冬の王冠

 

序、白の季節

 

なだらかな丘に、白い雪が降り積もりはじめた。

遠くまで広がる森にも、最初は慎ましく、だが確実に多量の雪が降り積もりゆく。寒波が到来したのだ。

静かな白い粉雪は、やがて大粒の慎みが無い大雪へ。

そして、ただ静かで、冷たく寒い世界が来た。

地面が凍り始めるのも、時間の問題。

草木は枯れ、動物たちは穴蔵に戻る。

人間でさえ、活動を控えめにし始める時。それを成し遂げるのが寒波だ。

やがて、世界は白一色になる。

わずか一日で、世界は激変する。そして白い雪は更に積もり行き、世界をまるまると覆い隠していくのだ。

時には海さえも、凍らせる。

今年の寒波は、いつもより更に早く到来した。寒波の観測者である冬が、あくびをしながら住処を這いだしてきたほどである。

「おや。 今年の寒波は、随分と早く来てしまっている。 ついこの間終わったばかりではないか」

「全くだ。 こんなに早く来られては困るんだがな」

老木が、冬に応える。

もう今年は越せないだろう木だ。せめて、もう少しゆっくり、秋を堪能したかったのだろう。

冬は目をこすりながら、もう一度あくびをした。

「私とてこんなに早く叩き起こされてはたまらない。 これだと、休眠をする動物たちはさぞ難儀しているだろう」

「難儀どころか、絶滅する動物も出るんじゃ無いのかね」

「そうかそうか。 まあ、私には知ったことではない」

周囲を、冬は見て廻る。

雪が降り積もりゆく中、まだ活動している動物もいる。だが、温度が急激に低下していく中、毛皮に守られていても、動物には限界がある。

凍え死ぬ動物たちも多い。

自然の摂理。

それが、こうもねじ曲げられはじめたのは、いつの頃からなのだろう。ずっと昔は、四季が安定していた時期もあった。

だが、今は。

毎年、冬の勢力が拡大している。

早く来て、遅く終わる。春と秋は圧迫される一方。夏に至っては、毎年寒くなっている有様だ。

氷河期とやらが来ると、小耳に挟んだ。どうやらそれは噂では無いらしい。この分だと、面倒な事になるだろう。

「ちょっと、出かけてくるとしようか」

「冬さんや。 そうなると、さらばじゃのう」

「長い間、暇なときに話し相手になってくれてありがとう。 だが、もう会うことも無いだろう」

軽く会話すると、老木の側を離れる。

ねぐらである老木のうろは、次からは朽ちて使い物にならなくなるだろう。この地域だけがおかしくなっているのか、観測者の責務として確認しなければならない。

冬は何にも似ていない。

人間にも似ていない。熊にも似ていない。虫にも鳥にも、魚にも。

似ている者は存在してない。

殆どの誰もが冬を見ることが出来ない。

冬を見ることが出来るのは、幾千の時を重ねたなどの、特殊な条件を満たしたごくわずかな例外のみ。だから、あの老木は、数少ない愚痴を言える相手だったのだが。

まあ、それも仕方が無い事だ。

冬は神と人間から呼ばれる存在に、近いとも遠いとも言える。一致している部分も、異なっている箇所もある。

一つ、はっきりしているのは。

冬は、生物に興味が無いこと。

それだけだ。

 

太陽の光が来る方向から、自分の位置を確認。ゆっくり移動して、冬は海に出た。今までに無いほどの流氷が、海岸に漂着している。しかも、だ。ゆっくり来たとは言え、わずか数日でこの有様とは。

この辺りは、凍り付くのではあるまいか。

熊の親子が、殺気だった様子で、冬の側を通り過ぎていった。あれは人間を襲うかも知れない。勿論人間も、黙ってやられはしないだろう。どちらにしても、冬には関係の無い話だ。

冬は、自分で気候をコントロール出来ない。

まるで他人事のように、冬の到来を見ているのも、そのためだ。冬が来たときに目が覚めて、春が来たときに眠りにつく。

秋と交代で眠ることも多いのだが、あの者はさっき、冬を不快そうににらんでさっさと何処かへ行ってしまった。

冬の仕事は。

ただ、気候を見つめることだけ。

だれも冬には気付かず、冬も誰も相手にしない。ただ、其処にあるだけの観察者が、冬だ。

毛皮を纏った人間が、複数で走っていた。犬を連れている。

見ると、先ほどの熊の親子だ。遠くから毒矢を放って、親熊を最初に、小熊を次に仕留めた。熊でも、人間が使う毒を受けてしまうと、ひとたまりも無い。しかも犬がいたから、熊に奇襲は無理だっただろう。人間達は台車をもちだして、熊の親子を運んでいった。これから食べるのだ。

殺さなければ、村なり集落なりが襲われて、人間が大勢死んだ。それを考えると、どちらが悪いとは言えない。

動物の摂理は単純だ。殺さなければ殺される。だが、それが故に分かり易い。

あくびをしながら、海岸を見て廻る。

アザラシの類が来ていたが、流石に早すぎる冬は寒さに強い彼らでも、あまり好ましい環境では無い様子だ。

海の荒れも酷い。

急激に寒くなったから、だろうか。流氷は大波に翻弄され、彼方此方で細かく砕けている。

しかも砕ける先から、新しい流氷が来ているのだ。

これは、厄介だ。

呟くと、冬は流氷に乗る。そして、海の上を覆っている、氷の塊の上を歩き始めた。海に落ちても関係無い。

冬は、死にたくても自分では死ねないのだ。

退屈を紛らわそうと、以前人間がやっている自殺を真似てみたが、何をしても死ぬ事が出来なかった。

条件が整えば、死ぬ事は出来る。だが、自身で条件を整えることは出来ない。

呪われし観測者。それが冬なのだ。

同じような観測者は、この世界にたくさんいる。これから、観測者が集まる場所へ出かけるのである。

今回のこの気象異変、自身の担当地区だけの事とは思えない。

何年か前に他の観測者達と話したときにも、同じようにどんどん寒冷が長くなっていると聞いた。それだけではない。寒気の観測者が存在しなかった地域でさえ、新しく寒冷気候に包まれつつあるのだという。

新しい寒気観測者が生まれる事を、歓迎はあまり出来ない。

その分、冬の領土における春や秋に相当する観測者が圧迫されるのだから。

流氷を歩いて行く。たまにクレバスがあるが、それは体を伸ばして、ひょいひょいと通り抜ける。

落ちると抜けるのが面倒くさい。

死にはしないが、しばらく拘束されることになる。そうなると、厄介だ。

だから、それなりに気をつける。

流氷が途切れた。ずっと寒い海が広がっている。この辺りから、冬の領土では無い。別の観測者の領土だ。いや、領海、とでもいうべきか。

「邪魔する」

冬が足を踏み入れる。

海に入ると、冬は体を動かして、前に進み始める。さて、今回はどれくらい到着までかかるだろう。

どうせ暇なのだし、時間はいくら掛かっても構わない。流石に寒気が収まる頃には自分の領海に戻っていないと色々と面倒だが。

海のうねりは酷く、気を抜くと押し戻されそうになる。

多分、多くの動物が耐えられないほどの寒さだ。海の中にいる生き物たちも、かなり動きを鈍らせているようだ。

この寒気到来の早さは、どうしたことなのだろう。

自分では、寒冷を制御できないことがもどかしい。もう少し、寝ていたかった。起きている時間が長くても、あまり良いことは無い。

海が、更に酷く荒れ始めた。

大粒の雪が、叩き付けるように降り始める。海のうねりは凄まじく、冬が来たことに怒り狂っているかのようだ。

黙々と進む冬にはあまり関係が無い。

これでは、アザラシやペンギンでさえ、この海に放り込まれたらあまり長くはいきられないかも知れない。

生物のことなどどうでも良いが、自分が進むのが邪魔されるのは、あまり好ましい事では無かった。

やがて吹雪は収まったが。

今度は逆に、何一つ無い静寂が来る。

雲一つ無い星空だが、それはむしろ不気味でさえあった。全く音がしない。波の音以外には。

星の動きを見ながら、位置を確認。ただ黙々と進む。面倒くさくてかなわないが、それでも止まるよりはいい。

もう少しで、観測者が集まる大陸に到着する。

其処から、また数日は歩かなければならない。

 

1、道連れ

 

冬の行く路は真っ白に舗装され、雪は深く積もる一方だった。この様子だと、多くの動物は凍死か餓死するだろう。人間の集落も、寸断されている様子だ。この寒気は、多くの命を奪うに違いない。

黙々と進んでいると、後ろから声が聞こえてきた。

明らかに冬を呼んでいる。

冬と同じ、季節の観測者には、様々な者がいる。動物の姿をしている者も、中には存在する。

「フユ、ひさしぶり!」

「ああ。 ひさしぶりだ」

追いついてきたそいつは、カムイと言う。

人間に積極的に姿を見せては、寒冷気候の事について教えているという変わり種だ。ごく一部の、自分の声が聞こえる人間を巫女とやらに仕立てて、会話をしているのだとか。中にはカムイの姿が見える人間もいるのだそうだ。

