ことだまあかね
序、ふたり
七色の毬をつきます。
数え歌とともに。
小気味よい音と共に、美しい毬が跳ねます。
十まで数えたら、また最初からやりなおし。
毬だけが、私のともだちです。
木ばりの床の上を、跳ねる七色の毬。最初は上手に出来なくて、あっちこっちにとんで、壁に当たって跳ね返るばかりでした。
その度に、広くもない部屋を走り回って、毬を捕まえるのが楽しくて。
でも、上手になってくると、毬をつけるのが、もっと楽しくなりました。
ひとつ、ふたつ、みっつによっつ。
数え歌は、誰から教えてもらったのか、おぼえていません。
口にすれば、必ずさいごまで歌えます。
しばらく無心で毬をついていると。
このまっしろに塗装された部屋でも、とても楽しく思えてきます。壁も床も天井も真っ白のこのお部屋。
跳ねているのは、毬だけ。
色がついているのは、私と毬だけ。
だけど、それがとても楽しいのでした。
壁の方から音がします。
それが合図なのだと、知っています。
「社長、準備が出来ました」
五月蠅い声と共に、呼び起こされる。
あくびをして目を覚ますと、頭を掻き回す。この長い髪の毛、鬱陶しくて仕方が無い。
さっさと着替えをして、外に。
社用車に乗り込むと、既に秘書が待機していて、手帳を開いて今日のスケジュールについて教えてくれた。
「今日は朝の九時から経済産業庁の高級閣僚会議に招かれています。 社長のお言葉で、結果の左右は十分に可能です」
「当然だな、それで?」
「十一時からはお食事会です。 イタリアの外交官が、社長に是非本場のパスタを振る舞いたいと」
「その代わり経済援助を引き出したいという訳か。 くだらんな」
午後に入っても、要人との折衝や話し合いばかりだ。その中には、海外の人間も多い。
四カ国語をマスターはしているが、喋れない言葉などいくらでもある。その場合は通訳がつくから、何も問題は無い。
エリを直して、ネクタイの状態を確認。
オーダーメイドのスーツは、しっかり糊が利いていた。
「まもなく着きます。 今日の最初の会議の場である……」
「また此処か。 説明は結構だ」
高級料亭の一つである。どうやら自分は、此処では常連の一人になるらしい。女将とは顔なじみだ。
ちなみに料理は大変美しいし、珍しい素材を使っているが、その反面味はあまりよろしくない。あくまで技巧を楽しむためのものであって、味は二の次、というのが此処の趣向だ。
何が会議か。
ごますりをするために呼び出されただけだ。
今日も、無為な一日が始まる。何のために自分は生きているのだろうと、時々思う。
学歴も経歴も申し分ない。
社会で生きるのに、これ以上無いほどの武器を備え、収入は一般家庭からみれば殿上人も同然だ。
欲しいと思えば、得られないものなどない。
殺そうと思えば、相手を簡単に社会的に抹殺できる。多分犯罪の類に手を染めても、もみ消すことは難しくもないだろう。
料亭に入ると、もみ手をしながらいい年をした大人達が出迎えてくれる。
鷹揚に頷きながら席に着くと、料理の説明を受けた。他の要人達がわいわいと席に着く中、茶番に等しい会議が始まる。
話を聞いていると、今回も利権をどうむさぼり喰うかというような、くだらない話だ。
そんなに金が欲しいのなら、手なんていくらでもある。
どうせ個人で使い切れないのに、そんなにほしがってどうするのか。
今、ネットを飛び交っている金は、兆の単位を飛び越えてしまっているとさえ言われている。
普通に使おうと思えば、愕然とするはずだ。あまりの実体経済との格差に。
それでもビジネススピードは白熱する一方。何かがおかしいと、誰かが思わないと、いずれリーマンショックなど比較にならないほどの、とんでも無い経済危機が訪れかねない。しかも、世界規模で、だ。
そうなったとき、地上の文明は、どれだけのダメージを受けるのだろう。
それを考えもせずに、利権の漁り会いに興じている連中が、滑稽でならなかった。
くだらない会議を終えると、食事会とやらに出向く。
どこへ行っても、同じ扱いしか受けない。
退屈は、日常を一色で染めていく。
さながら、真っ白の、何も無い日常と同じだった。
1、手まり歌
ひとつはこどく、ふたつはこどく。みっつはこどく、よっつはこどく。いつつもむっつもななつもこどく。やっつはこどくで、きゅうまでこどく。じゅうになっても、こどくはこどく。
どれだけのっても、こどくはこどく。
ひとはこどく。ちがうとおもうは、ただのさっかく。
ああ、かんちがい、かんちがい。どこまでいっても、ひとはこどく。ひゃくまでいっても、こどくはこどく。
手まり歌を終える。
遙か昔、聞かされた歌。
虚無的な歌だ。どこの地方の歌かも分からない。比較的新しい表現が使われているから、創作の歌かも知れないけど。
面白いのは、どれだけ集まっても孤独、というフレーズだろう。童謡にしては珍しい、とても怖い歌詞だ。
だが、良く耳に残っているこの歌が、だいすきなのだ。
明るい性格だと周囲から言われる金井聡子にとって、この歌は気がつくと口ずさんでいるほど、日常的な親しみを覚える歌だった。
ただし、小学生の頃、歌ったら周りからどん引きされて、それ以降は歌詞を口にしないようにはしている。
孤独は悪いことだと、誰もが思っている。
そして、世間一般の価値基準からすると、この歌詞は異常なことも、聡子は知っている。だから、それを口にしないほどの分別は、身につけていた。
授業が終わったので、これからバレー部の夕練だ。
大会が近いので、皆気合いが入っている。着替えをしながら、いつもの手まり歌をリズムだけ口ずさむ。
そうしていると、緊張も和らぐ。
アタッカーである聡子は、試合時に集中が求められる。背は低いが、跳躍力は人一倍で、相手のブロックの上をぶち抜いて敵陣にボールを叩き込むのが、聡子の仕事だ。クイック系の技術もあるにはあるが、やっぱり相手の防御を真正面から貫通してこそ、アタッカーの本領だろうとも思う。
「聡子、行ったよ!」
「はーい!」
声を掛け合う。
だが、聡子にとって、これは記号だ。笑顔をどれだけ浮かべていても、他の人はみんな記号にしか見えていない。
ただ、これは他の連中も同じの筈だ。
今の時代、人を記号分けするのが当たり前だからだ。アニメ風に言えばやれツンデレだのヤンデレだの、女子の中で言えば癒やし系だとか、時代に伴い多少の変化はあれど、他者を記号付けするのは当たり前だ。
その記号が重なって、人間が作られていると、本気で考えている奴も多い。それを聡子は、同級生達と話していて、知っている。
セッターが打ち上げたボールを、最頂点で真芯に捕らえる。
全身の力を込めて振り抜き、敵陣に叩き込む。
小気味よい音と共に、ボールが跳ねた。練習だから敵陣にレシーバーはいないが、今のは簡単には取れないだろう。
着地と同時に、ポニテにしている髪が揺れた。
今日は絶好調だ。チームメイトとハイタッチする。
このまま行けば、県大会の突破も夢では無いかも知れない。バレーボールは裾野が広い競技だが、それだけに勝ち抜くのは難しい。
汗を流しながら、次のセット。
今度はクイックアタックだ。いくつかあるクイックの中から、Bクイックを練習する。
クイック系の攻撃は、低いトスからの速攻だ。見かけがとにかく早いが、その分制御が難しく、拾われると一気に危地に陥る。しかし、これを綺麗にこなせるようになると、四方八方から敵陣に猛攻をたたき込める。
ただし、それにはアタッカーが複数いる事が前提だ。実際には得意分野を磨いた方が選手が伸びることが多く、何でも出来る選手なんて贅沢なものは、強豪校くらいにしかいない。
アタッカーが一人しかいなければ、いかなる戦術を駆使しようと、攻撃はとても読みやすくなる。
聡子の他に、部活では二人アタッカーがいるが、どちらも予備程度の戦力にしかなっておらず、試合ではかなり微妙な立ち位置になる。聡子はだからこそ、相手のガードを力尽くでぶち抜けるパワーが求められる。
「よーし、次!」
練習が、熱を帯びてくる。
結局七時過ぎまで激しい練習を繰り返した後、上がる事となった。二年生の聡子は良いが、一年生はみんなへばっていて、声も出ない子もいた。
「帰りはみんな集団でね。 物騒だから」
「はーい」
チームの中心点になるセッターをしているキャプテンが言うと、黄色い声で返事。みんな、終わったことが嬉しいのだ。
無茶な練習量だが、これは前回の大会で、県大会のベスト4まで行ったことが影響している。今回こそはと、誰もが張り切っているのだ。
特にキャプテンは、この大会が最後になる。気合いの入り方は、誰よりも凄かった。このために、今回の中間試験を捨てているという話さえある。本当に、ある意味人生をかけているのだ。
だが、部活の他のメンバーは、どうなのだろう。
漫画じゃあるまいし、心なんか一つにならない。利害関係が集まって、一つになっているように見えるだけだ。
そう聡子は考えている。
何人かのクラスメイトと、一緒に帰る。二駅となりが多いのだが、聡子の所は四駅となり。
住宅街だから治安は良いし、警察も巡回している。
それでも、この時間は、少し遅かった。
薄明かりの中、街灯が瞬いている。そろそろ街灯にはムシも集らない時期だ。少し家まで急いで、寄り道しないで帰る。このくらいの時期でも、平気で怖いもの知らずな夜遊びをしている子もいるが、それはそれだ。
家に着くと、家族はもうみんな揃っていた。
冷めてしまった夕食を温める。弟は自室でゲームをしているようだ。母は部屋でドラマを見ているし、父は疲れたのか先に寝てしまっている。
こういうとき、あの手まり歌を思い出す。
人間は、所詮こどくの存在。
かって、家族が居間に集まってテレビを見ていた時代があるとか、聞いたことがある。だが、その時代だって、考えている事が違っていたとは思えない。
シャワーを浴びて汗を流すと、洗濯機に汗まみれの体操服を放り込む。明日用の体操服を鞄に入れると、もう疲れて何も考える事が出来なかった。
幸い進学校じゃないから、宿題はない。
ベットに潜り込むと、大あくびをする。明日も朝練。しかも五時には起きないと無理だから、頑張るしかない。
ぼんやりしている内に、目覚まし時計が鳴った。
疲れは取れている。
だが、これから朝練だと思うと、少し憂鬱だった。誰も起きていない中、起き出す。朝練がある場合、食べないと軽く死ねるので、無理矢理口に突っ込む。バナナがあったので、丁度良いから二つ食べると、歯を磨いて、髪を整えて、家を出た。
始発の電車に乗って、学校へ。
あくびをしている内に、もう到着。昔は意地を張って制服で登校していたが、最近はジャージでの登校が当たり前だ。制服は鞄に放り込んでおいて、朝練が終わってから着替えるのだ。
学校への道で、他の部活の子を見かける。
バレー部だけではなく、他にも強い部活がいくつかある。それだけではなく、バレー部の活躍を見て、がんばりはじめた部活もあるのだ。一つの部活が、他の部活を、活性化させることもある。
