廻る私の廻る場所

 

序、始まり

 

最初に手に取ったのは、乾ききった草の茎。

私はしばらくそれを見ていたけれど。やがて、ゴミ箱に捨てた。

この家はとても汚い。

彼方此方にゴミが散らばっている。

買ったばかりの家なのに。これではまず、掃除することでしばらく掛かってしまいそうだった。

白衣を着た私がしばしぼんやり周囲を見ていると。

散らかった部屋に入ってきたのは、助手。

正確には少し違うのだけれど。

私より大分背が高くて、のんびり屋のアイムが、いつものようにゆっくり言った。

「此処、本当に住むんですかあ?」

「そうだ。 まずは掃除からだな」

「はあい」

汚い家だが、申し分ない立地条件なのだ。

周囲に人家はなし。

街からも遠すぎない。

つまり、実験を失敗してもしなくても、迷惑が掛からないという事だ。

幸い金はある。国からの補助金も申し分ない。

引っ越しまでは勇気が必要だったけれど。

決めておいて良かった。

問題はゴミだらけだと言う事だが。

それくらいは、アイムがどうにかしてくれる。

「はい、ドクターは外に出ていてください」

「だから私はプロフェッサーだっての」

「わかってますから」

アイムに家を追い出される。

古い古い車に背中を預けると、私は煙草をとろうとして、舌打ち。少し前に、肺がんになって。

どうにか医療技術の発達で直せたけれど。

その時凄く痛い目にあった。

何とか生きているだけでめっけものだ。肺がんは致死率が高く、予後も悪い。多分十年前だったら助からなかっただろう。

今でこそ癌は治る病だが。

十年前までは、そうでもなかったのだ。

チェーンスモーカーだった生活習慣を改善するのは大変だったけれど。

あの時ばかりは、懲りた。

仕方が無いので、ながもちする飴を取り出して、口に入れる。

医者に相談して、最初は電子煙草から始めて。今では口寂しいのを、飴で誤魔化しているのだ。

家の中では、張り切ってアイムが掃除をしているのがわかった。いつもは助手を自称していても、専門的なことは出来ないから、嬉しいのだろう。

ノーベル賞を取って二年。

ようやく、国からも自由な研究を許して貰えるようになった。

私も三十近いけれど。

将来に関する不安は無い。

アメリカで飛び級を繰り返して、大学教授になったのは二十一のこと。俊英と言われていたけれど。

周囲には私より出来る奴がいくらでもいた。

だから必死だった。

ある特殊な物理に関する研究が評価されて。その応用で、プラスチックの作成に大きな貢献が出来る事がわかって。たまたまスポンサーがついてくれたけれど。いずれにしても、その何もかもが幸運だったと思っている。

幸運だったのは、それだけではない。

肺がんが発覚したタイミングだ。

研究が大詰めになって。今の技術ならまず治るステージ2で発覚して。更に、転移性ではなかった事が幸いした。

如何に治る病と言っても、末期の転移性だと、死ぬ可能性も高いし、治るにしても数年は入院しなければならない。

結局色々と病院から指示を出して、研究は完成させて。

ノーベル賞を取って、治療を終えてからは。

やっと大学を出て、好き勝手な研究が出来るようになったのだ。

アイムはその頃からの相棒。

ただ、アイムはちょっとした複雑な事情があって、正式な研究員では無い。それどころか、学歴さえない。大学を出たときに一人だけ私個人についてきてくれたアイムだけれど。今でも、難しい作業などは任せられない。

ただ、気心は知れているし。

生活力のない私を補助してくれるから、とても助かっている。

ヒスパニック系移民のアイムは、私と出会うまではスラムで悲惨な生活をしていたようだし、故郷に戻りたいとも、私と離れたいとも考えてはいない様子だ。

それでいい。

私としても、アイム以上の相棒は、思いつかない。

掃除が終わったらしく、アイムがひょいと家から顔を出す。

「ドクター」

「プロフェッサーだ」

「お掃除終わりましたよぉ」

「手際がいいな」

飴を捨てようとして、気付く。

飴だったことに。

頭を掻き回すと、新しい、広いだけの、こ汚い家に入った。此処が、これから、私の新しい城になるのだ。

一階は四部屋。

ステイツでは、基本的に家が安い。たとえば日本とかだったら、このクラスの家になると、とんでもない高値になると聞いている。此処では、状況が違う。ノーベル賞の補助金であっさり買えた位なのだ。大きくても、豪邸とは言いがたい。

周囲は人っ子一人いないのっぱら。

此処に家を建てたやつはそうとうな変わり者だったらしく。家の構造も、なんというかひねくれている。

一階にあるのはキッチンとダイニング。倉庫と浴室という、ごくありふれたものなのだけれど。

どういうわけか倉庫を浴室代わりに使っていたらしく、浴室を逆に倉庫にしていたようなのだ。

何が気に入らないのかよく分からない。

方角とかかもしれないが。しかしわざわざ倉庫に水道管を引き込んでまで、どうして無駄なことをしていたのか。

キッチンは機能的だけれど、アイムに説明を受けたところ、まだ食器類までは掃除できていないという。

二階に上がって、辺りを見る。

さっき草の茎を捨てた場所は、書斎。

何故か前の持ち主が、たくさんの藁を持ち込んでいたのだ。それだけではなく、枯れた花が、花瓶に突き刺さってもいた。

生けられていたのでは無く。本当に花瓶に刺してあったのだ。

普通だったらどん引きするところだが。

アイムは色々と人間の業を見てきているからだろう。特に驚くことも無く、掃除を続けて、綺麗にしてくれた。

二階は六部屋。

寝室が二つ。

夫婦で暮らしていたようだけれど。多分妻は出て行ったのだろう。夫のものらしい寝室だけが使われていた形跡がある。

そうなるとこの狂気の沙汰は夫がやったのかと思えるのだけれど。

実際には、どうも妻がやっていたらしい。

アイムは勘が鋭くて、その辺りには間違いが無いのだ。

夫は多分、妻の狂気に振り回されて。結局此処を出て行くまで、その習慣を引き継いでしまったのだろう。

他には書斎。

更に居間。

下にもダイニングがあるのに、二階にも何故か居間があるのだ。

残りは、空っぽの部屋が一つ。用途不明の空き部屋が一つ。

一つは多分子供部屋にする予定だったのだろう。

昔この国では、幽霊を怖れて、家を迷路にしてしまった女性がいたが。それほどでは無いが、変人の家と言うには相応しい。

正直、どうでもいい。

私としては、格安で使えれば、それでいいのだから。

家の掃除はアイムに任せて、連絡を入れる。

庭に、研究スペースを作るのだ。

すぐにトラックが来て、プレハブのコンテナをおいていく。

高気密の特注品だ。内部では、大学の研究室に遜色ない作業をする事が出来る。大学の場合は、学生を使って色々とやりくりしなければならなかったけれど。今度からはアイムに生活関連の作業を全部任せて、自分で全部廻す事が出来る。

はっきり言って、私としてはその方が楽だ。

私は昔から極端な対人関係下手で、スクールカーストでもいわゆるナードに属していた。自由平等を歌うこの国でも、差別は普通にある。

昔は人種による差別が主体だったけれど。

今は思想による差別が主体だ。

そして今も昔も。差別をする人間は、自分が正しいと思い込んでいる。この問題は根が深い。

私も有名になってからも。昔の人間が、私を揶揄するコメントを散々しているのを、ニュースなどを通じて見た。

あんなナードがノーベル賞を取るくらいなら、俺に金を寄越せ。

当時のジョックは、本気でそう言っていた。

まあ、そういうものだ。

私はとにかく運が良かった。

業者が設置していくプレハブを見ながら、私はようやくだと思う。

此処が、私の城。

私だけの研究スペース。

究極的には、アイムでさえ、私の研究には立ち入らせることがない。

彼奴は補助要員。

信頼はしているけれど。それと、私の研究に土足で踏み込むことは話が違ってくる。私にとっては、研究は一人で廻すもの。

他の誰にだって。

介入なんて、させないのだ。

勿論、私の研究を、誰かに落とさせるつもりはない。

私は好き勝手に研究をして。

そして、誰にも触らせることはない。

私の研究は。私だけのもの。

成果は他にもくれてやる。だけれど、私の研究は。結局ナードとしての生活を余儀なくされて。

スクールカーストの中で差別を受け続けた私にとっての聖域だ。

教授達からも、守り抜いた私の研究は。

誰にだって、触らせない。

この国の、成績さえあげれば評価されるシステムだけは、私にとっては有り難い。実際には学閥内の争いはあっても、研究が客観的に評価されるという点では、この国の学問関連の仕組みは都合が良い。

他の国では、そうはいかなかっただろう。

プレハブの中に入る。

かなりの機材が、段ボール梱包されて積まれている。

こればかりは、アイムに整備を任せられない。

自分で一つずつ取り出して、緩衝材を取り除いていく。

携帯端末が鳴る。

スポンサーからだ。

「ハーイ、Msカナン。 新しい研究所はセットアップできたかね」

「ハーイじゃねえよ」

「HAHAHA、相変わらず機嫌が悪そうだな」

このスポンサーは、コミュニケーション下手な私にとってはありがたい。成果さえ上げれば金をくれるし。私に会社の都合を押しつけてこない。

会社にとって、私の研究そのものが、宣伝材料になると判断しているらしいからだ。

このステイツでも上位に入る軍産複合体の幹部。

他の国で言うと代表取締役の一人だ。

「すぐに研究に取りかかるのかね」

「ああ、立地も申し分ないし、家の中身も今掃除してる。 明日くらいから、研究に取りかかれる筈だ」

「そうか。 成果の中間報告だけはしっかり出してくれな。 こっちとしても、予算から研究費用を割いて出しているんだからよ」

「わかっている」

立場的に、スポンサーとは何度もやり合ってきた仲だ。

教授陣からは変人扱いされていたし、私の味方をする奴がいない中。大学での地位のみを武器に、彼方此方の軍産複合体に営業をかけた。アイムに何度泣き言を零したかわからない。

