くらげさん
序、漂う
いつからだろうか、くらげという渾名がついていた。
何だか茫洋としていて。
いつも漂うようにうごいているから。
自己主張しないし。
声を聞いたこともない。
そういう同級生も、珍しくなかった。
気配がないとも言われたし。
ぶつかられることも珍しくなかった。
あまりそれらを、悪く思った事はない。かといって、良くも想わない。ただくらげと言われている内に。
不思議と、くらげに興味が沸いてきていた。
そして今では。
家にくらげを飼っている。
昔々。
くらげはとても飼うのが難しい生き物だった。元々毒をもっているし、何よりとても体が柔らかい。
お魚を飼う仕組みでは、すぐに死んでしまう。
ふわふわして。
のんびりしているように見えて。
実は結構デリケートなのが、くらげさんなのだ。
だから本をじっくり読んで、くらげさんについては、覚えていった。そしてそのうち、くらげさん達が好きになっていった。
中学の頃から、くらげに興味を持ち始め。
大学に入った今でも、くらげさんは大好きだ。
じっとみていると。
それだけで、時間が過ぎていくのを、忘れられるようだ。
水槽の向こうにいるくらげさんは一匹だけ。
たくさん飼うことをペットショップではオススメされたのだけれど。試行錯誤しているうちに、一匹だけ飼う方が性に合うことが分かってきた。
だから今では。
大きめの水槽に、掌に載るほどのくらげさんを、一匹だけ飼っている。
えさもきちんと与えているし。
見ていると楽しいので、大好きだ。
ぼんやりとくらげさんを見ていると。
いつの間にか夜になっていた。
明日は授業が朝一からある。
そろそろ眠らないといけないだろう。
くらげさんの寿命は、あまり長くない。ずっと生きる種類もいるのだけれど。今飼っているくらげさんは、あまり長くは生きられない。
ぼんやりと見つめていると。
いつまでこのくらげさんといられるのだろうと、思ってしまう。
そしてそのままいると。
いつの間にか眠ってしまっていた。
私自身が、のんびり屋なのだろうか。
そんな事では社会でやっていけないと、親に何度か厳しく言われた。教師にも似たようなことを言われた事がある。
だけれど、きびきび動こうとしても、どうしてもうまくいかない。
私は。
くらげのように、ずっと漂っていたい。
夢の中で。
私は水槽の中にいて。
水槽の外にいる私を見ている。ソファにもたれかかったまま眠ってしまった私は。とても寝苦しそうだ。
夢の中では、私は本当のくらげさん。
ただ漂いながら。
ゆっくりとした水流の中で。
静かな時を過ごしている。
本当だったら、海には天敵がたくさん。
えさをとるのだって、難しい。
此処では天敵がいない。
殺される事はないのだ。
寿命の限界までいきられる。
だけれど、私は。
どうしていつも一匹だけ、くらげを飼うのだろう。
これでは繁殖できない。
出来る種類もいるけれど。
この種類は無理だ。
ふと、意識が途切れて。
気がつくと、私は人に戻っていた。
あくびをしながら、ソファからもぞもぞと起き出す。適当に着替えて。腰まである髪を整え直すと。
そのまま、大学に。
大学はそこそこの偏差値だけれど。今は大学に入るのが難しくない。昔だったら、絶対に入れなかっただろう。
少し前までは、いわゆる出会い系サークルとか言うのが五月蠅かったけれど。
今の大学は静かだ。
というよりも、男子生徒も、殆ど女子と接しようとしない。
昔だったら考えられない事だそうだけれど。
私にはむしろ。
それで嬉しい。
煩わしくなくて良いからだ。
授業は歴史学。
持ってきたルーズリーフに、内容を書き写していく。他の生徒の中には、居眠りをしている者も多い。
私はよく寝たからだろうか。
最後まで眠らずに、きちんと授業を受けきることが出来た。
今日は三つ授業があるけれど。生徒はまちまち。特に朝一の授業は、教養ということもあって、あまり数が多くない。
小さくあくびをすると。
くらげさんの事を思う。
まだ今日会えるだろうか。
実は。
もうくらげさんは、そろそろ寿命なのだ。
茫洋としつつも、眠ることは無く。
次の授業を受ける。
そしていつの間にか、昼が来ていた。
この大学の学食は結構美味しい。
そして私は。
くらげさんを飼っているにもかかわらず。
食べ物としてもくらげが好きだ。
共食いだなと自分でも思うのだけれど。しかし、好きなものは好きなのだ。
元々巨大なエチゼンクラゲなどを乾燥させて、きざんだもの。それが中華料理などに出てくるくらげの正体だが。
おかしなことに。飼える飼えないはあまり関係無く。
私はただくらげを食べる事に背徳を感じる。
それなのに、くらげが好きなので。
私は色々倒錯しているとも思う。
今日も学食でくらげが出ていたので、早速それを注文。黙々と食べていると、ひそひそと話しているのが聞こえた。
「くらげちゃん、また男変えたらしいよ」
「またあ? あの清楚系ビッチ、好き放題やってるね」
「毎晩家に連れ込んでるんでしょ。 隣の部屋の人大変そう」
「近所迷惑だよねー」
どうやら私の噂らしい。
どうでもいい。
そもそも私は生きた年齢=彼氏いない歴だ。
だけれど私の容姿はどうやら人並み外れているらしいので、変な噂が立つらしいのだ。
最初は、あのルックスだと、絶対男がいるというもの。
そこから、誰ともつるまないということが。
男遊びに忙しいということにつながり。
最終的には、噂に尾びれがついて、ブッ飛んでいくことになるらしい。
というのも。
教育指導で、高校のときに教師に呼び出されて。
そういう話をされたのだ。
どうでもいいので笑顔で聞いていたけれど。
人間はそういう意味でも、煩わしくて仕方が無い。くらげと一緒にいられれば、それでいいと思うのは。
やはり間違っていないのだとも、私は思う。
こういうこともあって、人間には興味が持てない。
勿論寄って来る男は。
全員袖にしてきた。
それが更に悪い噂を助長するらしいのだけれど。
不思議と文句を言いに来た人間はいない。
教師に呼び出されたことはあったけれど。
それはそれだ。
昼食を済ませると。今日はもう授業も無いので、まっすぐ家に帰る。くらげさんが心配だからだ。
そして、その心配は、適中した。
水槽の中で。
くらげさんは、もはや動かなくなっていた。
分かってはいた。
寿命が近かったのだ。
だけれども、別れは何度目だろう。
黙々と私は、水槽からくらげさんを引き上げる。
そして、外に持っていくと。
お墓を作って埋めた。
お墓は既に、十個を超えている。
