疫病神は雨に濡れる

 

序、いるだけで不幸にするもの

 

幻想郷。

外の世界では存在し得なくなった妖怪や神々が集う、世界でも最後の秘境の一つである。

その秘境には大幅に弱体化した妖怪だったり、或いは信仰を失った神々がいる。

それだけではない。

外の世界ではもはや無用とされた妖怪退治屋達の子孫も暮らしており。

それらの人々の畏れを。

もはや外では無くなった妖怪や神々への畏敬を。

人ならざる者は存在の根幹としている。

此処での法則は簡単。

人は妖怪を怖れ。

妖怪は人を怖れさせ。

人は勇気をふるって妖怪に打ち克つ。

古き時代には当たり前だった法則が、此処ではまだ生きている。

人里と呼ばれる人間の集落は外で言う明治時代くらいの技術水準で、所々に電球がある程度、である。

殆どの家に電球以外に使用する電気は通っておらず。

そもそも海も存在しない。

中央部にある峻険な山岳地帯、通称妖怪の山の麓に人々は暮らしていて。

一応人里には妖怪は「一部例外を除いて」入らない事になっている。

その一部例外が、色々と抜け穴があるのだが。まあいずれにしても、人里でおおっぴらに悪さをする妖怪はあまりいないし。悪さをすれば仕置きをされる。悪さの度が過ぎると幻想郷のスラムとも言える地底に追放されたり、或いは本当に消されたりする。

