相対す、それが故に
 
1,イギリスへ
 
新世塾スキャンダルと呼ばれる前代未聞の怪事件が勃発し、日本全土を震撼させた夏よりしばしの時が経過し、季節は冬へと移り変わっていた。
 その事件に一見無関係ながら、実は震央にて関わっていた少年、三科栄吉は、高校二年生の冬を迎え、相変わらず番長を続けながら、自称ビジュアル系のヴォーカリストとして、自らの存在を音楽の中に発見すべく活動を続けていた。若さがもたらすエネルギーを、音楽の中で爆発させる。それは強烈な自己主張であり、しかも形になる自我を実感できる行動であり、彼にはたまらない快感と陶酔を呼び起こす行為だった。今までは、間違いなくそうだった。
 だが、彼の創作活動は袋小路に入り込んでいた。どうしても新たな曲が作り出せなくなり、創作意欲を失うばかりか、日常の行動にも精彩を欠くようになったのである。
 ナルシストである彼は、自己分析を(主観の要素が非常に大きかったが)常日頃から行い、それによって解析される自分の素晴らしさに酔っていた。いつもはそれが正の方向に働き、彼の強みとなっていたのだが、それが今度は負の方向に働いた。彼は薄々ながら、自分の不調の理由に気づき始めたのである。
 原因は一方向的な思考にあった。彼は、弱きを助け強きをくじく正義の番長であった。それは大変に結構な事であるのだが、同時に悪の存在を許せない心の狭さを持つことも意味した。彼は親身になって弱者の相談を受け、弱い者いじめをする屑を叩きのめした。その行動には信念があったが、同時に妥協が無く、当然恨みも買った。屑の恨みを買うことなど彼は気にしなかったが、それが新世塾スキャンダルの際にある事件を引き起こし、迷いを産む要因となった。その事件が発端となり、少年は自分の正義を疑い始めていたのである。
 数ヶ月間は、いつもと変わらなかった。しかし、今はその迷いは大きくなり、彼の心に居座っている。創作活動は休止状態になり、悶々とする心を引きずって、彼は日々を送っていた。
 栄吉が通う春日山高校は、普通の学校より少しだけ冬休みが長い。これは開校以来の伝統で、もうその理由を知る者は教師の中にさえいないが、その様な事など関係なしに、生徒達にはありがたいことである。
 冬休みは明日からである。数ヶ月前の彼なら喜び勇んで、創作活動に打ち込むべく計画を練っただろう。だが今の彼はメイクも落として、自室で天井を眺めて怠惰な時間を送っていた。豪快でずぼらな父でさえ心配するほどに、彼は活力を喪失し、瞳の輝きを失っていた。
 そんなおり、栄吉に手紙が届いた。その硬質の字に、彼は見覚えがあった。新世塾スキャンダルの際に知り合った、唯一彼が崇拝する漢、南条圭の物だった。久しぶりに目を輝かせ、体を乗り出して手紙を読む栄吉の目に、次のような文面が映った。
「栄吉よ、漢となるべく大望を抱き、日々精進して過ごしているか?  俺は英国にて一番の日本男児になるべく修練を絶やさず、目指す物へと一歩一歩近づいている。 まだ目指す物は果てしなく遠いが、俺の大事な者達が傍らにいる以上、それは必ず果たせる、実現可能な夢であると確信している」
 栄吉は羨望を感じた。流石に目指す人は、自分の一歩も二歩も先を行っていると思ったのである。万年筆で書かれたらしい字には圧倒的な自信が溢れており、古風で高圧的でありながら、不快感は感じず読みやすい。近況を告げる語句がその後にしばらく続き、最後の辺りで、不意に内容が変わった。
「ところで、暇はあるか? というのも、ナイトメアがお前が良ければ手伝いにきて欲しいそうなのだ。チケットは手紙に同封するから、気が向いたら来るといい。 いやなら構わないから、チケットは売却しろ。 ナイトメアには俺から言っておく」
 その後には連絡先、英国での注意事項などが書かれていた。簡単な日常会話や、困ったときの対処法まで書いてあり、南条の細かい性格が伺える。チケットの日付は明後日の朝日本発、その五日後の夜にイギリス発となっていた。(ちなみにこれは、南条がたまたま入手したもので、購入したものではなかった)向こうに行けば約四日間、あの〈姐さん〉に、雑用にこき使われるのは分かり切っていたが、栄吉はしばらく考え込むと、行くことを決めた。一旦決断すると、彼は行動が早い。身の回りの物を整理して、旅行の支度をする。両親にイギリスへ赴く故を伝え、承諾を半ば無理矢理得ると、次はガールフレンドである華小路雅に電話し、数日間の留守を告げた。誰よりも栄吉の不調を悟り心配していた雅は、栄吉の声が精彩を取り戻しているのを感じて喜んだ。こうして栄吉は、疾風としか形容し得ない勢いで準備を整え、イギリスへ向かったのである。
 おそらく彼は、イギリスへ赴く事が、この上もない気分転換になると、無意識的に悟っていたのであろう。そしてこれが、怠惰な時を過ごした数週間よりも、遙かに密度濃く身の肥やしとなる四日の始まりでもあった。
 
2,英国の風景
 
 飛行機の旅を終え、英国に着いた栄吉は、早速予想通りの展開を味わうことになった。空港に迎えにきた南条の執事松岡に迎えられ、別荘に付いた彼は、汗を拭いながら荷車を引いているナイトメア・ナナミと正面から出くわしたのである。ナナミは相変わらずの冷酷な眼差しで、栄吉は愛想笑いを浮かべながら冷や汗を流した。数ヶ月前、重い野菜を背負わされ、坂道を散々歩かされた事を思いだしたのである。
 この、十歳前後の少女の姿をした悪魔は、自身の名を名乗らず、ナイトメアと種族名で自分を呼ぶ。そして、南条を除く人類全てが、彼女の本名を知らない。これは悪魔の本当の名前が強力な魔力を持ち、敵対者に知られようものなら身の破滅を意味するからである。逆にそれを明かすというのは絶大な信頼を意味しており、南条がいかに彼女に信頼されており、また彼女を信頼しているか、この一事だけでも明らかであった。無論、以上の事情は、栄吉の知るところではないのだが。
 ともあれ、ナナミは満面の笑顔で栄吉を迎えるようなことはなく、荷車から手を離すと口だけ笑いながらいつもの口調で言った。実は、彼女は栄吉を非常に苦手としているのである。栄吉は気付いていなかったが、ナナミにとって彼は、南条の旧友黛ゆきのと並ぶ数少ない苦手な相手の一人だった。
「久しぶりですぅ、栄吉おにーちゃん。」
 口調だけは実にかわいらしい。だが彼女と接するようになると、常人はこの声を聞くだけで縮み上がるようになる。南条の友である上杉秀彦は、特にその傾向が顕著だった。戦闘の際の、容赦ない苛烈な戦術と、残虐性を見せられた後は特にである。栄吉は喧嘩巧者であっても、命のやりとりをしたことがないから、ましてナナミとともに戦ったことは一度もないから、それは知らない。だが、やはり修羅場をそれなりにくぐっているだけあり、ナナミの危険性には薄々気づいていた。
「あ、姐さん、お久しぶりっす」
「早速で悪いですけど、この荷車を運ぶです。 ダーリンの夕食も入ってるから、中身傷つけたらぶっ殺すですよぉ」
 ハンカチで汗を拭う彼女の口はともかく、目は全く笑っていない。実際に荷車の中に入っている新鮮な野菜や卵を傷つけたりしたら、栄吉は何をされるか分からないだろう。これらの食材は、ナナミがあちこちの農家を回って、最良の素材を直接安く買い付けてきた物で、味、新鮮さ、栄養、いずれも申し分のない物である。慎重に荷車を引きながら、栄吉は笑顔でナナミに語りかける。
「ところで、姐さん。 兄貴はどうしてるっすか?」
「大学。 資料整理に行ってるです」
 栄吉が残念そうな顔をしたので、ナナミは彼が敬愛する〈兄貴〉に悩みを相談したい事を敏感に悟った。正直な話、ここで相談を持ちかけられたら彼女は困る。理由の一つには、南条とナナミは、根本的な思想自体が異なる事があげられるだろう。栄吉に、彼女が自らの思想からアドバイスをした所で、目指す所が南条と同じ所にある少年には決してプラスにはならないだろう、と現実主義者のナナミは考えたのだ。また今一つの理由には、ナナミが、無邪気で真っ直ぐな瞳で真剣に頼られるのが何よりも苦手だという事があった。
 別荘は南条の人となりを示すが如く、質実剛健な作りで、中は実用を重視し、外には素朴な風流さがある。地下は一階、地上は二階。地下はナナミの専用室と倉庫、一階はキッチンとダイニング、それにリビングがあり、南条の書斎がある。二階には三人の寝室、それに予備室があった。予備室は松岡の個人的な物が幾つか置いてあり、帝王教育用の書物が何冊かあったが、布団を敷くスペースは充分にあった。庭の掃除及び手入れは松岡、食料の仕入れ及び料理はナナミ、掃除はナナミと松岡で分担、という風に、それぞれに家事は分担している。南条も最近は家事を手伝おうとしているが、勉学には千事が万事完璧な彼も家事にはいたって疎く、現在でも普通の人間の何倍も時間が掛かってしまう。特に料理の腕はとんでもなく酷く、数度の失敗の後は誰も彼に料理をしてくれとは言わなかった。本人も料理よりも有益な事に力を注ぐべきだと考え、更に料理の失敗で無駄になる食材の事をもったいないとも思ったので、今は料理の腕を上げる事を念頭から排除している。誰にも得意な事と苦手な事はあって当然である。
 栄吉は音楽用品を除くと、殆ど身の回りの物しか持ってきていなかったので、松岡が予備の布団を一式出してきた。ベッドに予備はなかったので、フローリングに布団を直接敷く事になる。予備室に四日分の居場所を確保すると、栄吉は、ナナミが恐れていた事を口に出した。
「実は姐さん、相談があるっす」
 番長などと名乗っている事からも分かるように、栄吉は、南条同様古風な価値観の持ち主である。正座し、真剣な眼差しでナナミを見据え、心の内を吐露する。困ったナナミは、無表情で感情の暴発を避けた。
「俺、恥ずかしい話ながら、歌が作れなくなっちまったんすよ。それどころか、こう、なんて言うか、心の中がもやもやして、何もする気が起きなくて……実をいうと、ここへ来たのも、兄貴の手伝いをしたい以上に、これを相談したかったんすよ」
「ふうん、いわゆる鬱病ですかぁ?」
「いや……それは……多分違うかと」
「ふむ、ならば。 どれ」
 ナナミは栄吉の額に手を当てた。その手は小さく、体温は低い。元々夢魔の彼女にとって、人の心の分析は専門分野である。彼女は、栄吉が新世塾スキャンダルに震央でどのように関わっていたか、またその内に眠る絶大な力の存在を知っていた(そもそも、それを解決した中心人物の一人がナナミであったのだから、当然であろう)ので、強大無比な潜在能力を感じても驚かなかった。精神は不安定であったが、鬱や躁というような状態ではなく、ただ道標を失って迷走しているような感じだった。簡単な診察をするふりをしながら、ナナミは栄吉に近況を色々聞き、答えを頭の中で分析して彼女なりに結論を出した。
 新世塾スキャンダルの三年前、ナナミと南条の出会いとなった事件〈セベクスキャンダル〉の際、南条が陥った心理的状態に、現在の栄吉の状態は良く似ていた。自分の正義を信じられなくなり、何もかもに精彩を欠いた事が、南条にもあったのだ。
「……とりあえず、ダーリンが帰ってきたら、皆で栄吉お兄ちゃんの曲を聴いてみるですぅ。 芸術家のスランプはもろに作品に出るから、たぶんそれでわかるです」
「ええっ! そんな、急に言われても、心の準備が」
 ナナミの蒼い瞳が激しく静かな嵐を映し、栄吉は息をのんだ。
「バカ言うな。 お兄ちゃんは、芸術家として、一体どの辺りのレベルを目指してるんですかぁ? 場末の安酒場で、日々の生活がやっとの金で歌う流し? 一年だけ脚光を浴びて、すぐに消えていく有象無象の自称アーティスト?」
「そんな、俺が目指すのは、兄貴と同じ頂点っすよ!」
「だったらびびってんじゃない! たかが三人の前で歌えずに、頂点を目指すとかほざくな!」
 鋭い一喝は、栄吉の肺腑を貫いた。息をのむと、少年はうなだれ、そして数秒の後決意に満ちた表情を作って顔を上げた。
「分かった! 俺も男だ! 姐さん達の前で、俺の最高の歌を披露してみせるっすよ!」
「よし、その意気です。 期待してるですよぉ」
 ナナミは今日初めて、口だけでなく、顔全体で笑みを浮かべた。そして少年の肩を叩くと、階下に降りていった。彼女の〈ダーリン〉が帰ってくるまでに、することが幾らでもあったからである。そう理由をつけて階段を下りきった彼女は、めまいを覚えて壁により掛かり、吐息した。
「つ……疲れる。 勘弁してほしいですぅ」
やはり、栄吉と接することは、彼女に膨大な心理的負担を強いる行為だった。
 