最初の内は、技術的に難しくて死なせた。
それがなくなった今でも。
定期的にお墓は増えていく。
家に帰ると、空の水槽が待っていた。私は無言で外に出ると。免許を取ったばかりの車で。
あたらしいくらげさんを買いに行ったのだった。
1、輪廻
今までに買ったことが無い品種のくらげさんを入手すると。
私はさっさと水槽に入れて。
そして、状況を観察。
かなり頑丈な種類のくらげさんだ。
寿命もそこそこに長い。
だからきっと今度は、長く一緒にいられるだろう。
ぼんやりと見ていると、もう夜だ。
テレビもつけずに静かにしているのに、どうして毎晩男を連れ込んで近所迷惑しているなんて噂が立つのだろう。
ちなみに私の両親は既に他界。
私は一軒家に、一人で住んでいる。
この家から近いから。
今の大学を選んだのだ。
それ以外に理由はない。
喋ることも無く。
淡々と部屋の電気を消して、フトンに潜り込む。
いつもいつの間にか寝てしまっていて。そのせいで、たまに寝違えることがある。そうなると、結構痛い思いもする。
くらげのように生きていても。
結局、体は人間なのだと分かる。
そしてどうしてなのだろう。
フトンでしっかり寝ることが出来た日は。
くらげさんになる夢を見ない。
というよりも。
夢そのものを見ない。
これはどうしてなのか、よく分からない。
くらげに魅せられる前は、普通にフトンで寝ていて、夢を見ていたような気もする。だけれども、今はもう。
目が覚める。
朝だ。
適当に着替えを済ませて、気付く。
今日は、大学の授業も無い日だ。
ぼんやりと過ごせるのだ。
これ以上嬉しい日も無い。
ソファにもたれかかると。
新しく買ってきたくらげさんを見つめる。
そして。このくらげさんについて、もっとより深く知っておこうと思って。スマホを操作して、解説サイトを立ち上げた。
買い始めてから一日二日は、どうしても試運転になりやすい。
水槽のお水になれない場合もあるからだ。
淡水性のくらげもいるけれど。
今飼っているのは海水性。
だから、海水の素も定期的に補充しなければならない。
まあこの辺りは。
好きなことだから、別に苦にはならない。
あくびをすると、そのまま眠ってしまう。
夢を見た。
やはりソファで眠ると、くらげさんになっている。
しかしどうしてだろう。
今日は、いつもと少し違っていた。
私は外にいた。
水槽からでたら死んでしまう。
それは分かっているのに。
どうしてだろう。
どうして、外にいる夢を見るのだろう。不思議な事もあるものだと、私は思いながら、ぼんやりと夢を楽しむ。
私は宙に浮いていて。
いつのまにか大学にいた。
目の前、いや目があるのかはよく分からないけれど。兎に角見えているのは、私の悪い噂をいつも垂れ流している同級生。
もてないことをひがんで。
私を清楚系ビッチとか呼んでいるあの人だ。
どうでも良い相手なのだけれど。
どうしてだろう。
私は大口を開けると。
その相手に、真上から躍りかかった。
気付いて悲鳴を上げたときには。
もう遅い。
丸ごと包み込むと、一瞬で全身をかみ砕き、消化してしまう。そして、骨の一部を、吐き捨てた。
あれあれ。
人間を食べちゃった。
すごくまずい。
それなのに、どうしてか、不思議と癖になる。
空に浮き上がって、その場を離れると。
甲高い悲鳴が上がった。
明らかに人骨の一部であるそれを、他の大学生が見つけたのだ。
すぐに大騒ぎになる。
それなのに、どうしてだろう。
私の存在には、誰も気付かない。
警察も来た。
現場検証も始める。
これは一体どういう状況だ。バラバラ殺人か。そう鑑識らしい人達が、小首をかしげている。
私はそれを、まるで他人事のように見ていた。
その人、とってもまずかったですよー。
そう教えてあげたかった。
体中化粧品塗れ。
着ている服は化学繊維。
不健康な食べ物ばかり口に入れて。
不自然に痩せている。
そんなのが美味しいはずもないじゃないですかー。
そう教えてあげたかった。
でも、喋れない。
だって私は、今はどうしてだろうか。くらげさんなのだから。
程なく、救急車が来て。死体の一部を回収していった。そうそう、遺留品の一部も持ち帰っていった。
日本の警察の捜査能力は優秀だ。
すぐに死体の身元も割れるだろう。
そして分かるはずだ。
ついさっきまで生きていたという事が。
うふふ。どうやって処理するんだろう。
私は、おかしくなって。
夢の中で、体を震わせて、笑い続けていた。
目が覚める。
妙な夢だった。
正直な話、あの人のことは憎んでいないし、恨んでもいない。というかどうでもいい。良く好意の裏返しは無関心というけれど。
それ以下。
元々私の事を勝手に勘違いして、好き勝手な噂を流すような人だ。
興味も持てないどころか。
相手が此方をビッチという生物に分類しているように。
私も相手を、空気という存在に混ぜていた。
冷酷かと思われるかも知れないけれど。
人間扱いしてこない相手を、どうして人間扱いしなければならないのかという気持ちも確かにある。
あくびをしながら、くらげさんに挨拶。
そして、外に出た。
興味本位だ。
大学に出向いてみる。
別に授業は無いのだけれど。
あんな楽しい夢を見た後だ。
現実になっているかもしれないではないか。
そして、驚くべき事になった。
愕然と。珍しく驚いた私は、其処で立ち尽くしていた。
警察が来ている。
そして、大学の入り口には、刑事ドラマとかで見る、あの立ち入り禁止のテープが貼られていて。
強面のおじさん達が、たくさん捜査をしていた。
噂話が聞こえてくる。
「立花さん、事件に巻き込まれたんだって?」
「そうらしいよ。 何だか知らないけど、バラバラ殺人だって」
「そんな生やさしいものじゃないよ! ちょっと見たけど、本当にひどかった! 許せない、誰よあんな事したの!」
正義感の強い声。
ああ、見た事がある。
ちょっと背が低くて、髪をショートにしていて。小柄で子供っぽいけれど。正義感の塊みたいな子。
その性格から、おまわりちゃんと呼ばれている子だ。
勿論蔑称である。
積極的に周囲に関わりに行っているけれど。
回りは適当に応じて。
いなくなった瞬間、陰口をたたきまくっている。
そういう子だ。
それなのに。本人はそれを分かっていても、他人と一生懸命頑張って接しようとしている。
凄いとは思うけれど。
理解できない人種である。
正確な名前は、なんだっけ。
「新道さん、少し落ち着きなよ。 あんな事件、すぐに犯人掴まるって」
「尋常な様子じゃ無かったよ! 一体誰があんな事を!」
ふうん。