生命線である人間に対して、幻想郷で最も気を遣っているのは妖怪でもあるのだ。

妖怪達の管理者であり。

幻想郷を支配している「賢者」は。妖怪達の存在を担保する人間に、他の妖怪以上に非常に気を遣っており。

妖怪と人間がある程度上手くやっていけるようにいつも気を揉んでいる。

そんな仕組みの一つ。

派手な格好をした女が、小さくあくびをしながら人里を歩いていた。

格好はバブルと呼ばれた外の世界のものに近い。

ど派手な服を着込み。

宝石やらブランド品やらを全身につけ。

全身を兎に角派手に飾り立てた茶髪の女である。髪の毛はご丁寧に豪勢さを出すかのような縦ロールだ。

人々は女の姿に気付いていない。

人々に見えないようにしているのだから当然である。

女は人間ではなく。

妖怪でもない。

疫病神である。

名は依神女苑。

少し前に幻想郷にて「異変」と呼ばれる大規模問題を起こし。

幻想郷の管理者である博麗神社の巫女、博麗霊夢に仕置きされた存在だ。

大規模問題といっても人命に関係するような代物では無く。

ぶちのめされた後は更正するために末法臭い寺に放り込まれて修行を強要させられ。

それが終わった後は。

賢者の指示に従って動いている。

溜息が漏れた。

女苑には双子の姉がいる。

依神紫苑。此方は貧乏神である。

普通、姉妹の神とか妖怪とかだと。妹の方が実力が勝ることが多いのだが。

依神姉妹はこのケースに当てはまらず。

実は普段は物静かで地味な姉の方が遙かに実力は上である。

昔、幻想郷の外を彷徨いていた頃から、二人はずっと一緒にいて。

邪険にするようなことを言っても、姉は静かに微笑むばかりで。たまにちょっと怒るくらい。

ただ、姉が本気で怒るととんでもなく怖い事を女苑は知っていたし。

姉がたまにぼそりと言う忠告には従うようにしていた。

今は一緒にいない。

姉とは異変の後は、ずっと別行動だ。

ため息をつきながら、指示された家に到着。

これまた、豪勢な家だ。

ここのところ、稼ぎすぎている家である。商家なのだが、あくどいやり方と詐欺寸前の手口で、短時間で相当な金を蓄えたそうだ。

幻想郷の基本則は。

良い意味での安定にある。

たくさんある勢力が存在するのも、勢力を拮抗させて安定させるため。

一つの勢力が幻想郷を牛耳って、誰かのルールを押しつけるのを防ぐため。

それを知っている女苑は。

家に手を突くと。

その家に取り憑いていた。

幻想郷の人里は。

其処に住んでいる普通の人間は知らないが。

賢者の管理下にある。

経済に関しても、あまりにも裕福すぎる人間や、貧乏すぎる人間が出ないように賢者が管理している。

あまり厳しくではないが。

こうすることによって、格差が生じるのを防ぎ。

仕組みが壊れるのを防いでいるのである。

人里も、賢者が管理している事に代わりは無い。

今の疫病神依神女苑は。

この仕組みの一部だった。

家の中に透明なまま上がり込む。豪華な編み上げブーツを脱ぐと、周囲を見回した。

何という成金趣味か。

成金趣味がヒトの形を取っているような邪神の女苑だけれども。

これはちょっと悪趣味すぎてついて行けない。

金やら紫やらの配色が下品極まりない。此処の主人は、少なくとも金を持ってはいけない人種である事は確かだ。

女苑は苦笑いすると。

家の誰もいない一角。

物置に入り込んで、膝を抱えて座った。

後は、勝手に能力がこの家の富を散らせる。

富というものは、一箇所に集まっていても意味がない。

だから、周囲に拡散させるのだ。

実はこの能力、前はもっと制御が効かなかった。

だが寺で。この幻想郷に存在する、非常に強力な妖尼僧が住職を務めている命蓮寺で修行して。

いやではあったけれども、結局能力の制御が効くようになった。

寺は結局耐えきれなくなって逃げ出してしまったのだけれども。

それでも、能力の制御が出来るようになったことだけは感謝している。

それに、女苑は実際の所。自分が周りを不幸にして回ることが嫌でならなかった。

それは外にいた頃から。

ずっと同じだ。

幻想郷に女苑が来たのはつい最近の事。

疫病神としてのこの格好の派手さからも分かるように。

外でバブルと呼ばれる時代があって。

それを女苑は見て来た。

金があらゆる所にあふれかえり。

馬鹿共がそれを湯水のように無駄遣いしていた。

女苑はいるだけでもなんら困る事もなかった。

何しろどいつもこいつもが無駄な浪費をしていて。

貧乏神がいようが疫病神がいようが、気付いてすらいなかったのだから。

だが、そいつらの末路は無惨だった。

ある者は海に沈められ。

ある者は全てを失ってホームレスになった。

ぎんぎらぎんに輝く時代の末路を見て来た女苑は。

自分の能力が如何に虚しいもので。

派手に浪費することが如何に愚かしい事か。実例を持って、嫌になるほど知っていたのだった。

膝を抱えて、ぼんやりとする。

姉と離れてしばらく経つ。

姉は女苑が何一つ楽しくないことを理解しているようで。どれだけ暴言を吐かれても怒る事は殆ど無かった。

一度だけ幻想郷で異変を起こしたとき怒ったことがあるが。

あれもひょっとしたらだが。

女苑を守るために、全火力を展開するためだったのかも知れない。

姉が負けた後。

もはやへたり込むことしか出来なかった女苑を、博麗の巫女は殴りこそすれ退治まではしなかった。

そして、二人は別々にされた。

孤独になった女苑だが。

ある意味それはそれで良いのかも知れない。

こうして一人でいると。

とても静かな気分になるのだから。

ある人物に指摘されたことがある。

浪費を実は嫌っているだろう。

その派手な格好は、周囲の人間から受けた影響に過ぎず。実際にはこんなものは嬉しくも何ともないだろう。

本心では、質素で慎ましい生活がしたいのだろう。

その通りだ。

女苑はブランドもののバッグやら服やら、宝石がついた指輪やらを身につけているが。

ブランド名すら知らないし。

指輪が本物の宝石に彩られているのかすら興味が無い。

バブルがはじけて周囲に地獄が溢れてからは。

それこそ人間の業を嫌と言うほど見てきた。

以降は一箇所に留まることをしなくなった。

幻想郷に来たのだって。

実際には、本当に困っている者を、これ以上不幸にするのが耐えられなくなったから。

幻想郷で人間を集めて金をむしり取ろうとしたのも。

金なんて持ってた所で。何が最後に起きるのか、知っていたから。

ぼんやりとしている内に能力が家中に行き渡る。

翌朝からは、地獄になった。

元々ろくでもない方法で金を稼いでいた家だ。

悪銭身につかず。古くからある言葉だが、ついにその通りの事態がこの家を襲う。

疫病神に取り憑かれるというのは、そういうことである。

毎日馬鹿騒ぎをしていたこの家の悪辣な夫婦は、瞬く間に転げ落ちていった。

以前ほどの破壊力は無いが。

それでも充分過ぎる程の力である。

ましてや今回は、女苑は力を抑えるつもりがない。

ここの家主がろくでもない輩である事は知っているし、充分に疫病神としての本領を発揮させて貰うだけだ。

金がなくなれば、連んでいた悪辣な連中もどんどん離れていく。

だが、それを待っていたのだろう。

里の自警団が動き出した。

政府が事実上存在しない以上。

警察組織は自警団が担っている。軍の役割もしかり。

人里の戦力は大きくは無い。自警団も少し前までは平和ボケしていた。

だが今は鍛え直された結果、かなり動きが良くなっている。

今後人里に悪戯をしようとする妖怪は、相応に覚悟がいるだろうなと。

どんどん追い詰められていく家主を見て、女苑は思うのだった。

やがて犯罪の証拠。

それが最悪の形で、全て白日の下に晒された。

里の自警団が直接来て。

夫婦も使用人も、皆縛り上げていった。

詐欺同然で稼いだ金は。

悉くこの家を離れていった。

家は空き屋になった。

全てが終わるまで、ほんの一月も掛からない。

まあこんなものだ。

誰も住まなくなった家を出る。

誰にも認識されないようにしたまま、人里を出ると。一仕事終わったなと、大きく伸びをした。

バブルのぎらぎらしたまぶしい光は思い出したくも無い。

静かなこの幻想郷にきては見たものの。

結局の所、何もかも変わらなかった。

人間がいると言うだけで格差が生まれて。

馬鹿みたいに金が集まる奴がいると思えば。命まで絞り取られて死んで行く奴もいる。

ぎらぎら輝く世界だろうが。

質素な世界だろうが。

それは同じ事だ。

伸びをしていると。

耳元に、声が聞こえた。

「仕事ご苦労様」

「ふん……」

現在の雇い主。

幻想郷の管理者である最高位妖怪、八雲紫である。

振り返ると、そこには空間に出来たスキマから、少しだけ顔を見せている紫の姿があった。

空間操作能力。

通称スキマを使う最高位妖怪は。

いつも紫を基調にした服を着込んだ美しい女の姿をしている。

だが何もかもが胡散臭さを作り出すための小道具。

零落したとは言え神である女苑は知っている。

此奴はあくまで、自分の存在を際立たせるために、こんな格好をしていると。

「彼奴らはどうなるの」

「自警団で絞られた後は、罪人として懲役を受けて貰うことになるわねえ。 没収した資産は被害者に返す事になるわ」

「何故犯罪に手を染める前に止めないのよ」

「流石に其所まで細かく監視は出来ないわよ」

くつくつと笑う紫。

まあそうなんだろうなと思う。

最強の妖怪と言う肩書き。

得体が知れないその存在から。

紫が出来る事は、実際にはあまり分からない。本当はそこまで強くないのかも知れないし。

万能に見せかけて、実の所大した力はないのかも知れない。

だが女苑は、此奴に今は雇われている身だ。

神で有りながら情けないが。

結局の所、零落してしまうと神は妖怪にも劣る事がある。

女苑はそのケース。

幻想郷にも、零落していない神がいるから。

それは羨ましい限りだ。

「姉さんは元気にしている?」

「ええ。 能力が暴発することもなくなったようよ」

「そう……」

「次の仕事まで待機していて頂戴」

紫が空間の隙間に消える。

ため息をつくと、女苑は人里から離れる。

小さな洞窟があって。其所には誰も住んでいない。

たまに姉が。紫苑が此処に来ている事を知っている。

取り憑いた相手に浪費をさせる過程で、多少の金を持ち出している女苑である。

紫苑が素寒貧なのに対して、ある程度の生活費用くらいは持っている。

昔は金を手にすると、あるだけ全て使ってしまっていたのだが。

今はもう、それもなくなっていた。

再び、膝を抱えて座る。

ここなら誰も不幸にしない。

そう思うと、気が楽だ。

姉が最近、時々不良天人と呼ばれる輩と連んで遊んでいることは知っているが。

それも実際には、それほど派手に遊んでいる訳でもないらしく。

不良天人とやらが幻想郷に来た時、たまたま遭遇したら遊ぶ。

そのくらいの関係らしい。

横になると眠る。

家など必要ない。

家なんてあったって、その家がやがて全てに見放されて朽ちてしまうだけだからである。

実際に見て来た。

家主がいなくなった家。バブル時にはいくらでもあった。

ヤクザが乗り込んで来て色々物色した後は。それこそ何も其所には住み着かなくなった。

たまに幽霊屋敷とか噂になると、馬鹿な連中が見に来ることもあったが。

そういう場所は、ヤクザが管理している訳で。

馬鹿な連中は、人間の方が幽霊よりも怖い事を、身を以て思い知らされるのだった。

嫌な光景を散々見た。

だから、もう家に定住するのは止めた。彼方此方の廃屋を彷徨くようにしている。

外の世界を姉と二人でふらつく内に。

姉も女苑も口数が減った。

幻想郷に来て、ほっとしたのはなんでだろう。

此処は外よりマシだと感じたからだろうか。

だとしたら。

外を見ると、雨が降り出していた。

資産はあるが、殆ど何も使う気にはなれない。

疫病神に対する恐怖は、人里に蔓延している。

だから存在自体は脅かされない。

信仰はそのまま神の力になる。

ダークサイドの存在、要は邪神である女苑もそれは同じ事。

ただ物理的に腹は減る。

しばらく横になって憂鬱な中我慢していたが。

やがて耐えきれなくなって。

外で食事をしに行くことにした。

屋台を開いている妖怪はそこそこの数がいる。

人里の外で活動している妖怪は。小規模ながら経済を回していて。

そういう中では、屋台を開いて小金を稼いでいる奴がいるのだ。

そんな中の一つ。

夜雀という妖怪である、ミスティア=ローレライの開いている焼きヤツメウナギの屋台に出向く。

不機嫌そうな女苑を見て、小さな女の子に翼を生やしたような姿をしているミスティアはひっと悲鳴を漏らした。

妖怪の間でも、疫病神の噂はあるらしい。

結構結構。

畏怖して貰えれば、それだけ存在は安定する。

「心配しなくても金は払うわよ。 適当に焼いて頂戴」

「は、はい……」

涙目になり、おぼつかない手つきでヤツメウナギの蒲焼きを焼き始めるミスティア。

最近はたまにライブだかバンドだかをしているこいつも。

いつもそうしているわけではなくて、普段はこうして地道に稼いでいる。

とはいっても、妖怪である以上、別に稼がなくても暮らしてはいける。

あくまで、威を示すためのささやかな行動に過ぎない。

適当にウナギを食べる。

涙目になっているミスティア。

女苑を見て回れ右する妖怪の気配が何度かあったので。

長時間いると邪魔になると判断。

早めに飲み食いして、屋台を後にする。多めに金は置いていった。金への執着は、こんな見た目なのに殆ど無い。

虚しい毎日。だが、これでも前よりはマシ。

雨露に濡れた夜ののっぱらを歩きながら。女苑は最低だなと呟いていた。

 

1、疫病神の疫病行脚

 

人里を丘の上から見る。

昼間に活動するのは滅多に無い事なのだが。

仕事がある時は、賢者や、その式神が伝えに来る。

だから、今はぼんやりしていて良いと言う事だ。

女苑は要監視対象であり。

賢者も重点的に監視をしている。

逃げようとは思わないし。

逃げられもしない。

人里はここのところ、少し活気づいているように見える。

前は腑抜けの集まりだった自警団は、短期間で見違えるように鍛え直されたようだし。

人里で動いている金も、前よりかなり多くなっているようだった。

試験的に経済規模を大きくしているとか何とか聞いているが。

元々ないものは作れない。

人里にて新しいビジネスとやらが複数動いていて。

それに賢者が関わっているのは事実だ。

女苑の知った事ではない。

金なんて、必要なだけあればいい。

それは命蓮寺で修行させられているとき、何となくに理解出来た。

実は命蓮寺を逃げ出すとき。

命蓮寺の住職は、それに気付いていた節がある。

たまに見つかることがあるが。

そんなときも苦笑いで見逃してくれる。

要するに、もう大丈夫だと判断しているという事なのだろう。

ぼんやり人里を見ていると。

不意に声を掛けられた。

聞いた事がない声だったので振り向くと。

いつだかに見た顔だった。

「おや。 疫病神だったか」

「守矢の神様?」

「そうだよ」

くつくつと笑う。

田舎の健康的な女児にしか見えない存在。

幻想郷の一大勢力、守矢神社には二柱の神が存在し。そのうち一柱は天津の武神。もう一柱は、土着の大邪神。

その邪神の方。洩矢諏訪子である。

元々最凶ともいわれる邪神、ミジャグジさまの頭目である存在であり。

土着の邪神の中でもトップクラスの実力者である。

疫病神ごときではとてもではないが歯が立たない。

存在としての格が違ってくると、能力なんて通じなくなるものなのだ。

守矢は守りが堅く、此奴かもう一柱の天津の武神である神奈子が必ず神社を守っていると言う事だが。

此奴が出て来ていると言う事は、人里が活気づいているのに。

守矢が関わっていると言う事か。

「こんな所で何をしている」

「いや、別に。 今は仕事もないし、ただ見ているだけだけど」

「その割りには寂しそうだな」

「……そうかも知れないわね」

まあ寂しいかと言えばそうなるだろう。

姉はいないし。

何よりも繁栄そのものが苦手だ。

バブル時の派手な格好を今でもしているが。

それは結局の所。

幻想郷には失われた概念が入り込むから。

女苑には、バブル期の浪費の象徴という概念が混じり込んでしまっている。

名前も知らないブランドのバッグだのブーツだの。何かすら分からない宝石がついている指輪だのには、実の所殆ど興味も無い。

昔外でせしめた品だが。具体的なブランド名とかは一つも分からない。

「うちで働いてみないか」

「おあいにく。 アルバイトは禁止されているので」

「すっかり賢者の犬か」

「何とでもいいなさいよ。 実際問題反論できないし」

牙を抜かれた訳では無い。

正直な所、今の生活が気に入っているのだ。

バブルの時は、本当に取り返しのつかない所まで行く人間をたくさんみた。そうなるともうどうしようもなく。

物理的に反社会勢力に殺されるか。

社会的に死ぬか。

どっちか二択しかなかった。

自分もそれに荷担していた。

勿論これはまずいと思った時は、姉と一緒に取り憑くのを止めて離れたが。

人間の世界における経済というものは兎に角恐ろしいもので。

一度流れが変わるとどうしようもなくなる。

更に言えば、バブルで稼いでいたような連中は、元はカタギとはとても言い難いような輩ばかりであり。

脛に傷を持っているのも普通だった。

そうでない場合も、金の魔力にやられて、精神を壊してしまっている事が殆どだった。

だから末路は皆無惨だった。

それを思うと、今でも出来れば特定の個人にはあまり関わり合いになりたくないのである。

「それにしてもいいの? 人里の文明は、あのくらいで固定しておくんじゃないの?」

「ひょっとして人里の景気がいいのはうちが関与しているとでも思っているのか」

「違うの?」

「残念だが違う。 正確にはうちは一部しか関与していない。 お前さんの雇い主が決めて、その判断に沿って動いている」

紫の奴。

一体何を考えている。

いや、まて。

冷や汗が流れた。

此奴はうっかり口を滑らすような輩じゃない。

何かもくろみがあって、情報を女苑に流したと言う事だ。

冷や汗がどっと流れる。

田舎の健康的な女児にしか見えなくても、恐怖の権化であるミジャグジさまの頭目である。

その正体は妖怪の山を何巻もするような巨大な蛇とも言われる神だ。

カエルを意識した格好をしているのは、あくまでいにしえの戦いで天津の武神神奈子に負けたから。

敗者としてカエルの格好をしているだけで。

実際には此奴は蛇の神格である可能性が高い。

舌なめずりしている諏訪子を見て、巨大な蛇に狙われている気がして、ぞっとする。

今までのダウナーな気分はすっ飛び。

思わず一歩後ずさりしていた。

生唾を飲み込む。

諏訪子は、別に声色を変えている訳でもないのに。

いつの間にか、雰囲気が別物になっていた。

「何だ、本当に危険な相手と相対しているかくらいは判断出来るんだな。 バブル期の狂騒を間近で見てきたからか?」

「そ、そうかも、しれないわね……」

「馬鹿みたいに浪費した連中が借金漬けになって動けなくなって、ヤクザに埋められたり沈められたり。 助かっても根こそぎ金を奪われてホームレスになったり。 そんな人生を送るのを幾つも見た。 そんなところか」

