喰人鬼

 

序、冥府の扉

 

闇は何処にでもある。山にある。屋根裏にある。洞窟の中にある。ビルの間にもあるし、アスファルトの下に埋まった排水管の中にもある。大都会にもあるし、地方都市にもある。ましてや、世界でも有数の大都市、東京ともなればなおさらだ。

裏路地の薄暗い影に、膝を抱えて蹲る影一つ。浮浪者ではない。黒づくめの着衣は随分しっかり手入れされているし、瞳には力がある。問題は、その瞳が、障気というか邪気というか、そういったものの最上位に達する闇を湛えていることであった。事実、誰も蹲る影には近づこうとしない。気付かないし、気付いても本能が近寄らせないのである。時々運が悪い霊感の鋭い人間が通りかかると、悲鳴を上げて逃げ散ってしまう。

蹲るものの名前は、佐伯望実。若くして冥府の扉を開いてしまった存在である。

佐伯望実が冥府の扉を開いてしまったのはいつだったのだろうか。人の道を踏み外すきっかけとなったのは何だったのだろうか。

はっきりしている。柊坂高校での一連の事件が原因だ。16歳だった望実は、その時に人を殺した。その行動について、望実は一切後悔していない。法的な償いはしたし、何より殺さなければ殺されていたからだ。その上、他に方法がなかった。誰も望実を救うことなど出来なかった。話し合いによる解決など不可能だった。望実が暴力を振るって相手を殺すか、望実が面白半分に殺戮されてニュースにもならずにもみ消されるか、どちらかの違いでしかなかったのだ。

望実が顔を上げた。獲物の存在を捉えたのだ。最初は聴覚で。続いて嗅覚でも。

晩ご飯にしようかな。そう思った望実は腰を上げる。大都会の闇はあくまで深く、そしてもの悲しい冷たさを湛え続けていた。

 

1,出会い

 

柊坂高校と言えば、ザカ高と近辺で言われる曰く付きの場所である。生徒数約四百五十。私立の女子校なのだが、まともでない部分があるのだ。何処の学校にもまともでない部分というのは少なからずあるものだが、此処のは少し意味が違っていた。常軌を逸した隠蔽体質なのである。

例えば制服。今時何処の高校でも、HP等で制服のデザインくらいは公開するものだが、ザカ校ではそれすらしていない。学校の見取り図も外部公開していないし、職員名簿も然り。遅刻は命取りである。理由は簡単で、チャイムと同時に校門が冗談抜きに閉ざされてしまうのである。そんなことを本当にする高校などは、今時此処くらいしかない。生徒達の間でも、異常な隠蔽体質は常に話題の中心に登っている。下手に外部に情報を漏らすと、本当に退学にされる高校なのである。事実授業のスケジュールを漏らしただけで退学になった生徒がおり、異様な隠蔽の数々は彼らの好奇心を擽るには充分だった。マニアの間では、ザカ校の関連物資は高値で取り引きされており、ネットオークションで生徒手帳に二十万の値がついたことすらある。

そして、その隠蔽体質は、光と闇を産んだ。生徒達は高度なプライバシーの保護を約束され、外部の情報に惑わされることが少なくなった。同時に蠢き廻るものもあった。外部から生徒達を隠す隠蔽体質というベールは、醜悪なあるモノを産んだのである。

それは、半ば公認された虐めであった。

 

顔を恐怖でくしゃくしゃに歪めた女子生徒が、美術室に飛び込んだ。必死になって扉を閉めると、器具をしまい込んでいる棚の一つに這い込む。呼吸は乱れ、涙はこぼれ、震えは止まらない。スカーフに一本の青い筋が入っていることから、彼女が二年生だと言うことは明らかだ。セミロングの髪は乱れていて、頭を抱えてどうにか心を落ち着けようとするが、どうしようもない。

彼女の名前は佐伯望実。ザカ校の二年生で、十六歳である。もうすぐ十七歳になる。特に秀麗とも言えない地味な顔立ちで、成績も運動神経も並以下。闇の中でぎゅっと身を縮める哀れで弱い生き物は、凶暴なクリーチャーの攻撃に、身を潜める以外の術を知らなかった。

甲高い足音が近づいてくる。数は三つ。あいつらだ。わざと聞こえるようにやっているのは間違いない。楽しんでいるのだ。望実が発する恐怖と痛みを。それが証拠に、くすくすと笑い声さえ聞こえてくる。望実はその身で思い知らされている。人間が一番楽しそうに笑うのは、弱者を痛めつけているときなのだと。人間が一番喜びを覚えるのは、抵抗できない弱者に、思うままに暴力を振るうことなのだと。

「のーぞーみー。 どこいったのー? ほら、何もしないからでてきなよ」

おぞましい猫なで声は、三人組のリーダー格である市川柚香があげたものだ。それを聞くだけで望実は鳥肌が立つ感触を覚えていた。柚香の声と同時に、壁を叩く音がし始める。最初は軽く叩いているようであったが、すぐにそれは変わった。突然激しい蹴りを、壁に誰かが加えたのは間違いなかった。激しく壁を蹴りつける音が、隠れ混んでいる棚の中にまでびりびり響いてくる。恐怖で涙が止まらない。

「イライラさせるんじゃネエよこのアマぁ! ぶちころされてえかああっ!」

壁が壊れるのではないかと思えるほど、激しい音が響き続けた。やがて見計らったかのように美術室の扉が開く。薄暗い美術室に、三人が入り込んでくる。

もうダメだ。望実は思った。外で騒いでいたと言うことは、あいつらは望実が此処に隠れたのだと気付いているのだ。引っ張り出される。そうしたらもうお終いだ。望実は聞いてしまったのだから。殺される。間違いなく殺される。

なぜなら、あいつらはもう既に、一人殺しているんだから。

足音が近づいてきた。美術部の中をあいつらは探し回っているのだ。時々足音が止まるのは、影を覗き込んだりしているのだろう。その度に心臓が止まる思いを望実は味わっていた。いつあの残酷な三対の目が自分を見つけるのか。三対の残虐な手が、自分を引っ張り出すのか。いつものように暴力を振るい、嘲笑を加えて、滅茶苦茶に痛めつけて。

暗闇の中にいた望実は、光を感じた。棚の反対側を開けられたのだと気付いて、慌てて腕を噛む。悲鳴を上げるのを防ぐには、それしか方法がなかったからだ。あいつらの男友達にレイプされかけたときや、覚醒剤を注射されかかったときも怖かったが、どんなに酷い目にあっても、恐怖に慣れることはなかった。しばらくごそごそしている気配があったが、やがて光が乱雑に戸を閉める音と共に消える。気付かなかったのだ。だがすぐに、さっきよりより近くで光が入り込んでくる。長細い棚を、あいつらが順番に開けてみているのは間違いない。

楽しそうな笑い声がすぐ近くでした。闇の中に蹲っている望実が、どんな風な格好で震えているのか、想像しているのだろう。悔しいと思う前に、引きずり出されたときの恐怖が先立って、何も考えることが出来なかった。

「ちょろちょろ隠れやがって、うぜえなあいつ。 さっさとでてきたら、許してやろうかとおもってたのによぉ! ねえ、柚香。 引っ張り出したら、骨折っていい? てかめんたま抉ってもいーい? 一度やってみたかったんだけどさあ」

「あんたさあ、いつもいってるじゃん。 外から見える所は加減しなよ。 目に付くようにやると後がうざいんだからさあ」

「ギャハハハハハハハハハハ、あんた、マジ外道」

さっき蹴りを加えていた奴の声がする。いつも率先して暴力を振るう奴だ。伊集院郁美という。三人組の中では一番小柄だが、暴力が何よりも大好きで、望実の悲鳴を聞くと本当に嬉しそうに嬌声を上げる。

ガンッと暴力的な音が、望実のすぐ脇からした。すぐ側の戸を、開ければ望実が見えてしまう戸を、郁美が蹴りつけたのは間違いなかった。蹴りは一度ではすまなかった。二度、三度、四度。ジャンキーか何かのように、郁美は蹴り続けた。

「うぜえ、うぜえ、うぜええっ!」

蹴りのたびに、戸が大きく凹む気配がした。思うままに暴力を振るう前に、あいつらは食材に調味料を振りかけているのだ。人権なんて概念は勿論無い。

望実は、あいつらの玩具だ。

もうダメだ。すぐに引っ張り出されて、二目と見られないほど酷い目に遭わされて殺される。

完全に諦めてしまうと、不思議と頭が静かになってきた。死んだ後はどうなるのだろうか。地獄とか天国とかそういうのに行くのか。どうせ愚図な自分のことだから、何処へ行ってもこづき回されるのだろうなと、望実は思った。弱者としての人生だったし、これからもそれが続くことは間違いないのだ。いっそのこと、この場で舌でも噛んで死ぬか。あいつらに面白半分に殺されるくらいなら、その方がまだましだ。

郁美は半分笑いながらまだ激しく戸を蹴りつけている。つまり、だ。此処に望実が隠れていることを知っているのだ。消去法か、何か痕跡を残してしまったのかは分からない。分かっているのは、あいつらの暴力をどうにかする方法が何もないと言うことだけだ。恐怖が薄れてくる。いつのまにか、涙も止まっていた。確実に突きつけられた死を前にして、感覚が麻痺してしまったのを、何処か冷静に望実は感じ取っていた。

その時だった。異音が望実の背後からしたのは。

ずるり。ぬちゃり。

相変わらず激しい蹴りの音にまぎれて、だが確実にそれは望実の聴覚に侵入してきた。同時になま暖かい何かが、腿に、腕に、体に、首に、後ろから絡みついてきた。振り払おうにも動けなかった。腰が抜けてしまっていたし、動いたらお終いだと、嫌に静まりかえっている理性が警告していたからだ。絡みついてきているものは太さ十センチほど。蛇やホース何かよりもずっと太い。それは人肌ほどの温かさで、全体にぬめりを帯びていて、それぞれが意志を持っているように後ろから望実へ絡みついてきた。生温かい息を首筋に感じた。声が何処からかする。いや、音源は分かっている。背中にあるのは棚の壁で、更にその後ろは教室のコンクリ壁だっていうのに、後ろからする。

「静かにしていろ。 教師が近づいている」

絡みついてきている何か良く分からない管みたいなものも、望実をどうこうしようと言う気配はなく、不思議と望実は安心感を覚えていた。凶暴な悪意を向けてくるあいつらとも違うし、積極的もしくは消極的に無視するクラスメイトとも違う。

やがて、声の言葉は本当になった。美術の教師が部屋に入ってきたらしい。教師は頼りにならないが、流石にその目の前で積極的に破壊活動をするわけにもいかない。渋々という感じで蹴るのを辞めた郁美。此処が小学校だったら、かくれんぼをしているとでもいって教師の目の前で望実を引きずり出す手もあったのだろうが(三人組の中だと、福島尚子あたりが使いそうな手だ)、此処は生憎高校だ。教師に帰れと言われて、三人組は渋々教室を後にした。

教師も間もなく部屋を後にする。勿論扉にはカギを掛けて。それに関しては問題ない。内側からなら、窓を開けるなり脱出方法は幾らでもある。間近に迫っていた死を脱したと思った瞬間、望実は全身の緊張が解け、意識が遠のくのを感じていた。

「おい、しっかりしろ」

体に絡みついていた管みたいなものが離れていく。周囲にいた人間達の気配が消えて、やっと望実は声を出すことが出来た。

「だれ……なの?」

「……返答は後だ。 それよりも、まずはこの狭い棚からでろ」

「うん……」

どうしてか許の声は怖くない。言われるまま蹴りで歪んだ扉を苦労しながら開けると、美術室は真っ暗だった。電気を点けようとしたが、まだ止めた方がいいことに思い当たる。腰は抜けてしまっているし、教室の隅に背中を預けると、やっと深呼吸できる。絵の具の匂いがする美術室の空気でも、今は何より有り難かった。

教室は薄暗く、何がいるのか分からない。だけど、人間がいない空間は、望実にはむしろ心地よかった。闇は望実の味方だった。人間と違って。拒絶せず、否定もせず、ただあることを受け入れてくれた。人間と違って。沈黙と闇こそ、望実の友達だった。人間と違って。

虚空から声が響き続ける。

「ハンカチを持ってはいないのか? 顔を拭け。 酷い有様だぞ」

「……うん」

だから、人間の言葉を発する、何か得体の知れないそれにも、それほど恐怖を感じない。自分で洗濯したハンカチで目鼻を拭うと、それは見る間にぐしゃぐしゃになった。テッシュを出して鼻をかんで、ようやく一息ついた望実は、腰を浮かそうとして出来ずに、更に笑おうとして失敗した。そうしたくとも、もう出来ないのだ。ここ数ヶ月で失ったものは多い。その一つが、笑顔だった。

「……表情と感情が乖離しているな」

「ん……うん。 あなたは誰?」

「私はトビ。 いわゆる喰人鬼だ。 何十年か前から、この学校の美術室にすんでいる」

美術室の闇に潜んだままのそいつは、さらりと言ってくれる。望実も全然感じる所が無くて、そのまま小首を傾げた。

「……? どうして私を食べなかったの?」

「食べる相手は選んでいる。 ……というよりも、条件が満たされないと食べることが出来ない。 お前はその条件に満ちなかった、それだけだ。 そしてその条件はマイナスの要素が極めて強い。 ……気にする必要はない」

他の存在と話したのも、随分久しぶりだった。少しずつ、沈み込んでいた心に、光明が差し込み始めていた。

「何があったのか、話して見ろ。 関わった縁だ。 場合によっては、力になってやらんこともない」

「うん……うん、そうだね」

光明が差し込むと、どうしても弛むものも多い。さっきとは別の意味で、涙が零れ始めていた。一度決壊すると、涙腺は脆かった。涙が後から後からあふれ出してきた。

トビは望実が落ち着くまで、ずっと待っていてくれた。こんなに優しくして貰ったのは、物心付いてから、初めてのことだった。

 

2,決意

 

望実は現在高校二年生。地味な容姿と目立たぬ背格好、低空飛行な成績と運動神経、さらに控え目な性格と、何拍子も揃った「駄目な子」であった。ただし、控え目な性格も手伝って、小学校時代、高校時代は陰に隠れるようにして虐めを避け、どうにか生き抜いてきた。

強い人間には、環境に恵まれた人間には理解出来ないであろう。こういった弱い人間は、兎に角生き抜くことだけで精一杯なのである。強くなればいいなどと言うのは非現実的な寝言に過ぎない。強くなれる人間など、本当に一握りに過ぎないのだ。強くなれる人間がそうならないのは一種の罪悪だが、どうあがいても強くなれない人間を悪として認識するのは間違っている。しかしその間違いが、世間では堂々と正義としてまかり通っているのである。

恵まれていなかったのは自身の能力だけではない。家庭環境も劣悪であった。望実の母はかなりの美人だったが、中学時代に援助交際の味を占めてからどんどんアンダーグラウンドの道へ進み、深みへはまりこんでいった。薬物はあらかた試したし、平然と水商売でバイトし、真面目な人生を足蹴にして生き続けた。しかも下手に要領が良く、売れっ子だというのが災いした。やがて加齢し水商売では客が付かなくなり、アダルトビデオでも仕事が無くなってきたとき、彼女に残っているものは何もなかったのである。元々派手な金遣いが災いして、貯金などありようはずもない。

幸いにも(というべきか)三十も年上の金持ちを捕まえて入籍、そして望実が生まれた。母が望実に優しい表情を見せてくれたことなど一度もなく、というか母親らしいことをしてくれたことさえ、少なくとも物心付いてからは一度もない。庇護者である父が死んでからも母は傍若無人の行いを続けていたが、ある日突然廃人になった。細かい経緯は良く分からない。ただ、望実が知っているのは、母がもう自分は美しくなど無いと言うことに、今更ながら気付いてしまったという事であった。

それから母は自動人形とかした。もともと父の一族からは勘当同然の扱いを受け、ほとんど相手にされていない人間である。東京の一角に小さな家を与えられた彼女は、毎朝同じ時間に同じ金額を持ってパチンコへ行き、毎晩深夜に帰ってくるようになった。生活費は何にも問題がない。そして望実と母は会話さえせず、そればかりか顔さえ合わせない生活が始まったのである。それまでも決して良好だとはいえない環境であったが、それがとどめを刺したと言っても良かった。

母の廃人化は望実にも影響を少なからず与えた。だが、現在の命の危険をストレートに感じる虐めが始まったのは、それだけが要因ではない。一番の要因は、望実が一年生の時に発生した、生徒の自殺であった。公式にはストレス性の自殺だと片づけられているそれが、ストレスなどによるものではないことを、望実は良く知っていた。

「自殺なんかじゃない。 あれは虐め殺されたんだ」

膝を抱えて、望実は言う。別にこれは妄想でも決めつけでも思いこみでもない。冷酷な現実であった。何しろ、同じクラスの生徒であったし、更にはとなりの席の生徒だったからだ。

自殺した生徒は雪野純という名前だった。親友だったわけでもないが、別に嫌いでもなく、時々弁当を一緒に食べたりもするくらいには仲が良かった。普通に可愛らしい子であったのだが、からかわれると反論するという癖があり、それが悲劇を招いた。

最初に純を虐めることを提案したのは、恐らく三人組の尚子だろう。進学校であるザカ校のストレスを、虐めで解決しようと言うのは、別に変わった発想ではない。虐めを行う人間のうち、かなり多くが動機とする身勝手な発想だ。

最初はあまり酷い虐めではなかったように、望実にも思える。だが感受性の強い純はちょっとした嫌がらせにも深く傷ついた。そして労力安く悲しみや恐怖を引き出せると知った三人組の行為は、短期間でどんどんエスカレートしていった。最後の方では、授業中にすら堂々と虐めが行われ、しかも教師は見て見ぬふりをするという有様であった。