本気で怒っているんだ。
自分を散々馬鹿にしてきて。陰口をたたきまくっていた相手に。
相手は、おまわりちゃんが死んだって、嗤うことはあっても悲しむ事なんて絶対なかっただろうに。
それなのに、おまわりちゃんは、本気で悲しんで、それで怒っている。
どうしてか。
それが妙に、私には滑稽でならなかった。
それにしても、面白い夢だった。
実際にあの夢の通りのことが起きたのかどうかは分からない。いや、起きたはずがない。何かが原因で。というか偶然で、ああいう夢を見たのだろう。
そう冷静に分析し直す。
ふと、身を翻しかけて、気付く。
おまわりちゃんと目があった。
「おはようございます、黒野さん」
「おはようございます、えっと、新道さん」
「聞いていますか。 ひどい事件が起きたんです」
「そうらしいですね。 でも私達に何かできることはありますか?」
冷静に応じると。
むっとしたようすで、おまわりちゃんは口をつぐむ。
私は笑顔のママだ。
笑顔を作るのだけは、自信がある。
こんなもの、感情とは何ら関係無い。
実際に体の中にある感情と、まるで関係無いのが、この国のコミュニケーションである事は。
コミュニケーション上手と呼ばれる人種は、みんな知っている事だ。
うわべだけのつきあい。
それが出来るか出来ないかが。
評価の全て。
もっとも、私は。
笑顔を取り繕うことは得意だけれど。
好きでもない人間と一緒にいるとつかれるし。コミュニケーション上手とは、とても言い難いけれど。
おまわりちゃんと離れて。家に帰る。
あの子も、難儀な性格だなあ。
確か空手の有段者だとか聞いているけれど。
それでも変質者に絡まれたりしたら、無事では済まないだろうに。
あくびをしながら帰る。
あの人。私をいつもビッチ呼ばわりしていた。
立花という名前だったか。
まあもうどうでもいい。
今は、あれに会わなくても良くなったと想うと。
不思議と、気持ちが弾んで、仕方が無かった。
家に帰ると。
くらげさんに、早速ご飯をあげる。
不思議な夢を見たけれど。
別に人間を喰ったからといって、大きくなっていることもないし。食欲がないと言うこともない。
だけれど、どうしてだろう。
くらげさんは、水槽ごしに。
私を見ていて。
熱烈なラブコールを送ってきている。
そんな風に見えた。
もしそうなら、とても嬉しい。
私もくらげさんが大好きだからだ。
久々に、本当に久々にテレビをつけてみる。そうすると、あの大学の事件が、ニュースになっていた。
全身を強く打って死亡とか言っていたので、噴き出してしまう。
そうだったそうだった。
コレは確か、バラバラ死体になった時の隠語だ。
もしも夢の通りの状態になっているとしたら。あの立なんとかいう名前の人は、バラバラどころじゃないけれど。
それでもテレビでは、「全身を強く打った」事になるわけだ。
ご飯が進む。
何だか知らないけれど、こんなにご飯が美味しいと思った事は、他に無かった。そして、ベットに入ると。
凄く気持ちよく、眠ることが出来た。
翌日。
大学に出ると、今日は終日休講とか、入り口の門扉に看板が出ていた。噂話が聞こえてくる。
事件の重大性を鑑みてのことらしい。
そうかそうか。
それならば別に良い。
くらげさんを愛でることが出来るし。
何より、鬱陶しい人間と接しなくてもいい。どうでもいい相手とは言え、悪口とか言う雑音を聞かされると、流石に時々疲れもするのだ。
あくびをしながら帰る。
途中、近所でも有名なナンパ男が近寄ってきた。
完全に無視していると、舌打ちしてどっかに行ってしまう。
今度は、あれが喰われたら良いのに。
そう思いながら。
家にとうちゃく。
くらげさんは、元気も元気。
つやつやしているようにさえ思えた。
さっそくご飯をあげる。
そして、とても良い事があったと、話しかける。もちろんくらげさんは黙っている。喋ることが出来るはずも無いのだ。
現金なもので。
大学での変死事件は、その異常性だけが取りざたされていて。
おもしろがられていた。
ネットでも話題が過熱していて。
彼方此方のSNSでは、騒ぎにもなっている。
評判が悪くて、彼方此方で恨みを買っていたらしいと言う書き込みもあるけれど。その一方で、死者を聖人扱いしているものもあった。
あの子が聖人だったら。
全人類が聖人のような気もするけれど。
まあSNSなんてそんなものだ。
いちいち妥当性なんて気にしていられないし。
誰だってそんな事はしていない。
みんなおもしろがっているだけだ。
ソファにもたれてくらげさんをみていると。
また、いつの間にか、眠り込んでいた。
そして私は。
またくらげさんになって。
外を。
漂っていた。
2、じゃまもの
タチが悪そうなの数人と絡んで馬鹿笑いしているのは、近所に住んでいるナンパ男だ。いい加減鬱陶しいと思っていたのだ。
だから、自然と体が動く。
ふわりと、覆い被さると。
そのまま一瞬で、全身を噛み潰し、消化する。
やっぱりまずい。
人間なんて食べるものじゃない。
でも、不思議と癖になる。
この感触、中々捨てがたいものだ。
一瞬遅れて、ナンパ男の周囲の数人が、悲鳴を上げた。
あれれ。
ひょっとして、私が見えていないのか。
大騒ぎになる。
此処は何処かの居酒屋。
昼間っから居酒屋で酒を飲んで大騒ぎをしているような連中だ。どうせ碌な奴らじゃあない。
死体は、骨ごと溶けて無くなっている。
どうやらくらげさんは更にパワーアップしたらしい。
あの立ちなんとかさんを食べたからだろうか。
とにかく。
見えない上に、好き勝手に奇襲できることは分かった。
どうせ夢だろうけれど。
これはとても便利だ。
大騒ぎになった居酒屋から、客が外に出されて。警察が来る。
かみ砕くときに、腕の一部だけが千切れて、転がったのだけれど。それをしっかり回収していったくらげさん。勿論口の中に放り込む。ただ、血痕だけはどうにもならない。それはまあ仕方が無い。
すっかり酔いも覚め果てた様子の、バカ数人は。
警察に連れて行かれた。
事情聴取とか言うのをされるのだろう。
うふふふふ。
何だろう、とても良い気分だ。
そして、その理由に気付く。
コレは恐らく、あのナンパ男が飲んでいたお酒が、体に回ってきた、という事に間違いなかった。
目が覚める。
あの居酒屋は近所だ。
くらげさんに挨拶をすると。
すぐにお外に。
わくわくしながら、居酒屋に行く。
そうすると、なんと。
とっても嬉しい事に、警察がたくさん来ていた。
「今度は手首だけ残して、人間が一瞬で消えたんだって! その手首も、見つかっていないらしいよ!」