「……っ」

ずばり指摘してくる諏訪子。

此奴は今でも外の状況を把握しているらしいのだが。

元々人間の世界の闇を何千年とみてきただろう輩だ。

それはこれくらいの事は、分かっていても不思議では無い。

「まあいい。 お前に不必要なアルバイトをさせたら、賢者が拗ねるだろう。 今此方としても、別に賢者と事を荒立てる気はない。 だが覚えておけ。 賢者の権力は、幻想郷でも絶対ではない。 いずれお前は決断しなければならなくなる。 その身の振り方を、な」

「……」

「それでは失礼する。 せいぜい飼い主が声を掛けるまで黄昏れているといい」

いつの間にか諏訪子がいなくなっている。

腰が抜けた。

女苑は荒い呼吸をつきながら、へたり込んで。必死に心臓が落ち着くのを待った。

下手をすると食われていたかも知れない。

強大な蛇の神格だ。

相手がその気になれば一瞬でぱくり、だろう。

ぞっとする。

神としての格が違いすぎて、勝負にすらならない。幻想郷の管理者、最強の人間と名高いあの博麗の巫女でさえも。この幻想郷に広まる決闘方法であるスペルカードルールでなければ勝てるか分からないと名高い怪物だ。

身につけているブランド品が汚れることなどどうでもいい。そもそももう体の一部だから、勝手に修復する。

真っ青になっているだろうなと思いながら。

女苑は、何とか立ち上がると。

普段根城にしている洞窟に戻る。

誰もいない。

それでほっとすると同時に。

何となく、寂しくなる。

姉さんがいてくれたらな。

そう思ってしまうのだ。

腰を下ろすと、女苑はぐったりして、壁に背中を預ける。

辺りには毒キノコだの毒虫だのがたくさんいるが。

疫病神の自分にはお似合いの環境である。

守矢が主導では無いが。

人里に賢者含めて妖怪の組織が何かしらてこ入れをしている。

それは分かった。

だが、なんで諏訪子がそんな事をあえて女苑に知らせてきた。

行動にはだいたい意味がある。

特に諏訪子くらいの立場になると、それこそ言動一つで妖怪の山がひっくり返るくらいの事態になる。

それをあいつが分かっていないとは思えない。

心臓をぎゅっと掴むようにして。

女苑が胸を押さえていると。

隣の空間が裂けて。

紫が顔を出した。

冷や汗を、何処で手に入れたか覚えてもいないハンカチで拭う。

一応ブランドものの筈だが。

元の持ち主は大阪湾の底に沈められて、今でも多分見つけられていないだろう。

「何かしら」

「さっき、貴方の監視が少しの時間出来なくなってね。 強大な神格と接触していたようだけれど?」

「……守矢のカエルよ」

「ああ。 ひょっとして、人里の経済が最近元気が良い話でもしたのかしらね」

図星を突かれた。

別に隠しても仕方が無い。

頷くと、紫は、紫色の扇で口元を覆った。

此奴は己の考えている事を表に見せず。周囲には胡散臭く見られるように振る舞う方法を知り尽くしている。

実際そうだと何となく分かってきている今の女苑でも、何を考えているかさっぱり分からなくて怖い程だ。

まあもっとも。

実際に他者が何を考えているか何て。

特殊能力持ちか。IQが極めて高いか。或いは膨大な相手と話をしてきてでもいない限りは分からない。

外の世界の小説に出てくる名探偵でもないかぎり。

人間心理の正確な洞察など不可能だ。

真面目な顔をしている奴が、実は昼メシに食べた弁当がまずかったなあとか思っていたり。

嬉しそうな顔をしている奴が、三ヶ月後にオープンする水族館に展示される魚を楽しみにしていたり。

そんな実例を実際に見ている女苑は。

紫の恐ろしさを思い知るばかりである。

「ひょっとして、守矢が貴方に接触してきた事に意味があると思ってすくみ上がっているのかしら?」

「それは……そうよ。 あんな強大な神格と接して、怖くない筈も無いわ」

「正直でよろしい。 結論から言えば、守矢も命蓮寺も、聖徳王の勢力も今回の一件には絡んでいるから、別に気にしなくて良いわよ。 守矢としては手駒が一つでもほしいのでしょうね」

そういえば。

少し前にあった姉から聞いた。

少し前に紫苑が、空腹を満たすために守矢の所に行って働いたという。

妙だなと思ったが。どうやら側に自分以上に哀れな者がいて、放っておけなくなったらしい。

そのもののために守矢に頭を下げて。

一緒に働いたと言う事だそうだ。

本人から全てを聞いたわけではないが。

幾つか聞いた話を統合するとそうなる。

「貴方の能力は、経済を厳格に廻し始めた今の幻想郷ではそこそこ重要なものになってくる筈よ。 貴方を配下に組み込まないにしても、貸しを作って駒として動かせるのなら、戦略的な意味を多少なりと持ってくる。 守矢が粉を掛けに来たのはその程度の事よ」

「そんな事で、わざわざ強大な守矢の神が動くわけ」

「貴方と話したのはほんの数分でしょう。 ほんの数分の会話で将来の戦略にちょっとでも幅を出せるなら、意味があるわよ。 ましてや貴方はその辺りの木っ端妖怪とは一線を画する実力の持ち主。 神の一柱なのだから」

「……」

ぞっとする話だ。

黙り込んでしまった女苑を見て、紫は哀れにでも思ったのか。

飯を食べたか聞いてくる。

首を横に振る。

基本的にここのところは一日一食。

夜に何処かの妖怪の屋台に出向いて、そこで嫌がられながら食べるだけだ。

姉はもっと悲惨な食生活をしているはず。

たまに会って話を聞くと、とんでもない事を時々言われる。

此処の洞窟の毒キノコも好物にしているらしいし。

色々忸怩たるものがある。

「ほら、人里のお弁当屋のよ。 食べ終えたらそこに置いておいて」

「……次の仕事は」

「あいにくだけれども、今はないわ。 富豪はいるけれど分をきちんとわきまえている連中ばかり」

「霧雨の家は」

人里で、もっともあくどい稼ぎをしているのは間違いなく霧雨の家だ。

幻想郷の妖怪退治屋としてそこそこ名前を売っている霧雨魔理沙の実家である。

何か魔理沙とあったのか、絶対に魔理沙は実家のことを口にしないらしいが。

そもそもあんな子供が、幻想郷でももっとも危険な魔法の森に一人暮らししている時点で、女苑にも大体察しがつく。

前にちょっと見にいったが、強欲そうな主人と、悪い意味でのキツネのような妻が。それこそ河童でも震え上がるような悪辣な商売をしていたのだが。

紫はくつくつと笑う。

ぞくりとした。

「意外と詳しいのね」

「あんたのおかげで悪辣な稼ぎをする輩の所はだいたい回ったからね。 どうしても大悪党の名前は耳にするわよ」

「霧雨は心配しなくても大丈夫。 あの家は弱みを幾つも握っていて、そもそも里の真の支配者が誰かも分かっている。 そして彼処が稼いだ金は、うちでしっかり回収しているから」

「……最低」

思わず本音が出てしまう。

此処も同じじゃないか。

外の世界は地獄だった。

あれが人間の世界だとは思いたくないほどに。

高位の神々は人間の自主性を重視するか、或いは興味が無い。

その結果、結局弱い者ばかりが泣く世界になっている。

此処だって、強い者が弱い者を虐げているでは無いか。

そんな外が嫌だったから、幻想郷に姉と一緒に逃げ込んだのに。

「そんな格好で派手にまとめているのに、意外にまじめなのねえ。 外の影響を受けているのなら、それこそ他人をどれだけ不幸にしてもケラケラ笑って見ていそうなものなのに」

「……あんな連中と一緒にするなっ!」

流石に頭に来た。

姉ほどでは無いが、女苑だって相応に武闘派の神だ。

起こした問題が問題だから紫に従っているが。

今だって、戦おうと思えば戦える。

それに女苑は確かに里の連中から異変の時に小金を巻き上げたけれど。

その金は巻き上げる度に全て使って、里に還元していた。

体質上、そうしてしまうのが疫病神なのだ。

金は女苑の所に居着かない。

それに外の世界で「人間」を見た。金を蓄えるために邪悪な薬物を売りさばき、詐欺で他者の財産を根こそぎ奪い、殺しても何とも思わない。

そういう連中は金を幾ら蓄えても飽きず。

更に他人の財産を奪うことを血眼になってやっていた。

そしてそんな人間達が、「普通の人間」「立派な人間」「善人」「社会的な成功者」等と呼ばれていた。少なくとも大多数の人間はそうしていた。

何度もそういった例を見た。

1000年前に跋扈していた妖怪達よりも、バブルの時に百鬼夜行していた人間の方が、余程邪悪で残忍だ。

それは身を以て知っている。

そんな邪悪な連中を幾らでも見て来た女苑は。

流石にあんな奴らと一緒にされるのだけは御免だった。

「……ひょっとしたら諏訪子。 貴方との会話で、こうやって貴方が反応することまで見越していたのかしらね」

「私は……っ」

「分かっているわよ。 貴方が外の世界の現実に嫌気が差してこっちに来たことも、本心では慎ましく静かに暮らしたいことも。 悪かったわね。 外の世界の外道共と一緒にしたことは謝るわ」

