辺境伯令嬢追放される
序、はじめてのついほう
わたしの目の前で。
先生と呼ばれていた人の首が落ちた。大量の鮮血がばらまかれて、先生だった肉の塊が横に倒れる。
わたしはただ見ている事しかできなかった。
目の前には顔をおぞましいまでに歪めた、「おとうさま」と呼ぶように命じられていた男が。
もう何を喋っているのかもよく分からなかったけれど。
泡を吹いて怒り狂っているのが分かった。
なんとなくだけ分かってきたのは。
「また役立たずができた」
「もう時間がないのに」
「いやなのに連れてきた意味がなかった」
「責任を取って死ね」
「それを捨ててこい」
そういった言葉くらいだった。
城のメイドが私の手を引く。別に助ける訳じゃない。剣を振り回して暴れている「おとうさま」の暴挙に巻き込まれたくないのがよく分かる。手を引く力は強くて、何より怖くて逆らえなかった。
そしてお屋敷の。
此処で暮らした間の記憶は、粗末なご飯を与えられて。
一日中よく分からない訓練だけさせられて。
それ以外は、ずっと怖い目にだけあってきた、冷たいお屋敷。
その門に引っ張り出されると。
わたしは其処から、外に放り捨てられていた。
わたしを見るメイドの冷たい目が、まるでゴミでもみるかのよう。厄介払いができたと顔中に書いてある。
がしゃんと大きな音がして、門が閉じられて。首をすくめる。
わたしは寒さを凌ぐ事で精一杯の襤褸服をぎゅっと抱きしめて縮こまる。殴る蹴るの扱いは散々受けてきたから、投げ捨てられるように外に捨てられた事はあんまり痛くはなかったけれど。
ただ、これからどうしたらいいのかも分からない。
温かいご飯が出てくればいいほう。
いつも冷たくて、虫が入っている事だって多かった。
おいしいものなんて、食べた事もない。
屋敷の外はどうなっているのかなと思っていた事はあったけれど。外を見ると、どこも酷いボロ屋ばかり。
わたしが閉じ込められていた部屋と同じだな。
そう思うと、何処も同じなんだなと思って。
どこか寂しくなった。
ふらふらと歩き出す。
とにかく、ご飯が食べたい。
今日は朝からずっとよく分からない「まほうのくんれん」をやらされた。魔法については知っている。
確か魔法使いという一部の人達が使えるものらしくて。
わたしもちょっとだけ使えた。
だけれども、先生はいつも焦っていた。
多分殺される事を知っていたからなんだと思う。
炎がどうして出ない。
そう叫んで、わたしを何度も殴ったっけ。
別のはともかく、炎は出なかった。それだけが、どうしてもできなかった。他のだって大して出来た訳でもないのだけれども。
周りの景色もよく見えない。
ひどいつかれと、毎日振るわれていた暴力で、ほとんど体に力が入らない。寒いし、足も動かない。
いつの間にか、囲まれていた。
へたり込んでいるわたしを、その人達は何やら喋りながら掴んだ。
「まだ随分小さいな」
「伯爵サマは焦っておいでなんだろうよ。 これだと男を取らせるのも無理だろ。 そういうのが好きな奴が都会にはいるだろうが、この街じゃあなあ」
「とにかく兄貴の所につれて行くぞ。 そういう指示だっただろ」
「ちっ。 味見くらいしたいんだけどよう」
わたしもきっと殺されるんだ。
そう思うと、もう諦めた。
できる事なんて何もない。
乱暴に引っ張り起こされて、腕が抜けるかと思った。それでも立ち上がったのは、何か意思表示したら殴られる事を知っているからだ。そのまま、おなかがからっぽの体で、必死に歩く。
何度か倒れそうになったけれど、それでも殴られる方が嫌だった。
いつの間にか、乱暴に放り出されていた。
怖い声がする。
「なんだこれは」
「また伯爵サマが捨てたようでして、拾ってきました」
「ああ、またかあのクソ野郎。 こんな小さい状態で見切りをつけるってのは、相当に焦っていやがるんだな。 ケケケ」
「それでどうしますんで。 これだとできる事なんか無さそうっすけど」
顔を上げろ。
そう言われたので、顔を上げる。
ぼさぼさの髪が邪魔だけれど、それでも見る。
なんだか積み上げた上に、屋敷でみた誰よりも怖い男性が座っていた。人を殺す事をなんとも思っていない目。
「おとうさま」と同じタイプの人間だ。
死んだな。
わたしの両親は何処の誰かも分からない。
奴隷商からわたしを買ったっていう話がされていた。親が売ったのか、盗賊が集落を襲って、売れそうな子供をさらったのかさえも分からないとか言っていたっけ。
ご飯が食べられるだけまだマシ。
そう思っていたけれど。
いつの間にか生きたいと言う意思が綺麗に消え果てていた。
ただ殴られたくはないと思った。
「ひっでえ格好だな。 どうせその様子だと、メシもろくに喰わせずに訓練だけさせていたんだろう」
「おい、答えろ」
「ひっ……は、はい」
「あのクソ野郎、相当焦っていやがるな。 ちょっとでも火の魔法を使えた俺を手放した事を後悔していやがるのが目に浮かぶようだぜ。 いい気味だ」
ゲラゲラと、完全に暴力のことしか考えていない目をした男が笑うと。
多分手下なんだろう。
その周りにいる乱暴そうな人もみな一緒に嗤って。
そして男が黙ると。
みなぴたっと黙っていた。
屋敷のメイドや守衛の兵士達よりよっぽど統率が取れていて、ちょっと感心してしまった。
「お前、名前は」
「さ、さっきまでは……アイーシャと言われていました」
「また魔法の素質がある奴隷を奴隷商から買ってやがるんだな。 自分の所では数世代魔法が使えないからって、愚かな話だぜ」
「……」
魔法が使えない。
おとうさまは魔法使いだとかいう話を聞かされたことがあった。
それなのに、魔法が使えないのか。
おいと言われて、背筋を伸ばす。
怖くて、逆らおうなんて気になれない。
「お前、何かしら魔法は使えるのか」
「火、以外は……」
「やってみろ」
頷くと、生唾を飲み込む。
魔法については、出来る人は出来るし出来ない人は出来ないとかいう話があるらしいけれど。
わたしにはよく分からない。
簡単な呪文を唱えて、イメージする。
それだけで、わたしは水の塊を、掌の上に浮かべていた。
周囲がどよめく。
他にも色々できるけれど、水をちょっとだけ出しただけで、もう意識がどこかに飛んでいきそうだ。
「ほう。 これは逸材だ。 お前、運が良かったな。 お前には男を取るよりはマシな仕事をさせてやる」
「……」
「その前にメシを用意してこい。 飯炊きを連れてこい」
「は、はい兄貴!」
意識が薄れて、地面に転がる。
見下しているおっかない人が、にやにやとわたしを見ているのが。どこか別の世界の事のように思えた。
目が覚めると、屋敷で寝かされていたのと大差ない藁に転がされていて。起きると、温かい粥が用意されていた。
持って来たのは、猜疑心が強そうな目をした痩せたおばさんだ。
おばさんの言うまま、少しずつ薄い粥から口にする。何度か咳き込んだ。此処数日は、温かいものどころか、まともなご飯すら貰っていなかった。だからおなかがご飯を受けつけてくれない。
「屋敷は相変わらずみたいだね。 魔法の素質がある子供を買いあさっては、気に入らなければ全て捨てると。 しまいにはまだこんな幼い子までねえ。 どっかの誰かが持ち込んだ言葉だけれど、子ガチャとかいうんだっけ? 語源すらもう分かっていないらしいけれど」
「屋敷を知っているんですか」
「四年前まではいたんだよ。 暇を出してきた。 どんどん伯爵様がおかしくなってきていてね。 暇を出したというよりも実際は殺される前に逃げ出したのさ。 あたしみたいに逃げ出した奴は他にもたくさんいるよ。 もっとも、もうこの伯爵領は屋敷の近くまで賊が跋扈するような有様で、近いうちにスポリファール国が攻めこんでくるって噂まであるけどねえ」
滅ぼされてしまえば良いのさ。
そうおばさんは吐き捨てていた。
他の国があるらしいことは知っていたけれど、隣の国はそんな名前なのか。
粥を飲んで、少し体が温まる。
その後、お湯を用意してくれた。お湯なんてよく用意できるなと思ったけれど、どうもこのおばさんが熱の魔法を使えるらしい。炎まで出せるほどではないらしいのだけれど。これも逃げ出す要因だったらしい。
なんでも伯爵様が魔法なんか使えない事は、屋敷の人間には周知の事実だったそうなのだ。
そんな状態で、魔法。それも炎の魔法に近い熱の魔法なんて使える事がばれたら、殺される。
そう思って逃げ出したそうである。
猜疑心が強そうな見た目だけれど、わたしを哀れんだのかも知れない。随分と、そのまま親切に体を綺麗にするのを手伝ってくれる。
「魔法が使えて良かったね。 此処のボスは何か芸がある人間にはある程度優しいからね。 他の賊だったら、即座に娼館に売り飛ばされて、三年も生きられなかっただろうよ。 ああいう所は病気の巣だ。 あんたくらいの年の子は、すぐ病気で死んじまったさ」
「……どうして伯爵様はおかしくなったんですか?」
「さあね。 百年か前に隣のスポリファール国にこのパッナーロ国が負けたとき、色々あったらしいとは聞いているけれど、詳しくはしらないねえ。 此処のボスは魔法が使えて、それで他の賊からは一目置かれていてね。 金も集めて、商人から買った色んな本も読んでいるらしい。 気に入られたら、教えてくれるかもね。 ああ、あんた赤髪だったんか」
「いつもぐしゃぐしゃに汚れていて、そう分からないですよね。 わたしも髪なんて、気にしている暇もありませんでした」
ぼろぼろのしかないから、その服を着る。ノミだらけだったけれど、お湯で洗ってどうにか追い払ったと思う。後は穴だらけなのを我慢できれば、今までよりはマシだ。
でも、屋敷にいたメイドだってそんなに良い服を着ていた訳でもない。伯爵様とその一族くらいだ。良い服を着ていたのは。
あの人達は、自分達以外を人間だと思っていなかったし。メイドや下男なんかに贅沢をさせるつもりも全く無い様子だった。
わたしが気に入る魔法を使えたら、混ざっていたのかも知れない。
でも、そうなるのは、何だか嫌だった。
なんとかすっきりできた。
髪の毛もぐしゃぐしゃだったのが、ある程度きれいにできたのは嬉しい。髪が自慢だという女の人はいるらしいが。ぐしゃぐしゃすぎて、ただわずらわしいだけだった。肩まである髪の毛が、ある程度邪魔にならないだけで嬉しい。余力ができてきたら、切ってしまってもいい。魔法でできる。でも今はちょっとできない。おなかがすいていると、魔法はできない。
ご飯をそれから出して貰ったので、食べる。とにかく食べて力をつけるようにと言われて。
少しずつ力をつけながら、回復の魔法でぼろぼろになっている手足を少しずつ治して行った。
爪もぼろぼろで、指先も酷い有様だ。
だけれども、回復の魔法で時々こっそり治していた。
火の魔法だけは使えなかった。
だけれど、元気があれば意外と色々な事ができる。火だけはできない。わたしはそういうものらしい。
元気が出て来てから、ボスの所に会いに行く。
相変わらずおっかない男達が侍っていて、わたしの髪を見てぎょっとしていた。髪を洗って綺麗にすると、赤髪が分かるくらいくっきりする。逆に言うと、それさえできない環境に今までいて。
綺麗にする余裕なんてなかったのだ。
「兄貴、やっぱりこれ客を取らせませんか? 客取れますよ多分」
