闇に忍ぶ者

 

序、影働き

 

かって、孫子という軍師がいた。正式な名前は孫武というその人物は、現在にまで著作で名を残すに至っている。

孫子の兵法書。

極めて実用的理論的な兵法書である。後々の時代に至るまで、兵法の基本として珍重されたほどの書物だ。

それに、密偵の重要性が記されていることは、あまり知られていない。

具体的な戦争を行う際には、まず情報が重要となる。敵を知り、己を知れば、どんな戦いでも勝てる。それは何も、己を精確に把握しろというような、精神論に近いものではない。もっと実利的な思想だ。

孫子の思想は、情報を重要視せよ、というものであったのだ。

どこの国でも、ある程度文明が発達すれば、密偵や、それに類する存在が生じるようになった。

その根源は様々であるが。

このJ国では、やがてそれら情報偵察者が、共通してこう呼ばれるようになっていった。

忍者。

現在でも、忍者は歴史の闇に存在している。

ただしその仕事は、戦闘が主体ではない。あくまで殆どの場合、諜報に限られる。派手な戦闘は、あくまで軍隊や、戦闘タイプフィールド探索者の仕事である。

忍者の目的は、敵の情報を奪取すること。

それは何も、戦う事ばかりが手段ではない。

闇を、影が走る。

誰にもその存在を悟らせずに。

街の明かりが、まるで蛍の火のように輝く中、その男は音さえ立てず、姿さえ誰にも見せず、移動していた。

黒装束などは身につけていない。

どこにでもいそうな青年。

着込んでいる服も、ごく当たり前の、Tシャツにジーパン。顔を見ても、印象が残らないほどに、特徴がない。

男の本名は、誰も知らない。

コードネームは、闇の世界では、非常に有名ではある。

じゃじゃ丸。

政府に所属する諜報部隊の中では、トップクラスの実力者だ。軍でも中に入ることが出来ない特殊な危険地帯フィールドを攻略するフィールド探索者としても、名を知られている。

じゃじゃ丸は、今、非常に重要度が高い書類を直接搬送していた。ネットを通すなど絶対に不可。暗号化をかけても、今では解読手段が存在しているのである。郵便なども、利用できない。

護衛に警察や軍を動かすわけにも行かない、秘中の秘となる書類だ。

移動は、迅速に行わなければならないから、用いるのは徒歩だけではない。

ただし、公共の交通機関は、自発的にはほぼ使わない。レンタカーなどを用いたり、或いはモーターボートなどの水上手段に頼ることもある。

合流地点まで、あとわずか。

一端街を抜ける。

合流地点を山の中に設定しているのは、その書類が、それだけ危険なものだからだ。襲撃者による攻撃が、容易に想定されるのである。

山の中に入ってからが、一番緊張する。

じゃじゃ丸はこの手の任務を散々こなしてきたベテラン中のベテランだ。だが、それでも。一瞬の油断で、人は死ぬ。

狙撃銃で頭を撃ち抜かれれば簡単に死ぬ。J国本土ではあり得ないが、別の国では猛獣に襲われる危険もある。

車にひかれたり、山の中で動けなくなっても、人は命を落とす。

そして、じゃじゃ丸は、幼い頃からそれをよく知っていた。じゃじゃ丸を襲名したときには、実例も嫌と言うほど見せられていた。

戦いに善悪はない。

政府の仕事だからといって、いつも綺麗な内容ばかりではない。人には言えないような、ダーティワークも多々存在している。

じゃじゃ丸は、フィールド探索者という側面もあるから、その点で政府に重宝されている節がある。

それでも。場合によっては消される事もありうる。

全てを信用するな。それが、忍びの基本事項だ。

街を離れ、山の中に完全に入った。鬱蒼と茂った森の中で、虫が鳴いている。季節はそろそろ初夏。

夜になっても、蒸し暑いくらいだ。

指定された地点に到着すると、印を組んで九字を唱える。これは集中するためのものであって、術を使うわけではない。

指定の時間になる。

待ち合わせの人員が、来た。

ショートカットの、小柄な女だ。ピンク色のリュックを背負い、半ズボンという動きやすい格好をしている。顔は童顔だが、胸は大きく。そして、動きを見る限り、超一流の使い手だと一目で分かる。

以前一緒にフィールド探索の仕事をした事がある。現在では、一流のフィールド探索者として、名を知られるようになっている人物。

海腹川背。

川背は時間ぴったりに来た。そして、待ち合わせの今も、全く警戒を緩めていない。

「久しぶりですね、じゃじゃ丸さん」

「ああ」

合い言葉を確認。

見た目を信用しないのは、当然のことだ。川背は本人の能力もそうだが、とにかく頭が切れる。

料理人とフィールド探索者の両方で一流になっている事からも分かるように、本来頭のスペックが常人とはかけ離れて高いのだろう。今戦ったら、勝てるかは分からない。それくらいに修羅場をくぐり、腕を上げに上げていた。

書類の受け渡しをする。

川背は少し前から、彼女が心酔しているスペランカーのために、独自で動いている。行動原理は極めて単純だが、頭が切れるので、今ではじゃじゃ丸が情報伝達に関わってくるほどに闇で名を広めている。

J国の政府も、今では川背に着目している。

アトランティスの事実上の支配者であるスペランカーとのパイプ役として、彼女以上の存在はいないからだ。ただし、じゃじゃ丸が見たところ、与しやすい相手では断じてないが。

川背からも、報酬を受け取る。

資金がどこから出ているかは分からない。

それに、書類の重要度を知ってはいても、中身までは分からない。

そして、プロである以上、詮索は御法度だ。

「それでは、失礼します」

「一つ、追加する情報がある」

「……?」

すっと、川背が目を細めた。

戦闘態勢に入ったのだ。プロ同士のやりとりではあり得ない事だったから、警戒度を上げたのだろう。

じゃじゃ丸としても、本意ではないことだ。

「次のフィールド攻略作戦で、俺が追加で参加することになるだろう」

「……なるほど、分かりました」

敢えて言わずとも、川背は理解する。

じゃじゃ丸はJ国政府の息が掛かったフィールド探索者だ。それが追加で参戦するというのには、当然意味がある。

現在、異星の邪神は非常に混乱していることが分かっている。

ついに最後の大物であるニャルラトホテプが、アーサーとスペランカーの前に、決定的な敗北をしたというのだ。その情報はじゃじゃ丸の所にまで来ていて、今こそこの星から邪神共を追い出すべきだという意見も上がっていた。

だが、どうしてなのか。

最強のフィールド探索者にて、I国の元配管工であるMは動こうとしない。N社も、妙に動きが鈍くなってきていた。

鍵を握っているスペランカーも、情報を外に出さない。

それがゆえに、今、各国の興味の対象はアトランティスだけではない。ニャルラトホテプ掃討作戦に参加した者達に、熱視線を送っている。邪神を撃破する事のイニシアチブをどうしても取りたいからだ。現在、本当の意味で地球を滅亡させかねない異星の邪神を葬ることが出来れば、それがもたらす国威の発揚は想像以上である。

だから、各国は血眼になって情報を集めている。

当然、スペランカーと親しい川背も、その有力候補だ。

川背に関しては、それを逆手に取って動いている形跡がある。そのため、今回業を煮やしたJ国政府は、わざわざじゃじゃ丸を送り込んだのである。じゃじゃ丸という超一流がわざわざ出張ってきているという事実だけで、牽制になるのである。

その辺りのことは、わざわざ説明しなくても伝わる。

面倒がなくて大変に結構だ。

もっとも、それくらいが伝わらないような頭の人間では、密偵などつとまりはしないのだが。川背は自主的に密偵のようなことをして、しかも成果を上げている。当然、並の密偵よりも腕利きとみて良いだろう。

「J国の政府は、かなり焦ってきているようですね。 僕に喧嘩を売ることは構わないですけれど、先輩の周囲に余計なちょっかいを出したら、手段を選びませんよ」

「今のところ、その心配は無いだろう」

「それなら、いいのですけど」

「……」

会話は、それで途切れた。

どちらからともなく、闇に紛れて消える。

街に出ると、ようやくじゃじゃ丸は気配を周囲に見せた。ただし、他の人間がいるときに、じゃじゃ丸がリラックスすることはない。

携帯電話が鳴る。

連絡用に使っているものだ。高度なセキュリティが掛かってはいるが、さほど重要度が高くない情報交換の時のみに使っている。

「俺だ」

「川背との接触は」

「上手く行った」

「ならばいい」

通話が切れる。

向こうも、足下から固めていくつもりなのだろう。

それにしても、気になる。ニャルラトホテプに致命打を与えたというのはあのMの言葉だが、それはどういう意味なのだろう。

スペランカーの使う武器は、確か神的存在に一撃必殺の効果を持っていたはずだ。何故、死んだでは無く、致命打なのだろう。

実際問題、クトゥグアやハスターの時は、死んだという表現を使っていた。

勿論これくらいの疑念は、J国政府も抱いているはずだ。表だって詮索することは出来ないが、理由を推測しておくのは、生き残りのための当然の処置である。

一度、隠れ家にしているアパートに戻る。

外国人の労働者が入っているような安アパートで、いつでも引き払うことが出来るのが魅力だ。当然、実家は別にある。

先ほど川背に言及した任務まで、まだ一週間ほど時間がある。

横になって、思索を巡らせていると、プライベートで使っている方の携帯に着信があった。

この電話は、ごく限られた人間にしか、アドレスを教えていない。

着信したメールを見て、呻く。

面倒な相手だったからだ。

連絡しろと、メールには書かれている。相手は、知鯰(ちねん)と呼ばれる一族の、当代の末裔だ。

じゃじゃ丸の一族とは、江戸時代からの因縁がある相手である。特に初代は、非常に強烈な因縁があり、激しい戦いを何度も行った。

多くの場合二つの一族は敵対していたが、時には手を結び、血を交換し合った事もある。明治維新の時に仲違いし、激しくやりあって多くの血を流したが、それは互いの一族の戦力を削ぎ合うだけに終わった。

今では小康状態のまま、双方とも政府系の組織に属している。ただし、じゃじゃ丸の一族が影働き主体なのに対して、知鯰の者達は科学者として政府に貢献しているが。電話をして来たのも、16で米国の大学に留学し、戻ってきてからも政府機関の研究所で主任を務めている奴だ。

絵に描いたような才媛だが、性格は極めて悪く、幼い頃から良い印象を抱いたことはない。いわゆる幼なじみなのだが、当然恋愛感情などあるわけもない。

じゃじゃ丸の一族と知鯰の一族の隠然たる対立もあって、家族の中にも、悪印象を抱いている者が多い様子だ。

メールの着信時間がすぐ前だと言うことを確認して、電話をする。

外に声が漏れないように、声量を調整する訓練は幼い頃からしている。

「おっと、珍しいわね。 電話を返してくるなんて」

「何用だ」

「次のフィールド攻略任務、あんたも出るんでしょう? 私も後方支援することになったから、よろしく」

「……」

嫌だけれど、露骨にそうだとは言えない。

知鯰の一族は、影働きに徹しているじゃじゃ丸の一族とは、比べものにならない資産を蓄えている。

かの有名な初代服部半蔵は、子孫達に忍び働きをやめて侍になれと言い残したと言うが、まさにその通りである。徳川家康に仕え、数々の功績を残したかの二代目服部半蔵でさえ、大名にはなれなかったのだ。

知鯰は元々器用な一族で、発明や技術の開発にも実力があった。明治維新の時に影働き用の人材を根こそぎ失ってから、連中は方向転換したのだ。そして今では、政府お抱えの科学者として、有用な人材を何名も出している。

そいつらの出した特許で、知鯰は歴代随一と言われるほどに資産を蓄え、じゃじゃ丸の一族とは格差が開く一方だった。

「お前が出るって事は、また邪神がらみか」

「そうよ。 聞いてなかったの?」

「直接はな」

「ふん。 まあ、今回はあのスペランカーが出るらしいから、あんたは露払いが主体でしょうよ」

しばらくくだらない話をした後、知鯰のは言う。

「それであんた、大丈夫なの?」

「何がだ」

「あんたの能力、体の負担が大きいんでしょ? 先代もそれで現役を引退したって聞いてるけど」

「幼い頃から、備えはしている」

徹底的な鍛錬で体を鍛え上げ、精神も錬磨し、常人では比較にならないほど力を付けてきたのは。

代々伝授されてきた、「邪々」の力の負担に耐えるため。

先代は、正確には父ではなく叔父だ。引退は三十三歳だったが、体はその時、既にボロボロになっていた。当然子孫など作れる状態にはなく、後進の育成さえ無理だった。

じゃじゃ丸の名を継ぐ者は、当主であると同時に、一族の使い捨てだ。

代わりもいる。最大の稼ぎ頭であると同時に、忍びほど事故が多い仕事もない。戦死することも珍しくない。

おそらくじゃじゃ丸の名は、直接の子孫には継がせられないだろう。

「引退するんなら、私が便宜を図ってあげるんだけど」

「まだ、その気は無い。 それにしても、いきなり、何だ」

「……何でも無い」

ぶつりと電話を切られた。

分からない奴だ。

ただ、体に不調が出始めているのは事実である。じゃじゃ丸は鍛えているとは言え、所詮凡人の域を超えていない。

初代のように、この能力を使いながらも生涯現役、というような怪物的な存在では無いのだ。

横になると、再び思索に戻る。

生き残ること。それが、忍びにとっての、最も重要な任務の一つ。そのためには、雇い主さえ、時には疑わなければならなかった。

 

