怨念の権化デートする

 

序、恐怖の予告

 

此処は失われた存在が集う最後の楽園幻想郷。他の場所から隔離され、既に居場所が他に無くなった存在が多数群れ集う場所。

妖怪や伝承が失われた神々。ありとあらゆる人外の者達。

その特異な環境故。

多くの居場所を失った存在が集い。

また力ある存在も目を向けている、不思議な最後の楽園。

幾つもの勢力が林立する其処には中立組織もある。

神々の世界から離れ。

そして迷いの竹林と呼ばれる要塞の深奥にある屋敷がその拠点だ。

永遠亭と呼ばれる其処は。

神々に等しい存在である超越生物「月人」を頂点に。月人が支配する「月の都」から逃れてきた奴隷階級である玉兎と。

そして土着の妖怪兎たちによって構成されている勢力である。

一見すると、永遠亭は古くさい屋敷にしか見えないが。

内部は超高度テクノロジーに満たされ。

外見と内部の広さはまったく一致していない。

また、多数の勢力が存在する事からも分かるように。中立を保つには当然の事ながら力がいる。

此処の名目上の主である月人蓬莱山輝夜。

そして事実上の主である月人八意永琳。

二人とも超越存在に等しい上、その上不老不死の特性を持っており。肉体が破損しても即座に再生する。

ただでさえ圧倒的な実力の持ち主でこれだ。

中立を主張し、好きに引きこもれるだけの戦力がある、という事である。

近年は、永遠亭は幻想郷内部で、比較的他勢力と関係を持つようになりはじめているのだが。

しかしながら、1000年間迷いの竹林にて自己完結する生活を送る事が出来ていたように。

その鉄壁要塞ぶりは現在も健在。

本来なら、知識がなければ近付くことも出来ないし。

近付いたところで悪意があればあっと言う間に撃退される。

その筈、だった。

だからこそ。

玉兎である鈴仙・優曇華院・イナバは。

永遠亭の門前に書かれた、その文字を見て。

わいわいと文字を見上げている人型をとった妖怪兎たちの中で、立ち尽くし放心していた。

震えが足下から這い上がってくる。

人間の女の子に兎の耳を生やし、学校の制服を着込んだような姿をしている鈴仙は。特に容姿が人間に似ている妖怪の一人だが。

それ故に、近年は特に意識せずとも、人間らしい振る舞いが身についてしまっていた。

こんな風な、生理的な振る舞いも、である。

玉兎のストレスは兎の耳に出る。鈴仙の耳は、今恐怖でくしゃくしゃになっていた。

「何コレ?」

「此処にまで来て、誰にも気付かれずに悪戯!?」

「一応リーダーに知らせてこようよ」

「うん」

妖怪兎たちは、わいわいと屋敷の中に入っていく。

本来、名目上の上司である筈の鈴仙の事など見向きもしない。

妖怪兎たちは、長年彼ら彼女らを従えてきた土着の妖怪兎のリーダー、てゐを慕っており。

てゐと上司鈴仙の不仲を良く知っている故に。

てゐの悪戯を手伝って鈴仙を落とし穴に落としたり。他にも嫌がらせの数々をする事はあっても。

言う事なんて、聞く事はまずなかった。

戦闘能力で言うと、てゐは高い方では無い。鈴仙と戦ったら、一瞬でひねり潰されてしまうほどの存在でしか無い。妖怪兎が束になっても、鈴仙にはかなわないだろう。鈴仙は月の都で戦闘訓練を受けた精鋭兵士だったのだ。実戦経験も豊富である。

ただしてゐはとにかく悪知恵が回る上、相手の心理を読むのにも長けている。

それ故に、気弱で、本当に追い込まれないと力を出せない鈴仙の事を舐めきっているし。

なにより「月の兎は地上の兎をみくだしている」と考えて、むしろ積極的にサボタージュまでする始末である。

ただ、今はそれは良い。そんな程度の事はどうでもいい。

普段なら胃に穴が開きそうになるから大問題だけれど、これは、そんなものとは比較にならない程の非常事態だからだ。

鈴仙は、この字を書いた相手に、心当たりがあったのだ。

この永遠亭に迷わず来られる存在は、ごくごく限られている。

迷いの竹林を知り尽くしている、ある理由から不老不死になった人間藤原妹紅。彼女は鈴仙とは比較的交遊してくれる方だ。

迷いの竹林に住んでいる何匹かの妖怪。

いずれもが、犯人ではあり得ない。こんな悪戯をするわけがない。妹紅は悪戯とは無縁だし。妖怪達はいずれも小物で、歩哨である妖怪兎たちや、鈴仙の目をかいくぐってこんな悪戯が出来る実力はない。

犯人の可能性があるのは、一人しかいないのだ。

幻想郷のルールなど、気にもせず移動出来る存在。

妖怪兎たちなんて、認識も出来ない動きで悪戯出来る者。

迷いの竹林の相手を幻惑させる仕組みなんて通用さえしない圧倒的規格外。

そして昔、鈴仙が幻想郷の精鋭達とともに交戦し。

何故か気に入られてしまった恐怖の権化。

その精鋭の中にはあの博麗の巫女もいて。

側で珍しく冷や汗を掻いているのを目撃した。

あの暴威の権化博麗の巫女が。冷や汗を掻くほどの相手、という事である。

何しろ、月の都の全戦力でも打倒出来ず。

何とか知恵比べに持ち込んで、追い払うのがやっとの相手。

あいつだ。

鈴仙はもはや、恐怖で立っているのさえつらい状態だった。

其処へ、呼ばれた妖怪兎たちの長である因幡てゐがやってくる。此方も兎の耳が生えた童女のような姿をしているが、長い年を経ている妖怪兎の長である。妖怪兎といっても、玉兎とは出自からして違う。

てゐの正体は、因幡の白兎とも素兎とも呼ばれる古代神話の神兎である。戦闘力は低くとも神域に達している存在でもあるので、妖怪兎たちが慕うのはある意味必然とは言える。

「なにやってんの鈴仙。 ……て、何々。 我明天去接……最後の漢字は読めない。 何だろこれ」

「明日迎えに行く、って意味です」

真っ青になったまま鈴仙がいう。

玉兎のストレスは、兎の耳に出る。

既に耳がしわしわになっている事を、見ずとも鈴仙は悟っていた。

「何、あんたこれ読めるの? これ最近の中華の言葉か?」

「……」

無言のまま、鈴仙は屋敷の中に。

声を掛けられて、やっと動く気力が湧いてきた。

自力でどうにかできる事では無い。とにかく動かなければ。恐怖が、尻を叩いて、鈴仙を突き動かしていた。

この屋敷の実質上の主。古代神話の知恵の神である月人、八意永琳の部屋に出向いた鈴仙は。彼女が何かを喋る前に、流れるように美しい動作で土下座していた。

「お、お師匠様あっ!」

「どうしたのです優曇華」

他の者は基本的に鈴仙と呼ぶ。しかしながら、「師弟」という関係になっている永琳だけは優曇華と呼ぶ。

そして永琳は。

現在、幻想郷において高度医療を一手に担う長身の美しいしかし恐ろしい古代神は。

冷徹に鈴仙を見下していた。

永琳は常々言う。

鈴仙には勇気が足りないと。

そしていつも無茶な事をさせる。

胃に穴が開きそうなのに。

だから怖くて仕方が無いのだけれど。

そもそも脱走兵である鈴仙には、他に行く場所もない。この人しか、頼る相手もいないのである。

だから、こうして土下座する。

助けてくれない可能性が高いと分かっていたとしても、だ。

「あ、ああ、あの方が! あの方が来ます! わ、私を多分、さらって、蒲焼きとかにするつもりです!」

「落ち着きなさい。 先ほどちょっとだけ気配があったから分かります。 純狐の事ですね」

「ひいっ!」

土下座した状態で、その名前を聞くだけでおしっこを漏らしそうになる。

そう、純狐。

月にいた頃には、その名前さえ知らなかった。

そもそもテクノロジーが極限まで進んでいて、力自体も圧倒的な月人が、どうして玉兎という奴隷階級を軍隊として鍛えているのか当時は疑問だった。

地球の人間達との戦いに備えているのかとも思っていた。

事実地球人と戦争になるという噂が流れて、怖くて持ち場を離れて逃げ出してしまった鈴仙である。

だが、違ったのだ。

月人は地球人など歯牙にも掛けていない。

更に言うと、地球に関係している神々とも一部を除いてさほど関係は悪くは無い。いわゆる天の国とも密接に関係を持っていて、比較的友好的に対応している。

月の都が兵力を蓄える理由。

それこそが、圧倒的な力を持ち、月の都に憎悪と怨念をまき散らしながら向かい来る、文字通り災厄が具現化した存在。

純狐に対抗するためだったのだ。

以前、この純狐と月の抗争に幻想郷が巻き込まれ。

それをどうにかするために、最精鋭が集められ、月へ戦いに向かった。

鈴仙もその中に混ざっていた。

そして見たのだ。

純狐と。

その友である、純狐以上の力を持つ地獄の女神の姿を。

相手は完全に遊んでいるだけだったが。

その「遊び」に勝つだけで命がけ、しかも必死だった。

此方の得意な、幻想郷に普及する死ななくて済む決闘法、スペルカードルールに相手が乗ってくれなければ。

勝ち目など、それこそ億に一つも存在しなかった。

あまりにも恐ろしすぎる戦いだったが。

更に恐ろしい事に。

戦いの後、純狐は言ったのである。

「貴方の事を気に入ったわ」と。

夢にまで見る。

恐怖が一線を越えると、鈴仙は戦士として本来の力を発揮できるが。それでもあの戦いの時は、恐怖で全身が凍り付くようだった。

今も時々、おぞましいまでの力を思い出して、夜中に飛び起きたりする。

神々の圧倒的な力は鈴仙も知っているつもりだったが。

それですら生ぬるく思える、本物の災厄。

それが人型をした怨念の権化。

純狐なのである。

「優曇華。 純狐が何度か永遠亭に来た事は覚えていますね」

「は、はい。 血が凍りそうでした」

「話もしましたね」

「は、はい、血が……」

咳払いを受けて。

思わず悲鳴が漏れる。

純狐同様、永琳も凄まじい力の持ち主だ。現状、名目上の主である輝夜に力を合わせているが、リミッターを解除すれば幻想郷で間違いなく最強の実力者だろう。流石に創造神クラスの実力を持つ「龍神」が出てくれば分からないが、現状活動している幻想郷の住人の中では間違いなく最強だと鈴仙は思う。何しろ月人の中でもトップクラスの実力を持ち、月の都の賢者と呼ばれる程なのである。その上不老不死。そも前回の純狐の月侵略の際、月が上手く対応出来なかったのも、賢者永琳を欠いていたから、という理由も大きいのである。

「純狐は、月の都と其処に住まう嫦娥には強い、いや絶対的な怨念と憎悪をぶつけていますが、それを除けばごく理性的な性格の持ち主です。 むしろ悪いのは嫦娥とその夫の既に殺されたゲイです。 事実純狐は私にも姫様にも、勿論優曇華、貴方にも何もせず、終始笑顔を絶やさなかったでしょう?」

