世界の境界

 

序、巨人に追われ

 

山の中をいく。

わたしは出来るだけ人里に近寄らないようにして、そうして進んだ。

傾斜が厳しかったり、地形が難しい所は出来るだけ土魔法と風魔法の組み合わせで。人里が遠いと判断した場合は、水魔法を使って川を下った。

人里を避けたのは理由がある。

まだ巨人が追跡してくるからである。

巨人は毎回姿が違う。

おじさんだったり若かったり。老婆だったり。

色々な姿だけれども、服をしっかりきているし。人間を食い殺す事が出来る口をしていて。口を開くと牙がずらりと並んでいた。

それらを殺しながら退ける。

当然腹も減る。

巻き込む人間が出るのも避けたい。

人死にが嫌と言うよりも、それで騒ぎが大きくなるのが嫌だからだ。

ハンナが死んだ事は残念だと思っている。

わたしを慕ってくれていたし。

だけれども、周りが止せと言っているのに一人でわたしの所に来ようとして、巨人に殺されたのは擁護できない。

善意だったりしたのかも知れないけれど。

それは自己責任だとわたしは思う。

だから、ハンナの死を悲しむマリーンらの事は理解は出来たが。

怒りがわたしに向くのはどうにも納得が行かなかった。

この辺りが、わたしが嫌われる理由だと言う事も分かっているが。

わたしは幼い頃に、心を作り損ねてしまった。

それについては、感情豊かで天真爛漫だったハンナを見て良く理解出来た。あれが本来は普通。

伯爵領にいた子供達は、誰もわたしと大差ない状態だった。この国の子供は違う。

田舎であっても、人の情がある土地だったから、ああいう風な子供に育って、心だって出来た。

わたしはそうではなかった。

ただそれだけだ。

そして作り損ねた心は、今更どうしようもない。

表情を創る事は出来るけれど。

それは単に虚しいだけである。

アンゼルはその辺り理解していたのだろう。

或いはアンゼルも、ころころ変わっていた表情はただ作っているだけのもので。内心はわたしと同じで虚無だったのかも知れない。

だとすると、似たもの同士だったと言う事だ。

だから、仲が良かったのかも知れない。

川を見つけたので下る。

この辺りはもうグンリの領域ではない。この辺りからは「海峡」というのが旧パッナーロとの間に出来る。陸の切れ目だ。

そしてそれがあったからこそ、小国が独立を保てたという事情がある。

海があるとそれだけ侵攻の難易度が跳ね上がる。

向こう岸が見えているような海でも、船で渡ろうとすると大変だったりする事はザラだ。水魔法で、水を調べた今だとその辺りがよく分かる。

この辺りはドラダン連邦と言われる小国で、規模はグンリと大して変わらない。

これはグンリにいた頃に、軽く小耳に挟んだ。

元はグンリと争っていたかなり規模が大きかった国らしいのだが。彼方此方に持っていた領土をいにしえの時代に殆ど失い、今はこの辺りにちいさな領土を持って、大陸から半ば孤立して存在できているという。

グンリ以上に排他的な上に孤立傾向が強く。

わたしが聞いた話をまとめる限り、此処で暮らす事は考えない方が良いだろう。

川を下って、河口近くに。集落が見えるので、その辺りで止まっておく。

土魔法を使って、土まんじゅうを河原の近くに作成。枯れ木を集めてくる。

わたしは火魔法だけは使えない。

ただし火を熾すことは出来る。

体を洗ったりする事は難しく無いし、湯を沸かすのも簡単だけれども。

それはそれとして、肉なんかを炙ったりするのに火はどうしても必要になる。

枯れ木の集め方とかは、カヨコンクム時代に散々体に叩き込んだ。

だから今では、さくさくと集めてくることが出来る。

問題は巨人だ。

いつ現れてもおかしくないし、どこにでも出てくる。

今まで13回斃したが、その全てで出現の予兆もなかった。勿論こっちの事情も知った事では無いようである。

ただ不思議な事に、眠っているときには現れない。

これは何故なのか理由は分からない。

いずれにしても、黙々と川で魚を捕る。

汽水域に近いから、かなり大きな魚が捕れる。料理するのも大変で、捌いている間に辺りは血まみれになる。

火を熾して食べていると、人の気配だ。

近付いてこない方がいいと、警告をして追い払う。

わたしとしても、面倒ごとは避けたい。

せっかく人里を避けて動いているのだ。

追い払う方法は、殆どの場合風で押し返す。後は、此方に来るなと、魔法だと分かるように呼びかける。

それだけだ。

それだけで、だいたいは帰っていく。

ただ軍でも呼ばれると面倒だから、さっさと滞在を切り上げて離れるが。

しかしながら、それもいつまで続ければ良いのか。

わたしも、よくわからなくなってきていた。

腹一杯になるまで魚を焼いたのを食べる。料理ですらなく調理だが、まあある程度美味しくて腹も膨れるからそれでいい。

しばらく横になっていると、それですぐに眠れる。

眠っている間は巨人は出ないようだが。

それも今まではそうだったというだけだ。今後どうなるかは分からない。

目が覚めると、鶏が鳴いていた。

思った以上に集落が近かったかこれは。風魔法で探ったはずだが。

ともかく起きだして、わたしはすぐに移動の準備を始める。

このままどこに行けば良いか分からない。

ただ最後に見た地図は、今いるドラダン連邦の東の果て辺りが、無人地帯になっていた。

もういっそ無人地帯が良いかも知れない。

わたしは孤独を苦にしないし。

無人地帯なら、面倒な争いにも巻き込まれないだろう。

だからそれでいい。

淡々と移動を開始。わたしのいた所についても、全て土魔法などで後片付けはしておく。元々巨人は滅多に出るものでもないらしい。だから、わたしのいる所以外には出ないだろう。

そうして海ぞいを移動する。

人里がない険しい地形を選んで移動して行くが、それでも時々砦や出城などの類は見かける。

避けて通る。

そして、ドラダン連邦に入った辺りから。

巨人はでなくなっていた。

 

巨人に襲われなくなって二週間が経過。

海は見えなくなった。

山深い土地で、完全に人間の気配もなくなっている。これが人跡未踏と言う奴なのだろうと思う。

辺りには人の気配はない。

ドラダン連邦の首都はたしか海沿いだったはずだ。この辺りは、もうどこの国でもないだろう。

ある意味安心した。

此処で一人で静かに暮らすのが、わたしにはあっているかも知れない。

服やら何やらは、グンリを追い出されたときに、そのまま持って来た。置いて行けとは言われなかった。

置いて行けとか言ってくるようだったら、わたしはその場で八つ裂きにしていたとは思うけれど。

まあわたしとしても、言われなければ何もしない。

だいたい働いた分の対価として服は得た。

それをおいていけと言われる筋合いは無い。

此処なら巨人に襲われても大丈夫だろう。そう思って、拠点を作る。森を壊さないように気を付けるのは、それだけ周囲に見つかりたくないからだ。そのまま土魔法で土嚢を作り、内部に生活空間を作る。

森の中と言うこともあって、意外に雨はしのげるのだが。

それはそれとして、どうしても水は流れ込んでくるので、それは防ぐ。

土を固めたり石を混ぜたりして、水が入り込まない空間を作り。更には生活のための物資を並べておく。

こう言うとき取り返しがつかないのは服や靴だ。

わたしは皮で作った靴を愛用しているが、これだっていずれは使い物にならなくなるだろう。

歩いて潰してしまうケースもあるが。

皮などは放っておいても傷んでいくのだ。

服もそう。

仕組みを理解していても、一から作るのは無理。これについては、いずれ考えなければならない。

わたしはもう背が伸びる時期を終えているけれど。

それでもまだ少しは体型が変わる。

仕立てはどうしても身につかなかった。やる機会がなかった、というのが最大の理由である。

後はどうするか。

そう思って、外に出る。

空に虹が架かっている。さっきまで降っていた雨が止んだようだった。

そして、気配察知の範囲に敵性存在が入り込む。

風魔法を周囲に常時展開しているのだが、これは熊より明らかに大きい。音は消して、様子を伺う。

がさがさと森をかき分けて歩いているのは、オークだ。多分野生種だろう。こっちには気付いていない。

だが、気付かれていなくても、これはまずいな。

スポリファールでも野生化したオークが、二線級とはいえ軍部隊をずっと苦戦させていたのである。

幾つかの国の軍を見てきたが、多分練度で言えば最強だったスポリファールの軍がである。

森の中のオークは、戦闘になることを極力避けるべき相手だ。

幸いわたしは風魔法もあって相性が良い。群れを作っているのかは知らないが、先に始末すべきだろう。

前に軍で飼育されているオークを見た時は、どうすればいいのか途方にくれてしまったけれど。

今ははっきり言って、巨人との戦いを経験した事もある。

すっと背後から魔法で、毒ガスを纏わり付かせる。

そうすると、周囲を見回していたオークは、しばし白目を剥いてもがこうとしたが。それすら出来ずに、どうと倒れていた。

森が揺れる。

小鳥が驚いて飛び立ち、逃げていった。

とりあえず、一体。

死体に手を出す事はしない。他のオークが、人間がいると気付くと面倒だからである。死因不明としておけばいい。

ただ、もしも多数のオークが襲ってきた場合は。相応に対応しなければならないだろうが。

群れのオークを相手にするのは、簡単ではないだろう。

今のうちに、覚悟は決めておく必要がある。

だが、元々此処は人跡未踏の地だ。

誰も領土にしていない山奥の中の山奥。

人間が住み着かないのには、相応の理由がある。

覚悟はしていたことだし。

今さら、気にすることでもなかった。

 