1、絶海の城

 

スペランカーは、ずっと気になっていた。

逃げたニャルラトホテプの分身がもくろんでいたことは、当神の口から聞いた。ニャルラトホテプを斃させて、この宇宙の中心にいる邪悪をこの星に呼び込むことだと。

彼ら四元素神は鍵。

宇宙の中心に座する邪悪は、目覚めつつある。

問題は、その後だ。

未来から来た人達から聞く限り、未来世界にそんな邪悪は存在していない。ならば、何が起きたかは明白だ。その強大な邪悪というものは、おそらくMに斃されたのだろう。

しかし、能力者も消えているという。

それならば、その後に、或いは邪悪を屠ったときに、一体何が起きたのだろう。

何度か、アーサーさんを交えて、話はしてみた。

しかし、未来のことだ。結論が出る筈もない。何が起きるにしても、碌な事でないのは確かなのだが。

飛行機が、徐々に高度を下げつつある。

久しぶりのJ国。

単独で訪問するのは、本当にしばらくぶりだ。隣に座っているのは、SPの人である。別に良いと言ったのに、J国政府がわざわざ派遣してきたのだ。窓際のスペランカーを囲むようにして合計六人、SPがついている。そのうちの四人は私服だ。

本当に一言も喋らないので、息が詰まりそうだが。

飛行機が降下を開始したのだ。もうすぐ、針のむしろからは解放されるだろう。それに、空港からは頼りになる後輩の川背と一緒だ。

ジャンボジェットが空港に着陸すると、今までぴくりともしなかった隣のSPの人がむくりと動き、他のSPの人達も、いそいそと席を離れる。そして、スペランカーが廊下に出ると、人の壁を自然に作った。前後の人は、左右も警戒しているようだ。

大丈夫だと言おうかと思ったが。

彼らは自分の仕事に一生懸命なだけだ。お仕事に本気で取り組んでいる人達を、あまり無碍にも出来ない。

おそらく、護衛対象であることを悟らせないためだろう。SPの人達は、空港のロビーでは、少し間隔を開けてスペランカーを囲んでいた。時々囲みを調整しているのは、多分狙撃に備えているからだろう。

「スペランカー先輩!」

遠くから、手を振っている川背の声が聞こえた。

ようやく一安心である。ただ、SPの人達は、空港の後も、目的地に着くまでは護衛をしてくれるという。

話し相手が出来るだけで、この空気が多少は緩和できるのなら、御の字である。

川背が小走りで来る。

SPの人達はみじんも油断せずに、周囲の警戒を続けていた。少し前に川背に聞いたのだが、今、スペランカーは時の人、なのだという。

異星の邪神を、ひょっとすればこの星から根こそぎたたき出せるかも知れない。

その鍵を握る人物であるからだ。

余計な事に、Mがこの間、ニャルラトホテプに致命打を与えたとか、広報してくれたおかげで、その傾向には拍車が掛かった。

空港の外には、政府が用意してくれたマイクロバスが来ていた。

至れり尽くせりだが、これも全部J国政府にとっては「外交」なのだ。アトランティスの事実上の代表であり、異星の邪神に対する切り札にもなっているスペランカーは、迷惑なことにこういった「外交」を常に受ける立場にある。

いつの間にか、SPの人達が増えている。助手席や後ろの席は、SPの人達で満員になった。しかもこのバスは、おそらく軍仕様の防弾だ。民間業者のバスに見せかけているのは、偽装からだろう。

他のフィールド探索者とは、現地で合流の予定だ。

川背がスポーツドリンクを差し出してきた。よく冷えていて、とても気持ちが良い。初夏のJ国は蒸し暑くて、苦手だ。

「先輩、疲れましたか?」

「うん。 川背ちゃんは大丈夫?」

「僕は鍛えていますから、へいきです」

川背はにこにこと、優しい笑みを浮かべている。

ただ、思い出してしまう。少し前に、スペランカーの被保護者であるコットンが、料理を覚えたいと川背に言ったのだ。何でも、スペランカーに料理を作ってあげたい、というのが理由であったらしい。

保護者としてはとても嬉しい。川背も、それを汲み取ってくれたのだろう。「本気」で、取り組んでくれた。

その後、料理のイロハを、丁寧に教えてくれたようなのだが。

しかし、それを境に、コットンは川背を怖がるようになった。

キッチンは料理人にとって、戦場であり聖域。

料理は戦いであり、食材は有限で、お客様に満足していただけなければ意味が無い。

そういった心構えを持つプロの料理人である川背が、コットンをびしびし鍛えたからである。おかげで、川背の事は尊敬しているけれど、怖いとコットンは感じたのだろう。

確かに川背は本物のプロだ。

しかし、或いは。器用でかしこい彼女も、人にものを教えるのは、さほど得意ではないのかも知れない。ましてや料理は、川背にとっては聖域だ。土足で他人に踏み込ませる気は無い場所なのだろう。

あれだけ美味しい料理が作れるのに、川背はまだ自分は修行中だと常日頃から言っている。彼女が弟子を取るとしたら、きっとずっと未来のことになるのだろう。

「後で、此方に目を通してください」

手紙を渡される。

最近、川背が色々と影で働いてくれていることを、スペランカーは知っている。さっと手紙を見ると、どうやら川背が、かなり状況を整理できてきた事が分かった。

現在、幾つかの勢力が、影で動いているという。

そのうちの一つは、少し前に接触してきた。まだ一部だが。

フィールド探索者の中でも最長老と言われる存在を首魁としたグループで、ニャルラトホテプを斃させないようにと、様々な行動をしている者達だという。彼らはおそらく、どこからか知ったのだろう。ニャルラトホテプを斃した場合、何が起きるかを。

この勢力を中心に、様々な勢力が放射状に書かれている。

ややこしいことに、これは具体的な組織ではない。一つ一つが一種の派閥、という事だ。つまり、複数派閥に所属している個人も、当然いるだろう。

一つは国連軍上層に巣くう勢力。

これはどうやら、ニャルラトホテプの息が掛かっているらしい。来るべき未来の後の、能力者が存在しない世界を理想として動いている者達なのだそうだ。

軍人には、フィールド探索者や魔術師を好ましく思わない者は多い。彼らにして見れば、そういった思想に傾倒したくなる事もあるのだろう。フィールドが出てきてしまうと、軍は後方支援しか出来ず、あくまで主体はフィールド探索者。それでは面白くないという気持ちは、分かる。

ただし、来るべき時のあと、人類の何割かが死んでしまう事は、既に未来から来た人達が告げてきている。しかも想像を絶する混乱に地球は包まれて、世界は大変なことになってしまう。

そのようなことが分かっている以上、好きなようにさせるわけには、いかない。

此方に関しては、今Mがあぶり出しを進めている。粛正が起きるかも知れないが、それはとても悲しい事だ。出来るだけ人が死ななくてもすむように願うばかりである。

もう一つは、Kによる闇の組織。

大魔王とも呼ばれるKは、邪神に対しては明確な敵対的意識を見せている。ただし此方の目的は、事態を混乱させて、暗躍しやすい状況を作る、というものであるらしい。此方は勢力のバランスを考えて行動を常にしており、状況次第で味方にも敵にもなり得るそうだ。

更に、これは未確認だが。

どうやら、異星の邪神の中に、人間に協力的な勢力が存在しているようなのだ。

戦車乗りと呼ばれている者が中心だそうだが、アトランティスにいるアトラク=ナクアなどの、スペランカーとの戦いの結果交戦意思を放棄した者達とはまた違う。狂気を喰らう邪神でありながら、地球の人間に対して友好的な意思を持つ者。そういった存在であるらしい。

他にも細かい派閥が幾つかあるが、大まかなものはこの三つだ。

これらに付随したり敵対したりしている小規模な勢力は、三百を超えているという。中には跳ねっ返り的な者達もいて、非常に危険な思想を持っているという。主にJ国政府が警戒しているのは、そういったテロリストまがいの者達だそうである。

何しろこれらの派閥は、各国にも根を張っている。政界財界いずれにも根は届いている上に、場合によっては民族紛争や宗教などにも絡んでいて、複雑極まりない。更に言えば、これらの派閥は必ずしも常に敵対している訳でもなく、時には手を結んでいる事もあるようだ。

訳が分からない、怪物的構造。ある意味、人間達が作り上げたこの複雑な組織こそ、ニャルラトホテプなのかも知れないと、思ってしまう。

勿論情報の全てを川背が一人で調べたわけではない。

国連軍のエージェントや、アトランティスの関係者も動いてくれている。今、アトランティスの存在は重要らしいからだ。

「よく調べたね。 お疲れ様」

「僕はたいした事をしていません。 情報の整理は、後方のメンバーの仕事です」

川背自身は、危ない場所に足を運んで、情報を集めたり、或いは直接様々な派閥の幹部と接触しているようだ。

その時、スペランカーの親友、という肩書きが使える。

スペランカーは川背を全面的に信頼しているから、その肩書きを使う事を、許している。ただし、表だって川背がそれをひけらかしたことは、一度もない。

川背が集めてきた情報を、後方にいるアトランティスの半魚人達が整理している。元々彼らは、邪神の奉仕種族。文明レベルは高く、独自の生体コンピューターまで持っている。知能は高く、人間よりもむしろ賢いものも少なくない。

バスが港に着く。

此処からは、フェリーだ。海自のこんごう級護衛艦(川背が教えてくれた)が来ているのが見えた。かなり本格的な警備である。

「今回は、あまり大規模なチームじゃないね」

「僕と先輩、それにじゃじゃ丸さんが来ます。 後は何名か、中堅どころのフィールド探索者が」

はて。

少し前にもらった情報だと、じゃじゃ丸はメンバーに名前が載っていなかった筈だが。

今回のフィールドは、孤島に一週間ほど前、急に出現した。

今のところ人的な被害はないが、内部で異星の邪神の反応が検出されたため、スペランカーに声が掛かったのである。

確信はないが、ニャルラトホテプの可能性は高い。ただし、まだ断言できる状態ではない。

もしニャルラトホテプの場合は、前回ほど簡単に撃退できないかも知れない。ニャルラトホテプは、無数の分身を持つ邪神だという。この間退けた固体とは、別の者の可能性が高い。

ニャルラトホテプには、まだまだ聞きたいことがたくさんある。

今回は川背が側にいてくれる。きっと力になるはずだ。前回の戦いで、ニャルラトホテプの目的は分かった。今回は、話すことだけが目的ではない。何故、宇宙の中心にいる邪悪を、この星に呼び寄せたいのか。その先に何をしたいのか、見極めなければならないだろう。

フェリーで二時間ほど揺られて、離島に着く。波は静かだったが、乗っている人は殆どおらず、政府関係者らしい姿ばかり。その中で、スペランカーの周囲ばかり人がいて、少し恥ずかしかった。

到着したのは、般若島という恐ろしい名前がついている島だ。見るからに岩がごつごつしていて、船着き場も一つしか無かった。

一応東京都に入る島である。南北に三キロ半、東西に二キロ半と、少し縦長の造りになっている。人口は二百七十名だが、既に一部の老人達を除いて、全員が強制的に避難させられていた。

寂れた島だが、一応特産はある。絹糸が現在でも専門で生産されている珍しい島である。そのほかには、多少の漁師も生活しているが、漁獲高はあまり高くないようだ。島に残った老人達は、生命線であるかいこの世話をするために残ったのだ。桑畑も世話をしなければならないし、フィールドがつぶせてもかいこが全滅した場合、島は再起不能になる。

スペランカーも、彼らの悲しみは、よく分かる。できる限り早く、フィールドを攻略しなければならない。

フィールドが発生したのは、集落がある南部ではなく、北部。

空間が歪んで、よく見えない。

まだ内部の調査は本格的に入っておらず、情報収集を行っている段階だ。今のところ、フィールドそのものは拡大しておらず、周囲に鉄条網を張って、住民が入り込むことを防ぐだけの仕事を、自衛隊がやっていた。フィールドの監視自体は国連軍がやっているようで、別国籍の人間がちらほら見える。

ベースには、既に中堅どころのフィールド探索者達が集まっている。

その中の一人は、スペランカーの知り合いだった。

「宗一郎君」

「久しぶりだ」

寡黙でぶっきらぼうな少年は、少し見ないうちに、また背が伸びていた。かってはスペランカーよりも小さいくらいだったのだが、今ではもう十センチは背が高い。顔立ちからも、少しずつ幼さが消えている。美男子とは言いがたいが、J国では珍しい精悍な顔立ちだ。

本多宗一郎。以前戦いを共にした、フィールド探索者である。最初にあった時はまだ駆け出しだったが、今ではかなりの戦闘を経て、中堅と呼ばれる所にまで成長していた。彼は傷つけば傷つくほど打撃力が上がるという特殊な能力の持ち主で、今も武器である特注のサッカーボールを手にしていた。