南条が大学から帰ってきたのは、夕方だった。既にナナミはレシピをみながら料理を作り始めており、松岡は食器類を並べ、テーブルにクロスを掛け、栄吉はそれらの手伝いをしていた。ナナミは食材の扱いは非常に手慣れているのに、料理自体はレシピをみないと出来ない。これは彼女に微妙な味付けを覚える気がないからで、人間世界における〈好み〉の時代による変遷、地域別の変化をいちいち覚えていくよりも、レシピにして残した方がいいと判断しての結果だった。それ故にレシピは凄まじいまでに精密な代物で、一流レストランのシェフさえ舌を巻くほど詳細な分析と合理的な行動指定がなされている。ただ、余談ではあるが、ナナミは自分で新しい料理を作り出すのを非常に苦手にしている、という側面もそこにはあるのだった。むろん理屈で応用作品を作ることはできるが、誰もがあっと言うようなアイデアをひねり出すことは彼女にはできない。ともあれ、既存の料理を作る分に、ナナミの腕前は全く問題がない。男子厨房へ入るべからずという言葉は必ずしも正しくないが、この場所においては正しく、確かに男子は厨房に入る隙がなかった。
 そういう事情である以上、南条は居間で栄吉と歓談を行うことになった。栄吉は古風で気合いの入った挨拶を南条にすると、ナナミに悩みを話したことをいい、〈親身に姉御が聞いてくれて、しかも喝を入れてくれたので感動した〉と言った。南条は、それは災難だったろうと、ナナミに同情して心中にて肩をすくめた。その具体的な内容を聞くと、南条は他人事ではない感触を受け、歌を聴くことを快諾し、栄吉を喜ばせた。ゆっくり眼鏡を直し、ブルーの大きなリボンを揺らして台所で料理するナナミに視線をやり、戻すと、その後南条は不意に真剣な顔になった。
「ところで、栄吉。 最近、身辺にて変わった事はなかったか?」
「? いや、前に手紙を出した、杉本が病院から帰ってきて、真人間になったこと位しか、驚くような事はなかったっすよ」
「そうか、ならいい」
 南条が栄吉との交友を続けている理由の一つは、新世塾スキャンダルの後始末および、同事件に関わった連中の残党による事件の余震発生の未然防止である。もちろん今ひとつは栄吉に漢たる者の資質をみているからであるが、前者の理由は世界を滅ぼしかけた大事件の余波だけに、それに関わった彼には見逃すことの出来ないことだった。ナナミが苦手な栄吉を呼ぶのを承諾したのも、その事が元でもたらされうる災厄が、冗談ではすまない程の規模になりうるからである。ほかにも何人かの関係者には、友人や知人に定期的な監視を頼んでおり、いざというときの情報網も確保されている。
 料理が運ばれてきた。素朴な料理だったが、材料が材料だけに非常に優れた味だった。寿司屋の息子であり、美味しい料理を食べ慣れている栄吉も、十分に美味しいと感じるほどの出来である。南条は箸を実に見事に操り、料理のすべてを残さずに口へ運ぶ。更に満腹中枢の作動時間も把握しており、その時間にあわせて食事を終えるべく計算して食べるのである。質素倹約を、親同然だった山岡老人に教わった彼には、それは絶対に必要な事であった。栄吉が感心する間に、南条は舐めたように綺麗になった皿を、洗い場へ運んでいった。パートナーに併せるべく、ナナミも無駄のない食事の腕を上げており、松岡もそうであった。実はこの二人、陰でかなり激しく、だが静かに張り合っている節がある。栄吉が食べ終えた頃には、夜はだいぶ更けていた。音楽関係の道具は栄吉が持ってきていたので、演奏自体は問題がないが、場所を心配する栄吉に、ナナミは地下へくるよう手招きした。
 地下は半分以上のスペースを使い、射撃場に改造されていた。これは南条の前の使用者が趣味で作った場所を、ナナミが戦闘訓練用に改良した場所である。立てられている丸い的は生々しい弾痕が残り、人型の的は急所に滅多打ちに弾丸を叩き込まれている。特に顔面と胸部の破損は凄まじく、怖気を走らせるには十分だった。一角にはマジックミラーが設置され、その向こうが倉庫になっている。防音はほぼ完璧であるから、近所に迷惑になるおそれはない。
 栄吉は息をのむと、周囲を見回す。先ほどの言葉を思い出し、必死にはね回る心臓を鎮め、深呼吸して自分のペースを作る。やがて、いつもの心地よい興奮が、彼の体にみなぎってきた。
「始めてくれ。 お前の魂を拝聴しよう」
 南条の言葉に栄吉は頷くと、自分が作った中で、もっとも優れていると自負している曲を歌い始めた。
 
 曲が終わると、南条は傍らにいる松岡と、ナナミを見回して意見を求めた。この場にいる三人は、本職の批評家ほど音楽自体には造詣が深くはない。だが芸術に触れる機会は非常に多く、しかも客観的な論点で物事を分析できるため、常人よりも遙かに的確に批評を下す事のできる者達だった。
「どう思う? ナイトメア、松岡、お前達の忌憚無き意見を聞かせてくれ」
「何とも、灰汁の強い歌い手ですな」
 最初に発言したのは松岡だった。角張った壮年の顎に手を当て、真剣なまなざしで言う。
「受ける層は限定されるかもしれませんが、後は自分の個性を確保し、技術を習得すればのびるのでは?」
 南条は頷き、今度はナナミの意見を待った。彼女はしばらく考え込んだ後に、マジックミラー越しに、汗をかいて感想を待つ栄吉を見やって意見を述べた。
「歌の中に満ちる強烈な自己愛、それを恥じる事なき堂々たる態度。 そして何より、自分の魂を曲に込め、それを歌いきる芸術的発想力。 テーマはともかく、技術が付きさえすれば大化けしうる器だと思うです。 ただ……」
 腕を組み、栄吉を見やるナナミの視線は鋭く、冷たかった。
「やはり、一方向的すぎる。 しかもその上、自分自身の存在に迷いを感じているようですぅ」
「お前達もそう感じたか。 俺は松岡とナイトメアを足して二で割ったような意見になる」
 南条は二人へ視線をやると、思うところを述べ始めた。
「芸術的なセンスはあるようだが、それに頼りすぎていて、技術が不足気味のようだ。 そしてその源泉となるかなり指向性の強い自我に、疑問を感じ始めているような感触を受ける。 おそらくは、曲が作れなくなった原因もその疑問だろう。 これが俺の意見だ」
 倉庫のドアを開け、南条は外に出た。何を彼が栄吉に言っているか、ナナミには聞こえなかったが、大方の予想はついた。栄吉の表情は徐々に強張って行き、やがて力無く頭を垂れた。南条はその後もしばらく栄吉にアドバイスを続けた。そして、それが終わった頃には少年も顔にだいぶ生気を取り戻していたが、大きなショックを受けたのは誰の目にも明らかだった。
 