「それは惨いな……」

「酷いよね。 目の前で虐めが行われているのに、だれも助けなかったんだから。 わたしも……ね」

それなりに行動力がある純は周囲に訴え出た。勿論望実も助けを求められた。だが、元々暴力的で周囲に怖れられている郁美と、大人しそうななりをしているのに悪知恵だけは幾らでも働く尚子が一緒にいて、しかもリーダーの柚香が二人を制御していては、誰も抵抗できる人間はいなかった。勿論無力な望実にも何かできるわけが無く、話を聞いてあげるくらいが関の山だった。教師達は責任を怖れて口をつぐみ、更に望実は何度もおぞましい陰口をきいていた。

曰く、弱い方が悪い。

曰く、虐めを受けるような奴が悪い。

クラスの人間は、自分が虐めのターゲットになることを怖れていただけではない。身勝手な理由をつけて、自分も虐めを積極的に楽しんでいたのである。むしろ三人組に感謝していた節すらある。スケープゴートを用意して、悪意と敵意の発散先を用意してくれたのだから。望実の見る所、一部のクラスメイト達は三人組をむしろヒーロー視していた節さえあった。

基本的に、平均的な人間は弱いモノ虐めが大好きなのだ。罪悪感等という代物は、人間だと認識している相手にしか発生しないのだ。望実はその冷厳な現実を徹底的に体へ叩き込まれたのである。

こうしてクラスは純にとって地獄と化した。皮肉なのは、それが相対的多数の生徒にとっては天国であったことだ。行為にペナルティが発生しないと知った三人組は一線を踏み越えた。街に連れ出され、郁美や柚香の男友達複数から激しいレイプを受けた翌日、純は首をくくった。

学校は虐めの事実を隠蔽し、マスコミはそれを鵜呑みにした。地元の名士である柚香の一族市川家(もっとも、柚香は分家の人間だそうだが)が圧力を掛けたという話もある。更に純の両親が、望実の両親同様、あまり褒められた人間ではなく、逮捕歴もあることが更に事態の悪化を深めた。もともと娘と不仲だった純の両親は裁判すら起こさず、自殺はストレス性のものとして断定された。警察も逮捕歴がある純の両親の言葉を信用せず、事件は闇へと葬り去られた。そして三人組が次に目を付けたのが、望実だったのである。

連中は学習していた。或いは尚子辺りの智恵かも知れない。警察がまともに取り合わない相手の娘を痛めつけることが、如何に刺激的な遊びになるかを。それに、望実はクラスの中で無視されている純と唯一まともに話をしていた。それが連中の勘に障ったらしい。力を振るって思い通りにならないと言うのは、相手の全てを否定する「正統な理由」になるのだろう。

こうして望実は、純の喪も開けない内から、激しい虐めに晒されることになった。二月としないうちに、笑顔は消えた。浮かべようにも浮かべることが出来なくなった。言葉も減った。今では声を出すこと自体が苦痛になってきていた。

「それで、追いかけられていた訳か。 しかし、望実は相手の行為にストレートな殺意を確信していたようだが……」

「……聞いちゃったんだ。 あいつら、私の母さんがお金を持っていること、昼間は家を留守にしていること、頭がちょっとおかしくなっちゃってることを知ってた。 それで、私を自殺させて、生命保険を自分たちで受け取れないかって話をしてたんだ」

放課後の教室。三人組を避けて出来るだけ教室から離れるようにしていた望実は、連中がもう帰ったかと思って教室に戻り、そして聞いてしまったのである。

「ギャハハハハハ、それサイコー!」

郁美は大笑いしていた。

「どうせあんなクズ死んだって誰も悲しまないしー。 あんな婆が金持ってたって何の役にも立たないしさあー」

柚香はそう言ってくすくす笑った。

「だめだよ、二人ともそんなコトしたら可哀想じゃない」

尚子はそう言って、窘めるように二人を見ていたが、望実の位置からは見えた。口の端をつり上げて、誰よりも状況を楽しんでいることを。

そして気付かれた。必死に逃げた。連中は鬼のような形相で追いかけてきた。此処に逃げ込めたのも……恐らく連中が、「追うこと」を楽しんでいた結果だろう。

「なるほど、な。 教師は頼りにならない、親は問題外。 更には閉鎖的で情報が漏れにくく、モラルも低い。 このような状況になるのも致し方がないことではあるか。 だが、それでも諦めるのは早い。 児童相談所や、警察にダメもとで聞いてみたか? 週刊誌なんかに匿名でたれ込みをしてみる手もある」

「児童相談所はダメ。 全部説明したのに、母さんの経歴調べて、貴方の方により問題があるのではないですか、だって。 週刊誌は頭から相手にしてくれなかった。 警察も同じ。 それに……」

「それに?」

「それにね……警察には、あいつらの同類だと思われててね。 話なんて聞いてもらえないよ」

一月ほど前のことだ。三人組に引きずられるようにして街へ連れて行かれた望実は、純の自殺に関わっている男友達も含む数人に取り押さえられ、覚醒剤を注射されそうになったのである。狂犬のような目をした連中だった。必死に暴れて抵抗したが腹や顔を容赦なく蹴られ、ぐったりした所にやっと警察が来た。連中は逃げ去ったが、望実が覚醒剤を所持していたという嫌疑を掛けられ、それ以来まともに話を聞いて貰えない。或いはそれすら連中の策略であったのかも知れない。乱暴に注射器を突き刺された傷が、まだ腕には残っている。

再び涙がこぼれてきた。どんな世界でも、どんな時代でも、弱者に冷酷なのが人類社会だ。トビは再び、望実が泣きやむのを待ってくれていた。

「一度家に戻ろう。 私も其方へ付いていく。 全てはそれからだな」

「……うん。 ありがとう」

何もない闇の中から、先端が丸まった管みたいなものが伸びてきた。それに掴まって立ち上がった望実は、少しだけすっきりしていた。今まで周囲にいた者達は、事情を知っていて積極的消極的に無視しているか、話をそもそも聞こうともしないか、聞いた所で信用しないか利用することしか考えない奴らばかりだったからである。

皮肉な話だった。初めて望実の話をきちんと聞いてくれた相手が、姿も素性も良く分からない、喰人鬼と名乗る相手だったのだから。

 

壁の下部についている、風取り用の小窓から這うようにして美術室からでると、廊下はもう真っ暗だった。周囲に他の人間はいない。遠くで水滴が落ちる音がして、びくりと望実は首をすくませていた。

さっきまでの美術室は、まるで堅牢な要塞のようであった。だが一旦外にでると、周囲全てが敵に思えてくる。全てが害意を持っているように思えてくる。姿も見えないトビは、押し殺すように低い声で言った。

「急げ。 もたもたしていると、却って良くないだろう」

「うん」

窓からこわごわ外を覗く。校門や裏門で連中が待ち伏せしている様子はない。時折部活中らしい生徒とすれ違うが、皆敵意を持っているように見えた。望実を見たことを、三人組に通報する者も少なからずいるだろう。

靴は暫く前から隠すようにしている。ここ三ヶ月で二足の靴をズタズタにされたからだ。茂みに隠してある靴をひっくり返すと何だか良く分からないムシがでてきたが、気にしないですぐに履く。もう慣れた。ムシを怖いと思ったことは昔から一度もない。一番怖いのは今も昔も人間だ。

家までは一キロほど。小走りでさっさと帰る。この辺りの土地勘があるのが幸い、帰る途中に三人組に掴まったことはない。

幼い頃は、もっとずっと活動的だった気がする。この辺りはあらかた遊び尽くしたし、何処に何があるか良く知っている。近くの山にある廃防空壕を見つけたのも、確か幼稚園の時だ。

空は星が瞬いている。星達まで自分を嘲笑しているような気がする。

望実は敏感に世の中の悪意を感じている人間だ。事件があると犯人が必ずさらし者にされ、関係ないその他の人間が血が繋がっていると言うだけで糾弾され、公認された暴力に陵辱される。要はどいつもこいつも弱い者虐めがしたいだけなのだ。マスコミもそれを煽っているに過ぎない。発行部数のためなら、人間の一番後ろ暗い欲望に身を任せる連中。それでいながら叫ぶのは情報の公開やら報道の自由やら。馬鹿馬鹿しくて涙も出ない。小学生でも知っていることだ。弱い側の人間である望実だからこそ、よりそれに怒りを強く覚える。

漸く玄関に付いた。肌を違和感が撫でる。家の中に人の気配はない。でも、おかしい。生唾を飲み込んで、玄関へ歩む。そして気付く。鍵を隠してある、植木がずれていた。心臓が激しくうち鳴らされた。意味は嫌と言うほど分かった。

植木鉢が倒れて転がるほど乱暴に押しのけて、鍵をひったくる。慌てて鍵穴に差し込んだからか、なかなか入らない。呼吸が乱れて、ぜいぜいと耳障りだ。息を止めてしまいたいと本気で思いながら、穴へ突っ込むことにどうにか成功した鍵を回す。がちゃんと白々しい音を立てて戸が開くと、まるで、映画にでてくる巨大な人食いミミズの口の中のように、闇にまみれた自宅が姿を露出させる。

震える指で玄関の電気を点ける。荒れ放題なのはいつものことだ。母は何年か前に掃除する意欲も能力も失っていて、幾ら綺麗にしても夜中に汚してしまうのだ。虐めで望実が疲れ果てるようになってからは、もう掃除する余裕もなくなってしまった。今日も、いつものように荒れていた。だが、荒れ方が微妙に違う。ずっとこの家で暮らしていた望実は、それを敏感に察知していた。

まさぐるようにして居間の電源を探す。探すのが嫌に難しかった。スイッチを押すと、真っ暗だった居間に光が灯る。机の上には乾涸らびかけたコンビニ弁当。床は一面ゴミの山。望実が探しているのはそんなものではない。判子と金庫だ。金庫は見てみたが、ダイヤルを回した形跡こそあったが無事。だが、へたり込んでしまうに充分な事例はあった。ボールペンと、本棚の奥に隠しこんである判子は、動かした形跡があったのだ。

あいつらは本気だ。それが今この瞬間、はっきり分かった。僅かな希望はうち砕かれた。ゴミの山の中、灯りが揺れている。望実を嘲笑するように、左右にゆっくりと。

「……ころ……される」

「落ち着け。 まずは状況を確認しよう。 本当にあいつらが望実を殺そうとしているかどうかは、まだ判断するには早計だ」

「……」

「大丈夫だ。 今の望実は一人ではない。 私が側にいる」

もう一生分泣いたと思ったのに。望実はまた、涙がこぼれるのを感じていた。涙を拭いて立ち上がり、一旦部屋に戻って休むべく階段を登る。途中で足が止まったのは、物凄く嫌な予感がしたからである。

自室なのに。自室だというのに。

何か、途轍もなく不吉な予感がする。入らない方がいいような気がする。妙な感触を覚えて、手を見ると、壁に大きな亀裂が入っていた。壁紙がめくれて、壁材が露出してしまっている。侵入した奴が、乱暴に蹴りを入れたか殴りつけたか。怒りより先に悲しみが沸き上がってくる。

引き返した方がいいのではないのか。そんな風に心が揺れる。何故かは分からない。部屋を空けた途端に、あいつらが出てきて、殴り殺されるとでも言うのか。いや、この家にもうあいつらはいない。いないと思いたい。

階段を登りきる。奥が母の部屋。左手が望実の部屋だ。ドアにはカギを掛けていない。ノブに触れたとき、もう一度嫌な予感を覚えた。電気に触れたように、自然に手が引っ込んだ。

ドアノブに触れる。熱くも痛くもない。痛くない。でも。

怖い。何かある。運命を変える何かがある。開けない方がいい。開けない方がいい。ああ、止めた方がいい。開けては行けない。すぐにここを離れた方がいい。

ひっきりなしに浮かんでくる妙な妄想を、頭を振って追い払う。その隙に制服の裾から、大きな青あざが外気に触れた。郁美に蹴りつけられた後だ。何日も前に付けられたそれが、今、何故か痛んだ。鼓動が早くなる。ひねりきったノブを引く。

望実は理解した。何故、開けたくなかったかを。

星明かりに照らされて、それはぶら下がっていた。おいでおいでと手招きしていた。知らないうちに後ろへ転んでいた。壁に懐いてずり落ちていた。せり上がってくる。せり上がってくる。せり上がってくる。

輪になりつり下がった絞首用のロープを見て、喉から悲鳴がせり上がって来て。弾けた。

あああああああああああああ! あああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!

純粋なる殺意。殺意の物質化。物質化した悪意。悪意の顕現。顕現した純粋。ループし続ける悪魔の言葉。

絞首用のロープは梁にかけられていて、其処には紙が貼られていた。星明かりでも、廊下の灯りと合わせて見える。こう書いてある。

死ね

頭を抱えて、望実は吠えた。涙を流して、望実は叫んだ。そうすることで、忘れ去れるわけもないのに。眼前に迫った、悪意と死を。逃れられるわけもないのに。嘲笑に満ちた暴虐と処刑から。

無数の管がはい回り、望実に後ろから絡みついた。人肌のそれは望実の体を求めるのではなく、ただ慰めるように、優しく絡みついた。それに甘えるようにして、望実はただ泣いた。

警察に見せても無駄だ。自作自演と言うに決まっている。三人組はマスコミを味方にする方法だって知っているだろう。簡単だ。母の経歴や、望実の「犯罪歴」を流せばいいのである。もしあいつらが警察に掴まっても、それだけで大幅に減刑されて、あっというまに牢屋から出てくることは確実。そして必ず殺しに来る……!

殺される、殺される、殺される。保険をほんとに取れるかどうか何て関係ない。あいつらは面白半分に望実を殺す。殺す、殺す。殺す。絶対に殺す。

「殺されても良いのか?」

頭を振る。必死に振る。こぼれる涙が散る。

何もしてない。だって何もしてない。何も知らない。みんな知ってることを何一つ知らない。いつも隅に追いやられて、いつも迫害され続けて。そんなので死にたくない。殺されたくない。望実は必死に訴える。いつも訴え続けてきた。だが弱者だから、訴えは届かない。世間は望実を痛めつけ続けてきた。面白半分に。そして今、面白半分に殺そうとしている……!

「ならば殺すしかない」

静かな声だった。それは天啓だった。

「私が手助けしてやる。 私を知覚した望実以外の相手に物理干渉できないが、知恵を授けることは出来る。 生きろ、望実。 お前はあんな連中に此処までされて、黙っているつもりなのか? 自身の誇りをかけて戦え。 私が背中を守ってやる」

「……どうして?」

「理由は腹が減ったからだ。 決まっているだろう。 あの三匹は、私が食べるのに適する条件を満たしそうだからな。 ……手伝いの報酬は、ぶっ殺した後のあいつらの調理、それでいい」

やっぱりこの存在は喰人鬼なのだと、望実は改めて実感する。でも、もうそれでいい。

人間が誰一人望実の味方をしないのなら。望実の訴えを聞かないのなら。鬼と手を結んででも、生き残るだけの事。弱いと言うことが人間社会で悪となると言うのなら。いっそのこと、人間そのものをやめてやる。

望実の心が燃え上がる。生まれて初めて、執念という炎が燃え上がる。

殺されてたまるか。死んでたまるか。絶対に、生き延びてやる。

唇を噛む。鉄の味が口の中に広がる。絡みついていた管がするするとほどけていく。涙をぬぐい、立ち上がった望実の目には、炎が宿っていた。

「私、戦う。 殺されてたまるか!」

「よし、いい返事だ。 まずはリュックに最低限の着替え、生活用品に電話帳。 もし連中と中学が一緒だったのなら卒業アルバム。 ある程度の現金。 後は、隠れるのに適当な場所はあるか?」

「分かった、すぐに準備する。 場所もある」

「そうか、上々だ。 準備したら此処を離れるぞ。 もう此処は安全とは言えない。 あの連中は、明日にでもまた、此処を見に来るだろうからな」

「うん!」

力強く頷くと、望実は立ち上がり、自室のドアを叩き付けるように閉めた。もう此処へは戻ってこない。強い決意が、望実の中で荒れ狂い、殺意の剣として、一つの形を為していた。

 

2,宴の前夜

 

柊坂高校があるK市は首都圏の隅にあり、無秩序な都市化が自然を食い荒らす、人の業が目に見えて分かる地域である。昔は工業地帯として栄えたこともあるのだが、戦争の頃にはすっかり廃れ、工場跡地は野原や雑木林、それに住宅地に変わっている。ただし、戦争前後には、東京に近いこともあるし、空襲の怖れありと地域の者達が判断していた節がある。

その証拠の一つが、幼稚園だった頃に望実が見つけた「秘密基地」。廃防空壕であった。単に処理を忘れたらしい代物で、望実が見つけたときには無傷で残っていた。

防空壕と言うだけあり、そう目立つものではない。山の斜面に分かりにくいように入り口が作られていて、しかも発見時それは土に埋まっていた。子供のグループに入らず、野山をかけずり回って一人遊んでいた(そのわりに、運動神経は育たなかったので、天性の素質に欠けていたのであろう)望実が、適当にシャベルで辺りを掘り返していて、たまたま見つけたものであった。

入り口は木製だが、要所に鉄が埋め込んであって重い。ただし、鍵はないので、普段はくすねてきた移動式のブロック芝生で偽装している。最近は殆ど弄っていなかったので少し不安だったが、多少埃っぽくなっているだけで大丈夫であった。