翌朝からは、索敵範囲を拡げて、魔法を練りながら周囲の生物の分布などを調べておく。

住み着けるようだったら、此処で住んでしまうつもりだ。だから、そうしておく必要がある。

オークの死体は昨日のまま。

腐るより速く、森の動物が手当たり次第に食い散らかしている。死んだらわたしもそうなる。

ただそれだけだ。

動物はかなりたくさんいる。

オークのような巨大な生物がやっていけるだけはある。軍用の奴よりはかなり小さかったけれど。

それでも熊よりだいぶ大きいのだオークは。

食べる量とか凄まじいだろう。

見ていると、野犬や猪もいるし。小型の熊もいるようだ。しばらくして、オークが三体くる。

こっちに気付いている様子はない。

死体に集まっていた獣が逃げ散る。逃げ遅れたのは、そのままオークに掴まれて、食われてしまった。

仲間を食った獣も関係無しか。

わたしも普通の人間からはああいう手合いと同じに見えているのかも知れない。

気配を消して様子を確認。

巨人から比べれば全然楽な相手だ。

あの数が相手でも、今はそれほど苦労せずに倒せるだろう。

力はついてきているのだ。

その力が万能でも全能でも世界最強でもないだけ。だからできる事は限られるし、あっと言う間に側で人が死ぬ。

ただそれだけである。

オークはやがて仲間の死体を担いでいなくなった。

まあ、また来るようなら殺すだけだ。わたしは寝床で横になろうと思ったが、そのオーク達が跳び上がると、逃げていくのが見えた。

オークより大きいのがいる。

巨人かと思ったが、違う。

巨人はヨトンと言われていた。

あれは全く違う存在だ。全身が触手の塊で、恐ろしい程俊敏に飛びかかると、オークに覆い被さってそのまま貪り喰い始めた。

残り二体は逃げようとするが、触手が一体を瞬く間に絡め取り、ばりばりと食い始める。最後の一体は必死に逃げた。

触手の塊は森を揺らしながら動き、しばらくこっちに意識を向けていた。

あれは気付いているな。

さてどうする。

そう思ったが、やがてきびすを返して去って行く。

小腹の足しにもならないと思ったのか。

単に満腹したからか。

他の理由かは分からない。

いずれにしても、オークはあの大きさで、頂点捕食者でもなんでもないことがよく分かった。

それに、此処に人間が住まない理由もだ。

かといって、今更ドラダンを突っ切って、更にパッナーロを突っ切って別の所に行くのは現実的では無いだろうし。

グンリの方に行けば、多分巨人が出る。

仕方がない。

此処に適応出来ないか、しばらくは調べて見るとする。魔力を更に練り上げて、此処で生きていけるようなら。

もうわたしは、社会に隷属する必要はなくなるかもしれない。

人間の社会を支配するとか、そんなつもりはさらさらない。

必要な物資だけたまにくすねるだけ。

そういう関係が成立する可能性がある。

賊となにも代わりはないが。

今わたしの扱いは、タチが悪い賊と殆ど同じだ。少なくとも、周囲からはそう認識されているだろう。

でも、それはなんとなくいやだ。

わたしがこの世でもっとも嫌っている人間は、あの伯爵だ。

あいつは権力を持った賊そのものだったのだと、今では思っている。しかも世襲でその権力を得た。

全部が同じになるわけではないが、あれの同類になるのだけは嫌だ。

自意識が薄くても、こういう所では薄い感情が浮いてくる。

わたしは空を見上げる。

あれだけの殺戮があったのに。

森の上空は澄んだ青空で。

何事もなかったかのように、雲が時々流れているのだった。

 

1、境界を見つける

 

家を作りあげた後。

周囲に獣が入り込まないように工夫をして。それから少しずつ遠出する。

山奥のつもりが、実は人里のすぐ側でしたとかだと笑い話にもならないからである。

それに、辺境とはいうが。

その辺境の先に、大国が無いとは言い切れない。

境界という言葉については、真実をわたしはまだ知らない。

それはただの国境かも知れず。

或いはその先には巨人の国があったりするかも知れない。

わたしは世界の全てを見てきたわけでもなんでもない。だから、その先に何があっても不思議ではないのだ。

空を飛ぶのも、だいぶ速度が上がり、高度も取れるようになって来た。

だから上空に上がって、視界を確保する。

裸眼では見えない範囲に対しては、水魔法で擬似的に眼鏡を作って、それで遠くを確認していく。

それで分かってきた事は、かなりの広範囲に深山が続いていると言う事だ。

開発されている様子もない。

無敵を誇ったいにしえの勇者だの賢者だのは、こっちには踏み込まなかったのだろうか。

たまにそういった連中には、田舎でスローライフをする(スローライフという言葉の意味はよく分かっていないそうだ)とかいいながら、辺境に攻めてきて傍若無人の限りを尽くす輩もいたらしいが。

そういう連中は、こういう山の中には興味を示さなかったのだろうか。

或いは暴力を振るうための実験として訪れて、在来の生物を殺戮しまくった挙げ句に、飽きて去ったのか。

それについては、わたしは分からない。

ともかく、彼方此方の地形を見ていくが。

巨人ほど大きさがある得体が知れない生物は何体もみた。

オークを苦もなく補食していたあの触手の塊は、谷間にいた。其処を巣にしているらしく、時々動き回っているのが見えた。

首がとても長いのもいた。

しかし観察していると、それは首では無く鼻なのだと分かった。

とにかく重厚な生物で、オークはそれをみるだけで逃げ散っていた。あれはわたしもちょっと戦いたくない。

触手の塊ですら、そいつは避けていた。

空から観察していて、そして気付く。

遠くの方の光景が歪んでいる。

不安要素は少しでも取り除いておいた方が良い。

超巨大な生き物は避けるとして。

得体が知れない自然現象も、避けて通った方が良いはずだ。

一月ほどかけて、まずは原生生物の分布を調べて回る。遠くの方については、その後である。

飛んで回ると腹が減る。

持って来たものには、簡単な調理器具もある。

料理はほぼ出来ないに等しいが、調理だったら出来る。アンゼルと一緒にいたときに、野草などのなかで食べられるものについても教わったし。

食べられる動物についても然り。

そういうものを食べながら、少しずつ行動範囲は拡げる。

それと、髪の毛が邪魔になってきたので、細かく手入れはしておく。

人間としての生活は捨てていない。

魔法が使えるというのが、捨てなくていい理由とはなってはいるのだが。

それはそれだ。

わたしは単に快適な生活をしたいだけである。

この辺りはある程度調べて回った。

次は境界だ。

そう思って、空を飛んで移動する。

なんだか歪んで見えている地点は、蜃気楼の一種かも知れないが。近付いて見て、それが違う事は分かった。

境界というのは、これらの人がとても入れない山のことかも知れないと、わたしは思っていた。

だが、わたしくらいの魔法使いだったら以前にも幾らでもいた筈だ。軍属の一線級の魔法使いだと、わたしより上が幾らでもいるだろう。

今の世代でも、アルテミスくらいになると、この程度の苦難なんかなんでもないとみていい。

それらが入れないと判断するほどでは無いと思う。

だから、その結論には違和感があったのだが。

その異様なものを見つけて、それが境界なのだとなんとなしに理解出来た。

それは壁だ。

其処を境に、世界がぐしゃぐしゃに歪んでしまっている。

触ってみる勇気はない。

その先がどうなっているのか、まったく分からないのだ。壁みたいな空間を境に、向こうは光景が歪んでいる。

そして、飛んで移動してみるが、ずっとその異様な壁は続いている。

地面から空まで、である。

これは本当に世界の果てなんだと、わたしは理解していた。

興味は持ったが、それ以上に危険だと判断してしまう。

まずは距離を取り、飛ぶのに使った魔力を食事で補給する。わたしは食事を楽しむことはほとんどしない。

美味しいまずいくらいはあるのだが。

それはそれとして、食事は魔力と体力の補給のためにしている。

この境界が、最大の危険要素だ。

そう理解したので、少しずつ確認をしていく。

複雑な地形になっている場所でも境界は遠慮なく存在している。川が境界に流れ込んでいる場所もある。

水の上を歩くだけではなく、水の中に濡れずに入る魔法も既に習得した。

水の中の危険な獣に襲われるから、出来るだけ使いたくはないのだが。それでも、調べて見る価値はあるし。

山奥と言う事もあって、川の勢いもそれほど強くは無い。

だから潜ってみると、川も深くなく。

川の中でも、境界は変わらずあることが分かった。水も平気で、境界の向こうに流れ込んでいる。

土の中はどうか。

山の中にはクレバスと呼ばれている亀裂が時々ある。

出来る理由は色々らしいのだが。

山を歩くしか出来ない人間には、これに足を踏み入れる事は文字通り致命的な事態である。

わたしは空を飛べるようになっているので、今では問題にならないが。

ともかく中に入ってみて、その底まで降りる。

光がろくに差し込んでいないくらい暗い穴の中だが。

水と空気を操作して、光を誘導する事は出来る。

擬似的な眼鏡を作る魔法の応用だ。

それでクレバスの中を調べて見るが、やはり境界は存在しているようだ。明らかに光の届き方がおかしい。

その向こうがグシャグシャになっているのも同じ。

世界は此処で終わっているんだ。

それが分かると、どうにも不可解な気分だった。

しばらくそうやって、境界を単独で調べていると、それだけで時間が過ぎていく。

持ち出して来た紙に、境界の調査記録をつけていく。

見ただけで全部覚えるとか、フラムは言っていたっけ。

そんな能力はわたしにはないので、たまにこうして経験したことを記録しておくのである。

それに意味があるかどうかはしらない。

なかったとしてもどうでもいい。

ともかく記録をつけた後。

境界に対して、アクションを起こしてみる事にした。

 

地面に降り立つ。

これは飛行魔法が消耗が激しいからである。複数の魔法の同時展開は、今でもわたしには負担が大きい。

大きめの魔法を使うときは、基本的には着陸してから。

これは身についていることだ。

境界近辺を探索している間に、大きくて危険な動物の生息地域は把握した。行動範囲もである。

強いていうならオークが仕掛けて来るかも知れないが。

まあオークなら、片手間に始末できるだろう。

大岩を魔法で持ち上げると、境界にぶつけてみる。

水は何の問題もなく流れ込む。

空気もそれは同じだ。

だが、岩ならどうか。

放り投げてみた岩は、まるで抵抗なく、境界の向こうへと消えたが。直後、倍する勢いで戻って来ていた。

全力で逸らすが、至近を掠めた。

これは間近で調査をするのは危ないかも知れない。

次は用意しておいた倒木を用いる。

倒木を風魔法で掴んで持ち上げると。境界に突き刺して見る。

さて、どうだ。

境界に突き刺しただけでは、何も起きない。

倒木を境界から引き抜いてみるが、特に傷んでいる様子はなかった。

そうか。

では次、と思った瞬間。

境界から何やら手が伸びてきて、倒木を掴んでいた。手と言っても、巨人のものくらい大きい。

それが倒木を掴むと、一気に引っ張り込む。

倒木から風魔法は制御を外していたのだが。それでも凄まじいパワーによって、あっと言う間に境界の向こうへと持ち去られてしまった。

何かが向こうにいる。

それは間違いが無さそうである。

一度距離を取る。至近での実験は危険だと判断したためだ。

そして風魔法で、まずは風を送り込んでみる。水が流れ込むし、風だってそうだということは分かっている。

だが突風が流れ込むとどうなるのか。

少しやってみると、しばしして。

爆風が帰ってきた。

即座に全力で防ぐが、それでも危なかった。距離を取っていなかったら、粉みじんになっていたかもしれない。

これは、下手な実験は避けるべきだな。

わたしはそう思って、今日は切り上げる。

巨人が境界から出て来たとしても、確かにこれは不思議ではない。

というか、あの壁はなんだ。

空のかなり高い所にも、境界は続いていた。境界は、世界にとっての壁なのか。だが、水や空気は流れ込んでいる。

それどころか、川によっては境界の向こうからこっちに流れてきているものもある。

確認したが、魚なんかは境界を出入りしている個体も見つけている。

虫なんかもそうだ。

小虫なんかが境界を避けている様子もなく。

境界があるのかないのかまったく分からないように、飛んで出入りしているようにも見えた。

しかし、野犬などは境界が見えているようで、決して近付かない。

大型の魚などもそのようで、絶対に境界には近付かない様子も確認できた。

あれはなんだ。

滝が近くにある境界を見つけた。水が流れ込んでいる。これは実験に良いかも知れない。

少し観察してみる。

そうすると、大きめの魚が、境界に流し込まれるのが見えた。だが、それで何かが起きるわけでもない。

ただ、魚はそのまま戻って来なかった。

つくづくよく分からない場所だ。

近付かないのが吉だな。

わたしはそう結論を出す。

だが、その結論が喜ばしかったのは。観察を切り上げた、その日までだった。

 

