの中に監視カメラや盗聴器が仕組まれている可能性は九割を越えているだろう。下手なことをすれば、助手は死ぬ。

「何、我々としては、仲間を増やしたいだけなのです。 貴方の中にいるイクチオステガは、言うまでも無く生物の歴史で重要な役割を果たした存在。 脊椎動物が地上進出を果たすきっかけを作った、偉大なる生物だ。 そんな存在なら、さぞ強力な能力を引き出せるでしょうからね」

「私には」

「此方にまず来てください。 能力を引き出す方法をお教えしましょう」

電話が切れた。

じっと、携帯を見る。

篠崎にどうにかして、連絡を取りたい。

このまま言うとおりにして、事が上手く進展すると考えるほど、私の脳内は花畑じゃない。

少なくとも、対立しているという篠崎の派閥と連絡が取れれば、少しは状況が変わるはずだ。

助手はまだ若い。

こんな所で、私にかかわったばかりに死なせるなんて、絶対に駄目だ。

面倒くさいと思う事ばかりだったけれど。

このような事態に直面してしまえば、流石に目も覚める。

電話がまた掛かって来た。

無機質な機械音声である。具体的にどのようにすれば良いか、告げてくる。メモをするが、かなりカツカツのスケジュールだ。それも、密室型である。

まずアパートを出たら、駅のロータリーに向かう。

其処にタクシーを待たせてあるから、乗れ。タクシーのナンバーについては。

メモを取り終えると、向こうから電話が切れた。メモを取っていることまで、監視していると見て良い。

しかも、時間も指定してきた。

その時間までにタクシーに乗らなければ、助手の手から一分ごとに指が一本なくなるとも。

彼奴はまだ嫁入り前の体だ。

私だってそうだけれど、こっちはもう諦めている。助手は背も高くて、見栄えもするから、男は引っかけ放題。事実かなりもてている。

何より若い。私みたいにひねくれて、すっかり駄目にならないうちに、結婚することだって出来るだろう。

死なせてはならないのだ。

おかしな話だ。

あれだけうっとうしがっていたのに。

とにかく、アパートを出る。小走りでいく。駅のロータリーまではかなりギリギリだ。急がないと、助手の指がなくなる。

今日は大学で講義があったのだけれど、中止だ。それどころじゃない。元々、殆ど誰も来ないような講義だ。ドタキャンしても、誰も困らないだろう。

ロータリーに到着。

息を整えながら、彼方此方見回す。タクシーはかなりいる。焦りが募るが、特徴については聞いていた。白いセダンだという。

セダンでもパジェロでも何でもいい。

とにかく、ナンバーを確認しないと。

どうも個人経営らしいタクシーが見えた。ナンバーを見ると間違いない。白いセダン。間違いないだろう。

何だか柄が悪い奴が、運転手に絡んでいる。だが。

いきなりそいつが、吹っ飛んだ。そのままゴミ捨て場に突っ込んで、動かなくなる。何が、起きたのか。

いや、これは見た事がある。

昨日、篠崎が使っていた、訳が分からない力に近い。この運転手は、つまり。

「乗れ」

無言で、開けられた扉に飛び込む。

携帯が、即座に鳴った。

「遅かったな」

「時間通りの筈!」

「十七秒遅れた。 ペナルティだ」

助手の悲鳴が聞こえた。

まさか、指を切りおとしたのか。戦慄する私に、おぞましい言葉が掛けられる。

「アイスピックを指に突き刺した」

「この……!」

「反抗的な態度を取ると、ペナルティが更に重くなるぞ」

「……っ!」

どうにか隙を見て、篠崎と連絡を取らなければならない。

彼奴が頼りになるとは、私も思っていない。頼りにしているのは、後ろにいる組織だ。それがどんな組織かは、今はどうでもいい。

少しでも助けが欲しいのだ。

タクシーが出る。極めて乱暴な運転で、何度も頭をぶつけそうになる。

運転手は無言。

恐らくは、威圧のつもりなのだろう。

「あんたも、よく分からない力を持っているわけ?」

「黙れ」

「何よ……」

「人質を五体無事で帰したいなら黙っていろ。 余計な事を囀ると、ペナルティになるぞ」

口をつぐむ。

いかん。よく分かる。此奴らはプロだ。

此方の手を封じる方法を、よく知っている。喋ることを、そもそもさせない。情報を表に出さないための工夫だ。

それに気付いたけれど、窓硝子が加工されているらしくて、外がよく見えない。

これでは何処を走っているか、わからない。しかも運転席との間に間仕切りがある。最悪の場合、運転手を制圧することも出来ない、と言うわけだ。

私は変な能力なんて、持ってない。

ただ努力を重ねて、背伸びして。助教授になっただけの女だ。頭が良いわけでも、運動神経が磨き抜かれているわけでもない。

手は全て封じられた。

相手がプロじゃ、勝てる訳がない。

絶望が、じわじわと、心を侵していくのがわかった。

 

連れ込まれたのは、何処かもわからない場所の、安アパート。

見覚えがない。車に乗っていた時間がどれくらいかさえもよく分からない。ただ、首都圏からはいくら何でも出ていないと思う。

だが、それだけでは、何の意味もない。

事実上、自分がどこにいるか、全くわからないのと同じだ。

大声を出したら、助手を殺す。

車を出る前に、ストレートにそう言われた。

本当だったら、此処で。余計な事をしたら、協力なんてしないとでも、啖呵を切れば良かったのかも知れないけれど。

すっかり憔悴していた私には、そんな度胸など、残ってはいなかった。

奥の部屋で、縛られた助手が転がされている。手には、包帯を巻いていた。薄汚れた包帯には、容赦なく血がにじんでいる。本当にアイスピックで刺したのか。本気で容赦がないことを悟って、戦慄する。