「マジかよ! 大学でも変死事件があったんだろ!?」
「死体も見つからないらしいよ。 本当に何があったんだろう」
「怖いね」
好き勝手な事を言っている人達。
私には分かる。
此奴ら、実際には。
みんな楽しんでいる。
SNS何かを見れば分かる。あれは人間の本音の坩堝だ。猟奇殺人事件が起これば、みんなお祭りのように騒ぐ。
自分に災厄さえ降りかからなければ。
みんなにとっては、遊びなのだ。
あくびをしながらきびすを返すと。
気付く。
おまわりちゃんだ。
「黒野さん」
「新道さんでしたね。 どうかしましたか?」
「私の家、すぐ其処ですから」
「奇遇ですね。 私もです」
笑顔で応じるけれど。
おまわりちゃんの目は、まったく笑っていない。言葉にはとげが無いけれど、何となく分かる。
この子。
私を疑っている。
ちなみにおまわりちゃんは、私より学年が一つ下だ。
本当だったら、敬語を使う必要はないのだけれど。
まあそれは別にどうでも良い。
「今度はおかしな事に、人がいきなり消えたそうです」
「そうですか?」
「何とも思わないんですか?」
「別に」
笑顔のまま応じる。
おまわりちゃんの表情は、どんどん険しくなってくるのが分かった。
きびすを返すと、おまわりちゃんは家に帰っていく。
まあ良い。
それに、今回も。
夢と何かよく分からない出来事が、同じように起きただけだろう。もしも私が夢の中で、くらげちゃんとして行った事が、本当に起きたのだとしたら。
それはそれで。
とっても嬉しいのだけれど。
流石に私も、其処まで楽観的では無い。
ただ、邪魔者が、二人続けてこの世から消え失せたのは事実で。それに関しては、乾杯したい位だ。
家に帰る途中。
コンビニに寄って、お酒を買っていく。
そして家に着くと。
さっそく祝杯を挙げた。
あの五月蠅いのにつきまとわれなくなるとおもうと、それだけで嬉しい。一緒に買ってきたケーキも頬張る。
そして、いつの間にか。
ソファにもたれかけたまま、眠ってしまった。
大学がまた全休講になっていた。
私はあくびをしながら、門扉の前に立ち尽くす。
そうかそうか。
そりゃあそうだろう。
いつも私の陰口をたたいていた集団の一人を、夢の中でむしゃっと行った。今度は、何も残さずに、全部食べた。
遺留品も無いから、警察も早々に引き上げたらしいのだけれど。
悪友数人と一緒に騒いでいたところを。
頭から丸かじりしたのだ。
流石にそいつらが大騒ぎ。
「猟奇殺人」が起きていたこともあって。
大学側も、無視できなくなったのだろう。
ただし。
今回は死体が出なかったと言うこともあって、周囲はまばらだ。狂言じゃ無いのかとか。騒いでいるだけだとか。愉快犯だとか。そんな声も聞こえた。
うふふふ。
思わず笑いが零れる。
髪を掻き上げると、目を細める。
どうやら、あの夢は。
本当らしい。
私は夢の中でくらげさんになって。
お外で人を喰らっている。
その時私は透明で。
建物の中だろうが外だろうが自由自在。
人は一瞬でムシャムシャとかみ砕くことが出来て。消化も瞬間。全部食べてしまえば、証拠も何もない。
人間が一人。
この世から、綺麗さっぱり消えていなくなるのだ。
私はくらげが大好きだ。
そして今も大好きだ。
というよりも、いっそのこと、本当にくらげになりたい。そして、まだまだいる不愉快なのを。
全部食べてしまいたかった。
振り返る。
視線を感じたからだ。
おまわりちゃんである。
「いつも笑顔ですね、黒野さん」
「ふふ、そういう新道さんは、いつも怒ってる」
「当たり前です! 人が亡くなっているんですよ!」
正義感が強い子だなあ。
ただ、この子のことは、別に嫌いじゃない。少なくとも、私の事を、知りもしないのにビッチ扱いしたりとか。
性交のためだけに声を掛けてきたりとか。
そういうことはしない。
いつも事件現場に現れて。
笑顔を保っている。
それに対して憤っているのであって。
筋は通っていると思う。
「何か知っているんじゃないですか、黒野さん」
「たまたま近くに住んでいるだけですよ」
「本当ですか」
「さあ、どうでしょうね」
くすくすと笑う。
周囲が、此方を見ているのが分かった。
「おまわりちゃん、くらげちゃんに喧嘩うってるね」
「やばいよ、行こう」
人が離れていく。
おまわりちゃんについて最近調べたのだけれど。
この子、前はいじめられっ子だったらしい。しかし、空手を習って実力をつけ。不良十数人を真っ向からぶちのめして。イジメを力尽くではねのけたそうだ。
それからだ。
自分に自信もついたのだろう。
生半可な男くらいなら、正面からたためる。
それは、大きい。
「こんな事、許せると思いますか?」
「不思議な事を言うね」
「何がですか」
「貴方もどちらかというと、最近の事件でいなくなった人達に、陰口をたたかれていた方でしょうに。 今だって、悪口言われていたの、気付いていましたか?」
首をすくめたのが何人か。
まさかとは思うが。
聞こえていなかったとでも思っていたのか。
これだからまったくどうしようもない。
まあ私にとっては。
それこそどうでも良いことだが。
「だからって、死んでいい人なんていません!」
「可愛いなあ、貴方」
「そんな事言われても、嬉しくありません!」
「ふふ、そう」
そのまま、帰る。
まだ何かおまわりちゃんは言いたそうにしていたけれど、関係無い。このまま私は。邪魔者を片っ端から喰らってくれる。
この時私は。
自覚していた。
今まで、空気同然に思っていた相手に。
やはり、殺意を抱いていたことを。
そして、結局の所。
力を得た以上。
それを使わざるを得ないのだと言う事を。
帰宅すると、くらげさんにご飯をあげる。やはり水槽の向こうから、此方に明らかな好意を示している。
この子は。
今までのくらげさんとは、別物なのか。
いや、品種としては同じもののはずだ。
ならば、どうして。
どうして私は。
この子に変化して、力を得ている。
それが分からない。
少しずつ。
確実に殺れるようになってきている。
夢の中で、私は。
くらげさんになる。
外に出ると、浮遊しながら、獲物の所に向かう。
今日も、散々陰口をたたいてくれた輩の所。私にしてみれば、どうでもいい相手だったはずだ。
だが今では。
殺意が滾っている。
殺したくて仕方が無い。
それを悟ってか。
くらげさんも蠕動する。早く獲物を喰らいたいと。
大丈夫だよ。
いま食べさせてあげるからね。
どうせ生きていても何ら意味のないクズだ。さっさと食べてしまっても、何ら問題も無い。
獲物は、いた。
