浮沈

 

序,もう一つの世界でも生きる者

 

高杉遥奈は、ごく平凡な公立高校(秋山台高校)に通う女子高校生である。容姿は上の中、成績も同上、素行も普通という、特筆事項は無く、目立つ要素のない娘であった。だが、彼女は校内で目立った。不必要なほどに。

遥奈が通う学校は、生徒数七百五十、大学への進学率は七割、ごく平凡な進学校である。当然生徒は受験勉強にいそしみ、成績が悪くない遥奈は普通なら教師に目をつけられることもないはずであった。だが、彼女は教師達の頭痛の種であった。いや、出来の悪い生徒なら却って良かったのだろうが、かなりランクが高い国立をねらえる程度の成績を上げている遥奈であったから、余計に目をつけられていた。

遥奈は眼鏡がよく似合った。いつも身につけているのは、特に高くも安くもない普通の丸眼鏡なのに、非常によく似合った。声は低く落ち着いており、過剰に社交的なわけでも、逆に常に一人でいるわけでもない。保護意識が高いわけでもなく、逆に突き放した物言いをするわけでもない。つまり、遥奈は眼鏡が似合うだけの普通の女子生徒であった。しかし、普通を遙かに超えて目立った。

遥奈には同性の友達が数人いる。だが、特に目立って友達が多いタイプではない。男子と縁がないわけでもないが、別に男という名の蛾を寄せ付ける集蛾灯でもない。しかし、彼女の知名度は、秋山台高校の女子で一二を争う。

何故遥奈は目立つのか、秋山台高校の生徒に聞けばすぐに分かる。彼らからは、大体次のような答えが返ってくるはずだ。

「ハルナ? 二年の遥奈先輩? ああ、あの不思議ちゃん先輩! アタマはいーけど、良くわかんねー人だろ?」

「知ってる知ってる! 結構可愛いのに、いっつも変なこと考えてる先輩でしょ?」

「ハルナ? ああー、あの子! 確かに可愛くて面白いんだけど、考えることについていけないのよねー。 話してると疲れるわよ、絶対に」

「ああ、あの。 俺のダチが告ったらしいんだけど、意味わからん事言われて速攻で逃げてきたんだってよ。 せっかく結構可愛いのに、もったいないよなー」

……そう、遥奈は常軌を逸した空想癖の持ち主であり、別の世界と言う名の泥沼に体を(足ではない)半分つっこんでいる存在だったのである。

授業の途中でも、いつも空想に遥奈は浸っている。彼女はいつも感じがいい笑みを浮かべているが、同級生は知っている、それが愉快な空想にふけって浮かべている物だと。それでいながら、教師に指されると、的確に答えを言うのだから極めて始末が悪い。実際問題、遥奈にやる気を出させたら秋山台高校史上初の東大生を誕生させることが出来るかも知れないと言う考えは、同校の教師達の間で共通の認識となっていた。しかし、遥奈は学習意欲とは完全に無縁な娘で、何をやってもやる気を出させることが出来なかった。それでいながら成績は全国区レベルで上の中を維持し、天賦の頭脳に奢ることもなかったので、誰も文句を言えなかった。

ある意味で、遥奈は筋金入りの問題児であり、同時に文句を言えない存在でもあった。最近では教師の半分が既に彼女に学習意欲を出させることを諦め、残り半分はムキになってまだやる気を出させようと四苦八苦している。学友達も、本当の意味での友人といえる者は四五人で、後は面白がって遥奈の愉快な話を聞きに来る者、勉強を教えてもらいに来る者であった。何しろ遥奈は男子だろうが女子だろうが何処の誰にでも平等に優しかったので、マナーさえきちんと守れば必ず彼女が発する(面白さ)に浸ることが出来た。ただ遥奈も遥奈で、そんな連中は友人だ等とは露ほども思っていなかった。

遥奈にとって、空想にふけることは幸せであった。十七年間生きてきて、それに変化はなかった。だが、それが終わりに近づいていることに、彼女は気付いていなかった。

 

1,不思議ちゃんの日常

 

私の朝は、普通の人より早く始まる。目覚まし時計は、常に五時半に設定しているからだ。目覚まし時計のフランクルは電池さえちゃんと入れておけば、私をきちんと起こしてくれる。働き者で立派な目覚まし時計だ。うん。

フランクルに入れているのはかの名曲(魔王)だ。シューベルトの作ったこの曲は、どうも周囲の者には受けが悪い。何というか、目覚まし音楽が(シューベルトの魔王)と聞くと、みんな吹き出したり机に突っ伏したりするのだ。よく分からないが、感性などという物は人によって違うのだから、彼らを責めることも出来ない。

ともあれ、その素晴らしい曲と共に私は目覚める。大きく延びをすると、私はいつものように手刀でフランクルを黙らせて、目をこすりながら親愛なる友に挨拶した。

「おはよう、フランクル。 今日も素晴らしい目覚めだな」

そのままカーテンを開けると、外は大雨だった。雨と言えば、フランクルがうちに来たのも雨の日だったな。私は結構雨が好きだ。私の大事な友達、傘のアンジェリカの綺麗な緋色を見ることが出来るし、どっちかと言えば嫌いな体育を、体育館で出来るからだ。もっとも、それだけが好きな理由ではない。他にも沢山沢山沢山雨が好きなのには理由がある。

おっと、ぼんやりしている暇はない。歯を磨いて、髪を梳かして、パジャマを着替える。ちなみに歯ブラシにも、櫛にも、勿論パジャマにも名前はあるぞ。きちんと彼らに挨拶しながら、制服に着替えると、私は居間に出る。既に時刻は六時を回っている。うーむ、敏速に動くにはどうしたらよいのだろうか。ありふれたブレザーの袖に腕を通しながら、私はそんなことを考えた。

「おはよー、ハル姉」

「おはよう、大介」

居間には先客がいた。私の弟で、中三の大介だ。何でも部活に入ったとかで、最近は私とほぼ同じ時刻に起きている。寝ぼけ眼で焼き上がったトーストをトースターから取りながら、大介は言う。

「ハル姉、今日俺遅いから」

「部活か?」

「補習だよ。 俺、ハル姉みたいに頭良くないから、大変なの」

「勉強なら、いつでも私が見てやると言っているだろう」

トーストにナイフのアンナでジャムを塗りながら私が言うと、大介は何故か動揺した。

「い、いや、流石に俺も中三だから。 いつまでもハル姉の世話になれないし」

「世界で二人だけの姉弟だろう。 何を遠慮しているのだ」

「……だって、鉛筆とか消しゴムとか、ハル姉の持ち物」

「持ち物ではなく友達だ」

私の手刀が大介の脳天に決まり、奴は机の下へ消滅した。たっぷり十五秒程の沈黙の後、大介は大げさに痙攣しながら私の視界に復活し、頭を押さえながら言う。自慢ではないが、私は父の親友の手ほどきで極真空手の黒帯を始め、四つほどの立ち技格闘技を修得している。運動音痴の大介は勿論、その辺の男子などよりは遙かに強いぞ。