幸い、今のスポンサーであるヘイサを見つけることができて、資金面は安定したけれど。

それも、いつまで続くかはわからない。

自分のものにした資産をできる限り使って、今後も研究を進めていく必要がある。それについては、痛感していた。

ヘイサは実績さえ上げれば何の文句も言わない。

その代わり、実績が上がらない相手は容赦なく斬る。

この国の軍産複合体で、幹部をしているような人間だ。それくらい冷酷なのは、当然である。

私は研究費用を引っ張り出すために、そんな奴とやり合っていかなければならない。

幸い今は国からも補助金が出るし、ノーベル賞の賞金もあるから、ヘイサが手を引いても、すぐに素寒貧とは成らないけれど。

明らかなリミットタイムとして、ヘイサは後ろにいる。

私は研究を廻し続けなければならない。

そう言う宿命にあるのだ。

梱包を解き終えて。

掃除も終えると、もう外は夜だった。

何処かで何かの獣が吠えているのがわかる。番犬を飼おうかなとも思う。この辺りは、アメリカクロクマが出るのだ。

グリズリーほどの危険性はないけれど、私は元々戦闘力なんて皆無だし、アイムだって素手で熊を相手に出来るほどの力は無い。

一応護衛用のマスターキー(斧)とショットガンは完備しているけれど。それも、いざというときに、冷静に使えるかというと、話は別だ。

「ドクター、晩ご飯が出来ましたよぉ」

「あー、今行く」

「さめちゃいますよお」

「わかったわかった」

手をはたいて、埃を払う。

此処での研究は、明日からだ。

 

1、継続の力

 

私の研究は、円だ。

これは単純な円を研究しているという話では無い。果てしない継続を意味している。ノーベル賞を取ったのも、その一環に過ぎない。結局の所、永遠に研究を続けていかなければならないのである。

既に、業者に追加の資材は宅配してある。

専用の冷蔵庫に詰め込んだ資材は、一応当面の研究を続けて行くには、充分な量が揃っていた。

データをうち込むPCにも、最新のソフトを入れている。最新とは言っても、数年前に出て、陳腐化とバグ取りが進展したものだ。

今更新しいバグが出ることも無いだろう。使っている途中に、ソフトのせいで邪魔が入ったら、不愉快極まりないから、こういう措置を執っている。

研究の内容は、石油からのプラスチック精製について。

世界中で使われているプラスチックだけれど。その生成過程については、まだまだ改良の余地がある。

私が研究しているのは、今までに無い低純度の石油から、高品質のプラスチックを造り出す技術について。

しかも中間生成物を極力減らし。

なおかつ、生成量を増やし。

途中で用いる素材についても、ごくごく少量に抑えることが出来る。

そんな研究だ。

ノーベル賞を取った研究では、今までのプラスチック生成の、半分ほどの手間と資材で、倍の生成物を造り出す事に成功した。

文字通り革命的な技術だ。

この特許料についても私の所にはその内入ってくるだろうけれど。

まだ、現場で使いこなせているとは言えない。

最終的には、廃油などからも、プラスチックを作れるようにする予定だ。

今のプラスチックは、生成過程で毒ガスは出るわ毒性が強い廃棄物がでるわで、色々と問題が多すぎる。

生成されたプラスチックについては、また別の人間が今後は研究していくとして、である。

生成過程での毒物を如何に減らすかが、私の研究なのだ。

舌打ちしたのは、難しい結果が出たからだ。

いつも必ずしも、良い結果が出るとは限らない。

研究というのは、基本的に総当たりになる事が多い。だから人海戦術を採る場合もあるのだけれど。

どういうわけか、私の場合、直感が人よりも大分優れているようで。

研究成果も他よりかなり挙げてきたし。

今までも、様々な難を逃れてきた。

研究でも、直感を利用して、様々な事をして来たのだけれど。

それでも、失敗することは多々ある。

いつも成功していたら世話がない。

「上手く行かないな」

腕組みして、うなる。

咳払いに振り返ると、アイムだった。

「白衣を洗濯してきましたよ。 どうぞー」

「んー」

万歳した私から、白衣をひょいととると。新しい白衣を畳んだまま、側に置いていくアイム。

新しいのに袖を通すと。

私としても、結構気分が良い。

研究が行き詰まっているとき、何をすれば良いか。アイムは良く知っているようで。これがアイム以上の相棒はいないと、私が判断する理由だ。

しばらく、様々な付帯実験を機械的にこなしながら、思考を整理する。

色々な大企業だって、同じような研究をしているのだ。

その中で私が画期的成果を出しているのは。よく分からないけれど。私の直感と、たゆまぬ努力が原因だろう。

自分でこういうことを言うのは恥ずかしいけれど。

ただ、努力は兎も角、直感には自信がある。

ただしこの直感も、いつもいつも働くわけでは無いのだけれど。

しばらく無心に研究を続けて、気がつくと夜。

ある程度の所で作業を片付けると、家に戻った。家まで徒歩三十秒なのは、本当に有り難い。

空を見上げると、文字通り降るような天の川。

田舎だからこそ、見られる光景だ。

携帯端末が鳴る。

知らない番号だ。

「はい、こちらプロフェッサーカナン」

「……貴方がカナン様?」

「はあ。 どちら様で」

相手が名乗ったのは、聞いたことがある大企業の営業だ。確か、別の国の財閥。石油関連の大企業を複数傘下に収めているものだ。

舌打ちしそうになる。

ノーベル賞を取ってから、こういう輩が頻繁に連絡をしてくるようになったのだ。

どこから電話番号を突き止めているかしらないが。

迷惑この上ない。

「カナン教授の素晴らしい研究に、私も感動しております。 それで、ですね。 我が社に研究の場を移しませんか」

「面倒だから断る」

「今とは比べものにならない給料、提供資金、それに生活環境を約束します。 聞けば、非常に生活が不便な田舎で研究をしているとか。 我が社の顧問となっていただければ、都会のオシャレで最新鋭設備、最高のスタッフが揃った研究所のトップを任せて貰う準備も整っています」

「いらん」

ぶつりと、電話を切る。

どうしてこう、営業をかけて来る奴は、わかっていないのだろう。

私は好きで、ここに来ている。

人間との接触を最小限に出来るから、である。

一応、最悪の事態に備えて、警官が巡回するように、少し前に手配はしたけれど。この様子だと、その内誘拐とかを狙ってくる奴が現れるかもしれない。

私が今住んでいる場所は勿論対外的には極秘だけれど。

何しろ私の研究は、産み出す富が富だ。

その内、私の居場所を特定する奴も、現れるだろう。

私は戦闘力が皆無だし、アイムだって強いとは言えない。面倒だなと、私は舌打ちするばかりである。

白衣をまさぐって、煙草を出そうとするけれど。

出てくるのは、やっぱり飴だ。

ため息をつくと、飴をなめようとして、気付く。夕食だった。飴を口に入れるのは、夕食の後だ。

ヘイサに相談するのも気が進まない。

彼奴は基本的に、ものごとを利益不利益で考える。

私の所に護衛を寄越すのは寄越すだろうけれど。

きっと、何かしらの見返りを求めてくるだろう。

家に入ると、アイムがどうやったかはわからないけれど。私の研究が一段落したことに気付いたのだろう。

夕ご飯を温め直してくれていた。

今日のはシチューだ。シチューは鹿肉ので、野菜も豊富に入っている。

それだけではなく、温かいパスタもある。これについては、多分ゆでたパスタを、私が研究を一段落させたタイミングから、調理したのだろう。

「毎日すまんな」

「いいえー」

席に着く私と、料理を並べてくれるアイム。

性別が同じじゃなければ、此奴と結婚していたのだろうけれど。生憎此奴も私も、性的嗜好は異性だし、それが故に上手に廻っている部分もある。

「なあ、アイム」

「なんですか、ドクター」

「此処から引っ越しすることになったら、どうする」

「出来ればドクターと一緒に行きたいですー。 私の生き甲斐は、ドクターのお世話をすることですからあ」

相変わらずのんびりした様子。

ため息をつくと、私は夕食にする。

此奴は無言で私の生活環境を整備してくれるけれど。

ある意味、誰よりも、相談をしづらい相手かもしれない。行き詰まった研究のことは、誰にも話せない。

結局、自分で全てを処理するしかない。

夕食はとても美味しかった。

ステイツでは、基本的に食事を定期的なタイミングでしっかりとる習慣はない。アイムがいなかったら、私もシリアルとオートミールで三食を終えていたかもしれない。

寝室に引っ込むと、他のプラスチック研究に目を通す。

他の企業も、ノーベル賞を取った私の研究を追い越せ追い抜けで躍起だ。最近発表されたものでも、かなりの改善効率がある技術がある。

ただ、ノーベル賞を取っただけあり、私の研究のがダンチで優れているのも事実。その内、この特許を使ってのプラスチック生成が主体になるだろう。

他の研究のコア部分はわからないけれど。

幾つか有望そうなのがあるというのは、見ておく。

そうすることで、自分を追い込むことが出来るからだ。

何も研究をしているのは、私だけでは無い。

金になる学問には。

多くの人間が集まってくる。

其処にはたくさんのよどみも出来るし。考えたくないような人間の業だって、目にする事になる。

いっそ、こんな研究からは手を引いて。

後は静かに、アイムと此処で暮らすのもありかもしれない。

どうせ特許料はその内使い切れないくらい入ってくる。

スポンサーが手を引いたとしても、生活をするには充分だ。伴侶だって見つけるのは、それほど難しくは無いだろう。

まあ私には男を見る目はないし。

それによって何度か痛い目にもあった。

研究を持ち逃げされたこともあったし。

金を持ってトンズラされたことも。

だが、研究を止めた場合、この先に一人で生きていくのは寂しい。アイムはいるけれど、どうしても伴侶が欲しいと言うのは、本音としてある。

それにアイムだって、私が結婚しなければ、結婚しづらいだろう。

ちなみにアイムの方は、確か六年ごしの交際している男がいるはず。スラム時代の人脈は全て切ったらしく、私の関連で得た男だそうだけれど。のんびりしている奴だけれど、意外にやる事はやる奴なのだ。