その地域の人間にとっては、文字通りの神だ。カムイとは、そのまま神を意味する言葉であると言う。

にわかには信じがたい話だが、親友の老木のこともある。冬自身としても、嘘をつく意味を感じられない。

カムイは人間の姿に近い。形は幼体のそれだ。

ただし額には第三の目がある。着込んでいる服は、巫女とやらが属する人間達の集落が着込んでいるものと同じだそうだ。ただし、動物と違って性別は存在していない。現象の観測を行うだけの者なのだから、当然か。

「フユの所も、大変なの?」

「何が大変かよくわからんな。 単に早く叩き起こされて、面倒なだけだ」

「みんな困っていない?」

「困ったから何だというのか。 我らの目的は、ただ寒冷を観測するだけの事。 そう言う意味では、春や夏、秋も同じだろう」

表情まで人間みたいなカムイが、むっと膨れるのが分かった。

此奴は人間に肩入れしすぎていて、見ていて時々不安になってくる。やがて、人間に余計な事まで喋りやしないだろうか。

「ぼく達と違って、みんな簡単に死ぬ。 死んだらおしまいなんだよ。 可哀想だとは思わないの?」

「別に思わんね」

「冷酷!」

「それで結構。 御前さんこそ、変に入れ込んでいると、後で酷い目に遭うのでは無いのかな」

人間に入れ込む意味が、冬にはよく分からない。

あれは全生物の中でも、特に凶暴で独善的な種族だ。いずれカムイは、余計な知恵を付けた人間に迫害されるのではないのか。

生物はどうでも良くても、同類に対しては心配もする。

まあ、これに関しては。相手と喋ることが出来る、という事も大きいのだろう。なおかつ、対等な存在でもあるからだ。

「ともかく。 ぼくの担当地域では、人間達に異常寒波に備えるように、早くから教えておいたんだよ」

「なんと。 そうなると、早くから起きていたのか」

「うん。 だって、みんな心配だから。 年々寒さは早く来ているし、このままだともっと大変なことになる」

「それで滅ぶなら、其処までの生物、という事だ。 ましてや人間が現れてから、世界各地での生物の絶滅が異常加速していると以前夏に聞かされた。 人間なんぞ、滅んだところでむしろこの世界には有益に思えるがな」

平行線。

だが、不思議と喧嘩にはならない。

カムイと冬は担当地域が隣り合っているからか、昔から関わり合う事が多かった。実のところ、カムイの方が古くから存在しているのだが、その精神はいつまでも幼いように思えてならない。

冬はカムイに距離を昔から置いていたのだが。

カムイの方が、積極的に話しかけてくることが多く、いつの間にか思った事を言い合う仲になっていた。

ただし価値観は全く違う。

冬の価値観は、他の寒冷観察者に近い。

むしろカムイは、人間にべったりしすぎに思える。そもそも、人間のような服を着ている時点でおかしい。ある程度姿を操作できるとはいえ、必要が無いものを身につける意図が冬には理解できない。

二人で話ながら、山を越える。

ぽつぽつと、同じような寒冷観察者の姿が見え始めた。冬より若いものや、ずっと年上の者もいる。

一番の長老は、人間が南極と呼ぶ場所の管理者だ。そのまま、南極と呼ばれている。

流石に南極からだと遠いので、ちょっとした裏技を使って、此処まで来ている。冬やカムイは近いから、此処へは直接来る。

様々な姿の観察者がいる。

その中で、人間の幼体の姿をしたカムイは異質だ。他には、熊の姿をした者や、アザラシの姿をした者もいるが。

それ以外は、全てが形を持たない。

皆が、洞窟に集まっていく。

雪が分厚く積もった山だが、その洞窟は斜面にあり、たとえ雪崩が起きても埋まることは無い。

非常に険しい地形にあるので、蝙蝠以外の生物が入ってくることもまず無い。静かな環境で、会議を行うことが出来る。

洞窟に入るのにはちょっとしたコツがいる。不定形の冬は別に構わないのだが、カムイは随分苦労して、洞窟に入っていた。

「相変わらず不便だなあ」

「いや、此処こそが、相応しい」

「でもさあ、せっかくだから、いろいろな動物の意見も聞いた方が良いんじゃ無いのかなあ。 人間の中にも、まれにぼく達が見える者がいるんだよ。 他の動物にだっているのに」

「不要だ。 生物は所詮たゆたう者。 我ら普遍の存在とは、根本的に異なる。 考え方もな」

他の寒冷観測者達は、カムイの言葉に耳を貸さない。きちんと話を聞くのは、冬だけである。

やがて、洞窟の奥につく。其処は広い空間になっていて、会議をするにはもってこいの場所だ。

ぞろぞろと集まってきた観測者達。数は三百を超えていた。

中にはとても若い者もいる。

一番奥には、南極の長老がいた。一段高い岩に乗ると、周りに向けて、思念を飛ばしてきた。

「ええと、諸君。 これより、寒冷対策会議を行おうと思う」

「長老。 この件については、何か我らに出来ることは」

いきなり、カムイが挙手したので、周囲がざわめいた。

咳払いすると、長老は古参の観測者であるカムイに諭すように言った。

「そもそもこの異常気象は、どうも太陽の運行が原因のようでなあ」

「いわゆる、氷河期ですか」

「そこまで大規模では無く、いうならば小氷河期、とでもいう状況であるそうだ。 いずれにしても、我々に出来ることは、観測を続けること。 新しく生まれた者達も、それは理解して欲しい」

それから、対策について説明された。

実際に、この異常気象について対策を行うのは、観測者の仕事では無い。世界そのものに干渉できる存在などいない。

ただし、生物を管理している者達が、いざというときには仕事を行う事になる。

寒冷が酷くなってきた場合は、温室効果というものを発生させて、この世界そのものを温める作業が行われることがある。そのためには様々な生物的な作業が必要になってくる。

皮肉な話で、そういった際には、人間はあまり役に立たない。

主役となるのは、微細な、世界の最小要素となる生物たちだ。それらに必要な物質を生産させることで、この世界の調整を行うのである。

観測者は、その繁殖に相応しい場所を報告するのも、役割の一つだ。

「この小氷河期は、当初の予想よりもかなり長く続きそうだと言うことが分かった。 もしも対応する場合には、幾つかの地区で温室効果を発生させて、全体的な気温を調整する必要がある。 ただし、まだ対応するかどうかは、未定だ」

「そんな悠長な! この異常気象、即座に対応すべきです」

「カムイよ、お前が愛する種族が、苦しんでいるというのは理由にはならぬ。 その種族が、他の種族を圧迫し、滅ぼしていることを、生物管理者は憂慮している。 このままその生物が爆発的な増殖を続ければ、いずれ世界の環境に大きな影響を与えるのも確実だろうという意見も出ているようだ。 しかも、悪い意味で、だ」

ほら言わんことか。

そう言いたかったが、冬は黙っていた。カムイの意見を、他の観測者達は、全く気に留めていない。

とにかく、指示が来たら動く。

それだけが決められて、解散となった。

これで時間を掛けて戻れば、しばらくはゆっくりすることが出来る。勿論見回りはしなければならないが、遠出をする事は無くなるだろう。

「心配だよ」

カムイが「膝を抱えて」座り込んでいた。

心配してどうなるものでもない。確か、カムイの担当領土でも、温度調整に調度良い観察場所があったはずだが。どのみち、それは人間とは関連が無い。

ぞろぞろと出て行く観測者達を横目に、冬はカムイを引っ張る。

「さ、引き上げよう。 あの様子では、今回の寒冷期に、対策を行う事は無いだろうからなあ」

「どうしてそんなことが分かるの」

「それは決まっている。 管理者は昔から決断が遅い。 冬が長くなった程度で、この世界にいる生物の総数がさほど変化はしないからだろう」

平均の温度が多少ぐらついた程度で、滅亡するヤワな生物なら、生き延びることは出来ない。それが管理者達の冷厳な理論だ。

ただ、本音を言うと、管理者の仕事の遅さには、冬も最近苛立ちを感じている。ただ、他の観測者がいる此処では、口にしない。

カムイは口をとがらせる。

「フユはそれでいいの?」

「平行線だな」

「分かってるよ、もう。 さあ、戻ろう」

何も為す事無く、戻る。

もしも何かある場合は、連絡が直接来る。その時は、仕事をしなければならない。長い冬は、悪影響をもたらす。ただし、その程度が、まだ冬には見えていない。

とぼとぼと歩くカムイが、本当に気落ちしているようなので、冬はげんなりした。カムイががっかりしたところで、どうにもならないだろう。

「ぼくの友達も、人間にはいるんだよ」

「友達? 生物を友達扱いするとは、相変わらず奇特だ。 だいたい、向こうはそう思っていないかも知れんが」

「酷いこと言うなあ。 その友達に、今度子供が出来るの。 冬がこれ以上厳しくなったら、生き残れないかも知れない」

それが何か。

話し相手の生物くらいは、冬にもいる。だが、今回の寒波で死ぬと分かっていても、何とも思わない。

向こうだって同じだろう。それこそ、現象を観察するだけの存在など、友にしても何らメリットが無いのだから。おそらくは、何かしらの情報を引き出そうとでもしているのだろう。