休講中の大学では無い。
何処かの駅で、彼氏らしい男と口論している。
「だから何で、お前と同居なんかしなきゃいけねーんだよ!」
「今変な事件が立て続けに起きてることしってるでしょ!? あの辺り、怖くて住めないのよ!」
「巫山戯んな! 互いに体の関係だけだって割り切ってただろーが! 今更同居とか、勝手な事言ってんじゃねーぞ!」
「何よ、こういうときくらい頼ったっていいでしょ!?」
口論が激しさを増す。
それにしても、こんなのが。
私をビッチとか言っていたとは。
くすくすと笑いが漏れる。
いや、殺意か。まあどっちでもいい。兎に角一秒でも早く黙らせてしまうとしよう。ついでに男の方も消しておくか。
こんな連中。
生きているだけ不愉快だ。
古い時代の言葉に、同じ天を仰ぐのも嫌だという意味のものがある。確か不倶戴天とかいうけれど。
正にそれ。
こんなのが、同じ空気を吸って。
同じ景色を見ているだけでもいやだ。
くらげさんは、最初に比べて、ずっと大きくなっている。
だから、二人まとめて、ぱくりと一口。
そして一瞬でかみ砕いて。
何も痕跡は残さない。
消化して、滅殺。
栄養にされたことも。
この二人は気付かなかっただろう。
ごちそうごちそう。
大漁大漁。
くらげさんだから、したなめずりはできないけれど。触手をうねらせて、喜びに体を蠕動させる。
さあ、どうせいっそのことだ。
もっと古くから遡って。
私が物静かで、あまり喋らないからと言って。
散々迫害してくれた連中を、消して廻るとしよう。
そう思った瞬間。
気付いた。
誰かが見ている。
それは、おまわりちゃん。
どうして、私を見ている。
今、わたしはくらげさんで。他の人間には見えない事くらい、検証してあるのに。
まさか。
何かおかしな力でも、この子は持っているのか。
消すか。
いや、それは出来ない。
どうしてだろう。
くらげさんも、おまわりちゃんに手を出そうという考えには、到らない様子だ。くらげさんが考えるというのも不思議な話だけれど。兎に角、殺意を滾らせようとしても出来ないし。
襲うことも出来ない。
そもそもどうして、こんな所におまわりちゃんが。
あの子のことは調べた。
近所に住んでいて、この駅とは縁がないはずだ。ピンポイントで来ているというのは、あまりに偶然が過ぎる。
そう、私が。
襲撃する相手を決めていて。
その相手を尾行でもしていない限り。この場に居合わせることは無い筈だ。
何しろ今回は、一瞬で二人まとめて消した。
五月蠅いのが消えたと思った人はいるかも知れないけれど。そもそも、関心さえ払っていない人の方が多いはず。
だから、大丈夫だったはずなのだけれど。
急に不安がせり上がってくる。
目が覚めたのは、次の瞬間。
ぐっしょりと、全身に冷や汗を掻いていた。
くらげさんは。
水槽の中で漂っている。
そして、気付く。
くらげさんの透明な体に、赤みが差していた。人間を喰らって、その養分を得て。いや、血肉を直接取り込んで。
その結果、少しずつ、血の色素が入り込んでいるかのようだ。
可愛い事には変わりないし。
何よりこの子に同調して、邪魔なのを消していることはもう分かっている。
だから、この子が人間を喰らっていることは、不思議でも何でもない。
話しかける。
もっと食べたい。
そうすると、くらげさんは水槽の中で嬉しそうに触手を動かした。そう見えた。
基本的にくらげは、大きなプランクトンのようなものだ。
思考することはなく。
プログラムに従って動いていて。
だから泳ぐも流されるもその存在のまま。
それ故に嬉しそうにするなんてあり得ないのだけれど。
それをいうなら、私と同調して人を喰らう事だって、ありえないのだ。
何が起きている。
今更ながら。
私は混乱してきていた。
3、狭まる輪
ニュースになっている。
例の猟奇殺人の犠牲者と同じ大学の生徒が、行方不明になった、というものだ。
恋人というか、いわゆるセフレが一緒に死んだことは、何処のニュースでも殆ど触れていない。
「被害者の印象を悪くするから」というのだろうか。
アホらしい話である。
あくびをしながら、スマホを弄って、情報収集。
SNSでは好き勝手な噂話が飛び交っていた。
いわく、何処かの宗教団体に拉致されたとか。
政治団体が絡んでいるとか。
悪の組織の仕業だとか。
今更悪の組織という言葉をダイレクトに使う者は流石にいなかったけれど。陰謀論とかを基にして話を始めると。
それはもう、悪の組織の仕業と言って、思考停止するのと何ら変わりが無い。
どうでも良い連中だな。
私はそう思ったけれど。
チャイムが鳴って。
流石に煩わしいと思った。
外に出てみると。
何処で嗅ぎつけたのか、大手新聞の記者だった。
しばらく適当に話させておくけれど。
面倒だなと思った瞬間。
不意に、大きな声がした。
「其処、邪魔です!」
「何だ、君……」
黙り込んだ記者は、口をつぐむと、逃げていった。
あれ。
どうしてだろう。
声の主はおまわりちゃん。頭一つ分小さな女の子だ。それなのに、どうして、好き放題してきて、何ら怖れる事もなく。マスコミ以外の存在なんて、人間とさえ見なしていないような記者が。怖れて逃げていったのか。
おまわりちゃんは、じっと私を見ていた。
そして、言う。
「やっぱり貴方ですね、犯人」
「うふふ、何のこと?」
「あの巨大なくらげです。 たどってみましたけれど、犠牲者は、貴方の関係者ばかりだ」
「くらげ?」
しらばっくれてみせるけれど。
鋭い眼光は、ずっと私を射貫いていた。
やっぱりこの子、喰ってやろうか。
そう思うけれど。
やはり出来ない。
この子は、まっすぐ私に直接感情をぶつけてきている。得体が知れないと気味悪がって、陰口をたたいてきた連中とは違う。
あいつらは、そもそも私を人間扱いせず。
悪口を好きなだけ言って良い「ツール」として扱っていた。
だから殺してやりたいと思ったし。
喰ってやっても、何ら後悔はない。
今の時代が、そもそうなのかも知れないけれど。
人間は基本的に。
そういう生き物だ。
だからこそに。ツール扱いしている相手を、逆にツールとして見て、何が悪いのだろうと私は思う。
弱者は殴られ続けていろとでもいうのか。
反撃した瞬間、弱者には何を言う資格もなくなるというのか。
少しずつ、不満が心の中から溢れてくる。
今までは、決して表に出なかった感情だ。
それがこれほど表に出てくるのは。
やはり、自分に生の感情をぶつけてくる相手が、目の前にいるから、だろうか。
「貴方はとても綺麗なのに。 こんな残虐行為を行うなんて」