騒がしい。

それも人間の声だ。

それなりの規模の人間が来ている。今確認できただけでも多分百人かそこらはいる。

恐らくドラダン連邦の兵士だろう。すぐに広域に風魔法を展開するが、百人だけじゃない。

恐らく数千という規模だ。

百人は、その一部である。それを察知しただけだ。まあ、敵の数を正確に把握できたからそれでいい。

小国だと聞いていたが、思った以上に数がいる。

とりあえず身を隠しながら、風魔法で何を話しているか確認する。

「巨人様と戦っていた外道者が此方に逃げたのは間違いないのか」

「おそらくな。 罰当たりが、境界の近くまで逃げ込んだとすれば、立ち往生している筈だ。 だが巨人様を殺すほどの使い手だ。 この辺りでも生き延びている可能性は否定出来ない」

「それにしても大げさな。 親衛師団を丸ごと出す程か」

「グンリから使者が来たらしくてな。 巨人を殺した魔法使いが去ったとかいう話らしい。

 それで国王様が激怒して、討伐隊を出す事になったそうだ」

罰当たりね。

グンリでも転生神とやらを信仰していたが。

ドラダンでは、巨人を信仰しているわけか。

あれはどうみても人食いなのだが、それでも信仰するのは何故だ。何かしらの論理的な理由があるのだろうか。

恐ろしいから信仰するのだろうか。

伯爵領では、フラムは力で降臨していた。あれと同じ事が此処でも起きているのかも知れない。

しかし巨人はどうみても理性で接する事ができるとは思えなかった。言葉を話すことがあり、魔法を使うといっても、人間と違う理屈で動いているとしか思えない。信仰したところで、何か利益があるのだろうか。

それにこれだけの戦力を用意できるのなら、巨人を倒す事は出来るはずだ。

信仰に思考停止しているのか。

それとも他の理由があるのだろうか。

信仰というもの自体がわたしにはよく分からないので、何ともいえない。ともかく此処は、一旦距離を取らないとまずいのは事実だ。

わたしは風魔法で気配を消すと、そのまま洞窟を離れる。これを作るのは結構手間だったのだが、それも仕方がない。

兵士達はいつこっちを発見してもおかしくない。

わたしは特務として正式に訓練を受けているわけでもなんでもない。アンゼルだったらあっさり突破するかもしれないが。

わたしは手探りでそれを試行錯誤していかなければ、成功の可能性すら掴めないだろう。

荷物は出来るだけ持ち出すが、荷車は諦めるしか無さそうだ。

こればかりはどうしようもない。

山の中を、更に奧へ奧へと行く。

視界を遮るように移動しなければならない。

これだけの奥地で暮らしている人間。奥地でやっていけている軍隊だ。わたし以上の魔法使いがいる可能性もあるし。

やっかいな固有の魔法を持っている可能性もある。

アンゼルもそういう固有魔法を持っていた。

「見つけたぞ! 此処にいたらしい!」

「すぐに皆を呼べ!」

兵士達がわたしの洞窟を発見したらしい。

持ち出せたものの大半はおいてくる事になってしまったな。

そう思うと、多少は残念だが。

それで気を引けると思えば安い。

土魔法を使って移動しているので、足跡も残していない。犬などで臭いを追跡するのも不可能だろう。

更に奥地へ移動していく。

ともかく、兵士達から距離を取る。

空に人影。

案の場、空を飛べる魔法使いがいるか。当然、彼方此方に探知の魔法を使っている筈。

わたしは世界最高の魔法使いでもなんでもないし。

魔法の全てを知っているわけでもない。

あれらがどんな未知の魔法で探知をしているか分からない。そう判断して動くべきだと考える。

こういう思考方法はアンゼルに習った。

同時に相手を過大評価するなとも教わった。

過大評価しすぎると、身動きが取れなくなる。

それでは本末転倒なのだと。

土魔法と風魔法の組み合わせで移動中には音も立たない。

それでひたすら距離を稼ぐ。

境界と言われている妙な障壁のようなものの側を移動して行くと、兵士も境界とやらは避けているようで。

移動はしやすい。

ただ、川があると、どうしてもそこは避けていきたい。

兵士達もかなり広範囲に散って此方を探している。

強い臭いがある。

恐らくは獣よけだ。

ただ、巨人がそもそも境界の近くでは出る事があるとマリーンが言っていた。オークやらの原種がいてもおかしくはないだろうし。大型の不可解な獣はグンリで多くの数を見ていた。

そういうのに襲われると、兵士の数人程度だとひとたまりもないだろう。

何か対策をしているのか。

そうこうしているうちに、後方に兵士達が迫ってきている。木の陰でわたしは息を殺して、行ってくれるのを待つ。

しかし兵士達はかなり慣れていて、山狩りを極めて効率的にやっている。

どうやら巨人を十数体も殺したわたしは、彼等にとって怨敵も良い所であるらしい。捕まったら八つ裂きだな。

苦笑い。

今までもそういうことはいくらでもあった。

兵士達を相手にするにしても、兵士だけならどうにでもなるだろう。

問題はかなりの数いる魔法使い。

辺境国の軍と侮れない。

グンリからしてそうだった。ドラダンの軍だって、これだけ山で高速での浸透をして、なおかつ秩序が取れている。

はっきりいって、正面からやりあったら勝ち目はゼロだ。

多分アンゼルでも厳しいというだろう。

アンゼルと二人がかりでも無理と判断する他無かった。

広域殺傷用の魔法などを使っても、それでもこの数は殺しきれない。

冷静に逃げるべきと判断したわたしは、急いで川を抜けようとするが、その瞬間声が上がっていた。

「いたぞ!」

見つかったか。

全速力で行く。

川を一気に抜けて、水魔法と風魔法の組み合わせから。川岸で土魔法と風魔法の組み合わせに切り替える。

今までは消音に使っていた風魔法を防御に使う。

水魔法で一気に川を抜けている最中から、後方から矢が飛んできていた。それもかなりの剛弓だ。

上空からは、魔法使いが来ているのも分かる。

雷やらの指向性が低い魔法はまだ良い方で、厄介なのは火などの単純な魔法だ。そういうのは威力を上げやすく、指向性も高くしやすい。隕石魔法も使ってくる奴がいてもおかしくない。

スポリファールやカヨコンクムの軍ではそれを使うのが当たり前のようにいた。クタノーンの黒軍も質はそれほど変わらなかったと言う話だ。

それらに対応できる戦術をハルメンの密偵が仕込んでいたようだし。

わたし程度の魔法使いなんて、なんぼでもいると考えないといけない。

左右に蛇行しながら、森の中に飛び込む。

犬笛か何かが吹き鳴らされ、狼にしては大きすぎるのが猛烈に追いかけてきている。戦闘用の狼だろうか。

走る速度も人間の比ではない。森の中でも、正確に追跡してきている。

土をぶちまけて、後方の視界阻害。速度は一時的に落ちるが、それでも派手に森の中の柔らかい土……腐葉土をばらまく事で、そういった追跡者の視界を狂わせる。だが、やはり兵士は相当に訓練されている。

境界とわたしを挟むように、かなりの速度で追ってきていた。

「生死は問わない! 首を上げろ!」

「首を上げた兵は陛下より褒美が出るぞ!」

「確実に殺せ!」

物騒な声が聞こえるが、まあ巨人が信仰対象だというのならそうなるだろう。

マリーンはハンナを可愛がっていたようだし、相当にわたしを恨んでいるとみた。それとも、時間が立ってじわじわ怒りがこみ上げてきたのかも知れない。

だが、だったらわたしはどうすれば良かった。

あの場にいた兵士達もろとも、巨人にまとめて食われれば良かったのか。

弱者は死ねというのか。

わたしに生きる権利も資格もないと。

わたしは命にあんまり価値は見いだしていないが。それでも、殺されるのは嫌だ。それは素直な言葉として出る。

だから逃げる。

至近。

飛びついてきた巨大な狼だか犬だか。凄まじい気迫だ。

わたしはそのまま、風の塊を叩き付けて、空中で押しやる。文字通り吹っ飛んだ犬。風圧を浴びてみると分かるが、風というものの力は侮れない。

更に二匹。

速度を上げるが、どうしても厳しい。

二つ同時の魔法が限界。

三つ同時はやれるかも知れないが、あんな大きな犬を吹っ飛ばすのは無理だ。

犬の獰猛な吠え声が至近まで迫ってきている。

二匹同時、左右から来る。

わたしは上空に土魔法を利用して跳躍すると、犬を風魔法で二匹とも地面に叩き付け、着地。

更に逃げようとしたが。

そこで、至近の前が炸裂していた。

上空にいる魔法使いだろう。周囲の気配を探る限り、これはもう囲まれるな。ふうと息を吐く。

呆れているわけじゃない。

ただ平常心を取り戻すためだけの行動。

そのまま、更に急ぐ。

今度は五匹。

一気に犬が追いついてくる。

このまま境界を避けて逃げても、活路はなし。

わたしはそう判断する。

上にいる魔法使いは、わたしに追いついて飛行しながら、攻撃魔法を打ち込んでくるくらいの実力がある。

流石は軍所属の魔法使い。

わたしも大国の軍に所属する魔法使いの、一線級くらいの実力はあるとマリーンが言っていたが。

それが複数今相手になっていて。

大量の兵士と、猟犬がおまけと言う状態だ。

突破は無理。

だったら、賭けてみるしかない。

わたしは目を閉じると、全力で境界に向かう。

世界を歪ませているよく分からない障壁は、水は少なくとも通していた。だから、水で身を覆う。

犬が凄まじい唸り声を上げているが、わたしが境界に突っ込んだのを見て、明らかに躊躇していた。

小型の動物は出入りしていた。

どうしてか、大型の動物は入ろうとしていなかった。

本能的に何かまずいと知っているとみて良い。

つまり命の保証は無い。

だが、それでも。

今は此処しか活路がない。

そのままいれば確定で殺される状態だ。だったら、境界の先へ、進んでみるしかなかった。

 

