ビターキャンディアフタヌーン

 

序、光り輝く場所

 

武蔵野コンサートホールでは、初春だというのに、季節外れの熱気が渦巻いていた。

ホール中央には、スポットライトから光を浴びる一つの影。その周囲には、万を超える観衆。

大音量で轟き渡るバックミュージックと、乱舞する光に体をなめ回されながら、甘い声で歌う人影。大熱狂の中、その人影だけを見るためだけに、この大群衆は集まっているのだ。

アイドル、星川遥(ほしかわはるか)のコンサートである。

日本には宗教がないことを不思議がる者がいると聞く。そう言う者達は、野球やアイドルのコンサートに足を運ぶと、必ず疑問を呈するという。これが彼らの宗教なのではないかと。

違う。

これには宗教と違って、持続性がない。

アイドルはチューインガムだ。華やかな容姿と甘い味。何よりも、その惹きつけるような魅力。だから最初は熱狂を誘うが、飽きられると吐き捨てられてしまう。アイドルである以上、それに例外はない。だから、誰もがアイドルを「卒業」するのだ。

星川遥も、その例外には漏れないのだ。

だから、彼女も、いずれアイドルとして果てる。

群衆の中で、一人醒めた男が、そう呟いた。

彼は見かけ、まだ二十歳そこそこになったばかり。だが、奥歯までむき出して絶叫する周囲を冷静に観察しながら佇むその様子は、とても同年代の人間とは思えない。

一曲が終了した。ひらひらと薄い布地をひらめかせて躍っていた星川は、全身に汗を掻きながらも、疲弊した雰囲気がない。アイドルは体力のいる仕事だ。だから、二曲や三曲をこなしたくらいでへばっていては、とてもやっていけないのだ。

スポットライトだけが当たり、音楽が止むと、不意に静寂が訪れる。なめ回すような視線が集まりすぎて、火を噴きそうな中。その焦点にいる遥は、マイクに対して静かに声を吹き込んだ。

「みなさーん、今日は遥のために集まってくれて、ありがとー!」

大観衆から喚声があがる。

十七才の遥の、すらりと伸びた手足と、それ以上に大きな目が特徴的なルックスは、それ以上に特徴的な声で引き立てられている。甘くて、しかしそれでいながら媚びていない、年頃の女の子らしい声が、周囲の全てを惹きつける。

洗脳を誘うかのようだと、彼女のアンチファンは言うことがある。だが、このコンサート会場には、女性のファンも大勢駆けつけている。彼女が性欲を誘うルックスや、洗脳的な声「だけ」で客を惹きつけていないことは、満遍無いファン層を見るだけで明らかだ。

「今日は、最後に、遥から重要な発表があります!」

 不意に、観衆に不安が漂う。だが、それが頂点に達する前に。星川は別の歌の話題に移り、バックミュージックが始まった。

しばし星川の歌う様子を見つめていた男は、携帯が震動するのに気付いて、胸ポケットから出した。

メールが来ている。

時間差で送られたものだ。送り主は、今歌っている星川遥。

内容は。仕事との別離を告げるものであった。

間もなく、最後のアイドルと言われた星川遙が引退を発表する。そう確信していた男は、感慨深く。

最後のアイドルの、最後のステージを見守っていた。

 

1、花畑の影

 

ロングコートに両手を突っ込み、歩く男の姿あり。地下鉄の駅を出て、東京の街を足早に急ぐその男は、生島誠也という。彼が足を止めたのは、ショーウィンドウにでかでかと張り出された、アイドルのポスターがあったからだ。

躍動的なポーズを取って、マイクを握る、まばゆいばかりの生気を放つ十代後半の女性。露出が多い服でありながら、健康的そのものな色気を振りまく、トップアイドルと呼ばれる存在。

星川遥。それが彼女の名前だ。

そして、彼女はこうも言われている。最後のアイドル、と。

歩き出す誠也は、最後のアイドルかと呟くと、少し歩調を早めていた。腹立たしいとは思わない。全くの事実だからだ。

今や、アイドルという存在は、かってと違って国民的なものではない。あらゆる意味でジャンルが分化し、他の存在に寄生することで初めて立脚しているのだ。だから、アイドルという言葉自体に立脚している存在は、もはや彼女くらいしかいないのである。

歩調を早める。昔は激怒したような言葉も、今では感慨深く流せるようになった。色々なことを経験したからだろう。

勉学も、その経験の一つにはいる。それ以外のことは、より多かった。

歌声が聞こえてくる。どうやらビルの上部に設置された巨大な街頭テレビで、星川が映っているらしい。視線を向けると、やはり星川だった。圧倒的な存在感を放つ彼女だが、しかし。

足を止めて、彼女に見入る人間はごく少数だった。

時代は変わったのである。

かって、日本には、アイドルという存在が跳梁跋扈する時代があった。

言葉自体は、決して新しいものではないし、そもそも日本語ではない。アイドルというのは偶像を示す言葉で、現在の意味で使われ始めたのも、つい最近。20世紀に入ってからの、しかも米国での話だ。

長く辛い第二次世界大戦が終わり、疲弊から立ち直った日本で。その「アイドル」が独特の進化を遂げ、やがて巨大に成長していったのは、不可思議ながらも歴史の必然であったのかも知れない。

若者達は、熱狂するための象徴を求めた。宗教は、そもそもこの国の実情にはあっていなかった。軍事は様々な意味でタブーとされてしまい、選択肢からは強制的に外された。其処で、二つの象徴が、若者達に掲げられた。

一つはスポーツ。

そして今ひとつは、文化である。

特に文化の中の音楽は、決定的な力を持っていた。

最初、若者を熱狂させたのは、世界的な破壊力をもった舶来の音楽。やがて国産の音楽のブームが一段落すると、もとより潜在能力が高い若者達のエネルギーは、生命力の強い女性へと発散先を求めていった。それは同年代の女性達に必然的に的が絞られていき、出るべくして怪物的な女性アイドルが複数出現していくこととなった。

国民的アイドル。そう呼ばれる、黎明期のアイドル達の登場である。

こうもアイドルに詳しい理由は、誠也が高校時代、近代史に興味を持ったからだ。文化の変遷は、すなわち興味の変遷。かって子供達は、野球と、アイドルに熱狂した。

やがてアイドルという巨大な怪物は、趣味の多様化に基づいて、多くのジャンルに分化していく事になる。様々な分野でのアイドルが出現し、短命化が進んでいく中。総合的に力のあるアイドルは、衰退していくこととなった。

やがて、いつのまにか。国民的アイドルという言葉は死語となっていた。

死語となった理由は簡単で、もはや過去の存在となってしまったからだ。

星川はその絶滅危惧種の、最後の生き残りである。総合的なアイドルとして知られている、今では殆ど見られなくなった存在。そして、誠也がファンとして足跡を辿っている、恐らくは最後になるかも知れないアイドルであった。

しばらく歩いている内に、目的地に着く。途中百を超えるポスターを見かけたが、興味を示している若者は少数だった。アイドルに熱狂する事自体が、既に若者達の中では、多数派の文化ではなくなりつつある良い証拠である。

目的地は、東京の端にあるコンサートホール。入り口でチケットを示して、奥へ。中には流石に、その筋の、濃そうな面々がうようよといた。飛び交う会話も濃度が高い。逆に言うと、既にアイドルは一般人の文化ではないことを、こういう所からも知ることが出来る。

「はるかたん、今日の曲目は四つだってよ。 シルキとアデ、ウィルと、後隠しでエンデもやるらしいぜ」

「マジで? そうか、三つってのはブラフだったかー。 にしてもエンデをやるっていうのはいいなあ。 生でエンデが見れるんだもんなあ」

「その情報、ガセじゃね?」

専門用語が飛び交う中、観客席に急ぐ。内部は基本的にフリーで、何処に座ろうと立とうと自由である。もっとも、コンサートが始まると、座っているファンなどいはしないが。比較的早くに着いたと言っても、既に席の前半分は埋まっていた。

がやがやと、熱気そのものが声となって周囲を覆っている。コートを脱ぐと、辺りを見回した。商売柄だ。この仕事に就職してからというもの、辺りの人間を観察する癖がついてしまっていた。

まだ真っ暗なステージは、闇の中に浮かぶようでいて、不気味であった。

昔、高校生の頃。

別のアイドルだったが、裏方をバイトで手伝ったことがある。だから、今頃裏方達は汗水垂らして必死の仕事をしているのだろうと想像がつく。もちろん、楽屋に入り込もうとする悪質なファンもいるから、そう言う連中を排除もしなければならない。体力がいる仕事なのだ。コンサートの裏方は。

やがて、開演時間が迫って来た。音楽が流され始め、ざわつきが徐々に減り始める。しばらくパンフレットに目を通していた誠也だが、それを丸めて、コートのポケットに突っ込んだ。

周囲のファン達も、誠也を白い目で見ている者が多かった。もともと老け気味の容姿の上に、嫌に落ち着いた雰囲気が、明らかに浮いているからだろう。だが、コンサートが始まると、それは関係なくなる。

やがて、鼓膜がおかしくなりそうな大音響がとどろき始め、ステージ上に星川遥が姿を見せる。

目映いほどのオーラを纏った彼女は、露出度の高い服で健康的に肌を見せびらかしながらも、あくまで媚びる様子がない。其処が、誠也の好きな所であった。

今、星川は、唯一コンサートを満員に出来るアイドルとさえ言われている。確かに周囲は超満員であり、喚声がとどろき始めていた。熱狂が狂騒に代わり始め、ホールの真下に待機している警備員達が顔を強張らせる。ああいう仕事をかってしたこともある誠也は、ただ大変だなと思った。

観衆の中には、年頃の少女も多い。今や遥は、唯一、そのファッションをもって同性を引っ張ることが出来る存在だ。彼女が着る服を話題にしない高校生の女子など存在しないと言い切っても良いだろう。

ただし、その頻度は、かっての怪物的な人気を誇った国民的アイドルに比べると、とても低いものなのだが。

まずは、一曲目が始まる。外で話していたファン達の言葉とは裏腹に。それは新曲であった。

躍動感のあるリズムで始まり、徐々にアップテンポになっていく曲。バックダンサー達が舞い踊るが、その半数は知らない顔だ。昔は、このバックダンサー達がアイドルの予備軍だったのだが、今ではそのような事もない。仮にアイドルとなるとしても、星川のような総合的なタイプになる子はいないだろう。

証明が乱舞する中、星川の歌声が、全ての聴衆に降り注ぐ。声質は若干低めなのだが、それが健康的な色気を造り出しており、狂気に近い熱気を周囲に造り出す。そのなか、誠也は静かに一人立ちつくしていた。

二曲目が終わると、汗を健康的に纏いながら、星川が観衆に手を振る。

「みんな、今日は遥のコンサートに来てくれて、ありがとー!」

爆発する喚声。それはもはや、ほとんど獣の咆吼に近い。無数の獣たちが、己の指標である遥の声と、健康的な肢体と、その体に伝う汗を目当てに、此処に集っている。誠也もその一人であることを否定はしない。

アイドルとは難儀な仕事だ。「ファン」が、自分の体や声でどんな妄想をしているか考えていたらやっていけない。

そして、そんな些細な事は。アイドルという今や絶滅しようとしているこの仕事が抱えている闇の、ほんの表層に過ぎないのだ。

軽妙なトークが終わると、二曲目が始まる。会場の熱狂は更に高まりつつあり、もはや理性を半分喪失しつつある者まで出始める。奥歯をむき出して、声援を送る無数のファン。その視線はまるで肉を求める虎だ。間違っても、我が子を愛しむ親のものではない。そんな凶暴な視線の群れに晒されながらも、遥は平然と、己の持ち歌を歌い続ける。

やがて三曲目が終わり、四曲目。そして、アンコールが入ると、エキサイトしていた会場は徐々にクールダウンしていった。

曲の合間に休憩も入るが、それにしても四時間近い長丁場だ。その間、遥はまるで疲れる様子を見せなかった。運動神経もそこそこに良いと聞いているが、そんなのは大嘘だろう。多分持久走をやらせたら、国体に食い込むくらいの実力は見せるはずだ。とんでもないタフネスである。

外で買ってきたコーラを口にしながら、冷静に誠也は遥の舞う姿を見つめていた。

ファンとして、心が躍らない訳ではない。いつも大したものだと思う。だが、不思議と、熱狂は起こらないのだ。例え相手が、この最後のアイドルと言われる女傑であっても、だ。

舞い狂うスポットライトの中で、最後のターンを遥が決めた。拍手が炸裂し、こぼれるような笑顔を見せた遥が退出していく。アナウンスが流れて、誠也は興奮冷めやらぬ観衆から離れるように、会場を後にした。

五千円払っただけのことはある、充実したコンサートだった。ふと、肩を掴まれる。少し誠也よりも背が高い男が、剣呑な顔で睨んでいた。

「てめえ、何だ。 なんであんなしらけてやがったんだ」

「……」

「遙たんのコンサート、すげえよかったじゃねえか! あんなしらけた様子で見てたら、遙たんが可哀想だろうがよおっ!」

体格は良いが、残念ながら場数の踏み方が足りない。ひょいと手を掴んで捻ってやると、他愛もなく悲鳴を上げた。離してやり、顔を上げた所に、蹴りを叩き込む。正確には、寸止めする。ひっと悲鳴を上げる男に、ぞろぞろ退出していくファンは構いもしない。

「悪いな。 遊んでいる暇はない」

「て、てめえ」

「確かにしらけているように見えたかも知れないが、そんなつもりはない。 良いコンサートだったし、素晴らしい歌だった。 五千円払っただけのことはあるな。 これは俺の本音だ。 ファンだというなら、彼女の近くで喧嘩なんかするな」

「……」

呆然としている男を置き去りにして、ロングコートを風に引きずり、誠也は行く。

携帯が、駅の手前で鳴った。周囲には、コンサートの興奮を未だ引きずった、遥のファン達が大勢屯していた。彼らから若干距離を取ると、誠也は携帯を拡げて、発信者の名を知った。上司の大位警部補である。

「はい。 俺です」

「生島、休み中悪いな。 早速だが、署に来て欲しい」

「分かりました」

仕事上、断るという選択肢は存在しない。携帯を畳むと、帰り道とは逆方向へ向かう電車に乗り込む。

誠也は、刑事であった。

 

署に着くと、既に対策本部が立ち上げられていた。対策本部に入り、隅にあるパイプ椅子に腰掛ける。休日に呼びが掛かるほどである。当然、発生したのは凶悪事件だ。内容は、当然のように、殺人事件であった。まだまだ下っ端の誠也は、これから足で情報を稼ぐことになるだろう。

高校を出て、警察に入って。下積みを重ねて、幾つかの手柄を立てて。それが評価されて、殺人などの凶悪犯罪に対処する捜査一課に抜擢された。最近では血と臓物を見ない日など存在しないほどに、毎日が忙しい。もっとも、毎日事件が起こる訳ではなく、血まみれの現場周辺をどう検証するか、の毎日であるが。

誠也の評価は、捜査一課では高くも低くもない。ただ、冷静で地道な捜査をする事に関しては、評価されているようだ。あまり詳しくは知らないが。

プロジェクターの準備が進められるのを横目に、配付された資料に目を通す。かなり手際が良い。指揮を執っているのは弓山という警視だが、幾つも難事件を解決した敏腕で、実力でのし上がってきた人物のため信頼感がある。これが無能なキャリアだったら、こうはいかない所だ。ただ、木訥なので、あまり上層部の受けは良くないそうだ。