3、ナナミと栄吉
 
 その晩はそれ以上何もなく終わった。表面上栄吉は元気に振る舞っていたが、やはり相当なショックを受けたようで、予備室に戻るなり布団を被って寝てしまった。南条の指摘は自分が薄々勘づいていた事であり、それが故にショックは大きかったのである。ただ、これは少年にとって、必要な痛みであったかもしれない。
 翌日の朝、ほとんど陽が昇ると同時に、栄吉は叩き起こされた。上を見ると、とっくの昔に寝間着から普段着に着替えたナナミが、腕を組んで栄吉を見下ろしていた。少女の姿をした悪魔に、優しさとか憐憫とか言った要素は見あたらない。
「へっ、居候の分際で、主人よりも遅く起きようたあいい度胸ですぅ。 さっさと起きんかボケ!」
「あ、姐さん、いつもこんな早くに起きてるんすか?」
「何を寝ぼけとるか! 農家の人たちは、もうとっくに仕事してる時間ですよぉ!」
 とは言っても、時差ボケに苦しむ栄吉にはつらい起床時間であることは、間違いのない事実であった。ナナミも栄吉を連れて行っても役に立ちそうにないと感じたか、さっさと起きるようにもう一度念を押し一階に下りていった。包丁で野菜を切る音が響き始め、小鳥の囀りと和音を奏でた。それが合図になったように、松岡が起き出してきて、ゆっくり眠そうなまなざしでパジャマを着替える栄吉に、機械的に洗練された動作で笑いかけた。
「おはようございます、三科様」
「おはようっす。 俺の事は呼び捨てにしてくれて構わないっすよ、松岡さん」
「とんでもございません、気を遣わなくても結構ですよ。 それと、ナイトメアはああ言っていましたが、貴男は大事なお客様ですから、ゆっくりしてくださっても構いませんよ」
 松岡がナナミを呼び捨てにしたのは、同僚であって上司ではないからである。重厚な大男の松岡から、敬語で下手に出られて、栄吉は破顔した。ただ、研ぎ澄まされた刃のような感触も松岡から受け、内心では警戒しながら栄吉は続けた。
「いや、俺は修行のためにここに来たんすから」
「そうですか、では私は仕事があるので、これで」
 栄吉にそれだけ言うと、松岡は踵を返し、無駄のない動きで階下へ降りていった。一連の行動は洗練されてはいたが、同時に仕事であり、儀礼以上ではなかった。
 栄吉は松岡の鍛え抜かれた幅広い背中を無心に見送ると、洗面室へ向かった。彼は〈ビジュアル系〉を自称しており、普通の女性よりもメイクに時間と手間をかける。そしてこの化粧は、彼にとってはよそ行きの格好でもあり、心を引き締めるための戦闘服でもあった。
 栄吉が洗面室を出ると、既に南条は起きて外出着に着替えており、ナナミとなにやら哲学についての議論をしていた。不思議なのは意見がもろに食い違っているのに、双方が楽しそうに話していることである。理想論に傾きがちの南条に対し、ナナミは現実主義的な観点からシビアな意見を言う。対等な知能を持つ者同士の知的戦闘が、そこでは熱く展開されていた。それは決して双方に不快をもたらす行為ではなく、むしろスポーツに近いようで、最後には双方が互いの意見を興味深いと思って議論を終えた。
 ナナミは議論を終えると時計を見、キッチンに向かい、朝食を作り始めた。予定通りの時間だったようで、既に下ごしらえを終えている食材を、効率よく焦り無く調理していく。
 栄吉には何もかもが不思議な光景であった。テーブルにコーヒー(これすらもナナミはレシピを見ながら作っていた)が四人分出され、ブラックでそれを飲みながら栄吉は松岡に問いかけた。
「あの二人、いつもあんな感じなんすか?」
「ええ、とても楽しそうに毎朝議論していますよ。 しかもそれを身につけて、役立てている。 若さがもたらす知的活力とは素晴らしい物ですな」
 何故か松岡がうらやましそうな顔をした。松岡を含め、この別荘の住人が変わり者揃いであることは誰も否定しないだろう。
 朝食を昨夜の食事と同様に、舐めたように綺麗に食べると南条は大学へ出かけた。出かける際に彼の身の回りを整えるのは松岡の仕事になっており、ナナミも作業に干渉しようとする様子はない。相手と競争してはいても、能力は互いに認めているのであろう。南条は一番に教室にはいる事、一番前で授業を受ける事を何より好むから、授業が始まるかなり前に教室に入る。そのために、他の学生よりも大分早く家を出るのである。
 栄吉はそれを見送ると、どうしようかと困惑した。松岡は二階に上がって、帝王学とやらの授業準備を始めてしまい、ナナミは出かける素振りを見せている。何もしないよりもどちらかを手伝った方が有益であろうが、松岡の手伝いは得体が知れないし、ナナミを手伝えばこき使われるのが目に見えている。暫しの思案の末、栄吉は結論を出した。
「姐さん、手伝うっす」
「当たり前ですぅ。 さっさと準備してこっちに来るです」
 ナナミは表情にこそ出さなかったが、感心して栄吉を手招きした。より困難な方を彼が選んだ事を、敏感に察したからである。
 
