邪神の騎士

 

序、邪神の軍勢

 

ローマ帝国軍第三軍団司令官コロムドゥスは、馬上で退屈を噛み殺していた。今回は、あまりに楽な任務だからだ。エウロピアの隅々まで張り巡らされた石畳の街路は、快適な旅を約束してくれる。軍に入って十年が経つが、すっかり鎧の重さにも慣れている今、苦労は全く無い。

元々反乱勢力が燻っているガリアにて、大規模な蜂起があった。コロムドゥスに与えられた任務は、それを鎮圧するだけである。勇猛なゲルマン人が多くいる地域もあるにはあるが、今回蜂起があった地域は違う。まとまりもなく、兵力も少ない。一息に蹴散らせるのが分かり切っていた。

戦列を崩さず進む兵士達は、ぎらついた目を輝かせている。彼らの目的は略奪と婦女子への暴行だ。こういった戦いの場合、反乱勢力の鎮圧という名目で、ある程度の制裁が行われる。特に反乱鎮圧直後の村や町では、兵士達に治外法権が与えられるのだ。若い女を犯そうが暴力のままに財宝を奪おうが自由なのである。もちろん子供を惨殺してもいいし、家に火をつけても良い。日頃の鬱屈を、凶暴な行動で発散し放題だ。兵士達がやる気を出すのも無理はない。そしてコロムドゥスに、それを止める気はなかった。それが、戦場の習いだからだ。そして、反乱を起こす以上、それくらいの覚悟はしていて当然であろう。

しかし、妙な反乱である。馬上で今度こそ大あくびしながら、コロムドゥスはおびえきった執政官の顔を思い出していた。

今から向かうガリアのセレネンデス地方は、気候が安定していて、反乱に荷担することも少ない、穏和な土地であった。ローマ帝国の締め付けも厳しくはなく、故に今回の件はよく分からない。現地から逃げてきた執政官は、「邪神」が現れたとか繰り返すばかりで、要領をまるで得ない。どうせ、地元に巣くう邪教の徒が、怪しげな幻でも見せたのだろう。そんなものは、特殊な条件下でしか意味をなさない。晴天の下では、幻など何の役にも立たないのだ。兵士達は皆それを知っている。だから、これから行って、似非幻術使いどもを、皆殺しにすれば済むことであった。

セレネンデスの近くに到着。開発が遅れているこの辺りは、町と街路以外全てが森だ。少し前に川沿いの平地があるので、兵士達を其処まで下がらせて、野営させる。一応斥候を派遣するのは、最低限の義務だからだ。可能性は低いが、ゲルマン人の過激派どもや、コンゴ王国の尖兵が反乱に荷担しているかもしれない。もしそうなると、負けるとは言わないにしても、大きな被害は出るだろう。5000といえば小国を蹂躙できるほどの圧倒的な兵力ではあるが、消耗させてしまっては後々の立場が悪くなる。

天幕が張られたので、その中で休む。明日だけで勝負はつくだろう。後は略奪した女の中から適当にいいのを見繕って、壊れるまで楽しんだ後は、ローマ帝国に大勝利を報告すればいい。

流石に、戦いの前には女を近づけることはない。木と布を組み併せて作った簡易寝台の上で、大あくびをする。伸びをして、寝台に転がって。燭台の火を消して、眠りについた。明日の事を、楽しみだと思いながら。

翌朝、いい気分で目覚めて陣形を整え直したコロムドゥスは、堂々とセレネンデスに進入した。斥候は、敵兵が一人もいないと告げてきていた。

周辺の村や小さな町を含めても、人口20000に達しないと言われているセレネンデス州である。5000もの戦力を整えて侵入すれば、一撃の下に屠り去る事が出来る。しかも此方は訓練を受けた軍隊で、勿論鎮圧戦の経験も積んでいる。何一つ負ける要素はない。しかも味方は気力十分。しかも餌を前にして、欲望にいきり立っている。後は敵が現れたら、けしかけるだけでよい。

斥候も、町は静まりかえっていると報告してきている。住民どもは、おびえきっているのだ。楽勝だと、コロムドゥスは考えていた。一応防衛設備はあるが、一揉みに押しつぶす事が出来るだろう。

町のすぐ手前に、平原がある。そこで敵は布陣しているだろうと、コロムドゥスは予想していた。其処までは的中した。的中しなかったのは、その後である。

兵士達が、騒ぎ始める。馬上で遠めがねを手にしたコロムドゥスは、絶句していた。

最初、馬かと思った。だが、違う。背に人間の兵士を乗せたそれは、明らかに馬とは異なっていた。

「な、何だあの生き物は!」

前にいる近衛兵が叫んだ。それを止める気にもならない。

馬に似たその生き物は、500ほど。いつの間に現れたのか、全く分からなかった。近くの川からあがってきたように見えたのは、気のせいだ。そんなはずはない。気のせいの筈なのに、その異形どもは整然と陣をくんで、待ちかまえている。大きさは、ランスチャージに用いる大型の汗血馬よりふた周りほど上回る程度。かなり巨大な体躯だが、象兵を見たこともあるコロムドゥスには、想像の範疇だ。問題は、そのほかの特徴である。体色は緑色で、足下は水かきにも見える。何よりも頭部が異常だ。数本突き出しているのは、角か、いや違う。柔軟に折り曲げていたり、のばしたりしている所を見ると、蛸や烏賊のような触手であろうか。

動揺する兵士達をあざ笑うように、敵が動き出す。前線の司令官達が、指示を飛ばす。敵は高所にいるから、分厚く陣をくんで、まず矢の雨を浴びせるのだ。兵士達が分厚い盾を構えて壁を作る。素早く柵をくむ者達もいる。

馬は火を苦手とする。だから、火矢は特に経験の浅い騎馬兵には大敵となる。その法則は、殆どの動物に通用する。だから、常識的な戦術として定着しているのだ。

やがて敵は、だく足からの疾走に入った。坂を駆け下りてくる敵の速度に、コロムドゥスは目を見張った。速い。馬の比ではない。慌てる兵士達をあざ笑うように突き進んできた敵の一団は、浴びせかけられる火矢などものともせず、そのまま速度を落とさずに、柵に突っ込んできた。

柵が、吹っ飛ぶ。

衝撃的な光景だった。頭を低くして突撃してきた敵は、柵を力ずくで吹っ飛ばして、陣に入ってきたのである。

コロムドゥスが指示を出す暇もなかった。見る間に歩兵が蹂躙され、怒号と悲鳴が交錯した。騎兵が迎撃に掛かるが、そのとき敵が頭を振るった。触手が唸り、騎兵が馬ごと真っ二つにされて、地面にたたきつけられる。剣が、槍が、ローマ軍の正式採用している武具が、どれも一撃で寸断される。盾など役に立つ暇もない。そして唖然としている兵士は、馬よりも大きな体に踏みにじられた。

敵の一団をくい止めようと、槍をそろえた歩兵達が、雄叫びを上げて突き掛かる。さっとそれをかわして下がった敵は、今度は首を返して逃げ始める。逃げ腰になっていた兵士達が、その後を追おうとするが、すぐに足を止めた。理由は、後ろから見ていたコロムドゥスにも分かった。

空から、何かが来るのだ。陣を横切るようにして飛来したそれは、鳥にしてはあまりにも大きく、異様な形状をしていた。

「エイだ……」

誰かが呟いた。海に住むエイに、それは確かに似ていた。しかも、数百はいる。それは編隊を組んで中空から飛来した。その口が輝くのを、コロムドゥスは見た。

次の瞬間、視界が漂白され、鼓膜が破れた。気がつくと、コロムドゥスは地面に転がっていた。馬は横倒しになって死んでいる。辺りは屍の山であった。

立ち上がろうとして、右目が見えないことに気づく。左手の中指も無くなっていた。あのとき、吹き飛ばされたのだと、気づく。体中が捻り切られたように痛かった。うめき声が聞こえる。

何歩か、進む。ことのほか、歩きやすい。当然の話である。

陣が、丸ごと無くなっていたのだ。

柵もない。皆、蹴散らされ、踏みにじられた。天幕もない。近くに大きな焼け跡が残っていた。兵士達もいない。黒こげになっていたり、ばらばらに引きちぎられていた。

あの馬のような生き物は、これを避けるために逃げ出したのだ。乾いた笑い声が漏れる。空は晴れていて、何も妙な様子はない。これは幻術ではない。ローマ帝国の、一個軍団が。死をおそれない回教徒や精強無比なコンゴ王国軍と戦い、鍛え抜かれてきた精鋭達が。

ほんの一刻も経たないうちに、地上から消滅したのである。

体の痛みなど忘れ去って、コロムドゥスは呆然と立ちつくした。退却の指示を出そうと思ったが、やめた。そのような命令を聞く部下など周囲には一人もいなかった。数歩歩いて、倒れた。どこか内蔵が傷ついているらしいと、血を吐いて気づいた。

最後の力を振り絞って、コロムドゥスは仰向けになった。

太陽の光が、くどすぎるほどに注いできている。こんなにもまぶしいのに。白昼堂々、どうやら本当に邪神によって自分は踏みにじられたらしい。そう思うと、おかしくなってきた。天主教など最初から信じてはいなかったが、最後まで宗旨が代わることはないだろう。何故なら。このような邪神が地上にいるのなら。神など大した事はないのだろうから。

最後に、乾いた笑みが漏れた。

コロムドゥスの時は、それをもって停止した。

 

セレネンデス州に「邪神」が現れ、ローマ帝国の一個軍団を消滅させた衝撃的な事件は、瞬く間に世界を駆けめぐった。

おりしも、ローマ帝国は天主教を国教に据え、社会の安定を図っていた時期である。アフリカ大陸から侵攻してくる強力なコンゴ王国軍との戦闘も激化する一方であり、天主教の優位性を根元から覆しかねない情報に、ローマ帝国は混乱に落ちた。

すぐに数個軍団からなる精鋭部隊がセレネンデスに派遣されたが、被害を増やすだけにとどまった。慌てたローマ帝国は総力を挙げた。各地の有力諸侯に檄文が出され、十万を超える軍が編成されたのである。回教徒を再起不能なまでに叩いた今、重要な敵はコンゴ王国だけという状況であり、ローマ帝国は遠征に威信をかけていた。しかし、それにも完膚無きまでに敗北した。その軍には天主教から派遣された僧兵も多く混じっており、彼らの祈りは何の役にも立たず、邪神の力を証明することとなってしまった。神も天使も、不埒な邪神を討伐するために、姿を見せることなど無かったのである。

奇跡は起こらない。力では、かなわない。幸い敵には領土的野心があまり無いらしく、奇怪な生物が隣の州に侵攻してくることはなかった。数年間の調査の末に、ローマ帝国は力による鎮圧をあきらめ、懐柔に取りかかった。ローマ帝国の権力中枢に食い込んでいた天主教勢力も、これ以上己の体面に傷が付くことをおそれ、懐柔策に賛成。使者が邪神領に派遣されることとなった。

邪神は使者達の前に姿を見せることさえなかったが、ローマ帝国との同盟は、かろうじて成立した。邪神側の要求は、いくつかの州の割譲と、軍事侵攻の厳禁。さらに、セレネンデスおよび周囲数州の出身住民を迫害しないことだけだったのである。ローマ帝国からすれば、いくつかの戦略的価値が低い州などに興味はなく、すぐに同盟は成立した。近隣の住民達は恐怖から解放され、交流も再開された。

そうして、セレネンデスは新たに「セレネンデス公爵領」となり、謎の存在「邪神」には、公爵の地位が与えられたのである。

それより五十余年。人々の畏怖の中。

邪神領とも呼ばれるセレネンデス公爵領は。今だ、ローマ帝国の中に、存在し続けていた。

 

1、幼き願い

 

自分以外に誰もいない礼拝堂。十字架に掛けられた神の子。跪いて、祈りを捧げる小さな姿。

今日も、祈りの内容は決まっていた。ここ数年、祈りの内容に変化が生じたことはない。

「お願いします、神様」

呟く。組み合わされた手は小さく、肌は桃色である。敬虔なその神の僕は、まだ幼い娘であった。この孤児院にいる子供達の中では一番年上ではあるが、まだ初潮も来ていない体は、栄養が不足しているために平均よりも更に小柄である。サニスという名前を持つ娘は、祈りを終えると、小さくため息をついた。

今日も、神様は応えてはくれなかった。

サニスは肩を叩くと、小さな礼拝堂を出る。日の光に、茶けた短い髪が晒された。コバルトブルーの瞳が見たのは、どうしても手入れが行き届かない孤児院の惨状。自分よりも更に幼い子供達の面倒を見ながら、手入れをするのは不可能だ。しかも、娘は院長先生の世話もしなければならないのだ。

まだ、日が昇って間もない。だが、もう仕事をしなければならない時間でもある。

礼拝堂の隣にある、小さな家がサニスのすみかだ。離れには院長先生が寝ている。サニス達が住んでいる家は、食事をするところと寝るところしかない。院長先生の家はもう少し広いのだけれども。病気が移るといけないからと言うことで、お世話をするとき以外は、中には入ることが出来なかった。

洗濯物を一枚ずつ干していく。量が多いし、井戸が遠いから、かなりの重労働だ。それが済むと、ひび割れかけた竈に火を入れ、食事を作らなければならない。昨日遅くまで集めた薪を、竈に運ぶだけで一苦労だ。

重さに痺れた手に息を吹きかけて、作業を再開。真っ赤になった手にはあかぎれが目立つ。

火打ち石を使って、火をおこす。竈は煙をせっせと吐いて、もう寿命であることを主張しているが、まだ頑張ってもらわなければならない。邪神様によって補助費は出ているという話なのだが、渡されるお金の殆どは食費をはじめとする生活費に消えてしまう。

外で、鐘が鳴り始めた。子供達が起きてくる時間である。一つ年下のアニーは最近お料理の手伝いは出来るようになったが、まだ危なっかしくて薪割りは任せられないし、体力がないから朝早くにも起きられない。他の子供達はもっと幼くて、本当に簡単な手伝いくらいしか出来ない。

サニスが、やらなければならないのだ。誰も、手伝ってくれる大人はいないのだから。

アニーが起きてきた。サニスよりもっと背が低い彼女は、二つ年下の実弟の手を握っている。他の子供達も、めいめい目をこすりながら起きてくる。着替えくらいは一人で出来る子から、そうではない子まで、年齢層はばらばらだ。一番下のユニに至っては、やっと歩けるようになった有様である。

子供達に、小さなパンと、粥を配る。おいしい料理など、出せるわけもない。町で買い込んだ安物の素材を、精一杯焼いて煮込んで。それでも、生きていくのにやっとの量しか出すことが出来ない。粥を食べてしまった男の子が、椀を出す。

「サニスお姉ちゃん、もっと食べたい」

「ごめんね。 もう、無いの」

「ほら、サニスお姉ちゃんも我慢してるんだから。 無理いったらいかんよ」

泣きそうになる男の子を、アニーが慰める。院長先生が病になる前は、もっと暮らしは楽だった。

子供達が食べ終えると、何人かに指示をしてから、サニスは家の外に出る。仕事は、いくらでもある。

教会を出ると、周囲の大人達が冷たい目でサニスを見た。邪神様が許しているから、おまえ達を追い出さないでいてやるんだと、面と向かって言われたこともある。中には暖かい視線を向けてくれる大人もいるが、教会を早く出た方がいいとか、よく分からないことを言われるので、困るだけだった。

教会を出て、どうやって生きていけばいいのだ。

院長先生の薬と、お昼ご飯を買いに行かなければならない。痛い視線の中、サニスは首を縮める思いだった。同い年くらいの子供達ともすれ違う。みんな清潔な服を着て、良く太っていた。羨ましいとは思わない。

ただ、悲しいとだけ、サニスは思っていた。

年下の子供達に、おいしいものを食べさせてあげたい。いいお洋服を着せてあげたい。それはサニスが持っている、ごく小さな欲求だった。自分がどうしようとは思わない。幼いながらに、知っているからだ。自分の顔が、ごく平均的な代物で、飾ったところでどうにもならないと。着飾っても無駄なら、せめて可愛い弟や妹たちに、楽をさせてあげたいではないか。

市場に向かう。渡されているお金の計算は、もう出来る。以前、こっぴどく騙されて、ひどくひもじい思いをしてから、必死に覚えた。子供だからなどという理由は通らない。背伸びをしないと、生きていけないのだ。院長先生が身動きできない今、サニスが動かないと、皆が餓死してしまう。そうならないように必死に神様に祈っては来たが、もう限界が近い。

院長先生は、悪くなる一方だ。お薬の代金が、貧しい教会を更に圧迫している。このままでは、子供達は皆死んでしまう。病気になる前の、優しい院長先生の顔を思い出して、サニスは涙を拭った。いつのまにか、市場に来ていた。ちょっと油断すると、すぐに人にぶつかってしまうので、気が抜けない。ぶつかった時に十字架を見られると大変だ。中には、神様を露骨に憎んでいる大人もいて、何をされるか分からないのだ。

子供といっても、数が多いから、食べる量はそれなりだ。かごは指に食い込むほど重い。自分の食い分を減らしているから、余計に重く感じてしまう。おなかが切なく鳴った。時々、立ちくらみを覚えることもある。ボロボロの服の隙間から入り込んでくる風が冷たい。だが、耐えなければならない。倒れたら弟や妹達が、みんな死んでしまうのだ。

途中、川の近くを通った。街の中に引き込まれている川には汚水が流れ込んでいるが、構わず子供達が遊んでいる。そんな中、見えた。馬のようでいて、それよりも更に大きな生物が、首を川の中に突っ込んでいる。

リクコウだ。

良くは知らない。邪神様の手足となって、戦争の時に集まるという。馬に似ているが、首から上は無数の触手が生えていて、人間を近づけさせない。ただし、無闇に害することもないので、遊んでいる子供達が逃げることもない。リクコウは草も肉も食べず、泥を食べるという。羨ましいと、サニスは思う。泥を食べて生きられるのなら、どれほど家計が楽になることか。

リクコウが、泥を吐き出しているのが見えた。ああやって、何度も食べては吐き戻すのだ。首を持ち上げたリクコウが、甲高い独特の声で鳴いた。あの声は、朝方から街に響き、夕方前後に聞こえなくなる。夕方になると、リクコウは川の中に潜って、朝まで出てこなくなる。ずっと見てきたから、それくらいは知っている。