「は、はい、しかし……」

鈴仙は特殊能力として、「波を操る」というものを持っている。

だから分かるのだ。

如何に純狐がメタメタに狂っているかを。

普段は理性が狂気を押し殺しているが。

爆発したら、それこそ呼吸する反物質爆弾も同じである。

月の都が蹂躙されるのも納得で。

その実力は、文字通り生きた宇宙規模災害なのである。それが理性という皮一枚だけ被っているのだ。

怖くないわけがない。

また咳払いを受けて。

ひいっと、土下座したまま悲鳴を上げる。

多分永琳は、すごく怖い顔をして、鈴仙を見下しているはずだ。

「少し、腰を据えて純狐と話してくるのも良いでしょう。 彼女は気に入った貴方を傷つけたりはしないはずですよ」

「そ、そんな! ご無体な! お、お師匠様あ!」

顔を上げると。

永琳は、笑顔のままだった。

そして、一切の反論を封じられる。

それが、永琳が本気で怒っているときの顔だと、鈴仙は知っていたからである。つまり、怖い顔をしているときよりも最悪の状況だった。

文字通り機械人形のような動きで、自室に戻る。

漏らさなかったのが奇蹟に等しい。

永琳は助けてくれない。

だけれども、幻想郷の誰にも、あの純狐を止める事なんて不可能だ。多分博麗の巫女でも、手に負えないと断言する。

時と隔離され、内部空間を弄られている永遠亭の中にいても安全では無い。

純狐の実力だったら、それこそ袋からものを取りだすがごとく、容易に鈴仙をさらう事だろう。

布団を被ってガタガタ震える。

ああ、もう明日が命日だ。

もっと色々しておけば良かった。

玉兎は寿命が長い。

幻想郷に来てからは三十年ほどだが、そんな時間はそれこそ生の一瞬である。

色々幻想郷に来てから考え方も変わったけれども。

それもまた、泡沫の夢のようなものである。

今、はっきりしているのは。

鈴仙では何をやっても純狐には絶対に勝てないし。

迎えに来ると言われたからには、多分力尽くでさらわれると言う事だ。

純狐は仙界と呼ばれる、自分専用の世界を作って、普段は其処に住んでいる、という事である。

要するに自分用の世界を作れるほどの存在であり。

勿論その世界では、純狐の力は更に増すことだろう。

純狐が満足するまで絶対に返して貰えないし。

機嫌でも損ねたら、その瞬間に蒲焼きにされるか、もっと酷い目にあわされることは確定である。

枕に涙を吸わせながら。

くすんくすんと鈴仙は泣く。

頼れる相手もいないし。

逃げる場所だって存在しない。

あの純狐から身を隠せる場所なんて。

宇宙の何処に存在するというのか。

部屋の戸がノックされたので。

跳び上がりそうになる。

戸を怪訝そうに開けたのは。

永遠亭の名目上の主。腐敗し病んだ選民思想に染まった月の都を見捨てた月人の一人。蓬莱山輝夜だった。

美しい黒髪を持つ、美貌の持ち主だが。

いつも優しい笑顔を浮かべている反面。

無邪気に大魔王のような暴威を振るう。

悪意がないのが兎に角タチが悪く。

ある意味永琳よりも鈴仙にとって怖い相手だった。勿論月人なので、とんでもなく強い。

「どうしたのですか、鈴仙」

「ひ、姫様、姫様こそ私の部屋に何用ですか……」

「真っ青になって部屋に飛び込むのを見たから、心配になったのです。 可哀想にそんなに震えて、永琳にお説教されたのですか?」

「い、いえ、違います……」

まずい。怖いのは自分だとやっぱり気付いていない。

この人は、多分助けを求めたら、明後日の方向で「助けようとする」筈である。

以前この人のお目付役で一緒に街に出たが。

その結果、胃に穴が開くどころか、妖怪にとっての死である「精神の死」を迎えそうにさえなった。

嫌な事を無理難題で断るという悪癖以外は、悪意らしい悪意を見せない輝夜なのだけれども。

だからこそに恐ろしいのである。

何しろ筋金入りの箱入りなので、やることなすこと完璧にずれているのだ。

この人に介入されたら、もっとややこしいことになるのは確実。

蒲焼きになる前に、多分精神負荷で死ぬはずだ。

「と、ととと、とにかく大丈夫です! 自分で何とか出来ます!」

「そう。 鈴仙、私に取って貴方は大事な部下の一人なのです。 困ったときには、頼ってくださいね」

「はい、頼りにしてイマス」

「うふふ、ありがとう」

カタコトになっているのに気付いていない輝夜が部屋を出て行く。

良かった。

更にややこしい事になるのは避けられた。

だけれども、もうこれで、助けてくれる人も、逃げる場所も完全になくなった。

鈴仙は、布団を被って、ひたすら怯え続けるしか無かった。

 

1、仙界でデート

 

気がつくと。

動けない。

鈴仙は、自分がどうやら十字架のようなものに拘束され。関節も完璧に極められ。口にはダクトテープのようなものが貼られているらしい事に気付いた。指先までも動けないので、光弾を発射して拘束を解くどころじゃない。

一瞬で、全身が総毛立つ。

耳がくしゃくしゃをとおりこして、へなりと力尽きるのが分かる程だった。

何しろ、光景が違う。

古い時代の中華の建築物の内部のような。

それでいながら、上下左右が滅茶苦茶に狂っていて。

部屋のしきりも、更には恐らく時間や重力さえも曖昧。

そんな場所は永遠亭にはない。

間違いない。

気がつかないうちに、さらわれたのだ。

あいつに。

「うどんちゃん。 おひさしぶりね」

「ー! ーーーー!」

声を出すことも出来ず、首を振ることも出来ず、震えあがる事しか出来ない鈴仙の前に。それが、突然。

何の前触れもなく姿を現す。

怪物揃いの月の都でさえどうにも出来ず。

追い返すのが精一杯の規格外中の規格外。

昨日、迎えに行くと予告していた存在。

そう。鈴仙が知る中で最も恐ろしい存在の一柱。純狐である。

若干童顔だが、背は相応に高く、幻想郷のスタンダードに会わせて女性型をとっている。腰まである美しい金髪、黒と金の布を生地に、九尾の狐の模様を刻んだ道服。そして背後から複数伸びている、狐の尾のような超強力な霊力が、見た瞬間絶対に勝てない事を悟らせる。

何よりメタメタに狂っている事が一目で分かる目。怖すぎて、もう言葉も出ない。

純狐のしゃべり方はむしろ穏やかである。

だけれど、逆鱗に触れたが最後、生半可な神々では束になってもかなわない、文字通り生きた災厄。

それこそが純狐だ。

幻想郷の今活動している者達では、それこそ対処の仕様が無い。

本気になった永琳が加わっても、勝てるかどうか怪しい。核攻撃程度ではかすり傷も与えられないだろう。

そして感情が不安定で、何をしでかすか分からない。

そんな存在が、至近距離で笑みを浮かべて浮いているのである。そして、手には包丁を持っていた。

ああ駄目だ。死んだ。

身動きもできず、震え上がるだけの鈴仙に、純狐は言う。

「今日のデートのために、色々準備をしておいたのよ。 うどんちゃんが何が好きなのかも調べてあるわ」

デート。

突っ込みを入れる気にもなれない。

これは誘拐監禁では無いのか。

勿論口を塞がれているので、突っ込みどころでは無い。

そしてうどんちゃんという呼び方は何だろう。

鈴仙の本名は、そもそもレイセンだけである。

優曇華院というのは永琳がつけたもので。

イナバというのは兎の意味。

そしてそもそも、鈴仙というのは当て字の漢字だ。

もがくことさえ出来ない鈴仙の前で。

背中を向けて、台所らしき場所に、純狐は向かう。どうしてか距離感がさっぱり分からなくて、すぐ近くにて純狐が、何か切っているように見えた。

此処が幻想郷ではなく。

仙界という異界だから、なのだろう。

どすり。

ずぶり。

包丁が何かを切る音が、とても生々しく聞こえる。

おしっこをちびっていない事だけでも、殆ど奇蹟だとしか思えなかった。

「うどんちゃんのために、色々なお野菜を仕入れたのよ。 勿論にんじんも。 外の世界のとても美味しいにんじんをたくさん仕入れてきたわ。 嬉しいかしら」

野菜を切っているのか。

確かににんじんは好きだけれど。

しかし。そんなのは、何の慰めにもならない。

いきなり一瞬で、至近距離で笑顔を浮かべられる。まるで時間を切り取ったように移動される。

それだけで心臓が止まりそうになる。

動物の兎は、恐怖で心臓を止めてしまうそうだけれど。

玉兎である鈴仙にそんな器用な真似は出来ない。

涙だけは流れるが。

純狐は、笑顔のまま言う。

「まあ、泣くほど嬉しいのね。 これはもう、腕によりを掛けて料理を作らなければならないわ」

違う。嬉しいんじゃない。

泣くほど怖い。

気付いて欲しい。

どうしてこう、鈴仙の周囲にいる人は、誰も彼も怖い人ばかりなのか。永琳を筆頭に、みんな鈴仙をいつも怖くて痛くて無茶な目にばかり押し込む。そして今は、存在そのものが歩く災厄の前にて、身動きもできずに縛り上げられている。

震え上がっている鈴仙を余所に。

純狐は、愉快そうに喋っていた。また、いつの間にか背中を向けて、料理をしながら。

「お鍋にしましょうね。 普段は式神に料理はさせてしまうのだけれども、今日はなんと私の手作りよ。 色々な具材があるのだけれど、うどんちゃんは何が良いかしら。 タラちり鍋? ふぐ鍋? アンコウ鍋?」

まって。

いきなりアンコウ鍋とか。

なんでそんな高難易度の代物を出してくるのか。

見た感じ、純狐が料理上手には思えない。鍋は確かに失敗しづらい料理ではあるのだけれども。

それにしてもそんな難しいのでは無くて、むしろ湯豆腐とかで良いのではないのだろうか。

そして、純狐は。

更に恐ろしい事を、まったく声のトーンを変えずに言う。

「それともちょっと珍しい具材にして見ましょうか。 例えば……兎鍋とか」

失神しそうになる。

必死に寸前で持ち堪えるが。

兎、鍋。

どうして漏らさなかったのかが、不思議すぎる。

「いつも見ているわようどんちゃん。 貴方を虐めているあの性悪兎ちゃん。 あの子を鍋にして見ましょうか。 何、妖怪だから精神が壊れない限り死なないし、一回肉体を鍋にしたくらいなら大丈夫よウフフ」

無理。

絶体に無理。あらゆる意味でとことん無理すぎる。

確かにてゐには色々思うところもあるし、言うこと聞いてくれないし、悪戯ばっかりするし、お師匠様に生意気なことばかり言うし、周囲に詐欺を働いて迷惑ばっかり掛けるけれど。

流石にそれはいくらなんでも無い。そして純狐がその気になれば、秒でてゐを料理するくらいは出来てしまうのも分かるのが、恐怖を後押しする。

耳を閉じることも出来ず。目を閉じて、涙が溢れるのも抑えられず。

恐怖の演説を聴くしか無い鈴仙に。

純狐は更に言う。

「それとも、貴方を長年こき使ってきた、月人の肉を使った鍋にしようかしら。 幸い在庫はたくさんあるもの」

ずぶりと。

何かを切る音。

とうとう、鈴仙は恐怖に気絶したが。

恐怖が酷すぎて、一瞬でまた目が覚めた。

うふふふと笑いながら、背中を向けたまま、純狐は続ける。

「過去に何度も月を襲撃して、たくさんの玉兎や月人を捕虜にしたのよ。 そいつらは眠らせて私の仙界にて保存しているけれど、どうせ月人、ちょっとやそっとじゃ死なないもの。 うどんちゃんも、玉兎として奴隷扱いされて、使い捨ての道具とされて、いい加減恨みもたまっていたでしょう? 適当なのを起こして連れてくるから、目の前で切り刻んで、躍り食いにしましょうか。 月人のお肉の鍋も、また良いかも知れないわ」