被害者は高梨三平、四十才。頭部を鈍器でめった打ちにされ、どぶ川に捨てられていた。死後二日から三日が経過していて、ござにくるまれていた死骸が、何らかの理由で浮上したらしい所を、近所の主婦に発見されている。その際に大騒ぎになり、既にマスコミも動き出していた。

ざっと経歴を見る。殺されて当然の男だなと、内心で誠也は呟いていた。恐喝、暴行の常連であり、やくざとも関係があったらしい。過去、殺人未遂も一件起こしている。最近では紐の関係がある女の間を点々としており、彼女らが稼いだ金で好き放題をしていたらしい。マナーも最悪で、真夜中に大音量でテレビを見たり、交差点に赤信号で突っ込んできたりという証言が幾らでも残っている。その上常に自分が正しいと思っていたようである。呆れた話であった。

当然、彼女らを犯人として当たるのが、最初の行動であろう。また、怨恨関係を洗う必要もある。十中八九、それですぐに事件が解決するはずだ。別に刑事の勘などではなく、普通に考えれば分かることである。

すぐに対策会議が開始された。プロジェクターで、高梨の経歴が映し出される。よく分からない話である。このようなゲスを紐にする女は、何を考えているのだろうかと、誠也は思う。愛人達にも日常的に暴力を振るっていたという高梨は、当然山のように恨みを買っていたことが予想された。

凶器に関しては、鉄パイプか、金属バット。鑑識の話によると、金属バットの可能性が高いという。後頭部を一撃して斃れた所を、めった打ちにしているらしい。この執拗な犯行こそ、怨恨である良い証拠だとも言えた。

交友関係をさっと手帳にメモする。誠也は周辺の聞き込みに割り振りが決まった。年配の刑事と組むことになる。少しくたびれ始めている四十代半ばのその刑事は、ベテラン中のベテランである。階級は誠也と同じだが、もちろん対等に接することなど出来ない。気難しい男で、決して誠也と仲は良くないが、しかし関係ない。その上どうやら誠也の事をある程度認めてくれているようなので、非礼は絶対に許されなかった。

「よろしくお願いします。 吾川さん」

「ああ。 早速現場周辺を当たろうか」

現場は淀川の近辺である。

パトカーは出払っていたし、何より聞き込み捜査で現場に赴く際に使うことは滅多にない。歩きと電車で現場に赴く。しばらく無言であったが、刑事は電車の中で、ぼそりと言った。隣に座っている男の、イヤホンからシャカシャカ音が漏れ続けている。

「やれやれ、どうしようもない話だな」

「同感です」

事件だとか、そういった単語は口にしない。

網の目のように入り組んだ東京の地下鉄を駆使して、現場の最寄り駅に。三十分も掛からなかった。現場に出て、検証チームと合流。ある程度状況を聞いてから、聞き込みに移った。

誠也は愛想笑いが非常に苦手だ。この近辺の治安は比較的良いが、最近は警察に非協力的な住民も目立つ。聞き込みを拒否する人間もいて、それでも吾川は笑顔を崩さない。この辺り、場慣れしたベテランらしいなと誠也は思った。マスコミ関係者も辺りを嗅ぎ回っていて、まるで餌に飢えた狐のようだった。

情報はすぐに集まってくる。この近辺で、高梨は有名人であった。兎に角誰にも良く思われておらず、殺されてもおかしくない雰囲気であったという。特に隣の一家は、何度も恐喝まがいの事をされて、今回もマスコミに粘着されていい加減頭に来ていると、しつこくしつこく誠也に訴えた。

手がかりは一応それなりにある。というよりも、周辺でも鼻つまみ者として通っていたような最低の男だし、叩けば埃が幾らでも出るという訳だ。だが、此方では核心に触れそうなものはなかなか見つからない。

一段落した所で、一度捜査本部に戻った。全員の情報を共有して、整理する。

殺しに到るというのは、余程の事である。この平穏な日本では、なおさらである。もちろん殺しに躊躇しないような人間もいるが、それは例外的存在だ。何かの大きな事があって、それが殺しに発展するのが普通だ。アブノーマルな例外を最初から考慮するのではなく、そちらから当たるのが常道である。ただし、アブノーマルな方面も手を抜かないのが、弓山の熟練たる所だ。一番難しい猟奇殺人の方向に関しては、弓山自身が捜査をする事で決まった。

めいめい部屋を出る。苦手な相手とはいえ、話す必要はある。捜査はチームワークで支えられるのだ。

「やっぱりガイシャの紐関係ですかね」

「そうだな。 この辺りの連中に、動機があるような奴はいなさそうだ。 だが、とんでもない所からひょいと情報が漏れてくる事もある。 あまり油断しないで、地道に捜査を続けることだ」

「分かりました」

ふと通りかかった店の前で、遥のポスターを見かける。といっても、真っ二つに引き裂かれて、破り捨てられたものであった。酷いことをする奴もいるものだと思った矢先、であった。

「あんた、刑事さんかい」

「はい」

声を掛けてきたのは、四十代半ばの主婦らしい人物であった。警察手帳を見せて、何か用かと聞くと、少し周囲をはばかった後、意外に重要な事を話してくれた。

「そのポスター、酷い有様だろ」

「ええ。 星川遥は誰にも愛される人物かと思っていましたが」

「あいつ、高梨がやったんだよ、それ」

すっと、隣で吾川が眼を細める。誠也も、どうやら予想もしない方向から証言が来たらしいと感じ取り、気持ちを実戦態勢に切り替える。

「どうしてまた」

「知らないよ。 何だか遥ちゃんの事を毛嫌いしていたらしくてね。 うちに怒鳴り込んできてさ。 ポスターも破いてったんだ」

「立派な器物損壊になります。 訴え出てくれればよかったのに」

「そんなの分からないよ。 とにかく、それはあの高梨がやったんだよ」

警察に関わるのは嫌だが、根掘り葉掘り聞かれるのはもっと嫌だという雰囲気であった。誠也はアドレスだけ控えさせて貰うと、腰の辺りから真っ二つにされているポスターを貰う。そして鑑識の所へ行って、渡した。ファンとしては、こんな無惨なポスターが貼られている所なぞ、見たくもない。

鑑識は引きちぎられたポスターをしげしげと見つめると、言う。

「何だか妙ですね」

「何か、心当たりが?」

現場周辺の道路に掃除機を掛けていたまだ若い鑑識は、眼鏡を直しながら言う。

「まだ確定情報じゃないんですが、ガイシャは星川遥のファンだったらしいですよ。 それが、どうしてまた」

「確かにファンの行動じゃねえな。 何かありそうだ。 念入りに裏を当たった方が良いだろう。 ガイシャの指紋の他にも怪しいもんが検出されないか、調べておいてくれ」

店の名前も併せて教えておく。一旦現場から離れると、近くの飲み屋に入った。歴とした捜査である。気分転換にもなるし、意外な情報を拾えることも多い。ベテランになると、情報源として飲み屋を幾つも持っている者もいるという。

流石に仕事中なので、酒を飲む訳にも行かない。それぞれ適当に食事を注文すると、周囲の会話に耳を立てながら、運ばれてきた夕食を口にする。しばらくは長丁場になる。食べられる時に、出来るだけ口に入れておかなければならない。場合によっては、徹夜が続いて、しかも食事どころでは無くなるのだ。

手帳を拡げて、互いに情報を同期する。といっても、たいした事は二人とも聞いていないから、軽いすりあわせで終わった。吾川は途中から一人で店の奥に行って、マスターと話し込んでいたようだが。成果は無い様子であった。

一旦戻って、現在の状況を弓山に告げる。何度か頷いた後、弓山は腕組みをした。

「此方もこれといった情報はない。 ただ、星川遥との関連が少し気になるな」

「と、言いますと」

「ガイシャは前に少なくとも二度、星川のコンサートに足を運んでいるらしい。 鑑識が大事そうにしまってあった半券を見つけ出してきている。 ガイシャ以外の指紋はついていないそうだ。 今、いつのコンサートの半券かを解析させて、その辺りも調査させる予定を立てている」

「愛人に、その辺りを嫉妬されたという線は?」

どうやったかはともかく、高梨は複数の紐を抱えていた事が分かっている。彼女らはいずれもが、闇の世界を渡り歩いてきたしたたかな者達だ。だが同時に、ある一定水準の社会性を持ち合わせていなかったから、ヤクザまがいの屑の愛人となっていたとも言える。それは悲しいことなのであろうが、今はそれを哀れむ暇はない。

「もちろんその辺りも考慮して、聞き込みを行っている。 だがどの紐もアリバイが堅くてな。 鉄道トリックの世界じゃないが、とても高梨を殺せるような状況にない。 だから、しばらくは協力者の洗い出しも併せて続けていく予定だ。 そこで、だ」

すっと、弓山の目が誠也に向く。

一課の間で、知らない人はいない。この人が地方から抜擢された切っ掛けとなった難事件の事を。そして、今でも闇を彷徨っているという噂の、その時の犯人の事を。

深い皺が刻まれた目尻には、苦悩が詰まっているかのようだ。

警察の仕事は矛盾だらけだ。戦うのは犯人だけではない。無能な法もそうだし、社会そのものだってそうだ。上層部だって敵にもなる。無能なキャリアほど、本来有能なこの国の警察を弱体化させ続ける存在はいない。

そんな矛盾の中で戦い続けたからこそ、弓山は誠也の憧れであり、同時に深い闇も一緒に感じてしまう相手であった。

「生島。 お前は星川のファンだったな」

「はい。 嫌いではありません」

「ああ、別に嗜好についてはどうでもいい。 今、何人かで、星川の事務所の関連を探らせてる。 お前は、星川自身を探れ」

アイドルの事務所。叩けば幾らでも埃が出ることなど分かりきっている場所だ。思った以上に危険な仕事になることは、それだけで分かった。

「分かりました。 すぐにでも」

「吾川は引き続き周辺調査。 生島と連携しつつ、洗い出しを続けろ」

他にも幾つか、細かい指示を受け終えると、すぐにその場を離れる。

まだまだ、事件の解決は、見えてこない。

 

2、花畑の闇

 

誠也は電車に乗り、星川が次に興業を行う横浜に向かっていた。テレビ関係の仕事をしながらも、コンサートを欠かさずに行うそのタフさは、ファンの間でも有名である。レギュラー番組を二つ持ち、睡眠時間は三時間を切るとも言われているのに、大したものだと誠也は思う。

電車に揺られながら、ざっと出る前に調べてきた情報を頭の中で整理する。

星川がいる事務所「サディン」は、多くのアイドルを輩出してきた名門事務所だ。だがその一方で、黒い噂を常に巻き続けてきた場所でもある。

当然の話である。

アイドル事務所というのは、基本的に裏社会と、強い関係を持っている存在だからだ。

例えば、アイドルが引退した後はどうなるのか。アイドルは非常に寿命が短く、トップアイドルと呼ばれる者達でさえ二年か三年程度しか続かない。その後、運良く「マルチタレント」やら「歌手」やらになることが出来れば、それは僥倖だと言える。だが、引退したアイドルの殆どは、そのような幸運な道を進むことは出来ない。

殆どのアイドルが進む道は、屠殺される豚を思わされるものだ。

稼げなくなったアイドルが放り込まれるのは、殆どの場合アダルトビデオである。事務所としてみれば、金を稼げなくなったアイドルの活用先として、これ以上のものはない。あの××が出演、という題目だけで、ある程度の金を稼ぐことが出来る。アイドル事務所は、基本的に抱えているアイドルを商品としか思っていない。非常に入れ替わりが激しい業界だという理由もあるが、それ以上にモラルが希薄な場所でもあるのだ。だから、彼らにしてみれば、「廃品回収」という訳である。骨の髄までしゃぶり尽くすという訳でもあるのだろう。

その関連で裏側の組織とも、アイドル事務所は密接に結びついている。アダルトビデオでも稼げなくなると、風俗に売り飛ばされるか、或いは地方巡業となる。これも似たようなものであり、特に地方巡業の場合は、裏側の業界とのコネクションがものを言うようになってくる。ごくまれに此処まで落ちても復活できる者もいるが、それは例外に過ぎない。最後は場末で惨めな最後を送ることになる。

アイドルはチューインガムと同じだ。甘いのは最初だけ。最後は徹底的にしゃぶり尽くされて、ぽいと捨てられることとなる。飽きやすい大衆の傾向も、それに拍車を掛けている。やがて吐き捨てられたチューインガムは、犬の糞や砂利と混ざり合って踏みつぶされ、風に吹き飛ばされて人知れず消えていくことになるのだ。

また、アイドルの家族や、悪質なファンの対応に関しても、裏側の業界がものをいう。そもそも裏側の人間にとっても、儲かる時には唸るほど儲かるアイドル業界はとても魅力的だ。だから、両者は結びつくべくして結びついた。

もちろん、全ての事務所がそのような悪辣な場所ではない。良心的な対応を、抱えているアイドルに行っている事務所もある。

だが、多くはそうではない。

芸能界は闇の巣窟だ。カルト宗教やドラッグに走る関係者が多いのも当然である。其処は夢を売る場所かも知れないが、現世より遙かに地獄に近い場所なのだ。だから膨大なストレスが溜まる。テレビの向こうで見える笑顔など、闇の上に塗り固めた粘土細工なのだ。今ではその腐敗も、行き着く所まで到達しきった感がある。

大人になってもアイドルの魅力を感じ続けている誠也は、それらの事情を知っている。というよりも、アイドルが好きである以上、彼女らがまな板の上に載せられた鯉も同然の存在であると、知らなければならないと思ってはいた。

もちろん、星川も例外ではない。

彼女は十七才。既にアイドルとしては限界が近い年齢だ。そろそろ彼女も、タレントの転身を図らないと危ない時期である。失敗すれば、地獄行きの片道切符を手にすることになるのだ。

横浜駅に着いた。此処からバスに乗って少し行った所で、今日星川はコンサートを行う。二千人程度しか入れない、中規模のコンサートホールで、開演時間も短い。だが、それでもいそいそと会場に向かうファンの姿が目立った。

時間を確認した後、吾川に連絡。向こうは、特に進展がないそうだ。高梨の悪い話は幾らでも入ってくるのだがと、吾川は嘆いていた。

「そっちはどうだ」

「これから現地に向かう所です」

「そうか。 しっかりやれ」

もちろん、状況が状況だから、荒事も想定される。ただ、吾川の声に僅かな揶揄が含まれるのも、仕方がない事ではあっただろう。

アイドルの寿命を縮めている一因に、この国の社会的風潮がある。この国では、趣味を持つ人間を屑扱いする傾向が非常に強い。ゴルフや野球など、特定の趣味を持つ者以外は皆様々なレッテルを貼られるからだ。アイドルの愛好も、そのレッテルを貼られる一つの要因となる。

だから、社会人になってから、趣味を続けるには二つの方法しか無くなる。

隠すか、開き直るかだ。

誠也はその後者である。元々の朴念仁ぶりに加えて、アイドルが好きだという事が、妙なアクセントになっているらしい。婦警達には、誠也はそれなりに人気があるそうだ。迷惑なだけの話であった。

バスが来たので、乗って現地に向かう。都営バスは、ぎゅうぎゅうに混雑していて、その半数以上が星川のファンだと分かる空気を身に纏っていた。一番年下の子供は、中学生くらいだろう。同級生と一緒に、黄色い声でなにやら話し合っている。どうにかして星川のサインがもらえないか相談しているらしい。まあ、無理だろう。トップアイドルとなると、まだ味が出る(つまり儲けられる)間は金細工のように大事にされる。ステージの周囲には、時にプロのSPまでもが展開する。何らかの方法でコンタクトを取っている友人関係があるならともかく。この子らの様子では、それはあり得ないだろう。