ぼんやりとしていると。

いつの間にか、一時間が過ぎていた。

あくびをすると、目覚ましをセットして、布団に潜り込む。

そろそろ、納期が来る。

ヘイサは研究が進んでいない場合、容赦なく資金をカットしてくる。まあ正直な話、今はどうでもいいけれど。

ただ、納期を設定することで、仕事を円滑に進めている私としては。

此処で躓くのは、避けたい所だった。

 

一応の成果が上がったので、メールを使って提出。

いわゆる専用回線だから、盗まれる可能性もない。あくびをしながらコンテナから出ると、久しぶりの日光を浴びて背伸びした。

何度もあくびをする。

そして、白衣からながもちする飴を取り出して、口に入れた。もう、流石に煙草は、平気になって来た。

思えば、煙草で済んで良かったのかも知れない。

アイムが何度か止めてくれなければ、ドラッグに手を出していた可能性もある。

チェーンスモーカーになるような私だ。

そうなれば、ずるずる墜ちるところまで墜ちて、最終的には廃人になってしまっただろう。

結局私は弱い。

だからこそ、色々なものに頼ってしまう。

研究を続け。

地面に落とさないようにするためには。

継続のために、何かしらのモチベーション維持材料が必要なのだ。

家に入ると、アイムが掃除をしていた。

意味不明の汚れが山ほどあった引っ越し当初とは、既に別の環境だ。壁も床も磨き抜かれていて、整理された家具と、活けられた綺麗な花。そしてフローラルな香りが、私を出迎えてくれる。

生活環境の整備という点では、アイムを超える人材はそうそういないだろう。

此方に流れてくる前は、本当にひどい環境で地獄を見ていたとも聞いている。

その時に身につけた技術かもしれない。

人間、何が後で役に立つかわからない。

私だって、ナードとして地獄を見ていなければ。こうやって地道に黙々と作業をやっていく執念は身につかなかったかも知れない。

もっとも、私を差別した連中に感謝などしていないし。いずれ機会があれば地獄の底に叩き落としてやるつもりだが。

「あらー? ひょっとして、納期の終了ですか?」

「ああ。 今日はもう寝ようかと思ってる」

「まだお昼ですよ」

呆れたようにアイムは言う。

掃除機を掛けていた彼女だが。床には円形の自動掃除機も動き回っている。

すぐに食事を準備してくれるが。

私は椅子に寄りかかると、もう其処で眠りそうになっていた。

「駄目ですよー。 ちゃんと生活リズムを整えないと、後で大変なんですからあ」

「相変わらず、小姑かお前は」

「聞こえません」

ひょいと白衣を脱がされる。

洗濯は此奴に任せて置いて大丈夫。いつも綺麗な状態で、服が出てくる。勿論化学物質による汚染を考慮して、白衣は別の特殊洗濯機による洗濯を行う辺り、アイムはきちんと私周辺のしかるべき家事については理解している。

出てきたのはハンバーグステーキだ。

かなりの量のパンもある。

私はどちらかといえばミディアムが好きな方なのだけれど。アイムはその好みもしっかり理解してくれている。

サラダも出るのが嬉しい。

栄養のバランスも、しっかり考えてくれているのだ。

「研究、上手く行きませんか?」

「あー。 そうだな」

「じゃ、気晴らしにドライブいきましょう」

「おう、そうするか」

私は運転はド下手なので、アイムに任せる。

一応日本製のちょっと古いワンボックスがあるので、運転には事欠かない。ハイブリッド車なので、燃費もそこそこだ。

「この辺の山を、廻ってみましょうか」

「それも良いが、ペットショップに行こう」

「ああ、番犬ですねー」

「そうだ。 ドーベルマンでも何でもいい。 襲撃者がびびるようなのがいいな」

アイムはにこにこして話を聞いている。

私と長い会話をするのが、久しぶりだから、かも知れない。

案外寂しがり屋なのだ。

男がいるけれど、それとはまた別口なのだろう。

食事を終えてから、ワンボックスで出かける。街に出たら、真っ先に向かうのは、ペットショップ。

元々この国は、狩猟民族の国と言う事もある。

犬の人気は高い。

犬を見て廻るが、アイムがアドバイスしてくれる。

「買うなら子犬にしましょうー」

「ああ、その方が懐きやすいからか」

「ええ。 それに子犬の頃の方が、性格の矯正もしやすいんですよ。 世話は私がしますから、ドクターは時々頭を撫でたり、餌をあげたりするだけで大丈夫ですー」

苦笑いしてしまう。

此奴、私が犬の世話なんてできっこないことを、良く見抜いている。

 

結局、ドーベルマンの子犬を一匹買って、そのまま帰路についた。

非常に大人しい子犬で、道中ぴんと耳を立てていたけれど、騒ぐことが一切なかった。助手席で腕組みしている私の臭いを時々嗅いだりしていたくらいである。

犬だけに、上位者である事は、すぐにわかったのだろう。

家に着くと、アイムがすぐに準備を始める。

庭の片隅に犬小屋を建てて、犬のための準備を開始。首輪とロープなども、てきぱきと付けていく。

予防接種などについても、きちんと聞いていたらしい。

血統書には興味を見せなかったけれど。

犬の性格や毛づやなんかはとてもよく見ていた。相応の、いや相当な知識があるとみて良いだろう。

ひょっとすると、ペットショップでの仕事経験があるのかもしれない。

「名前はどうします?」

「どうでもいい。 適当にお前が決めとけ」

「そうですねえ。 じゃあ、ホープにします」

「そうか」

何だか煙草の銘柄みたいだけれど。

まあ、良いだろう。

ホープはアイムに早速良く懐いていた。長身のアイムだけれど、此奴はドーベルマンだ。多分最終的には、押し倒されるくらいでかくなるだろう。それでいい。此処は女二人で、どうにも身を守るには不安なところがあるからだ。

私は棒立ちで見ているだけで。

その内、作業が終わった。

飴を口に入れていると、犬小屋を貰ったホープがその中に入って、まるまる。

「トイレの躾は私がしておきます。 後はご飯の買い出しも、一緒にやっておきますけれど、ちょっとお金がかかるので、それは覚えておいてくださいねー」

「あー、平気平気」

それなりに金は潤沢だし、ドーベルマン一匹分のえさ代くらいは屁でも無い。

後は、もうやる気も起きない。

かといって、寝るとアイムに叩き起こされるのが目に見えている。生活リズムがと説教されるのも面倒だ。

しかし、研究は、今日はもうする気になれない。

仕方が無いので、辺りを散歩することにしたけれど。

それが、間違いだった。

家を出て、しばらく黙々と歩いていると、いきなり目の前に人影が飛び出してきたのである。

「プロフェッサーカナン!?」

見るからに、カタギでは無い男だ。

背筋を悪寒が走り抜ける。

まずい。

周囲には誰もいない。

アイムも今は、家の中だ。

「私、こういうものです」

名刺を出してくる。

私は恐怖で固まるばかり。コミュニケーションが苦手な私だ。こんな輩に、相対して、気が利いたことて言えるわけがない。

「とても良い待遇で、貴方を迎える準備が出来ています。 是非来てください」

「ひ……」

「話は向こうで説明します」

強引に腕を掴まれた。

此奴、ひょっとして。

ずっと私が一人になるタイミングを、狙っていたのか。

警官が巡回してくるのには、まだ時間が掛かる。しかも、この男、万力のようなパワーだ。

引っ張られる。

「は、はなして」

「向こうでは、夢のような待遇が待っていますよ。 こんな田舎に引きこもって研究するよりも、ずっとはかどるはずです」

「オイ」

不意に、割り込む第三者の声。

私の腕を掴んでいた男が、殴り倒される。

私も勢い余って尻餅をついた。

柔道とかやっておけばよかったと、今更ながらに思う。

尻に帆を立てて逃げ出す男。ガムをくちゃくちゃやりながら立ち尽くしているのは。どうやら、悔しいけれどヘイサが派遣してきたSPらしい。

多分軍経験者だろう。

たくましい長身の、筋肉が目に見えてわかるほどの大男だった。

「少しくらい身を守る動作をしてください。 あんたはこれでも、我が財閥のVIPなんですから」

「すまん、助かった」

「少しは体を鍛えることです。 それでは」

これで借りが出来てしまったか。

危うく、研究を他人の手で、台無しにされるところでもあった。

家に戻ると、アイムは何かあったことを、すぐ悟ったらしい。自室に閉じこもる私に、アイムは何も言わなかった。

こういうときは、放っておくしかない。

経験的に、知っているのだろうから。

 

2、うずまき

 