境界の側に降り立ったドラダン連邦所属の魔法使いカリーは、舌打ちしていた。

境界を越えることは、その存在を知っている者には禁忌とされている。

追い詰めればそうする可能性はあった。

兵士達も、困惑している。

ドラダン連邦では、境界を越えることは最大の罪とされていて。もしも越えたら幾億の輪廻を虫として過ごさなければならないと言われているほどなのだ。

後方から親衛師団の将軍が来る。

敬礼すると、状況を報告。

屈強な初老の将軍は、舌打ちしていた。

「境界を越えて追跡するのは不可能です。 踏み込んで帰ってきたものはいませんし……」

「罰当たりなことをいうな。 それにしてもおのれ外法め。 巨人様を散々殺した上に、境界にまで踏み込むとは」

「如何なさいますか」

「一度引くぞ」

やむを得ない。

それに、これだけの人間が一度に山に入れば、多くの獣も反応する。一部の部隊は、大型の獣に襲われ、交戦している有様だ。

カリーはこの軍で上位に食い込む魔法使いだが、此処にて長居したいとは思わない。巨人が姿を見せた場合には、贄を捧げて帰ってもらっているほどなのだ。その贄は巨人が選ぶのである。

下世話な話。

まだカリーは、死にたくなかった。

 

2、境界

 

一か八か。

境界を越えた瞬間、世界が変わった。

本当にそうなのだ。

息はできる。

足もつく。

だが、ここは一体何だ。

足下には、地面が拡がっているが。辺りは薄暗い。さっきまでは昼だった筈なのだが。そして、気付いた。

空が決定的におかしい。

太陽が出ているが、何だか空が薄暗く、太陽にしても普段見慣れたお日様ではない。

大きく、禍々しい。

それに、焼け付くようだ。

わたしはとっさに水で壁を造り、自分への光の直撃を防ぐ。じりじりと焼けるようだった。

わたしが抜けた境界の方を見る。

歪んでいて、景色が無茶苦茶だ。

地面にしてもしめっていて、池になっていたりもするが。いや、池と言うよりももはや沼だ。

生物らしいのは見当たらない。

植物もだ。

此処は一体何だ。周囲を見回すが、これほど命を感じない土地は、砂漠以来……いや砂漠ですらこれよりマシなのではないか。

地面を靴先で蹴ってみる。

これは土では無い。

少なくとも豊かな腐葉土ではないし、砂漠のような砂でもない。荒れ地に近いけれど、もっと酷い。

辺りにはちいさな虫なんかの死体が散らばっている。

境界を越えて戻ってくる虫は時々見たが。あれはすぐにこっちから向こうへ戻っていたのだろう。

しばらく呆然としていたが。ともかくまずいことは分かった。

魔法は使える。

それはとっさの水による壁を作れたことで確定だ。

土魔法を使って、移動を開始する。境界がどれくらい拡がっているかは分からないが、兵士達の動きからして、境界を越えることは考えていないはず。

それに、である。

境界を越えて、戻れるとは考えにくい。

境界に対して色々やってみた実験や、大きめの生物が戻って来ないという結果。それにこの焼け付くような異様な肌触りの空気。呼吸は出来るけれど、どうも肺に負担が掛かっているような感触。

長居するのは危険だろう。

とにかく移動だ。

兵士達は魔法使いも含めて、わたしが消えた辺りを探した後は戻るはずだ。これは希望的観測では無く、如何に慣れた兵士達にしても、あんな危険な山奥に長居するのは得策ではないからである。

更には、空から攻撃して来ていた魔法使いが、わたしが境界に消えたのは見ている筈である。

距離さえ取れば、発見される可能性は低い。

低確率だが、境界を犬なり人なりが超えて来る可能性を吟味しなければならなかったが。

それについても、移動する事でやり過ごせる可能性が高い。

状況から考えて、境界を越えてくる奴はいないとみて良いだろうが。

それにしても、腹が減る。

逃走中に猛烈に消費した、ということもあるのだが。

此処では魔力の消耗がやたらと早いような気がする。

巨人が境界の近くでよく見られるというのであれば、此処は人の世界ではないのかもしれない。

魔界だとか、そういう場所。

ありうる話だった。

そういえば今日は空に月が見える日だ。

そう思って空を見て、愕然とする。

月が二つある。

正確にはちょっと違う。月が二つに砕けていて、割れている。

なんだここ。

色々とおかしい。わたしは魔法の速度を上げる。とにかく急いで離れて。そしてもう一度境界を越える。

ふと足下が消える。

違う。いきなり海になっていた。それも、かなり深い色の海だ。即座に水魔法を上下に展開。

同じ系統の魔法を二つだと、違う系統の魔法二つの同時使用よりも、だいぶ消耗は小さめだ。

後方を見るが、かなり遠くに陸があった。

これはおかしい。距離とかも色々とおかしくなっているのだと見て良さそうだ。

風はない。

海は全くという程波が出ていない。

そして、境界を越えて迷い込んでしまったのか。

小魚が、波間に浮いていた。

この辺りの海は、毒になっているのかも知れない。いや、あの禍々しい太陽が原因だろうか。

ともかく急ぐ。

しばらくして、此処で充分だろうと判断。

わたしは、水で全身を覆うと、境界を再び越えていた。

一瞬だけ世界が暗転したような感覚があって。

それで、いきなりわたしは嵐の海に出ていた。即座に水魔法と風魔法に切り替えて、空を見る。

光の方向から、時刻とだいたいの位置を調べるが。

これは妙だ。

太陽の方角や、星なんかから位置を割り出す方法は知っている。スポリファールに入った時や、その後にアンゼルから習った。

それによると、わたしは多分、今はハルメンの更に東の海にいる。

地図は見た事があるから知っている。

そもそもハルメンはかなり山深い国で、その東には何があるのかスポリファールでは把握していないようだった。

海軍国家のカヨコンクムでもそれは同じだったようだが、それは恐らく航路として価値がないからだと思う。

いずれにしても、境界は至近にあり。

わたしはかなり魔力を消費している状態だ。

速度を上げて、陸がある可能性が一番高い方向を目指す。水魔法に8、風魔法に2くらいの割合で力を割き。

水の上を高速移動しつつ、波の動きを察知して、それで張り倒されて水に落ちないように気を張る。

海に落ちたら、一瞬で体力を削られる。

助からないとみて良いだろう。

しかも嵐だ。

波は文字通り丘のようで、何度も凄まじい勢いで行き交っている。どの道此処で力尽きたら絶対に助からない。

加速。

とにかく速度を上げる。

僅かに差している光と、雲間から見える星で位置を確認しつつ急ぐ。

やがて。

ちいさな島が、見えてきていた。

 

上陸と同時に力尽きる。

呼吸を整えながら、懐にある干し肉をかじって、少しでも力の足しにした。とにかく疲弊が酷い。

砂浜なんて上等なものはなく、この島は切り立った崖に囲まれていた。これでは人間はまず住んでいないだろう。

むしろ好都合だ。

ただし、オークとか巨人とか、そういうのが住んでいてもなんらおかしくはない。

巨人を殺したらまた追い回されそうだし。

今の残存戦力では、オークにすら勝てないだろう。

見た感じ、知っている野草やら果物だのはない。だとすると、魚を食べるしかなさそうである。

魚にも毒をもっているのはいるけれど、幸い魚に関する知識はある。

回遊魚になると世界中に住んでいるものがいて、そういうものは波間でも見かけていた。問題はそれを捕まえて、調理する余力があるか、だが。

まずは寝るしかないだろう。

残っている魔力と相談しながら、土盛りを作って、その中に。今は雨は降っていないが、こんな場所ではいつまた降り出すか知れない。

風魔法などで障壁を作っておいて、その中で寝る。

疲れもある。

日中関係無いような仕事をしていると、まともに眠れなくなるような場合もあるらしいが。

幸いわたしはまだそんな状態にはなっていない。

しばらく無心に睡眠を貪る。

起きだすと、とにかく腹が減っていた。

残っている干し肉を全て食べてしまう。結構大事なとっておきだったのだが。こう言うときに使わなければいつ使うのか。

星をもう一度見て、やはり此処はハルメンからみて更に東だと判断。

海にいる魚を、水魔法で探って、それで引っ張り挙げる。釣りなんて不確定要素が強い事はやっていられない。

水魔法で形状などを探った上で捕まえているので、それが食べられる魚かどうかはすぐに分かる。

魚を十匹ほど捕まえた後、火を熾して炙る。

これだけで魔力が尽きそうだが。脂が乗った魚にがっつくと、正直なものでどんどん回復していく。

わたしの魔力は食欲と直結している。

これが人によって色々違うらしいが。ともかくわたしに関してはそうだ。黙々と魚を平らげて行き。

土魔法で作った便所で排泄をすませると、また眠って体力の回復に努める。

丸一日そうして体力回復を続けて、それから身の回りを確認。

持っているのは、ロイヤルネイビーの中佐の階級章。後は結果としてアンゼルの形見になってしまっただろう幾つかの小物。

後は金貨が少し。

化粧品を買えとか言われたことがあったっけ。

ただ旧パッナーロではそんなもの存在するのかも分からなかった。貴族の館とかにあっただろう品は、みんな売り払われてしまっていただろうし。

いずれにしても少量だけでも金貨がある事は救いだ。

問題は服で、これはグンリで買ったローブである。

軍属である事を示すもので、他の服は荷車と一緒においてきてしまった。他には調理器具とか、そういうものもない。

身の回りの品を揃えるにしても、作れるものには限度がある。

危険を承知でハルメンに行くか。

ハルメンは実の所かなりの文明国である事は、わたしは知っている。ハルメンの軍は独自の技術を持っているし、何よりロイヤルネイビーを壊滅させた程の戦術知識や技術や兵器を短期間で反乱軍に提供できている。