重い足を引きずって、教会に戻る。

かごをテーブルの上に置くと、古びた足がぎしぎしと鳴った。家具は骨董品ばかりだが、これは特にひどい。いずれそう遠くない未来に、床で食事をすることになるだろうと、サニスは思っていた。ぐずっていたユニをあやしていたアニーが、サニスが帰ってきたことに気づいて、手を振る。

「サニスお姉ちゃん、おかえり!」

「ただいま。 何もなかった?」

「うん。 あ、そうだ。 お役人さんが来て、いんちょう先生と話していたよ。 さっき、帰ってった」

「! ……そう、そうなんだ」

本当だったら、お茶の一つも出さなければならないところなのだが、出来なかった。どっと疲れたので、机に深く腰掛ける。役人は線が細いおじさんで、あまり怖くない人だ。世間一般では役人は嫌われることが多いらしいのだが、サニスは別に嫌いではなかった。だが、今回の件は、好き嫌いで片が付く話ではない。

理由はよく分からないが、お金は、役人が持ってきてくれるのだ。

幼いながらも、サニスは知っている。もし役人が機嫌を損ねたら、翌日からは食べるものも無くなる事を。しかもどういう訳か、院長先生と役人は仲が悪いらしく、時々口論しているのを聞く。それならば、なおさらにサニスが役人の機嫌を伺わなければならないのだ。

記憶の片隅に、残っている。サニスをうんと幼い頃に、養っていた人のことを。泣くとぶった。機嫌を伺わないと、粥をくれなかった。いつか、笑うことを忘れた。今も、上手く笑うことは出来ない。院長先生は、その人達に比べれば、ずっと優しい。その心の傷は、今もサニスの心に影を落としている。

役人に逆らうことは、その状態に、サニスの大事な人たち全員を置くことになる。勿論、それに気づかないアニーを責めることなど出来ない。アニーは留守番やお料理をちゃんと手伝ってくれている。気づけるサニスがするべき事で、今回はそれが出来なかった。自己嫌悪がサニスを泥のように包む。悲しみが倦怠感となって、足を椅子に縛り付けた。身動きするのも億劫だが、やらなければならない。やらなければ、みんなが食べていけなくなるのだ。

「アニー。 お料理、手伝ってくれる?」

「がってんでさ」

アニーはどこで覚えたのか、威勢がいい男の人みたいなしゃべり方をする。もう少し年をとったら、代わりに買い物をしてほしい。そうなれば、アニーの一つ下のトルクには料理が出来るようになってもらって。上手くいけば、随分生活が楽になる。ひょっとすると、サニスを働かせてくれる人も出てくるかもしれない。

みんなに、おなかいっぱいパンを食べさせてあげたい。それを夢見ながら、厨房に立つ。並んで野菜を刻んで、粥を温める。疲れは泥のようにたまっているが、それでも皆の事を思えば、手は動いた。

料理のにおいをかぎつけて、子供達が集まってくる。みんなが満足するまでは食べさせてあげたい。サニスはそう思うが、どうにもならない。

信仰にも、限界が来始めていた。

薪を割り終えると、院長先生の世話に向かう。足どころか、体中が重い。院長先生のいる離れに入ると、異臭がした。最近、院長先生は糞便を垂れ流すようになってきている。体の彼方此方が、緩み始めているのだ。

肌が染みで覆われて真っ黒になり始めている院長先生は、ぎらついた目でサニスを見ると、乾ききった手を伸ばしてきた。手を握る。乾ききっていて、ひどく冷たい。少し前に、頼み込んで診てもらった。医師は、手遅れだと言った。指定された薬を片っ端から試して、どうにか病の進行を遅らせる事が出来るものを見つけて。それを買うために、殆ど支給のお金は消えてしまっている。

神様がいるというのなら。どうしてこのような仕打ちを許しておくのか。

院長先生は、痛い、痛いと苦しみの声を上げる。サニスは体を拭いてあげて、汚物の処理をするくらいしか出来ない。他の子供達に病気が移っては大変だから、自分一人で作業はする。時々苦しそうにするので、手を握ることもある。

一通り作業が終わると、汗だくになっていた。院長先生は痛みが落ち着くと、少しだけ正気が戻ってくる。サニスの目を見ながら、院長先生はぼそぼそと呟くように言った。

「すまないな、サニス」

「いいえ。 私は、大丈夫ですから」

ずっと、そう自分に言い聞かせてきた。自分は、事実耐えられる。だが、この孤児院は、もう限界だ。

お役人に一度、もう少し支援のお金を増やしてくれないかと、土下座して頼んだことがある。だが、困った顔をされただけだった。特別扱いは出来ないのだという。邪神様はとても厳格で、不正は許さないのだとか。もし特別な申請をするにしても、いろいろと保護者の手続きが必要で、院長先生が動けない今、非常に難しい状況なのだとか。申請はしてくれているとかいう話だが、信頼できない。

街の人たちの冷たい目。頼ることの出来る大人がいない中、サニスは一人で決断しなければならない状況にあった。

もう一度だけ。もう一度だけは、神様に祈ろうと、サニスは考えている。だが、もうそれも、今晩までの話だ。

もしも、今晩祈っても、神様が奇跡を起こしてくれないのなら。

サニスは、もう他の方法をとるしかないと思っていた。

夜はあっという間に訪れる。元気の余っている子供達を寝かしつけると、サニスはこれで最後だと思って、礼拝堂に入る。暗い礼拝堂の床石は、踏むと冷たい音がする。跪いて、神に祈る。心の底から。

お願いします。院長先生を、助けてください。

孤児院のみんなのためにも、助けてください。

試練だなんて冷たいことは言わないで、助けてください。みんなひもじい思いをずっとしているんです。見ているのなら、救ってください。万能だというのなら、邪神様の力など、何ともないはずです。

今は、何とかなっている。だが、多くのひもで、とても重い荷物を無理に支えているような現状に代わりはない。ひもが一本でも切れたら、その場で孤児院はおしまいなのだ。子供達はがりがりで、発育も遅い。もし院長先生が亡くなったら、この孤児院は本当に立ちゆかなくなる。いったいどうなってしまうのか、見当もつかない。

夜の礼拝堂は、肌が切れるほど寒い。ずっと一心に祈り続けたサニスは、礼拝堂を出たときには、体が冷え切っているのを感じた。

寝床に潜り込む。裸で寝る風習も周辺の地域ではあるらしいのだが、サニスのいるこのセレネンデスでは無い。ひんやりと冷え込む寝床に、サニスは潜り込みながら、神の愛が、皆を救ってくれることを祈った。疲れ果てている体は、すぐに睡魔を呼ぶ。空腹でも、眠れてしまうほどに、サニスは疲弊していた。

 

翌朝。

誰よりも早く起きたサニスは、相変わらずの世を見て、眉をひそめた。院長先生も、病気が治る気配など無い。曇り空だ。差し込んでいる日光が、あまりにも白々しかった。

現実感が、どんどん希薄になっていく。意識がぐらついて、転びそうになった。起きてきた子供達が、サニスの険しい表情を見ておびえる。なだめなければ。そう思ったが、混濁した意識が邪魔して、体が動かなかった。

鳥が、近くの木にとまって囀っている。だが、それが突如断末魔の悲鳴に代わる。枝にいた蛇が、電光石火の早業で鳥を捕らえたのである。毒牙が体に食い込み、もがく鳥を蛇は締め上げていく。

蛇に悪意はない。ただ食事をしているだけだ。それなのに、何か象徴的なものを、サニスは感じた。

あの鳥は、この孤児院と同じだ。強いものの餌食となるだけの存在。誰も、それに見向きもしない。

蛇は、鳥を飲み始めていた。食物連鎖の一角である。蛇には何の罪もない。だが、サニスはそれを見ていて、何かが壊れるのを、確かに感じた。

「ふ、ふふふ、あははははははははははは!」

天に向けて、サニスは笑った。あまりにも、何もかもがばかばかしくなってしまったのだ。遊んでいた子供達が、びっくりしてサニスの方を見た。サニスは涙を流し、ただひたすらに笑った。

本当に、愚かだ。

最初から分かっていたことなのだ。

神はいない。いたとしても、救ってはくれない。

拳を、礼拝堂の壁にたたきつける。朽ちかけている礼拝堂は、それだけでずしんと揺れた。昔から馬鹿力には自信があった。その上、毎日鍛えているのだ。死ね。そう呟きながら、もう一撃。もろくなっている壁には、それであっさりひびが入った。石壁だから、それ以上崩すと危ない。礼拝堂などそのまま壊してしまいたかったが、院長先生がショック死するかもしれないから、其処までで止めてやった。

アニーが青ざめていた。サニスが見ると、小さな悲鳴を上げて一歩退く。

「ど、どうしたの、サニスお姉ちゃん」

「別に。 買い物行って来るから、お留守番頼むよ」

「が、がってんでさ」

こくこくと頷くアニーを残して、サニスは孤児院を出た。もう朝食は作ってある。後は各自が勝手に食べるだけだ。

役人の言葉を思い出す。邪神様は厳格で、特別扱いを認めないと。サニスのような子供でさえ、知っている。このセレネンデスは事実上の独立国家で、邪神様がローマ帝国の軍勢を蹴散らすことによって建設された。そして邪神様は、建設から数十年経った今でも、君臨を続けている。

街の中央通りからは、見える。白磁の城が。街と一体となっているとはいえ、周囲には堀が巡らされ、北側の城壁と一体となっている。三本の尖塔が天に向けそそり立ち、大勢の兵隊さんが見張りについている。

あの中に邪神様がいるのなら。直接会って、訴えるしかない。会わせてほしいと兵士に言っても門前払いを食うだけなのは目に見えているから、忍び込む。そして、こう訴えるのだ。信仰はもう捨てるから、孤児院の皆を救ってほしいと。院長先生を、助けてほしいと。邪神様というからには、生け贄がいるかもしれない。

それなら、大丈夫だ。自分が、生け贄になれば良いのだから。

腹が鳴るが、関係ない。生け贄に食事なんか必要ないからだ。どうせ自分の人生など、もうどうでもいい。今まで散々無駄に祈ってきたのが、馬鹿みたいだ。神などいない。もしいたとしたら、死ねばいい。信仰など、くそでも食らえだ。

忍び込もう。今夜で直訴できなければ、明日。それでも駄目なら、その次の日に。

こうなったら、命つきるまでやってやる。

幼き心の中に、確かに今、妄念の炎が宿った。

 

2、邪神

 

手がほしい。

「邪神」は、そう考えていた。

勿論、言葉通りの意味ではない。手の役割を果たす器官なら、体に多種多様な形状のものが、それこそいくらでも生えている。それらの殆どは、人間の手よりも遙かに器用に動かすことが出来る。ミクロン単位での作業も可能なほどだ。元々食料は必要としないから、わざわざ人間の手を栄養源にするわけでもない。問題は別の所にある。

今抱えている人間の部下達は、あまりにもフレキシビリティに欠けるのだ。今後、効率よく計画を実行して行くには、有能な人間の手駒が必要不可欠だ。軍事力だけでは、人間社会を効率よく管理できない。

それでは、わざわざ此処まで極端な介入をした意味がないというものだ。

邪神に、人間と同じ意味での思考能力や、自我は存在していない。存在させようと思ったことさえ無い。彼は法則であり、自然現象の一種だ。生物でありながら生物でなく、心を持ちながら心を保たない。それが本質的にエゴの怪物である人間との相違点だ。だから、人間が呼ぶように、邪神と名乗っているのである。本来は名前すら存在しない。

セレネンデス城の地下に住まう邪神は、今日も複数の目を動かし、書類の整理を行いながら、やはり思った。手がほしい。無能な部下どものしつけはしっかりしているが、しかし彼らに重要な任務は任せられない。高度な判断能力と、戦闘能力を兼ね備え、なおかつ絶対の忠誠を誓う、扱いやすい手駒が必要だ。

前の二つは、技術力によってカヴァー出来る。人間の体をいじることなど、邪神にしてみれば朝飯前だ。人間は並行世界を渡り歩きながら、飽きるほど研究した存在である。遺伝子など隅から隅まで把握していて、どういじれば強くなるかなど即座に分かる。問題は、三番目の事象だ。忠誠心というものは、人間の平均寿命の実に数十万倍に達する時を経た邪神でも、理解しがたいものの一つであった。

忠誠心は、よく分からない。個体によって大きな差があり、絶対に曲げない人間もいれば、最初から持ち合わせていない奴もいる。長い時の中には、邪神に絶対的な忠誠を誓った人間も少なからずいた。彼らにとっての恩義を刺激したからだった。しかし、忠誠心を評価していた者が裏切ったことも何度かあった。統計は、今だまともな数式をはじき出そうとはしない。

それでもなお、邪神は手がほしいと考える。

邪神の端末がある部屋に、役人どもが降りてきた。本日の報告の時間だ。触手を伸ばして、X線を放射。全員の脳をスキャンして、即座に記憶を取り込む。役人どもは、自分が何をされたかも分からず、並んで羊皮紙の書類を読み始める。

「本日、特に大きな事件は起こっておりません。 一覧は、此方に纏めてあります」

「そうか。 次」

「はい。 本日、全領土で二名の死刑を実施しました。 死刑にしたもののリストは、此方になります」

「次」

既に、情報は取り込んである。それなのになぜこのようなことをしているか。それは、正確に報告が出来るか、チェックをしているためだ。ここ三年で、十人の役人を配置転換した。自分に都合がよい嘘をついたり、まともに報告が出来なかったためだ。しかしながら、今いるこの役人達は、殆ど指示通りのことしか出来ない連中で、今後も出世させる予定はない。

「ローマ帝国は、特に目立った動きを見せていません。 国境は平穏です」

「次」

「コンゴ王国の正式な使者が、今朝来ました。 迎賓館で待たせてありますが、如何致しますか」

「それはクニッヒに応対させるように。 次」

クニッヒは対外的な折衝役で、見栄えが良いので選んでいる。見栄えは人間の基準で非常に優れているのだが、反面頭はからきしなので、基本的に判断はさせない。ただ、本人が、自分の頭が悪いことを自覚しているので、余計なことを一切しようとしないところが、邪神にとってのお気に入りとなる要因であった。

コンゴ王国はローマ帝国に対して終始優勢に戦いを進めている。銃をはじめとする最新兵器を多数備えている上、過酷な環境で育った兵士達の質は高く、皆勇敢だ。ただし海軍は比較的脆弱で、なかなかローマ帝国の海上防衛線を突破できない状況が続いていた。ジブラルタルの決戦場は、頑強な要塞地帯の存在によって膠着状態に陥ってしまっている。そのような状況下で、ローマ帝国内部にある癌ともいえる邪神領にアクセスしてきたのは、当然の流れであったともいえる。

もっとも、真っ正面からローマ帝国領を突っ切るわけにもいかない。彼らは顔を隠し、命がけで潜入してきたのだ。勿論帰りも命がけで行くことになるから、交渉にはそれなりにリスクが伴う。

手がほしいと感じるのは、こういう時だ。信頼できる部下ががこういう使者を護衛すれば、不測の事態が起こる確率を減らすことが出来る。

多くの世界を渡り歩いた邪神も、本格的に人間の組織を支配するのは初めてのことだ。だから、勝手が分からない部分も多い。今は、ただ手がほしい。

役人達が下がると、得た情報を分析に掛かった。現在領土にしている部分に張り巡らせた根からも、情報は常時集めている。それらを分析し、必要に応じて決済をしていく。西のハルモンド砦で、不正に蓄財をしている役人を発見。内容を吟味した後、降格と判断。それを告げるために、呼び寄せることにした。

国境付近では、ローマ帝国の軍が彷徨いている。昨日は平穏だったかもしれないが、今日はかなり多い。新任の将軍は血気盛んな人物だと聞いているが、一度釘を刺しておく必要があるかもしれない。邪神としても、無駄に兵力を消耗したくないのだ。ローマ帝国内に飼っているスパイに、連絡を取るべく準備をする。薄闇の中、無数の触手を動かして、書類を作っていく。東洋から伝わったばかりの紙に、インクでさらさらと文字を連ねていく。筆など使わない。触手の一本でインクを吸い上げ、少しずつ出しながら文字を書いていくのだ。

書類を作り終えると、次の判断へ移行。市場の状態を確認。人口の規模から考えると、充分すぎるほどに潤っている。何度か闇市場を的確につぶした結果、不正な商売をする者はいなくなった。常時邪神によって監視されている市場には、犯罪組織が付け入る隙がない。もっとも、領外では取り引きされた物資がどうなっているかは分からない。

最後に、民衆の様子だ。民衆は適切な発展の中にいればいい。貧しすぎず、冨みすぎず。格差が開きすぎず、平坦ではなさすぎず。時折現れる破綻者と成功者に、適切なケアをしていけば、社会は潤滑に動く。

数限りない社会を見てきたのだ。手を出すのは今回が初めてだとしても、マニュアルの構築は比較的容易だ。失敗も繰り返さないし、この五十年ほどで、大体のマニュアルは整備できた。

いくつかの街で同時に行っている下水道整備によって、不潔な街路は一掃されつつあり、豚も減ってきている。この地方では汚物処理のために豚を飼うのが伝統的だが、それは病原菌の蔓延も産む。だから、対策をする。上水道の整備も始まっていて、更に街は清潔の度合いを増している。既に邪神領では疫病が無いという噂を聞いて、流入してくる民は増える一方だ。

必要がないから、無駄に進んだ技術は持ち込まない。ただその場にあるものを利用して、管理をより円滑に進める。それが、これほど大規模な介入をする事を決断した現在、やるべき事だ。なにしろ最初なのだから、慎重に動かなければならない。どんなデータもおろそかには出来ないのだ。

邪神は、あらゆる時間を用いて判断を続けていた。人間で言う休憩など必要ない。思考を司る部分は区画分けしているから、交互に使っていくことで効率的な運用が出来る。身体も似たようなものだ。あらゆる部位は、最大限の利便性と共にあった。

全てを見ていたから、気づく。じっと、城を見ている者がいる。人間の、雌の幼体だ。発育がかなり遅れている様子である。興味が出てきたので、根を伸ばして観察。X線を当てて、全身の構造を調べていく。

病気はない。ただ単純に、栄養状態が悪いらしい。ストレスでかなり内臓器官が荒れており、肌などもきめがかなり粗い。小走りで走るその先には、教会と一体化した孤児院があった。確か、観察のために信仰を許している天主教教会の一つ。より詳しい情報を得るために、データベースにアクセス。検索の結果、邪神はふむと呟いていた。あまり良いデータがない場所だ。神父は犯罪行為に手を染めていて、未然に防いだものがいくつかある。あの様子では、支給した金銭を着服している可能性も高い。