ネクラブス。

そう言われて育って来た私だ。

実際、チアリーダーなんかをやっているジョックの女子と比べると、あまりに容姿に差があった。

家も裕福なわけでは無い。

何より最悪だったのは、私の思想。

何かを研究して成果を出すと言う事に興味を持ったことで、私はナードとして被差別階級に置かれることが、学校では決定してしまったと言える。

ジョックの女子が派手に男女関係を喧伝しているのを横目に、男なんか出来る訳も無く。

学業成績だけは良かったけれど。それが逆に、ジョック達の反感を買う理由にもなった。

謂われ無きイジメが始まり。

学校を移っても、それが止むことはなかった。

力が弱かった私は、腕力で抵抗することも出来なかったし。

何より、逆らえば滅茶苦茶にされる事が、目に見えていた。中学以降は、ジョックの手先になっている男子から、廻されることだって想定しなければならなかった。

そういうものだ。

自由を喧伝するこの国の現実。

だから私は。

一人の殻に籠もって、黙々と研究だけをする事にした。

大学ではそれがむしろ良い方向に動いた。

元々飛び級を何度かしていたから、余計にイジメが加速していたのだけれど。大学に入ってからは、むしろ逆に、私がこつこつやってきたことが評価されたのだ。

しかし、地元では。

私は陰気なネクラブスで、ナードのくせに大学に行って、評価されている生意気な奴という悪評だけが残っていた。

家に寄りつくこともなくなった私は。

結局、更に研究だけにのめり込んでいくことになった。

そんなときだ。

アイムに出会ったのは。

出会った切っ掛けは、紹介から。確かホームシッターとして、アイムが来たのが始めてだった気がする。

家事能力も生活能力もない私だったけれど。

アイムはきちんと私が人間としての尊厳を持って生活できるように、家の状態を整えてくれた。

まあ、当時から頭は微妙だと思っていたけれど。

作ってくれる食べ物も美味しいし。

何より、きちんと私のことを認めてくれる奴は、初めてだった。

五歳年下のアイムには、随分助けられた。

精神的にも、だ。

結局最悪の場合、私は研究を続けるしかできなくなり。その中でさえ評価されず、死んでいったかもしれない。

今ノーベル賞まで取った私が。

それなりにやっていけているのは。

間違いなく、アイムのおかげだろう。

目を覚ます。

適当に歯磨きをして、家の外に出る。

ホープがこっちを見て、適当に尻尾を振っていた。大丈夫、此奴は私がアイムの上位者であると判断している。

ただ、家の敷地から、外に出る気はしない。

昨日のことは、やはり怖い。

中学、高校の頃に散々イジメを受けた私だけれど。その時の記憶が、フラッシュバックしたかのようだ。

コンテナに、まっすぐ向かう。

此処は、私の住処。

此処だけは、誰にも犯させない。

私の聖域だ。

このコンテナは、一応会社の機密でもあるので、用意したときにスポンサーの方で強力なセキュリティを付けている。

逆に言うと、もしもスポンサーの手から離れる場合は、このコンテナも手放さなければならないわけで。

それはそれで、面倒だとも言えた。

ただ、この中には、私がずっと使って来た器具がある。それらについては、私財で購入したものだ。会社にくれてやる必要は無い。

家についてもそう。

それで、多少は安心も出来るのが、事実だった。

しばらく、そのまま茫洋と過ごす。

実験を廻し始めるのは、少し落ち着いてからだ。

スケジュールはまだ特に決めていない。

納期を超えた直後だから、というのもある。

自分一人で研究をしている場合、こういうときにファジーな作業が出来て、有利だという点がある。

実際、まだ学生の時は。

色々と教授の都合につきあわされて、大変だったのだから。

一通り器具の点検終了。

ざっと見て廻る限り、誰かが触ったようなことは無い。

まずは一安心と言うべきだが。

いきなり、携帯端末が鳴る。

ヘイサからだった。

「ハーイ、元気かな」

「……」

「その様子だと、襲撃されたことがまだこたえているようだな、HAHAHA。 私が念のために派遣しておいたSPのおかげで助かっただろう」

「何だ、彼奴は。 私を襲った奴は」

ヘイサの話によると、競合している他社のエージェントではないそうだ。あの後警察と連携して逮捕。

調べて見たところ、どうやら別財閥や軍産複合体とは、関連がないと結論されたらしい。

あまり信用は出来ないけれど。

嘘をつく事で得られるメリットも、思い浮かばない。

「海外企業の鉄砲玉の可能性は」

「あり得ないなあ。 そもそも地元の科学マニアで、自分が幾つかの企業から頼りにされているエージェントだと思い込んでいるだけの男だったからな」

「……」

「ただ。 君の所に電話があったらしいが、そいつについては多分本物だろう。 今後も色々と警戒した方が良さそうだから、SPは巡回させておくよ。 何、君の視界には入らないようにしっかり言い含めてあるから、気にしないで研究は進めてくれ」

通話が切れる。

そうか、ただの異常者だったか。

気分が楽になるかというと、そうでもない。

ノーベル賞を取ったのだ。

有名税と呼ばれるものが掛かるのも、無理はない。

何より、私が金を持っていることも、ノーベル賞を取得したなら周知にもなる。住んでいる場所がわかってしまうと、泥棒が入る可能性にもつながる。私自身が酷い目にあうのも嫌だけれど。

アイムが酷い目にあうのは、もっと嫌だ。

悶々としているうちに。

時間ばかりが過ぎていった。

呆れた私は、自分の頬を叩くと、PCを起動。

まずは次の納期に向けてスケジュールを編成する。確実に出来る事が幾つかストックしてあるので、其処からだ。

それに並行して、プラスアルファで作業を進めていく。

そうすることで、思いつくこともあるし。

自分のペースを、取り戻す事も出来るからだ。

作業を廻す。

こればかりは、誰の助けも得られない。

自分一人でやっていかなければならない。

だけれども、だからこそに。

私は、ノーベル賞を取ることが出来たのだとも言える。

 

夕方には、ある程度落ち着きも取り戻し。

スケジュールも組み直して、軽く実験を行うところまで、気分も回復していた。このまま、一気に作業を進めたいところだ。

一段落したところで、外に出る。

今日は無理をしない方が良いだろう。

そう判断しての行動だ。

外に出ると、夕日が辺りを赤く染めていた。

その中で、アイムが円盤を投げて、ホープと遊んでいる。

驚くほど吼えない犬だったホープも、こうして遊んで貰う事は大好きらしく。一生懸命円盤を追いかけて走り回っていた。

結構な運動能力だ。

此奴がしっかり育ってくれれば、番犬として役に立ってくれるだろう。

「あ、ドクター。 お疲れ様です」

「プロフェッサーだ。 どうだ、ホープは」

「元気で可愛くて、申し分ないです。 私が故郷にいたころ、こんな風に子犬をかわいがれればなあって思います」

「そうかそうか」

家に入ると、ソファに腰掛ける。

少し前に通販で購入した、人を駄目にするとか言うソファだ。

体が沈み込んで、実に気持ちよい。

とりあえず、ようやく上向きに調整した気持ちだ。

嫌なものを見たりして、下向きにしたくない。

テレビを一瞥だけしたけれど、どうせろくな番組はやっていないだろう。付ける気にはならなかった。

二階に上がって、自室に入ると、PCを起動。

ネットを巡回して、情報を漁る。

ろくでもないニュースばかりだ。

世界の情勢は、悪くなる一方に思える。貧富の格差は拡大するばかり。かくいう私は、富の方だろうから、上から目線で語ってしまうことになるだろう。私が何か言えば、貧の方にいる人達は、きっと気分が悪い。

これも、私が、ナードだったからこそ分かる事。

ジョックから同情されても、嬉しく何てないのである。まあ、それとは実際には少し問題が違うのだけれど。

いつの間にか、完全に日が暮れて。

窓から外を見ると、真っ暗になっていた。

この窓は、私達が越す前に、防弾の強力なものに変えてあるけれど。

それでも、この国では、ライフルを持った泥棒が押し入ってくる可能性が高い。スポンサーがいなくなった場合は。

私財をはたいて、警備会社を手配する必要があるだろう。

なんだかんだで、色々と暗い想像がわき上がってしまう。

そうなると、研究を廻す事にも、影響が出てしまうのだ。

それではいけない。

わかってはいるけれど。長い間培われた負け犬根性と、弱者としての思考方法は、どうしても改善出来ない。

ネクラブスは、私のもう一つの呼び名。

私を見るとき人が笑うのは。

私を馬鹿にしているからだ。

下から、アイムが呼んでいる声がする。多分、晩ご飯が出来たのだろう。

暗い気分を追い払うには、食事が一番だと私も思う。

階段を下りると、大皿に山盛りのスパゲッティが用意されていた。それも野菜がふんだんに入っている奴だ。

美味しそうと、一目で思った。

「今日はたくさん食べてくださいねー」

「有り難い。 恩に着る」

「いいんですよお。 ドクターが幸せそうに食べてくれれば、私も幸せなんですからー」

そんなものなのか。

よく分からないけれど、家事関係が駄目な私だからかもしれない。

しばらく、野菜がたくさん入ったスパゲティを啜る。

アイムはその間に、てきぱきと家事を済ませていく。掃除も洗濯も、アイムだけに任せていれば大丈夫だというくらい、私には出来ることがない。

「お前の給料は、もっと増やさないといけないな」

「いいんですよ。 今でも充分すぎるくらい貰っていますから」

「いいのか。 欲がないな」

「いいんです」

アイムの言葉は、私には嬉しい。

下向きになりかけていた心は、また上向く。

また、仕事を廻す気力が湧いてくる。

仕事を廻す事そのものが私だけにしか出来ないとしても。

その補助は、アイムもしてくれているのだ。

「たまには、研究を休んでも、いいんじゃないですかー?」

「いや、いいさ。 それよりも、ホープを頼りになる番犬に育てておいてくれ。 しっかり育てれば、ライフル持った強盗くらいなら、撃退できるんだろ」

「ドーベルマンを本気で育てたら、軍用で使えますよー」

「そうかそうか」

アイムなら、きっと其処まで鍛えてくれるだろう。

たっぷりスパゲティを腹に放り込んだ後は、ゆっくり眠る。

悪夢を見ることも無く。

ただ静かに、私は眠りを貪ることが出来た。

 

