犬の魂
序、月夜
柿崎五郎左景晴は長屋の障子を開けて、煌々と光る月を見た。少し肌寒くなっては来たが、それでも障子は閉めなかった。この光景は、見るに値するものだったからである。
「なかなかに美しい。 良き満月よ」
無精髭が生い茂る角張った顎を撫でながら、五郎左はまん丸な月を見る。今宵の月は一際明るく、そして美しい気がした。ふと視線を降ろすと、縁側の側で丸くなっていた犬の太助が、珍しく彼へと瞳を向けてきていた。五郎左はじっと犬と向き合い、静かに笑みを浮かべ、縁側に腰を下ろす。茶色い毛の固まりはその足に興味を一瞬だけ寄せて、そして再び丸くなった。
もう何年も不思議な関係は続いている。餌をやるわけでもないし、従属を強制するわけでもない。友達や仲間というのも少し違う。普通に側にいて、別に互いに干渉するでもない、不思議な毎日であった。太助は五郎左に粗相をしないし、五郎左も太助の生活を邪魔しない。いつも側にいるわけでもないし、ずっと離れているわけでもない。ただはっきりしているのは、五郎左と太助は今この瞬間、隣り合って同じ月を見ている。それだけだった。
1,貧乏侍の一日
仕える者がいなくとも、侍は侍。形式的には社会の頂点に立つ存在であり、唯一帯刀が許された階級である。柿崎五郎左はいわゆる浪人であり、その日暮らしの貧しい生活を送る男であった。
背の丈は五尺五寸。周囲に比べるとかなり大きな男である。三十路の半ばにそろそろ達しようとするその体は、実戦も交えた剣技によって良く鍛えられている。実際用心棒を請われた事もあり、また若い頃には随分無茶もした。人を斬り、相手を死なせた事もある。だが今は、長屋の住人達から先生と呼ばれ親しまれる、緩い男にすぎなかった。
長屋の窓から、五郎左の部屋に朝日が差し込んでくる。どうやらまた着物のまま寝てしまったらしい。大あくびをしながら起きた五郎左は、よれよれの着物を直すと、枕元の愛刀を手にとって外に出る。どんな貧しい生活であっても、これだけは手放さない。こんな時には、連れ合いが居ない事が却って楽で良い。外で伸びをして、何度か素振りをする。踏み込んで上段から一撃、心持ち片足を引きつつ胴を払う。ひゅっ、ひゅっと音を立てて風を斬り、やがて小さく気合いを入れて吠え、大上段からの一撃を叩き込んでいた。誰にも言わない事なのだが、五郎左は修練の最、必ず敵の存在を頭に浮かべている。斬れば相手は死ぬ。その重みを忘れぬ為に、一太刀ごとに人を斬る光景を浮かべているのだ。
軽く体を動かすと、うっすら汗を掻いていた。目も程良く覚めており、良い仕事日和だった。
「よっ、旦那。 今日も早いね」
「うむ。 良い仕事日和だな」
笑顔で通り過ぎるのは、魚屋の五平である。調子のいい男だが、案外真面目で、博打も不義もしない。彼の妻はいつもうちの宿六がどうのこうのと言っているが、旦那の事を信頼しているのは誰の目から見ても明らかだ。
朝の日差しの中、貸し着物屋に最初に行って、新しい着物を何着か受け取ってくる。衣類が貴重品のこの時代、一部の富裕層以外は、皆着物はこうやって貸し着物屋で使い回すのである。一度長屋に戻って着替えると、大体丁度いい時間になっていた。今日は寺子屋で先生の仕事があるし、あまりゆっくりもしていられない。洗濯するのは後にして、さっさと作って置いた朝餉を胃に掻き込む。長屋の住人達は皆もう起き出していて、外では子供らの遊ぶ声が聞こえた。台所はごっちゃになっているが、それでも数日に一度片づけているので、鼠が住み着くような事にはなっていない。朝餉はとても満足出来る分量ではないが、今の収入では仕方がない。それに、この生活は自分で選んだものなのだから、誰にも文句は言えなかった。
いや、この長屋暮らしは、まだ諸国をふらついていた頃に比べれば、ずっとましなものだとも言える。貧しいながらも人を斬らずに生きていく事が出来るのだし、寝床も保証されているのだから。
「あ、先生、おはようございまーす」
「せんせい、ござ、まーす」
「うむ、おはよう」
幼い妹の手を引いた長屋の住人、まつが五郎左に挨拶して通り過ぎていった。ついこの間髪を上げたばかりで、妹のつるに至ってはやっと言葉が喋れるようになったばかりだ。姉妹に手を振って見送ると、寺子屋へ急ぐ。五郎左は、子供に学問を教える事が、決して嫌いではなかった。少なくとも、人を斬る事よりは好きだし、向いているとも思っていた。
五郎左は道中、様々に思いをはせる。若い頃に無駄をした分、こういう所で取り戻そうと考えているからだ。今日は過去の事を、それとなく思い出しながら歩いていた。
徳川家康が幕府を開き、社会が安定してからしばしの時が流れている。九州で起こった天草四郎の乱を最後に、各地の一向一揆以外に大規模な争いごと自体が無くなり、合戦は過去の存在となりつつある。現在の将軍は八代吉宗公であるが、彼は狩りや武芸を好む男で、それが故に良く嘆いていた。無理もない話である。最近は馬に乗った事がない武士すら現れ、その存在は惰弱化の一途を辿っていたのだ。集団で行う狩り(巻き狩り)の際には、妻と別れの杯を交わした武士さえいたという。吉宗はそれを聞いて嘆いたと言うが、五郎左も情けないと思った。
平和な時代になってから(武士道)というものが発展し始めたのは、結構広く知られている事実である。この武士道というものは、戦国時代に広く考えられていた物とは、別の代物であった。秩序の維持を行うのに関しては、それは共通していた。しかし、変化を許容するか否定するかが基本的に違っていた。
例を挙げてみれば、戦国時代は混沌の時代であったが、その裏には様々な暗黙のルールがあり、それを破った者には無言の制裁が加えられた。型破りな事で知られたあの織田信長でさえ、そのルールはきちんと守っていた。例えば、部下の城が攻められた時、大名は必ずその救援をしなければならなかった。これを破った為に衰退したのが、武田信玄の息子である勝頼だ。彼は強引な領土拡張策や、長篠の大敗北などで部下の信任を失っていたのだが、それ以上に不味かったのが織田勢に攻められた部下を見殺しにした事であった。それを契機に武田家の家臣達は次々に離反、坂を転がり落ちるように戦国最強の大名は滅亡したのである。事実、そう言った事を行う主君の元では、いつ自分が見捨てられてもおかしくはない。戦国時代、主君はそれに相応しい度量を求められ、相応しくない場合は部下にも団結して見捨てる権利があったのだ。現実主義と、能力主義に基づく不文律。それが江戸以前の武士達が持っていた(道)であった。