しかし、それでなぜ城を見る。必要な金は支給している。金がある以上、生きる手段はいくらでもある。見たところ、子供には必要量の買い物を的確にする知能もある。それならば、どうにでもなりそうなものなのだが。

金は、人間社会で力のバロメーターとして使われる。そして、力さえあれば、何をしてもいい。それが、邪神が学んできた、人間社会の法則であったのだが。

他にも様々な要監視事項が飛び込んできたので、邪神はそちらへ意識を移す。怠けている役人どもと違って、此方は人間の何倍スペックがあっても足りないのだ。あの子供のことは、情報だけ集めておいて、後で研究すればいい。

そして、夜が来た。その時にはもう、邪神は子供のことをすっかり意識の隅に追いやっていた。

だから、城に忍び込んできたのを確認したときには、驚いた。

危険もあったが、単純に興味が上回る。兵士を派遣すれば即座に追い払うことも出来たが、そうしなかった。

邪神は、侵入者を、興味を持って観察し始めた。

 

闇の中、息を殺してサニスは走る。寝静まった街の中で、黒いフードをかぶって、口にはぼろ切れ同然の布を含んだサニスは、不思議なほどに闇にとけ込んでいた。向かう先は勿論城だ。

大通りを抜けると、其処はもう城のすぐ側である。槍を持った兵士達が、篝火の側に詰めている。赤々と闇の中燃え上がる篝火は、松ヤニを含んでいるから、少し臭う。兵士達の鎧はいぶし銀で、中央にエイをかたどった紋章が書かれていた。見覚えのある顔だ。左はニックと呼ばれている男。右はジャンセスと呼ばれる男。どっちも怠け者で、さぼり癖がある。雑談しながら、ニックは首の後ろを掻く。ジャンセスは良くふくらはぎをかかとでこする。二人とも注意は散漫で、勤労意欲もあまり高くない。観察を重ねた結果、知った事だ。

二人の顔を確認すると、大通りからそれて、裏路地を通って回り込む。正門が見えなくなったところで、裏路地からはい出た。左右を確認。誰もいない。頷くと、ゆっくり堀へ向けて這い進む。

サニスは二十日間を使って、丹念に城を観察した。焦る気持ちを必死に押さえて、疑問点は全て解決するまで、ねばり強く観察し続けたのだ。

大通りをゆっくり回るだけではなく、時間を捻出して近くの廃屋に潜り込み、屋根に上って兵士達の動きを見た。城の中で人がどう動いているのか、必死になって把握。そして、覚えた。正門でつとめている兵士達の名前や性格まで、既に頭に入っている。

今までにないほど、頭が冴え渡っていた。信仰を失ったことで、余計な思考がきれいさっぱり消え去ったからかも知れない。木にも登った。どんな高い木に登ることも、怖くなかった。

不思議と体も軽くて仕方がない。夜も寝床から抜け出して、夜の街を徘徊しながら、城の方を確認した。その結果、いくつか分かってきたことがある。

城の正門には、常時十名程度の兵士が詰めている。堀には吊り橋が掛かっていて、それはかなり短い時間で引き上げることが可能だ。実際動いている所も見た。朝方、急の知らせを持ってきたらしい騎馬武者が何か大声で怒鳴って、橋が降りて中に入っていったのだ。脈ではかっていたところ、三十打つ前に降りていた。

結論から言うと、正門から攻略するのは、きわめて難しい。何しろ此方はただの小娘だ。多少馬鹿力には自信があるが、武装した兵士に勝てると思うほど楽天的ではない。買い物をしているときにトラブルに会ったことは何度もある。腕を捕まれて、地面に投げられた時は本当に怖かった。見つかったら終わりなのだ。大人は怖いものなのだと、サニスの体には刻み込まれている。

そこでサニスは、堀を越える事を考えた。

堀の中には、水がたまっている。近くの川から引き込んでいて、緑に濁っていて、しかもくさい。だからこそに、ここから入ってくることを、城の兵士達は想定していないらしく、見張りの兵士も少ないのだ。特に夜は、殆ど兵士もいない。

石畳の地面にはいつくばって、足からゆっくり堀に降りる。堀の壁は石垣になっていて、足がかりがあって降りること自体は難しくない。

どうせぼろ同然の服だ。今更汚れたところで、どうとも感じない。おしゃれなんかしたこともないし、今後もする事はないだろう。足を水に入れると、ひやりと冷たかった。兵士の隙を見て、棒を差し込んで大体の深さは測ってある。足はつかないから、泳ぐしかない。着衣で泳ぐのは初めてだが、距離はたいしたことがないし、行けるはずだ。

体が全てつかる。闇夜の水は恐ろしく深く冷たくて、心細くなる。呼吸が荒くなってきて、すぐに逃げ出したくなるほどだ。とにかく、今は泳ぎ渡ることだ。石から手を離して、体を水の中へ押しやる。ぐっと水に沈み込む。落ち着け、落ち着け、落ち着け。心の中で言い聞かせながら、手を必死に動かした。

何度も水を飲んだ。まずいのもそうなのだが、それ以上に恐怖が凄まじい。体中を掴む水は、死者の手のように、あの世へ自分を連れて行こうとしているかのようだ。顔を自ら出して、息をする。水音が立っていないか、聞きつけられないか、不安でしょうがない。泳ぐ。急ぐ。でも、音を立てては行けない。

恐ろしく長く感じる時間の後、やっと対岸に着いた。心臓が破裂しそうなほどに高鳴っている。それだというのに、手がかじかみ始めている。下手をすると、その場で死ぬ。堀に水を入れている意味が、やっと分かった。こんな状態では、城壁の上からねらい打ちだ。それに、服を着て泳ぐと、こんなに体力が奪われるとは思わなかった。次に忍び込むときは、一度脱いで、服を背負って泳いだ方が良さそうだ。

石を掴んで、体を持ち上げる。体に張り付いた服が気持ち悪い。体が何倍も重くなったような気がする。一つずつ、石を掴んで体を引き上げる。何度か足を踏み外しかけて、そのたびに悲鳴を上げそうになった。

やっと、一番上の石を掴んだ。体を土の上に引っ張り上げる。もう泥だか布だか分からなくなった服は、邪魔なだけだ。爪の中には泥と土が食い込んで、真っ黒になっている。髪からたれてくる汚水が、目に入った。はいずって、城壁にくっつく。このまましばらく行けば、裏口につく。城壁には何カ所か裏口があって、そのうち一つは、夜になると警備が無くなる。どうしてかは分からないのだが、無造作に放置されているのだ。扉には鍵が掛かっているようだが、それは攻略法を考えてある。

罠だったら、その時は仕方がない。どのみち、とても可能性が低い賭なのだ。

急激に体力が奪われていくのが分かる。呼吸を整えながら、壁に沿っていく。夜闇の中だから、至近で松明を持った相手とでも顔を合わせなければ、まず大丈夫だ。今まで城を伺う過程で、何度もそれは実体験した。壁に張り付いて静かにしていると、明かりがない限りまずばれないのである。星明かりはあるから、歩いているとばれてしまう。だが、動かないと、意外に人間の目は相手を認識できないのだ。

何度か水を含んだ髪を払いながら、裏口に到着。やっと、此処まで来た。この先は何がどうなっているか、殆ど分からない。高いところから城の中も一応観察はしたが、目が届かない場所はあまりにも多いのだ。

裏口といっても、ドアがあるわけではない。入り込めそうなところを、便宜的にそう名付けただけだ。

城壁はどこもサニスの七倍から十倍くらいの高さがあるのだが、此処だけは五倍強。どうやら事故で崩れたらしく、今でも修理が終わらず、壁面がかなり荒れている。かなり奥まったところにあるので、放置されているらしい。いつ崩れてもおかしくはないが、逆に言えば手がかりも足がかりもある。

木登りは得意だ。だから、怖くない。問題は手足がかじかんでいることだ。木靴の中に入り込んだ水が、特に気持ち悪かった。

体力が回復するのを待っている暇はない。もし駄目だったときには、そのまま自力で同じ道を帰らなければならないのだ。時間制限は想像以上に厳しい。朝になって戻れなかったら、弟や妹たちがみんなひもじい思いをする。

腐れた神などもうどうでも良いが、それだけは絶対に嫌だった。

手に息を掛けて、暖める。壁で手を拭いてから、握って揉んで、少しでも握力を戻す。そして、おもむろに、壁に手を掛けた。出っ張った石を掴んで、体を持ち上げる。足場になる石を見つけて、踏む。何度か踏んでみて、崩れないことを確認。先へ行く。

一度でも踏み外したら終わりだ。出っ張った石が不安定だったので、手を引っ込める。膝を石で切ってしまったが、我慢してそのまま行く。膝が痛い。肘も痛い。目に時々入って来る水はもっと痛い。

だが、これも。みんなのためだ。

神がいないか、無力であることはもう分かっている。しかし邪神様はどうなのだろうと、手を伸ばしながらサニスはふと考えた。邪神様は、いる。ローマ帝国の軍隊が手を出せないのは、邪神様があまりにも強いからだ。

もし、邪神様も、院長先生を救えなかったら。みんなを助けられなかったら。

目を閉じる。そのときは。

みんなと一緒に生きられるだけ生きて。それでも駄目なら、死のう。

運命に抗うことに飽きた、誰もがしていることだ。他と同じように、何もかも投げてしまえばいいのだ。そう思うと、悩みは晴れてくる。一度死を覚悟すると、随分気は楽になるらしかった。

果てしなく高く思えた城壁を、どうにか登り切る。途中、何カ所か危ない場所があった。サニスが子供だったから、登り切れたのだ。城壁の上にはい上がって、振り返る。夜の闇に閉ざされた街は、眠っていると言うよりも、死んでいるように見えた。

感慨にふけっている暇はない。城壁の内側に階段があることは、今までの観察で分かっている。この裏口の、比較的近くにもある。

なんだか眠くなってきているが、此処で意識が落ちたら全てが台無しだ。身を低くして、走る。石の城壁は思った以上に足音が響くので、サニスは何度もひやひやした。階段を発見。念入りにのぞき込んで、巡回の兵士がいないことを確認。窓の類はどれも階段を監視できるように出来ているのに気づいて、サニスは舌を巻いた。この城は、サニスが考えられないくらい頭がいい奴が作ったのだ。それを、頭が普通の兵士達が、台無しにしてしまっている。

階段に張り付くくらい身を低くして、ゆっくり降りていく。今度は見つかったらひとたまりもない。確認し切れていない兵士がいたら、その場で終わりだ。呼吸さえ止めて、サニスは階段を這い降りていった。

城壁の内側には、木々が生えていて、茂みもあった。茂みに一度潜り込んで、壁に背中預けると、ようやく一息つくことが出来た。

だが、ここからが本番だ。

邪神様はどこにいるのか。この大きな城の、どこに隠れているのか。それだけは、外からどれだけ観察しても分からなかった。兵士や役人の会話にも耳を澄ませたが、これという情報は引き出せなかった。

木靴を脱ぐ。気持ち悪いだけで、もう役には立っていなかったからだ。むしろ素足になると、足の裏の、土の感触が気持ちいい。

夜のうちに、全ての決着をつける。髪が乾いてきたのを確認すると、サニスは両手でほおを叩いて、気力を奮い立たせる。

城壁の内側には、館がある。何カ所か扉はあるのだが、どれにも兵士が張り付いている。サニスにとって見覚えがある、正門で警備をしている兵士の顔もあった。交代で見張っているらしい。最悪、木の板で塞がれている窓を石で割って入る手もある。だが、入った先の部屋に、鍵が掛かっていたら終わりだ。

ふと空を見ると、とても星がきれいだった。

今自分がいる場所のことも忘れて、見入ってしまう。下手を打てば、その場で殺される可能性もあるのに。

ひたひたと、闇の中を歩く。

ドアを開けっ放しにして、雑談をしている兵士を発見。全く後ろには注意をしていない。壁側から音を立てずに忍び寄って、ドアに手を掛ける。よほど退屈だったらしく、この間引っかけた娼婦がどうの、酒の味がどうのとくだらない話をしている。男ってみんなそうだ。院長先生も。最近、サニスの体をいやらしい目で見るようになってきていた。病気のせいだと思っていた。でも、何もかも信じられなくなった今は、院長先生も男だからかも知れないと、思えるようになってきていた。

サニスも大人と接しているから、汚いことは知っている。大人の男が女の体を、欲望の対象としか見ていないこと。女は女で、男に依存しないと生きられない者が多いこと。具体的にどう欲望の対象とするのかは分からないが、ろくでもない事をするのは目に見えている。嫌悪が体の奥から持ち上がってくる。大人になると、欲望の奴隷となるというのなら。大人になんかならなくてもいい。

暗い目で見ているサニスに、兵士達は気づかない。だからそのまま、中に潜り込むことが出来た。

出来るだけ身をかがめて、燭台の明かりがまぶしい廊下を裸足で走る。さっきまで星明かりの下にいたからか、目がちかちかして仕方がない。中に人気はほとんど無いが、途中兵士達がいっぱい寝泊まりしている部屋を見つけた。寝台は半分くらい空いている。夜も交代で仕事をしているんだろうなと、サニスはさっきの嫌悪を忘れて、彼らにちょっと同情してしまった。多分昼間は眠って、夜に仕事をしている人もいるのだろう。

忍び足で、館の中を行く。最初の数歩は泥足の跡が残ったが、すぐにそれも無くなった。二階にあがってみたのだが、そちらは明かりも少なくて、とても偉い人がいるとは思えなかった。一応兵士は見張っているのだが、奥へ行くのが容易な構造になっている。

さっきまでの城の様子を思い出して、こっちは違うとサニスは判断した。だから、一階に、来た道を正確に辿って戻る。二度、兵士達に鉢合わせしかけたが、どうにか先に見つけておいた部屋に潜り込んで、しのぐことが出来た。

上が違うとなると、地下室。この館の地下というと、相当巨大な空間が予想される。警備のことを考えると、一番奥まったところに、入り口があるはずだ。

壁に寄りかかって隠れていると、そのまま意識が落ちてしまいそうだ。こんなに長い間起きていたのは初めてである。だが、それでも起きていなければならない。時々ほおや足をつねって、サニスは無理に目を覚ます。そして、廊下を行く。

やがて、どうやらそれらしい場所を見つけた。倉庫らしい小部屋に潜り込んで、伺ったサニスは戦慄した。

大きな扉の前に、直立不動の兵士が二人立っている。二人とも、外の兵士達とは違って、全身を凄い鎧で覆っていた。手にしている槍も、強くて怖そうな、とても大きなものだ。サニスなんか、露天の鳥焼きのように串刺しにされてしまうだろう。他の兵士とはものが違うと、一目でサニスは理解した。あんな凄そうな奴ら、一度も外からは見ていない。

しかも其処へ至る道は、ずっと廊下が続いていて、隠れる隙がない。のぞき込むだけで見つかりそうで、サニスは何度も悲鳴を上げかけた。駄目だ。やっぱり、いくら何でも無茶だったんだ。そう、心が軋みを上げる。ぎゅっと唇をかむ。もう祈る相手はいない。そしてサニスに手をさしのべる相手も、だ。

身を縮める。とてつもない不安感と孤独感が、サニスの全身を鷲づかみにしていた。ふるえが来る。目の焦点が合わなくなってきた。どうしようもない睡眠への欲求が、絶望と混じり合って、サニスの心をかき乱す。

二人の兵士が、同時に此方を見る。心臓が止まったかと思った。そのうち一人が、金属音の混じった靴音を威圧的に響かせながら、歩み寄ってきた。もう駄目だ。殺される。抵抗など、するだけ無駄だ。いや、しなくてはならない。神を捨てた以上、最後まで、どんな汚い手を使ってでも生き残ることを考えなければならない。最初から、サニスに手をさしのべる相手なんかいなかった。いたとしても、それは神様じゃなかったのだ。

道は、自分で切り開く。

何か武器は。部屋をのぞき込んできたときに、目を狙って突き刺してやれば。倒せないにしても、時間は稼げる。あるいは上手く隠れれば、隙を作ることが出来るかも知れない。それが失敗しても、騒ぎが起これば、その隙に部屋に逃げ込むことが可能になりうる。

徐々に近づいてくる足音。動きは、あまり速くないようだ。サニスは思い切りほおをつねると、自分の弱気を、決意でねじ切った。素早く左右を見回す。見つけた。カバーの掛かった、小さな机。この下に、潜り込めば。

這って、机の下に入り込む。部屋に、兵士が入り込んでくるのが分かった。足音が、奥へ進んでくる。がちゃん、がちゃんと鎧がたてる音が、間近を通過していく。特に、布の隙間から見えた鉄で作られた靴が、至近を通るのが一番怖かった。

足音が、少し先で止まる。

こんな付け焼き刃の隠れ方では、どのみちすぐ見つかる。というよりも、もう、見つかってもいい。するりと、机の下を抜け出す。兵士は奥を見回しているところで、その足下を抜けて、部屋を出る。そうすると、もう一人と、思い切り目があった。

思わず立ちつくす。先に動いたのは、実戦経験が豊富な、兵士の方だった。

「こんな所に、どうやって潜り込んだ!」

返答の代わりに、全力で前に駆け出す。兵士は困惑して、手を伸ばして捕まえようとするが、その足下をするりと抜ける。やはりそうだ。冷静に見れば、鎧を着ていることもあって、動きがとても鈍い。もしサニスが大人だったら、問答無用で槍の餌食だったのだろうけれど。子供であることが幸いした。

死地を抜けた。怒鳴り声を背に、走る。兵士達が警備していた部屋に、飛び込む。ドアは開いていた。

飛び込むと、ものすごく広い部屋だ。奥には降りる階段がある。迷っている暇はない。後ろから、怒号がまだ追ってくる。戻れとか、死ぬぞとか、声がした。かまわない。どうせ死ぬつもりでここに来ているのだ。残った力を全部使って、サニスは走る。そして、下り階段を、一気に駆け下りる。途中で曲がっていた階段の壁に、勢い余って激突。そのまま、足を踏み外して、下まで転げ落ちていた。激突の拍子に、ついくわえていた布をはき出してしまった。だから、無様に悲鳴が漏れてしまう。

「ぎゃっ! ああっ!」

取り押さえられることを考えて、必死に頭をかばう。だが、兵士は追ってこなかった。辺りに、妙に湿った不思議な気配がある。痛みをこらえながら、芋虫のように、前に、這って進もうとした。痛みに涙が出てくるが、耐える。泣いたところで、何か変わるか。変わりはしない。