襲撃を受けてから、数日間は。

どうしてもフラッシュバックする恐怖と戦わなければならなかったけれど。

その度にアイムが絶妙なフォローを入れてくれたので、大変に助かった。黙々と研究を進めて。

そして、納期には間に合う算段を付ける。

さっと書類をまとめて。

それで、余裕も出来た。

研究も、本命の方を進めていく。

この様子だと。

毒ガスを排出しないプラスチックの生成方も、間もなく着手できそうだ。問題は、着手できる事と、完成できることは、話がまるで別だと言う事。

幾つか、アイデアはあるけれど。

それを上手く軌道に乗せられるかは、やってみなければ分からないのである。

こればかりは、研究をして来た人間としては、何とも言えないとしか言いようが無い。ましてや私の場合、たくさんのスタッフを抱えているわけでは無い。

事実上一人の黙々とした努力で、ノーベル賞にまで辿り着いたのだ。

今後も、研究という分野で、他人の力を借りる気は無い。

他人のデータは参考にするけれど。

ただそれだけだ。

研究を廻すというのは、極めてストイックな行為なのだと、私は自分で思っている。結局他人の力はデータでしか借りない。

アイデアは自分でひねり出す。

そうすることで、やっと研究は動く。

研究は廻る。

他人に先んじて何かをするには。

自分を練り上げるしかないのだ。

多分、大型のチームを抱えてる教授や研究者には、異論もあるかもしれないけれど。私はこうして、孤独を力に変えてきた。

一人で研究を廻し続ける事によって。

大きな成果も上げてきた。

その結果がノーベル賞だとも思っているから、この件については、他人の異論を許す気は無い。

幾つかの実験を同時並行で動かす。

一端軌道に乗ると、数日は寝られないことも多い。

私は天才かどうかは正直自分でもわからないのだけれど。

この集中力だけは、他の天才と呼ばれる人間に劣っていないと自負している。

ただ、気付くと数日間食事をしないことさえある。一度などはそうして死にかけて、病院に直行した。

アイムが心配して様子を見に来なかったら、あの時は危なかったかもしれない。

だけれども、自分としては満足もしていただろう。

おかしな話ではあるけれど。

幾つかの小規模な実験を続けて、データを抽出。

その間に、他人の論文にも、目を通しておく。

そこそこに良い大学の論文になると、学生のものでも中々に優れたものが珍しくなくなってくる。

それらを丸写しなどは当然しない。

参考にして、被っている部分がないようにしていくのだ。

勿論その作業にはPCを使う。

私だって、記憶力は無限にある訳じゃない。

PCの方が、こういう分野では、力を発揮するものなのだ。

机に向かい。

実験器具に向かい。

気がつくと、丸一日が過ぎていた。

流石に腹も減ったし、そこそこ疲労もした。

コンテナを出る。

仕事は良い。

恐怖を完全に忘れ去ることが出来る。

研究を廻しに廻して。

私はある程度満足すると、家に向けて歩く。ホープが私に気付いて、何度か吼えた。アイムがひょいと、窓から顔を出す。

「ドクター! また無茶をして」

「メシたべたい」

「すぐに準備します。 後、お風呂も沸かします」

「んー」

家に入ると。

どっと疲れが来る。

五年前はもう少し無理が出来たような気がするのだけれど。流石にそろそろ私もいわゆるアラサーだ。

もう少し、無理を減らさないといけないのかもしれない。

ソファに腰掛ける。

このソファ、前に話題になった、人間を駄目にするとかしないとかいう奴だ。ぐんにゃりと柔らかくて、私を包み込んでくれる。

何だかアイムのようである。

ぼんやりしていると、食事をアイムが温めてくれた。

「はい、たべてくださいねー」

「おうー」

席に着くと、温かいアイリッシュシチューを口に入れる。

良く材料も吟味しているのがわかる。

優しい味だ。

「ドクター、前に死にかけたとき、あんなにお医者様に怒られたの、忘れたんですかぁ?」

「だがな、研究が上手く廻っているときは、どうしてもな」

「そういうときでもー、私を頼ってください」

「ああ、そうだな」

シチューの後は、パンを幾つかぱくつく。

一つはチーズを載せたトーストで。温めると、とても柔らかくて、美味しい。

後は肉が食べたいと思ったけれど。

それを察してか、薄く切った鴨のローストを出してくれる。これもきっと、昨晩辺りに準備してくれていたのだろう。

一通り食べ終えると、風呂に入れと言われて、そうする。

歯を磨いて、其処で限界が来た。

倒れそうになるのを、後ろから支えられた。

「寝室に移動しますよー」

「すまんな」

「無理ばかりして」

ノーベル賞なんて、とらなければ良かったのに。

アイムが、珍しく不機嫌そうに言った。

ひょっとすると此奴。

本気で怒っているのか。

寝室に放り込まれる。

気がつくと、数時間が消し飛んでいた。

あくびをしながら、起き出す。

まだ疲れは残っているけれど。これ以上の時間のロスはもったいない。研究の状態を思い出して、嘆息した。

まだまだ、先に進めないと。

のそのそと寝室から起き出す。

白衣からパジャマに着替えさせられていた。

まるで子供がそうされるようだと思って、私は苦笑い。

白衣を着直すと、ダイニングに出た。

アイムがすぐに気付く。

「駄目ですよぉ。 もう少し寝ていないと」

「大丈夫だ」

「今度、また健康診断を受けて貰いますからね」

「小姑かお前は」

だが、アイムがいなかったら、肺がんが発覚することもなかっただろうし。煙草を止めるのも無理だっただろう。

ストレスが極限まで達していた一時期は。

煙草に依存することで、必死に自我を保っていた。

その頃の写真を今見ると。

目の下に隈がひどくて、身の回りを繕う努力も、一切していていなかった。

ただ、この時期は、ネクラブスと散々言われ続けていたから。自分はそういうものだと思っていたし。

一切の努力が無駄だと思っていた、という事情もある。

煙草を吸おうと無意識で白衣に手を伸ばして。

また飴を掴んでいた。

ため息が零れる。

今でも、煙草は恋しい。

「煙草が吸いたいな」

「駄目です!」

「わかってる。 何かメシにしてくれ。 夜には研究を切り上げて出てくるから」

「約束ですよ」

私が研究を回せるのは。

アイムのおかげだ。

その事だけは。間違いない事実で。

支えてくれるアイムに。私は本当に感謝している。

 

3、回してその先に

 

集中し出すと、やはり時間が幾らあっても足りなくなる。

気がつくと、日付が変わっていた。

ある程度で作業を切り上げると、家に戻り。

そして起きていたアイムに怒られた。

此奴はもう。私の行動パターンを把握しきっているとしか思えない。ちゃんと起きてくれているのは嬉しいけれど。

いつ眠っているのか、私の方が心配になる。

食事をしていると、アイムが不意に言う。

「SPを手配しておきました」

「何だ、また不審者か」

「はい。 敷地の外から、コンテナを伺っている人がいました。 前の人とは多分別だと思いますけど」

「そうか……」

ずっと研究に没頭していたから、全く気付かなかった。

それにしても、きちんと自分で研究して、成果を出せばいいものを。どうして他人の成果を横取りしようというのか。

そもそもナードとして学校でも迫害され続けた私は。自分一人で出来る事を見つけて、ようやく他の人間達を見返せるようになったのに。

そんな私から、やっと得た物を奪おうとするなんて。

人間の醜悪さは、一体どれほどなのだろう。

私が、何の努力もしなくて、親からただ遺産を相続した、とかならともかくである。何だか、人間そのものが嫌いになってしまって久しいけれど。この人間嫌いが好転する機会には、当面恵まれそうにない。