天井はかなり高めに作られていて、歩いてもつっかえ無いどころか、望実の身長では跳ねても手が着かない。ランプが天井からつるされていて、これは望実のお気に入りである。中学生の頃油を入れ替えてみたら充分に使い物になった、実用性もかねている。奥行き、幅、ともに七メートルほど。かなり広い立派な代物だ。望実が発見したときには、隅には排泄用の溝も深めに掘ってあった。設備は整っているので、その気になれば、お金さえあれば此処で生活できる。……糞尿の匂いはどうにもならないが。

此処の場所は誰にも教えていない。しかも道が入り組んでいて、地元の人間でも来るのは難しい。絶対に大丈夫だという自信がある。

一通りの荷物をリュックに詰め込み、望実が此処に逃げ込んだときには、もう深夜だった。そろそろ家には母が帰ってくる頃だが、家に起きた異変には気付きもしないだろう。防空壕の戸を閉めてランプの灯りを付けると、どうしてかとても安心した。薄暗くて静かで、凄く心が落ち着く。やはり望実は闇の子だ。

「トビ、それで、どうすればいいの?」

「まず、連中を一人ずつ殺す。 しかし殺す以上、逃げ切ることは難しいだろうな。 此処はかなり理想的な場所だが、それでも三人が一度に失踪したら状況から言って疑われるのは望実、お前だ。 そこで……」

「ううん、良いよ別に。 全部終わったら捕まったって」

「差し違えてでもあいつらを殺すつもりか。 ……ふむ、それなら大分選択肢が増える」

トビが考え込み始める。望実はあいつらを殺した後、自首するつもりだ。生き残れればそれで良い。死刑になるかも知れないが、それはそれ。その時はその時。

絶対に死ぬより、何十倍もマシだ。

「まず武器だな。 暴力団や犯罪組織に知人はいるか?」

「いない」

「だろうな。 となると、拳銃は無理か。 手に入りやすいスタンガンやスプレーは護身用であっても殺戮用ではないからこの場合は望ましくない。 それなら刃物より打撃武器が良い。 刃物だと倒したときに血が多く出るから、処置がまずいと事件として認識されやすい。 打撃武器で昏倒させて、此処に運び込んでから処理する方が、三人を確実に殺れる。 ……近くに、ホームセンターはあるか?」

あると望実が応えると、明日買うべきものをトビが並べていった。まずは鋳鉄の水道管。水道管は最近塩化ビニル製が一般的だが、此処では鋳鉄を敢えて選ぶ。理由は強度と重量だ。長さは一メートルで、L字ベンドを付けて貰う。

「L字ベンド?」

「水道管を経路的に曲げる必要がある場合に、角に付ける接続用の短い管のことだ。 短く継ぎ手と言うこともある」

後は針金に接着剤。接着剤は瞬間タイプを十個。これにリヤカー。リヤカーは気絶させた相手を運搬するために用いる。下手に抱えて運ぶと、途中目を覚まされたときに厄介だと、トビは言う。

「あ、リヤカーならある。 近所に農家があるんだけど、廃棄したのがある。 穴が開いてるけど、問題ないよね。 ござも確か良いのがあるはずだよ」

「理解が早くて良いな。 ならば、夜のうちに確保しておこう。 後は双眼鏡かオペラグラス。 それにこの辺りの地図が欲しい」

「双眼鏡なら近所で売ってる。 地図も売ってる所知ってるよ。 襲う場所を決めるの?」

「そうだ。 それには、連中の帰宅経路の知識が必要だ。 それと、後はタイムスケジュールが欲しい。 それがある程度分かれば、手が幾らでも撃てるし、作戦も幾らでも考えられる。 それと、縛るためにガムテープがいるな。 梱包用のロープも念のために買っておくか。 後は練習用にスイカかメロン。 これは別に新品でなくても良い」

五分も歩けばコンビニが複数あるのが、今回の作戦の利点だ。まずはコンビニで接着剤を購入し、リヤカーとござを回収。その後、通りかかった八百屋のゴミ箱から、トビが言うとおり捨ててあったスイカを二玉回収。腐っていて亀裂から覗く果肉にはハエがたかっている。ころころと、底に穴が何カ所か空いたリヤカーを転がしながら、小走りで望実は急ぐ。途中、雑巾と、作業用に軍手も買った。後は食料を少々。日持ちする缶詰と、おにぎりを幾らか。

「化粧は出来るか?」

「うん。 どうして?」

「見るからに高校生だと思える者が朝からうろうろしていたら注意を引きやすい。 最悪補導される可能性もある。 少し見かけの年齢を引き上げておいた方がいいだろう。 明日の早朝に、ホームセンターでさっき示したものを揃えておこう」

「分かった。 後、鋸が欲しいな」

どうしたわけか、望実の頭は冴えに冴えていた。あいつらは、望実にとっては怪物と同じである。

殺したら首でも切り落とさないと、安心して次の仕事に取りかかれない。

「そうだな、買うなら複数買っておいた方がいいだろう。 ホームセンターを廻って、買う物は分散しておくべきだな。 一カ所では全部目的のものを買わない方がいいだろうな」

「うん。 ……」

「どうした」

「あの怖い男達が襲ってきたら……」

望実にとってもっとも怖いのは、あの柚香の「友人」の男達であった。明らかにカタギではない連中で、薬をやっているのを見たこともあるし、純以外にも何人も輪姦しているという話だ。当然場慣れの度が違うはずで、望実が出会ってしまったら勝てる見込みは薄い。

「そのために、連中と出くわさない方法で各個撃破する。 ……何、手は幾らでもある」

「大丈夫……だよね」

「全ては望実の努力次第だ」

確かにその通り。知恵を貸してくれるだけでも嬉しいのだ。事実望実一人であったら、どうにもならずにせいぜい防空壕で餓死するのが関の山だっただろう。気分を入れ替えて、望実は巣である防空壕へと急ぐ。生き残る確率を少しでも高くするために。

 

翌朝。九時四十分と同時に、望実は行動を開始した。最寄りのホームセンターが開店するのと同時に足を踏み入れるのに最適な時間である。

別に派手に着飾るわけではなく、黒地のカーディガンにジーンズという、見た目にもあまり目立たない服装である。二十歳前後に見えるようにごく自然に化粧して出かける。これは化粧ばかりしていた母を見て覚えてしまったスキルで、多分同年代の平均よりずっと巧みなはずだ。不思議な話である。それを言われるまで、望実は気付かなかった。それに、気付いた今でも、それに価値があるとは思っていない。その気になれば中の上くらいの容姿にも化けられるが、それにも望実は価値を見出していない。

ホームセンターへ。素早く品物の陳列を見て、必要なものを購入していく。水道管は塩ビばかりだったが、はじっこの方に鋳鉄製があった。手にしてみると、ぐっと重量がのしかかってくる。それに、どうやったらこれを曲げることが出来るのか、見当が付かないほどに硬い。暫く鋳鉄管を上から下から眺めているうちに、店員がやってきた。人なつっこそうな笑みを浮かべた太めのおじさんだ。店長だろう。

「お客様、何かお探しですか?」

「はい。 鋳鉄製の水道管って、これでよろしいですか?」

「ん、ああ、はい。 そうですよ。 今時鋳鉄ですか? 塩ビの方がおすすめですよ」

「すみません、父が鋳鉄を買ってこいって頑固でして。 私も塩ビが良いって、何度も説得しているんですけど」

そう望実が言うと、店長は大笑いした。望実も笑って返したい所だが、出来ないことはどうやったって出来ない。長さと径とL字ベンドの事を説明すると、店長は機嫌良さそうに管を引き抜いて、自ら手際よく加工してくれた。終始にこにこし通しなのは、何故なのだろうか。

さっきの台詞も、事前に練習して覚えてきたものだ。だからあまり話すとぼろが出る。加工しているおじさんの禿上がった後ろ頭をぼんやり眺めながら、この人はどんな人生を送っているのかなと思う。そう思った瞬間、望実は殺意に近い感情を感じていた。人生を送ることさえ許されなくなった弱者の前で、のうのうと笑っている人間がいる理不尽に、憤りが沸き上がってきたのである。煮えたぎる憎悪はのたうち回りながら脳を塗りつぶしていく。ふと視線が移ると、角材があった。手が伸びかける。あのオヤジの後頭部を、滅茶苦茶に殴りつけて、脳味噌を飛び出させて……。

弾かれたように、今自分がしようとしていた事に気付いた。ばつが悪くなった望実は俯く。困惑した様子で、店長が言う。

「あ、あの、お客様。 出来ましたよ」

「あ、はい。 ……」

「予備と言うこともあるし、継ぎ手を一つおまけしましょう。 また来てください」

本当に親切そうないい人だ。何度も頭を下げて、店を後にする。その後別のホームセンターにも寄って、残りの物資を購入。双眼鏡と地図を揃えた頃には、昼過ぎになっていた。

あのおじさんには、望実に対してなんの責任もないし罪もない。膝を抱えて、自分の中に沸き上がった破壊的な感情に傷ついていた望実に、トビは言った。

「とりあえず、上出来だ。 それに、よく我慢したな」

「うん……」

「その調子で、感情を制御していくんだ。 怒りはギリギリまで溜め込んでおけ。 ぶつけるのはあの三人だけで良い。 他の人間は眼中に入れるな」

その言葉で望実は実感する。トビは人殺しとしての意識訓練を自分に施そうとしていると。それは望実自身が願ったことだし、望んだことでもある。

頬を叩いて意識を戻す。地図を広げて、アルバムを見ながら連中の家に印を付ける。三人の家は意外と近い。そういえば、あの三人組は遊びに行く際、大体一度家に戻って着替えてからいうパターンが多い。これは自分の凶行にザカ校の隠蔽体質を利用していると言うことが大きいだろう。流石におおっぴらに制服で暴れるわけにはいかないということだ。

「詳しいな」

「無理矢理街に連れ出されるときなんか、この辺で郁美と待たされて、後の二人が着替えにいくの。 その後郁美が着替えに行くのとついでに、二人が私を家まで引きずってって、無理に着替えさせる。 それでまた此処で合流。 三回くらいあったから」

指を地図上で滑らせる。ぎゅっと唇を噛んだのは、それが酷い虐めに連れ出されると分かり切っているのに、逃げることも出来なかった、苦い思い出だからだ。一度はレイプされかけ、一度は覚醒剤を注射させられかけ、もう一度は気絶するまで殴られた。しかも翌日学校でも何故逃げたとか因縁を付けられた挙げ句、手ひどい暴力を加えられた。しかも、入院しない程度に加減してだ。

「辛かっただろう。 その苦しみ、十倍にして返してやろうな」

「うん……」

「後は、連中がただ普通に帰宅するときに、何処で別れるかだ。 案外家同士が近いから、奇襲が可能な位置は限られてくる。 それは分かるか?」

望実は首を横に振る。好きな男子じゃあるまいし、あの三人組の事などそこまで詳しく知らない。しかし、地図がある以上、予想を立てるのは可能だ。何カ所かに当たりを付けた後、学校と其処を監視できる場所を割り出す。今日の午後、一旦行動パターンを割り出して、そして仕留めるのは次の日だ。

ザカ校の生徒は、隠蔽体質を良いことに、かなり素行が悪い。二日や三日さぼる奴は珍しくもない。かといって一週間以上さぼれば流石に問題が出てくるから、数日以内に三人を全て仕留めなければならない。

「まず最初に頭を潰す。 手はその次、脳はその次だ」

核心を突くことをトビが言う。と言うことは、最初に柚香をしとめて、次が郁美、最後が尚子と言うことか。

柚香はかなりの長身で、望実より十センチ以上高い。運動神経は中学時代は良かったと言うことだが、今では体育自体殆どでない。出ても隅っこでさぼっている。これは面倒くさいというのもあるのだが、薬だのタバコだので体がだいぶ弱っているのではないかと、望実は予想している。ただ、暴力は非常に上手い。まあ、これは経験値の量が違うのだから当然と言えば当然だ。スタンガンや催涙スプレーを護身用に持っていることも確認済みである。

「つまり、仕留め損なうのは死を意味している。 そこで、それを使う」

座っている脇に、鉄パイプは置かれていた。それに、トビが言うまま改造を施す。鉄パイプ、しかも継ぎ手が付いているこれはもともとかなり殺傷能力が高い代物なのだそうだが、それを更に高めるのだ。

まず最初に、L字ベンドに石を入れる。これは幅が径とほぼ同じ長細いものを使う。卵形の適当なモノが見付かったので、幸先が実に良い。これを継ぎ手部分にねじ込んで、ハンマーで叩いて押し混む。そして針金でぎゅうぎゅうにまいて、更に接着剤で固定する。

鋳鉄管の重さは大体二キロくらい。それをただ振り下ろすだけでも相当に殺傷力が高いが、これは先端部に石を加えることにより、石の部分に打撃点を集約し、破壊力を爆発的に高めるのだという。兜か何かを相手が被っていたら一撃必殺とは行かないが、相手は頭を素で露出しているのだ。

「素振りは後だ。 というよりも、武器として使うのではなく、単に振り下ろして済ませるつもりで訓練する。 横に振って側頭部を狙う方が命中率は高いのだが、それを振り回せるほどの腕力が残念ながら不足しているからな。 単に上段に振り上げて、狙った所へ振り下ろすだけの訓練をする。 それをきちんと執行できれば、望実は生き残れる」

「生き残れるじゃなくて、生き残る。 そのつもりだよ」

「良い覚悟だ。 練習は夜になってからだな。 練習にはスイカを使う。 躊躇なく、無理に力を入れずに振り下ろせば、まず間違いなく仕留めることが出来るから、安心して良いぞ。 一人目を屠れば、後はぐっと楽になる。 此処が勝負所だ」

昨日くらいから、嫌に頭が冴えている。さっきからもトビの言葉を殆ど聞き逃していないし、理解もいつもとは比較にならないほど早い。頭が覚醒しきって、次から次へと新しい指示を求めてくる。

夜が待ち遠しい。自分の庭であるこの辺りをはいずり回って、望実は何カ所も監視に最適な場所を見つけた。携帯の目覚まし時計が鳴る。タイマー代わりにセットして置いたのだ。

目を付けて置いた土手に這い上がって、茂みに這いずりこみ、学校へ双眼鏡を向ける。三人組を発見したのは、一時間ほどしてからだった。楽しそうに笑っている。反吐が出る。如何にして望実を合法的に殺すか話し合っているのは明白だからだ。今すぐ頭をたたき割ってやりたい。見失わないように気をつけながら、場所を変えつつ、地図に印を付けていく。心がどす黒く染まっていくのが分かるが、それははっきり言ってお互い様だ。

まだこういった作業の経験が足りない望実は何度も人に見付かりかけて、その度にトビに注意された。しかし失敗するだけではなく、一度ごとにこつを覚えて、見る間に時間のロスを減らしていった。

やがて、三人が別れる所を確認した。地図上で言うと、もっとも合理的なルートだ。まずは柚香を優先して追う。距離的にも、奴が一番近くて、郁美が一番遠い。郁美と尚子はもう少し二人で歩いた後、少し先で別れる。

「この様子だと、すぐに合流して夜遊びに行くようだな」

「人生最後の夜遊びだ。 せいぜい楽しんでくるんだね……」

あいつらが遊ぶ金の幾分かは、カツアゲによって集められている。望実も随分取り上げられたし、下級生からも随分巻き上げていると聞く。親の財布からも盗んでいるらしいし、更には。望実を殺して得た保険金を計算に入れている可能性もある。

怒りが火花になって目の前で散った。許せない。あの笑いは、弱者を、自分のような弱者を踏みにじることによって成立しているのだから。許し難い暴力的搾取者の笑いだ。叩き潰してやる。殺してやる。あんな奴らに、殺されてたまるものか。

「よし。 ……あいつらが行った後、この地点を調べる。 私の見たところ、此処が最適だ」

地図の上を管が軽く叩く。トビによると触手というそうだが、なじみがない言葉なので管と呼ぶことに望実は決めていた。何処までも冷静なトビの存在が有り難い。双眼鏡を覗き込んでいた望実は、一人になった柚香を見て、何度も飛び出しそうになっていた。荒れ狂う殺意が体の中で暴れて、手綱を取るのが一苦労だった。さっきは脳だけだった怒りの浸食が、蛞蝓がはい回るように糸を引きながら、神経にも、筋肉にも、浸透し続けている。怒りという粘液まみれの怪物は、ぬらぬらと殺意のオーラを発して、望実の体中をはい回りながら仇敵の討伐を今か今かと待っていた。

不思議と呼吸は落ち着いていて、体温もむしろ低い。そのくせ体中じっとり汗を掻いていて、戦いが終わったらシャワーを浴びたかった。ぬるいシャワーが好きな望実なのに、その時は水圧を最強にして、温度も思いっきり熱くしようと決めていた。

陽が落ちる。

明日が勝負だ。それが分かっていても、どういうわけだか絶望感はない。むしろ不思議な達成感があった。

 

3,一人目

 

襲撃場所の吟味は散々した。夜中に、一時間以上をかけて、徹底的に行った。

選んだのは、柚香の家より三百メートルほど離れた場所。丁度L字に曲がった角になっており、左右にブロック塀があって見付かりづらい。更に素晴らしいことに人気が少ない。攻撃を仕掛けようと考えている時間帯には、少なくともほとんどない。

もう一つある此処の利点は、地面が黒ずんでいて、仮に血が垂れても分かりにくいと言うことだ。要するに初撃で頭をたたき割るのに成功しすぎて、血が大量にぶちまけられても、発覚しにくいのである。最終的に発覚するにしても、残り二人を片づける時間が有れば充分だ。

ただ、問題はリヤカーを運搬するのに若干不便と言うことだ。隠れ家への最短距離だと、此処を抜けた後、百メートルほどある直線道路を通る必要がある。ござで柚香を隠したとしても、すれ違えば不信に思われるだろう。その時のことを考えて、逃走経路は三つ用意したが、どれも人とすれ違う可能性がある。それが問題だ。もう一つの襲撃地点は、よく調べてみると人家から丸見えの位置にあり断念。