「黙ってろ。 次にそれを言ったら殺す」
「はっ、はい! すいやせん……」
わたしをみる手下達の目は、完全に美味しい肉を見るそれだ。男の人がそういう欲求を持っているのをわたしも知っている。
だから怖いけれど。
ボスは、フラムと名乗ると、順番に説明してくれた。
「飯炊きのババアから聞いたが、お前水以外にも色々魔法使えるんだってな」
「は、はい……」
「そうか、これは当たりだな。 この世界には語源が分からない言葉が幾つもあってな、古い時代に突然現れた勇者やら賢者やらいう連中がもたらしたとか言う話だ。 子ガチャとかいうのもその一つらしい。 なんでもお前みたいなのは、そういう奴らにはレアだの言われていたらしいぜ。 今の時代には、もうその手の輩は現れなくなって久しいが、それでいいのかもな。 其奴らがしたり顔で押しつけた色々なもののせいで、この世界ははっきりいって地獄だしよ。 ま、だから俺みたいなのにも、復讐の好機があるんだけどな!」
フラムが笑い出すと。
手下も揃って笑い出す。
やっぱり随分と統制が取れているんだなと思った。わたしは、この人達と一緒でいたいとは絶対に思わないけれど。
また笑うのを止めるフラム。
手下達もそれでぴたりと静かになる。
「俺は形式上はお前の兄貴に当たる。 俺もあの伯爵の所で教育を受けてな。 それで追放されたんだよ」
「そうなんですね」
「ああ。 まあ、それについてもいずれおいおいと話す事にする。 今は色々仕事をくれてやるから、それをこなせ。 魔法があればできる仕事は色々ある。 魔法ができる時点でお前はただのガキじゃねえ。 金を稼いで俺の役に立ったら、その内自由に行動する権利もくれてやる。 だが余計な真似をしたら、その瞬間に殺すからな」
フラムは恐らく、ためらいなくそれを実行するはずだ。
わたしは暴力の怖さ、痛みを良く知っている。
この人の目は、奇しくもあの「おとうさま」。つまり伯爵とその点では似ていた。
この人は或いは、血がつながっているのかも知れないし。或いはそうではないのかも知れない。
ともかく、これで。
目前に迫っていた死と、死に等しい暴力の恐怖からは逃れられたのは分かった。
ぼろぼろの服のままつれて行かれる。
名前も覚えていない、フラムの部下の一人に言われる。
「お前、アイーシャだったな」
「はい」
「年は」
「たしか、八才だと思います」
これも実際にはよく分からない。
栄養が良くないので、伯爵の所にいた子供より、だいぶ体は小さかった。わたしはとにかく奴隷商に連れていられたことや、物心つくまでの事は殆ど覚えていないので。年齢については、周りが言う通りの答えしか出せない。
ともかく、覚えている分では四回、冬を越したと思う。
それより前の事は覚えていないのだ。
「運が良かったな。 兄貴に気安い口を利いて燃やされた奴を何人も知ってるし、兄貴の影で悪さをして首を焼き切られた奴だって何人も知ってる。 だから手はださねえよ。 ちっ」
やはり舌なめずりするような目だ。
わたしをそういう目で見ている。
でも、わたしには。
それに抗議する力もないし。
勇気だってなかった。
つれて行かれた先は、あの猜疑心が強そうなおばさんのところ。このおばさんだって、優しそうにしていて、色々フラムに喋ったことはもう分かっている。
生きていくため、ということだってあるのだろうけれども。
信用は残念だけれど、できなかった。
「ボスに気に入られたようだね」
「……はい」
「じゃあ、早速仕事だ。 まずできる魔法について全部話しな。 できる事を一つずつこなして行けば、その内ボスが持っている魔法の本を見せて貰えるかもしれないさ」
そうか。
でも、今はできることを増やすとか。
強くなりたいとか。
そういう事に一切興味がない。
ただ、生きていく事だけでやっとだ。
もっと上を目指したいとか考えている人は、多分とても余裕がある人なのだと思う。
おばさんは、ふんと鼻を鳴らす。
「ボスに色々話した事を恨んでいるようだけれどね。 ここだとそうしないと生きていけないんだよ。 死にたくないのは誰だって同じだ。 ましてやあの頭がおかしい伯爵と、腐りきったこの国だと、誰も助けてなんてくれないしね」
それも、わからないでもない。
でも、それで納得出来るかというと、また話は別なのだった。
1、生きていくためのこと
最初に指示をされたのは、お湯を沸かすこと。
わたしは清潔な水を作り出すと、汚い桶をそれで何度か洗った。火を出すことはできないけれど、その水を温めることはできる。
食べているから、何とか出来る。
少しだけ、余裕が出始めていた。
連れてこられたのは、手酷い傷を受けた、汚いおじさんだった。フラムの部下の一人らしい。
酷い刀傷を受けていて。血が今もダラダラ流れていた。左手は手首の辺りから、先を失っている。
血だ。
そうとしか思わない。
「先生」が目の前で殺されたのはつい先日だけれども。
それ以前にも、たくさんの人が殺されたのを見てきた。
「おとうさま」だった伯爵は、本当に機嫌次第で人を殺したし、その家族だってみんなそうだった。
メイドの態度が気にくわないとかで、その場で斬り殺したことを見た事がある。
それも口応えしたとかでもなくて、指示通りに即座に動けなかったからとか、そういう理由だ。
その時も、「先生」を殺した時みたいに。
目を血走らせて、なんだか分からない事をわめき散らしていたっけ。
医師、と言われる人が連れてこられる。
医師というのは分からないけれど、治療ができる人らしい。
でっぷり太ったおじさんで、髪の毛が半分頭から消えている。眼鏡を掛けている。眼鏡を掛けている人は、屋敷でたまに見た事があるくらい。
多分裕福なのだろう。
「また小競り合いか。 無駄に仕事をふやさないでくれるか」
「うるせえハイムの爺! 金は払ってるんだし、さっさとどうにかしろ!」
「手の方はどうにもならんぞ。 後で義手でも作ってつけるんだな」
「そんなもん、どうやって造れば良いのかもわからねえよ」
湯、と言われたので、桶に渡す。
最初にそれで医師だというハイムとかいう人がやったのは、手を洗うことだった。
「なんだ、新しいのか。 あの飯炊きはどうした」
「飯炊きは別の仕事だ。 此奴は伯爵サマが捨てた新しい「子供」だよ。 今度のは色々魔法ができるらしい」
「おう、話は聞いたぞ。 炎だけはできない、例の奴か」
「ああ。 兄貴はレアだとか言っていたぜ」
医師はお酒らしいのを取りだすと、怪我人の傷にぶっかける。ぎゃっと酷い悲鳴を上げて、怪我人の体が跳ねた。
乱暴に針と糸を出すと、それで縫い始める。
刀傷はそれでどうにかなるらしい。
どうにかなるんだろうか。
「あの、回復の魔術も使えます」
「どのくらいの技量だ」
「ちょっとの傷くらいなら……」
「そんなもんは役にたたん。 だが、試してみろ」
頷くと、手をかざす。
魔法というのは、その過程を念じて、力を消耗する事で実現できる。そういうものらしい。
だから「先生」に教わっている時は、不可解でならなかった。
本当によく分からない事ばかり言われた。
サラマンダーがどうとか、炎の精は元素がどうとか。
それで言われた通りに色々やったし、由緒正しい呪文とか言うのも唱えたりした。
でも、何も出なかった。
できる魔法は、そんなのやらなくても、知らなくても出来る。水の魔法を使うときに呪文をちょっと口にするけれど、それも自然に体の内側から出てくるものだ。それを思うと。あれは一体何だったんだろうと思う。
手をかざして回復をするが、それ以上にもの凄く消耗する。
額の汗を、ハイムという人が何度か拭う。
これは汗が不衛生で、怪我人に垂らすとまずいからなのだろう。
やがて傷が塞がる。
でも、ハイムという人は、ダメだなと言った。
「この程度の出力だと、浅めの傷を塞ぐのがやっとだな。 スポリファールの上級医師には、なくなった手足を再生出来るレベルの奴がいるらしいが」
「本当かよ。 魔法が使えるってイキってるだけで実際には魔法なんか使えないこの国の貴族様とはえらい違いだな」
「……」
ハイムという人は、体力をつけろとそれだけ言って。
脂汗を流している怪我人に何やら薬をねじ込む。
できるだけの事はした。
後は体力次第で、此奴が生きるか死ぬか決まる。
清潔にだけしておけ。
そう言い残すと、さっさと帰っていった。
痛い痛いと呻いている怪我人を、フラムの部下達が連れて行く。わたしは、随分と疲れたが。
食事を出して貰ったので、それにありつく。
粥だが、ないよりマシだし。
温まっているから、屋敷で出たのよりずっといい。
何よりも、少し具が入っている。
なんの肉かも分からないけれど、驚くべき事に肉だ。それだけで、どれだけ有り難いかも分からなかった。
「くったら次の仕事だ」
「はい」
逆らうと多分殴られる。
だから、素直にはいと言っておく。
これは屋敷にいた頃から同じだ。
舌打ちすると、フラムの部下は行く。わたしは、与えられたほったての中に入ると、膝を抱えてじっとして。
体力を回復する事に務めた。
酷く泥で汚れているつぼみたいなのが出て来た。いや、泥じゃない。これは多分、汚物だろう。
酷いにおいだけれど、酷いにおいには慣れている。
屋敷の中はどこもこんなにおいだった。
片付ける事も殆ど誰もしなかった。
メイドは指示を受けたらやることはやっていたけれども。それも伯爵が機嫌次第で殺してしまう。
殴られるだけで済めば良い方。
中には、ものを盗んでさっさと逃げていく人も、今思えばいたのだと思う。
これはなんでも、汚物の中に放り込んでおいて。
後から回収してきた宝なのだという。
焼き物だから汚物でも傷まない。
そう、自慢げにフラムの部下は言っていた。
「綺麗にしろ。 くれぐれも壊すなよ」
「わかりました」
はっきりいって、できるだけ会話したくない。だから最低限の返事だけする。
この人等が、あの屋敷の人達と同類なのは分かっている。フラムが機嫌を損ねたら、それこそ生きていたら幸運、くらいの目にあわされるだろう。最後に残った尊厳まで奪い尽くされてもおかしくない。
まずは水の魔法で、水を出してつぼみたいなのを洗う。
とにかく酷い汚物のこびりつき方で、洗っていてどんどん汚れが流れ出していく。
水の流れを制御して、その汚れを、側溝に行くようにする。彼方此方から汚物が流れ込んでいる側溝は、時々人の死体とかも捨てられているが。
それにかまっている余裕さえない。
とにかくしばらく流して、今度は風の魔法を使う。
風と言っても普段は髪を乾かしたりするのだけれども。
今使っているのは、つぼの状態を調べるためのものだ。
なんとなく分かるのだ。
風でしばらくつぼを撫でて、どれくらい汚れが残っているかを分かったら、水の魔法にまた切り替える。
今度はただ水であらうのではない。
水にある程度堅さを持たせて、それでつぼをごしごしとやる。つぼが壊れないように、加減を気を付けなければいけない。みずはあっと言う間に真っ茶色になる。汚いけれど、直に触らないから、病気にもならないだろう。
なんどもなんども水を出して、それで少しずつ確実につぼを綺麗にしていく。
風で壺の状態を調べて。
それで何日も掛けて、つぼを洗う。