 やはりと言うべきか、予想通りと言うべきか。昨日ナナミが引いていた荷車を栄吉が任せられ、少年は汗水垂らしながらそれを引く。それほど重い荷車ではないが、長身の彼には少し引きにくい作りで、しかも慣れない作業だから当然疲れる。汗を掻き悪戦苦闘する栄吉の横で、ナナミは専用にカスタマイズしたらしいキックボードを蹴って、英国の田舎道を進んでいた。途中でナナミに何人かが声を掛け、彼女は流暢な英語でそれに応じていた。考えてみれば、この荷車を何時もナナミは引いているわけで、それに気付いて栄吉は慄然とした。好きな相手のためとはいえ(多少普通の好きとはニュアンスが違うだろうが)ここまで律儀で、しかも継続的な行動をとれる者がどれだけいるだろうか。現在の日本には、それが出来る存在は、少なくとも希少であろう。雅の事を考えて、栄吉は自分が同じ立場の場合同じ事を出来るかどうか考えてみた。ふと振り向くと、ナナミは笑った。
「へっ、日本に残してきた恋人の事でも考えてるんですかぁ?」
「ち、ち、ちがうっ! 雅はただの幼なじみで!」
「隠すな隠すな。 相思相愛なんだから、別に良いんじゃないですかぁ?」
 白塗りのメイクの上からも分かるほど、栄吉は真っ赤になり、何やら言い訳じみた言葉を二三吐いたが、それはナナミの指摘を正しいと言っているも同然の行為だった。ナナミは笑っていたが、実は内心でほっとしていたのである。昨日栄吉が地下室を去った後、彼女は南条に栄吉の事を頼まれた。当然彼女は渋ったが、栄吉を高く買っている南条に頼むと言われ、頭を下げられれば、やはり断れない。アイスに無駄遣いをいつもより少し多くしてもいい条件で、ナナミは栄吉の世話を引き受けた。だが、それをするにしても、仕事中にそれを兼ねるのは冷徹鋭利な頭脳を有するナナミとしても流石に避けたい所であろう。栄吉の弱みを握っておけば、少しは扱いが楽になる。だから彼女はほっとしたのである。
「まずは、この農家。 ここのジョンソン夫妻は、鶏を育てる名人ですぅ」
 ナナミが足を止め、素朴な家を見上げた。確かに中からは鶏の鳴き声が響き来る。一羽の雄鶏が飛び上がり、塀の上に止まって栄吉を見下ろした。
「あ、姐さん! ニワトリが!」
「鶏ってのは本来飛ぶ事が出来るです。 檻にぎゅうぎゅうに詰め込まれたブロイラーばっかり見てると分からないですけど、こういう放し飼いの活きが良い奴を見ると気付くですよぉ」
「そ、そうっすか」
 ナナミは栄吉を促し、農家に入っていった。ジョンソン夫妻とやらは、上品そうな老夫婦で、ナナミの流暢な英語に何やら受け答えし、今朝取れたての卵をいくらかと、生きたまま縛った鶏を二羽持ってきた。活きの良さを確認すると、ナナミは営業スマイルを浮かべ、ジョンソン氏と握手して契約の継続を約束した。この少女の食材鑑定眼と、極めてシビアなビジネススタイルは既に周辺の農家で評判になっており、妥協のない冷酷な行動も噂になっている。手を抜いた品を出せば大きな農家でも契約を相手にされないし、逆に小さな農家でも品さえ良ければナナミは差別しない。しかも幾つかの農家は、ナナミの推薦で南条コンツェルンとパイプを確保する事にさえ成功しているため、彼女と接する農家の主人達は真剣である。
 栄吉はビジネス時のナナミを見るのは初めてだった。前に農家を一緒に回ったときは、取引をする姿を見る機会がなかった。栄吉は食材を選ぶ際の、或いは相手と交渉する際の、ナナミの妥協無き凄まじい気迫と、冷酷で合理的な視線に圧倒された。そこにいたのは少女ではなく、戦士だった。百戦錬磨の戦士以外の何者でもなかった。超一流の企業戦士も舌を巻くほどの営業手腕で、ナナミは交渉をまとめ、最良の食材を手に入れていく。途中で契約を結んでいない農家により、ナナミは栄吉に振り返った。
「いいですかぁ。 こういう所では、自分の所の一番良い品を出してくるです」
「は、はあ」
「栄吉おにーちゃんだったら、どうするですかぁ?」
「そうっすね、取りあえずその品を見て、どうするか決めるっすね」
 次の瞬間、ナナミが振り下ろしたハリセンが栄吉の後頭部を直撃した。
「必要なのは、継続的に良い品を出してこれる農家ですぅ! いいから少し見てろ」
 頭を押さえた栄吉が黙り込むと、交渉相手の饒舌をナナミは聞き流し、流暢な英語で何やら言った。それを聞いて相手が青ざめ、目を細めたナナミがビニールハウスの方へ歩き出す。そして其処で栽培されている野菜を見て、相手の非をならした。その口調から、栄吉にもナナミの言葉の意味が大体分かった。老農夫は青ざめ、そしてうなだれた。
「案の定ですぅ。 ほんの一部の野菜だけ良くても意味がない。  ぶっつけ本番で相手の仕事場を覗けば、大概相手の仕事の質は分かるものです」
「あ、姐さん、じいさんが……」
 老人は絶望し、へたり込んで泣いていた。明らかに嘘泣きではなく、嗚咽の声が周囲に響く。ナナミはそのまま行こうとしたが、栄吉が困惑してその前に出た。
「まった、これじゃああんまりっすよ! あの野菜は、さっき提出された野菜は、少なくとも良かったんじゃねえっすか? じいさんの魂が、籠もってたんじゃねえっすか?」
「魂を込めるのは大事ですけど、全体を良い品に仕上げられなければ意味がないですぅ。これは芸術作品じゃなくて、普遍的な相手に提供する商品ですから。芸術だったら魂を込めるのが最優先ですけど、これに関しては違う」
「そんなの……確かに正しいかも知れねえけど……俺は納得できねえ……っす」
「栄吉おにーちゃん」
 ナナミの声に、拳を振るわせていた栄吉が顔を上げた。
「だったら、この老人を助けてナイトメアが得られるメリットを挙げてみるです。 ナイトメアが納得したら、悪いようにはしないですよぉ」
「……それは」
 栄吉は無い頭を必死に絞り、老人のために考えた。そして、思いつきで様々に言ってみたが、いずれもナナミに一蹴された。だが栄吉はあきらめず、熱を込めていった。
「きっと、何か良い事があるっすよ! 因果応報って言うじゃないっすか!」
 少年の瞳は真剣で、不退転の決意に満ちていた。数瞬の思案の末、ナナミはため息をつく。そして、老人に向け振り向いた。老人を立たせると、ナナミは畑や温室の各所を周り、様々に指摘をし、そしてどうしたら良い物が作れるかを詳細にレクチャーしていった。そして、老人が出してきた一番良い野菜だけは買い取った。
「姐さん……」
 栄吉は感動して、涙さえ拭ったが、ナナミは別に彼の熱意に動かされたわけではないし、ましてや老人を不憫に思ったわけでもない。まず第一に、この周辺の農家の技術レベルを向上させる事を目的に、この老人を指導しただけである。周囲の農家の技術レベルが向上すれば、必然的に競争は激化し、よりよい作物をより安く入手出来るようになるのである。続いて第二に、この行動を取る事で、少しは栄吉を扱いやすくなると思ったからである。この少女の姿をした悪魔は、世のため人のためなどと言う甘い理由では絶対に動かない。だが、栄吉は素直に感動し、老人は目に涙さえ浮かべて栄吉に礼を言った。ただ、必ずしも、事態は全てナナミの思う通りには進行しなかった。別荘に戻った栄吉は、帰っていた南条に、ナナミが良い人だといって、側で聞いていたナナミを閉口させたのである。南条はそれを聞いて苦笑を隠せなかった。
 
 昼食を終えると、ナナミは再び栄吉を連れて外に出た。外では鴉が電線に掴まって鳴いており、近くの森からも鳴き声がした。ふと寒気を感じて、栄吉はナナミを見た。この悪寒を、少年は何処かで感じた事があったような気がしたが、思い出せなかった。
「急に冷えてきたんじゃないすか?」
「いや、違うです。 忠告しとくから、その森には近寄らない事ですよぉ」
 それだけ言うと、栄吉の顔も見ずに、ナナミはさっさと先へ足を進めた。午後も午前中とほぼ同じ作業が繰り返され、無感動の内に日が沈んでいった。電車さえ利用してナナミは彼方此方に足を運び、農家にコネを作っているようで、それぞれの農家の特色を非常に細かいパラメーターグラフで分析し、情報を集積しているようだった。栄吉は、別荘に再び戻るまで、感心しながらその背中を見ていた。
 
4,闇夜の森で
 
 実に丁寧に、良く作られた夕食。それを終えると、南条はソファに腰を下ろし、翌日の授業の予習を軽く行い、松岡は帝王教育の準備をするべく二階へ上がっていった。ナナミは一時間ほど地下室に籠もっていたが、やがて居間へ上がってきた。その目の奥には、巧妙にカモフラージュしていたが、極寒の空気が乱舞していた。
「ダーリン、ちょっと」
「どうした、ナイトメア」
 南条の言葉は、儀礼的な物だった。パートナーの目を見た途端、彼には相手の言いたい事が分かっていたのだ。ゆっくり眼鏡をずりあげ、南条は言った。
「あまり遅くなるなよ。 それと、くれぐれも穏便にな」
 小さく頷くと、ナナミはスポーツシューズを履き、外に出ていった。全く会話を理解できず、また参加できなかった栄吉は、困惑しながら〈兄貴〉に聞いた。
「兄貴、姐さんは?」
「栄吉よ、人には他者に知られたくない物がある」
 南条は更に言葉を続けようとしたが、上から松岡の呼ぶ声がした。
「もう帝王学の時間か。 ともかく、栄吉よ、不用意に人の心に踏み込むのは避けろ」
 二階に上がっていった南条を見送ると、栄吉は思案を巡らせた。南条に圧倒的な信頼を寄せられているとはいえ、ナナミはまだ小さな女の子だ。二人の関係は、栄吉は未だに良く知らないが、圧倒的な知能を持つ天才少女を南条がスカウトしたのではないかと彼は推測していた。もしも危険があったら、自分が守らなくてはいけないだろう、南条の最も大事な相棒を。
 以上の考えは現実に全く触れてはおらず、妄想の域を出ていなかったが、ナナミを心配する栄吉の気持ちは本物だった。栄吉は、温室でナナミが見せてくれた〈優しさ〉に心うたれていたから(あくまで栄吉の主観であるが)、姐さんに危険がある時は自分が身を挺して守らなければいけないと思っていた。それは彼の心にある古風で純粋なヒューマニズムに基づく物であり、〈男のあり方〉に即した物だった。自分にちょっと様子を見に行くだけだと念を押して、栄吉はこっそり別荘を出た。もしも彼にもう少し思慮があれば、南条の台詞からその行動が余り褒められた物ではないと悟っただろう。だが、残念ながら栄吉の頭脳ではそこまで考えが回らなかった。あれだけたくましい所を見せられても、栄吉の中でナナミはやはり〈か弱い女の子〉だったのである。
 南条は、ペルソナの力を使って、栄吉が別荘を出たのを感じ取っていた。そして、その後どうなるかも大体予想が付いた。だが、あえて放っておいた。松岡が眉をひそめ、南条に言う。
「よろしいのですか?」
「かまわん。 ナイトメアの事だ、おそらく悪くないように処理するだろう。 ……少ししたら後を追うが、それまで授業を続けてくれ」
 