素直に紫の口から出た謝罪に、怒りが抜けてしまう。

黙り込んだ女苑に。

紫は少し真面目な口調で言った。

「これから、幻想郷は妖怪も人間も、皆豊かにしていくつもりよ。 弱くて何もできずに死んで行く者を限りなく減らし、理不尽な暴力に泣くだけの弱者をなくし、豊かさの相対度を上げる。 だけれども、それにはどうしてもその過程で歪みが出る。 あなたは歪みを是正するために必要な存在なのよ」

「……」

「せいぜい頑張って頂戴」

紫が消える。

弁当だけが残った。

大きくため息をつくと、乱暴に苔むした岩に座る。

弁当を開けると、がつがつと女苑は貪り喰った。弁当に罪はない。食べ物は絶対無駄にしない。ひもじさのつらさを知っている女苑は、だから食欲に怒りをぶつける。

妖怪は調理はするけれど料理は殆どしない。

人里の弁当屋の料理は冷たくなってしまっていてもまた随分とおいしい。

素材がいいのだ。

外の世界の弁当も最近は量産品でも美味しくなってきているが。

幻想郷の人里は、料理人の腕云々以前に素材が良いのである。

何しろ、古き時代の汚染されていない食材ばかりなのだから。

バブルの時に食い散らかされていた「高級料理」を姉と一緒につまみ食いした事もある女苑だが。

そんなものよりも、こっちの弁当の方が遙かに美味しい。

だから、無駄には出来ないし。

乱雑にも扱えなかった。

無言のまま食べ終える。それでも腹の虫は収まらなかった。

弁当箱を指定の場所に置くと。何だか何もかも嫌になった女苑は、ふらりと洞窟を出る。

姉は今も何処にいるか分からない。

命蓮寺に、特に考える事もなく。

女苑は足を向けていた。

 

2、流浪

 

相変わらず抹香臭い寺だな。

命蓮寺について、そう女苑は思った。

そもそも日本神話系の神格である女苑である。神仏混淆を平然とする日本の宗教ではあるが。命蓮寺は仏教の神格である天部毘沙門天の信仰に重きを置いており。関係者も仏教徒だ。残念ながら住職は兎も角信者達に関しては、まだ戒律を完全には守れていないようだが。

女苑が赴くと。

住職である妖尼僧。千年の時を超え、寿命を超越し。魔法使いと呼ばれる妖怪に分類されている元人間。聖白蓮は、静かに迎えてくれた。

白蓮は女苑がしる仏僧の中でもっともまともな一人だ。

時々ずぼらな所があったりするようだが。それでも妖怪も人間も弱者を救済することに本気で取り組んでいて。

人間と妖怪の共存を大まじめに考えている一人である。

かといって脳内が花畑と言う事もなく、嘘は即座に見抜く。

金目当ての人間や参拝者を襲うことを目当てに入信を希望した妖怪を門前払いしたように。甘いだけのものではないし。かといって厳しいだけでもない。

人間を襲い喰らっていたような妖怪を何名も更正させ。

それどころか、戒律はまだ守りきれなくても。それでも自身への信仰を絶対に昇華させているほどの人格者である。

怒られることは覚悟していた。

だが、白蓮は前に逃げ出したことを責める事もない。

女苑はごめんなさいと一言だけ言うと。

そのまま、促されて寺に入った。

しばらく客間で正座して、じっと過ごす。

あの洞窟よりも此処の方が何だか落ち着くのは気のせいか。

抹香臭いと思っていたのに。

此処の住職が、まだ悟りとやらを開いていない事は女苑も知っている。

それでも。

一度謝ってはおきたかったのだ。

しばらくして、ここの出家信者である山彦の幽谷響子が来る。

人間の子供に犬の耳と尻尾を就けたような姿をした彼女は。

同族全てを失い。

今では山彦の最後の生き残りである。

お茶を淹れてくれたので、有り難くいただく。

腕が凄く上がっているので驚かされた。

「……」

「ごゆっくり」

「ええ。 ありがとう」

響子も女苑を責める事はなかった。

何の音もしない空間で、しばし過ごす。

別に今だって仏教に帰依するつもりはない。

神仏混淆のこの世界では、仏教からも日本神話系信仰からも信仰される神が存在しているし。

其方に切り替えても別に良いのだが。

だが、それでも。

神でありながら。

やはり女苑は宗教に対しては、抵抗があるのだった。

白蓮が戻ってくる。

正座している女苑が、口を開くのを待ってくれる。

それだけで、結構救われるものがある。

白蓮は多くの人や妖怪に慕われている。

特に妖怪には。白蓮は人間に裏切られ、魔界に長期間封印されていたのに。それとは一切関係なくずっと信仰され続けていたほどだ。

仏教にはやはり今でも興味は無い。

だが、この白蓮という人に長く接した後は。この人には頭が上がらないなとは感じさせられてしまう。

平安の世を怖れさせた凶悪妖怪であるあの鵺が命蓮寺に帰依している事からも。

やはりこの人は。悟りを開いていないにしても。

まっとうな宗教家の完成形、というものなのだろう。

「何もかも嫌になったわ」

「人里に関係することで何かあったのですね」

「……」

「しばらく修行していきますか」

それは、少し気が向かない。

修行をして、自分の力を制御出来るようになったし。

金というものと向き合えるようになった気もする。

その気になれば、信者から幾らでも金を巻き上げられる立場である白蓮なのに。

殆ど金には興味を見せない。

悟りは兎も角。

欲というものを完全に克服することに、白蓮は成功しているのだろう。

少なくとも表向きは。

深層心理はどうだか分からないが。

事実、一時期。夢の世界の人妖が姿を見せるという事件が幻想郷で起きていて。白蓮も例外では無かった。

その時見た白蓮は、弟子に家事をやらせて楽をしようとか俗っぽいことを言っていて。

この仏僧としては理想型に見える存在でも。

まだまだ深層心理では粗雑なところがあるのだなと、女苑は知ったのである。

「分かりました。 恐らく貴方は修行して心を整える事に向いていないでしょう。 以前、寺を抜け出すのを黙認したのも、それが理由です」

「あの時は、本当に悪かったわ」

「良いのですよ。 その代わり、しばらく食客として命蓮寺の皆と一緒に暮らしていきませんか」

「食客ね。 随分と古くさい制度を取っているのね」

でも、それも悪くないかも知れない。

ぎらぎら輝くミラーボールの下で、半裸の女達が踊り狂い。

酒や薬物を入れた男女が、半ば公然と乳繰り合っている様子を、それらの狂乱の隅っこで姉と一緒に膝を抱えてうんざりしながら見ていた身としては。

此処で静かに過ごすのは悪くない。

紫に指摘されたように。

本来は、静かに慎ましく暮らしたいのだ。

ただ、寺の朝はもの凄く早いし。

生活は規則正しい。

一番最初に起きてくるのは白蓮で。

白蓮自身も、家事はしっかりしている。

いわゆる精進料理ばかり出てくる訳では無く。

人工蛋白とやらを使った、肉料理と栄養も味も遜色ない美味しい食事も出てくる。

誘惑は大きい。

だけれども、首を横に振る。

確かに能力は抑えられるようになった。

だが、何もかも嫌になっただけだ。

自分がするべき仕事については心得ているつもりだ。

しばらくぐっと黙り込んだ後。

女苑は顔を上げた。

「聞かせてほしいの。 もしも幻想郷がこのまま豊かになって、皆が楽に平穏に暮らせるようになって。 時々茶番の異変が起きて、それを博麗の巫女やらが解決するだけになったら。 私は、姉さんも一緒に幸せになれるのかしら」

「それは貴方次第ではありませんか」

「……」

「物理的にどうしようもなく貧しい人に、幸せなど心の持ちようだというのはそれはもはや外道の言葉です。 しかしながら、理解者もいて生活基盤もあるのに、不幸だと感じるのは、それは心に巣くう邪悪によるものでしょう」

流石だ。

何となくもやついていたのを。全て一言で当てて見せる。

この辺りは、千年間ずっと弟子達に慕われ続け。本物の毘沙門天にコネまで持っている大僧侶ならではの観察眼ということか。

昼食だけでも一緒に取って行きなさいと言われたので、頷く。

命蓮寺の出家信者達と一緒に食事にする。皆人の姿はしているが妖怪である。命蓮寺には食客もいるのだが、何かの用事かで留守にしていた。

見かけだけ派手で。

贅沢な食材を雑に使って。

結果として野良犬のエサ場みたいなのを再現していたバブル時の立食パーティーはうんざりするほど見た。

皆で慎ましく食事を取るのは悪くない。

食事中は無駄話をしない。

そういえば、外の世界の企業マナーとやらでは、皆で食事を取るのが当たり前なのだったっけ。

食事中くらい静かにしろよと、何度も此方の声が聞こえない相手にぼやいたが。

それも結局届かなかったな。

食事が終わると、それぞれ食器を洗って片付けまで済ませる。

そのまま、命蓮寺を出た。

出る時に、白蓮に礼をする。

今は、やっぱり此処で修行するのも無理だし。

食客になるのも多分出来ない。

だけれども、いずれはまた世話になりたい。

そういうと、いつでも来て欲しいと言って貰えた。

頭を下げる。

頭を素直に下げたのなんて、いつぶりだろう。

それでも。

今は、自然に体が動いていた。

 