軍勢の規模ではスポリファールに及ばないかも知れないが、長年あんなしっかりした国と戦い続けているだけのことはある。

だが、どんな国かまったく分からない。

そもそも兵士の顔も見ていないのだから。

食事をして体力をつけながら、今後の計画を考える。

その過程で島を見て回るが、幸い大型の危険生物はいなかった。蛇が少しいるが、わたしにはただのごちそうだ。

蛇を捕まえて蒲焼きにして、黙々と食べる。

元々風魔法も土魔法も、幾らでも蛇を捕らえる手はある。

このちいさな島では蛇が頂点捕食者だったようで、わたしをみても逃げもせず、襲っても来なかった。

可哀想だが、力になって貰う。

淡々と力を蓄えて、三日。

巨人が現れる様子もない。

境界を相当に怖れていた様子のドラダン連邦の軍勢が追跡してくる様子もない。

わたしがスポリファールにいたことを知られると面倒かも知れないが、いずれにしてもあまり大きな都市には行かない方が良いだろう。

生活用品だけ入手して、それで生活はこの島でするか。

そんな事を考えながら、わたしは海に出ようとして。

そして、ぎょっとしていた。

船だ。軍船である。

カヨコンクムのロイヤルネイビーに比べると船の大きさも大した事はないし、船団の規模も小さい。

問題は、こっちに気付いている事だ。

誰かしらの魔法使いが結界でも貼っていたのかも知れない。

さっさと逃げるか。

だが、そう考えたときには、数人の魔法使いが、空から降り立っていた。

参ったな。多分全員わたしと同格か、それ以上の魔法使いと判断して動くべきだろう。いずれにしても、出方を見るしかない。

「監視のための結界に掛かったが、随分としっかりした格好だな。 遭難でもしたのか」

「そんなところです。 この島に流れ着いて、体を癒やしていました」

「そうか、それは災難だったな。 此処はハルメン国の軍管理下にある。 すまないが、出頭して欲しい。 本土へ送ってやるから、その間に聴取をさせて貰おうか」

「分かりました」

嘘は言っていない。

それに、此奴らはそんな風に言いながらも、わたしが魔法使いである事を即座に見抜いていたし。

なんなら戦闘態勢を崩してもいない。

やっぱり蛮族でも後進国でもないじゃないか。

わたしは、国境の街の人間が、ハルメンの民を蛮族扱いしていたのを、どうしてだろうと思った。

ともかく、一緒に船へ行く。

荷物を整理するのをちゃんと待ってくれたのは優しい。一応嘘は言っていない。これは、正直に話すべきだろう。

実際問題、審問の魔法とかを掛けられた場合、嘘を言うと立場が悪くなる。

問題はまた何かしらの独自の法や不文律に引っ掛かる事だが。

わたしは、とにかく今は従う以外になかった。

この手練れの魔法使い達相手に、逃げ切る自信などとてもなかったからだ。

船は島に手慣れた様子でつけると、すぐに移動を開始する。船室であまりうまくは無い水を貰うと。軽く話を聞かれる。

わたしは遭難中だったことは話す。

流石に境界を越えたという話はしない。

ロイヤルネイビーの中佐だった事は話しておく。

これについては、ハルメンとしてもいずれ調べれば分かっただろうし。もしもそれで投獄されるとか処刑だとかなったら、死ぬ気で逃げるしかないが。

「ほう、中佐か。 なるほど、魔法の練度からもそれだけの地位にいてもおかしくない。 よく旧パッナーロの殲滅戦から生き延びたな」

「何処をどう逃げたかもよく覚えていません。 あの戦いはどうなったんですか」

「その立場なら我等が後方から反乱軍を支援していたことは知っているのではあるまいか?」

魔法使いは隠しもしない。

別に隠しても何の意味もないか。公然の秘密だろうし。

それに、あの様子だとカヨコンクムのロイヤルネイビーはほぼ全滅の筈。第三艦隊などの海上にいた部隊以外は、まず生き残れなかっただろう。

そしてわたしくらいの立場でも、腐敗のひどさが分かっていたカヨコンクムである。遠く離れたハルメンに報復なんてしようもない。それどころか、軍事力の弱体化で、一気に国が瓦解しかねない。

知られたところで、痛くも痒くもないのだ。

「途中までしかわかりません」

「そうか。 反乱軍は途中から元騎士だという男に指揮権が移ってな。 旧パッナーロのカヨコンクムとクタノーンの支配下にあった土地をほぼ奪回。 クタノーンに至っては、国境守備隊を蹂躙して、クタノーン本土の何州かを制圧したそうだ。 ただしその後は領土内の秩序回復に努め始めていて、動きは止まったようだな。 ロナウ国が傘下に戻れと呼びかけたようだが、鼻で笑ったらしい」

「なるほど、予想の範疇ですね」

「その若さで中佐だと、戦死した海賊女王のお気に入りだったのだろう。 我等を憎んでいないのか」

挑発的なものいいだが。

残念ながら答えはノーだ。

わたしは結局政争に翻弄されていただけだし。海賊女王には佐官の地位は貰ったが、それくらいしか恩がない。

少なくとも殉死してやるような恩なんて存在しない。敵討ちだってするつもりはない。

「わたしは友達と一緒に、陸軍が持て余していた所を海軍に拾われました」

「特務だと言う話だし、よほどの汚れ仕事ばかりしていたのか」

「主に賊の処理を」

「そうか。 なるほどな」

魔法使いはわたしをまじまじと見た後、頭を掻く。そして、別の魔法使いと代わった。

わたしより少し年上に見える艶っぽい女性だ。目元とか唇に紅を引いていて、わたしの前に座るときに足を組んだりしている。

何食ったらこんなばいんばいんになるんだろうと、わたしはちょっと遠い目で見てしまった。

わたしは毛並みが良いとか言われるが、幼い頃の栄養状態が問題だったので、背丈はどうしてもこれ以上伸びない。体も豊満にはならないだろう。

この人は背が伸びやすい体質もあったのだろうが、幼い頃からたくさん食べられる環境にいたのだろう。

ちょっと羨ましい。

食べられる環境にいたことが。

「今度はアタシが質問。 いいかしら」

「はあ。 どうぞ」

「随分綺麗な赤い髪だけれど、何か手入れの秘訣とかはあるのかしら?」

「時々言われますが、特に何も。 洗うのも魔法でやっています」

これについては本当によく分からない。

髪の毛に性的魅力を感じる人間は一定数いるらしく、「清潔な髪型の男性が好き」という女は何人か見たが。

わたしにはさっぱり理解出来なかった。

「あら若さねえ。 とても羨ましいわ。 アタシなんて肌の手入れだのなんだので、色々毎日時間を掛けないといけなくて」

「そうですか」

「時に貴方、どういう航路であの島に? 基本的に海流が問題で、あの島に流れ着くことはほぼないのよ」

まあ、そうだろうな。

あの島にいる間に、海流は魚を捕まえるときに見た。太めの海流からは乖離している位置にあって、彼処に流れ着くものは確かにない。

この女魔法使いは、わたしを見極めるつもりだ。

だから淡々と答える。

嘘は言わない。

「星を読めますので、それにそって移動していました。 水魔法と風魔法を使って、水上を移動出来るので」

「あら。 それは凄いわ」

「元は土魔法と風魔法で陸上移動に使っていたんですが、水上移動に応用できることが分かりましたので」

「惜しいわねえ。 ウチの国出身だったら、中佐……こっちでは二佐だけど。 地位をそのままあげられるくらいの腕よ、それ」

女魔法使いが階級章だといって見せてくれる。

ローブの下にある無駄に露出が大きい服の胸部分に、鷹をあしらった勲章があって。それによると、一佐とある。

少し階級が国によって違うのだが、この人はカヨコンクムでいう大佐にあたるそうである。

なるほど、あの技量なら納得だ。

数人の魔法使いのリーダーだろうし。

「まあいいわ。 経過観察。 海賊女王の敵討ちをするつもりがないのは本当みたいだし、しばらくは軍で身元を預からせて貰うわ」

「何かしらの仕事があるのならしますが」

「安全だと判断したらね。 貴方気付いている?」

「はあ、何がでしょうか」

艶然と喋っていた女魔法使いの空気がいきなり変わる。

氷の刃を突きつけられたようだった。

「貴方の目、人殺しのものよ。 それも何十人も殺している、ね。 それはカヨコンクムで陸軍の特務として賊を大量に殺していたのなら、そういう目になるのは分かるけれど……貴方の場合は、どこか異質。 最初から殺しが好きで好きで仕方がない危ない奴がたまにいるのだけれどね。 それに近い感じ」

まあ、そうかも知れないが。

アンゼルの同類だと言われている訳か。

それも嘘では無いだろう。

実際わたしは、人を殺す事になんの躊躇も今ではなくなっている。そういう人間は非常に危険だと言われても仕方がないだろう。

船は二日で陸につくらしい。

わたしは船室で、仕入れられるまずいパンとスープをいただきながら。

ロイヤルネイビーですら酷いものが出ていたし。

何処の海軍でも似たようなものなんだなと、呆れていた。

 

3、蛮族の国の真相

 

港に入る頃には、ハルメンの様子が分かってきていた。

街はかなり整備されている。というか、スポリファールの街とほとんど技術的には違わない。

オークの軍用家畜化などの技術だけでは無い。

この国は、人口以外ではほとんどスポリファールと代わらないのだ。

街のインフラもよく整っている。

これはスポリファールの軍が手を焼くのも当然だ。ただ、此処から見える範囲だけでも、山が幾らでもうねっている。

あれでは穀物なんかは、あまり取れないだろう。

山を見ていると、歩くように促される。軍刑務所でしばらくは身元を預かるそうである。

まあそれはかまわないので、ついていく。

途中で、色々聞かされた。

「この国は元々山岳民族が作りあげたものでね。 最初の頃は峻険な山岳地帯を使ってスポリファールの侵攻を防いでいたの。 その頃は間違いなく「蛮族」だったでしょうね。 流れが変わったのは、パッナーロが堕落し始めてからね」

「パッナーロが」

「そう。 あの国の腐敗した貴族は、自分達で富を独占して、文化も全て自分達だけのものとした。 それで嫌気が差した学者や商人、知識人なんかが、海路でこの国に逃れてきたの」

その人達が、衰える前のパッナーロの技術などを伝えてくれたという。

そういう人々は「渡来人」として、ハルメンでは大事にしたそうだ。

やがてハルメンはそれらの技術を活用して、スポリファールと戦えるほどに国力を高めていった。

スポリファールへ侵攻するようになったのも、そういう事情かららしい。

なるほどね。分かってきた。

ハルメンが大々的にパッナーロで工作が出来たのは。そういうつながりがあったからなのか。

恐らくだが、パッナーロの反乱軍に加わったハルメンの密偵や間諜の中には、もとパッナーロの民がいたのかも知れない。

だとすれば士気も高かっただろう。

腐敗した国を、ようやく圧制者から取り戻す好機だったのだから。

貴族共を一掃し、更には邪悪な侵略者も追い出せれば、御の字。

更にはスポリファールからしてみれば、「どうにか」友好的よりなくらいの大国が隣にあることになる。不安定な領土と人口を抱えた状態でだ。

ハルメンに対する圧力も人員も削らざるをえなくなる。

これに対して、ハルメンは友好国に生まれ変わったパッナーロと、スポリファールを挟む事ができる。

カヨコンクムやクタノーンが今回の一件で瓦解した場合、その余波をもろに浴びるのはハルメンではなく、スポリファールになる可能性も高い。

今回の作戦で裏で相当な人数が動いたのだろうが。

それをやる意味は、大いにあったのだ。

勿論暗闘で人員も失っただろうし、多大な物資や資金も費やしたのだろうが。

それでも戦略的には大きな勝利だったのだと分かった。

戦略目標を果たせば戦争は勝ちとかいう話があるが。実際にはこれだ。

あの戦いで勝ったのは、多分実際に領土など得ていないハルメンだけ。大まじめに行儀が良い兵を率いていたスポリファールですら、失ったものの方が多く。カヨコンクムやクタノーンに至っては国に大きな打撃さえ受けている。