 ナナミは急ぎ足で、夜の道を急いでいた。その少し後を、栄吉が声を殺して追っていく。彼にもすぐに分かった。ナナミが仕事のためではなく、何かしらの欲求を満たすために夜道を急いでいると。幾つか昼間通った農家を通り過ぎ、あの悪寒を感じた森の前にナナミは出た。そして、上を見上げると、躊躇無く道もないその中へ入り込んでいく。
「げっ……まじかよ、姐さん」
 栄吉が息を飲み、音を立てないように注意しながら後を追った。夜の森は想像以上に暗く、木々の間から漏れ来る月の光だけが頼りだった。結構乱暴に進んでいるのに、ナナミの着衣は乱れず、殆ど音も出ない。故に、栄吉はその後を追うのに非常に大きなな労力を必要とした。何しろ、跡さえ通った後に殆ど残っていなかったのである。やがて少し開けた所に出て、ナナミが足を止めた。栄吉は慌てて近くの木の陰に身を隠し、様子をうかがう。何故別荘を出たか、既にそれは彼の脳裏からは消し飛んでいるが、何かしらの危険がナナミに襲いかかれば、すぐに飛び出すであろう事は疑いない。
 ナナミは手を広げた。周囲に不可思議な力が満ち始め、栄吉は昼間以上の悪寒を感じた。それには気付かず、全く構う事もなく、ナナミは目を瞑り、精神集中を続ける。或いは既に栄吉に気付いているのかも知れないが、少なくともその素振りは見せなかった。そして、ナナミの背中に翼が生えた。白い一対の翼は、天使的な美しさを持つが、一方で嫌に冷たい印象も栄吉は受けた。ナナミの姿が栄吉の視界から消え、次の瞬間、側の木が乾いた音を立てた。それは連続して響き、徐々に木の上へ移動していく。呆然とする栄吉の頭上で、押し殺したような悲鳴が上がり、それはすぐに消えた。
「な……何が起こってやがる!」
 心中にて栄吉は叫び、身をこれ以上もないほど縮込ませて、息を殺した。悲鳴が再び上がり、すぐに収まる。そしてそれは合計五つ響き、やがてナナミが地上に再び現れた。手には五匹の鴉が提げられており、それらは痙攣してはいたが、抵抗する事も、鳴き声をあげる事も出来ないようだった。鴉は、昼間は集団で行動し、その頭脳も戦闘力も侮れないが、夜になるとその力は失せ、臆病で気弱な生き物へと変貌してしまうのである。昼間彼らは天敵である梟を追いかけては虐めているが、逆に夜には全く抵抗できずに狩られてしまうのだ。木の上に止まっているらしい鴉は鳴き声を挙げる事もなく、ただ恐るべき捕食者が通り過ぎるのを、蛇に睨まれた蛙のように硬直して待っていた。
 ナナミは両手に提げ持った鴉を揺らしながら、再び歩き始めた。程なく彼女の前に洞窟が現れる。鍾乳洞のような大規模な物ではなく、土手に出来た小さな洞窟であったが、それなりの奥行きはあるようだった。ナナミは躊躇無くその中へ足を踏み入れ、生唾を飲み込むと栄吉はそれに続いた。中は暗かったが、何カ所か天井に穴が開いているらしく、光はわずかに差し込んでいる。やがて、栄吉の眼前で、淡い光が発せられ、想像を絶する光景が繰り広げられた。
 
 其処にいたのは闇の塊。中央部にはどうやら感覚器官らしい光を放つ部分があり、周囲に無数の触手を伸ばして、洞窟の中に凝りを作っていた。側には鴉が五匹、無造作に転がされており、近くの出っ張りには丁寧に何時もナナミがしている蒼いリボンが巻き付けられていた。そしてその下には、サイレンサをつけた拳銃が、幾らかの弾倉と共に置いてあった。触手が伸び、鴉を掴み、本体へと引き寄せる。栄吉は悟っていた、この闇がナナミの真の姿であり、彼女が人などではない事を。今まで彼女に抱いていたイメージは、恐怖に押され、栄吉は闇に潰されそうになりながら必死に声を殺していた。
 ナナミの本体の中で、何かが潰れる音がした。そして、乾涸らびた鴉の死体が、吐き出されて地面に転がった。触手はもう一匹の鴉を捕らえ、本体へ埋没させる。すぐにそれもミイラと化し、吐き出されてその辺に転がった。鴉は全てミイラとなり、命を落とした。満足そうにナナミの中央にある感覚器官が細まり、その形が縮んでいった。光が収まり、其処にはナナミがいた。彼女はリボンを付けていない以外は、別荘を出ていったときと何ら変わりない。栄吉は、彼女が森の中であれほど静かに行動できた理由が、分かった気がした。新世塾スキャンダルの際、栄吉は人ならぬ者を幾度も見た。ナナミもその仲間であり、彼が見た中でも、最大級に強い〈人ならぬ者〉だと、今や自然に理解する事が出来ていた。ナナミは少女の姿に戻ると、ゆっくり銃を懐に入れ、リボンを手にとって髪を束ね始めた。そして栄吉の方へ振り向き、冷徹に目を光らせ、静かに言った。
「いつまでストーカーまがいの事をしてるんですかぁ? 栄吉おにーちゃん」
 叫び声をあげると、栄吉は脱兎のごとく逃げ出した。
 
