とても美味しいハンバーグ
序、肉の調達
ハンバーグが好きだ。
昔からだ。
ファミレスに行くと、必ずハンバーグをまず頼む。それで、そのファミレスの善し悪しを判断するほどだ。
幼い頃から、ずっと好き。
だからこそに、大人となった今では。
余計に、そのこだわりは、こじれていた。
そう、こじれていると言って良いだろう。近年では、もうレトルトなど、食べる事が出来なくなってしまった。
食べるとまず、あれが良い、あれが駄目と、味について批評するようになってしまった。純粋に、ハンバーグを楽しめなくなったのは何時からなのだろう。
裕福でもない私にとって、この趣味は重荷だ。
自分で作るとなると、どうしても限界がある。プロの料理人には叶わない。かといって、安月給では、高級店には滅多に食べに行くことが出来ないのだから。
一人暮らしの小さなアパートの一室で、ベットに転がって天井を見る。
仕事自体は、順調だ。給料を得る、という意味ではだが。
どうせくだらない仕事だし、怒られたって気にしない。
単純な事務職だから、責任も重くない。給料は決して高くはないが、襤褸アパートで一人暮らしするには問題ない。
殆どの日は自炊しているが、高級店の味には叶わない。
美味しいハンバーグを食べたいなあ。
それが、休日に。
自室で天井を見つめて、呟く言葉だ。
スマホにメール着信。調べて見ると、友人からだ。いい金づる(カレシ)が出来たとかで、十万を超えるバッグやらを買ってもらっている奴である。しかもそれだけ金を出してくれるのに、体の相性がどうのこうのとか、私に不満をぶつけてくるので、辟易していた。
案の定、何処かの食べ放題に行こうとか言ってきたので、拒否。
ぼんやりとしていた頭を何度か擦ると、身を起こした。
今日も、出かける時間だ。
狭いアパートの中で、小さな掃除用ロボットが動き回っている。床は綺麗だけれども、私はちっとも綺麗ではない。
平均に届かない身長。
ジェンダーフリーが当たり前のこのご時世で、三流商社のいくらでも代わりが効く事務職。
何より、華やかさが全く無い性格。
肉が好きだったのに、どうして背は伸びなかったのだろう。
スポーツも苦手だ。
幸い太ってはいないが、この地味な性格では、カレシも出来づらい。高校の頃には三人交際した相手がいたが、社会人になって二年目の今は綺麗に独り身だ。ちなみに三人のうち、分かれた原因は二人が浮気によるものだった。
地味で、話していて面白くない。
それが、原因らしい。
着替えてから、外に出る。日差しがまぶしい。クーラーが効いている職場が如何に心地よいのか、良く分かる。
私は、何のために生きているんだろう。
ゴミを出すと、ぼんやりと外を歩き始めた。外食に行くには、少しばかりお金が足りていない。
近くの公園でぼんやりするのも非生産的だ。
かといって、喫茶店で時間を潰すのも、あまり面白くない。せめて料理のセンスがあったのなら、料理人を目指すという手もあったのだろうが。
ハンバーグ以外はまともに作れない私に、料理人は無理だ。ましてや何十人をも連続して捌いていかなければならないのは、厳しすぎる。
ただでさえ仕事が遅いと、文句を言われ続けているのに。
結局、図書館に行くことにした。
ぼんやりと歩きながら、日差しを恨めしいと思う。
或いは、家の中で寝ていた方が、まだマシだったかも知れない。それくらい気だるくて、動く気にさえなれなかった。
嗚呼。
美味しいハンバーグが食べたいなあ。
そうぼやく。
大した趣味もなく、何をしても面白いと思わない。女同士で集まって、きゃっきゃっと黄色い声を上げて騒ぐのも、むなしくて仕方が無い。
煙草は吸わない。
酒も飲まない。
呑むのは宴会の時だけ。
だが、それもごく少量だけだ。鬱屈した人生は、どれだけ日の当たる所に出ても、改善する気配もない。
図書館が見えてきた。
だが、入り口で絶望する。今日は休館日とか書いてあるのだ。
涼しい図書館の中で、レシピ本を読むのが、唯一の休日の楽しみだというのに。大きく嘆息すると、スーパーに出向く。
ハンバーグの材料は、どこにでも売っている。
冷蔵庫の中に在庫はあるが、せっかくだから挽肉は新しいものを使いたい。一応、プロが作るものほどではないが、ファミレスの冷凍に比べれば、多少マシなのを作るのも可能だ。
ただし、どうしてだろう。
肉の味が好きだからか、総菜は付けたくないのだ。
ご飯でさえ、ハンバーグとは本当は一緒に食べたくない。栄養のバランスを考えると、野菜を付けるのは当然なのだが。どうも気に入らないのだ。
だが、私も大人だ。
だから、好き嫌いばかりは言わない。ちゃんと野菜も買っていくと、アパートに戻った。
そして、昼飯までの時間を、寝て過ごすことにした。これでもハンバーグだけは作れるから、下ごしらえもすぐに終わってしまうのだ。
ぼんやりと、天井を見上げる。
まだ二十代の前半だけれども。
言われている様に、大人になってからの時間は、あっという間に過ぎていく。きっと瞬く間に三十になって、そのまま四十になって。
その内、孤独死することになるのだろう。
人生とは、何だろう。
ハンバーグを作る事くらいしか楽しみが無い。しかし、それも適職と言えるのかどうか。今の職場で、私は愚図なチビと言われて、さんざんな評価だ。早く誰かと結婚して出て行ってくれないかと、陰口をたたかれている事も知っている。
結婚したくたって。出来ない。
相手もいない。
今の時代、若かろうが年老いていようが、簡単に結婚相手なんて見つかりはしないのだ。ぼんやりと過ごしていても、中々時間は過ぎていかない。
腹立たしいほどに、時が過ぎるのが遅い。