バスに揺られている間も、誠也は客をしっかり観察していた。凶器を持っていそうな奴や、或いは挙動不審の輩。いずれも、見かけなかった。バスの中でスリや置き引きをする人間もいるが、あまり多くはない。電車に比べると逃げづらいからだ。

結局、目的地にバスが到着するまで、これと行った収穫は無し。

コンサートホールの前に降りると、もう行列が出来ていた。

妙に警備が厚い。ひょっとするとビンゴかも知れない。一度、吾川に連絡を入れておく。

「現場に着きました」

「どうした、何かあったか」

「妙に警備が厚くなっています。 見たところ、いつもの倍は警備の人間がいるようですね」

「そうか。 ひょっとしたらひょっとするかも知れないな」

もちろん、当たりではない可能性もある。マスコミ関係者には、警察へのコネクションを持っている者も少なくない。星川に今回の殺人事件が関係あるかも知れないと、捜査本部が睨んでいるという情報が、どこかから漏れた可能性もあるのだ。

それを考慮すると、いきなり事務所に行き、警察手帳を見せるのは下策だ。しっかり周囲を探ってから、人数を揃えて踏み込んだ方が良い。警備をしている人間の中には、いつものバイトに、明らかにカタギではない連中も混ざっていた。

チケットを入り口で渡すと、うさんくさそうな目で若い男が見つめてきた。視線を返すと、さっと逸らす。そのままコンサート会場に入り、椅子に腰掛けてぼんやりとする振りをしながら、辺りの警備と、客の様子を確認。

さっきの中学生達を見つけた。同世代の子供達同士で固まっているから、どうしても余計に目立つ。

「ねえねえ、さっきの受付、態度悪かったよねー」

「ほんと、もっとマシなバイトえらべっての」

「こっちがどういう思いでコンサート代出してると思ってんだか。 まだバイトだって出来ないし、お金なんか親だって出してくれないもんね。 彼奴ら、まだ頭の中がバブルなんじゃないの?」

「言えてるー。 テレビ局とかアイドル事務所って、頭の中が二十年くらい前ッぽいよねー。 遥ちゃんかわいそー。 あんなのに使われてちゃ、たまったもんじゃないよねー」

同情しているとはとても思えない、黄色い笑い声が上がる。それにしても、バブルなんか経験したこともないだろうに、えらそうなことを言うものだと、誠也は思った。

苦笑した誠也は、彼女らから視線を逸らし、そして気付いた。

時間には非常に厳しいことで知られる遙が、まだステージに上がってこないのだ。

ファンなら、彼女が時間に極めて正確なことくらい、誰でも知っている。だから、周囲もざわつき始める。二分ほどが、非常に長く感じられた。携帯のメールから、吾川と弓山に連絡。

「異変あり。 時間に厳しい星川遥が、遅刻しています」

「小さな変化も見逃すな。 何かあったら、すぐに応援を呼べ」

「了解しました」

携帯を閉じると、トイレに行く振りをして、外に出る。中学生達は、まだ黄色い声できゃっきゃっと騒いでいた。

熱気が無いからか。廊下に出ると、急にひんやりした空気を感じた。

警備の人間が、じろりと睨んでくる。誠也よりも体格がいい、かなりの強面だ。気にせず、トイレに急ぐ。小用を済ませてから、あまり清潔とは言えないトイレをしっかり観察しておく。いざというときには、様々な用途がある場所だからだ。

トイレを出て、ホールに戻る振りをしながら、しっかり建物の構造を見ておく。事前にこのコンサートホールの構造は頭に叩き込んであるが、それを視覚情報で補うのだ。楽屋がある位置はだいたい掴んだ。空間把握の能力は、かなり自信があるほうである。これならば、警備に邪魔さえされなければ、ものの数分で星川のいる楽屋に潜り込むことが出来るだろう。

ホールに戻った。サングラスの奥の目が、ロングコートの誠也をじっと見つめ続けていた。

まだ、星川は来ていない。既に四分近い遅刻である。

警備員達が困惑する程に、ファン達が騒ぎ始めていた。自席に座ると、パンフレットを探す振りをしながら、いざというときはステージに踏み込む心構えもしていたが。五分ほど遅刻した所で、ようやく動きがあった。

星川が、出てきたのだ。

照明も音楽も慌てていたらしく、一テンポずれる。眉をひそめた誠也の前で、いつものように、元気はつらつな雰囲気で、星川がファン達に手を振った。こぼれるような笑顔が眩しい。

が、それに、影があることを。ファンとして長い誠也は、敏感に見抜いていた。

 

三曲とアンコールのコンサートが終わると、客達は何処か腑に落ちない様子で、会場を後にしていた。

パワーがないのだ。いつものような。

替え玉と言うことはないだろうが、普段はなっている圧倒的なカリスマというかオーラというか、そういうものがない。だから曲も何処か空虚で、大音量で流されるバックミュージックが噛み合って折らず、非常に邪魔だった。バックダンサー達も、何処かタイミングをずらされた様子で、ミスが目立っていた。

混む前にさっさとトイレに籠もると、携帯からメールを送っておく。これは、早めに調べた方が良いだろうと思ったからだ。

「星川遥の様子がおかしいですね。 警備の様子と併せて、何かある可能性が低くないです」

「分かった。 もう少し調べてみてくれ。 場合によっては、そちらに割く人数を増やした方がいいだろうな。 検討しておく」

弓山の返事は非常に早い。あの年で携帯の早撃ちが出来るのだから大したものである。ノンキャリアで警視まで出世するのは並大抵の事ではないが、彼の場合は完全に実力でそれを為していることがよく分かる。

会場を見回る。トイレで少し時間を潰しているうちに、殆どのファンは帰ってしまっていた。あの中学生達ももういなくなっている。

外に出ると、警備の隙を突いて、コンサートホールの裏側に回り込む。

高速道路の側にあるという事もあり、ホールの裏は驚くほど人気がなかった。此方にも数人の警備がいるが、誰も来ないだろうと思っているのか、油断しきっている。すっと気配を消して、奥へ。こういう時、フェンスや草むらは便利だ。しかも影になっているから、余計に身を隠しやすい。

受水槽がある、裏口近くに出た。流石にこの辺りは警備が厳重だったが、しかし。

一応の訓練を受けている誠也は、あまり苦労せず潜り込むことが出来ていた。

如何にその手の人間を雇っているとはいえ、所詮はアイドルの事務所である。これがヤクザ関係の施設であったりしたら、そうはいかない所だ。だが、伊達に二十歳そこそこで一課に在籍している訳ではない誠也には、このくらいは朝飯前とまではいかなくとも、そう難しいことではなかった。もとより色々な紆余曲折はあったとはいえ、現状の総合的には戦闘能力と技量を買われて一課にいるのである。荒事はお手の物だ。

受水槽の影から様子を伺っていると、警備の人間が煙草でも吸いに行くのか、席を外した。好機。さっと裏口を開けて、中に潜り込む。もちろん通路がどうつながっているかも把握している。

携帯の電源は、念のために切ってある。

息を殺して、奥へ。警備の連中は、流石に中にはいると油断しているからか、あまり気を張っていない様子だ。談笑している者達までいる。

手頃な部屋に潜り混むと、窓を開けて中庭に。さっき窓の鍵を開けておいたトイレを確認。これで退路は確保できた。草むらを伝って、楽屋の裏に。警備の人間もいるにはいるが、此処は特に奥と言うこともあるだろう。油断しきっている様子だ。

楽屋の壁に背中を付けた。草むらに潜んでいるとはいえ、あまり気分がいい行為ではない。だが、この異様な警備である。何か裏がある可能性が高い。星川遥の様子が確認できれば、それも分かるだろう。

耳を壁に付けるが、口論していたりする様子はない。気配は一つだけ。多分星川遥のものだろう。

眉を跳ね上げたのは、聞こえたからだ。

星川は、泣いている様子であった。

 

警備の隙を突いて、窓に触れてみる。どうやら開いている。すっと身を躍らせて、窓から中に入り込んだ。一連の動作に、十秒と要していない。警備の人間は、その間欠伸をしていて、異変に気付きもしなかった。

楽屋の窓から入り込むと、さっと中に視線を這わせる。身を隠す場所を最初に確認したのは、もはや習性に近い行動だ。いきなり入り込んできた長身の男に、泣いていたらしい星川は、きょとんとしていた。だがすぐに目を擦って、数歩離れる。

五年前であれば、生のアイドルに至近で接することが出来て、狂喜したかも知れない。しかし今では、ファンの意味合いが違ってきていることもあるし、心も渇いてしまっていた。

「だ、だれ?」

「驚かせてすまない。 警察のものだ」

「刑事、さん?」

手帳を見せると、一瞬だけ、ほっとしたような、困惑したような表情が星川の顔に浮かんだ。だが、それも、すぐに消える。

反応はごく初々しい。表だけ繕っているアイドルは幾らでもいるが、それの中では極珍しい、自然体に近いタイプらしい。これでも、この仕事をしてそれなりに長い。年下の小娘がついている嘘くらい、見抜ける。

「刑事さんが、どうして」

「ある殺人事件の被害者が、君と関連のある可能性が浮上した。 調べに来たら、いつもの倍以上の警備が出ているから、おかしいと思って、中まで侵入してみた。 これは正式な捜査ではない。 少し、話を聞かせてもらえないか。 手間は掛けない」

「任意ってやつ?」

「そうだ。 もちろん、断る権利はある。 もし嫌なら、すぐにこの場から消えるが、どうする」

あまり褒められた行動ではない、どころか。実際には大問題になりかねない事なのだが、泣いている星川に気付いて、ファンとしてはあまり平静ではいられなかったのも事実である。

だから、体が先に動いてしまった。

少し自分でも後悔はしていたが、力になりたいとは思う。

アイドルの中には、事務所と関係が深くなったため、もろにバックに暴力団を抱えているような者もいるが、誠也が調べた限りでは、そのような闇を星川が抱えている形跡はない。

しばらく見つめ合っていた誠也と星川だが、ノックの音が沈黙を中断させる。星川が慌てたが、すっと誠也はさっきから目を付けていたロッカーに身を隠した。もちろん、場合によっては、隙を見て外に逃げるつもりだ。

「遥、いるか」

「マネージャー。 どうしましたか」

部屋に入ってきたのは、マネージャーらしい。聞いたことがある。星川の事務所を引っ張っている敏腕だという噂の男だ。全くメディア露出しないので顔は知られていないのだが。

ロッカーの鍵穴から覗いて、その理由を誠也は知った。なるほど、これではメディア露出も出来まい。

雰囲気が、既にスジ者のそれだ。サングラスを掛けて表情を隠しているのだが、それが余計に悪い方向へ、雰囲気を変えてしまっている。特に頬の当たりにある向かい傷は、どうにもならないだろう。

「誰かいたのか」

「いえ。 誰も」

「そうか。 例の件だが、来年早々からやってもらうからな。 今の内に、覚悟は決めておけ」

「はい……」

「にえきらねえ返事してんじゃねえ! てめえはそれでもプロか、あぁんっ!?」

突然態度を豹変させたマネージャーが、机を拳で強打する。タップダンスを踊る机。蒼白になって、身を縮める星川。思わず飛び出しそうになったが、此処は我慢だ。どうやら、魔界で己を削りながら稼いでいるという点で、星川も他のアイドルと何ら代わりはなかったらしい。

「ごめんなさい。 しっかりやりますから、許してください」

「ちっ! てめえは体が商売もんだからな。 本当だったら一発二発殴ってでも気合い入れる所なんだがよ! 面倒なんだよ、小便臭い餓鬼が! 次にグダグダめそついてやがったら、すぐにでも仕事やらせんからなああっ!」

ゴミ箱を音高く蹴飛ばすと、マネージャーは部屋を出て行った。しばしの沈黙が過ぎて。星川が、小声で言った。

「もう、良いですよ」

「……アイドルの裏側は知っているつもりではあったが。 大変だな、君も」

ロッカーを出て、外の気配を探る。やる気のない警備の気配が二つあるが、中をうかがおうともしてない。星川は、今や表情に、影を隠そうともしなかった。

「私なんて、まだマシな方です。 少し前に引退した子なんて、家族の弱みをマネージャーに握られてて、どんな酷い仕事でもやらされてて。 何ヶ月か前に、海外巡業だって出かけて以来、魂が抜けたみたいになってしまって。 何をさせられたんだろうって思うと、涙が出ます」

「事情を見た以上、あまり黙認は出来ないな。 もし、危険を感じるようなら、すぐに連絡してくれ。 地球の裏側からでも駆けつける」

アドレスを書いて渡すと、星川はちょっとすがるように誠也を見た。

もちろん、そういう視線で男を籠絡する技術があることを、誠也も知っている。だから念入りに観察したが。どうやら星川に、その雰囲気はなかった。仮にそうだとしたら、よほど修羅場を潜ってきた、怪物的な存在だろう。鍛えた形跡も無い体からは、その可能性を最初に除外できる。

「では、俺は行く」

「……刑事さん」

「なんだ」

「気をつけて。 あの人、本当にその筋の経験があるらしいですから」

頷くと、さっと部屋の外に出る。

既にコンサートが終わったと言うこともあるからだろう。警備はさっきよりも更に気が抜けていた。だから、脱出は、侵入よりもずっと簡単だった。

コンサートホールを抜けて、バス停まで出た所で、吾川に連絡を取る。

「何か進展はありましたか」

「此方は特にねえな。 高梨の悪い評判が、ごろごろ出てきて積み重なる位だ。 最近は余所に出かけては、夜中に帰ってくる事が多かったって話だが、紐を何人も抱えてる奴だって話だし、あまり期待は出来ねえな」

「そうですか。 こちらは、星川遥に接触をとることが出来ました」

「何!? 無茶な事をしていないな」

「詳しい話は、後で。 大丈夫、接触を事務所側に気取られてはいません」

周囲に気配がないことを念入りに確認しながら、其処まで言い終える。バスが来たので、乗り込むと。行きの喧噪が嘘のように、がらがらに空いていた。星川遥は人気が落ち始めているアイドルだが、それでもその集客効果が凄まじいことが、この辺りからもよく分かる。

星川は泣いていた。何故なのか、マネージャーとの会話から、想像はつく。

人気が落ちてきたアイドルなら、誰もが辿る道だ。

それは分かっている。だが、それが当たり前になっていて、誰もが仕方がないと容認している事が、そもそもおかしいのである。みんなやっていることだという理由で、人間はどんな犯罪でも正当化するが。それをさせてはならないのだ。

拳を握りこむ。やはり、何があっても、容認は出来ない。明らかに嫌がっている人間に、それがプロだからと言う理由で、体や心を売らせるのが、大人のやることだというのか。しかもそれが社会的に黙認されつつあり、一部は揶揄をしながら他人事のように見ているこの現状が、まともだというのか。まともでないのなら、ぶん殴ってでも正しい方向へ向けなければならないだろう。

本人がどうしようもない動機の末に、修羅に身を落とすのは仕方がない。事実、似たような経験がある誠也としては、それをとやかく言うつもりはない。しかし、そうとは思えない状況であった。ましてや、弱い者虐めのプロフェッショナルであるスジ者が、一般人である星川にそのような仕打ちをすることが、許されるというのか。

モラルが極限まで落ち込んだ現在だが、そのような理屈が許されていることが、薄ら寒くもある。

舌打ちして、眠気覚まし用のガムを取り出して、口に含む。

しばし無心に噛んでいたが、苛立ちは収まらなかった。

 