「どう? 元気にしていた?」

「おかげさまで。 川背さんも、変わりないようで何よりだ」

「ん。 そちらも」

三人で立ち話していても仕方が無い。

ベースそのものは国連軍が作ったものらしく、多国籍の兵隊さん達が警備をはじめている。今回は邪神がらみだから、一個中隊が来ているらしい。

ベースの中にはプレハブの設備があり、中には自動販売機まである。普通自動販売機は見かけないのだが、此処では規律がよっぽどしっかりしているのだろう。自動販売機が壊されている様子も無い。

川背は周囲にずっと気を配っている。スペランカーの状況が、それだけ難しいという事なのだろう。

「じゃじゃ丸って忍者が追加で来るって聞いた。 スペランカーさんは、何か知らないか」

「私も途中で聞いたの。 私も一緒に戦ったことがある腕利きの人だから、きっと安心だよ」

「そうだと良いんだが、忍者のフィールド探索者は、裏に大きな政治的な意図があるときしか出てこないって聞いたことがある。 何か嫌な予感がしてならない」

宗一郎は案外聡い。今回の件の裏で蠢く、訳が分からない幾多の闇について、肌で感じているのかも知れない。

世界が一つになって、何か強大な敵と立ち向かう。

そんなことは、映画の中でしかないと、スペランカーも分かっていたけれど。こうして現実で、邪神をおいださなければ世界そのものが危ないと多くの人が認識しているにもかかわらず、まとまりのない世界というものを見てしまうと。悲しくなってくる。

ざっと今ある情報を交換する。

だが、どうやら宗一郎はあまり詳しいことは知らされていないらしく、フィールドがまるで未調査である事くらいしか分からなかった。

今、国連軍の無人調査ロボットが内部に入って、必死にデータを集めている所だが、どうも上手く行っていないらしい。

「近々、あんたに偵察の依頼が来るはずだ。 一通り内部を見て廻ったら、後は俺たちが露払いって感じだろうな」

「重異形化フィールドにしても、入り口近辺のことも分かっていないの?」

「俺も何度か問いただしたが、言葉を濁されるばかりだった」

川背が目を細めた。不機嫌になった証拠だ。

彼女はスペランカーには優しいが、他の人間には基本容赦を知らない。状況を知らないと何とも言えないのだが、頑張っている軍人さん達が酷い目に遭うのはちょっと悲しい。咳払いすると、スペランカーは話を進める。

「他に何か、おかしな事は無い?」

「今の時点では、特に聞いていない。 俺も少しは力を付けてきた。 多少はスペランカーさんの露払いとして、役に立てるつもりだ」

「頼もしいよ」

席を立つと、川背と一緒に現場を見に行く。

フィールドにも色々種類があるが、今回のは重異形化フィールドだろうと、スペランカーは当たりを付けていた。

内部の物理的な法則までも歪む、最悪のタイプのフィールドだ。

空間がかなり広い範囲にわたって歪んでいて、周囲は鉄条網が張り巡らされている。スペランカーが来ると、警備していた長身の兵士が、胡散臭そうに睥睨した。ライセンスを見せて、通してもらう間も、ずっとじろじろ見られていた。

鉄条網の中には、何名か科学者がいて、話し合いをしている。

その中に、一人女の子がいる。最近J国では三十代の女性を「女の子」というような妙な風潮があるようだが、そうではない。見るからに年齢不詳なのだ。白衣を着込んでいる彼女は、リスのような印象を受ける。小柄で目が大きく、髪の毛を何故か鯰の飾りがついたヘアピンで留めていた。

スペランカーに気付くと、彼女は立ち上がり、此方に来る。

サンダルを履いているが、最近流行のネイルアートはしていない。

「スペランカーさん?」

「はい。 貴方は?」

「知鯰外世子(ちねんとよこ)。 今回、国連軍の派遣学者として、フィールドの解析をしています」

川背がぴくりと眉を上げた。知っている人なのかも知れない。

握手を交わした後、話を聞く。他の人は技術者みたいで、おそらくこの人が指揮を執っているのだろう。

「内部はかなり特殊な構造になっていて、一筋縄ではいきません。 今はいるのは危険すぎますので、もう少し待ってください」

「少しでも、見せてくれないんですか?」

「多分、下手に入ると、貴方でも生きては帰れないですよ」

そう言って、図のようなものを見せてくれる。

それは何というか、複雑な結晶体のように思えた。巨大で何とも言えない形状で、そして左右対称。

真ん中にある黒い穴が、入り口だろうか。

だがその周辺にも、多数記号や文字が書き込まれている。

「これは……?」

「部屋が連なることで、このフィールドは形成されています。 一つ一つの部屋にはどうやらガーディアンになる守護者がいるようなんですが」

問題は、その後だ。

部屋のつながりが、意味の分からないほど複雑なのだという。しかも一方通行になっている事さえ多く、入り方によって違う部屋に到達することもある。その構造と解析に時間が掛かっているのだとか。

「パターンらしいものが見当たりません。 蠅サイズの偵察マシンを使って内部を調べているのですが、電波が届く範囲でさえこれです。 下手に入り込むと、おそらくフィールドの作成者の所にさえたどり着けず、内部で骨になるまでさまようことに」

スペランカーにとっても、それは嫌だ。骨になることはないにしても、飢餓はスペランカーにとって、最悪のトラウマの源泉である。

川背が挙手する。

「僕は空間に穴を開けることが出来ますが、それでは駄目ですか?」

「ああ、貴方が海腹川背さん。 話は聞いています」

知鯰さんはしばらく腕組みして考えた後、首を横に振った。

止めた方が良いと断言する。

内部は泡状の空間が、複雑かつ滅茶苦茶に絡み合っていて、解析が済むまで文字通りどこに何があるか知れたものでは無いという。泡に穴を開けたりしたら、何が起きるか、見当もつかないのだとか。

「偵察もしなければならないですから、まずは偵察用の蠅型ロボットを内部に多数放ちます。 どうにかして、このフィールドの首魁のいる場所さえ特定できれば、川背さんの空間に穴を開ける力なり、他のフィールド探索者の能力なりで、中枢への突破を掛けられるのですが」

「時間は、どれくらい掛かりますか?」

「これから、偵察のロボットの数を倍増させます。 もう三……いや二日、待っていただけませんか?」

川背と顔を見合わせる。

別にスペランカーには異論は無いが、問題は島の状況だ。

疎開している人達は不安になるだろうし、時間が経てば断つほど、島の産業はダメージを受けるだろう。

それに、万が一の事態とはいえない。

フィールドが拡大して、島を飲み込みはじめたら。覚悟して島に残ったお年寄り達の苦労と涙を、踏みにじることになる。

急かしても仕方は無いが、ただ待つのも芸がない。

一端プレハブに引き上げる。

殆どすれ違いに、すっと黒い影が歩いて行くのが見えた。思わず振り返ると、以前戦いを共にしたじゃじゃ丸だ。挨拶もせず、奥へ向かった。

声を掛けようかと思ったが、やめておく。

「一度、ここに来ている皆と話し合いましょう」

「それが良さそうだね」

休憩もしたい。

プレハブに足を向けながら、スペランカーは何か良い案が出るといいのだけれどと、心中呟いていた。

 

2、忍びの本分

 

じゃじゃ丸が出向くと、知鯰の者、幼なじみである外世子は遅いと言った。元から小柄な外世子は、精一杯足を突っ張って、視線を高くしようと滑稽な努力をしている。幼い頃は外世子の方が背が高かったのだが、中学くらいに逆転した。

それ以降だ。変なライバル意識を持たれるようになったのは。あるとき、決定的な事件が起きて、それからは心に壁が出来た。

「状況は聞いていたでしょう? なんで遅れたのよ」

「お庭番の一族で、色々と問題が起きていてな」

じゃじゃ丸の一族は、かって江戸時代、諜報を担当したお庭番と呼ばれる集団に属していた。

この集団は、現在では「忍びの者では無い」という定説が強まっているが、実際には諜報を司る関係上、かなり忍びの一族との関連性が深かった。当然、じゃじゃ丸の一族のような、精鋭忍び集団も含まれていた。特殊能力持ちも、その中にはいた。

知鯰の一族は、初代である鯰太夫なる人物が一度抜け忍になり、それ以降激しい争いを幕府側と繰り広げた経歴がある。最終的に鯰太夫は幕府側に自分の力を認めさせたが、どちらかと言えばダークサイドの立場を維持し続け、明治維新の際には真っ先に明治政府に荷担した。

お庭番に所属した数々の集団は、明治以降も解散したと見せかけて、政府麾下にその精鋭を温存し続けたのだが。

やはり、鯰太夫からの因縁は、未だに根深い。

彼らの長老達の合同会議は、知鯰の者達を毛嫌いしていて、政府の命令があっても共同作戦の際には毎回問題を起こすのだ。よくしたもので、知鯰の者達も、それに対しての反発を隠さない。

「またー? おじいちゃん達、どうして仲が未だに悪いのよ」

「数百年分の因縁だ。 ましてや明治維新の時に、双方共に大きな被害を出したことを考えると、な」

「ふん、そんなの、戦争だからでしょ」

確かにその通りだが、そう割り切れないのも人間だ。

外世子は地図を広げてみせるが、どうも上手く探索が出来ていないらしい。確かに図は、滅茶苦茶な様子だ。

「見てよこれ。 よっぽど中にいる奴、性格がひねくれているんだわ」

「何か法則性は」

「今、解析中。 泡が動いているとか、偵察装置が壊れているんじゃないかとか、そういった可能性も調べているけれど、このままじゃあ入ったフィールド探索者を無駄死にさせるだけよ」