それに対して、江戸時代に発展した武士道は、能力以上に階級を重視し、主君に絶対の忠誠を誓うものであった。これは無論平和で安定した社会の維持を目的に発達したものであり、事実それには大きな効果を上げていた。だが同時に、武士という存在そのものの性質が大きく代わっていった事は、誰もが認める事実であった。
価値観の過渡期に生まれた五郎左は、越後の出身である。彼の遠い先祖は、戦場指揮官としては間違いなく戦国最強であった上杉謙信に仕えた、柿崎景家である。上杉家でもなうての猛将であった景家は、後に謀反を疑われて謙信に誅殺されるのだが、その子孫は一部生き残り、上杉家に仕えていく事になる。だが、上杉家は関ヶ原の合戦で徳川家に敵対した事から不遇をかこち、極貧生活の中で江戸時代を過ごす事となった。領土を半分にされたにもかかわらず、同規模の家臣団を維持したのだから無理もない話であった。そんな中、脱落者が出る事は、避けられない事であった。
五郎左は柿崎家の分家に位置しており、祖父の代に上杉家を離れた。生活苦がその主な要因であるが、一族全員が仕官出来るわけもなく、五郎左の代には各地を放浪する生活が続いていた。別に五郎左が不遇だったわけではない。この時代、各地の大名家から旗本に至るまで武士の生活には余裕が無く、再就職活動は困難を極めていたのである。結局五郎左の父は武蔵の国で道場の師範として一生を終え、五郎左は若い頃に諸国をふらついた後に江戸に流れてきた。
五郎左は模範的な人間とは言い難かった。生まれが生まれだから捻くれていたし、周囲の環境も最悪であった。両親は仲が悪く、母は物心が付く頃には離縁を毎日口にした。五郎左はそんな環境の中父から剣術を学んだが、それが凶器と化すのは当然の帰結であったといえる。戦闘能力を得た彼は同じように社会に不満を持つ若者と徒党を組み、殺しも含めて世の中のありとあらゆる悪を体験した。彼が腰に下げているのは、山賊に請われて旅人を襲った際に、くすねた刀である。当然由来など知らない。持ち主は山賊になぶり殺しにされ、五郎左はあろう事かそれを笑いながら見物した。今でも持ち主の怨念が宿る刀を差しているのは、当時の事を忘れないようにする為だ。
振り向くと、尻尾を振るでもなく、無音のまま太助が此方を見ていた。吠えるでもなく、尻尾を振るでもない太助は、長屋の住人に賛否両論だった。五平やまつは何考えているのか分からなくて気持ち悪いというし、逆につるは実の兄のように慕っている。寺子屋に歩いていく道中、等距離を保って太助は着いてくる。そして寺子屋に着くと、側にある林にのそのそと歩いていって、丁度授業が終わる頃まで出てこない。焦げ茶の毛並みがうすくらい林に消えていくのを見送ると、少し寂れた寺子屋に、五郎左は入っていった。
寺子屋で教える学問というのは、さほど高度ではない。商人は自らの師弟に高度な数学を教え込んだりもするが、寺子屋で学ぶ子供達に教える事と言えば、読み書きや四則演算程度である。ただ一方で、それが如何に重要な意味を持っているかは、言うまでもない事だ。基礎学問が出来るか否かでは、能力の発揮に雲泥の差が出てくる。また、子供の学習度合いによって分類わけして学習項目を変えたりもするのだが、この小さな寺子屋では其処までしていない。廃寺を改装した此処では、其処まで様々な事が出来ないと言う事情もある。
寺子屋に学びに来る子供は、現時点で二十三人。常に全員が来るわけではなく、一度に来るのは半分ほどだ。講師は五郎左を含めて四人居る。五郎左は読み書き担当で、女講師も一人居る。かめと言う名で、近くにある問屋の女将をしているのだが、暇を見ては寺子屋に足を運んでくれるのだ。彼女は算術の担当で、暗算の速さは学者も舌を巻くほどだ。なかなかの器量よしで、人妻であるにもかかわらず、思いを寄せる者も少なくないと五郎左は聞いていた。
そのかめが、五郎左が来た時にはすでにいて、寺子屋を経営している日栄和尚と茶にしていた。日栄は齢八十を超えているとかで、頭の方にかなり無理が来ているが、その豊富な知識は近隣随一とも言われていて、若い頃には江戸城に請われて赴いた事もあったという。事実、朝靄のように濁った頭脳の中から、とんでもなく博識な言葉が時々飛び出してくる。
「おはよう、和尚、かめ殿」
「おはようございます、五郎左さん」
「今日も時間ぴったりだの。 あ、その、なんだ。 ええと、かめさんや、なんじゃったかのう」
「今日の子供の数は十一人。 往来物は既に其処に用意してあります」
蠱惑的な笑みを浮かべるかめに、うんうんと和尚は頷き、湯飲みを不思議そうに上から下から眺め始めた。苦笑したかめが新しい茶を急須から注ぎ、熱いから気をつけて下さいと言いながら和尚に手渡す。
往来物とは、寺子屋で使う教科書の事である。生徒に配る余裕はないから、寺子屋の方で管理している。それほど厚くない往来物とはいえ、十一人分となるとそれなりの重さで、腰を入れて持ち上げる必要があった。この重みが、授業開始の合図となる。気持ちを切り替えるには丁度いい刺激だった。
廊下の曲がり角を過ぎると、其処は教室である。長い机を並べた其処には、もう子供達が席に着いていた。いずれもまだ稚児と呼ばれる年代の子供達ばかりだ。長屋に住んでいる子供も二人混じっているのだが、今日は来ていない。
「先生、おはようございまーす」
「おはよう。 では早速今日の学問を始めよう」
五郎左は子供と接する時、常に笑顔を絶やさないようにしている。昔笑顔と言えば威嚇の為だけに使っていたのだが、今は重要な対人交流の道具であった。笑顔を向ければ、子供達もそれに応えてくれる。かって大嫌いな存在だったのに、今ではそれがこれ以上もなく嬉しかった。
授業自体は決して難しくないので、子供達の作業を見回る余裕がある。丁寧に書取を見てやり、露骨に間違っていれば訂正してやる。やがて、学問の時間が終わり、少し余裕が出来た。
かっては境内だった広い庭に、子供達と一緒に出る。そこで、ちょっとした事件が起こった。子供の一人、与平という子が、縁側に座っていた五郎左に近寄ってきた。結構とろい子なのだが、常にありとあらゆる事に興味津々で、生傷が絶えない問題児だった。彼は右手にさも大事そうに草の茎を握っていて、五郎左と、腰の物を交互に見ながらにんまりした。
「ごろうざ先生」
「うん? 何だね?」
「かたな、みせて」
ゆるみきった笑顔を浮かべ続ける与平。他の子供達も集まってきた。しばし考え込んだ五郎左は、子供に刀が持つ恐ろしさをきちんと教えておこうと思った。それが致命的な間違いだった。