学校に着くと、既にキャプテンが柔軟をしていた。
彼女は長身で、一年の頃はブロック専門だった。ライン際で相手の攻撃をはじき返すのが、彼女の仕事だった。
だが今では、ブロックも出来るセッターになっている。高い背からは変幻自在のトスが出せるので、アタッカーとしてはやりやすい。
良くしたもので、キャプテンも背は低いがバネが強い聡子を、便利だと思って利用しているようだ。
お互い様である。
利害の一致という奴だ。
キャプテンに並んで、柔軟をする。
おいおい他のメンバーも来た。今回の大会は、二年生のレギュラーだけでやることが、ほぼ決まっている。
しかしそれでも、控えは重要だ。
激しいスポーツであるバレーボールは、負傷者を出しやすい。ドッジボールほどではないにしても、格闘技的な要素がないとは言えないし、強烈なアタックを受けると、箇所によっては負傷もしやすい。
キャプテンはジャンプサーブを得意としているが、それでもサーブ権が廻れば他の人間がサーブをしなければならないし、決して必殺とは行かない。昔とはルールが変わってきていることもあって、如何に強力な選手が一人いても、勝てない時代になってきているのだ。
「聡子、調子は?」
「平気だよ、里奈」
「今日は朝から百本行ってみるか?」
「時間が足りないよ」
冗談だと、キャプテンは言うと、柔軟を終えて立ち上がる。
これからみんなでまず走る。
一試合をやるには、体力は充分ついている。しかしそれでも、大会を何日かやっていくうちに、どうしても疲労が溜まっていく。
それを緩和するためにも、体力はいくらでもあった方が良い。
筋肉がつきすぎると、今度は体が重くなったりもする。だが、聡子が調べた範囲では、この程度の鍛え方なら大丈夫だ。
一年生達を、キャプテンが叱咤。
遅い、と言うのだ。確かに、朝起きれなくて、遅刻してくる一年生も多い。
だが、スポーツでものをいうのは素質だ。相当量の訓練をこなせば素質のある相手に勝ることもあるが、それには文字通り血がにじむような努力をこなす必要が生じてくる。プロ野球選手などは、みんな幼い頃から鍛えているスポーツのエリートなのだ。そう言う人達になってくると、多少素質がなくても、努力で充分カバーしていると言える。
だから、努力は重要だ。
ただ、悪しき慣例、というのもあるだろう。
キャプテンは先輩から、散々怒鳴られてきた。今度はそれを後輩に向けているだけ、というのもあるかも知れない。
まあ、キャプテンになればやりたい放題、というわけだ。
軽く走り込みをする。とはいっても五キロほどだが。走り込み終わった後は、それぞれのメニューへ。
レシーブ、トス、アタック。サーブに、クイックアタック。それぞれ、順番に練習していく。
聡子はレシーブが苦手だが、それはレシーバーに任せるので、こぼれ球を拾う練習にむしろ注力する。レシーバーの子達は守備範囲を広げて、アタッカーやセッターをカバー。そういった形で役割分担をする方が、人材が足りない小規模チームではむしろ強い。
一年生達を見ていると、アタックが出来そうな子が、何人かいる。聡子もそのうち抜けるのだから、いずれアタッカーの座を譲ることになる。
ただし、凄い才能のある子、はいない。
「あんたくらい出来る子がいればね」
「何事も、練習でしょ」
アタックの練習を終えた後、聡子はもう一本柔軟を入れる。
そろそろ、授業が始まる頃だ。
てまりうたを、口の中で呟く。
それ、何の歌と、聞かれることが時々ある。昔聴いた歌と答えると、大体題名を聞かれる事になる。
だから、良く覚えていないと答えることにしている。面倒だからだ。
実際題名は知らない。
そもそも、これが創作の歌という可能性もあるのだから。
退屈な授業で集中するためには、てまりうたは欠かせない。一セット歌い終えて、もう一セット口の中で歌うことも珍しくない。
それだけ、この虚無的な孤独な歌は、聡子にとって大事なものなのだ。
或いは、聡子の虚無的な考えも、この歌に起因しているのかも知れない。だけど、それは構わない。
この歌を否定する奴とは、明確な敵だという線引きを行うからだ。
授業が終わると、今日もバレー部の練習に出る。
練習に出るとき、クラスメイトに好意的に声を掛けられる。頑張ってねと言われて、笑顔で返す。
だが、知っている。
これは相手も、好意からやっているのではない。
頑張っている聡子に好意を向けている自分がかっこいいと思っているだけだ。また、聡子もその自尊心を満足させるために、挨拶を返している。作り笑顔なんて、小学生にだって出来る。
女子の世界は、男子が思っているより遙かに過酷だ。その過酷なラインをクリアできないと、いじめのターゲットになる。そしていじめを行う連中は、自分が悪いのではなく、ラインを超えられない方が悪いと本気で考える。
だから、みんな心に仮面を被る。簡単な理屈なのだ。
部室に出ると、鞄を下ろす。
今日は八時くらいまで、やれるのならやりたい。軽く部室の中で柔軟を行って、机にずっと座っていて固まった体をほぐす。それから体育館に出た。
一番早く来ているのは、やはりキャプテンだ。最近は大会での実績が評価されて掃除とかをかなり免除されているらしい。
それを悪く言う声も聞こえてくる。
キャプテンはセッターとしては有能だし、バレー部のキャプテンとしても他に人材はいないと断言できるが。
しかし、見ていると、女子としての力は不足気味だ。
内外に敵を作りすぎである。
まあ、聡子としてはどうでもいい。もうすぐ引退するのだし。次の大会で勝てれば、後でキャプテンがどうなろうが、知らない。
「聡子、早いね」
「練習、しようか」
「ああ」
だが、表向きはにこやかに会話する。
女子なんて、そんなもんだ。漫画で書かれている絆だとか仲間だとかが嘘っぱちだと気付くのは、大体小学生くらいだろう。
だから日朝の女子向けアニメなんか、小学校低学年で卒業する。
女子同士の友情なんか存在しないと知っているから、一部の女子は夢を同性愛に仮託したりもする。
おいおい集まってくるメンバーに、キャプテンが指示を出している。
それが終わると、練習開始だ。今回は一軍に軍に別れて、試合形式での練習。一年は良いところを見せようと必死だが、残念ながら力が違いすぎる。
部発足当時は、少しばかり本気でアタックを叩き込むと、怖がって泣いてしまう子まで出ていた。
今は流石にそれもないが、アタックに反応できても、レシーブまではいかない。
むしろ聡子が全力でアタックに入ると、逃げ腰になるのが露骨に分かる。キャプテンが、角を生やして怒り始めた。
「何だその逃げ腰っ!」
「すみませんっ!」
部活に顧問はいない。
強豪になると、指導のためだけに実績のある顧問を雇っている場所もあるが、この部は先輩から後輩へ、「良き伝統」を受け継いできた。
とはいっても、強くなったのは去年の末くらいからだから、その言葉は甚だ疑わしい。そう言っておけば二年生がのうのうとできるからという事情が大きいだろうと、聡子は思っている。
一年生が説教されている間、手まり歌を呟きながら、アタックのイメージを作る。他人の説教など聞いても気分は良くないし、何よりどーでも良いからだ。聡子だけではなく、みんなそう思っているのは明白だ。
がみがみ怒っていたキャプテンが、人員入れ替えを指示。一軍と二軍をごっちゃに混ぜた。
聡子とキャプテンが同じチームだと強くなりすぎるからだろうか、こういう場合は分けるのが暗黙のルールだ。
一年の中で一番背が高い子が、セッターになる。
だが、この子はまだ経験が浅く、何よりびびり腰なので、判断が遅い。だから、最初から期待していない。
「つなぐだけで良いからね。 後は私が、クイックなりアタックなりにつなげるから」
「はいっ!」
信頼された、と思っているのだろう。嬉しそうにセッターの子は破顔した。
だが実際は、どうでもいいから、トスだけはしろと言っただけなのだが。
トスが上がる。
アタックを全力でぶち込む。一年の子よりは、レシーバーもだいぶ手応えがある。普通にアタックを叩き込んだだけでは拾われるし、力が劣るとは言え相手もアタックを掛けてくるから、カウンターが痛い。
総力で負けていると、勝てないのがバレーだ。
それでも、アタックのパワーで、ボールをねじ込む。顔面でも狙ってやろうかと一瞬思ったが、流石に止めておく。
一瞬の感情で動くと損だ。
男子がやっている恋愛ゲームを見ていると笑ってしまう。女子を記号で表せるとても単純な生き物だと思っているからだ。
実際は、日常のあらゆる細かい事が、駆け引きになっている。
もっとも、記号化するのは女子も同じだ。
駆け引きが複雑なだけで、中身は変わっていない。どっちもくだらない生き物だと、聡子は思っている。
良いところにボールが上がったので、全力でアタックを叩き込む。
キャプテンが受け損ねて、ボールがあらぬ所に飛んだ。丁度練習中の他の部活の子の後頭部を直撃し、ぶっ倒れる。
練習一時中断。キャプテンが謝りに行った。
試合を一セット終えると、また人員を入れ替えて、試合になる。
聡子と同じチームに入った子が、ほっとしているのは、アタックを受けたくないからだろう。
分かり易くてほほえましい。
だが、ほっとしている奴には、一人ずつ後で全力でアタックを叩き込んでやるので、どうでもよいのだが。
「聡子先輩のアタック、怖いです」
「んー? どうして? 顔とか狙ってないよ?」
「それは分かるんですけど」
休憩時間中に、後輩が生意気なことを言う。
こいつにも後でぶちこんでやろうと、聡子は思った。勿論思ったことなど、絶対に顔には出さない。
さて、大会に向けて、もう少し頑張ろう。
そう決めると、休憩を切り上げた。
2、手まり歌の家
手まりをつく音がする。
誰も住んでいないはずの家から。
生唾を飲み込むと、山奥のその廃屋に踏み込んだ。こんな所に、まさか来ることになるとは思わなかったが。
歌が聞こえた。
「一つは孤独、二つは孤独……」
子供の声だ。だが、どの単語も、とてもはっきりしている。
床は朽ちかけ、天井には蜘蛛が巣を張っている。かさかさという音がしているのは、鼠がいるからだろうか。草が生えてきている箇所もあった。昼だというのに、空気が暗く、重い。
動悸を整えながら、奥へ歩く。
革の靴が、朽ちかけた木を踏むたびに、大きな音がした。
「どれだけ乗っても孤独は孤独……」
辛気くさい歌だ。
だが、どうしてだろう。とても懐かしい。ネクタイを締め直すと、奥へ歩く。どうしてだろう。
この家には、かって住んでいたような気がする。どこに何があるのか、手に取るように分かるのだ。
「どこまで行っても、人は孤独。 百まで行っても、孤独は孤独」
「気味が悪い……」
呻くが、歌は止まらない。
また最初に戻る。そして、毬をつく音も、ずっと続いていた。