「……」

小型の偵察装置を実用化したりしている辺り、知鯰の実力は信頼出来る。ましてや外世子は、一族の中でも屈指の学者だ。

ただし、流石に全てが独自開発の技術ではないらしい。

「入り口近辺だけでも、調べられないか」

「あんたが直に入るって事?」

「これでも本職だ」

「……」

腕組みして唸る外世子。

科学的なアプローチをして駄目なら、本職であるじゃじゃ丸が出向くだけだ。隠密と生還は、忍びの専売特許である。

「無茶はしないでよ」

「分かっている」

今の時点で分かっている空間のつながりの図を渡される。

非常に煩雑な上に、同じ空間の穴でも、毎回どこに出るか分からないと言う状況だが。それでも、無いよりはマシだろう。

忍びの仕事は、情報を扱うこと。

それは当然、敵地からの生還も含まれる。

「では、行ってくる」

「……好きにすれば?」

つんと、そっぽを向かれた。

時々外世子は何を考えているか分からない。ただし、学者として信用できるのは、確かだ。

鉄条網の先に出向く。

歪んでいる範囲が広い。フィールドは拡大していないというのが、せめてもの救いか。

足を踏み入れる。

不意に、辺りの景色が変わる。

其処は、和風の屋敷だった。朽ちかけた障子。たたみは痛んで、カビが生えている。

木張りの床は手入れがされておらず、彼方此方に穴が開いている。そして、今入るのに使った空間の穴は、既に消え失せていた。

なるほど、まるで食虫植物だなと、じゃじゃ丸は思った。

天井はかなり低い。古き良きJ国の屋敷。というよりも、これは殆ど、おばけ屋敷と言うべきか。

不意に、辺りの温度が下がりはじめる。

どうやら、出迎えらしい。

真っ白い、骸骨のように痩せた女が、闇から抜けるようにして現れる。殺意を籠もった目を向けてくるその女は。

じゃじゃ丸がその退治を本職としている、あやかしに間違いなかった。

雪女と呼ばれる妖怪だ。普通は雪山に現れる存在なのだが、何故此処に出現する。どう見ても、山中にはない、普通の屋敷だが。

左右を見回す。

屋敷から出られそうな場所はない。というよりも、外の光景さえ、見えない。よほど屋敷が広いのか、それとも。

いずれにしても、戦うほかはないだろう。

手裏剣を投擲するのと、相手が動くのは同時。中間点で、手裏剣がはじき返される。おそらく、瞬間的に冷気を結晶化して、手裏剣を迎え撃ったのだ。

だがその時には、じゃじゃ丸は相手との距離を、必殺の間合いにまで詰めていた。

雪女が顔を上げたときには、もう遅い。

その額にじゃじゃ丸の蹴りが叩き込まれていた。そして、破邪の力も。

のけぞった雪女が、悲鳴を上げながら頭を抑えるが、既に妖怪にとって致命的な力は、全身に廻っている。

その体は灰になり、散り散りに裂けていく。妖怪としての、死を迎えたのだ。

これが、じゃじゃ丸のフィールド探索者としての能力。

破邪の力を、直接相手に叩き込むことが可能だ。忍者としての様々な技に加えて、この能力があるため、一族は古くから珍重されてきた。

すぐに、その場を離れる。

地図を見ながら、気配を消す。無言で周囲を探っていくが、どうやら外に出る方法はないらしい。どこまでも、ひたすら同じような構造の部屋が続いている。

しかも、時々歪んで見えるのは、おそらく空間が歪んでいるから、だろう。

蠅が飛んできた。

偵察用の機械か。

「あーあー。 聞こえる?」

「しっ」

気配を消している最中だ。周囲には、ざっと確認できただけでも、七体の妖怪が徘徊している。

いずれも人間を殺すのに充分な力を持っている相手ばかりだ。

音量を下げると、外世子が機会を通じて言う。

「その歪みは入っちゃ駄目。 解析も出来ていない」

「……」

地図を見るが、外世子は自分にしか分からないように書いているからか、どうも良く分からない。

咳払いすると、外世子は言う。

「一つ試して欲しい事があるんだけれど」

「何だ」

「フィールドが、どうも一つ一つの泡のような空間で成立しているってのは、話したわよね」

「ああ」

その先なんだけれどと、外世子がわずかに声のトーンを殺して言う。

解析の結果、どうも泡の一つずつに、八体の妖怪がいるらしい事が分かってきたのだという。

何となく、それでぴんと来る。

それは、聞いたことがある。確か、初代の。おそらく、外世子もそれに気付いている。

「空間の歪みには入らないで、その空間の妖怪を全滅させてみて」

「敵の支配権を排除する、というわけか」

「そう。 ひょっとすると……ううん、何でも無い」

今の時点で、妖怪どもは密集せず、ばらばらに行動している。

それならば、各個撃破が可能だ。

会話を切ると、気配を消す。

まず、一番近い奴からだ。

障子はどこも破れているが、家屋の死角はどこにでもある。天井でも良いし、物陰でも良い。

忍者の使う術で、火遁とか水遁とかいうものが有名だが、あれは逃げるために、それらを利用するというものなのだ。

つまり、忍者は隠れることを、敵地では主な目的とする。

一匹目の背中を捕捉。

雪女だ。同じようにがりがりに痩せていて、背丈も高いとは言えない。無音で近づくと、背後から蹴りで破邪の力を叩き込む。

悲鳴さえ上げず、雪女は消える。

再び、影に紛れる。そして、一匹ずつ、妖怪を屠っていく。

奥に、三匹固まっている。他は全て片付けた。一番奥に、少し豪奢な着物を着た雪女がいる。

手前にいる二匹は、おそらく見張りだろう。

奇襲を仕掛けようにも、丁度奥の間のようになっている。調べてみたが、天井板には外れる場所がない。

畳も鉄のように融着していて、少なくともじゃじゃ丸の手持ち装備では、無理だった。

効くか分からないが、試してみるほか無いか。

閃光手榴弾を用意する。

フィールドにいる怪物には、銃弾が効かない奴もいる。妖怪と呼ばれるタイプは、殆どの場合、銃弾が効くが、しかし効果は薄くなりやすい。爆発の破片で殺傷する通常の手榴弾も、効きづらいとみて良い。だから、閃光手榴弾を使う。

音もなく、三匹の妖怪が隠れている間に、手榴弾を放り込む。

閃光が炸裂した。

飛び込み、顔を押さえている二匹を瞬時に蹴り倒す。破邪の力を込めているから、即死だ。

奥にいる一匹は、タイミングを合わせて顔を覆ったからか、平然としている。

ゆっくり、構えを取る。

喝。

雪女が叫ぶ。同時に、天井からも床からも、氷の刃が降り注いでくる。無音のまま走る。何カ所か、体をかすめる刃。

手裏剣を投げる。

相殺される。

だがその時には、体ごとぶつかるようにして、じゃじゃ丸は雪女に蹴りを叩き込んでいた。

奥の壁に突き刺すようにして、雪女に破邪の力を叩き込む。白い血を大量に吐いた雪女は、解けるように消えていった。

「お……!」

側を飛んでいた蠅型の偵察装置を通して、外世子の声が聞こえてくる。

声のトーンが露骨に嬉しそうで、良いことがあったのはすぐに分かった。

「入り口近辺の電波状態が改善されてる。 ちょっとまって。 あ、これはやった!」

「……」

「出てこられるよ。 一度戻って」

蠅型の偵察装置に導かれるようにして、戻る。

此処は敵から奪取した領土、とでもいうべきなのだろうか。無数の泡状の空間が連なっているのなら、やっとこれで第一歩、という所か。

空間の歪みに踏み込むと、いつの間にか外に出ていた。

右腕と左足股を掠った氷の刃で、傷が出来ている。すぐに直る程度のものだが、妖怪が付けてきた傷は、厄介な後遺症をもたらすことが多い。

幸い、今回は専門家が来ている。後で診てもらう方が良さそうだ。

「お疲れ様。 少し休んで」

「手当たり次第に敵の領土を潰して行けば、それでいいのではないのか」

「ううん、そんな風に安易に考えるのは危険よ。 解析するから、ちょっと待っていてね」

悠長なことだ。

昔から此奴はこうだった。だが、計画的に何事も進めていたから、若くして学者として大成したとも言える。

一度、プレハブの宿舎に戻る。

次にフィールドに入るときは、おそらくスペランカーと川背と、一緒にはいることになるだろう。

既に、人員は揃っているようだった。

最深部には、おそらくニャルラトホテプがいる。下劣な奴だと聞いていたが、フィールドの中身を見て、それが真実だと確信できた。多分、外世子もすぐに気付くはずだ。彼奴も、知鯰の一族の者。過去のことについては、一通り知っている筈なのだから。

無言で、医師の所に行く。

今は、傷を癒やしておかなければならない。

 

仮眠を取って、起き出す。

軽く身繕いしてから、黒装束を着込む。これは顔を見せるわけにはいかないからで、街にいるときは普通の格好をいつもしている。もっとも、じゃじゃ丸は服のセンスが妙だとかで、いつも外世子にぶちぶち文句を言われるのだが。

この間買い物につきあわされたときも、ずっとそんなことを言っていた。

来ている医師は知り合いだ。顔を出すと、早速検査結果を教えてくれた。

「怪我の方は別に問題が無いな」

「何か他に問題が?」

まるでドジョウのような顔をした脂ぎった中年親父である医師は、口に咥えた禁煙用シガレットを揺らしている。

彼は政府お抱えの医師で、じゃじゃ丸のような特務の者を専門で治療する人間だ。特殊能力者同士の戦いや、魔術で受ける傷についても詳しい。

「無理が出始めとる」

「……」

「お前の叔父さんよりは遅いが、このままだと、四十を過ぎた頃には、松葉杖が必要になるぞ。 戦闘ではあくまで影働きに徹して、とどめは他の奴に任せるんだな」

「分かった。 善処する」

医務室を出ると、外世子にばったり会う。

ばつが悪そうに視線を背ける。さては、今の話を聞いていたか。

「だから、言っているのに……」

「この仕事をしている以上、仕方が無い事だ」

それに、じゃじゃ丸には、この能力があっている。

影から接近して、一撃必殺。

剣も銃器も効かない相手にさえ、通じる必殺の技。これ以上、しのびにとって都合が良い能力はあるだろうか。

「なんで俺にそんなに構う。 俺が廃人になっても、お前には嬉しいだけでは無いのか」

「っ、知らない!」

ぱたぱたと小走りで外世子は行ってしまう。本当によく分からない奴だ。

会議室に入ると、むすっとした外世子が、フィールド探索者達に、説明をはじめていた。

「なるほど、泡状の空間にいる妖怪を斃せば、制圧できると」

「しかし、それ自体が罠になっている可能性もあります。 何しろ、狡猾なことで知られるニャルラトホテプです」

「え? 確かに異星の邪神の気配はありますけれど、ニャルラトホテプであるという事は解析できたんですか?」

スペランカーに言われて、明らかに動揺する外世子。

それはそうだろう。他の人間からすれば、どうしてそうだと分かったか、理解不能なのだから。

「それなら、攻略に時間が掛かる事もありますから、今のうちに増援を集めた方が良いのでは?」

「え、ええと……」

「待って」

川背が提案するが、いち早く様子がおかしいことに気付いたらしいスペランカーが制止する。

以前、川背がスペランカーに心酔する原因になった事件に、じゃじゃ丸は居合わせたことがある。

その時と同じだ。

スペランカーはアホとか陰口をたたかれているが、実際には高い判断力を持っていて、特に人の心理には妙に敏感に反応する。おそらくは天性に備わった素質なのだろう。

「ええと、知鯰さん。 貴方は何かしらの理由で、あのフィールドの最深部にニャルラトホテプがいる可能性が高いって、知ってしまったの? それならば、どうして増援を呼ぼうとしないの?」

「……」

「分かった。 それならば、それ以上は追求しないよ。 それで、どうするの? 私達だけで、攻略は可能なの? もしも、可能じゃないのなら、私もこれ以上は擁護できないよ」

スペランカーは、此処にいるメンバーの中では、経験といい実績といい、今や一番手と言って良い。アーサーやMのような大御所クラスが此処にいたのなら、話は別だが。

彼女の発言を遮ることは、あまり褒められた行動ではない。

それに、元々異星の邪神に対する策として、スペランカーが来ているのだ。彼女の発言は、もっともだとも言える。

「ニャルラトホテプへの路が出来れば、貴方は、勝てますか?」

「川背ちゃんが側にいるし、何とかなると思う」

「それならば、勝てるように、して見せます」

「無理はしないで。 私に出来る事なら、何でもいって」

スペランカーが席を立つ。

川背がしばらく此方を見ていたが、やがてスペランカーの後を追っていった。

壇上で大きなため息をつく外世子。

誰もいなくなったところを見計らって、声を掛ける。

「どうするつもりだ」

「支配権を得た空間を調べていたのだけれど、電波も通じるし、殆ど通常空間と同じになっているの」

それは、妙だ。

つまり泡状の空間そのものは維持されているが、中身は通常空間に戻った、ということなのか。

罠の可能性が高い。

敵を倒せば進んでいけると思わせておいて、とんでも無いトラップが仕込まれていると考える方が自然だ。

ましてや相手はニャルラトホテプ。

罠の正体さえ分かれば、食い破ることも出来るだろう。しかし、今主力が内部を進むのは、危険すぎる。

「やはり、俺が出る」

「……それしか、ないの?」

「忍びはもとより消耗品だ」

どんなに有名な忍びであっても、ちょっとした油断で簡単に死ぬ。戦いによって受けた傷で、あっという間に再起不能になる。足、腕、指、いずれも失ったら、もう忍びとしてはおしまいだ。

一子相伝というようなやり方で、技を継いでいないのもそのためだ。

当主が前線に出るようなやり方では、いずれ必ず血が絶えてしまうからである。それだけ、事故が多いのだ。

じゃじゃ丸の名を継ぐのも、直系の子孫ではないことが決まっている。

「構造上、キーになっている奴のことはわかりきっている。 支配地域を広げて、奴を見つけるしか、方法がないだろう」

「鯰太夫……私のご先祖ね」

そう。鯰太夫の城である。

このフィールドは、初代じゃじゃ丸が戦った、鯰太夫の造り出したおぞましき闇の城にそっくりなのだ。

ニャルラトホテプは、明らかにそれをもして、このフィールドを造り出した。

今はまだ、意味さえも分からない。

「スペランカーに相談しろ」

「え?」

「彼奴は頼りになる。 スペランカーを味方に付ければ、彼奴のシンパも一緒になって動いてくれるはずだ」

一族の恥を、外に漏らすわけにはいかない。

知鯰の一族にとっても、鯰太夫の名はタブーになっているのだ。それから陰ひなたに生きなければならなくなった元凶にて、野心と感情に任せて安易な行動に走った男。その恐るべき技術と能力で、幕府を大混乱に陥れた大悪人。

知鯰の一族は、その出自をずっと隠し続けているという。勿論、政府にとっては暗黙の了解だ。彼らは始祖の行動のために、ありとあらゆる手段を使ってでも、意地汚く生きるような事を強いられてきたのである。

また、今では、それは恥だけでは済まなくなってきている。表に出すわけにはいかない闇の事件と、直結しているからだ。本来なら増援を呼ぶべき所だろう。だが、今は出来ないのだ。

しかし、どうして助け船を出したのか。

結局の所、じゃじゃ丸も幼なじみが苦労しているのを、見過ごせないのかも知れない。

場合によっては親兄弟でも切り捨てる忍びだと言うのに、随分甘いことだ。

結局の所、じゃじゃ丸はプロであっても、心身ともに忍びにはなりきれていないのかも知れない。

アキレス腱は抱えるな。

そう教えられて育ったというのに。

いつの間にか、外世子はその場にいなくなっていた。

 

3、あやしの屋敷

 

フィールドの手前で待っていると、スペランカーが来た。

側には川背だけがいる。

最終的には、この三人で突入して、フィールドの深奥にいる邪神に肉薄しようと、じゃじゃ丸も思っていた。

しかし、敵の罠がある可能性が高いと分かった今。最後まで、スペランカーは投入できない。

「話は聞いたか」

「……」

スペランカーは、じっと此方を見る。

何が言いたいのか、一瞬分からなかった。

「外世子の言うとおりだ。 俺たちは、過去に闇を抱えている」

ただ、スペランカーは、手を伸ばしてきた。

握手を求められているのだと気付いて、手を取る。

「前に一緒に戦ったときは、あまり話せなかったから」

「……」

「じゃじゃ丸さんが、血も涙もない人だなんて、思った事は一度だって無いよ。 前に川背ちゃんが困っているときに、じゃじゃ丸さんはちゃんと助け船を出してくれたよ。 今度は、私が、助ける番」