どずり。

また、包丁が何かを切る音。

更に、純狐は恐怖の宣告を続ける。

「それとも、うどんちゃん、自分のお肉を食べてみる? 妖怪だから肉体が破損しても死なないし、自分のお肉の鍋を食べるなんて、滅多に無い経験よ。 世の中色々な経験をして見るのも良いことだし……」

違和感に気付いたのだろうか。

純狐が手を止める。

鈴仙は、恐怖が一線を越えたからだろうか。

不意に、冷静になっていた。

波で分かる。

純狐に殺意は無い。悪意も無い。本当に、ただ鈴仙を楽しませよう、喜ばせようと思っている。怖がらせようとなんて思っていない。

彼女は狂っているけれど。

ただ、狂っているなりに、鈴仙をもてなそうとしている。それだけのことだ。

だから、むしろ心はさっきまでの恐怖から解放され。

凄く静かになっていた。

「あら、静かな目ね。 何か言いたいの?」

多分、鈴仙の耳もぴんと立っている筈だ。ストレスが露骨に出る耳が。

鈴仙は、目の前にいる純狐が、不意に怖くなくなっていた。

前に戦った時は、遊びとは言え、殺気を向けてきていた。それだけで、冷静な状態の鈴仙でも、恐怖に胃が鷲づかみにされるようだった。

すっと、口に貼られていたダクトテープのようなものが消えるのが分かった。

仙術で何かされていたのだろう。

笑顔で返事を待っている(包丁を手にしたまま)純狐に。自分でも驚くほど静かな声で、鈴仙は告げていた。

「逃げないので、拘束を解除していただけませんか、純狐さん」

「まあ。 本当かしら?」

「本当です」

すっと、至近から目を覗かれる。

目にはドス濁った狂気が宿っていたけれども。

しかし、もう怖くなかった。

むしろ、悲しいとさえ思った。

そして、滅茶苦茶を純狐がやる前に、釘を刺しておく必要があるとも思ったので、先に言う。

「私、タラちり鍋が食べたいです」

 

本当に純狐は鈴仙を解放し、タラちり鍋を用意してくれた。純狐は満面の笑み。丸い机を挟んで座る。

純狐が用意してくれた食材は、とても新鮮で。

幻想郷の外から、最高の素材を本当に集めて来たんだろうなと、一発で分かった。

狂っているかも知れないけれど。

同時にとても理性的な存在でもあるのだこの人は。

波で分かる。

狂気と理性が同居している。

倫理観念や、憎悪に暴走するところは壊れているのだろうけれど。

何処かに情はあるし。

いやむしろ情が深いからこそ、壊れてしまったのではあるまいか。

黙々とおいしいタラちり鍋を食べる。確かにとても美味しい。どの野菜も、凄く味が濃厚で。

鍋の味付けも悪くなかった。

今日を純狐が楽しみにしていて、準備をしていたのは本当なのだろう。

やり方はともかくとして。

「どうかしら?」

「とてもおいしいです」

「うふふ、嬉しいわ」

「純狐さんは、どうして私を気に入ったんですか? 多分月で戦った時、私は他の三人より一段弱かったと思います」

単純な能力の話では無い。

月で戦った時、スペルカードルールで純狐は応じてくれた。

その時一緒に戦ったのは、博麗の巫女。魔法の森に住んでいる魔法使い。そして守矢の巫女である。

この面子はスペルカードルールに関して幻想郷屈指の腕前で、鈴仙もまともにやりあったら勝てる自信はあまりない。

幻想郷の人間サイドの管理者である博麗の巫女に至っては、純粋な戦闘でも勝てる気はしない。

何故、鈴仙を、純狐は気に入ったのだろう。

それは、ずっと気になっていた。

「貴方が弱かったからよ」

「……」

「私はあの戦いの中で、貴方だけが弱い事をしっかり見抜いていたわ。 極限まで追い詰められないと力を発揮できない。 戦士として鍛えられたはずなのに、肝心なところで逃げ出してしまった罪悪感が心の奥底にある。 月での戦いだって、嫌々ながら出てきていて、好戦的な他の三人とは決定的に違った。 ましてや何かを守るためでも救うためでもなく戦闘に出てきていた。 負ければ殺される可能性も高かったのに」

大きめのタラの肉を取りあげると。

骨も気にせずバリバリ食べる純狐。

別に不思議な事じゃ無い。

この人は生物の摂理を超越している。食事だって、いわゆる仙人は霞を食べて生きるの言葉通り、しなくても大丈夫な筈だ。

或いは、味さえ感じていないかも知れない。

「それでも貴方は立ち向かってきた。 弱さの中にある強さが其処には確かにあった」

「買いかぶりです。 私は仲間達を見捨てて、前線から脱走した逃亡兵です」

「過ちを犯さない存在などこの世にはいない。 でも貴方は、過ちに苦しみ続け、そして今は私に向き合おうとしている。 だから私は貴方がいとおしくて仕方が無いのよ」

野菜追加。

タラも追加。

これは当分返してくれそうに無い。

でも、さっきまでの、失神寸前の恐怖は、もう無かった。

「貴方のような子が、私の義理の娘になってくれればよかったのにね……もう何もかも遅い話だけれど」

嗚呼、そうか。

そういう事だったのか。

鈴仙は理解した。

純狐は別に性愛や情愛の対象として鈴仙を見ているのではない。

怖いとは思ったけれど。

鈴仙の体を見て、舌なめずりしているような様子は無かった。

同性愛者の類ではなかったということか。

でも、ここからが大変だ。

きっと、ちょっとでも間違えば、一瞬で逆鱗に触れる。

純狐は「純化」という能力を持っている。

簡単に言うと神を産み出す能力に等しく。

幻想郷で最下層に位置する意思を持った自然現象、「妖精」を鬼神並みの強さにまで引き上げ。

傷を受けた者を一瞬にして殺傷する。

そんな、文字通り神域の力だ。

コレに加えて、純粋な力だけでも、文字通り生半可な神をまとめて畳むレベルの実力者である。

機嫌を損ねたら、一瞬で鈴仙なんか殺される。文字通りの意味で消滅することになるだろう。

「春秋左氏伝の玄妻の話を読みました。 他にも、夏王朝の文献は色々」

「うふふ、懐かしいわねえ。 私を貶めるために、あの じ ょ ウ ガ が色々とねじ曲げた歴史の数々ね」

流石に怨敵に対しては、鈴仙の前でも理性が飛ぶか。

嫦娥。月の高位の女神。

純狐の全てを奪った敵にて。

月の都に最大の敵を作る事になった元凶。

なお、玉兎の支配者でもあるので、鈴仙も嫦娥については知っていた。

中華においては嫦娥伝説はいまだ有名な神話にもなっている。とてもではないが、褒められた内容では無いものだが。

「伯封さん、でしたね。 どんな子だったんですか」

「……うどんちゃんになら、聞かせてあげても良いかしらね」

そう。

さっき、純狐は「義理の娘」といった。

つまり純狐が失った、最愛の息子の嫁にしたかった、と言う事だ。鈴仙を気に入ったから、最愛の息子の嫁に。

本来なら考えられない事だ。

月の都で玉兎は奴隷階級に過ぎない。

物好きな月人には、玉兎を性欲のはけ口にする輩もいるけれど。

それはあくまで例外。

使い捨ての道具。ていのいい駒。前線に並べる弾よけ。高貴な月人に使える卑しい畜生。月人は、玉兎をそれくらいにしか認識していない。だからむしろ面白がって手を出す鬼畜は少なかったりする。また、その行為自体が嘲弄の対象になるので、リスクにもなる。

逆に言えば、である。

純狐ほどの存在が、鈴仙にそんな言葉を。大事な息子の嫁にしたいなんて事を口にする。月人の思考回路からは色々な意味であり得ない事だ。

それこそ、奴隷などとは思っていないし、むしろ最大級の評価、と言う事なのだろう。

だからこそ、興味はある。

月の都を離れた今は。

昔と月の都への見方も違っている。

昔は何も疑問を覚えなかった。

実際、末端の玉兎達は、戦争さえ無ければのんきに過ごしている事も多いし。

奴隷階級といっても、そもそも月人が雲の上の存在過ぎて、直接接触することも殆ど無いからである。

力もあまりに強いので。

月人は大体自分で何でも出来てしまう。

故に奴隷をわざわざ侍らす必要もない。

奴隷の数を競って、自分の財力を誇るような悪しき文化は地上には存在していたが。

現在の月の都は腐敗こそしているが、奴隷階級の数を増やしたり、使い潰して遊ぶような事を積極的にはしていない。

ただ月の都にいた頃にも、好んで鬼畜働きをしている月人がいるという噂は聞いたことはあったが。

鈴仙が直接仕えていた綿月姉妹はごく真面目で良心的だったし。

周囲の玉兎達も、其処まで酷い扱いは受けていなかった。

ただ、それはあくまで鈴仙の廻りの話であって。

鈴仙が知らない場所では、地獄のような環境があったのかも知れない。

もう一度、目の前にいる人を見る。

純狐。夏王朝神話では玄妻と呼ばれるこの人の。

貶められ殺された息子が、どんな存在だったのかは。やはり興味がある。

幸い、純狐は機嫌を損ねなかった。

恐らく、自分から口にしたことだし。

何より鈴仙を気に入っているから、なのだろう。

それに、何よりだ。

純狐という存在が出現するのに。

一体どんな事件があったのか。それも、気にはなる話だった。勿論、おおっぴらに口には出来ないだろうが。

少し時間を空けてから。

純狐は話し始める。

「あれはもう随分と昔の事ね。 地上で中華文明が夏王朝と呼ばれていた時代の前の事だから、三千年か、五千年か、もっと前だったかしら、うふふ、多分もっともーっとずっと前ね。 歴史は色々と隠蔽されているものですもの」

新しく投入されたタラが丁度煮えてきた。良い感じで火が通ってきた。鍋奉行がいると色々五月蠅いのだけれど、純狐も鈴仙もそういうタイプではなかった。鈴仙は針のむしろに座るような気分だったけれど。純狐は終始嬉しそうだった。

鈴仙もタラを少しいただく。

とても良いタラらしく。

口の中で蕩けるようだ。

或いは何処かの魚市場で、良い品を人間に化けて競り落としてきたのかも知れない。その程度、この人に掛かれば、造作も無い事なのだろうから。

マイペースに、純狐は話し始める。

月の女神嫦娥と、伝説の英雄とされるゲイによって息子を殺され。

怨念の権化となり。

月に対する脅威となりはてた、悲しい狂気の物語を。

 

2、腐敗した都の話

 

古い古い時代。

月の都は、そんな頃から腐っていた。

夏王朝とは何かしらの形で関わりがあったのだろう。

その関係で、純狐の歴史は地上に語り継がれている。玄妻という人物の名前を借りて、である。

此処までは、永琳に聞かされていた。

以降、「玄妻」という人物の話については、鈴仙が自発的に複数の資料を見て調べた。

何しろ、純狐については、永琳もあまり詳しくは話してくれなかったからである。

嫦娥が悪妻と呼ぶに相応しい外道であった事。

そもそも嫦娥が不老不死の薬を勝手に服用したこと。

その後始末を玉兎達がさせられていること。

純狐と嫦娥は同じ夫の下に嫁いでいたこと。

これくらいしか、永琳は語ってくれなかった。そこで自分で調べたのだ。

時には紅魔館に足を運んだ。

吸血鬼が支配する、幻想郷の勢力の一つ。此処には巨大な図書館が存在していて、膨大な書籍があるからだ。紅魔館は一時期中華にもいたことがあるらしく、「あの」関羽が愛読していた「春秋左氏伝」も、写本とは言え竹簡のもの(つまり三国志の時代のもの)が保存されていた。