音がしている部屋の前に立つ。朽ちかけた障子の向こうに、闇が見えた。窓がついている部屋。
いや。この部屋は。
窓が。
障子を開けようとして、気付く。
木枠に鉄格子が填められている。さび付いた南京錠。これを壊さないと、開けられないだろう。
何か使えないかと思って、手元にあるジュラルミンの鞄に気付く。
何度も、南京錠にたたきつけた。破壊音がしているのに、中から聞こえる手まり歌は止まることがない。
歯を食いしばった。ヤケになっているのが分かる。どんどん攻撃が、手荒くなっていく。
南京錠が、壊れて落ちた。
呼吸を整える。
障子を、開けた。
しばらく、それが何かを、理解できなかった。
ぶら下がっているのは、テープレコーダーだ。繰り返し音を再生するように、仕掛けられている。
床は。
木張りの床は、わざわざ白く塗装されている。それだけではない。これは、つい最近、わざわざ張り替えて、色を塗り直している。
廊下や天井は埃っぽいのに、人が立ち入った形跡があるという事だ。
部屋に入ると、テープレコーダーを下ろす。音声再生機能がついている奴で、なんとカセットが入っている。
停止して、一息つく。これは、此処につい最近、しかも下手をすると昨日今日、来た奴がいるという事ではないか。
「中島!」
部下を呼ぶ。外には刑事も待機させている。何ら危険はない。
彼らが見てくると言い出したのだが、自分で先に入ったのだ。呼ばれて、すぐに会社の荒事を担当している部下達が来る。
いずれも、強面の大男ばかりだ。
「何ですか、この気味が悪い部屋は」
「さてな。 調べておけ」
「何か犯罪が?」
「分からん」
自分だって、分からない。だが、ここに来なければならないような気がしていたのだ。
この家は、たくさんある財産の一つ。自分の財産である家に足を踏み入れる事が、悪い筈もない。
後から来た警察の人間が、小首をかしげながら事情を聴取する。
大企業の社長が相手だから、無碍にも出来ないという風情だが。しかし、気に入らない様子が目に見えた。
「我々も暇ではないんですがね。 此処で何か事件が?」
「分からん。 ただ、調べてみてくれ」
「何をですか。 それに調べるなら、どうして我々を先に入れてくれなかったんですか?」
答えず、部屋を出る。迷惑そうに、警察が後ろ姿を見つめていた。
外はぼうぼうと茂った茅の野原だ。そろそろ風が冷たくなってくる時期で、スーツが傷みかねない。
山奥だから、道路まで出るのにも、かなり時間が掛かる。
道路では、退屈そうな運転手が、リムジンで待っていた。SPと一緒に車に乗り込む。手には、カセットテープがあった。
「出してくれ」
リムジンが出る。後部座席に深く座ると、カセットテープを見つめる。
気味が悪い手まり歌が、どうしてずっと再生されていたのだろう。古めかしい機器は、もはや骨董品の域に入る代物だが。
やがて、山を出て、明るい道に出る。
ふと、視線を感じた。
振り返るが、当然誰もいない。安堵したのは、何故だろう。
子供にでも、見つめられていると、思ったのか。
否。
見つめているのは。
「何だか、化け物でも出そうな廃屋だと聞いていますが」
「化け物なんか、この世にいるものか」
もっと恐ろしい人間という怪物がいるのだ。
化け物など、この世にいる余地はない。いたとしても、あっという間に人間に駆逐されてしまうだろう。
隣にいる秘書に、カセットテープを渡しながら、聞く。
「明日の予定は」
「予定通りです。 例の試合を観戦する時間も、一時間ほどねじ込んでおきました。 夕方からになります」
「そうか」
不快感を刺激された。
目を閉じると、仮眠する。次の仕事は、どうせろくでもないのだ。
それなら、移動中に眠っておいた方が良い。サラリーマンなら次の仕事に備えておくべきなのかも知れないが、最近はそれもどうでも良くなりつつある。
しばらく眠っていると、車が不意に止まった。
目を開けると、慌てた様子で運転手が言う。
「渋滞に巻き込まれた様子です。 すぐに別経路を探します」
「急いでくれ」
「念のため、取引先に連絡を入れておきます」
秘書が、慌ただしく連絡を入れはじめる。
もっとも、取引先は、此方より立場が下だ。別に遅れたところで、不快なことにはならないだろう。
最悪の場合、キャンセルしてしまってもいい。
車のフロント硝子越しに、渋滞している様子を確認する。携帯電話を取りだして、渋滞について検索する。
どうやら、事故による渋滞らしい。
日本の場合、渋滞が起きてもクラクションが飛び交うようなことにはならないが、それでも渋滞自体が鬱陶しいことは確かだ。
だが、今回は、むしろそれで良いかもしれない。
「また眠る。 ついたら起こしてくれ」
「かしこまりました」
秘書に言うと、もう返事を聞かず、眠りはじめている。
最近は、器用に眠れるようになってきた。
昔は、どうだっただろう。
思い出せない。
県大会の当日が来た。
この県はバレーボールがそれなりに盛んで、強豪校と言われる場所も、複数存在はしている。
それらと連続で当たることになると厄介だ。
バレーボールは一試合ごとの時間が掛からないこともあって、大きめの体育館で複数コートを利用できる場合、一日で試合が終わることも多い。
今回は二日がかりの大会だが、それでも、強敵との対戦だと後にダメージと疲労が残りやすい。
キャプテンが、籤を引きに行く。
トーナメント表の左右に、順番に張られていく高校名。
強豪同士が二つ、一回戦でぶつかる事になった。これはラッキーだ。勿論向こうにとってはアンラッキーだが、それを喜ぶくらいの図太さが此処では求められる。勿論、顔に出しては喜べない。
そう言うことをしていて、スポーツマンシップにもとるという理由で、大会から除外された高校も実在しているのだ。
「あ、決まったみたいです」
目が良い後輩の一人が指さす。
確かに、張り出された。強豪校の一つと三回戦で当たる可能性が高いが、それ以外は決勝までぶつからない。
トーナメント表の反対側に、強豪校が集中している。これはまず、これ以上無いラッキーだとみて良いだろう。
「じゃ、一回戦行くか。 油断して負けたとなると、笑い話にもならないからね」
「分かりました!」
キャプテンが戻ってくる前に、後輩達に声を掛けておく。
さて、此処からだ。
今回は、くじ運には恵まれた。だが、運はついているときがピークだとか言う話も聞いたことがある。
これ以降はラッキーには恵まれないと思って、動いた方が良いかも知れなかった。
キャプテンが戻ってくると、マネージャーを呼んで、対戦高校の特徴を説明させはじめる。
試合まで少し時間がある。こういう対策を立てておくのは、とても大事なことだ。
「一回戦の相手は、既に強豪と呼ばれなくなって久しいですが、それでも伝統あるバレー部を有している高校です。 油断はしない方が賢明かと」
「分かった。 全力でぶっ潰せば良いんだね?」
「聡子、後輩が怖がるでしょ?」
「はーい」
手まり歌を、口中で呟く。
後輩なんか、どうでもいい。今回はキャプテンと同一チームだから、アタックのタイミングは期待出来る。
いきなり控えが必要になるという事態は当然想定しておかなければならないが、それ以外は二年生で固めた編制だ。レシーバーにも当然期待出来る。
試合が始まる。
相手の選手は極端な低レベルこそいないものの、それほど強い子もいないようだ。サーブは最初向こうからだったが、さほど力がある訳でも無く、変化が掛かっているわけでもない。
軽くレシーブからトスにつなげ、まずは全力でのアタックを叩き込んだ。
相手の戦意を削ぐためだ。
拾えず、相手が固まるのが分かる。
舌なめずり。これで、此処からはある程度力を抜いて戦える。戦力を最初に見せつけることで、戦意を削ぐのは有効な戦術だ。
だが、相手も古参高。一瞬で心を折るには至らなかった。きちんと動くし、反撃もしてくる。
昔のルールに比べて、今は得点を取りやすいという事もある。此方の分厚いレシーブも、何度か破られて、得点される。有利な戦況のまま試合は推移していくが、油断すると確かに危ない試合だった。
結局3セット先取のストレート勝ちで、試合終了。
三回戦に当たると思われる強豪校は、もう少し早く勝ち抜いていた。試合を見に行っていたマネージャーが、教えてくれる。
「かなりレベルが高いアタッカーが二人います。 Bクイックが強烈ですね。 二人とも相当に練習していますし、セッターとの連携もかなり強いです」
「厄介だな」
つまり、二カ所からの速攻を警戒しなければならない、という事だ。それだけレシーブもしづらくなる。
順当に行けば、今日の最終試合の相手だ。
「二回戦の相手は?」
「一回戦に比べると、平凡な相手です。 二人そこそこの選手がいますが、普段通りの力を出し切れば、さほど苦労せずに下せると思います」
「聞いての通りだ。 勝つのは難しくないかも知れないが、油断するとそれでも危ないだろうね。 だからみんな、油断するんじゃないよ!」
「おうっ!」
かけ声を入れると、コートに入る。
相手チームは、一回戦の試合で、相当に消耗したらしい。多分力が同じくらいの相手だったのだろう。
力が拮抗していると、試合では消耗が激しくなる。駆け引きが複雑化するし、試合そのものも長引くからだ。
控えが重要になってくるのは、この辺りからもだ。だがキャプテンは、今のチームメンバーの体力に自信があるのか、二回戦でも控えを使うとは言い出さなかった。聡子としては、最初から全試合でアタックを敵陣に叩き込むつもりだったから、別にどうでも良いことなのだが。
試合が、始まる。
だが、力の差が最初からある上、相手の疲弊が酷いのである。結果は見えていた。
案の定、一方的な展開になった。
瞬く間に一セットを先取。
相手のチームが戦意を喪失するのが、手に取るように見えた。泣きそうになっている子もいて、そそられた。
多分、人間の性だろう。
どんなに教育しても、どんなに分別を付けても、弱い者いじめはどんな社会でも起こるとか聞いている。世界的にもモラルが優れているとか聞く日本でさえ、だ。人間ってクズな生物なんだなあと、内心楽しんでいる自分を自覚しながら、聡子はそう思う。その筆頭は自分だ。
だがそれでもキャプテンは容赦せず、試合の最後まで躊躇無く全力で戦うように、指示を出し続けた。
てまり歌を呟きながら、敵陣にアタックを叩き込む。
二セット目を連取したとき、敵チームの士気がついに折れた。最後まで、試合の流れは変わることがなかった。
スポーツドリンクを口に含むと、ぼんやり他の試合を見つめる。
三回戦で当たると思われる強豪が、二回戦で思いの外苦戦しているのだ。次の試合までに、まだ時間はありそうだ。
「相手のチーム、粘るね」
「どっちが相手になっても、手強そうですね」
マネージャーとキャプテンが話をしているのを、聞き流す。わかりきっていると思うからだ。