カムイは頑固者だから、きっと冬が何を言っても聞く耳をもつまい。友の事が心配になってきたが、まあ酷い目に遭うとしてもカムイの自己責任だ。自分より長く存在しているカムイが、そのような事を分からないと言うのも、何だか滑稽だった。だから、放置しておくことにする。

一度くらい、徹底的に痛い目に遭うのも良いだろう。

洞窟を出てしばらくすると、同胞達はもう殆ど姿を見かけなくなった。それぞれの領土は全く違う地域にあるからだ。遠くに領土がある者達は、裏技を使って帰って行く。多くはジェット気流と呼ばれる風の道を通ったり、場合によってはもっと特異な方法を使うのだ。

また泳いだり、流氷を使ったりして戻るのだと思うと、少し面倒だが。

その間、カムイと話せば良い。

海岸線に出るまでに、色々と話した。平行線になる話題ばかりだったが、カムイはやはり意見を絶対に曲げなかった。

その頑固さは筋金入り。

何より、異様なまでの献身が、人間に取って都合が良いから、友達のふりをされているのではないのだろうか。

流氷の上で、冬とカムイは分かれる。

冬はこれから、必要な地域を見て廻らなければならない。いつ、生物管理者からお呼びがかかるか分からないからだ。実際に見てみたら、全く環境が適していない、では話にならない。

幾つか、有事には使う事が出来る湖がある。

冬の領土の中では、かなり温暖な地域にあるのだが。この寒波では、そこも凍ってしまっているかも知れなかった。

住処にしている、老木へ戻る。

その時には、大地は凍り付き、雪は分厚く積もっていた。老木は既に命を終えており、形は残っているが、それだけだった。この異常寒波が終われば、朽ちてしまうだろう。まあ、其処までの寿命だった、という事だ。

住む場所を、何処かに見つけなければならない。

同時に、これから放浪する事を考えると、わりと冬はげんなりとした。

 

結局、冬が五カ所を巡って、有事にはまだ使えることを確認した頃には、異常寒波は一段落していた。ただし、寒波は去らない。世界は白く雪に覆われたままだ。

連絡は来ない。

ということは、対策はしないと決定されたのだろう。

環境にとって、淘汰は必ずしも悪では無い場合もある。増えすぎた生物を駆除したり、或いは環境に悪影響を与える生物を減らしたり。

また、厳しい環境で、生物に圧力を与えて、より強靱に変化するように仕向けるという意味もある。

カムイは怒っていたが、冬にはそのメリットも見えていた。

既に複数の地域は、完全に雪に埋もれている。流氷は海岸部分で連結し、海そのものが広範囲で凍り付いていた。

冬が知る限り、これほどの長期にわたって居座る寒波は類が無い。

カムイの領土は冬のそれよりもかなり寒いのだが、それでも此処まででは無い。まあ、連絡が来ないのなら、どうでも良いのだが。

小氷河期では、すまないような気がしてならない。

下手をすると、夏は眠ったままになるのでは無いのか。かろうじて短い春と冬だけが来て、それで終わってしまう。

困る。冬が寝る時間が無くなってしまう。

冬が最初に生まれた頃には、領土の形は随分違っていた。象や鰐もいた。先任者から引き継ぎを受けて、観測者をはじめたが、とにかく退屈極まりなかった。死のうともして見たが、無意味だった。

あの頃から、カムイは人間と関わっていたのだろうか。

とにかく、必要な部分の観測は終えた。

後はねぐらを探さなければならない。体は不定形だから、どこにでも潜り込めるが、安定している場所が良い。土砂崩れなどで埋まってしまったり、雪が積もると出られなくなるような場所は論外だ。

人間の集落に出る。

どれもこれも、壮絶な積雪に埋もれて、完全に白い丸と化していた。これは、この集落は全滅かも知れない。

人間は短期間で繁殖して好き勝手に環境を書き換えてきたが、自然の猛威の前には流石に手も足も出ないか。

集落を通り過ぎると、驚かされる。

これでも人間共は、まだ生きている。雪をどけて、火を熾して、寒い中生存を維持している。

タフな生物だ。

カムイの奴、なおさらこんな生物、放っておけば良いのにと、冬は舌打ちする。他の生物たちが淘汰にあっているのに。人間は平然としているでは無いか。心配するなら、他の生物をするべきだろうに。

苛立ってきたので、この状況も観測はしておく。

もっと過酷な寒波にでも埋もれてしまえ。そう冬は思った。

山を登っていると、崖の中腹に、適当な穴を見つけた。あれなら土砂崩れにも遭いそうに無いし、何より雪に埋もれることも無いだろう。

不定形だから、崖を降りることはさほど難しくない。

滑るように崖を行き、穴の中に入り込んだ。

先客はいない。

蝙蝠が少々、天井の方で震えているくらいだ。どうでもいい。奥の方に、少し広い空間があった。

そこはとても静かで、冬好みな環境だった。雑音が無いし、少し足を伸ばせば、外を見ることも出来る。外を見ることが出来れば、影の方向や星の位置で、時間を確認することも難しくない。

しばらく休んでいると、寒波はまたきた。この間までの異常寒波が可愛く思えるほどの、強烈な寒さだった。更に状況は酷くなってきた。

やはり、このまま世界は凍り付いてしまうのかも知れない。寒波がこれ以上強くなるようだと、また観測をしに行かなければならないだろう。いつ環境が激変して、必要条件を満たさなくなっても不思議では無いからだ。

不定形の体を伸ばして、いつでも動けるようにしておく。

蝙蝠は寒波が酷くなるにつれて数を減らし、やがて全滅した。凍り付いた死骸が、地面に点々としている。虫さえ食いには来ない。虫も、殆ど死んでしまっている可能性がある。

崖の穴から外を覗くと、驚くべき事に、雪がすぐ下にまで積もっていた。

このまま氷河になりそうな勢いだ。

カムイの奴は、居場所を確保できているのだろうか。冬は心配になる。人間などに関わっていたら、おそらくは観測者としての仕事も出来なくなる。それで、彼奴は良いのだろうか。

存在意義が、無くなると同じなのに。

雪は更に深くなっていく。

これは穴が埋まるなと思ったが、その少し手前で止まった。覗き込んでみると、強烈な寒波のせいで、既に凍り付いている様子だ。上に乗っても何ともない。崖の中腹にあった穴なのに。これでは、選んだ意味が無い。

しばらく辺りをうろついてみる。

動物の気配は一切無い。

当然で、活動できる限界温度を遙かに下回っている。この様子では、生態系が壊滅する可能性が高い。

だが、それでも、まだ上からの連絡は無い。

動物なんぞどれだけ死のうが冬には関係無いが、これは想像よりも、ずっと事態は深刻なのかも知れない。

ひょっとすると、南極の決定が、届いていないのでは無いのか。

この状態で、全く動きがないのは。変だ。

このままだと、寒波は全てを覆い尽くす。小氷河期では無く、本物の氷河期が到来することになるだろう。

 

2、氷行く世界

 

冬は黙々と、北に向けて歩く。不定形の体を雪上で器用に動かして、無言で進む。

流石の人間も、この寒波では多数の死者が出ている様子だ。もっとも、壊滅状態の他の動物に比べれば、まだマシだろう。

カムイの奴はどうしているだろう。

それが不安になったのだ。

北へしばらく行くと、本来は地の果てである場所に出る。しかし其処は完全に凍り付いてしまっていて、陸続きも同然になっていた。

海さえも凍っているほどの寒気だ。

これでは、海面下の生態系も大きな打撃を受けていることだろう。この世界の生態系が、一気に切り替わる可能性が高い。今年の寒波は尋常では無い。というよりも、寒波が本当に晴れるのかさえ、疑わしい。

雪が降っていないのに、氷が溶ける気配さえ無い。

それほどの寒さなのだ。

しばらく北へ北へと進む。慄然としたのは、凍った死体が点々としていることだ。寒さに強いはずのアザラシまで、凍り付いて死んでいる。熊の死体は、獲物を狙っているかのような姿のまま、固まっていた。

比較的寒気に強い生物たちでさえこの有様だ。冬眠している動物も、殆ど助かることは無いだろう。

カムイのいる場所は知っている。

彼奴は人間の集落のすぐ側に、最近は住んでいるのだ。黙々と、数日間歩く。どうしてか、もう上からの司令は来ないだろうと、冬は思っていた。

カムイはいない。

普段いる山に、姿が無い。

何だか、嫌な予感が刺激される。何か、起きているのでは無いのか。

しばらく辺りを見回っていると、武装した人間が、群れになって歩いているのが見えた。どれも毛皮を分厚く着込んでいて、だからこの寒波の中でも動けるようだ。それでも、限界があるだろうけれど。