「教授……」

「すまん。 酷い目に遭わせた」

とにかく相手に隙が無い。

人質の使い方をよく理解している相手に、なすすべがないのだ。

狭いアパートの中には、三人の男女。

一人はツインテールの無愛想な女。もう二人はまだ若い男だ。つまり、此方に電話を掛けてきていたおっさんは、此処にはいないと言うことか。

タクシーの運転手が、ドアの鍵を掛け、チェーンを填めた。

つまり、すぐには脱出できない。

窓硝子にも格子が填められている。或いは此処は、ヤクザか何かの事務所だったのかも知れない。

「私に電話をしてきていたおっさんは?」

「ああ、それは俺だよ」

若い男の一人が挙手する。

やせぎすで、目の光ばかり強い男だ。そいつは、ボイスチェンジャーを手にしていた。こんなくだらない手で、相手をおっさんだと誤認していたのか。

いや、嘘の可能性もある。

「強引な真似をしてすまなかったね。 この間、有望な新人を近代型に取られてね。 こっちとしても、必死なんだよ」

「よく分からないけれど、助手を解放してくれないか。 どうせ此処じゃあ、逃げようがないだろ」

「まずはそれを飲んでもらおうか」

出されたのは、ココアだ。

ただ、十中八九、何か盛られていると見て良いだろう。

助手の側には、もう一人の若い男がいる。

「変なそぶりを見せたら、そいつを踏みつぶせ」

「わかった」

若い男が、助手の頭に足を掛ける。

ぶるぶる震えている助手の様子が痛々しい。ひょろっと背が高くても、やはり普通の娘っ子なのだ。

こんな修羅場に放り込まれて、精神を保てるのは、余程の強者ばかり。

私にしても、助手にしても。

それは無理だ。

ココアを飲み干す。生ぬるくて、しかも苦い。

「何を淹れていたんだ」

「我々が開発した、能力発現のための薬剤だよ。 成分は、ごくごく単純だがね」

嫌な予感がする。

聞きたくはないけれど。男が、かってに知りたくもない事実を暴露してくれた。

「三十種類ほどの動物の骨を混ぜたものだよ」

「っ!?」

「あんたの場合は、両生類のものばかり混ぜ合わせてある。 イクチオステガの能力を宿しているのだから、それが適切だって言う事だ。 爬虫類系の力を宿している奴には、蜥蜴や蛇やらの骨を飲ませる。 単純な話さ。 もっとも、わずかながらスパイスを入れているけれど、それは秘密」

そんなものを、よくも。

にやにやと笑っている奴はいない。嗜虐的な趣味を満たすために、このようなことをしている訳では無い、という事か。

いずれにしても、不快極まる。

呼吸を整えながら、どうにか飲み下す。瞬間的に吐きそうになったが、我慢だ。とにかく、今は好機を待つしかない。

「なに、能力が覚醒すれば、気分も変わる。 具体的には、周囲の人間なんて、どうでもよくなる。 自分が人間ではないことを、思い出すからな」

「……そんな事のために、誘拐までしたのか」

「さっきも言っただろう。 俺たちは国の中枢に噛んでる。 殺人くらいじゃあ、逮捕もされないんだよ」

そうとは思えない。

敢えて口にはしないが、だったらどうしてこんな襤褸アパートにアジトを構えているのか。

これがどっかの国立研究所にでも連れ込まれたら、もうどうしようもないと覚悟を決める所だったのだけれど。

ヤクザの事務所を改装したような所でふんぞり返っている連中だ。

おそらくその権限は絶対じゃあない。必ず、逆転と反撃の機会がある筈だ。少しずつ、希望もわき始めている。

「ギガントピテクス、人質から目を離すなよ」

「ああ」

その名前は聞いたことがある。

ゴリラを遙かに超える体格を誇った、古代の類人猿の一種の筈だ。そんな名で呼びあっているという事は、やはり此奴ら、カルトの一種か。

そうなると、篠崎も。

何か、手はないか。

このイカレた奴らから、逃れる術は。

不意に携帯が鳴る。ツインテールの女のものだ。女はしばらく話していたが、やがて舌打ちして電話を切った。

「アーケオシリス、覚醒を急がせろと言う指示が来た」

「本当か。 ならばどうする」

「私の方で、実験場を用意してある。 例の学校だ。 タクシーを呼べ」

「わかった」

意外だ。

ずっと黙りこくっていたツインテールの女が、此処の責任者らしい。まだ若々しいように見えるのだけれど。

或いは、カルトだとすれば。教祖の娘か何かなのか。

にやりと、ツインテールの女が笑う。そのほほえみは悪魔的で、此方の考えを見透かしているかのようだった。

「違う。 私が此奴らとは比べものにならないほど、強力な存在を宿していると言うだけよ」

「知らない、そんな事」

「ちなみに私の中にいるのはメガテウシス。 あんたがイクチオステガだとすると、いずれ私と同じように、組織の幹部になるでしょうね」

知るかと、吐き捨てたくなった。

タクシーが来る。

助手とは引きはがされて、すぐにタクシーに乗せられた。

ふと、視界の隅に、見覚えがある人間が映り込んだ気がした。これは好機かも知れない。だが、私は。

短時間で、それを隠し通す知恵を身につけはじめていた。

彼奴は出来が悪い助手だけど。

私何かのために、これ以上傷つけさせてたまるか。

 

3、目覚めの魔笛

 

一緒にタクシーに乗り込んできたのは、ギガントピテクスと呼ばれた男だった。あまり知能が高そうには見えない。ただ腕力は凄まじい様子だし、何より指示を出されなければ、おとなしくはしていた。