3、始動

 

急ぎ足で誠也は、明け方の街を行く。食事はもう、18時間以上していないが、まだまだ充分に耐えられる。基本的な鍛え方が違うからだ。良くあることである。事態が急展開したので、食事どころではなかった。

急展開があったのは、誠也が星川の所に忍び込んでから、二日が経ってからであった。

地固めをしていくうちに、幾つかの線がうっすら見え始めていた、その矢先のことである。

第二の死体が上がったのである。

当初は別の対策本部が立てられたのだが、状況が酷似していることで、すぐに統合された。人員も増強されて、吾川の下に合計四人がつくことになった。

今度の死体は、江戸川の近くから上がった。やはり同じように溝に沈められており、傷の形状から殺害に使われた鈍器は同一と特定された。何より、傷口に着いていた塗料が一致したことで、同一犯とほぼ確定された。ガイシャは三十七才女性。店内のホステスをしている人物であった。

生前の写真も公開されたが、非常に化粧が濃く、見るからにその手の商売をしている事が分かる。調べてみると、案の定何年か前まで、アダルトビデオに出演していたらしいことが判明した。更に、二十年前には、アイドルとして活躍していた時期もあったという。同じように、評判は最悪。基本的に水商売は生き馬の目を抜くような社会だが、その中でも悪辣きわまりないやり口で恐れられていたそうだ。何時殺されても不思議ではない人物だったそうである。

この手の下劣な輩は、叩けば埃が幾らでも出るものだ。それが平時は黙認されているが、しかし今回は緊急事態だ。警察は総力を挙げて、その裏を探しに掛かった。弓山はキャリアとも関連が薄く、警察利権にも噛んでいない。しかし、いつキャリアがしゃしゃり出てくるか分からない以上、捜査は時間との戦いとなっていた。

相変わらず誠也は、星川の近辺捜査を命じられた。事務所に貼り付くように命じられた三人と連携しながら、周囲を監視していくことになる。そのまま作業をするようにと命じられたのも、星川自身からメールが来た事も理由の一つだろう。このままコネクションを確保していけば、いざ立件の際には武器になる可能性も高い。弓山はあまり褒められた行為ではないがという事を前置きした上で、捜査を許してくれた。ただし、二度と強引な侵入はしないようにと、念を押されたが。

星川のコンサートは回数こそ減ってきてはいるが、それでも一週間に二度以上というハイペースで行われている。今日は、件の江戸川近辺のコンサート会場で行われるので、それに併せて誠也は足を運んだのだ。

事務所が設営をするよりも、先に現場の様子を確認しておく必要がある。同じコートばかりだと、事務所の人間に覚えられる可能性もあるので、今日は違うコートを着て、サングラスをしてきていた。元々強面の誠也がサングラスをすると、痛烈な威圧感を周囲に与える事がある。今日もそうなったらしく、電車の中で他の客が誠也を見てびくびくしていた。

現場に到着。

若干ごみごみした場所だ。住宅街と商店街の中間程度にあり、周囲の交通もかなり不便である。バスが一本の他にはこれといった足が無く、どの地下鉄の駅からも遠い。ただし、比較的静かな場所らしかった。

この手の現場でバイトをした経験がある誠也は、色々と予備的な知識を持っている。

まず、バイトの人員は、殆ど現地の人間から集められる。若い者も多い。これは、アイドルを生で見ようと、バイトを申し込む若者が多いからだ。事務所によっては、最初にそのアイドルのファンかを面接で確認し、違う場合しか採用しない事もある。

まず、一回通り過ぎる振りをして、周囲の地形を把握。事前に地図を見て確認してきているが、自分の目で再確認して、脳に叩き込むのだ。それが終わったら、自費で採ってあるビジネスホテルに入り、連絡を入れた。

「会場の様子は」

「警備は三倍という所です。 設営の段階から、かなり厳しくしています。 地元の若者も、殆ど見られません」

「なるほど、身内だけで固めてきているな。 そうなると、ますます関連の可能性が濃くなってきているな」

捜査を続けるようにと、弓山の指示。吾川もそれにおおむね同意した。

事務所の関連はどうなっているかと聞く。そちらも似たような状況らしいと、弓山は反してきた。

「事務所の裏にいるI川会が出張ってきているらしい。 気をつけろ。 そちらにもいるかも知れないぞ」

「はい。 分かりました」

「とにかく、無茶はするな。 この件は、予想以上に根が深い可能性が高い。 何だか、I川会の反応が急すぎる。 我々以外の、何かもっと危険な相手を敵に回したかのような、臨戦態勢をとっているのが気になる」

弓山が1課に移った切っ掛けとなった事件のことを、誠也は思い出す。だが、そう決めつけるのは、まだ早いだろう。

「お前はスジ者の相手をするのが初めてではなかったとは思うが、気を抜くなよ」

「もちろん、最大限の注意をします」

電話を切る。自動小銃を装備しているような海外の組織と戦ったこともある誠也だが、人間の肉体は脆いものである。相手が平和な社会で弱い者虐めばかりしているような連中だと言っても、油断が出来ないのは事実だ。

電話の間に、星川からメールが入っていた。どうやら気分転換になっているらしく、相当な長文を送ってくる。此方が年上で、しかも刑事だと言うことはあまり気にしていないらしい。それもそうだろう。悪い意味での大人ばかりが、周囲にいる環境なのだ。誠也くらいの男など、それこそ同級生とあまり代わらないだろう。

メールの本分には、顔文字もたっぷり使われていた。非常に読みづらい。吾川などは、メールの文面を見た途端、解読しろと言ったほどである。誠也は苦笑すると、ごく短く、星川を気遣う内容のメールを送っておいた。

ビジネスホテルを出る。設営は着々と進んでいる。いつもよりかなりペースが速いのは、採算を無視して、身内だけで行っているからだろう。会場を伺う男を見つけた。かなり下手な身の隠し方で、警備の連中も既に気付いている。このままだと取り押さえられて、スジ者の事務所に連れ込まれかねない。

歎息すると、誠也は動いた。あの馬鹿が捕まると、警備が更に厳しくなる可能性もある。警備を厳密にして客に不快感を味あわせるくらいならコンサートを中止して様子を見れば良いような気もするが、それ以上に事務所側にとって、収入を得ることが急務なのだろう。この手の芸能関係事務所が、客を完全に馬鹿にして掛かっているのは、今に始まったことではない。莫大な収入を得ているテレビ局が、自分たちを王侯貴族か何かと勘違いしているのと、同等の笑止な言動だ。

男が、一旦離れて、警備の視界から離れた隙をついた。そのまま組み伏せて、近くの暗がりに連れ込む。体格のいい男だが、力の使い方を知らない。そのままねじ伏せて手首を捻り挙げると、悲鳴を上げて大人しくなった。

「い、いてえ、いてええっ!」

「静かにしろ。 お前、警備の人間達に、目を付けられていたぞ」

「そ、その声、てめえはっ!」

男が振り仰ぐ。至近で見ると、見覚えがあった。

そうだ。以前コンサート会場で、絡んできた男だ。手首を離してやると、手をさすりながら、僅かなおびえを持って誠也を見た。

「な、何なんだよ」

「お前、このままこの場にいたら、スジ者の事務所に連れ込まれるぞ。 五体満足でいたかったら、さっさとこの場から離れろ。 今日のコンサートは諦めるんだな」

「巫山戯るな! 遥たんの親衛隊の俺が、そんな弱気でいられるか! あの連続殺人事件に、遥たんの事務所が関わっているって話が出てるんだよ。 俺達親衛隊が、動かなくてどうするんだ!」

親衛隊と来たか。まだ若いのに、随分古い事を知っているものである。

今の若者達には想像もできないかも知れないが、かってはアイドル達を自主的に守ろうと、ファンが結成した親衛隊等という集団が存在した。彼らの影響力は侮りがたく、事務所側も折衝に苦労したという。現在のファンクラブとは根本的に違う戦闘的な性質を持った、本物のファンによる集団であったのだ。

だが、時代が変われば性質も代わる。

現在はアイドルの大量生産大量消費を経て、長続きする芸能界の人間そのものが極めて少なくなっている。その上、急激に「傍観」の風潮が進行している事もある。体を張ってまで、好きなことにのめり込もうという人間も減った。その結果、親衛隊のような存在は衰退、縮小し、結果としてほぼ絶滅してしまった。かっての親衛隊のような人間が多くいれば、アイドルが、此処まで不透明な経営をしている事務所に好き勝手人権を蹂躙されることもなかっただろう。

ちなみに面白いもので、息が長いミュージシャン系には、親衛隊が生き残っている場合もある。ただし、此方は女性ファンが中心だが。戦闘的な性質は受け継いでいる所が、現在の風潮を示しているだろう。

「他の親衛隊とやらはどうしているんだ」

「そ、それは。 みんな忙しいんだよ。 仕事だってあるし、学業だっておろそかにはできねえだろ」

「昔の親衛隊達は、自分が好きなアイドルの事を第一に考えていたという話だがな。 そこまで行くと問題は逆にあるだろうが、結局の所、お前達がしているのは他力本願な傍観だけだろう。 好きな人間の危機に、結局別のことを優先させているのだからな」

鋭い指摘に、自称親衛隊の男はむっつりと黙り込んだ。

もうこの男と関わっていても意味がないと思った誠也は、コートを翻して去りかけたが、ぼそりと男が呟いたので、足を止めた。

「俺一人でも、遥たんを守りたいんだよ。 何だよ、あの警備の連中。 みんな、筋もんばっかじゃねえか」

「そうだ。 今、アイドルの事務所に限らず、芸能界は犯罪組織とおおきく癒着しているものだ。 今時小学生でも知っていることだろう。 一般視聴者がそれを知らないと思っているのは、脳みそに埃が積もった芸能界の関係者だけだ。 星川遥の事務所は、その中でも特に癒着が酷いというだけだ」

「……」

「シロウトは引っ込んでいろ。 星川を守りたいと思うのは、俺も同じだ」

コートの裾を掴まれたので、舌打ちする。まだ、未練があるらしい。

「俺も、手伝わせてくれ」

「お前では足手まといだと言っている」

「じょ、情報だったらまけねえ。 遥たんの事なら、多分誰よりも詳しく知ってると思うから、だから」

「……二度と、こんな真似をしないというのなら、話は聞いてやる」

誠也が言うと、頷いた男は、田中幸平と名乗った。

 

星川の事務所は老舗だが、それが故に暴力団関連との癒着も酷いのだと、田中はデータを並べながら言った。言うだけあって、相当に詳しい。ビジネスホテルで拡げた資料は、三十年以上前からのアイドルの系譜も含めて、恐ろしく緻密な代物であった。

「大したものだ」

「い、言っただろ。 情報じゃ、負けねえんだよ」

少し卑屈に言いながら、大学三年生だという田中は説明を続ける。電子データだが、非常に使えそうだ。もちろんそのまま使うことは難しいが、解析に回してある程度裏付けが取れたら、信用できる情報として活用できる可能性もある。

田中の話によると、裏サイトのようなアンダーグラウンドから集めた情報だけではなく、未だ僅かに残っているファン同士の横の連携を使ったものもあるという。実際問題、今回の連続殺人に事務所が関わっているかも知れないという情報を、探り出しているのである。案外馬鹿には出来ないのかも知れない。

警察側でも、既に星川の事務所の人脈洗い出しはしており、もとより目を付けていたこともあって、かなりの部分まで解明している。だが、此処で提示されているデータには、それ以上に深く食い込んでいるものもあった。

早速受け取ったデータを、念入りにウィルススキャンしてから、解析部にメールで回す。弓山はあまり信頼できないと言っているのだが、今はどんな情報でも欲しい所だ。これも立派な聞き込みの成果である。

コンサートが始まる。やはり多くのファン達も、状況の異様さには気付いている様子だ。だが、だからといって何もしないのが、今の日本的な風潮だ。

「あーあ、見たかったなあ」

「星川が大事なのなら、今回は諦めろ」

「分かってるよ。 それで、今度はどうするんだ」

「出入りをしっかり見張っておく。 もしも事務所が前後二件の殺人に関わっているのなら、組関係の大物が来る可能性もある。 もしそうなれば、ほぼ確定だと考えてよいだろうな」

そう言うと、首を引っ込める田中。まあ仕方がないだろう。相手は軍人ほどではないにしても、暴力のプロである。一般人が勝てる相手ではない。この男は体格こそ良いが、格闘技をしている形跡はないし、とても手に負える相手ではない。

「そ、それで、どうするんだ」

「しばらくは此処から様子を見る。 コンサートが始まってから、客が帰り始める辺りまでは注意しておいた方が良いだろうな。 親衛隊とやらはいなくても、他にファンで会場にいる奴はいないのか」

「いるかも知れないけど、どうして」

「連絡を取って、中の様子を教えて貰うように言うんだ。 こういう時は、横のつながりを使うべきだろう」

ふと、携帯が鳴る。星川だった。

今日はちょっと予定よりも早めに切り上げることになりそうだとか、可愛らしい絵文字と一緒に書いてある。田中に見られると五月蠅そうなので、さっと分かったことを伝えて、携帯を閉じた。

「何だ、今のメール」

「上司から、状況の確認だ」

「あんた、興信所の人間なんだろ。 やっぱり、怖いことは多いのか」

田中には、興信所の人間だと伝えてある。誠也は窓の側で、田中に視線を向けないまま、言った。

「怖いことは、昔から幾らでもある。 この国があまりにも平和で豊かになりすぎて、誰もがそれを忘れてしまっただけだ」

それを身近で知り続けた誠也は、馬鹿なことに首を突っ込まないように、静かに釘を刺した。

ほどなく、コンサートが始まる。熱狂がコンサート会場から漏れ出てくるようだ。遥の名を呼ぶファンの声が、窓を震わせるほどである。その熱狂を引き出す遥が、今殺人事件の焦点となっていると思うと、やりきれない。

もちろん、誠也は、星川を容疑者の一人として認識していた。

「な、なあ。 一つ聞きたいんだけどよ」

「何だ」

「その……。 遥たんも、犯人候補の、一人なのか」

「今の時点では、可能性が高いだろうな」

夢を見せる意味もないので、即答する。

がっくりした様子で、田中は肩を落としていた。

「そうか、そうだよな」

「大人になっても、趣味を持とうとするなら、その裏も表も見るようにするんだな。 芸能界は華やかな業界かも知れないが、裏は腐臭が漂う地獄だと言うことくらいは理解してから、それでも好きになるべきなのではないか」

社会人は、みなそうあるべきではないのかと、誠也は思っている。誠也はアイドルが好きだが、その抱える闇を直視しないようにしようとは思わない。だからこそ、此処にいるのだとも言える。

星川が歌い出したらしく、会場の熱気は更に上がっていく。だが、此処でその様子を見守っている誠也は、氷のように冷め切っていた。

「お前、何者なんだよ。 本当に遥たんが好きなのか?」

「……」

応えるまでも、無いことだった。

 

そもそも、誠也は「普通の」子供時代を送ったことがない。この国の出身者であっても、社会から外れた存在であった。

旧家に産まれ、様々な事情から孤児院に捨てられた誠也は、愛情らしいものをまったく得ずに育った。覚えている親の視線と言えば、蔑み。浴びせられた言葉と言えば、邪魔だとか退けだとか。名前を呼ばれた事など一度もない。そして、孤児院に飛ばされたが、其処もまともとは言い難い場所で、貧しい生活の中、食料や衣類を奪い合う日々が続いた。人間よりも、獣に近い時代であった。