そして、それにぶつかった。

粘着質の、何ともいえない感触だ。人肌よりも、僅かに冷たい。

何だろうと思って、顔を上げる。そして、全ての思考が停止した。

 

闇の中、それはうっすら光っていた。巨大な地下室の空間、全てを占めていると言っても良い。

全体は、赤黒い固まり。無数の目がついていて、彼方此方は解れたように肉がねじれていた。それが全て口なのだと気づいても、もはやどうにもならない。無数の触手が、床からも天井からも伸びていた。それらにはひれや吸盤がついていて、全てが別種の生物であるかのようにうごめいている。今までサニスが見たことのあるものの中で、もっとも醜悪だと言っても良い。

触手がうごめき、サニスの周囲に壁を作る。兵士が逃げろと言ったわけが分かった。へたり込んだまま、サニスは身動きできない。蛇を前にした蛙がどんな気持ちなのか、サニスは嫌と言うほど理解していた。

「まさか、此処まで侵入を許すとはな。 私の設計した城も、まだ粗が多い。 修正が必要となるだろう」

触手が、サニスのほおをなで上げる。全身が総毛立つ。分かった。これが、邪神様なのだと。

ローマ帝国軍が、束になって掛かってもかなわないのも当然だ。長さだけでも、いったい何ヤードあるのか。城の下に邪神様がいるのではない。邪神様に、城が乗っているのだ。これはもう、人間がどうにか出来る存在ではない。さっきの怖い兵士なんか、この姿から比べれば、可愛い子猫も同然だ。

ひときわ巨大で、瞳が二つある目が、サニスをじろりと見た。瞳だけでも、サニスよりずっとずっと大きい。硬直して身動きできないサニスに、どこからともなく声が語りかけてくる。

「兵士達の油断もあったとはいえ、見事な判断力と行動力だ。 その上、危地での機知にも長けている。 お前の動きは、全て見ていた。 私に会うために、此処まで来たことも知っている」

怖くて、声が出ない。いろいろ言おうと思っていたのに。聞こうとも思っていたのに。

「まあ良い。 心身ともに限界と見える。 話は明日の朝、じっくり聞かせてもらうとしようか」

全身の力が抜けた。

もう、どうなっても良い。そう思ったときには、意識が落ちていた。

 

3、現実と夢と

 

ざわめきが聞こえた。

周囲で騒いでいる声は、聞き覚えがないものばかりだ。寝床の感触も、妙に気持ちがいい。手を伸ばす。普段は誰かの体に触れるものだが、それもない。こんな広い空間は、自分の知っている寝床ではない。

徐々に、視界がはっきりしてくる。見慣れない天井。暖かくて柔らかいシーツ。ゆっくり左右を見回すうちに、思い出した。

昨晩、邪神様の所に忍び込んで。そこで、気を失ってしまったのだ。

跳ね起きる。見たこともない寝床で眠っていた。妙に清潔な白い服を着ている。シーツも柔らかいし、布団もふかふかだ。肌も髪もきれいで、気を失っているうちに何かされたのは確実だった。

ざわめきの正体は、すぐに分かった。

寝かされていた小さな部屋の外で、使用人らしい女性が何人か、此方を見てひそひそ話していたのだ。可哀想にとか、気の毒だとか、そんな言葉が聞こえた。心にもない同情など不快なだけだ。それよりも、こんなところで朝まで寝込んでしまった不覚の方が無念ではあった。

随分きれいにしてある。腕のにおいを嗅いでみたが、なんと石けんの香りがした。爪に入り込んでいた泥も取り除いてあるし、下着も真っ白だ。自分がとても清潔になっていることに、あまり感慨はない。それよりも、家でお腹をすかせている弟や妹たちの事が心配だ。

寝床から起きると、まだ少しふらついた。昨日どれだけ無理をしたか、よく分かる。筋肉が彼方此方痛い。体はきれいにしてあったが、手足の傷は治りきっていない。ただ、妙に直りは早いようではあった。

サニスが視線を向けると、此方を伺っていた使用人達はさっと引っ込んだ。毛嫌いしていると言うよりも、恐怖が先立っているのが分かる。大人の顔色を伺ってばかりいたから、いつの間にか相手の考えていることは、ある程度分かるようになっていた。

靴は無かった。茂みから発見できなかったのだろう。素足で石の床の上を歩き始める。邪神様は、呆れただろうか。きれいにはしてくれたが、それはただのお情けで、すぐに出て行けと言われるかも知れない。気絶する寸前、何か言われたような木がするのだが、記憶にもやが掛かっていて思い出せない。

部屋を出ると、使用人達は慌ててどこかへ人を呼びに行った。このまま城を逃げ回ってやろうかとも思ったが、筋肉痛でそれも無理だ。それに邪神様を怒らせたりしたら、今度こそ全てが終わる。神を捨て、邪神様にも嫌われたら、もはやどこにも行く場所などありはしないだろう。

もとより、もう光の下を歩こうとは思っていないのだ。ならば、とことんまで闇の中を生きていこう。そう決めた。だから、闇を待つ。

廊下は冷たい石造り。日の当たるところでよく見ると、壁には多数燭台が置かれていた。ただ、燭台の位置は均等ではなくて、明かりの死角がないように工夫されているようだ。所々、天井には絵がある。恐ろしいドラゴンが、騎士達によって退治される絵もあった。不思議だ。礼拝堂にある古ぼけたタペストリーには、十字架を掲げた神の子が、ドラゴンをうち負かす絵が描かれていた。登場人物が違うだけで、随分と印象が変わってくるものだ。

ぺたぺたと廊下を歩きながら、位置を確認。どうやら、最初に潜り込んだ一階隅の近くらしい。何度か曲がった廊下の先で、見覚えのある曲がり角に行き当たった。

兵士の一人と目が合う。昨晩、邪神様のいる地下室を守っていた男だ。男はサニスに気づくと、あっと声を上げた。

「なんだ、昨日の。 もう起きたのか」

「あ……。 はい」

「まさかあんな所まで侵入されるとはな。 俺は十年この仕事やってるが、此処まで出来る奴に会うのは初めてだよ。 しかも、それがこんな年端も行かない子供、しかも女の子ときたもんだ」

わかんねえもんだよなと、兵士は隣の同僚に同意を求める。そんなことを言われても、困る。他の子供がどんな水準なのか知らないし、何より大人としゃべるのはとても苦手なのだ。

近くで見ると、随分素朴な顔立ちの男だった。隣の同僚も、兜をしていないと、少し太めの気がよさそうなおじさんである。

「どうやって、城壁の内側に入り込んだんだ。 普通だったら、何かあったら、邪神様が俺たちに警戒を促すんだけどな」

「邪神様が?」

「ああ。 だから、兵士達も油断してたんだろうな。 ありゃあ、こっぴどく絞られるぞ」

「馬鹿言うでねえ。 それはおら達だって同じだべさ」

太めの同僚が、首をすくめる。昨日はあれほど怖かったのに。不思議だなと、サニスは思った。

笑っていたおじさん達が、不意に緊張して、上司の前でする礼をした。振り返ると、所々に勲章がついている赤い鎧を着たおじいさんが、難しい顔をして立っていた。数人の兵士が、護衛として付き従っている。

「昨日忍び込んできた子供は、お前か」

「はい」

「邪神様がお呼びだ。 朝食をとった後、すぐに来るようにという事だ。 時間の案内は侍女どもにさせる。 遅れないように気をつけるようにな」

おじいさんは身を翻しかけたが、サニスは慌てて呼びかけた。

「あ、その」

「何だ」

「あの、うちに、お腹をすかせた子が、たくさんいるんです。 だから、その」

「邪神様は全てお見通しだ。 今朝、担当の役人が飯を持って向かったわ。 全く、早まったことをしおってからに」

おじいさんの目には、僅かな憐憫と、それ以上の怒りが宿っていた。どうやら邪神様に、あまり良い感情を抱いていないらしい。

感情、か。

もうすぐ死ぬのだと思うと、あまり感じるものもない。幸せ幸せという言葉も良く聞くが、別になんとも思わない。

隣で、侍女が何人か困惑した様子で此方を見下ろしていた。さっき、おじいさんを呼びに行った連中だ。若いのもそうでないのもいる。一番年下のは、サニスと四五歳しか年が変わらないように見えた。

「サニス」

「え?」

「サニス。 私の名前」

「そ、そう。 サニス、ええと、食事が出来ているわ」

最後の晩餐だ。あの強大な邪神様の贄になるのだから、それは食事も奮発することだろう。そう思っていたのだが、通されたのは何ヤードも長さがある机と、椅子がたくさん並んでいるようなダイニングではなかった。さっきサニスが眠っていた部屋であった。丸机の上に置かれたのは、白芋のスープと、良く焼けたパン。それに、いくつかの肉と野菜を炒めたものだった。肉は、多分ウサギのものだろう。テーブルには、なんとクロスが掛かっている。お客さんが来たときに出したことがあるが、自分で使うのは初めてだ。

暖かくておいしいが、生け贄に食べさせるのにしては、随分質素だなとサニスは思った。でも、クロスが掛かっているから、ちょっと高級感があって幸せだ。

テーブルに載っている食事を、手づかみで食べる。常識的な食べ方だ。無言のまま胃に押し込むと、手をテーブルクロスで拭く。スープがとても濃厚で、力が出る気がした。体が温まったのは事実だ。

食事を終えると、空白の時間が来た。寝台に腰掛けて、孤児院のみんなのことを考える。邪神様にもっと良い生活をさせてあげるように頼むとして、今後はアニーが皆を引っ張って行くのを期待するしかない。

出来るだろうか。威勢がいいしゃべり方が出来ても、あの子は精神的にもろいところもある。不安はある。だがもう、後には引けないのだ。

大ばくちに、サニスは勝った。今はそれだけを思えばいい。今考えると、どうあっても無理だとしか思えない侵入作戦だった。これが成功したのだって、奇跡に近いのだ。神が起こしたものではなく、自分が引き寄せたものだが。しかし、同じような奇跡は、何度も起こりはしないだろう。

地下室を守っていた兵士が来た。時間らしい。

「時間だ。 いいか?」

「はい」

「……お前、全然笑わないんだな。 最後くらい、お前の笑顔を見たかったよ」

「もう、笑顔なんて、忘れてしまいました」

案内してくれというと、兵士は視線を背けて、目を擦った。

分からない。大人はみんな、基本的に他人のことなどどうでもいいと考えているはずだったのだが。

地下室に通される。階段の手前で、兵士達は足を止めた。

そして、躊躇無く降りていくサニスを、よく分からない感情のこもった視線で見つめていた。

 

闇の中で、邪神様の巨体が浮かび上がる。やはり昨日のことは夢ではなかったのだなと、その光景を見て思い知らされる。

あまりにも巨大すぎて、全体の姿は把握できない。彼方此方でうごめく触手。そこら中にある口と目。そして粘液に覆われた体そのもの。聖書に記述がある天使が束になってもかなわないだろうその姿は、恐怖と、圧倒的な威厳に満ちていた。

強さの固まりのような姿。きっと人間がこの後どれほど進歩したって、この方には勝てないだろうと、サニスは思う。

だが、きっと孤独だ。

さっきの兵士達の様子からも分かる。邪神様に敬意を払っている人間などいない。サニスは確かに苦しい生活をしていたが、噂に聞く他の街や国では、もっとひどい状況が当たり前だという。

「体力も回復したようだな。 まだ筋肉に乳酸が残ってはいるようだが、動くにも頭を使うにも支障があるまい」

彼方此方から響いてくる声。頭が揺らされるような、強烈な威圧感に満ちていた。正直何を言われているのかよく分からなかったが、邪神様がサニスに興味を持ってくれているのは分かった。

何度か失敗した後、ようやく言葉を絞り出す。

「あの、邪神様」

「何かな」

「私、生け贄にでも何にでもなります。 だから、私のいる孤児院の院長先生を、病気から救ってあげてください」

噛まずに、最後までいえた。

邪神様はゆっくり触手を動かしながら、サニスを見ていた。闇の中で光る無数の目が、サニスの顔を、足を、手を、なめ回すように見つめる。何処をどう食べたらおいしいのか、品定めしているのだろうかと、サニスは思った。

「それは、お前の敬愛する人間を、命がけで助けたいと言うことか」

「はい。 邪神様が、孤児院にお金を出してくれているのは、知っています。 でも、院長先生の病気のお薬がとても高いし、孤児院には大人もいないんです」

街の皆は、誰もが天主教を嫌っている。院長先生の世話も、子供達の世話も、年長者であるサニスが全てしなければならなかった。

もし院長先生が此処で元気になれば。少なくともアニーが大人になるくらいの間は、みんな生きていくことが出来る。サニス一人犠牲になることで、それが出来るのなら。こんな命、惜しくはない。

それに、天主教の教会だという事自体が、孤児院を周囲から遠ざけている。世話を志願してくれる大人など現れないだろう。院長先生にもう少し健全に長生きしてもらう。それしか、子供達が生きる道はないのだ。

院長先生と、それ以上に弟たち妹たちを助けてあげたい。

自分が幼い頃経験してきた、身の毛もよだつ恐怖を、あの子達に味あわせるわけにはいかない。孤児院は苦しいところだが、それでもあれよりは遙かにましだ。

「その思考が、お前に優れた機知と、揺るぎない信念を授けたか」

邪神様の言うことは難しくて、よく分からない。でも、退屈させたら終わりだとサニスは思った。そういえば。聖書で、良くふれられていたことを思い出す。邪神や、その信者が、何を喜ぶか。意味はあまり分からないが、サニスも院長先生の説法を聞いて、覚えていた。

「わ、私、しょじょです。 だから、生け贄としては、その、高級なはずです」

「当たり前の事を言うな。 スラム出身でもないのに、その年と発育で性交渉を経験している方がおかしい。 それに、性交渉を経験しているかどうかで、人肉の味など変わりはしないわ」

邪神様が全く興味を示してくれなかったので、ちょっとサニスはがっかりした。だが、思考はこんな時にも、めまぐるしく動く。今の話に興味は示さなかったが、邪神様はサニス自身は悪く思っていない様子だ。せいこうしょうというのがなんだかよく分からないが、此処では追求していても意味がない。

ならば、余計なことは言わない方がいい。邪神様の問いに、的確に応えた方が、言うことを聞いてもらえるはずだ。そうサニスは判断した。

不思議と、人間の大人と話しているときほど怖くないのは何故なのだろう。相手がサニスの事を分析している事は、何となく分かった。

触手が一本、サニスに近づいてきた。

「一つ確認したいことがある」

「なん、ですか?」

「お前は生け贄になっても良いと言った。 それは、永久に私に使える事もいとわないと言う意味だと、判断しても良いな」

どういう意味だろうか。

人の一生など、せいぜい五十年。長生きしても、百年を超える事はないと聞いている。邪神様は、少なくとも五十年以上このセレネンデスを支配していて、しかもこの様子では人間の寿命など問題にもしないだろう。

それならば。邪神様に永遠に仕えると言うことは、人間をやめることだと言うことではないのか。

「どうだ。 私に仕えるか」

「……」

「それならば、お前の言う院長先生の病気を治してやり、孤児院への支援も増やしてやろう。 私の力を持ってすればたやすい事だ。 どうする」

やはり邪神様は、サニスを買っていた。

そればかりか、自分からこれだけおいしい条件を提示してきてくれている。

悩む必要など無い。定型を持たない、邪神様と同じような存在になってもかまわない。元々、命を捨てる覚悟できている。一瞬で死ぬことと、永遠に地獄の責め苦に会うこと。二つの、何がどう違う。

今更になって、悩んだり、欲が出てきている自分に、サニスはいらだちを感じ始めていた。もう死んだ身だ。肉は加工されて、調理されて、食卓に並ぶものなのだ。

箸にも棒にも掛けられず、殺されることだって想定していた。邪神様は見たところ、嘘をつくような存在ではない。

ならば、もう、迷うことなど無かった。

「分かりました。 私のこと、好きに使ってください」

「そうか」

なんだか、少しほっとしたような雰囲気がある。邪神様は、やはり寂しかったのかも知れないと、サニスは思った。

 

時々とんちきな事を言いはするが、もの凄く優秀な娘だ。邪神はサニスと喋りながら、IQは200近いだろうと分析をしていた。単純に頭がいいだけではなく、記憶力が抜群に優れているし、判断力も高い。単語は理解できなくても、言葉の大まかな意味はきちんと分析して把握している。それに、何より論理的な思考がすばらしい。

院長が好きだから助けたいというのではない。弟や妹たちを助けたいから、院長先生を長生きさせてほしいと、娘は嘘無く言った。誰かに入れ知恵された形跡もない。この娘は、自分でそう考えて、結論したのだ。普通、子供に出来ることではない。

まさに逸材である。

惜しむらくは、生まれた時代と場所がまずかった。もしもう数百年文明が発展した社会に産まれていれば、さぞや出世し、重宝されただろう。育て方次第で、軍人としても政治家としても、頂点を極めたのは疑いない。

そして、今その逸材が、邪神に終生の忠誠を誓った。しかも、自主的に、である。洗脳やマインドコントロールでは、本質的な忠誠は得られない。これは実に価値のある人材である。

ただ、一抹の不満もある。この娘は人間にしてはずば抜けて頭がいいが、真実を知った後も、使い物になるかどうか。これから単純に院長を治しても、事態は解決しない。必要なのは、その後の処置なのだが。

この娘は、どれほど優秀でも、まだ年齢が二桁に届いていない。いっそのこと眠らせておいて、全てが終わった後に洗脳して駒として使うか。その考えも首をもたげたが、撤回する。知能だけ高くても、逆境に対する抵抗力がなければ意味がない。全てを敢えて見せておいて、それから選ばせればいい。

手はほしい。だが、これが駄目なら、別の素材を探すだけだ。

それに、優秀な人間ほど、信頼に対する見返りをほしがる傾向がある。此処は、邪神を信頼したサニスに、その結果を見せなければならないだろう。

触手を動かして、武官を呼ぶ。降りてきたグランツ将軍は、サニスを見て一瞬だけほっとした様子を見せた。堅物の老人だが、安心すると僅かに右の眉が揺れることを、邪神は知っている。

さては、サニスに同情していたのだろう。これから食われるとでも思っていたに違いない。此奴は散々恩を売ってやったのに、今だに邪神を信じていない。邪神だって、何も好きこのんで人間に干渉しに来ている訳ではない。無為に人間を殺したことはないし、これからもそのつもりはない。天主教の聖書に登場する傲慢で気まぐれな神とは違うのだ。