すぐ側を通り過ぎても、此方には気付かない。

カムイ。

呼ぶが、返事は無かった。

以前住んでいた山も覗いてみる。やはりカムイの姿は無い。

元々観測者は、自然に干渉せずとも生きていけるように設計されている。食物は必要ないし、場合によっては呼吸さえしない。

逆に言えば、どんな生物にも害されることは無いのだが。

しかし、カムイの姿は、現実的な問題として見当たらない。

まさか、人間に何かされたのではあるまいか。

触手を雪に刺し、辺りを探る。

刺しただけでは無く、振動を伝わらせて、周囲全ての構造と、生物について調べているのだ。

少なくとも、この山にはいない。

別の山へ行こう。だが、一体どこにいるのか。探し廻っても、カムイは現れない。不眠不休で歩いて、数日が経過したとき。

此方を見ている者に気付いた。

まだ幼体の人間に見える。多分雌だろう。木に隠れるようにして、此方をこわごわうかがっている。

「あの……」

声まで掛けてくる。

永く生きた者の他、人間のごく一部も、此方の声が聞こえると、以前知った。

つまり此奴は、冬が見えている。

声が聞こえるだけでは無く、干渉できる奴もいるかも知れない。もしカムイが害されたのだとすれば、そういう人間が原因以外の何物でも無いだろう。

「何やつだ」

「巫女のムルルと言います。 貴方が、カムイ様のご友人、ですか」

「そうだ」

「此方に。 カムイ様が、待っておられます」

本当だろうか。

罠だったとしても、切り抜けられる自信はある。人間如きの罠にはまるような、ヤワな体はしていない。

ただし、それはカムイも同じだ。

ムルルとやらは、あまり足が速くない。雪に半分以上埋もれながら、よてよてと歩き始める。

周囲に、人間の足跡は無い。

「カムイはどうしている」

「身を隠さなければ危険な状態です。 ですから……」

「観測者が危険とは、どういうことだ」

「それは、来ていただければ分かります」

やはり、逃げる準備はしておいた方が良いだろう。ただし、逃げるときは、カムイも一緒だ。

一人で逃げるという発想は、冬には無い。

辿り着いたのは、厳重な柵に守られた、小さな洞窟だ。先に入っていくムルルは、何だか悲しそうな顔をしていた。人間の表情はよく分からないが、多分悲しそうな顔をしているはずである。

慎重に、奥へ。

観測者に攻撃できる者は多くは無いはず。仮に襲撃があるとすれば、ほぼ確実に奇襲だろう。

触手を伸ばして辺りを丁寧に探りながら、進む。

「カムイはまだか」

「もう少し奥です」

「ひょっとして、私を謀っているのではあるまいな」

「そんなことはいたしません。 信じてください」

不意に、酷く悲しげな声が入ってくる。やはり、人間の考えている事は、よく分からない。

此奴はしないにしても、他の奴はするだろう。

人間とは、そう言う生物だ。

奥に、カムイがいた。

洞窟の最奥。少し出っ張ったところに、寝かされている。毛皮を掛けられているが、そんなものは意味を成さない。

見ると右腕を失っている。やはり、何者かに襲撃されたという事か。誰がやったにしても、許せない。

「カムイ、無事ではないようだな。 如何したか」

「フユ……来てくれたんだね」

「私とお前の仲だろう」

「いつもぼくの言うことを否定するくせに」

力なくカムイが笑う。

触手を伸ばして、状態を確認。

根本的には、カムイも冬と同じだ。不定形の生物が、人間の形状を取っているに過ぎないのである。

つまり、攻撃を受けたからダメージを受けたのでは無い。右腕を失ったくらいでは、こうはならない。

その過程で、右腕も奪われた、という事だ。万全の状態なら、再生は即座に出来ていなければおかしいのだ。

人間が観測者に対する攻撃手段を持っている事は、これではっきりした。或いは、カムイが教えたのかも知れない。そうなると、飼い犬に手を噛まれたのも同然だ。

「全体的な質量が、著しく低下しているな。 再生できずにいるのは、それが原因だろうな」

「流石フユ。 ちょっと、大きく削られちゃって」

「何が起きたのだ」

「今回の酷い寒気は、ぼくのせいだって言い出した人がいたんだ。 勿論庇ってくれる人もいたけれど、すぐにその噂は広がって」

なるほど、そう言うことか。人間共が疑心暗鬼で勝手な噂を広げたあげく、何もしてないカムイを襲撃したのか。

実にくだらない生物だ。

かといって、此方からは干渉できない。

巫女が悲しそうにしているのがよく分かった。此奴は、カムイが言う、庇ってくれた側の人間だったのだろう。

だが、信用できない。

「此処を離れるぞ」

「ぼく、身動きできないんだけれど」

「私が運んでいくまでだ」

それに、この巫女とやらが、カムイを守り通せるとは、とても思えないのだ。信用できない相手に親友を預けるほど、冬は阿呆では無い。

人間がどうやってカムイを傷つけたのかは分からないが。いずれにしても、この土地に、もうカムイはおいておけないだろう。

「カムイ様、行ってしまわれるんですか?」

「どうやら、そうらしい。 ぼくは身動きできないから、フユには逆らえないよ」

「どのみち、お前ではカムイを守切れまい。 殺されたくなければ、余計な事はせず、黙っていろ」

ムルルがうつむき、何も応えずに背中を向けた。

見なかったことにするから、行って欲しいと言う訳か。カムイは何か言いたそうにしていたが、そのまま冬は外に出た。

「何が巫女か」

「フユ、彼女を悪く言わないで。 生活のためには、仕方が無かったんだよ」

分かっている。

あの幼子のように見える女の腹に、子がいることは。カムイが言っていた友人とは、アレのことだろう。

実際には、生殖が出来る年齢だった、ということか。そういえば、見かけの割に、しゃべり方もしっかりしていた。

「人間がいない場所へ、急がなければならん」

「フユ、ぼくは」

「今は後だ。 とりあえず、安全圏に逃れた方が良いだろう」

それにしても、これほど友好的な相手を、一方的に殺そうとするとは。人間のつくる社会がろくでもない代物であるとは他の観測者に聞いていたが。どうやらカムイの言葉よりも、そちらが真実であったらしい。

自分たちの主観が全てというわけだ。見かけが気持ち悪ければ排除して良いし、全ての悪を押しつけても良い。カムイは人間に姿を似せていたが、普通の人間から見えないという事が、致命的な状況を生んだという訳か。

こんな気候、観測者にどうこうできるはずが無い。

冬やカムイに出来るのは、上司に状況を報告するだけなのに。

黙々と動き続けて、海岸に出た。

巫女が心配だと、カムイは言った。

「彼女は身重だし、他の人間達からも恨まれているんだ。 助けたい」

「勝手な話だな。 今まで巫女を通じて、どれだけお前が人間共を助けてやったというのか」

「そんなに怒らないで。 ぼくは怒っていないんだから」

「別に怒っていない」

ただ、人間の事は今まで以上に嫌いになった。管理者が人間を絶滅させると言ったら、冬は嬉々として従うだろう。

海岸に出た。

完全に凍り付いた海が、どこまでも広がっている。ただ、不可思議なことに気付く。

本来だったら、寒波はこの辺りから本格化する。つまり、もっと寒くなるはずなのだが。どうしてだろう。

あまり、寒波が来始めた頃と、状況が変わっていない。

凍り付いた海を渡って、南へ。

自分の領土へ、冬は向かう事とした。カムイの力が回復するまで、数年はかかるだろう。それまでは、身近で面倒を見なければならない。

「回復したら、どうする」

「領土に戻るよ。 みんなが心配だから」

「自殺行為では無いのか」

「大丈夫。 不意さえつかれなければ、此処までの不覚はもう取らないよ。 人間はたくましいから、きっとみんな生きている。 ムルルの子が、無事に生まれるかも心配だしね」

知ったことか。

こんな状態にされても、まだ人間の心配をしている親友が、冬には痛ましくてならなかった。

 

それから、寒波は晴れなかった。

その年、春も夏も秋も、ずっと眠ったままになった。

冬は起きっぱなしのまま、次の寒波の時期が来てしまった。勿論、その間、氷は全く溶けなかった。

言うまでも無く、生態系は壊滅。

それでも、連絡が来ることは無かった。

その翌年も、更に翌年も。

永遠の寒波だなと、冬は思った。

カムイは三年目に回復して、自分の領土へと戻っていったが。冬はそれを止める事が出来なかった。

 