 栄吉は混乱し、ただひたすらに逃げた。 恐怖が彼を締め付け、逃走へとその心を駆っていた。
「冗談じゃねえ、冗談じゃねえっ!」
 自慢の白い肌が傷つく事も厭わず、栄吉は森の中を走る。メイクされた白い顔を恐怖に歪め、少年は走る。彼は番長であり、自分が喧嘩巧者である事を知っていた。相手の力も、大体はかる事が出来る程度の実力を持っていた。だからこそ、彼は怖かった。相手の実力が、肌にしみこんでくるように、彼へ伝わってきたからである。
 森が切れた。森の中の空き地に、彼は出たのである。そして、短い叫び声を挙げて彼は足を止めた。静かに風が立ち、草揺らす原の中、ナナミが立っている。栄吉の前に、ナナミがいて、サイレンサ付きの拳銃を構え、静かに立ちつくしているのだ。その冷徹な両眼は真っ直ぐ栄吉を見据え、銃口はその心臓を正確に狙っていた。構えに隙は全くなく、栄吉は身動きさえ出来ない。いつの間に先回りされたのか、それすらも少年には分からなかった。
「あ、あ、姐さん……! う、うそだろ、うそだよなっ!」
 それだけ言えただけでも、大した物であろう。ナナミは声一つ発せず、圧倒的な殺気を放ちながら、栄吉を見据えている。小さなナナミと、長身の栄吉。だが少年は、自分が巨人の前にいるような感触を覚え、歯の根が合わなくなるのを感じていた。彼は心の中で華小路雅の事を思い、全てが闇の中へ埋没するような感触を覚えていた。彼は死を、目の前にあるこれ以上もないほどに巨大な死の臭いを嗅ぎ、これ以上もないほどの巨大な絶望を味わっていた。やがて、ナナミの指先が、ゆっくり引き金を引くのが、栄吉に見えた。彼は南条の言葉を今更ながらに思い出し、全てに観念し、絶望の眼差しで相手を見た。
「横に飛ぶ!」
 ナナミの声がして、栄吉はがばと顔を上げた。そして言われたままに横に飛び、ナナミが二回、連続して引き金を引き絞った。乾いた音が二回響き、栄吉は自分の背後だった空間をゆっくりと見た。
「ほほう……私の気配を悟るとは、大した物だな」
 闇の中に、二つの小さな光があった。それはゆっくりと此方へ近づき、やがて木々の間からその姿を現した。中世ヨーロッパから現代に迷い込んできたような、甲冑の騎士だった。光っていたのは、この騎士のような輩の、兜の奥から覗く相貌であった。彼は全身を紅い重鎧で隙無く武装し、右手には巨大な槍を持っている。そして、背中には、紅く大きな翼があった。正確無比な射撃で銃弾を浴びたというのに、ダメージを受けている様子はない。鎧に当たったのだろうが、それにしても普通の鎧ではノーダメージというわけには行かないだろう。それだけの事項でも、この鎧を着た者が、人ではないと証明していた。ナナミは相手の魔力波動から、正体を瞬時に悟っていた。
「堕天使ベレス、こんな所で何をしてるんですかぁ?」
「腹が減ったから彷徨いている。 そうしたら、丁度良い獲物を見つけた。 ただそれだけだ。 貴様も下級悪魔の分際で、相当の力を持っているようだし、そちらのガキはそれと同等の潜在能力を持っているようだな。 晩飯に丁度良い」
 ナナミは視線も向けずに、栄吉に言った。その口調に余裕はない。堕天使ベレスと言えば、かなりの力を持つ悪魔であり、手を抜ける相手ではないからだ。
「足を引っ張ったら後でぶっ殺すですよぉ。 そのへんに隠れてろ、栄吉おにーちゃん!」
 栄吉は口答えをしようとしたが、すぐにあきらめた。既にナナミは臨戦態勢に入っており、相対している相手もそうだ。そして自分を幕下力士とすれば、この二名が横綱級の実力者だと彼には既に分かっていたのだ。本当は、潜在能力を、内に眠るペルソナを呼び起こせば、その戦闘力はナナミに並ぶのだが、今の彼はそれを知らない。知る事も出来ない。彼の深層心理が、それを絶対に許さない。奥歯をかみしめると、栄吉は戦闘空域を走って離脱した。この場にいても足手まといになるだけだし、それが原因でナナミが負けでもしたら、彼は南条に会わせる顔がないからだ。大体、一瞬でもナナミが自分を殺そうとしていると疑っただけでも、彼は自分を許せなかった。しかもナナミは、それを明らかに悟りながら、躊躇無く栄吉を助けたのである。もしこれで更に背信を侵そうものなら、栄吉は自分自身を永久に許せなくなっただろう。不思議と少年は、目の前で起こり始めようとしていた実戦に対し、恐怖は抱かなかった。栄吉が安全な場所に逃れると、場に満ちる殺気が、徐々に密度と鋭さを増していく。やがて、ナナミが仕掛け、ベレスが受けてたった。
 地を蹴ったナナミが、愛銃ワルサーの引き金を連続して引き絞った。サイレンサで音は消されているが、それが発する音は嫌に大きく周囲に響くような気がする。ベレスの鎧に連続して光の花が咲くが、堕天使は失笑して槍を振るった。
「スピードで押す軽装戦闘タイプか? ふっ、何にしろ、そんな豆鉄砲は私には通じぬ!」
 剛槍一閃、鋭い光の線が草原を縦断し、強烈なエネルギーが直線上の物を全てなぎ払った。それは森に吸い込まれ、木を数本うち倒して止まった。竜牙旋回と呼ばれる強烈な技であった。ナナミはそれを間一髪でかわしていたが、頬に鋭い紅い線が走っている。
「そういうそっちはパワーと防御力で相手を圧倒する重戦車タイプですかぁ? ま、ナイトメアの敵じゃないですぅ。」
「ほざけ、雑魚が。 八つ裂きにして、魂の欠片まで啜り尽くしてくれるわ!」
 今度はベレスが攻勢に出た。地面を蹴ると、高々と跳躍し、空から槍をナナミに叩き付ける。横っ飛びにそれをかわしたナナミに、着地したベレスは鋭い視線を向け、地面を音高く踏むと連続して嵐のような刺突を叩き付けた。並の相手ならそれで蜂の巣になっていただろうが、ナナミは柔軟に翼を使って後方に飛び、間合いの外に逃れ出る。相手の次の一手を読んでいたからこそ、出来る事だった。
「ほう、小賢しいではないか。 下級悪魔の分際で、そこまで力を伸ばしているだけの事はあるな!」
 ベレスがほざいた。目の奥にあるのは愉悦、自分が優勢を保っているからこその戦闘快楽。両者が同時に地を蹴り、再び激しい攻防が始まった。ナナミはこの時点で、既に相手を倒す戦略を組み上げている。後はそれを戦術レベルで実行するだけである。それに、自分が術中にはまっている事に、ベレスは気付いていなかった。
 新しい弾丸をワルサーに装填し、ナナミが連続して攻撃する。いずれも鎧に着弾したが、さほどの効果を示さず、ベレスは失笑して攻勢に出ようとした。次の瞬間、不意にナナミが足を止め、片膝を付いて精密射撃の体勢を取り、四発連続で弾丸を打ち放った。
「ぬ、ぬうっ!」
 ベレスが困惑する、その四発はいずれも彼の鎧の一点、しかも継ぎ目に炸裂したからである。多少の誤差はあるにはあったが、内二発はピンホールショットとなり、鎧に小さな、だが無視し得ない亀裂を入れる。動きを止めたベレスに、ナナミは猛然と突進し、その脇をかすめ、その一瞬に鎧に触れて呟く。
「ムド!」
「ごがあっ!」
 直接叩き込まれた呪に、ベレスが苦悶の声をあげた。堕天使などの悪魔は、基本的に闇の属性攻撃に強いとされているが、それは彼らの纏う防御結界の性質の話である。体内に直接闇の力を叩き込まれれば充分に効くし(無論人間などに比べると効果は軽減されるが)、ましてナナミのような優れた魔力の持ち主がそれを行えばその効果は大きい。ベレスは蹌踉めき、だが踏みとどまった。
「おのれ、下等悪魔の分際で、やるではないか!」
「へっ、上級堕天使の分際で、貴様が情けないだけですぅ!」
「おのれ、言いたい事を! だが、いつまでその余裕が続くかな?」
 槍を杖代わりに、ベレスがゆっくり起きあがった。その目の奥には、勝利を確信した油膜のような輝きがあった。彼はナナミの今までの攻撃を見て、以上のような結論を出していた。
 1,その戦闘パターンは、スピードを主体としている。
 2,魔法攻撃はあくまで補助に過ぎない。おそらくムドはこの後の攻撃の布石に使ったのだろう。
 3,その主力はハンドガンによる精密射撃である。おそらく、ムドに警戒して耐魔法結界に切り替えた所を、先ほどの傷に集中攻撃して倒すつもりなのだろう。
 以上の結論は、彼にとって現実味のある状況証拠によって構築されていた。まず、悪魔にしては非常識な精密射撃の腕前。物理攻撃主体に攻めているのに、半接近戦で反撃してきている事。本当に魔法攻撃が得意なら、遠距離戦を行えばよいのである。そして無言のまま、ナナミが弾倉を装填したときに、彼の目は捕らえていた。今までとは微妙に違う弾倉を、少女の姿をした悪魔はワルサーに装填していたのだ。ベレスは自分の仮説を確信に変え、次なる攻防に移った。
「おおおおおおおおおっ!」
 風を切って走ったベレスが、見る間にナナミとの間を詰め、槍を繰り出す。一撃、二撃、更にもう一撃。容赦なく繰り出される槍は草を切り裂き、空を鳴らし、大地を轟かせた。いずれもナナミはかわしたが、槍の切っ先は何度と無く彼女の服や体をかすめ、切り裂き、連続して繰り出され、迫ってきた。ナナミは舌打ちして、ワルサーを連射し、間合いを取る事に成功した。その弾丸は、確かに先ほどの物より威力があるような感触だった。そして、再び膝をつき、連続攻撃の後に一瞬停止したベレスに向け、引き金を引いた。次の瞬間、ベレスは防御結界を耐物理攻撃特化型に切り替えたのである。弾丸は空しく結界に弾かれ、呆然とするナナミに、ベレスは槍を振り上げ、渾身の竜牙旋回を放った。
「貰った!」
 槍が地面を貫いた。そう、地面を貫いたのである。あり得ない事だった、虚脱状態に陥った存在は、必ずその反射能力を低下させる。有り体に言えば、大きな隙ができる。だから、ナナミは今の一撃で粉々になるはずだったのだ。しかし現実には、ベレスの技は地面に突き刺さり、土を猛烈に吹き上げたにとどまった。ベレスの顔が驚愕に歪み、光る両目が慌てて左右に視線を飛ばし、敵を探す。自分の影が、少し大きくなっている事に気付いたときには、既に遅い。ナナミはベレスが渾身の一撃を繰り出すタイミングを、完璧に洞察していたのである。わざわざ適当な〈状況証拠〉をばらまき、手の内を曝しているふりをしていた理由は二つ。一つは敵に優越感を抱かせる事、今一つは敵の結界を耐物理攻撃特化型に切り替えさせる事。そしてナナミは、完璧なタイミングで、自分の真の切り札、一撃必殺の攻撃魔法を発動する。彼女は既にベレスの上を飛び越しており、空中で一回転して、それを真上から敵に叩き付けた。
「必殺! ジオダイン!」
 極太の雷の柱が、ベレスを直撃した。それは耐物理攻撃特化型防御結界を紙のように貫き、ベレスの本体を蹂躙し尽くした。凄まじい電圧が、ベレスの肉体を焼き尽くし、全てを破壊していく。
「ごぎゃあああああああああああああああああああっ!」
 無様な悲鳴を上げると、堕天使は膝をつき、体中から煙を上げながら、自分が柔らかくした地面に顔面から倒れ伏した。彼は自分の考えが全て間違っていた事、その上敵が消耗を最小限にするためわざわざ手の内を曝しているふりをしていた事を悟った。彼の心を、惨めな敗北感が蹂躙する。総合的な肉体能力面で見れば、さほど差はなかったのだろうが、駆け引きにおいて完璧に格上の相手に喧嘩を売ってしまった事を、彼はこれ以上もないほどに悟り、後悔していた。堕天使はナナミの掌の上で、終始踊らされていたのだ。ナナミが容赦なく彼の側頭部を蹴る。堕天使は悲鳴を上げ、仰向けに転がった。もはや戦う力もなく、動けもせず、ベレスは無様に倒れている。極大魔法であるジオダインの直撃を本体に貰ってしまったのだから、当然であろう。彼は最初から結界を通常状態にして、力押しで戦えば良かったのである。何も考えずに戦えば、むしろ勝機はあったかも知れないのだ。結界が通常状態なら、ジオダインを受けても致命傷にはならなかっただろうし、それにナナミは物理攻撃に極めて弱いのだ。乱戦の中から勝機が生まれた可能性は、否定できなかっただろう。
「ま、まて、悪かった! 私の負けだ!」
 ベレスが必死に命乞いをする。だが、ナナミは突き放した。
「さっき、貴様が言った事を覚えてるですかぁ?」
「は、腹が減っている、そういっただけだ! 馬鹿にしたのは言葉の文であって、本意ではない!」
「そんな事はどうでも良い」
 ゆっくりナナミが、ワルサーに新しい弾倉を装填する。それは彼女が対悪魔用に、ガンスミスに作らせた炸裂弾である。新世塾スキャンダルの際、それを使って、彼女はサイクロプスやカトブレパスと言った重量級の悪魔を何体も屠ったのである。無論正面からの攻撃ではなく、精密射撃と急所への攻撃を併用しての事であったが。先ほどの弾倉は、単純に少しだけ威力を強化しただけの弾丸を詰めたものだった。
「大事なのは……」
 もう身動きも出来ないベレスの、兜の上に、ナナミは銃口を向けた。ゆっくりと、サイレンサ付きのそれを、ベレスの目の上に持っていく。堕天使の目が、これ以上もなく大きく開かれた。恐怖に引きつる堕天使に、ナナミは容赦ない死刑宣告をした。
「ナイトメアも、お腹がすいてるって事なんですから。 いただきます」
 ナナミが引き金を引き絞った。発射された弾丸が、ベレスの眼球を貫き、兜の中で跳ね返って脳味噌を、頭蓋骨を、頭自体を滅茶苦茶に破壊する。二発、三発、四発。立て続けに弾丸は発射され続け、新しい弾倉に変えてナナミは更に銃弾をベレスに叩き込んだ。二十発以上もの弾をベレスに浴びせて、その頭が挽肉と鉛玉の合成物になり、完全に動かなくなった事を確認すると、彼女は堕天使の鎧に手を当て、その生命力を啜り取り始めた。ナナミの服同様、ベレスの鎧も体の一部なのである。鎧が見る間に変色し、ひび割れ、そして粉々になった。その中にある本体にもナナミは手を触れ、生命力を根こそぎ啜り取った。無惨な死体は見る間にミイラになり、そして灰になり、粉々に千切れ夜空に飛んで行った。草原の地面が彼方此方抉られ、森の木が数本倒れた以外に、戦いの痕跡は、何一つ残さずなくなった。舌なめずりして、自分の力がまた少し強くなった事を感じると、ナナミは視線を逸らして、木の陰へ声をやった。
「もう終わったです、栄吉お兄ちゃん。 出てきていいですよぉ」
「姐さん……」
 栄吉の顔は青ざめていた。凄まじいまでに冷徹で苛烈なナナミのやり口を、どうしても彼は心中で肯定できそうもなかった。
「何も此処までやらなくても……」
「此処までやらなきゃ、どうせ此奴は復讐に来たですぅ」
「でも、いくらなんでも……これは……あんまりだ……」
「じゃあ、此奴に地の果てまでもつきまとわれ、死ぬのがお望みですか? ……違う答えがあるんだってんなら、口でなく、行動で示してみろっ! でないと、誰も納得なんてしないですよぉ」
 ナナミの、冷徹で断ち割るような返答に、栄吉は言葉がなかった。やがて南条の声が聞こえてきた、二人を探しに来たのだろうと、すぐに栄吉にも察しが付いた。
「さ、帰るです」
 栄吉の服の袖を引き、ナナミが言った。力無く項垂れると、栄吉はその後に続いた。彼は、自分の正義が信じられなくなっていたが、その思いがこれで決定的に加速された。つまり、ナナミのやり口には反発を、これ以上もない不満を覚えるのに、同時に正しく、そして合理的な行動にも思えたのである。何かが、栄吉の中で変わろうとし始めていた。それは迷いに対する、突破口になりうる痛みであった。
 