筋骨隆々な肉体。

明らかに、自然のものではないだろう。

「あんた、ギガントピテクスとか言われてたけど、本名は」

「人間としての名前は思い出したくも無い」

たどたどしい様子で、ギガントピテクスが言う。

運転手がミラー越しににらんで咳払いすると、黙り込む大男。頭があまり良くないから、余計な事は喋るなというのだろう。

「そいつにこれ以上話しかけたらペナルティと見なす。 今度はあの女の太ももにアイスピックを刺す」

「わかった! わかったから、もう乱暴は止めて」

「ならば黙っていろ。 我々としても、今後同志に迎えるつもりのお前に、あまり酷い事はしたくないのだ」

好き勝手を言ってくれる。

こんな奴らの同志になんて、死んでもなるか。

どのみち、このタクシーが何処をどう進んでいるかはさっぱりわからない。途中検問を通るが。

先に言われる。

「騒いだらどうなるかはわかっているな」

無言を、私は通す。

此奴らも、必死なのだろうか。しかし、何だか少しずつ、妙なところも見えてきた。やり口が、強引すぎないだろうか。

検問を通り過ぎる。

運転手は表情を全く変えない。

少しずつ、気分が落ち着いてきているのがわかる。さっき飲まされた骨の粉末とやらの影響だろうか。

しかし、助手が心配なのは今も同じ。

どうすれば、この窮地を切り抜けられる。

運転手は、黙々と運転を続けている。下手に喋り掛けると、それだけでペナルティを取られかねない。

学校とやらがどういう場所かはわからないけれど。

密室にでも閉じ込められたら最悪だ。私は運動が出来る方では無いし、どうにもならない。

車が止まる。

目的地かと思ったら、渋滞に巻き込まれたらしい。運転手が舌打ちするのがわかった。

「学校に連絡を入れたいんだけど。 無断欠席になるし」

「アプローチを急に変えてきたな」

「これでも社会人なもので」

「助教授なら立派なものだ。 しかもその年でだろう」

揶揄のつもりだろうか。

助教授なんて、ろくなもんじゃない。更に言えば、教授だって、似たようなものだ。

大学は権力闘争の坩堝で、学問を政治にしてしまう奴がたくさんいる。その結果、画期的な発明が闇に葬られたり、中傷されて世間で認められるのが遅れたり。逆に、呆れるような間違いの発表が平然と為されたり、教授の権力が高かったりすると、それをいつまでもただせなかったりする。

金は、一部の教授はたくさんもらっている。

しかし助教授は基本的にカツカツだ。流石に金を払っている大学生と違って収入は得ているけれど、それも生活するのがやっと。

特に私のように、金にもならないような研究をしている場合は、なおさらだ。

しばらく渋滞に揺られる。

「助教授なんて、ろくなもんじゃない」

「俺たちは、もっとろくでもない場所にいたよ。 そこにいるギガントピテクスなんて、タチが悪い連中に用心棒代わりにされていてな。 しかも言う事を聞かせるために、虐待まで受けていた」

そうか。

なるほど、そうなのか。

見た感じ、条件さえ満たさなければ暴れ出すことはない、ように思えたが。

なるほど、マイナスの意味で、コミュニケーションを阻害される環境にいたのか。

喋りすぎたと思ったか、それ以降運転手は黙る。

自分の事をいわれても、ギガントピテクスは無反応だった。

しばらくして、今度こそ本当に目的地についた。

学校。本当に普通の中学校だ。

場所はわからない。見覚えがないが、それほど都会だとは感じない。車に揺られていた時間から考えて、首都圏からは出ていないはずだ。多分、高速も使っていないだろう。首都高独特の雰囲気が感じられなかったし、直線で高速を出しているとも思えなかったからだ。

頭がどんどんクリアになってきている。

学校とやらに、促されてはいる。校庭では生徒達が、球技に興じている。あれも何だかわからない生物の力を宿しているのかと聞くが、返事はない。

おそらくは違うと、私は判断。

体育館が特徴的な形状だ。これは、覚えておけば後で位置を特定できる。それだけじゃあない。

生徒数はざっと見たところ、四百人を超えていない。

恐らくは一学年ごとに四クラス。合計で120人ずつ。中学校なら、360人前後とみて良いだろう。

判断基準は幾つかあるが。

驚くべき事に、ざっとそれを暗算できた。

頭がどれだけ働き始めているのか。しかも、頭を使いすぎれば甘い物を食べたくなるものなのに。

全くと言って良いほど余裕があるのだ。

わからない。

自分の頭とは、とても思えない。

言われるままに、校舎に入る。特徴的な造りだと思った。昔はそう思ったかはわからない。しかもその昔とは、数日前だ。

「頭が働きすぎていてやばいわ」

「覚醒が始まっているという事だ」

「ふうん……」

涼しい顔をしているが。

もしも私が、相応の力を得て。此奴らを無事に返すとでも思っているのか。或いは、覚醒が進んでいる奴は、もっと桁外れの力を手にしているのか。

この余裕は、覚醒したての奴程度では、どうにもならない大物がいるとみて良いのだろうか。

まあ、今は判断材料が少なすぎる。

通されたのは、視聴覚室だ。

臭いを嗅いで、理解。

それに血の臭い。

誰かが此処で拷問でもされたのか。

ドアが開いた。

部屋に入ってきたのは、篠崎である。目を丸くしているのは、運転手とギガントピテクス。

二人して、同時に床にたたきつけられる。

みしみしと、床がもの凄い音を立てていた。篠崎は、ただ手を向けただけなのに。一体どういう現象なのか。

「此方です。 あまり時間は稼げないので」

「ぐっ! き、貴様、どこから!」

「正門から堂々と。 私、中学生ですから」

そういえば、そうだった。

篠崎に言われるまま、視聴覚室を出る。二人は追ってこない。心配なのは人質だけれど。あまり速くない足で廊下を急ぎながら、篠崎が教えてくれる。

「人質の人なら、今頃救出されています」

「ほんとうか」

「はい」

「ただな。 お前達の仲間にもなりたくはないんだよ。 今回は助手を助けてくれたことに、礼は言うが」

篠崎が頷く。まさか、これを受け入れてくるとは思わなかった。

此奴は見かけより、ずっとタフなのか。

「私も、その。 今は居場所が無くて、それを作るために必死なんです。 最近家も家族も失って、学校も。 政府にお仕事をもらうようになって、やっと新しい学校に通うようになりましたけど、それでもやっぱりその。 不安が、大きくて」