時期が来たので、会議に出向く。

雪は分厚く積もることがあっても、溶けることは一切無かった。空から降ってくるのは雪の結晶。雨が降り注ぐことは、全く無い。

凍った海の範囲も、広くなる一方だ。

会議は去年辺りから、紛糾する一方である。南極はどうしてか言葉を濁すばかりで、どうして生物管理者が動かないのか、話そうとしない。

明らかに、世界レベルでの異変が起きているのに。既に冬の領土で、環境改変生物を繁殖可能な地域は、殆ど残っていない。

勿論、定期的に見回りはしているが。

このままでは、手遅れになるだろう。

カムイも、会議には来ていた。数年ぶりの参加と言うことで、物珍しそうに周囲の観測者達は、カムイを見ていた。

浮かない顔をしている。

領土に戻ったときには、手は回復していた。

だがあの様子では、人間と上手く行っていないのだろう。何も決まらない会議は、南極が逃亡してしまったので、お流れになった。

次の長老格である北極は、もう自分たちで動くしか無いと、ぎゃいぎゃい叫んでいた。それに賛同した者も、少なくは無かった様子だ。一部の者達は更に過激で、生物管理者に直訴するべきだと吼えていた。

観測者は、ただ観測するだけの存在。

職務を逸脱した行為だと、反発する者もいたようだが。ただ、冬は思うのだ。実際問題、何が出来るのかと。

勝手に生物管理者に声を掛けて、行動させるのだろうか。

連中は、観測者とあまり仲が良くない。お手並み拝見と、何処か他人事のように、冬は思った。

いずれにしても、此処にいて得られるものはない。

来年からは、もう来るのも止めよう。そう、冬は思った。

帰り道、カムイと一緒になる。とぼとぼと歩いているカムイの横に、冬は並んだ。

「どうした。 元気が無いな」

「ムルルが死んだよ」

「そうか。 自然の摂理だ。 仕方が無い事だろう」

「ぼくは、生物管理者の所へ意見が同じ観測者と一緒に行くよ」

いきなり、反論を許さない口調で、カムイが余計な事を言い出す。そんなことをして、一体何になるのか。

止めておけと言いかけたが、元々カムイとは意見が根本的に合わないのだ。冬の言葉など、聞くはずもない。

「そんなに人間共が大事か」

「それもあるけれど、やっぱりこの寒波をどうにかしないと」

「お前の本音は、自分が入れ込んでいる生き物を優先的に助けたい、という身勝手なものだろう。 違うのか」

カムイは反論しない。

図星だからだ。そして図星をつかれても、この頑固な親友は、絶対に意見を変えることが無いだろう。

「あのような目に遭わされて、どうして人間に入れ込む」

「フユ、君にお願いがあるんだ」

「何か」

「ムルルの子を、しばらく預かって欲しい」

そんなことを言われても困る。

そもそも人間に触ることも出来ないのに、どうやって子供の面倒を見ろというのか。徐々に冬の不快感が高まっていく。

カムイが言うには、元々巫女についていた雌が、子供の面倒を見ているという。そいつの面倒も見ろと言うことか。

冬の言葉も理解できるし、姿も見ることが出来るとか。

だから安全な場所にかくまえと。

「そのようなことをして、私に何の利益がある。 そもそも、私の職権を、明らかに逸脱した行為だ。 世界そのものの気候観測者が、どうして特定の生物に、慈悲を掛けなければならないのか」

「分かっている。 だから、君にしか頼めないんだ」

「そのような言い方は卑怯だ」

「ごめん、フユ」

此奴とは、ついに意見が交わることが無かった。

結局、丸損だと分かっていて、冬は話を聞き入れることになる。それは理不尽きわまりない事だ。

それでも、カムイのことを大事に思っているから、話は受けてしまう。

「お前は、私に厄介ごとを押しつけるばかりだな」

見送りはしない。

生物管理者は、どういう存在かよく分からない。人間が定義している最高神とか創世神とかが近いらしいが、それも見たことが無いから何とも言えない。

いくら何でも、観測者を殺すようなことはしないだろう。

だが、嫌な予感がする。

観測者達が集まっていた。

これから、生物管理者の所へ出向く者達らしい。

最過激な者達がぞろぞろと、何名かの観測者と共に、その場を去って行く。カムイも、それに従って、北の地へと消えた。北極はそれには賛同せず、じっと見守っていた。自分たちで行動するべきだという考えと、直訴は結びつかないらしい。

もう少し、何か喋っておけば良かったかも知れない。

そう、冬は思った。

 

3、滅びの氷

 

カムイが指定していた場所に出向くと、三十前後の女が、人間の赤子を抱えて待っていた。多少寒気が緩んでいるとはいえ、周囲は凍り付くような有様だ。この状態で生きている生物は、ますます減ってきている。

人間共は、今まで蓄えていた食糧で食いつないでいるようだが、それももう限界だろう。後10年もこの状況が続けば、おそらく壊滅的な打撃を受ける。

結構なことだと、冬は思った。

ただでさえ、環境の破壊が著しい生物だ。それくらいの打撃を受けて、数を減らせば良いのである。

勿論、其処にはカムイへのやっかみがある事も、否定はしない。

「カムイ神様のご親友であらせられますか」

「そうだ」

不快な生物が余計な事をほざいた。見えているのなら、応えてやるのが義理か。

既に周囲は銀世界というのも生やさしい、真っ白な空間。足跡を付けて、冬についてくる女は、レラと名乗った。

冬の領土にいる人間とは、だいぶ名前のパターンが違う。

此奴はいわゆる乳母という奴で、他の高貴な人間の赤子を育てる役割を持っているのだという。そうなると、カムイが入れ込んでいたあのメスは、高貴な扱いを受けていた、という事なのだろう。

それこそ、冬にはどうでもいい。

人間への憎悪は、ふくれあがるばかりだ。特定生物に入れ込む親友にも、他の生物がどんどん絶滅しているのに、のうのうと生き延びている此奴らにも腹が立つ。とっととカムイが戻ってきたら、説教してやりたい。どうせ聞こうとしないのは、目に見えているのだが。

既に、冬の隠れ家でさえ探しづらい状況だが。

一応、ここしばらくの間に、安定した住処は幾つか見つけてある。逆に言えば、それくらいしかする事が無かったのだ。普段は寝ていても良い時期でさえ、ずっと起きていなければならないからだ。

春も秋も夏も、ずっと目を覚まさない。

分厚い雪の下で眠っている彼奴らを思うと、腹立たしい。

洞窟に着く。

本来は、小高い山の山頂付近にあった洞窟だ。今では、すっかり雪に埋もれた大地に、ぽつんと存在する洞窟と化している。

元が斜面である事もあって、流石に此処まで雪は積もってこない。

というよりも、既に雪は氷河化していて、じっくりと流れはじめている。雪自体の重さが、自身を押し流しているのだ。

「此処で暮らせ」

「有り難うございます」

側には、まだ凍っていない貴重な川もある。水は冷たいかも知れないが、そんなものは知ったことでは無い。

ぺこりと頭を下げた女は、背負っていた荷物をいそいそと広げて、生活空間を作り始めた。

洞窟はかなり広い上に、入り口が合計四つもある。

この洞窟自体が、非常に特殊な形成をしているため、奥の方には暖かい空間も広がっている。

其処に逃げ込んだ小型の生物が、独自の生態系を構成もしている様子だ。

人間がどうしようが興味が無い。時々生きているか見に来るだけで良いだろう。それよりも、心配なのはカムイだ。

見上げると、空にオーロラが懸かっている。

そういえば、この辺りでも、最近は見られるようになってきた。世界そのものが、大きな異常に包まれている、良い証拠だ。

自分の巣穴に移動する。

この洞窟から少し離れた場所にある、静かで平和な空間だ。人間は来ない。人間自体が著しく数を減らしているから、煩わされることも無い。カムイの一件があってから、ますます冬は人間が嫌いになった。さっさと滅べばいいのである。

あの乳母が、どういう事情を抱えているかには、全く興味が無い。

カムイが早く戻ってくればそれでいい。

そうしなければ、説教できない。どうせ聞かないことがわかりきっていても、今回は一言言わなければ腹の虫が治まらなかった。

それから、しばらくは、領土を見て廻る。

どこもかしこも凍り付けだ。

滝が丸ごと凍っていたり、湖が凍り付いてその上に雪が分厚く積もっていたりもしていた。

人間の集落を幾つか見て廻ったが、どれもこれも全滅だ。

まだ生き延びている人間もいるようだが、ごく少数。条件が整った地域に、生き残りは移動しているようだが。

それも、このままでは長続きしまい。いい気味だと冬は思った。

分厚く積もった雪は、どうにか一段落した。ただし、その厚みが減る様子は無い。このまま行くと、海も近いうちに凍り付くだろう。

この世界は、氷に覆われる。

全ての生物が絶滅するかは分からないが。しかし、世界規模での打撃を受けることは確実だ。

冬は、生物の生き死にには興味が無い。

ただ、少し分からなくなってきた。

もしも生物管理者が何もしないのであれば、観測者は何のためにいるのだろう。連絡体制も機能していないようだし、ただ世界を見るだけの存在に、何の意味があるのだろう。実際問題、冬という現象の名前を持ちながら、何一つ出来る事は無いのだ。自分の存在意義も分からない。