どうもダークホースとして上がって来た弱小高は、一回戦で控えを使っていた様子なのだ。それを可能にしたのは、緻密な試合の組み立てを、キャプテンが行っているからだろう。多分他の部活からの助っ人らしい控えでも、一回戦は勝つことが出来たのだ。相当な手腕だと見ていい。
強豪校は一セット取るごとに取り替えされ、ついに最終セットにまで持ち込まれている。かなりキャプテンが焦っているのが見て取れた。
一方、弱小高の方も、頑張っているとは言え、疲弊が激しい。
これは、かなり運が此方に向いてきているかも知れない。
焦る強豪。それに対して、ダークホースの方は、着実にボールを拾い、確実に点を取る作戦を採ってきている。
これは、勝負あったか。
案の定、強豪校が一度失敗したアタックを拾われると、完全に流れが変わった。逆転され、一気に追い詰められる。
八分後、勝負がついた。
優勝候補が、まさかの敗退である。
休憩時間を挟んで、あのダークホースチームとの勝負になる。
これは楽しみだ。戦意を失った相手をぶちのめすのも面白いけど、ああいう相手に遠慮無く全力でアタックを叩き込むのも、また面白そうだからだ。
「また楽しそうだね、あんた」
「ん、顔に出てる?」
キャプテンに言われたので、表情を引き締める。
実際の所、聡子にとって、勝敗はどうでもいい。必要なのは、この殺意にも似たよく分からない攻撃性を、発散できることだ。
ただし、それを露骨には出せない。
少なくとも、快活な性格を装っておいた方が良いのは、よく知っている。
この社会では、内向的というだけで、迫害の対象になるのだから。たとえ、周囲がそうさせていたとしても。
試合が開始される。
これが終われば、今日の試合は全部終了だ。明日の第四試合は、内容を見る限り単なる消化試合だ。第五試合に勝ち上がってくるのは、どの強豪校でもおかしくないが、消耗は決して小さくないはず。
それくらいは、チームの誰もが分かっている。
キャプテンが、切り札を出す。
最初から、ジャンプサーブを相手陣に叩き込んだ。全国レベルの選手にも負けないと豪語しているだけあって、パワーもスピードも段違いである。
受け損ねた相手が、ボールを弾く。
相手のキャプテンは冷静だ。何か、隠し球があるのかも知れない。
それは、試合が進んでいく内に、じわじわと見えてきた。
相手チームが、全く怖がっていないのだ。確かにやや有利という風情で進んでいる試合なのだが、どうも変だ。
タイムを取ったキャプテンが、皆を見回す。
「次、Bクイック」
「それも良いけど」
「何か良い策でも?」
視線で、さっきから良い動きをしているレシーバーを指す。
相手チームには、そこそこ使えるアタッカーが二人と、レシーバーに徹しているのが三人いる。
その中の一人が、ちんまいが、かなり良い動きをしている。守備範囲も広く、最初は聡子のアタックに反応できていなかったが、今は三回に一回は反応している。そのうち、二回に一回は拾えるようになるだろう。
「あれ、集中的にアタック仕掛けていい? 潰すわ」
「……」
聡子が皆の目の前で、攻撃的な物言いをする事はあまりない。思っていても口にはしないからだ。だからこそ、言葉には迫力が出る。
皆が青ざめているのが分かる。
普段から、どうしても、攻撃性はにじみ出る。
後輩だけでなく、同級生もどこかで聡子を怖がっていることを、知っている。だから普段は快活な皮を被っているのだが。
こういうときは、本性を少しは見せるのが効果的だと、聡子は経験的に知っている。
「駄目だな」
「どうして?」
「相手チームの体力、無尽蔵だとみて良いね。 あの強豪雛森西の攻撃を耐え抜いて、ちょっとの休憩でも平気で動き回ってる。 アタックを集中的に仕掛けても、多分耐え抜かれるよ」
「ふうん……」
体力が持ちこたえるとしても、耐久力はどうか。それを、敢えて口にはしなかった。
試合が再開される。
Bクイック狙いの、良いタイミングでのトスが上がった。さっきから狙っている相手は左腕に当てて跳ね上げるようなレシーブをよくしている。
そして、それは雛森西の試合でも、同じだった。
レシーブを、余裕を持ってこなした相手が、返してくる。
その瞬間、レシーブを介さず、飛んできたボールに直接アタックを叩き込む。
意表を突かれたのか、件のレシーバーが受け損ねる。ボールが大きく跳ねて、此方の得点になった。あとちょっとで顔面直撃だったのだが、まあこんな所だろう。青ざめているのが分かった。
さっきまでと違って、こっちの攻撃に本気の殺気が籠もっていることに、気付いたのかも知れない。
次も、次も、その次も、フルパワーでのアタックを叩き込んだ。
流石に汗が酷くなってきた。
だが、相手が、露骨に左腕をかばいはじめたのが分かる。怯えはじめているのも手に取るように分かる。
もう一度。
骨ごと、心をへし折ってくれる。
だが、そこで、相手のキャプテンが、不意に飛び出し、レシーバーをかばう。
だいぶ技術は落ちるようだが、それでもどうにか一撃は凌いで見せた。相手チームがタイムを取る。
やはり、腕の負担が相当に掛かっていたようで、テーピングをしている。
此方を見ながら、相手のチームが何かを話しているのが分かる。あの子ヤバイよとか、どうするとか、そんな声が聞こえた。
不快なのは、相手のチームが互いをかばい合っているのが、見て取れる事だ。友情ごっこで試合を勝ち抜いてきたとでも言うつもりか。
女の友情なんて、同じ男を好きにでもなれば、瞬時に殺意に早変わりするような代物だ。虫ずが走る。
「聡子」
「はーい」
「審判が見てる。 あんまりやり過ぎると、スポーツマンシップにもとるって、退場させられるよ」
「分かってますって」
もう、充分に脅かした。
確かに審判が此方を見ている。あまり好意的な目つきではない。このまま相手を潰すためのアタックを続ければ、いずれ此方に不利な裁定が来かねない。
少し頭も冷えてくる。
この世は所詮理詰めの世界。
手まり歌を呟く。感情を乱すなど、自分らしくない。乱した感情は、自分の中に閉じ込めれば良い。
孤独。孤独。ただ孤独。
目を閉じて、真っ白な世界をイメージする。
それがどうして孤独につながるのかはよく分からない。だが、それこそが、聡子の中の、孤独なのだ。
試合が再開される。
相手のチームが、守備範囲を変えてきた。集中攻撃を避けるつもりなのだろうが、却って隙が出来た。
だが。
開始早々にアタックをぶち込んでやったのだが、目に見えて動きが良くなった。拾われる。
逆に、相手がアタックを返してくる。舌打ち。聡子のアタックに比べれば、たいした破壊力ではないが、それでもじわじわ効いてくる。
どういうことだ。
さっきのレシーバーをかばうように、一人ついている。
まさか、後ろにいる味方が、勇気をくれるとでも言うつもりか。
「聡子!」
「はいはい、分かってます」
キャプテンに叱責されて、我に返る。
いらだちは敵だ。相手がやっているのは、所詮は友情ごっこ。人間の感情など、一方的なものにすぎないのだ。
呟くのは手まり歌。
普通にやれば、負けない相手だ。むしろムキになれば、それだけ相手に対して隙を作る事につながる。
それこそ、相手の思うつぼだ。
絶妙のトスが上がったので、Bクイックを打ち込む。
相手に拾われることなく、通った。
見ての通り。
冷静になれば、友情ごっこなどに、負けることはない。
だが、試合は長引きに長引いた。
結局相手に2セット取られて、最終セットまで粘られた。試合はどのセットも終始優勢だったにもかかわらず、だ。
最終的に勝ちにはかったが、二点差まで追いつかれた。どこまで粘るのか、考えられないほどだった。
いらだちが、やはりくすぶり続ける。
試合後、げっそりしているチームメイトを集めて、キャプテンが反省会を開く。聡子も、体力的にはもう余裕が無い。
「勝ったけど、相手のチームには学ぶことが多かった。 言うまでも無いね」
「連携が凄かったねえ」
うんざりしきった様子で聡子が言うと、咳払いするキャプテン。
何だ、相手に毒されたか。
「少し話を聞いて来たけれど、主力の全員が幼なじみで、互いの家に出入りするような仲らしいよ」
「ふうん、それで?」
幼なじみなんてものが、ろくでもない上に、恋には全く結びつかないことを、聡子はよく知っている。
弟の幼なじみが一人いるが、くだらない過去の失敗談を互いに知り尽くしている相手だ。夢を見るのなんて、お笑いぐさに過ぎない。
「聡子、あれだけ苦戦したのに、何も思わないの?」
「よっぽど練習してきたって事でしょ? 高校くらいだと、練習次第じゃ化けるんだし、来年からは強豪としてカウントするべき相手だね」
「……分かった、もういい」
キャプテンとの意見は、結局平行線に終わった。
馬鹿なことを言い出さなければ良いのだが、と思う。友情ごっこをするくらいなら、バレー部なんか抜ける。
聡子が抜けたら、バレー部なんぞ立ちゆかなくなる。代わりになるアタッカーがいないからだ。中堅程度の相手にも、歯が立たなくなるだろう。
その日は、そのまま解散になる。
不快感を引きずったまま、家に帰ろうとする。
だが、そういえば。
この試合会場からは、キャプテンも一緒の方向だ。他のチームメイトが、露骨に聡子を避けているのが分かった。
さっきのミーティングで、ぎすぎすしすぎたか。
「聡子」
「何よ」
「ほら、見てみな」
相手チームを、キャプテンが顎でしゃくる。
負けたとは言え、相手の市川第二高校の女子バレー部は、別に悲壮感もなかった。やることをやりきった表情だった。
余計腹が立つ。
更にムカついたのは、相手のチームから、キャプテンがこっちに来たことだ。気付くなと思ったのが、気付きやがった。
キャプテン同士で話をする。
それが終わると、無言で笑顔を作ってみている聡子に、相手チームキャプテンがぺこりと一礼した。
あのレシーバー同様、ちんまい。
良くこれでセッターがつとまると、少し驚いた。技巧で背丈をカバーしているということか。
「今日は試合を有り難うございました。 さすがは噂に聞くハードアタッカーの金井さんですね」
「いいえ、此方こそ、凄い粘り腰で驚きました」
「敬語は良いですよ。 私達全員、一年ですから」
凍り付いた。
スポーツは芸術と同じで、素質がものをいう。素質をひっくり返すには、相当な練習が必要になってくる。
だが、それで合点がいった。
此奴ら、とんでも無い練習をしてきた、という事だろう。
「うちの山野が動揺して、途中からみんなで庇ってしまいました。 あのアタック、どんな練習で培ったんですか?」
「数」
「やっぱりそうですよね」
腰は低いが、此奴、侮れない。
頭を下げて、仲間の所に戻る。キャプテンが呟く。
「こりゃ、来年は勝てないな」
「同意」
うちのチームが強豪と言われているのは、キャプテンの試合を組み立てる能力と、聡子の破壊力があっての事だ。