5,相対す、それが故に
 
 迎えに来た南条と一緒に三人は別荘に戻った。ナナミは南条に、今晩あった事を大体言ったが、命乞いをする相手を惨殺した事は言わなかった。これは別にいつもの事であって、彼女がそれに罪悪感を感じていないからである。南条も何かナナミに小言を言ったようだが、その内容は栄吉の耳には届かなかった。南条は栄吉の行動をとがめることはせず、ナナミの言葉からむしろ的確な行動を少年がとったことを聞いたため、内心ではむしろ感心していた。血の気が多いのは彼も同じであったから、戦場で的確に判断を下せる(どんなに不本意であったとしても)事がいかに優れたことかよく知っていたのである。
 別荘につくと、流石に疲れたのか、ナナミは南条に断り、欠伸をしながら二階に行ってしまった。南条も帝王教育の続きを受けに二階へ行き、居間に栄吉一人が残された。少年は頭を抱えると、自分の気持ちを整理しようと試みたが、どうしても巧くいかなかった。男としてのあり方を唱える南条が、嘘を言っているとは思えない。しかしナナミは、その南条のパートナーをしながら、全く逆とも行っていい理屈に基づいて行動しているのだ。そしてさっきの、ナナミの行動を知りながら小言だけですませた南条の態度。栄吉には、南条が悪を容認しているようには見えなかったが、価値観が倒錯する感触を覚えずにはいられない光景だった。いつの間にか、数時間が経過していた。無心に佇む少年の頭上で、咳払いの音が聞こえた。
「栄吉、話があるが良いか?」
 南条の言葉に、栄吉は無言で頷く。向かいの席にゆっくり座ると、ずれためがねを直し、南条は口を開いた。
「何があった? だいたいは見当がつくが、お前の目からどう見えたかが聞きたい」
「姐さんが……」
 顔を下げたまま、栄吉は主観で起こったことを話し始めた。主観とはいえ、ナナミが真の姿を見られ失礼な対応をされたというのに、栄吉を守ったことや、悪魔との戦いの際、冷酷であってもその行動が理にかなっていたことはきちんと南条に言った。しかし、そのやり口が認めがたいものであり、絶対にその冷酷な行動を容認できそうもない事も断固として主張した。
 そのすべてを聞き終えると、南条は松岡にコーヒーを出させ(流石にこれくらいは、たまに松岡がすることもある)二階に引き上げる執事の足音を聞きながら、コーヒーをすすった。まず最初に彼が説明したのは、ナナミの食事の事だった。
「食事の際、ナイトメアが生野菜を毎回とっていたのを覚えているか? 彼奴はふつうに食事を食べても栄養を得られるのだが、ある程度は生の生体エネルギーをとらぬと体の調子がおかしくなるらしい。 それで定期的に鴉や狐を捕まえて食べているようだ。 生態系のバランスが崩れない程度にな。 相手の生命力を啜る事ができるのは、悪魔ならではの特徴だ。 それは人間にも、ほかの悪魔にも向ける事ができる」
 栄吉は黙っていた。南条はコーヒーの味に満足しながら、話を続けた。
「俺とナイトメアが出会ったのはもう三年も前のことだ。 セベクスキャンダルの最中、セベクビルで俺と彼奴は出会った。 双方ともに殺気だっている所で出くわしてな、危うく互いを殺す所だった。 俺も彼奴も、昔からこれで結構そそっかしかったのだ」
 懐かしそうに、唖然とする栄吉の前で南条は言う。
「現実主義者のナイトメア、理想主義者の俺は、最初反発した。 彼奴の容赦なく苛烈なやり方は当時から同じでな、負けを認めて命乞いする相手を容赦なく撃ち殺したり、動けない敵を拷問して情報を聞き出したり。 当然何度も俺達は喧嘩した。 だがな、やがて俺は気づいた、いや俺達は気づいたのだ」
 半分ほどに減ったコーヒーカップをおろすと、南条は一息をついた。砂糖を入れずに、コーヒーを飲み始める栄吉を見やり、南条は話を再開する。
「本質的なところで、俺達はよく似ていたのだ。 と言う事にな。 そして欠点を補い合う事で、互いをさらにのばす事ができると言う事にもな。 一旦それに気づいてしまえば、後は早かった。 今では俺達は、互いがいない事など考えられん。 俺は彼奴がいるから、背中を守る者がいるから、心おきなく、夢を、一番の日本男児を目指す事ができる。 彼奴は俺と共にある事で、自分を捜す事ができる。 これは何故だと思う? 栄吉よ」
「……分からないっす」
「それはな、俺達が本質的には似ていても、理念と思想が正反対だからだ」
 意味が分からず、困惑する栄吉を湯気の向こうにみながら、南条は静かに笑った。
「俺は一本の道を行く人間だ。 そして栄吉よ、お前も同じだろう?」
「それは勿論っすよ!」
「だが、人の目とは曇りやすく、視界も狭い。 一人で道を進むには、一本の道でも難しいのだ。 一歩間違うと、すぐに藪に入り込んだり、来た道を引き返してしまう。 自分だけが苦しむならいいが、それは確実に他者も巻き込む。 そうして破滅した者を、俺は何人も知っている。 神取、須藤、まだまだ何人もいる。 そして、俺もその一人になる所だったのだ」
 栄吉のコーヒーカップに目をやり、南条は苦笑した。それはほとんど減っていなかったのだ。コーヒーを飲むように栄吉に勧め、南条は少し言葉を切った。栄吉がコーヒーを飲み干すのを待ち、その後南条は最も重要な所に話の筋を移行した。
「だから、俺はナイトメアと、心の中の山岡と、ともに道を行く、必ずそれによって道を行ききる事ができる。 全く違う視点により、彼奴は俺をサポートしてくれる。 これがどれほどにすばらしい事か、考えてみろ、栄吉!」
 雷に打たれたように、栄吉は背を伸ばした。彼はついに、南条の言わんとする事を理解したのだ。
「そうか……だから姐さんは……」
「そうだ。 彼奴は俺のために、別の道を示し、今またお前のためにも、別の考えがある事を示してくれたのだ。 彼奴の考えは冷酷だ。 過剰に合理的で、同時に冷徹すぎる。 だがそれにより、成果を上げることがあることも、確実にあるのだ。 俺は自分の考えばかりが正義でない事を、彼奴のおかげで知る事ができた。 俺が甘くなりがちだ。 だがその欠点を、彼奴は率先して泥よけになり、サポートしてくれるのだ。 彼奴の考え方に、傾倒しすぎてはいけない。 妥協しすぎてはいけない。 だが互いに手を取り、未来を目指せば、どんなに険しい道でも、確実に未来は見える! 自分と違う考えの者とともに戦い、共存をはかってこそ、一本の道を行ききる事ができるのだ」
 栄吉が膝の上で拳を固め、男泣きにくれた。そして、静かに言った。
「兄貴……俺、ようやく分かったっすよ。 何で俺が、全く新曲作れなくなったか」
「うむ。 その事を、道を行くに一つの目一つの心だけでは難しい事を肝に銘じれば、きっとお前も道を行ききる事ができるはずだ」
 満足げに南条は頷く。そして、席を立ち、その場を後にした。栄吉はしばらくそこにいたが、やがて決然と立ち上がり、借りた部屋に立てこもって猛然と作曲を始めた。今までのスランプが嘘のように、熱い創作意欲が沸き上がり、彼は新作を仕上げきった。想像を絶するほど、今までの無為な数ヶ月間をあわせたよりも密度の濃い時間が過ぎ去り、曲が出来上がるのと、夜が明けるのは同時だった。力つきた栄吉は床に突っ伏してそのまま寝始め、起き出したナナミはその様をみて、何が起こったか正確に把握し、肩をすくめて言った。
「さすがはダーリン。 たいしたものですぅ、このバカを、やる気にさせるなんて」
 ナナミは曲を拾い上げ、中身に素早く目を通した。彼女の目から見ても、曲自体に問題はない。独特で、個性的で、実に栄吉らしい曲であり、しかも一方向的な欠点がだいぶ薄れている。後は栄吉の歌をあわせて聞いてみるだけだった。
 