白蓮の所を出ると、あてもなく歩く。

抹香臭いと文句を言いながら。

だけれども、悪い気分はしなかった。

女苑も、バブル前はこんな格好をしていなかった。

バブル時に。乱雑に捨てられていたものをかき集めて、今の格好になり。

幻想郷に入ってきたときには。

既に失われたバブルという概念と合わさって。姿が固定化されてしまった。

結局の所、疫病神である事には代わりは無い。

そしてこういう、価値も分からない持ち手が、金に任せて買いあさるような品物は。結局の所疫病神のエサに過ぎないのだろう。

どれほど作り手が心を込めていても関係無い。

買い手がただのアホだと、文字通り宝の持ち腐れ。

疫病神のエサ。

そういう事だ。

姿を消して、人里に入る。

姉は貧乏神としての威を示すために、時々夕暮れくらいの人里に姿を見せて。人々を怖れさせるらしいが。

女苑は人里で仕事をしている以上、人間には姿を見せない。

繁盛している店は幾つかある。

全うに商売して、結果として繁盛している店もあるし。

どう見ても汚い商売をして、むしり取っている店もある。

金貸しの一つが、女苑から見ても目に余るやり方をしているが。

紫からは指示は出ていない。

今も丁度、貧乏人の家に数人の手下が押し入って、暴行を加えていた。

ぼんやりと様子を見ている。

いっそのこと、思いっきり何もかも無くなるくらい能力を展開してやろうかと思ったけれども。

指示がない相手には手出し無用と紫に言われている。

ぼんやりと立ち尽くすばかりだった。

見ていると、非道は目に余る。

舌なめずりしながら、詐欺同然の手段で金を巻き上げた相手から、利息を請求している。

生活費の殆どをむしり取り、餓死寸前にまで追い込む。

そんな外道働きをしていながら。

自分は経済を回しているだけ。

金を回してやっているだけ。

そうほざいている。

いたな、こんな連中。外にもたくさん。

しかもこの手の輩を神格化して、高利貸しを格好良く書いた漫画を売っているようなクズの中のクズや。

テレビ番組だので、その荒れた生活を報道して、名士の生活などとほざいているような輩もいたっけ。

極端に貧しい人間は幻想郷の里にはいないが。

此奴らはどうして放置されている。

貧乏人は何故助けられない。

今も散々貧乏人が、高利貸しの手下のチンピラに殴られているのに。女苑は見ている事しか出来ない。

紫は何を見ている。

この様子を見ていないのか。

顔面を蹴り挙げられた貧乏人が、悲鳴を上げながら床で転がっているのを。高利貸しの手下達がゲラゲラ見ながら笑っている。

正義感なんてない。こんな光景だって見慣れている。

外ではもっと酷い光景を幾らでも見て来た。

だが、幻想郷でもこんな光景を見るとは思わなかった。

反吐が出る。

そう思った瞬間だった。

高利貸しの手下の一人が、ぽんと天井近くまで跳ね上げられ。

床に顔面から叩き付けられて気絶した。

いつのまにか、そこにいた者の仕業だった。

「ちょっとばかりやり過ぎたようだな」

「何だお……」

「よせっ!」

真っ青になったチンピラが、突っかかりかけた同僚を止める。

藤原妹紅。

里の自警団に出入りしている、人間だか何だかよく分からない奴だ。

モンペなんて古くさいものを履いて。長い足下まである銀髪を流して。美人なのに、目つきが鋭すぎて愛嬌がかけらも無い。

多少ブスでも愛嬌があれば全然違うことを知っている女苑は。

何だかもったいないなあと、時々思う相手だった。

妹紅は、気絶した高利貸しの手下を踏みつけたまま、部下を呼ぶ。

前は愚連隊に過ぎなかった自警団員が、わらわらと現れて、高利貸しの手下を囲んだ。

「お前らが調子に乗るのを待っていたんだよ。 お前ら、決定金利を超えた金をむしり取っていただろう。 既に証拠は押さえた。 もう容赦する必要はない」

「ちょ、ちょっとまって」

「やれ」

妹紅が手を下すまでもない。

一瞬で自警団に高利貸しの手下達が制圧される。

妖怪を普段相手にしている者達だ。人間のチンピラなんて相手にもならない。昔なら兎も角、今はそうだ。

高利貸しの家も、即座に制圧されたようだった。

縛り上げられたチンピラ共が、引っ張られていく。

散々痛めつけられていた貧乏人は、自警団の人間が背負って、医者に連れて行くようだった。

ため息をつく妹紅。

そして、視線を女苑に向けてきた。

「いるんだろう、依神女苑」

「……」

「意外に正義感が強いんだな。 手を出すんじゃ無いかと思って冷や冷やしたぞ」

「なんであんなのを放って置いたのよ」

姿を見せる。

もう他に誰もいなくなった貧乏人の家の中で、相対する。

周囲の家は、関わり合いになりたくないのか。この家の方を見てもいなかった。

妹紅と女苑は面識がある。

以前女苑が異変を起こしたときに、軽く交戦した相手だ。

その時は絶対勝てるインチキシステムを組んでいたから、普通に勝つことができたが。

今真っ向勝負したら、かなり危ない相手だろうと思う。

信仰を得ている神は基本的に妖怪にも人間にも負けない。

だが妹紅は例外。

博麗の巫女という規格外を除くと、恐らく幻想郷でも最強の人間だろう。

本当に人間か怪しいくらいに強い。

だからこそ、対等に話が出来る。

「此処の家の奴はな、酒に溺れて借金を作って、挙げ句に博打にはまっていた。 最終的に最悪の借金取りに行き着いたのさ」

「そうなる前にどうにかしてやれなかったの?」

「無理だ。 駄目だと分かっていても、どうにもできない病気の奴はいるんだよ。 お前が一番よく分かっているんじゃないのか」

「……っ」

そうだ。

ギャンブル漬けになったり。

体に悪いと分かっているのにどうしても酒を止められなかったり。

そういう奴は、嫌になるほど見て来た。

幻想郷にだっていて当然だ。

此処の人間は比較的豊かに生活しているが。

それでも落伍者が出るのは当たり前である。

此処の貧乏人は、そういう落伍者だった、と言う事だ。

「腕が良い細工屋だったんだがな。 酒だけはどうしようもできなかった。 どうも酒で頭がある程度やられちまっていたらしい。 自警団でも把握はしていたんだが、な」

「それで、今後はどうするの」

「高利貸しの方は資産を全部没収。 後は人里の端で妖怪に監視させながら手下ともども当面強制労働だな」

「そんなのはいい! 結局弱い者は消えないじゃない!」

思わず激高した女苑に。

意外そうな顔を妹紅はした。

「お前の仕事は。 その調整のひとつだと聞いているがな」

「そうよ! だけど虚しくないわけ!?」

「虚しいに決まっているだろう。 だが人間がちょっとやそっとの時間で進歩なんかする訳がない。 こういう事は、延々と続けていかなければならないんだよ。 昔は私も面倒だから関わらなかったがな。 今は頼られている以上仕方が無い」

妹紅は幾つなのか分からないが。

少なくとも三百年前には幻想郷にいたと聞いている。

ということは、見て来ているという事だ。

人間の愚かしさを。

女苑がやっている事に意味はあるのか。

これから人里の経済規模を大きくする事に何か意味はあるのか。

それが分からない。

今、はっきり分かった。

女苑は金なんて大嫌いだ。

身をブランドで飾って派手な格好をして。

ただの一度だって報われたか。

勘違いされやすいが、化粧は基本的に自分のためにするものだ。男の気を引くためにするものではない。

身を繕うのも同じ。

だがそれによって、自分のためになった事が一度でもあったか。

ない。

断言しても良い。

命蓮寺で少し落ち着いたと思ったのに。

怒りが噴出してくる。

幻想郷が理想郷では無い事くらい分かっているつもりだったが。

それにしても、この怒りの行き場は何処にやればいいのか。

「少し落ち着け。 お前は人間に見られるわけにはいかないんだろう」

「……」

「しばらくこの家は空き屋になる。 ここなら誰も不幸にならない。 この家の主人が、酒を抜いて体を治して戻って来たら、その時は出ていけば良い。 それまで、一人で頭でも冷やすんだな」

妹紅は怒るでもなく。

真っ青になって震えている女苑を置いて、家を出ていった。

あの貧乏人はどうなるのだろう。

治療を受けたら、今度は真面目に働くのだろうか。

とてもそうは思えない。

腕が良い細工師だということだが。

それだけでは多分、ずっと酒浸りになって借金を作って、の繰り返しだ。

誰かがどうにかしなければならないだろう。

そこまでは助けてやらない。

それはそうなのだろう。

紫の手だって、誰にも届くわけでは無い。

里の自警団だって、本来は妖怪への対応が主体だ。

酒で身を持ち崩している者を助ける為に、人員を割く余裕なんて無いだろう。

ぼんやりと、荒らされた部屋の中を見る。

怒りが収まってくると。

滅茶苦茶にされた部屋の中が、よく分かってきた。

細工に必要らしい道具類は死守したらしい。

壊されずに、部屋の隅にある。

触ってみるが、丁寧に扱われているのが分かる。

売り物は。

一つも無い。

作り次第、全てを売ってしまっているのだろう。

そして酒に変えてしまっている、か。

刹那の快楽のむなしさをどうしてずっと人間は理解出来ないのだろう。酒にしても美食にしても、膨大な時間と手間を掛けた果てに、一瞬の快楽に消えてしまう。どっちもろくな栄養に代わらない。

心を豊かにするという考えもあるかも知れないが。

心を豊かにしているのか。この酒は。

余りにも目に余るので、片付けをしておく。

あの借金取りの手下共が荒らし回ったせいか、彼方此方家にがたが来ているが。

外で本当に貧乏な人間は、家だって持てない。

それを考えると。

まだ幻想郷の最貧困層はマシなのだろう。

片付けが終わった。

無駄なものが殆ど無いから、すぐに終わった。

隅っこで、膝を抱えて座る。

せっかく、命蓮寺で多少は心が楽になったと思ったのに。

全て台無しだ。

外での悪の縮図を、間近で見たような気分だ。

ぼんやりとしている内に、夜も暮れる。

夜になると、人ならぬものも人里に入ってくる。

特に弱い妖怪は、夜に人を脅かさないと存在できない場合もある。

だから、ルールを守っている分には黙認される。

家を覗いていったのがいた。

何だか知らないが、三下の妖怪だろう。

女苑に気付いて、震え上がると逃げていった。

泣く子も黙る疫病神、か。

それもまた、滑稽な話である。

今はその疫病神が。

泣く子のようにすっかりひねくれ果てて。

家の隅っこで座って黙り込んでいるのだから。

自分を不幸だとは思わない。

世界が不公正だとは思う。

人間に入れ込むつもりは無い。

だが人間が主体になっている以上、幻想郷の縮図と言っても良いのがこの人里ではないのか。

実際に弱い妖怪が強い妖怪や神々に痛めつけられて泣いている光景は、幻想郷に入ってから何度も見た。

人間も妖怪も同じだ。

富の再分配なんかに意味があるのか。

結局何度やっても、不幸になる奴は不幸になるだけだし。

外道は罰せられず、好き勝手を繰り返すだけではないのか。

溜息が漏れる。

何だかもう、何もかもがどうでもよくなっていた。

 