汚物が付着していない事をしっかり把握したので、最後は仕上げに土の魔法だ。
それも大した事ができるわけでは無いし、正確には土の魔法ではないのかも知れない。
多分このつぼを汚物に投げ入れて隠すときに、乱暴にしたのだろう。罅が入って脆くなっている。
それを綺麗に塞いで、補強しておく。
そうしている内に、美しい藍色がつぼに現れてきた。
罅を塞いだあと、何度も丁寧に洗って。風の魔法で状態を確認する。
人と接しなくていいので気持ちがとても楽だ。
食事は差し入れられる。
冷たいまま出て来た場合は、自分で温める余裕まで出てきていた。なんとパンまで出て来た事もある。
カチカチに固まっていて、歯が砕けそうだったけれど。
壺を綺麗にし終わったので、フラムの部下に引き渡す。多分、できるだけの事はしたはずだ。疲れ果てたので、渡した後は寝る。
わらで寝ていると、やがて起きろと怒鳴られたので、あわてて起きだす。蹴り起こされないだけマシだ。
「兄貴が来た。 すぐに起きろ!」
「は、はい!」
起きだすと、フラムが来ている。
普段は偉そうに、あの何だか分からない高い所で座っているのに。
「おいアイーシャ。 お前、これ自分でやったのか」
「はい……」
なんか機嫌でも損ねたか。
殺されたくないから、丁寧に仕事をしただけだ。
だが、フラムはしばしわたしを見ていたけれど。にやっと凶暴な笑みを浮かべていた。
「あの伯爵の所のクソ教育で、此処まで良く出来たな! 惜しいなお前。 隣の国に生まれてたら、もうちっとマシな人生を送れていたかも知れないぜ」
「そうですか」
「ああそうだ。 おい、お前等! 此奴は金の卵を産む鶏だ! くれぐれもそれを理解しておけ! くれぐれも乱暴に扱うなよ!」
「へい兄貴!」
フラムの部下達が頭を下げる。
とにかく疲れたので、フラムが行った後、また眠ってしまう。起きだした時には、飯炊きのおばさんが来ていた。
食事を用意してくれる。
粥だけれど、また肉が増えていた。
「壺を綺麗にするどころか、修理までしたんだって?」
「やれるだけやりました」
「そうかそうか。 あの壺ね、馬車が一つ馬ごと買えるほどの価値があるものらしくてね。 ボスが喜んでいたよ」
「そうなんですね」
別にどうでもいい。
お金があれば良い生活が出来るか、といっても、ぴんとこない。
おとうさまだった伯爵とその一家は、お金なんて幾らでもあったはずだ。それなのに、あの悪辣な性格で、荒みきった生活をしていて、年々狂って行っていた。
お金は正確には自分達だけで独占していたのかも知れない。
だけれども、独占までしてああだったのだ。
わたしには、価値を見いだせなかった。
それから呼び出されて、また仕事を指示される。
仕事をこなす。
フラムは毎回ある程度満足していた。上手くできなかった時もあったけど一発で殺される事はなかった。
少しずつ、対応が分かってきた。
フラムは舐められていなければ怒らない。嘘をつくと敏感に見抜く。だから、素直に喋る事にする。仕事が終わった後、試してみる。
「疲れているので、休んでもいいですか」
「勝手にしろ」
こくりと頷くと、フラムの前を離れる。
わたしのための襤褸小屋まで用意されている。屋敷にいたころもそういえば、ちいさな部屋に押し込まれていたっけ。
あの時は汚物は部屋の隅で垂れ流しだった。
それにくらべれば、酷い臭いとはいえ便所があるだけ、今の暮らしの方が、まだマシなのかも知れない。
藁に横になって、疲れているのをどうにかとる。
起きだすと、ぼんやりしたまま辺りをうろつく。そうすると、飯炊きのおばさんが来て、ご飯を作ってくれるし。
ご飯が作られていて、既に置かれている事もあった。
粥が殆どだけれど、最初は木製の汚いお椀に盛りつけられていたそれも、今では焼き物に盛りつけられていた。
それも罅は入っているけれど穴は開いていない。
フラムは多分、わたしがフラムを嫌っていることに気付いている筈だ。
それでもこれだけやってくれると言う事は、わたしを道具として大事に考えてくれているのかも知れない。
それだけで「おとうさま」だった伯爵よりマシだ。
それに、時々飯炊きのおばさんと話して聞く。
おとうさまというのは、父親に対する尊称なのだそうだ。
あの伯爵に、尊敬する所なんて一つでもあっただろうか。
わたしを養ってくれたのではないか。
そういう事をいうやつもいるかもしれないが。
あれは明らかに必要だから飼っていただけだ。仮にわたしが炎の魔法を使えたとしても、その後どんな目にあわされていたか。
難癖をつけられて、殺されたかも知れない。
あの先生のように。
あの先生だって、わたしのことは好いているようにはとても思えなかった。
世の中、嫌いな相手と仲良くやっていかなければならないのだろうけれども。殺意まで向けてくる相手とは、それはどうなのだろうか。
また仕事を寄越される。
何ができるのか、フラムは見極めようとしているようだった。
痩せた馬だ。
多少はマシにしろと言われた。
エサも食べないらしい。
動物の医師も存在しているらしいのだけれども、少なくともこの伯爵領では見た事がないらしい。
わたしは、しばらく痩せてなんだか辛そうなお馬さんを調べていたけれど。
やがて気付いていた。
このお馬さん。
体の中がおかしくなってる。
多分だけれども、内臓が駄目になっているんだ。
そう理解出来た。
風の魔法で体の中まで丁寧に時間を掛けて調べての結果だ。
わたしも風の魔法を使っている内に、少しずつできる事が増えるようになって来ていた。この風の魔法は、少しずつ体内を調べて行って。それでなんとなく肌で相手のことが分かるようなのである。
風が入り込まない場所なんてない。
それが理由だろう。
でも、内臓をどうしていいか分からない。
お馬さんは自分の運命を悟っている様子で、横になってぐったりしている。
どうにもできないと思う。
わたしは、フラムに話しに行く。
フラムの部下達は、相変わらずわたしのことを食べ物みたいな目で見るけれど。フラムが怖いのだと思う。
わたしには乱暴に接してこないし、乱暴な言葉も口にしない。
ただ遠巻きにしていた。
「どうだ、あの馬は」
「多分ダメです。 体の中がおかしくなっています」
「そうか。 どうにもできないか」
「……」
頷く。素直に応えるしかない。
わたしの魔法なんて、そんな程度のものだ。
お馬さんが生き物ではないのなら、直せたかも知れない。でも、お馬さんは生き物なのだ。だから治せない。
医師がいるなら話は別だったかも知れないけれど。
わたしはそうじゃないのだ。
「わかった。 できないのならできないでかまわん。 おい、あの馬はばらして肉にしておけ」
「へい」
そっか。
殺されてしまうんだな。
でも、あの馬は苦しそうだった。生も諦めていた。それを少しでも早く終わらせてあげるのは、それはそれで慈悲かも知れない。
戻ると、もうお馬さんはいなくなっていて。
血だまりの跡があった。
病気のお肉なんて食べても、多分体を壊すだけだろうけれど。
それでも、肉は貴重なんだと思う。
そもそも今まで出て来たお肉だって、なんの肉かさえもわからないのだ。
ひょっとすると、時々出歩くと見かける、のたれ死んでいる人のものかもしれない。それでも、なんとも思わない。
わたしには、それをなんとか思えるような心なんて。
育たなかった。
それから、本をフラムに借りた。
貸すだけだとフラムは言っていた。
本なんて当然読めない。
最初に借りたのは、文字の説明の本。
それも、飯炊きのおばさんに説明して貰って、少しずつ読んでいった。
なんでも、文字というのには何段階かあるらしい。
「読める」「書ける」「喋る事ができる」で、全て違うそうだ。
たとえばわたしは喋る事ができるけれど。
それは、基本的な言葉しか分からない。
これも詳しい言葉を理解していくと、だんだんちがうものとなっていくそうである。
木の棒を使って、少しずつ文字を書けるようにしていく。
文字を読めるようになるまで半年かかり。
それから書けるようになるまで更に半年かかった。
屋敷を追い出されて一年が経過して。
伯爵のことは、もう伯爵様ともおとうさまとも呼ぶ気はなかった。たまに屋敷を遠巻きに見る。
荒くれが警備についているし、その中には鎧を着たのも混じっている。
だけれども、よっぽどフラムの部下の方が統率が取れているように見える。
気にくわないという理由で、往来の人を其奴らが殺して。
それでゲラゲラ笑っているのを二回見た。
それを見て、誰も何も言わない。
反発はしているようだけれど、それだけだ。
そういったのは「兵士」というらしいけれど。
その兵士が殺されて、騒ぎになった事が何度もあった。
フラムの仕業らしい。
フラムはいい気味だと言っていた。
フラムは魔法を使えるらしいのだけれども、それでやったのかもしれない。わたしには興味が無い事だ。
冬がまた来る。
手がかじかむような寒さだけれど。藁の小屋で暮らすようになってからは、屋敷の時と違う。
明確に自意識が生じ始めていて。
今まで引きずり出されるように起こされて。
魔法の訓練というのをさせられていたときとは、明確に違っていた。
朝起きると、まずは井戸に行く。
井戸の水は酷く汚いけれど、それでも側溝のドブ水よりはマシだ。これを時間を掛けて煮沸する。
煮沸くらいならできる。火の魔法ではないけれど。
風の魔法の応用なんだなと、余裕が出てきてから分かり初めて来ていた。
煮沸した後冷やして、それで手を洗う。
手を洗って顔も洗う。
それから出てくる冷たいご飯を、自力で温める。たまに温かいまま出てくるので、それはいただく。
最近は、コレに入っている肉が、街の外までいくと幾らでもいる鳥のものだと分かってきた。
大きくて子供を殺す事もあるらしいのだけれども。
大人が何人か掛かりで仕留めてバラすと、おいしくもない肉がそれなりに取れるらしく。それが街では重宝されているそうだ。
街のすぐ近くは荒野で、その先に行くと砂しかない砂漠という所に出るらしく。
その先が百年くらい前に負けた国につながっているらしい。
以前はその砂漠を越えて、この国の軍隊が出て攻めこんで、殆ど誰も生きて帰れなかったそうだが。
それからは逆に砂漠を越えて、その国の軍隊が出て来ては、時々小競り合いが起きているそうだ。
兵士が増やされているのはそのためらしい。
でも、小競り合いで相手を追い払うというよりも。
兵士だった人間の話を聞く限り、こっちの様子を見に来た相手に、いいようにやられているだけらしかったが。
相手には魔法を使う人間が珍しくもないらしい。
こっちの方では、フラムや飯炊きのおばさんくらいしか、魔法を使う人間なんて見ていない。
魔法の使い方にもよるのだろうけれども。
それでは勝てるものも勝てないだろうなと、なんとなく見当はつくのだった。
読み書きの本を覚えると、今度は順番に魔法の本や、物語の本を渡された。
フラムはわたしを同類だと思っているらしい。
逆らったら殺すぞと念を押しながらも、わたしの力が強くなるようなことをなんどもしている。
今では風の魔法で、襲いかかってきた男の人を放り投げるくらいの事はできるようになっていたし。