後輩にこれといったのがいないのを考えると、とてもではないがあの練習量をひっくり返すことは出来ないだろう。
来年どころか、次の大会では、キャプテンが抜ける。
聡子も、多分出ない。
そうなると、強豪の地図が、一辺に塗り替えられる可能性も、決して低くはない、と見て良いだろう。
無言で、家路につく。
持論が正しかったことは、別にいい。
絆だの友情だので相手が強くなかったことは、肌で実感できた。となりで、キャプテンが咳払いする。
「聡子、思うんだけど」
「私がバレー部にいる条件、何度か話したことあるよね」
キャプテンとは長いつきあいだ。
だから、何度かそれについては話したことがある。
「友情ごっこなんてごめんだね。 コミュニケーションツールとしての友情ごっこだったら、普段からやってるんだから、それでいいでしょ?」
「前から言おうと思っていたけど、あんたは機械か。 あの子らが私達を追い詰めたのを見て、何も思わなかったの?」
「昆虫って、生体機械も同じだって、聞いたことがある。 人間だって、複雑なだけで、それと根本じゃ変わらないはずだよ」
感情は、生きるために必要だから存在する一種のプログラムだ。
思考もそれと同じ。
そう考えれば、人間なんてバグまみれのポンコツPCに等しい。
機械で結構。
それが現実だし、妥当な評価だと思う。
昔、ロボットを人間と比較するSF作品がはやった時期があったとか、何処かで聞いたことがある。
馬鹿な話だ。
冷静に考えれば、人間が持っている強みなんて、どれも動物が持っているものばかり。
当然、機械にだって再現できるはずだ。
「じゃあ、あんたは……」
「前から言っていたけど、利害が一致しているから、バレー部にいるんだよ。 それに、後輩達が私のこと、化け物みたいに見てるの、知らないとでも思ってる?」
キャプテンが言葉を詰まらせる。
聡子は怖いと、後輩は常に口にしている。
笑顔の裏でとんでもなく凶暴で、気に入らない相手には何をするか分からない。そんな噂も流れている。
どうでもいいことだ。
弱いと思われれば、その時点でエサにされるのが自然の掟。
事実、何も落ち度が無いのに、弱いと思われた瞬間、いじめのターゲットにされた奴を、何人も知っている。
人間の感情など、その程度のもの。
理性など、上辺を繕うために作られているだけのもの。
孤独だ。
世界は、ただ一つの個が、無数の孤独を作っているだけの存在だ。友情なんて、幻想に過ぎない。
「あんたのそういうとこ、変わらないね」
「明日の試合でも全力を尽くすよ。 不快なのが出てきたら、潰すけどね」
「……分かった。 でも、頼むから、味方にその牙を向けないでよ。 後輩の子達、あんたのアタックの音聞くだけで、背筋に寒気が走るって言ってるんだ。 音が大きいだけじゃなくて、殺気とか、そういう怖いのが籠もってるのが、露骨に分かるってね。 昨日の試合だけじゃなくて、審判達の間で悪い噂も流れてるとか、話も聞いてる。 私が怖いのは、あんたが無差別に、周囲にその牙を向けることなんだ」
「……留意しとく」
必要ならそうするが、今は利害の関係上も、そうするのは望ましくない。
バスを先にキャプテンが降りる。
話を聞いていたのか、青ざめながら此方を見ている奴も何人かいた。咳払いすると、視線を慌ててそらす。
手まり歌を、呟く。
帰りの間、ずっと。
家に帰るまで、ずっと。
私は、孤独だ。
家の前で、そう呟いた。それでいい。もう一度、呟いた。
試合には、満足した。
なかなかの試合だった。攻撃的なアタックが、実に見事だった。相手の選手の心をへし折りに行っているようで、実に好みだ。
相手側の巻き返しも良かった。好勝負と言って良いだろう。
「ご満足でしたか、社長」
「技術的に稚拙でも、面白い試合はいくらでもある」
「左様にございますか」
秘書に返す。
分かっていない。力量が拮抗した相手が、死力の限りを尽くして戦うのが、一番見ていて楽しいのだ。
一方が強いと、試合はつまらなくなる。
最初は面白いかも知れないが、すぐに飽きる。
それに対して、たとえ下手くそ同士でも、実力が拮抗していて、どっちも必死に戦っていれば、面白くもなる。
どんなスポーツでも、同じ。
そしてこれに関しては、スポーツだけではない。殺し合いでも、同じ事だ。
残りのスケジュールをこなして帰宅すると、夜中になっていた。家政婦に服を預けて、風呂に入る。
夕食は取って来たから、下げさせる。
そのまま布団に入ると、しばらくぼんやりと天井を見つめた。かなり寒くなってきているから、息が白い。
ふと、聞こえてくる。
手まりの歌。
あの、気味が悪い歌だ。幻聴かと思ったが、どうも違う。
布団から起き出して、部屋の隅を注視。どうも、其処から聞こえてきている様子だ。
恐怖が、せり上がってくる。
どうして、そんなところから、聞こえてくる。
何も無い物置だ。音が鳴るようなものなど、一つも入れていない。しかもこの音、どう考えても人声ではないか。
色々と、おぞましい醜悪な人間性を持つ輩と、散々渡り合ってきた。
それなのに、どうしてだろう。
得体が知れないものにたいしては、未だに恐怖を感じる。
慌てて、部屋の外に飛び出す。大声で叫んで、女中を呼ぶ。警備員を呼ぼうかと思ったが、まずは何かを確認しなければならない。
しかし、女中が来たときには。
もう、手まり歌は聞こえなくなっていた。
気味が悪いので、寝る部屋を変えてもらう。寝室はいくらでもある。来客用の部屋だけでなく、気分で変える部屋だって、同じ事だ。
顔を洗って、シャワーを浴び直す。
視線を感じたようだが、恐怖から来る錯覚だろう。
そう言い聞かせて、寝直す。流石にもう、気味が悪い手まり歌は、聞こえては来なかった。
だが。
朝になって、目が覚めて。
気がつく。
部屋中に、何かの跡が残っている。
円形をした、薄黒いそれが。
おそらくは毬をついた後だと気付いたとき。喉の奥から、恐怖の絶叫が迸っていた。
3、孤独と孤独
聡子が体育館に姿を見せると、チームメイト達が、露骨に青ざめる。偵察に来ている他校の生徒も見かけるが、彼女らも聡子には一目置いているようだった。ただし、悪い意味で、だが。
彼奴が来たぞ。
そんな風な視線だ。まあ、どうでも良いことだが。
害になりうる存在を警戒するのは当然のことだ。
「聡子、調子は」
「絶好調かな」
「本当だろうね。 みんな、心配しているんだよ」
心配しているのは聡子の事じゃなくて、自分の身の安全だろうが。
毒づくが、まあそれはどうでもいい。手まり歌を呟きながら、試合場を見回す。
今日は、四回戦、準決勝、決勝となる。
四回戦は、無名高どうしでつぶし合って、かろうじて上がって来た、という風情の連中だ。マネージャーが調べてきたが、たいした相手ではない。準決勝は、今のところよく分からないが、まあそこそこ強い高校が上がってくる可能性が高い。
決勝は、強豪校になる。
ただし、彼女らは準決勝で、ほぼ同レベルの相手と戦う事になる。消耗は激烈に蓄積されるはずだ。総合力ではどちらもこっちより少し上、だが。これなら充分に勝ち目が生じてくる。
問題は、である。
「それはそうと、みんな、疲れはとれたか」
キャプテンが見回すが、全員が乾いた笑いを浮かべるばかりだ。
無理もない話である。
昨日の戦いで、全員が激しく消耗したのだ。追いすがってくる相手の粘りは尋常では無かった。来年は勝てないだろうとさえ思える逸材揃いの一年生チームだった、それは聡子も認める。
だから一人か二人は再起不能にしてやりたかったのだが、まあこれは仕方が無い。
「次の試合では、控えを使う。 弘子と棚美は休んでな」
「え? 大丈夫?」
「大丈夫」
安心させるようにキャプテンが言うが、大丈夫なわけがない。
二人が抜けて控えの一年レシーバーを投入すれば、防御力が落ちる。そうなれば当然敵からの攻撃が貫通する可能性も上がるわけで、試合が長引く結果につながる。
消耗は、その場合。
控えを使わない聡子とキャプテンに集中することになる。
体力には自信がある。
問題は、他の二人か。
「まあいいや。 一人や二人潰して良い? 戦意喪失させれば、早いよ?」
「聡子、いい加減にして。 審判にもう目もつけられてる。 これ以上暴れると、退場させられかねない。 そうなったら、次の相手にさえ勝てないかも知れないんだ」
「へいへい、おとなしくしてますよ」
とはいっても。
相手の戦意を喪失させず、短期決戦を行うのは無理だ。相手は無名高とは言え、四回戦まで上がって来て意気も上がっている。
危惧は、試合が始まると、すぐに本物になった。
実力はこっちが上だ。控えを入れていても、それは変わらない。
しかし、緊張している一年控えの穴を、敵が確実に突いてくる。相手のキャプテンはさほどすぐれた指揮官には見えないが、それくらいの知恵は誰にでも働くと言う事だ。勿論点はどんどん取り返しているが、相手の得点もかなり高い。
一セットは先取。
しかし、三点しか違わなかった。
その上、一年生達に引きずられて、二年生も試合のリズムを崩している。キャプテンが皆を見回した。
「落ち着いていこう。 普段通りなら、勝てる相手だ」
やっぱり、相手をぶっ潰したい。
一年生達は萎縮していた。キャプテンが見かねたか、彼女らを他の控えと入れ替える。最悪、温存している二年生と入れ替える選択も必要になるだろう。もっとも、入れ替えたところで、出てくるのは疲れが取れていない状態の二人だが。
これは、思った以上に良くないかも知れない。
二セット目が始まる。順調に得点を重ねるが、やはり一年の穴を今回も突かれる。さっきの子らと、あまり変わることはない。
二度、逆転さえされた。
いらだちが募る。
おとなしくしていろと言われたから、今日は相手を潰すようなアタックはしていない。きちんと守備の穴を狙って、そこそこのアタックを打ち込んでいる。
だが、それもいつまで自制心がもつか。
舌打ちすると、敵陣を見やる。
相手チームも必死だ。四回戦まで残ってきているのは、くじ運のおかげだが、それでも調子づいていると面倒だ。
競り合いになる。
完全に格下の相手に、である。
キャプテンが、何度かタイムを取った。終始優勢ではあったが、それでもやはり何度か得点を逆転された。
二セット目も、どうにか取る。
だが、三セット目は、あろう事か取られた。
四セット目で勝負はついたが、それでも。やはり、予想外の疲弊に、全員がげんなりした顔をしていた。
「次の対戦相手は?」
「もう決まってるみたいです」
今回は、順当に予想通りの相手が勝ち上がってきていた。しかし、全く嬉しくない。相手は苦戦するようなことなく、かなり余力を残して勝ち上がってきているからだ。
場合によっては負けるなと、聡子は思った。
「……」
皆が口をつぐんでいる。
一応、ベスト4には残っている。敗者復活戦はないトーナメントだから、負けたらおしまいだが。