夜中の内に、必殺の鉄パイプは隠しておいた。水が流れていない側溝があって、そこのブロックの下に入れておいたのだ。

この鉄パイプを、昨晩豆が出来るほど振り回した。結果、スイカはもう粉々だ。一度上手く入るようになると、後はもう簡単だった。面白いようにスイカは砕け、丁度いい生贄になった。話によると、人間の頭とスイカはそう硬度が変わらないと聞く。ならば、あの腐った柚香の頭だって砕くことが出来る。いい気味だ。ざまあみろ。そう考えると、笑顔が戻りそうだったが、やはりまだまだ無理だった。

間合いは把握済み。後は、如何にトラブルに対処できるかだと、トビは言った。のぞむ所だと、望実は思った。

土手の定位置で、すでに望実は双眼鏡を覗き込んでいた。二人で話して、既にトラブルシューティングは思いつく限り整備した。だから、気分転換が、必要だった。

「ねえ……トビ」

「うん?」

「やっぱりトビは、人間を食べる鬼だから、こういうのに詳しいの?」

「妙なことを言う。 ……だが、もっともな質問ではあるな」

望実はトビを信用している。これだけ見事な計画は、彼がいなければ実現できなかったのだから当然だ。

それに不思議な話だが、どんどんトビに自分が似てきているような感触を覚えているのだ。トビのことを知りたいという知的好奇心も、それに喚起されて、少なからずあった。

「私は元々この人間世界の住人ではないし、喰人鬼でもなかった。 鬼は鬼だがな。 このスキルも、ある人物から教わったものなのだ」

「ある、人物?」

「何十年も前に、世話になった人物だ。 さて、いよいよだ。 気を抜くな」

意識を向け直すと、校門から生徒が出始めていた。まだ、奴らは出てきていない。女子は基本的に気紛れだ。しかもあの三人のことだ、カモにしている一年生の誰かでも捕まえて散々絞り上げ、金を巻き上げている可能性もある。カモの一人である望実が昨日姿を見せなかったのだから当然であろう。

因果応報などと言う言葉は嘘だと、望実は思っている。神とやらがいるのなら、どうしてあの三人組に雷の一つでも落とさないのか。隕石でも良いだろうに。エボラ出血熱でもいいだろうに。強者ばかりがはびこり、弱者ばかりが貧乏くじを引くのが現世の理だ。神とやらが公平でないのは明かである。むしろ、憎まれっ子世にはばかるという言葉の方が、事実を示しているではないか。

あの連中はやりたい放題に弱者から搾取して、幸せの絶頂にある。今後もやりたい放題に弱者を踏みにじりながら生きていくのだろう。そして弱者は搾取され、反抗しようものなら何かしら理由を付けて殺される。……望実のように。

だが、望実はもう、そんな運命には甘んじない。

「見つけた。 三人揃ってる」

「心をとぎすませろ。 チャンスは多くないぞ」

「うん」

来る前に二度ずつチェックした。作戦の準備は万端だ。

連中は笑いながら歩いてきている。搾取した金をポケットに入れているに違いない。そして望実の近くを通り過ぎ、暫く歩いてから、予想通りの地点で郁美と尚子、柚香の二派に分かれた。せいぜい笑ってろ。昨晩の夜遊びが、貴様らにとって最後の幸せだ。死ね、しね、しんでしまえ、くだけてしまえ、腐ってしまえ、いや今から殺して砕いて、潰してばらまいて、千切ってひねって、切り刻んでやる。頭の中で壊れたタイプライターのように、膨大な罵詈雑言がこぼれ落ちていく。望実の瞳には、黒い悪意の炎が燃えさかっていた。その言葉の滝は、一つの統一的意志によって、目的へ向け流れ込んでいく。

追いつく。軍手を確認。リヤカー確認。鉄パイプを、手に取った。

心が、磨き抜いた鏡のように、研ぎ澄まされきった。望実の顔から、表情が消える。

一歩、二歩、三歩。歩調を上げて、徐々に距離を詰める。足の長い柚香は、ちょっと油断するとすぐに計画襲撃地点を抜けてしまう。しかし走ると気付かれる。足音を消す練習も散々した。プロには通用しないだろうが、相手は素人。気付かれるわけがない。

その時、不意に異音が飛び込んできた。奴の携帯の音。柚香がポケットに手を入れ、携帯を取り出そうとする。つまり、携帯に全ての注意を向ける。

千載一遇の好機!

……死ねええええええええっ!

振り上げた鉄パイプ。先端の石に巻き付いた金具が一瞬だけ、陽光を反射して輝いた。

振り下ろす。それ以外の動作は必要ない。

柚香の耳は、多分それを捉えたはずだ。だが、振り返る余裕などない。

頭頂部を直撃した。スイカを砕いたときと、殆ど同じ感触だった。

ぐらりと、望実より大きな体が揺れて、白目を剥いているのが見えた。側頭部から地面に叩き付けられる。

「よし……!」

短く歓喜の声を最初に上げたのは、トビだった。虚脱状態に陥っていた望実はそれで我に返り、パイプを脇に抱えたまま、リヤカーを回収。体が寒い。凍り付くように冷え切っているが、だが筋肉は異常に熱い。今まで経験したことがない、不可解なコンディションだ。

二度失敗した後、口から泡を垂れ流している柚香をリヤカーに積んでござをかける。柚香の鞄はリヤカーに乗らないので、自分の腕にかけた。中身が飛び出さなくて良かった。こいつが死んでいるかはまだ分からないし、目を覚まされると厄介だ。携帯を拾ってポッケに突っ込む。これを忘れるとまずい。

人の足音がした。こんな時にと、唇を噛む。

この辺りは路が折れ曲がっていて、すぐには見付からない。トラブルシューティングを練り込んだ記憶の倉庫群から引っ張りだす。それに従い、出来るだけ音を立てないように、決めて置いた木陰に隠れこむ。通り過ぎていったのは、車の着いた買い物籠を押していくお婆さんだった。車輪が立てるガラガラ音が丁度いい。お婆さんは耳も遠くなっているだろう。体が冷えるのに、頭が冴えて冴えて仕方がない。昨日から一体、望実はどうしてしまったのか、自分でも分からなかった。

ガラガラの音に紛れて、さっとその場を逃れる。お婆さんは気付きもしなかった。そのまま必死に最後の難関である道路を走り抜ける。左右の塀から誰かが顔を出すのではないかと、気が気ではなかった。塀に空いている穴という穴から除かれているような気がした。比喩でも何でもなく、首筋を滝のように汗が流れ落ちた。

山へ走り込む。此処まで来れば大丈夫だ。何しろ自分の庭である。そのまま一気に防空壕へ走り込み、戸を閉めた。小走りでランプを付ける。こんな時に限ってなかなか付かない。四回、いい加減舌打ちが混じり始めたとき、派手に火花を飛ばしてランプがついた。

「素晴らしい。 私が口を出さずとも何の問題もなかったな」

「ん……。 そう、だね。 上手くいって、良かった」

リヤカーを乱暴に転がし、中身を床にぶちまける。小脇に抱えていた鞄を地面に投げ捨てる。一緒に抱えていた鉄パイプも地面に転がり、派手な音を立てた。

ひくひく痙攣している柚香は、まだ目を覚まさない。うつぶせにしてから、背中で手を水平に交差させて、ガムテープで手首を縛る。肘近くも体ごと縛る。ぎゅうぎゅうに縛る。これは頑丈な布テープで、もう多少暴れた程度では外れっこない。ただ、刃物には弱いので、動けないように念入りに縛らないと行けない。次は足首。最後に腿。さらにポッケはきちんと調べて、持っていた折り畳み式ナイフを抜いておく。それで、漸く緊張がほどけた。

壁に背中を預けた望実は、全身の筋肉という筋肉、神経という神経が、ストを起こしかねないほど疲労している事に気付いた。

「まだ燃え尽きるのは早いぞ」

「う……うん。 分かって、るよ」

安心するのは、此奴の首を切り落としてからだ。鋸を取り出す。複数買って置いたものの一つで、折り畳み式のものだ。強度が少し心配だが、首を切り落とすくらいならもつだろう。

不思議に火照った体は静まらない。体の中が火照っているのに、外は凍えるぐらい冷たい。まだまだその異常な状態は続いていた。

「いや、殺すのはまだいい。 どうせ逃げることは無理なのだし、な。 聞きたいこともあるのではないか?」

「ない。 すぐ殺したい」

鉄パイプに手を伸ばす。今絶対的な優位を築いていると、望実は体で感じ取っている。それならば、それが揺るがぬ内に、勝負を決めてしまいたいのである。それは焦りが産む心理なのだと、分かっていてもあらがえない。

「そう慌てるな。 慌てる乞食はもらいが少ないと言うだろう」

「乞食じゃないもん」

「……良いから聞け。 状況が落ち着いた今だから言うが、これは重要な決断だ。 もし此奴らが本当に望実を殺すつもりなのか、適当にかまをかけてみろ。 今から望実は、社会的には此奴らの命を背負いかねない行動をしようとしているんだぞ。 もし此奴の返答次第では、それを回避できる可能性もある。 それに確率はあくまで極小だが、あの絞首用ロープは此奴らの仕業ではない可能性もある。 いいか、望実。 此処が嗅ぎつけられる可能性はまずない。 それならば、可能性の全てを模索しておいた方がいい」

言われてみれば確かにそうだ。だが、望実はどっちにしても、もう柚香を生かしておくつもりはなかった。

休むついでに調べもの。戦利品の鞄を開けて、中身を取りだしてみる。やっぱり出てきたコンドームには笑いがこみ上げそうになった。でも、表に到達する寸前で止まってしまう。悔しい。更に調べてみると、スタンガンも催涙スプレーもしっかり入っていた。

スタンガンは国産品らしく、日本語で説明が入っている。これもまた重い。鈍器としても役に立ちそうだった。50万ボルトとか書いてある。ただ、トビが気絶させるのは無理だと言っていたので、拷問用にでも使うしかない。電池が入っていたので、ちょっと驚いた。スタンガンが電池で動くという知識はなかったのだ。

他には教科書類だが、隅っこの方には化粧品も入っていた。あまり質の良い化粧品ではない。どれも量産品ばかりで、安いものばかりである。

妙な気分だった。あれだけ金をむしり取っている奴らの頭目なのだから、もっと高級品ばかり持ち歩いているかと思っていたのだ。或いはブランド品の類は、みんな家に置いているのかも知れない。それともクスリの類に全部つぎ込んでしまっているのだろうか。それほど酷いジャンキーには見えないのだが。

柚香が動いた。呻きながら頭を動かす。尋問する前に、することが幾らでもある。鉄パイプを手に立ち上がる。筋肉が熱くて、骨がやけそうだ。肌が内側から燃えそうだ。

「いきなり殺すなよ。 後頭部と腹部は狙うな」

「分かってる」

俯せのままの柚香の背中を踏みつける。振り上げたパイプを、奴の足首へ、一息にうち下ろす。

小気味が良いほどの簡単さで、足首が砕けた。柚香が呻く。もう一度、二度、三度、そしてもう一度。鮮血を引くパイプを振り上げ振り下ろし、柚香を壊す。更に膝。ぎゃあっとでも言いたいのだろうが、無様にうめき声が漏れるだけだ。どうしてか力が沸いて沸いて仕方がない。足で完全に押さえ込んだまま、激しくパイプの先端の石を叩き付けて、苦もなく膝を潰し壊す。

「こんなんで痛がって貰っちゃあ困るんだけどな……。 一年生の子達だって、純だって、それに私だって……」

血だらけになっている鉄パイプを振り上げる。針金には皮膚片さえ引っかかっている。悲鳴に恐怖が加わっているのが分かったが、何を白々しい。恐怖を散々他者から引きだして、それを見て笑っていた外道が。もう我慢する必要はなかった。少し向きを変えて、望実は柚香の右肩へ、渾身の力を込めて鉄パイプを振り下ろしていた。服を破り皮膚を破って、石が肩へ食い込む。

さっきよりずっと強い抵抗を感じたが、だからなんだ。三回、四回、五回、七回。回数を繰り返すごとに噴き出す血は多くなり、肉を抉った石は、骨も傷付けていった。調理前のフライドチキンみたいに露出した骨が滑稽だ。

「死ね、死ね、死ねええっ!」

目に凶熱を宿したまま、望実が振り下ろした鉄パイプが、右肩と右腕の接合部分にある軟骨に突き刺さり、一際大きく柚香が跳ねた。これで充分。右腕は千切れ欠けているし。続けて左肩に、同じように鉄パイプを振り下ろし、関節を砕く。鉄パイプには多量の血がこびりつき、辺りの地面も多量に朱を吸っていた。一撃ごとに冗談みたいな量の血が飛び散り続け、エビのように柚香は跳ね上がった。

「そのくらいにしておけ。 どうせもう逃げられはせん」

「……うん。 分かってる」

鉄パイプを降ろして望実は呼吸を整えた。足下で柚香はひくひくと痙攣していた。これからどんな答えを返しても殺すんだし、会話を聞かれたって別に構わない。というよりも、多分トビの声は此奴には聞こえないだろう。だから別にどうだって良い。頬に付いた返り血を舐め取りながら、柚香の茶色く汚く染められた髪を掴んで、望実は無理矢理相手の視線を自分と合わせた。

「こんばんわ。 市川さん」

「て、てめえ、望実……!」

「てめえ?」

無言で望実は相手の顔面を地面に思いっきり叩き付けた。鼻骨が砕けた音がする。いい気味だ。トビの苦言がすぐに飛んでくる。

「あまりやりすぎるな。 ショック死するぞ」

「分かってる。 ねえ、市川さん。 どうしてあんな事をしたのかな?」

「ひ、ひ、ひっ……」

「ひじゃないでしょ? ひじゃない。 ひじゃわからない。 今更哀れぶって見せて、私が手加減するとか思ってるのかな? ひじゃない、ほら、ひじゃないって、言ってるのが分からないのかな?」

無表情のまま、何度も何度も顔を地面に叩き付ける。特に何の感情もわかない。鼻から派手に血が飛び散った。

望実は、これが柚香の演技だと確信していた。虐めを使いこなし、学校の影の女王として降臨し続けたこいつは、今でも望実の首を掻こうと狙っているに決まっているのだ。だから怪しい素振りがあったら、その場で殺す。話を聞き終わってもすぐに殺す。そうしなければ、殺されるのだから。手は小刻みに震えている。此奴に触れるのは、怖くして仕方がないのだ。携帯で仲間でも呼ばれたら、形勢は逆転してしまう。

無のままの表情と裏腹に、焦りが腹からじわじわと沸き上がってくる。それが自然と望実の内側から凶暴性を引きずり出していた。

「もう一度聞くよ? どうしてあんな事をしたの?」

「た、楽しかったからに、決まってるでしょっ!」

「へえ?」

「純もてめえも、ちょっと転ばすだけで、怖がって、泣いて、痛がって! た、たのしくて、だ、だから」

柚香は鬼のような形相で叫ぶ。

「あんたたちが悪いんだ! 弱すぎるから、あんまりにも弱すぎるから! だ、だからあたしたちもどんどん深みにはまって、は、ひぎっ! ぶっ!」

それだけで充分だった。望実は髪を掴んで一際高く望実の頭をつるし上げると、地面にまた容赦なく叩き付けた。前歯が砕けて、破片が地面に突き刺さっていた。

「ほ、ほんなことして、ただですむ、と、オモッて」

「ハア? 思ってるわけないでしょー? 殺されるくらいなら殺す。 ヒト殺して、自分が無事でいられると思うほど、私ばかじゃないよ。 ……あー、そうか。 私や純ちゃんの事バカだと思ってるから、あんなコトしてたのか。 私の部屋に勝手に入って、首つりの縄、面白がってぶら下げたのか! 純ちゃんを寄ってたかって乱暴して、死なせたのか! 相手はバカでクズだから、何をしても良いのか許されるのか! 弱者はどんなふうにしてもいいのか! だったら教えてあげる。 今、ここで、あんたは最弱の存在だっ! ……自分の築いてきた理屈で死ぬんなら……なんの恨みも未練も。 な、い、よ……ね? えへ

「ぎ、び、ひいっ! た、あひっ、たす、たすけ、へひぇっ!」

「今更怖がるふりしてもねえ。 さ、ころそ

望実はトビを見たが、彼は嘆息して小さく頷くばかりだった。

「……此奴らは最終的には、遊びのつもりで、結局望実を殺しただろうな。 そして何の罪悪感も抱かずに、次の生贄を探しただろう。 社会が裁くまで。 やむをえない。 こんなクズの命でも、重いぞ。 いいんだな」

「死ぬよりマシだね」

鉄パイプを振り上げる。容赦なく振り下ろす。頭に。頭に。頭に。頭に。頭に。頭に。頭に。頭に。頭に。頭に。頭に。脳味噌に。呼吸が乱れてくる。鉄パイプを投げ捨てると、鋸を取る。脳味噌が出ていても、こいつは動き回って、望実を殺しに来そうだった。首を切り落とさないと安心できない。

血だらけの背中に、片膝をかけて、日曜大工用に作られた鋸をひく。面白いようにギザギザの歯は、柚香の首に食い込み、切断していった。歯を引くごとに血が噴き出して、地面を滑り、あらかじめ掘っておいた溝へ流れ込んでいった。

ぶちり。ごとん。

首が落ちた。自分の何かも、この時落ちた気がした。

 

4,補食

 