普段は、あんなに過ぎるのが早いのに。
気がつくと、私は黒い部屋にいた。
いや、真っ暗なのだ。
寝ぼけているのかと思って、時計を見る。腕時計をしたまま眠ってしまったので、ライト機能で時間は確認できる。あまり時間は過ぎていない。つまり、昼間なのに。
これほど真っ暗というのは、どういうことなのか。
ベッドから身を起こして、気がつく。
粘液のようなものが、手にべったりついていた。天井には、明かりもない。一体何がついたのか。
ライトで照らしてみて、それが血ではないことは分かったのだが。
スマホを出して見ると、圏外だ。
これは何が起きている。外出着のまま寝てしまったのか。それで、悪夢でも見ているというのか。
手探りで立ち上がる。
粘液は、ベットだけではない。床中にへばりついていた。それだけではない。異臭が酷い。
窓を手で探すが、見つからない。
呼吸が乱れてくる。
何が起きたんだ。
変質者にでも掴まって、監禁されたのか。だとしたら、これから殺されるかも知れない。しかし、何だろう、この変な粘液は。
ドアノブを見つけた。
何だか赤黒いものが絡みついているが、ドアノブに間違いない。ごくりと息を飲み込むと、一気に廻す。廻った。押し込んでみる。
ドアが、みちみちと音を立てながら、ゆっくり開いていく。
みちみちいっているのは、何だろう。何かの肉が、引きちぎれているのか。背筋を、恐怖が這い上がる。
外に、出た。
そのまま、固まった。
其処に広がっているのは、どこまでも続く荒野。
紅い岩が点々としていて、奇妙にねじくれた気味の悪い木が彼方此方にある。うめき声を上げながら動き回っているのは、何だ。人間の形をしていないが、黒いヘドロの塊みたいな奴らだ。
反射的にドアを閉めようとしたが、気付く。
私自身も、既に。
ヒトの形を、していない事に。
思わず空に向けて、絶叫していた。無数の触手が絡みついた事で、ようやく手足の形をしている。
顔も頭も、どれも触手の塊だ。
気がついたことで、一気に体が分解して、地面にぐちゃりと叩き付けられる。そして、気付く。
あの粘液は。
私の体から、直接漏れ出ていたものだった、ということに。
腕時計も。
服も。
ぐしゃぐしゃに引きちぎれて、辺りに飛び散った。すぐ目の前を、黒いヘドロの塊みたいのが、通り過ぎていく。
私には関心を示さない。
当然だろう。
同じ種族なのだろうから。
1、肉の探索
触手の塊になってしまった体を引きずって、ただ荒野を歩く。
自分がどうして、このような場所に来てしまったのか。どうして、このような姿になったのか。
分からない事だらけだが。
今はただ、無言で這い進む。
おなかは空くのが分かるからだ。他の影みたいな奴らの動きを冷静に見ていると、幾つかの事が分かってきた。
まず、木は敵だ。
木に近づいた黒い影のような奴が、見る間に伸びてきた枝に絡め取られた。それだけではない。
見ていると、見る間にからからに干涸らびていくのだ。
血を吸われている。
やがて、木が、かさかさになった塊を放り捨てる。風に吹かれて飛んでいくほど、中身がすっからかんになっていた。
アレは、肉食なのか。吸血植物というわけか。
地面も、凶暴な危険に満ちている。
クレバスのようになっている場所は要注意だ。前を進んでいた黒い影のような奴が、いきなりその中に消えた。
そして、バリバリと貪り喰う音。
他の黒い影のような連中は、まるで意にも介していない。姿が人間では無くなって、まともな意識もなくなったのか。
空を時々舞っている、長い何か。
それは蚊のように細い体を持っていて、ぶらんと足を数本、垂らしていた。
これが一番危険だ。
時々、黒い影を、空中に浚っていく。
そうすると、どこに潜んでいたのか、蚊がたくさん飛んできて、よってたかって貪り食い始めるのだ。
おぞましい音が、ずっと響き続けて。
そして、やがてかさかさになった残骸だけが落ちてくる。
怖くて身動きできないかと思いきや。それだけおぞましいものを見せられても、体は何処かを目指して動き続ける。
むしろ、その方が、生存率が高いと、本能的に悟っているから、かも知れない。
分かったのは、この荒野には、同じような黒い影がたくさんいると言うこと。私自身も、黒い影になってしまっている。その体は触手で構成されてて、動きは実にスムーズだ。どこにでも入り込めるし、動きそのものも早い。
問題は、このおぞましい荒野で。
黒い影は、おそらく一番下の生き物だ、という事だろうか。
無数の蚊が飛んできた。
辺りには、何千何万という黒い影が蠢いている。私もその一つとして、何処かを目指していた。
何処かは、さっぱり分からない。
空には太陽がない。
それなのに明るい。
星が瞬いている様子も無い。
だが、どうしてか。明かりは一定で、朝も夜も来ない。ひょっとすると、そんなものは、ないのだろうか。
他の黒い影に話しかけようとしてもみた。
上手く行かない。
喋ることが出来ないのだ。
人間の形を取ってみようと何度かしたが、それも駄目。何とか人型くらいにはなるが、喋るなんてとうてい無理。
彼方此方から飛んでくる巨大な蚊が、容赦なく黒い影を浚っていく。
貪り喰われる同胞には気にも掛けず、何処かへ向け、一心不乱に進んでいく影達。私は、なんでこんな事をしているのだろう。
気がつく。
そもそも、私は、誰だったっけ。
名前は。
そうだ。学校に行っていた記憶はあるけれど。男子だったか、女子だったか。そうだ、女子だった。
女子なのにハンバーグが大好きで、良く周囲から肉食とからかわれた。
だが、それ以上のことが、思い出せない。
家族の構成は。
両親はまだ生きていて。一人っ子だったか。妹がいたか、兄がいたか。いや、どちらもいなかったか。