一応、聡子はまだ余力がある。
しかし、審判達が、こっちをにらんでいるのが分かる。スポーツドリンクのペットボトルを口から離すと、キャプテンは言う。
「積極的に、次のセットは攻撃していこう」
「でも、体力が保つかな」
「次が決勝戦のつもりで行くよ。 どうせ此処で負けたら、それで終わりなんだ」
どうやら、くじ運は実力のなさで使い果たしたらしい。
否、おそらくは、これでトイトイという所なのだろう。最初ついていた分、これからが不運の連続というわけだ。
相手チームは、ほとんど疲弊が見えない。
試合が始まると、その差は露骨に現れた。
かろうじて決勝には上がる事が出来た。
しかし、先の試合では二セット先取され、文字通りの死闘となった。全員が完全にばてている。
マネージャーが戻ってきた。
キャプテンでさえぐったりしている中、彼女は長い髪を掻き上げた。
「向こうも試合が終わりました」
「それで?」
「丹治横の勝ちです。 予想通り五セット目までもつれ込んでの死闘でした」
当然のことながら、疲弊は相当だという。
向こうのチームを見に行くが、全員がゾンビみたいにぐったりしていた。まあ、無理もない。
実力が拮抗した相手同士の戦いだ。
審判が話し合いをしている。
このまますぐに試合をするかの相談だろう。実際、誰が見ても、選手達の疲労は相当だ。しかし、今の試合も相当に長引いた。
前に聞いたが、体育館は借り切ると、相当にお金が掛かるとか。
あまり試合時間が超過すると、延滞料金が出るのだろう。強突く張りの相手であれば、即座に延長を蹴るのだろうが。
此奴らは、体面をより重視しているというわけだ。
ベンチに戻って、汗を拭く。
ぼんやりと天井を見ながら、手まり歌を呟いた。
ふと気付く。
周囲は、真っ白。あの部屋だ。
まて。あの部屋とは、何だ。
我に返ると、ホイッスルが吹き鳴らされていた。キャプテンが審判に呼ばれて行く。不安そうにしている一年の視線の中、両チームのキャプテンが、話し合いをしていた。
やがて、キャプテンが戻ってくる。
青い顔をしていた。
「試合開始だ。 後五分後」
不満の声が上がる。
だが、審判に逆らえば、その時点で敗退が決定する。ならば、ぶーぶー文句も言っていられない。
しぶしぶという様子で立ち上がる皆を横目に、聡子は思う。
やっぱり、こうなったかと。
何がスポーツマンシップだ。
そんなものは、利益が保証されているから出てくる寝言である。実際にお金が絡んでくる問題になれば、すぐに吹き飛ぶ。
オリンピックなどの国際競技委員会の腐敗は有名だ。バレーボールもスポンサー側の国が勝てるように、何度国際競技でのルールが変更されたことか。水泳などでも閉鎖的な空気がある。サッカーに至っては代理戦争の様相を呈している。審判が見ていないところでは何をしてもいいし、場合によっては審判さえ買収すれば良い。そんな空気さえ、国際試合であるのさえ事実だ。
スポーツマンシップなどと言う言葉は、寝言に過ぎないのだと、スポーツをかじっただけの中学生でも知っている。
要は金だ。
キャプテンが或いはお金持ちの御曹司だったら、今の決定も変わっていたかも知れない。
手まり歌を呟く。
金が物を言うのはどこでも同じ。手札として金がない聡子は、孤独である事を自覚しながら、戦うしかない。
どのみち、誰もが孤独なのだ。
それを誤魔化すようなことをしているから、腹が立つ。死ねば良いと思う。
両方グロッキーのまま、試合が始まる。
唯一の救いは、相手チームが死闘の中で、控え選手を使い切っているという事だろうか。それだけの凄まじい戦いであったらしく、控え選手達も全員ばてて転がっている。
それならば、どうにか条件は五分だ。
キャプテンがトスしたボールを、渾身で敵陣に叩き込む。
まずは先取。
だが、わかりきっている。
此処から、長い試合が始まるのだと。
すぐに懸念は現実となった。普段だったら取れるようなボールを、レシーバーが対応出来ない。
相手チームもそれは同じだ。
両キャプテンが休憩代わりにタイムを時々取ってくれるが、焼け石に水。
その場で後ろに倒れそうな子もいた。
一セット目は、どうにか取った。
だが競り合いの末だ。
相手も味方も、特にレシーバーの疲弊が酷い。多少攻撃的なスタイルで試合をすれば、簡単に崩せると思うのだが、キャプテンはゴーサインを出さない。もっとも、審判が目をつけているから、というのもあるかも知れないが。
あー。ぶっ殺したい。
上がったボールを、敵陣に叩き込む。
二セット目は比較的有利だ。相手方のアタッカーも景気よく決めているが、どちらもレシーバーがグロッキーだからである。
それにしても、くじ運が良くてこれでは。
キャプテンは悔しそうにしている。どのみち、優勝するには実力が足りなかった、という事だろう。
二人だけ優秀な選手がいても、どうにもならないのが現実。
これで勝っても、運が良かったとされるだけだ。
まあ、実際その通りだと、聡子も思う。
それでも、キャプテンは諦めていない。適度に上がったトス。絶妙のタイミング。Bクイックで敵陣にぶち込む。
綺麗にレシーバーの穴を抜けたボールが、コートの向こうに飛んでいった。
二セット目、連取。
相手チームがタイムをかけた。
今回のタイムは、かなり真剣に話し合っている。優勝経験が何度もある強豪校だ。これくらいの逆境は、何度も味わっているのだろう。
三セット目が始まる。
不意に、敵の動きが良くなった。
見ていると、戦術が良くかみあっている。疲弊している選手を綺麗に庇いながら、攻撃をしてきているのが分かった。
またこれか。
初心に戻ったとでも言うつもりか。
不快になってきたので、アタックを叩き込む。
受け損ねたレシーバーが、悲鳴を上げて尻餅をついた。周りの選手が声を掛けている。冷え切った目で、相手を見る。
さて、後何球保つかな。
キャプテンが、止せと言う。
だが、もう止める気は無い。
二度目、レシーバーがまた受け損ねて、ボールを天井近くまで跳ね上げてしまった。遠目に見ても、腕が腫れてきているのが分かった。
「もういいだろ。 そこまでにしてあげな」
肩を掴まれる。
キャプテンが、真剣な目で、こっちを見ていた。
火花を散らしながら、視線を受け止める。
「じゃあ、次はあっちのレシーバーね」
視線を向けられたレシーバーが、悲鳴を上げて息を呑むのが分かる。
キャプテンが、大きな声を出す。
「やめなって言ってる。 試合自体が台無しになる!」
「どうせ、運だけで勝ってきた試合じゃん。 強豪がみんな試合前につぶれてくれたから、ここまでこれたんじゃんさ」
「聡子……っ!」
瞬間、空気が凍り付いた。
誰もが感じている事だろうに。というか、冷静に分析すれば、小学生でも分かる事を口にしただけだ。
「あんた、どうしてそう冷酷なんだよ!」
「城北高!」
激高したキャプテンを見かねてか、審判が声を荒げた。
試合が再開される。レシーバーの穴一つは大きかったが、それでも敵チームが盛り返してくる。
三セット目は、取られた。
やっぱりもう一人潰しておけば良かったのにと、呟く。
キャプテンは皆を見回すと、言った。
「相手チームは、厳しい練習に耐えてきてる。 それだけじゃない。 みんなでみんなを庇いながら、試合をしてる」
あほらしい。
サッカーでも野球でもそうだが、金で選手をやりとりして、「チームの強化」をしているのが普通だ。
要するに、スポーツに、「クズ」はいらない。そのクズというのは、才能がない奴だ。ものをいうのは才能だけ。後は選手を良く操縦できる監督も必要だが、それ以外は何もいらない。
絆なんて、ゴミに等しい。
スポンサーの金がある方が、勝つ。
プロが試合を通してそう言っているのだ。身体能力と優れた経験だけを持つ選手が、活躍することが出来る。
バレーボールのプロリーグでも、世界大会でも同じ事。
鍛えるのはあくまで当人の問題。
試合で勝つには、実績のある指揮官と、戦術、そして優秀な選手を揃えるという戦略だけだ。
そこに絆とか友情とかはない。
スポーツものの漫画と、現実は違う。実際、強豪校と言われるような場所では、金に物を言わせて優秀な選手を買い集めているでは無いか。
選手なんか、試合の前では駒なのだ。
其処に感情なんか無い。
三年間しっかり努力しようが、クズはクズだ。十年やっても同じ事だろう。実際、有名スポーツマンの血を引き、英才教育を幼い頃から受けながら、まったくプロとしては役に立たなかった野球選手だっている。
「聡子、あんたのアタックは強烈だよ。 アタックなら、多分全国でも上位に食い込んでくるんじゃないかって思ってる」
「それはどうも」
「でも、もう少し、それ以外の力も信用してくれないか」
頼むよと、キャプテンが頭を下げる。
ここで引き下がらなければ、聡子の体面が悪くなることを狙っての手か。内心で舌打ちするが、まあいい。
「分かったよ。 それで、どうすればいいの」
「敵陣には、一つ穴が空いてる。 其処を攻めながら、適切に守りを固めていく」
適切に守りを固めていく、と来たか。
「聡子、あんたはクイックで確実に敵陣を抜いて。 レシーバーはもうへばってるから、攻撃なんかしなくていい」
「へいへい」
他のレシーバーの顔面を砕いてやろうと思っていたのだが、それは止めた方が良さそうだ。
ここでやったら、キャプテンとの亀裂が決定的になる。審判に、試合を中止させられるかも知れない。
そうなると、後が色々と面倒だからである。
「ちゃんと、バレーをしよう。 それで負けたんなら、悔いは無いから」
「何を言ってる」
「あんたがやってるのは学生スポーツじゃないって事だよ。 確かに大人のスポーツじゃ、金が重要だったり、政治的な絡みがあったりするかも知れないけど。 あたし達には、関係ないだろ」
「ハ、それはどうだろ」
高校野球なんかは、その典型例じゃないか。
あれは青田買いをするために行われているものだ。甲子園で活躍すれば、プロからスカウトが来る。
プロで活躍すれば、サラリーマンが一生がかりで稼ぐような金が、一年で手に入ったりもする。
異性もつかみ取りし放題。
殆どの高校球児が、金のためにスポーツをやってると、聡子は思っている。実際、以前話したことがある高校球児は、どいつもこいつもその類の輩だった。
「最後に言っとく。 あんたが考えてることは、スポーツへの侮辱だ」
「分かった。 いいよ、この試合だけは、あんたの流儀に従うよ」
バレーのプロリーグなんか入ったって、そんなに稼げるわけじゃない。
欲しいのは内申書の点数だ。
此処でキャプテンと言い争うことに、意味も無い。
それに、負けても良いと言っているのだ。弱小高を強豪まで引き上げたという実績があれば、聡子としても良い。全国大会に出られればもっと美味しかったのだが、それは別にどうでもいい。
別に他の人間を壊すのは、バレーでなくても出来る。
結局、試合に負けた。
だが、不快なことに。