「お呼びでしたか」

「これより、この娘の保護者である孤児院院長の病を治療する。 治療用の分身体を作るから、現地まで護送せよ」

「了解いたしました」

触手の一本を蠕動させ、先端を切り離す。意識の一部を移植し、なおかつ無線リンクを張った。切り離した肉塊はうごめきながら自分を構成し、やがて小さな触手を四本生やし、眼球を四つ作り出した。

分析は済んでいる。孤児院院長の病は糖尿。しかも既に重篤状態だ。この時代はおろか、文明が1000年程度は進まないと、とても治療できるものではない。

しかし、それは人間の常識である。糖尿など問題外、更に厄介な癌の治療でも、邪神にはお手のものだ。彼が通ってきた世界のうち、八割割程度でそれが実現されていた。腎臓が使い物にならない状況の末期だろうが問題ない。いざとなれば、遺伝子と記憶を分析して、完全なクローン体を作れば良いだけだ。人間のDNAなど、飽きるほどデータがある。記憶の再現も難しくない。癌によって脳細胞が侵食されている状況でも、邪神の技術なら再現が可能だ。ましてや糖尿など。

作った分身体に、治療に必要な物質を触手から注入する。医療用ナノマシンも既に調整済みである。今まで解析しておいたデータを渡し、プランを作成。その気になれば二日で全快に持っていくことが可能だ。ただし、今回は二月がかりで全快させる。それが、サニスを見極めるために、必要なことであった。

体の一部を変質させ、視覚情報を分身体とリンクさせる。周囲の発光器官を調節して、視覚情報が映り込むように設定。

スクリーンが起動すると、サニスは流石にびっくりして声を上げた。最初に白黒テレビを見た人間も、こんな反応をよく示す。

「うわっ!?」

「これから、そのスクリーンに、分身体が見たものが映し出される」

「この鏡みたいのが「スクリーン」で、この子が「分身体」ですか?」

「そうだ。 治療を間近で見せてやる。 安心しろ」

理解が早くて素晴らしい。グランツが部下数名をつれて降りてきた。かごを手にしている部下が、分身体を入れて隠す。今のところ、主戦力である陸攻と空攻以外の姿を見せない戦略を継続しているので、一般市民に分身体は見せないようにするのだ。

部下の一人は呼び止めて、椅子と食事を持ってこさせる。不審そうに椅子をおいていった部下を見送りながら、触手でサニスに示す。

「立ちっぱなしも疲れるだろう。 座れ」

「え? あ、はい」

「私の部下として役立つか、今は見届けさせてもらう」

サニスは緊張した面もちで頷く。外でキャーキャー遊んでいる人間の幼体と同じ生物だとはとても思えない。

スクリーンに、城の外の映像が映し出される。グランツは大げさにも完全武装の一個小隊をつれて、現地に向かった。グランツなりの嫌がらせのつもりだろう。こういうところは面白い奴である。使いがいがある。

食事が運ばれてきた。少しずつ慣れてきたサニスは、スクリーンから目を離さないまま、パンに手を伸ばす。やがて、サニスの住んでいる、教会が映し出された。かごの中から触手を伸ばして、分身体は良く情報を収集している。

不安そうにしている子供達が映った。これが、サニスの弟妹達だろう。その中で、最年長らしい女の子が、グランツに頭を下げて、何か言っている。見かけよりもずっとしっかりした物言いだ。

立ち上がったサニスが、スクリーンに駆け寄る。

「アニー!」

「大事な家族か」

「はい。 でも、ごめんなさい。 大人に対する礼儀を、まだ知らなくて」

「かまわぬ。 そもそも、お前くらいの年で、大人の顔色を読める方がおかしい。 グランツは出来た男だ。 勿論、そのようなことは気にせぬだろう」

自分の声が届かぬ事に気付いたサニスは、邪神の言葉を聞くと、悲しそうに俯いた。この娘は、まだ自分が天才的な素質を持っていることに気付いていない。そして、恐らくは、己が置かれている異様な状況にも、気付いてはいないだろう。

スクリーンの映像が、院長が寝込んでいる離れへ向かう。警備についた兵士達が、小声で会話している。いずれも、孤児院への不満と怒りを含むものだった。

「おい、あんな幼い子ばかりで、一体此処はどうしたんだ。 世話をする大人はいないのかよ」

「お前、知らないのか? 此処は宗教自由化政策の隙間を縫って、入ってきてる……」

「おい、任務中だぞ。 私語は慎め」

「はっ! 失礼しました!」

サニスの表情が、見る間に強張る。言っている意味が分からなくても、恐らくは察したのだろう。この孤児院が秘めている、深い闇を。離れの前で、急いで駆け寄ってきた男がいる。頭を下げているのは、グランツに対して、であろう。低く抑えられた、グランツの声がする。スクリーンにはグランツは映っていないが、眉をつり上げているのは、見なくても分かった。

「私はグランツ=ギルバート二級将軍だ。 お前が、此処の監視担当官だな」

「はい。 カラルラ=ケイン六級民政担当官です」

「お前がきちんと監視をしていないから、こんな事になったわ。 儂にはお前を左遷する権利も罰する理由もないが、お前に告げることは出来る。 一人の少女が、邪神様の手元に置かれることになった」

見る間に蒼白になるカラルラ。サニスは見知った相手が困惑しているのに、構わない様子である。だが、流石に顔が青ざめてはいた。それも混乱から、ではない。恐らくは、怒りからだ。

「し、しかし、私は此処の院長がずっと続けていた、人身売買のルートを告発して、壊滅させたではありませんか。 院長自身はローマ帝国の息が掛かっていたから告発は出来ませんでしたが、私なりのやり方で子供達だって守ってきました! そ、それが、それなのに」

「それについては、後で邪神様が吟味なさるだろうよ。 詳しい報告書を、後で提出するように」

力なく崩れるカラルラを、兵士が連れて行く。スクリーンから消えたカラルラの事は、邪神にとってもどうでもいい。今興味があることは。残酷な事実を知った時。サニスがそれに耐えられるか、それだけだ。

サニスが呟く。目からは、徐々に正気の光が失われつつあった。何処を見て良いか分からない様子で、問いかけてくる。

「じんしんばいばい? なんですか?」

「じきに、わかる」

スクリーンから、サニスは目を離さない。混乱しているサニスの様子が、邪神には手に取るように分かった。

もう少し、この娘が年を取っていたら。不審を感じていただろう。

何故、年上の子供がいないのか。いくら何でも、サニスが最年長というのは孤児院としてもおかしい。世話をする大人の存在もだ。邪神が他の孤児院に、どういう資金援助をしているのか。調べればすぐに分かることである。

賢い娘だから、今の会話から、すでに違和感は感じ取っている。それがどう育つのか、興味深い。狂気へ向かうのか。それとも、全ての憎しみへ転化するのか。邪神としては、人間そのものを憎むようになったら楽しい。非常に効率よく、以降は制御することが出来るだろうから。

食い入るように、サニスはスクリーンを見つめ続けている。

そのサニスを、邪神はセンサーを全開にして、観察し続けていた。

 

グランツは哀れなサニスという少女の事を思い浮かべながら、離れに入る。発育が遅いのだろうか、随分痩せていて体が小さい娘だった。食事もあまりとれず、激務をこなしていたのだと分かる。

大人顔負けに発達した知能と、異様に研ぎ澄まされた現実主義がなければ、如何に隙があったとはいえ、あそこまで見事に侵入するのは不可能だ。しかも何かしらの特殊訓練を受けているならともかく、自力でそれを成し遂げてしまった彼女の環境に、むしろ同情を覚えてしまう。

侍従が手にしている籠から、邪神様の触手が外を覗いていた。この方の考えることは、分からない。最古参の軍人であるグランツにも、だ。

無力感が全身を包んでいる。昔からこうだ。事実上独立国であるこの邪神領で生きてきて、自分の力を実感したことなど、ただの一度もない。この国は、邪神様の手のひらの上にある。あの娘だって、この国に産まれなければ、違う人生があっただろうに。そう思うと、やりきれない。

分かってはいるのだ。この国が、途轍もなく優れた仕組みで統治されていると。神の名の下に、奇跡や正義を称する天主教が、実際は腐敗と汚辱に満ちていることも分かっている。それに内部を食い荒らされたローマ帝国が、いずれ滅ぶであろう事も。それに対して、この邪神領は何が攻めてこようと、平然と独立を続け、民は平穏な生活を続けることが出来るだろう。コンゴ王国の銃兵部隊や、命知らずの回教徒の騎馬隊であっても、この邪神領を制圧することは不可能だ。そして、民は公正な税制と裁判に守られ、平穏と繁栄を謳歌するだろう。

この邪神領には、奴隷制さえ存在しない。それがどれほど奇跡的なことか、グランツは良く知っている。

歪みはある。だがそれは、他の地域に比べると極小だ。若い頃、ローマ帝国の各地を渡り歩いてきたグランツは知っている。余所ではどんな統治が行われ、差別が横行しているのか。此処での状況など、天国に等しい。

だが、どうしても納得できない。全てを受け入れてしまっている自分と、その納得がせめぎ合い、ずっと苦しんできた。

空を見上げる。グランツが軍人になったのは、もう四十年も前のことである。十万を超えるローマ帝国軍がちょうど侵攻してきた頃に、兵士として城に入った。

当時は新兵だったからか。周囲の反応は、今も良く覚えている。ローマ帝国軍が、邪神様に勝てるはずがないと思っている者。今度こそ、邪神様も終わりだろうと思っている者。反応は二分していた。得体が知れない邪神様の存在は、兵士達の間でも恐れられていた。どれだけ生活が豊かになり、疫病も無くなったとはいえ。未知の存在は恐ろしいものなのだ。

城壁の上から見た、赤々と燃える平原のことは、今でも忘れない。クウコウが焼き尽くしたローマ帝国軍の残骸は、何日も燃え続けていた。彼は何もしなかった。十万を超える軍勢が蹴散らされ、一万五千以上の死者を出して逃げ散るのを、ただ呆然と見つめるだけで、全てが終わってしまったのだ。

グランツが行った事と言えば、その後に遺棄された物資を回収し、黒こげになった死骸を葬った位である。邪神様の玉座は、万全のものとなった。そしてしばらくして、恐るべき時がやってきた。

今でも、そのときの恐怖は忘れない。邪神様が今度こそ滅びるだろうと思っていたグランツは、それを兵長になったとき、邪神様から直接指摘されたのである。人知を超える存在だと言うことは知っていた。だが、己の全てを見透かしている相手を、恐れないのは無理だ。

今は邪神様が無体なことはしないことも知っている。だから、ある程度反抗的な態度も敢えて取るようなこともしている。だが、結局の所、かなわないことは身にしみている。自分は負け犬だと、グランツは思っている。事実今も、悲壮な決意と共に邪神様の下を訪れた少女に、何一つしてやることが出来なかった。

それに、知っているのだ。邪神様が配下に希望を与え、仕事の活力を増すために。敢えて、グランツのような反抗的態度を取る者の存在を許していると言うことを。自分も手のひらの上にいることを自覚した上で、それでもなお踊らなければならない腹立たしさ。家に帰ると途端に無口になるのは、その絶望が故であろうか。

グランツは、薄々気づいている。邪神様が、人間の心を完璧に読み、把握していると。そして、邪魔になれば、容赦なく殺すと。

貧しい建物とはいえ、子供達が押し込まれている小屋よりも、大きくて立派な離れに足を踏み入れる。反吐が出る。

天主教の信者が屑と同義というわけではない。グランツの知り合いにも、まともな倫理観念と正義感を持つ天主教の信者が何名かいる。それに限らず、多くは素朴な信仰を抱く普通の人間である。だが、此処の院長は違う。文字通りの唾棄すべき屑だ。

離れの中は綺麗に掃除されており、あの少女の健気な苦労が伺われる。床板は少し古くて踏むとぎしぎし鳴ったが、埃は全く積もっていない。兵士達と二階へ。清潔にされているのに、空気がよどんでいるのは、重病人がいるからだろうか。

「警備を厳重にせよ。 絶対に、誰も入れるな」

「はっ!」

兵士達にきつく命じると、自身はカラルラから聞いている、大部屋に足を踏み入れる。

院長は情報通り伏せっていた。不治の病だという。本来は絶対に直せない病気だが、あの娘と取り引きしたことにより、邪神様が特別に回復の手だてをはかるのだという。どんな残酷な取り引きをさせられたのか、少女のことを思うと胸が張り裂けそうだ。あの娘と同じくらいの年の孫がいるグランツとしては、とても他人事だとは思えない。それに、此奴に救う価値など無いと知らない少女の事を思うと、やりきれなくなる。

世間的にはおっかない頑固親父だと思われているグランツも、内心はとても涙もろく感受性が強い。ただ、それを他人に見せることは一切無い。

グランツは冷静に、院長が寝ているベットが、高級品であることに気づいた。咳払いを一つ。髪が殆ど抜け落ち、やせこけた院長が、おびえた様子でグランツを見る。

「久しぶりだな、ゲイハルツ」

「こ、これは、グランツ、将軍」

「今日はお前にいい話を持ってきた。 邪神様が、お前の病を治してくださるそうだ」

ひゅう、ひゅうと息を漏らす院長。

グランツは知っている。此奴は、ローマ帝国から派遣されてきた、内部査察官だ。そして、三年前に摘発された、大規模違法人身売買の主犯格である。

ローマ帝国と邪神領は、現在表向きは主従関係にある。確かに軍事的には完全な独立体勢にあるが、実際には経済的にある程度の連携体制も確保されている。50年前に比べて、邪神領は人口が増えすぎたのだ。幾つかの生活必需物資は生産が追いつかなくなりつつあり、特に塩はローマ帝国との経由ルートを通らないと、コストが著しく跳ね上がってしまう。

そこにつけ込んだローマ帝国が、信仰の自由を許されていることを隠れ蓑に、送り込んできたのが此奴ら内部査察官である。無論その実体は密偵と間諜を足したようなものであり、半ば公認の存在として、邪神領にて蠢いていた。

このような存在を放置している理由はよく分からない。何でも邪神様の話によると、ある程度進んだ国家では、内部に敵国の公認スパイを飼うのが普通なのだという。極めてデリケートな利権と政治的なバランスの上に成り立った仕事であり、事実殆どの密偵は切れ者だった。最初の内は、それで上手く行ってもいた。邪神領の中に保持された闇の領域にして、ローマ帝国との折衝用コネクション経路でもある。それが、此奴ら内部査察官の存在意義なのだ。

その経路が確保されたのは、十年ほど前のこと。だが、安全だと勘違いすると、人材も徐々に質が落ちてくる。

そして五年前。この恥知らずが、派遣されてきた。

ベットに歩み寄ると、院長の目に恐怖が浮かぶ。

「お前が身を守るために周囲においていた子供が、邪神様に取引を持ちかけた。 お前の寿命を延ばして欲しいとな。 どんな条件で、邪神様がそれを受けたのかは、儂にはわからん。 だが、邪神様はそれを受け入れた。 あの子がどのような目にあうか、少しは想像できるか?」

「あ、うあ」

「おっと、これは酷な質問だったな。 お前に、そのようなことなど、理解できる訳がないか」

そうだ。此奴に、そんな事が理解できる訳がない。

知っている。此奴が今掛かっている病気は、贅沢な食事を繰り返すことが原因の一つとなるものだ。此奴は子供を売り飛ばして、高価な家具を揃え、美食を楽しみ、この世の極楽を謳歌していたのだ。

「……この恥知らずな人売りがっ! お前が売り飛ばし、異境で汚辱と屈辱の中で死んでいった者達の怒りと悲しみは、そんなものではないわ! しかも、貴様は生きているだけで、不幸な子供を生産するらしいな! 今死ね! すぐ死ねっ!」

グランツは、思わず怒気を叩きつけていた。

天主教系の孤児院院長として赴任してきた此奴が最初に始めたのは、交易商人達とのコネクション確保だった。それ自体には問題がなかった。実際問題、役人達の調査では、此奴の行動に不正は発見できなかった。デリケートな立場の相手だから、踏み込めなかったという理由もあるだろう。ただ、初期は此奴も、天主教の司教としての、責務を感じていた可能性が高い。

実際、今でもどうして此奴が最初に違法人身売買を思いついたのかは分からない。孤児院で管理されている子供が、不審死するようになって、その頻度が多いことに監視を担当していたカラルラが気付いた時には、既に遅かった。

元々、この孤児院では、殺人犯の子供や、天主教系難民の子供など、闇の領域に属する子供達を世話していた。それも、発覚の遅れにつながった。

年頃の子供を、この院長は死んだと偽り、ローマ帝国の貴族に性玩具として売り飛ばしていたのだ。ローマ帝国でさえ此処百年ほどは、奴隷が禁止傾向にあるが、それでも使用する富裕層は後を絶たない。中でも、邪神領出身の子供は、「気兼ねなく使い潰せる」という理由で人気があるのだという。何しろ、「おぞましい邪神に忠誠を誓ったようなクズどもの子供」なのだ。何をしても良心が咎めることはないという訳だ。

摘発が行われ、人身売買のルートは壊滅。最初ローマ帝国は抗議の姿勢を見せたが、邪神様が北部の港町アンセルの攻略を示唆すると、途端に態度を翻し、蜥蜴の尻尾切りに出た。運悪く、他の子供達の引き取り手が見つからなかったという事もある。また、事件を表沙汰にすると、ローマ帝国との全面戦争に発展しかねない事情もあった。邪神様は、それを避けた。相手が譲歩したのだから、此方もある程度引くのが筋だと言った。

そして、以前よりも厳しい監視の下、院長は生かされたのだ。

反吐が出る。政治の話は人間の暗部がもろに出てくる。邪神領でも差別は厳然として存在しており、だから子供達の引き取り手は出なかった。こう言う時は、グランツも邪神様より邪悪なのは人間だと確信できるほどだ。それを見ても平然として最善手を打ち続ける邪神様は恐らく強い存在なのだろう。だが、やはりその心を理解は出来ない。或いは心など存在しないのかも知れない。この腐れ外道のように。

「皮肉なものだな。 お前のような恥知らずのために、命を投げ出す者がいるとは」

元々真っ青になっている院長が、更に蒼白になっていく。がくがくと震えているのは、罪悪感からか。或いは、恐怖からだろうか。天主教の神とやらが無能なのはグランツにも分かる。