分からない。
そもそも、私は、誰なのだろう。
自分の名前を思い出せないような奴なんか、いるのか。
いるとしたら、それは何者だ。
分からない事だらけだ。
いつの間にか、蚊はいなくなっていた。クレバスも減り、木も生えていない。そして、それに反比例するようにして。
周囲から、途方もない数の黒い影が、集まってきていた。
何千、何万、予想も出来ない。
日本最大のイベントの行列を見た事があるが、あれと同等か、それ以上だ。数が多すぎて、気色が悪い。多分、最低でも何十万といるはずだ。
見えてきたものがある。
多分、黒い影によって構成されたものだろう。巨大な肉の塔が出来ていた。あれだけの肉があったら、どれだけのハンバーグを作る事が出来るのだろう。黒い影は、彼処に集まって、何をしているのだろう。
自然と体が動く。
前に聞いたことがある。群れを作る動物は、身を守るためにそうするのだと。群れから外れた個体は、真っ先に捕食者に狙われる。モタモタしていると、きっとあの恐ろしい蚊やクレバスの怪物に、貪り喰われてしまうだろう。
ずりり、ぬちゃり。
無言で、進み続ける。
否、そもそも、声も出せないのだ。とっくの昔に、気は狂ってしまっているのかも知れない。
嗚呼。私は、一体何をしているのだろう。
どことも分からない場所で。元の形を喪失して。ただ、這いずり回っている。
目が覚める。
手が見えた。
自分の手。そう、人間の手だ。
飛び起きる。
パジャマを半分はだけさせて、眠ってしまっていたらしい。髪の毛を掻き回して、時計を見る。
まだ昼少し過ぎだ。
休日を全部潰さなくて良かった。
それにしても、一体あれは何の夢だ。妙にリアルで、質感まで伴っていたような気がしたが。
それに、いつパジャマに着替えた。
そして、分からない事が幾つかある。私の髪の毛は、ショートに切りそろえていた。それなのに、何だか腰の辺りまで伸びているような気がする。猿とか言われる事もあったから、伸ばそうと思った事もあったのだが。面倒くささが先立って、ついに髪を伸ばすことはなかったのに。
目を擦る。
手が少し小さい気がする。
元々私は背も低かった。だが、この手の小ささは、どういうことか。
カレンダーを見て、愕然としたのは、その時だ。
一年が経過している。
すぐに洗面所に飛び込んで、自分の顔を見た。一年経過しているというのに、多分二年分は若返っているでは無いか。
何が起きている。
そもそも、会社はどうなった。
すぐに職場に連絡してみる。そうすると、後輩らしい奴が出た。私の名前を呼ぶと、そいつはあっけらかんと言った。
「やだなあ先輩、昨日飲み会であんなに騒いでたじゃないですか。 それに先輩がいなかったら、うちの事務所、廻りませんよ」
「は?」
「だって、事務書類を先輩がしっかり決済してくれてるから、安心して仕事できるって、みんな言ってますもん。 今日は先輩、確か年休の筈でしたし、カレシとでも遊んでるんすか?」
電話を切る。
頭を抱える。つまり私は、一年間、記憶がないまま仕事をしていた、という事なのか。自分が出来る女になったとは、とても思えない。
台所に向かう。
冷蔵庫を開けると、以前より多少グレードが上の食材が入っていた。給与明細を見て、驚かされる。
五割増しで、増えているのだ。
しかも、去年は削られに削られていたボーナスまで、しっかり振り込まれているではないか。貯金など夢のまた夢だったというのに。
預金通帳も引っ張り出している。
なんと七桁の貯金があった。これは正規収入が増えただけが原因とは、考えにくい。本当に、一体何があったのか。
混乱したまま、私は床にへたり込む。
体がやはり、少し小さくなっている。高校時代も、中学生と間違われることが、よくあった。それほどに私は小さかった。
そして、大人になってから、背が伸びるはずもなかった。
だから、私は、自分の大きさを良く認識している。背を慌てて測ってみたが、やはり三センチほど縮んでいた。
私のように、百五十センチ程度しか背丈がないと、三センチは死活問題だ。三センチ縮むだけで、百五十センチを簡単に切る。
そうなると、高校生の平均にも届かなくなるのだ。
目の前が真っ暗になるかと思った。
黙々とハンバーグを作った。
これだけは変わらない。基本的にハンバーグばかりつくって食べているから、というのもあるのだが。
自分の技量は、自分が一番良く分かっている。
挽肉をはじめとする材料が良くなっているからか。焼き上げていると、とても良い香りがした。
本当に、私は私なのか。
いや、それは間違いない。この体も、縮んだとはいえ、自分のものだという自覚がある。名前は、あの触手まみれの夢の中では思い出せなかったが。今では、きちんと思い出す事も出来る。
自分が中学、高校と何をしてきたかも分かる。
思えば、周囲に流されずに、料理部にでも入っていれば。少しは充実した学生時代を、送れたのかも知れない。
女子のコミュニティの偏屈さと恐ろしさをよく知っている私は、怖くて周囲の流れには逆らえなかった。
下手に逆らって、イジメのターゲットになるのは勘弁して欲しかったからだ。
無意味なカラオケやらにつきあわされながら、いつも鬱屈した思いを抱えていた。そういえば、男子だけではなく、女子にも言われていたか。
あんたは、話していて、面白くないと。
顔は十人前だし、見ていても面白くないと。
生きている価値が無いね。
死んじゃいなよ。
そう、悪意のない悪意をぶつけられた。自殺マニュアルなどというおぞましい本を渡されたこともあった。
相手はじゃれていただけだ。