周りに風の魔法を張り巡らせて、そういう人の接近にも気付けるようになって来ていた。
去年くらいから、フラムの部下ではない男の人に襲われそうになる事が出て来て。めしたきのおばさんに、顔を髪を隠せといわれるようになった。
それで、そうするようになったけれども。
水鏡で顔を見ても。
肩先で切りそろえた髪を見ても、
それでどうして男の人がわたしを襲いたくなるのかは、まったく分からなかった。
仕事をどんどんまわされる。
医師のおじさんには、あらゆる全てを叩き込まれた。煮沸ができるようになってからは、怪我人を助けるために使う針なんかをそれで先に綺麗にしろと言われて。何回かやっている内に、言われる前に出来るようになっていた。
あれはフラムの妹らしい。
そういう噂が辺りで流れたようで。
それからは、めっきり男の人に襲われることは減った。それも、減っただけで、たまにあったし。
襲ってきた人が、明らかに殺すつもりだった場合もあった。
そういう場合は、フラムはそういう人を捕まえて、見せしめに殺した。
わたしはあの時先生が目の前で殺された時も。その前も。人が殺されるのは何度も見たことがある。
だからなんとも思わなかったが。
それが「見せしめ」となるらしかった。
フラムはとても強い力をこの辺りでは持っているらしいけれど。フラムみたいな暴力でなんでもかんでも好きにしている人間は他にもいるらしくて、そういうのと対立はしているらしいし。
伯爵とも対立しているらしいから、それでいつも血なまぐさい争いが絶えないらしかった。
それでもフラムが狙われないのは、とても怖がられているかららしくて。
わたしを狙って来るのは、そんなフラムを怒らせたり、冷静さを失わせるためらしいとどこかで聞いた。
どうでも良いことだった。
そうして更に一年が過ぎた。
伯爵の屋敷から放り出されて、二年が経ったことになる。
生活は少しはマシになった。
だけれど、それだけだった。
2、迫る戦いの足音
少し背は伸びたけれど、まだ胸は大きくならないし、いわゆる女らしい体つきにもならない。
伯爵の屋敷で色々な絵を見たけれど、胸やら腰のくびれやらがしっかりしている女の人なんて。
多分幼い頃からしっかり栄養をとっているごく一部だけがなるのだと思う。
わたしも今も最低限の栄養しかとれていない。
粥ばかり食べていた頃よりは食べられているけれど。
外を歩いていて見かける女性は、みんなやせ細っていて、服もろくに着ていないような人が目立つ。
そういう人を助けられるかというと、どうにもできない。
わたしはフラムの「組織」というのに飼われている立場だ。
お金になるように、ものを直したり人を治療したりはできるけれど。それくらいしかできない。
お金になる分は食べられる。
服も少しだけましになったけれど。
背が伸び始めて小さくなることを考えて、もう少し大きい汚い布を見つけて来て。洗ってそれで着込んでいた。
伯爵の一家だけ、色鮮やかな服を着ていたな。
でも、あれを着たいとは思えなかった。
わたしの体で鮮やかなのは髪の毛だけか。
目の色も最近は、真っ黒だったのが赤くなってきているのが分かる。
ただ真っ赤というわけではなくて、瞳孔に朱が混じっている程度だ。
魔法をたくさん使っているからかもしれない。
魔法を使うと、目の色が変わることがあるらしい。
そうフラムが貸してくれた本には書かれていた。
フラムの貸してくれる本を読んで、色々と分かってきた。
この国、パッナーロ国というのは、何百年か前に「賢者」と自分で名乗っている人が作ったらしい。
なんでも「劣等賢者」と名乗っていたらしく、その時点で矛盾しているような気がするのだが。
当時はそういう不可解な二つ名を口にする人がたくさんいたらしく、しかもそれらの人はいきなり世界の彼方此方に現れたらしい。
それらの人が現れたくらいの時期から世界に魔法を使える人がたくさん出始めたという事もあって。
それまで別に平和でもなかった世界は、更に混乱に落ちたそうだ。
そういったよく分からない二つ名を口にする人はとにかく滅茶苦茶に強くて、絶対に普通では勝てない場合も多かったらしいのだけれど。
とにかくなんでもできてしまう。
それが理由で、やる気をなくす。
なんでも好き勝手にできてしまうと、それ以降は何をしたら良いかも分からない。目標もできない。
それがそういう人達には大敵だったらしく。
生きるのに飽きると、塵みたいに体が崩れて消えてしまったそうだ。
ただそれでも、生きるのに飽きなかった人達はいた。
暴力を振るうのが大好きな人。
異性と行為に及ぶのが大好きな人。
何でも言う事を聞く人間を侍らせるのが好きな人。
自分が使う暴力を、周囲が怖れるのが大好きな人。
どこから持ち込んだのかも分からない知識を周囲に広めて、すごいすごいと言われるのが嬉しくて仕方がない人。
そういう人は塵にならずに生き延びる事もあって。
そんな一人がこの国を作った「劣等賢者」だったらしい。
「劣等賢者」は、「優秀な人間は血筋で決まる」と考えていたらしく。
自分の子供をたくさん色々な女に無作為に産ませて、その中から自分が気に入った人間を次の王に。
自分に這いつくばる人間の中からお気に入りを選び。
その中で魔法を使える人間を(とはいっても、「劣等賢者」達が暴れていた時代には魔法を使えない人間の方が珍しかったそうだが)貴族とし。
各地に領地を与えて、統治させ。
そしてパッナーロ国が誕生した。
今わたしがいるのは、東方辺境伯爵領と言われるところらしい。
貴族の階級は公爵、侯爵、伯爵、男爵、子爵とあるらしいのだが。これらの設定は初代が勝手に自分の判断で決めたらしく。具体的な理由などは存在していないそうだ。
辺境伯というのは、その「劣等賢者」が飽きて塵になって消えてからできた役職だそうで。
国の東西南北にそれぞれ最前線となる地域を作り。
それをそれぞれ優れた魔法が使える伯爵が収めて、他の国に対する壁として機能するための場所にした。
そういうものらしい。
この時点で色々とよく分からないのだが。
フラムが、話して聞かせてくれた。
百年ちょっと前。
砂漠の先にあるスポリファール国が栄えていると聞いた、このパッナーロ国の王様は、止せば良いのにたくさんの魔法を使える(とされている)貴族と、何万とかいう数の軍隊を連れて攻めこんだ。
豊かな土地を奪い取って、自分のものとして。
更にはそこにいる美しい女や財宝も全部自分のものとしたいと考えたから、らしい。
それで攻めこんでみると、酷い事実が幾つも分かった。
魔法の達人の筈の貴族達は、ろくに魔法なんか使えず。それどころか、スポリファール国の兵士は、魔法を使える人間が珍しくもなかった。
大魔法王国なんて称していたパッナーロ国の軍隊は、よりにもよって魔法での戦いにも勝てず。
技術的にも極めて貧弱な装備しかない兵士達は、貴族が魔法で簡単にやられてしまうのを見て怖じ気づき。
しかも砂漠を越えて無理矢理攻めこんだ事もある。
相手の国で徹底的に負けて、王様他少しの人間しか生き残る事ができなかったそうなのである。
それからだ。
生きて戻った王様は、玉座に戻ると激怒した。
魔法が使える者が貴族になっているのではなかったのか。
賢王(「劣等賢者」を王室ではそう呼んでいるらしい)が選びたもうた尊い者達の子孫が、どうして魔法もろくに使えないのか。
かくいう王様も魔法なんてろくに使えなかったらしいが、とにかく魔法を使えるようにしろと激が飛んだ。
それだけじゃない。
攻めこまれたスポリファール国で、国境でなんでもかんでも殺しまくった事もあって。スポリファール国が反撃に出てきた。
それで分かったのは、相手は砂漠を簡単に越えて来ること。
それどころか、今の戦力では手も足も出ないこと。
それもあって、特にスポリファール国ともっとも近いこの東の辺境伯領では、徹底的に魔法が求められた。
初代の此処の領主は凄い炎の魔法の使い手であったらしい。
それ以降、ここの伯爵の一族は、なんだか聞いているだけで恥ずかしくなるような二つ名を名乗り。
炎の魔法の達人だという事を強調してきたらしいのだが。
しかしながら実際には、初代からしてそんな大した存在でもなく、以降は魔法を使える人間は出たり出なかったり。
やがて魔法を使える人間は全く出なくなっていた所に、スポリファールとの戦いでの大惨敗。
更にその後、此処を視察に来た王が、一族の為体を見て、激怒したらしい。
それで今の伯爵は、早く魔法を使える者を出さないとと焦りに焦っているそうだ。
わたしが壊れていた剣を直した翌日。
わたしを呼んだフラムは機嫌がいいのか、そういう話を蕩々としてくれた。
フラムは半笑いで言っていた。
「頭が良い奴どうしが子供を作れば頭が良い子供ができるとか、力が強い奴どうしが子供を作れば力が強い子供ができるとか。 貴族様が喜びそうな話は大嘘でな。 実際問題、魔法を使える奴なんて、いきなりこの世界に湧いて出てきた「勇者」だの「賢者」だの「剣豪」だとか「剣聖」、あとは「聖女」なんて名乗った連中もいたらしいが、それを除くといきなりその辺から出たわけで、親が使えたから使えたわけでもなんでもねえ。 実際魔法が使えたはずの貴族様は、何百年かですっかりただの人だ」
勉学とかは、それでもまだマシな方なのだと言う。
魔法の場合は使えない人間は何をやっても使えない。
だから、そういう血統がどうのこうのの嘘が、露骨過ぎる程出てくるそうだ。
それであの伯爵は、彼方此方に手を回して、魔法が使える子供を集めていた。
それは自分の一族にしたり、或いは女だったら孕ませて魔法が使える子供を産ませようとしていたらしい。
わたしもそうされていた可能性が高かったということだ。
反吐が出る話である。
少しずつわたしも自意識が目覚めてきているから、そういうのは嫌だと思うようになってきている。
伯爵に対しても、今では嫌悪しかない。
「炎以外の魔法ではダメだったんですか?」
「それが貴族様の考えなんだよ。 お前も受けたあの教育は、なんでも初代様が残したものであるらしくてな。 たまたま魔法が使えただけの初代様が、それっぽくただ書いただけのものだ。 それを大まじめに実践しているというわけよ」
なんでそんな事が分かるのか。
フラムは教育の内容を全部覚えているらしい。
それはすごい。
なんでもフラムは記憶力が凄まじいらしく、一度聞いた話は忘れないらしい。だから、屋敷を「ある程度の水準の炎魔法が使えない」という理由で放り出された後に。のし上がって本を集めて読んで。
そういう結論に達したらしかった。
フラムが手を開くと、ぼっともの凄い炎が出てくる。
充分過ぎるような気がするが。
フラムは鼻で笑う。
「魔法ってのは使える奴次第でな。 年を取っても衰えない奴、二十歳を超えるとすぐ使えなくなる奴。 生まれた時から自在に使える奴、大人になってからいきなり使えるようになる奴、色々だ。 ようはいい加減な代物なんだよ。 俺の場合は体が出来上がってから出力が上がって来た。 だが初代様は最初からずっと同じ魔法が使える体質だったらしくてな」
それで、役立たずの烙印を押されたと。
フラムはげらげらと笑っていた。
其処に、知らない人が来る。