このようなクズに天罰を与えず、放置しているのだから。此奴には病魔など生ぬるい。それこそ生き地獄が相応しいだろうに。

邪神様の存在を知り、近くに行くことを許されている兵士達も、院長を厳しい目で見ていた。籠の覆いを取り去り、邪神様の分身を露出させる。触手を蠢かせる邪神様の分身を見て、院長が金切り声を上げた。誰も、此処には届かない。

籠から飛び出した不定形の塊が、院長の顔に貼り付く。しばし骨張った手でそれを取ろうとしていた院長が、すぐにぐったりして動かなくなった。触手が全身に伸び、なにやら作業を始める。ぴくりぴくりと痙攣していた院長から目を逸らすと、グランツは思った。失敗してしまえば良いのに、と。

そうすればあの少女も、契約不履行で死なずに済むのに、と。

だが、それが希望的観測に過ぎないことを、グランツは知っている。この治療は、絶対に成功するだろう。

それが、これ以上もないほど、グランツには腹立たしかった。

 

4、超越

 

邪神は、あまりにも興味深い結果に、人間で言う歓喜さえ感じていた。

グランツと院長のやりとりから、全てを察したらしいサニスがへたり込んでいた。スクリーンには、手術の様子が映し出されている。今全身麻酔を掛け、体のスキャンを終了。医療用ナノマシンを投入して、崩れた細胞の除去と、健全な体組織の再構築を行っているところだ。幾つかの臓器、時に腎臓は使い物にならない状態なので、まる二日くらい掛けて修復する必要がある。まあ、大した処理負荷は無い。この程度の処理なら、五千万程度並列でこなしても、まだおつりが来る。

サニスの観察は面白かった。必死に現実を理解しようとする頭と、己がしたことの無意味さを悔いる理性がぶつかり合い、せめぎ合いを続けていた。常人ならとっくに壊れているような負荷の中、それでもサニスは耐え抜いた。しかし、しばらくは、正気には戻らないだろう。

この人間は使える。精神が崩壊したらそれはそれで構わない。遺伝子を解析するだけでも、何かの役には立つだろう。今後状況によっては領地を拡げるつもりだ。最終的にはローマ帝国は全て乗っ取り、文明圏を刷新する予定だからだ。その際に、クローン兵士の投入を考えているのだが、それの素体になるかも知れない。

サニスが大人になった時の推定ステイタスは、常人を遙か凌駕する。クローンは、一人で十人の敵兵を圧倒するだろう。都市制圧戦などのデリケートな任務に、もってこいの素材だ。対軍用に作り出した陸攻や空攻には出来ない任務を、一任することが出来る。

「邪神様」

「どうかしたか」

「思い出したことが、あるんです」

焦点の合わない目で、サニスは言葉を紡ぐ。

彼女の孤児院には、年上のお兄さんお姉さんが何人かいた事。ある日を境に、不意にいなくなってしまったこと。一人ずつ減っていって。やがて、サニスの一つ上の、一番仲が良かったお姉さんもいなくなってしまったこと。

「み、みんな、死んでいた、んです、か?」

「そうだ。 あの院長が贅沢をするために売り飛ばされ、人間として考えられる限りの残虐な目にあって、屈辱と悲嘆の中で死んでいったのだろう」

「わたし、弟や妹たちを助けるために、お姉ちゃんやお兄ちゃん達を、こ、ころした奴を助けようとして、命を、投げ出した、んです、か?」

「そうだ」

必要がないから、返事は最小限。人間は基本的に弱者を痛めつけるのが大好きだから、集団の中で虐めを平然と行う。虐めは上層から下層へと移行していくという法則が必ず成立する。だから、平均的な人間であったら、今のサニスを舌なめずりしながら見守ったことだろう。

だが、邪神は違う。人間とは感情の構造も大きさも異なる。社会性生物ではないから虐めにも興味はないし、肉食動物ではないから弱者へ殺意を感じることもない。ただ、興味深いと思っただけである。

さて、これからどうなるか。頭を抑えていたサニスは、なにやら呟いていたが、やがて不意に顔を上げた。目には、強い闇が宿っていた。

「一体、誰が悪いんですか?」

「強いて言うならば、人間という生物と、それが構築した社会が悪い」

院長の行動は、基本的にニーズに沿ったものであった。「邪神領の子供」が欲しいという消費者がいた。リスクに伴う出費が可能だった。そして、院長自身が贅沢をしたかった。子供には、他に行く場所がないという弱みがあった。だから、商売として成立した。

また、ローマ帝国の密偵という実入りの少ない仕事で、良い生活が出来ないという事情がそれを後押しした。

そして、ローマ帝国からの密偵であり、公認スパイだという非常にデリケートな立場が、その実行を決定づけた。

邪神領の治安が非常に良く、隅まで監視が行き届き、人身売買業者が入り込む余地がないという条件も、それらに加わった。

いずれも個人の嗜好よりも、人間の社会構造が為したことだ。子供がどうこうしても、如何に頭が良くても。一人や二人、憤慨する大人がいても、どうにもならない。その過程に、社会の安定化を産むために作り出された仕組みである、「倫理」とか「人道」などなんの意味も持たない。

別に、邪神領だという特殊な事情がこれを起こしたわけでもない。他の人間社会はもっと悲惨だ。

コンゴ王国や回教徒領では程度の差こそあれ発展した経済を支えるために奴隷が使用されているし、それはローマ帝国の一部でも同じだ。東洋では奴隷の地位が高い地域も多いが、それも比較的とか、その程度の違いでしかない。

そして、社会が発展しても、奴隷は基本的に無くならない。コスト的に成立しないが、それでも必要となる作業を達成するためには、無休に近い条件で働く存在が必要になる。もっと文明が発展したとしても、人間以外の存在が、それらを代行することになる。

それらを、丁寧に説明していく。

誰かが欲しいと思うことにより、経済が生じる。多くの人間が生きるために、社会が生じる。

そして、それらは、人間が闇と呼ぶものを産むのだ。光はその派生物に過ぎないのである。

赤の他人など、数百万人死のうと知ったことではない。それが平均的な人間の思考だ。邪神が渡り歩いてきた幾多の世界では、それが真実であった。別に老幼に差はない。大人は大人で、子供は子供で、その手が届く範囲内で、同じ事をしているだけである。人間とはそういう生物だ。

「お前には知識がなかった。 だから、その複雑な構造を把握しきれなかった。 その中で、お前がした行動は最善のものだった。 為政者への直訴をその年で思いつき、しかも必要な材料を揃えて取引まで成立させた。 お前は、何一つミスをしていない。 それどころか、大人でも無理なその途中過程を見事に成功させた」

それを見事だと思ったから、邪神は取引を受けた。そして、今後も取引を反故にする気はない。

この娘は育てれば、経済的にも社会的にも、あの孤児院にいる子供全員が消費するよりも遙かに大きな利潤を生み出す。

「ごめん、なさい。 外の空気、吸わせて、ください」

「いいだろう。 好きにしろ」

ふらつきながら、サニスが地下室を出て行く。あの誠実な娘のことだ。仮に絶望したとしても、約束を破って逃亡するようなことはないだろう。邪神が今後も弟や妹達の命を握っていることを、知っているからだ。

ところで、邪神は聞かれていないことは教えていない。一つだけ、まだサニスには話していない、彼女に関する事がある。

帰ってきてから教えてやればいい。今のところ、治療も何一つ問題なく進行している。状況を知るグランツが発作的な行動に出る可能性も懸念の中にはあったが、流石に耐えることが出来るようだった。

ならば、それを知った時も。耐えることは出来るだろう。

さて、準備をしなければならない。これほどの素材が手に入ったのだ。手駒が一枚というのは何とももったいない。この機に、使えそうな駒は増やしておいた方が良い。まずは強化のプロジェクトからだ。脆弱な人間の知性と肉体をとっぱらい、行動しやすいように改造する。何、命を捧げると言った相手だ。何一つ遠慮することなど無い。遺伝子の一片に到るまで、もはや邪神の所有物だ。どう改造しようと自由である。

幾つかのプロジェクトを同時に動かし始める。ラインを構築して、必要な物質を生産開始。ひょっとすると、計画を五十年程度速く進めることが出来るかも知れない。素晴らしい話だ。今まで歯がみしながら見つめ続けた人間の滅亡を、今回こそ見なくても住む可能性が浮上してきていた。サニス並みの逸材を百体揃えられれば、数百年の短縮さえ可能かも知れない。

全身が、活動的になりつつある。此処を抑える第一段階、発展させる第二段階があまりにも上手く行きすぎたという事で、少し怠惰になっていたかも知れない。鈍りきった体を温めるには、丁度良い頃合いだった。

 

地下室から現れたサニスを見て、兵士達はさっと退いた。恐らく邪神様に手出しは無用と言われているのだろう。

一度中を歩いたから、もう中の構造は把握している。バルコニーには出なかったが、その経路は分かる。素足のまま、絨毯の上を歩いていく。年かさの使用人が、声を掛けてきた。

「どうしたの。 どこかへ行きたいの?」

「へいき。 放っておいて」

振り返ると、使用人は小さく悲鳴を上げて後ずさった。理由はよく分からないが、サニスに恐怖を感じているようだった。

不思議と、体の隅々までも良く動くことが分かる。何だか、全てから解き放たれたような気分だ。体の中を、血が通り抜けていく音が聞こえる。歩く度に、足の裏に触れる絨毯や石の感覚を記憶していく、明確な理解があった。

階段を上って、バルコニーへ向かう。二階にある大きめの応接室を覗いて、誰もいないことを確認。部屋を横切って、窓を開けて、外に出た。

まだ、外は明るい。見えるのは城壁ばかり。外を見回そうと思うのであれば、塔に登らなければ無理らしい。ただ、ちゃんと風は吹いてくる。それが不思議と心地よくて、サニスは眼を細めた。

手すりに寄りかかる。強度は体重を預けた瞬間に計算できた。だから、落ちる恐れもないと分かった。

しばらくぼんやりする。

何だか、全てが虚しくなってしまった。

弟たち妹たちを救いたいという気持ちは、確かにある。だが、今更ながらに思い出す。もっと小さかった時に、苦しい中も笑顔を浮かべてくれたお姉ちゃんたち。肩車をしてくれたり、かくれんぼをして遊んでくれたお兄ちゃん達。みんな、脂ぎったローマ帝国の貴族どもに、まるで豚が殺されるように消費されたのだ。きっと、サニスが知らない、とても酷いことをされたに違いない。それに飽きたらゴミのように捨てられ、或いは殺され。それを後押しした奴を、弟や妹を救うために。これから救わなければならない。

邪神様が何とかしてくれるというのは、愚かな考えだ。あの方は、話してみて分かったが、全ての面で人間ではない。体は当然のこととして、精神も人間とは根本的に異なってる。多分、契約以上の事はしてくれないだろう。唯一の救いは、あの院長が、これ以上人を売るのは不可能だろうと、言うことだけ。

反吐が出る気がした。

神に対する怒りは、いつの間にか消え失せていた。果てしなく無能で、どうしようもない低能だと言うことが分かったからだ。神とやらがいるのなら、少しでも良い。このどうしようもない人間とか言う生物を、救って見せたらどうだ。それが出来ないというのなら、大口に相応しくない役立たずだというだけだ。崇める価値はおろか、憎む意味さえもが無い。

しかし、邪神様に祈りの対象を移すのも、違う気がする。

祈りとは何だ。体の良い現実逃避ではないか。頭が加速度的に活性化しているのが分かる。あまりにも速く動きすぎて、脳が沸騰しそうだった。思わずへたり込んだのは、加速化する思考が、立ちくらみを呼んだからだ。

駆け寄ってくる気配。さっきの兵士だった。人が如何にも良さそうな彼は、手をさしのべてくる。

「おい、大丈夫か?」

「平気」

立ち上がって、まっすぐ目を見ると、やはり兵士は息を呑んで後ずさる。露骨な恐怖が顔にあった。

「お、お前、な、なんだよ、その目」

「別に目に異常はないよ。 よく見えてる。 傷もついてない」

「ち、違う。 お前、じ、地獄でも、見て、きたのか」

「邪神様に、何かされたのか?」

恐怖の中に、憤りがある。どうやら若いだけあって、正義感が強い性格らしい。

邪神様には、生憎何もされていない。真実を見せて貰っただけだ。

「いいや、何もされていないよ。 私を監視するようにって、将軍に言われたの? それだったら不要だから、任務に戻ってよ」

「だ、だったら、いいけど、よ」

言いかける同僚の肩を掴んで、もう一人の兵士が首を横に振る。間を抜けると、サニスは地下に向かった。何だか、人間といるのが煩わしくなりつつある。

アニーは、どうしているだろうか。きっと不安の中にいるのだろう。大勢押しかけてきた兵士達に怖がって、泣いている妹や弟をなだめているのだろうか。その光景が、ありありと浮かぶ。

私に残ったのは、弟たちと、妹たちだけだ。

必ず、守らなければならない。邪神様の下で働きながらでも。

階段を下りて、地下へ。人間に今後頼ることは、一切無いだろう。邪神様に頼ることも、同じだ。

必ずや、人間と社会を、自由に出来る力を手に入れる。そして、自分の大事な者達を、絶対に守り抜くのだ。そのためなら、人間など捨てても構わない。いや、むしろ、人間であることなど無駄だ。悪魔にでも、怪物にでもなってやる。

何だか、加速度的に自分が強くなってきている事が分かる。それがとても好ましい。場合によっては、邪神様をも利用するような力を。強さを。それが欲しい。

階段を下り終える。邪神様は、何も変わらぬように、其処にいた。

「戻ったか。 ならば、二つ、聞かせることがある」

「はい」

素足から伝わってくる、石の感触が告げている。

これから、人としての生は終わる。

「一つは、お前の素性についてだ。 既に調べがついている」

「……すじょうというと、うまれた時のことですか?」

「そうだ。 お前の両親はローマ帝国の下級貴族。 しかも乱脈な生活を送っていた兄妹同士が、暇つぶしに生殖行為を行って、お前が産まれた。 ちなみに兄は17、妹は14だったそうだ。 しかも妹の方は初産ではなく、以前におもしろ半分に奴隷と子供を作ったことがあったそうだ」

少し前だったら、何を言われたか分からなかっただろう。

しかし、今はその意味がよく分かった。あの孤児院にいた理由も、である。

そう。最初からサニスは。人間社会に、居場所なんて、無かったのだ。さっき、グランツ将軍が、院長先生と口論している時に、何となく分かった。元々居場所なんて無い子供が、彼処に押し込まれていたのだと。

どんな経緯で、サニスがあの孤児院にたどり着いたのかも、邪神様は教えてくれた。サニスを気の毒に思った奴隷の男女が、逃亡のついでに、さらうようにして連れてきたのだという。しかし、邪神領で生活が豊かになり。自分たちの子供が出来ると、途端に煩わしくなったのだそうだ。

ああ。道理で。サニスは、それも納得がいった。

考えてみれば、自分たちを虐待した貴族どもの子供だ。いざ平和で豊かな日々を手にし、しかも自分たちの子供が出来てしまえば。文字通りの、邪魔者でしかない。そうなれば、虐待が始まる。人間なんて、その程度の生物なのではないか。

理屈が分かる。だから、ショックも無い。サニスの脳内領域は、どんどん拡大を遂げている。もはや、人間は、客観的に監視できる存在に過ぎなくなりつつあった。

邪神様は、当の本人達の記憶を覗いたのだと判明した理由を教えてくれた。なるほど、この邪神領に、育ての親とやらがいたわけだ。幼い頃に、散々虐待を加えてくれたあいつら。かっては恐怖しかなかった。それが今回の行動につながった。

今は違う。もはや奴らは、憎むべき敵だ。

だがしかし、不倶戴天と言うには、あまりにも卑小。いずれ、路傍の小石でも蹴飛ばすように、捻り潰してやればいい。だからすんなりと、思考の脇に追いやることが出来た。今はもっと大事なことがあるのだ。

「もう一つについて、お願いできますか」

「了解した」

邪神様が喜んでいるのが分かった。今まで観察した動作から、分析した結果だ。何故喜んでいるかは、まだよく分からない。もっと多くの観察が必要になってくるだろう。それに今後は、心を読まれていることを前提にして、発言する必要も生じてくる。

「これから、お前の体に変更を加える」

「変更ですか?」

「正確には、院長の病を完全に除去してからになるが。 まず、お前の体から、寿命を取り払う」

妙なところで律儀な方である。契約は丁寧に完遂してから次に掛かると言う訳だ。もし人間であったらこうはいかない。優位を採った瞬間、契約の遂行など放棄して自分の意思を優先に掛かるだろう。こういった些細な点でも、邪神様が人間とは異なる思考の持ち主なのだと、サニスには分かる。

「そして身体能力と、再生能力を引き上げる。 お前の頭脳をフル活用できるレベルにまでだ。 簡単には壊れないようにすることで、お前は最高の手駒ともなる。 そして我が目的を、これ以上もないほどスムーズに達成する最強の剣ともなろう」

「一つ、聞かせてください」

水を差すようで悪いとは思う。だが、サニスは聞いておきたかったのだ。

邪神様が何者で、一体何を目論んでいるのか。

おそらく、サニス達が神とか悪魔とか呼ぶ者とは違うことは、話していてすぐに理解できた。しかし人間ではない。かといって、まっとうな生物だともとても思えないのだ。

僅かな沈黙が流れる。そこに、言葉を付け加える。

「貴方は、何者なのですか?」

「ふむ。 私は神に仇為す邪神であると言ったところで、納得はしそうにないな」

「はい。 そんな表面だけの嘘を、貴方がつくはずもありませんから」

「良かろう。 我が右腕になるものに、告げておこう。 我が何者か、そして何を目論む存在なのか。 聞くが良い、人を超え、今我に近付こうとしている者よ」

 

薄暗い地下で服を脱ぎ捨てたサニスは、見た。羊水にも似た、半透明の液体が満ちている、奇怪な籠のような肉塊を。これに入ったサニスは、人ではないものとなる。寿命はなくなり、体が千切れたくらいでは死ななくなり、頭脳に相応しい動きを見せる体がそれに着いてくる。まさに、邪神の右腕と呼ぶに相応しい存在になるのだ。

邪神様が、サニスを作り変えるために製造したものらしい。原理はまだ聞いても分からない。作り替えると同時に、膨大な知識を脳に流し込むのだそうだ。それが終わり、サニスが人ではなくなった時には、原理も自然と分かるようになっているそうだ。