「そ、その友達の生まれとか経歴とか延々聞かせるんだろ?」

「勉強が終わった後ではないか」

「でも、俺には苦痛なんだよぉ」

「何故苦痛なのだ? さっきから妙なことばかり言いおってからに」

不可思議なことをいう大介に、私は若干不機嫌になりながら言う。私が不機嫌になったことに気付いたのだろう、大介は更に動揺し、しどろもどろになった。

「あ、あの、そのさ、部活が……そろそろ」

「む、そうか。 気をつけてな」

「じゃ、じゃあ、さっきも言ったとおり遅いから」

逃げたな。……まあ、いいか。大介が部活で頑張っているというのは事実だろうから、それを邪魔しては悪い。トーストを食べ終えると、起き出した両親に出かける旨を告げ、私は家を出た。既に、時間は六時半を回っていた。

 

雨は止む気配もなく、私はアンジェリカを差しながら通学路を歩いた。雨は良い。この音は無数の小人さん達が鳴らす小さな太鼓を連想させる。小さな雨粒の一つ一つは、さながら天使の涙のようだ。あじさいの大きな葉っぱに乗っている蝸牛は、我々人とは違う時間の中で、大いなる旅をする者達だ。家を背負い、何処へでも行ける。何とも自由で、素晴らしい生き方ではないか。私が蝸牛のように家を背負っていたら、どういう旅をしようか。大きなあじさいの葉っぱが連なる大きいけど小さなジャングルを、雨蛙さんや、ヒルさんや、蛞蝓さんとのんびり移動するのだ。雨が降らないときはしめった所に隠れて、家の戸を閉じて時期を待つ。何とものんびりした、素晴らしい旅。それで出会うのは……

「遥奈センパーイ! おはよーございまーす!」

後ろからけたたましい声がして、思考を中断された私が振り向くと、後輩の水島蘭が駆けてきていた。いつものように笑顔を浮かべながら、私は蘭ちゃんに応じる。

「おはよう、蘭ちゃん」

「先輩、今日はどんなことを考えてたんですか?」

「うむ。 私がもし蝸牛だったら、どんな風にあじさいのジャングルを旅するかを考えていた」

私の熱い空想トークを、蘭ちゃんは笑顔で聞いている。この子は何というか、小さくて良く動く、ハムスターのような子だ。一緒に登校するようになったのは結構最近のことだが、兎に角可愛くて仕方がない。

私の周囲に寄ってくる人間は、どうも私を玩具か何かと考えている連中ばかりだったが、最近は結構人間扱いしてくれる奴がいて嬉しい。蘭ちゃんもその一人だ。私は他人の悪意や侮蔑には結構敏感だが、この子の言葉にそれはない。まあ、それが災いして、私が助けるまでは結構陰湿な虐めを受けていたのだが。どうも世の中、こういう良い子ほど生きにくいみたいだ。

「へー、センパイって、相変わらず楽しいことを考えているんですね」

「違う世界や時間の中に生きるというのは、どういう事か結局口では説明出来ないのだろう。 だから、私は想像してみるのだ」

「そういうの、想像出来るって凄いなあ。 私にはどうしても出来ないですよぉ」

楽しく会話しながら、私達は学校へ歩く。そういえば、この子は何でこの時間にいるのだ?私はいつも楽しく空想しながら登校するためにわざわざこの時間に家を出るのだが。部活をしているとも聞いていないし、補習の類でもなさそうだ。まあ、他人に立ち入りすぎるのは良くないな。聞くのは止めておくとしよう。

昇降口で蘭ちゃんと別れると、私は色々考えながら教室へ向かう。私の教室は幸運にも最上階にあるので、教室にたどり着くまで色々空想が出来てしまうのだ。これは実に嬉しいことである。

まだ人影がまばらな学校、そして私の教室。四十人を収容する教室には、大概私が一番乗りだ。雨は衰える気配を見せず、窓を叩き続けている。真ん中より若干後ろにある私の席に着くと、今日の時間割を確認する。ふうん、今日は体育がない。……何とも結構なことだ!体育は嫌でも授業中現実に集中しなくては行けないから、嫌な科目なのだ。これが数学やら化学やらになると、事前に教科書に目を通しておきさえすれば、後はどうでも良いから楽で助かる。今日の授業分にざっと目を通すと、私は窓の外に視線を移した。

校庭にはグラウンドがあり、もう花が散った葉桜が三本生えている。あの桜には、私が名前を付けてあげた。校舎に一番近いのがセイナー、少しくびれている真ん中のがフラウロ、そして一番立派なのがハイマンスだ。葉っぱが多いセイナーは毛虫さん達にモテモテで、いつもお昼休みにボールがぶつかると、下で女子生徒が悲鳴を上げる。フラウロはかなりのお年寄りで、最近は少し元気がないみたいで心配だ。ハイマンスは兎に角立派な桜で、満開の時なんかは、見上げるととても雄大な気分になる。桜と一言で言っても、こんなに個性があって楽しい子達なのだ。

もし彼らが人間だったら、どんな感じだろう。多分セイナーは今が旬の人気アイドルで、公演先とかに追っかけの女の子が待ち伏せしてたりする感じだ。フラウロはもう引退して、アイドル養成スクールとかで後進の育成とかに当たっているに違いない。ハイマンスは兎に角大きいから、きっと格闘技大会とかに出て、スポットライトをじゃんじゃん浴びながら花道を歩くのだ。うん。それがいい。ハイマンスだったら、花びらを蒔く必要もないし。となると、対戦相手はどんな奴だろう。私は校庭にゆっくり視線を移す。そういえば校庭の隅に、大きくて立派なブナの木があったっけ。丁度良い機会だ、彼にも名前を付けておくとしよう。ハイマンスの対戦相手には、彼が良い。名前を私が考え始めた瞬間、不意に声が掛かった。

「高杉」

「一文字先生、何か?」

「せっかく早く来たんだから、勉強したらどうだ」

不機嫌そうにつまんないことを言うこのおじさんは、私の担任、一文字健だ。何でも私にやる気を出させたいとかで、毎朝のようにつまんない小言を言いに来る。私は勉強に専念何てしたくないし、良い大学なんかに行きたくもない。だって、そんな事したって、つまんないじゃないか。私の表情を見て、一文字先生は困ったように言った。