嫦娥やその夫ゲイの神話は有名だが。

一方で玄妻は名前こそ出てくるが、神話によって扱いがまったく異なる。

夏王朝はほぼ存在が確定しているものの。

登場する人物は神話とごちゃごちゃになっていて、扱いも滅茶苦茶。

これらについては、紅魔館で複数の歴史資料を見て知った。

いずれにしてもはっきりしているのは。

夏王朝は、後の殷や周と同じく、中華文明圏を統一出来る実力はなく。あくまで連合政権の盟主、程度の地位にいたことという事。

その伝承は神格化されているが。

どうやら玄妻という人物は実在したらしい、と言う事くらいだった。

玄妻の息子の名前が伯封という事も分かったが。

此処でおかしな事が幾つも出てくる。

まず玄妻は最初に結婚した相手との間に伯封を産んでいる。時代が時代だ。十代前半で結婚し出産する例も珍しくは無かっただろう。今幻想郷がある日本でも、有名な武将である前田利家と仲睦まじかった事で知られるおまつは、数え年十二で結婚し、翌年には子供を産んでいる。

そういう時代だ。

問題はその後。

伯封は暴虐にして貪欲で、褒められたものではない存在だったとされ。

太陽を撃ちおとした神話で知られるゲイによって「討伐された」とされている。

そして伯封は、神話によっては妖怪。それも極めて強力な妖怪にされているのである。

中華の妖怪は、キメラ的な合成獣の姿をしている事が多いが。

その性質などを見ると、実際には元々人間だったものが、妖怪として描写されたことが多い事が分かる。

いわゆる最強の中華妖怪、「四凶」の一角である窮奇などは、露骨にその辺りの性質が強い。

伯封もそのケースであったことは疑いがなく。

逆に言うと、良くも悪くも相当な「豪傑」的存在で。

「伝説の英雄」であるゲイが出向かなければ討伐できなかった、と言う事になってくる。

伯封が「討伐」された後、玄妻はゲイに嫁いだが。自分の子を殺したゲイに復讐。

部下をたきつけ、ゲイを殺させた後。

ゲイを殺した男の妻になり、更に子を二人産んだ、となっている。

だが、いくら何でも此処は無理だと、直感的に鈴仙は悟っていた。

伯封の描写からして、ゲイが「討伐」したという言葉からもして。幼い子供に対するものではない。

いくら十代前半で玄妻が子供を産んだとしても。伯封の描写から考えて、息子が成人していたのはほぼ確実。

恐らく伯封が「討伐」されたときの玄妻は40を越えていただろう。

古い時代、女性はある程度の年齢を超えると、子供を作ることを控えるようになった。

これは遺伝子疾患を持った子供が生まれる確率が、近親交配と同レベルにまで高まるからで。

近親交配は宗教的な理由で許可されていた文化圏でも。

あまり貴人が高齢で子供を産む事はなかった。

ましてや古い時代は、人間の寿命も短く、更に言えば年を取るのも早かった。

考えられるのは。

玄妻とされる人物が複数存在し。

複数の人物の事績をまとめたものが、現在様々な「歴史書」や「神話」にて伝わる玄妻なのではないか、ということである。

更に言えば。鈴仙は、純狐という人の実在を知っている。

つまるところ、これらの歴史は勝者側に都合良く描写されている可能性が極めて高く。

事実研究資料を読む限り。

夏王朝の権力闘争の過程を神話化したものであるのではないかという考察も上がっている様子で。

いずれにしても、相当に歪められた人物像が後世に伝わったのは間違いないだろうと言う結論しか出なかった。

鈴仙は純狐を知らない。

だから、前から理解はしようと思っていたのである。

順番に、ゆっくり、純狐の逆鱗を踏まないように注意しながら話していく。

純狐はまたタラと野菜を鍋に足しながら、頷いていた。

「よく調べたわね。 ウフフ、勉強家は好きよ」

「ありがとうございます……」

「まず最初に、私は月の都における低い身分の出身者よ。 月の都を作るのを主導したのは、月夜見尊と中華の神々。 私はね、月の都が形になって、その後に月で生まれた者達の一族の出なの。 当時は地上と月で交流があったから、人間の信仰を得るために、月の都の出来事の一部を歴史として流していたのよ。 私という存在と、玄妻という人物が混同されているのはそれが理由よ。 実在の玄妻もまた気の毒な人だったわ」

なるほど。

純狐は、やはり嫦娥が絡まなければむしろ理性的だ。狂ってはいるけれど、きちんと論理立てて話してくれる。

そしてわかり安い。つくづく、壊れてしまっていることが惜しく悲しい人だ。

「玉兎までは話が流れてこないかも知れないけれど、月の都にも、地上の人間達と同じような醜い権力のパワーゲームが存在しているの。 おかしな話よね。 地上を穢れた世界と馬鹿にしている連中がやっているのが、その穢れた世界に住んでいる人間と何ら変わりが無い愚行なのだから。 今、貴方の主人達に敵意を覚えないのも、その辺りが理由なのよ。 月の都を離れて、そして地上の他の地域と違うルールで動いている幻想郷で生きていく事を選んだのは立派だわ」

「……」

「私が嫁がされたゲイはどうしようもない男だったわ。 力は兎に角神々の中でも強かった。 太陽を撃ちおとした逸話を知っているかしら」

「はい。 十ある太陽のうち九を撃ちおとしたとか」

頷く純狐。

これもまた有名な話だ。

色々な伝承を見てみると、「頭が足りない豪傑」という印象の浮かんでくるゲイであるが。その中でも最も勇名を高めているのがこの伝承である。

なおこの件については、純狐と交戦している最中にも聞かされ。

そして後で詳しく調べた。

何となくは知っていたのだが。詳しく知っておこうと思ったからである。

「勿論実際に太陽を撃ちおとした訳が無いわ。 太陽系の星の動きを見れば分かるけれど、元々太陽が十連星だったら、太陽系の惑星達は現在でももっと複雑怪奇な動きをしていたでしょうし、それが無くなれば尋常では無い被害が出て、今頃どの星も焼け野原だったでしょうね。 ゲイがやったのは、「太陽の神々」の「干渉力を弱める」こと。 その結果、地獄を一とする場所へ、太陽の偉大な「霊力」が届きにくくなった。 地獄の女神がゲイを恨んでいるのはそれが理由よ」

「!」

「ふふ、弓の達人と言っても、神々になるとそれくらいの事が出来ると言う事よ。 頭は足りないけれど武勇は図抜けて優れていた。 権力闘争の過程で、ゲイはそんな無茶苦茶を周囲にそそのかされてやるような愚か者だった。 そして神々の中でも、特に血筋が優れたものでもあった。 これに目をつけたのが、あの忌々しい嫦娥よ」

嫦娥、と口にするとき。

やはり純狐の言葉はトーンが狂う。

恐怖で鈴仙の背筋が伸びる。

今の状態であっても、だ。

それほどに、狂気が露出するし。

一瞬で純狐の沸点が狂うのがよく分かる。

「神々……月人の中でも格差があるのは現在でも同じでしょうけれど、当時もそれは同じだった。 私の家系「純狐氏」はとにかく末端で、力も弱かった。 それこそ、ゲイに娘を差し出して臣従し、生活のための立場を恵んで貰わなければならないほどにね」

「まさか、それが」

微笑むだけの純狐。

そういうこと、か。

嫦娥は圧倒的な力を持つ上位月人。ゲイの正妻として収まり。

そして、ゲイの後宮にたくさんいる、十把一絡げの側室の一人として、純狐は扱われた。

神々は子供を必ずしもまぐわって作る訳では無いと聞いたことがあるが。いずれにしてもはっきりしているのは。

ゲイには中々子供が出来なかったと言う事。

自分の権力を盤石にしたい嫦娥にとっては、いらだたしいことだっただろう。

そしてそんな中。

最悪のタイミングで、側室である純狐だけが孕んだ。

純狐は淡々と話す。

ゲイは脳みそまで筋肉で出来ているような愚かな男で、一応その時点では無邪気に喜んでいた。

後宮がどれだけ恐ろしい場所なのかも。

ゲイは理解さえ出来ていないようだった、と。

「後宮は今思い出しても地獄以上の地獄だったわ。 ゲイの妻だった頃の私は権力も月人としての力も弱かった。 後宮は権力闘争の縮図でね、陰惨な虐めが蔓延り、勿論暗殺も横行していた。 月の都を天国か何かと勘違いしているような者もいるかも知れないけれども、お笑いぐさね。 テクノロジーがどれだけ進んでいようが、寿命が億年単位であろうが、知的生命体はそんな程度のものなのよ。 私はおなかにいる子と、自分の身を守るだけで精一杯。 侍女の類もほとんどいなかったし、いたとしても他の側室や嫦娥の息が掛かっていたの。 食事の度に、生きた心地がしなかったわ」

「その……本当に……大変でしたね」

「私自身も当時はか弱い小娘だったもの。 ふふ、本当よ。 今は月の都を単独で蹂躙する程の力を持っているけれど、昔は月人の中でも弱かった」

箸が重い。流石におなかが一杯になって来たのだけれど。

純狐はまだまだ具を鍋に足す。

逆鱗に触れるよりはまし。

そう判断して、話につきあい、食事につきあって行くしか無い。

鈴仙は、少なくとも、今は怖いとは思っても、体が震え上がって動けなくなるほどではないし。

此処でこの人を理解しておかないと。

今後多分、もっと怖い目に会う気がする。

だから、今は我慢をする。

「子供が生まれて、やっと光が見えた気がした。 ゲイは子供がいるという事だけで満足して、後は見向きもしなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。 伯封はとても聡明な子でね。 勿論親のひいき目もあっただろうけれど、とても優しい子に育ってくれた。 だけれども、それがまずかったのでしょうね」

宮廷の後ろ暗い話はまだまだ続く。

ゲイにはその後も子供が一切出来なかった。

色々な歴史資料を、鈴仙は調査の過程で見た。

例えば、幻想郷がある日本で有名な織田信長だが、彼は実は三男である。三男である信長がどうして織田家の後を継ぐことが出来たかというと、それは長男、次男の母親が側室であり。信長の母親が正室だったからだ。

女性の地位は、子供の未来に大きく影響していたのである。

勿論文化圏によってこれは異なってくるが。

この辺りは、月の都もあまり変わらない。

それについては、鈴仙も調べて知っていた。

ゲイを踏み台にして、更なる権力を得ようとしていた嫦娥にとっては。

ゲイの子供が、「どうでもいい存在」の純狐の息子一人だけ、というのは非常にまずい状況だった。

伯封は父親にまったく似ず聡明で。

学問も武芸も出来た。

そして、それが嫦娥を凶行に走らせた。

「その頃になると、後宮に無関心なゲイが放置していたせいで、嫦娥に反発する一派が、私にゴマをすり始めていたの。 伯封が目に見えて聡明で、上手く行けば武芸にしか興味が無いゲイよりも、名君としての素質がある。 つまり此方についた方が得策だと思えたのでしょうね。 そういった者達は、私にも優しかった。 少なくとも表向きは優しく振る舞っていた。 そもそも後宮で味方が誰もいなかった私に取って、それは文字通り悪意の囁きだった。 伯封は可愛くて仕方が無かったし、私の誇りだった。 周囲はそれを褒めてくれていると、「勘違い」してしまっていたのね。 今からでも、当時の私を叱責したいくらいだわ。 私はその日、伯封から目を離してしまった。 最大の失策だったわ」