右足から、中に。人肌に温められている液は、冷たくはないが、粘性が強くて少し気持ち悪かった。

あれから、何もかもがスムーズに進んだ。院長先生の病は邪神様の治療の結果、綺麗に消えて無くなった。嘘のような仕上がりだった。ベットからも起き上がれるようになった院長先生を、グランツ将軍が脅かしていた。浮いた金で、子供達を世話する人間を雇え。貴様の豪華な家具やらを全て売り払って、この小屋に子供達を移せ。震え上がった院長に、グランツ将軍は巡回の兵士をこれから毎週回すから、経営状態をまとめて出費を全て報告しろと、鬼のような顔で告げていた。まあ、あれなら。

アニー達は大丈夫だろう。

人間とは現金な生物で、自分より強い者には逆らわない。大人になればなるほどその傾向は顕著だ。

邪神様は、おまけまで付けて、契約を履行してくれた。ならば、此方も契約に従わなければならない。

サニスは、邪神様の持ち物になる。永遠に、だ。

左足も、籠の中に入った。膝の辺りまで、液体は来ている。結構深い。足に触れる底の感触は肉そのもの。じくじくと蠢いて、サニスの足の裏の感触を楽しんでいるようであった。

籠の中で、腰を落として、ゆっくり横になる。粘性が強い液体だが、浮力はそれなりに高くて、体は充分に浮いた。ちくりと、右手に違和感。見ると、触手が一本巻き付いていた。

すぐに、痛みが無くなってくる。邪神様も言っていた。すぐに痛みは消えて、気がついた時には終わっていると。

十年に足りず。それは、人間として過ごした時間だ。

感慨はない。大事な者達は守ることが出来た。それに、それ以上に。もう、人間と同じ体である事が耐えられない。

邪神様の正体についても、あまり感慨はない。そうか、そういうものだったのかと、思っただけだ。薄ぼんやりとした思考の中で、見えているのは、自分の体をいじくり回している大量の触手。肌を割いて肉に潜り込み、内臓を掴んでなで回し、得体の知れない液を大量に流し込んでいるのだろう。全く痛みはない。

一体自分という存在は何だったのだろうと、サニスは思った。

おもしろ半分に、両親が造った。飽きたから捨てた。可哀想だと思った奴らが拾った。邪魔になったから捨てた。そんな自分が、苦しい中、更に年下の子供達を守ってきた。何もかも背負って。病気の院長先生の世話までしてきた。奴がどれほどの鬼畜外道だとも知らずに。それも、今、終わろうとしている。

充実した人生だったのだろうか。

それとも、儚い生だったのだろうか。

目を閉じると、何も浮かばない。そういえば、自分のために何かしたことは、ただの一度でもあっただろうか。

他の子供が、親と戯れている時に。自分は一体何をしていたのか。

不幸という言葉でくくるのは嫌だ。

意義を感じる生き方を、これからはしたい。

ふと、目を開ける。視界の動きがおかしい。ひょっとすると、目を取り出されて、何か調整されている途中だったのかも知れない。ぼんやりと見上げる脳裏に、声が響いてくる。

「驚異的な精神力だな。 これだけの濃度の麻酔薬を投与されて意識を保つとは。 脳の拡張を図っておいて正解だった。 お前の今の精神力は、人間の領域を踏み越えている」

声が出ない。ぼんやりとした意識の中、声に耳だけを傾ける。否、それは声ではないのかも知れない。

「今は、ただ聞け」

視界が闇に包まれる。眼球が、ものを見る機能を喪失したのだと、自然に分かった。多分、もう人間の形をしていないくらいに、切り刻まれて、変化しているのだろう。元の人間の形に戻るのだろうか。

人間は嫌だなあと思う。だが、それでもいい。中身が人間でないのなら。

「私は、言い聞かせたように、今回初めて、介入を決意した。 人類が、放って置いては滅ぶこと確実の生物だと判断したからだ」

多分、内臓が引っ張り出されて、戻されたのだろう。痛くはないが、腹の方に妙な違和感があった。頭の方で、かちりと音がした。ひょっとすると、外されていた頭蓋骨を元に戻されたのかも知れない。

視界が、戻ってきた。

「だが、如何にあまたの世界を見てきた私といえども、最初に始めたことを、いきなり成功させるのは難しい。 だから、この世界での事は、予行練習と考えていた。 失敗して滅びを加速する可能性さえあると考えていた。 しかし、今は少し考えを変えている」

ぼんやりした視界の中を動き回っているのは、無数の触手だろう。せわしなく、頭上で蠢きまわり、なにやら作業している。ふと見えたのは、腕か。相変わらず痩せていて、小さな腕だ。

それが、目の前を素通りしていく。腕を外して、何か作業をしていたのだろう。再び、腕が素通りしていった。元に戻したのだろうか。

「この時代から、千年後程度後に、人類にとっての岐路がある。 己を滅ぼしかねない超兵器の開発がそれだ。 それに合わせて、人類が増えすぎて、世界全体の食料が足りなくもなる。 これが第一の滅びだ」

何でそんな愚かなことを。

いや、愚問だそれは。人間なら、どのような愚かなことでも、平然と手を染める。それが人間なのだから。

自分さえ良ければよいと考える生き物だ。自分さえ良ければ、他の命などどうでも良いのである。それが、この世界全てでも。第一のと言うことは、第二の、第三のもあるのだろうか。きっとあるのだろう。人間だから。

「その時、人間がこの世界を食い尽くすよりも先に、他の世界へ進出させる。 そして人類という種が、種としての寿命を使い切るまで、或いは己の中から新しい種を発生させ、主役を譲るまで、充分に発展させる。 それが、私の目的なのだ」

邪神様の言葉は力強く響く。

それにしても、邪神様の話を聞く限り。邪神様こそ、一番救われない存在にも思える。こんな愚かな生物につきあって、一喜一憂している。きっといつか、その存在は磨り潰されてしまうのではないのだろうか。

「そのためには、お前のような優秀な部下が多く必要だ。 この世界に見込みがない場合は、次の世界にも連れて行きたいほどだと思っている。 今は眠れ。 そして、目覚めた時から、私の剣となって働いて貰おう」

ふつりと、意識が消えた。どうやら、普通の人間で言う、「すぐに楽になる」状態に入ったらしい。

浮いているような感覚だった。液体にではない。何もない世界に、裸で、ただ一人で、だ。本当に周囲には何もない。ただ遠くに、星のような光源が、ちかちかと瞬いている。

孤独だ。心地よかった。

こんなに孤独が素晴らしいとは、思わなかった。

外からはストレスばかりを受けていた。実の両親。育ての両親。孤児院の生活。弟たち妹たちだけが、心をいやしてくれると思っていた。しかし、違う。

もし信仰心が、消えずに残っていたら。サニスは快哉と共に、叫んでいただろう。神への感謝の言葉を。

素晴らしい。素晴らしい素晴らしい素晴らしい。これぞ、至高の心地だ。

私は、ようやく安息を手に入れた。

私は、ようやく安息に到った。

そうだ、これだ。人間が周囲に一匹もいないこの環境。邪神様に逆らおうとは思わない。しかし、己の脳内に、この空間を作ってしまおう。他の誰にも触れさせない、己の楽園を、だ。

笑いが漏れる。

さあ、人間としての時は終わりだ。これからは、自分にとっての楽園がやってくる。サニスは笑う。

それは、生まれて初めて。芯から彼女が笑った瞬間だった。

 

5、邪神の騎士

 

目を覚ましたサニスは、周囲の状況を確認しながら、髪を掻き上げた。周囲が羨ましいというこの髪が作り物だと教えてやったら、どういう反応をするだろうか。この、光が流れるようなプラチナブロンドは。人相を変えるために、この間作り出したものだ。この間と言っても、つい十五年ほど前のことだが。

寝台の上で半身を起こすと、ベルを鳴らした。

テントに、すぐに使用人が入ってくる。こんな所に使用人を連れてくることが出来るのは、サニスの特権。若い娘に揃えているのは、単なる趣味である。この間許嫁を世話してやった使用人は、慌てた様子で頭を下げた。それなりに顔立ちが整った娘だが、少し気弱なのが玉に瑕である。

「お目覚めでしたか、サニス様」

「すぐに鎧を」

「は」

口答えなど、許しはしない。サニスが鎧を着ると言ったらそれを手伝うのだ。当然使用人達はしっかり仕込んでいるから、鎧の着付けくらいは出来る。まずは胴鎧を被って、後ろで紐をしっかり縛る。下着の上から腰鎧を着けて、臑当てと手甲。最後に、蛇を象った兜を被る。

テントを出る。周囲を警護していた兵士達が、サニスを見て、さっと敬礼した。十五才になったばかりの使用人は、ブルネットの髪を揺らして慌てて着いてくる。鈍くさいが、一応忠誠心は評価している。だから、側にいることを許し、高額の給金を与えている。

基本的に人間どもは、給金を的確に与える能力に極めて欠けている。そのような点を、サニスは真似するつもりはない。

「サニス騎士団長、おはようございます!」

「おはよう。 敵の状況は」

「はい、今だシラルファーン要塞に閉じこもったまま、出てきません」

「そうか。 ならば、そろそろ潮時だな」

カードは既に揃えてある。昨晩の内に、足りない分を運ばせた。

陣を歩き、その端に出る。其処は崖になっていて、見渡すことが出来る。このヨーロッパの北端にある港の一つ。カルマバキア州都キラルク。そして、その港を囲むように造られている要塞、シラルファーンを。

分厚く高い城壁が二重に連なるそれの周囲には、海から引いた堀がある。味方は既に攻城兵器を揃えているが、攻めればそれなりの損害を覚悟しなければならなかった。あくまで、それなりの、である。別に守将に人材はいないし、兵士も戦い慣れているわけでもない。時間さえ掛けなければ、事故が起こることはない。

立てこもる兵は3500。此方の戦力は18000。別にサニスが出なくても勝てる戦いだが、わざわざ来たのは、人的被害を抑えるために邪神様がご指名をしたからだ。何人かいる将軍に任せても確実に勝てるのに、迂遠な話である。だが、邪神様は間違ったことは言っていない。正しいことを、感情にまかせて否定するのは、人間がすることだ。サニスは違う。

既に、邪神領はガリア全土に及んでいる。それはかってサニスが人間だった頃の八倍。人口は十七倍。

侵略戦争によって得たものではない。財政破綻しかけたローマ帝国から、合法的に買い取ったのである。コンゴ王国との連戦で疲弊の極みに達していたローマ帝国の官僚達は、邪神領が提供した黄金に目を回した。コンゴ王国ではクズ同然だったものを、向こうでは不足していた塩と引き替えにかき集めたのである。もちろん、出所など教えていない。幾つかの港を抑えていたことで、非常に取引はスムーズに進んだ。皇帝はその黄金で大宮殿を二つ建設し、美女を集めた。もちろん市民対策として、街に大浴場や、奴隷と猛獣を殺し合わせるコロセウムを複数建設した。

今では、取引の結果。邪神領の常備兵は六万を超えており、師団は八つを数える。そしてローマ帝国も、今までにないほどに高い「市民の支持」を得ている。万事が巧く収まる手段が、採られたのである。

それなのに、今更水を差そうという愚か者がいる。討伐隊が出された。そして、サニスは、その長であった。

サニスは常に目深の兜を被り、僅かな使用人以外には姿を見せない。それが、代替わりしながら同じ名前を襲名しているなどと言う噂と重なり、正体不明の人物像を作り出していた。それでいい。人間を支配するには、その程度が適切だ。

じっくり、地形を見る。やはり間違いない。リアス式の適切な港湾に築かれた城壁には、ある決定的な欠点がある。それも、三つ。今回はその中で、一番強固な部分を使う。右手を挙げると、控えていた兵士達がさっと周囲に走る。馬が引かれてきた。栗毛で見かけは悪いが、とても頑強で言うことを良く聞く馬だ。陸攻を使うまでも無い時に、使うようにしている。

しずしずと、全軍が進み始めた。

要塞の城壁の上で、弓矢を構えていた兵士達が、一斉に緊張するのが分かった。立ち並ぶ攻城塔に混じって、黒い妙なものがあるのに、彼らは気付いたであろうか。専門家を何人か雇ったと聞いているが、たかが知れている。さっき、がけの上から見た布陣。それだけで、サニスは防衛上の欠陥を多数見つけていた。

何が専門家だ。サニスは声を殺し、兜の中で嘲笑していた。

ほどなく、黒い塔が所定位置に着く。兵士達が、それからぶら下がっている縄を、数十人がかりで引き始める。ほどなく、号令と共に、縄が一気に離される。

びゅんと、凄い音と共に、縄が塔上部のウインチに巻き上げられる。同時に、地面に、聞き苦しいとどろきが響き渡った。周囲に広がる小刻みな音。サニスはもう一度と、指揮剣を振るう。

もう二度、同じ事が繰り返された。三度目が始まった時には、城の兵士達はそれを見て、笑い始めていた。

人間が未知にうち当たった時、見せる反応は二つと決まっている。

一つは恐怖。一つは嘲弄。今は後者だ。だがこの後の反応が、サニスには分かりきっていた。だから退屈きわまりない。小さく欠伸が出た。地面が揺れ始めた時にも、それは変わらなかった。

巨大な揺れが、周囲を襲う。

あらかじめ言い含められていた兵士達も、蒼白になって辺りを見回す。サニスは、側にいる使用人に告げた。

「白旗を用意させよ」

「はい、直ちに」

それは、和平提案の使者が掲げるもの。全面降伏を意味するものではない。揺れは徐々に激しくなり、走り出しかけた使用人は小さな悲鳴を上げて一度転んだ。地面に亀裂が走る。それが、凄まじい勢いで、要塞に走る。

そして、兵士達の悲鳴と共に。

要塞の一角が、粉砕され、崩れ落ちた。幅三十メートルほどの城壁が、一気に堀を埋め、地面に襲いかかる。内側の城壁も破壊は免れず、兵士達を巻き込みながら、激しく損壊、崩れ落ちた。

中の一般家屋が露出して、見える。ぎゃあぎゃあと悲鳴を上げる人間ども。あらかじめ離れるように指示しておいた味方に、被害は全くない。

さっきまで嘲笑っていた敵兵を思い出し、サニスは呟く。馬鹿な連中だ。崩れて潰れて消えてしまえ。そしてそれは本当のこととなった。今やあの兵士達は、肉塊となって土砂に埋まっている。

サニスは右往左往する籠城側の様子を冷たい目で見守る。いつも人間とはこうだ。サニスの予想を超えたことが、ただの一度もない。何が万物の霊長だ。猿より頭が悪いことが珍しくもないくせに。

あの時から。サニスは人に対する視線を一変させた。もはや、絶対零度となったその視線に、人間はただの動物の一種としてしか映っていない。

少なくとも、サニスにとっては。もはや人間は、万物の霊長などではなかった。

「サニス騎士団長!」

走り寄ってきたのは、攻城の指揮を執っている師団長達三人だ。興奮してまくし立てる。今こそ好機。攻め落とすべきだと。

サニスは首を横に振る。使用人が持ってきた白い旗。それを馬の鞍にくくりつけて拡げる。風をはらんで膨らむ旗を見て、師団長達は絶句した。

「ま、まさか。 この絶好の機会を捨てて、和平をご提案になると!」

「そうだ。 最初にも言ったとおり、これから和平の提案をして、彼らを速やかに降伏させるのだ」

「しかし、必ず勝てるものを」

「この方法を採れば、さっき死んだ阿呆どもを除けば、首が飛ぶのはたかだか数人で済むのだ。 邪神様は、無意味な犠牲をお望みにならぬ」

そう言われると、師団長達は返す言葉がないようだった。彼らには、骨の髄までも叩き込んで教育してある。邪神様の恐ろしさと、公平さを。邪神領が拡大するに合わせて、兵士は増えた。だから、教育が大変だった。大変だったが、今はそれなりに成果が出ているのが嬉しい。

すぐに、文官が何人か走り寄ってきて、同行したいと言い出した。まあ、外交の経験を積ませるのもいいだろう。使用人と、此奴らを連れて、城に向かう。

将軍達は分かっていない。この街は、これからブリテン島との重要な交易拠点となる。そのブリテン島も抑えておく計画が持ち上がっている現状では、もちろん攻略の足がかりとしても使うことが出来る。

ならば、出来るだけ無傷で抑えなければならない。不満分子は、これからサニスで狩ればいいだけの事。この規模の街であれば、一週間もかからず掃除は終わるだろう。その後で、大型の戦艦が寄港できるように設備を整え、補給が出来るように物資を蓄えればいい。民衆は税率を下げ、ある程度の平等な生活をくれてやれば、充分に飼い慣らすことが出来る。

声の大きな兵士が、城に向かって呼びかけている。和平の提案の使者だと。城側は大混乱していたが、陣を少し下げてやると、しぶしぶと言う感じで跳ね橋を降ろした。サニスは集まってきた文官どもを従えると、馬の脇腹を軽く蹴った。

敵も味方も困惑する中、サニスは平然と馬を進める。文官達と、それを護衛する兵士、合計十名ほどを連れて、城に乗り込む。跳ね橋は腐りかけていて、それが余計にサニスを内心で失笑させた。こんな防備で、現在ローマ帝国に肩を並べつつある邪神領の軍勢を防ごうとしていたのだから。もちろん、的確に腐っている場所を避けながら、馬を進める。さっき、地盤を砕いた時と同じように。

慌てて飛んできたのは、この城のナンバースリーをしているフォッカードだ。調べはついている。ひげ面で頭が悪そうなこの男は、実はこの反乱の主要主導者の一人であり、参謀格である。

「ええと、サニス様、ですか」

「そうだ。 邪神様の騎士団長をしている、サニス=カラマイアである」

この姓も、後から適当に造ったものだ。カラマイア家という武門の家が、代々のサニスを輩出していると、表向きではなっている。実際には、カラマイア家が、サニス一人のために造り出されたのだ。

今や大陸に冠たる武門の名家。その真相がこれだ。

礼儀だから、馬から下りる。思ったより小さいサニスに、フォッカードは内心驚いたようだった。

「和議の申し入れとは、いかなるお考えあってのことですか」

「そんな事は、お前ではなく、この籠城の指導者であるエヴリア伯爵に話す。 すぐに案内せよ」

迂遠な話である。

此奴が黒幕なのは分かりきっている。背後にいるのが誰かも、だ。直接的には天主教の狂信者どもだが、金銭的な支援をしているのは、むろん、ローマ最大の権力者。これはローマ皇帝の、くだらない扇動策だ。