「不安定な立場なんだな」

「だから、その。 会話が出来る人が、欲しいんです。 前に友達だって思ってた人は、みんなその、私の体が目当てだったから」

アイドルみたいなルックスだが、周囲はそんな奴らばかりだったのか。

いや、違うな。

おそらく、さっき二人を一瞬で制圧した力のことだろう。

学校の外に飛び出す。車が停めてあった。中にいたのは、寡黙そうな禿頭の老人だ。車を出してもらう。

だが。

少し遅れて、飛び出してきたのは、ギガントピテクス。

凄まじい形相だ。

それどころか、飛び出すときに、ドアを吹っ飛ばしたほどだ。

生徒達は、どうしてかそれを見ても怯える様子も無い。篠崎が、悲しそうに言った。

「この学校、多分生徒達、みんな意識を掌握されてます」

「洗脳か何かか」

「もっと強い能力です」

車に飛びかかってくるギガントピテクス。既に発進している車なのに、即座に追いついてくるほどの脚力だ。

車が速度を上げるが、振り切れない。

それだけではない。

運転手もいる。運転手は小刻みに跳躍しながら、追いついてくる。まさか、あれほどの身体能力があったとは。

完全に、人間を超越している。

既に道路に入っているが、このままでは距離を詰められる。

不思議な事に、二人を見ても、通行人も車も、誰も驚かない。ふと気付く。少し遅れて、あのタクシーが追走してきている。あの中に、誰かしらが乗っているのか。

篠崎は慌てていない。

さっきの能力を使えば、あの二人程度なら楽勝なのか。

或いは、増援の宛てがあるのか。

「いいのか、追いつかれるぞ」

「問題ありません」

車に飛びつこうとしたギガントピテクスが、吹っ飛ばされる。

道路に叩き付けられ、タクシー運転手を巻き込んで、派手にバウンドした。運転をしていた禿頭の老人の能力か。

何をした。

重力を操作する能力の次は、斥力でも操作したのか。

どちらにしても、生物の概念を完全に超越している。まるきり化け物ではないか。

そして、私もその化け物になりつつある。

おそらく相対速度百キロ以上で吹っ飛ばされ、アスファルトに叩き付けられたにもかかわらず、ギガントピテクスは死んでいない。

タクシー運転手も、その場で起き上がる。

だがその時には、かなり距離が開いていた。あのタクシーが止まり、二人を回収するのが見えた。

「諦めていないようだな」

「……おそらく、しばらくは仕掛けてこないと思います」

理由は聞かない。

それにしても、状況を分析したい。一体何が起きているのか。

 

相手の車を振り切るまで、二時間ほど掛かった。

結局首都高に乗って、しばらく走った頃には。追撃の気配はなくなっていた。

携帯に、電話がかかってくる。

助手からだった。

「教授ー! 無事ですか−!」

「危うく酷い目に遭うところだった。 お前こそ、大丈夫か」

「平気です! アイスピックで刺されたところも、手当てしてもらいました!」

そうか。

どうにかこれで一安心、と言う所か。

正直な話、これで借りが出来てしまった。ただ、それはそうとして、まずは助手が無事に救出されたことが嬉しい。

胸をなで下ろす私に、篠崎が言う。

「まだ安心するのは、早いです」

「追いつかれたのか」

「そうではなくて。 もう少ししたら、仲間と合流できます。 その時に、話します」

仲間、か。

此奴の仲間が、助手を誘拐した連中よりマシという保証は何処にも無い。もっと過激で、残忍な奴らだという可能性も否定出来ない。

実際今回は、獣同士の縄張り争いにでも巻き込まれた可能性が高いのだ。少なくとも、今の時点で、信頼に値する存在はいない。

篠崎は、周囲は体が目当てだと言っていた。

此奴の仲間だって。

私を同様の目で見ている可能性は高いのだ。

イクチオステガの事が、不意に脳裏をよぎる。

飲まされたあの訳が分からない薬が原因だろうか。夢に見るだけだったのに。起きているときまで考えるようになるとは、重症だ。

咳払いする。

「合流の前に、情報を出してくれないか」

「わかりました。 私も、その。 したっぱ、なので。 あまり多くの事は、しらない、ですけど」

不安そうに篠崎が言う。

やはり男子だったら、庇護意欲をかき立てられそうな女だと思った。

 

完全に見失った。

不安そうにしている部下二人に。私、エンドセラスは鼻を鳴らす。

「予定通りだ」

「失態を晒しました」

「予定通りだと言っている」

タクシーを運転していたのは私だ。普段は自分からこういう仕事をすることは滅多にないのだけれど。

今回は別。

イクチオステガは、時代を代表した覇者ではない。

その代わり、時代を変えた分岐点の主だ。

今まで、この分岐点能力者は、あまり多くが出現していない。今回の目的は、見つけた分岐点能力者を覚醒させること。

出来れば手元に置きたかったが。

どうせいずれ手中にするのだ。しばらくは泳がせておいても構わない。

現在、古代型と近代型の戦力比は、100対2。

ティランノサウルスが成長しても、アースロプレウラが完全覚醒しても。この戦力差は、全く埋まる可能性がない。

むしろ少しくらい戦力差を埋める希望を相手に持たせた方が、今後の小競り合いにおいて、相手を萎縮させないですむ。

何かとその方が好都合だ。

加えて、今エンドセラスの配下では。

ある強力な若手が、めきめきと頭角を現している。そろそろ小競り合いに投入しても良いだろう。

今までは発展途上国で、民間軍事会社に混ぜてテロリストの殲滅作戦を主に実行させていた。

そろそろテロリストどもをすりつぶすのにも飽きてきているし、能力者の多数いる日本で、腕を磨かせるのも良いだろう。

メガテウシスから連絡。

人質奪還の際に、出張ってきたのはやはりティランノサウルスだそうである。今のメガテウシスでは、もう歯が立たなかったそうだ。

悔しそうに言うメガテウシスにねぎらいの言葉を掛けると、部下達に作戦終了を告げる。

どのみち、監視はついているのだ。

途中、ドライブスルーによる。其処では、駐車場に大型のライトバンが停車していた。乗り換える。

タクシーの方は、そのまま運転手に任せ、帰らせる。

ライトバンの中はオペレーションルームが構成されていて。既に状況の分析を終えた部下達が待っていた。

全て事前に手配したとおりだ。

「イクチオステガの覚醒状況は」

「おそらく、無自覚ですがもう覚醒はしているかと思います。 タクシーに乗っている間に、相当な能力値のぶれを観測しています」

「そうか。 今は近代型と合流中か」

「その様子です。 近代型のアジトを張りますか」

不要と応えると、用意させておいたビタミン剤を出して、呷る。先ほど、能力の一端を展開した。

それでそこそこに消耗したのだ。

まあ、本気で使った訳では無いから、あくまでそこそこに、だが。消耗分は、栄養で補っておけば良い。

本気で戦闘した場合などは、数人分の食事を平らげることもある。

「首領。 気になる情報が入ってきました」

「何だ」

「EUで火種が発生した模様です。 かなり不鮮明なルートから、膨大なドルと元が流れ込んでいます。 テロリストがにわかに活気づいていて、現地の同胞から増援の依頼が来ています」