「そうか」

此奴の誠実な言動には、定評がある。

その発言には、千金の価値があるとみて良かった。

あまり大人数は、内部に投入できないこと。どうしてニャルラトホテプがこの深奥にいると分かったかは明かせないこと。出来れば、スペランカーは最後の最後まで入らないで欲しい事。

この全てを告げると、彼女は頷いてくれた。

「何か、大きな過去の事件が絡んでいるんだね」

「ああ。 ニャルラトホテプは、おそらく我ら一族しか攻略方法が分からないフィールドを構築することで、安全に内部に引きこもることにしたんだろう。 あんたを罠に填めるためなのか、それとも他に理由があるのか、それは分からないが」

ニャルラトホテプの性質は、じゃじゃ丸も聞いている。

或いは解析の過程で、じゃじゃ丸か知鯰の一族が必ず出てくると、ニャルラトホテプは踏んでいたのかも知れない。

そうなれば、必ず混乱が起きる。

その混乱を、見て楽しむつもりであったのだろうか。

だとすれば、許しがたい下郎だが。そもそも異星の邪神は、人間の狂気を喰らう輩である。

単にニャルラトホテプにして見れば、趣味の合間に、食事をしているだけなのかも知れなかった。

ニャルラトホテプが人間を食糧の一種と見なしているのであれば、単に下ごしらえをしている、くらいの感覚なのだろう。いずれにしても、好き勝手にさせるつもりはないが。

鯰太夫は知鯰の一族の闇であると同時に、じゃじゃ丸の一族にとっても、大きな過去の問題につながっている。

他の一族の者にかぎつけられる前に、さっさとけりを付けたい。

スペランカーは事情をある程度把握したのか、川背を説得してくれる。川背がいるだけでかなり有利だが、もう一人。今回来ている中堅どころから、一人協力者を連れてきてくれた。

本多宗一郎。

最近名を上げてきている若者だ。

じゃじゃ丸も聞いたことがある有望な戦士で、自分がダメージを受ければ受けるほど、強烈な攻撃を繰り出す特殊な能力を持っているという。

「何だか面倒な事情があるようだな。 だが、あんたが直接入ると、大きな危険があるっていうなら、喜んで捨て石になる」

「そんな風に言わないで。 生きて帰ってきてね」

「分かっているさ」

木訥だが、誠実そうな若者だ。

じゃじゃ丸は、単純に頼もしいと思った。

 

外世子が支援のための準備を整えてから、フィールドに入る。

特殊な態勢で偵察を行い、それから敵の中枢に接近すると、支援のために来てくれた者達には、スペランカーが説明してくれた。

有り難い話である。

これで、過去の闇を、歴史の影に葬ることが出来る。

それは何も、個人の恥に関する事では無い。

J国だけではなく、世界中で活動している知鯰の一族と、じゃじゃ丸の一族にとっても、重要なことなのだ。

醜聞の拡散は、大きな信用の失墜を有む。

ましてや鯰太夫の存在は、数百年前とはいえ、当時の幕府にとってはとてつもない規模の大スキャンダルであったのだ。

「まるでおばけ屋敷だな」

中に一歩入ると、宗一郎が呟く。

川背は周囲を見回してから、目を細めた。

「少し狭いですね。 被弾する可能性が高い、苦手な戦場です」

「俺がサポートする」

蠅型の偵察機が飛んでくる。外世子が直接操作している奴だ。

可能な限り、声を落として、機械越しに外世子は言う。

「この辺りは電波が届くけど、罠の可能性も高いし、ほぼ確実に相手には会話を拾われていると思うから、会話は最小限で行く」

「分かっている。 まずは、どちらに行けば良い」

「雪女の親玉がいた、奥の間に」

此方だと、二人を手招きする。奥の間に行く途中も警戒を怠らなかった。板を踏む度に、ぎしぎしと大きな音がするのは、おそらくは忍び対策だろう。おばけ屋敷と言うよりも、むしろ忍者屋敷だ。

じゃじゃ丸くらいなら、音が鳴らないように歩くことも出来る。

だが、二人にそれを求めるのは酷だ。此処からは、敵との交戦を前提として、進まなければならない。

言われたとおりに、奥の間でぼろぼろの掛け軸をめくると、不意に光景が変わる。

どうやら、一つ奥の泡沫に進んだらしい。周囲には、薄暗い廊下と、小さな部屋が連なっている、先ほどまでと同じような光景が広がっていた。

不意に、空気が冷たくなる。

吹き付けてくる風が、敵が此方に気付いている事を告げてきていた。

川背と宗一郎が追いついてきた。

二人とも、すぐに戦闘態勢を取ったのは流石だ。

「敵は既に気付いている。 八体を屠れば、この空間を制圧できる」

「よし……!」

リュックから特別あつらえらしいサッカーボールを取り出す宗一郎。タンタンと二回、バスケットボールのように木床でバウンドさせたあと、サッカー選手もかくやという見事な蹴りを叩き込む。

闇より浮かび上がるようにして現れた雪女の顔面に、ボールが直撃。首がへし折れる音がした。

殆ど同時に、川背が残像を残して、天井に。

天井を蹴って加速すると、踵落としの要領で、続けて現れたもう一体の頭を砕く。川背の奴、以前も共闘したが、動きが露骨に鋭くなっている。ここ最近で腕を上げたのは見ていて分かったが、実戦を見るとそれが想像以上だったと、よく分かった。

よほどに、豊富な戦闘経験を積んだのだろう。

不思議な動きをして、手元に戻ってきたサッカーボールをヘディングで受け止める宗一郎。

特殊なヘッドギアなのか、ボールを受けても、乱反射させず、手元に戻している。

三体目の雪女が、出会い頭に氷の刃を複数投擲してくる。

三人が散開して避けたところに、更に四体目。五体目。

此方に気付けば、数で押してくるという訳か。

連続しての射撃が、隙の無い弾幕を作る。

それぞれ廊下から左右の部屋に退避して、隙をうかがう中、じゃじゃ丸は闇に身を潜ませる。

他の二人が引きつけてくれている今が好機。

此処でも同じように、指揮を執っている個体がいる可能性が高い。じゃじゃ丸は、そいつを暗殺する。

音を立てずに、闇の中を走る。

ぎゃっと鋭い悲鳴が、奥からした。多分川背が一匹斃したのだろう。というのも、鋭い風の音がしたからだ。宗一郎なら、殴打音がするはず。

六匹目が、音もなく、滑るように廊下を行くのが見えた。部屋の中の壁に張り付くようにして、敵をやり過ごす。

これで多くても、敵の首魁には、一匹しか護衛がいない。

奥は薄暗いので、持ち込んでいるスターライトスコープを用いる。いた。黒い翼を持つ、鳥のような顔の妖怪。額には修験者がつける頭巾と呼ばれる多角形の小さな帽子を付けている所から、ほぼ間違いなくカラス天狗だろう。カラス天狗はインド神話のガルーダが歪んで解釈されたとも言われる古い妖怪で、慢心した修験者を意味しているとも言われる、宗教的な色彩が強い存在である。

雪女とカラス天狗は全く系統が違う妖怪なのだが、どうしてあれが指揮を執っている。

鯰太夫も多くの妖怪を操る特殊な能力者であったらしいのだが、それに関係しているのだろうか。

勝負は十秒以内。

そうしないと、前線で引きつけている戦力が戻ってくる。

閃光手榴弾を取り出すと、護衛についている雪女が、視線をそらす一瞬をうかがう。狙うのは、カラス天狗だけ。

スターライトスコープを外すと、手榴弾を投擲する。

爆発する光。

飛び出す。走りながら、雪女の首を、刀を抜いてかっ斬る。即死はさせられないにしても、動きは止められる。

更に、顔を押さえたカラス天狗に、蹴りを叩き込む。

だが。足が、とまった。

カラス天狗が、挟み込むようにして、蹴りを両腕で受け止めていたのだ。にやりと、鳥の顔に笑みが浮かぶのが分かった。

弾かれるように飛び退く。

飛び退きながら、雪女の首を蹴り折った。刀を構えて、ゆっくり左に回り込む。カラス天狗は首を鳴らすと、翼を広げ、天井近くまで舞い上がる。

今の奇襲を、こんな浅い階層にいる奴が防ぐなんて。

天狗が羽ばたくと、無数の黒い羽が、部屋に満ちる。それが烈風と共にかまいたちになり、じゃじゃ丸の全身を切り裂く。

しかしその時には、じゃじゃ丸は跳躍していた。

傷をものともせず、足先が天井を擦るほどの高さで回転しながら、カラス天狗の脳天に蹴りを叩き込む。

直撃。破邪の力を叩き込まれたカラス天狗が、絶叫しながら骨になっていった。

着地。全身から血が噴き出す。それほど深い傷はないが、痛みはそれなりに酷い。

今のは、十三秒も掛かってしまった。

何処かで、医師に言われたことが頭に残っていたのかも知れない。情けない話だ。戦場では、臆した者から死んでいくのに。

まだ、奥の方では戦闘が続いている。

傷の手当てよりも、この空間の制圧が先だ。

 

最後の雪女が宗一郎のボールで首をへし折られると、周囲の空気が変わった。解析すると言う外世子の声が、蠅型のロボットから聞こえた。

座り込んで、目だった場所の手当をする。

応急処置の心得は、じゃじゃ丸にもある。

川背は当然のように無傷。宗一郎は何カ所か切り傷が出来ていたが、気にしていない。能力の特性上、傷つくのは前提なのだろう。

「なるほど……これは……」

「何か分かったか」

「泡の法則が、掴めるかも知れない。 もう二カ所か三カ所、周囲を制圧して欲しいの」

「任せておけ」

手当を終えると、立ち上がる。

川背が咳払いした。

「罠に関しての解析も、進めて貰えますか?」

「大丈夫、任せてください」

外世子と川背は敬語で会話し合っている。ただし、どちらかと言えば川背の敬語は、若干威圧的だ。

おそらく川背も、それを分かった上で話をしているのだろう。

「増援を呼んだ方が、良いと思いますよ。 確かに国家的にも大きな損失がでる可能性があるのかも知れませんけれど、ニャルラトホテプが好き勝手をしたら、もっと酷い事になると思いますし」

「……ごめんなさい、まだ、その決断は出来ません」

川背の発言に、外世子は弱気の返事をした。

外世子が指定したのは、今度はカラス天狗がいた部屋ではない。奥は奥だが、先ほどじゃじゃ丸が敵をやり過ごすのに使った部屋の近くだった。

空間の歪みに、足を踏み入れる。

全身に、ぴりっと痛みが走った。

再び、木張りの廊下に出る。近づいてくる気配。雪女かと思ったら、違う。

うめき声を上げながら近づいてくるのは、巨大な蜘蛛の妖怪だ。全身は巨大で、しかも蜘蛛の頭部に当たる部分には、複数の人頭が接続されている。おぞましい姿の妖怪は、宗一郎が姿を見せた瞬間、いきなり粘液の塊をはきかけてきた。

蜘蛛の糸は、同じ太さであれば鋼鉄をも凌ぐ硬度を持つ。はきかけてきた粘液も、同じ物質とみて良いだろう。

宗一郎は飛び退こうとするが、一瞬遅い。

蜘蛛が尻を上げて、そちらからも粘液を飛ばしてきたのである。飛び退き回避するのに成功したじゃじゃ丸は、壁に右手をくくりつけられてしまった宗一郎を見た。宗一郎は壁から手を剥がそうとしているが、上手く行っていない。

川背が姿を見せる。川背は宗一郎を見ると、手からルアーつきのゴム紐を垂らし、それをゆっくり振り回しながら言う。

「僕が引きつけます」

「頼む」

再び、蜘蛛が粘液をはきかけてくる。じゃじゃ丸は横の部屋に飛び込んで逃れ、奥へ。あの蜘蛛の頭は八つあった。おそらく、アレ一体で、この空間のガーディアンだろう。そのまま、部屋を経由して、背後に回り込んでいく。

川背は残像を残してゆらりゆらりと左右に動きながら、蜘蛛に近づいている。蜘蛛が、全ての足を広げ、凄まじい勢いで飛びかかる。その時、いつの間にか投げていたゴム紐の反動を利用して、後ろに飛ぶ。

床を砕きながら、蜘蛛が着地。人頭が耳まで裂けた口の中に、ずらりと並べた牙で、床を盛大にかみ砕いていた。

「ああ、おえあ、えあああああああ!」

蜘蛛が床から体を引っ張り上げようとした瞬間、川背が前に飛び、蜘蛛を飛び越えながらリュックを一振りする。

川背が着地した時には、蜘蛛の頭が一つと、尻の辺りが盛大にえぐり取られ、大量の鮮血がしぶいていた。おぞましい悲鳴を上げながら、蜘蛛が旋回し、足をふるって叩き付ける。横っ飛びに逃れた川背が、部屋に飛び込むが、蜘蛛は全力で追いかけてくる。複数の頭にある、耳まで裂けた口を全開にして。

好機は、そう多くない。

川背は蜘蛛を引きつけているが、あまり余裕は無い。最初に川背が言ったとおり、彼女の力を発揮するには、此処は少し狭すぎるのだ。消耗を避けるためにも、出来るだけ早めに蜘蛛を片付けた方が良いだろう。