「何を言っているか分からないですよ」
「見えているって言っています。 ……次は、もう先回りして、同じ事なんて絶対にさせませんよ」
「ふうん……」
警告のつもりだったのだろう。
身を翻すと、おまわりちゃんは敷地を出て行った。
嘆息すると、ドアを閉めるが。
すぐにチャイムがまた鳴った。
今度は、本物の警察だった。
警察手帳を見せると、壮年の四角い男性刑事は、任意同行を求めてくる。
流石だ。
多分殺された人間の交友関係だけをたどって、私を割り出したのだろう。だけれど、証拠なんて何も無い。
黙っていれば良いだけのことだ。
任意同行には応じる。
そうだ、くらげさんのご飯はどうしよう。
まあそれはいい。
先に刑事に話をして、くらげさんにご飯をあげたいことを告げる。そうすると、男性刑事は、ゆっくりと頷いた。
そのまま、パトカーに乗って、任意同行に応じて。
署に行く。
だけれども、証拠などない。
交友関係の延長で、私が浮上したという事だ。
だから怪しい事がないか、私を探りに来ただけと言うことは分かっていた。
刑事はしばらく色々な話をしたけれど。
それだけ。
夕方には、家に戻る事が出来た。
あくびをしながら、家に帰る。
くらげさんは、別に餓死することもなく。
ゆっくりと水槽の中を漂っていた。
あれあれ。
何だか赤みが増している気がする。
不思議だけれど。
ひょっとしてこの子、遅れて人間の色素を吸収しているのだろうか。まあ、どうでも良いことだ。
多分外では警察の監視がついている。
だからむしろ都合が良い。
私は敢えてカーテンを開けると。
あくびをしながら、ソファにもたれて。くらげさんを見つめた。
完璧なアリバイを、こうやって作れる。
くつくつと笑いが漏れた。
どちらにしても、尋常な法では、私に迫る事は出来ない。
だけれど、おまわりちゃんの事は不安だ。あの子は見えていると言った。くらげさんと一緒に、喰らって廻っていることを見ているとしたら。
次はどんな風に邪魔をしに来るのか。
大学で鬱陶しいのがまだ何人かいた。
そうそう。一人本当に面倒なのが残っていた。
教授の一人なのだけれど。
私の悪い噂を真に受けて。
それだけで、レポートに散々難癖をつけ。評価を下げてきた奴だ。
はげちゃびんの太った男だったのだけれど。
なんと呆れたことに。
最初、私に関係を迫ってきた。
それを袖にしたことを、逆恨みしている部分もあったのだろう。
彼奴を消していなかったのは迂闊だった。
マークされる前に、先に消しておくべきだった。ぼんやりとしているうちに、夢の中に。おまわりちゃんという不安要素は確かにあるけれど。
彼奴を消さないと、今後はもっと不安だし。
何しろあれが生きているという事でさえ不愉快だ。
消そう。
そう思って、気付くと。
私は、知らない建物の中に浮かんでいた。
何だ此処は。
そして、気付く。
多分コレは、警察のセーフハウスだ。
なるほど、そういうことか。
警察の方では、私を重要参考人として、マークしているという事だ。そしてかなりの数の警察が、家の中にいて。
青ざめたはげちゃびんが、肩身が狭そうに、ソファに座っていた。
尋問しているのは、この間来た、壮年の刑事だ。
「本当に身に覚えがないんですね」
「し、知らない! 生徒なんて毎年何人見ていると思っているんだ!」
「その生徒達から、苦情が出ているんですよ。 貴方に体の関係を迫られて、断ったらレポートを落とされたり、評価を下げられたってね。 今、大学で行方不明になったり殺人に巻き込まれた生徒の関係延長線上に浮上してきた人物も、貴方に同じような扱いを受けたのではないかなと思うのですが」
「そ、そんなこと、知らん、知らんぞ!」
見苦しくわめくはげちゃびん。
さて、喰ってしまうか。
そして、気付く。
警察の中に。
白衣を着込んだ、おわまりちゃんがいる。
あれ、なんで。
警察の中に、あの子が混じっている。
そして、おまわりちゃんは。
既に私に気付いて。
此方をずっと見つめていた。
「新道警部補、どうしました」
「……」
警部補。
確かにそう言われたか。
妙だ。
日本の警察制度だと、確か結構な学歴でないと、キャリアにはなれないはず。あの子は私と同年代で、警部補なんかになれる筈がない。これでも大学で公務員を目指した身だ。それくらいは知っている。
しかも何故、警官というなら、白衣を着込んで現場にいる。あの若さなら、将来の幹部候補は確実だろう。
それとも。
研究者か何かのようだ。
それにあの鋭い視線。
本当にカタギか疑わしい。
しばし黙り込んでいると。
おまわりちゃんは、此方に歩み寄ってきた。
「やはり来ましたね」
周囲の刑事が、一斉に此方を見た。
おまわりちゃんが独り言を言っているのでは無いと、皆知っていると言うことだ。
そしておまわりちゃんは、何だかよく分からない銃みたいなものを取り出す。
見えているのは、あの子だけ。
他の奴は、脅威にもならない。
というよりも。
不思議な話だけれど。
この状態でも、あのおまわりちゃんに憎悪は湧かないし、喰ってやろうとも思わないのだ。
周囲の警官達も同様。
邪魔者は皆殺しと考えるのが、サイコパスかも知れない。
そして今の私は、恐らくサイコパスだろうけれど。
それでも。
不思議と、殺そうとは、思えなかった。
「考えは分かります。 私を消してしまえば、周囲からは見えない。 だけれども、私を消そうとは思えない」
「……」
その通りだ。
おまわりちゃんは、まだ動かない。
だけれど、私は。
此処から逃げようとも思わなかった。
くらげさんの体を使って、動く。
喰おうとするのでは無くて。
体当たりを浴びせて、おまわりちゃんをはじき飛ばそうと思ったのだ。
だけれど、一瞬早く、おまわりちゃんの持っていた銃が、火を噴く。本物だったのか、あれ。
SFか何かのアニメに出てきそうなデザインなのに。
そしてそれは。
くらげさんに直撃すると。
その隠密性を、一瞬で消し去っていた。
周囲から、恐怖の声が上がった。
そうか、見えたのか。
人食いの怪物とかしているくらげさんが。
私が。
「もう、見えない怪物ではありませんよ」
「……そうですね」
「喋った!?」
警官の一人が呻く。
私も驚いた。
くらげさんと一体化している状態で、喋ることが出来るとは、知らなかった。色々と、驚くことばかりだ。
腹をくくる。
この様子だと、多分もうどうにもならないだろう。
状況から言って、おまわりちゃんが警察と重要な関係にある存在だと言う事はわかった。警部補とか呼ばれていたし、何か良く分からないけれど。とにかく強い影響力を持っているのだろう。