「……そう、露骨に嫌そうな顔をするな」

「先生、私は充分な成績を上げているではありませんか」

「やる気を出せば、お前は東大だっていけるんだ。 空想もいいがな、将来のことを考えて、勉強して見ろ」

「考えておきます」

私は頬杖をつくと、ブナの木の名前を考え始めた。どうせ戦い合う二人なんだから、何で戦うかも考えよう。いつの間にか先生は、苦虫を噛みつぶしたような表情で、教卓で憮然としていた。うーん、よく分からない人だ。

暫く時間が過ぎると、生徒達が集まり始めた。その中の一人、市川孝美が、挨拶しながら隣の席に着く。

「おはよー、遥奈ー」

「おはよう、孝美」

「まーた朝から空想してたの? 一文字のアタマ、角生えてるよ?」

「ううむ、私は充分な成績を上げていると思うのだが。 正直、これ以上勉強を強制されるのは勘弁して欲しい所だな」

うんざりしきった様子で私が言うと、孝美は苦笑した。孝美は私の友人の一人で、ごく普通の、いわゆる今時の女子高生だ。色々得意なことはあるが、人間心理の観察は特に匠で、蘭ちゃんが虐められてるのにすぐ気付いた。学校の成績は中の下といった所だが、そんなことで人間の価値は小揺るぎもしない。

「ところでー、今日はどんな空想してたの?」

「うむ。 校庭の桜が、人間だったらどんな人達か考えていた」

「ま、また珍妙な……」

「そうか? 立場を変えて物事を考えてみることや、自己を他に没入させてみるのは良いことだと思うぞ。 得てして一つの視点からしか物事を考えられぬ輩は、思考に柔軟性を欠く。 最悪なのは、一つの立場からしか物を考えられず、なおかつ自らを正義だと確信している輩だ。 例え論理的に考えることが出来たとしても、そんな物は宝の持ち腐れに過ぎない。 そう言った輩は、まごうことなく独裁者予備軍だな」

いつの間にか私の周囲には、面白がっているらしい同級生共が集まっていた。まあ、面白がるだけならいいや。何かしようという奴がいたら、関節外してやる所だ。前に私を徹底的にバカにする奴がいて、頭に来たから校舎裏に呼び出して仲間もろとも全身の関節を尽くはずしてやった。そうしたら、その後は大人しくなったのを良く覚えている。それにしても、最近は余所のクラスの奴までいる気がするのだが、どうしたことなのだろう。

「う、うん、そうだね。 で、桜の話はどうなったの?」

「そうだな、まず最初に、校舎に一番近い桜なのだが、私はセイナーと名付けた。 セイナーは知ってのとおり毛虫さん達にモテモテだ。 だから、彼は……」

 

授業中は、楽しい楽しい空想タイムだ。時々アタマに角を生やした教師が問題を投げかけてくるが、私は意識の三割ほどを授業に常に向けているので、問題に答えることなど雑作もない。不思議なのは、何故私を目の敵にするかだ。ぎゃあぎゃあ騒いでる小学生並みの男子や、携帯いじってる中学生並みの女子とか、私より注意すべき相手は幾らでもいるだろうに。

三時間目になっても雨は止まなかったので、私は再びそれに思考の矛先を向けた。雨は、空の高みにいるときは、実は雪なのだ。それが落ちて来るに従って溶けて、液体になる。本来両者は同じ物で、溶けてるか凍ってるか位しか差はないのだ。此処までは科学的事実だが、それだけではやはりつまらない。せっかくだからこれを使って空想してみよう。

私の友達アンジェリカを差して、空の高みから飛び降りてみる。私の周りには、産まれたばかりの雪の子供達が一杯だ。みんな小さくて、それぞれ違った結晶になって、風に揺られて気流に吹かれて、そろりそろりと地面に旅をする。私は彼らと一緒に落ちながら、激励を飛ばす。

「みんなー! 頑張れー! 地面はもうすぐだぞー!」

返ってくる小さな無数の声が可愛くて、私の胸はいっぱいになる。高度は徐々に下がり行き、雲の数は減り始め、遙か遠くに地面が見え始める。しかし何しろ高い所なので、海や遠くの島も見えてしまうのだ。落下速度が変わらないのが何よりの救いだが、それでも結構怖い。でも、周りの雪の子達が頑張っているのに、私が怖がっては示しが着かないぞ。頑張れ、私。

ふと気付くと、雪の子達はみんな雨粒になっていた。私は手を振ると、みんなさっきと同じように手を振り返す。地面は徐々に近づいて、増水する川とか、傘を差している子供とか、そう言った物も見え始めた。やがて、私は地面に着いた。雨粒達は、或いは地面にとけ、或いは川に混ざり、めいめいの道を選んでいく。私はアンジェリカと共に空を見上げながら、万感の思いでいた。

「高杉さんっ!」

不意にヒステリックな声がして、空想を中断された私が教室の前に視線を移すと、化学の初馬先生がアタマに角を生やしていた。この人は一文字先生同様、勉強しろといっつもつまんないことを言うお節介な先生だ。だが、いつも通り一応三割ほどの意識は授業に向けていたから、問題に答えるのは雑作もなかった。黙り込む先生の前で、私は着席し、再び空想に戻る。今度は、それぞれの雨粒達が、どう世界を旅するのかを考えてみよう。考えるだけでわくわくどきどきものだ。

 

そんなこんなで、授業ではなく楽しい空想タイムを終えると、私は帰路に就く。今日は孝美と一緒だ。雨は昼過ぎに止んでしまったので、アンジェリカを差せないのが少し残念。蘭ちゃんは家事が忙しいとかで、二日に一度くらいしか現れない。……はて、そういえば現れる日は私の帰る時間を知っているような様子だな。まあ、多分偶然だろう。

「ねえねえ遥奈、今日の化学、ノート取った?」

「ああ。 一応取った」

「見せて見せて! 私、どーしても化学苦手なのよぉ」

アンジェリカを孝美に預けて、私は化学のノートであるジュンリーを取りだした。ジュンリーは女の子なので、他の子に比べて多めに可愛いイラストを書き込んでいる。

「サンキュ、恩に着るわ」

「私の大事な友達だから、くれぐれもむげには扱わないでくれ」

「分かってますって。 リニーちゃん、だっけ?」

「ジュンリーだ。 リニーは先代の英語のノートだ」

孝美の間違いを訂正すると、私は雨の上がった夕暮れの空を見上げた。少し肌寒いが、とてもいい雰囲気だ。私は虹を見つけて、実に幸せな気分になった。

「虹だ」

「あ、ほんとだ!」

「イーリスが舞っているかのようだな」

「えっと、ギリシャ神話の女神様だっけ?」

そういえば、以前孝美にはイーリスの解説をしたことがあった。イーリスはギリシャ神話の虹の女神で、有名なハーピーの姉妹に当たる。ギリシャ神話の主神ゼウスの正妻ヘラは嫉妬深いことで有名だが、イーリスはその手足となって働く存在なのだ。それを覚えてくれていた孝美に頷くと、私は虹を見上げ続けた。