「刀はな、とても美しく、強く、そして恐ろしい物だ」
鯉口を切って、庭に歩き出ながら、五郎左は刀を抜く。日々手入れを欠かさない刀身は美しく、日光を反射して輝きを放った。そのまま踏み込んで、草むらへと一閃を放つ。鋭い切れ味に、切断された草々が飛び散り、苦い匂いが漂った。子供達はきゃあきゃあ言いながら、地面に落ちた葉を拾ったり、刃をおっかなびっくり眺めやったりした。そしてその一人が、余計な事を言った。
「人も斬られるの?」
「おう、そうだのう。 一度見せておこう。 本来人を斬る際は、気合いを入れて振り下ろさねばならぬのだが、普通に切ってもこの通りだ」
無造作に自らの腕に降ろした刃が、半寸ほど肉に食い込んでいた。子供達が見る間に蒼白になり、泣き出すまで時間は全く掛からなかった。
「もう、何を考えて居るんですかっ!」
「いやいや、すまぬ」
「子供の前で刀を抜くのだって言語道断なのに、自分を斬ってみせるなんて。 絶対にもうやってはいけませんよ!」
文句を言いながら手当をするかめは、とても怒っていた。どうも五郎左には、何故彼女が怒っているのかよく分からなかった。
「しかし、刀の恐ろしさを見せるには、これが一番かと思ったのだがな」
「五郎左、五郎左さんや。 あの、そのだな。 確かにそれはの、方法としては悪くはないのだが、その、刺激が強すぎる。 それにの、おぬしの体も傷つくし、子らの心にも傷を付けてしまうでの。 それでかめさんはその、あのだな、怒っておるのだの」
和尚の言葉は、頭では理解出来る。しかしどうにも体では理解出来なかった。子供の頃と言えば、もう親の金を持ち出して、年上の悪ガキと組んで色々な行為をしていた頃だ。当時は人を傷付ける事に何の躊躇もなかったし、むしろそれが楽しかった。そう言った頃に培われた感性が故に、五郎左には今接している子供達の精神構造が理解出来なかったのである。
しばらくかめにがみがみ言われた後、五郎左は帰途に就いた。林から太助が出てきて、五郎左について歩き始める。太助が御苦労様と言っているように、五郎左には見えた。
長屋に戻る途中に、安酒を買う。腕の傷が痛むからではない。今日は失敗もしたから、酒を飲んで気晴らしをしようと思っただけだ。太助は徳利を見て鼻を鳴らし、一歩下がった。そう言えば前に無理に酒の匂いを嗅がせて以来、太助は酒そのものに嫌悪感を示すようになっていた。
「やれやれ、つれない事だな」
五郎左の愚痴は、空へと流れた。
貧しい五郎左には、当然遊郭に通う金もないし、酌をしてくれるような女も居ない。実際問題、もし好意を寄せてくれる女が居たとしても、今の五郎左には養えない。縁側に出て、手酌で酒を飲む五郎左は、太助を捜したが見付からなかった。太助は頭がいい。少しでも酒が入っていると、絶対に五郎左には寄ってこない。酔眼で月を眺めていた五郎左は、ふらふらと歩いているつるをみつけた。つるは寝ぼけまなこを擦りながら、よてよてと五郎左の方に歩いてきた。
「おいちゃん、たすけちゃんは?」
「太助はな、おいちゃんが酒を飲んでいると、いやがって出てこないのだ」
「つる、おさけきらい。 前のとうちゃん、お酒飲んだら暴れたもん。 まつおねえちゃん、一杯ぶったもん」
「そうか、そうだな……」
酒は百薬の長と呼ばれると同時に、人を魔性の生き物へと変える毒の帝でもある。あまり深酒はしていないからまだ歩ける五郎左は、厠につるを連れて行ってやり、きちんと送り届けてやった。帰りは転びそうなつるをおんぶして、である。まつは何度も礼をした後、酔眼の五郎左を見ていった。
「……この子、失礼な事言いませんでした?」
「いいや、儂は何もきいておらんぞ」
「そう、ですか。 嘘が下手ね、先生」
「嘘じゃないとも。 はははははは」
まつは無言でついてきて、暫く酌をしてくれた。艶っぽい空気はなく、あくまでも奉仕活動で、という雰囲気ではあったが。安酒を猪口に注ぎながら、まつは好奇心に溢れた瞳を、普段太助が座っている辺りに向ける。
「太助と先生は、いつ頃からのつきあいなの?」
「そうさな、もう五年以上になるな」
「というと、この長屋に来る前から?」
「江戸に来る前からだな。 考えてみれば、不思議な関係だ」
当然、その後はどうやって知り合ったかの話になった。酌をして貰っているのだから、あまりむげにも出来ない。それに、太助にあった頃は、非道からは足を洗っていたし、後ろめたい話ではなかった。
そろそろ日が変わろうとしていた。五郎左は太助と会った日の事を語り始めた。
2,野犬狩り
日本には、虎や獅子と言った、並の人間が太刀打ち出来ない猛獣は、蝦夷地の日熊を除いて存在しない。その一方で、侮ると痛い目にあう獣は少なくない。小さな物では雀蜂から、大きな物では月の輪熊や狼まで。その中でも、野犬は特に危険な一つだった。
狼に比べて野犬の戦闘能力は低い。その代わり野犬は他の肉食獣と違い、人間を怖れていない。そのうえ狼のように徒党を組んで組織的な行動を取る。このため、定期的に退治しないと、女子供や旅人が襲われて殺される事があるのだ。特に田舎の農村などでは、そう言った事態が起こりやすく、猟師と共に腕利きが雇われてまとめて退治する事が時々あった。
武蔵の国の山深い村で、五郎左が雇われたのも、そんな野犬狩りのためであった。
狩りと言っても、それは当然組織的な物になる。猟犬を沢山使い、大勢で声を張り上げて、獲物を山から追い立てるのだ。そして飛び出してきた所を、待ち伏せしていた猛者達が猟犬や罠などの手伝いも借りて仕留める。五郎左が配置されたのは待ち伏せ側で、彼以外にも素性が知れない者が何人もそこにはいた。
其処まで話し終えると、もう酒が無くなってしまった。必然的に、話へ重点が移る事になる。意識が曖昧になるほど飲んではいなかったから、当時の事をありありと思い出す事が出来、詳細な返事が可能であった。
「何人くらい来ていたの?」
「丁度いい小遣い稼ぎになると思ったのであろう、二十人は来ておった」
その日退治しようとする群れは、一月ほど前から素行が悪化し、十人以上が犠牲になっていた。最近では悪行留まる事を知らず、近隣の村で噂にならぬ日はないほどであった。そして連中が畑近くまで降りてきて、遊んでいた子供三人を喰い殺すにいたって、ついに奉行所が大捕物に動き出したのである。兎に角急な話であったから、奉行所も人選に時間は掛けず、ただし人数は充分に備えた。山を地元の猟師と相談しながら完全に包囲し、狩りは始まった。