3、行脚

 

いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

夢は見なかった。

大きくため息をつくと、しばらく此処で暮らして良いと言われた家を、もう一度見て回る。

昨日は片付けをしたが。

まだまだ汚い。

酒に溺れているという事もあるのだろう。

全体的に酒の臭いが染みついていて。

彼方此方、汚れが酷かった。

無言で掃除を始める。

命蓮寺にいたとき、散々掃除をさせられたっけ。文句を言いながらも、能力の制御が出来るようになるのならと思って。実は結構積極的にやった。掃除なんてやった事がなかったから、手ほどきを受けながら細かい所まで掃除をしていったっけ。

懐かしいな。

高い所から順番に埃を落として。

道具類には触らないように。

それ以外の所の汚れを、徹底的に綺麗にしていく。

まだ日中だが、此処は空き屋という体になっている。だから別に掃除をしていても、文句を言われる筋合いは無い。

家の中がすっきりするまで、丸一日かかった。

年単位で酒浸りになっていたのだろう。

何で腕が良い職人が酒に逃避したのか。

これがまた、よく分からない。

姿を消すと、人里の中を歩く。宝飾品が売られている店に行く。

これでも金の臭いは分かる。

金は大嫌いだが。

出来ればこんな事はしたくないが。

まあ、これも縁の一つだ。

見に行くくらいなら良いだろう。

店はすぐに見つかった。

これでも神の一柱だ。

それも金に関わる神である。

金が紡ぐ縁くらいは分かる。

見つけた店では、美しい装飾品が幾つもあり。あの殴られていた貧乏人の作ったものもあった。縁を中心に、そうだと判断したのだ。神だからそれくらいは出来る。

かんざしや櫛などが中心だ。

古くさい装飾とは思わない。

別に洋物ブランドだけが装飾品ではない。

この国古来の装飾もいいものである。

良い物じゃないか。

姿は隠しているから、店主は気付いていないが。見て回りながら、女苑は素直にそう思った。

もしもバブル時代に、女苑と同じような派手な格好をした輩が。古くさいだのダサいだの言ったら、その場で指輪をナックル代わりにしてぶん殴って顔の形を変えている所である。

疫病神だが、だからこそ高価な品は見てきているし。

品の良し悪しだって分かる。

自分の所には留まらないからこそ。

本当に良い物についてもよく分かる。

触る事はしない。

それこそ厄が移るかも知れないからだ。

客が来たので、ひょいと避ける。そこそこ裕福そうなお嬢さんだ。明治時代から大正時代くらいの格好だが。別に貧しそうとも思わないし、衛生面に問題がありそうだとも感じない。

客がくだんのかんざしを買っていく。

大事にしてあげてよ。

その背中に呟く。

作ったものは見た。

どうしてあんなに細工物には愛情を込められるのに、酒に溺れて堕落するのか。

神だって堕落する。

女苑だってこんな風にならなければ、外で厳格な神になっていたかも知れない。暴利を貪る者に罰を下し。貧しいものに分け与える。そんな神になれていたのなら。

空を仰ぐ。

一度、あの空き屋に戻ろう。

そう思い、歩き出す。

まだ、悩みは晴れない。

こんな世界で、一体どうすればいいのか。

言われたままに、暴利を貪っている輩から金を取りあげればいいのか。

それで何かが代わるのか。

女苑には分からない。

分からないから、辛かった。

 

数日、ぼんやりと過ごす。

金ならある。だから、夕方に街に出て。多少姿を変えて、この間、紫が持って来た弁当屋に出かけて。

人間に変装して、買って帰る。ちょっとくらいなら、変装して姿を現すくらいは大丈夫である。

人里に入り込んでいる妖怪や神々はみんなやっている事だ。

この間の弁当も美味しかったが。温かいと更に美味しい。だけれど、美味しい分更に虚しく感じる。

弁当を食べ終え、箸を置く。

この弁当は、食べ終わったら返しに行くタイプだ。

返すのは明日で良いが。それも、億劫だった。

寝るか。

そう思ったその時。ふと、気配を感じたので。家を飛び出す。

気配は、間違いなかった。

背中を丸め。

女苑と真逆の貧しい格好をした姉。全身に督促状だの差し押さえだの書かれた札を貼り付けている、貧乏神。

依神紫苑だ。

「お姉ちゃん!」

「女苑……どうしたの、そんなに血相を変えて」

「っと、まずい」

姿をすぐに隠して、姉の手を引いて家に。

姉は貧相な体型で、髪も女苑と違って青黒い。兎に角地味だが、実際の力は姉の方がずっと上である。

貧乏神という分かりやすい神格であることや。

何よりも、自分よりずっと上手に力を押さえられる事が要因だろう。

最近は不良天人とつるんでいる事が多いのだが。

今日は一人か。

姉はぼんやりと、連れ込まれた家を見回す。

「この家、借りてるの?」

「破落戸に主人がぼこぼこにされてさ。 怪我が治るまで使って良いって」

「……何か作ってる人の家?」

「そうだよ。 細工物屋」

久々だ。

姉と会えて、何だか心底ほっとした。

ずっと一緒にいた頃は、姉に暴言を吐くことも多かったし。それで姉が随分と寂しそうに笑うのもよく見た。

今はそれが懐かしくてならない。

ここしばらくはずっと姉に会うこともなかったし。

姿を見かける事があっても、不良天人と一緒にいる所だったから。

声をどうしても掛けづらかったのだ。

「大丈夫、おなかすいていない?」

「大丈夫。 食べてきた」

「そう……」

「女苑、相変わらずいいもの食べてるみたいだね」

苦笑する。

良いものには違いないが、たかがお弁当だ。

懐石だのフレンチだのではない。

でも、確かにいいものだ。

それは間違いない。

「最近はどうしてるの?」

「力は抑えられるようになって来たから、天子と一緒に彼方此方歩いている事が多いかな」

「あんな奴、一緒にいて楽しい?」

「天子ってね、寂しい人なんだよ。 家族にも見放されていて、私の他に友達はいないし、一人しか理解者もいないの。 幻想郷中から嫌われているし、そんな風に言わないであげて」

「……」

嫌われ者か。

本人が嫌われている事を気にしているようにはなかなか見えないけれど。

実際にはそうでもなかった、と言う事か。

最初は遠慮して天子様と呼んでいたようだけれども。

今は天子と呼び捨てにしていると言う事は、関係がそれなりに良くなったと言うことなのだろう。

元々あいつは天人とは言っても、別に天人の中で力が優れているわけでも、優秀な訳でもない。

家柄だって別に良いわけでもない。

実際問題、別に天を支配している天部の眷属夜叉や羅刹が護衛についているわけでもないし。

付き人だってただ一人だけ。

天人とは名ばかりの。

身の丈に合わない道具を手にして暴れ回っているだけの、観音の掌の上で踊り狂う滑稽な猿だ。

そして恐らくだが。本人もそれを自覚している。

「今日は、泊まって行きなよ」

「女苑、此処は人の家だよ。 私達が二人揃って止まったら、きっと悪縁が移ってしまうと思う」

「一晩くらいはいいじゃない」

「駄目」

姉の言葉には、静かだが、強い意思があった。

もう他人を貧しくする力で、相手を不幸にしない。

そういう意思が感じられる。

不良天人、比那名居天子は、天人と言うだけで姉の能力を相殺できる。ただ天人というだけでだ。

「だったら、せめて愚痴だけでも聞いてよ……」

「分かった。 女苑は寂しがりだね」

「寂しがりだよ」

「素直になったね」

姉の前だから言う事だ。

ともかく家を出ようと言われたので、そうする。

しばらく歩いて、人里を出る。

人里を見下ろせる丘に拡がる平原に出ると、もうすっかり星が瞬いていて。うっすらと電球の明かりで輝いている人里が。星の天蓋に覆われているようだった。

「バブルの頃のビル街も、これくらい輝いてたっけ」

「心にも無い事をいうね」

「ごめん。 あの輝きとは全然違う。 こっちの方が全然いい」

「……」

姉は黙って話を聞いてくれる。

富の再分配の仕事に疲れた女苑の事。

一向にどうにもならない悪党が湧いてくる事。

その悪党が必ずしも罰せられるわけでもないという事。

自分がしていることに何か意味があるのか、悩みが消えない事。

全て話すと、姉は頷いた。

「それで、女苑はその仕事がきらいなの?」

「……いいや。 嫌いじゃないよ」

「そう。 じゃあ、仕事をすればいいよ。 外の仕事でも、ずっと延々ときりが無い事を続けていくものはあるでしょ。 それと同じだと思えば良い」

そうか。

やっぱり紫苑の方がだいぶ精神的に落ち着いているんだな。

そう思って、女苑は頷いていた。

最初から、そうすれば良かったのかも知れない。

いずれにしても、悩みはだいぶ晴れた。

「奢ろうか」

「いいよ、食べたばっかりだから。 今日はね、守矢神社の所でちょっとお仕事して、お弁当もらったんだ。 単純な肉体労働だったけど、私見た目の割りには力あるし、妖怪達には抑止力になるし」