なんだかしっかりした鎧を着込んだ女性だ。フードとマントで体を隠していたが。立ち振る舞いからしてなんだか全てしっかりしている。
フードを取ると、短く切りそろえた金髪の女性で。ただ目つきが氷の刃のようだった。
「ようこそスポリファールの騎士様よ。 わざわざ来てくれてありがとさんよ」
「酷い町並みだ。 この街の領主は公爵に匹敵する権力と軍事力を持つ辺境伯の筈だが」
「ハッ。 毎日飲んだくれて頭もおかしい親父が、政治なんて見るかよ。 あんたらが堂々と街に入れている時点で、その辺はお察しだろ」
露骨な嫌悪を見せる騎士だという女性。
騎士というのは、この国だと貴族の下っ端だ。
名前の通り古くは馬に乗る戦士のことだったらしいと本にあったけれど。それも今では、ただの権力闘争のための箔に使うだけの肩書きになってしまっているらしい。
しかしこの人が、本当にスポリファールの騎士だとすると、それもまたちょっと状況が違うのかも知れない。
事実この人は、わたしと同じように。
周囲に魔法の……この人の場合は氷だろうか。
危険を事前察知するための探知魔法を張り巡らせている。
「それで私をわざわざ呼んだと言うことは、何か取引がしたいということか」
「ああ。 スポリファールで前線での指揮を任されてるんだろあんたは。 丁度情報が揃ったから引き渡す。 それでこの伯爵領を手始めに、まとまった地域を切り取るなり、国ごと叩き潰すなり好きにしな」
「わざわざそんな情報など得ずとも今や我が国の戦力はこの国を圧倒している。 ただ……そうだな。 少しでも兵を死なせないためには、情報は有用だ。 それで、見返りは」
「決まってる。 伯爵を俺に殺させろ。 それだけだ」
フラムは、この時の為に生きてきたんだと、ぎらついた目で言う。
フラムは屋敷から放り出されてから、文字通り泥水を啜って生きてきた。破落戸を力でまとめ上げる過程で、反吐が出る思いだって散々してきた。ある程度の力で破落戸の大頭目になっても、流石に伯爵の屋敷に仕掛けるほどの力はまだない。魔法というのは、実際には何千何百の戦力差をひっくり返す事はできないのだ。
「その娘はこの話を聞かせても大丈夫なのか」
「それは俺の妹だ。 あと、炎以外できる。 炎しかできない俺とは違って器用だぜ」
「ほう?」
「聞いてるぞ。 スポリファールではなんだかいう抜擢制度で、魔法が使える奴を出身関係無くつれて来ては、仕事をさせるんだろ。 そいつは俺を嫌ってはいるが、それはそれでできる奴だ。 そっちで面倒を見てくれるか」
意外な話をフラムが始める。
わたしが顔を上げると、騎士はじっとわたしを見てから、頷いていた。
「確かに強い魔力を感じるな。 だが、その娘には寝耳に水のようだが」
「スポリファールで使われている慣用句だな。 初めて直に聞いたぜ。 おいアイーシャ。 お前どうせ俺と心中なんてしたくもないだろ。 この国を売ったところで、俺が破落戸の親玉で、スポリファールから見ても害虫なのには代わりねえ。 だったら、好きなところで好きにくらしな」
「……いいんですか」
「いいんだよ。 お前が稼いでくれたおかげで、俺も随分と目的を進める事ができたからな。 あの胸くそ悪いガキをつれて来ては使い潰すクソ伯爵家と、似たような事をしてるこの国の貴族共を、まとめて地獄に道連れにしてやる。 スポリファールだって楽園でもなんでもないとか聞いてはいるが、少なくともこんなカスみてえな国よりマシだろ」
ケケケと、フラムが笑う。
本当に機嫌が良いときの笑い方だ。
わたしは、騎士の方を見た。
相変わらず氷みたいな視線だった。
「いいだろう。 このアプサラス、お前を引き取ろう」
「いけ。 数日もしないうちに、この街は戦場になる。 俺の配下に既に声は掛けさせて、この街と心中することもない連中は集めさせた。 このゴミためは全部まとめて灰になる。 俺と心中する必要もねえよ。 お前はそれを連れて、騎士様と一緒にいきな」
咳き込むフラム。
医師のハイム先生に聞いている。
フラムは幼い頃に無茶をしたこともある。更に魔法が体に負担を掛けているタイプだともいう。
魔法を使わなくても、強い魔力が体に常にダメージを与えているらしく。
どの道長くはないらしい。
それらはもう聞いているから、何とも感じない。
ため息をつくと、わたしは頭を下げていた。
冷たい目の騎士様と一緒に、あばら屋を出る。本を全部持って行けと言われたので、お言葉に預かる。
破落戸どもが、じっとわたしをみている。
一度くらい犯したかったな。
そんな事を言っているのを聞いたが、今は無視する。それにしてもまだわたしは多分十歳程度だ。
それでもいいのだろう。本当にこの街が荒んでいる事がよく分かる。
「アイーシャと言ったな。 フラムはああいう所では嘘を言わない。 言っていたことは概ね真実か」
「はい。 わたしも、この街が滅びる事はともかく、伯爵が死ぬ事はなんとも思いません」
「そうか。 民に此処まで嫌われるとは。 圧制者にはなりたくないものだな」
それから、町外れに行く。
町外れには、今まで見たことがないくらい規律がしっかりした戦士が男女関係無く、五十人くらい詰めていた。
それらに守られているのは、見覚えがある人達。
ハイム先生や飯炊きのおばさん。
それ以外にも、幾らかの子供や、善良でこの街で生きていけるのか不安になる人とかの顔も見える。
アプサラスは、皆に言う。
「これより我が国より侵攻軍本隊五万が来る。 この伯爵領を橋頭堡にし、パッナーロ国を一息に蹂躙する。 全土を制圧する事ができるかは分からないが、いずれにしても以降傲慢なる賢者の子孫を名乗るこの国に安寧は無い。 護衛をつけてやるから、本国へと向かえ。 其処で市民証を見せろ。 以降はそれで仕事なり教育機関なりに振り分けられるはずだ」
そういってメダルを渡される。
絶対に無くすなと念を押された。
スポリファールでは、このメダルが命の次に大事らしい。盗んだ場合は問答無用で死刑。
個人の情報が魔法で全部入るようにされているらしく。
その話を聞くだけで、スポリファールがこの国とは比べものにならないほど魔法が進んでいる事がよく分かる。
賢者の子孫で、その血を引いている。
それに胡座を掻いてきたこの国は。
今、文字通り灰燼と帰そうとしているのだ。
「それでもこの国に残りたいものは」
誰もいない。
それはそうだ。
わたしだって、この国にいるくらいだったら、他がマシ。
育てて貰った恩なんてものは存在していない。
飼われていただけ。それももし出来が良かったら孕み袋にされていた。わたしの両親だって、理由は分からないが、この国でなければ或いはわたしを奴隷商に売らなくて済んだかも知れない。それすらも分からない。盗賊の類が両親を殺して、わたしを売り飛ばしたのかもしれないし。それですらも、別の国だったらと思う。
この国がもう少しマシだったら。
わたしみたいな子供でもそう思うのである。
大人だったら、なおさら怒りは強いだろう。
メダルは持たなくても、すっと体に貼り付く。それで落とす事はないようだ。体についていて不快感もない。
数人の戦士が来る。
一番年かさの戦士は、伯爵よりもずっと年上に見えた。深い口ひげを蓄えていて、感情が見えない。
一番年下の戦士は、わたしと同年代の女の子に見えた。
興味津々という様子でわたしを見ている。ただ、育ちは明らかに良さそうで、それで苦手だ。
淡い金の髪を、頭の左右で縛っているのは、ツインテールとかツーポニーとかいうのだったっけ。
これも語源がよく分かっていないそうだ。
語源がよく分からない言葉は、この世界にたくさんある。
「バリ隊長。 指定通りにこの者どもを本国に」
「はっ。 アプサラス騎士隊長どのもお気をつけて」
「問題ない。 この国の兵士の練度と実力は見た。 万が一にも不覚を取ることはない。 少なくとも、この伯爵領ではな」
それからわたしたちは、食事にする。
とても美味しいスープが出たので驚く。今まで食べていたのはなんだったのだろうと思わされる程だ。
女の子の戦士が、にやにや笑いながら言う。
「美味しいでしょ、それ」
「はい」
「ウチの国ではね、新しい国民はそうやって歓迎するの。 人間なんて幾らいても足りないからね。 あんた火以外の魔法はだいたい使えるんだって? 高官になるのも夢じゃないかもよ」
そっか。
でも、そんなうまい話があるとはとても思えない。どうせスポリファール国でも、きっとろくでもない闇がある筈だ。
それから、見た事がない馬が連れてこられる。
馬というのは一種類しか見た事がなかったけれど、これは明らかに違う。背中に大きなコブがあって、それでとても体つきもたくましい。
砂漠馬というらしい。
砂漠に非常に強いのだと、バリ隊長がいうが、わたしには、砂漠もろくにわからないから、そうかとしか思えなかった。
「砂漠の突破は厳しいものになる。 護衛があるとはいえ、気を付けるように。 砂漠には匪賊も出る。 捕まったらまず助からんぞ。 奴らは人間の血を啜り、肉を喰らって砂漠で生きている」
ひっと声が出る隣にいる子。
まあ、無理もない。
わたしだって、知らない内に行き倒れの肉を食べていたかも知れない身だ。だから、それについてどうこうはいえなかった。
出立は翌日となったけれど、それまで監視がしっかりつけられた。
それはそうだろう。
此処を抜けだして伯爵に密告でもされたら……多分もうこれでは伯爵領なんてどうにもならないだろうけれど。
あのアプサラスという人は非常に堅実な人に見えた。
それで計画が狂ったら、多分怒り狂うはずだ。
その怒りを受けたくないのだとわたしは見た。
翌朝には、先遣隊らしい何千もの戦士が到着していた。全員が武装していて、しかも練度が段違いだ。
既に初期消火にパッナーロ国はこの時点で失敗した。
後は蹂躙されるだけ。
蹂躙される貧乏人や街の人は気の毒だが。
伯爵には、ざまあみろという言葉しかでなかった。
3、崩壊
リブルズ辺境伯爵領。パッナーロ国東の国境線を抑える伯爵領の兵士は、古くは精鋭だった。
しかし今やすっかり質も落ち、ただの愚連隊同然となっていた。
それに対して、近隣各国との戦闘で鍛えに鍛えられ、砂漠を余裕を持って越えてきたスポリファール国の西部方面軍団は、六個師団五万の戦力を有し、指揮官として騎士団長ブラフマが着任。
突如現れた五万もの大軍を前にして、リブルズ伯爵領の兵士達は何もできなかった。
練度、装備、魔法を使える人員の数。更には根本的な人数。
何もかもが違い過ぎた。
パッナーロ国全体の戦力は二十万とも言われるが、この伯爵領の戦力はせいぜい八千。それも、兵士として機能していたらだ。今はその八千は、烏合の衆に過ぎない。パッナーロ国はその広大な国土と人口から、周辺国からは恐れられてはいた。百年前まではだ。
百年前の「西ステイクス会戦」でパッナーロ国の遠征軍が、兵力でも技術でも格下だったはずのスポリファールの軍に正面決戦で壊滅的な打撃を受けてから、全てが変わった。各国の密偵はパッナーロに侵入しては、その実態を確認。現在は技術も遅れ、貴族達も腐敗しきり、魔法を使える戦士も組織化されず、何より誰も民はこの国の統治を歓迎していない。
それらがはっきり分かっていた。
だからスポリファールは侵攻に出た。
百年前の虐殺の借りを返すため。