野犬は動物の中ではかなり頭がよいが、それでも人間に比べてしまうと数枚劣る。勢子によって山を追い出され、一頭一頭飛び出してきては、罠にかかったり、猟犬によって喰い殺されていった。待ち伏せ側の人員が出るまでもなく、酒を捕りだして飲み始める者まで出始める始末だった。そして、それが被害を増やす要因となった。
猟犬の悲鳴が響き渡り、何事かと慌てる人間共に、藪から野犬が躍りかかったのである。いずれもかなり大きく、毛並みも良い。何より人間を怖れていない。涎をまき散らし、歯を向いて迫ってくる野犬の群に、待ち伏せていたはずの人間達は機先を制され、酒を飲んでいた侍は瞬く間に地面に押し倒されて喉を喰いきられた。
「おのれえええっ!」
五郎左の隣にいた侍が顔を真っ赤にして刀を抜き、飛びついてきた野犬を斬り伏せる。だが悲鳴を上げて地面に転がる仲間には見向きもせず、数頭一度に野犬は人間に飛びつき、足に噛みつき、喉を狙い、襲いかかった。五郎左も冷静に刀を抜くと、滑るように足を運んで、次々に目に付く犬を斬っていった。それに続いて他の者達も反撃を開始し、数人を失いながらも、刀を振るって殺戮を始めた。もともと個対個の戦いでは、武器を持っている人間にアドバンテージがある。そうなると、じりじり野犬は押されていき、新しく投入された猟犬も加わって殆ど一方的な戦いになっていった。
その戦いの中、五郎左は見た。混乱に紛れて包囲を悠々と抜けていく、秋田犬ほどあろうかという、大きな野犬の姿を。本能的に危険な相手だと悟った五郎左は、飛びついてきた野犬の頭頂部を無造作にたたき割ると、戦況が人間有利から殲滅戦に移行していくのを見届け、大きな野犬を追った。
犬の足は速いが、五郎左も鍛えているし、すぐには離されない。しばし追いかけっこが続き、気が付いた時には山一つを越えていた。狩りの物音は遠くになり、それ自体も明らかに小さくなっている。死者は出したが、人間側が勝ったのだ。ゆっくり振り向く野犬は、うなり声も上げず、尻尾も下げない。改めてみると、毛並みも良いし、体格も優れている。上段に構えながら、五郎左は人に話しかけるように、野犬に言った。
「群れを見捨てて逃げるとは、情けない輩だな」
野犬はじっと五郎左を見ている。その瞳には卑屈もなく、感慨もない。言葉は通じているはずだと思いながら、五郎左は続ける。五郎左は分かっていた。自分が単純に、正義を盾に暴力を振るいたいだけなのだと。
向かい合う五郎左と野犬。しばしの睨み合いは、五郎左の一撃によって崩れた。
「せえええええいっ!」
人斬りを離れてから、しばし振るう事のなかった刀。それを正義に後押しされた暴力で、相手に向けられる。その歓喜が確かにあった。五郎左はそれに酔っていた。雷の速さで振り下ろされた刀を、野犬は素早く横に飛び退く事によってかわす。それどころか、逆に刀が落ちきった瞬間を狙い、喉を狙って食いついてきた。五郎左は態勢を流しつつ、伸び上がるように刀を振るい上げ、刀身ではなく腕を使って野犬を跳ね上げる。だが犬も地面に落ちながら屈せず、強靱な肉のバネによって作り上げられた全身を伸縮させ、今度は足下を狙って食らいついてきた。鋭い刃が五郎左の臑に食い込み、眉をひそめながらも浪人は刀を逆手に持ち替えて敵の脳天へ振り下ろす。一瞬早く野犬は避けたが、肩から足にかけて刃が鋭く切り抜いていた。犬の悲鳴が上がった。
犬は大きく息を付いていて、五郎左も片膝を着いている。骨は折れていなかったが、牙は深く食い込んでいて、走るのは無理だ。思わず舌なめずりしたのは、楽しくて仕方がないからだ。もう人斬りをする気はないが、それにしても力量が接近した相手との戦いはやはり楽しい。正義という最強の盾によって正当化された暴力も、また実に心地良い。今戦ってみてよく分かったが、大型の犬は強い。反応速度が違うし、筋力自体も並の人間以上だ。
「次で仕留めてやる……卑怯者」
何とか体を起こした五郎左は、低い態勢で構えている野犬に、凶暴な欲求が混じった罵声を浴びせた。白刃でその頭を叩ききる夢想で五郎左の全身はぞくぞくしたが、残念ながら相手はそれに乗ってはくれなかった。五郎左が足を痛めているのを見ると、ついときびすを返し、藪の中に消えていったのである。
「ま、待て! 逃げるな卑怯者!」
罵りは相手には届かなかった。苛立ちのあまり、五郎左は周囲の藪を、力任せに斬り払っていた。
「それで、どうしたの?」
「うむ。 渋々ながら持ち場に戻った儂は、反撃の糸口を掴んだと言う事で、少し割増の報酬を貰った。 何人か死者も出る大騒動にはなったが、それでも近隣を荒らし回っていた野犬共は一掃出来たし、奉行所の面目も立ったからな」
五郎左の口調が苦いのは、後になって思ってみれば、如何に自分が狂剣を振るっていたか明かであるからだ。人生は全てが是勉強だと、今でも五郎左は思う。少し昔でさえ、恥じ入りたくなるような事が多くあるからだ。無論、今でも。
村は恐怖から開放され、祭りのような騒ぎであった。村長の家に招待された五郎左は、質素ながらも心がこもった料理にて歓待され、十二分に満足していた。山菜を多く取り入れた料理はいずれも良く工夫されていて、味付けも丁寧であり、ここ数年で食べた物の中で一番美味しかった。足の傷の手当を受けながら、五郎左は村人と話をし、やがて先ほど取り逃がした犬の話になった。
「なかなか逃げ足の早い奴でな、手傷は負わせたがつい取り逃がしてしまった」
「お侍様、それの特徴をもう一度言って貰えやせんでしょうか」
「うむ? 秋田犬のようにでかい奴で、黒みがかかった茶色の毛並みで、吠えも唸りもしない不思議な奴であったな。 斬りつけるまで、悲鳴の一つも聞けなかったわ」
村人達がざわつき、怯えの混じった視線を交わし会う。振舞酒を呷りながら、五郎左は言う。
「どうした。 どちらにしても、手負い一匹では何も出来まい」
「そうではありやせん。 それはきっと太助でさ」
「ほう? 野犬に名を付けているのか?」
「太助は別格でさ。 あいつは他の野犬と違って、里に下りてくる事もなければ、人を襲う事もなく、むしろ野犬に襲われた人を助けてくれたりもした奴でさ。 むげえ事をしたもんだ。 土地のもんは、彼奴の事を犬神様じゃねえかと噂していたりもしたんだ」
「まさか、そんな野犬が居るわけあるまい」
そういってからからと笑った五郎左であったが、言われてみれば犬とは思えぬほど落ち着いた、気味の悪い奴であった。釈然としないものを感じながら寝所に移った五郎左は、傷が治るまでの数日間、歯の奥に物が挟まったような感触を味わい続けていた。