楽しい夢なんて、ここ暫く、見た記憶がない。

恐ろしい夢ばかりだった。柚香の友人の男達に押さえつけられて身動きできない望実に、覚醒剤の入った注射針が近づいてくる。側でラリった誰かが激しく交わっていて、その喘ぎ声が怖くて怖くて仕方がなかった。しかも、責任は全部押しつけられた。お巡りさんは助けに来るには来てくれたが、望実の言葉など何一つ信用してくれなかった。

取り囲まれて、蹴られ、殴られ、追いかけ回されて。その後のことは、思い出したくもない。でも、夢に見てしまうのだ。

先生も具体的な暴力を間近で見れば、やんわりと注意するくらいだった。だから純ちゃんは死んだ。私も殺される所だった。

何が話し合いで解決だ。

大人だって、本当の意味で話し合いで物事を解決している人間なんて、殆どいないことを望実は知っている。大人の話し合いでものを言うのは誠意ではなくて信用と物質だ。その信用も無辜の感情などではなく、特定の人間若しくは勢力に対する忠誠心だ。中立と呼ばれる立場の人間達が、何時の時代も迫害されてきたことを、望実は良く知っている。

目が覚める。浮遊感があって、夢だと分かる。でも、どうしてか、夢特有の非現実的な意識の暴走がない。体を起こす。自分の体から。そこで異変に望実は気付いていた。

「起きたな。 状況は分かるか?」

「え……? ええと」

立ち上がって辺りを見回すと、其処は防空壕だった。記憶を整理する。

あいつの首を切り落として、そのまま力つきるように後ろに寝っ転がって。ぼんやりしている内に眠ってしまったのだ。枕が変わると眠れなかったのに。妙な話である。

下を見ると、自分から自分が生えていた。正確には、寝ている自分のお腹に足先を突っ込むようにして、立っていた。服装は全く同じ。流石に吃驚する。

「ひあっ!? な、なにこれ? 変な夢……」

「正確には違う。 幽体離脱と言えば分かるか?」

前方の闇から声が聞こえてくる。どうしてか、トビが具体的に何処にいるのか、立体的に把握することが出来た。トビの本体、球状に浮かんでいる闇の固まりから伸びた管が、柚香の死体をまさぐっていた。……何か不快であると、望実は感じていた。

「分かるけど、これがそうなの?」

「そうだ。 疲れて休んでいる所悪いが、半強制的に幽体離脱させた。 それで、これから「調理」をして貰う」

「?」

無言でトビの管達が、柚香の死体から全裸の柚香を引っ張り出した。うなり声を上げながらもがく柚香だが、管の力は相当強いらしく、逃れることが出来ない。表情はうつろで、頭が逝ってしまっている事が良く分かる。

「私は人間の魂を食べるのだが、それにも色々と面倒くさい手続きが必要でな。 包丁をイメージしろ、望実」

「うん。 んー……。 ええっ!?」

再び驚く。目をつぶって暫く集中した結果、手に包丁を握っていたのだ。凄いと思う反面、少し疲れた気もする。

「上出来だ。 望実は一旦集中すると、精神の覚醒率が極めて高い。 能力者でも、最初は其処まで上手に出来ないだろう」

「良く分からないけど、ありがと。 嬉しいよ」

「その無表情も早く治したいな。 さて、調理を始めるか。 ……首を落とせ」

意味を為さない声を上げてもがいている柚香は、すぐにトビの管によって、首のない体のすぐ側の地面に押し倒された。今度は仰向けだが、どういう訳か全然怖くない。そのまま頭を握りつぶせそうな感覚さえ望実は覚えていた。

歩いて近づく。一歩を踏み出すと、自分(肉体?)のお腹から簡単に足は抜けた。包丁を首に入れる。手応えはほとんど無く、ずぶりと入った。そのまま数度動かすと、ケーキでも切るかのような柔い反発の後、首は落ちた。驚くべき事に、首は落ちてもまだ何やら悲鳴を上げていた。管が掴んでつり上げる。そして口に巻き付いて、ようやく耳障りな奇声が聞こえなくなる。首が切り落とされたというのに、体はぴくぴく動き続けていた。半透明のままで。

「……まさかこれ、ユーレイなの?」

「正解だ。 首から上は私が食べる。 望実は体を食べるのだ」

「……。 ……えー?」

何度か首と体を眺め返した望実は、流石に途方に暮れて言う。幾ら何でも、無茶な話である。

「当然抵抗はあるだろう。 だが少し食べてみれば分かる。 今の望実は魂で、相手も魂だ。 それは肉体同士の補食とは随分状況が違う」

「……分かった。 約束したし、手伝ってくれたし。 最後まで、私を諫めて、背中も押してくれたし、本気で心配してくれたし。 だから、やってみる」

正座のまま、仰向けに転がっている柚香の幽霊だか魂だかに向き直る。いきなり食べろと言われても、どうしていいのか分からないけれど、まずは小さく切ってみようと望実は思った。肩を抑えて、包丁を入れる。最初は腕を切り離す。

ざく、ざくざく、ぶちり。

予想していた骨の抵抗もほとんど無かった。肩は恐ろしいほどにあっけなく落ちていた。

「え? へ……?」

「だから違うと言っただろう。 そのまま囓って見ろ」

「ん……。 う……ん」

釈然としないまま、しばしためらった後。二の腕に少しだけ歯を立ててみる。

甘い。溶ける。歯が沈み込む。

綿菓子のような、不思議な触感だった。そのまま引っ張ると、肘の辺りまで肉がちぎれて、口からぶら下がった。ソバのように肉片を啜り込む。もちもち。もふもふ。ケーキのスポンジより柔らかくて、マシュマロよりもおいしい。

二口目。三口目。すぐに骨が見えた。周囲の肉を全部食べる内に、骨が綺麗に外に出てくる。試しに歯を立ててみると、何処かで食べたような感じだ。かみ砕く。

「美味いだろう。 ……その様子だと」

「なんだか、骨もシャケ缶にはいってる奴みたいな歯ごたえだね。 全部もふもふ食べられるよ」

血が出ていたらもっと大変だったのだろうが、肉を噛んでも水一滴でない。どうしてか、悲しそうな視線を感じる。なんでだろう。望実は思った。こんなに嬉しいのに。美味しくて幸せなのに。数ヶ月ぶりに、幸せを感じているのに。

二の腕を見る間に食べ尽くし、肩も口に。大きな固まりの骨があったが、歯を立てると簡単に崩れた。肘から先も同じようにバリバリ食べて、出てきた太い動脈をちゅるりと啜り込むと、掌だけが残った。指、それに爪は案外硬かった。でもコリコリして美味しい。しかも、全然お腹が一杯にならない。

左腕を食べ終えたので、右腕も。もう少し大胆に切り取ってみる。今度は関節から綺麗に切り離すことが出来た。最初に切り落とした頭は、ずっと望実の食事を見つめていた。手を食べ終えた後、足へ移る。鈍くさい望実なのに、非常に学習能力が高くなっている。股関節から綺麗に切り落とした足は、腕よりずっと太くて食べ応えがあった。特に膝は歯ごたえが抜群だった。腿も肉の付き方が凄い。食べ応えがある。

足の先まで食べ進んで一瞬躊躇する。でもこれは幽霊なのだし、あまり足は汚くないだろう。くるぶしから足先を囓り、最後に残して置いた足の指を、豆のように摘んで食べた。右足に続いて左足も食べ終えると、胴体が残った。持ち上げてみると、とても軽い。肩からそのままかぶりつく。肋骨も脊椎も気持ちいい歯ごたえで、食を楽しくさせてくれる。心臓にかぶりつき、一個一個肋骨を外してかりかり囓る。鏡餅みたいな形をした肺を食べ終えたときに、消化器官が出てきて、それを口に入れることは流石に躊躇した。トビがすぐに事態を理解してフォローを入れる。

「大丈夫だ。 腹の内容物は幽霊にはならない」

「そうなると、私が今食べているこの肉は何処へ行くの?」

「そのまま望実に同化する。 ……要するに、内臓へ行って消化吸収といった、生物的な処理はされない」

でも、やっぱり大腸とか肛門を食べるのには、流石に躊躇がいる。考えた挙げ句、望実はお腹の辺りの脂肪を残して置いて、先に消化器から食べた。ショートケーキの苺を後に食べるような感覚か。思っていたほど、内臓類は酷い味ではなかった。お尻に付いていた肉を咀嚼すると、もう何も残っていなかった。手指を舐めながら、望実は今までにない不可思議な充足感を感じていた。

「ぎ、ひ、ひうっ!」

柚香の悲鳴。視線を其方に向けると、柚香の頭を掴んでいたトビの管達が、トビ本体の方へ運んでいく。闇からわき出すようにして、大きな口が見える。大きな歯がずらりと並んでいて、まるで世界に空いた死の穴のようだった。すっぽり頭が其処へ収められると、無造作に噛みつぶす。ぐちゃりという生々しい音には、流石に望実も目を背けた。

「……数十年ぶりの食事だ。 ありがとう、良い思いをさせてもらったよ」

「ひとくいおに、なんだね、やっぱり」

「やはり怖いか?」

「ううん、そうじゃないよ。 怖くはない。 でもね、やっぱり人間じゃないんだなと思って」

望実はもう人間世界に何も期待をしていない。しかし体の方は、何処かで期待をしていたらしい。トビが人間ではないと実感して少し残念だと思う自分の心理に気付いたとき、望実はそれを理解していた。

「……後は二人、だね」

「ああ。 望実は今回の件で、キャリアを積んだ。 次は今回よりずっと楽に行けるはずだ。 少し力を抜いていけ」

「うん……分かってる。 ありがとう」

「礼はもういい。 生き残ってから、だ」

力強いトビの言葉に、望実は頷いた。

 

目を覚ますと、何も変わらない現実が待っていた。冷たい防空壕の中、転がっている生首と死体。死体を脇の排泄用溝に突き落とすと、丁度尿意がこみ上げてきたので、あっちを向いていてとトビに言ってから、上から小便を引っかけてやった。いい気味であった。

「もう其奴は良いだろう。 放っておけ」

「……そう、だね」

素直にトビの言葉に頷くと、パンツを上げて立ち上がる。敵はまだ二人生き残っているのだ。これから奴らを出来るだけ早く沈黙させなければならない。

荷物の中には、柚香の携帯電話もあった。使える。実に使える。トビに作戦を説明すると、すぐにゴーサインが出た。

 

5,二人目

 

佐伯望実と市川柚香の失踪を不信に思う人間は、呆れた事ながら殆どいなかった。初めてではないからである。

佐伯望実の母が廃人同様であることは、教師達の間では良く知られていた。例えば望実が病気で欠席した際も、母は絶対に連絡などしない。病欠した望実は、必ず教師達によって、絞り上げられた。親にきちんというように教師達は釘を差してきたが、釘を差す誰もが知っていた。言うだけ無駄だと言うことを。困惑する望実を見て楽しんでいる教師すらもいた。ザカ校は閉鎖的な学校であり、腐っているのは何も生徒ばかりではない。教師の腐敗はより酷いとも言える。

また、市川柚香含む三人組も、ここ一年ほどで素行が目に見えて悪化している。虐めを始めた頃からストレス解消どころか成績は一気に落ち、素行自体も目をおおわんばかりのひどさになっていた。

柚香も無断欠席が多くなっており、それを不審視する人間は殆どいなかった。数少ない例外が、三人組の面子である。

昨日から携帯に電話が全く通じないことに、郁美も尚子も気付いていた。

 

携帯を鳴らす。何回かのコール音の後、結局電波が届かないと言うアナウンスを告げられる。苛立った郁美は乱暴に携帯を閉じると、授業中の教室から、気分が悪いと言って堂々とさぼりに入った。教師は見向きもしない。

「あのバカ、なにしてやがる」

小柄な郁美は薄茶に染めているショートヘアを揺らしながら吐き捨てた。大きな瞳が目立つ整った顔立ちをしている、少し小柄な彼女は、その容姿に似つかわしくない汚らしい罵り文句をさまざまに呟きながら屋上へ歩く。足音が高いのは、苛立っているからだ。

三人組の行動係であり、率先してカツアゲをしたり暴力を振るったりする伊集院郁美は、リーダー格である市川柚香と刎頸の友であるがように周囲には思われているのだが、実はそうでもない。少なくとも最近郁美は、柚香に不満を隠せないようになっていた。

柚香と郁美の関係はザカ校からで、中学時代は別クラスということもあり何の面識もない人間だった。それが柚香に誘われて連むようになったのは、最初は何となく、であった。事実気は合ったし、三人組を良く纏める柚香に対して当初は何の不満もなかった。高校に入った当初は、少々悪いことを一緒にする程度であり、中学時代に比べて随分ぬるいとさえ思っていた時期もある。

三人組の真価を郁美が知ったのは、純に対する虐めを始めてからだ。

高校の勉強に半ば付いていけなくなっていた郁美は、子供に全く干渉せず何をしても怒りもしない親への反発もあって、尚子が提案し柚香が組織的に始めた虐めに熱中した。

実際やってみると教師は何も出来ないし、ペナルティは何も存在しないばかりか、ストレスを綺麗に飛ばすことが出来た。郁美自身も暴力が楽しくて仕方が無く、一度下級生の歯を折ったときなどはエクスタシーまで感じていた。暴力がもたらす凶熱は、今まで知っていたどんな快楽を忘れ去るほどに、郁美には合っていた。事実虐めを始めてから、郁美は肉体関係のあったボーイフレンドとすぐに別れている。生殖行為などよりも、ずっと虐めの方が愉快でスリリングな遊びだったからだ。

純が自殺したときは流石に少しやりすぎたかと不安になったが、それでも警察は自身の周囲に来ることが無く、そればかりか犯罪者の人権を守って被害者の人権を蹂躙することが趣味の弁護士達が寄ってたかって事件を無いものにしてしまった。純が自殺したことで片づいたと聞いたとき、郁美は面白すぎて何時間も笑い転げたことを良く覚えている。しかし、楽しい時期はいつまでも続きはしなかった。

まず成績が目に見えて落ちた。勉強なんてやる気にならなかったのだから仕方がないと言えばそうだが、どの教科も今迄から二段階以上も落ちた。

更にドラッグ類も含んだ夜遊びには金がかかるようになり、小遣いではとても足りなくなった。親とは関係が希薄であり、金の置き所など知らされていない。干渉されない分此方からの干渉も拒まれている感じである。柚香のように親の財布から金を盗むことも出来ず、郁美のカツアゲ行為は更にエスカレートしていった。カモを見つけても、ストレスが爆発するとつい壊しすぎてしまい、精神病院に送ってしまったり転校させてしまったり。思うようにならない苛立ちが更に暴力をエスカレートさせていった。

屋上に出て、携帯をかけ直す。やはり柚香は出ない。下級生からカツアゲした携帯を罵ると、郁美はコンクリートの床に唾を吐きかけた。そして金網を滅茶苦茶に蹴りつけた。彼女はストレスを相当に溜め込み、発散場所に飢えていた。

ストレスが限界近い理由は分かっている。ここ二日、楽しい玩具である望実がいなくなってしまったからだ。

三日前。望実の家に柚香の男友達と侵入して、置いてあった金を盗んだり部屋にちょっとした仕掛けをしてやったりしたが、別に何とも郁美は思っていない。望実のことを人間などとは思っていないので、そんな事をされた相手がどう考えるかなど、郁美には思い当たらなかったのだ。というよりも、今まで虐めの頭脳担当は尚子に任せるだけで、単に郁美は暴力を振るって楽しむだけであった。保険金偽装殺人についても、そんなことは簡単に出来ないと分かってからは興味が失せてしまい、今では意識表層に残っていない。

ストレスがどう発散できるか。それだけが郁美の興味を引く。そしてそれが成し遂げられないときは、むしろ苛立ちはリーダーの柚香に向いた。虐めが効率よく行かないとき。ウザイ柚香の男につきまとわれて、ある程度相手してやらなければならないとき。郁美の憎悪はむしろ無能なリーダーに向いていた。郁美にとっては如何に暴力を楽しく振るえるかだけが大事で、他はどうでも良かった。あれだけ好きだった生殖行為など金を稼ぐためだけのものになり果てていて、どんな風にやっても汚くてウザイだけだった。

携帯が鳴る。メールの着信だ。柚香からである。すぐに電話をかけ直すが、やはり圏外になっている。文句を言いながらメールを開くと、話があるとか巫山戯たことが書いてあった。三時に家に来て欲しいという。尚子抜きで。

元々学校などたるくて仕方がない。教師の言うことなど、社会的なルールなど、郁美は歯牙にも掛けなくなっていた。

丁度言いたいことは山ほどあったのだし、郁美はすぐに教室に戻ると、体調が悪いから帰ると言って鞄を担いで出た。尚子には声もかけなかった。ファーストフードでまずいポテトを食って時間を潰すと、すぐに柚香の家に向かう。ストレスが溜まって溜まって仕方がなかった。

郁美は忘れていた。今まで危険な目に対して会うことがなかったのも、親のコネが広い柚香と、すぐれた頭脳を持つ尚子が側に居たからと言うことを。柚香は接点の少ない尚子と郁美の橋渡しをしていて、だからこそに郁美は自由に暴れることが出来たと言うことを。

秋だというのに暑い。日光も、生き残っている蝉の声も、何もかもがウザイ。

自分が散々恨みを買っているという自覚もないまま、郁美はふらふらと帰宅路を行く。途中から柚香の家に切り替える。どうせあいつの家は昼間誰もいない。前に援助交際をそこでやったこともある。

携帯が鳴る。とってあける。柚香の名前だ。電話を取って何か言おうとするが、自分でも気付かないまま、郁美の意識は吹っ飛んでいた。何が起こったかさえも分からなかった。次に目を覚ましたのは、足首に猛烈な痛みが走ってからであった。

 

ぎゃあああああああああああっ!