「何が起きたんですか」

「あのヒキガエルが何をしたのかは具体的には分からない。 いずれにしてもはっきりしているのは、ゲイが伯封を殺したと言う事よ。 それも理不尽にね。 話を聞いて駆けつけたときには、伯封は殺されて、解体されて。 そして、美味そうにゲイが肉を食べ始めていたわ」

絶句する。

箸を取り落としそうになった。

何となく、さっき純狐が月人の踊り食いとか、とんでも無い事を言い出したことが分かった。

そうだ、思い出した。

確か伯封は一部の神話に妖怪として伝承が残され。

ゲイに殺され。料理された上で、主君に献上されたという伝承がある。

中華文明の一部では、喰人の習慣があった地域がある。東南アジアでは、近年まで残っていた地域もあったと聞いている。

月の都でも、それがあったのか。何が穢れの無い浄土か。

「取りすがって、私はゲイに問いただしたわ。 何故、このような事をってね。 ゲイは笑いながら、伯封を料理させながら言ったわね。 無知蒙昧暴虐非道の子供などいらぬってね。 伯封と言葉を交わすことさえなく、それどころか会いにさえ来なかったゲイが、そんな事を言うのは、誰かが吹き込んだ以外に考えられない。 後で、月の都を攻めて捕虜にした嫦娥の側近の体に聞いたのだけれど。 やはり嫦娥が吹き込んだことで間違いなかったようだわ」

冷静になれている今の状態でも吐き気がこみ上げてくる。

我が子を喰らう神は、ギリシャ神話のクロノスなど、存在しないわけではない。

だけれども。

いくら何でも、あまりにも暗愚すぎる。

神話伝承を見ても、ゲイは武芸のみが強調される存在で。

確かに行動はあまり褒められたものではなかった。

伯封の逸話に関しても。伯封が妖怪に貶められているとは言え。元があからさまに人間だった事を考えると。

とてもではないが、頭がおかしいという表現以外は出てこないものだ。

だが、これは。

あまりにも想像を絶している。常軌を逸していると言うべきか。

月の都を離れて正解だった。

今は、鈴仙はそう思っている。

月の都を離れた直後は途方に暮れていて。本当にどうしようと思っていたし。

地上を穢れた世界だとも思っていた。

だけれど、今なら断言できる。

月の都は、テクノロジーだけ手に入れた、地上の世界の延長線上だ。

此処まで狂った世界だったのなら。

師匠や姫様が離れようと考えるのも、無理はない話だった。

「それだけじゃあない。 「愚かな息子」を産み出しゲイに恥を掻かせた罰として、私の一族が皆殺しにされて、その場に並べられ始めたわ。 後宮で、私の味方をしていた者達も、それと同じ扱いを受けていた。 ゲイは笑っていた。 これはごちそうだ。 今日はたくさんの肉を腹が破裂するほど食べなければならないな、と」

狂気の宴だ。

それは、この人は。

壊れてしまう。

そして、その瞬間。

純狐は、壊れたそうだ。

「自分でも、何が起きていたのかは、よく覚えていないの。 はっきりしているのは、一族、その場で殺された月人、全ての力を、私の怒りと怨念が一気に体内へ引きずり込んだ、と言う事だけね。 力は爆発的に膨れあがり、そして月の全てを凌駕した。 怒りのまま、私はその場でゲイを殺した。 これだけは確実よ。 武芸の達人であったゲイも、油断もあったのでしょうし、私を性欲処理用の道具くらいにしか思っていなかったでしょうし、何よりいきなり此処までの怪物に変貌するとは思ってもいなかったのでしょうね。 ゲイが油断していなかったらどうなっていたかは分からないけれども、ともかくゲイは死んだ」

そして、純狐は暴れ狂ったという。

ゲイの宮殿を破壊し尽くし。配下も皆殺しにした。目につく全てを殺し尽くした。

更に、鎮圧のために出向いてきた月の軍勢と激突。

その大半を壊滅させた。

どうやら、事態を重く見た月の都首脳部が、其処で漸く本腰を上げた。空間を操作する月人が、総力を挙げたらしく。

気付いたときには、純狐は太陽系の端まで飛ばされていたらしい。

荒れ狂い、力を放出したからか。

或いは、既に「高位の神」であったからか。

純狐はその時既に。

自分が何者でもなく。いうならば、「純狐氏の怨念を凝縮した存在」とでもいうべき者になり果て。

そして、その力として、「純化」を使えること。

更に何より、ゲイは殺したが、嫦娥を殺せていないことを理解した。

絶叫すると、純狐はまず高位の神仙が作る事が出来る仙界を作り出した。

それこそが、純狐が住まうべき新しい場所。

墓所も仙界に作った。

もはや形も残っていない息子のために。

以降は、ひたすら復讐の計画を練り上げた。そして、何度も月に攻めこんだ。

月人を殺しに殺し。軍勢を何度も壊滅させた。勝ち目がないと判断したか、月の都は戦いになると千日手を選び、純狐の怒りが収まるまで籠城するようになった。

純狐は捕虜にした月人を徹底的に拷問し、そして色々聞き出した。

引きだした情報の中には、嫦娥が不老不死の薬を横領し。

ヒキガエルにされる罰を受けて、幽閉されたという事もあった。

嫦娥はそれでも玉兎を掌握する立場であったため。

月では自分達より下位であり、使い捨ての道具である玉兎を失わないためにも。

嫦娥を閉じ込める以上の事は出来ないという事も、後から純狐は知った。

鈴仙は口を押さえていた。

狂気に満ちた過去の話は、あまりにも聞いているだけで厳しいものがあった。月の都の腐敗はもう分かっていたが。想像を超えに超えていた。

許されない話だとも思う。

同時に、この人が、狂気の果てに陥ってしまったことも、よく分かった。

雑炊にしませんか、と提案。

純狐は小首をかしげた後、笑顔で焚いたお米を持ってきてくれる。

正直おなかが破裂しそうなので。

そろそろ、食事は締めて欲しかった。

なおお酒は一滴も出てこない。

鈴仙はお酒に弱い方では無いけれど。

流石にこの場で飲むほどの胆力は無かった。

「伯封が育っていたら、どうなっていたのかしらね。 愚かなゲイを打倒して、あの嫦娥が不老不死になるような事も無くて。 私は静かに、こんな異常な力を手にすることもなくて。 神話で男を惑わす邪悪な女と描写される事も。 伯封が伝承で妖怪にされて、「退治されて当然」みたいに描写されることも無かったでしょうね。 何より、きっとうどんちゃんに出会えていたら、伯封の妻に推薦したし。 おばあちゃんになる事が出来たかも知れないわね。 玉兎の地位も、月の都の腐敗も、伯封が改善してくれたかも知れないわ」

そうか。

この人は、母になる事は出来たけれど。おばあちゃんにはなれなかった。

純狐は神である。厳密にはどうかは分からないけれど、力は間違いなくその領域に達している。

その気になれば、きっとまだ子供は作ることくらい簡単だろう。それも、相手なんかいなくても出来る筈だ。

それでもこの人にとって、子供は伯封一人だけ。

いずれにしても、未来永劫。

この人が、本当の望みである。未来に血筋をつなぐ事は、出来ないと言う事。

おばあちゃんになって、孫を手に抱くことは出来ない、と言う事は、変わりの無い事実だった。

純狐という人の狂気を、完全に理解出来た。

涙が零れてきた。

この人の狂気は怖い。

いつ何をするか分からないと言うのは今も変わらない。

うっかり逆鱗を踏んだら、多分鈴仙でもきっと殺される。

それは分かっているけれど。

だけれども、やはり。

前に進まなければならないと、鈴仙は思った。

「タラちり、美味しかったです。 気が向いたら、また声を掛けてください。 でも、さらうのはやめてください。 逃げないし、ちゃんと自分から行きます」

「うふふ、うどんちゃんがそう言ってくれると嬉しいわ。 また腕によりを掛けて、何か料理を考えないとね」

「それと……月人はともかく、捕らえている玉兎達は、解放してあげられませんか?」

「それは現状の月の都の体制が続く限りは不可能ね」

すっと、現実的な言葉が出てくる。純狐は、昔は兎も角、今はごく当たり前に知恵が回るのだ。

鈴仙にも分かっている。

もし、今純狐に捕らえられている玉兎達が解放されたところで。

行く場所なんてありはしない。

何しろ、鈴仙が博麗の巫女達と一緒に純狐と戦った時。純狐と盟友の圧倒的な力に追い詰められた月の都は、幻想郷を蹂躙して更地にし。そして其処に引っ越そうなどという計画を立てていた。

それどころか、そのために玉兎を複数使い捨てにし。

帰る場所もなくなった玉兎は、幻想郷での生活を余儀なくされている。

今、玉兎達を眠りから解放したところで。

純狐の下僕になるか。

幻想郷で底辺の生活を送るか。

二つに一つしか、生きる路は無い。

月に戻るのは論外。

戻ったところで、純狐のスパイかと疑われて、殺されるだけだ。そして月人は、玉兎を殺す事なんて、何とも思わないのである。

雑炊を食べ終える。

おなかがぱんぱんだが、少なくともそれに関しては顔には出さない。

純狐はしっかり、帰りまで見送ってくれた。

鈴仙は気付くと、永遠亭の前にぼんやり立っていた。

門前で頭を抱えて蹲り、ぶるぶる震えているのはてゐである。

何となく理由は分かるが。

妙に冷めた声で、鈴仙は聞く。

「どうしたんですか?」

「な、なな、何って、あの恐ろしい怨念の権化が、あんたに悪戯したら兎鍋にするって」

てゐはこんな性格だが、ストレスに弱い。

純狐が直接脅しを掛けたとなると、当分胃痛で七転八倒することになるだろう。

嘆息すると、師匠に報告しに行こうと鈴仙は思った。

それと、この本当に追い詰められないと何もできない性格、何とかしないといけないとも、今回はつくづく思った。

純狐の話には、主観も入っているはずだ。

全てが本当だったかは分からない。

だけれども、はっきりしているのは。師匠である永琳がいう以上に、嫦娥は本物の鬼畜外道だという事。

そして、今でも月の都は病んだ世界であり。

どうにかして改革をしなければ、未来は無いと言う事だ。

永琳に報告に行く。

全てを話すと。永琳は頷いて。そして言った。

「よく、耐えきりましたね」

「……はい」

「純狐の語った言葉は概ね事実です。 そして、純狐が気に入っている貴方を殺さないことも分かっていました。 今後は、もっと心を鍛えなさい。 そうしないと、見えている世界も、正しく認識出来ないでしょう」