傷が癒えてからは、五郎左は江戸に向かう事にした。働きが認められて手形は発行して貰っていたし、ある程度の生活費と旅費も稼げていたからだ。特に感慨もなく村を出たその矢先、彼は不思議な童にあった。
大きな鞠を抱えた童であった。貧しい身なりながら、何処か周囲の童とは違った。道の脇に座っていたその童は、通り過ぎようとする五郎左に、非難の視線を向けながら言った。
「あんたが、太助を斬ったの?」
「む? 確かにそうだが、それがどうかしたのかな?」
「……太助、痛がっていたよ」
「はははは、まるで会ってきたかのような言葉だな」
童は何も応えず、五郎左の行く方へ歩き出した。相当に山慣れしていて、どれだけ歩いても、まるで歩調を乱さない。五郎左が止まると背中に目がついているように童も止まり、歩き出すと振り向きもせずに歩き始める。道中、童は五郎左の方を見もせずに言う。
「太助は野犬の群とは関係ない。 一度も彼奴らに加わる事はなかったし、逆に人間に近づく事もなかったんだ」
「珍しい犬だな」
「太助はきっと戦おうとはしなかったはずだ。 何で斬ったんだ」
「そんな事情、儂が知るはずも無かろう。 第一童、貴様の言葉だって怪しいものだ」
飄々と応えながらも、確かにその通りであった事を五郎左は感じていた。言われてみれば、群れ意識が強い犬が、仲間を囮にさっさと逃げられるものなのであろうか。老練な犬であればそれくらいするかもしれないが、あの犬は若く、気力も充分だった。
童が不意に道を変えた。放っておこうかと五郎左は一瞬自問したが、頭を掻きながら着いていく事に決めた。
山道を歩いていくと、大きな椚の木が見えてきた。鞠を地面に置くと、童は猿か何かのように器用にそれをのぼり、太い枝の上に乗った。そしておもむろに手を翳し、周囲を見回し始める。童が降りてくるまでそう時間は掛からず、鞠を再度拾い上げると、また歩き出す。切り立った崖に出て、五郎左は見た。童が見上げるその先に、昨日の野犬が居る所を。
野犬は、太助は四つ足で床を踏みしめ、じっと遠くを見ていた。怪我の痕は生々しく毛皮に食い込み、遠目でも明らかに残っている。犬はちらりと此方を見たが、別に感慨を示すでもなく、追われた山の方を見ていた。無論尻尾も振らず、鳴き声も上げない。
「友達と言うには、冷淡な態度だな、童」
「あたしはあくまで、側に居る事を許可されただけ。 彼奴はほとんど誰も寄せ付けないし、誰にも近づかない。 手当てするのだって、やっとさせてもらったくらいなんだ」
「儂にはわからぬ」
「……彼奴は、そういう奴なんだ」
童に習って、五郎左は太助を見上げた。相変わらず太助は、身動き一つしなかった。吠えもせず、尻尾を振りもしないのに、絶大なる存在感を周囲に示しながら。
「儂を恨んでおろうな」
「彼奴に、そう言う考えはないよ。 ただ斬られて痛かった、それだけだよ」
「珍しい犬だな」
どうも童の言う事は本当らしい。ただ立ち、遠くを見やる太助を見た五郎左は、打ちのめされながらそう思っていた。
太助という犬は、何か超越した雰囲気を持っていた。五郎左はその内部から発する理解しがたい物を掴みきれず、困惑するばかりであった。
別に逃げるでもなく、太助という犬はそのまま森の奥へと消えていった。
「ねえねえ、それからどうなったの?」
「うん? 流石に今晩は此処までだ。 もう遅いし、帰りなさい」
不満そうなまつを帰らせると、五郎左は満月を見上げて、当時の事にもう一度思いを寄せた。美しい思い出でもないが、確かに彼の価値観が変わった瞬間であった。そう言う意味では、太助は確かに恩人であった。
3,仕官
翌朝。寝ぼけまなこで起きてきた五郎左は、庭の隅に太助が寝転がっているのを見た。五郎左が庭に降りてくると、太助は無言で侍を見やり、ついと背を向ける。何か声を掛けようとする五郎左の前で、視界の隅から猛然と走り来た小さな影が犬に飛びついた。
「た、す、け、ちゃーん!」
凄く嫌そうな顔をする太助に飛びついて頬ずりするつる。太助は尻尾など無論振らず、吠えるでも唸るでもなく、しばし嫌そうにつるをまとわりつかせていた。つるは太助を実の兄以上に慕っていて、見つけると燕も真っ青な速さで飛んでくるのだ。五郎左は井戸から水を汲んでくると、冷たいそれを呷りながら、時刻を知らせる鐘の音を聞いた。
「いかんいかん、もうこんな時間か」
「せんせい、おでかけ?」
「うむ。 今日は道場に呼ばれていてな」
寺子屋の給金だけでは喰っていけないから、五郎左は(伊崎一刀流)という強そうな名前の流派道場で師範代をしている。道場主の伊崎弥左衛門が老齢で弟子達を導けなくなり、腕の立つ五郎左が雇われたのである。というわけで、五郎左は便宜上流派を聞かれると、(伊崎一刀流)である事を告げるようにしている。実際に彼は殆ど実戦で剣技を磨き上げたのだ。拘っているような師匠もいないし、流派などどうでも良い事であった。剣が振るえ、精神疲労を発散し、あるいは精神修養が出来ればそれで良かったのである。
長屋を出て、寺子屋とは逆の方に出る。どうやってかつるの魔の手から抜け出して、太助は今日も着いてくる。道場までの道程にて時々振り向いたりもするが、全く素っ気ない太助は視線も合わせてくれない。それでいて、側にいる事が不思議と心地よいのだから、妙な話であった。逆に言うと、その辺に太助が無音で居ないと、何処か気分が落ち着かない事さえある。道場に五郎左が入ると、太助は側の老木に寝っ転がり、暫くそこで横になっている。時々五郎左の方は見ているのだが、五郎左が見るといつものように視線を逸らしてしまう。
(伊崎一刀流)は江戸城下に三十人ほどの弟子を抱えている。規模としては中堅で、五郎左のように雇われた師範代も他に何名か居る。一応現在の師範は弥左衛門の息子だが、彼は人望も実力もない。今でも道場を切り盛りしているのは弥左衛門で、彼の死後伊崎一刀流は滅ぶのではないかと噂されていた。地方ではこういった剣術流派は派閥を作って、大手の流派は我が物顔に街をのし歩く事も珍しくないのだが、伊崎一刀流程度の道場ではそんな事も出来ない。
板張りの道場は、今日稽古に来た二十人ほどの弟子を受け入れて、かなり狭い。まず正座して精神集中すると、上座についた五郎左は言った。
「稽古始め」
「稽古、始め!」
弟子達が唱和し、おもむろに立ち上がると、基礎の型に従って剣を振り始めた。
伊崎一刀流の道場稽古は型を学ぶ物と、木刀と刃を引いた訓練刀での模擬戦が中心となる。刃を引いていても訓練刀は危険なので、型稽古が中心になるのだが、これは極めないと全く意味がない。達人になれば究極の高みへ到達出来るのだが、中途半端な代物は軽業師の曲芸にも及ばないとある剣豪が揶揄したほどである。剣術の基礎を知っている上に、実戦経験者である五郎左はそれがよく分かる。何人か並ばせて型を学ばせながら、変に力がかかっている所や、逆に力が足りない所を指導して直していく。そうしないと、怪我をしかねないからである。