当然の結果として、誠也は荒れた。手足が伸びきる頃には、すっかり社会に対する敵意と悪意を全身に漲らせた青年になっていた。そのままでは、結局闇の中ではいずり回りながら、死ぬしかなかっただろう。

だが、生き残ることが出来た。そればかりか、闇を払う側の仕事にまで就いている。

そんな彼が感謝しているものは、二つある。

一つは、様々なスキルを仕込んで、彼を何処でも生きていけるように仕込んでくれた師匠。孤児院から誠也を拾ってくれた師匠は、今の仕事も紹介してくれたし、警察内部での地位に関しても何度か面倒を見てくれた大恩人である。感謝しても仕切れない。弓山にも面識があるらしく、時々自分のことを頼むと言ってくれているらしい。本当に、大恩人とはこのことである。

もう一つは、荒みきった心をいやしてくれる、アイドルの歌声だった。

ポジティブで甘い彼らの声は、闇の底にまで落ちていた誠也には衝撃的なものだった。以降は世間がなんといおうが、アイドルへの憧れを捨てることが出来なかった。子供が楽しむものだと言われても関係がない。誠也にとって、アイドルとは、心の平穏を保たせてくれる、精神安定剤にも近い存在なのである。

現在、無数のジャンルに枝分かれしたアイドルという芸種。その中でも、誠也は、絶滅しつつあるとはいえ、総合的なアイドルが好きだ。他のアイドルの中にも高い歌唱力を持つ者はいる。カリスマを纏って観客を惹きつけることが出来る者だっている。だが、誠也に衝撃を与えたのは、星川の二世代前(といっても、ほんの数年だが)に活躍していた、トップアイドルだった。

そのトップアイドルが、裏では薬物に依存し、セレブとの不倫を繰り返し、マルチタレントに転身してからはテレビ局上層の人間相手に枕営業をしていたことを知っても、誠也は別に何とも思わなかった。本性がいかなる存在だろうと、彼女が歌った事で、誠也が救われたのは事実だからだ。

それに、誠也が見てきた地獄に比べれば。そのようなもの、ぬるま湯に等しいという事情もあった。

ビジネスホテルを出る。部屋には田中を残してあり、いざというときの連絡法は紙に書いて残しておいた。外に出る途中で、吾川と弓山に連絡を入れておく。深入りはしないようにと言われているので、今回は中にまで潜り込む気はない。

田中の友人の話を総合すると、コンサートは異例なほど短く、観客からはブーイングまで上がりかけたという。ただし、星川の様子を見て、ファンは思いとどまり、彼女が退出するのを見送ったと言うことだ。

異様な状況の全てが、彼女が何らかの形でトラブルを起こしていることを物語っている。監視に適当な場所を見つけると、誠也はガムを取り出して、口に含んだ。客がだいたい帰った頃だろうか。

俄に、警備の連中が緊張した。

悪趣味な黒塗りのリムジンが、コンサート会場の側に付ける。神の筈の客を押しのけて、警備がさっとその前に整列した。どうやら、間違いないらしい。I川会系の下部組織、しかも二次組織の若頭だ。所属人員三万を超えるI川会系暴力団だが、二次組織くらいになるとその財力、構成力は尋常ではない。会社でいえば、大企業の専務クラスだと考えても間違いない。その若頭が来るとなると、どうやらほぼ確定であろう。

後は、星川が犯人なのか、或いは事務所側がそうなのかを、冷静に見極めなければならない。

マネージャーが出てきた。卑屈に頭を下げている。それに対して、若頭は、まるでゴミでも見るかのような視線を向けていた。これは、分かる。部下の不始末に、無理矢理引っ張り出された上司が見せる表情だ。

奥へ案内しようとするマネージャーを、若頭の部下が小突いた。それでも卑屈に笑っているのだから、癒着の深さが伺える。いずれ、芸能界は大規模な膿だしが必要になってくるだろう。その時は一緒にテレビ局も潰れるだろうが、別に構わない。今時、誰もテレビなど重視していないからだ。腐るだけ腐ったテレビ局など、一度潰れてしまえばいいのである。

すっと距離を置いて、ホテルに戻ろうとする。

舌打ちしたのは、明らかな視線を感じたからだ。敵にかなりの手練れがいる。どうやら、ビジネスホテルに潜んでいる田中の方がそれに見つかったらしい。一文字のメールを入れる。逃げろと言う意味だ。

そして自分は気を引くべく、敢えて会場の方に戻る。

どうやら、さっさと引く前に、一仕事しなければならない様子だった。

 

4、疑惑の激震

 

星川からメールが来た。顔文字は殆ど使われていない。

「怖いです。 怖い人が、一杯来ています」

「マネージャーのバックにいる連中だ。 しばらくは大人しくしていろ。 間違っても、気を引くような真似はするな」

「はい。 どうしよう。 マネージャーが、あんな風に頭を下げている次の日って、乱暴な言葉をいっぱい浴びせられるんです。 ぶたれる事もあります」

「愚痴なら幾らでも聞く。 だから無理はするな」

携帯を閉じる。

少し前から、ずっと奴の気配がある。付けてきているのは三人。うち二人は、奴に言われるまま歩いているだけで、此方には気付いていない。それに対して、奴は正確に、此方の足取りを追ってきていた。

最初スナイパーかと思ったのだが、雰囲気からして違う。荒事担当の人間でも、出張ってくるタイミングは相手次第でいろいろある。今追ってきている奴は、制裁や制圧を目的とした格闘技を使う輩だろう。すっと、脇道に逸れて、速度を上げる。敵も、追う速度を上げてきた。

田中は既に会場付近からは逃げ延びている。念のため、今日は自宅には戻らないようにと告げてある。幾つか路地を曲がって、舌打ち。敵は距離をつかず離れずで上手に詰めてきている。

ならば、一旦挑発して、雑魚を引き離しておくか。

そう決めると、誠也が動くのは早かった。

わざと脇道に逸れた所で、転んだような大きな音を立ててみる。顔を見合わせた下っ端達が、走り出した。わざと影だけ見せながら、奥へ奥へと引きずり込む。奴も付けてきているが、徐々に距離が離れ始めた。そのまま、廃ビルの中に誘い込む。血相を変えて追ってくるのは、やはり組の若い連中であった。

「待てやゴラア!」

階段を駆け上がりながら喚き散らした男が角を曲がった瞬間、顔面に体重が乗った誠也の拳がめり込む。相乗効果だから破壊力は凄まじい。背中から壁に叩きつけられた男が、鼻血を撒きながら、階段を転げ落ちていく。もう一人がひるんだ瞬間、誠也は錆び付いた手すりを掴んで、同じように顔側面に強烈な回し蹴りを叩き込んでいた。顎に横から入った蹴りが、男の骨と歯を容赦なく粉砕する。へし折れた歯が数本吹っ飛び、無様な悲鳴を上げながら男が階段を転げ落ちていく。

鍛え抜いたバランスを駆使して階段に着地した誠也は、追いついてきた三人目を見た。帽子を深く被り、サングラスをした、三十代半ばの男だ。無精髭が顔中を覆っており、全身は鍛え抜かれた筋肉の塊であった。贅肉が全くない肢体の重量は八十キロを超えているだろう。

即座に正体を特定。知っている男だ。

「ほう。 やるな」

「S龍会の北島だな。 かなりの腕前だと聞いている」

「やれやれ、俺も名が知れたもんだな。 お前ら、邪魔だ。 下がれ」

這うようにして距離を取る子分共。銃器は与えられていなかったのだろう。ゆっくり階段を下りながら、フットワークを始めた北島と、距離を詰めていく。

北島はボクサー崩れで、二年前からI川系暴力団S龍会で用心棒をこなしている。兎に角容赦のないやり口が有名で、警察でもマークしている危険人物であった。今日は若頭の護衛できていたのだろう。

丁度いい機会である。これから交戦する可能性があった相手だ。此処で潰す。

「階段の上なら有利とか思ってないか? 若造」

「さてな」

挑発には乗らない。距離は五メートル。フットワークを、一瞬だけ早めた北島が、烈風のようなブローを膝めがけて放ってきた。飛び退く。数段を駆け上がった北島が、迫りながら数発のブローを叩き込んでくる。

ボクサーの拳は凶器だ。しかも、グローブ無しでの速度と破壊力は想像を絶する。その上北島はハードパンチャーとして現役時代から知られていた男だ。だから、まともに相手をしない。徐々に下がる誠也に、北島は不意に止まり、距離を置く。ボクサーとしての勘か。何か、おかしいと気付いたのだろう。

「どうした、仕掛けてこい」

静止は数秒。次の瞬間、痺れを切ったのは北島だった。

数メートルの距離を詰め、腹めがけてブローを放ってきた。まともに受ければ内臓が潰れる一撃だ。其処で、不意に前に出る。そして、北島の頭を掴むと、顔面に膝蹴りを叩き込んでいた。

段差があるから出来たことだ。呻く北島だが、それでも耐え抜く。流石タフなボクサーである。だが、それが限界だ。ふっと緩んだ北島の懐に入り込むと、今度は右手で錆び付いた手すりを掴みながら、顎を頭突きで跳ね上げる。呻いた北島に、更に左膝を狙って、ローキックを叩き込んだ。体勢を崩した北島に、とどめの回し蹴りを叩き込み、階段から落とす。

階段から落ちた北島が、脇腹を押さえて呻く。不自然な態勢であったし、骨に罅が入ったのだろう。

其処へ、跳躍した誠也が、右肘を全体重を掛けて踏みにじっていた。骨が砕ける音が、湿った廃屋に響き渡る。

「がっ! うぎゃああああっ!」

「これで終わりだ」

あり得ない方向に曲がった右肘を踏みつけながら、顔を庇おうとした左手を、渾身の力で蹴り上げる。左手の手首が骨折して、指が何本かへし折れる音が響く。更にへし折った肘を捻り潰しながら、顔面に踵を落としていた。

これで、此奴の両腕は死んだ。二度と暴力を商売用として使えるようにはならないだろう。

北島の部下が、悲鳴を上げながら逃げていく。泡を吹いている北島だが、今までの様子を見ている限り、致命傷は受けていない。誠也としては、殺さず仕留めることが出来れば充分だったから、これでいい。

すぐにその場を離れて、駅に。携帯を開いて、吾川に連絡。

「どうした、何かあったか」

「S龍会の介入を確認。 若頭の陽道が出てきています」

「本当か。 ならば、サディンはほぼ間違いなくクロだな」

「後は証拠ですが、何かいいのが上がってきていますか?」

そちらはまだ情報がないそうである。この近辺にいるのは危険だ。誠也も、複数の人間を同時に相手にはしたくない。どのような達人も武器を持った相手に囲まれてしまえば終わりだ。ましてや、誠也は達人とはほど遠いのである。

敢えて、北島を潰したことは言わないでおく。電車に乗り、まずは警視庁に向かう。その途中、星川から連絡があった。

「怖い人達、帰りました。 一番えらい人が、マネージャーをすごく怒っていたみたいでした」

「そうか。 しばらくは、大人しくしている方が良いだろう」

「そうします。 私の友達も、後輩達も、こういうのは経験がないって言って、怖がってました」

眉を一瞬だけ跳ね上げた誠也だが、それ以上は何も言わない。大手の事務所にいる以上、そのような経験がないというのは露骨で笑止な嘘だ。

もちろんファンとして星川を信じたいことはあるのだが、それ以上に警官としての嗅覚が、彼女を無条件には信用させない。彼女が歌うオーラのあるポジティブな曲を思い出すが、それでも結果は変わらない。

最寄り駅に着くと、携帯が鳴った。吾川からだ。

「もう着いたか」

「はい、今」

「急いで捜査本部に来い。 三人目のホトケが上がった」

今頃サディンは上へ下への騒ぎだろうなと思いながら、誠也は携帯を畳んだ。

捜査本部に着くと、既に多くの情報が集まってきていた。更に四人の増員が決まり、弓山の負担が増しているのが分かった。増援の顔を見る。皆、マル暴の連中だった。

今度の被害者は、四十代半ばの男であった。状況は同じ。頭部を鈍器で殴られた後、簀巻きにして、どぶ川に捨てられていた。まだ鑑識の結果は出ていないが、死骸に残った痕跡から凶器は前回、前々回と同一の鈍器。神谷町近辺で、溝に浮いている所を発見された。ただし、死亡推定時刻は七日前である。連続殺人だとすると、この男が最初だろう。

死骸は水死体特有の無惨なものであったが、胸ポケットなどに入っていた遺留品から、既に被害者の身元は割れている。都内に住んでいた、元アイドル事務所のマネージャーである。

見覚えのある名前だったので、田中にメールを送ってみると、案の定だった。

「そいつ、アダルトビデオの帝王って言われてた奴だ。 とにかくスカ系からSM系まで、ハードでディープなビデオを撮るって言うことで有名で、清純派アイドルを酷い目に遭わせてる最低の野郎だ」

「最低なのは、そいつよりもむしろそんな仕事を回した事務所だろう」

内心呟くと、誠也は挙手して、男の経歴について助言する。すぐに調査するように弓山が指示した。

既に三人も被害が出ているとなると、マスコミも動き出す頃合いである。今までは「平凡な殺人事件」という事でろくな取材をしなかった連中も、芸能事務所が関係しているとなると、目の色を変える。理由は簡単で、部数を稼げるからだ。もちろん義侠心のある記者もいるだろうが、現在の社会では、むしろ物笑いの種になっている。もちろん大筋でだが、出世する記者とは、気概がある人間ではない。的確に、スポンサーを喜ばせながら部数を稼げる記者だ。

死体からは薬物反応も出ていた。濃度から言って、どうやら常習犯らしい。更に、少し調べただけで、サディンとの関連も伺われる事象が出てきていた。他の二人と併せて、アリバイと背後関係を当たるように弓山は指示。それから、腕組みした。

誠也には分かる。弓山が悩んでいるのは、タイミングだ。サディンに踏み込むにしても、相手はプロの暴力組織をバックに抱えている。もちろん顧問弁護士も出てくることだろう。ある程度の証拠がなければ、彼らをねじ伏せるのは難しい。

ある程度証拠が揃えば、事態はぐっと簡単になる。暴力組織にとって、必要なのは金だ。自分たちが関わることで損しかないのなら、必要な手を打ってさっさと引き上げる。蜥蜴の尻尾切りをして、手を引くだろう。ただしその場合、証言が出来る人間を、無事に抑えられるかどうかが勝負になる。

どちらにしても、重大なマークが必要になってくる。後は、誰と誰に監視を絞るか、だが。

「藤堂、平沼。 お前達は、サディンのマネージャー黒田を張れ」

「はっ!」

「生島、吾川。 お前達は星川遥を張れ。 S龍会は、私と、平井、芦田、鴨川……」

すぐに配置が決められる。素早い配分ながら、ベテランの弓山らしい手堅い配置だ。精鋭が揃う一課のメンバーを、適切な相手に振り分けている。殆ど休憩無しで、そのまま出ることになったが、別に疲れは感じない。人相を見せるようなへまもしていないし、コートを変えるだけで充分だ。

コートを羽織ると、吾川とともに、誠也は対策室を出た。

既に外は真っ暗である。これから星川に会うとなると、少し倫理的な問題もあるかも知れないが、今は緊急事態だ。

それに、もしも星川が犯人の場合、逃がす訳には行かない。

今のところ、ガイシャのアリバイではっきりしていない所があり、其処が運悪く外部から確認できる星川のスケジュールと重なっている。マネージャーの他、数人の関係者も重なっているので、一概に怪しいとは言えないのだが。