「あ、起きた。 ま、いいか。 さっさとこわそ

郁美がエビのように跳ねる。望実は無感動に言って、俯せに転がした郁美へ更に一撃、もう一撃、容赦なく一撃。足首が砕けて、骨が潰れる。膝が血だらけになって、千切れ欠けた其処から筋肉が露出する。

更に尻を踏みつけて、肩をえぐる。一撃、二撃、暴れるから狙いがそれて背中に刺さり、盛大に血が飛んできた。頬に飛んだそれを手の甲で拭いながら鉄パイプを振り上げて、二の腕へ振り下ろした。肩を壊すのも良いが、かなり上手に狙えるようになってきたので、寄り少ない労力で壊そうと思ったのである。二の腕に四回突き刺さった鉄パイプが、骨を砕くまで二十秒と掛からない。

二三回気絶したらしい郁美は、呻きながら逃れようともぞもぞしている。本当に他愛もなかった。メールを飛ばして呼び出したとき、ひょっとしたら警戒しているかとか、警察が見張っているかとか思ったのだ。待ち伏せしながら、望実は冷や冷やのし通しだった。

それなのに、此奴は警戒どころか、何も考えずに、しかも意識を集中もせずに歩いていた。だから、柚香の携帯からコールして、動きが止まった瞬間に後ろから一撃。一撃は外れるわけもなく、後頭部に綺麗に吸い込まれていた。一回目と違って、運ぶ際にも邪魔はなく、一瞬で事は済んでいた。郁美と柚香では大分身長が違うので、それを考慮して昨晩間合いの調整をさんざんやったのだが、そんな必要もなかったように、今になると思える。

柚香の遺品であるスタンガンを取り出すと、躊躇い無く電力を最大レベルにセット。正気を亡くしている郁美の背中の傷口に突き刺した。

「ぎゃああああっ! ひ、きああああああああっ!」

「正気に戻った? 戻ったなら、はいって応えてみて?」

「は、はい、はい、はいっ!」

「一回で良い」

もう一度スタンガンをお見舞い。はね回る郁美。髪を掴んで顔を持ち上げて、目を合わせる。事態を全く理解していない様子の郁美の目に、漸く理解が浮かんだ。

「て、てめえ、てめえ、てめえええっ!」

「おー。 こわ。 怖いからお仕置き」

動けない郁美の頬にスタンガンを突き刺す。悲鳴が上がる。顔面を地面に四回叩き付ける。前歯が欠けて、顔が鼻血だらけになる。そういえば此奴にカツアゲされて暴力を振るわれ、前歯が欠けた可哀想な下級生がいたと、望実は思いだした。静かになった郁美の顔を持ち上げると、気絶している。スタンガンでたたき起こして、小首を傾げて顔を覗き込む。

「もっとお仕置き欲しい?」

「ひぎゃああっ! い、いり、ま、せ、ふ……!」

「よろしい。 伊集院さん、一つ聞きたいことがあったんだ。 応えてくれるかな?」

「こ、こた、応えたら……」

不意に反抗的な光が郁美の目に浮かぶ。此奴が望実を人間だと思っていなかったのは、良く知っている。望実には人権がないのだと正面から言ったこともある。その人間以下の存在が、自分を痛めつけているという実感がまだ無いのだろう。

「か、帰ったら、みんなに言いつけてやるからな! そ、そうしたら、そうしたらてめえはもう、終いだ! 殺してやる! ぶっ殺してやる! マワしてクスリ打って、廃人にしてやるからなああっ! てめえの家にも火付けてやる! 全部壊してやる!」

「みんなー? みんなって、具体的には、市川さんのこととか?」

心に冷たい笑いを感じた望実は、郁美の側に転がして置いた、例のものを掴む。

そして、郁美の顔の直前に置いた。

もちろんそれは。

市川柚香の生首。

郁美の目が丸くなる。何か理解出来ていない。数秒後。それが何を理解した時、喉の奥から全ての気力が、絶望の咆吼となってほとばしり出た。

……ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!

「ぎゃーぎゃーうるさいよ? うるさい。 うん、凄くうるさいね。 だから黙れ

スタンガン。更に鉄パイプで、傷口を何度も何度も何度も抉る。右腕が千切れかける。極限の恐怖が、郁美の力のリミッターを外しているようだが、両手両足動かない状態では何も出来ない。更にスタンガンを首筋に突き刺す。髪を掴んで、自分にむき直させる。

ようやく、郁美の目には恐怖と絶望が浮かんでいた。涙を流させる事をあれほど楽しんでいた奴が、鼻水と涙を、血と一緒に垂れ流し続けていた。

「質問忘れた? 聞きたいことがあるんだけどなあ……」

「ひ、ひいっ!」

「あの首つり縄、やったのは伊集院さん?」

必死に頷く郁美。学園の暴力王の、あまりにも情けない姿だった。

「従順になったな。 今の内に色々聞いておけ」

「うん、そうだね」

「まずは、望実や純という子に暴行した男共の素性だな。 正体が分かれば怖れることは無いかも知れない。 逆にやくざ関係の場合は、法の捌きを受けた後にも警戒する必要が出てくるからな。 関係の深さによっても状況は違ってくるだろう。 後は残りの一人や、保険のことを聞いておけ」

「ありがとう。 私一人だったら、そんなに論理的に聞くこと思いつかないよ」

郁美は蒼白になり、怯えきって望実の事を見ていた。今の会話も要因の一つであろう。こいつにはトビの姿は見えないし、声だって聞こえやしない。望実の頭がおかしくなっていると思っているのだろう。……望実にも実感はある。自分がまともでは無くなりつつあることを。ただし、それを悲しいことだとは思ってはいない。常識にもまともにも、もう望実は興味が無くなりつつある。

それからは有意義だった。人形のように従順になった郁美は、何でも聞くことに素直に答え始めたからだ。

まず、何度も望実に恐怖を与え続けてきた男達は、いわゆるごろつきの類で、組織化された連中ではない。やくざとほとんど関係はないのだという。基本的に柚香の友人だが、肉体関係こそあれど崇拝者ではないそうで、連絡がなければ特に何もしないそうだ。他にも柚香のような女友達を何人も持っている奴らで、逮捕歴がある奴も少なくないと言う。何人かは郁美と肉体関係を持っているだとか、クスリは外国人から買ってくるのだとか、余計なこともべらべらべらべらよくしゃべる。

保険のことも喋った。考案したのは尚子で、ただし実際によく調べてみると最近生命保険は、闇金関係者の類似的犯罪行為によって警戒を強めており、素人の手に負える連中ではないのだそうだ。最低でも金が下りるのは三年後だと聞いて、それについては断念したのだという。

尚子についても喋る。尚子はもともと悪知恵だけは働くが実行能力がない人間で、自分では何もしないのではなく出来ないのだそうだ。柚香と郁美は、尚子がいないときに良く悪口を言っていたとか。後どんどん深みにはまったのは、あいつのせいだと、郁美は恨みがましく語る。

「……決まったな」

トビが言った。黙るように郁美に言ってから、望実は顔を上げる。

「うん?」

「殺すのは此奴までにしておいた方がいいな。 リーダーと実行役はこれで処分できたわけで、残りの一人は頭でっかちの自分では何一つ出来ない奴だ。 それにごろつきどもがお礼参りに来る可能性も無い。 もう連中が望実の命を脅かす可能性は無いのだし、これ以上の殺しは無意味だろう」

「そう、かな」

「……念のためだ。 聞けるだけ聞いておけ。 最終的な判断は、その後でもいいだろう」

頷くと、尋問に戻る。尚子の話は続いたが、その中に一つ、洒落になっていないものがあった。

尚子はごろつきの一人と深い関係になっていて、そいつに、例の保険金の話をしたという。それだけならともかく、何年か後にそれで金を手に入れて、家でも建てようかという話をしていたというのだ。

「あ、あたしはバカみたいだっていったんだけど、あいつは、その、嬉しそうで、た、楽しそうで、本気みたいだった! わ、悪いのはあいつなんだ。 あんたを虐める方法だって、全部あいつが考えてた! あんたを殺そうって言い出したのも、あいつだ! だ、だから、だ、から!」

「だから、何?」

「た、助けて! こ、ころさないで! 命だけは! い、命だけは! し、死にたくない、死にたくない、死にたくない! ひいいいいいいい……」

哀れっぽく泣き出す郁美。この時、望実は郁美を殺すことに決めた。

「ねえ、伊集院さん、覚えてる?」

「ひい、ひいいいいいいっ……」

私が、貴方達に虐められているときに、何回謝って、何回助けてって言ったか

望実の瞳の奥に、漆黒の炎が宿る。それは見る間に熱量を上げていく。

「うーん、覚えてるだけでも百回以上言ってるね。 それで貴方達、ただの一回だって、止めてくれたことがあったっけ? ぶって、叩いて、殴って、クスリの入った注射器で刺そうとして、男の人達にレイプさせようとして。 未遂も幾つかあるけど、それって全部外的要因だったね」

半狂乱になった郁美は、許して、許して、許してと叫び続けた。無視して望実は言う。

「それなのに貴方を助けなければならないなんて、はっきりいってさあ……あまりにも不公平だよ、ね? だから、許してあげない。 助けてもあげない。 仏様でも、顔を撫でられると三回目には怒るって言うでしょ。 まして私は神様でも仏様でも無いから。 何百回も顔を撫でられて、殴られて蹴られて挙げ句に殺す計画立てられて許してあげるとおもう? 一回でも虐め辞めておけば、助かったかも知れなかったのにね。 く、くくくくくくっ、あははははははははははははははははははははははははははははは!

笑顔が戻って来た。笑うことが出来た。まさかこんな形で戻ってくるとは思っても見なかった。望実は帰ってきた感情を満喫すべく、ひとしきり、思う存分笑った。

悲鳴がうるさいので、髪を掴んで、再び地面に郁美の顔面を叩き付ける。生きたまま首を斬り落とそうかと思ったが、流石に無理なので、まずは鉄パイプを手にする。

慣れてきたせいか、殺すのにも、切り落とすのにも。それほど手間は掛からなかった。

 

壁にもたれかかって疲れを癒している内に眠ってしまった。そして次に目が覚めると、また幽体離脱状態。苦笑すると、同じようにトビの食事を手伝ってやる。手間が掛かるが、恩鬼がそうしないと食べられないと言うのだから、やるのは苦痛でも不満でもない。

首を切り落とす。郁美の幽霊は柚香と違って意識があるようで、終始ぴーぴー悲鳴を上げていた。眉をひそめてうるさいと思いながら、手慣れてきた手つきで手足を切り落としていき、端からもふもふ食べていく。食感はやはり絶妙に柔かで、口に入れるとすっと溶けてぱっと広がる。おいしい。特に乳房は美味しかった。骨も悪くない。独特の歯ごたえが癖になる。

前よりずっと美味しくなっている気がする。ひょっとすると、味覚が変化し始めているのかも知れない。何しろやっているのは、魂が相手とはいえ人食いだ。ヒトではなくなっていったとしても、おかしくない。

人喰鬼か。悪くないなと、望実は思った。

やがて足の先まで綺麗に食べ終えると、トビが残った頭を一口にして、かみ砕いていた。むしゃむしゃと凄い音がした。

「ねえ、トビ」

「なんだ?」

「どうして頭なの? 肉や脂肪とかも、内臓とか骨とかも美味しいよ?」

「……魂の中でも、頭部は意識が宿っている。 私が食べているのは、魂ではなくてその意識なのだ。 意識は何百年かかけて私に同一化され、人間で言う血肉へ変わる」

つまり此奴らは、何百年も恐怖に包まれ、苦しみ続けるわけだ。罪業に真に相応しい罰である。

どうして目の前で体を食べさせるのかは分からなかったが、あまり根ほり葉ほり聞くのも悪い気がした。

「望実、報復したいか? お前を散々痛めつけた、あいつらに」

「ううん、それはさっきやったからもう充分。 最後の一人片づけたら、自首するよ」

「……やはり、殺すのか」

「本当は、トビが言う事も正しいかなって思ったんだ。 でもね、さっきの伊集院の言葉で……最後の福島だって、一人でいずれ私を殺しに来ることが良く分かったよ。 だったら綺麗に片づける。 心残りがあるまま、人間社会を後にしたくはないからね」

沈黙が訪れた。トビの管が、もそもそと動いていた。

「最後の奴は手強いかも知れない。 戦闘能力の問題ではなくて、流石に失踪してから日数が経っているし、虐めグループが順番に消えていけば学校も嗅ぎつけるだろう。 明日中に片づけるぞ」

「うん、頑張る」

最後は一人。だから、多少杜撰でも良い。殺せればいい。危険を多少冒しても良い。こっちにはそれだけ有利になっている。

何も希望が無くなっていた人生だった。だが、闇の中に足を踏み入れたことで、何か得られた物は確かにあった。光だけが人生ではない。というよりも、人生からはみ出すことは、ヒトによっては決して不幸ではないのだと、望実は今更ながらに知った。

殺す。トビと一緒に、あいつを喰ってやる。

獰猛な殺意が、生きようと言う意志と一緒に、望実の心の中で燃え上がり続けていた。

 

6,遅すぎた助け

 

獣同然のわめき声を上げながら、両脇から警官に抑えられて男が引きずられていく。たばこを吹かしながら、刑事が一人、それを見送っていた。

男はこの辺りを縄張りにするごろつきの一人で、学校に行っていれば高校生をやっている年齢である。傷害事件を今までに二回起こしており、さっきなどは薬物反応まで出ていた。しかも余罪が多数あることは確実で、何人かの仲間とこの辺りの繁華街で無法の限りを尽くしていた。

この男の逮捕のきっかけとなったのが、友人の逮捕であった。友人も殆ど素行が変わらないごろつきで、駅前でサラリーマンに対して複数で暴行をくわえ、財布を取ろうとした所で刑事が取り押さえたのである。その場にいた何人かも全員、彼と、一緒にいた警官が取り押さえた。そしてそのごろつき達から、さまざまな証言が上がってきたのだ。

刑事の名前は弓山五郎(ゆやまごろう)。今年三十二歳になる。階級は警部補。キャリアでもない身としては異例と言っても良く、文字通りの精鋭だ。事実県警から何度もスカウトされている。有能だが、その一方でとても女性に対して奥手で、しかも巌のような強面なので、周囲に女性の影は殆ど見られない。不器用で女性の扱い方も知らないが、誠実な人間である。単純な戦闘能力、捜査能力は階級に相応しく高いのだが、未だに家庭を持っていないのは、その辺りが要因の一つであろう。

歩いてきた初老の警官が、額をハンカチで拭いながら言う。駆け出しの頃から色々世話をしてくれた大先輩である。当然、階級を追い越した今でも、周囲に人がいない状態では敬語で接している。本当に尊敬している数少ない相手なのだ。

「芋蔓式だな、弓山。 他の連中もすぐに挙げられそうだ」

「はい。 ただ、相手は未成年ですし、何処まで罪に問えるのか……」

「被害者の人権は守られず、犯罪者の人権ばかりが守られる、か。 嫌な時代が来たもんだ。 ……で、だ。 ガキ共の話を聞く分だと、どうやら事件に関係ありそうだな」

無口な弓山も、流石に喜びを隠せなかった。しばし笑みを浮かべた後、表情を改め、亡くなった雪野純に黙祷し、新しいタバコに火を付けた。

弓山はしばらく前からこの事件を追っている。事件とは、雪野純自殺に関連した、柊坂高校のスキャンダルである。

雪野純が自殺したとき、弓山は事件の匂いを敏感に感じ取っていた。ただ、彼が事件に関わったのは捜査も後になってきてからで、その時には既にさまざまなものが遅かった。

主導で指揮をしていたキャリアは柊坂高校と市川家から多額の金を受け取っていたらしく、事件を事故で片づけようとしていた。教師達は口を揃えて虐めはないと言い張り、生徒達は皆被害が及ぶのを怖れて何一つ証言を残そうとはしなかった。さまざまな勢力が、事件を亡きものにしようとしていた。自分の利益のためという、極めて利己的な目的で、である。抵抗した弓山を始めとする一部勢力は、圧倒的多数の行動の前に何も出来なかった。

だが精鋭で知られる弓山はそれで諦めたわけではない。主犯である三人組はここの所警察を舐めきっていて、次々に襤褸を出している。そして今回、連中の周囲にいたごろつき共を抑えることに成功した。此処から情報を引きずり出して証拠を揃えれば、雪野純に対する凄絶な虐めと、それに関連する数々の犯罪行為を洗い出し、巨悪を法定に引きずり出せるのだ。

「後は、三人を抑えなければなりませんね」

「そうさな。 佐伯って子がどうにかなる前に、片づけなければならん」

連中は全く罪悪を感じることもなく、新しい生贄に的を絞って、手ひどい虐めを行っている。それを知ったとき、弓山は理性が吹き飛びそうになった。世の中には真の邪悪と呼べるような輩が実在するのである。しかもきちんとした証拠を揃えなければ、その邪悪は野放しに世を蹂躙し続けるのだ。

不可解な事もある。その三人組の内、二人が授業を欠席しているのだ。一人は昨日から、もう一人は一昨日から。その更に前日から、佐伯望実も欠席している。無断欠席は良くあることなのだそうだが、時期が時期だけに気になる。内偵を進めている人間から情報が漸く届いたとき、弓山は思わず舌打ちしていたほどである。何かとても嫌な予感がする。弓山は今日、佐伯の家に自身向かうつもりであった。

賽は振られ、事態は動き出している。タバコを踏み消すと、弓山は先輩に礼を言って歩き出し、まっすぐ佐伯の家に向かった。巨悪の息の根を止める日は、着実に近づいてきていた。

 