何より豊富な資源がありながらそのままに放置されている土地を抑えて、周辺国との戦いに備えるためにだ。
完全に格が違う相手。籠城戦であれば、まだ時間稼ぎは出来たかもしれないリブルズ伯爵領の軍。
それでも迎撃を指示され出たリブルズ伯爵領の兵士達が見たのは、空から降り注ぐ燃える石の群れ。
戦闘は起こらなかった。
正確には、戦闘と呼べるものにすらならなかった。
隕石群で数秒の内に、ろくに陣列も整えられなかったリブルズ伯爵領の兵士は、粉みじんに消し飛んでいた。
「敵野戦軍消滅!」
「防御魔法はどうした。 何故使ってこない」
「防御魔法を使える魔法使いさえいないのだ。 既に偵察で確認されている」
「なんてことだ。 賢者の国の末裔が、今では魔法の後進国か……」
ブラフマが、ひそひそと声をかわす幕僚達を叱咤。
今のうちに、此処を制圧し、拠点化する。市街戦になれば被害が拡大する可能性もある。その前に迅速に市街地を制圧せよ。
兵士達が動く。
それは地上でもっとも獰猛な生物、人間の本領発揮。
如何なる猛獣よりも迅速に動いて、市街地を制圧して行く。
これが近隣国との戦闘だったら、市街地を生かしたゲリラ戦を挑んでくる事も多く、兵士に被害を出す事を覚悟しなければならないのだが。
緒戦で粉みじんに砕かれたリブルズ伯爵領の戦力は、その時点で既に払底していた。
この国が失ったのは魔法の技術だけでは無い。
戦術も、だった。
それでも市街地に兵が突入すると、抵抗で死傷者が出る。
しかしその市街戦でも既に両者の戦力差は明白。それだけ市街戦は攻め手に被害を強いるものなのだが。
それだけの優位があってもなお、どうにも出来ないほど。
両者の力の差は開いていた。
昔は、パッナーロ国の常備兵二十万は大陸最強とまで言われ、怖れない存在は誰もいなかった。
今、その伝説は。
微塵に踏み砕かれていた。
燃えさかる炎の中で、フラムが炎の魔法を射出。義理の母親だった存在を、消し炭に変える。
どうと倒れる死体。
そもそもフラムのことなんて覚えてすらいなかったようだが。フラムの顔を見て、誰という目をしていたし。
まあ分かっていた。
伯爵家がおかしくなりはじめたのは、王家の査察があってから。スポリファールから聞いた話によると、どうやら王室側はこれ以上醜態をさらすなら魔法が使える人間を抜擢して辺境伯にする。
もしくは辺境伯を別の人間に変える。
そうとまで言ったらしい。
現在此処まで土地の統治が上手く行っておらず、スポリファールから攻めこまれたらひとたまりもない事は分かりきっていた。
だから辺境伯もそれはそれで困り果ててはいたのだろう。
だが、長い年月特権に浸かり。
搾取になれてきた伯爵は、何も知らなかった。
もはやノウハウの全てが失われてしまっていた。
誰かに頭を下げて教えを請えば良かったのかも知れない。
だが、「賢者の子孫」というプライドが、それを許さなかった。
馬鹿馬鹿しい話だ。
国がまるごと焼け落ちることに、プライドが優先するとでもいうのか。貴族の命は多数の人間の生活よりも上なのか。
泥水を啜って生きながら、フラムはこの国のくだらなさを思い知らされた。
だから全て焼き尽くすと決めたのだ。
甲高い悲鳴を上げて、豚みたいに太った女が逃げ出す。
義理の姉だったか。
背中から炎の魔法で焼き払う。
この炎の魔法にしても、スポリファールではこの程度の使い手幾らでもいると言われたっけな。
彼方は途中で魔法の才能が遺伝しないことに気付いた。
ただ、違いはそれだけだった。
それで、長い時間がこれだけの力の差を作りあげてしまった。
スポリファールが来なければ、この国は内乱で自滅していただろうなとさえあのアプサラスという騎士に言われた。
まあその通りだろう。
だが、その通りだとしても。
この伯爵の一族だけは、許さない。
あのガキ。アイーシャは幼い頃の事を忘れてしまったようだが、フラムはその全て覚える才能が故に覚えている。わざわざ口にはしないが。
田舎の静かな家庭。
寡黙な父と、優しい母。
やっていたのはちいさな大工。フラムも幼い頃から家を手伝って、静かに暮らしていた。
其処にいきなり破落戸が来て、両親が文字通り豚みたいに殺された。
フラムのまだ幼い妹も、目の前で嬲り者にされた挙げ句。首を落とされた。まだ五歳だったのに。
魔法が使える。
それが何処かから伝わったらしい。
どうせ村の誰かがたれ込んだのだろう。今に思えば静かな田舎だったが、ロクな場所でもなかったのだ。金になるなら、親兄弟でも売る。それが当たり前の場所だったのである。
そのまま奴隷商に引き渡されて、伯爵家に売られて。
それで、役にも立たない魔法の訓練をさせられて。
あげく、気にくわないからと捨てられた。
何もかも此処の伯爵家のくだらないプライドのせい。この腐った国のせい。
だから残った命の分だけでも。
全ての復讐で、焼き尽くしていくだけだ。
伯爵の屋敷のメイドやら下男やらには目もくれない。さっさと行けと言い残して、屋敷を焼いて回る。
斬りかかってくる奴もいるが、即座に焼き殺す。
汗が止めどめもなく流れる。
暑い。それ以上に、魔法を使いすぎているからだ。
アプサラスには約束させた。
伯爵家に突入するのは夜明けに鶏が鳴くまで待つ。それまでは、どれだけ燃えていようと突入はしないと。
アプサラスは約束を守ると言った。
あれは悪党だが、約束は守る奴だとフラムは地獄を這いずった経験から分かっていた。だから、アイーシャをはじめとして。自分の破滅につきあわせる必要はない人間を預けたのだ。
「あちいなあ。 ひひひっ……」
伯爵家の人間が自慢していた家宝を、目につく度に焼き払う。
どれも重税を掛けて街が廃墟になるまで搾取して。それでむしった金で、お抱えの画家だのに描かせた絵だったり、いずれにしてもろくなものでもない。全て焼き尽くしながら、恐らく伯爵が篭もっている奥の間に。
天井材が燃え落ちてきた。
至近。
まだちょっとだけ死にたくないんだよ畜生が。
フラムは自分の服が燃えているのも気にせず、歩く。
暑いし熱いが、もうどうでも良かった。
ドアを蹴破る。
其処には、血走った目の男がいた。壁になついていて、手には大きな剣を持っている。間違いない。
辺境伯。
正確には第十二代目リブルズ伯爵家当主、オライオ。
アイーシャは名前すら教えられていなかった。
そもそも城下の人間も、伯爵という生物として認識していたようだ。貴族以外を人間と認識していなかったようだし、お互い様だろう。
そしてその生物は、明かな害獣だった。
「よーお伯爵。 どうせその様子だと、俺の事なんか覚えていないだろうがよ」
「誰の許可を得て人間の言葉を喋るか、けだものが!」
「貴族様だけが人間ってか。 ま、そんなんだから今屋敷は燃えているんだがな」
「お、おのれ、貴様が、貴様が全てを隣国に売ったんだな!」
売らなくてもこうなっていただろうが。
スポリファールはいずれ必ず攻めてきた。そして一瞬で野戦軍が壊滅したように、例えパッナーロが備えていて軍を準備していても、結果は同じだっただろう。
軍隊同士の戦闘は実の所戦術だの以前に戦略で勝負がつくそうだ。
あらゆる魔法技術を高めて実戦配備しているスポリファールの軍勢と、賢者の子孫という肩書きに胡座を掻いて研鑽を怠ってきたパッナーロの軍勢では、そもそも人間の数で戦力を計算できない。
スポリファールの魔法と連携して動く事を前提とした軍勢が10人いれば、恐らくパッナーロの軍勢100人分として計算しなければならないだろう。いや、遠めに見たあの隕石の一斉射を見る限り、もっと差はあるかも知れない。
ふっと鼻で笑うフラムを見て、伯爵は激高する。
こいつ、剣の腕だけは確かだったらしい。
魔法なんか一切できなかったから、その鬱憤を晴らすためだったのだろうか。
何代か前の当主は、魔法が使えると称して、炎を出す筒を作らせて。それを見せびらかしていたらしいが。
例のスポリファールとの戦いで、そんな筒は何の役にも立たずに敵に討ち取られたそうである。
剣を抜き、喚きながら襲いかかってくる伯爵に。
伯爵とは血縁も何もなく。
それどころか賢者の子孫でもなんでもないフラムは、一息に最大火力の炎の魔法をぶっ放していた。
屋敷が内側から吹っ飛ぶ。
がらがらと落ちてくる瓦礫の中で、フラムは笑う。
手下達は、この屋敷には一緒に来ないでいいと言っておいた。目端が利く奴は、多分逃げ出しただろう。
とろい奴は今頃うろうろしていて、スポリファールの兵士に狩られているかも知れない。
お前達はただの犯罪組織だ。
情報の価値を考え、伯爵の首だけはやる。
だがその後、迎え入れてやるなどとは思うなよ。
アプサラスはそう言った。
そして奴は、フラムどころか、フラムの組織を全員相手にしても圧勝できるだけの強さがあるのが、肌で分かった。
だから本来は交渉など成立する相手ではなかったのだけれども。
交渉が成立したのは、或いは。
全てを奪われた哀れな鼠に、慈悲を掛けてくれたのかも知れなかった。
綺麗に焼け残ったな。
そう思いながら、フラムは転がっている伯爵の首を拾い上げる。体の方は、瞬時に焼け砕け散った。
吐血。
もう時間がない。
焼け落ちていく屋敷の中で、ふらふらと歩く。
最後に、一番奥の部屋に辿りついた。
其処は伯爵家がまっとうに動いていた頃は、政務に使われていたらしい部屋。今ではただの物置だ。
其処にあるデスクにつくと。
デスクの上に、伯爵の生首を転がした。
外が既に見えている。屋根も壁も焼け落ちたからだ。
空はもう開けていて、夜明けになっていた。
スポリファールの軍隊は、もう突入してくるだろう。いや、して来たようだ。彼方此方で、火が急速に消えて行っている。
この屋敷、それなりに規模があったのだけれど。
大規模火災への対策も、しっかりできるだけの魔法技術があるというわけだ。
くつくつとフラムは笑う。
もう目が霞んできている。
やがて、囲まれているのを察する。それくらい長い時間、意識が飛んでいた。多分、これが最後の意識だろう。
顔を上げると、フラムは顎で首を差す。
「伯爵様の首だよ。 もっていけ」
「……そうか」
「最後に空だけ見せて貰えるか。 何もかも終わった今は、空だけ見ていたいんだよ」
返事はなかった。
何もされなかったようだった。
別の国に生まれていれば、もっとましな人生を送れたのかも知れないな。命尽きる瞬間に、フラムはそんなことを考えていた。
屋敷の消火を済ませると、アプサラスは野戦陣地の構築を指示。
既に城下の混乱は収まりつつ有り、指揮所が機能している。スポリファールの兵士は、少なくともブラフマ指揮下にある兵士は規律を叩き込まれている。
略奪は死刑。
これは金銭内容に問わず。
強姦なんかした場合は、死ぬだけでは済まされない。戸籍も何もかも奪われた挙げ句、末代までさらし者にされる。
ただ、こういう堅い規律が守られているのも、兵士にしっかり給金が支払われているからである。
この貧しすぎる有様を見ると、こんな国を制圧しても、すぐに利益に変えられるかは甚だ怪しい。
そうアプサラスは報告書を出していたのだが。
まあそれは本国から遅れてやってくる政治士官の仕事だ。アプサラスみたいな戦争屋は戦うだけである。