わたしは凄いなと思った。

誰がこの筋書きを書いたのかは知らないが、いずれにしても軍師とか言われる存在なのか。

だとしたら、生半可な物語に出てくる軍師なんかより余程化け物じみている。

牢屋に入れられたが、意外と監視は緩やかだ。

わたしが抵抗する様子を見せなかったこともあるのだろうが。

触ってみて分かる。

どうもハルメンでは魔法の技術をかなり贅沢に使えるらしく、力尽くで突破しようとすると即座に分かるようになっている。

或いはだけれども、長年続いたスポリファールとの戦いで、魔法使いにどう対応すればいいのかを学びきっているのかもしれない。

わたしみたいな半端な実力の魔法使いでは、練りに練り上げられた対策を破れないと言う訳だ。

まあわたしとしても今は暴れる理由もない。

乱暴もされていないし、服などの私物も取りあげられていない。

何より牢屋ではあるが、それほど生活も悪くない。陸に上がってから、ちゃんとした食べ物が出てくるようになったし。

部屋には一応の生活スペースがあって、それほど困る事もなかった。

これで住めるのなら、かまわないくらいだ。

くつろいでいると、呆れた様子であの一佐だという女魔法使いが来ていた。

「随分とくつろいでいるのね。 これだけの状況よ。 大物だわ貴方」

「はあ、そうですか」

「とりあえず、細かい聴取をしたいから来て頂戴」

「わかりました」

異様に物わかりが良いので、それも気味が悪いらしい。

そう言われてもな。

わたしとしても、素直に従っておけば問題がないかと思ったから、そうしているだけなのだが。

聴取に関しても、数人の監視はつくものの、別に詰められるような事もない。

そのまま聴取されて、色々聞かれるだけだ。

別に聞かれて困る事もない。

パッナーロ出身で、スポリファールに移り住んだという話をすると、複雑そうな顔をしていたが。

「奴隷売買は荒みきったパッナーロでは当たり前だったと聞いていたけれど、その様子だと細部を聞くと経験が凄まじそうね」

「奴隷販売なんてロイヤルネイビーでもやっていましたし、逃走中に通った小国でも明らかに人身売買業者という輩を仕留める事がありました。 むしろない国の方が少数派なのでは」

「そうかもしれないわね」

わたしはその奴隷制度で滅茶苦茶に翻弄された訳だが、別に今はどうとは思っていない。他人が奴隷として売られるのは、そういうものかと思うだけ。自分が売られそうになったら抵抗する。それだけだ。

それについて、女魔法使いはどうこう言うつもりは無いようだ。

ちなみに名前は周囲の人間の会話を聞く限り、ストレルというそうだ。まあわたしとしては、どうでもいいが。

幾つか話を聞かれたので、説明をしておく。

手の内も、困らない範囲であかしておく。

火魔法は使えないが、風水土は出来るし、回復魔法も使える。少しずつ試行錯誤の末に腕も上がってきている。

具体的に出来る魔法を聞かれ、見せろと言われたので見せる。

見せると、一佐は色々とメモを忙しく取っているようだった。

時々側の魔法使いと耳打ちで話しているが、内容は聞こえない。風魔法を遮断されている。

無理に聞こうとしても立場が悪くなるだけだろう。

だからそのままでいい。

「とりあえず今日の聴取は此処までよ。 戻って休みなさい」

「はい。 それでわたしはどうされるんですか?」

「今審議中。 貴方の実力は見ていて分かったけれど、即座に一線級で働けるでしょうね。 ただ貴方をどうすればこの国につなぎ止められるかが分からない。 もしも敵に回ればその脅威度は大きいわ。 そういうこと」

そうか。

勝手に脅威認定されても困るのだが。

わたしとしては、脅かされなければ何もしない。

それは今までだってそう。

脅かされて反撃したら、それに対してああだこうだと周りが騒ぐのには、いい加減うんざりしている。

いずれにしても、どういう結論が出るとしても。

わたしに危害を加えようというのなら、何が何でも脱出はしないといけないだろうが。ただ、それは難しそうだ。

牢の中を、暇な時間に調べる。

まずどれくらいの高さがあるのか、基礎がどうなっているのか、そういうことすらも攪乱されている。

土魔法の使い手だと、土や壁を操作して、其処から逃げる事が可能だ。

今のわたしの力量だと、この牢屋からすぐに出るのは難しいが。わたし以上の腕前だったら、出来るだろう。

天井を見る。

窓なども確認する。

窓はガラスがはまっている結構高価なものだが、風魔法で調べる限り硬度が尋常では無い。

体当たりして破れるようなガラスではない。

少なくともわたしみたいなひ弱が体当たりしても無理だ。アンゼルだったら打ち砕けるかも知れないが。

そもそもわたしの魔法は肉弾戦向きではないのである。

食事が来たので、食べながら考える。

脱出ばかり考えていても仕方がない。

仕事を貰えれば働く。それについては何度か話しているが。懸念されると言う事は、わたしに何か問題があるように見えているのだろう。

いずれにしても、結論を出されたとき。

問答無用で殺すとなった場合にだけは、どうにか対応できるように、準備を整えていかなければならなかった。

 

ハルメン軍魔法第二師団一佐のストレルは、師団の上位魔法使いであり、幹部級の人員である。

そもそも軍で厳重監視している島に突然現れたあの娘。アイーシャ。

魔法使いとしての力量はかなり高い上に、皆が口を揃えている。

目がおかしいのだ。

顔立ちが整っていて、恐らく表情を笑顔に傾ければ多数の男がころっといくくらいには綺麗な娘だ。燃えるような赤い髪も、同じように赤い瞳も、多くの人を引きつける。本人に自覚はないようだが、はっきり言って天性の美貌に分類されるだろう。女の武器の使い方を覚えたら、多くの男が道を踏み外すかも知れない。それくらいの魔性の可能性を持っている。これに関しては、女としての魅力を磨くことに余念がないストレルだからよく分かる。美貌に関しては悔しいがアイーシャの方が全然上だ。

だが、アイーシャが男に好かれることは、今の時点ではない。

問題は目をはじめとした表情で。特に完全に人殺しの目。あれが強烈すぎる。

それだけじゃない。

喋って見て確認できたが、あまりにも命に対する執着が薄すぎる。

話によると、パッナーロで地獄みたいな幼少期を過ごしたようだが、それが原因だろうか。

あれは猛獣だ。

厄介な事に知恵を備えた。

知恵を持っている肉食獣なんて、厄介なだけの存在である。

それが分かりきっているから、ストレルは対応をどうすれば良いか考えている。

あの娘は自身の実年齢がよく分からないと言っていたが、それについて嘘は感じないし、なんならどうでもいいのだろう。

ただ十五から十六であるのは間違いないだろうし、その年ならまだまだ魔力も魔法の技術も伸びる。

魔法は才能がものをいう。貴族だろうが王族だろうが魔法の才能がない人間は、何をやっても無駄だ。

これに関してはパッナーロに潜入していた工作員が百年以上の調査で丁寧な資料を作り続けている。

逆に才能がある人間が魔法の基礎を教われば、後は空を駆けるように強くなる。

スポリファールにいる噂に聞く騎士アルテミスのようにだ。

流石にあれには届かないだろうが、それでも今後の成長次第では、下手をすると都市を瞬く間に滅ぼすくらいの力を得るかも知れない。

恐ろしい事だ。

「それで如何なさいますか。 魔法師団で幹部扱いで雇い入れて、その力を活用する手もありますが」

「あの娘は猛獣よ。 いつ裏切るかまるで予想がつかないわ」

「確かに、恐ろしい目をしていますが」

「今もあの部屋を調べている。 もしも状況次第では、何のためらいもなく脱出をはじめるでしょうね」

アイーシャは人間の理屈で動いていないとストレルは見ている。今まで親しくしていた人間がなんぼ死のうと知った事でもないだろう。

ストレルも魔法師団で一佐にまで出世した人間だ。軍用オークのおぞましい育成方法から、戦場で人間がどんなケダモノになるか。

人間がどこまで落ちる事ができるのかだって、嫌になる程理解している。

だからこそ、あの異質さはよく分かる。

犬科の動物なんかは飼い主に懐くし、情だって持っている。主の子供の世話を積極的にしたり、命を投げ出して守ったりすることもある。

だがアイーシャは犬やらと違う猛獣だ。全ては自分の生存のためだけ。必要だから言葉を使っている。

必要と判断したら、自分を慕う子供だろうが容赦なく見捨てるだろう。

そういう娘だ。

聴取を続けていて、それがよく分かった。

だが問題として、ハルメンはまだまだ人手が足りない。

海側などにある平地にある街は、スポリファールの都市と殆ど変わらないほどの文明と技術を維持しているが。

どうしても山間部にはそういうものは作れない。

また此処はそもそも多民族国家で、山の方にいる民族は荒々しく、どうしても文明を重視する指導者層と相容れない。

そういったハルメンの情勢を考えると、アイーシャのような実力者を安易に迎え入れると、とんでもない劇物反応を起こすかも知れないし。

しかしかといって、人を遊ばせておく余裕はない。

ちりんちりんと鈴が鳴る。

顔を上げると、軍師殿が来たと言う。

軍師殿というのは通称だ。

王族直下の光輝親衛師団所属、第一参謀部副長。

てとてとと歩いて来るのは、運動神経が死んでいるのが一目で分かる小柄な少年である。人が良さそうな顔をしているが、此奴の恐ろしさは誰もが知っている。

この少年、リョウメイこそが、今回パッナーロで行われたえげつない広域戦略の立役者である。

齢十三にしてあの大規模戦略の絵図を書き、成功させて見せた怪物。

スポリファールなどでは、今必死に正体を探っているらしいが。なにしろこの見た目である。

それにスポリファールの有能な特務は、今は旧パッナーロで殆ど身動きできない状態だ。此方に調査の力を割く余力はない。

椅子にぶきっちょに座ると、リョウメイ二佐はにこりと笑みを浮かべる。

なお、あれだけ悪辣な策をたてたのに。

普段のリョウメイは、ごく穏やかで心優しい少年である。世の中は、色々と不思議に満ちている。

「報告を受けた魔法使いアイーシャについてですが、僕の方でも調べてきました」

「詳しくお願いしますわ」

「はい。 報告書に上がっている経歴でほぼ間違いはないでしょう。 嘘はついていないと思われます。 彼方此方の密偵から、報告例がありまして」

一年ほど前だが、インシークフォなどの小国で、人身売買業者がまとめてなで切りにされる事件があり。

更にはその後くらいから、カヨコンクム国内で、犯罪組織や賊が根こそぎ狩られる事件があったという。

その下手人の一人が、死神と言われていた元スポリファールの騎士アンゼル。

このアンゼルについては、既に死亡が確認されている。

アンゼルを斃したのは恐らくはスポリファールのアルテミス。これはアンゼルが野放しにするには危険すぎるため、追っ手として放たれたのだと思われる。

一方アイーシャは広域魔法で、多数の人間をまとめて窒息させるような事を得意としていて。

風魔法で情報を集めてから、ターゲットをまとめて窒息死させるようなことをしていたようだ。

「あまりにも賊などの処理が早すぎて、それらを財源に使っていた腐敗した陸軍将校から目をつけられたようですね。 いずれにしても、もの凄い凄腕です。 人を殺す事にこれほど特化した魔法を思いつく人はそうそういないんじゃないのかなあ」