「今日もヘラ神の命令で、旦那の浮気相手を捜しているのだろうか」

「うっわ、こわっ!」

「冗談だ。 こんな気持ちのいい夕暮れに、幾ら何でもそんな暇なことをするわけがあるまい。 多分、イーリスもこの素晴らしい空を満喫しているに違いない」

手を広げて一回りすると、私は小さく笑って、再び帰路を歩み始めた。孝美は私について歩きながら、言葉を続ける。

「遥奈って、真面目そうで、かなーり不真面目だよね」

「そうか?」

「うん。 根本的な思考回路から、おさぼりオーラがにじみ出てるよ」

「確かに、真面目に勉強するのは苦痛以外の何者でもないな。 だが私は、どうせなら余裕を持って生きていきたい」

確かに、私の言葉には、怠け根性がにじみ出しているのかも知れないな。ま、そんなこと、どうでも良いことだ。

 

家に帰ると、メモが残されていた。……今日も両親は残業か。まあ、今の時代、別にそれで困ることなど何一つ無い。私はおもむろに冷蔵庫を漁り、適当な食材を取り出すと調理を始めた。面倒くさがり屋の私も、流石にこればかりはさぼるわけには行かない。火事になってしまうから、気を抜くわけにも行かない。何という、何という難儀な話だ。

適当に料理を作って食べると、今日の学習内容と予想される今後の学習展開にざっと目を通して覚えておく。それが終わったら、テレビのタローシェンのスイッチを入れて、動物番組を見る時間だ。タローシェンは新参者だが、多分私と一番仲がいいだろう。映っているのはナイルワニの生態で、実に雄大で素晴らしい。この動き、この眼光、そして素敵なまでの大きさ。是非とも全て脳裏に焼き付けておかねばなるまい。

やがて、夜も更け、見る番組もなくなった。私は自室に戻ると、大事な友達達にお休みの挨拶をし、眠りについた。私の楽しい毎日は、こうして更けていくのだ。しかし、それに軋みが生じ始めていると、まだ私は気付いていなかった。

 

2,不思議ちゃんの困惑

 

異変は、この日から始まった。いつものように学校で、楽しい空想タイムに浸っていた私の中に、何か異分子が混入したのだ。その日はからっと晴れていたから、私はそれについて空想を巡らそうと思った。しかし、どういう訳か、楽しい世界の代わりに極めて変な物が浮かんできたのだ。

私は砂漠のただ中にいた。周囲には無数に散らばる骨、骨、また骨。強烈な日光と気候のせいで、気温は摂氏五十度を超す。辺りに散らばる骨はいずれも人間の物で、曲刀、形状が曲がった刀を手にしている者が多かった。身につけている衣装からして、アフリカ系じゃなくてアラブ系だな。

「せ、戦争が、あったのか?」

強烈な日光を右手で遮りながら私が呟くが、応える者は誰もいない。骨はじりじりと焦げ、曲刀は日光を吸って強烈に熱せられている。急速に失われていく体力、そして気力。私は慌てて、どこか影になる場所を探そうと周りを見回すが、何処まで行ってもあるのは砂ばかり。どれだけ歩いても、光景に変化は訪れない。いや、不意にオアシスが現れた。最後の力を振り絞って私は走るが、案の定それは蜃気楼だった。お、おのれー。蜃気楼があるなら、本物はどこかにあるはずだけど、い、今の体力では、其処まで辿り着けそうもない。やがて私は膝を突くと、そのまま砂漠に崩れ落ちた。強烈な日光が、私の意識を蒸発させていき、やがてそれははじけた。私は、死んで、干物になっていった……

「高杉さん!」

初馬先生の声がして、私は慌てて顔を上げた。……いつになくリアルな空想だった。取り合えず顔を上げて状況を認識すると、特に難しい質問でもなかったし、すぐに応えることが出来た。だが、今の空想はなんだ?確かに私は日光から空想を始めたが、こんな風に思考が進んだのは初めてだ。口を押さえて憮然とした私は、一旦空想タイムをカットして、気分を変えるべく授業に打ち込むことにした。周囲の連中が、驚いた様子でそれを見ている。うーむ、彼らの中で私は世界一不真面目な人間とでも映っているのかな?まあ、それと事実は大差ないから、別に良しとしよう。

授業が終わると、真っ先に私に駆け寄ったのは孝美だった。珍しく動揺しきった様子で、私に顔を近づける。

「ねえねえ遥奈、さっきはどうしたの? 顔真っ青だったよ」

「何でもない。 少し、気分が悪かっただけだ」

「ん、熱はないみたいね。 念のために保健室行って来る?」

「これでも私は極真の黒帯だぞ。 そんなに軟弱ではないさ」

私の額から手を放すと、孝美は笑みを浮かべた。

「分かった。 でも次の授業でも情況変わらなかったら、保健室引きずってくよ」

「好きにしてくれ」

「……ねえ、どんな空想してたの? いつもと明らかに様子が違ったよ?」

「思い出したくない……すまない。 少し一人で考えさせてくれ」

孝美の申し出はありがたかったが、正直あれを他人に言いたくはない。手を振って謝絶すると、小さくため息をつく。私は混乱していた。私にとって空想は楽しい物であり、こんな風に苦しめられたことなど無かった。

次の時間が始まると、私はいつものように空想を楽しむことが出来た。その日は結局、あの苦しい空想は二度と出てくることはなかった。だから、それのことは忘れていた。正直な話、忘れたかった。だが、残念なことに、そうもいかなかったのだ。

 

……私はプラットホームにいた。見たことのない駅だ……うん。行き交う人達も、みんな日本人じゃない。でも、耳が尖っているとか、尻尾が生えてるとか、そーゆー事もない。ちぇっ、なーんだ。動物さん達が二足歩行で歩いていたら面白かったのになあ。

私は浮遊感の中、面白がって辺りを観察してみた。何というか、異国の駅と言うよりは、やはり異界の駅という感じだ。辺りにいるのは人間なのに、微妙な建物の作りとか、構造物の形とか、そう言った物が違う。後、空気というかな、そう言った物が微妙に異なる。私はわくわくしながら、どんな電車が来るのか見ようと思って、ベンチに腰掛けた。何というか、下から優しく押し返すような、柔らかい感触のベンチだ。時刻表は見たこともない数字や文字が列んでいて、さっぱり読めなかったが、電車が来ることは分かった。プラットホームに、けたたましくベルが鳴り響いたからである。