竹刀が出回るまでは、剣術の訓練はこういった型を学ぶ物が中心であり、実戦稽古がしづらい為、達人と素人の差が非常に大きな物であった。(伊崎一刀流)では、流行りになりつつある竹刀での訓練を頑なに拒み、未だに型稽古を主軸にしているが、五郎左はこれを決して良しとしては居ない。ただ、竹刀と刀は重さも使い心地も全く異なるから、竹刀が絶対的によい、というわけではないのだが。個人的な嗜好として、五郎左自身も、あまり竹刀は好いてはいなかった。手にした時の重みと、相手を斬る際の重みが無いからである。良い事悪い事は別にして、五郎左自身は、やはり人を斬る際の感触が嫌いではなかった。人を斬る事自体は、今では嫌いなのだから、勝手な物である。結局の所、五郎左は自身は竹刀が嫌いなのに、剣術を上達させるにはそれが有効である事を認めていた。
床を踏む音、木刀を振り下ろす音が道場に規則正しく響き、かけ声が周囲にまで届く。此処は武士の世界である。だが同時に、平和な時代の武士の世界だった。
まつはこの道場に頼まれて、時々何人かの娘と一緒に炊き出しをしている。差し入れのにぎりめしを頬張りながら、弟子の一人が五郎左の隣に座った。細く背の高い男だ。特に手足はすらりと長く、体格的には非常に恵まれている。筋も良いのだが、しかし少し優しすぎて、刀を振るうには決定的に向かない優男である。
「柿崎師範代」
「うん? どうした」
「師範代は、人を斬った事がありますか?」
「知らぬ方がよいだろうな。 そんな事よりも、早く喰え。 強くなるには、まずその細い体に肉を付ける事だ」
人斬り時代の事は、はっきり言って思い出したくもない。しかし忘れてしまっては絶対に行けない事だから、今でも腰に、当時を思い出せるよう、略奪した刀を差しているのだ。
「はい、気をつけます」
「うむ。 それよりも、どうして唐突にかような事を聞くのだ」
「実は、以前から皆で噂をしていたのです。 何処の道場でも先生のような殺気をもって向かってくる方は見た事がない、という話になりまして。 はい」
(斬り捨て御免)という制度があった事もあり、敵討ちが制度として認められていた時代でもある。人殺しが即座に重犯罪に結びつかない状況もあり得る時代なのだ。ただし、久しく平和が続いた現在、人を斬った事がある侍は極端に数を減らしている。考えてみれば、馬に乗った事がない侍すら珍しくない状況である。殆どの侍が人を斬った事がないのも、当然であると言えた。
「一つ、言っておくとすれば」
「はい、何でしょう」
「お主の場合、人を斬ったら却って弱くなるだろうな。 一生その罪悪感に苦しめられ、何を食べても血の味がするようになるだろう。 恐らく、心が数年と持つまい」
対人戦で、他人の命を一切考慮しない精神状態になれば、それは確かに有利だ。感覚が麻痺してしまっている状態とも言えるが、そうでない者より躊躇が無くなるし、相手を一切思いやらずに叩きのめす者が喧嘩に強いのは昔からの鉄則だ。ただし基本的な性質が理性的であればあるほど、そんな状態には耐えられまい。五郎左が言ったのはそう言う事であった。
五郎左が人斬りをやめた理由は、本能に関係がない。理性による行動であった。彼が金を貰い、何の感慨もなく斬った相手の亡骸に、翌朝子供がすがりついて泣いていた。それを見てからというもの、彼はどうしても人斬りに嫌悪感がわき、それを続ける気にはなれなくなったのだ。精神面で限界が来たわけではない。実際問題、体の方は今でも人を斬る感触を求めている。しかし彼自身の理性が、それを許しはしなかったのである。
黙り込んだ弟子には構わず、午後の稽古を始める。小さな道場だからという事もあるのだが、これという人材は居ない。夕刻まで様にならない型稽古を続けた後、本日の修行は終わりとなった。リスクが大きい組み手は、毎日はやらないのである。皆疲れ果てていて、ようやく終わったと表情で言いながら帰宅していく。軟弱な事だが、別に五郎左は今時の若い者はどうこうなどとは思わない。彼が若い頃も、そう状況に大差はなかったからである。
道場から外に出ると、手ぬぐいを用意して、まつが待ってくれていた。太助を捜して周囲を見やると、帰り道の途中の道に、ぽつんとかの犬が丸まっている。
「お疲れさま、先生」
「いや、さほど疲れるような事はしていないさ」
「それにしても、無愛想な犬ね。 主人が仕事終わったって言うのに」
「ははは、そうさな」
帰り道が一緒と言う事で、そのまま二人して帰途に就く。太助は暫くその様を見送った後、定距離を置いて着いてきた。振り向くと、そのタイミングを計ったかのように視線をずらしているのは、なかなかに凄い。五郎左の性質を良く知っていないと出来ない事だ。
「昨日の話の続き、聞かせて貰える?」
「そうさな、それでは湯浴みをした後にでも、酌をして貰いながら、だな」
「え? お酒代、大丈夫?」
無言で財布を漁った五郎左は、暫くは酒を控えた方がよい事を悟った。
銭湯で一風呂浴び、長屋に戻ってきた五郎左は、縁側に座っている見慣れぬ侍の姿を見て足を止めた。顎の四角い如何にも硬そうな男で、動きからそれなりの使い手だとは一目で分かる。長屋の住人達は遠目に侍を見ていて、つるなどは太助に抱きついて怯えきっている。見るからに高級そうな羽織を着込んだ侍は、供二人と一緒に茶にしながら、誰かを待っているようであった。
五平が様子をうかがう五郎左に気付き、手招きした。
「先生、先生」
「五平、どうした?」
「へへへ、今日はいい鰺が入りましてさ。 先生もお一つ……と、そうじゃねえ。 あのお侍方、先生を捜しに来たそうでさ」
眉をひそめた五郎左。彼には別に感慨もなければ恐怖もない。若い時分に様々な悪事を働いたのは事実で、それを裁かれるのは仕方がない事だとずっと前から覚悟を決めていたからである。
「先生、何かしなすったんで?」
「さてな。 ただ何にしても、長屋の皆には迷惑を掛けぬから、安心して良いぞ」
五郎左は進み出る。縁側に座っていた侍は、湯飲みを置くと、おもむろに立ち上がった。一瞬の緊張が走るが、相手には戦意も殺気もない。大体、捕り物ならもっと大人数を連れてくるはずだ。
「柿崎五郎左景晴だな」
「如何様にも」
「儂は幕府の役人、石山四郎次郎永継という。 早速だが、汝に仕官の声がかかっておる」