「ぎおああああああっ!」

粘液を再び蜘蛛が吐きながら、恐ろしい勢いで川背を追う。障子を蹴散らし、畳を踏み砕き、部屋そのものを粉砕しながら。

辺り中に飛び散った粘液が、瞬時に硬化し、地獄を造り出す。汚らしいと言うよりも、それはまさに悪夢のような光景だ。

高々と飛び上がった蜘蛛が、川背を覆うように躍りかかる。

川背はと言うと、後ろにゴム紐を振るった。

思わず口笛を吹きそうになる。ゴムの伸縮を利用して、残像を残してバックしてのけたのだ。更にそのまま壁を蹴って天井に。反転しつつ天井を蹴り、再びリュックを掠らせて、蜘蛛の体を削り取る。

足が一本、根元から抉られ。大量の体液を撒きながら、蜘蛛が悲鳴を上げる。

だが、蜘蛛も黙っていない。

辺り中に粘液をまいた結果、既に辺りは蜘蛛の糸が張り巡らされた、奴の巣と化していた。

鋭い音。

無理矢理、柱の一部ごと剥がすようにして、宗一郎が腕の拘束を解いたのだ。

そのまま、見事なフォームで、ボールへ全力での蹴りをたたき込みに入る。

だが、ぴたりと宗一郎がとまる。

良い判断だ。

これだけ蜘蛛の巣だらけの状態である。どのように乱反射するか、分かったものではない。

蜘蛛はダメージを受けながらも、緻密に周囲を自分の領地と化すことで、戦略的な優位を得たのだ。

ゆっくり、川背と蜘蛛が、等距離を保ったまま左に移動している。

蜘蛛も、下手に仕掛けるとまずい事は理解しているのだろう。川背も、これ以上高速での機動は避けたい所の筈だ。それらを考慮した上で、間合いを計り合っている状況である。

好機は、おそらく次の一瞬。

宗一郎が、動いた。

パワーをセーブして、明らかに蜘蛛の頭上、外すようにしてボールを蹴り込む。蜘蛛は動かず、ボールを見送るだけだったが、川背は違った。

それによって、蜘蛛の安全地帯が幾らか消えたことを、冷静に分析したのであろう。すり足で地面すれすれに跳躍すると、蜘蛛の至近で残像を残し身を上に運ぶ。そして蜘蛛が糸を吐くよりも早く、顔面の一つに飛び膝を叩き込んでいたのである。蜘蛛は逃れようとしたが、その時ようやく、自分の退路が消えている事に気づいたらしかった。

蜘蛛が、ぎゃっと鋭い悲鳴を上げたとき。

既に、じゃじゃ丸は、その背に蹴りを叩き込み終えていた。

川背の派手な攻撃は、それ自体が陽動だったのだ。

破邪の力を叩き込まれ、消えていく人面蜘蛛。額の汗を拭いながら、じゃじゃ丸は蠅型の偵察機に言う。

「外世子! 次!」

「待って、今案内するわ。 それよりも、大丈夫なの? 三人がかりでもかなり手こずっていたみたいだけれど」

「問題ない」

ニャルラトホテプの罠を破るには、可能な限り多くの敵の情報が必要になってくる。

罠があるなら、その形を。

目的を。

知ってしまえば、それを食い破ることは、決して難しくない。

辺りの壁床からは、蜘蛛の粘液が消えつつあった。肩を回しながら、宗一郎が、川背と何か話している。職業病で、つい全て聞いてしまう。

「流石だな。 あの攻撃を、瞬時に利用してくれて、嬉しい」

「蜘蛛の知能が中途半端に良いのを利用しただけですよ」

「機動戦について、今度教えて欲しい。 俺はもっと強くなりたい」

川背が頷いている。

思春期の少年と、大人になったばかりの女の会話ではないような気もするが、二人ともプロだ。まあこんなものだろう。

手短に怪我の手当を済ませると、次へ。

今日中に、十個以上は、敵の勢力を潰しておきたい。そうやって二三日掛ければ、敵の狙いを分析できるだろう。

次の空間に入る。側を飛んでいる蠅型の偵察機から聞こえる声が、聞き取りづらくなってきていた。

「じゃじゃ丸、聞こえている?」

「ああ。 どうした」

「今、分析していて面白い事が分かったの。 それを裏付けたいから、此処を中心に、周囲を囲むように敵の領地を削るわ。 それが済んだら、今日は戻ってきて」

「分かった。 ナビゲートを頼む」

通信を切ると、目の前に現れた傘の怪物に向けて、刀を構える。

いわゆる九十九神という奴か。

日本の妖怪には、ものに魂が宿った結果生まれた、という出自の者が多数存在している。傘おばけとか言われる奴も、その一つだ。

不意に傘が開くと、凄まじい回転と共に、襲いかかってくる。

電気のこぎりのような音がしているし、触ればただでは済まないだろう。しかも、人間が避けにくいように、袈裟の機動で斬りかかってきた。かろうじて前回りに避けるが、続く二人は大丈夫か。

川背が先に来る。

傘のおばけは、三体。残り二体も傘を広げて、襲いかかってくる。

川背は残像を傘に斬らせると、いつの間にかその足。傘だった頃には柄だった部分にルアーを巻き付け、遠心力を込めて一気に引く。

振り回された傘は逆回転の凄まじいGに耐えきれず、空中分解して果てた。

ただ、今のは手に掛かる負担がかなり大きいはず。

宗一郎も来る。

「宗一郎君!」

「っ!」

いきなり飛びかかられて、宗一郎が反射的にボールを蹴り込む。

傘と凄まじい弾き合いをしたボールが破裂するのと、傘の柄を川背が掴むのは、ほぼ同時。

床にたたきつけられた傘が、粉々に砕けた。

残り一体が、不意に逃げはじめる。

手裏剣を投げつけるが、弾かれてしまった。だが、それは逃げはじめたのではないと、すぐに悟ることとなった。

屋敷の奥から、巨大な何かが来る足音が、響く。

そして傘は姿を見せず、闇の中を旋回しているようだ。丁度部屋を廻りながら、廊下に固まっている此方を、囲むように。

姿を見せるのは、巨大な壁状の妖怪。いわゆる塗り壁。

巨大な一つ目が体の中央にあり、不格好な手足が、ちょこんとついている。目玉に蹴りを叩き込めば倒せそうだが。しかし、そうはさせてくれそうにない。

そもそも塗り壁は、精神の疲弊が原因で、山中などで「其処から進めなくなる」という現象が妖怪化した存在だ。現象が妖怪として人格を与えられている存在であるから、可視化している現状、その力は下級の神にも匹敵するはずである。

板状の体の彼方此方から、棘が見えている。

下手に近づけば、串刺しという訳か。あの様子だと、背後にも棘を繰り出すことが出来るだろう。

不意に闇の中から、傘おばけが飛び出してくる。

そして、首を狙って空中を斬ると、また闇へ消えていった。

一撃離脱の強襲を繰り返し、ゆっくり正面の塗り壁が迫ってくる、というわけか。確実かつ、嫌らしい戦法だ。

宗一郎が、リュックから新しいボールを出す。

川背が一見すると無防備に、塗り壁に近づいていった。カクタンと音がする。塗り壁が発した声だ。鳴き声か、それとも。

不意に、無数の棘が、川背を貫く。

しかも足下からだ。恐ろしい速さで塗り壁から生えた棘が、いきなり床に突き刺さり、突き上げるようにして伸びたのである。

川背が着地する。ずたずたに切り裂かれた残像が、消える。

否。

川背の足の膝と股、ふくらはぎに、うっすらと斬り傷がついていた。血がにじんでいる。皮一枚だけだが、斬られたのだ。

まずい。此奴の速さに追いつけるほどに、あの棘は伸びるのか。

「傘を処理する必要があるな」

「塗り壁の間合いは分かりました。 まだ技を持っている可能性はありますから、処理するならいそ……」

言いかけの川背が、全力で飛び退く。

殆ど本能的に、じゃじゃ丸もそれに倣った。

一瞬遅れた宗一郎が、見事に吹っ飛ばされる。天井に叩き付けられ、床でバウンドした。塗り壁の目が光った瞬間、強烈な衝撃波が飛んできたのだ。

かろうじてじゃじゃ丸は回避したが、左腕を掠った。今でも痛烈なしびれがある。もう少し回避が浅かったら、指を二本持って行かれるところだった。

川背が奴らしくもなく凄まじい荒い音を立てながら跳躍し、宗一郎に襲いかかった傘の足を掴むと、時間差で襲いかかってきたもう一匹に向けて渾身で叩き付ける。腕に傷を受けながら、である。

吹っ飛んだ傘二匹。

塗り壁を入れて、後四匹、と数える暇も無かった。

じゃじゃ丸の足下から、無数の棘が噴き出してくる。全力で下がって回避。しかし、後ろには、傘の妖怪が迫っていた。

血しぶき。

肩をやられた。

出会い頭に、刀を振るって、相打ちに持ち込むのが精一杯だった。

床に倒れたところを、上から二匹が、同時に襲ってくる。川背よりも、じゃじゃ丸の方が与しやすいと判断したのだろう。しかも、あの塗り壁、動きが予想外に速い。棘の間合いはじゃじゃ丸も見切っていた。もう、部屋のすぐ側にいると言うことだ。

先祖は、本当にこんな奴らを、一人で潰したのか。

「カクタン!」

叫びながら、障子を押し破って、塗り壁が入ってくる。

奴は見る。

襲いかかってきた傘おばけ二匹を、跳ね起きながら同時の蹴りで仕留めたが。代わりに脇腹と腕を切られ、血みどろになっているじゃじゃ丸を。

棘の間合いに、入る瞬間。

真後ろから、捨て身のボールでの一撃を叩き込む宗一郎。さっきとは破壊力が桁違いで、バキバキと凄まじい音を立てながら、塗り壁の巨体が撓むのが見えた。だが、体にひびを入れながら、塗り壁は棘を、じゃじゃ丸を貫こうと伸ばそうとするのが見えた。

「てあっ!」

川背の叫びが、聞こえる。

撓んでいる塗り壁の背中に、川背がおそらくドロップキックを叩き込んだのだろう。速度はそのままパワーに変えることが出来る。奴渾身の蹴りが、どれだけの破壊力を持つのかは、想像も出来ない。

ゼロコンマ一秒、塗り壁が躊躇する。

その瞬間、勝敗は決していた。

蹴りを叩き込んだ先は、塗り壁の眼球。棘の絶対防御と、遠隔への衝撃波で体を守っていた現象の妖怪は、おぞましい絶叫を上げながら崩れていった。

肩で息をしながら、川背が立ち上がる。

崩れた塗り壁の上で立ち上がった川背は、血を両腕から垂れ流していた。かなり大きな切り傷が出来ている。今の瞬間、塗り壁は躊躇したのではない。

背後にいた川背に、本能的に攻撃していたのだろう。

川背も、そうなることを分かった上で、じゃじゃ丸のために隙を作ったのだ。此奴は、以前あった時とは、もう違う。

じゃじゃ丸以上の、プロになっていた。

幸い、それに応えることは出来た。しかし、今失敗していたら、じゃじゃ丸は仕事を辞めなければならなかった。

「じゃじゃ丸! じゃじゃ丸っ!」

「聞こえる」

外世子の声が煩わしい

どうして彼奴は、ああも必死なのか。偵察機に返事をすると、外世子が露骨に安心して声のトーンを落としたので、じゃじゃ丸はむしろイライラした。それでもプロかと言いたくなる。

「全員負傷した。 敵の戦力が、かなり高い」

「ちょっと、大丈夫!?」

「一度戻る。 指示をして欲しい」

もし、此処で戻れないようなら、ニャルラトホテプの性格の悪い罠に苦笑するところだが。

どうしてか、すんなり最初の部屋にまで、戻る事が出来た。勿論、其処から、外に出ることが出来る。

或いは、スペランカーを釣るために、敢えて逃がしたのかも知れない。

可能性は、ある。

スペランカーは、出ると不安そうにぱたぱたと走り来た。プロだから取り乱すようなことはないが、それでも怪我を見て心を痛めているようだ。

「川背ちゃん! 宗一郎君も!」

「大丈夫。 これくらいは、むしろ好都合だ」

宗一郎は平然としている。その年でそれだけ達観できれば、将来は超一流にまで行けるかも知れない。

まあ、宗一郎の場合は、能力の特性に絡むことだから当然か。しかも宗一郎の話によると、能力が高まるにつれて、体の回復が異常に早くなっているのだという。

川背はと言うと、冷静に自分の状態を分析していた。

「傷は八カ所です。 うち四ヶ所は手当が必要ですが、戦闘に関してはまだ支障ありません。 ただ、此処のフィールドは、中堅の戦士が挑むには、少し厳しいと思います」

「同意だ。 或いは、もとのフィールドを、ニャルラトホテプが強化しているのかも知れないな」

外世子がかなり動揺しているのが分かった。

傷だらけになってフィールドから戻ってくるなんて、珍しくもないのに。何を動揺しているのか。

「とにかく、お医者さんに。 知鯰さんは、分析をお願いできる?」

「どうしてよ……!」

「外世子?」

「! 大丈夫、こっちに」

スペランカーが、自分と同じ小柄な女性である知鯰の肩を抱くと、連れて行く。何か気付いたようだが、じゃじゃ丸には話してくれなかった。

遠くで、スペランカーが何か話している。肩をふるわせて、外世子が泣いているのが見えた。責めているようには見えない。慰めてくれているのだろうか。

じゃじゃ丸には、何故泣いているのか。分からない。幼い頃から、彼奴とは喧嘩ばかりしていた。中学の頃だったか、任務から帰ってきたとき、傷だらけの姿を見られた。そのまま死ねと言われた。その通りの意味に受け取って、ああ此奴は俺が嫌いなんだなと、納得した記憶がある。