「どんな電車が来るのかな……」

わくわくを隠せず、私は目を輝かせて呟く。だけど、現れた電車は、私の想像を超える物だった。

ものすごい擦過音と共に、プラットホームに電車が滑り込んでくる。形自体は、私が時々用事で乗る環状線によく似てる。でも、決定的に違っているのは、その側面に巨大な青龍刀が着いていることだろう。呆然とする私の前で、電車の刃は逃げまどう人々を斬り、斬り、斬り、そして斬った。首がはねとばされ、顔を庇った腕が顔ごと斬り飛ばされる。長身の者は胴切りにされ、背が低い者は首をはねられる。鮮血がぶちまけられ、内蔵が吹っ飛ぶ。悲鳴がとどろき渡り、一瞬後には意味不明の音となり果てる。青龍刀は凄まじい切れ味で、柱や階段も豆腐のように切り裂いていった。反射的に私は伏せ、何とか青龍刀をやり過ごしたが、髪の毛を数本もっていかれた。

私は頭を押さえて蹲っていたが、やがて擦過音が爆音に変わった。正確には、巨大な質量が、何かにぶつかって止まる音だった。こわごわ私が顔を上げると、もう辺りには生存者は一人もいなかった。電車は車止めにぶつかって止まり、半壊していた。

辺りに散らばるピンク色の塊は、何て事だ、脳味噌じゃないか。千切れ飛んでいるのは、小腸だ。そこら中を塗装しているのは、当たり前のように深紅の血で、細切れの腕やら足やらがそれに変化を与えている。何という、何という無惨な光景だ。なのに不思議と、吐き気は覚えなかった。私のすぐ隣には、怯えきった表情を貼り付けたまま、小さな男の子の生首が転がっていた。まだ死後硬直をしていないその顔の表情を、私はせめて楽なように整えてあげた。私の手は血まみれになった。眼鏡のメープルの右レンズは、さっき飛び散った血を浴びて、真っ赤になっていた。

ゆっくり私が立ち上がる。腰が引けているのは自分でも分かったけど、この光景を見ておかねばならないと、何故か思ったのだ。目に焼き付けておかねばならないと、心の奥底で強烈に意識させられたのだ。

半壊した電車の戸が開いた。そこから大量の鮮血と、プラットホームに転がっているような死体が無数にあふれ出す。満員電車だったらしいその中には、プラットホームに勝るとも劣らない無惨な光景があった。私は意識が遠のくのを感じた。同時に、世界がぐるぐる回り始めた。それは一秒ごとに回転速度を増し、やがて一点に収束した。

気がつくと、私は寝床にいた。……そうか、夢だったんだ。私は夢の中でも、楽しい空想の世界で踊っていることが多い。でも、今のは一体なんだ……何という無惨な夢だ。立ち上がろうとして、私の視界が下に引っ張られた。全身の力が抜けていて、そのまま床にたたきつけられたのだ。何とか受け身を取れたから良かったが、そうでなければ鼻骨が砕けて顔面が血だらけになっていたかも知れない。

まずい、意識が遠のく。強烈な熱っぽさが、不意に全身を支配する。体が痺れて、上手く動けない。大きな音を聞きつけたらしく、大介が戸を叩く。

「ハル姉! どうしたっ!」

……まずい、師匠に締め落とされた時以来の感覚だ。起きないと、せめて起きないと。くあ、筋肉が言うこと聞かない……やばいぞ……本格的に……これは……!私は地面に倒れているセーラ(私の友達の手鏡だ)に無意識的に手を伸ばしていたが、それが最後の力だった。私の意識は、セーラを掴むと同時に、ブラックアウトした。意識の端っこの方で、フランクルが奏でる魔王が、その存在感を主張していた。

 

学校を休むなんて、実に四年ぶりの事だ。意識はそう時間をかけずに戻ったが、体温計を脇に差してみたら、何と三十九度二分だ。これでは流石に、頑丈な私も登校は出来ない。ベットに潜り込んだ私の耳に、両親が出かけていく音が入ってくる。……一応お粥だけは作ってくれたし、学校に連絡も入れてくれたから、良いとするべきなのかな。

今まで考えもしなかったけど、そういえばうちの家族って殆ど集まることがない。父さんは会社の重役だし、母さんはインテリアデザイナーで、どっちも仕事は死ぬほど忙しい。まともに夕食を一緒に食べてたのは、多分小学生の半ばまでだ。それ以降は、大介と一緒に食べてたけど、彼奴も最近は夜の遅くまで帰ってこない。

仕方がないから、心で会話しよう。私の友達は、みんなこんな時私を慰めてくれる。だから私も、彼らを大事にしてきた。私の体を包んでるパジャマのリンも、枕のハマーも、ベットのプラムスも。

だから、私は寂しくなかった。

私のやってることを内向的だとか言う奴も多かったけど、じゃあ外向的というのはそんなに素晴らしいことなのか?確かにいろんな奴と接することは大きな利点になるだろう。人なつっこい性格は、皆に好かれる要因になるに違いない。でも、それが内向的なことに、どう優位性を持っているのだ?

どうも世の中では、外向的なことが内向的なことに絶対的優位性を持つように定義されている気がするが、実際に優れた芸術家は、みんな自分の中で自分の世界を作り上げてきた人達だ。誰も寄せ付けないことで、誰も真似出来ない技術を作り上げてきた者だっている。だいたい、外向的だの内向的だのということは、人の持つ側面の一つに過ぎない。私は知っている、とても外交的なのに、皆に虐められた存在を。蘭ちゃんは誰にも開けっぴろげで、人なつっこかった。でも、彼女の中には、固定された主張がなかった。だから、私と彼女は馬が合うのだ。何しろ、正反対に近い存在だから。

私は自己完結した世界を持っている。それは実に心地よい世界だ。でも、さっき見たプラットホームや、昨日見た砂漠は違う。何であんな物を私は見たんだろう?……おそらく、外部要因ではない。私の中に、原因はあるはずだ。

私は自己完結した世界を持っているけど、それは外に接点がない世界じゃない。私の世界のことを、友達にはよく話すし、外にある物も柔軟に受け入れている。人と人が接する言なんて、結局自らが認めた要素同志を交わらせる事に過ぎない。である以上、私のやり方に文句を言わせない。誰にもだ。