そういって、石山は懐から書状を取りだした。無言で受け取る五郎左に、石山は笑いもせずに言った。
「断るにしても受けるにしても、必ず江戸城に顔を出すようにな」
「はっ」
「うむ。 ……では、城でまた会おう」
侍は急ぐでもなく去っていき、小さく嘆息した五郎左は考え込んだ。仕官の話が来るとは、意外であった。現将軍は武術の振興に熱心だと聞くが、まさか、特に免許皆伝を持っているわけでもない自分に、そんな話が来るとは考えても居なかった。
「先生、どうするんで?」
「……そうさな、まずは書状を見てから、だな」
そう言いつつも、五郎左は胃の辺りに軽い痛みを覚えていた。
この年まで、五郎左が仕官をしなかったのには、色々理由がある。勿論その一つは職そのものが見付からなかったと言う事だ。そしてもう一つは、他者に仕えるという事が、どうもぴんと来なかったのである。
書状は極丁寧に書かれていて、好感が持てる内容だった。五郎左の剣の腕前を客観的に評価し、城中で腕がなまっている侍達を指導して欲しいと記してある。給与も決して悪くない。下級の旗本くらいの給与であり、多少米の相場が変動しても喰うには困らない。
だがその一方で、仕官すると言う事は、犬となる事をも意味している。嫌な奴にも頭を下げなくてはならないし、おべんちゃらを使わねばならない。生きていく為に誰もがやっている事なのだが、どうしてもそれを五郎左はしたくなかった。彼は独立不羈の精神を持っていて、それによって自らを鍛えもしたし、堕落から立ち直りもした。だが現実問題、このままでは所帯を持つ事も出来ないし、いずれ職を失えば餓死する可能性も否定は出来ない。金は決してバカにした存在ではない。それに魂を売るのは無論言語道断だが、金を馬鹿にする者は社会の中では生きていけないのだ。それに、金が無くなったら、最悪また人斬りなどに手を染めねばならぬ可能性も出てくる。それだけは、断じて避けたかった。社会内部で独立不羈を貫くには、ある程度の金がいる。金は労働をするか、盗まねば手に入らない。どちらも大きな束縛を生む行為であり、二律背反の見本であった。まして仕官というのは、恒常的な金の入手と、恒常的な束縛を同時に意味する行為なのである。
五郎左は何度も空の徳利に手を伸ばし、その度に憮然として頬杖を着いた。酒を飲んで現実逃避したいのだが、そうも行かない事を理性が止めるからだ。仕官することを決め、その給料をあてにすれば、酒代くらいはどうにか出来る。しかし今、現実逃避する事は、独立不羈を自認する彼のプライドが許さなかった。
庭に出る。太助が木の側で丸くなり、つるとまつの家の方を見ていた。物凄く嫌そうな顔をしても、つるの事を結構太助が気にしている事を、五郎左は知っている。刀を抜くと、五郎左は素振りを始めた。ひゅう、ひゅうと刃が鳴く。人を斬る感触を思い出しながら、五郎左は刀を振る。切り下ろし、巻き上げ、突き込み、捻り上げ、叩き込む。その度に、かって斬った人間が白目を剥き、或いは絶息し、血をまき散らしながら倒れていく。
心が酔う。血の臭いは、現役から離れてしまっても、確かに香ばしい。しかしそれは、危険すぎる薫りだった。
「相変わらず、本質的には人斬りなんだな。 あんたは」
「いづなか」
汗を拭い振り向くと、屋根に江戸ではあまり見かけない猟師服を着込んだ娘が座っていた。体つきはすっかり大人のものだが、まだ顔には幼さが残り、大きな瞳が刺すように周囲を見据えている。
太助を斬った五郎左を非難した時と、外面は大きく変わったが、内面は殆ど変わっていないいづな。紆余曲折の末、江戸に流れてきて、今は江戸の端で猟師をしている。兎や鹿をとって生計を立てているとかで、腕前の方は五郎左も時折耳に挟んでいるが、孤独性が強く太助にも滅多に会いに来ない。少なくとも、五郎左の知る範囲ではあまり会っては居ない。身軽に屋根から降りると、太助に歩み寄り、念入りに毛並みを調べ始める。そして蚤を一匹二匹と取りながら、五郎左に目も向けずに言った。
「で、何を荒れているんだ、そんなに」
「お前には関係ない事だ」
「関係あるさ。 お前なんかどうなろうと知った事じゃないけど、太助が八つ当たりでもされたらたまらないからな」
蚤をまた取り除くと、いづなは太助に向きを変えるように促す。尻尾を振りはしないが、感謝はしている様子で、大きな犬は向きを変えた。ごろんと寝転がった太助の蚤をもう一つ二つと捕りながら、いづなは続ける。無理矢理触りたがるつるをのぞけば、此処まで太助に接近出来るのは彼女だけだ。
「全く太助も、何でこんな奴についていったんだか」
「まるで、不良息子の素行を咎める母親だな」
「あたしと太助は姉弟も同然だ。 心配して何が悪い。 それに、いまでもあたしは、あんたの事を認めているわけじゃあないんだ」
太助が彼女の側を離れた時と同じ視線で、いづなは五郎左を刺した。やがて無言のままいづなは帰っていき、代わりに別の人の声がした。
「先生、今の誰?」
「ん? おお、まつか」
何故か機嫌が悪そうなまつは、手に徳利を提げていた。彼女の家は働き者の父のおかげで、それなりに生活に余裕がある。それを知った上で、五郎左は有り難く心遣いを頂戴した。
五郎左が酒を口に運び始めると、丸まって欠伸をしていた太助は、勝手にしろとばかり夜闇に消えていった。その後ろ姿を見送りながら、まつは言う。
「で、あの人、誰?」
応えないと殺されそうだったので、苦笑しながら五郎左は以前の話の続きを始めた。
不思議な童はいづなと名乗ると、五郎左を山小屋に案内した。山小屋は猟師の父から譲り受けたもので、今では彼女一人で切り盛りしているのだという。狭い小屋であったが、壁にはよく手入れされた弓矢が掛けられ、床には月の輪熊の皮が敷かれていた。小屋の外には何頭か猟犬がつながれていて、五郎左に激しく吠え立てたが、いづながひとにらみするだけで静かになった。
「良くしつけているな」
「あたしがみんな育てたんだ。 しつけてるのは当然だ」
狩りの正否は猟犬の出来で大きく左右される。ただ、いづなという童が醸し出す雰囲気は、何処かそれ以上の強制力があった。
いろりを挟んで向かいに座ると、無言のまま彼女は、棒に刺した兎の肉を五郎左に着きだした。良く焼けていて、いい匂いがしてくる。
「喰え」
「頂こうか」
交わされる会話も最小限であった。良くしつけられた猟犬たちは遠吠えもせず、小屋の外からは殆ど物音もしない。沈滞した泥沼の底のように、沈黙は小屋を包んでいたが、やがていづなが肉に手を伸ばしながら言った。
「やっぱり分からない」