「危険極まりないな……」

「僕がちょっと気になったのはその後です。 目撃されている足跡を辿ると、恐らくグンリに逃げ込んだんです」

「グンリに?」

グンリについてはストレルも知っている。

噂によると、いにしえの時代の混沌の前から魔法を使っていたとか言う古くには超大国だった国。

辺境の小国になった今も、様々な秘密が多く、安易に情報を引き出せる国ではないそうである。

閉鎖的だが魔法使いの質は高く、兵士の質もしかり。

何度も旧パッナーロが侵略軍を送り込んだがその悉くが撃退され、その結果南部辺境伯が配置される事になった歴史的経緯がある。

ただ、それだと分からない事がある。

グンリとここハルメンは遠すぎるのだ。

「グンリと隣接しているのは他幾つかの小国くらい。 それを通過して此方に来たとしても、そうする意図が分かりません。 そもそもあの島で見つかる意味も分からないんですよねえ」

「確かにそれはそうね」

あの島。

ハルメンに取って、あの島の東は禁忌の土地だ。

海軍が何度か探査に向かったが、異常現象に見舞われて、それで悉く逃げ帰ってきている地。

命知らずの海兵が、何かとんでもないものを見たらしく、怯えきっていて話にならないなんて事が幾度も起きている。

壮健で知られていた海軍提督が、戻ってきた時には発狂してしまっていた例すらもあったのだ。

故に、軍事的にはなんら価値の無いあの島に監視の魔法を展開し。

誰も入らないようにしているくらいである。

地元の漁師など、それですら恐れ多いとして国に抗議の手紙を送ってきたりもするほどなのだ。

「如何に水魔法と風魔法に優れた力量を持っているとしても、グンリ方面の半島から、彼方に抜ける事はまずあり得ません。 海上を進んでいればどんな大魔法使いでも消耗します。 ましてやあの人は、世界最高の魔力の持ち主でもないでしょう」

「それはそう。 アタシも確認したわ」

「だとすればなおさらです。 船で途中まで移動したにしても、それにしても海流からしてあんな島に辿りつくわけがない。 念の為、それについて確認をお願いします。 嫌な予感がするので」

「分かったわ」

軍師殿は一礼すると去って行く。

まだ子供だが、将来は宰相になるとまで言われる有望格だ。

その上、スポリファールに対する戦略的優位を数年で作りあげた功績は大きく、この国を代表する偉人である。

なお、賢者という言葉は誰も使わない。

それはいにしえの時代に暴れた連中が自称していたこともあるので、非常に縁起が悪く、むしろ悪口になるからだ。

ともかく、少し休憩を入れてから、アイーシャに話を聞きに行く。

少なくとも、聞かれれば素直に喋るのは、まだ良い所であったかもしれない。どれだけ危険な娘であったとしても。

 

また今日も聴取が始まる。

わたしを呼び出したストレル一佐は、単刀直入に聞いてくる。

「行動の経緯について聞きたいのだけれども。 目撃報告が出ていてね。 パッナーロの混乱の中で、貴方が南に脱出したという」

「……」

「グンリに逃げ込んだのではないのかしら」

「一時期グンリにいました」

まあ、嘘をついても仕方がない。

面倒ごとを避けたかったから、グンリで起きた事は話したくなかったのだが。

あそこで信仰の面倒さや、そもそも人間の手に負えない領域にある「境界」について知る事になった。

だから、彼処の話はしたくなかったのだ。

「貴方は基本的に素直に話してくれるけれど、それについてはどうしてアタシにいわなかったのかしらね」

「わたしも行く先で嫌われて、問題が色々起きますので」

「何かあったのね」

「はあ、まあ」

人が死んだことについてはどうとも思っていない。

今更である。

そもそも殺さなければ生き残れなかった事なんて幾らでもある。殺さなくても、相手に暴力を使わなければいけなかったことも。

例えば第三艦隊でそのままでいたら、下手したら簀巻きで海に放り込まれるか、壊れるまで水兵に強姦されていたかもしれない。

あの凶暴の権化みたいな連中に、会話なんて通じたものか。

「貴方は本当に表情がないから、心も読めない。 一体何があったのか、話してくれないかしら」

「行く先々でトラブルがあったのは事実ですが、どうしてそうもこだわるんですか?」

「貴方がいたあの島は、この国でも禁忌だから」

「そうですか」

なるほどな。

恐らくグンリやドラダンのように境界と直に接していないとしても、なんとなくその存在は知っていたのだろう。

カヨコンクムにいた頃にちらっと小耳に挟んだのだが。

カヨコンクムから更に北方には大陸があるという。

別の大陸がだ。

其処は恐ろしく寒い所で、殆ど人も住んでいないため、行く意味がないと船も出ていないそうだ。

境界がそっちにもあるかも知れないが。

そんな状態では、そもそも境界なんて見つかってもいないだろう。

だが、ハルメンの比較的近海に境界がある。

それはわたしが間近で見て確認しているし。

海上というのが厄介で、近付いた船があれに接触したら、乗っていた人間が無事に帰還できただけでも幸運だろう。

禁忌になるのも頷ける。

「何があったのかしら。 詳しく話して頂戴」

「面倒だから話したくなかったのですが」

「話しなさい」

「仕方がありませんね。 信じるかはわかりませんが。 境界というものに接触したんです」

やはり知らないか。

境界と聞いて、ぽかんとした様子だった。

もっと違う理由を想像していたのかも知れない。

まだカヨコンクムの軍属で、間諜としてここに潜り込んでいるとか。

だが残念ながら。

海賊女王に手切れ金を渡された時点で、もう縁はない。

陸軍なんかわたしを持て余して放り出したくらいだし。

「何それは」

「わたしもよく分かりません。 グンリではその近くに巨人が出るといって怖れていましたし、ドラダンでは境界から現れる巨人を人食いにもかかわらず信仰すらしていました」

「巨人ですって」

「オークの倍もある上に、魔法を使い。 わたしは見た事がないですが、喋る事もあるらしいです。 わたしは山で巨人に襲われてそれを殺した結果、同族らしい巨人に一時期ずっと追跡されていました。 その過程でグンリの要人の娘が巻き込まれて、グンリを追い出されたんです」

丁寧に話をしていく。

じっと一佐は聞いているが。

まあこれは、疑うのも当然だろうなと思うので淡々と話していくだけである。

グンリを出た後は、巨人を崇拝しているドラダンにも追われた。師団規模の兵が追ってきたので、逃げるしかなく。

その過程で、見つけていた境界に逃げ込むしかなかったのだ。

それらについて話をすると。

やはりストレル一佐どのは、じっとわたしを見ていた。

「どうせ信じないだろうと思ったから、話さなかったんです。 それに巨人信仰をしていたりしたら面倒でしたので」

「……少し情報を整理するわ。 それで、その境界というのは何」

境界についても説明する。

見ただけしか分からないが、あれは明らかに世界の果て。壁のようなものだった。

境界の先では空すらも光景が違っていたし。

空から降り注ぐ陽光も、砂漠のものよりも明らかに有害だった。

早く出ないとまずい。

それは分かっていたが、それでも師団規模の兵が追ってきていたという事実もある。ある程度距離を稼いだと感じた地点で境界を出て戻り。

そして、海に放り出されたのだ。

「星などを見てすぐにハルメンの東海上にいることは分かりました。 魔力がかなり消耗していたこともあり、後は全力で陸を目指すしかなく、結果としてあの島に辿りついたんです」

「とりあえず話はまとめておくわ。 嘘はついていないのね」

「いません」

「そう」

だから嫌だったんだよ。

わたしはため息をつきたくなる。

ストレル一佐どのは一度戻った。これは本格的に脱出を考えるべきか。そう思って、とりあえず寝台に転がる。

ぼんやりと天井を見る。

最近少し頭を使いすぎたか。

魔力の残量もちょっと心許ない。

脱出するなら飛行魔法一択だが。

それも、どこまで逃げられるか、分からなかった。

先行きは暗い。

一眠りして起きだすと、食事の時間だ。まあ、食事はちゃんと温かいので、それは気にしない。

また聴取が来た。

今度は子供だ。

あんまり頭が良く無さそうな年下の男子だが。こいつ、ただものではないな。ストレル一佐どのが明らかに立てている様子なのが分かる。つまりこいつ、ハルメンの要人と言う事である。

話について詳しく聞かれる。

主に境界について。

だから順番に聞かれたとおり話す。

考え込んでいた子供は、ストレル一佐どのに言う。

「数少ない水兵の証言とも一致しますね。 それに色々な矛盾が綺麗に解決すると思います」

「では軍師どのからもそれは真実だと」

「そう考えて良いかと思います。 話をしている限り、嘘を言っている様子はありません」

「なるほどねえ」

軍師どのと言われた子供が去る。

ストレル一佐はこの若さで軍の高官をしている人間だ。それがこれほど立てて、軍師とまでいうほどだ。

ひょっとして、スポリファールを此処まで追い込んだ盤面を組んだのはあの子供か。

可能性はある。

頭の方も才能だとアンゼルは言っていた。

もの凄い頭が良い奴だと、子供の頃から下手な大人よりもよっぽど頭がいいらしい。あれもそういう奴かも知れない。

「それでわたしをどうするつもりですか。 そろそろ話していただいても良いのでは」

「貴方は危険すぎる」

まあ、そう考えていたんだろうな。

それは分かっている。

「今の話が真実だとすると、軍用オークの比じゃない怪物を十数体単騎で撃退して生き延び、師団規模の軍の追跡からも逃れて、そんな訳が分からない狭間の土地を経由して生き延びさえしている。 しかも疲弊した状態で海上に逃れて、それでも生き延びた。 その上貴方は、何処かしらの国に忠義を尽くすようにも思えない。 命をなんとも思っていないようだもの」