ふと、警視庁を出る時、視線を感じた。誠也はいやな予感を抑えると、コートをかき寄せて、夜道を急いだ。

 

周囲は既にすっかり夜になっていた。

高級オフィス街だから、夜でもまばらに通行人がいる。報道陣が既に現れているかと思ったのだが、意外にもサディンの事務所は静かだった。星川は自宅ではなく、事務所にいた。まだ高校生だというのに、大変である。もっとも、コンサートで見る限り、星川は尋常ならざる体力の持ち主だ。

誠也を見ると、一瞬だけ星川は嬉しそうな顔をしたが、すぐに素知らぬふりをして視線を逸らした。此処で既知と知られてはならないという知恵くらいは働くのだ。マネージャーは抗議していたが、しかし警官に両脇を抑えられて、奥へ連れて行かれる。警備の人間達も、実際に警察が来てしまうと、どうにも出来ない。すぐに何人かが、裏口からこそこそ出て行った。

「抑えますか」

「かまわん。 奴らのボスの所にも、今頃弓山さんが向かっている」

喫煙室に向けて歩きながら、吾川は言った。任意同行とはいえ、かなり状況は厳しい。マネージャーの黒田は真っ青になっていた。そして、星川も。後で黒田にどんな目に遭わされるか分からないというのが、その理由だろう。

吾川がいなくなり、マネージャーもいなくなって。二人きりになった。星川は少し気まずそうにしていた。

「あの、刑事さん。 その……」

「君も、事件の容疑者の一人になっている」

口をつぐむ星川。あまり良い気分はしないが、告げておく必要があった。

「俺は刑事だから、全てを疑わなければならない。 それは、許して欲しい」

「はい。 正直に話してくれて、嬉しいです」

「君はまだ隠し事をしているな」

「……分かっちゃうんですね。 お巡りさんだから、ですか?」

それは違う。勘もあるのだが、それ以上に、星川の言動にはあまりにも矛盾が多すぎた。今もまだ、星川が猫を被っている可能性を、誠也は排除していない。

「立場を少しでも良くしたかったら、出来るだけ我々に話して欲しい。 俺も、君を疑いたくはない」

「ごめんなさい。 すぐには」

スタッフがどやどやと入ってきた。どうやら報道陣が来たらしい。対応は吾川がすることになった。

星川はスタッフが入ってくると、さっきまで見せていた、脆そうな女の子らしい表情を消して、笑顔という仮面を被った。

流石はタフなアイドルである。

そして、それからずっと、星川は笑顔を崩さなかった。

アイドルを大勢育ててきた老舗芸能事務所、サディンに、連続殺人事件と関与している可能性あり。

翌日、新聞の見出しに、その文字がおおきく躍った。

 

弓山より連絡があったのは、事務所に踏み込んでから、二日後の事であった。

既に警察では、黒田を主眼に据えての、念入りな取り調べを行っている。これにたいして、S龍会は沈黙を守り、またそれ以上の殺人事件も発生してはいなかった。

田中から送られてきた情報の解析も進んでいる。一部には偏見からの誤情報もあったが、案外精度が高く、解析班も驚いていた。また、ガイシャである三人も、多くの点でサディンとの関連が認められ、後はアリバイと、偽装工作が主題になった。

そんな中での連絡である。誠也も、毛布でくるまって眠っている星川を何度か背中に庇うようにしながら、緊張して携帯を開いた。

「弓山だ。 そちらはどうなっている」

「今のところ、怪しい動きはありません。 静かすぎるほどです」

「そうか。 他にも目を付けている幾つかのカ所でも、動きらしいものはない。 S龍会も、到って静かだ」

「分かりました。 こちらは、監視を続けます」

携帯を閉じると、星川が目を擦りながら身を起こす。ここ数日は、ずっと監視がてら側に着いているのに、あまり嫌そうにしないのが救いではあった。時々交代しながら見張っているが、最初は青ざめていた星川も、徐々に元気になってきている。

「刑事さん?」

「定時連絡だ」

「そうですか。 すみません。 欠伸したいので、向こう向いてください」

無言で視線を逸らす。大きな欠伸をする声がした。昨日に比べれば睡眠時間も増えているようだが、それでもかなり短い。ただ、顔を洗って、さっと目を覚ます技術については、驚かされた。

売れている時期のアイドルは、大型トラブル対応時のシステムエンジニアなどと並ぶ、最も睡眠時間が取れない仕事の一つだ。短い睡眠時間でやりくりする術については、身をもって学習しているという事なのだろう。

顔を洗った星川は、学校へ行くと言い出した。相談の末、監視の刑事を二人増やすことで対応する。もちろん学校に踏み込むつもりはない。外側から監視を行うのだ。もちろん生徒達には威圧を与えないように、最大限の注意を払う。

セダンに乗せて、学校へ。事務所からだと、車で三十分ほどの距離だ。前後を護衛の覆面パトカーが走っている中、助手席に座っている星川は、白い歯を見せて笑った。

「もっと汚い車かと思ってました」

「客を乗せることもあるからな。 ある程度は掃除している」

「でも、もっと小物とかが欲しいです。 後ろにお人形並べたりとかしたいなあ」

「それでは、元からの用途を満たすことが出来ない」

ラジオからは、黒田の取り調べが続いていると声がこぼれてきていた。実際には任意同行での事情聴取なのだが。S龍会はそろそろ弁護士を繰り出してくる準備をしているはずなのだが、妙に静かな所が気になる。極小の可能性だが、まるで見当違いの方向をつついている事も視野に入れなければならないだろう。或いは、この状況からも、蜥蜴の尻尾斬りを行える自信があるのか。

首都高速に乗って、すぐに降りた。ちょっと走ると、もう横浜だ。星川は、横浜の私立高校に通っているのである。

学校の近くで、車を止めた。流石に学校に横付けする訳にはいかない。

「車は俺が見ておく」

「お願いします、吾川さん」

一礼して、星川の後を追った。他の刑事達も、めいめい別方向に散る。出る前に、誰が何処を見張るかは、既に決定がなされていた。星川には場所を教えないことを、事前に伝えてある。少し寂しそうに、星川は笑っていた。

学生達が、怪訝そうに帽子を目深に被って人相を消している誠也を見た。学生服に身を包んでいる星川は、少し前を歩いていたが、時々話し掛けてくる。

「刑事さん、いざというときは、私を信じてくれますか?」

「俺は刑事だ。 皆の安全を守る仕事だ。 だから、例え肉親が容疑者であっても、客観的かつ公平に判断しなければならない。 辛い話だが」

「辛いって、思ってくれるんですね」

「ああ。 俺は君がデビューした頃からファンだった。 数少ないが、現役のアイドルの中でも、もっともカリスマとオーラがある君を疑うのは心苦しい。 出来れば君が、連続殺人の犯人ではないと、証明されて欲しいとは思っている」

誠也は気付く。星川に話し掛けてくる同級生が一人も居ないことを。

社交的な女子生徒になると、非常に交友関係が広くなることがある。星川は明るく健康的なアイドルであることを売りにしていたのだが、どうやらそれは、実際の交友関係とはあまり関係が無いらしい。事務所で見せていた素らしい明るさは、交友にはプラスに作用しなかったのだろうか。或いは、あれも作っていた性格なのか。

キャラクターを作るアイドルは、それこそ幾らでもいる。だから、別に誠也は、何とも思わなかった。

校門に着いた。他の生徒達がわらわらと学校へ入っていく。市立と言っても、それなりに偏差値が高い学校である。遅刻をしたり、平然とさぼる生徒が当たり前になっている昨今だが、それでもそういう不届き者はあまり多くないようだ。

すぐに配置につく。下駄箱当たりで打ったのか、星川からメールが飛んできた。

「守ってくれてありがとう。 心強かったです」

「俺には、それしか取り柄がない」

素早く打ち返すと、誠也は心を切り替える。

此処からは、戦場にいるのと同じ。いつどこから星川を狙うヒットマンが現れても、おかしくないのだから。

無線を使って、互いに連絡し合う。監視態勢を整え終わるまで五分。学校には既に、弓山の方から話を付けてくれていた。

校門に、こっそり忍び込もうとする報道関係の男を発見。襟首を掴んで、引っ張り出す。そして軽くげんこつをくれて、尻を叩いて追い出した。悪態をつきながら逃げ去るパパラッチを見送ると、誠也は吾川に報告した。

「そのまま監視を続けます」

「油断はするなよ」

星川は重要な参考人だ。

周囲に張っている刑事達も、皆気合いを入れて、警戒に当たっていた。

 

ラジオからは、黒田の事情聴取と、サディンの疑惑が大々的に流れてきていた。

大型の事務所になると、テレビ局と密接につながっている。それはすなわち、政界や財界にパイプを通している者も多いと言うことだ。サディンはテレビ局と関係が深い事務所であり、当然経営者には大物が少なからず揃っている。

しかし、妙なことに。財界も政界も、動きが鈍い。車の中で昼食を終えた誠也は、交代の刑事に声を掛けて、見張りに出た。あんパンを口にしながら、油断無く周囲を見て歩く。やはり報道関係者らしいのが、ちらほら見えた。

吾川から連絡。歩きながら聞く。

「何だかおかしいな。 東都テレビが動きやがらねえ。 今頃サディンは必死になってるだろうに」

「子飼いの事務所が大スキャンダルを暴発させかねないのに、妙ですね

「それで、おかしな話を聞いたんだ。 華山マキは知ってるか」

「それはもう」

愚問である。

華山マキ。星川の一世代前の、不動のトップアイドル。今ではタレントに転身しているが、チャイドルから実績を重ねファンを増やして来た古株である。現在ではテレビに出るだけで視聴率が10%上がるとか言われている怪物的な存在だ。ルックスも良いのだが、それ以上に歌唱力とダンスの力が凄まじく、見た者の目を釘付けにして離さない。特に歌番組に出る場合、彼女が歌う前後は紅白並にまで視聴率が跳ね上がる。あらゆる世代に絶大な人気を誇り、女子も男子も満遍なく虜にしている、現代のトップスター。しかもどういうコネがあるのか、最近ではテレビ局内に巨大な人脈を作っていて、幾つかの局は既に半ば掌握しているとも聞く。

誠也も好きな芸能人の一人だが、未だ衰えぬ圧倒的な歌唱力やダンスよりも、同類であることをどこかで漂わせている空気が好きだった。多分実戦経験者で、誠也よりも遙かに強いだろうとも見ている。良くしたもので、サムライガールと呼ぶ外国人が少なくないそうである。

皮肉な話だが、アイドルの時代にとどめを差したのが彼女だと言われている。誰もが華山に圧倒され、打ちのめされた。だからこそに、それ以下の力しかない、他のアイドルにはファン達も興味が失せてしまったという事情もある。

元々縮小していた市場は、それで決定的な打撃を受けて、今に至っているのである。

「華山が、なにやら大規模に動いているそうだ。 テレビ局はその対応で必死らしい」

「最近では財界にもコネがあるとか聞きますね。 あの娘、テレビ局内クーデターでも起こすつもりでしょうか」

「ははは、大げさな。 兎に角、今の内に黒田をゲロさせちまえば、俺達の勝ちだ。 それに、地固めも進んでいる」

既に、二人目の被害者が、サディンを相手に強請をしていたことが判明している。三人目の被害者も、二人目の被害者と面識があり、裏で連んでいた可能性が高い。他のラインも手繰ってはいるが、どうやらあらゆる状況証拠から、サディンが連続殺人の焦点になっていることは、ほぼ間違いないという。

後は、誰が犯人か、なのだが。

「後はアリバイから、犯人を洗うことですね」

「黒田はほぼ鉄板として、今気を配るべきは他の連中だな。 星川については、動機らしいものが上がり始めた」

「というと」

「最初の被害者の高梨だがな。 どうやら星川に、かなり偏執的な手紙やメールを送りつけ続けていたらしい。 最近では家を突き止めて、タチが悪いストーキングをしていたそうだ」

高校生をストーキングする中年のファン。世も末だ。同じファンとして、風上にも置けない奴だとしか言いようがない。

しかしそうなると、何でポスターを破ったのか。あれには、純粋な敵意か、苛立ちか悪意に近いものを誠也は感じ取った。

「何故事務所は通報をしなかったんですかね」

「そこだな。 多分、高梨に何か握られていたんじゃないかって話になってる。 だが、そうなると、S龍会が何故で張らなかったのかが気になってくる」

あるいは、既に出張った後だったのか。

それならば、余計に気になる。犯罪組織が消したのなら、人気のない山奥にでも埋めるはずで、あんな分かり易い発見されやすい場所に、沈める訳がない。良くてもコンクリ詰めにして、東京湾だろう。ヘドロに埋まって、まず死骸は上がらない。

「とにかく、来週には大規模ながさ入れを行う予定に決まりそうだ」

「黒田が何処まで吐くかが問題になりそうですね」

「野郎、弁護士を呼んでくれの一点張りだ。 ベテランの刑事が入れ替わりいろんな手で落とそうとはしているんだがな」

会話を終えると、ワゴンが通り過ぎていくのを見た。中に乗っていた報道関係の人間らしいのが、ちらりと誠也を見た。

芸能人に人権はない。それが彼らの主張である。恋愛からゴシップまで全てを金儲けのために利用される。それで金を取っているのだから、何をやってもいい。事実、そう言った記者を、誠也も見たことがあった。歌舞伎役者を、一匹二匹と数えていた時代があったのだが、その悪弊はこんな所に形を変えて残っている。

ゆっくり学校の周りを回って、授業が終わるのを待つ。

随分穏やかそうな高校だ。誠也が師匠に入れられた高校は、中学の遅れを取り戻そうとでもいうのか、空気が張り詰めた進学校だった。虐めは無かったが、その代わり誰もが誰もと関わろうとせず。その冷たい空気が、誠也には却って心地よかった。

過去を思い出していた誠也は、ふと違和感を覚えていた。

やはり、どうもおかしいのだ。

黒田が何かしらの形で事件に噛んでいるのはほぼ間違いない。あの時、会場で見た陽道の表情は、黒田のミスを責めるものだった。黒田の様子から言っても、濡れ衣を着せられていると言うよりも、ばれるはずがない事がばれた雰囲気であった。

しかし、黒田の単独犯にしては、殺しの実行があまりにも鮮やかすぎる。黒田は経歴を調べた所、多少荒れていた時期があるものの、本格的に犯罪組織に関わった事はない。もちろんアダルトビデオに旬が過ぎたアイドルを売り飛ばすようなことはしていただろうし、暴力団と興業の関係で何度も関係を持っただろうが、それはそれである。犯罪のプロとはほど遠い。そのくせ、後のお粗末すぎる展開と言い、どうしても気になる事が多すぎる。それに、星川もノーマークではいられない。充分に動機があるからだ。

星川が黒田を庇う可能性も考えたが、楽屋で見たやりとりを思い出す限り、あり得ないと判断。黒田は明らかに、星川を金の卵を産む鵞鳥としか考えていない。つまり、人間だと思っていないということだ。そして星川も、黒田を嫌っている。

不可解な動きを見せている財界、政界。それにテレビ局。何よりも、今や下手な政治家よりも力を持つと言われている華山。全てが何かしらの事件に絡んでいるとしたら。いや、それは流石に考えすぎか。

頭を振って、一旦思考を整理し直そうとした時。携帯がまた鳴った。田中からだった。

「どうした」

「大変なことがわかりやがった。 口では説明しづらいから、送ったファイルを見て欲しいんだが」

「今、外で星川を護衛している所だ。 要件だけにまとめられないか」

「ちっ、羨ましいなあ」

脳天気なことをほざく田中に殺意を感じたが、黙っておく。一旦携帯を閉じると、塀を乗り越えようとしていた男の襟首を掴み、引き倒す。尻を叩いて追い払うと、再び携帯を開いた。