分かっているから、本気になって怒ることも、悲しむことも出来なかった。世間一般で言う友情なんて、私は知らない。
見た事も無い。
ハンバーグが焼き上がる。同じ時間にご飯を炊いておいたから、すぐによそって食べる。そういえば、ご飯をおひつから茶碗に直接よそって食べるというずぼらな行為が、一時期話題になったか。
私は周囲で見た事は無いが。
或いは、それをやるのが普通で、私のようにしゃもじを使うのは外道。そんな風に、思われていたかも知れない。
ハンバーグを並べる。
手を合わせると、食べ始めた。
お店のものほどではないが、そこそこに食べられる。口に運んでいると、どうしてだろう。涙が零れてきた。
美味しくて感動したのではない。
きっとこの趣味だけが、私を的確に評価してくれている。そんな気が、して来たからだった。
翌日、会社に出る。
一年時間が吹っ飛んだからか、私の席も替わっていた。以前では考えられない位置にある。
そして、仕事の量も、以前の倍は軽くあった。
「先輩、今日も早くからお疲れ様です!」
「あー」
適当に応じたのは、一年後輩の若造だ。
そういえば、あの変な夢を見て一年時間が吹っ飛ぶ前は、此奴はぴかぴかの新人だったはずだが。
今は此奴にも後輩が何人かいる様子だ。
記憶は消し飛んだのに、仕事の内容は覚えているのが腹立たしい。てきぱきと体が動く。どうしてだろう。
以前もたついていてどやされたほどなのに。
今では、以前の自分では考えられないほど、効率的に作業をこなせる。ヒューマンエラーもケアレスミスも、殆ど無くなってしまっていた。
PCの作業についても、以前とは比較にならない。
キーボードの入力速度も、精度も、まるで稲妻だ。自分で指を動かしていて、本当に仰天した。
これは自分の指なのか。
ひょっとして、あのおぞましい触手の塊が、自分を構成していて。擬態しているのではないのか。
そう思ってしまったほどだ。
午前中の間に、仕事は片付いてしまった。後輩が手こずっていた事務仕事を引き受けると、それも処理してしまう。
この小さな商社では、社食堂などという気が利いたものがないから、外に食べに行く。財布には金もあるし、適当にハンバーグでも食べに行くことにした。一年が消し飛んだからか、周囲の店のラインナップもだいぶ変わっていたが、幸い行きつけの店はどれも残っていた。
コンビニのハンバーグ弁当を食べるくらいなら、ファミレスがまだマシ。
そう判断して、ランクとしては中程度の店に入る。財布の中身から考えても、大丈夫だろう。
注文したのは、最近流行の、チーズが入ったタイプのハンバーグ。
どうしてそうしたかというと、あまり良くない店では、露骨に味が出るからだ。冷凍食品とするには少し難しいのである。
この店では、そこそこに食べられるものが出てくる。
ぼんやりとしていると、私の前に誰かが座る。
にこにこしているのは、後輩の女子社員だ。私より頭一つくらいでかい、気にくわない奴である。
「先輩がこのお店に入っていくのを見て、ついきちゃいましたー!」
「あそう」
「そのクールなところ、ステキです! 私も注文して良いですか!?」
「おごらないぞ。 私だって、そんなに金があるわけじゃない」
分かっていますと言いながら、後輩は二人分はありそうな定食を頼んでいた。煙草を取り出そうとしたので、咳払い。
此処は禁煙席だ。
そういえば、高校時代。グループの連中は、半数以上が喫煙者だった。煙は大嫌いだったが、嫌とも言えなかった。
今は嫌とはいわない。
無言で圧力を掛ける。
それで成立するのだから、おかしな話もあったものだ。
料理が来た。
ハンバーグの切り分け方は、何種類かある。有名なのがアメリカ式とイギリス式。アメリカ式は、全部最初に切り分けてしまう。イギリス式は、その都度切り分けて食べる。私は、後者を採用している。
昔は、ナイフとフォークで無理矢理ライスまで食べさせる店が多かったが。
最近は箸を付けてくれる場合が増えていて、個人的には嬉しい。正直、ハンバーグは箸の方が食べやすい。
「噂には聞いていましたけれど、先輩、本当にハンバーグ好きなんですね」
「何だ、見かけ通り子供っぽいとでも言うつもりか」
「いえ、こだわりがあるのって、良いことだと思いますよ」
嘘をつけ。
私は内心で毒づいたが、口には出さない。
今の時代、何か好きなものがあると、オタク呼ばわりされて、人権を剥奪されるのが普通だ。
オタク呼ばわりされれば、即座に人間とは見なされなくなる。異常者予備軍、潜在的犯罪者。
そんな風に扱われる。
だから、今は誰も、何が好きとは、口にしない。
否、出来ない。
一昔前よりは、まだマシだと聞いたことがあるが。それでも、ハンバーグが好きなどとは、間違っても口に出来なかった。
今では、誰かを好きという事さえ、口に出来なくなりつつある。
もしそんなことを言えば、ストーカー扱いされるからだ。この世界は、どこでこんな風に、歪んでしまったのだろう。
ハンバーグを黙々と口に入れる。
「時に先輩、カレシとか作らないんですか?」
「喧嘩売ってるのか」
「え?」
「チビで不細工、低収入の私に、カレシなんか出来るわけ無いだろ。 一片死ね」
やだなあ、冗談ですって。
そんな風に笑う後輩だが。多分私の目が笑っていないことには、気付いていたはずだ。そういえば、此奴はカレシをつくって、結構な額を貢がせていると聞いている。体でも使っているのだろう。
私は、結局そんな風に、割り切ることは出来なかった。
ハンバーグがまずくなる。
そういえば、一時期では、ファミレスで一人で食べる事を人生の負け組などと風潮するきらいがあったか。