「あ、いいなそれ……」

「ただ守矢神社、私を使おうとしてるみたいなんだよね。 だからずっと賢者の式が監視についてる」

気付かなかった。

そうなのか。

ひょっとして姉は、女苑と離れている間に更に力をつけているのか。

寂しそうに紫苑は笑った。

「私はひょっとするとだけれど、今後はなんだか血なまぐさい事に巻き込まれるかも知れない。 女苑はその時には、一緒に巻き込まれないでほしい」

「そんな、何かと戦うんだったら私だって」

「いいんだよ。 もしも命が掛かるような戦いになったら、そんなのするのは私だけいい」

それ以上の会話を遮ると、紫苑は夜闇に消えていく。

呆然と立ち尽くす女苑。

悩みが晴れたと思ったのに。

また、悲しくなってしまったではないか。

「お姉ちゃんのバカ……!」

目を擦る。

守矢が拡大政策を採っていること。守矢が勢力下に組み込んだ妖怪を組織化していること。

部下に出来そうな者に声を掛けていることくらいは、女苑だって知っている。

そして守矢は現時点で、圧倒的とまではいかなくても幻想郷最大の勢力だ。命蓮寺が中心になって大連合を組んで、やっと対抗できるくらいだろう。

守矢対他の勢力で、大戦争が始まった場合。

中立を決め込んでいられる者はどれだけいるか。

もしもその場合は。

姉は、女苑の代わりに守矢の配下として出て。

そして勝っても負けても。

責任を自分でとるつもりなのだ。

当然そう考えているなら、賢者が要監視対象にしているのも頷ける。

何度も目を擦るが、涙は止まらなかった。

ブランドのバッグを地面に叩き付ける。

中身はちなみに空っぽ。財布は着込んでいるブランドの服のポッケに入れている。

デザインだけは格好良いかも知れない。だが実用性も耐久性も皆無だ。

ただの嗜好品として最初から作られている。

金がある人間のための品。

場合によっては本物かどうかさえどうでもいい。

そんなバッグである。

こんなものに、一体何の価値がある。これを金持ちにねだっている女を嫌と言うほど見たが。

どいつもこいつも、手に入れた後はすぐに興味を失っていた。

やがて飽きて埃を被るようになり。場合によっては格安で質にたたき売られていた。

そんな中の一つを、女苑が手に入れたのだ。

拳を固める。拳が震える。

罪のないバッグを拾うと、埃を払って人里に戻る。

そろそろ、家主が退院してくる頃だろう。

綺麗になった家を見て、どう思うだろうか。

何も関係無く、また酒浸りになるのだろうか。

だとしたら、もう女苑にはどうすることも出来ない。

外の世界は、バブルがはじけた後数年で見切りをつけた。

人間の醜悪さについていけなくなったからだ。

精神文明の爛熟が限界に達し。

もはや人間と関わるのが嫌になった。

幻想郷ではまだ妖怪や信仰が現役で存在している。

だから、此処の人間には。まだ関わって見たいとは思う。

だけれども。

家に戻る。

そして、一晩休んで、朝になると。

家主が帰ってきた。

 

家主から資産をこれ以上むしる訳にはいかない。

家主が来たのを察知すると、女苑はすぐに二階の窓から外にでた。幻想郷の妖怪や神々は、最下等の者でもなければ空を飛ぶことは難しくも無い。

人里で、朝っぱらから空を飛ぶ姿を見せるのは好ましくはないが。

姿を消しているから、まあ大丈夫だろう。

賢者や腕利きには察知されるかも知れないが。

大多数の人里の人間に察知されなければそれでいいのである。

一旦家を出ると、弁当を返しに行く。

その後、どうしても気になって。

退院した細工屋を見に行く。

座り込んで、じっと手を見ている細工屋は。

家が綺麗になっている事も、気付いていない様子だった。

苛立ちが募ってくる。

無気力に座り込んでいる細工屋。

多分精神が壊れてしまっている。

バブルの後、外は地獄になった。

人間を壊れるまで働かせるようになり。

働き盛りになる前の人間が、当たり前のように壊れて行くようになった。

人材がいないといいながら。

人材を育成もせず。

最初から完成した人材ばかり求められるようになり。

そんな人材にも、安月給しか払わないようになった。

だからたくさんの人間が壊れた。

その経緯を生々しいまで間近で女苑は見た。

だから外に見切りをつけた。

逆に言えば、壊れる人間や、壊れた人間は嫌と言うほど見てきたから。

この細工屋が、何かしらの理由で。別の理由から壊れたことは。すぐに見て分かった。

苛立ちが募ってくる。

この幻想郷だって、嫌な未来が見え始めている。

守矢と命蓮寺が本格的にぶつかったら、恐らく紫ではどうにもならない。守矢の二柱は天津の武神と古代の祟り神の総元締めだ。その上山の妖怪が悉く傘下に降ったら、もう他の勢力をかき集めても対処が厳しい。現状は山の妖怪の内天狗達を賢者が抑えているから、かろうじて均衡が保たれている。それもいつまで続くか。

もしも決戦になったら。

人里だって無事ではすまないし。

女苑だって。

そんなとき、女苑はどうするか。

決まっている。命蓮寺について戦う。白蓮には恩がある。見捨てられるわけがない。

姉は守矢につくと言っていた。

いつ、破滅的な戦いが始まるか分からないのである。

細工屋が何か探し始める。

意図を察知した女苑は、思わず飛び出そうとして。

手を掴まれていた。

「止めなさい」

「!」

紫だ。

身を隠していたから、周囲の人は気付いていない。

紫は上手に手だけを路地裏から出して、女苑を制止していた。

「だって、あいつ……! また酒を!」

「どうしたって救えない人間はいる。 あまりにも一人に入れ込みすぎると、この世界を維持できなくなる」

「そういって、一体外でどれだけの人間がうち捨てられてきたか……!」

「勘違いは止めなさい。 貴方には救えないと言っているの」

手を振り払う。

紫は、じっと、冷たい目で女苑を見ていた。

「あいつはまた酒に手を出すわ。 そうなったら良い細工の腕も台無しよ! また酒に溺れて、金を全部つぎ込んで!」

「そして早死にするでしょうね」

「……っ!」

「それがあの男の運命よ。 そして少なくとも、貴方にそれを止めることは出来ない」

冷徹な指摘を受けて。

女苑は俯くことしか出来なかった。

会話は恐らく周囲の人間には聞こえていない。

朝早い時間だから人は行き交っているのに。

紫の能力によるものだろう。

「場所を変えましょう。 貴方が騒いでも、もうどうにも出来ないわよ」

「……」

いきなり、周囲の光景が切り替わる。

紫得意のスキマか。

元々女苑は周囲に見えていなかった。

別に人里の誰も気付くことは無いだろう。

人里外の野原。

昨日、姉と一緒に人里を見下ろした場所だ。

「私には救えないって事は、なにか手は打ってあるの!?」

「私に出来るのは、仕事を回すように手を打つ事、それに最低限の補償を整える事。 それだけよ」

「……」

「逆に言うと、それ以上はしてはいけないの。 あの男は恐らく酒に溺れて、もう数年で命を落とすでしょう。 ひょっとしたら自力で立ち直れるかも知れないけれど、それはあくまで自力でやらなければならない。 私はあの男のような弱者につけ込もうとする邪悪を退治する事や、社会保障をする事はできるけれど。 それ以上をすると人里の存在する意味がなくなる」

紫の言葉は正論だ。

確かにそもそも妖怪が事実上人里を抑えている事がおかしいし。

何よりも人里がそれを暗黙とは言え受け入れている事もおかしい。

だが、やはり納得出来ない。

「次の仕事はまだ先よ。 適当に休みなさい。 ただ、人里からは離れていた方が良いでしょうね。 少し入れ込みすぎているようだから」

「人に害を為さないで何の疫病神だ……」

「貴方はそもそも害を為さないための修行を出来ると知ったときに、ほっとしていたでしょうに」

「こののぞき魔……っ!」

此奴が夢の世界。

つまり深層心理の世界を時々覗いていることは知っている。

だけれども、それは人にとっての最後の心の楽園だ。

妖怪や神々にとっても同じである。

やはり納得は出来ないけれど。

それでも紫の言葉は正論だし。

今は従うしかなかった。

肩を落として、人里から離れる。

しばらくは辺りの廃屋やらを点々としながら、人間と関わらないようにして過ごすことにする。

確かに入れ込みすぎている。

それは女苑にも自覚があった。

それにしても、決して有能とは言えない統治者なのに。

紫は何もかも一人でやり過ぎでは無いのか。

いや、それでか。

近年手駒を増やすのに熱心になっているのは。

守矢にモロにその辺りつけ込まれているのは、紫も自覚はあるのだろう。

秩序を作り。

幻想郷の幸福度を高めようとし。

あらゆる努力を欠かしていないことは分かるが。

どう考えても、同格の賢者達が働いていない。

だからこんな状況になっている。

だけれども、それでも外よりはマシだと思う。

取りこぼされているものがあったとしても。

雨が降り出した。

昨日はあんなに星空が綺麗だったのに。

たまによる廃屋に入る。

先客はいなかった。

雨脚は徐々に強くなって行き。

夕方過ぎには本降りになった。

廃屋である。

かなり雨漏りが激しい。

疫病神だが、身につけているブランド品は基本的に痛むことがない。もはや神の体の一部だからだ。

雷が近くに落ちた。

この様子だと、人里の警備のために、専門の妖怪が出張り始めているかも知れない。

幻想郷に来て驚いたことの一つだが。

人里を災害から守るのは妖怪の仕事の一つだ。

怖れられるのと同時に。

守護も兼ねている。

だから、この小さな世界は上手く行っているのだろう。

女苑に出来る事はない。

静かにしていると、不意に廃屋の戸が叩かれていた。

戸を開ける。

白蓮だった。

「何か用……」

「人里の川の上流で、土砂崩れが起きています。 今のうちに対処しないと、災害に発展するでしょう」

「あんた一人で余裕じゃないの?」

「いえ、かなり広い範囲での土砂崩れです。 現在河童が総動員されていますが、手が足りていません。 私もこれから向かいますが、貴方も手伝って」

白蓮の表情は静かだ。

やがて、女苑は。

自然に、頷いていた。

それから、指示された場所に向かう。

川の流れが激しくなっている。

元々幻想郷は、巨大な山岳地帯を抱えている事からも分かるように標高差が激しいのである。

こう言う場所では、河川災害が非常に凶悪に牙を剥く。

わいわいと騒いでいる雑魚妖怪達を、大物妖怪達が指揮している。

女苑が駆けつけると、其所には命蓮寺の食客の一人。

幻想郷の影を支配しつつある大ダヌキの親分。二ッ岩マミゾウがいた。

眼鏡を掛けて、葉っぱを頭に載せている彼女は。今は人里の外だからだろう。人の姿ではあるが、それはそれとして尻尾も出している。

マミゾウは的確に指示だけを出してきた。

「あの岩をどけてくれるか。 あっちの方にのう」

「分かった!」

すぐに指示通りにする。

岩をどける。泥だらけになる。ブランド品が汚れるが、どうせ神の体の一部である。ちょっとやそっと汚れたり破損しても問題ない。破損しても、人々の畏れを吸収することで修復する。