昼前には、大分熱が下がってきた。でも、まだ全身がだるい。……こんな時は空想だ。学校へ行けない分、楽しい空想を幾らでも貪ることが出来る。でも、今日は気が乗らなかった。私の友達に身を包んで、彼らに慰めて貰いながら、私は混濁した意識の海を漂っていた。……今、私は、そうするべきだと本能的に悟っていた。

混濁した意識は、原初の海のような存在だった。原初の海は塩酸がたっぷり含まれていたそうだけど、その海じゃない。ビックバンが起こってすぐの、物質がまだろくに出来ていない、超高熱のエネルギーの海、つまり宇宙の海だ。全てが溶けていて、全てがそれから生まれくる。私の目に飛び込んでくるのは、無数の光、無数の闇。泡のようにはじけて、溶けて、沈んで、浮かんで、形を為していく。私はその中にとけ込みながら、意識の流れをそれに任せていた。何か掴めるような気がしたけど、昼までには無理だった。

熱っぽい体を引きずって、お粥を電子レンジにぶち込む。暖まるまで、ほぼ五分。スプーンを入れて、粥をかき混ぜながら、私はプラムスに戻った。ちなみに私は薄味が好きだ。このお粥は少し味が濃いな。……次に風邪を引いたときは、好みを伝えておくとしよう。

夕方まで、大分時間がある。熱は上がったりさがったりで、風邪薬が効いてるかどうかよく分からない。セーラに自分を映してみると、おお。何か色っぽいぞ、私。そういや、高校に入ってから六回ほど男子と女子(男子四回、女子二回)に告白されたが、見てる奴は見てるんだな。……ま、鬱陶しいから全員断ったけど。

面倒くさくなってきたから、昼寝をしようとして、私は気付いた。眠れないのだ。何というか、さっきのような夢を見るんじゃないかと思って、眠る気になれないのだ。むう、これは困った。私の部屋にはゲームもないし、読む本もない。本は一度読むと中身覚えちゃうから、大体古本屋に売ってしまうのだ。しばし悶々と困った後、私はまたあの原初の海に身をゆだねてみようと思った。何か、発見出来るかも知れないから。

 

夕方、呼び鈴が鳴った。結局また何も掴めなかった私は、熱っぽい体を引きずって、玄関を開けてみた。其処には、孝美と蘭ちゃんがいた。

「遥奈センパイ、遊びに来ちゃいました」

「心配して見に来ちゃったよ。 大丈夫?」

「……私、色っぽいだろ」

同時に二人が吹き出すのを見て、私は面白いと思ったが、顔には出さずに続ける。それにしても今の二人の反応、理想的だったな、うん。

「冗談だ。 見舞いに来てくれて嬉しいよ」

「は、遥奈……アンタ、さっきのは洒落になってないって」

「センパイ……熱あるんでしょう? 早くベットに戻ってください!」

二人に押されるようにして、私はプラムスに戻った。何というか、二人してかいがいしく世話を焼いてくれて、随分助かる。タオルの水は換えてくれるし、熱は計ってくれる。どうせ両親は夜も遅いということを告げると、何と言うことだろう、夕食まで作ってくれた。二人まとめて、嫁に欲しいほどだぞ。

「遥奈、あんまり無理しない方がいいよ」

「……不意に調子が悪くなったのは今朝からだ。 それに、私が無理などしていないのは、二人ともよく分かっているんじゃないのか?」

「うーん、確かにセンパイは、いつもおさぼりオーラを全身から出してらっしゃいますけどー」

「まあ、そんな気がしただけよ。 兎に角、ゆっくり休んで」

何か気になる物言いを二人がする。ううむ、気が乗らないことに手を抜けるだけ抜くのは私の信念なのだが、無理しているように見えるのだろうか。よく分からないことだ。後で、みんなと相談してみることにしよう。

元々孝美と蘭ちゃんは仲が良く、私をそっちのけできゃいきゃいと会話に興じている。少し早い夕食を取りながら私はそれを聞いていたが、結局あまり熱は下がらなかった。やがて、二人は帰ることになり、私は玄関まで見送ったが、その時孝美が気になることを言ったのだ。蘭ちゃんは既に家の外に出ていて、もうその場にはいなかった。

「……ねえ、遥奈」

「うん?」

「何かあるんだったら、相談してね。 確かに遥奈は凄く広大な世界を心の中に持ってると思うけど、それにも限界があると思う。 私にも、何か手助け出来ることがあると思うから。 役に立たないかも知れないけど、いざというときは頼って」

「……ありがとう」

孝美は手を振り、家を出てった。……ふむ、孝美になら、話しても良いか。まあ、いざというときまで、保留はしておきたいけど。

今日はいろいろあったけど、その分収穫も多い日だった。夜は意外にもよく眠れて、翌朝熱はもうすっかり引いていた。

 

3,不思議ちゃんの理解

 

それから時間が過ぎ、情況はその間も悪化の一途を辿った。私が空想にふけろうとすると、三回に一回くらいあの悪夢のような光景が現れるのだ。雨の日には、膨大な水が学校を押し流し、私の手の先で蘭ちゃんが濁流にのまれた。星空を見上げていると、巨大なギロチンが星さん達を一人一人処刑していく姿が、嫌にリアルに脳裏に映し出された。流石に二度目からは熱を出すこともなくなったが、悪夢は夢の中にも遠慮無く入り込んできて、私の心を痛めつけた。巨大な鉄球が学校を叩き潰し、孝美も含めた同級生が全員肉塊になった。一文字先生はチェーンソーを持ち出し、十字架にかけられた蘭ちゃんの首をさも嬉しそうに切り落とした。初馬先生は巨大な包丁を持ち出し、命を無くした孝美や蘭ちゃんを解体して鍋にぶち込んでいるではないか。私がどんなに叫んでも、彼らは嬉々として蛮行を止めない。私はその間牢に閉じこめられており、何も出来ないのだ。なんたる屈辱!なんたる冒涜!私は、夢の中で、全身全霊を込めて絶叫していた。

十日ほど経つと、私は目立って不機嫌になった。それが周りにも伝わったらしく、先生も文句を言いに来なくなったし、孝美と私の会話を聞きに来る人数も減った。頭に来たから、柔道部(勿論男子)に道場破りに入って、主将も含めて六人ほど投げ飛ばしてやったけど、それでもイライラは収まらなかった。そりゃあそうだ。私の唯一の楽しみが、苦痛も含む物へと変わってしまったのだから。柔道部で憂さ晴らしをした後は、空手部(勿論男子)とテコンドー部(以下同文)も蹂躙し、ついでだから剣道部にも乗り込もうとしたとき、後ろから私を誰かが抱きしめた。

「センパイ! もう止めてください!」

「蘭ちゃん? 止めるな! 今、私は、壮絶にイライラしているのだっ!」

私が来たことを悟った剣道部員達が、目の前で夜逃げ同然に逃げ出していく。どうも柔道部、空手部、テコンドー部の次は自分たちだと推測していたらしい。うぉのれ、貴様らそれでも男かっ!か弱い女子生徒の憂さ晴らしぐらい、その体で出来ぬというのかっ!軟弱者どもめっ!こうなったら卓球部でもバスケ部でも……!