そんな阿呆な風潮を作るから、ただでさえ入らない客が更に入らなくなるのだが。多分プライドがより重要で、自分の命なんかどうでもいいのだろう。
とっとと飯を済ませると、精算する。
後輩は綺麗に食べ終えていた。後から来たのに、喰うのが早い奴だ。これで体重が増えないのだとすると、カレシとさぞや熱心に励んでいる、ということか。
「待ってくださいよ、先輩」
「会社は同じ方向だろう」
「一緒に行きましょうって。 先輩とはあまり話さないですし、せっかくですから色々聞かせてくださいよ」
「……」
鬱陶しいと思ったが、追い払う理由も無い。
適当に纏わり付いてくる後輩をあしらいながら、帰路を急いだ。
入れた覚えもない金が、財布にはある。
だから帰り道、ハンバーグの材料を補充していく。以前よりグレードが上の素材を買い込むことが出来る。
肉素材のハンバーグだけではなく、色々試してもいる。だが、結局の所、どれも肉のものには味が及ばない。代替食品以外の何物でも無いというのが、素直な感想だ。かといって、肉ばかり食べていても、体に悪いのは明白だ。
以前とは比較にならないほど能力が上がっているからか、ほぼ定時で上がる事が出来た。その分、帰り道に時間を割く事が出来る。
どうせ趣味など無い。ハンバーグ以外に、好きなものもない。
精肉店で挽肉を選ぶ、かなり良い肉があったので、それを買い込んでいった。頭の中で計算するが、給料は潤沢だし、充分におつりが来る。
ただ、この挽肉をいきなり使うつもりはない。
冷蔵庫で寝かせておく。
今日はサラダでも食べることにする。どうせ男もいないし、食生活を好き勝手出来るのは、せめてもの救いか。
電車に揺られて家に帰る。
冷蔵庫に買ってきた材料を放り込むと、ごろんとベットに横になった。不思議と、疲れは殆ど無い。
作業効率が驚くほど上がっていたから、だろう。
残業をする社員は良い社員という腐った風潮は、私の会社にもある。だから、定時で上がり続けると、まずいかも知れない。
だが、知ったことか。
何だか、どうでも良い。
一眠りしてから、ハンバーグを作ろう。いや、ハンバーグではなくて、今日は手製のサラダでも作るつもりだった。
ああ、面倒くさい。
ハンバーグが食べたいなあ。
子供の頃は、どうだっただろう。両親が好きだったか。いや、両親の事は、あまり好きでも無かった。
ただし、ファミレスは好きだった。
連れて行ってもらうファミレスで、ハンバーグを頼むのは、とても嬉しかった。いつもハンバーグしか頼まない私を、両親でさえ。
ああ、そうか。それで、両親の事が、あまり好きでは無かったのか。
苦笑いする。
気がつくと、三時間ほど経過していた。後輩からメールが来ている。これから合コンなのだけれど、来ないかというのだ。
無視して、サラダを作る。
カレシがいるというのに合コンとは、おさかんなことだ。いわゆるセフレと結婚を前提としたおつきあいは別、とでもいうのだろうか。散々貢がせているくせに、勝手な理屈だ。まあ、私にはどうでもいいが。
酢を使ってドレッシングを作ると、乱暴に引きちぎった野菜にぶっかけて、食べ始める。
やはりハンバーグに比べると、味気ない。
だが、一日に一回以上、ハンバーグは食べないことに決めている。一応これでも本能的に、自分を繕おうと思う。だから、偏食は好ましくないと、分かっているのだ。だが、それでも好き嫌いはある。
サラダは嫌いだ。
色々工夫はしてみたのだが、どうしても美味しいと思えない。多分、野菜そのものが嫌いなのだろう。
だがそれでも、食べないと体調を崩すことくらいは分かっている。だから、無理矢理に口に押し込んで、飲み下した。
息を整える。
なんで食事で苦行をしなければならないのだろう。しかし、肉ばかり食べていれば、絶対に体をおかしくする。
口直しに、スティックチーズを取り出して、囓る。かなり口の中の感触を変えることが出来るので、重宝している。少し値が張るのが、玉に瑕だが。
適当に食べ終えると、頭の中で明日のスケジュールを確認。
作業は何ら問題ない。
むしろ簡単すぎて、へそで茶が沸くほどだ。
鬱屈が溜まる。
風呂でも入って、さっさと寝るとしよう。いずれこの小さなアパートから移るのも、良いかもしれない。
給料が上がれば、それも可能になるだろう。
このアパートが嫌なのは、壁が薄いからだ。隣に住んでいる軽薄なアホ男が、時々女を連れ込んでよろしくやっていて、五月蠅くてかなわない。
隣が五月蠅くなるのは、だいたい十時以降と決まっている。そういえば隣のアホ男、仕事をしていないらしくて、昼間は寝ていて夜動いている。そんなのがどうして生活できているのか。
親から仕送りでもしてもらっているのだろう。
世の中は、公平ではない。
そんな事はわかりきっているが、しかし。何だか、むなしいと、私は思った。
2、つなぎを探す
朝から機嫌が悪いのを自覚していた。
仕事に関する不満は綺麗に消えていた。残業をせずとも帰ることが出来るし、何より躓かない。
以前のように、ことある事に文句を言われることも無くなった。
事務職は、自分でも驚くほど完璧にこなせている。
定時で上がっていても、誰も文句を言わないほどにだ。糞無能な営業共が、商社だから大きな顔をしているが。連中でさえ、私が定時で上がることを、何も言わない。
問題は、定時で上がっても。
する事がないと言うことだ。
昨日などは、ネットで探してきたレシピを使って、ハンバーグを作った。評判の味とか言う触れ込みだったのに、いざ食べてみると味気ないことこの上ない。調味料で味を誤魔化していて、不快感さえこみ上げてきた。
肉の味がまるでしないほどだった。
使った肉は決してグレードが低いものではなかったのに。レシピが悪いことは、明々白々。