頷くと。

自室に戻って休む。

横になると、また強烈な吐き気がこみ上げてきた。

目の前で自分の子供を殺され、尊厳を全て否定され、しかも食われる。

それが、子供だけが生き甲斐だった母親にとって、どれだけの絶望だったのだろう。想像するだけで、深淵から伸びてきた手に全身を掴まれ、闇に引きずり込まれそうだ。

怨念の怪物が生まれるわけである。

むしろ、純狐に月の都が滅ぼされてしまった方が良かったのだろうか。

いや、そうなったら、永琳も輝夜も死んでいただろうし。何より鈴仙も生まれていない。月の都から影響を受けた、地上の文明だって発展しなかっただろう。

おなかがいたい。

それ以上に、涙が流れて止まらなかった。

小さな幸せを、欲望のまま踏み躙る怪物が、未だに月で玉兎達の重鎮として存在している。

不老不死の薬を使った罪で投獄はされているが。

そんな怪物のために、玉兎達はまだ尻ぬぐいをさせられている。

許される事だとは思えない。

だけれど、幻想郷の戦力で、月の都の体制をひっくり返すのは不可能。玉兎と月人では戦力に差もありすぎる。月にいる元同僚達に連絡は出来る。でも、もし玉兎だけでクーデターを起こしても、皆殺しにされるだけだ。幻想郷から援軍を出せても結果は同じだろう。

どうにもできないし。下手な事を月の同胞に言う訳にもいかない。

純狐の言葉を思い出す。

伯封が大人になる姿を見て。伯封の子を手に抱く。それだけが、純狐の願いだった。

そんな小さな願いを踏みにじった巨大な邪悪は、未だに月でのうのうと生きている。純狐が猛り狂うのも当たり前だろう。

何度もため息をついた。

そして自分が憶病で弱い事が。

とても悲しいと、鈴仙は思った。

 

3、小さな子供と

 

唐傘お化けの多々良小傘は、幻想郷の住人である。

付喪神である小傘は、幻想郷の流儀に従って、現在は人型をとっており。水色の髪で、青と赤のドットアイという容姿を持つ。

現在小傘は命蓮寺という、弱者妖怪を救済し、人間と妖怪の融和を掲げる勢力の食客となっていて。

「驚き」しか食べられない小傘は。

此処で色々な事を学んで、ひもじい思いをしないように力をつけている。

命蓮寺は人里でも人望があり。

子供が好きな小傘の所には、親が子供を預けに来る事も多くなった。

小傘は、悲しい事情から、命蓮寺に出家した山彦の幽谷響子と一緒にいる事が多く。

今も子供達の遊びに響子と一緒につきあいながら。

周囲にしっかり気を配り。

子供をさらったり。

襲ったりしようと考えている妖怪や。

或いは子供が怪我をしたりするようなものがないか。

注意を払い続けていた。

昔の小傘は、とにかく頭が悪くて。

夜道で手にしている傘を開いて、人間を脅かすことしか考えていなかった。

そうすることでしか、驚きを得られないと思っていた。

今は、名前の通りのタタラの技術。つまり鍛冶の技術によって、人を驚かせる事や。

其処から派生して、美味しい料理を作って人を驚かせる事を、アドバイスを受けて知る事が出来た。

おかげで、いつもおなかが一杯。

幸せな毎日を過ごしている。

一時期は、空を飛ぶのも苦しいくらいに厳しい生活をしていたのだけれど。

今は力がついてきていて。

弱い妖怪くらいだったら充分に自力で追い払えるし。

強い妖怪が子供を襲おうとしても。

時間稼ぎを出来るくらいの力は身についている、らしい。

これはどういうことかというと、小傘はそもそも戦いが嫌いなので、周囲に教えて貰ったのである。

あまり実感は無いけれど。嘘をつくような人達では無いので、それは事実なのだろう。

小傘は子供の姿をしているけれど、実際には長い年月を生きている。

子供が好きな小傘は、子供が死ぬのを見るのは嫌だ。

前にその我が儘のせいで、大変な事に巻き込まれて。随分と周囲に迷惑も掛けた。

以降は、頼れる相手には頼ろうとも決めたし。

また、自分でできる事は増やそうとも決めた。

それで満足できる生活が出来ているのだから。

良しとするべきなのだろう。

そして。

自覚は無いが、力が増しているから、だろうか。

気付くことが出来た。

「響子ちゃん。 みんなを連れて、お寺に行っていてくれる?」

「え、どうしたの小傘さん」

「後で行くからお願い」

「うん。 分かった」

響子に引率を頼んで、子供達を命蓮寺に避難させる。彼処だったら、滅多な事がない限り、どうにかなる事はない。

彼処には幻想郷でも上から数えた方が早い実力者が揃っていて。

逆に言うと、彼処で駄目なら何処でも駄目だ。

ふうと、呼吸を整えると。

じっと見ていた人に声を掛ける。

「あの、何でしょうか」

「あら、驚いた。 まさか私に気付くなんてね」

「……」

何も無い空間から。

すっとその人が現れる。

聞いた事がある。

前にあのおっかない博麗の巫女達が月で戦って来た、もの凄い強い人。仙霊純狐。仙霊とは言っているけれど、実力は神々、それも上位のそれを更に凌ぐほどで。文字通り圧倒的だとか。

博麗の巫女でも、腕尽くでは絶対に勝てないと断言していたらしく。

勿論小傘なんて、相手がその気になったら、一瞬で捻り殺されてしまうだけである。

この人が子供達を見ていた。

この人はあまりにも力が強すぎる。

その気が無くても、子供を殺してしまうかも知れない。

一応視線に悪意は感じなかったけれど。

それでも油断だけは絶対に出来なかった。

だから、敢えて声を掛けて。顔を見せてもらったのである。

頭を下げて、自分から挨拶する。

「多々良小傘です」

「純狐よ。 随分と子供達になつかれているようね」

「その……昔から子供は好きで、いっぱい接してきたので」

「まあ」

うふふと笑っている純狐だが。

目は狂気に満ちている。

見るだけで、深淵に引きずり込まれそうな怖い目だ。

理性の中に狂気が同居していて。

その狂気は、いつ沸騰してもおかしくない。

生唾を飲み込む。

しっかり、目的を聞き出さなければならないし。

最悪の場合は、時間くらい稼がなければならない。

その気が無くても撫でただけで首が折れてしまうような力の持ち主だ。絶対に、子供に直接接させるわけにはいかないのである。

観察していて、分かってきたことがある。

小傘は長い間生きてきて。たくさんの子供と、その親を見てきた。

生半可な人間では、子供に対する知識も経験も、小傘とは比較にもならない。

歩きながら、話す。少しでも、寺からも、人里からも、遠ざけるように。

純狐は、何も言わず、ついてきた。

この人くらいの力の持ち主なら。

それこそ何に襲われても、一瞬で撃退が可能なのだろう。

小傘では手も足も出ないような相手。

例えば天狗とか鬼とか。

そんな怖い妖怪でも、この人を前にしたら、すっ飛んで逃げるのは間違いない。小傘なんか、側にいるだけで足が竦みそうなのだ。

「その、子供が好きなんですか?」

「好きよ」

「お子さんが、いたんですね」

勿論、気も引かなければならない。

この人に子供が「いた」ことくらい、長い間たくさんの子供と親を見てきた小傘には一発で分かる。そして今はいないことも。

歩く宇宙規模災害みたいな力の持ち主だ。

最悪の場合、小傘が殺されるだけで、相手が満足する。

そういう風に、持っていかなければならない。

幸いにも相手は激高しなかった。

むしろ、静かに返してくるくらいである。

「まあ。 どうして分かるのかしら」

「ええと、たくさんの親子を見てきたからです。 その……ご冥福を祈ります」

「……」

見透かされると、人間は機嫌を損ねることがある。

だけれども、今は。

敢えてそうしてでも、気を引かなければならない。

この人が、とんでも無い存在だと言う事は分かっているのだけれども。

それでも、同じ事だ。

前は、何もできなかった。

今は、できる事がある。

だからする。

「どんなお子さんだったんですか」

「……貴方はどう思う?」

「そうですね。 年は十歳くらい……男の子、ですね。 純狐さんの事が大好きだったんだと思います」

「驚いたわ。 どうしてそう思うの?」

驚いたのは本当のようだ。

ぐっと、もの凄い密度の驚きが一気に小傘のおなかに詰まって。思わず、咳き込みそうになった。

この人くらいの存在が驚くと。

それはいきなり、もの凄い量の食事をしたのも同然だ。

怒ってはいないようだ。

だから、順番に種明かしをしていく。

「ええと、子供がいるお母さんは、子供が側にいることを想定して歩くんです。 視線とか、歩き方とかに特徴が出ます。 純狐さんは歩いている時、時々側に十歳くらいの男の子が歩いているのを想定したしぐさをしていました。 しぐさで子供の歩き方は大体わかります。 背丈や歩幅、歩き方などを総合すると、育ちの良い男の子だろうなって結論が出ました」

「そう、まだ癖は抜けていないのね」

「それと、恐らくですけれど、その子が純狐さんの事を気遣っているのが分かるんです」

十歳の子供が親の事を気遣うというのは、余程の事だ。

残念ながら普通の子供は其処まで頭が回らない。

子供は純粋だけれど。

同時にエゴの塊でもある。

小傘は子供が好きだけれど。

子供が嫌いという人もいる。そういう人は、大体この身勝手なエゴを嫌うケースが多い。

親に対する愛情を子供が本能的に持つのは幼いときだけ。

十歳くらいになると、子供はもう反抗期に足を突っ込みかけるし。親に対して無制限の愛情を持つ時代は終わる。

要するに、余程聡明な子で、思いやりが無い限り。

親の事を気遣うようなことは無い。

これに関しては、小傘も昔から実例を幾つも見てきていて。

また親の方でも、子供の習性を理解出来ていない場合。

子供の変化に頭が追いつかず、虐待に結びついてしまう悲しい事例がある事を知っている。

勿論生まれついての性格がねじ曲がっている子や親もいる。

それについてはそれだ。

性格なんて、ちょっとやそっとで変わるものじゃない。

どうやったって、たくさんの人とは上手くやっていけない人だっている。そんな子供でも、小傘は嫌いじゃない。勿論、「みんなとなかよくしなければならない」という言葉を、無理矢理押しつける気も無い。それは押しつけては駄目で、本当に頭がいい人達が、時間を掛けて考えて行かなければならないことだ。

小傘はどんな子供にも幸せになって欲しいけれど。それは小傘のエゴだ。

「しぐさに深い愛情が籠もっていたので、そう思いました。 お子さんは一人だけだったんですね」

「ふふ、貴方本格的に修行をしてみない? きっと護法神の類になれるわよ」

「え……そんな、大げさですよ」

褒められる事にはなれていない。

驚かせるのが下手。

弱い。

そういわれ、ずっと小傘は虐げられてきた側だ。理不尽にいたぶられたことだって多い。

最近になって、命蓮寺の食客になって。

妖怪と人間を平等に扱い、争いも無く過ごせるようにしようと本気で模索している住職と。

世の中の裏も表も知り尽くしているタヌキの大親分からアドバイスを受けて。

やっと食べるものに困らなくなってきた。

弱い妖怪の見本のような存在をずっと続けて来たし。

子供達と遊ぶのは好きだったけれど。

必ずしも、親にはいい目で見られなかった。

単純に、たくさん子供達と。その子供達と一緒にいる親を見てきたから知っているだけの事で。

別に小傘の頭が良いわけではない。

勿論力だって強くないし。

護法神なんて大それた存在になれるとも思っていない。

「心配しなくても、もう子供に触るつもりは無いわ。 私の子供は一人だけ。 ただ懐かしいと思って見ていただけだから」

「一人だけ、目で追っていましたね」

「まあ、それも分かるの?」

「……はい」

純狐の気配に気付いたのは、子供達と遊んでいる時だったけれど。

皆の中で、リーダーシップをとっている子。

女の子だけれど、いわゆるガキ大将である子がいて。

その子を目で追っていたのである。

その視線で気付けた。

実は、さっきの聡明な子だったのだろうという推理も、此処につながっている。

余程出来た子だったのだろう。

親のひいき目を抜いたとしても、である。

「貴方に興味が出てきたわ」

「え、私にですか」

「ええ。 ただの付喪神にしておくのはもったいないわね。 いっそ、私の仙界で修行してみない? 私の持つ秘術を教えてあげるし、そうすればすぐにでも大きな力を得られるわよ」