元々姉ほどでは無いが武闘派の女苑だ。姉が広域制圧を得意としているとすれば、女苑は近接戦のステゴロだけなら姉より上かも知れない。典型的なインファイターである。

少なくとも木っ端妖怪より遙かに力は強い。力尽くで大岩をどけると、すぐに次の指示が来る。すぐに従う。女苑には、こう言う場所で効率的に動ける頭がない。だからその分体を動かすのだ。

向こうでは、閃光のように何かが瞬きながら、凄い音がしている。

恐らく白蓮だろう。

「超人」と呼ばれる程の凄まじい身体能力をフル活用して、災害対策をしていると言う事だ。

雷が至近に落ちる。

モロに全身に雷撃が走り、蹂躙し尽くす。

全身から煙が上がるが、この程度なら大丈夫。神であるのがこう言うときの強みだ。妖怪と同じく、神は精神生命体。妖怪が畏れを力に変えるなら、神は信仰を力に変える。肉体の破損なんて大した事はない。分類的には邪神である女苑も、類に漏れない。

踏みとどまると、次、と叫ぶ。

大雨の中。

女苑は無言で、大岩をどけ。

或いは拳で粉砕し。

黙々と働き続けた。

 

朝方には雨は止んだ。

かなり川は濁っている。周囲には、疲れきった様子の妖怪達。大物妖怪達も、相応に疲弊しているようだった。

こう言うときは、妖怪の勢力も何も無い。

人里がなくなったら、その瞬間に滅びる妖怪も多いのだ。

人間の畏れがなければ、もはやこの小さな世界に住んでいる妖怪達は、存在すら出来ないものも珍しくは無いのである。

だから人里は守らなければならない。

暗黙の了解だ。

守矢神社が炊き出しをしてくれたので、有り難く食事を受け取る。

人員規模を把握しているのか、充分な量のにぎりめしが出る。川と縄張りが離れている妖怪達が主になって、炊き出しをしてくれたらしい。

守矢の巫女。正確には風祝の東風谷早苗が妖怪達の指揮を執っている。

その指揮の様子は見事で。

妖怪の山の顔役になっているのも納得だった。

いつもより腹が減る。まあ働いたのだから当然だろう。

気がついて手を見ると、傷だらけだった。外のギャルが見たら悲鳴を上げるだろうが。この傷は尊い傷だ。だから、女苑はぐっと手を握りこんでいた。

姉はどうしているだろう。

そう思ったが、撤収を白蓮に促される。

炊き出しの礼を守矢麾下の妖怪達に言うと、そのままその場を離れた。

寺に着く。

別に寺に来る予定はなかったのだが、言われたのだ。

ぼろぼろになっている。

せめて風呂くらいには入って行けと。

だから、その言葉に甘えることにした。

洗面所で鏡を見て苦笑いである。

確かにボロボロだ。

至近に落雷があったのである。

体を覆っているブランド品はどれも体以上にボロボロ。髪の毛も彼方此方チリチリだ。

だけれども、そもそもこれらは神の体の一部。いずれ修復する。だがそれは別として、風呂に入るのは悪くは無い。

命蓮寺の面子は、あらかた災害対策に出ていたらしい。だが、色々と後始末があるという事で、先に風呂に入ってくれと言われた。人里とも関係が密接な命蓮寺である。特に白蓮は、自警団とこれから色々打ち合わせをするのだろう。あれだけの大雨だったのだ。人里でも被害が出ている可能性は捨てきれない。

正直裸のつきあいもないし。

何より風呂で命蓮寺の面子と顔を合わせるのも気まずい。

適当に風呂を切り上げる。

服は洗濯でもしたのか、或いは力でも補充してくれたのか、修復されていた。

感謝してまた着込む。

もう神になると。

おしゃれはともかくとして。一張羅は体の一部になっている。

寺の様子を見に行くが、留守居役の鵺しかいなかった。

一礼だけして、その場を後にする。

鵺は無言で目礼だけした。

寺の中でも、新参ながら力が最も強い一人で。白蓮への忠誠心も高い自負があるらしい鵺だ。

留守居を任されたのには、相応の責任感もあるのだろう。

或いは服を直してくれたのは鵺かも知れない。

この寺に居着くつもりは無い。

だけれども。

この寺に、仇なす真似は出来ないなと、女苑は思った。

 

4、疫病神の願い

 

仕事が入った。

稼ぎすぎている者の富を削ぐ仕事だ。

そして今回は、悪人が相手ではない。

だが、それについては、別に不満も反発もなかった。

人も妖怪もそうだが。

存在には器というものがある。

善良だった人間が、不釣り合いな金を手にした瞬間。まるで裏返るように人が変わるのを、女苑は外で幾らでも見て来た。

名声も同じだ。

それまで押さえ込んでいたエゴがあふれ出して。

一気に怪物と化す。

そんなケースは、外で嫌と言うほど見てきた。

バブルの時もそう。

バカみたいな大金を手にして、後は俗悪の限りを尽くしたような輩が。金を手に入れる前は、家族思いの優しい人間だった、何てことはザラだ。そしてこう言う輩は、一度落ちてしまうと取り返しがつかない。

言われた家に行くと。

案の定、そのケースだった。

経済規模を大きくしているということだが。

その過程で、里にも金が流れ込んでいるのだろう。

変に大きな金を手にして、様子がおかしくなりはじめている。

すぐにこんな金。

放出させてしまうのが良いだろう。

器に見合わない力や金なんて、持たない方がその人のためにもいい。

人間なんか一皮剥けば全部怪物だ。

あの白蓮でさえ、深層心理にはずぼらな性格が隠れていたりするのだ。あれだけ聖人に近い存在だというのに。

すぐに家に取り憑く。

おかしくなりかけていた家の者達に、一気に金を浪費させる。

やがて、まともな状態に落ち着いてきた収支を見て。

金に目の色を変えていた商人一家は、我を取り戻したらしい。

今まで何をしていたのかという顔になり。

やがて真っ青になると。

取引先に、謝りに行き始めた。

これでいい。

悪いけれど、あんた達はこんな大金を得る器じゃなかったんだよ。

そう呟く。

或いは、紫に直接泣き所を支配されて。

そのまま傀儡に成り下がるケースもあるのかも知れないけれど。

それよりは、正気を取り戻した方がずっと良いと思う。

落ちる前に救う事が出来た。

溜息をつくと、様子が落ち着くまで、少しずつ慎重に浪費をさせる。

やはり一月ほどを掛けて調整すると。

商家の人間達は、すっかり平静を取り戻していた。

どうかしていたんだ。

そう呟きあっている。

後は紫の仕事だ。経済規模を拡大するというなら、もうちょっと丁寧に対応をしてほしいものだが。やはり手が回っていないのだろう。頼られている。そう思って、納得する事にする。

人里を出る前に、細工屋を見に行く。

入れ込みすぎるな。

そう言われていたが。

やはり心配になったのだ。

見に行くと、黙々と細工に打ち込んでいた。

時々手を止めて、じっと酒瓶を見ている。

だけれども、必死に歯を食いしばって、手を止めて。

また細工に戻っていた。

酒瓶を取りあげてやろうかと思った。

だが、そうしたら、また新しい酒を買ってくるだけだろう。

幻想郷では、外で言う明治くらいの感覚だからか、子供でも平気で酒を飲む。だからか、酒の生産量はとても多い。

社会のストレスから身を守るために有効でもあるけれども。

同時に簡単に手に入ってしまう恐ろしい麻薬でもあるのだ。酒は。

人によっては酒に飲まれることもない。

だけれども、多くの場合は酒に飲まれてしまう。

そんなものなのだ。

だが、女苑は胸をなで下ろしていた。

少なくとも、今は。

細工屋は立ち直っている。

不幸にならなければ。

きっと、数年で死ぬという事態にはならない筈だ。

疫病神が他人の不幸を心配するというのもおかしな話だが。

女苑は姉と一緒に、外で嫌と言うほど他人の不幸を見て来た。

金なんか本音で言えば大嫌いだ。

それに、幻想郷だって。

いつ、劫火に包まれるか分かったものではない。

だから、良かった。

ほんの少しでも、不幸が無くなって。

ため息をつくと、姿を消したまま人里を後にする。

此処に自分はいてはいけない。

細工屋に呟く。

もう、私なんかに近寄られるんじゃないわよ。

私は疫病神。

そんなものを引き寄せているのは、あんた自身なんだから。

それだけ、呟きたかった。

人里を出ると。人里を見下ろせる丘にある石に腰掛ける。

まだ、昨晩の大雨の影響か、少ししめっていたが。

まあどうでも良いことだ。

側に降り立つのは、妹紅。

「どうした、珍しく機嫌が良さそうじゃないか」

「そう?」

「あの細工屋な。 家の中が綺麗になってる。 きっと座敷童の仕業だって言っていてな」

気付いていたのか。

座敷童は人里にておおっぴらに受け入れられている数少ない妖怪である。取り憑いた家に福を為す。

見える人間とそうでない人間がいるが。

真実をいうのは野暮というものだろう。

「運が向いてきたって、細工の仕事を始めたよ。 腕は良いから、しばらくは大丈夫だろう」

「ずっと大丈夫だと良いのだけれど」

「それはあの男次第だ」

「……そうね」

お前には、救えない。

そう紫に言われた。

だけれども、少しだけなら、救えたのかも知れない。

そう思うと、女苑は気分が良かった。

妹紅は、気が向いたら来いという。

焼き鳥を奢ってくれるそうだ。

きっと女苑がしたことに気付いているのだろう。

女苑も答える。

気が向いたら行くと。

そして、そのまま妹紅が行くのを見送った。

疫病神は、今は仕事が無い。

そのまま、仕事が無いのが一番だった。

如何に貧しくなろうとも。

神としての存在は担保される。

疫病神は、幻想郷では充分に怖れられており。畏れはたまっているからだ。

それだけでいい。

女苑は、そう思うのだった。

 

(終)