食べ終えた後、怒りが爆発したのは、隣からの嬌声が原因だった。多少なら我慢したが、乱交でもしているらしく、あまりにも五月蠅すぎる。その上昨日は、堪忍袋の緒が緩みきっていた。
壁を蹴った後、アパートを出る。
そしてその晩は、ビジネスホテルに泊まった。
会社には、ビジネスホテルから出た。滅茶苦茶に機嫌が悪そうな顔をしていることは、周囲も察していたらしい。
男にふられたのではないかとか、給料が天引きされたのではないかとか。
色々噂されている中で、一人だけ正解を引いていたのは、例の後輩だった。
「多分、ハンバーグがまずかったんじゃないですか?」
「何それ、あんたあの子舐めすぎじゃないの?」
「いや、先輩って、ハンバーグに命掛けてる節がありますし。 多分男とハンバーグ、どっち選べっていわれたら、ハンバーグノータイムで選ぶと思いますよ」
「馬鹿言ってんじゃ無いの」
実はそのまんま正解と言う事も出来ず、私は自席で寝たふりをしていた。
しかも、こういう日に限って、仕事がはかどって仕方が無い。徹底的に仕事を先送りして進めて、定時でも時間が余るほどだった。
さっさと引き上げる。
不快感が極限まで達していたので、近場にある比較的美味しい店に出向いた。少し値が張るが、かなり量的にも味としても満足できる店である。
ところが、だ。
店でハンバーグを待って、十五分ほどして出てきて。
口に入れてみて、愕然とした。
まずいのだ。
具体的には、肉の味が露骨に落ちている。
慌ててメニューを見たが、なんと以前は国内産だった牛肉が、よく分からない国のものに変わっているではないか。
思わず絶叫しそうになった。
無言でさっさと肉を口の奥にかっ込むと、二度とこの店には来ないと決定。フォークをテーブルに叩き付けて、店を出た。
帰り道で、空き缶を見つけたので、思い切り蹴飛ばす。
怒りの矛先を、ぶつける先が見つけられない。
アパートに入ると、今日は静かだった。まあ、それなら良いだろうと思った矢先に、ドアをノックされる。
警察だった。
隣の阿呆が、覚醒剤の使用とやらで捕まったらしい。昨日、私が壁を蹴った後、警察に踏み込まれたのだそうだ。
「昨日ドラッグパーティしていたらしいんです。 物騒なので、気をつけてください」
「分かりました。 それで、巡回を廻してはくれるんですか?」
「しばらくはそうします。 この辺りにまだ売人が潜んでいるかも知れませんから」
知ったことかと、内心毒づく。
そのまま布団に潜り込んで寝た。
ハンバーグの恨みは深い。
目が覚めても、胃の下の方がごりごりとする感触があった。昨日の糞まずい肉のせいだと、私は思った。
翌日、私の不機嫌は、最高潮に達した。
これ以上外れをひいてはたまらないと思い、普段から利用しているレシピサイトをスマホで見ていたのだが。ハンバーグ類が、撤去されていたのである。
どうしてハンバーグだけ。
見てみると、リニューアルのためとか書いてある。
何がリニューアルだと、発作的にスマホを床に投げつけそうになった。
これは誰かが、私が美味しいハンバーグを食べることを、邪魔しているとしか思えない。不快感で、はらわたが文字通り煮えくりかえりそうだった。
呼吸を整える。
地団駄を踏んでは、となりのアホと同じだ。もっとも、既に奴の親が来て、部屋を引き払っていったが。
案の定、いかにも裕福そうな奴で、ブタのように太っていた。そして此方には、挨拶一つしなかった。
仕方が無いので、自分の頭で覚えている、標準的な作り方で適当にハンバーグを仕立てる。
出来たハンバーグは、グレードが結構高い挽肉を使っているにもかかわらず、普通の味だった。
不満はとっくの昔に爆発している。
外に出て、手当たり次第に通行人を刺しかねないほど、私の精神状態は悪化していた。私の顔を見たら、多分誰もが逃げただろう。阿修羅のような顔をしていたのは、間違いない。
とりあえず、この間まずいハンバーグを食わせてくれた店に、クレームを入れてやる。
何故急に肉のグレードを落としたのか。
散々くどくど怒鳴り散らしてから、電話を切った。外食産業で働いている人間が地獄絵図の中にいることくらい知っている。
だが、それでも不快感を抑えきれなかったのだ。
しばらく悶々としていたが、やがて洗面所に行って、顔を洗った。これ以上ストレスをため込むと、胃痛で入院しかねない。
睡眠剤をかっ込むと、強引に寝る。
もう、何もかもがどうでもよい。
あの奇妙な世界は、何だったのだろう。
一年間の空白は。
身を起こす。
そういえば、今日は休日だった。ぼんやりとしていると、怒りも少しは収まってきていた。
だがそれでも、不快感に胃を焦がされるような昨日のことは、よく覚えている。どうせなら、うんとグレードが高い店でハンバーグを食べるとするか。
起き出すと、私はネットで良さそうな店を調べる。
別に国産牛肉が最高と思っている訳では無いが、鮮度からいっても、まず美味しいのはやはり国産が上位に来る。
かなり高い店が検索に引っかかった。
だが、貯金には余裕がある。それに、せり上がる不快感、このままだとどうにかなってしまいそうだ。
これも精神衛生上必要な投資。
そう割り切って、出る。
何の役にも立たないネックレスやらバッグやらを買うよりは、多少値が張っても所詮はハンバーグだ。
今回行く店は五千円ほどもするが、それでも安めのバッグ程度の値段でしかない。
無言のまま、店へ出向く。
電車に乗られて、三駅通過。その間、苛立ちを抑えるために、随分と苦労しなければならなかった。
休日の昼間と言うことで、電車そのものは込んでいなかったのだが。躾のなっていない子供がぎゃあぎゃあ騒いでいたからだ。