このまま、おまわりちゃんを殺して逃げるのがベストだ。
だけれども。
やはり、殺せない。
其処で小便をチビって腰を抜かしているはげちゃびんだったら、即座に喰らってやりたいのだけれど。
震えながらも、此方に銃を向けている警官達も、襲おうとは思わなかった。
やむを得ない。
ふわりと浮き上がると。
銃弾を浴びつつも、はげちゃびんを、一瞬で喰らう。
悲鳴も上がらなかった。
何だかひどく全身が痛む。
銃弾が食い込んでいるのがよく分かる。
それでいながら。
巨体に成長したくらげさんの全身を貫通するには到らない。
何しろ分厚いのだ。
「逃がさないで! ネット!」
わっと、警官達が、ネットをかぶせてくる。
だけれども、それは遅い。
私は目的を果たしたら。
いつのまにか、家についているのだから。
目を覚ます。
そして、鈍痛に気付いた。
撃たれたのだから当然だろう。くらげさんは。水槽を見ると。その中で、きずついたくらげさんが、体を震わせていた。
そして、水槽が。
見る間に赤く染まっていく。
何となく理解している。
くらげさんが傷ついたことで。
水槽に、今まで喰らった死体のパーツが、逆流してきているのだ。
一瞬後。
水槽が、内側から破裂して。
其処には、未消化の内臓やら何やらが、大漁にぶちまけられていた。
あーあ。
これで完全犯罪も成立しなくなったか。
この有様では、死体を隠すどころではない。
くらげさんは。
あれ、いない。
死体をかき分けて探すけれど。
くらげさんの残骸さえ見つからない。
どうしたのだろう。
そう思った次の瞬間、私の体に異変が起きた。
軋む。
全身が、歪む。
強烈な脱力感がある。
死体を見ても何とも思わなかったのに。
次の瞬間には、吐き戻していた。
それだけじゃあない。
服を内側から破って、肉がふくれあがっていく。体が見る間に、人間ではなくなっていく。
何となく分かる。
致命傷をうけたくらげさんが。
私と一体化することで。
そのダメージを回復しに掛かっているのだ。
そしてその有様は。
私を監視している刑事から、丸見えだろう。
ははは、これは終わりだ。
ドアが激しくノックされる。
次の瞬間には、窓が外から蹴破られ、武装した警官が数人飛び込んできていた。
「アタック!」
警官の台詞では無いような気もするけれど。
よく見ると此奴ら、何だか服からして、軍隊みたいだ。
特殊な任務を果たす部隊の人間かも知れない。
持っている銃も、ショットガンみたいなやつで。少なくとも、警官では無かった。
大量の銃弾を浴びて。
私の肉がはじけ飛ぶが。
致命傷にはならない。
多分だけれども。
あの小さなくらげさんでも、人間をひとのみにできたのだ。
それが私と融合したら。
くらげのなかで、最大のサイズのものは、全長五十メートルにもなる。コレは長さだけの話だけれど。
日本近海のものでも、えちぜんくらげは傘の直径が二メートルに達することがあるし。
巨大なくらげは、実は珍しくもない。
見る間に巨大化していく私は。
家を内側から突き破り。
危険を感じたらしい警官達は、崩壊する家から飛び出していった。
姿を隠せていないのだろうか。
周囲が騒ぎになっている。
そうか、そうだそうだ。
そもそも警官達は、変貌する私を見て、躊躇無く撃ってきたじゃないか。姿は丸見えという事だ。
なら、もうどうでもいい。
この姿のまま、恨み重なる連中を、片っ端から喰い漁ってくれる。
そもそも私は、くらげさんと一体化できるなら、何の未練もない。
というよりも、人としては。
最初から死んでいたのも同然だ。
この国で、コミュニケーションが苦手と言う事が、それだけで死と同義だという事くらいは。
私でもよく分かっている。
技術なんていらない。
要は印象だけ。
それがこの国で求められること。
印象さえ良ければ仕事なんて出来なくてもまったく誰も気にしない。
むしろそういう人材だけが求められる。
それが現実。
どうせ終わっている人生だ。
それならば、このまま周り中の人間を喰い漁って。魔物としてその存在を終えるのだって、悪くは無いだろう。
体が、揺れる。
何だ。
ミサイル。
見ると、警官隊の一部が、ロケットランチャーを持っていた。
SATだかなんだかの特殊部隊でも、そんな重装備を持っているとは聞いたことが無い。となるとあれは、やっぱり表沙汰にされていない特殊な連中で。おまわりちゃんも、その一人なのだろう。
空を泳ぎ、逃げるけれど。
どうしてもくらげは鈍重だ。
追いすがって来るミサイルを振り切れない。
次々と着弾。
爆裂して。鮮血をぶちまける。
ゼラチン質なのだ。所詮分厚い皮といえど。
そうなると、ミサイルの直撃なんて喰らったら、どうしようもない。
最後に、誰か、道連れに。
群衆が集まってきている。
空に突然現れた巨大怪獣を見て、大騒ぎしている。
その中に、見た。
私に陰口をたたいていた連中が、何匹かいる。
何匹。
そうか、ついにそう数えるようになったか。
私は笑いながら、触手を伸ばし。
そいつらを口に運んで、一瞬で消化した。かみ砕く必要さえない。
鋭い音。
空気を切り裂く。
ヘリだ。
それも、両側に武器を一杯つけている、戦争のためのヘリ。コブラだったっけ。アパッチだったっけ。
まあどうでもいい。
それが、周囲にいつの間にか十機以上いて。
一斉にミサイルを、くらげさんに、いや私に向けて放っていた。
爆裂。
容赦のない暴力。
致命傷だ。
煙を上げながら、私は落ちていく。
だけれども、それでも。
なおも私は。
如何に多くの人間を、道連れにするかを考えていた。
でも、必要ない相手は殺したくない。
逃げ惑う群衆を見て。
その中から、恨みのある奴だけをロックオンして。
まだ動く触手で捕縛。
喰らう事が出来そうにない奴は。
その場で刺胞を叩き込む。
くらげの触手には、刺胞という毒針が格納されている。ペット用に売られているくらげは刺胞も無害なことが殆どだけれど。
しかし今は、サイズがサイズだ。
刺胞を叩き込まれれば人間なんて即死である。
地面に激突。
まだヘリが、ミサイルを叩き込んでくる。
全身が熱い。
そして、私は。
くらげさんと一緒に死ねるのだなと思って。
そして満足した。
新道香は、結局こうなったかと思いながら、現場に到着。
わかりきっていた。
陰陽寮から、連絡は来ていたのだ。
憎悪があまりにも集まりすぎて、暴走すると。そして、案の定。被害を最小限に抑えるための措置を執ることしか出来なかった。
マスコミは既に黙らせたけれど。