「それで、要件はどうなっている」

「あ、ああ。 実は黒田なんだが、テレビで放送されている二番目の被害者、土方貴子と、結構大掛かりなネットワークを組んでいたらしいんだ」

「ほう? ネットワークだと?」

「苦労して調べたんだぜ。 要するに、スカウトの仕事を、水商売の方で培ったネットワークからやってたらしいんだ。 その中核になっているのが、土方らしい。 黒田は土方に金を渡して、有望なのがいないかどうか、調べさせていたって所だ」

なるほど、確かにありそうな話だ。

此処で言う水商売のネットワークというのは、何も風俗に出ている女や、ホステスか何かを、直接アイドルに仕立てるという訳ではない。彼女らの人脈を使って、有望そうなのがいないか探していると言うことだ。

学校の同級生にしても、彼女らの友人の家族でもいい。もとより、水商売に出るような女性は、金銭的に首が回らなくなって、という場合が多い。中には好きでこの仕事をしている変わり者や、抵抗がない者もいるだろうが、それはあくまで例外中の例外だ。食べていけないから、この仕事をしているのだ。

だからこそに、逆に情報網は広範囲にもなる。また、首根っこを掴んでいる以上、あらゆる事を聞き出すこともたやすいという訳だ。

それにしても、金を渡してまでハイリスクな人脈を頼るとは。ひょっとすると、サディンの経営は、かなり厳しくなりつつあったのかもしれない。

「ファイルの方は、参考に見させて貰う。 協力、感謝する」

「あ、ああ。 そ、それでなんだけどよ。 これで、遙たんは、犯人じゃないよな。 黒田が、犯人だよな」

「残念だが、そう判断するには性急だな。 それに黒田が犯人だったとしても、星川の芸能人生命は致命傷を受けるだろうな」

通話を切ると、星川がいる教室の窓を見上げた。

穏やかな空気だ。どうやら社会科の授業らしく、歴史的な話が聞こえ来る。遠すぎて具体的に何を言っているかは分からないが、古代の税制やら年表やらの、断片的な話だけは理解できた。

一旦、田中からの情報を洗い直して、なおかつ背後関係を整理する必要があるだろう。誠也は鑑識の方に連絡をすると、田中からのデータを解析するように依頼した。

田中はあれで、生粋のファンだ。それが必死に、星川の関与を否定しようとして調べたことだ。危ない橋を渡った可能性もあるデータであるから、それなりの価値がある可能性は否定できない。

別の刑事と、すれ違う。無言で目礼をして、さっと歩く。

事件は大詰めにさしかかっているはずなのに。あまりにも分からないことが、多くありすぎた。

夕刻、星川が校門から出てくる。通学路の途中まで一定距離を保ち、途中で車に収容した。制服の星川は、やはり疲労の色が隠せない様子であった。如何にタフと言っても、こう長丁場では疲れもしよう。警察の方からは、何も余計なことは言わないように言っているが、それは愚問だろう。普段から事務所にも、口を酸っぱくして言われているはずだからだ。

「ふー。 疲れましたー」

「家まで送る」

「有難うございます、刑事さん。 あ、お弁当少し余ったので、食べますか」

そういって差し出してきたのはハムサンドだった。学食で買ったはいいが、食欲が無くて残してしまったのだとか言った。だが、雰囲気から言って、外を警備している誠也のことを考えて買ってきてくれたのだろう。

「分かった。 貰おう」

「ふふ、刑事さんって、二十歳ちょっとですよね。 それなのに、あまり年が離れていないって、思えないです」

「老け込んでいるとは、良く言われる」

「え、そんな。 クールでかっこいいです」

となりでにこにこしている星川に、邪気は感じられない。

素直に喜んでおくべきだろうと誠也は思ったのだが、しかしまだ何処か、何かが引っかかるのだ。

この娘は、一体何を隠している。明るく人なつっこいように見えるのに、どうしてこうも友人が少ない。

ハンドルを握る手に、心なしか力が籠もった。

 

5、絡み合う糸の向こう

 

星川を自宅に送り届け、その前の道路に駐車して。交代して眠っていた時のことである。明け方、五時を少し回った頃だろうか。そろそろ起きようと思った誠也の耳に、けたたましい声が飛び込んできた。

「起きろ、生島!」

すっと意識が覚醒する。職業病だ。

コートの内側の拳銃に手を掛けながら、周囲を見回す。窓の外に吾川がいる。ドアを開けて、同僚と一緒に車を出る。コートを着ているとはいえ、冷たい朝の空気が全身をなで回した。

「進展ですか」

「ああ、とんでもないことになりやがった!」

星川に何かあったのかと思ったが、それなら違う反応になるはずだ。別の警察車両であるワゴンに入り、携帯式のテレビを見る。早朝のニュースに、とんでもないものが写り込んでいた。

頭を下げる、東都テレビの社長の姿である。会長もその隣で頭を下げている。

そして更にその隣には、サディンの経営者代表である蛭川社長が、見事にはげ上がった頭を台に付けるようにして這い蹲っていた。

「これは、どうしたことなんですか」

「黒田がゲロったんだよ。 そうしたら、ものの三十分でこれだ」

テレビの向こうで、東都テレビはサディンの解体と首脳陣の更迭を発表。更に、責任を取って社長と会長が一緒に辞任すると言った。彼らの顔は青ざめており、それが罪悪感よりも、むしろ屈辱によるものだという事は、一目瞭然であった。

「やはり、三件の殺人は、黒田が」

「いや、正確には、S龍会に依頼したらしい。 だがな、不可解な件が多すぎて、あまりにもせっかちな状況に、弓山さんも首を傾げてる。 既にS流会の陽道は抑えたようだが、奴が吐くかどうか」

雷光のように瞬いた言葉がある。クーデターではないのか。これは。

今まで動きが妙に鈍かったサディンの背後が、一斉更迭されたのである。何か関連があると、考えない方がおかしい。テレビで垂れ流されるもったいぶった謝罪とフラッシュの光を横目に、情報課に連絡。知人の刑事が出た。話が早くて助かる。

「東都の会見はもう見ているな」

「はい。 会長、社長の他、旧首脳陣は根こそぎ更迭される模様です。 政界からの介入も無し。 警察への圧力も、掛かっている様子がありません」

「跡を継ぐのは」

「今、調査中ですが。 天下り人事でトップに居座った者達と、警察にマークされていたような人間は、根こそぎ追い払われる様子です。 草刈りは、ディレクターにも及んでいるみたいでして」

礼を言うと、携帯を閉じる。充電器に載せながら、腕組みしている吾川に言う。

「やはり、間違いなくクーデターですね」

「しかし、いくら何でも、タイミングが良すぎる」

「我々は、利用されたんじゃないですか?」

隣にいたもう一人の刑事が言う。分かってはいたことだが、指摘されると腹も立つ。歯ぎしりする吾川の横で、誠也は帽子の鍔を下げていた。

烈火のように燃え上がる心を落ち着かせる時にする癖だ。しばし目を閉じて、集中する。そして目を見開いて、事件を最初から整理しはじめた。

やがて、一つの点と線がつながる。

「すみません、黒田に話を聞きたいんですが、少し席を外しても良いですか」

「何か分かったことがあるのなら、此処で話せ。 独走するのは悪い癖だって、以前弓山さんにも言われただろう」

「……今回の事件、黒田は主犯で間違いないでしょう。 ただ、あまりにもおかしい事が幾つかありまして。 黒田自身に確認したいんです」

「具体的な内容は」

流石に吾川だ。煙にまけない。こういう所が苦手なのだが、仕方がない。もう一人の刑事も聞いているし、話さざるを得ないだろう。

「多分黒田は、あまりにも問題がおおきくなった闇のネットワークを、S龍会に依頼して高梨ごと処理したんでしょう。 ただし、それは本来、ばれるはずがない事だった。 それなのに、あり得ない場所から死体が出た」

「つまり、別の勢力が、最初から事件に噛んでいたと言うことか」

「恐らくは。 それは多分、想像以上に根深いのではないかと。 以前コンサート会場に陽道が来ていましたが、その時に、何処まで警察にばれたら吐くようにと言われたのでしょう。 だから混乱しながらも、あっさりと吐いた」

つまりその辺りを指摘すれば、更に奥からの事情を、吐き出すかも知れないという事だ。

吾川は腕組みしていたが、頷く。

「分かった。 弓山さんに連絡して、それを話してから行け」

「有難うございます」

弓山の電話番号をコールしながら、誠也は星川のことを思う。

今、点と点が、線でつながっている。その中には、星川の事も含まれている。彼女は、ほぼ確実に、この件に関わっている。ただ、それをどういう形で関わっているか確定するには、まだ情報が不足している。

セダンを飛ばして、黒田が移送された本庁へ急ぐ。

まだ、この事件は、終わってはいないのだ。

 

手帳を見せて、黒田の元へ。憔悴しきった黒田は、当然誠也を知らないだろうから、どんよりした目を無気力に向けてくるばかりだった。無精髭が、疲弊の程を物語っている。

調べてみると、分かった。この男も、昔はアイドルを育成することに真剣に取り組んでいた時期があったらしい。多少荒れていた過去から立ち直り、やりがいだと思っていたのだろう。

だが、あまりにも障気が深い芸能界という地獄が、彼を魔物に変えた。いつしか手を汚すことを何とも思わなくなり、大事に育て皆で慈しむべき娘達の尊厳と魂を切り売りするようになっていった。その代わり得た金で贅沢をすることを、ためらわないようになっていった。

既に、取り調べの刑事から聞いている。この男、高梨が土方と裏でつながっており、一千万近い金をゆすられていたことを指摘したら、吐いたという。つまり其処まで嗅ぎつけられたら吐くようにと、陽道に言われていたのだろう。

取り調べの刑事に場を外して貰う。そして二人きりになってから、口を開く。

「黒田。 お前、売られたな」

不意に、黒田が視線を誠也に向けてくる。売られたという言葉に、反応したのは間違いない。

「一つ教えてやる。 今、サディンの解体が決まった。 東都テレビの首脳陣も、根こそぎ解任だ。 テレビ局内でクーデターが起こったんだよ」

「う、嘘だ」

すがるような声だった。多分、東都テレビが顧問弁護士を出してくれると思ったのだろう。

「恐らく、華山マキだ。 どういう背後関係があるのかは分からないが、彼奴はお前の動きを全部把握していた。 それで、クーデターを起こすのに利用したんだろう。 今後、東都テレビは彼奴の私物になる。 他のテレビ局も、じきに陥落するだろうな。 マスコミが自分たちを貴族だと考えて我が物顔に作り上げてきたネットワークが、崩壊する日が来たんだよ」

見る間に真っ青になる黒田。全身が震えているのが分かる。怒りからではない。恐怖からだ。

殺人示唆は、直接殺人をしたのと殆ど変わらないほどに罪が重い。此奴の場合は三人で、しかも更に余罪がある可能性が高い。もしも誠也の読み通り、華山が裏で糸を引いているとすると。クーデターを成功させるために、更に切り札として投入してくる可能性もあるだろう。

「お前、ひょっとして、華山に新政権に加えて貰える約束だったのか」

絶望しきった顔で、黒田は首を横に振る。それは否定の意味ではない。喋れば何をされるか分からないと思っている人間が見せる、必死の行動だ。

分かる。黒田は、S龍会よりも、華山を恐れている。もしも下手なことを喋れば、その場で命がないと思っているのだろう。華山が具体的にどのような戦力を抱えているのかは分からないが、そのおびえは尋常ではなかった。後一押しだと思っていたのだが、まだ一押し必要そうだ。

不意に携帯が鳴った。吾川からだった。

「生島、いるか!」

「どうしました」

「星川遥が自殺未遂を起こした! すぐに来い!」

頭の中が真っ白になる。

携帯を取り落としそうになったが、その場で何とか持ちこたえた。そうか、あの思い詰めた様子は、これを覚悟していたからか。

乱暴に携帯を閉じると、おおきく歎息。

「命拾いしたな、黒田」

そのまま誠也は、取り調べ室を後にした。担当が星川の護衛である以上、此処に長居する訳には行かなかった。

 

駆け込んだ先は、K大の大学病院であった。札のデザインにもなった人物の胸像を横目に、星川が収容されている部屋に急ぐ。吾川からの連絡で、命は取り留めたと言うことは分かってはいたが。

まだ、安心は出来なかった。

星川は、湯を張った洗面器で手首を切ったのだ。家政婦が気がついた時には、既に洗面器は血の海であったという。すぐに警察と病院に声が掛けられ、すっ飛んできた救急車によって輸血と搬送が行われた。救急車にはマスコミの車が食い下がろうとしたが、吾川が機転で急ブレーキを掛け、追い払ったという。ただ、ナンバーなどは控えられているだろうし、此処に報道陣が押し寄せるのも時間の問題だろう。

今は東都テレビのクーデターに視線が向いているだろうから、その隙にさっさと態勢を整えるしかない。

病院の中を早足で急ぐ。

K大大学病院は一流の人員を揃えていると評判だが、内部は比較的老朽化が進んでいて、特に病棟は少し古い学校を思わせる。四階行きの、病院特有の足が遅いエレベーターに乗る。苛立ちが募るが、動き出せばあっという間だ。降りると、吾川の顔を確認。既に他の護衛達も集まっていた。

冷たい視線が注ぐ中、頭を下げる。吾川は冷え切った声で言った。

「いや、行かせたのは俺の責任だから、お前が頭を下げることじゃねえ。 もっと内部に気を配るべきだった」

「意識は戻りましたか」

「いや、まだだな」

携帯が鳴る。こんな時になんだと思って開くと。それはなんと、星川からのメールだった。

思わず目を剥く吾川に、説明する。

「時間差で送ったメールでしょう。 そういうサービスを備えている携帯があるんです」

「そうか、最近の携帯は凄いものだな。 それより、いつのまにメールなど貰う仲になっていた」

「護衛の関係で必要なので、アドレスを教えていました」

他の刑事達が、羨ましそうに見ている中、誠也はメールの文面を確認。

覚悟はしていたが、内容は予想通りのものであった。

病室を覗く。点滴用の血液がぶら下げられ、中身は半分程度にまで減りこんでいる。手術をするほどの状態ではないともいうが、まだ予断は許さない。それにしても、家族が見あたらないのは、どうした事か。

「家族の方々は」

「うん? ああ、そうか。 お前は家に入っていなかったな」

「どういう事です」

「一年も前から、星川は自分の稼ぎで建てた家に一人暮らしだよ。 通報してきたのは、家事を担当しているホームヘルパーだ」

そのホームヘルパーはずっと付き添ってきていたのが、心労でさっき倒れてしまい、隣の部屋で寝ているという。家族は連絡しても、来る様子さえ無いそうだ。

吾川が言うには、星川の家族は筋金入りのろくでなしばかりであったという。父はギャンブル狂で刑務所に出入りを繰り返し、母は薬物中毒。兄は過激派だそうである。アイドルにデビューした娘の稼ぎは家族達に吸い上げられており、たまりかねた本人が独立。しかし、その後も家族によって金の無心は続いていたのだそうだ。

家の中は恐ろしいほど何もなかったと、吾川は呟いた。兎に角、彼女は幼い頃から趣味の類を一切持つことが無かったらしい。本どころか、小物類も全くなかった。自室は殺風景な箱で、カーテンも無地で個性なし。サディンに入ったのも、両親に半ば売り飛ばされるような形であったとか。