親は注意もせず、ずっとスマホを弄っている。
頭に来たので、途中の駅で車両を変えた。
其処でようやく静かになった。
だが、目的の駅についても、苛立ちは収まらない。地図が彼方此方間違っていたりで、なかなか店にたどり着けなかったのだ。
近場の交番で聞いて、やっと目当ての店を見つけた。
ファミレスとは違う、かなり重厚な造りの店だ。
中に入ってみると、いかにもな客ばかり。以前は金持ちというとヤクザばかりだったそうだが、今は違う。連中はかなり追い詰められてきているとかで、服も車もグレードが下がっているそうだ。
私は場違いにも思えるコーディネイトだが。しかし、此処の店は、客のコーディネイトで云々というような、勘違いした腐った場所ではないはずだ。受付で登録して、しばらく待つ。
席に案内されるまで二十分。
そして、ハンバーグが出てくるまで、四十分かかった。
食べてみると、確かに美味しい。良い肉を使っているし、何より香りが良い。調味料も控えめで、肉の味を良く生かしている。
しばらく黙々と食べていると、ようやく不快感が収まってくるのを感じた。
唯一の不満点は、ハンバーグが小さいこと、だろうか。
口をナプキンで拭いて、レジに。四千六百円もしたが、まあこんなものだろう。ぽんと五千円札で払うと、多少満足して、店を出た。駐車場にはベンツやらが止まっていたが、どうでもいい。
少し分かったことがある。
私は、急激に人間が嫌いになってきているかも知れない。
正直なところ、ハンバーグだけ食べる事が出来れば、それでいい。他の人間と接することが、苦痛になりつつある。
前々から、そういう事は確かにあった。
だが、今ほどではない。
はっきり言って、今は人間と話すだけでも嫌だ。金を払うから、美味しいハンバーグだけ食べられれば、それでいい。
勿論男もいらない。子供も産みたいとは思わない。
利己的な考えと思われるかも知れないが、どうしてかは自分でも分からない。以前は少なくとも、カレシを作ろうという意欲はあった。友人関係は、大事にしようと思ってもいた。
そうしなければ、阻害されるのが目に見えていたからだ。
それなのに、あの変な夢を見て。
一年ほど時間が吹っ飛んでからは、この傾向が、更に強くなってきている。
まっすぐ家に帰る。
それからもう、寝ている事しか、する事がなくなった。何も食べる気力が沸かない。サラダも、無理矢理かっ込む気にはならなかった。
無言のまま、すごす。
翌日、会社に出ると、昇進人事が来ていた。
元々小さな会社だ。
私は事務として全てを切り盛りしてきたが、それを一応評価されたらしい。仕事が更に増えて、人事などの管理も含まれる。
そして、給料も増える。
なかなか、いっぱしの男性正社員にも劣らない給料の額だ。しかし、それをもらって嬉しいかと言われると。
全く達成感がない。
砂でも噛んでいるでは無いかと、思えてきていた。
ふと気付く。
遙か遠くが、見えた。
気がつくと、自分はとてつもなく巨大になっていた。黒い人型。おぞましいまでに大きい。
辺りは、どこまでも続く荒野だ。
分かるのは、体中に目がついているから。少しずつ、理解できてくる。また、あの夢の世界に来た。
そうだ。
あの集まってきていた、巨大な黒い触手の塊。
あれが徹底的に寄り集まって、今の私になっている。そうか、あのとき見ていたのは、私のごく断片。
この巨大な塊こそが、私なのか。
あの巨大な蚊が、飛んできている。
触手をふるって、叩き落とした。もう怖れるには値しない。蚊は逃げようとしたが、触手の方が、動きが速い。
押し潰す。
叩き潰す。
そしてひねり潰す。
あっけないほど簡単だ。こんなものを怖れていたのか。
膨大な数の黒い人型が、集まってきている。それを全て取り込みながら、何となく分かってきたことがある。
これは。
きっと、現実だ。
私は、もう一つの私として、この世界にいる。この世界が未来なのか過去なのか、或いは別の場所なのかはよく分からない。
分かっているのは、この世界にいる私が、ハンバーグを食べたいと言うことだ。何時でも、ハンバーグばかり食べたくなる。
この世界に、ハンバーグはあるのか。
正直な話、ハンバーグさえ食べられれば、何だか満足な気分なのだ。鶏肉でも馬肉でも良いから、ハンバーグ。
触手をふるって、咆哮する。
大人がハンバーグを好きで、何が悪い。
ハンバーグを食わせろ。
しばらく荒れ狂う。
だが、待っていてもハンバーグがやってくるわけではない。探しに行かないと駄目だろう。
だから、自ら足を運ぶことにする。
巨体を動かし、進み始めた。
無数の触手をふるって、道中の邪魔は全部排除した。一匹たりとて、生かしてはおかない。
そもそも、どうして。
私は、こんなにハンバーグが好きなのだろう。
荒野を蹂躙しながら進む。分かっているのは、私にとって、ハンバーグこそ全てだと言うことだ。
私を怖れてか、既に邪魔な存在は、視界にいない。
潰し、踏み砕き、蹂躙してやった分は、接触と同時に取り込まれていくようだ。それはそれでいい。
ハンバーグ。
ハンバーグはどこだ。
呻きながら、辺りを手探りに探す。荒野にハンバーグが落ちているとは、とても思えない。
せめて材料は。
作るための道具は。何処かにないか。
ハンバーグがあったとして、それを食べるにはどうすればいいのだろう。今の私は、触手が無数に絡み合った化け物だ。
こんな状態で、ハンバーグを食べられるのだろうか。
疑念はわくが、それより体が動く方が先だ。手当たり次第に、荒野を這いずって、私の好物を探し求める。
歩く度に、荒野に地響きが走る。
ひび割れが出来る。