キャプテンは、悔いが無い顔をしていた。
やはり帰り道は、キャプテンと一緒になる。バスのつり革に、並んで掴まる。
既に夕暮れを過ぎて、空は真っ暗になっていた。
しばらく無言が続いたが。
聡子から、話しかけた。
「いいの? これで高校の青春が終わりなんでしょ」
「あんたには理解できない事だって、いつも言っていたね」
「ああ、そうだね」
何が青春だ。
それこそ発情期のガキが、勝手に盛り上がっているだけのことだろう。
明日、他の生徒達は、全員筋肉痛で死んでいるだろう。月曜日なのに大変なことだ。勝った丹治横高校は全国大会に出ることになるが、レシーバーの一人は潰してやったし、まあ簡単には勝ち抜けない。
「いいんだよ。 正々堂々戦って、彼処までいって、勝ち抜けたんだから」
「何の意味があるの、それ」
「あんたには意味が無いかもね」
「いや、意味はあるよ。 決勝まで行って、戦歴に貢献できたんだから」
違うと、キャプテンが首を横に振る。
此奴とは、一生平行線だろう。
そもそも会話が成立していない。思えば、バレー部に入ったときもそうだった。
最初にバレー部に目をつけたのは、キャプテンである此奴が優秀であると判断したからだ。
元々バレーなんぞに興味は最初から無かった。
毬つきに似た競技だったら、何でも良かった。それこそバスケでもラクロスでも。ソフトボールでも良かったかも知れない。
バレー部が良いと思ったのは、個人の火力を発揮しやすいから。
利用しやすいから。
ボールに怒りをたたきつけられるから。
それに何より、弱小高が強豪にまで這い上がれる原動力になれば、内申点も良くなる。勉強は元々学校でも上位の成績を取っている。
元々友情なんてものを、一切聡子は信じていない。
青春もだ。
人間は群れで狩をしてきた生物だが、それは互いにとって都合が良いからだ。
「あんたは今後、どうするの?」
「この国を乗っ取ろうかな」
「それはまた、たいそうな……」
「この国の政治家ってアホぞろいに見えるでしょ? 事実アホ揃いなんだけどさ、連中って世界でも有名なT大やK大、S大なんかの出身者が殆どで、学閥を揃えているんだよねえ」
S大については、すでに入れる目処がついている。後は学閥を上手にコントロールすれば良い。
どういうわけか、この国はエリートになればなるほどアホになる傾向が強い。立派な学歴は一体どこに行ったのか。いずれにしても、コントロールすることは、さほど難しくないだろう。
問題は複雑に絡んでいる利権だ。
どこの国でもそうだが、基本的に利権が国を動かしていると言っても良い。アメリカのパワーエリートなんかはその見本だし、この国だってそれと似たような状況だ。金があれば選挙に勝てる。自明の理である。
民主主義なんか、今時民間人にさえ鼻で笑われている。アメリカは一種の貴族合議制だし、日本だって似たようなものだ。昔と違って金さえあれば貴族になれるのが違うくらいである。
まあ、その金を準備する宛てもある。
後は心証操作だが、それも今準備をしている。
この国を乗っ取ったら、色々やってみたいことはある。
それ以上に、誰かに行動を決められるのは、面倒だと思うのだ。人間は孤独。手まり歌の通りの生き物だ。
だからこそに、他からの干渉で、この静かな孤独を邪魔されたくない。
独裁者になるのも、悪くないかも知れない。
別にこの国で失敗したら、資本をもって何処かの小国に行って、其処を乗っ取るのも悪くないだろう。
ピーキー上等。人に使われるくらいなら、この方がよっぽどオモシロイ。
「あんたが何十年も先まで考えているのは、よく分かったよ」
「で?」
「それで、一瞬を頑張ろうって思った私と、それが、何が違うの?」
そんなことも分からないのか。
そう言い返そうとして、ふと気付く。
何も、言い返せない。
そういえば、孤独を守るために、たとえば独裁者になったとする。その後、孤独を守るために人間を殺し尽くしたとする。
最後には、何が残るのか。
孤独は別に構わないのだが。
ひょっとして、キャプテンも自己満足という孤独のために、頑張っていたのか。
「きっと違うと思う」
心でも読んだのか、キャプテンがそんなことを言った。
やっぱり平行線か。
バスを降りるキャプテン。
席が一つ空いたので、座る。大きなため息をついた。不快感といらだちで、胃が煮えくりかえりそうだった。
だったら、思い知らせてやる。
そう呟いたとき、ふと、気付く。
手まり歌を、呟こうと思わなかった。どうしてだろう。落ち着くためには、あれが一番の筈なのに。
気がつくと、病院の天井を見ていた。
錯乱して運び込まれたのだと、気付く。
社長と声を掛けられて、側に秘書がいることを、今更知った。
「何だ。 私は、どれだけ気絶していた」
「三日ほどです」
ベットの脇には、山のような贈り物が積み上げられていた。
反吐が出る。
財界の怪物と言われる存在に、胡麻をそれほどすりたいか。みると子供が書いたらしい下手な字で書かれた、お見舞いだという手紙があった。
こんな子供の頃から、権力者にこびを売るとは。賢い子供だと、自嘲する。
「医者はなんと言っている」
「過度の過労が原因だと」
「ふん、過労か」
少し前から、血色の小便が出るようにもなっていた。
その上、あの恐怖体験だ。
「なあ、部屋にあったあの跡は」
「何のことでしょうか」
「部屋中に、毬をついた跡があったはずだ」
「いえ、真っ白な部屋でした。 汚れも無く、綺麗に掃除されていたと聞いています」
ベットを抜け出そうとして、押しとどめられる。
医師がすぐに来て、寝るように説得された。幾つか病気を併発していたらしい。中には命に関わるものもあって、しばらくはベットからは出せないそうだ。栄養状態が好転すれば、回復できる可能性も高いという。
ぎりぎりと、歯を噛む。
さては、周囲の連中が、そろって此方が動けない方が得だと判断したか。今頃財産を巡って争いでもしているのか。
だが、無駄だ。
財産は幾つかに分散して、絶対に自分以外では取り出せないようにしている。
人間など、最初からみじんも信用していない。
だから、全ては自分だけのためだ。
勿論、金も全部墓場まで持っていくつもりだ。信頼などが、如何に意味が無いことか、知り尽くしているのだから。
閻魔だって買収してやる。それが、自身の信条だ。
とにかく、一度秘書を下がらせる。
興味を引かれた手紙を見る。
住所が、見覚えのある名前だ。
そういえば、一度だか融資してやった孤児院があった。勿論売名行為からだが。其処の名前だ。
なるほど、もっと金を引き出すつもりか。
「純粋な」子供に手紙を書かせれば、感動するとでも思っているのか。随分舐めたまねをしてくれるものではないか。
手紙の封を千切って、中を見る。
「かないさとこしゃちょう。 はやくげんきになってください」
それだけ書かれていた。
ゴミ箱に放り込もうと思って、ためらう。
多分孤児院の教師共が書かせただろう文章だが。しばらく天井を見つめて、思う。
何だか、不快感とは違う感情がわき上がってくる。
だが、その正体は、よく分からなかった。
4、孤独はやはり正しい
病院には、次々いろいろな人が押しかけてきた。
会議などに呼ばれていた相手。会食をするはずだった要人、などなど。
お土産も色々と持ってきた。
空いた時間を使って、ぼんやりと見るのは、母校のバレーボールの試合だ。自分がいた頃に比べると、完全に強豪と呼ばれるまでに成長した。県内では既に最強と言われていて、よほどくじ運が悪くない限り、優勝は確実である。
あの後、残された一年達は、奮起したらしい。
翌年からは、強豪と呼ばれた母校の矜恃を、良く守った。更に成績を伸ばし、二年後には全国大会に初出場を決めた。
それからは、全国大会の常連校となっている。
何人か、プロリーグの選手も輩出したという。
「それにしても社長、何故山奥の、あのような廃屋に?」
「昔の家だ」
「は……?」
「良く覚えていないが、彼処に住んでいたことは間違いない」
というのは、推察だが。
記憶が無いのだ。十一才までの。
それまでの事は、おぼろげくらいにしか覚えていない。中学生くらいからは自我がはっきりしてきたが、それでも周囲のことを見て、いつも不快感を抱えていた。
あの家のことは、ひょんとした事から、情報を得た。実家から、資料が出てきたのだ。
ちなみに、住んでいた家族は、全員血がつながっていない。裕福だった家庭が、養子として迎えてくれたのだ。
帝王教育を施されたが、それはあっさりクリア。高校を出てからは学閥に食い込み、二年の頃はS大を裏から仕切っていた。実力でS大卒業生としてもトップの成績をたたき出し、政界には行かなかったが、財界で二十代にして巨万の富を蓄えることに成功。現在に至っている。
孤独な人生は、いつでもいつまでも孤独だった。
だが、心の支えになる手まり歌は良く覚えている。
しかし、あのカセットテープは何だったのだろう。それが、分からない。
「カセットテープは分析したか」
「市販の珍しくもない形式だったものです。 音を再生することは出来ましたが、気味が悪い童謡が入っていただけでした」
「手まり歌か」
「はい。 手まり歌らしき内容です。 不気味で虚無的でしたが」
髪を掻き上げる。
高校時代に比べて、髪はずっと伸ばした。バレーをしていた頃は邪魔だったから、肩くらいまでだった。それを更にポニーにしていた。
今は肩先まで髪がある。
だが、もう面倒だ。ばっさり切ろうかと思った。
秘書を下がらせると、ナースコールを押す。
外に出て良いかと聞いてみるが、拒否された。後、ナースコールは安易に押さないように、とも怒られる。
部屋に入る人を制限するように、とも言われた。
「ビジネス上の相手だ」
「貴方は病人である事を自覚してください」
厳しい看護師だ。
彼女がいなくなると、真っ白な天井を仰いだ。白い天井は落ち着く。壁や床はクリーム色だが、天井はいい。
ぼんやりと、手まり歌を呟く。
どうしてだろう。
ここしばらく、妙にクリアに思い出せるのだ。歌っていた声が、一つである事も。
そして、ふと気付く。
歌っていたのは。自分ではないか。
しかしそうなると、どうして閉じ込められていたのだろう。
閉じ込められていた。
そうだ。確か、真っ白な部屋に閉じ込められていた。手まり歌だけ。そして、手まりが一つだけ与えられていた。
あの家で。
そうだ、あのラジカセが吊されていた部屋だ。
しかし、なんでそんなことになった。
児童虐待なんてレベルではない。そもそもやった奴は今、どこへ消えたのだろう。
それに気になるのは、気絶する前に聞こえてきた手まり歌だ。あれは、幻覚だったのか。疲労が見せたというのか。
医師が来たので、診察してもらう。
流石に、細かい事情は話せない。だが聞けることはある。
「ほう、幻聴ですか」
「幻覚もだ」
脈を測りながら、年配のまるまると太ったはげの先生は頷く。