事実、側にいて助かるのは、アイムくらいだ。

がつがつとシチューを平らげる。

実に美味しい。

アイムは私の味の好みも把握しているから、今まで外れに当たった事がない。他の人間も、アイムのような奴だったら助かるのに。

食事を終えると、PCから、ざっとニュースを確認。

別国の企業にある小型研究チームが、私のとよく似た研究で、大きな成果を上げている。これは、なかなかにうかうかしていられない。

他にも、発表された論文に目を通していく。

どのみち、ここのところ研究は充分に進展させたのだ。

他人の成果をこの辺りでしっかり確認しておくことに、損は無いだろう。

幾つか、気になる論文があった。

成果が、ではない。

内容が丸写しになっているのだ。

ざっと見たが、学生が書いたものではない。何処ぞの良く知られていない工業大学の、教授の手によるものだ。

情けない話だなと私は思い。

通報だけはしておいた。

最近は、論文の内容について自動でチェックするツールも出回っているが、こういったものも万能とは言えない。

人間が完全にオリジナルのものを造り出すのは、ほぼ不可能に近いから、この手のツールは研究に必須だが。

まだまだ進歩が必要な分野である。

他人の成果の確認終わり。

最近は娯楽用の小説なんて、殆ど読んでいない。読んでいるのは、研究用の資料ばかりである。

色気がないことこの上ない。

一応うちにはアイムが買ってきた恋愛用の小説だとかもあるのだけれど。読んで見ても、さっぱり興味が持てなかった。

もっとも、ネクラブス呼ばわりされていた頃から。

周囲は私を異性どころか、そもそも性的な存在とみなしていなかったようだし。私もその周囲からの視線を受けて、何かを期待しようとは思わなかった。

大学時代に何度か酷い目にあった事で。

もう、恋愛と呼ばれるものに、何かしらの夢を見ることもなくなった。

おかしなことに、最近はむしろ、素性を知ったことで声を掛けてくる男は出てくるようになった。

だから結婚自体は、その気になれば出来そうではある。

そんな気にはとてもなれないが。

あくびをしながら、外に出る。

不意に人影が見えたので驚いたけれど。

よく見ると、前に不審者を捕まえたSPだった。

「どーも、プロフェッサー」

「何だ、どうかしたか」

「アイムさんから聞いてるでしょ。 ちいとタチが悪いのが、この辺りをうろついているようなのでね」

屈強な此奴が、タチが悪いというと。余程のサイコ野郎なのだろうか。

しかし、予想とは、少し相手の性質が違っていた。

「この間引っ張った野郎が、プロフェッサーの居場所をネットに流していたようでしてね」

「何だ、面倒な事をしてくれるな」

「引っ越しする気はありませんか」

「そのつもりは無い」

はっきり言い切ると。

困った顔で、SPは私を見下ろした。

「そう言うと思ってましたよ。 アイムさんも、あんたがそういうだろうって、言っていましたしね」

「そもそも、何も悪い事をしていない私が、どうしてこうも彼方此方から面倒を持ち込まれなければならないんだ」

「わかりきってるでしょうに。 あんたが金の卵を産むガチョウになったからですよ」

「……」

そう、かもしれない。

前、ネクラブスと呼ばれていた時代は、周囲からの干渉は、決まっていた。

自分より下と確認するための、威圧行動。

猿か何かが、順位を確認するための行動だ。

イジメなんてのはそんなものだ。生物の本能だとか自己正当化する輩もいるが、それは要するに、猿と同レベルであることを意味している。その自己正当化は、私は猿と同じですと言っていると同じなのに気付かない。

しかし、私が大学で頭角を現してきた頃から、状況は変わった。

ノーベル賞を取った今は。

首を横に振る。

思考を追い払う。

雑念は敵だ。

研究を廻し、完結させるためには。

「とにかく、警備は増やします。 こっちとしても、雇い主から色々言われていますからね。 不便を掛けますが、文句は勘弁してくださいよ」

「で、此処にお前さんがいるのも、その一環か」

「警備ってのは、相手に見えるようにやるのも必要なんでね。 相手の戦力が多いとなると、それだけである程度の相手は門前払いが可能なんですよ」

「なるほどな」

納得がいった。

まあ、此奴はヘイサが派遣してきた腕利きだ。

ちょっとやそっとの金で、あっさり裏切る事は無いだろう。

とにかく、警備は私の専門外だ。

専門家に任せるのが一番だろう。

色々と釈然としないけれど、コンテナに入る。

研究を廻すには、色々と障害も多い。いっそのこと、人間が絶滅してくれたら、研究もスムーズに出来るかも知れないけれど。

それでは文字通り本末転倒。

意味がない。

「あらゆる意味で、煩わしいな」

うんざりして、私はため息をつくと。

しばらく自分の道具類に囲まれて、落ち着くまで待つことにした。

 

アイムに五月蠅く言われていることもある。

八時間ごとにアラームがなるようにセット。

研究をある程度進めたら、時間の経過も確認。

そうすると、不思議な事に。

今まで集中力に黙らされていた腹が、そのタイミングでなったりするのだから、人間の体は不思議だ。

いっそ自分の体なんて捨てて、ロボットにでもなりたい気分だけれど。

そうなると、今度は体にオイルをささなければならないだろう。

結局、メンテが必要なことに代わりは無いし。

今はメンテをアイムがやってくれているから良いけれど。

ロボットになったら、その専門家が必要になってくる。

結局面倒くさい事に、変わりが無い。

研究開始から丁度16時間経っていた。

まあ、今日はこのくらいでいいだろう。

コンテナを出る。

思わず口を押さえたのは、凄まじい濃霧が周囲を覆っていたからだ。これは、予想外の事態である。

そういえば、聞いていた。

この辺りは、時々凄く濃い霧が出ると。

懐中電灯がないと、一歩も進めそうにない。舌打ちすると、一端コンテナに入る。

コンテナから、携帯端末でアイムに連絡。

「ちょっとまずい事になってる」

「はい、霧ですね」

「そうだ。 そっちからも見えてるのか」

「昨日、お買い物に行ったときに、地元で出来たおくさんの友達にー、聞いたんですよ」

この辺りでは、凄く濃い霧が良く出て。

その度に、犯罪も起きると。

なるほど、確かにこの霧、犯罪者が闊歩するには格好の隠れ蓑だ。不愉快極まりない話ではあるが。

いずれにしても、外に出るのは避けた方が良いだろう。

「今、私の方からぁ、SPさんに手配しています」

「何だか子供のお使いみたいで気分が悪いが」

「そんな事を言ってる場合じゃないですよー。 こんな時迷子になったら、家の敷地の中でも死んじゃいますから」

「確かに正論だな」

合い言葉を告げられる。

確かに、コンテナには誰も入らないようにと、前々から言っている。それにこの霧だ。前もろくに見えない。

前から此処を伺っているとかいう奴にとっては、最高の機会の筈だ。

素人である私にも分かるくらいである。

不意に、コンテナがノックされる。

合い言葉を聞くと、こたえた。

一応一致している。

ドアを開けると、例のSPだった。

「全く、厄介なタイミングで霧が出たもんですわ」

「先導を頼めるか」

「OK。 ただ、気をつけてください。 今、外はミルクの海みたいなもんですから、足下さえ危ないですよ」

頷くと、外に出る。

確かに、二メートル先にいるSPも、霞んで見えるほどの霧だ。これほど濃い霧は、生まれて始めてである。

家までほんの少しなのに。

全身を、冷や汗が流れ落ちているのがわかる。

これでは、何が霧の中に潜んでいても、不思議では無い。

「一応コンテナの方にも、仲間を貼り付けておきます」

「さっき厄介なタイミングって言っていたが、何かあったのか」

「あったもなにも、警報装置に引っかかったんですよ。 多分鹿か何かだろうとは思いますけれどね」

「鹿だといいがな」

そうとは、私もSPも考えていないのに。

鹿という話題が出るのも、おかしな話だった。

家に到着。

中に入ると、ようやくほっと出来た。

「今日は自分も、此処にいますから。 何かあったら、声を掛けてください」

アイムが出迎えてくれる。

何かSPと一言二言話しているが、興味が無いので、内容が耳に入ってこない。私はと言うと、窓の外を見て、何も見えないのでやっぱり不安を感じた。

これでは、何がいつ襲ってきても、わからないではないか。

私の恐怖など何処の空。

アイムはいつも通りに、料理を始めている。

きちんと食材は買いだめしてくれているらしく、この状態で、危険を冒してまで外に出る必要は無さそうだ。

時々、SPが無線で仲間と会話している。

今の時点では、物騒な内容は聞こえなかったけれど。

何しろ、先ほど警報装置に引っかかった何者かがいる。それに、企業スパイは、もう此処を嗅ぎつけていると見て良いだろう。

SPが来る。

かなり険しい顔をしていた。

「警察に応援を頼みました」

「何かあったのか」

「コンテナに張り付いていた仲間が、不審者ともみ合いになりました。 多分、この辺りをうかがっていた奴です」

戦慄を背中が駆け抜ける。

もう少し、あのコンテナにいたら、何があったかわからない。

安全だと思っていた場所が。

一気に恐怖の坩堝に変わるのを、私は肌で感じ取っていた。

アイムが側で咳払い。

「ドクター、少し眠ってください。 ほら、夕食が出来ましたから、それを食べたらベットに直行ですよー」

「お前な、私を幼児みたいに扱うな」

「ドクターはある意味子供よりデリケートですから」

「……」

それはわかっているけれど。

他人がいる前で言われると腹も立つ。

警備員が行っていたとおり、警察がどやどやと現れるのは間もなくのこと。威圧的なパトカーのサイレンが、辺りで響いている。

恰幅の良い警官が、家に入ってくる。

どうやらSPとは知り合いらしく、二言三言かわすと、互いに苦笑いしていた。

「知り合いなのか」

「警備会社の鉄則なんですが、地元の警察とはコネを作るんですよ。 そうしないと、事件が起きたときに、処理が必要以上に面倒になるんでね」

「確かに理にかなってはいるな」

警官が五人も、敷地に来たので、少し落ち着かない。

コンテナの方にも、増員して張り付いてくれるようだ。

アイムが作ってくれた夕食をさっさと腹に放り込むと、自室に戻る。ベットに潜り込むと、さっさと眠ることにする。

一気に噴出した不安。

だけれども。

どうにかなりそうな事だけは、救いだ。

 