今まで漠然と世界を見てきたが、これほど意味の無い者はいないようにも思えてきた。勿論、出来る事はある。世界を観測することで把握し、管理するための存在の負担を減らし、効率を上げることが出来る。

だが、その管理する者が動いていない現状、一体何が冬に出来るのだろう。

辺りを見て廻ってから、レラの所に戻る。

レラは子供の世話に懸かりっきりだった。この状況で生きている。しぶとい生物だ。

「一つ聞きたいことがある」

「何でしょうか、神様」

「冬だ」

「冬神様」

まあ、それでいい。

別に、人間なんぞに、なんと呼ばれようと知ったことじゃない。むしろ人間の呼び名にあわせて、カムイと名乗りはじめた彼奴の方が異常なのだ。

カムイの主観と人間の主観が一致しているか、冬は確認しておきたかった。

「カムイはどうして、貴様らに傷つけられた」

「それは……」

「言ってみろ」

「この寒波が、カムイ様のせいだと」

そんな訳があるか。吐き捨てるが、レラは首をすくめるばかりだ。

珍しく、主観は一致していたらしい。

人間は一体、観測者に何を求めているのか。むしろカムイは、人間のために様々な助力をしてきたはずだ。

しかも、傷つけられて瀕死になってなお、人間を助けたのに。

報われないことこの上ない。

「この異常な寒波で、みんな苦しんでいます。 誰かを憎まないと、心を保てない人もいたんです」

「その憎しみを享受せよと? 今までカムイが、貴様らくだらん生物に、どれだけ助けの手をさしのべてきたと思っている。 貴様らが発展できたのは、カムイのおかげであろうが」

「返す言葉もありません」

赤子が泣き出したので、レラがよしよしと揺すりはじめた。

不快感を刺激された冬は、その場を離れる。

そうか、そんなことが原因だったのか。

カムイも馬鹿な事をしたものだと冬は思った。

だが、考えて見れば、行動していただけ、カムイの方がまだマシだったのかも知れない。

雪は降らない。

だが、温度も上がらない。一面の銀世界は太陽光を反射し、その圧倒的な存在感を、今だ衰えさせてはいなかった。

 

完全に氷河が定着した。

凍った海の範囲も、広がる一方だ。

生物の中には、この寒さに適応した種族も出始めている様子だ。それまでに、相当数の生物が絶滅したが。

管理者の所に行ったカムイは、まだ戻ってこない。

既に、十年以上が経過したのだが。カムイから、音沙汰すらなかった。カムイの領土に足を運んでもみたのだが、やはり姿は無い。

カムイは殺されたのだろうか。

管理者は一体どうしてしまったのか。

そもそも、生物管理者という存在が、観測者という仕組みを造り出して、随分長い時が経つ。観測者は地域ごとに根付き、それぞれの気候に応じて自然に発生する。それは、観測者の間で語り継がれている事だ。

実際問題、気候に応じて、自然発生する観測者は何度も目にしている。

そして、気候が合わなくなれば、一端眠って、必要になるまで目を覚まさない。観測者の仕事は、世界を観測すること。そして、状況に応じて、生物管理者のために、世界を改変するのに必要な情報を提供することだ。

世界を温めるのなら、はやくすればいい。

どうして管理者は動かない。

そればかりか、何故カムイを拘束している。

彼方此方の観測者に、話を聞いて廻る。やはり、同じように、管理者の所に向かった観測者は、帰ってきていない。

殺されたのだという噂も、流れはじめていた。

南極の所に話を聞きに行こうという意見も出てきていた。しかし南極は、かなり前から雲隠れしているという。

管理者に対する怒りの言葉も出始めている。

世界を放置して、どこで何をしているのか。観測者達を、どうしてしまったというのか。新しい管理者を立てるべきでは無いかと言う言葉さえ、冬は聞いた。

冬は、そこまで過激にはなれない。

しかし、管理者の所に出向いても、殺されるだけのような気がしてならない。観測者に寿命期間が無いのが幸いだ。殺されさえしなければ、カムイは生きている。しかし、それなら、何故戻ってこない。

観測者達の中には、我慢できなくなって、管理者の所に出向くべきだという声までも上がり始めていた。

実際、一人で向かった者もいるらしい。

しかし、当然のように帰ってきていない。管理者はいったいどうなったのかと、不安ばかりが膨らんでいた。

完全に定着した、異常寒気。

既にこの世界は、氷の世界になりつつある。このまま行けば、海も全て凍って、何もかもが白い世界になるだろう。

自分の領土に戻る。

洞窟を覗きに行くと、逃げ込んだ他の人間共もいた。繁殖までしている。

文明は崩壊したが、それでも言葉などは保っているようだ。レラが持ってきた赤子は、かなり大きくなった。冬の事も、しっかり見えているようだ。

カムイなら兎も角、冬が此奴らの面倒を見てやる理由は無い。勿論、話もする気は無い。

「冬神様」

レラが話しかけてくる。

他の人間達は、それを聞くと、さっと平伏した。

どうやら一種の宗教が誕生しているらしい。冬の事を崇拝するものであるようすだ。正直言って、虫酸が走る。

今度は冬を、カムイの代わりにしようというのか。

「カムイ様は、未だにお戻りになられませんか」

「ああ。 戻らない」

「そう、ですか」

「私の方が、現在の状況を知りたいくらいだ。 そもそも、世界を管理する者は、一体何をしているのか」

自分自身を含めて、もはや何もかもが気に入らない。

いっそのこと、こんな世界、全て木っ端みじんになって消し飛んでしまえば良い。そう、本気で冬は考えはじめていた。

もしもこの世界を温めるとすると、日が活動周期に入るしか無いだろう。温室効果を発生させるには、生物にはもう力が足りない。少なくとも、既存の生物には、だ。或いは新種が誕生すれば話は別かも知れないが。