昔はカルテをドイツ語で書いていたらしいのだが、最近はきちんと解説してくれる。ただし、やはり患者には聞かせない事もあるそうだ。
「貴方の体は今、病巣だらけだ。 その殆どは、疲労から来ている事は、既に聞いていますね」
「ああ」
「これから治療と合わせてしばらく休めば、完全とは言わずともお体はまだ若いのだし回復はするでしょう。 まあ、今までの疲労で、何かおかしなものが見えていてもおかしくはない。 それだけは、あるかも知れないと言っておきます」
医師はわざと言葉を濁した。
やはり、何かおかしなものを見たのでは無い。あり得るから、あり得るものを見たのだ。荒唐無稽な幻覚など、ない。
そういえば、此処は大学病院だ。
大学病院は、医師同士の対立や内部での争いが酷い。利権が大きく絡んでいるからだ。ひょっとすると此奴は、何か握らされて、此方に知られるとまずい事を握りつぶしていないか。
疑心暗鬼が、広がっていく。
そもそも、本当に疲労で倒れたのか。
体中に病巣があるのか。
セカンドオピニオンに掛かろうにも、此処では難しいか。シーツを掴んでいる手が、バレーをしていた頃とは比較にならないほど弱々しいのが、恨めしい。
体を鍛えている暇など、無かった。
「どれくらいで、動けるようになる」
「そうですねえ、外出は一週間ほどはかかりますかな。 ただ、一月は入院していてもらいますよ」
そんなに寝ていられるか。
金など正直どうでもいい。今、会社という規模ではだが、独裁者という立場は手に入れている。
その気になれば、よその国に行くことだって出来るし、ちいさな国くらいならあっというまに乗っ取れる。
だが、寝ていれば、どんなことになるか。
ビジネススピードがキチガイじみている現在、低脳共に任せておける分野なんぞ、そうそうはない。
ましてや今の会社は、自身の豪腕で育て上げたのだ。
「仕事に行きたいですか?」
そうじゃない。
身を守るための場所を、残さなければならない。
孤独である身を守るためには、利権の隙間を作らなければならない。それが、今いる社長という立場だ。
独裁者ではあるが、立ち位置は利権の隙間になっていて、誰もほしがらないように巧妙に調整している。
調整しているのは金もだ。普段は少しずつ流れを変えて、孤独な自分を守れるようにはしてある。
だがそれも、ぐうぐう寝ていては、乱れる。
「ですが、今は寝ていなさい」
「分かった。 しかし此処から出られるようになったら、まず他の医師にも診察を受けたい」
「セカンドオピニオンですか?」
「そうだ。 貴方のことを信じていないわけではないが、万一の事態を避けたいからな」
秘書に手配させる。
このまま死んでたまるか。心地よい孤独を維持するには、努力が必要だ。
人間は孤独な生物。
だから、自分に心地よい孤独を、保ちたい。
それは絶対だ。
幼い頃の記憶がよみがえってくる。
秘書の車に乗せられて、別の病院に移動している最中だ。今の病院に入院はする。だが、もし別の病院で見てもらって、重大な過誤が見つかった場合は、移る。そう言って、病院を出てきた。
あの小さな家は、後で調べてもらったが、やはりよく分からない。
持ち主は既に他界している。別の県に住んでいた老夫婦で、あの家を訪れた形跡さえない。便宜上、持ち主にされていた可能性が高い。
しかし誰がそんなことをしたのかとなると、やはり操作の糸が切れてしまう。
「警察は」
「犯罪の形跡は無いと」
「そうか」
歯を噛む。
高校時代だったら、バレーボールに怒りをたたきつけていた所だが。しかし、日本の警察の捜査能力はかなり高い。というよりも、変なキャリアが出張ってこない場合を除けば、大体問題なく解決できる。
つまり、それでもどうにもならないということだ。
幼い頃、あの部屋にずっといた。
どうやって出たのかよく分からない。
何故部屋にいたのかも。
少しずつ、延々と手まりをついていたことだけは思い出してきた。
そういえば、里親に会ったとき、はじめて親という概念を知ったような気がする。しかし、どうやって里親の所に行った。
二人はもう生きていない。
大学を出た頃、この世を去った。ちなみに殺してはいない。病死だ。
真面目で仲が良い夫婦だったし、それで本望だっただろう。
あくまで、世間的な概念では、だが。
此方に言わせれば、みんな自己満足でそうしただけだ。養子を迎えて上手く行く家庭なんて、一握りもないと聞いたことがある。
つまり、そういうことだ。
利己的遺伝子論は万能ではないが、人間でも当てはまる部分は多い。
女がみんな子供好きなんて大嘘である。自分の遺伝子が入った子供が好きなのであって、他の子供なんかスーパーの安売り肉程度の価値も見いだしていない奴の方が多い。それは経験上知っている。
再婚した相手の子供を虐待する母親なんか、腐るほどいる。
相手が乳飲み子であっても同じ事だ。
そう言う意味で、利害関係を理性に優先できる親を持った自分は幸運だったかも知れない。
病院に着く。
コネのある大きな病院だ。だからか、すぐに診察のスケジュールを組んでくれた。
感じが良さそうな若い医師だ。だが、前の病院のデブ医師の方が、正直腕は上に思えた。多分経験値の差だろう。
二時間ほどいろいろな診察をする。
その時、何度か足下がふらついた。毒でも漏られたのかと思ったが、体が弱っていると考える方が、自然だ。
「恐らく、この診察に間違いは無いと思います」
「そうか」
拍子抜けをする。
さぞや差が出るだろうと思っていたのだが。コネがある相手と言う事で、病院も気合いを入れて審査をしたはずだ。
待て。
本当にそうか。裏から何か、手が回っていたのではないのか。
全く同じというのは、却っておかしい。誰か、財産を狙っている奴がいて、それが何かしたのではないのか。
車に戻る。秘書は、以外に早く戻ってきたのを見て、顔色を変えたようだった。
「戻るぞ」
「何か、失礼がありましたか」
「いや、迅速に終わっただけだ。 それで、スケジュールは」
「見舞いに来たいという方が何名かいますが、延期してもらっています。 ただ、何名かは通しています。 マスコミが騒ぐと面倒ですので」
マスコミなんか、札束で横面をひっぱたいてやれば即座に黙る。スポンサーに飼い慣らされたあの連中は、もう腐肉に群がる蛆虫と同レベルの存在だ。
問題は、ネットを通じて変な情報が拡散することだ。
心が安らぐ日は来ない。
ただ、孤独でいる場所を作った。それを守っていきたいだけなのだが。
「リナリア王国への投資話はどうなっている」
「はい。 現地では、上手く行っているようですが……」
中年米のちいさな独立国だが、資源がなく、周囲からもうち捨てられている貧しい国だ。越境してくる犯罪組織に、毎度多くの人間が殺されている。貧弱な資金では対抗する武器も持てず、金にならないから国連も首を突っ込んでいない。
そこへ、資金を少し前からつぎ込み、警察と軍を大幅強化。犯罪組織の締め出しに成功し、今度安い労働力を利用した工場を建てる予定だ。
勿論、それに乗じて、乗っ取る心づもりだが。
奪い取るなら、今が良いか。救世主とか現地の人間は呼んでいるらしいから、独裁者として降臨しても、さほど反発もないだろう。
「退院したら、そちらに移るぞ。 民間軍事会社の連中にも声を掛けておけ。 ついでに、隣の国の犯罪組織も、皆殺しにしておく」
「はあ、難しくはないと思いますが……」
「後はゆっくり、そこで過ごしたい」
ぽんと、ちいさな音がした。
窓。
逆さに張り付いた子供が、此方を見ていた。
三角形の笑顔を、口元に作って。
凍り付く。
子供は、言う。
「いつまで、忘れてるの? 手まり歌」
秘書は怪訝そうな顔をしている。これが、見えていないのか。やはり、幻覚なのだろうか。
いつの間にか、子供は消えていた。
呼吸を整える。だが、子供は、いなくなっていなかった。
隣に座っている。和服を着込んだ、日本人形みたいな子供だ。やはり、秘書には見えていない。
「お、お前は……!」
「社長?」
「どうして孤独が良いか、忘れた?」
押しのけようとするが、手は虚空を突き抜けて、秘書を突き飛ばしただけだった。
細い秘書と押しのけ合う。秘書の眼鏡が飛んだ。
呼吸を必死に整える。
気付く。
あれは、幽霊なんかじゃない。私自身だ。
光の中、毬を突きます。
そう命令されたからです。
白衣を着た大人達が言いました。
お前は、とても賢く出来た。でも、攻撃的すぎる。だから、その欲を、内側だけに向ける訓練をしているのだ。
孤独を最高だと思いなさい。
孤独を得ることを、一番の目的としなさい。
お前が孤独を好きかどうか、何時でも見ているよ。忘れそうになったら、警告するからね。
酷い場合は、罰を与えるからね。
私は頷きました。
いつのまにか、光の中で毬を突くことが、寂しくなくなっていました。
意識が、戻る。
周囲の状態を見る。呼吸器を付けられ、心電図まで付けられていた。秘書がぎゃあぎゃあ騒いでいる様子を見るに。
一度心停止したらしい。
そして、気付く。幼い子供の姿をした「自分」が、ベッドの脇に腰掛けていることに。
「いっそ、此処に閉じこもっちゃえば?」
「黙れ……!」
「バレーの試合みたいに、私を壊そうとする? 私を壊したら、貴方の芯にあるものも、一緒に壊れちゃうよ?」
枕を投げつけようとして、気付く。
寝かされているのは、集中治療室だ。
医師達に取り押さえられる。
今頃、自分不在で、財産をどう分けるかという話が為されているのだろう。何だ、孤独は今、此処にあるじゃないか。
難しい医学用語が飛び交っている。
ああ、死ぬなと、思った。
金井聡子は、此処で完全な孤独になるのだ。どうしてか、口元には、笑みが浮かんでいた。
あの白い部屋に、これで帰れる。
リナリア王国に、ちいさな別荘が出来た。
其処には、英雄と呼ばれる人が暮らしている。
だが、それを見た者は誰もいない。
噂によると。
別荘の中は真っ白で、無個性な箱状で。
そして、その中で、ボールを叩いて床にたたきつけている女の人がいるのだという。
英雄は壊れてしまったと噂されている。
でも、犯罪組織から、国民を守ってくれた英雄を、みんな尊敬していた。
壊れてしまっても、英雄を脅威から守らないとと、国民の誰もが思っていた。
時々、日本から人が来る。
そして、門前払いされて帰って行く。
きっと英雄は、孤独が好きなのだろうと、皆が思った。
それを尊重しようと、いつの間にか、別荘の周りではみなが静かにして、騒がないようにしたのだった。
いつのことか、別荘の近くを訪れた子供が、不思議な歌を聴いた。
異国の歌だったから、フレーズだけしか分からなかった。
やがて、そのフレーズを元に、国歌が作られた。
リナリア王国の英雄を讃える歌が。
(終)
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