「稼ぎ時、か」

何か妙だ。

エンドセラスは今まで、幾つかの国を支配し、それ以上の国を支配下に置こうと画策してきた。

今ではCIAが要注意人物としてマークさえしている。

罠の可能性もある。

「筆石を現地に派遣。 情報収集に当たらせろ。 挽回の機会だと言ってな」

「わかりました」

戦闘力は低いが、IT関係に非常に強くなる能力を持っている筆石は、情報収集には適任だ。

彼奴一人を投入するだけで、プロのハッカーを十人雇うより効果が上がる。

問題はまだ能力が未完成で、しかも本人が反エンドセラス派閥に属しているという事だ。この間発覚したとき、首をくくりかねないほど怯えていたから、それほど気が強い方では無い。

幾つか手を打って脅しておけば、逆らうこともないだろう。

「護衛として何名か付けろ。 罠の可能性がある。 最悪の場合は、陸路で逃げる事になる可能性さえある」

「それほどですか」

「幾つかの国を事実上掌握したことは、CIAも掴んでいる。 大規模な罠を仕掛けてきても、不思議では無いさ」

ネットなどでは無能呼ばわりされることもあるCIAだが、その実は相当に優秀で冷徹な情報組織だ。

今の世界はあまりにも広大で複雑すぎるため、全てをコントロールするには到らないというのが実情。

決して、なめてかかれる相手ではない。

CIAに所属している能力者もいると聞いている。今後はそいつらとの交戦も、視野に入れないといけないだろう。

ただ、こういったことに関しては、エンドセラスに一日の長がある。

今はとにかく、能力者を増やすこと。

ダーティな手を使っても良いし、一時的に敵対派閥に廻してもいい。

最終的に全部回収して自分の所で使うのだから、同じだ。

政府側に廻している能力者から連絡が来た。モニターに出す。

いわゆるバーコード禿の、頼りなさそうなおじさんが姿を見せた。額をしきりにハンカチで拭っている、気弱そうな男。

実はこの男が、日本政府で能力者管理をしている凄腕だと言っても、誰が信じるだろう。政府を掣肘し、エンドセラスの意向のままある程度操作するには、この男の能力が必須なのだ。

「ピカイア、状況は」

「はい、政府は今回の誘拐事件についての説明を求めてきています」

「能力者の覚醒に必要だったと告げておけ。 一端は敵対派閥に廻るだろうが、いずれ回収するとも」

「わかりました。 それと話は変わりますが、今度、総理が会食に招待したいそうです」

適当に相づちを打つ。

ピカイアの能力は、人間に嫌われない事。

これは発動すると、どんな相手にも効果を示す。戦場などでは意味がないが、劣化した権力構造の中で、これほど力を持つ能力はそうそうにない。

事実ピカイアは異常なほど政府内の様々な派閥に信頼されており、総理にも絶大な影響力を持っている。

此奴がくさびとして食い込んでいるから、日本でエンドセラスは好き勝手が出来るのだ。今後、能力者は更に増える。覚醒前だった能力者を、見つけ出していく体制も整ったからだ。

さて、駒は予定通り動いている。

イクチオステガを覚醒させた後、もう二三人、目をつけているのを動かす。

そして、それらが成った後は。

中規模国家の制圧に動く。

やがて人類が気がついたときには。

エンドセラスの掌中に、三十を超える国家が掌握されていることになる。既に、その準備は整っている。

幾つかの情報を整理しながら、エンドセラスは、もう一本、ビタミン剤の瓶を手に取った。

 

助手に抱きつかれて、わんわん泣かれた。

正直、こんな大女に抱きつかれて泣かれると、押し潰されそうになるのだけれど。しかし今は、どうしてかそんなに圧迫感を覚えなかった。

或いは、頭が回るようになったのと同時に、身体能力も上がっているのかも知れない。

「教授ー! 怖かったですー!」

「あー、わかったわかった。 とにかく、アイスピックで刺されただけで良かったな」

「いたかったですー!」

その時のことを思い出したのか、またわんわんと泣き始める助手。

正直困り果てたが。

咳払いが、空気を一変させた。

此処は、小さなマンションの一室。小さいと言っても、部屋そのものは三つあるから、そこそこに良いマンションだ。億ションまではいかないだろうが、相応の値段がしただろう。

ちなみに場所は東京の端。

そこそこに立地も良い。職場が都内の何処でも、問題なく出かけていける絶好の場所である。

既に夕方。

咳払いをしたのは、ポニーテールの活動的な女子だ。ただ、見かけは活発なお嬢さんという感じなのだけれど。目と表情がまるで違う。

まるきり化け物だ。

「とりあえず、今後の事を話しましょう」

「今後の事と言われてもな」

「大学に一報は入れましたか?」

「そうか、それもそうだ」

今日は緊急の用事で、講義をさぼってしまったことを、大学に連絡。事務には渋い顔をされたけれど。

ただ、それでも連絡は取れた。

失踪扱いにはならないですむはずだ。

「病院は此方で手配しました。 ただ、明らかに悪意ある攻撃による外傷なので、普通の病院では見て貰えません」

「警察沙汰になるって事?」

「有り体に言えばそうです。 我々の仲間が経営している病院ですので、その辺りはご心配なく」

余計心配だ。

此奴は助手なんかしているが、そんなに頭が良い方じゃない。

私自身だって、今どれだけ自分の力が使えるかよく分かっていない。あんな重力とか斥力みたいな、驚天動地のわけがわからん能力なんて、どうすれば良いのかさえもよくわからん。