しかし、蘭ちゃんを振り払うわけにも行かない。彼女は結構体が柔いから、私が本気で振り払ったりすれば、壁や床に体を強打してしまう可能性がある。一応柔道の授業はやっているはずだが、受け身を取れることなど彼女の運動能力で期待する方が間違いだろう。それに、背中に触れる涙の感触は、私を強烈に足止めした。動揺しながら、私は叫ぶ。

「ら、蘭ちゃん、何故泣く!」

「だって、だって……!」

「……今の遥奈、まるで獣だよ。 お願いだから、もう止めてよ……私からもお願いするから」

私の前に、両手を広げて立ちふさがった孝美も、唇を噛んで涙を流していた。逃げ遅れた剣道部員が、彼女の後ろで、まるで子犬のように丸まって怯えている。私は、自分の体から、急速に力が抜けていくのを感じた。

 

「……話してくれる?」

「ああ」

放課後の図書室で、私は孝美と蘭ちゃんに見つめられながら、口を開いた。蘭ちゃんはさっきまで泣いていて、目を真っ赤に泣きはらしていた。此処まで大事な親友を泣かしてしまった以上、責任は取らねばならない。私はゆっくり、最近の異常な空想について、二人に話していった。大体話を終えた頃には、空には星が瞬いていた。孝美は蒼白になっており、蘭ちゃんは殆ど失神寸前だった。何とか孝美が、聞き終えた空想の数々にコメントする。

「……え、えぐいね」

「えぐいことは、別に問題ではない。 私にとって、全然楽しくない空想だったというのが、問題なのだ」

「……? どういう事?」

「私にとって、空想というのは楽しい物だ。 だから、授業中は常に空想タイムにしていたし、それで楽しい気分を味わえていた」

言い終えると、私は頬に手を当て、小さく嘆息した。少し、今までの異常空想の理由が、わかり始めてきていたのだ。

「なのに、ここ最近は、三回に一回はあの訳が分からない世界が現れた。 そればかりか、夢の中にまで、入り込んできた」

「例の電車の? わ、私だったら、その場で卒倒しそうだよ」

「だから、ストレスがたまった。 ……道場破りという名目があったからといって、確かに獣同然の凶行に走ってしまったのは事実だ。 すまない、二人とも。 私などのために迷惑をかけて」

「謝るのは、私達じゃないよ。 明日、柔道部や、空手部や、テコンドー部に三人で行こう。 私達も、一緒に謝るから」

……何で孝美と蘭ちゃんが謝る必要がある。私は申し訳ないと思ったが、一人ではどうしても素直に頭を下げられそうになかった。そういえば、柔道部の主将に至ってはチョークスリーパーホールドで締め落としたっけ。私はゆっくり、二人に感謝を込めて頭を下げた。

「ごめん、二人とも」

顔を上げた私に、二人は笑みで返してくれた。このとき、私は友達の存在を、生まれて初めてありがたいと思った。

翌朝、私は三人で柔道部と空手部とテコンドー部に乗り込んだ。私が乗り込んだ瞬間、柔道部員どもはみんな逃げ腰になったが、孝美と蘭ちゃんが説得してくれたお陰で、何とか三人で謝ることが出来た。痛々しいのは、私のために二人が必死に謝る様子で、それが何とも心苦しかった。

空手部、テコンドー部にも同様に謝ると、私は教室へ向かった。丁度蘭ちゃんと別れる場所になって、彼女は決意を目に秘めていった。

「センパイ、怖い空想でも、いつでも私達に聞かせてください。 それでセンパイが楽になるなら、私は本望ですから」

「私も。 いつでも怖い目にあったら、聞かせてよ」

「……ありがとう。 心の底から、二人には感謝するよ」

帰宅してから、私は自分の空想の中に芽生えた悪夢の正体に、ついに気付いた。私は此処最近同様、ベットの中で、原初の海に身をゆだねていたが、分かりそうで分からなかったそれの正体についに気付いたのだ。

原初の海に漂いながら、私は気付いた。膨大なエネルギーが満ちるこの空間にも、エネルギーの密度が濃い所と、薄い所があることに。膨大なエネルギーが反応し、無数の物質が産まれつつあるこの宇宙は熱いのに、妙に熱くない所があることに。うん、これはおそらく、私の疑念を解決する材料になるはずだ。

私は無心の状態から、原初の海を方向性を持って観察するように切り替えた。数時間の空想の後、私は確信した。今まで、私が見ていた悪夢の正体に。

それは、私が今まで見ようともしなかった、空想の別の側面だった。

 

私にとって、空想は楽しい物だった。内向的といわれようが、乙女チックだと言われようが、メルヘンだといわれようが、楽しい物は楽しかった。しかし、私は忘れていた。人の外部にも宇宙があるように、内部にもまた小さいながら宇宙があることを。

私は小さな頃からその宇宙に浸り、外部の物を次々に取り込みながら、楽しさに舞っていた。でも、そうする間にも、私の宇宙は着実な成長を続けていたのだ。私の意識下で、それは一秒ごとに大きくなり、そしてついに表に出てきたのだ。

多分、悪夢達の正体は、私が見向きもしなかった世界の数々。私は今まで、自分の中にある無数の世界のうち、都合がいい部分ばかりを見てきたのだ。しかし、世界には、都合が良くない部分も多々ある。人は根本的に差別し会う生物だし、動物は肉を食べねば生きていけない。他者にプレッシャーを与えず都合良く生きることが出来る人間など存在しない。人は生きているだけで、何かしら別の存在にプレッシャーを与え続けているからだ。

私は、彼らから目を背け続けてきた。そして、自分に都合がいいようにばかり、空想を続けてきた。どちらも私の可愛い子供達に代わりはないのに。そう、どっちも私の可愛い子供達なのだ。それなのに、片方ばかり可愛がって、片方は無視していた。こんな事では、いずれ軋みが出てくるのは自明の理だったのだ。

私が気付いたことは、口では幾らでも言えることだし、頭では幾らでも理解出来ることだ。だが、体で理解出来ることではない。いきなり殴られて、相手がどういう事情で殴ったのだろうかとか、思いをはせられる人間はどれだけいる?いきなり両親が殺されて、犯人の個人的事情に思いをはせることが出来る者がどれだけいる?私は涙を拭うと、今まで黙殺してきた無数の世界に、謝った。