「いいえ、そんな」

さっきまで笑顔だったのに。

不意にそれが消えるのを感じる。

何となく、分かる。

今の発言は多分アウトに近かった。下手をしたら殺されていた。

この人は、もの凄く気むずかしいというよりも。正気の中に、本人でも抑えきれない狂気を抱えているタイプだ。

だから、下手な発言は即座の死につながる。

でも、今いる場所は。

周囲に誰もいない。

此処まで連れ出せれば。

もしも怒らせても、死ぬのは小傘一人で済むだろう。

だから、心は落ち着いていた。

「私は、その、今の力を、周囲の人や妖怪に助けて貰いながら、少しずつ伸ばして、ゆっくり子供達を見守って生きていきたいと思っているんです。 だから、その、あんまり大きな力は……いきなり貰っても、きっと使いこなせないと思います」

「……」

「その、仙界という場所に遊びに行くのなら……それならかまいません」

「そう、それは良かった」

すっと、殺意のようなものが消える。

実は周囲が重力で圧殺されるほどの殺意が漏れていたのだけれど。

多分純狐は気付いてもいないだろう。

笑顔を保つのが、本当に大変だった。

そのまま、もう少し歩きながら話す。

純狐は、人里からも、妖怪からも、遠ざけようとしている意図は分かっているようだが。

それでも平然とついてくる。

面白がっているし。興味も持っている、と言う事だ。

象と蟻では力が違いすぎる。

小傘は蟻。

純狐は象だ。

それも、狂っている象。

相手の逆鱗が何処にあるかも分からない。

この人が、悲しい過去を背負ってしまっていることは分かる。

だがそれは他の悲劇を産んで良いことにはならない。

相手は遊び半分で。

興味を持っているだけだけれど。

その状態を維持し続けなければならない。

「そうだ。 今度私の大好きな子を、仙界に招いてすてきなお食事会をしようと思っているの。 その時、一緒に来てくれるかしら」

「はい、ありがとうございます。 ただ私は「驚き」しか食べられないので、お料理を作る方に回りたいのですが、良いですか?」

「うふふ、色々と不便ね」

「我ながら。 このせいで、餓死しかけた事もあります」

そのお食事会を開くときには連絡する。

そう言うと。

純狐は前触れも無く。

最初からいなかったかのように。

その場から姿を消していた。

いなくなった事は分かったが。

しばらく、その場で立ち尽くしていた。

恐怖はある。

だけれど、それ以上に狂ってしまった事への哀しみが強い。

子供を失って狂乱する親は幾度も見てきた。

それに、小傘は自分の子供を作ることも出来ない。付喪神という種族の宿命でもある。何しろ自我が宿ったものに過ぎない。小傘は元は、ただの古くさい意匠の傘に過ぎないのだから。

子供が好きなのは。

或いは、子供を作れることが、羨ましいからなのかも知れない。

それについてはよく分からない。

はっきり分かっているのは。

あの人に、誰も傷つけられる事はなかった、と言う事だ。

ため息をつく。

今更ながら、一気に反動が来た。

その場でへたり込んでしまう。

全身が震えているのが分かった。

何度か逆鱗を踏みかけた。

自分で決めて、自分でやった。とはいえ、それでも怖いものは怖いのだ。守る事が出来た。だが、それはあくまで究極的には自己満足に過ぎない。

だから、体が正直に、恐怖を訴えるのは、当たり前だとも言えた。

「驚いたわ。 まさか、全て計算尽くだったの」

不意に声がする。

見上げると。

前は、もっとも幻想郷で怖い存在だと思っていた。

博麗の巫女が、そこにいた。

「えっと……見ていたんですか?」

「途中からね。 強力すぎる気配が幻想郷に出現したから、慌てて駆けつけてきたのだけれども。 よりによって彼奴だったとはね」

「……貴方でも、腕尽くでは勝てないんですよね」

「ええ。 流石に彼奴はいくら何でも桁が違うわ。 ……そういえばあんた、いつの間にか敬語で喋るようになったわね」

そういえば、昔はもっと砕けたしゃべり方をしていた気がするし。

子供相手には、今でも砕けたしゃべり方をしている。

だけれど、どうしてなのだろう。

寺で暮らしているから、だろうか。

今では自然に、敬語で喋る癖が身についてしまっていた。

苦笑する小傘に。

幻想郷に限れば最強と言う説もある博麗の巫女は言う。

「ともかく感謝するわ。 彼奴は元々狂ってるから何をするか分からないし、暴れ出したらどれだけの被害が出たか分からない。 人里から遠ざけた上に、被害も出さずに追い返すなんて、偉業も良い所よ」

「私は、子供達を守りたかっただけです」

「そう。 あんたがそんな事を言うなんてね」

「でも今度は、あの人の所で、料理を振る舞うことになりそうです」

同情したような目を博麗の巫女が向けてくる。

そして、気付いてくれているだろうか。

小傘が、腰を抜かしてしまっていることに。

博麗の巫女は、最近雰囲気が変わった。

妖怪の山で色々あったらしいとは聞いているのだけれど。

それが原因なのだろうか。

だが、雰囲気が変わっても、いきなり成長するわけでもないのだろう。博麗の巫女は、とうとう小傘が腰を抜かしていることに気付けなかった。

「あんたの料理が美味しいのは知っているけれど、気を付けなさい。 彼奴を怒らせたら、私どころか龍神様でさえ手に負えるかどうか」

「……努力してみます」

「それじゃあね」

博麗の巫女が、己の神社に戻っていく。

ため息をつくと。

しばしして、手をさしのべられる。

いつの間にか、雨が降っている。

小傘が食客として居候させて貰っている命蓮寺の住職、聖白蓮がそこにいた。

「立てますか? 小傘さん」

「いえ、ごめんなさい……」

「大丈夫。 背負っていきますよ」

悟りにはまだまだ遠いだろうが。

小傘が見てきた中でも、もっともまともな僧職の一人であり。圧倒的な強さを誇る妖尼僧。寿命を超越し、人間からは「魔法使い」と呼ばれる種族として認識されるようになった住職は。

器用に小傘を背負うと。

傘を差して、雨が掛からないようにしてくれる。

多分法術も使っているのだろう。

傘だけではカバーできない部分も。

濡れることは無かった。

「よく頑張りましたね」

「……怖かったです。 それ以上に、あの人のことが悲しかったです」

「気配で途中から分かっていました。 もしも本気で怒らせるようなら介入するつもりではいましたが……私では流石に勝てそうもありませんでした。 正直、私も今安心している所です」

今もっとも伸びている幻想郷の勢力の長であり。

そして海千山千の大妖怪達を従える人徳者でもあり。

戦力においても、勢力の長に相応しい人が、こんな事をいうのである。

あの純狐という人が。

如何に桁外れなのかよく分かる。

命蓮寺に戻ると、もう子供達は帰らせたらしい。帰りに送っていったらしい白蓮の弟子の一人、雲居一輪が冷や汗を拭っていた。

この人も大妖怪見越し入道を従えている強力な妖尼僧だ。

凄まじい気配は、察していたのかも知れなかった。

「最悪避難勧告が必要かと思いましたが、その様子は無さそうで安心しています。 今、人里の方でも警戒態勢を解いたようです」

「一輪、お疲れ様でした。 ゆっくり休んでください」

「はい。 それでは失礼します」

小傘を一瞥すると、一輪は自室に戻っていく。

小傘が腰を抜かしてしまっていることに、気付いたのかも知れない。

部屋で降ろして貰って。

そのまま回復の法術を施して貰う。

流石に永遠亭の知恵の神様ほどではないにしても。

住職の回復の法術は。

とても良く効く。

妖怪は精神のダメージが致命傷になる。

小傘はそれほど強い妖怪でもないので。

回復して貰えることは有り難かった。

実際問題、純狐と接しているだけで、相当にダメージを受けていたのだ。

「あの、住職。 ちょっとお料理のレパートリーを増やしておこうと思います。 明日から、数日留守にしても良いですか?」

「貴方はとても真面目ですね。 貴方はあくまで命蓮寺の食客に過ぎません。 ましてや貴方のためでもあります。 何ら問題はありませんよ。 行ってらっしゃい」

「はい。 ありがとうございます」

かなり気分が楽になったからか。

ようやく、足腰が立つようになった。

あの純狐という人、何を食べたがるだろう。一緒に招待されているというのは誰なのだろう。

出すべき料理は何か。

いわゆる中華か。

それとも洋食か。

命蓮寺では、基本的に生臭は出さない。

肉と同等の栄養を持つ料理は作るが、それは法術によって加工をすることによって、かなり栄養を増やしているらしく。肉を使った料理については若干経験が足りない。

和食はある程度作れるが。

中華や洋食、更には他の文化圏の料理は殆ど作れない。

人里には、確か外から持ち込まれた料理の情報があると聞いている。

人里の料理店で、以前包丁を売ったお店があるので。

其処で頼んで、料理を作らせてもらって、覚えておきたい所だ。

自分用の包丁は確保してあるし。

多分大丈夫だろう。

いきなり、翌日に純狐が来るとも思えないし。

数日の猶予はある筈だ。

多少の練習くらいなら、しておく余力はあるだろう。

あの人は怖い人だったが。

だからといって、悲しい人である事も事実だった。

招かれたのなら。

最大限の礼儀で、応じなければならない。

この辺りの考えを、さっき住職に真面目と言われたのかも知れないが。

それは揶揄では無く、褒め言葉だと分かっている。

人間が真面目と口にするとき、それは揶揄である事が多いのだけれど。

住職は揶揄など口にしないことを、小傘は知っていた。

翌日から、人里に出て。

料理屋で、お手伝いをさせて貰う。

包丁を売ったお店は、喜んで手伝いをさせてくれた。

小傘が料理を嗜んでいることを、何処かで知っていたのかも知れない。そう思いながら、洋食の作り方を教わっていると。

店主のおじさんは筋が良いと褒めてくれながら。

あまり大きな声では言えないがと、声を落として言う。

「実は命蓮寺のお弟子さん達が、たまに来るんだよ。 住職さんにはお世話になっているし、来たら報告するように言われているんだけれどね」

「あ……はい。 そうだったんですね」

そういえば、思い当たる節がある。

時々、一緒に暮らしている出家信者の妖怪達が満足げにしている事があった。

まだ生臭を排除できていない弟子達もいると聞いている。

そういう人達は、野獣をくらったりするよりも。

生臭の中では比較的刺激が弱い、人間の作る料理を口にして本能を抑えているのだろう。

栄養面では、法術の助けもあって、きちんとしたものが出てきていると聞いている。

ただ、それでも味やら何やらで。

どうしても本能を抑えきれないのは、仕方が無いのかも知れない。

「小傘ちゃんは固形物を食べられないんだろう? それにどうしてまた、洋食なんて」

「住職の方針で、命蓮寺が無くなっても生きていけるようにって、みんなに修行をつけてくれるんです。 私は食客なんですけれど、それでもアドバイスはしてくれて。 料理で人を驚かせる修行を、時々しています」