「何がだ?」
「太助はあんたを嫌っていない。 あんたは全身から人斬りの匂いがするのに。 あんたに斬られたっていうのに」
「それは儂にもよく分からぬ」
事実、五郎左は太助を斬る事を楽しんでいた。尋常な感覚の持ち主であれば、一生近寄ろうとは思わないであろう。だがあの変わった犬は、五郎左を嫌っていないと言う。そしてどうしてか、この童の言葉には、有無を言わせぬ説得力があった。
「もう、太助に刃を向けない?」
「状況次第だな。 斬る必要がなければ、刃を向ける理由がない」
「そうじゃない。 あんたが太助を斬りたくなるんじゃないか、っていってるんだ」
「……大丈夫だ。 それに関しては、恐らく無いだろう。 そうなったとしても、気力で押さえ込む」
少し斜に構えて、いづなは五郎左を見ていた。やがて大きく嘆息すると、子供らしからぬ童は立ち上がり、窓まで歩いていって外を見る。何か見えたらしく、口の中で何か呟きながら、窓板を降ろした。
「……多分、太助はこれからあんたに着いていくと思う」
「何故そう思う?」
「人斬りの割りには感覚が鈍いんだな。 ずっとあいつ、定距離を置いてあんたを追ってきてる」
その時、流石にそれは冗談だと、五郎左は思った。冗談ではないと知ったのは、武蔵の国を離れて、しばししてからの事だった。江戸で五郎左は太助を見た。傷は完治していて、以前と同じように、何にも怖じず、何にも媚びず、吠えも尻尾を振りもせず。ただ無音のまま、五郎左を見ていた。人が行き交う中、五郎左と太助の居る所だけ、空間が切り取られたかのようだった。五郎左が視線を向けると、太助はついと視線を逸らした。そしてそれ以来、ずっと不思議な関係は続いていた。
無論人斬り云々の所をぼかして五郎左が語り終えると、すっかり満足した様子で、まつは機嫌を直していた。
「へえ、太助って、不思議な犬なのね」
「今でも、分からない事は多い。 何故儂に着いてきているのか、ただじっと側にいるのか」
「不思議な距離感ね。 でも、何処か素敵」
もう酒はなくなっていた。名残惜しげに徳利を振って、小さく嘆息した五郎左は、空を見上げた。
「……明日は満月か」
雲一つ無い夜の空に、真円まで後一歩の、黄色い月が浮かんでいた。
4,犬の魂
まつを帰した後、夜中まで五郎左は考えていたが、どうしても結論は出なかった。理性で考えれば、これほどいい話は他にないとよく分かるし、名誉な事だとも思う。上杉家に忠誠を尽くす義理が彼にはない以上、武士として主君とすべきは征夷大将軍だ。その将軍が統括する幕府から仕官の声があったのだから、喜んで従うべきなのである。
だが、体の方は未だ納得していない。やはり仕官し、拘束され、束縛される事に、どうしようもない不安感と嫌悪感が働くのだ。過去の悪事が露呈した時の覚悟はとうに出来ている。だが、現在の自分が大きく損なわれる事に対しては、どうしても恐怖が働くのだった。
仕官の返事をしなければならないのは翌日である。いつものように寺子屋に行き、子供達に勉学を教えている際も、何処か五郎左は上の空だった。かめが心配して何か言ったようだが、五郎左の耳には届かなかった。
あっという間に夜が来て、外に出た五郎左は無意識的に空を見上げた。そこには満月があった。
五郎左は、太助と隣り合い、満月を見た。そして決意していた。
決断の日は、結局先延ばしされる事もなく、無情なまでに確実にやってきた。奮発して借りてきた正装を引っ張り出すと、四苦八苦しながら身につけ、身支度を終えて、五郎左は外に出る。太助は何とか旗本くらいに見える五郎左を見上げると、ふんと小さく鼻を鳴らし、退屈そうに丸まってしまった。
「先生、おはよう」
「おはよう。 今日も早いな」
「うん、まあね。 その格好、いよいよお城に行って来るの?」
無言で頷く五郎左に、まつはつると一緒に、弁当だと言ってにぎりめしを出してくれた。いそいそとわらじを履く五郎左に、まつは少し目を伏せながら言う。その腰の辺りには、つるが悲しそうにすがりついていた。
「大丈夫? 先生」
「ああ、まあ、な。 昨晩、もう決めたからな」
「仕官するの?」
「ああ。 だが屋敷が与えられるわけではないから、まだ当分長屋にいるつもりだ」
手を振る長屋の者達に礼をすると、五郎左は江戸城に向けて歩き始めた。
太助は相変わらず着いてくる。今まで特に考える事も無かったのだが、距離の取り方がとても上手いと五郎左は思う。
邪魔にならず、遠すぎもせず。不思議な距離を保っていつもいる太助。ずっと分かっていたはずなのに、どうしてか気付かなかったが、五郎左は今になってやっと思う。犬の中にも、こんな変わり種が居るのである。犬として使われる事に、何の問題があろうか。飼い慣らされた犬ではなく、太助のように不思議な距離感を持ち続けられれば、それで良いのではないかと。
犬には犬なりの誇り高い魂があるのだ。そしてそれには、無数の種類があるのだ。
通り道の側の木に、いづなが背中を預けていた。五郎左は行こうとしたが、いづなは背中を木から離して、頭頂部からつま先まで眺めた後に言った。
「随分すっきりしてるけど、結論出たの?」
「出た。 心配を掛けたな」
「ああ、太助の事を大いに心配したよ。 だがそれなら、もう大丈夫そうだな」
「……心配を掛けたな」
五郎左は言うと、いずなに見送られながら、江戸城への道を急いだ。太助と一緒にではなく、離れるでもなく、不思議な距離を保ちながら。ずっといずなはそれを見送っていたが、やがて何処ともなく消えていった。
江戸城を見上げながら、感慨を覚えた五郎左は言う。
「太助。 色々とお前には教えられた気がする」
無論太助は応えない。尻尾も振らない。
「お前の言葉無き言葉から、儂は大いに学ばせて貰った。 ……行って来る」
門番に書状を見せて、江戸城の城門を潜る。太助は追ってこない。門の側の木の傍らに丸くなり、身動き一つしなくなる。だが、それでいいのである。
案内の武士に、奥へと通される。廊下を歩いている時に、五郎左は足を止めた。遠くから、犬の遠吠えが聞こえる。それが何だか、どうしてか五郎左にはすぐ分かった。
それは太助の、初めて聞く声だった。
そしてそれが、激励のものだと、五郎左は確信する事が出来たのであった。
「うん? どうしましたかな?」
「いや、何でもありませぬ」
不覚にも声をうわずらせ、五郎左は僅かばかり俯いていた。
彼は犬となるべく、江戸城の奥へと歩いていった。
(終)
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