医務室で、診察を受ける。

医師は手早く処置を終えると、難しい顔をした。

「言った先からこれだ。 御前さんの腕は一族の中でも上位に入る。 無駄に命を散らされたらたまらん」

「忍びは消耗品だ。 それくらいは、分かっている筈だが」

「それはそうだが」

「俺にとって大事なものは一族の繁栄だ」

ましてや、今回の任務は、それに直接関わるものだ。

時代錯誤と言われるかも知れないが、忍びというのは、そもそも国家お抱えの諜報機関である。

或いは特殊能力がない世界であれば、とっくに存在がなくなっていただろう泡沫の存在。一族の繁栄を考える事は、構成員にとって絶対の事となっている。そうでなければ、そもそも組織が維持できないし、諜報の質も高められないからだ。

替えの人間もいる。

鉄の掟と、血の結束で任務を達成する。だからこそ、忍びは現在の闇に、存在を許されているのだ。

自分を部品の一つと為せ。

それを徹底的にこなしているから、じゃじゃ丸は此処まで諜報機関に信頼されるに至った。

「そうか、其処まで覚悟を決めているのなら、もう何もいわんよ」

「休む。 あの様子では、外世子の奴も、立ち直るに時間が掛かるだろう。 少し寝て、わずかでも体力を回復しておく」

栄養剤をもらうと、宿舎に戻る。

今回来ている中堅どころのフィールド探索者達が、不安そうに会話しているのが見える。もう一人か二人、ベテランを呼んだ方が良いんじゃないかと、まだ年若い者達が話をしていた。

無音で、通り過ぎる。

もしも、今回のフィールドについての情報が無ければ、じゃじゃ丸も同じ結論を出していただろうから。

自室で横になると、訓練しているから、すぐに眠ることが出来た。

だが、快眠することは、出来なかった。

 

夜中に、呼び出される。宿舎の電話越しに、これから会議を行うと言われた。

どうやら、外世子が解析を終えたらしい。ニャルラトホテプがどれだけ意地の悪い罠を作っていたかは分からないが、此処でけりを付けたい。

途中で、外世子自身とばったり会う。

周りに、人はいない。

「傷は、痛まない?」

「別に問題ない」

多少は痛みはあるが、任務の遂行には問題ない。

ばつが悪そうに、外世子は視線をそらした。

「少し、嫌なことが分かったの」

「何だ」

「不意に私達が此処の任務に参加ってなったけれど、あれについて、本家から連絡があったのよ」

あれは川背とスペランカーを見張るのと、牽制し、なおかつ恩を売るのが目的だと思っていたのだが、更に裏があったのか。

失念していたが。そういえば、ニャルラトホテプは、人間に紛れ込み、多くの部下を囲っている存在だった。

知鯰の家から連絡があった人物は、自衛隊の陸将の一人。

フィールド探索者の排除をもくろんでいる派閥に属しているのではないかと噂される男だった。

「最初の提案は、その男から為されたらしいの。 知鯰の家でも、任務が自然だったから、疑っていなかったらしいのだけれど、ある筋から情報が入って、発覚したんだって」

「ある筋だと? 誰だ」

「分からないけれど、風魔系って聞いたわ」

思い当たる節がある。

以前面倒を見た若い忍びに、Kとパイプを確保している奴がいた。彼奴が確か風魔系の筈である。

そうなると、知鯰が気付くよりも先に、何かしらの理由でKの派閥が今回の事態を察知したのだろう。

してやられた。

これはフィールド攻略の以前から、ニャルラトホテプの罠だったのだ。

じゃじゃ丸と知鯰の家にとって、他の介入が望めない状態を構築する。仕事上関係があるじゃじゃ丸の提案を、スペランカーは呑む。そして、分かった上で、これ以上はどうにもならない。

今から一流どころの増援を呼ぶにしても、実力があるフィールド探索者は、それ相応の人脈がある。もし今回の一件が明るみに出でもしたら。

しかもニャルラトホテプの事だ。

最深部で、知鯰とじゃじゃ丸の一族の真相を、したり顔で話し出しかねない。

もしこれが明らかになると、J国の諜報の深部にいるじゃじゃ丸の一族と、技術開発のお抱えである知鯰の一族は、対外的な致命傷を受ける。

おそらく、J国はそれを知っていた。

だからフィールド探索者を、人脈がまだ小さい中堅どころと、それにスペランカーの身辺、じゃじゃ丸だけに絞ったのだ。

「狡猾な。 全て、最初から手のひらの上だった、という事か」

「まずいわ。 フィールドの事については、仮説を三つまで絞り込めたのだけれど、この様子だともっと危険な罠を確保していてもおかしくないわよ!」

じゃじゃ丸も、ニャルラトホテプが狡猾で邪悪な存在だと言うことは知っているし、聞かされてもいる。

だが、それでも。此処でどうにかして、敵の上を行かなければならなかった。

「スペランカーには話したか」

「ううん。 どうして?」

「彼奴の判断力は確かだ。 話はしておいた方が良い」

「……悔しいけれど。 分かったわ」

今回は、ここに来ているフィールド探索者のうち、奴が事実上のトップだ。政府は嫌がるだろうが、話はしておかないとまずい。

一応、経歴、戦歴でいうと、川背も匹敵するが、彼奴はスペランカーのナンバーツーである事を自認している。それに、一緒に戦ってみて分かったが、彼奴はじゃじゃ丸と同等以上の「プロ」だ。

まずは戦略的な利権から考えるだろう。

スペランカーに話をして、其処から川背に動いてもらった方が、じゃじゃ丸としては好都合だ。

じゃじゃ丸自身は、先にプレハブの中の会議室に行く。スペランカーと川背が、外世子に呼び出されて、外に来た。視線が一瞬だけ交差する。

三人が戻ってくるまで、時間は、それほど掛からなかった。

会議自体も、すぐに終わった。

作戦は明快極まりなかったからだ。

「威力偵察の結果、以下のことが分かりました」

外世子が、ホワイトボードにすらすらと情報を書いていく。徹夜で解析をしてくれたのだろう。

確か外世子は、スパコンも此処に持ち込んでいたはずだ。

フルで活用して、計算をさせていたのだろう。だが、それでも難しかったに違いない。仲が悪い幼なじみに、珍しくじゃじゃ丸は感謝していた。

「このように、今回のフィールドは、泡状空間が連なる多重階層構造です。 その上、泡状空間が、ゆっくり回転していることが分かりました」

「それで、今まで構造が掴めなかったと」

「はい。 しかし、おそらくニャルラトホテプも、此方が解析を終えたことは、読んでいると思います」

此処にはフィールド探索者しかいない。

盗聴器の類は、全て排除したと、外世子は言う。

咳払いして、彼女は続けた。

「問題は、泡状空間そのものが、ニャルラトホテプの術か、もしくはその肉体で維持されている、という事です」

「つまり、奴の体内という事か」

「はい。 これを、逆利用します」

今までフィールド探索と攻略は専門家の手に頼りっきりだった。科学者は支援以上の事が出来なかった。

だが、今回に限っては、ニャルラトホテプはミスを犯している。

其処を突ける。

「他言無用に願います。 今回のフィールドは、知鯰の一族に関連する過去のフィールドを、ニャルラトホテプが何らかの形で再利用しています」

本当は、それだけではない。

フィールド探索者達が、視線を交わし合うのが分かった。

信頼、してほしい。情報を開示するから。

必死な様子の外世子が、頭を下げた。

「具体的に内容は言えませんが、身内の恥では済まない問題です。 知鯰の一族はJ国の科学に深く噛んでいて、もしも今回の件が早急に片付かないと、かなりの悪影響が周囲に広がります。 協力、してください」

しばらく待ってから、外世子が顔を上げる。

スペランカーが立ち上がって、周りを見回す。

「私は、協力するよ」

「俺も」

宗一郎が続いた。

他のフィールド探索者達も、異論は無いようだった。勿論、彼らに危険が及ばないように、最大限の注意を払う必要がある。

しばらく無言でいた外世子が、うつむき加減に言った。

「作戦を、説明します」

 

4、闇夜の鯰

 

遙か昔。江戸時代の初期。

鯰太夫という天才がいた。当時としては最高峰の頭脳を持ち、優れた科学技術の数々を身につけていた。

火薬の改良、焙烙の小型化、それに既存の忍術の改良。

幕府の安泰を願い、数々の貢献をした、最高の技術者であり、忍びでもあった。当時で言う、フィールド探索者としても、まず一流の存在だった。

彼の能力は、妖怪の創造と操作。ある程度知名度がある既存の妖怪でなければ作り出せず、しかもその能力はフィールド内に限られていたが。それでも、充分に強力なものであった。

万能の人材。

脂ぎった中年男性だった彼は、しかし俗物な外見と裏腹に、極めて真面目だった。真面目であったが故に、人道を大事にしていた。忍びとは、闇に生きる者であるが、それは世の中全ての安定のためと、本気で信じていた。闇だからこそ、いつも心に光を持たなければならないと、強い信念を抱いていた。

だから、生まれてはいけない出自の姫に出会ったとき。自分の任務に、疑念を抱いてしまったのである。

彼には、年の離れた盟友が二人いた。

一人は、後世で語り継がれる忍者という存在の、アーキタイプとなった天才。忍者と言えば、彼を指すと言われるほどの男。あまりにも凄腕であったため、かの者こそ忍者、と言われた男。

もう一人は、その弟。

破邪の力を持ち、妖怪を斃す事に特化した忍び。滅ぼした妖怪は数知れず、超人とさえ言われた男である。

二人に、鯰太夫は話した。

このようなことがあって良いのかと。彼は、生まれてはいけない姫を、密かに殺すように言われていたのだ。

花のように可憐な姫だ。

悪逆とは無縁の存在。見かけが気持ち悪いと周囲の誰からも嫌われた鯰太夫にも、変わらず接してくれた姫を、幕府は消せと言ってきた。病死に見せかけろと。そのためには、忍びが扱う毒の術が必要だった。

盟友の、兄の方は言う。

忍びは、常に主君の言うことに、従うべきだ。非道な任務であっても、それが天下太平の為であれば、心を鬼にせよ。

弟は、兄の話が終わってから、続いた。

そなたは、我々に、幕府の言うことに逆らえと言って欲しいのか。これは最大級の機密を要する任務だ。全てを知っているそなたに命じたという事は、それだけの信頼の証でもあるでは無いか。

むごい話だが、任務には従わざるを得ない。天下太平の為に、姫には犠牲になってもらうしかない。

鯰太夫は、二人の言葉が正しいと思った。

だが、姫に任務のことを告げ。姫が、了承した時。何かが、壊れるのを感じた。

私も妾腹とはいえ武家の娘。

陰謀謀略にて命を落とす覚悟は出来ています。

願うのならば。あの人と、結ばれたかった。

あの人とは、鯰太夫では無かった。二人の至高の忍者の、弟の方。奴が天下太平のために死んで欲しいと言ってさえ、なお。姫は、奴への節を曲げなかったのである。

発作的に、鯰太夫は行動した。

姫を浚って、逃げたのである。幕府と、鯰太夫の長い長い戦い。そして、知鯰の一族の、苦難の始まりだった。

 

中堅どころのフィールド探索者が、ひとかたまりになって、未制圧の空間に乗り込む。

数に物を言わせての制圧作戦だ。

じゃじゃ丸は、昨日と同じメンバーで、同じように制圧作戦を進める。

ニャルラトホテプは、もう此方の目的に気付いているはずだ。だが、奴は、人間の悪知恵が、どれだけ廻るか知らない。

そもそも、何故ニャルラトホテプは、己の体の一部を使って、このような訳の分からない空間を作ったのか。

其処から、外世子は解析を進めた。

結論は、既に出ている。スペランカーを、封じ込めるためだ。

スペランカーの能力は、海神の呪いと呼ばれている。十代半ばの肉体での年齢固定と、その代償としての全体的なスペック低下。身体能力は、常人以下。

もう一つの特徴として、この能力には、自動補填がある。死んだとき自動で復活するのだが、その時体に欠損があると周囲から補う。そして悪意ある攻撃で死んだ場合、攻撃者から、欠損を補填するのだ。

これが、スペランカーが持つ神殺しの武器と並ぶ、武器の一つだ。

だが逆に言えば、それしか武器がないことを意味している。

スペランカーは、神に対しての戦車に近い。周囲に随伴歩兵がいなければ、何も出来ないのである。

一つ目の子供が躍りかかってくる。

かっての、江戸での性風俗の乱れを揶揄する意味で誕生したとも言われる妖怪、一つ目小僧。或いは山の神の末路だとも言われている。身体能力はさほど高くないが、手裏剣を投げつけてもまるで効いていない。しかし、その眼球に剣を突き立てると、悲鳴と共に塵になっていく。