とにかく助手をまず帰らせる。

此奴らを信用したわけではないのだけれど。ポニテの女がいうには、相手はもう助手に興味を失っているそうだ。

問題は私。

イクチオステガの力だ。

助手を帰らせる。普通のタクシーで送るが、本当なら私が家まで付き添いたい。

「天野助教授。 何か、特殊な能力に、心当たりはありませんか」

「あるわけないだろう。 妙に頭が回るようになったし、助手にハグされても潰されなかったが、それくらいだ」

「おそらく、数日以内に、能力を操れるようになる筈です。 最初はそこの田奈ちゃんみたいに、強い力と、弱い力を限定的に。 慣れてくれば、消耗と引き替えに、力のコントロールが出来るようになるでしょうね。 鍛練を重ねれば、どんどん力を強く出来る筈です」

「そーかい」

言いたいことは、いくらでもある。

此奴らが本当は何者か。ただのカルトの抗争に巻き込まれ、此奴らの言う事を真に受けているという事はないのだろうか。

いや、目の前で、実際に訳が分からないものを見ている。

それに、身体能力も上がっている。

本当に数日前だったら、右往左往するだけだったはずだ。これだけ冷静に事を進められるのは、やはり何か変な力の影響という線が強そうだ。

努力は、今までも散々してきた。

大学に入るときだってそう。国立に入るのには、今までの積み重ねもあったけれど、死ぬほどの努力をして、必死にどうにかしたのだ。

それなのに、何処でも鈍い頭が悪いと言われ続けた。

努力をしても、一朝一夕では変わらない。

勿論変わる人もいる

だが、私は違う。

それは思い知らされてきたことなのだ。だから、不意に進歩したというのであれば、何かがおかしいのだ。

「時に、もう帰っていいか?」

「どうぞ。 護衛も付けます」

「一人にしてくれないか」

「エンドセラスはおそらく、貴方を泳がせるつもりです。 本当なら、此処もとっくに突き止めているはず。 仕掛けてこないのは、貴方の能力が覚醒しているか、見極めるつもりなのか、或いは……」

言葉を切る。

切れ者っぽいこのポニテにも、量りかねているという事か。

むしろ私には、そのエンドセラスとやらの行動は、単に私を覚醒とやらさせるために思えてきたけれど。

そうでないと、いくら何でもいろいろな計画がずさんすぎるからだ。

特に、国際犯罪組織にも等しいものを操っている切れ者にしては、部下の統率がいい加減すぎる。

幾つもの国を支配しているとなればなおさら。

もしも私がその立場なら。

介入の余地なんて与えないだろう。

気がついたときには、私は能力者とやらにされて、従うしかない状況になっているはずだ。

そもそも此奴らが生きていられるのも気になる。

確かに切れ者もいるようだけれど。

相手が悪すぎるはずだ。本来ならば。

篠崎に視線をやる。

あいつも、ずっと涼しい顔をしていた。ひょっとして、その可能性には、最初から思い当たっていたのか。

あり得る話だ。

此奴らは、そもそも相手の手のひらの上で踊っていることを承知の上で、行動しているのではあるまいか。

だとすれば、意味がわからない。

タクシーを手配してくれた。

車代は出してくれるという。やはりというかなんというか、資金はそれなりに、潤沢に持っているらしい。

タクシー代を出す事を、躊躇う様子は無かった。

一緒に乗って来たのはポニテの女だ。陽菜乃と呼んでくれと言われたので、そうする。宿しているのはティランノサウルスだそうだ。

だとすれば、大した化け物のようだし。

事実此奴本人を見ても、まともな存在だとは思えなかった。

 

4、闇から来たりし力

 

食欲が、全く無くなった。

正確には、今まで美味しいと思っていたものが、まったくそうだとは感じなくなった。それどころか、食べようという意欲さえ湧いてこない。

色々あって、家に帰って。

それから二日後に気付いたことである。

助手が作ってきた弁当を突いていて、自覚。

それ以降は、更に症状が重くなっていった。

自分の研究室などは、持っていない。

だから、教授が使っていない所を見計らって、隙を見て実験をするしかない。四日ほど過ぎてみて、ようやく少し腹が減り始めたので。自分について、色々とデータを取ってみた。

そうすると、色々とわかってきた。

まず、食事を必要とする頻度が、極端に減ってきている。

具体的には、一週間に一度、食べれば充分という所だ。

これは変温動物の食事必要量と、ほぼ同じ。

それでいながら、人間のままの部分もある。体温調節は、そのまま上手く行っているのだ。

どういう仕組みになっているのか、さっぱりわからない。

胃液なども採取して、調べて見る。

そうすると、おかしな事が幾つも出てきていた。

胃酸が、通常の人間とは比較にもならないほど、強くなっているのだ。普通、人間の胃酸では、人体専門の寄生虫の類は殺せない。蠅の幼虫なども、胃に生きたまま入り込んでしまうと、体の中で好き勝手に暴れられる事になる。

しかしだ。

何種類かで試してみたのだけれど。

今の私の胃酸に放り込むと、普通だったら苦にもしないはずの蠅の幼虫などが。一瞬で溶けてしまう。

王水ほどではないが、凄まじい酸だ。

胃の構造そのものも、変わってしまっているとしか思えない。

私の体に、何が起きている。

出力も、上がっているのが目に見えていた。

ちょっとジムに行ってみたのだけれど。ベンチプレスで150キロが簡単に上がって、トレーナーを驚愕させていた。

此処ではまずいと思ったので、助手に協力してもらって、身体測定もしてみる。

握力も走る速度も、以前とは比較にならない。

助手は凄い凄いと黄色い声を上げていたけれど。

とてもではないが、喜ぶ気にはなれなかった。

 

携帯に篠崎から連絡があった。

体の調子を聞く内容だったので、ざっと調べただけでわかったことだけでも説明してやる。

多分驚かないだろうと思ったけれど。

実際、驚かなかった。

「精神的な体調の方は、大丈夫ですか」

「平気だが、それが何か」

「能力が覚醒すると、嗜好が変わる場合があります。 能力が強ければ強いほど、その傾向は大きいです。 能力者によっては、人を食べる場合もあります。 以前、そういう能力者に遭遇もしました」