だから、それを見据えて、幾つか打っておく手がある。

ざわつく民衆。皆貧しい身なりで、怯えきっている。彼らを抑えている兵士達は反対に居丈高で、この籠城があまり歓迎されていないのは一目瞭然。下調べの通りだ。貴族の圧倒的な資金力で兵を集めたはいいが、質が伴っていない。この様子だと、兵士による犯罪行為も日常的に起こっているだろう。

此方をすがるように見る目に気付く。子供だった。ぼろぼろの、原型も分からない人形を抱きしめた幼子。髪はぼさぼさで、洗ったことさえ無いのかも知れない。かなりの数のシラミが湧いているだろう。

すがる、か。

サニスがそれをする相手は、邪神様しかいなかった。

あの腐れ院長のせいだとは言い難い。誰も引き取り手が現れなかった。自分を救いたいなどと、一度だって思ったことはない。せめて妹たち弟たちにだけでも、優しくして欲しかった。

それを、天主教の施設にいるからだとか。犯罪者の子供だからだとか。くだらない理由で排斥し、選択肢を狭めてくれた一般の人間どもを、サニスは絶対に許しはしない。

ただ、あの子供に責任はない。後で、声を掛けてやるとしよう。

「此方にございます」

「うむ」

潮風の臭いがする。ただし、それに腐敗臭が多分に混ざっていた。邪神領ではだいぶ浸透してきた下水だが、ローマ帝国の領土ではこんなものだ。きいきいと鳴き声を上げながら闊歩する豚たち。彼らが蔓延させる病原菌が、鼠に跨って飛び回り、多くの命を奪っていく。餌食になるのは、まず弱者からだ。

内城が見えてきた。大した規模ではない。城壁も低く、堀も浅い。兵士達が垣根を作っている中を、ゆっくり通る。ざわついている兵士達の目が、恐怖と困惑を湛えている。良い傾向だ。

内城に入った。

豪奢な内装が目に着く。絨毯も高価な赤で、巨大なライオンの毛皮が壁に掛かっている。金作りの鎧に剣もあった。

貿易による利潤のいくらかを懐に入れているのだろう。或いはコンゴ王国辺りと通じていて、密貿易をしているのかも知れない。さっきの子供の、貧しい姿との対比が、醜悪な戯画を造り出していた。その密貿易の路さえ、此方で開いてやったものなのだが。

何処の国でも、人間がやることなど、この通りだ。

客間に通された。ぞろぞろと、殺気だった様子で、この城の指導者層が入ってくる。名目上の当主であるエヴリア伯爵アンテールは、もう初老だが、でっぷり太って肌つやもいい。さっきの貧しい子供とは対照的だ。噂通り、見事な禿頭である。毛を生やすために、怪しげな黒魔術にまで手を出していると聞いているが、多分それは事実だろう。サニスが気付いただけでも、この短時間で、頭に四度も注意を向けていた。

円卓の最上座に伯爵が着くと、客席に案内される。丁度伯爵と向かいになる形だ。左右に、文官達が座る。それぞれに、地位に従って席に着くと、最初に訪れたのは沈黙だった。向こうは何をして良いのか分からないようで、困惑して顔を見合わせている。笑顔を保っているのはフォッカードだ。内心舌打ちしている様子が、手に取るようにサニスには分かった。

此奴もそれなりに修羅場はくぐってきているようだが、サニスとは年期が違う。まるで大人と子供くらい、経験の蓄積量に差があるのだ。

散々じらしてやる。文官どもも、サニスが話し始めないので、困り果てている様子だ。使用人は教育通り、右後ろに立ったまま、静かにしている。城側の使用人達が、茶を配りながら、興味深げに彼女のことを見ていた。

充分に焦らしたあと、もったいぶって、サニスは話し始める。少し自分でも飽きてきたのがその原因の一つ。相手側の精神的な防壁を、充分見極めたのが二つである。

「お初にお目に掛かる。 邪神様の騎士団を預かっている、サニスだ」

「あ、ああ。 此方こそ、お初にお目に掛かる。 この城をローマ帝国より下賜させていただいている、エヴリア伯アンテールだ」

一応、社会的な格ではエヴリア伯の方が上になる。だが実際に動かせる財力や権力は別次元だ。サニスは明らかに緊張している相手を鼻で笑うが、表向きはそうは見せず、あくまで低姿勢に出る。

「今回は、降伏を勧めに来た。 さっさと降伏すれば、それなりの好条件を出そう」

「黙れ!」

立ち上がったのは、名目上のナンバーツーをしているアンテールの息子ラオイアンだ。血の気が多い若者で、体格的にも恵まれている。見るからに頭が悪そうな奴だが、実際見かけ通りの性格らしい。

「おぞましい邪神に魂まで売り渡した下郎が何を言うか! 我らは全員死ぬまで戦い、神の御許に向かう! 例え死すとも、我らの魂を汚すことは出来ぬと知れ!」

「魂なぞは存在しない」

さらりと言うサニスに、二の句が継げず、絶句するラオイアン。更に、サニスはその先へ言葉を続ける。

「地獄を見てきた私が言うのだから間違いない。 この世に神などおらず、天使などおらず、魂などと言うものはない。 ただあるのは、人としての営みと、それにより動く社会だけだ」

「お、おのれ、不敬な!」

「邪神様も、お前達が考えているような存在ではない。 神がお前達を、我らから守ってくれたか? 信仰が、貧困から命を救うというのか? それらは精神的な避難場所であって、実際にある救いを意味するものではない」

真っ赤になったラオイアンを、アンテールが抑える。彼は、分かっているのだ。サニスが極めて現実的な話をしに、此処に来ていることを。そして条件次第では、命を救ってくれると言うことを。

「降伏すれば、エヴリア伯。 貴方の命は取らず、そればかりか我が領内で役人としての職を与えよう」

そう、役人だ。

今までの貴族ではない。

何をするにも邪神様に評価され、きちんと応えることが出来れば高水準の生活を維持することが出来る。しかし無能だと判断されれば、一気に降格させられ、生活の水準も落とすしかない。

しかし、それは敢えて伝えない。ただし、後ろで聞いているフォッカードだけは意味を理解していたようだ。

「部下達にも、現状の地位に応じた役人へ就任させてやる準備が出来ている。 ただし」

「ただし、な、なんでしょうか」

蒼白になったアンテールが、生唾を飲み込む。

分かっているのだろう。この愚鈍な貴族も、一応それなりの政争を経験してきている。甘い話には、何かしらの裏があるものなのだ。

「この反乱を引き起こした者を、引き渡して貰おうか。 ローマ教会の一部過激派が、貴方に資金援助をしていた事は分かっている。 彼らの首をはねて、二日後までに届けることと、武装解除をすること。 その二つが行われるのを確認したら、無条件降伏を受け入れる」

実際には、ローマ教会の一部過激派ではなく。ローマ皇帝本人の差し金だと言うことは分かっているのだが。それも敢えて言わない。脂汗を垂れ流し、必死に考えているだろうアンテールに、告げる。

「それに加えて。 一つ、面白い話をしてやろう」

「な、なんの話、ですかな」

「先ほど、私が突いた弱点は、この城の弱点の一つに過ぎぬ。 あれと同等以上の弱点を、更に二つ発見してある」

絶句するアンテールに、更にとどめの言葉を放った。別に面白くもない。最初からの想定通り、駒を進めているだけだ。

「もしも二日後までに指定の条件が満たされない場合は、エヴリア伯。 貴方の首を差し出していただこう。 そうすれば、他の者達の命は助けてやる。 既に海上には、我が軍の軍艦三十隻が待機している。 海から逃げられるなどとは思わないことだ」

以上の交渉は不要。

サニスは言い捨てると、会議室を後にした。

さて、この城の中では、これから血みどろの殺し合いが始まることだろう。ローマ帝国から派遣されている特務役人も、こういう事態は想定しているだろうから、必死に逃げに掛かるであろう。それを城内の人間が追い切れなければ、今度はアンテールの首が飛ぶことになる。

どっちにしても、損はしない。アンテールなど使い捨ての道具にさえならないような能力の持ち主だ。ローマ帝国の特務役人を此奴らが殺すことが出来れば、手を汚すことなく邪魔を処理できる。内紛が起こったら、それはそれでいい。住民は醜い争いを繰り返した挙げ句、自分たちを破滅に叩き込んだアンテールとその一族を恨むことだろう。邪神様への不満を、逸らすことが出来る。

もちろん、あくまで籠城を続けるという可能性もある。その場合は、力づくで城を落とすだけだ。あと二つ、弱点を見つけてあるというのは嘘ではない。その気になれば、こんな城半刻もあれば潰すことが出来る。

どう転んでも、損はない。

使用人が小走りで着いてきた。文官達は、降伏条件の具体的な内容を伝えることしか仕事がなかったので、少し残念そうだった。彼処で割り込む訳にも行かないし、かといって他にすることがあるわけでもない。ただ、今回は交渉のやり方を見せておくという点で、有意義ではあったが。

要塞から出るべく、跳ね橋に向かう。大通りを抜けた、その時に。

あのシラミを頭に湧かせた子供が見えた。城門の脇で、ぼろぼろの人形を抱きしめて、此方を見つめている。

これも、何かの縁か。

馬の手綱を使用人に任せると、サニスは其方へ足を向けた。子供は恐れることも忘れた目で、サニスを見つめ続けていた。

「子供。 親は?」

「いない」

足下は傷だらけの泥だらけ。目には鈍い光だけがあった。肌も汚れていて、臭気もかなり強い。

「この街は好きか」

「嫌い」

「そうか。 ならば私に着いてくるか。 余所の世界を、見せてやってもいい」

子供が、初めて目に光を宿した。じっとサニスを見つめてくる。希望というのか、或いは。

最初から観察していたから、知っている。この子供は、嘘をついてもいないし、計算もしていなかった。それが好ましい。人間以下の存在であるこういうものは、磨き方次第でどうにでもなる。もちろん、邪神様の道具としても、利用価値があるだろう。

サニスは使用人を見下ろすと、言う。

「連れて行け。 使用人として使ってやる」

「はい」

この使用人も、似たような状況で拾った。ローマ帝国から忍び込んできた奴隷商人を斬った時に、助けたのだ。両親から酷い虐待を受けていたらしく、体中に傷が残っていた。だから、拾った。故に、忠義を尽くしている。

不思議な動物でも見るかのような目で、子供を見ている文官どもは気にしない。サニスは跳ね橋を渡ると、自軍の陣に向かった。

その夜から、要塞内では暗闘が始まった。殺し合いの気配がひっきりなしに続き、城壁を乗り越えて保護を求めようとする兵士が続出した。内部は疑心暗鬼に包まれ、次々に幹部が死んでいると、彼らは語った。攻撃のチャンスだと言う将軍もいたが、サニスは無視した。

要塞の兵士達が降伏してきたのは、二日後のこと。

彼らは、大量の首を持っていた。

ローマ帝国から派遣されていた特務役人達のもの。それに、アンテールと、その息子の首。

どうやら、共倒れになった挙げ句、恐怖に駆られて逃走しようとした所を斬ったらしい。フォッカードが降伏してきた者の中で、最上位だった。あの会議室に集っていた者達は、ほとんど内紛と同士討ちで命を落としたのだそうだ。フォッカード自身も、額に傷が幾つかあった。寝込みを襲われたのだと言っていたが、はてさて。何処まで信用できるかどうか。

したたかな奴だ。そう呟くと、サニスは邪神様に、約束を果たす許可を得るべく、手紙を送った。

内容は、非常に簡素であった。

「予定通り、要塞内の幹部はあらかた彼ら自身の手で処分させました。 用意するポストは、予定通り一つで問題ありません」

それをつづりながら、サニスは眉一つ動かさなかった。

 

一月ほどで事後処理を終えると、サニスは今やエウロピア最大とも言われるセレネンデスに戻ってきていた。ローマ帝国が軍を動かすために整備した街道を、物流用に整え直した結果、今やエウロピアの中心となったのである。人口は増える一方で、整わぬものはないと言われるほどに物資も集まっている。

軍は先に返していたので、僅かな使用人だけを伴ってのことである。拾ったあの娘は、先に屋敷に送って礼儀作法から教え込んでいる。本人がどう望むか次第で、今後の未来を選択できるように、しっかりあらゆる技術を仕込むつもりだ。

ただ、城を拡大する訳にも行かなかったので、改装だけにとどまっている。ちょっと行っておきたい所があるのだが、それは邪神様に謁見してからだ。城門を通ると、兵士達が敬礼してくる。敬礼を返しながら、サニスは城門をくぐった。自分用の小さな部屋に入って、身支度を調える。と言っても、鎧姿に代わりはない。今まで散々歴戦で血を浴びた実戦用の鎧から、儀礼用の白いものに変えるのだ。

使用人達に手伝わせながら、近況を聞く。自分が把握していない情報は一つもない。将軍達の造反を防ぐためにも、多くの密偵を派遣はしているが、彼らも今のところ妖しい情報は掴んでいない様子だ。

鎧の着替えが終わる。

美しい純白の鎧に、深紅の外套が美しい。重さもあまり無く、ただし構造上、非常に動きにくい。まあ、今のサニスの剣腕であれば、並の敵などこの鎧という枷があっても相手にはならないが。鏡に映して、着付けに問題ないことを確認すると、サニスは頭を下げる使用人頭に告げる。

「邪神様の所へ赴く。 夕食は屋敷で取るから、準備させておくように。 客人が混ざる可能性もあるから、多めに造れ」

「かしこまりました。 すぐに手配いたします」

人は、恩で縛るに限る。

この使用人長も、どうしようもない苦境にいた所を、拾ってやった人材だ。もしサニスが拾わなければ、今頃野ざらしの骨となっていただろう。別に暴虐に晒している訳ではない。道具として、満足するまで使っているだけだ。

それに、嫌悪もなければ、ためらいもない。人はそうやって使うべきだと、サニスはこの数十年、しっかり学習した。

謁見の間に赴くと、既に主な将軍達が集まっていた。彼らの立ち並ぶ間を、サニスは歩む。そして、方針を変え。姿を一部だけ見せるようになっている邪神様の巨大な眼球に対して、頭を垂れた。

「サニス、ただいま戻りました」

「うむ」

触手が一本伸びてくる。頭に触れた触手が、即座に記憶を読み取り、情報を共有化した。別に後ろ暗いことはしていない。反乱鎮圧については、最初から色々と邪神様との打ち合わせをしていたのだ。

ほぼ予定通りに話が進んだので、物足りないくらいである。時々、人間には大きな可能性があるとかほざく輩がいるが、サニスは冷たい笑みを返す他無い。そのようなもの、今まで見たことがないからだ。

むしろ、サニスは見てみたいくらいである。可能性とやらを発揮して、自分に反抗できる力を蓄える人間を。

今や、この国は邪神様の掌の上にある。そして、それを巧く転がしているのが、サニスだった。

もちろん、そんな事は表だっては言わない。

「見事だ。 今回も全く隙のない指揮であった」

「ありがたき幸せにございます」

表向きの会話とは別に、触手を介して、意識の交換をする。今の内に、幾つか話しておくことがある。

「以前から考えていたのですが、精鋭の騎士を増やしましょう。 今回の件ではっきりしましたが、これ以上規模を拡大すると、私一人では手が回らなくなります」

「それに関しては既に何名か候補を選別してある。 お前が長となって、彼らを指揮する体勢を、早めに作り上げておこうと考えている」

「分かりました。 邪神様のお心のままに」

触手が離れる。意識の交換を済ませると、サニスは敬礼して謁見の間を出る。将軍達が、それに続いた。サニスに対して、怯えきっている者もいる。恐怖を積み重ねすぎないように、或いは芽を事前に摘むために。幾つか手を打つ必要があった。

だから、さっき使用人には命じておいたのだ。

「今日は、戦勝祝いとして、我が家で馳走を振る舞おう」

「有難うございます」

もちろん、ただ馳走を振る舞う訳ではない。ふんだんにアルコールを飲ませて、本音からの情報を吐き出させるのだ。アルコールが入ると、人間は隙を多く見せる。わざわざ頭を覗かなくても、簡単に情報を集めることが出来る。聞こえないと思っていても、サニスはしっかり情報を把握できる。

これほど容易なことがあろうか。

将軍達が、ぞろぞろと屋敷に向かう。その横で、サニスは太陽の高度と影の位置から、大体の時間を悟っていた。手にしているベルを鳴らすと、すぐに使用人が飛んでくる。彼女に、あるものをある場所に持ってくるように命じると。サニスは供の兵士を一人伴っただけで。とある場所に向かった。

 

夕刻。

ふと気配に気付いたアニーが顔を上げると、妙齢の女性が立っていた。知っている。彼女は、この孤児院に支援をしてくれている人の使いだ。

そして、あの気配は。

もはや老境に入ったアニーだが、忘れる訳がない。時々、気配だけを感じる。顔は決して見せてはくれない。だが、来ていることは分かる。そして、彼女が、私財からこの孤児院を支援してくれていると言うことも。

院長が死んでから、成人していたアニーが、孤児院を引き継いだ。それから、後ろ暗い所のある子供や、異教徒の血を引く子供を、積極的に引き受けるようになった。皆を家族として。一生懸命生きてきた。

サニスが命を、或いはそれ以上に大事なものを捨てて守ってくれたこの孤児院だ。アニーが、何があっても守らなければならなかった。

支援してくれる人がいるのは分かっていた。

その正体が。恐らくは、サニスであると言うことも。

どうして姿を見せてくれないかは分からない。邪神様の側に仕えているからかもしれない。

でも、一度で良いから、会いたかった。人間ではなくなってしまっているとしても、いい。一言で良いから、お礼を言わせて欲しいのだ。どんな姿でも構わない。例えドラゴンや悪魔になっていても、アニーは気にしない。

それなのに。

「アニー殿。 我が主君からの、支援金です」

「いつも、有難うございます。 これで、今度孤児院を出る子に、晴れ着を買ってあげられます」

「大切に使ってください」

女性は嬉しそうに眼を細める。この人は、情がある。ならば、彼女の上役であるサニスも、きっと情を残してくれている。そう思うことで、アニーはあの悲しい別れを、少しでも慰めることが出来た。

彼女が去ると、アニーは大きくため息をついた。

一人の力は、小さい。あまりにも。

今でもきっと孤独な戦いを続けているだろう姉のことを思って。アニーはもう一つ、大きなため息をついたのだった。

 

(終)