 栄吉が目を覚ましたのは二時過ぎだった。本来体力に恵まれているこの少年が、いかに先ほどの創作活動で激しく体力を消耗したか、この一事だけでも明らかだった。慌てて着衣を改め、栄吉は洗面室に駆け込み、化粧を始めた。その姿は精彩に満ち、やがて彼は全身鏡に自身を映して陶酔しきった声を上げる。
「ホォオオオオウ!」
 本来ナルシストである彼は、陶酔したときこの声で叫ぶ。それは彼が気味悪がられる原因の一つであったが、そのような事など少年はいっさい気にしていない。やがてここ数日とは別人のような生命力をまとい、栄吉は居間に出た。誰も栄吉の叫びに驚いておらず、平然としているのは流石であろう。大学へ南条を送り出したナナミが、松岡と皿を洗いながら(これは二人で分担している)後ろの少年へ声をかける。
「やっと起きてきたか。 ダーリンはもう出かけたですよぉ」
 ナナミが視線を後ろに向けると、栄吉は気合いの入った様子で頭を下げる。
「押忍、姐さん! 昨日はいろいろすみませんでしたあ!」
「別に気にしてないですよぉ。 あの姿みて驚かなかったのはダーリンくらいですし、栄吉おにーちゃんには最初からそれほど期待してないし」
「確かに、今までの俺じゃあ、それも当然っす! しかし!」
 大きな皿を、洗い、磨き始めたナナミに、栄吉は燃える瞳を向ける。そして自分を親指で指しながら、気合いを込めて言った
「今日の俺は今までとは違う! 今日作り上げた曲で、必ず姐さんを魅せて見せるっすよ!」
「へっ、ケツの青いガキが何を言うか。 ま、せいぜい楽しみにさせてもらうですよぉ」
 ナナミは一旦手を止め、栄吉に振り返る。
「今日はナイトメアが一人で仕事に行って来るですぅ。 栄吉おにーちゃんは休んでていいです」
 それだけ言うと、ナナミはまた皿洗いに戻った。栄吉は彼女が言わんとする事を悟り、もう一度頭を深々と下げると、地下室へ楽譜を持って駆け込んでいった。ナナミはそれを確認すると、額の汗をぬぐって嘆息した。
「やっぱりだめだ、疲れるですぅ」
「だったらそういったらいいでしょう」
 揶揄するような、それでいて愉快そうな松岡の台詞に、ナナミは即答する。
「下の立場の人間に嘗められるってのは、嘗める側にも良くないし、嘗められるナイトメアも気分が悪い」
「ははは、あなたらしい。 しかしあの少年が嫌いなわけではないのでしょう?」
「ま、あれも嫌いじゃないけど、ナイトメアが好きな人間はダーリンだけですぅ」
 小さな乾いた音が響いた。ナナミが最後の皿を受け台に置いたのである。同じ分量を松岡と担当し、今日は彼女がわずかに早かった。ナナミは満足げに頷き、キックボードを取り出すと、玄関に出て靴を履く。今日は調査だけなので、荷車は必要ないのである。キックボードの、折り畳みが楽だと言う点、そして利便性が高いと言う点、ナナミはこの二つが気に入ったようで、自分で既製品を改造して愛用している。
 外にナナミが行くのを見送ると、松岡は最後の皿を少し遅れて受け台に置き、二階へ上がっていった。地下室の音は、外には漏れないが、栄吉が地下室で必死に練習を重ねているのは容易に想像がつく。あらゆる形で、邪魔をしてはいけないと、松岡らしい渋い配慮の末での行動だった。
 
 夕食の際、栄吉はたっぷり汗をかいており、だが生命力にかげりは見えなかった。そして彼は、ナナミの作った料理を食べ終えると、南条に向けて頭を下げた。
「兄貴、一昨日は見苦しい曲を聴かせてしまって」
「いや、かまわぬ。 それよりも、そんな事を言い出すと言う事は、満足できる曲ができたのだな?」
「押忍! 姐さんも、松岡さんも、良かったら是非!」
 拒否する理由は特にない。南条は松岡に録音機器を用意するように言うと、率先して地下室へ降りていった。マジックミラーの向こうで席に着き、そして言う。
「始めてくれ。 お前の魂、是非拝聴しよう」
「押忍っ! じゃあ、いくっすよ!」
 栄吉はマイクを握りしめ、そして自分の全生命力を曲にし、叩き付けるように歌い始めた。自己陶酔が熱となって迸り、熱情が汗となって周囲に飛んだ。一秒ごとに少年のテンションは上がり、やがてクライマックスを迎えた。爆発するような魂を、栄吉は叫びに込めた。
 
 全生命力を燃やし尽くした栄吉は、床にへたり込んで大きく肩で息をついていた。マジックミラー越しにそれをみながら、南条は一昨日と同じ質問を二人にした。反応は、当然と言うべきか、意外にというべきか、以前とは異なっていた。
「後は経験を積むだけでしょう。 もう下手なプロよりは巧いのではありませんか?」
「以前の問題はきれいに解消されて、逆にプラスに転化してるです。 後は実力を付けて、良いスポンサーに出会えれば、大化けするんじゃないですかぁ?」
 満足げに頷くと、南条は二人の意見を肯定した。そして倉庫を出ようとしたが、ナナミがその袖をつかんだ。
「待つです、ダーリン。 あれの性格からして、ほめすぎるのはあまり勧められないですぅ」
「確かにそれはあるな。 まあ、何とかしよう。 任せておけ」
 腕組みをして見守るナナミの視線の先で、南条は栄吉に何かを語りかけ、やがて少年は目を輝かせて礼を言った。少年の停滞が、飛躍に向けて変化した瞬間であった。
 
6,それぞれの道
 
 栄吉が日本へ帰ってから一週間が過ぎた。平穏が別荘に戻り、ナナミはいつものように農家を回りながら、南条のために活動していた。そんな彼女が別荘に戻ってくると、手紙が届いていた。宛先には、三科栄吉とあった。
「……」
 無言無表情のままナナミはそれを開封し、中にかかれている文字に目を通す。栄吉の文字はとにかく個性的に爆発しており、実に読みにくかったが、それでもゆっくり内容を根気よくナナミは読んでいった。そしてそれを読み終わると、ナナミはスリッパに履き替え、南条の元へ向かった。手紙の中には、栄吉が例の曲を本格的にバンドで演奏するために、メンバーを募集し始めた事、優秀な仲間を一人二人見つけた事、そして自分の夢を本格的に家族に話し、自分の戦いを始めた事が書かれていた。
 それらに一通り目を通すと、南条の目が鋭く細まる。超巨大企業のトップ足り得る器を宿す頭脳が、冷静な計算を始めたのだ。
「ふむ……ナイトメア、どう見る?」
「スポンサーに名乗り出るのはまだ早いですぅ。 もう少し様子を見てから、動くべきでは?」
「確かにまだ今は先行投資として不確実すぎるな」
 南条としては、斜陽の南条コンツェルンを立て直す材料は一つでもほしいのである。栄吉が日本を代表するバンドをくむ事ができれば、そしてそのスポンサーに彼が収まれば、確実に南条コンツェルンにプラスになる。ただ彼は、有望な少年である栄吉をただ下心なしに支援してやりたいという気持ちもあったから、どうした物かとナナミの意見を求めたのだ。彼は大企業の長となるべき存在であるから、自分の意見を通すだけではいけない。周囲の意見にも耳を傾け、良き物を選んで行かねばならない。
「ただ……」
「うん? 何か妙案があるのか?」
「資金面ではなく、今のうちから人脈面等で、サポートを嫌みにならない程度してやるのはいいと思うですぅ」
「ふむ、一理あるな。 支援が表に出過ぎると却って栄吉に良くないだろう。」
 言葉を切ると、南条はあごに指先を当てて考え始めた。そして、七秒後に結論を出した。
「もう少し様子を見よう。 デビューしたいといいだしたら、別の手段を執るべきだな」
「分かったですぅ。 じゃ、今のうちから資料整理しとくです」
「頼む。 あの少年は大物になりうる器だからな」
 ナナミは無論、南条の言葉の意味を理解している。本質的に南条は上に立ち、ナナミはサポートをする事を好む。これは性格上のことであって、それ自体に優劣はない。自分を頼る人間のために、何かをしてやりたいと、こういうとき南条は自然に考える男なのである。一方で、ナナミはそういう相手は苦手である。二人は好対照な性格をしており、それ故に互いになくてはならない存在なのである。
 部屋を出ていったナナミは既にやるべき事を心中で整理し、実行プランを組み立てている。これ以上もないほどに有能なナンバーツーである。そして、彼女は、南条がこれ以上もないほどに優秀なトップだから、サポートのしがいがあるのだった。
 
 数年の後、三科栄吉は、ミッシェル栄吉と名乗りメジャーデビューを果たす。彼は南条コンツェルンをスポンサーに、有能な仲間数名とともにバンドを組み、瞬く間に大物としての地位を確保した。そして彼のメジャーデビュー曲は、次のようなタイトルだった。
〈Best・capple〉
 その曲ができた背景を知るものはほとんどいなかった。だがこの曲は社会現象とまでなり、後の日本の音楽史に多大な影響を与える事になる。三科栄吉は、大物への覚醒を果たす事に成功したのである。そしてその最大の功労者であるナナミは、栄吉が作った曲を聴きながら、パートナーのサポートをいつもと変わらず続けるのだった。
(終)