霧が晴れたのは、翌日の朝。

起き出してきたときには、既に警察も引き上げていた。

結局コンテナに姿を見せた奴は、捕まらなかったそうである。相手も本職だろうと、SPは言っていた。

「もう一度聞きますが、引っ越す気は無いんですね」

「くどいぞ」

「ならば、此処からの護衛料金は割り増しになります。 スポンサーから多分研究成果を寄りせっつかれるようになりますけれど、それは覚悟してください」

頷く。

SPも家を出て行くと、ようやく安心できた。

知らない奴の臭いが家の中にあると、どうしても不安がかき立てられるからだ。

カレーを出してくるアイム。

最近、日本から本格的に入ってきたカレーは、私の好物の一つだ。ライスと一緒に食べるこの料理は美味しいしおなかにもたまるし、何より豊富な栄養が嬉しい。

シチューと似たようなやり方で作れると言う事で、アイムも得意料理の一つにしているようだ。

「はい、しっかりたべて、精力を付けてくださいねー」

「すまんな。 私一人で研究していたら、今頃何処に連れて行かれていたことか」

「大丈夫。 ドクターは私が守りますから」

「頼もしい」

とはいっても、アイムだって戦闘力があるわけでもない。

今回は早めに気付けたから良かったけれど。

それも、いつまで幸運が続くかは、正直分からないと言うのが、本音になる。

「今日は、研究を休んだ方が、いいと思います」

「……そうだろうか」

「前倒しで進んでいるんでしょう、研究」

「だがな、他の研究チームの成果を見ると、私が休んでいる間にも進展があるんだ」

実際、よその国の研究チームに到っては、シフト制を導入して、ずっと研究を進めている場所さえある。

そういった所とやり合うには、どうしても集中して一点突破していくしかない。

効率を上げて、私一人で張り合うには。

無理がどうにも出るものなのだ。

かといって、私が他の連中と、今更つるめるはずがない。

彼奴はゴッホみたいな奴だと、以前陰口をたたかれていたことがある。私も、それは知っている。

ゴッホは、その素晴らしい絵を絶賛されると同時に。ひねくれた性格は、周囲から嫌われ切っていた。

彼奴の絵があったら最高だが、彼奴がいたら最悪だ。

そんな風に言われていた人物なのである。

私も、同類と見なされていた。

彼奴の研究成果は素晴らしいが、彼奴には関わり合いになりたくない。

あんなブス、視界に入れるのも嫌だ。

そう言われていた昔の事を思い出すと。今でも、寝床から飛び出すほどに、不快感がつのる。

「ほら、良い機会ですから。 今日はずっと寝て体力を取り戻してください−。 お料理もお洗濯も、私がやりますから」

「……」

「休憩も、ドクターの立派なお仕事ですよ」

「だからプロフェッサーだ」

覚えが悪いアイムに苦笑いすると、私は自室に戻る。

確かに、研究室に、わざわざ戻る事も無いだろう。

今日は、休むべきかもしれない。

ただ、完全に休むのも、芸がない。

リモートでコンテナの方にあるPCとつなぐと、データを手元に全て引き寄せる。これを材料に、ざっと成果をまとめ上げていく。

マクロを使って、途中からは作業を自動化。

二時間ほど掛けて、吸い上げたデータを精査すると、昼になっていた。

外は大雨。

いずれにしても、これでは。外にもし出ていたら、身動きが取れなくなっていたことだろう。

下に降りると、アイムがいない。

書き置きがあった。

買い出しに出かけて来ると。

昼を、待った方が良いだろう。

だが、其処から、最悪の事態に展開する。

13時を少し超えたとき。

不意に、血相を変えて、SPが家に飛び込んできたのである。

私はと言うと、アイムを待って、ソファで寝こけていた。

慌てて飛び起きる私に、SPは顔色を変えたまま言う。

「緊急事態です」

「どうした!」

「アイムさんが誘拐されました」

思わず跳び上がりそうになる。

どやどやと、警官が入り込んでくる。サングラスを掛けた強面の男が、家の中を無遠慮に見回した。

「あんたがプロフェッサーカナンか」

「あ、ああ。 そうだが」

「聞いての通りだ。 誘拐犯への対処は、此方でするが、あんたに関しても念には念を入れなければならない。 署に来てもらう」

「アイムは、無事なのか」

SPが、警官に耳打ち。

警官は、複雑な顔をした。

「ぶしつけかもしれないが、あんたら血縁もないのにこんな辺鄙なところでくらして、何がしたいのかようわからん。 恋人だったのか?」

「違う。 彼奴は私にとって大事な存在だが」

「関係性がよく分からんな。 とにかく、署に来て欲しい。 犯人はおそらく、あんたとアイムさんの関係を知った上で犯行に出ている。 財閥の方とも、連絡をとる必要があるだろうしな」

断ると言おうとして、失敗。

はっきりわかる。

今の私は、完全にアイムに依存している。

彼奴がいなかったら、多分数日で干涸らびて餓死しているだろう。

こんな状況で、この家にいても意味が無い。

パトカーに乗せられて、警察署に。

ホープは。

警官が、犬も連れて行ってくれると言ったので、少し安心した。あれがいないと、アイムが戻ってきたとき、きっと悲しむだろうから。

これも、私の責任か。

アイムも、私なんかの世話を焼いていなければ、こんな事にはならなかっただろうに。

地元の警察署の前を素通り。

FBIの支部に到着。

なるほど、状況が状況だ。下手をすると、国際的な組織が敵になっている可能性もある、という事か。

言われるままに案内されて、FBIの重厚な建物に。

担当だという、無愛想で長身の、いかにも強そうな警官に案内されて。殺風景な部屋に入った。

「じょ、状況は」

「まだ犯人からの要求は無い。 犯人はアイムさんを捕らえたという事だけを伝えてきているが、それだけだ」

「支局長」

若い警官が、担当警官に耳打ち。

此奴、支局長だったのか。

しばらく話しているが、いずれにしても私は蚊帳の外だ。口惜しいと思うけれど、何も出来ない。

腕組みして考えている支局長。

若い警官が、説明してくれた。

「今、犯人から要求がありました。 貴方を引き渡せと言っていますが、そんな事は当然出来ません。 これから、専門の人間が、交渉を行います」

「まだ、本社にも提出していない研究データがある。 それをくれてやるから、アイムを解放するように伝えて貰えないか」

「事は高度な判断を必要とします。 いきなり犯人の要求に乗ったりすれば、人質がどんな目にあうことか」

「そう言うことだ。 あんたは必要なときに、そのデータとやらを提出してくれればいいから、黙っていてくれ。 此処からは、俺たち専門家の仕事だ。 あんたもノーベル賞学者らしいが、自分の研究に俺たちが首を突っ込んだら迷惑だろう?」

そう言われると、黙るしかない。

案内された殺風景な部屋。

アイムが作ってくれたカレーの残りはそのままだ。

小さくて窓もない部屋に、支局長も入ってくると。幾つかの書類を出された。どうやら、誓約書の類らしい。

「犯人が、あんたを電話口に出せと言ってくる可能性も高い。 その場合、色々と我々の指示に従って貰う。 とにかく、こういう事件では、焦りは禁物だ。 数日がかりの交渉になるかもしれないが、覚悟は決めて欲しい」

「支局長」

また、若い警官が入ってくる。

舌打ちして、鷹みたいな視線を向ける支局長に、若い警官が耳打ち。

私に、若い警官が、携帯端末を渡してくる。

電話に出てみると、なんとヘイサだった。

「何だか大変なことになってるな、プロフェッサー」

「他人事みたいな口ぶりだな。 アイムが私にとってどれだけ大事な存在か知っているだろうに」

「ああ、そうだったな」

「こんな時に何だ。 別に身代金はいいぞ。 余程の金額でもない限り、どうにかできるからな」

違う。

ヘイサの声は冷え切っている。

そして、おぞましいことを口にした。

「アイムだったか。 あの使用人は切り捨てろ」

「……なんだと」

「使用人一人と、研究と、どっちが大事だと思っている。 知っているだろうが、昨日某国の研究チームが、画期的な発見をした。 あんたの研究成果ほどじゃあないが、それでも今後、研究が進展していくと、此方の利益が喰われる可能性が高い」

使用人の代わりくらい、いくらでも派遣してやる。

だから、さっさと研究を進めろ。

ヘイサはそんな冷徹なことを言った。

大きく息を吸うと。

私は、だからこたえておく。

「アイム以外の使用人はいらない。 ついでにいうと、アイムが戻るまでは、研究も進めない」

「正気か?」

「私が研究を廻すには、補助をしてくれる彼奴の存在が必要不可欠だ。 私は情けないことに、そのままだと何日も研究を続けてぶっ倒れたり、ジャンクばっかり食べてやっぱり倒れたり、どうしようもない駄目人間なんでな。 しっかり支えてくれる彼奴がいないと、研究なんて出来ない。 ノーベル賞の半分は、彼奴がとったようなものなんだよ」

「これは入れ込んだものだな。 愛人だったってのは本当か」

いい加減にしろ。

自分でも始めて出すほどの低い声で言う。

百戦錬磨の筈のヘイサが、黙り込むのがわかった。

「とにかく、アイムが帰ってくるまで、研究はストップだ。 もしも余計な事をしたら、別国の企業にでも移籍するからな」

「OK、落ち着け。 とりあえず、しばらくは休め。 此方でも、犯人逮捕については、手を尽くす」

電話が切れる。

驚いたように、警官と支局長は、私を見ていた。

「いいのか、スポンサーにあんな事を言って」

「私は金の卵を産むガチョウらしいからな。 私を絞め殺したり、私が機嫌を損ねたら、どうなるか彼奴も知っているんだよ」

「そんなものか」

「私の持ってる特許が、今後膨大な金をもたらすのは事実で。 今後私が更に研究を進めることで、その利益は何倍にもなる。 逆に言うと、その何倍にもなる利益も、私が機嫌損ねればパーだ」

早く犯人を捕まえて欲しい。

そう言うと、支局長は頷いて、書類の説明を始めた。

 

犯人が私を電話口に出すように要求してきたのは、事件発生から二日後。

思えば、犯人がアイムを狙ったのは。

アイムが私をしっかり守っていたからだろう。

当然相手は変声機を使っていたが。

何となくわかった。相手は男だ。

「先に言っておくが、アイムに傷一つでも付けてみろ。 私はこの場で自害して、手持ちにあるデータも遠隔で全て爆破してやる」

「……!?」

「私は本気だ」

FBIの連中が、後ろで慌てているが。

私はもう、充分すぎるほどに好戦的になっていた。

「交渉はしてやるが、アイムを傷つけたりしたらその場で全てアウトだと思え。 金なんかお前らの手元には一セントだって入らない。 人を殺したって事実だけが、お前達の手元には残る。 覚えとけ」