「わたしが生まれた土地ではそうでした。 考えを変えられる人はいるのだと思いますけれど、残念ながらわたしはそこまで柔軟ではありません」

「そうね。 貴方は不幸にも優れた魔法の才能を持っていた。 この世界最高というとかなり怪しいけれど、それでも指折りだと思うわね。 アタシとしては、貴方が逆らったり、或いは良く分からない理由でこの国に害を及ぼすことが怖い」

「怖いという理由で相手を殺すんですか? わたしでさえそんなことはしませんが」

「……そうかも知れないわね」

ずばり正論を叩き付けるが。

ストレルは、考えを変えないようだった。

考えを変えられる人間なんて滅多にいるものじゃない。それはわたしも分かっている。

自分に出来ない事を他人に求める気もない。

「ただ、貴方を処刑しようとは今の時点では思っていない。 それに貴方が魔法使いとして有能である事も分かっている」

「はあ、それはありがとうございます」

「判断は上に任せるわ。 この国もね、優れた人材は幾らでも必要なの。 スポリファールの圧力にずっと抵抗してきたこの国としては、あの国を叩いて中枢の豊かな土地を抑えるのは悲願ですものね。 それ以上にアタシとしては、スポリファールと恒久的な平和が実現して欲しいのだけれども。 アタシ達を蛮族呼ばわりして見下しているスポリファールと、隙さえあればスポリファールの土地を奪って相手を下す事だけ考えているアタシ達ハルメン。 愚かなのはどっちなのでしょうね」

悲しそうに言うが。

わたしには、それが悲しい事なのかは分からなかった。

伯爵領での経験は、わたしの人生にずっと影響を与えている。

だから、それが悲しい事なのかすら分からない。

それから聴取の頻度は減った。

上とやらが、相当に揉めているだろう事は何となく分かる。

わたしは魔力を連日練る。

最悪の場合、どう脱出するかを、また考えておく。まだまだ魔力は伸びている。だから、最悪の場合はいける。

そう、わたしは判断していた。

 

4、異変

 

巨人だ。

ドラダン連邦の民は、境界から現れた巨人に対して神殿でひれ伏す。神殿は巨人が入れるように天井がない。被害が出ないように、境界の近くに分かりやすく作られてもいる。集落まで巨人が来ないようにするための措置。

生け贄をおいた祭壇に巨人は興味を示すが、基本的に巨人は気まぐれだ。

ひれ伏している誰が食い散らかされるか分からない。

そしてもし生け贄が食われなかった場合は、生け贄は憎悪を一身に受けて、多くは殺される。

巨人を信仰するのは、好きでやっているのではない。

巨人は圧倒的な存在。逆らってはいけない相手であるのと同時に。

この国の法。

王でさえ巨人には逆らえない。

時には王が巨人に食われる事もあるのだが。

その時でさえ、誰もこの国の民は巨人を恨む事はない。そういう法が、この国では作られているのだ。

巨人はしばし獲物を見定めていたようだったが。

不意に動きが止まった。

それはひれ伏している者誰もが悟った。

びくりと恐怖で身を竦ませるものすらいた。

やがて巨人が、いきなり喋り始める。

巨人が喋る事は周知であったのだが。

それでも、それを初めて聞く民は多かった。

「民草よ、聞くが良い」

「ははーっ! 偉大なる天の使者よ、如何なることでありましょう」

神官が声を張り上げる。

巨人からの言葉は、淡々と紡がれる。

「この地に異変が起きようとしている。 そろそろこの世界も、次の改変期にはいる」

「改変期……?」

「お前達は以前の改変期をいにしえの時代と呼んでいたであろう。 似たような事が、この世界に起きる」

巨人が誰かを掴んだ。

民はひれ伏しているからそれが分からない。

悲鳴が上がる。

どれだけ巨人を信仰していても、食われるとなるとどうしても恐怖の声を上げる者はいる。

食われたのは生け贄では無く、神官。それも神官長のようだった。

ばりばりと人を食い千切る音。

飲み込む喉の音。

人間をぺろりと平らげると、巨人は続けた。

「次の時代は抑圧の時代となる。 備えよ」

「ははーっ!」

「備えよ。 次の時代は恐らく、この度の世界の改変期の最後となるであろう」

巨人がまた誰かを掴んだ。

今度の誰かは覚悟を決めているからか、悲鳴を上げなかった。

だが関係無く食われる。

咀嚼の音。飲み込む音。

巨人はそれで満足したらしく、境界の向こうへと消えていった。

民は顔を上げる。

食われたのは神官長と、それと。

軍の司令官の一人のようだった。生け贄は無事だ。それを見て、民は一斉に怒りを爆発させ。

生け贄に一斉に襲いかかり、殴り殺した。その後は、刃物で全身をバラバラにして、軍用犬の中に放り込んだ。

軍用犬は戦闘で使うために大型化強靭化されており、人間なんか骨ごとかみ砕いて食べてしまう。

生け贄が食われるのを見て、民は喚声を挙げる。

悪は滅びた。

そんな声すら上がる。

それが、この国での、生け贄の儀式だった。

巨人の言葉が、この世の終わりを告げているようであったのに。それを気にするものさえ、血に酔い。忘れてしまっているようだった。

 

わたしは差し入れされた食事を口にしていたが、ふと気付く。

なんだ。

なんだか空気が変わったように思う。

大気中の魔力に変化があったというか。

境界にいた時のような感覚というか。

それに近い違和感だ。

ともかく食事を終えるが、それは別にいい。なんだか嫌な空気である。咳払いして、周囲を伺う。

風魔法はずっと展開されているが。

それはそれとして、なんだろう。肌にひりつくような違和感がある。

外でいきなり怒鳴り声が聞こえた。

狂気に落ちてしまう者は何度か見たことがある。

それに近いようで、意味のある言葉を何も話していない。

なんだ。

何が起きている。

ともかくわたしは、食事を終えると、耳を澄ませていた。

怒鳴り声の内容は、喧嘩のようだが。その内容が良く分からない。意味が理解出来ないというか。

片方は年配の女性のようだが。

若い女性に対して、何か言っている。

胸が大きすぎる。

そのようなおぞましい体をしているのは許されない。

大きく見えないように配慮しろ。

そう吠えているように聞こえた。

胸が大きいことが許されない。ちょっと意味が分からなくて、わたしは困惑していたが。まあどうでもいいか。

食事を片付けに来る兵士が来ない。

どうも彼方此方で問題が起きているようだった。

しばらく待ってみるが、兵士の一人もこない。

それだけじゃない。

他の牢に……此処はどうも訳ありの人間が入れられているようで、チンピラだの賊だのが入れられるものではないが。

ともかく兵士が来て、他の牢に入れられている人間を、引っ張り出していく。

「出てこい恥知らず!」

「処刑だ処刑!」

「なんで今更! 私はそもそも……」

「良いから来い!」

なんだ。

そのまま中庭に連れて行かれる「罪人」。罪人といっても、確か政争に敗れて幽閉されていた役人の筈だ。

それも特に国の機密を売るとか、そういう真似はしていなかった筈。

それが中庭で、何やら兵士達に読み上げられている。

要するに下半身のスキャンダルについてらしいのだが。そんなもの、わたしが知る限りどこの要人だってやっている。

あの海賊女王なんて、半裸の男を常に侍らせて、仕事の報告で出向く度に情事の後であることを隠そうともしていなかった。

性欲が強いと豪傑であるとか言う謎の風潮まであるらしいという事も、アンゼルから聞いていた。

まるで性に興味を見せないアンゼルがあの強さだったことを考えると、それはあり得ないとも思うのだが。

リンチが中庭で行われている。風魔法で、それを観察する。

局部を露出させられた役人が、それを切りおとされていた。

悲鳴を上げて悶絶する役人が、水を浴びせられ。意識が戻ると、そのまま袋だたきにされる。

兵士達がなにやらわめき散らしている。

その内容は聞き苦しくて分からなかったが、訓練を受けている兵士のものとはとても思えない。

なんだこれ。

ハルメンの兵士は、蛮族呼ばわりされていたとは思えない程理性的だと感じていたのに。

わたしはこれはまずいなと思ったが。しばし息を潜めて待つ。

しばらくして、聴取に訪れた。

訪れた奴は、ストレル一佐どのではなかった。

「罪人、聴取を始める」

「高圧的ですね。 ストレル一佐はどうしたのですか」

「解任された」

「はあ」

なんでだろう。

有能な上に軍での貢献も大きそうだったのに。

新しく登場した審問官は、これはどうみても無能だ。中年の男だが、どういう趣味なのか紅を口に引き、禿頭を何故か紫に染めている。

まあ人の美的感覚をどうこういうつもりはない。

だが、いきなり無茶苦茶を言われる。

「その顔気にくわないな。 若い上に自分が美人だと思い込んでいて、全てを見下している顔だ」

「何の話ですか。 そもそも昨日までの聴取はどうなりました」

「そんなことはどうでもいい!」

「どうでもいいんですか」

まずいなこれは。

今までも他人と会話が出来るとは思わなかった。だがこれはちょっと違っている。世界から理性が消えて無くなったようにさえ思う。

それから滅茶苦茶な理屈を色々と述べられた。

私が着ている服が男に媚びているとか、髪色と瞳の色が気にくわないとか、そういうどうしようもない事を言われた上で。

男を百人も知っている容姿だとか、訳の分からないことまで言う。

反論も馬鹿馬鹿しいので黙っていると、男は唾を吐き散らしながら叫ぶ。

「翌日去勢手術をする! 貴様の乳房を切りおとし、顔も焼いて潰す! そうしないとその腐った性根は消えないだろうからな!」

「それ、一体どんな法ですか」

「黙れっ! 我等は気持ちで世界を動かす! 法などは気持ちの下に配置されるものでしかない! 不愉快かどうかだけが世界の基準なのだ!」

これは駄目だな。即時脱出だ。

いずれにしてもわたしは、無言で立ち上がると、男を風魔法で吹っ飛ばしていた。男は鞠のように外に飛ばされると、壁に叩き付けられて白目を剥く。

そのまま牢を出ると、わたしは兵士が駆けつけてくる前に、練習していた飛行魔法を展開。

空を飛んで、そのままこの地を逃れる。

どうしたんだこれは。

まずは世界を観察して、状況を確認しないといけない。

飛行魔法を練習したとは言え、そんなに長距離は飛べない。生活の拠点も手に入れなければならない。

色々と、やるべき事は多かった。

 

                                 (続)