しかし、観測者に、干渉する権利は無い。触ることも、本来は出来ないのだ。

だが、この無力感は、正直度しがたい。

しばらく考えてから、冬は決めた。

「私は、しばらく巣穴に籠もるか、或いは此処を離れる」

「何をなさるのですか」

「姿を変える」

正確には、能力を拡張する。

このままでは、何もすることが出来ない。だから冬は脱皮して、生物に干渉が可能な状態になる。

管理者は全く頼りにならない。

だから、冬自身が、動くしか無い。カムイが殺されたのか拘束されたのかは分からないが、もう待つことは出来ない。

実際問題、異常気象が始まってから、既に十数年が経過しているのだ。

それで一切動きが無いのは、異常すぎる。

管理者は己の責務を放棄したと見てよい。それならば、その下にいる観測者が、動くしか無いだろう。

洞窟を離れると、冬は独自の動きを開始した。

近場の領土で、生き延びている観測者達に声を掛ける。

いっそのこと全員で一つになって、観測者そのものを脱した存在になるべきでは無いかと、三つ隣の観測者に提案された。

それはいい。

単独で好き勝手に動くよりも、秩序のある行動をするべきだろう。他の観測者にも声を掛けていく。

勿論、反対意見も出た。

だが、十数年以上、一切動きが無いのも事実なのだ。南極は雲隠れしてしまっているし、二番目の長老格である北極は、観測者で動くべきと言う意見に賛意も示している。

自動的に、会議が行われる事となった。

驚くべき事に、存在する観測者の、全てが参加した。冬も、数年ぶりに、会議が行われる洞窟に足を運んだ。

北極は、その不定形の体を蠕動させて、皆に熱っぽく語りかける。

「このままでは、環境の変化は致命的な段階にまで進む。 今のまま、見ているだけの存在でいて良いのか」

「管理者の存在は……」

「連絡は一切無い! 話を聞きに行った者達も、戻る気配が無い! このまま手をこまねいているのは、むしろ罪悪だ!」

そうだそうだと、賛意が上がる。

不安そうな者達もいる。

そして、彼らの意見も、根強かった。

「ならば、どうだろう。 後数年待ってみて、管理者から連絡が来ないようであれば、独自の動きを開始する方向ならば」

「いっそのこと、此処にいる全員で、管理者の元へ出向くのは」

「死にたいのか、貴様は」

阿呆な意見が一蹴される。

実際問題、全体の一割ほどが既に管理者の所へ足を運んだのだ。それでいながら、その一人も戻ってきていない。

管理者は乱心したか、或いは。

何かしらの理由で、観測者を拘束、もしくは殺して廻っているのは間違いないだろう。つまり奴は、既に観測者の敵だ。

「それで、皆で融合して、干渉が出来るようにしたとして、どうするのか」

「決まっている。 20年前の気象状態を再現する。 生物の損害は致命的だが、それでもまだ間に合うはずだ」

「決を採ろう。 反対はゆるさん」

北極が、それこそ有無を言わさぬ迫力で言う。

冬は勿論、融合と変化に賛成だ。反対意見を述べていた者達も、数年間は待つという条件を満たすことで最終的には賛成した。

北極が、領土に戻ろうとする冬に声を掛けてくる。

「君が、融合後のリーダーシップを取れ」

「はあ。 何故私が」

「君が動き始めたことで、全員を巻き込む活動が開始された。 君の功績は大きい。 会議をまとめたのは私だが、君の功績を優先するべきだろう」

理屈はよく分からないが、正直な話。

カムイを助けたいという気持ちが、今も強い。殺されさえしなければ、今も生きている筈だ。

生物管理者はまだいるのだろう。カムイが戻ってこないのだから。

ならば、奴と戦える力も必要だ。

領土に戻る。

巣穴に入って、三年待った。

やはりというかなんというか、それから管理者から連絡が来ることは無し。結局、異変開始から二十年以上が経過したことになる。

もはや、反対する観測者は、いなかった。

全ての観測者が、会議を行う洞窟に集まる。そこで、北極が宣言した。

「既に管理者の存在は有名無実化した。 今こそ、我々が動くべき時だ。 世界の観測だけではない。 この膨大な知識を生かして、世界を変えていかなければならないだろう」

冬が無数にいる観測者達の前に出る。

北極は、冬が指導者となる事を、此処で宣言した。

冬は少し躊躇ったが、しかし言う。

これだけは、はっきりさせておかなければならない。

「融合し、変体後は、二つ、いや三つの事をこなすことになる」

「三つ?」

「一つは環境の調整。 二十数年前の、安定した環境状態に、世界を戻す。 生態系は既に壊滅してしまっているが、それでも環境を元に戻せば、時間さえ掛かるがいずれは必ず回復することだろう」

それは、既に会議での決定事項だ。

だが、後の二つは。これに関しては、かなり衝撃的な内容となる。平和ボケした観測者どもには、きつい一撃となるだろう。

質問が来たので、応える。

「一つは、管理者に対抗する能力を身につける。 今回の件で、管理者は観測者を殺しているか、拘束している可能性が高い。 もしも我々が管理者に反旗を翻したと知れば、殺しに来る可能性がある」

どよめきが上がる。

今更なんだ。

こんな事くらい、気付いていない方がおかしい。及び腰になる事は許さない。既に決定事項なのだ。

もしも逃亡を図る奴がいたら、そいつはこの場で殺す。

「か、管理者と戦うのか」

「確定事項では無い。 だが、戦いになる可能性は、小さくないだろうな」

そもそも、この場にいる連中で、管理者を知る者はいるのか。そう問いかけると、誰も応えない。

北極でさえ、直接は会ったことが無いのだ。

南極が雲隠れした今、管理者は未知の存在。どれだけ力を付けても、つけすぎということはないだろう。

「最後に、失踪した観測者の所在を突き止める。 死んだのならば、それを確認。 生きているのなら救い出す」

そうだ。

これこそが、最も重要なこと。

管理者なんぞ、八つ裂きにしようがばらばらにしようが、どうでもいい。奴がやったのは、文字通り世界に対する裏切りだ。

それよりも大事なのは、カムイを救い出すことだ。

その事については、口にしない。ただし、観測者同士で、親しかった者は他にもいるはずだ。

「決まったことは、もう覆さない。 既に雌伏の時は過ぎた」

行動をはじめるとき。

北極がそう言うと、もはや逃れる術は無かった。

観測者は不定形だから、融合は簡単だ。そのまま全てが融合し、冬を中心にして意識を統合。

そして、知識の収集と観測だけを目的としていた肉体を、変更する。

膨大な知識が統合されていく。

冬は知る。

今の状態からでも、温室効果を利用して、世界を温める事は十分に可能だ。まだ暖かい地方には、充分に条件を満たせる場所が多数残っている。そして、繁殖させるべき特化生物の知識もある。そしてこれから、干渉能力も得ることが出来る。

一部の観測者は怯えていた。

管理者に、反旗を翻すことが怖いのだろう。今更である。だが、そんな連中でも、戦力は戦力だ。

肉体の変更には、一年ほどかかるだろう。

現在の寒気は比較的安定している。これから更に寒くなることは考えにくい。日の活動状態は、まだ数百年は低下したままだろうと、結論も出た。他の観測者から集めた膨大なデータを分析した結果だ。

そのまま、洞窟で。

不定形の塊が、まるで蛹のように。

体を全て作り替えていく。

見ているだけの存在である自分が、いつしか歯がゆくなっていた。全く行動しない支配者に、苛立ちも募っていた。

これから、全てを変える。

滅びの氷は、寒気の観測者である冬にも、歓迎すべきものではない。

そして、カムイを取り戻すのだ。

 

4、とけた世界の先に

 

巣穴から、這い出す。

相変わらず不定形の肉体。冬は、ゆっくりと、意識を覚醒させていった。

既に予定通り、肉体改造は終了している。

思うとおりに、動かすことが出来る。

動かすことが出来るだけではない。干渉も出来る。もはや、見ているだけの存在では無い。

管理者は南極にいると、知識を総合する限り、確実に断言できる。ならば、これから向かうのは、南極だ。

翼を広げる。

正確には、不定形の体でも飛べるように、巨大なV字型に形を変える。多くの動物の知識もあるから、どうすれば飛べるかは分かっている。無数の足を動かす。そして加速していく。

小高い丘を利用して、飛んだ。

ごうと、風を受けて、空に舞い上がる。

そうか、空を舞うというのは、こういう感触であったのか。

体中に目がある。

下が見える。真っ白な世界。海まで凍り付いている。そして、去年よりも、更に凍り付いた域は拡大していた。

無能な管理者に、存在異議無し。

雄叫びを上げると、冬は南極に急ぐ。

ふと、自分の領土を見る。

何となく分かった。ムルルの子供が、此方を見上げている。親とそっくりに育ったものだ。一目で分かった。

まあ、どうでもいいが。

カムイは、多分喜ぶだろう。

何となく、いい事を知った。良い土産ができたものだ。とりあえず、まずは管理者をブチ殺して、全てはそれからだ。

多くの知識を統合した冬は、知っている。

そもそもこの世界には、管理者などというものは、いなかった。

それが何時からか居座り、自動的に生み出される観測者を束ねて、王を気取った。そして力をひけらかし、好き勝手に振る舞うようになった。

実際、世界が管理できているのなら、それで文句は何も無い。

だが、管理されない世界など、見ての通りだ。

安定など欠片も無く、繁栄もしない。

凍り付いた世界には、ただ死と静寂があるのみ。

冬は寒気が好きだ。

だが、これは度が過ぎている。やはり、管理者はブチ殺さないとならないだろう。

何となく、だが。言葉遣いが荒くなってきているのが分かる。おそらく、多くの意識を取り込んだことが原因だろう。

ジェット気流に乗り、速度を上げる。

このまま加速して、南極まで到達する。一つの気流だけでは到達は無理だから、複数の気流を乗り継ぐ。

これらの知識も、融合した他の観測者が持っている。

おかしな話だ。

これだけの知識がありながら、管理者は一体何をしていたのか。環境を保つことも出来るだろうし、何より有意義にでも使えたはずだ。

此処まで状態を放置して、悪化させることも無かっただろうに。

いずれにしても、償ってもらう。

奴には、死あるのみだ。

南極が見えてきた。

元々小さな大陸だと言うことは知っていたが、今は周辺の海が丸ごと凍り付いていることもあって、全く大きさが分からない。

いずれにしても、クレバスもないし、着地することで問題は起きないだろう。翼を畳んで、降下を開始。

そして、着地した。

この辺りに、カムイがいるはずだ。

カムイ。

呼びかけるが、当然返事は無い。

そして、凄まじい寒気。これは、完全に生物が暮らしていける環境では無い。極限の冷気。環境としては、おそらく大気が無い惑星に近いものではないだろうか。

一端球体に形状を変えると、無数の触手を辺りに伸ばす。

生きている存在はいないかも知れないが、観測者の気配を探りたい。

そういえばこの辺りは、南極の支配地域。周囲にいる観測者の知識から検索しても、あまり詳しい地形は出てこない。

思えば、南極は最初から何か隠していたのかも知れない。

移動しながら、触手で周囲をまんべんなくまさぐり、探していく。何かに当たれば、すぐに分かる。

途中、何度かカムイに呼びかけるが。

返事は無い。

死んだのかも知れない。だが、最後まで諦めずに、頑張ってみたい。

クレバスにも触手を差し込んで、しっかり調べる。

驚いたことに、これでも生きた生物がいる。クレバスと言っても極めて今の状態であれば安定しているから、その奥底であればむしろ過ごしやすいのだろう。ただし、小型の生物ばかりだ。

凍った海の下では、寒さに強い魚だけが生存している様子だ。

ただし、分厚い氷の下では、光も届かないだろう。深海魚か、それに類する生物ばかりのようだ。

極限の寒気でも、生きている者はいるか。

南極大陸の中心部へ。

何もいない。管理者は何処か。管理者と言うほどなのだ。よほど強い力を持っているはず。

雄叫びを上げる。

出てこい、無能なる管理者。

出向いてやったぞ。殺してやるから、姿を見せろ。

何度も吼えるが、反応無し。腰抜けが。吐き捨てると、探しに懸かる。こうなったら、どこまででも追い詰めて、ブチ殺す。奴がいるところにカムイも拘束されているはず。殺されているかも知れない。