これから更に本国から三個師団が来て、他の師団は遊撃に各地の貴族領を制圧して回る事になる。
それらもとっくに調査済で、兵士の質はここと大して変わらない事が既に分かってしまっている。それであれば、万が一にも負けは無い。
恐らくあわててパッナーロは王都から親衛師団を含めた十万程度をかき集めて急行してくるだろうとみられているが。
今回の件は周辺国も察知しているはずだ。
特に北部の海を隔てた大国、カヨコンクム王国は、自慢のロイヤルネイビーを繰り出しての海上からの侵攻作戦に出るはず。
場合によってはパッナーロとの緩衝地域にある幾つかの島国を狙う可能性もあるが、より大きな領土を容易く狙えるこの機会を無駄にするとは考えにくい。
南部や西部の国家も動く可能性がある。
そうなると、パイの切り分け合戦になる。
いずれにしても、迅速に敵主力の撃破と、敵国の切り取りが急務だ。それらの戦いで被害を最小限に抑えるためにも、初動で文字通り燎原の火が如く敵を焼き払い、弾みをつけなければならないが。
部下が来る。
十二で騎士になった俊英で、とろそうだが最強の騎士になるのではないかと噂されている奴だ。
アプサラスも若くして騎士に就任したが、此奴の才能はちょっと図抜けている。
いずれは国家元首かもしれなかった。
ふわふわした女で、いつもへらへらしている。これで剣の腕は凄まじく、勝てる奴は見た事がない。
魔法の方は他に優れた奴が何人でもいるのだが、こいつの強さはいわゆる固有魔法が強力なことだ。
それと剣の腕が合わさると、とてもではないが対応できない。
アプサラスも戦うことに万が一でもなったら、初手で相討ちを狙うくらいしか考えが浮かばない。
「様子見てきました。 幾つかの国の密偵が見に来ていましたね。 殺すのもなんですので、全部捕まえておきました」
「流石だな」
「一応もう組織的な抵抗は止まっています。 もともと伯爵さんが一家もろともあんな人でしたし、死んでせいせいしたって人も多いみたいですね。 それでも伯爵さんのために最後まで踏みとどまって死んだ人も少しだけいたみたいです」
「そうか。 戦士として、不利になったらすぐに旗を変えるような輩は信用できない。 立派な人物達だ。 丁寧に葬ってやってくれ」
こいつは戦況を全て見切った上で、その報告をしに来ている。
野戦病院で負傷者の手当ては進んでおり、既に被害は概ねまとまっていた。死者は五十人程度と、この規模の街と軍を相手にしたにしては、ほぼないに等しい。
この報告も、各国に飛ぶはず。
あの部下……アルテミスの能力が如何に図抜けていたとしても、それでも人間だ。
数百年前の混乱の時代には、アルテミスは当時の言葉で「雑魚」だの呼ばれた程度の存在に過ぎないが。
今の時代に限れば。単騎で小規模な戦闘ならひっくり返す。
ただ、流石に伯爵領全域の敵性勢力を抑えきれない。
それが人間の限界である。
ほどなくしてブラフマが参謀達と来たので、状況を軽く話す。侵攻作戦については、もう事前に何度も対応を協議しているので、そのまま進めるだけだ。
他の国が介入してくる前にどれだけ土地を切り取れるか。
また、如何に相手にならないと分かっても、敵の主力部隊は十万は出てくる。数だけは相手が上。
それを味方を揃えて、最小限の被害で撃破する事も考えなければならない。
アプサラスは、フラムに頼まれ逃がした人間達の事は既に考えていない。
部下まで護衛につけて本国に送ったのである。
これ以上の事はしてやれないし、するつもりもなかった。
それが軍人としての思考法である。
軽く軍議をしてから、遠征軍に参加している第三師団を率いて、アプサラスは西に直進する事になった。
この進路には幾つかの男爵領、子爵領が存在し、どれもが取るに足らない程度の兵力しか備えていないが。
問題はそれらではなく、この道を行く事で、最悪敵の本隊と正面衝突することになる。
このためアプサラスに与えられた第三師団は制圧よりもスカウトを優先して、敵軍の動きをより精密に知らなければならない。
他の師団は指定されていた領域を制圧して、指示があれば戦闘を中断して戻ってくるだけの話なので、気が楽だ。
敵に優れた軍司令部でもあれば話は別なのだろうが、残念ながらここ数年の小競り合いなどの記録を見る限り、百年前と変わっていない。むしろ衰えている程である。
リブルズ伯爵領には念の為に司令部を要する第一師団が残るが、最悪の場合第一と第三だけで敵の本隊を相手にしなければならなくなる。
アプサラスも経験を積んだ指揮官だ。
そこまでの無様をするつもりはないが。
戦場に「まさか」はあっても絶対はない。
それもまた、多くの戦場を経験して、アプサラスが知っている事であった。
わたしは他の国を出る人達と一緒に、砂漠を歩いていた。
後ろでどんと凄い音がして。
空が明々と燃え上がっているのが分かって。
夜だというのに、住んでいた辺りが明るくなっていて。
ああ、終わったんだなというのが、見ていないのに分かる程だった。
多分、数え切れない程死んだ。
フラムは逃がしてくれた。
ただ逃がせたのは、身内だけ。
力が及ぶ範囲だけ。
それがこの人数。
今はそれは分かっていた。
わたしには、それを拒否する事もできなかったし。拒否しようともできなかった。ただ流されるだけ。
今だって、あれに巻き込まれるのはいやだって思っている。
それはそれとして。
砂漠を黙々と歩くのは、それはそれで辛かった。
歩くのは夜だけ。
そう護衛の戦士達に言われている。
護衛の戦士達に渡された靴を履いた。そんなもの、今までろくに履いたこともなかったから、驚きだった。
靴を履かなければならないのは。
砂漠の砂は細かく尖っていて、そのまま歩くと足は血だらけ。傷に砂が入り込んで、酷い事になるという。
砂漠に暮らしている人はみんな体をできるだけ覆っているが。
これは身を守るためには仕方がないのだとか。
また、昼間は想像も出来ない程暑くなる。
今までわたしがいた伯爵領から一日くらいで砂漠に入ったのだけれども。それで確かに、露骨に恐ろしい程暑くなった。
だから昼は移動しない。
夜にガチガチに身を固めて移動する。
移動する間、できるだけ無駄口は叩かない。
隊列も乱さない。
そういう風に指導を受けて、みな黙々と砂漠を歩いていた。
倒れそうになる老人を、何頭かいる砂漠馬に、護衛の戦士が乗せる。水は潤沢にあるが、基本的に一日の半分しか動けないので、進むのはゆっくりだ。
護衛の戦士達は、なんだか分からない道具を使い。後は影の方向と太陽の高さを見て、時間と今の方角を判断し。
それでスポリファールという国に向かっているようだが。
わたしには、ついていくのがやっと。
体力はもともとないほうだ。
だから、何度も倒れそうになって。
寒さの中で、必死に歩くしかなかった。
途中でオアシスという場所に出る。軍が基地を作っていて。護衛の戦士達が、色々と説明をしてくれた。
わたし達はパッナーロ国の協力者という扱いらしい。
アプサラスというあの恐ろしい女性騎士が指示したと言うと、基地の戦士達はすぐに態度を軟化させてくれた。
やっとそれで柔らかい寝床で寝る事ができて。
出る食べ物も、今までとは比較にならない程おいしかった。
夜の間に少しだけ外に出て良いと言われたので。オアシスの基地を見るけれど。凄く規模が大きい。
此処はパッナーロ国に攻めこむための中継地だとかで、たくさんの物資が蓄えられていて。
それだけではなくて、たくさんの人が此処からパッナーロに忍び込んでは、情報を探っていたらしい。
国のことはたくさんの人が絡んでいて。
下の人間は、どうして国がそう動いているかよく分からないものなのだとか。
ただし、だからこそに国が腐ってしまうとどうしようもなくて。
一から作り直さないといけないらしい。
兵士にできる事はあるかと言われたので。湯を沸かしたり、風をある程度操ったり、手術の手伝いとか、陶器を直すとか。そういう事について話すと。それだけできれば充分だと言われた。
それで湯沸かしをした。
兵士は随分と規律がしっかりしていて、全員がまるで一つの生き物みたいだったけれども。
それはそれで怖かったし。
もしも逆らったり逃げたりすれば、にこにこ笑っている兵士が、即座にわたしを殺すだろう事もすぐに分かった。
お湯を沸かすと、それを冷やす。
そうすることで、安全に水として使える。
何度もやらされる。
水はたくさん蓄えておく必要があるらしい。
オアシスは水が湧いているから、たくさん水があるように見えるけれど。それらの水だって、安全なものとは言い難いのだとか。
「お前、ろくに教わってもいないのに、魔力が底無しか?」
「いえ、おなかが一杯なので……」
「魔力は体力と相互依存の関係にあるが、それにしても凄まじいな。 アプサラス騎士隊長がお前については色々指示を出しているが、それも納得だ」
魔法が使えるらしい兵士がそう感心して。
此処の責任者を呼んでくる。
責任者は鎧を着込んだ初老の女性で、貫禄があって目つきも鋭かった。
わたしをしばらく値踏みするように見て、仕事をどれだけこなしたかを説明を受け。それで、わたしが湧かした湯を確認して。それで頷いていた。
二日、オアシスで逗留した。
その間に、わたしはできるだけのお湯をわかして。そのお湯を冷やして。それは軍の基地で貯蔵していた。
わたしの仕事は普段は数人の兵士が持ち回りでやるらしく。
それもその兵士は魔法の適性がある訓練された大人らしくて、なんだか凄いらしいというのは、何となく分かった。
ただ、それで嬉しいかというとノーだ。
わたしだって、伯爵の家で殺されかけたり、勝手に放り出されたことは良く思っていない。
あれは今は知っているが奴隷という奴だったそうだ。
スポリファールでは奴隷制は禁止されているそうで、それだけで羨ましいと思う。
でも、良い事ばかりでは無さそうだなとも思うのだった。
二日して、オアシスを出る。
護衛の兵士が増員されていた。
それだけじゃない。
すれ違いに、凄い数の兵士がパッナーロ国の方に向かうのが分かった。砂漠をものともせずに越えていて。
とんでもなく大きな虫がいて。
その虫の背中に、たくさんの荷物を載せている。
「なんですか、あの大きな虫」
「あれは砂漠大ヒラタクワガタという虫でな。 何百年も生きる上に、エサの覇王樹の蜜さえやれば従順になる。 ただ戦いは嫌がるから、ああやって荷物を運ぶことに主に使う。 夜行性だから、こうやって夜に移動しているときには、何よりも頼りになる」
見上げるほどの大きさだ。あれだけで、伯爵の屋敷より大きいのではないのか。
兵士は少しずつわたしに話してくれる。
わたしが逃げる気がないのを察したからなのだと思う。
それでも、もし逃げるそぶりがあったら、即座に殺すだろうけれど。
フラムの所の破落戸は恐怖で縛られていた。
それは知っている。
でも、この人達は少しずつ分かってきたのだけれども。
訓練で縛られている。
それはどっちが良い事なのか、悪い事なのか、よく分からない。
はっきりしているのは、今はこの人達について、スポリファールに行くしかないということだ。
わたしよりちいさな子供がぐずっていて、ハイム先生が苦労してあやしている。