もうこれは、どうしようもない。
SNSでの情報拡散は避けられないだろう。
もっとも、それに関しても、既に手は打ってある。
自衛隊は撤退を開始。
被害者は。
黒野名波の関係者だけ。
不思議な事に、あの巨大クラゲは。
地面に激突したときも。
下敷きにした人間を殺傷せず。建物も傷つけなかった。自分が恨んでいる相手を除いて、だが。
「見つけました!」
部下の一人が声を上げる。
建物の影に。
それはあった。
幸せそうな顔で死んでいる黒野名波。何の悔いもない顔をして死んでいた。とても安らかな顔だ。
そしてその上で。
のたうち廻っているのは、くらげだったもの。
社会から阻害され。
笑顔を保ち続けながらも。
増幅された憎悪が集積し。
単純な生き物が故に、変貌も早く。
その願望を叶えるための魔神とかして、多くの存在を喰らって行った化け物。人間によってねじ曲げられた生命。
このくらげに罪は無いけれど。
しかし、もはやこうなっては、生かしておく訳にはいかない。
そのまま銃を取り出すと、撃ち抜く。
すぐにくらげは動かなくなった。
元々海中の生物で。
黒野の狂気を受けて、彼処まで巨大に変貌したのだ。黒野が死んでしまえば、全てはただのくらげに戻るだけ。
死体が搬送されていく。
反吐が出そうだった。
ここ10年で、同様のケースが多発している。
同じように狂気を浴びて魔神と化し、大暴れする生物は、様々だ。イヌや猫だったりする場合もある。
時には昆虫だったりもする。
繁殖力の強い昆虫が、このケースに該当した場合。即座に自衛隊にコールが掛かる。もしも巨大殺戮昆虫が大繁殖でもしたら、世界が滅亡の危機にさらされるからだ。
髪を掻き上げる。
同年代の相手だし。
色々と、感情移入はする。
だから、大学に潜入して、周囲を術で誤魔化してまで、あんな真似をした。本当は大学に何て所属していないし、認識をずらしただけなのだ。
何より、新道も周囲に友達が多いとは言い難い環境に育った。昔は阿部と呼ばれた陰陽師の一族の末裔であり。今では警察に名誉顧問として、訳が分からない事件の担当官として招かれている身だ。
怠け者の、人間でさえない上司の面倒を見たり。
こんな風に、むしろ周囲の方が悪い事件を担当したり。
毎日ストレスで胃を痛めそうだけれど。
それでも新道は警官だ。
多くの「無辜」の民を守らなければならない。
それが実際には悪意に満ちていても。
現実がどれだけ腐っていてもだ。
部下が来る。
敬礼を受けて、頷く。
「処置、終わりました。 倒壊した黒野名波の家から、被害者の死体の一部が発見された様子です」
「黒野に親族はいないのだったな」
「はい。 天涯孤独の身です」
「そうか」
連続殺人犯の検挙に成功したと報道するように、伝達。
この事件については、まあどうにかもみ消す。
ミサイル代くらいは、どうにか予算から引っ張り出せるだろう。
襟を直すと、新道は歩き出す。
これがどれだけ腐った現実の結果であっても。それを処理しなければならないのが、公僕というものなのだから。
そして、これは常識の範囲内では対応出来ない事件でもある。
大きくため息をつくと。
新道は、この事件の後片付けをするべく。
職場に向けて、歩くのだった。
4、新しい世界
何か見えた。
手を伸ばす。
それは光。
そして、自分は。
闇の中にいる。
手を伸ばして、届かない。息が出来ない。口から、ごぼごぼと泡が零れた。何だろう、とても苦しい。
此処に私は、いるべきではないのだろうか。
唐突に視界が晴れる。
其処にあったのは。
海だ。
私は呼吸できている。というよりも、何だ。私という存在が、海の中に溶け込んでいると言うべきか。
人としての感覚が、確かにあるのだけれど。
それ以上に、多数の感覚があって。
そして気付く。
私は。
あまりにもたくさんのくらげになっている。
くらげはたくさんたくさんいて。
殺されても喰われても死んでも、消えない。
何億年も生きてきた品種だ。
消えない。
生半可な世界の変動では、この種族を消す事さえ出来なかった。そういう、大変強靱な種族なのだ。
だからこそ、海の中で。
私はたくさんいて。
そして、消えることもなく。
今、ただ安らかに。
静かな時を過ごすことが出来ている。
空が見える。
自分では出られない場所。
でも、知っている。ミズクラゲは、不意に水たまりに発生する事がある。それだけ、くらげは汎用性が高い種族なのだ。
だけれども、どうしてだろう。
何故か苦しみはなくならない。
時々、体中を刺すような痛みが走る。
少しずつ。
その痛みの理由が、理解でき始めた。
死だ。
多数のくらげたちが、色々な理由で死んでいく度に。
体に痛みが走っている。
だから苦しい。
何度も、空に向けてもがくことになった。
自覚してしまうと、後は地獄だ。
間断なく痛みは走る。
くらげはどうしても、数で勝負するいきもの。そして自力で苦境を乗り越えることが出来ないいきものでもある。
流されて、食べるだけ。
それしか機能を持っていない。
だから、なのだろう。
私は、くらげと、親和性がこんなにも高く。
そして死んだ後は。
くらげそのものと化したのだ。
人としての感覚が生きたまま、である。
オカルトは信じていなかった。
だが、この有様だ。
オカルトはあると判断するしかない。それにくらげさんと一緒に人間を喰らっていたとき。すでにオカルトは実証されていたではないか。
だとすると、これは。
ひょっとすると、ただ痛みを味わい続けるだけの拷問だろうか。
ああ、そうか。
いわゆる地獄、と言う奴か。
でも、不思議な事に。
私は、穏やかな気分だった。
痛みは間断なく走り続けているし、とても苦しくて、時々窒息しそうになるけれど。それでも、平穏な心の世界にあった。
なぜなら。
私はくらげ。
ただようものと化したのだから。
ここではくらげ以上でも以下でもなく。
たくさん死んで、たくさん生まれ出てくる。その過程で痛みが走るけれど、それだけだ。少なくとも、もうあの煩わしい連中とは関わらなくても良いし。
何より、此処は静かだ。
生きるときも死ぬときも。
それが、とても素晴らしいと思えた。
膨大な数のくらげが、水面近くを泳いでいる。
光を浴びながら。
勿論たくさんの動物が襲いに来るけれど。
とても食べきれる数では無い。
だから私は。
陽の光を浴びながら。
ただ静かに。
くらげとしての時間を、過ごし続けていた。
(終)
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