黙り込む。

そうか、それも確かにありうると言う事か。

体が単純にハイスペックになるだけだろうとは私も思ってはいなかったけれど。人を平気で食うようになってしまう場合もあるのか。

助手のことを思い浮かべる。

ひょろっと背が高い、ちょっと頭が悪い。自分を慕ってくれる女。

あんな事があったのに。

未だに、教授教授と、自分に無二の好意を向けてくる。

彼奴を、自分で殺してしまうような事は、絶対に避けたい。そんな事をしてしまったら、もう私は。

人間でさえない、化け物になり果ててしまうだろう。

電話を切ると、研究室の方を調べる。

使用していない研究室を見繕っては、幾つかの実験を徹夜で行っていく。教授達は小首をかしげているようだった。実際一人は、私を見かけると、声も掛けてきた。

「君、何を此処まで熱心に調べているのかね」

「秘密です」

「秘密って、君ね。 こんな過密スケジュールで、講義もこなしていて。 体がもつのかね」

「これくらいは何でもありませんよ」

事実、三日や四日、寝ずに実験をしても、何ともなくなりつつある。

私の体は。

既に、人間の常識を、大きく逸脱しはじめていた。何かしらの興奮状態にあるのかとさえ思ったけれど。調べて見ると、興奮物質も出ておらず、脳波もいたって平静。

更に言えば。

能力は、日に日に上がっている。それが目に見えてわかりさえしていた。

明らかに教授は面食らったようだが。私はどうでもいいので、席を外す。やっておきたい事が、いくらでもあるのだ。

どんな力が身に宿ったかは、どうでもいい。

それをしっかり使いこなして、飲まれないようにする。それが、私がするべき事。急務となる作業だった。

 

夢を、見なくなった。

イクチオステガの夢を、全く見ない日が続く。

とはいっても、眠るのは三日に一度程度。それも三時間程度だ。風呂には相応に入っているのだけれど。

全く眠くならないのである。

それに、体力の消耗も感じない。

三時間ほど、研究室が取れない時間が出てきたので、舌打ち。

目を覚ましたばかりなのだ。多分三日後くらいまで眠れない。そればかりか、食事もしたくない。

腹が減らないからだ。

食事は殆どしない。だが、たまに食べるとなると、欲求が強く出てくる。

魚料理が、以前に比べて大好きになっている。

それに、一つ、頭の中に、浮かび上がる事があった。

境界を越えたい。

強い強い願いが、渦巻いている。

理由はわかる。イクチオステガは、陸上進出を果たした、非常に重要な両生類。爬虫類の始祖とも言える存在の一つだ。

彼らは川で生活していて、陸上に当時最も近い脊椎動物だった。

だからこそに、未知への欲求が滾ったのだろうか。

だが、少しおかしい。

何というか、征服欲というか、そういうものを感じないのだ。一体私の中にいるイクチオステガは、何が言いたいのだろう。

外に出て、資料を買いあさる。

注意力が増していて、必要な本を見逃すことがなくなっていた。以前は本棚の前をうろうろすることもあったのに。今では、即座に必要な本を、見つけ出すことができる。注意力が桁外れに上がっているのだ。

貯金を冷静に計算しながら、資料を集め。場合によってはオンライン注文もする。三時間後、研究室に戻る頃には、必要な本があらかた集まってきた。

篠崎から連絡が来る。

研究室で機材を並べながら、首で携帯を挟んで応じた。

「何?」

「政府機関が、天野先生の事を察知したみたいです。 スカウトが入るかもって話が来たそうです」

「ふうん……」

一応此方は国立大学の助教授だ。

スカウトというと何だろう。学園長辺りへの抜擢だろうか。

まさか、あり得ない事だ。

そうなると、空いている国が運営している研究所かなにかに抜擢か。それなら可能性があるかも知れない。

新設する施設の長にでもなれば、面白い事になりそうだけれど。

流石に其処までは、高望みもしていない。

電話が切れたので、研究に戻る。

助手が目を擦りながら、研究室に入ってきた。

「おはよーございまふー」

「何だ、眠そうだな」

「教授がタフすぎるんですよー。 もう次の実験、はじめるんですか?」

「そうだ」

計画書を見せる。

私の身体能力については、どんどん上がっているから、計測するのはあまり意味がない。意味があるのは、体の変化についてだ。

髪の毛や皮膚、唾液や胃液。

場合によってはその他の体液も、順番に調べていく。

時々脈拍や血圧も測る。

助手がかなりグロッキーになっているのがわかった。分析装置を動かしながら、時々休む。

私が働いているうちは、助手は働きたがらないからだ。

「お前は、なんで私を慕う」

「だって、教授、かっこいいですもん」

「三十前の独り身で、野暮くてださくて男もいなくて、研究も世間に認められない私の、どこがかっこいい」

「そんな状況でも、自分を曲げていないのが格好いいです」

そんな事はない。

そう言いたくなったけれど。しかし、助手はにこにこしているばかりだった。

甘いお菓子を渡して、少し眠るように指示。

自分も少し目を閉じて、眠るフリをした。何をするべきかどんどん頭に浮かんできて、眠るどころではないが。

助手はソファに転がって、すぐに眠りはじめた。

ウォンウォン言っているのは、分析機。遠心分離した物質を調べるためのものだ。国立だが、あまり新しい機材はない。古いので、だましだましやっていくしかない。

ふと、頭に浮かぶ。

境界を越えたい。

いつもの願いだ。

しかし、いつもの願いだけではなかった。

でも、きっと越えられない。

私の後を継ぐものが出るのだろうか。出て欲しい。必ずや世界に広がって欲しい。私は、境界を越えられない。

だが、私の子孫達なら、或いは。

不意に、意識が途切れた。

いや、混ざったと言うべきか。

何となく、わかってきた。私がこのイクチオステガに、どのような影響を受けていたのか。そして、これから何をするべきなのか。

ソファで幸せそうに寝こけている助手を一瞥。

研究室を出ると、教授の一人に遭遇した。相手が露骨に視線をそらした。気まずくて仕方が無いという雰囲気だ。他の学生達は、何があったのだろうと、此方を見ている。何を話しているのかが、聞こえてきている。