望実は風呂に入りたいなと思った。体中に血の臭いが染みついてしまっている。タオルで拭くだけでは、どうしても限界がある。一度熱いシャワーを浴びたかった。終わるまでは浴びないと決めていたのに、我が儘な自分に少し苛立ちを覚える。

流石に二人も殺して血を浴びると、そろそろ風呂に入りたいと思うようになってくるのが心情というものだ。今までは公園で汲んだ水でタオルを濡らし、それで体を拭いていたのだが、如何に涼しい防空壕の中にいると言ってもそろそろ限界が出てくる。昔の人ならともかく、毎日入浴するのが当たり前の現代に、望実は生を受けたのだ。簡単に習慣は変えられない。

更にまずいのは、血の臭いで鼻が麻痺しかけていると言うことだ。嗅覚がまともに働かないと、どうしても感覚にずれが生じてくる。危険なのは外を出歩くときで、血の臭いをばらまいたら不審感を通行人に植え付けかねない。その辺りの危険性を、今の望実は理解する能力を備えていた。

しかし、それは叶わない願いである。せめて気分だけでもリフレッシュしようと望実は一度外に出て、大きく深呼吸した。外の空気がとても美味しい。死体は二つとも埋めたが、残して並べてある生首だけでも、結構血の臭いが凄いのだ。

山の斜面に腰掛ける。辺りは薄く茂った無数の野草。所どころ生えている椚や木楢。飛んでくる蚊を追い払いながら、望実は緑のかぐわしい匂いを満喫した。嗅覚も随分リフレッシュできた。舞い狂うモンキチョウが、心までいやしてくれる。

さて、これからどうするか。そう考えたときにトビが話しかけてきた。絶妙のタイミングだ。

「三人目は、二人目が呼び出されて失踪したことに気付いている可能性が高い。 恐らく同じ手はもう通用しないぞ」

「そうだね」

「更にまずいこともある。 例の男友達を一人なり複数なり護衛に連れている可能性もある。 今はそれほど可能性が高くはないが、日を置けば急激に増す。 確実に仕留めるには工夫がいるぞ」

二人目の郁美を倒す策は、望実が考えた。トビは必要なアドバイスだけすると、後は望実が自分で考えるようにし向けてくれていて、今もそうなのだろうと感じる。この辺り、一人の大人と認めて貰えている証拠で、望実は素直に嬉しい。今までは人間扱いさえされなかったのだから当然だ。

「追いつめさえすれば、相手は怖がっているだろうから望実が有利だ。 しかし、問題はどうやって一人にするか、だ」

近くで監視する、即ち授業に出れば幾らでもチャンスが産まれる。しかしそれは危険が大きい。警察もバカではないし、簡単にチャンスが産まれるわけがない。スタンガンや護身用のスプレーを持っていっても、尚子の友人の男が襲ってきたら勝ち目は薄い。

こっちが今まで容易に殺せたように、向こうだって殺せる条件は幾らでも備えていると考えるべきである。何しろ三人組の男友達と来たら、女の子を集団で暴行して罪悪感の欠片も感じないような連中だ。類は友を呼ぶという奴で、そんな連中が人殺しに躊躇を覚えるわけがない。一人若しくは少数だったとしても、危険は回避するに越したことはない。

「まずは学校を見に行って、いるかどうか確認しないといけないね」

「今まで以上に注意を払え」

「分かってる。 鉄パイプは置いて行くにしても、スタンガンは持っていく方が良さそうだね」

化粧すると、着替える。持ち出してきた中では、最後の一着だ。他の二つは血だらけで、もう外には着ていけない。

今までも過密スケジュールだったが、今日もそうだ。無駄に出来る時間は一秒だってない。

すぐに防空壕を出る。出来るだけ人通りが少ない道を選んで駆け抜け、土手の茂みに潜り込む。双眼鏡を覗き込むと、ターゲットは学校に来ていた。蒼白な顔をしている。多分気付いたのだ。柚香も郁美も携帯に出ず、何かトラブルに巻き込まれたことを。学校の周囲を念入りに探る。近くに、少なくとも見える範囲に不審な男の影はない。彼方此方監視場所を変えてみるが、見あたらない。

早朝のうちに奴の、尚子の姿を確認出来たのは収穫だった。それにしても、双眼鏡越しに見る尚子のなんと弱々しいことか。ふと、疑問さえ感じてしまう。こいつが本当に悪魔的な虐めを主導し、純を自殺に追い込み、望実を殺して保険金をせしめようと考えたのかと。だが、状況証拠は揃っている。印鑑は動かした後があったし、郁美もあの状況で嘘は言わないだろう。

「好機だな。 何故護衛を付けていないかは分からないが、こうなると我々が俄然に有利だ。 警察もあの娘の言うことは信用しないだろう。 今度は、孤立したのは自分だと、今更に思い知っているのだろうな。 それに、伊集院の話を聞く分だと、あの娘にごろつきを組織的に動かす能力はない。 今なら簡単に仕留められるはずだ」

「……本当にそうかな」

望実には分からない。やっぱり三人組への悪魔的な恐怖は消えていない。今まで上手くいったのさえ、実は取り分を増やすための尚子の策なのではないかと、恐ろしい考えが浮かんでくる。そうなると、網に絡め取られたのは自分かも知れないではないか。

「今のはあくまで仮説だ。 だが、あれは怪物ではなくて人間だ。 望実、もう首を切り落とさなくてもいい」

「やだ。 怖い」

「……とりあえず、一度戻ろう。 家にいるのではなく、学校にいることを確認できたのだから、充分だ。 策を練るぞ」

理性的なトビの声は、望実の心を落ち着かせる要素が確かにある。どっちにしても、今のままでは装備が足りない。戻って準備は進めなければならないのだ。

小走りで道を急ぐ。いつ尚子の男友達が飛び出してくるか分からないから念には念を入れる。通行人に何度かすれ違ったが、いずれも適当な距離を置きつつ、警戒を緩めなかった。だから、その中の一人が、不意に声をかけてきても、対処が出来た。

「! 君は」

「はい?」

おっかないおじさんが声をかけてきたので、望実は思わず一歩退いていた。道の端と端を歩いていて、どうして声をかけてくるのか。長身の、コートを着た強面のそのおじさんは、望実の焦りと裏腹につかつか近づいてくる。

「佐伯望実さんだね」

「は、はい。 そうですけれど」

「警察のものだ」

心臓が跳ね上がる。男が取りだした警察手帳は、確かに本物に見えたからだ。おじさんは弓山警部補と名乗ると、近くの定食屋を後ろ手で指さして、そこで話を聞かせて貰いたいと言った。逆らうのはまずい。周囲に私服警官を配しているかも知れない。

「任意同行はもともと拒否できるものなのだが、しかしそうすると警察に目を付けられかねないな」

トビも逃げることには反対だと言った。仕方がない。言われるままに付いていく。寂れた定食屋にはいると、困惑する望実の前で、弓山はトンカツ定食を二人前注文した。調理場から油の香ばしい香りが漂ってくる。トンカツなんて、コンビニ弁当以外で味わったこともない。

無言の時が続くが、やがて定食が運ばれてきた。ご飯とみそ汁、それにキャベツが山盛りに乗った皿には切り分けられたトンカツが鎮座している。後は漬け物だけ。極めてシンプルで、そして美味しそうだ。ただちょっとボリュームが多すぎて、食べ切れそうにない。奢りだから気にしなくて良いと弓山は言って、ソースを取りながら早速本題に入った。

「今日は覚醒剤の関連で話をしに来たわけではない。 楽にして構わない」

「は、はあ」

「ここ数日欠席しているそうだね。 やはり虐めに耐えきれなくなったのか」

驚いて望実は顔を上げた。例の覚醒剤事件の時、警察の人間はどれだけ望実が訴えても話を聞いてはくれなかったのに。

「知って……いたんですか?」

「すまない。 警察内部にも色々あるんだ。 私は以前「自殺」した雪野純さんの死因を不可思議だと考えていてね。 その過程で、君が浮上したわけだ」

「信用出来ません」

「無理もない話だ。 警察と学校と議員にコネがある市川家とその弁護士が、寄ってたかって雪野純さんの尊厳を踏みにじったようなものだからな。 だが、それも終わりにしたいと私は思っている。 そのためには君の力が必要なんだ」

望実は俯いて、ぎゅっと拳を握りしめた。今更何でそんな話が出てくる。はっきりいって不快すぎる。虐めが始まってからどれだけ時間が経っていると思っているんだ。それに、どうして。どうして今まで話を聞いてくれなかったんだ。

「此処のトンカツはかなり美味しい。 キャベツもおかわり自由だから、遠慮せずに食べなさい」

「あ……はい」

弓山はそう言って黙々と食事を始めた。みそ汁もご飯も、殆ど食べたことがない。母は米をとぐという習慣を持っていなかったし、みそ汁なんて作った所を見たことがない。どんな味なのかなと思ってインスタントを口にしたことはあるが、それだけだ。

温かいご飯に真心の籠もったみそ汁。柔らかく揚がったトンカツは、ソースとキャベツと絶妙に合う。食が進むたびに、涙がこぼれそうになる。普通の人は、こんな美味しいものをいつも食べていたのか。コンビニ弁当で育った望実は、そんな事もこの年まで知らなかった。

「我々はあの三人を追いつめている。 連中の関係者を既に何人か拘束し、犯罪の証言も集まり始めている。 ザカ校に鼻薬を嗅がされた上層部は圧力をかけようと考え始めているようだが、そう考える前に奴らの化けの皮を引きはがしてやる。 その時には、君の証言が決めてとなる。 虐めだって、もうそう長いことは続けさせない。 だから、証言をして欲しい」

「それは、警察としての仕事だから言っているんですか?」

「僕は警官として以上に、一個人として雪野純さんの事件に怒りを覚えている。 あんな無法な行為を二度と起こさせたくはないんだ。 犯人は絶対にゆるさん。 未成年だろうが、絶対に法の捌きを受けさせてやる」

嘘を言っているとは思えなかった。弓山の言葉には強い力があり、だから悲しかった。何もかもが遅かったのだ。何という運命の皮肉か。ひょっとしたら、防空壕に数日立てこもっていたら、それで事態は解決していたのかも知れない。前向きに事態を打開しようとして泥沼に踏み込む。後ろ向きに逃げ続けて却って展望が開けてしまう。何と理不尽な事か。

望実はこの時、世の法則を、神を本気で呪っていた。

乾いた笑いがこぼれ落ちた。皮肉とも言える言葉が漏れた。

「分かりました。 その時には、証言させて貰います」

「ありがとう。 僕の連絡先は此処になる。 今までは少年課の人間が応対していたようだが、これからは僕が直接応対させて貰う。 安心して相談しに来てくれ」

食べきるのは無理かと思っていたのに、いつの間にかトンカツは皿の上から綺麗に消えて無くなっていた。

弓山はそれで望実を解放してくれた。本当に美味しいトンカツだった。手を振って弓山と別れると、望実は言う。

「トビ、神様ってどんな人なの? いるの?」

「……いる、と聞いてはいる。 人間が想像するような存在ではないとも聞いている」

「私、そいつ嫌い。 嫌な嫌な嫌な奴っ!」

吐き捨てると同時に涙がこぼれた。拭っても拭っても、涙はこぼれ落ち続けた。

「気持ちは分かる。 あまりにも皮肉な運命だな……。 すまない。 私の存在が、事態を却って悪化させたかも知れない」

「あの人結構仕事が出来るみたいだけど、それでもあいつらをどうにか出来たかどうかは分からないよ。 それに時間が経てば警察が来て、福島じゃなくて私を逮捕するに決まってる。 刑務所から出たら、福島の奴、私を殺しに来るに決まってる」

それは一種の被害妄想であったかも知れない。しかし、絶対に無いとも言いきれない事でもあった。

今の弓山氏の話を聞く事で、ようやく疑惑は氷解した。尚子が蒼白になっていたのは、運命共同体である親友二人に加えて、実行戦力であるカレシまでカードとして使えなくなったからだ。だが、その事態はいつまでも続くわけがない。

好機は今しかない。

神よ嗤え。

こうなったら悪魔の掌の上で、狂い死ぬまで踊り続けてやる。

 

弓山は望実が家にいないことを確認した後、彼女が通る可能性が高い道を率先して歩き回り、捕まえることに成功した。そんな鋭敏な彼だからこそ、感じたものは少なくなかった。

弓山は望実と別れた後、敏感に危険な匂いを感じ取っていた。勘ではない。幾つかの具体的な不信感に基づくものである。

例えば望実は、弓山に呼び止められてから、何か躊躇する様子があった。更には会話の途中で苦しそうな顔もしていたし、思い詰めてもいた。それでいながら、普通の人間よりずっと平静に、それらを押さえ込んでもいた。それだけではない、もっと危険な要素を感じ取ったような気がする。

署に戻って情報を整理し、部下の得てきた新しいデータを整理しながら、弓山は違和感を消せなかった。それに気付いたときには、かなり時間がたってしまっていた。

そうだ、血だ。弓山は呟く。そう、違和感の正体は、若干の血の臭いである。気のせいではない。無惨な現場を散々見てきた弓山は、望実の髪に付いたわずかな血の臭いを、確実にかぎ取っていたのである。

まずいな。最悪の想像にたどり着いた弓山は、そう呟いていた。すぐに信頼できる部下に連絡を取り、周囲の聞き込みを指示した。そして自身は、身を翻して望実を捜すべく小走りでその場を離れた。最悪の事態を実現させてはならない。もう悲劇を起こしてはならないのだ。

焦りと裏腹に、望実の姿は影も形もなかった。佐伯家のインターホンは、空虚に鳴り続けるだけであった。全ての最悪の想像が本当になったことを感じる。こうなったら福島尚子を抑えるしかないが、間に合うか。弓山五郎警部補は、この事件に関わってから、二度目の絶望を感じていた。

 

7,三人目。そして……

 

持ちだした金は全て使い切った。ニット帽とサングラスにつぎ込んだのである。更に手元には、握りの辺りまで返り血に染まった鉄パイプ。そしてリヤカー。土手で双眼鏡を覗き込む望実は、最後の標的が学校を出たのを捕捉した。

ニット帽もサングラスも、時間稼ぎ用である。今回は始末する時間さえ有ればいい。

尚子は人通りが多い道をわざと選びながら、小走りで家に急いでいた。この様子だと、カレシと連絡が取れなくなったのは今日のことなのかも知れない。悪知恵の泉である尚子の思考が、今の望実には手に取るように把握できていた。

別に人通りなど多くたっていい。高校生、特に女子だけなら、犯行を目撃しても何も出来はしないのだ。ただ、あまり時間をかけられると、悲鳴を上げられたりしてうるさくなる。襲撃から逃走まで想定時間は40秒。それまでに、速攻でケリをつける。

双眼鏡を仕舞うと、リヤカーを引いて駆ける。時々すれ違う通行人は、流石に何事かと視線を向けてきた。最終作戦だから別に良い。長くその場に留まらなければ、警察に抑えられる可能性も低い。後は警官そのものに見付からないように気をつけるだけだ。裏道を選んで望実は駆ける。

見つけた。

流石に入り組んだ人通りの少ない裏通りは危険だと判断したのだろう。この辺り、柚香や郁美より手強い。車の交通もある大通りを、辺りを警戒しながら歩いている。更に、前後には合計六名の高校生がいた。二人は男子だが、尚子より百メートル以上前を歩いている。残りの四人は女子で、二人ずつ二グループになり、ぺちゃくちゃ喋りながら尚子には視線も向けていない。素早く移動して、隠れる。

リヤカーのござの下から、鉄パイプを取り出す。これで最後だ。

大通りに直角に交差した脇道の、電柱の影。そこに望実は潜んだ。となりにはゴミ箱があり、猫が一心不乱に漁っている。大きな銀蠅が羽音うるさく飛んでいた。其処から出て、歩き出す。タイミングは一瞬だ。道幅は二メートル程度。その端から、小走りに福島尚子が顔を出す。

福島あっ!