「……ごめん、私が身勝手だったばっかりに」

そして、今後悪夢のような世界が現れても、それを平等に楽しむことを心に誓ったのだ。私は二度と逃げないぞ、うん。みんな、仲良く私の子供として、胸の内に受け止めてあげよう。

 

シューベルトの魔王。私が大好きな曲が、枕元で流れる。私はいつものようにフランクルに手刀を振り下ろし、それを止めた。

「おはよう、みんな。 なかなか良い目覚めだな」

心の声で、みんなの返事を聞きながら、私は学校へ行く準備を始める。歯を磨いて、髪を梳かして、ブレザーの袖に手を通す。居間には大介がいて、トーストを囓っていた。

「おはほう、はふへえ」

私は無言で大介がトーストを飲み込むまで待つと、その頭頂部に手刀を振り下ろした。机に突っ伏して痙攣する大介に、、トーストにジャムを塗りながら言う。

「食事中は喋るなと言っただろう。 ……おはよう、大介」

「ひ、ひでえよ、ハル姉」

「食べ終わるまで待ってやったのだ。 感謝して欲しいほどだぞ」

茶目っ気たっぷりに私が言うと、大介は口を尖らせながら何か文句を言っていたが、私の知ったことではない。予定表を見ると、今日も両親は帰りが遅い。……ま、いいか。折角の誕生日だから、ケーキの一つも焼こうかと思っていたが、帰ってきてから驚かせてやろう。

大介より少し遅れて家を出ると、蘭ちゃんが駆けてきていた。そういえば、昨日は愉快な夢を見たっけ。今日はそれを話してあげよう。

「おはよーございます、センパイ!」

「おはよう、蘭ちゃん」

「センパイ、今日はどんな話を聞かせてくれるんですか?」

「今日はな、昨日見た夢の話だ。 おとぎの国での、宮中での権力闘争の話だぞ」

まあ、今回もえぐい話だったが、だからなんだ。どっちの空想の産物も、私の可愛い子供達だ。丁度子猫を撫でるように、私は楽しい話を披露する。

「月の都の話だ。 そこではあまり賢明ではない王が、考えなしに権力を王子達に分け与えてしまったため、彼の死後大乱が起こってしまったのだ。 最初に権力を握ったのは第一王子の後ろ盾だったアンカート国務大臣だったのだが、彼は召使いに毒を盛られてしまってな、舌を真っ黒にして、地獄の苦しみの中でのたうち回って死んでいった。 続いて権力を握ったのは第三王子の後ろ盾だったパンテラス軍務大臣だったのだが、彼は部下に裏切られて、一族郎党もろともギロチンにかけられてしまったのだ。 勿論、彼の幼い子供も、泣きながら首を落とされてしまった。 私はその処刑を最前列で見ていた。ギロチンの刃がこう鋭く落ちると同時に、血が大量に吹き出してなあ、死体が痙攣しているうちに見る間に出血量が少なくなっていった。 酷い光景だったが、周りの連中はみんな立ち上がって拍手してな、私は苦虫を噛みつぶしながらそれにならったのだ」

私が一区切りまで話し終えると、蘭ちゃんは泣きそうな顔をしていた。何を軟弱な。どんな話でも聞くと言ったのは蘭ちゃんではないか。それに、こういう話が出てくるのは三回に一回だぞ。

学校へたどり着くと、私は気分が悪くなったらしい蘭ちゃんを介抱し、教室まで連れて行ってあげた。……うーむ、無理は良くないな。確かに蘭ちゃんはみんな聞いてくれると言ったが、私は良くとも彼女は持たないだろう。相談して、何かしら対策を練っておく必要があるかも知れないな、うん。

なに、最初は慣れなかったが、今はどっちの空想も充分に楽しむことが出来る。何しろ、どっちも私の大事な子供達なのだ。可愛くないわけがない。さあ、今度はどんな空想の世界が私の前に開けるのだろうか。楽しみ楽しみ楽しみ楽しみ♪

「高杉っ!」

席に着いた私の前に、一文字先生と、初馬先生と、他何人かの先生が腕組みをして、頭に角を生やしていた。

「はい、なんですか?」

「どうして君は素行が悪化したのに、成績が目に見えて上がってるんだ!」

「今まで君は、巫山戯ていたのか!」

素行が悪化した?……えーと、話が見えない。ひょっとしてあれか?あの柔道部空手部テコンドー部壊滅事件?それに成績が上がったというのも初耳だ。私はいつも通り、手を抜けるだけ抜いていたのだが……。

「……えーと、私は前のままですが」

「じゃあ、この事態はどういう事だ!」

「ひょっとすると、私の中にある闇の側面を、素直に認めたからかも知れません」

「意味が分からないことを言うなっ!」

その後一時間に渡って、私は先生達に搾られた。何故だ?理不尽にも程がある!無数に降り注ぐ説教の槍を浴びながら、私は思い続けていた。

現実は、空想より理不尽だ、と。

 

4,もう二つの世界でも生きる者

 

何処にでもある小さな本屋の棚に、新刊の小説が並べられている。その中で目立つのは、(高林榛名)という作家の作品であった。表紙は最近人気のイラストレーターが書いているし、帯にも出版社の気合いの入れようが伺われる。その一冊を、落ち着いた雰囲気の女性が手に取った。

女性の名は水島蘭。そして今彼女が手に取った本の作者は、あの高杉遥奈だった。高校を出て二年後、遥奈は小説界に殴り込みをかけた。何とも空想的で、かつ所々に凄みが入った作風は評論家から絶賛され、今では若手作家のトップを独走している。高林榛名は、高杉遥奈をもじったPNだった。

蘭は本を裏返し、帯のコピーを見て目を細めた。其処には、次のように書かれていたからである。

《高林先生の不思議世界!》

計二年間、その不思議世界に晒され続けていた蘭には、それはむしろ身近な世界だった。そして彼女は、遥奈の(不思議世界)が、二つあることも知っていた。夢とメルヘン溢れる光の世界と、バイオレンスと殺戮溢れる闇の世界と。そしてその二つを共に愛し、認めていたことを。

「……何にも、分かっていないんだから」

蘭はそれだけ呟くと、本を持ってレジに向かった。彼女がそう呟いたのには理由があった。手に取った本の表、そこの帯のコピーにはこう書かれていたからである。

《不思議で魅惑的な、もう一つの世界!》

そのコピーが間違っていることを知っているのは、世界でたった三人。蘭と、孝美と、そして遥奈自身のみ。それを誇りに、水島蘭は、書店を後にしたのだった。

 

                                (終)