「そうかい。 こんなに真面目にうちの子供が働いてくれたら、安心して隠居できるんだがね。 ああ、もう少し焼き目をつけたら火から下ろしてくれな。 この出来なら、充分にお客に出せるよ」

満足げに、客に料理を運んでいく店主。

付け焼き刃で美味しくも無い料理を出しても、多分純狐は喜ばないだろう。

三種類か四種類くらい、そこそこものになる洋食のレパートリーを増やしておきたい。

そう思いながら、小傘はせっせと、店長に料理を教わる。

どんな料理も基本は同じだ。

レシピが存在していて。

それに忠実に作る。

もしも失敗した場合も慌てない。

料理の知識があれば、挽回も可能である。

数日間大まじめに働くと。

お賃金も出してくれた。

流石に小傘が働いている店に入る気にはならないのか。

その間、命蓮寺の出家信者が顔を出すことは無かったけれど。

人間に変装している妖怪は結構来ていて。

小傘が手伝っているのを見て、驚いているのを、何回か見た。

日中に、妖怪と分かる姿で人里に来るのは厳禁、というのは幻想郷のルールの一つだけれども。

案外わかり安い変装をして。そして人間も苦笑いして見逃しているケースがあるんだなと、小傘は悟る。

小傘は傘さえフードで覆ってしまえば、人間にしか見えないので、その辺りの手間は無いのだけれど。

なお、最終日。

お賃金を貰って、そしてまたいつでも来てくれと笑顔で店主に送って貰った後。

人里の縁で、天狗が待っていた。

以前取材されたことがある射命丸ではなくて。姫海棠はたてだったが。

この若い鴉天狗が、最近精力的に取材をしている事は、小傘も知っている。

その新聞の内容も、まだ若干たどたどしいが、誠実な造りである事も。

「人里で料理を習っていると聞いたのだけれど、取材、良いかしら」

「はい。 かまわないですよ」

「それでは」

その後受けた取材は、前に射命丸にされた取材と違って、もの凄く丁寧で誠実で。

後日受け取った新聞も、多少読みにくかったけれど、取材の時に口にしなかったことは一切書かれていない、とても丁寧で誠実な新聞だった。

なお、本人も変装して食べに行ったという話で。

味についても詳しく書かれていた。

かなり美味しいという事である。

それなら安心だ。

何しろ小傘は、固形物を食べられないので。

本当の意味で、料理を味わう事は出来ないのだから。

きっと、純狐も満足してくれるだろう。

まだ純狐の事は怖い。

だけれど、少しでもあの哀しみを和らげられるのなら。

それはそれで良いことだと、小傘は思った。

 

4、楽しいお食事会

 

青ざめて、口を引き結んでいる鈴仙の隣には、腕組みしてしらけた様子の博麗の巫女が座っている。

此処は、仙界。純狐の住処である。

鈴仙の所に、また来て欲しいと連絡が来て。

さらわれるのは嫌だったので、足を運んだのである。

そうしたら、何故か博麗の巫女もいた。

博麗の巫女は、さらわれたわけではないようだけれども。

なんで私に声が掛かるのかと、不信感を丸出しにして。

並んで料理をしている純狐と、付喪神多々良小傘の背中を見ていた。

「ねえヘタレ兎」

「はい」

「ヘタレ兎で怒りなさいよ。 そんなんだからあのチビ助に舐められるのよ」

「そんな理不尽な」

鈴仙も、自分に勇気が足りない事は自覚している。

だから博麗の巫女に暴言を言われても仕方が無いと思っているので。あまり感じなかったのだが。

これはきっと、博麗の巫女なりのアドバイスなのだろう。

ただ、あれから。

てゐに悪戯はされていない。

余程純狐に脅かされたのが怖かったのだろうと思う。

それに、鈴仙がもう地上の兎たちを見下していないと察したのだろうか。

少しずつ、態度も柔らかくなってきていた。

「霊夢さんは、どうして此処に?」

「あそこにいる怨念の権化に、どうせならもう一人呼びたいとかいう訳が分からない理由で呼ばれたのよ。 ごちそうが出るらしいしね」

「良かったですね。 下手をすると月人の踊り食いとかさせられていましたよ」

「はいぃ!?」

恐れを知らぬ博麗の巫女でも絶句するが。

鈴仙の乾いた笑いと死んだ目を見て、それが事実だと悟ったのだろう。

完全に真顔になった博麗の巫女は。

以降、頬杖をついて、完全に黙り込んだ。

程なく料理が出てくる。

小傘が満面の笑みで出してきたのは、ハンバーグである。

たまに人里でも出てくる洋食だ。

更にご飯。

洋食であるハンバーグとご飯は絶妙にあう事を、鈴仙も知っている。

コレに加えて、かなり良い品であるらしいサラダと。

それに相当な名品らしいワインも出てくる。

美味しそうだが。

博麗の巫女が、咳払いした後、純狐に言う。流石に相手が相手だ。怖い物知らずの幻想郷の暴威でさえ、多少緊張しているようだった。

「聞いても良いかしら、純狐」

「何かしら」

「これ、牛と豚の肉よね」

「そうよ。 どちらも外の世界から取り寄せた最高級品。 それを吃驚するほど料理上手な小傘ちゃんが仕上げてくれたの。 さっき少し味見したけれど、普通に料理店で出てくる味だから、大丈夫よ。 私は添え物とかを作ったわ」

心配そうに見ていた博麗の巫女だが。

ハンバーグ自体は食べた事があるのだろう。

普通に箸で割って、食べ始めた。

口に入れて、どうやらまともなハンバーグだと察したのか。

そのまま、黙々と食べ始める。

本当に美味しい料理だと、食べている人は無口になる。

鈴仙も食べ始めたが。

確かにコレは美味しい。

一流のシェフとまでは行かないが。

当たり前にお店を出せる味だ。

確か彼処の付喪神が、料理を最近始めたと言う噂は聞いていたのだが。これほどまでに上達していたのか。

短期間でこれほど上達するとは。

元は相当に器用なのかも知れない。

包丁を砥石で研いでいる音がする。

いちいち手入れをするという事は、余程の良い包丁なのだろう。

唐傘お化けが鍛冶を得意とすると言う話は聞いたことがあるが。

或いは自前の包丁を持ち込んでいるのかも知れない。

包丁関連の技能で、料理も派生して得意なのだとすると。

水も術として使える小傘は。

できる事が相当に多い。

本人はあまり頭が回らないようだけれど。

きちんと教えられれば何でも出来る。

いわゆる、器用なタイプなのかも知れなかった。

羨ましいなと鈴仙は思う。

鈴仙は、月人の中でももっとも武闘派に位置する神に鍛えられて、最新の戦術と軍事訓練を受けた身だ。

それを憶病という弱点から殆ど生かせず。

結局、まともに戦えるようになったのは、幻想郷に来てからだった。

今でも戦いは怖いし。

純狐の事だって怖い。

多分小傘だって、どういう経緯で純狐と知り合ったかは分からないけれど。怖くない筈が無い。

だがケアレスミスの類をしても、それを全てカバーして。

しっかり美味しい料理を作って出してくる。

それは、根本的な所で勇気があって。

器用だと言う事だ。

ハンバーグを満足そうに食べ終えた博麗の巫女。ようやく純狐と話し始める。

純狐の方も、博麗の巫女には興味があるようで、色々話を聞いているが。ごくごく穏やかな雰囲気だ。

むしろ、ずけずけ言いたい放題の博麗の巫女だが。

純狐は怒る様子も無い。

やはりこの人は、嫦娥と息子、月の都に関係する話でなければ。

逆鱗に触れることも無いし。

ごく理性的なのだろう。

「うどんちゃんは義娘にしたいほど可愛いのだけれど、貴方はどう思うかしら。 子供が出来た後、うどんちゃんを嫁にしたいって連れてきたらどうする?」

「うーん、私だったら躾けるのが大変そうだし、再考を促すわね」

「うふふ、その辺りも含めて可愛いのよ」

「まあ、蓼食う虫も好き好きというしね。 貴方の嗜好に口出しはしないわ」

鈴仙は蓼か。流石に突っ込みたくなったが、純狐がキレる可能性があるので止める。純狐がキレたらそれは死を意味するからである。

次の料理が出てくる。

満面の笑みで、小傘が配膳してくれるが。どうやら、料理を美味しく食べて貰う方法を、小傘は知り尽くしているらしい。短時間で学習したと言う事だ。

今度は和食である。贅沢に川魚を使った天ぷらだ。油からしてとてもいいものを使っているのが一目で分かる。

おひたしも出てくる。

多分この辺りは、小傘の得意料理だろう。

並みの料理店の品より、ぶっちゃけ美味しいと感じた。

普通に驚く。

「これはいいわね。 魚で思い出したけど、人魚って、天ぷらにしたら美味しいかしら」

「残念ね博麗の巫女。 人魚は美味しくないわよ」

「あらそうなの。 まあ良いか……」

さらりとかわされる、恐ろしすぎる会話。純狐は多分、人魚を食べた事があるのだろう。下手をすると他の妖怪も。

鈴仙も話を振られるが。

とにかく、応じるのに冷や冷やした。

純狐は嬉しそうだけれど。

それがいきなりブチ切れる可能性が、常にあるのだ。

博麗の巫女だって、内心は冷や汗を掻いているはずだ。

そして、小傘は気を利かせてくれたのか。

デザートを出してくる。

締め、と言う事だ。

なお、博麗の巫女の食事量が凄まじい事も知っているのか。鈴仙の所よりも、あからさまに配膳される料理が多かった。

「まあ美味しそう。 これは、プリンだったかしら」

「手作りの奴です。 作り方を知っていれば、それほど難しくは無いんですよ」

純狐は味が分かるのか、そもそも味覚が残っているのかさえも怪しいが。

それでも美味しい美味しいと食べている。

博麗の巫女も、一度も不満そうな顔は見せなかった。

小傘は恐らく、それぞれがどれだけ食べると満足するかも、計算して料理を出しているとみた。

何というか、応用が効かないというか。

自分では思いつけないけれど。

教えられると出来るようになるタイプなのだろう。

何でも自分で出来ないと無能、何て風潮もあるらしいけれど。

小傘を見ていると、それは違うと分かる。

この子は、少なくとも。

戦いの技量は兎も角。鈴仙よりも、出来る子だと思う。

多分満足したのだろう。純狐が解放してくれる。

「楽しい食事だったわ。 また呼ぶから、その時には来てね」

「はい、ありがとうございました」

「まあ満足だったわ。 また呼んで頂戴」

それぞれ、家に直接飛ばされたらしい。

鈴仙は、立ち上がったと思ったら、もう永遠亭の前にいた。

少しでも、孤独や哀しみが癒えただろうか。

月を見上げる。

浄土とは名ばかりの腐りきった都が、あの人を作り出してしまった。

まだ、怖さは抜けない。

だけれども、狂気に触れさえしなければ、ごく理性的な人だ。優しかっただろう人を狂わせてしまった月の都の罪は重い。

二度と、彼処に戻る事は無いだろう。足を踏み入れる事はあったとしても、それはもう余所の住人として、だ。

穢れに塗れる大いに結構。

何度か目を擦ると。

鈴仙は、今の住処である。

永遠亭の、戸に手を掛けた。

 

(終)