望実が発した叫び声と共に、一瞬尚子が止まる。タイミングは完璧。振り下ろした鉄パイプが尚子の頭頂部を直撃し、犠牲者は横倒しにどうと倒れた。眼鏡が吹っ飛んで車道へ飛んだ。周囲の空気が凍る。素早くリヤカーを引いてくると、痙攣している尚子を詰め込む。ようやく後ろから来ていた女子生徒が金切り声を上げた。

「きゃあああああああああああああああっ!」

ダッシュでその場を離れる。体が軽い。殺しを始める前に比べて、明らかに体中の筋力、それに知力が桁違いに上昇していた。入り組んだ裏路地は望実の味方だ。右往左往する女子高生共を後目に、すぐに望実はその場から存在しなくなった。鞄も回収した。ジャスト40秒とはいかなかったが、所要時間は45秒に抑えた。

今回で最後だ。だから事件性を発生させても良い。それでこの方法を思いついた。大胆極まりないとトビは言ったが、此奴さえ殺せばもうあとは自首するつもりなのだ。

山へ逃げ込む。多分もう警察は動き出している。防空壕に駆け込み、サングラスを捨て、ニット帽も投げ捨てる。急いで尚子をガムテープで縛り上げ、転がす。生首が二つ、それを虚ろな目でじっと見ていた。

やっと、終わる。これで、終わる。

尚子の顔を蹴飛ばす。呻きながら奴は起きた。もう尋問することもない。更には、腕も充分上がった。

望実は鉄パイプを振り上げると、情け容赦なく、尚子の頭に鉄パイプの雨を降らせていた。

殆ど悲鳴も上げず、尚子は息絶えた。首を切り落とす気にもなれなかった。

涙がこぼれてくる。凶熱の冷めた後には、涙腺の決壊が待っていた。

やっと、これで生きられる。理不尽な暴力に蹂躙されてきた人生も終わりだ。サングラスを拾うと、望実は柚香の生首にかけた。死後硬直していて、上手く掛からなかった。ニット帽は郁美の頭に被せてやった。

鉄パイプはもう必要ない。だから、その辺に転がして置いた。

異臭がする。尚子の宿便だ。だが、血の臭いに紛れて、我慢できないほど酷くもない。尚子の鞄を漁ると、手編みらしいマフラーが出てきた。微笑ましい物体だが、これを創る過程でどれだけの弱者が踏みにじられてきたか。

それを枕に、望実は寝た。起きたときに、警察に踏み込まれるかも知れないが、それもまた一興である。それに、契約通り、トビにご飯を食べさせてあげなければならなかった。

疲れ切った頭も体も、すぐに眠りに馴染んだ。血の臭いのただよう地下の王国で、食人姫は、静かな眠りについたのであった。

 

三人目ともなると、流石にかなり手慣れてくる。今回は先に胴体から食べることにした。

前と同じようにトビが幽霊を死体から引きずり出して、首を切り落とした後。望実は死体のお腹に顔を突っ込んで、そっちからもしゃもしゃと食べ始めた。たまにはこんな豪快な食べ方も乙なものである。小腸を引っ張り出して食いちぎり、心臓を掴みだして一口にする。やせ形の尚子だが、お腹にはきちんと脂肪が付いていて、少し笑えた。胴体を先に全部食べ終えてしまったので、手足は後だ。この食べ方もなかなか面白い。

最後に残した右手を囓っていると、トビが言った。

「律儀だな、望実は」

「え? どうして?」

「辛かっただろう。 もうこんな事は考えずに、逃げてしまっても良かったのに」

「……トビがいなければ、多分私、あいつらに捕まって死ぬまで殴られてたよ。 結果として色々不幸なことになったけれど、私は何も恨んでない。 何十年かぶりの食事なんでしょ? だったら素直に好意を受けてよ」

右腕も程なく食べ終えた。不思議な味である。一人ずつ違う。ぴいぴいわめいていた尚子の頭がトビの口へ消えると、辺りには静寂が訪れた。それをうち破ったのも、またトビであった。

「……望実」

「ん?」

「もう気付いているようだが、お前の魂は変質を始めている。 既に人間より、我々に近い存在になっている。 ……力の使い方に慣れれば、いやすぐ慣れる。 そうしたら、もう人間如きに捕まる可能性は低くなる。 逃げろ。 このままでは、お前の人生は永久に暗闇の底……」

「いいんだよ、もう。 私はもう人生に未練もないし、暗闇も悪くないと思ってる。 それに……酷い目にばっかり会わされたけど、それでも私がこの年まで生きられたのは、社会ってものに守られ続けたからなんだ。 だから、社会的な、法的な償いはする。 でも、それが終わったら、もうこんな生物が作った社会とは縁を切るつもりだよ」

再び浮かべることが出来るようになった笑顔を、望実はトビに向けた。

「ありがとう。 へへ、不思議だね。 初恋の相手が、人間じゃなかったなんて」

「私こそありがとう。 おそらくもう会うことはないだろう。 私はそもそも地獄と呼ばれる世界の、しかも深層の生物だ。 それに今回の件で良質の魂も得たし、帰らなければならない。 ……この世界より遙かに広い其処で、私を見つけることは無理だろう。 人生を放擲するにしても、お前は自分の道を行け」

「うん……。 さようなら、トビ」

「さらばだ、望実」

空気が一点に凝縮していくような音。それがぷつんと途切れる。それっきり、トビの声は聞こえなくなり、気配もかき消えた。

どうして時々悲しそうなのか、望実には分からなかった。しかし、今ようやく分かった。

トビは望実に幸せになって欲しいと何処かで思っていたのだ。だけど、幸せの定義は決して一つではない。

人間を続けることだけが幸せではない。そう望実は思った。

 

目を開けると、まだ警察は踏み込んできていなかった。少し寂しいとは思う。事実涙は止まらなかった。ハンカチで目を擦って、外に出る。もういつ捕まったって構わない。荷物は鍵以外全部防空壕に置いたまま、望実は早朝の町に出た。

雀が鳴いている。清々しい朝の空気。血に染まった望実が歩いているのに、それにはなんの変化もないように思えた。途中、やくざっぽい人と肩がぶつかる。ドスの利いた声で望実の肩を掴んだそのおっさんは、目を見た瞬間手を引き、謝って去っていった。理由は分からない。舎弟らしい人を怒鳴りつけているのが聞こえる。耳の感度も、すこぶる良くなっていて、会話も根こそぎ拾うことが出来た。

「兄貴、何であんな小娘に謝ったんすか?」

「バカヤロウ! あのガキの目、見なかったのか!」

「はあ、まあ……」

「あの目は一度前に見たことがある。 組事務所に乗り込んできた、頭がイカレたヒットマンと同じ目だ。 モノホンの鬼の目だよ。 鬼のな……!」

苦笑して、望実は自宅へ急ぐ。途中警官が何人かパトカーでパトロールをしているのを見る。だが、望実には注意を払わないようだった。あまりにも望実が堂々と歩いているからであろう。

ついに自宅に付いた。鍵を開けて入る。母はもう出かけたようで、家に人の気配はなかった。

風呂を沸かす。湧くまでの時間が少しだけ苛立たしい。風呂が沸いたという旨のアナウンスが流れてから、浴室に入り、シャワーを浴びる。決めていたとおり温度を最高に、水圧も最強にして。気持ちいい。頭も洗って、お気に入りのシャンプーをする。まだ少しだけ残っていたのが嬉しい。湯気の中、鼻歌さえ漏れていた。

シャワーをたっぷり浴びた後は風呂へ。手足を伸ばして、深呼吸。久しぶりの、完全無欠なリラックスタイムであった。ただ、問題はバスタオルの予備がなかったことだ。母は洗濯など当然しない。仕方がないので何個かハンドタオルを持ってきて、それでお湯を拭き取った。

下着のまま箪笥を開けて、よそ行きの服を引っ張り出し、着替える。これから当分帰って来られないのだから、失礼の無いようにしなくては行けない。後問題は、この家の管理だが……それはあの弓山さんにでも相談するとしよう。そう考えていたとき、複数の車が家の前で止まる音。間髪入れずチャイムが鳴った。思ったよりも早かった。いや、最適のタイミングといえるか。

本当に嫌な嫌な嫌な奴だ、神って。望実はそう思った。こんな時にだけ、ラッキーを運んでくるのだから。風呂入っている途中に踏み込まれたら、目も当てられなかった所である。

玄関を開けると、弓山さんが、何人かの警官と一緒に立っていた。彼は望実の格好を見て、全てを察したようだった。

「残念だ、こんな事になって」

「弓山さん。 一応、聞かせて貰えますか?」

「もう観念しているのだろう? 目を見れば分かる。 ……市川柚香、伊集院郁美、福島尚子の失踪に君が関与している可能性が非常に高い。 署で、事情を聞かせて貰えないだろうか」

望実は靴を履くと、手錠をかけやすいように、両手を前に出して言った。

「私が三人とも殺しました。 手錠、どうぞ」

「……そうか」

「手錠、かけないんですか?」

「君はもう覚悟を決めているし、最初から捕まる気だったのだろう? ならば、その必要はない。 佐伯望実、殺人の容疑で逮捕する」

警官達はすぐに動くが、案外親切だった。乱暴に抑えられもしなかったし、手錠もかけられなかった。コートを被せられて、左右から警官に連れられて、パトカーの後部座席に乗せられる。隣に乗った弓山さんに、小首を傾げながら望実は言った。

「最初に私と会ったときには、もう疑ってましたよね? あれからどうやって私にたどり着いたんですか?」

「君が使えそうな適当な武器のリストを洗い出し、其処から聞き込みをして、ホームセンターにたどり着いた。 福島尚子の襲撃事件で、犯人が使っていた鉄パイプが、君の買った物に酷似していた。 それだけだ」

「流石プロですね。 うふふ、凄いです。 あのホームセンターのおじさん、いい人でした。 あんな人がお父さんだったら、私もう少し頑張れたのかなあ……」

「どうしてこんな事をした。 君には未来があっただろう」

「……それは、署で話します」

未来なんか、犯行を決意した時点では、存在していなかったのだ。

無罪を主張する気などはない。ただし、自分自身が直面した事件は、全て正確に世間へ公表するつもりであった。振り向くと、家が見えた。これで見納めだなと、望実は思った。

 

8,茶番劇

 

女子高生の連続殺人事件。更に、その犯人が同級生だった。この一大ニュースは、電撃的に日本中を駆けめぐった。

防空壕からは見るも無惨な三体の亡骸が発見され、そのうちの二体は首を切り落とされていた事がすぐに知れ渡った。残虐な殺害方法、覚醒剤窃取による補導歴、異常な家庭環境がクローズアップされ、望実は無能なマスコミによって生来のサイコキラーだと喧伝された。望実の実家の周囲には黒山の人だかりが出来、心神喪失状態にある望実の母に連日容赦ない罵声が浴びせられた。

これを覆したのが、硬派で知られる某週刊誌の告発記事である。

それによって柊坂高校の凄まじい内部腐敗、殺された三名が日常的に行っていた言語を絶する虐めが公開された。望実の自室から発見された首つり用のロープ、死ねの二文字、それに被害者達の周囲にいたごろつき共の無法ぶりが明らかになるにつれて、マスコミの発行部数稼ぎを目的とした叩き行為はエスカレートし、双方にシンパが付いて醜い争いが始まった。

ただ、時間がたつに連れて、被害者が不利になっていった。調査が進むに連れて、雪野純自殺も表沙汰になり、それに被害者達が関与していたこと。被害者の男友達の一人が、集団によるレイプを自白したこと等が次々と明らかになっていったのである。

ザカ校の生徒達も徐々に証言を開始、それを元に被害者三名の凄まじい日常的凶行が表に出るようになった。

精神病院に通う、彼女らの犠牲者に対する週刊誌の強行インタビューが刑事事件に発達したほか、柊坂高校の教師陣は「責任を取る」という形で相次いで辞任、失踪する者もいた。雪野純自殺事件の指揮を執ったキャリアは辞職に追い込まれ、市川家の関連企業は軒並み業績を悪化。ついに市川家当主が記者会見で頭を下げるに至って、事態の白熱は一時沈静化することになる。

裁判にもマスコミの関心は集まった。ただ、あまりにも被害者側に不利な条件が揃いすぎていた。

望実は協力的に警察に事情を全て話し、資料は整備されていた。それに裁判でも聞かれれば自分に不利なことであっても躊躇い無く話した。その潔さに、時々傍聴席からは感心の声まで挙がった程である。また、虐めの生々しい証言は警備の者達まで蒼白にさせるほどで、口を押さえて傍聴席を後にする者も少なくなかった。

ただし、此処日本は法治国家である。三人を殺したという以上、無罪というわけにも行かない。望実が追いつめられていたのは確定事項として、どれほどの罪に落ち着けるかが、裁判の焦点になっていた節がある。判例も少なく、裁判は困難を極め、そのうちに事件に対する世間の感心も薄れていった。

二年越しの裁判の結果、判決が出た。

意訳すると、内容は以下のようなものである。

「被告、佐伯望実は、極めて劣悪な環境下で生命の危険を感じるほどの激しい虐めを受け続けていた。被告はその前後で警察や教師、児童相談所等に必死の相談を行っているも受理されず、自宅に侵入されて自殺用の設備を整えられるという狂的な事態にて、生命維持のために被害者の殺害を決意したのは客観的な事実である。被告が身を置いていた環境には同情を禁じ得ないものがあるが、冷静に動けば三人もの同級生を殺す事態を避けることが出来た可能性も否定できない。また、殺害は極めて計画的かつ残虐であり、無罪という弁護側の主張は受け入れることが出来ない。よって、被告には懲役十年、執行猶予三年の処置を言い渡す」

傍聴席にいた弓山が、ほっと嘆息するのを、被告席にいた望実は確かに聞いていた。執行猶予というのは、その間に罪を犯さなければ、懲役が免除されるという措置である。望実は生き残ったのだ。

その後、望実は自宅で三年間じっと大人しく生活し続け、それを終えた後、失踪した。その時には彼女の母は既に他界しており、財産は全て望実のものになっていたのだが、それを置いての蒸発である。さまざまな噂が飛び交った。曰く、お礼参りにあったのだ。曰く、市川家が雇ったやくざに殺されて埋められたのだ。曰く、彼女はやはり生粋のサイコキラーで、今でも獲物を求めて街をさまよっているのだ。最後の噂は都市伝説となり、十数年後まで柊坂高校に残ることとなった。

ただ、真相は、それら全てと違っていたのだが。

佐伯望実は、社会に対する義理を果たしたから、いなくなったのである。それが、佐伯望実が、人間社会に対するけじめとして行い、別れを告げた儀式であった。

後、人間佐伯望実を、見た者はいない。

 

終、喰人鬼

 

腐臭を放つ二級河川の岸、鉄橋の高架下。特急電車ががなり立てる凄まじい騒音の中で、激しい暴行を受けている男子高校生がいた。小柄な彼に、寄ってたかって三人の不良学生が蹴りを加えており、罵声を容赦なく浴びせている。

「十万だっていっただろうがっ! 金が無えじゃすまされねえんだよっ!」

「てめえの親からパクってこいって言っただろうが! 耳も聞こえねえのか? 死ねッ!」

激しい暴力の中、蹲った高校生をなお容赦なく不良共は蹴りつけていたが、やがて明日までに十万を用意しろ、次はこんなものでは済まないと言い捨てて去っていった。

彼らは途中まで夜の繁華街で一緒にいたが、一人はクスリが切れたため、友人達と別れて裏路地に入っていった。カツアゲで生計を立てている彼らは、クスリを買う金や風俗に通うために、更にはストレス発散と自身の快楽のために暴力行為を続けている。カモにされている男子生徒は十人近く、彼らから月五十万以上も取り上げているにもかかわらず、常に財布は軽かった。

苛立ちが募る。無性にムシャクシャして壁を蹴りつけていた彼の耳に、近づいてくる足音が入る。

近づいてくるのは女だった。壁を蹴るのをやめて、女を見ていた不良学生は、やがて全身に震えが走るのを覚えていた。

黒づくめの、小柄な女だ。髪は長く、腰の辺りまで伸びていて、夜風に揺れている。顔立ちは地味で、化粧をすれば綺麗になりそうだ。化粧さえすれば。特に特徴が無い女だが、普通と違うものが二つ。社会の底辺を這いずっている不良学生でも見たことがない強烈な闇を湛えた瞳と、そして影だ。ネオンの明かりを受けて女が引きずっている影は、明らかに人間のものではなかった。前後左右に巨大に広がり、うねうねと触手のようなものが蠢き、そして。

女が楽しそうにいう。

「いっただっきまーす」

ぐしゃり。不良学生の人生は、汚らしい音と共に終わった。

 

口を開けて、閉じただけ。佐伯望実はそれだけの事をして、不良学生をこの世から自分の口中へと移したのである。単純明快な補食行為だった。ただ、ちょっとした世界の理に対するねじ曲げを行ったが。

最初にぷっとはき出したのは、血だらけの財布である。それはさっきまで不良学生が蹴りつけていた壁にぶつかり、転がって止まった。あまり美味しくも無さそうに望実はしばし口をもごもご動かしていたが、やがてがちりと言う音と共に、思いっきり眉をひそめた。

口に指を突っ込んで、それを取り出す。糸状の肉片が絡みついた、ベルトのバックルだった。ただ、原形を残さず、燻し銀の輝き持つただの金属片と化していた。バックルの残骸に付いていた肉をちゅるりと啜り込むと、望実はちょっと火傷したべろを出してぼやく。

「シルバーだよもう。 最近の不良学生はジャンクフードだのファーストフードだので肉はまずいしシルバーは付けてるし、最悪だ」

がしがしとバックルの残骸を踏みつける。動作は妙に幼さを残していた。望実は二十歳になってから老いを覚えていない。その頃にはもう完全に人間を辞めていたし、力も使えるようになっていたからだ。故郷の街を離れて、もう随分になる。大阪にも行ったし、京都にも行った。海外もふらついて、最終的に東京に落ち着いた。海外の都市は獲物の条件を満たした人間が多すぎて、理性が飛びやすいのだ。獲物の量が適当である東京が、一番望実の生存には適していた。

ハンカチで拭いてから、財布を拾い上げる。最初に此奴を仕留めたのは、カツアゲした金を財布に入れていたからだ。全部で五万入っている。残りの二人は後で仕留めるとして、こっちを先に片づけなければならない。

高架下では、まだ男子生徒が泣いていた。体中痛いのだろう。望実は彼の側にかがみ込むと、肩をさすりながら言う。

「女の人の前で泣くなよ、少年」

「ひっ、ひっぐ、ひっ……ご、めんな、さい……」

「ほら、お金取り返しておいたよ。 それと、こういう事があったら、すぐに警察にでも児童相談所にでも連絡すること。 今は昔と違って、大分状況良くなってきてるから」

「あ、ありがとうございます、ありがとうございます!」

頭を下げる男子生徒。その頭を撫で撫ですると、望実は再び夜の街に戻った。今日の夕食がまだ終わっていない。男子生徒はじっと望実の後ろ姿を見ていたが、やがて駆け去っていった。それでいい。

すぐに獲物が見えた。愚かにも、路地裏に入っていく所だ。いなくなった仲間を捜しているのだろう。丁度いい。二人同時というのも悪くない。舌なめずりすると、望実は歩調を早めた。

夜の街から、更に二人の人間が、跡形もなく消えた。

 

(終)