眠っている子供を、飯炊きのおばさんが背負って歩いている。
老人はなんとか歩けるだけは歩いているけれど。砂漠馬に乗せて貰っている時間の方が多そうだ。
そうして、次のオアシスについたのは三日後。
まだ幾つかのオアシスを経由しなければ、スポリファールには到着しないそうである。
そんな距離をものともしないスポリファールの軍が。
人攫いだとかと一緒になって悪さをしていたパッナーロの軍と比較にもならないのは、それだけで分かる。
時々、砂漠で大きな蛇みたいなのが泳いでいるのが見えたけれど。
兵士達がなんだか分からない魔法を使うと、大慌てで逃げていく。
「あれはサンドワームだ。 正確には虫ではないらしいんだが。 古くの時代に、この辺りで暴れた「聖女」がそういう風に呼んだらしくて、それで今でも名前がそうなってる」
「この辺りでは「聖女」が暴れたんですね」
「パッナーロだと「賢者」だったよな。 古くの時代には、どうしてかそういうよく分からない肩書きの人間がたくさん現れて、世界を滅茶苦茶にしたんだ。 殆どの奴はすぐに塵になっちまったそうだが、一年だか二年だか暴れただけで、人が死に絶えた土地すらあったらしいぞ。 それだけじゃない。 ある「剣聖」だとかは、虫が嫌いで気に入らないだとかで、その土地にいた虫を全部殺したんだそうだ」
虫を全部。
虫を根絶やしにするのは、人間を全部殺すより余程大変な事だと思う。
それで感心していると、兵士は人に教えるのが楽しいのか、説明してくれる。
「虫を皆殺しにしたら、それをエサにしている大きな動物が全部死んじまったらしくてな。 草とかも生えなくなっていって、それでその土地はあっというまに荒れ地に変わってしまったらしい。 元に戻るまで百何十年も掛かったらしいんだが、それだけの事をやらかしていながら「剣聖」とかいう奴は一年くらいで塵になっちまったらしい。 まったく、迷惑な話だぜ。 それに剣聖とかいいながら、あらゆることを剣術だと言い張って、何でもできたらしいしな。 暴れていた連中は、どれもこれもがそんなだったらしいし、地獄だったんだろうな当時は。 今以上のよ」
ある土地では、女性は顔を墨で塗って、まともに分からないようにしていた時代があったらしい。
それはその地に現れた「勇者」が、自分好みの女とみるや、人妻だろうが幼児だろうが片っ端からさらって手込めにし、挙げ句に飽きたら捨てていたからだそうだ。それだけではなく、さらってからは「催眠」という今では遺失している魔法で相手の心を好き勝手にねじ曲げ、それでなんでも言う事を聞かせていたらしい。
飽きたら捨てるのだが、それで「催眠」も壊れてしまうらしく。捨てられたらその場で衰弱して死んでしまう。
それを「勇者」は見向きもしなかったし。
なんなら子供ができた場合も即座に飽きて捨てていたらしく。その国からは、一時期女性が姿を消したとか。
「ひでえ話だろ。 しかも「勇者」は女が何処に隠れても探し出したらしく、隠れるのに協力する人間は何のためらいもなく「愛の邪魔をした」とかいって皆殺しにしていたらしいからな。 何千人も女をさらって好き放題したくせに子孫がいないのは、まあそいつの悪行の結果だそうだしよ」
「くわしいですね」
「当たり前だろ。 スポリファールの初代がそいつ、「落第勇者」なんだからよ。 幸い其奴が女を漁り尽くして飽きて塵になってから、この国は必死に立て直しをはじめて、今では周辺国に負けない国にまでなったんだがな」
その部分を話すととても兵士は誇らしげだ。
でも、その負けない国が、負けないために他の国と戦争をして。
それで土地を奪って、自分のものとしている。
それを考えると、それが良い事なのかは、わたしには分からない。
次のオアシスでは、その兵士が紹介してくれて、わたしはとにかく水周りの魔法を任された。
それだけじゃなくて、風を操れるという話をしたら、乾きにくい洗濯を乾かしてくれと言われて。
魔法を使うにはたくさんご飯がいると説明すると。
それでちゃんと美味しいご飯が出てくれた。
砂漠だと、暑い日中に洗濯を乾かすと、砂だらけになってとても乾きはしないらしい。だから、夜の内にどうにか工夫して洗濯を乾かすそうだ。
わたしは砂を舞いあげないように、干されている洗濯ものを乾かしていき。
それで言われた事を、だいたいこなして見せた。
おなかが何度もすいたけれど、その度に美味しいご飯が出てくるので、それはそれで悪くはなかった。
トイレについても、大量の糞便を乾かして、臭いとかが出ないようにするような仕事もさせられた。
乾かした糞便は砂漠に埋めるそうで。それで砂漠を肥沃な土地に少しずつ変える事ができるそうである。
そうしてスポリファールは、本国付近にあったちいさな砂漠を、幾つも肥沃な土地に変えてきたそうだ。
決して優れた指導者が続けて出たわけでは無い国だそうだが。
逆に、愚かな指導者も出なかった。
それが救いであったらしい。
何度かオアシスで、そうやってできる事をやっていると。その度に褒めて貰った。それで、何やら兵士達が耳打ちしていた。
わたしは監視が増えるのに気付いたけれど。
今は、もうどうにもできなかった。
4、新しい国へ
やっと砂漠を抜けると、昼間に生活するために、数日かけて慣らされた。兵士達は砂漠を越えるとき、この訓練をするという。
砂漠の端の方は豊かな土地に変わっていて、秩序だった農民達が耕している。
わたしがいた国では、農民は奴隷と殆ど扱いが代わらなかったのだけれど。
この国では、兵士達が敬意をもって接している。
パッナーロに比べて優れている点は多いんだな。
だけれども、今は優れている点だけが見えているだけだと、わたしは思った。
数日砦で監視されながら過ごす。
それから、厳つい顔のおじさんが来て、メダルを見せるように言われた。メダルは肌にくっついていて。わたしの場合は手の甲にあったので。それを見せる。殆ど気にならないくらい、不快感はない。
「よし、これで君達はスポリファール市民だ。 仕事については、希望があるなら聞く。 希望がない場合は此方で手配する。 子供は学力を見て、教育機関に分配する。 学費については大人になってから稼いで返して貰う」
後は説明を幾つか受ける。
わたしは教育機関とやらにはいかないらしい。
オアシスでやっていたことがメダルに記録として残されていたらしく。
他の人がみんな連れて行かれたあと、軍の人らしいおっかない人が何人も来て、囲まれていた。
「君はアイーシャというのだな。 ええと、推定十歳か。 それでその魔法の腕は、確かに素晴らしい。 よくあの過酷なパッナーロ国で生き延びる事ができたな」
「はい……」
「いや、大変だったな。 ウチの国では有能な人間は大歓迎だ。 君は早速、魔法の資格を取って、この国に尽くして欲しい」
よく分からないけれど、顔を上げると。
笑っているのは口だけだ。
みんな、目が笑っていない。
逆らう選択肢は存在しない事が分かった。
尽くして欲しいじゃない。
尽くさないと殺す、だ。
この国について、少しずつ分かってきた気がする。
多分、何もできない人でも、何もできない人用の仕事があって。何かできる人は、それが出来る人のための仕事があって。
それで、みんなガチガチに決まった人生を生きている。
できる事を生かした事ができるなら、まだいいのかもしれない。
実際伯爵に飼われていた時よりも、フラムの下で使われていた時の方が、わたしには過ごしやすかった。
此処は、それが更に過酷になると言う訳か。
「魔法は才能に依存する代物だが、この国ではそれの伸ばし方のノウハウをずっと蓄積してきている。 ノウハウというのももたらされた言葉であるらしいな、うはははは」
「はははは」
厳ついおじさんが笑うと、他の人も控えめに嗤う。
フラムと同じだなと思う。
フラムほど暴力的ではないけれど、怖さに関してはこの人達も、あまり代わりがないなとわたしは感じた。
ハイム先生が言っていた。
スポリファールは楽園では無さそうだな、と。
わたしも同感だ。
この国は、国としてはずっとしっかりしているのだと思う。
一部の偉い人が、偉いから偉いという理由で、やりたい放題をしていたのがパッナーロだとすれば。
人がその力に応じた仕事を死ぬまでしなければならない。
それが多分、この国なんだ。
ともかく、つれて行かれる。
広い場所に出た。
たくさんの魔法が使われた跡なのだろう。
激しい破壊がたくさん起きた跡が、土地に刻まれている。
「えっぐい跡だろう。 古い時代には通用しないだろうが、今だと世界最強を噂される騎士が君の少し上の年にいてね。 その子がぶっ放した魔法の跡だよ」
「……っ」
フラムなんて、此処ではド素人も良い所なんだ。
あのどんという凄い音。
あれは、きっとスポリファールでは凄い魔法を使える人がたくさんいて。そういう人が、一斉に使ったんだ。
だから、一瞬で何千人も吹っ飛んだんだと思う。
今更怖くなってきた。
とにかく。
一つずつ、魔法についてやらされる。
わたしは火以外なら使えるけれど、年の割には凄いと言われるだけ。つまりもっと凄い人が幾らでもいるということだ。
今まで仕事でやったことがある魔法をあらかた使う。
その間に、栄養補給はしっかりさせられた。
子供もいたけれど、大丈夫だろうか。
そんな事を思っていると、集中するようにと。叱責が飛ぶ。
それは鋭い声ではなかったけれど。首をすくめるには充分なくらい、低い強い威圧が篭もっていた。
フラムより怖い人間なんていないと思っていたのに。
こっちではあらゆる意味でフラムは素人なんだと、なんどでも思い知らされる。
きっとまともにたくさんの人が動いている国というのは。
こういうものなんだろうとも。
それで、まる三日掛けて、できる事を全て吐き出させられた。
それからわたしは、メダルに魔法を掛けられて。
多分情報を更新させられたのだと思う。
それから、ゆったりとした服を着た人が何人か来る。ローブというらしい。わたしが着込んでいる襤褸を見たあと、その人達はひそひそと話した後。同じローブというのを手配してくれた。
わたしとしては、贅沢にお風呂にも入れたし。
ご飯だって食べられたので、それでいい。
なんと藁では無い寝床も用意して貰ったし。
この国そのものは怖いとは思っているけれど。
ただ、待遇に不満はなかった。
襤褸はとっておく。
ローブというのは生地からして今まで着ていた多分麻だとかを材料にした服とは違う。色も鮮やかだ。
たしか伯爵一家は絹とか言う生地で作った服を着ていたらしいが。
この服も、似たようなものなのかもしれない。
「これから早速仕事をして貰います」
「分かりました」
アポルトスと名乗った年配の女性に、素直に返す。
ちなみに言葉は同じだ。
何百年前かの時代。
なんでも世界の人間が使う言葉が一斉に同じものになるという事件が起きたらしい。それ以降、便利なのでみな同じ言葉を使っているらしかった。
これについてはどこの国でも同じだそうである。
つれて行かれる。
これからもわたしは。
多分、ずっと流されながら生きていく事になるのだと。そう感じていた。
(続)
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