田中のデータには、すっぽりその辺りの情報が欠落していた。もちろん誠也も知らなかった。恐らく事務所がひた隠しにしてきたのだろう。

友人が出来ない訳である。如何に明るく振る舞っても、共通の話題が、何一つ無いのだから。

「最近は、エロ雑誌に小学生の娘を売り飛ばすような親がいるだろ。 星川の両親は、典型的なそれだったらしい。 正直、見ていて哀れだったよ」

「一体この国の芸能界は、どうなっているんですか」

声を荒げたのは、同じように外で警備をしていた若い刑事であった。病室に詰めていた看護師が、しっと声を鋭くあげた。

「それで、メールの中身は」

「自殺なんかして、ごめんなさいって書いてあります」

「そうか」

帽子の鍔を下げると、吾川はマスコミが来ないように見張る配置を決めた。

テレビは、東都テレビのクーデター騒ぎが写し続けている。星川の自殺未遂に触れている局は未だ存在していない。

何だか、このまま忘れられた方が幸せなのではないか。

そう病室で眠る星川を見て、誠也は思った。

 

交代で休憩に入って、トイレでさっきのメールを確認する。嘘は言っていない。後で証拠になるかも知れないから、手は付けていない。

内容は、単純に痛々しかった。

「刑事さんへ。 このメールを読んでいる時、私はもう生きていないと思います。 色々ご迷惑を掛けて、申し訳ありませんでした。 自殺なんかして、本当にごめんなさい」

段落を開けて、まだまだメールの内容は続く。

「私、もういやでした。 知っていましたから。 ファンの人達が、私をどういう目で見ているのか。 みんなが私の事を、心の中でどうしているのか。 でも、お金を稼いで、一人で暮らして行くには、この仕事以外にはありませんでした。 だけど、これ以上のことをさせられるのは、もういやでした」

この文面を信用するとなると、星川はやはり黒田に言われていたことを、相当気にしていたのだろう。

アイドルならみなやらされている事だ等という寝言をほざく輩がいたら、顔面に拳を叩き込んでやりたいと誠也は思う。そのような状況の方がおかしいのだ。現状がどうだからとか、金になるなら何をしてもいいとか。いつからこの国は、其処まで腐ったのか。

いや、腐ったのは、世界そのものか。モラルハザードが起こっているのは、日本に始まったことではないのだ。今や世界中で、金儲けのためなら何をしても良いという思想が蔓延しつつある。

メールの文面は、まだ続いている。具体的に誰がどうしたとか、恨み言だとか、そう言うことは一切書いていない。その辺りの潔さが、彼女が生きるには難しかった芸能界の現状も含めて、余計にやるせなかった。

「家には何もありません。 ただ、貯金は全て慈善団体に寄付してください。 家族に渡しても、ろくな事に使わないのは目に見えていますから」

冷え切った家庭を象徴するような一文だった。

学校の様子でも分かったが、彼女はきっと、誰かが側にいてくれるだけで良かったのだろう。

だが、あらゆる状況が、最低限の身内さえも奪っていった。

「刑事さんは、私のことを心配してくれていて、嬉しかったです。 仕事のことばかり考えているのは見て分かりましたけど、それでも出来る範囲で、ちゃんと心配してくれていたのも分かりました。 何だか、刑事さんみたいな人が、もっと周りにいれば、私がんばれたのかも知れません」

悲しいことを言う。

結局刑事としての視点を、私人としての視点に優先していた誠也など、彼女からしてみれば不倶戴天の敵に等しいだろうに。それなのに、その誠也のような人間に、周囲にいて欲しいとは、どういう事か。どこまで彼女の周囲には、人間がいなかったというのか。

「さようなら、刑事さん」

最後の一文を読み終える。誠也はおおきく歎息すると、メールを返信する。

内容は、三文字だけだった。

「死ぬな」

確かにろくでもない世の中だ。腐りきっているし、救いも無い。今後は更に悪化していく事確実で、改善する見込みもない。

だが、それでも。このまま死ぬのは、あまりにも哀れすぎる。

それに、責任も果たして欲しい。

黒田を売ったのは、ほぼ間違いなく星川だろう。誰に、どのようにして情報をリークしたのか、それが知りたい。時間差を付けて警察に発見されるようにした手際は、恐らくプロの手口だ。

そいつらを捕まえておかなければ、この事件は終わらないのだ。

トイレを出ると、既に嗅ぎつけた報道陣を、刑事が追い払い始めていた。だが連中は続々と詰めかけて、他の入院客の迷惑も考えずにうろうろしている。

強面の生島が出て行くと、流石に顔色を変えた報道陣も、少し下がる。だが、彼らは決して帰ろうとはしなかった。中には、車いすで移動している患者を邪魔したり、松葉杖を突いている患者を突き飛ばしている者さえいた。踏み出した誠也が一喝すると、流石に渋々と下がる。だが、反省した様子など無い。

「生活があるから」、「他の人間の人権を踏みにじっても良い」。「必死だから」、「入院患者を顧みなくても良い」

そういう理屈が、彼らの中には蔓延しているのだ。

世の中が、良くなる訳もなかった。

誠也はまだ増える報道陣をにらみ付けながら、少なくとも星川だけは守りたいと、思い続けていた。

 

5、闇のまた闇

 

黒田の犯行自白。

結局、それで犯行の糸は切れてしまった。

黒田は全面的に犯行を自供。依頼した先がS龍会で、手を下した下っ端も逮捕された。実は、S龍会は黒田に下っ端を貸し出して、その指示で殺人をやらせたらしい。元々スジ者と深く関わっていた黒田は、率先して計画立案をやりたがったのだそうだ。事実、途中までは、それも上手く行っていた。若頭の陽道も逮捕されて、一見すると、一件落着にも思えた。

しかし、である。

もとよりこれはばれるはずのない殺人だった。周囲には敵だらけで、何時殺されても仕方がないような三人組。その上、殺人は非常に計画的で、しかも死体は飛騨の山中に深く埋めたのだという。S龍会の手際も悪くなかった。

それなのに、不可解な所から死骸が出て、それが事件発覚の切っ掛けになったのだ。

そもそも飛騨の山奥に埋められた死骸が、何故東京の溝で発見されたのかという事に関しては、全く分からなかった。死骸には飛騨の痕跡を残すものが僅かに残ってはいたのだが、それ以上の手がかりは一切無かったのである。指紋は愚か、僅かな痕跡さえ残ってはいなかった。

華山に迫ることは不可能だった。死体を運搬したのは、間違いなくプロ中のプロだ。歯ぎしりはしながらも、しかし殺人の実行犯人は挙げたのだ。それに、これ以上は藪をつついてキングコブラを出しかねないと判断したのだろう。キャリア組からそうした意図での圧力が掛かり、対策本部は、畳まれることになった。弓山は苦虫をかみつぶしてはいたが、その経歴には更に星が増えることとなった。

だが、弓山も決して無為に対策本部を畳んだ訳ではない。その過程で、黒田が三人を殺した理由も、全容が判明した。

ストーカーをしていた高梨は、最初星川が自分に好意を持っていると思いこんでいたそうである。実は何度かファンレターを送っていた高梨は、スタッフが書いた好意的な内容の返信を真に受けて、どういう訳か星川の家を探り出した。高梨は星川の家に押しかけて、強引に交際を迫ったのだそうだ。もちろん断られた。其処で高梨は自棄になり、タチが悪い友人達と連んで、復讐を考えたのだという。

それが、高梨の愛人であった土方と、三番目に死体が上がった古野と連携しての、強請であった。

高梨、古野、それに土方は、それぞれが巧みなやり方で、黒田を脅迫した。黒田とコネクションがある土方を使い、芸能界の事情に詳しい古野が悪知恵を働かせた。そうして、一千万以上の金を高梨は黒田から奪い取ったという。何しろ、芸能界は醜聞の巣だ。脅しなど、幾らでも方法はあったのだろう。

だが、其処で止めておけば良かったのに、高梨は欲を出した。

「高梨の野郎、商売ものの星川を抱かせろって言ってきやがったんですよ。 それを古野がアダルトビデオにするって。 利益をとんとんで分けようとかほざいて、笑いやがったんです」

とうとう落ちた黒田は、そんな事を言った。

「冗談じゃない。 星川は俺が育てたスターだ。 最後まで、俺が絞り尽くすんだ。 他の連中に、絞られてたまるか。 そう考えたら、自然とS龍会に相談しに行ってました」

「ほう。 それで、殺しを依頼したのか」

「昔から、良くあることです。 タチが悪い芸能人の家族を脅したり、金を無心しにくる引退したアイドルの家族を口封じしたり。 誰もがやってる事だと思ったから、何も心は動きませんでした」

死刑は確実だと知って開き直ったか、随分黒田は口が軽くなっていた。胸ぐらを誠也が掴み挙げると、目を白黒させる。

「覚えておけ、ゲス野郎」

つり上げる。足をぶらぶらさせた黒田が、悲鳴を漏らした。

「お前はその連中と同類なんだよ。 アイドルが金づるだ? お前のような立場の人間が巫山戯たことを抜かしているから、この業界は衰退して、アイドルは単身で立脚できない存在になったんじゃないのか? ファンに見る目がない? 違うな。 お前らが、アイドルを育て、愛しようとしなかったからだろうがっ!」

「ひ、ひぎ、ぎいっ!」

「貴様が破滅するのは、他人のせいでも、ましてや華山のテレビ局内クーデターのせいでもない。 貴様自身の腐った性根がもたらした、自業自得の結果だ。 お前は間違いなく地獄に堕ちて、其処で鬼どもやお前の同類に雑用でこづき回されるだろうな。 死刑になっても安息などないぞ、覚悟しておけ!」

椅子に落とすと、咳き込む黒田。きびすを返して、聴取室を出ようとした誠也に、泣き声が届いてきた。

「お、俺だって、昔はアイドルに夢を見てたんだよ。 子供達に希望を与えて、大人達に元気を与える仕事だって思ってた! 一緒に、天下を取ろうって、考えてた時期だって、あったんだよ! でも、現実はどうだよ! 誰もそんな風に考えてる奴はいないし、飽きたらガムみてーにポイ捨てじゃねえか! 何人もそうしてる内に、良心なんか、麻痺しちまったんだよ! 何で、何で俺だけ責められるんだ! みんなやってることじゃねえかよぉっ! う、ううっ、うああああ、あああああああああっ!」

心が弱い男だったのだと、誠也は知っていた。だが、だからといって、許せるものではなかった。

今日は星川の引退コンサートの日だ。

命を取り留めた星川には、他の事務所からの声も掛かったのだという。だが、意識を取り戻した彼女は、今日引退することを選んだ。

誠也の元にも、名指しでチケットが届いていた。

星川の最後のコンサート、ファンとして、見届けない訳には行かなかった。

 

今度こそちゃんとした親衛隊を結成するんだと意気込んでいる田中と連れだって、コンサート会場を出る。最後だけあって気合いの入ったコンサートで、充分に満足できた。ただ、星川の引退宣言は、ファン達の絶叫を呼んでいた。

「何て言うか、有終の美って奴だったな」

「ああ」

「俺は、ずっと遙たんの事を忘れねえ。 アイドルを止めても、ずっとファンだ」

脳天気なことを言う田中と、最寄り駅で別れる。その後、自宅とは別方向へ。

待ち合わせをしていたのだ。星川遥と。

小さな喫茶店に入り、時間を潰す。一時間ほどで、サングラスを掛けて、髪型を変え、変装した星川が入ってきた。

「すみません、お待たせしてしまって」

「いや、構わない」

向かい合って座る。

星川は、結局意識を取り戻してからも、背後関係を喋ることはなかった。ただ、彼女が黒田を黒幕に売った理由は、大体予想が付いていた。

聞いてしまったのだろう。高梨の言葉を。

黒田が、高梨に対して、自分の利益を侵害されるという理由で、憤慨した事を。

それが、一線を踏み越える、切っ掛けとなったはずだ。

今回の件で、裏で警察の情報調査班以上に活躍してくれた田中の事を最初に話しておく。あまりファンに良い印象を持っていなかったらしい星川は、それで少し表情を和らげていた。

「そうですか。 そんなファンの方もいるんですね」

「絶滅危惧種だがな。 だが、彼奴は良い奴だ。 ファンレターが届いたら、自分で返事をしてやって欲しい」

「はい」

それからは、星川の仕事の話に移った。三年の充電の後、星川はマルチタレントとして芸能界に復帰するつもりでいるという。華山に説得されたのだと、星川は寂しそうに笑っていた。弱みを握っている相手と言うこともある。それでは、逆らうことは出来ないだろうなと、誠也は思った。

華山に対する印象は、あまり変わっていない。ファンだった時代にも、鋭い切れ味を持つ娘だなと思っていた。強いて言うなら、星川が運命に絶望したのに対して、華山は何かしらの方法で、運命を叩きつぶす手段と力を得たのだろう。自分もそうして、地獄を抜けた経験がある誠也は、それを悪いとは思わない。ただ、三人の殺人を見逃し、クーデターに利用した存在として、刑事としては許せないと考えてもいる。

華山が掌握してから、露骨に東都テレビの番組は面白くなっている。特にバラエティ番組の質は向上が著しく、芸人もどきがシロウトを弄るだけというくだらないものは姿を消していた。

華山は凄まじい。あれは元アイドルの皮を被った虎だと、噂をしている者もいるという。噂によると、最近急成長して財界を制圧しつつある黒師院家や、政界で凄まじい勢いののし上がりを見せている銀月零香とも関係があると言うが。いずれにしても、誠也に迫れる相手ではない。

それに、腐敗しきっていた東都テレビが、一気に改善したのは事実なのだ。もしも此処で華山を捕らえると、情報発信装置としての役割を果たせなくなっていた東都テレビに逆戻りしてしまう可能性もある。悩みは尽きない。

今回、考えさせられた。

悪とは何だ。

結局、自分に救えなかった星川を救ったのは。暴力的な手腕を振るった華山だったのではないのか。

一刑事である以上、出来ることにはどうしても限界がある。もっと権力が強い公安も複雑な利権が絡み合う魔境であるし、検察もそれは同じだ。今回の事件の真相に迫るには、まだ誠也の力は足りなかった。

いつのまにか、星川に見つめられていた。調査の過程で、それが本名だという事は知っている。

今回の件で、正式に家族と縁を切って、完全な意味で独立したという星川は。手首にリストカット跡を隠すバンドをしていた。

「刑事さん」

「うん?」

「また、お仕事のことを考えていたんですか?」

「ああ、そうだ。 すまなかった。 今回は、俺にとっても大きな事件だったからな」

無言で星川が差し出したのは、綺麗にラッピングされた小さな箱だった。開けてみて欲しいと言うので、その場で箱を開ける。

ハートの形をしたチョコレートが入っていた。

「あまり、甘いものは好きではないかも知れないですけど」

ちょっと恥ずかしそうに言う星川。

誠也も、苦笑して、返していた。甘いものは本当は苦手なのだが。星川が手作りしてきたのなら、何でも食べられるだろう。

「いや、美味そうだ。 いただこう」

初めて笑顔を見せたかも知れない。

しばし、和やかな空気が、場を満たしていた。

「元気をくれて、ありがとうございます。 刑事さんのメールを見て、もう手首切ろう何て、思わなくなりました」

「そうか、役に立てて嬉しいよ」

穏やかな時間。

刑事を始めてから誠也が感じた、初めての安らぎかも知れなかった。

 

(終)