触手を、更に増やす。

寒気の中、まるで巨大なうにのようになった冬は、触手を際限なく伸ばして、怨敵と、カムイを探し続けた。

こんなクズのために、主体性が無い恐怖を抱いていたのだと思うと、虫酸が走る。さっさと最初からブチ殺すべく、皆で談合するべきだったのだろう。そして、殺しておけば、カムイがいなくなることも無かった。

一刻も早く殺そう。

過激になって行く思考に、冬は酔っていた。やがて、何かを触手の一つが見つける。奴に間違いない。さあ、遊びの時間だ。

思いつく限り徹底的に残虐にぶっ殺してくれる。

触手を引き戻すと、複数の足を造り出し、全速力で移動を開始する。どうやら管理者は、南極地下の地底湖に潜んでいるらしい。

良いだろう。

地底湖の水を、真っ赤に染めてやる。青かも知れないが、べつにそれはどうでもいい。とにかく、クズを殺せればそれでいい。

さあ、今行ってやる。

ブチ殺してやるぞ、管理者。

真上に出た。

クレバスに差し込んだままの触手を震動させて、氷を割ると、力尽くで広げる。そして、中に躍り込んだ。

地底湖は、想像以上に深かった。

ただ、ひたすら落ちていく。クレバスの底にある湖の様子は、全く見えない。本当に存在しているのか。しかし、触手の尖端は水に触れている。ある筈だ。

着水。

普通の生物なら即死するほどの低温水だが、元々生物では無い。

さあ、管理者。姿を見せろ。

冬は吼えた。

 

そこには。

何もいなかった。

何も存在しなかった。

ただの残骸と、同胞が一人。いただけだった。

 

南極大陸に、極大のブリザードが来る。

クレバスから這い上がった冬は。カムイを抱えたまま、呆然としていた。カムイは、既に息絶えていた。

管理者など。

最初からいなかった。

ほの暗い水の底。其処にあったのは、ただの計算機だった。ずっと昔の人間が残したただの機械。観測者は、その機械に情報を提供するために、高度な科学力で造り出された、ただの自動監視装置だったのだ。

新しく生まれたように思えたのは、全て錯覚。

必要に応じて、冬眠から目覚めていただけ。

テラフォーミングとやらのために、造り出された命無き存在。

そして、今やその機械は。とっくに耐用年数を終えて、沈黙していたのだ。

南極はそれをずっと昔から知っていた。

知った上で、観測者達の上に立つために、黙っていた。

だから、抗議に来た観測者達を、皆殺しにしたのだ。結局、管理者を殺そうと乗り込んだ冬を待っていたのは、多くの観測者を殺して、管理者の残骸にしがみついていた、南極だった。

南極を殺したが。

ただ、それだけだ。

カムイは戻ってこない。戻ってくるはずが無い。

だが、亡骸をうち捨てていくのもいやだ。嗚呼。これからどうすれば良いのだろう。冬は、星も見えない曇天を仰ぐ。

何がテラフォーミングか。

半殺しにした時点で南極が白状したのだが。管理者が造り出された頃から、既にこの星は、生物が暮らせる状況ではなくなりつつあったという。

つまり、今の寒波に覆われた世界こそが、普通。

今までの暖かい世界こそが、異常だったというのか。

笑いがこみ上げてくる。

心の底から、何もかもが憎らしいと思った。

観測者はもはやこの世に存在していない。それだけではない。このまま、世界は更に冷えていくだろう、

管理者の知識と技術は全て取り込んだが。

だが、今更それが何になる。

冬は生物では無い。生物など、この世界に存在しようがしまいがどうでもいい。そもそも、冬の名前は。

かって存在していた季節だというでは無いか。

一度失われた季節。

普遍化してしまったから、存在しなくなった季節。それを再生するために、冬を一とする、寒気の観測者が誕生した。

小氷河期など、嘘だった。

この世界は。

ずっと、氷河期にいたのだ。それを無理矢理、そうでは無い状態にしていた。それは、おかしくもなる。

南極大陸を出る。

ブリザードを抜けたが、結局海は凍ったままだ。

どうしよう。

複数の声がささやく。統合が緩くなってきているのだ。冬も、正直な話、どうするべきなのか、よく分からない。

この世界を温めるべきなのか。

自身が新しい管理者になるべきだ、という声もある。

しかし、そのようなことをして、どうすればいいのか。

何の意味があるのか。

そもそも観測者としての存在自体に、もはや何ら意味が無い。よく分かったが、人間共は管理者を作った後、勝手に衰退した。その人間どもの都合で、この世界の気候を維持していたのだ。

反吐が出る。

カムイを殺したも同然の彼奴らは、もはや冬の怨敵だ。それだけではない。この世界そのものが、冬にとって不快なものだ。

「冬」

北極が、語りかけてくる。

統制が緩んでいるからだろう。喋ることを許可した覚えは無いのだが。だが、冬が統率をしている意味も、もはやない気がする。

「もはや、何もしたくない」

「ならば、何故移動している」

「カムイを領土に還す」

「その後は、どうする。 この世界を、いっそ氷付けにするか」

それは中々良い。

微生物に至るまで殺し尽くし、世界を白く染め上げる。そしてくだらん生物共が全て消えて無くなった後、環境を元に戻すのも面白そうだ。

とっくに文明を喪失した人間共など、もう少し世界を冷やすだけで、勝手に滅びるだろう。

他の生物共も、馬鹿みたいに観測していた事が不快で仕方が無い。

全部殺してすっきりするのも一興だ。

「そんなことは、何時でも出来る」

だがどうしてだろう。

そう、呟いていた。

気がつくと、カムイの領土まで戻ってきていた。温度は安定している。その気になれば、いつでも暖かい世界を作り出す事が出来る。

カムイの残骸を、雪の下深くに埋める。

管理者も、結局ただの機械。

自分たちも。

それなのに、どうしてこうも悲しいのか。カムイと平行線の議論を続けるのが、好きだった。

説教してやろうと、思っていた。

もはや息無き盟友に、そうするのも。なんら面白い事では無い。生きている友と、喧嘩がしたかった。

雪がまた降り出す。

嗚呼。

世界は、別に寒くなくても。最初から凍り付いているでは無いか。

そう、冬は思った。

 

何もかもする気力が消え失せた。

だから、冬は海の底に潜ることとした。どれだけ世界が凍り付いても、深海までは凍ることが無かった。

気がつくと、太陽が再び活動期になっていた。

 

地上に出る。

春や秋、夏も既に活動を開始していた。巨大にふくれあがった冬を見て、奴らは驚いたようだが。

別に今更、どうでもいい。

生物は驚くべき事に、まだ存在していた。

人間も。

眠っていた期間は、軽く数百年に達するはずなのだが。あの期間、極寒地獄を生き抜いたというのか。

人間共も、ある程度文明を取り戻していた。

だが、それが何だというのか。

冬にはもはや、どうでも良いことだ。いっそのこと、そのまま滅びてしまえば良かったのに。

世界を凍り付かせることは、出来る。

だが、それに何の意味があるのだろう。

カムイを埋めた場所に出向く。

其処は、巨大な木になっていた。冬が決断するまで、観測者は生物に干渉できない存在だった。そうするべきものだった。それなのに干渉し続けたカムイは、結局生物の糧になってしまった。

ぼんやりと、木を見上げる。

心は、冷たいままだ。

「冬神様?」

声を掛けてきた者がいる。

その呼び方、覚えがある。視覚器官を働かせて確認。そうか、やはりあの子供の子孫か。同じ姿では無いが、遺伝子に同一のパターンが散見できる。あの状態から、図太く生き抜いていたのか。

殺してやろうかと思ったが。

黙って、見ているだけにした。

「冬を、終わらせてくれて、有り難うございます。 これからも、貴方を崇めてもよろしいでしょうか」

ぺこりと頭を下げられる。

勝手にしろ。

そう言い残すと、その場を離れた。

自分は何もしていない。

永遠の寒気を終わらせたのは、太陽だ。太陽の気まぐれが、この世界を、凍らせたり、溶かしたりした。

勿論加速させることも、更に寒くすることも出来た。

だが、しなかった。

いや、する気にさえなれなかった。

する気にならないのなどは、言い訳に過ぎないのかも知れない。結局冬には、出来なかった。

それが全てだ。

より巨大な理不尽に振り回されるこの世が、冬にはにくくて仕方が無い。カムイは、どうしてこんな世界を受け入れることが出来たのだろう。

やはり、滅ぼそうか。

今の力なら。その気になれば、世界を滅ぼすことも出来る。

気がつくと、カムイは側にいない。

そうか、この心が。冬だ。

今、自分の心と名前は一つになっている。

今更に、冬はそう思った。

 

(終)