「落ち着けよ、ベイビー」

向こうは笑おうとして失敗したらしい。

多分私が本気だと気付いたからだろう。

FBIの支局長にめくばせ。

此奴らも、無能じゃあない。

既に犯人を、かなり絞り込んでいるようだった。

その中には、昔ジョックとして、私を嬲りものにしていた奴もいる。何となくだけれど。彼奴が犯人では無いだろうと、私は思っている。

今はただの屑に過ぎない彼奴が。

此処までの大それた事を、出来るはずがない。

FBIの担当が代わり、交渉を開始。とにかくアイムを解放すること。金銭以外は一切出せないことを告げる。

私はと言うと、しばらくは黙って見ているだけ。

犯人はやはり私を引き渡せと言っているようだけれど。だが、さっきの私の様子を見てからは、及び腰になりはじめているようだ。

多分手に負えないと判断しているのかもしれない。

一端交渉を中断。

軽く話をする。

「犯人は焦ってきている。 多分あんたさえ手に入れれば、後はどうにでも出来ると思っていたんだろう。 アイムさんも処分してしまうつもりだったんだろうな。 だが、FBIがいきなり出てきた上に、あんたが予想以上の狂犬だとわかって、困惑しているんだろう」

狂犬か。

それも良いかもしれない。

正直、アイムさえいてくれれば、後はどうでも良いと思えるようにもなってきているし。どのみち、研究だってアイムがいないと進まないのだから。

引っ越しも、するべきなのかもしれない。

なんだかんだ言って、結局アイムを危険にさらしたのは、私の判断ミスだ。

あの時。

SPに言われたとき、さっさと引っ越ししていれば、アイムはこんな目にあわなくて済んだだろうに。

意地を張るべきでは無かった。

屑どもに苦しめられた過去を考えると。どうしても、今は意地を張りたくなってしまう。だけれど、ここはぐっとこらえるべきだったのだ。

研究だけでは無い。

何もかも、廻すのは、結局私だけではできない。

廻す事は私がするけれど。

それには安定した地盤と、周囲のサポートが、必要不可欠なのだ。

だったら、私も。

地盤とサポートを守るために、最大限の努力をするべきだった。

今更後悔しても遅いかもしれないが。

電話が来る。

犯人が根負けしたのだ。

結局、10万ドルとアイムは交換となった。10万ドルは、ヘイサに借りを作りたくないので、私が即決で出した。

その程度の蓄えはある。

後は、FBIに任せる。

犯人をぶん殴りたいが、我慢。どうせ私が殴ったって蚊が刺した程度にも効かないだろうし、専門家に任せるのが一番だからだ。

翌々日に、アイムは保護。

犯人グループも、即座に割り出され。

その中の一人には。例のジョックが混じっていた。どうやら犯人グループの一人として、私の情報を提供していたらしい。

どうでもいい。

ただ、今は。アイムが生きていてくれただけで。ほっとするばかりだった。

犯人は全員が捕まらなかったが。もう、それはどうでも良かった。

アイムは手指を失っていることもなく。

無事に保護された。

それだけが、大事だったのだ。

 

FBIに連れてこられたアイムは、少し頬も痩けていた。人質にされている間、食事も与えられず、トイレにも連れて行かれなかったと言うし、当然だろう。犯人は最初から、アイムを生かしておく気が無かったのだ。

私を人質交換にかこつけて一方的に拉致した後は。私を怖れさせて言う事を聞かせるために、惨殺するつもりだったらしい。

幸い、FBIはプロだった。

それに、ヘイサが付けていたSPの対応も早かった。

だから、私が犯人と独自で交渉して、全てが台無しになるような結果だけは避けられた。アイムの無事も、確保できた。

アイムは、表向きは平然としていたが、私には何となくわかる。さぞや怖い思いをしていただろう事は。

やっとアイムと再会できて。

私は、あまり多くを語ることが出来なかった。

「すまない」

「ドクター、私こそ、油断してしまって」

「良いんだ。 相手は本職だ。 生きていただけで良かった」

どうしてだろう。

中学時代、虐められていた頃にとまった涙が、また流れ始める。

虐められるたびに、泣いてみせることが口惜しくて。絶対に泣くものかと決めているうちに、一切涙は流れなくなった。

何をしても泣かない私を見て、ジョック共は気味悪がったけれど。

それが、どうして、今更に。

「後、私はプロフェッサーだ」

結局、覚えてくれないアイムに。

私は、涙を拭いながら、苦笑いしていた。

覚えが悪くても。

此奴は、私の大事な補助者なのだから。

「帰ろう。 何だか腹が減った」

「私もです」

アイムも、どうしてだろう。

私と同じように、涙を拭いながら、笑っていた。

 

5、再び、廻し続ける

 

コンテナをトラックに連結して、移動する。

昔からこの国では、家ごと引っ越し、何てことをする人間が希にいるけれど。私の場合は、研究室をまるごと移動させる、と言う所だ。

私はアイムと一緒に、引っ越し業者が手配してくれたレンタカーで、トラックの後ろを追っていた。

助手席には、ホープもいる。

アイムが、どうしてもというので。連れて行く事にしたのである。

ちなみに今日は。

運転は私がしている。

ペーパードライバーのままだというのも良くないと感じたし。何もかもアイムに任せっきりというのも、あまり好ましくないと、今更考えたからだ。

「ドクター。 やっぱり私がやりましょうか? 運転、乱暴ですー。 事故りそうですよう」

「う、五月蠅い」

だが、やっぱり慣れない作業には慣れない。

へたっぴな運転は。一朝一夕で改善出来る筈もない。

ましてや私は、研究以外は、まともに出来ない人間だ。

幸いこの国の道路はとても広く作られているし、慎重に運転さえすれば、事故になることもないけれど。

結局、引っ越し先は。

隣の州の、そこそこの田舎。

周囲には最初からSPにいて貰い。ヘイサに手配して、アイムにも護衛を付けて貰う事にする。

あの事件で。

私も思うところがあったのだ。

私自身のことよりも。周囲が傷つくのが嫌だ。

勿論私だって傷つくのは怖いけれど。

それ以上に、私が研究を廻すときに。支えてくれているものを、失うのが一番痛いのである。

一度、研究を廻すのは、いつでも出来る。

しかししっかり踏ん張る地盤と。

体力を付けてくれる周囲を失っては。

もう二度と、研究を廻す事は出来なくなってしまうのだから。

高速道路を、トラックが降りた。

間もなく、目的地だ。

周囲は自然が豊かで、緑も多い。

空気は綺麗で。

夜空は、とても幻想的で、魅惑的だという事だった。

高速道路を降りてから、しばらく行く。

街の中も通る。

ショッピングモールがあるような、そこそこ大きな街だ。前に住んだ家よりも、周辺環境も魅力的かもしれない。

「どうだ、良さそうか」

「はい。 これなら、ドクターに毎日美味しいお料理、作ってあげられそうです」

「そうか。 太らない程度に頼む」

現地に、到着。

やっぱり都会から少し離れている。

石油を扱う研究である以上。これは配慮として仕方が無い。

だが。

前よりは、都会との利便性も考慮した。

アイムはさらわれたときのことを話してくれた。犯人グループは、アイムのことを人間だと思っていなかったようで。ものとしてしか扱わなかったらしい。

この国に、厳然として存在する差別。

自由の国の裏側。

それを、一瞬の出来事で。私は、まざまざと思い知らされることになった。

家は前より少し大きい。

ホープは不機嫌そうに、家の周りの臭いを嗅いで廻っていた。トイレの躾はしっかりアイムがしているから、所構わずマーキングするようなことはしないけれど。ここでも、しっかり躾は継続しなければならないだろう。

トラックがコンテナを降ろす。

中に入って、調べる。

研究機材類は無事。段ボールの梱包を解くのが大変だ。

前の家を売り払って、出るまでも少し手間が掛かったけれど。結局私は、一人では相変わらずほぼなにも出来ない。

「手伝いましょうかー?」

「そうだな……」

今までは絶対触らせなかったけれど。

これからは、それも緩和した方が良いかもしれない。

勿論、部分的に、だが。

素人には絶対に触らせてはいけない部分もあるからだ。

段ボールの片付けや、廃機材の処理。それに廃材の入ったごみの片付け方などは、これからアイムにも教えておこうと思う。

私だけでは。

研究を回せない。

わかりきっていた事なのに。

分かっていない事が、わかってしまったからだ。

「頼もうか」

「はい」

アイムを、コンテナに入れる。

私以外の人間を、コンテナに入れるのは初めてだ。最初に作ったときでさえ、中に人を入れたのはガワを作っている段階だけ。

順番に、説明していく。

私は教えるのが本当に下手だと、研究室にいた頃言われた。自分が覚えるのは早いのに、後輩に教えると、大体怪訝そうな顔をされるのだ。

アイムはそれでも、根気よく話を聞いてくれる。

それだけでも、私には嬉しかった。

一通り引っ越しの作業を終えると、一日が終わってしまう。

もう、無理をする事も無いだろう。

コンテナから出て、片付けを終えると、既にアイムが晩ご飯を準備し始めていた。これも、今後は少しは手伝うべきだろう。

ホープは、もう餌を貰って、ムシャムシャとえさ箱に顔を突っ込んでいる。

私も、同じように、食事にするとしよう。

家に入り、キッチンに。

驚いたように、アイムが此方を見た。

「ドクター?」

「私も手伝う。 何か、出来る事はあるか?」

「そうですねえ。 料理はちょっと無理ですので、その辺のお片付けをお願いしてもいいですか?」

見ると、辺りには段ボールの山。

今度は、アイムが不可侵だった、家事に私を招き入れてくれた。

だから今度は、私も頑張らなければならないだろう。

「どうすれば良いか、順番に説明してくれ」

「はいはい」

呆れながらも、アイムは丁寧に説明をしてくれる。

やっぱり此奴が側にいてくれて良かった。

私は、そう思った。

 

(終)