「あの地味な助教授、何だか徹夜連続して、研究室借り切って作業してるみたいよ」

「ええっ!?」

「それも、教授達が揃って、あの助教授の噂してるんだって。 何でも国から……」

視線を向けると、学生達が慌てて視線をそらした。

聞こえていると教えてやりたかったが。いや、ボコボコにぶん殴ってやりたかったけれど、まあいい。

晴れやかな気分だ。

わかったからだ。

何故、イクチオステガが、私に力を貸したか。私は、境界を突破する。その境界とは、この能力と、人との垣根。

そして私に備わった能力をフルに扱えば、それが出来る。

呼び出しがある。

学長からだ。

助教授になった時以来の遭遇である。前は雲の上の相手だったのだけれど。今は正直、どうでもいい。

学長室に出向くと。気弱そうな学長が、黒服の男達に囲まれていた。

男の一人が、名刺を差し出す。内閣情報調査室と所属が書かれていた。噂には聞いていたが、実在した組織だったのか。

「貴方が天野氷雨教授ですね」

「はあ、まあ」

「あ、天野くん!」

「いえいえ、結構です。 その様子では、既に覚醒しているご様子だ」

なるほど。向こうは事情をあらかた知っているか。或いはエンドセラスとやらが、知らせたのかも知れない。

思惑もよく分かる。

内閣としても、能力者を野放しにするのではなく、出来れば監視できる体制に置きたいというわけだ。

「私としては、独立の研究所を作ってくれるなら、おとなしくしているけど」

「最初からその予定です。 研究内容は精査させていただきますが」

「別に人体実験はしないから大丈夫。 ああ、そうそう。 私の事を教授と呼んで慕ってくれる学生が一人いるのだけれど、彼女を正式な助手として雇うのが条件」

「よろしいでしょう。 これから、細かい打ち合わせをしますので、おいでください」

とはいっても、どうせ有無は言わせないだろう。

黒塗りの防弾カーが四台、大学の駐車場に泊まっていた。その内の一台に乗り込む。隣に座ったSPは女性だった。

此方をみてにこりとする黒スーツの女性。

私は、鼻を鳴らす。

帯銃している事。暴れた場合は即座に殺すつもりで構えていること。何より、私を化け物だと考えている事。

その全てを、即座に見抜いたからだ。

それに身体能力でも、今では私の方が遙かに上。その気になったらこの防弾カーの中にいる人間を十秒で全員ミンチにして、内側から突き破って脱出する事も容易い。そうか、篠崎が余裕だったのはこれが理由か。

彼奴は、別に車から放り出されても。或いは車ごと吹っ飛ばされても。

平気だから、落ち着いていたというわけだ。

これが、多分余裕という奴だ。

油断ではない。今まで、自分が味わうことがなかった気分。そうか、人間とは。こんなに脆い生き物だったというのか。側に座っているプロのSPがまるで怖くない。銃を持っていてもだ。

銃弾程度じゃ、もう死なない。

私は、境界を越える。

それは確信できていた。

此奴らはまだ社会の主流にいる。だが、確かに能力者が一丸となれば、この世界を乗っ取るのは難しくないだろう。

私が特別に強い能力者と言う事は、多分ない。

今だからわかるが、篠崎やあのポニテの実力は、今の私よりも更に一枚上手だったのだ。

「で、研究所は何処に作るの?」

「貴方のアパートの側に、400坪ほどの空き地があります」

「ああ、あの廃ビル。 お隣の資本が撤退してから、幽霊ビルになったとかいう」

「彼処を潰して、地下三階の研究施設にします。 それで、何を研究するつもりで?」

そんなもの、決まっている。

私は、さらりと言い放った。

「能力者そのもの」

「はあ。 しかしサンプルの入手が著しく難しいかと」

「私のクローンを使う。 クローンなら人間じゃないし、何より私自身で実験するのに、何の文句もないだろう」

「え……」

クローンの技術が実用化されているという噂は、既に闇で流れている。

私はもう、その技術をこの国が入手しているところまで掴んでいた。

「ついでだから、クローン技術も完成させてあげるから。 研究所に持ってきなさい」

「し、しかし貴方の能力では」

「ほら」

ぽんと、紙束を渡す。

此処しばらくの研究成果。というよりも、私が無意識で使っていた、能力の結晶だ。

私の能力は、研究を進めること。

実際、研究が異常な速度で進むわ進むわ。他の教授の行き詰まっていた研究や、無理難題と言われていた迷宮入り案件まで、二件片付けてしまった。

ただ、今だからわかる。

能力者研究の難易度はこの比では無い。

ただ、結論が最初に出てしまうので、そこまでの穴埋めが必要になる。それが多少、時間のロスにつながる。

何処かの国の施設に、車に乗ったまま入った。

其処では内閣情報調査室のかなり偉い人らしい男が待っていたが。私の眼光を浴びてたじろぐのがはっきりわかった。

もはや、人間は、単独では私の敵にはなり得ない。

ただし、結束した人間は厄介だ。

今はまだ従っておく必要がある。

書類にサインすると、研究所の外観について、CGを見せられる。

悪くない施設だ。

私は人間を止めた。心身ともに。

調査の結果、胃酸や耐久力だけではない。他のものも、あらかた人間から離れつつある。まだ調べていないが、DNAもすでに変化している可能性が高い。化け物に脱皮してもおかしくないだろう。

人間性もなくなりつつある。

だが、一つだけ、願いがある。

自分を慕ってくれる助手を、あまり酷い目に遭わせたくない。前は鬱陶しくてならなかったけれど。

今は。いや、今だからわかるのだ。

きっとこの世で、唯一私を本気で慕ってくれているのは、あの娘だけなのだと。だからこそ、たかが人間であったとしても、大事にしたい。

人間なりの幸福を、享受させてやりたいのだ。

「それでは、契約成立と言う事で、よろしいですな」

「問題ない。 これから頼むぞ」

さて、後はどちらの派閥に入るか、だが。

私は人間性を捨てた。だからこそ、恩義を大事にしようとも思う。

アパートまで送ってもらってから、携帯を開く。

篠崎の電話番号をプッシュ。すぐに出た篠崎に、用件を伝える。

「お前達の仲間になってやる」

「あ、はい。 あ、ありがとうございます」

「ただし要求は色々多いぞ」

電話を切ると、私はこれからどうするか。

以前とは比較にならないほど機能するようになった頭をフル回転させて、善後策について協議しはじめたのだった。

 

(終)