奥には、骨だけになった武士がいた。大鎧を着込んでいる所からして、かなり身分が高い武士なのだろう。

「僕が仕留めます」

川背が歩み寄る。手にはルアーつきのゴム紐がある。

武士は、川背を難敵と認めたか。剣を青眼に構え、迎撃の体勢に入った。川背は、独特の歩調で、ゆらりと武士の間合いに近づく。

武士が、踏み込む。

袈裟の一撃は、残像を抉る。

そのまま武士は体を半回転させ、横から後ろにすり足で回り込もうとしていた川背の、胴を払う。

刀が、伸びきったゴムを斬った。

ばちんと、鋭い音。

川背の姿はない。否、武士の正面。

バックステップして、地面にルアーを投擲。ゴムを敢えて斬らせたのだ。武士が態勢を整え直すより早く、川背の蹴りが、首を飛ばしていた。

「見事……」

頭蓋骨を失った武士の体が、その場で塵になる。

その時には既に、宗一郎とじゃじゃ丸も、一つ目小僧の群れを掃討し終えていた。

「制圧完了。 そちらは」

「こちらも問題ない」

数に物を言わせての制圧。だが、それでいい。

一見すると、領地を広げつつ、回転している泡状空間の中枢に迫っているように見える。だが、それは陽動だ。

川背が、目的のものを、床に仕掛ける。

そして、三つの泡状空間を追加で制圧してから、一度全員で外に出た。

「全員生還!」

「此方も終わった」

休憩のために、外に出た。それもある。

だが、既に、外世子はカウントをはじめていた。川背が、スタンバイに入る。今のうちの、他のメンバーは、栄養ドリンクを口に含んでいた。

「あと五分!」

「再突入準備!」

スペランカーが、ヘルメットを被り直す。

カウントが、徐々にゼロに近づいていく。時計は、作戦開始前に、全員が合わせ済みだ。

じゃじゃ丸は目を閉じると、九字を唱え、印を切る。

カウントが、ゼロになった。

外世子が、スイッチを入れる。

先ほど仕掛けていたのは、小型の無線スピーカー。流すのは、事前に録音しておいた、スペランカーの声。

同時に、川背が、フィールドに飛び込む。スペランカーも、宗一郎も、じゃじゃ丸も続く。

このフィールドは、スペランカーを捕獲する目的で、泡状の空間が無限につながる構成になっている。

パターンがあるように見せかけたのは、妖怪を全部潰せば制圧できたように思わせたのは。スペランカーが安心して入ってくるようにするためのフェイク。もしもスペランカーが入れば、泡を連結させて外部から閉じ、二度と出られないように再構築する。

だが、スペランカーの気配が、同時に各地でしたら、ニャルラトホテプはどうするか。

案の定、フィールド内に入ると、空間はぐにゃりと歪みはじめていた。

川背がリュックを、床にたたきつける。二度、三度。そして六度目で、致命的な結果が生じた。

混乱しているところに、本当のスペランカーの気配が来て、一気に泡状空間を、入り口に殺到させる。其処に、空間そのものに穴を開ける、川背の能力を叩き込めばどうなるか。

周囲の光景が、瞬時に切り替わっていた。

泡状空間が破裂し、本来のフィールドが姿を見せたのである。

其処は、大きな広間。

畳が敷き詰められていて、奥には胡座を掻いた影がいる。

目を閉じたその男は、脂ぎった俗物そのものの中年男性に見えた。着込んでいる陣羽織は地味な色合いで、かなり使い古した形跡があった。そして、その背後に、揺らめく影が見える。

「あの男の、子孫か」

男の声と同時に、スペランカーが、歩み出る。

自分と他者の命を等価に消し去るという、必殺の武器。オモチャの銃にしか見えない、ブラスターを抜き放ちながら。

辺りには、多数の妖怪の気配。

中年男性の全身に、真っ黒な力が絡みついていく。泡状空間の絶対防御に自信があっただろうニャルラトホテプが、体を再構成しようとしているのだと、じゃじゃ丸にも分かった。

男は目を開くと、聞いてくる。

「さくら姫は、どうなった」

「俺の先祖が娶ったあと、多くの子を産んで、平穏に過ごしたそうだ。 仲睦まじい夫婦であったと伝わっている」

「そうか……」

安堵の表情が、中年男性に宿る。

彼こそが、おそらくはニャルラトホテプの手で、無理矢理によみがえらされた伝説の抜け忍、鯰太夫。

じゃじゃ丸も、真相は聞かされている。

時の権力者が、産ませた子、さくら姫。

多情だったその男は、徳川将軍家の一族に連なっていた。ゆえに、非情に劣悪な性癖を、好き勝手に振るっていたのである。家臣の正室に手をつけ、外回りの際の妾としていた。不幸なことに、そのせいで彼女は生まれた。事態を隠蔽するためにさくら姫の母は召し上げられ、一生を身分が低い側室として過ごした。

それだけなら、不義妾腹の哀れな子、程度で済んでいただろう。支配者層の醜聞など、どの世の中にでもある。

だが、その手をつけた相手は。亡くなってから、政治的爆弾を炸裂させた。

当時の幕府にとっては、タブーとも言える存在の血を引いていたのである。発覚したのは、さくら姫が成人し、誰かの所に嫁がせる話が出始めてから、であった。

その存在とは、明石全登。

大坂の陣を逃げ延びた幕府の敵にて、しかもキリシタン大名であった。

当時としては、これ以上もないほどのスキャンダルとも言えた。さくら姫は、当然存在を闇に葬られるはずだった。

だが、長年の忍び働きの非情さに疑念を抱いていた鯰太夫は、姫を浚って逃げたのである。

そして、あの事件が起こった。

当時、J国最強の能力者が、正面からぶつかり合ったのだ。鯰太夫は逃げ切れず、江戸の街にて能力を展開し、初代じゃじゃ丸を迎え撃った。圧倒的な実力で迫るじゃじゃ丸に対し、手段を選ばず、鯰太夫は戦った。

その結果、江戸の街は炎に包まれた。

江戸時代、通算五十回近い大火が起きている。その中でも、この時の大火では数万に達する死者が出た。

皮肉なことで、鯰太夫はその力を、破滅的な災害の誘発で周囲に認めさせたのである。じゃじゃ丸による二度の討伐を逃げ切った鯰太夫が、伊達や前田といった強力な大名(この頃の島津は貧乏で国力が低下し、毛利も弱体化が著しかった)と組むことを怖れた幕府は、その提案を受け入れたのである。

数万の死者を出した大悪人。

今、J国が抱える精鋭科学者一族の先祖が、そのような桁外れの悪人だと知られたとき。知鯰の技術力に関する名声にまで、大きな傷がつく。

忍びに関しても、同様だ。

そのような災害を防ぎきれなかった時点で、その実力は知れていると、周囲の国々に知れ渡る。

今まで築いてきた国際的な信頼と実績は、瞬時に瓦解してしまう。

政府お抱えの集団である以上、国益にも大きなダメージが出るだろう。

知られるわけには、いかないのだ。

既に周囲では、凄まじい乱戦が始まっている。

川背が、近づいてくる妖怪を、片っ端から薙ぎ払っていた。宗一郎も及ばずながら、それに加勢している。

鯰太夫とじゃじゃ丸と、スペランカーの周囲だけが。

何も無いように、静寂に満ちていた。

立ち上がった鯰太夫は、穏やかな表情だった。

「さくら姫が「先祖を失」い、結局誰とも知らぬさくらとなって、お前の先祖の妻となったのは、いわば至上の幸せであったのだろう」

「貴様は、それで良かったのか」

「無論未練はあった。 俺自身は、信念に従って生きて、何一つとして報われなかったのだからな。 だが、今はそれでもいい。 俺の子孫は、奴の子孫の手を焼かせ続け、更にはこの国の柱石となっているようだから、な」

徐々に、鯰太夫の全身を包む闇が濃くなっていく。もう、時間が無い。

鯰太夫は、最後に言う。

「俺も落ちたものだ。 こんな輩に喰われ掛けて、自らの手でけりも付けられぬのだから、な。 お前の手で、とどめを頼む。 結局俺は、最後までお前の先祖に殺されてはやれなかった。 今、長年の因果を断ち切りたい」

頷くと、じゃじゃ丸は。スペランカーが見守る中、渾身の力を込めた破邪の印を、なまず太夫に叩き込んでいた。

その瞬間。

全てをかき消すようにして、闇が爆発した。

 

闇の中、見える。

消滅した鯰太夫から、引きはがされたニャルラトホテプが。

スペランカーは、ブラスターを下ろす。此処は、おそらくニャルラトホテプの体内。時間は、恐ろしくゆっくり流れていた。

「おのれ……貴様をようやくとらえることが出来ると思うたに……!」

「教えて。 どうして貴方は、宇宙の中心に座する邪悪を、滅ぼそうとしているの?」

「飽きたからだ」

意外にも、即答だ。

飽きたとは、どういうこと。

聞き返すと、既に観念しているからか、邪神は言う。

「俺は奴の夢を守る、最後の鍵。 他の四元素神と違い、俺は直接奴とつながり、その闇を満足させる役割を持っている。 その役割には、もう飽きたのだ」

「夢を、守る?」

「お前達フィールド探索者や魔術師の能力の正体は、何だと思っている」

そして、ニャルラトホテプは、暴露した。

そうか、そうだったのか。

宇宙の中心にいる邪悪の正体も、ニャルラトホテプの思念と一緒に、流れ込んでくる。

ずっと、この闇そのものと一緒に、ニャルラトホテプは過ごしてきた。管理をして来た。いや、違う。

管理をするためだけに、造り出された。

夢に、飽きが来ないようにするために。

だが、もう疲れたと、ニャルラトホテプは言うのだ。

「俺がしている事は、究極の道化だ。 最初は楽しかった。 邪悪にも酔っていた。 だがな、人間の、知的生物の邪悪には、流石に俺も及ばぬ部分がある。 ますますの闇に染まるうちに、俺はだんだん疲れてきた。 そして、いつしか嫌になった。 俺の中にも、俺と同じ意見を持つ者が、多数いる」

「意見は、統合できないの?」

「そうするには、俺は人間的な意識のまま、あまりにも長生きしすぎた。 もはや俺の人格の数など、俺自身にさえ把握は出来ん。 お前と戦って逃げたような雑魚もいれば、Mとも戦えるような強者もいる。 何もかも壊れてしまえば良い。 そう思っている奴も、大勢いる」

殺して欲しいと、ニャルラトホテプの一部は言う。

だが、スペランカーは、手をさしのべた。

「眠って、忘れよう?」

「……!」

「私の体の中を、貸してあげる。 いいよ、気が済むまで、心が安らぐまで、ずっと眠っていて」

「貴様は……」

どのような影響が出るか分かっているのかと、ニャルラトホテプは叫ぶ。

だが、覚悟の上だと、スペランカーは応える。

わずかの逡巡。

だが、ニャルラトホテプは、悲鳴に近い声を上げた。

「お、俺は、苦しいのは、もう嫌だ……!」

「大丈夫。 良いんだよ、眠っていて」

「俺は……休み……たかったのか……」

闇が、解けていく。

 

闇が凝縮していき、最後にスペランカーが落ちてきた。

川背が助け起こす。眠ってしまっているようだった。

「また無茶をしたんですね、先輩。 でも、大丈夫。 僕が、側にいます」

まるで恋人のように大事そうに抱え上げると、運んでいく。ベットに寝かせるのだろう。川背はスペランカーを抱え上げるとき、とても優しい目をしていた。普段の険しい表情とは、まるで別人のようだった。

じゃじゃ丸は大きく嘆息する。鯰太夫は、本当は。いや、何でも無い。少なくとも、外世子には聞かせられない事だった。

既に、周囲の空間は正常に戻っている。

ニャルラトホテプのおそらくは一部だろう存在は、消え失せたのだ。

「フィールド完全消滅! 死者無し!」

「おおっ! やったぜっ!」

フィールド探索者達が歓喜を爆発させている。

宗一郎が、ボールをリュックにしまいながら、言う。

「少しだけ、話は聞こえた」

「そうか」

「闇の中にも、人の心はあるんだな」

そうなのだろうか。

分からない部分は、まだ多い。

だが、伝説の抜け忍と呼ばれた男が、あれほど人間的だったとは、じゃじゃ丸も思っていなかった。

これから、報告書をまとめなければならない。

幸い、スペランカー以外に、他言無用という必要は無いだろう。喧噪から外れて、自分のプレハブに歩き出す。

外世子が、此方を悲しそうに見た。

なんでそんな目をする。

「行ってあげたらどうだ?」

いつの間にか、隣に医師がいた。

「お前が嫌いだったら、あんなに構ったりはせんよ」

「俺には分からん」

「そうだろうな」

「だが、まあ良いか」

報告書の処理は、後だ。

外世子の方に歩いて行く。外世子が、はっと表情を緩め、不器用に笑顔を作るのが見えた。

 

(終)