どうやら私は、相当に苛立っているらしい。そういえば。この夢、いや異世界に潜り込む直前も、ハンバーグを食べることが、全てに優先していた節がある。それの何が悪い。怒りのあまり、絶叫していた。
空にひび割れ。
あれは何だろう。
赤黒い空に、一点だけ、青い場所がある。丁度、赤黒い壁に、穴が開いて、空が見えているように。
私は其処へ進む。
触手を伸ばして、罅をこじ開けに掛かる。
向こうには、ハンバーグがあるのではないのか。この荒野と触手の世界ではないのなら、きっと生き物もたくさんいるはず。
それならば、そいつらをすりつぶして。
ハンバーグを作ろう。
繋ぎには、この体の一部を使えばいい。
肉は何だったら、人間だって構わない。とにかく今は、ハンバーグが食べたいのだ。というか、喰わせろ。
嗚呼、ハンバーグだ。
私は呻きながら、空の罅を、こじ開けた。
目が覚める。
人間の体。
ぼんやりとする意識。
目を擦って、気付く。また、手が少し小さくなっているかのようだ。カレンダーを見る。今度は半年ほど、経過していた。
鏡に身を映すと、やはりだ。
一センチ以上、背が縮んでいるとみて良い。このままだと、小学生にも背丈で負ける日が来るかも知れない。
嗚呼。
何だろう、あの渇望に満ちた夢は。
いや、夢なのだろうか。
どうもそうではないように、思えてならない。ただ、あのハンバーグに対する強烈な渇望は、きっと私自身である良い証明だ。
身繕いして、部屋を出る。
会社に連絡してみたが、不通だ。後輩に掛けてみると、すぐに出た。
「あ、先輩、おはようございます」
「おはよう」
仕事について聞くと、今日は有休を取ったじゃ無いかと、笑われた。
そうか、また有給を取ったという事にされているのか。正直どうでもいいが、問題はそこでは無い。
給料を確認。
やはりかなり増えている。貯金も、相当にある様子だ。
そういえば、この間、出世した。あの時からの給料を着実に貯め込んでいけば、このくらいにはなるか。
「そういえば先輩、またハンバーグを食べに行くんですか?」
「そうだな。 そのつもりだけれど」
「是非、お店を教えてください。 驕れとはいいませんから」
「考えておく」
というのも、店でばったり出会ったりしたら面倒だからだ。本当の穴場は、絶対に教えない。
スマホを切ると、ベットに潜り込む。
ハンバーグは食べたいのだが。
あの夢の事が気になる。
あの夢の中で、私はハンバーグなら何でもいいと思っていた。それこそ、人間が材料でも、だ。
本物の怪物の思考。
他人と接触するのが煩わしいのは、今でも変わらない。だが流石に、人間を喰おうとまでは思わない。
思えば、人間嫌いに急速に変化しているのも、あの夢を見るようになってからだ。
それに貴重な時間が、一年、半年と吹っ飛ぶのも、それはそれで問題が大きい。どうにかならないものか。
少し悩んだ据えに。
私は、心療内科に足を運んだ。何か、精神に問題があるのかも知れない。
医師はでっぷり太った、いかにも面倒くさげに此方を見る男だった。状態を説明すると、医師はふうんと鼻を鳴らした。
「で、僕にどうしろと?」
「いえ、もう結構です」
それなら、もうどうでもいい。
私は二度と医者にいかないと決めた。
3、肉を焼く
ちりちりと、油が肉から零れる。そして、フライパンの上で、熱せられる。
ハンバーグを作る時の良い香り。
有り余った金で、ハンバーグを作る。挽肉もとても良いものを準備した。なんと、挽肉作り機まで準備したのだ。
しばらく無心で、レシピを見ながらハンバーグを作る。
下ごしらえからあわせて三時間。
手間暇が掛かったハンバーグだ。
ようやくできあがったので、口に運ぶ。無心に食べていると、やがて気付く。このハンバーグ、ひょっとして。
黙々と、材料を確認。
間違っていない。国産牛の挽肉だ。
それも、相当に良い肉の。
ならば、この味はどういうことか。はっきりいって、美味しくない。いや、違う。少し前から、理解できはじめていた。
舌が、満足できなくなっている。
以前だったら、このハンバーグなら、充分に満足していた。しかし、どうしたことなのだろう。
今の私は、このハンバーグを、実に取るに足らない、大したものではないと捕らえている。
私というか、舌が。
こんな筈はない。
昔だったら、ほっぺが落ちそうだと評したほどのものだ。実際、美味しいと思える筈なのだ。
自分の料理の技量のほどなどはわきまえている。だから良いレシピを使って、材料も揃えた。
これ以上の品となると、それこそ万単位の金を要求してくるレストランにでもいかないと、食べられないはずだ。たとえば高級ホテルのレストランや、最初から一般人へ門を開いていない専門店など。
それなのに、この程度と感じてしまっている。
舌が病気なのか。
綺麗に食べ終える。だが、心は乾く一方だ。
ここしばらく、ハンバーグを自作することにこだわっている。前からそうだったのだが、今度は掛ける金が違っている。それに手間暇も。
それなのに、どうしてなのだろう。
手を掛ければ掛けるほど、ハンバーグが味気なくなっていく。
最近では、コンビニのハンバーグなどは、泥か何かを喰っているとさえ思えるようになってきていた。
どうして舌がこれほど肥えてしまったのか。
自分でも分からない。分かっているのは、このままでは、著しくまずい、という事だ。
少し前に引っ越した。
今のマンションは、壁も分厚く、隣の嬌声は飛び込んでこない。治安自体も、さほど悪くはない。
たまに近所で窃盗団の噂が出るが、それくらい。
それなのに、この満たされない有様は、どういうことか。
相談する相手などいない。
病院には行きたくない。以前医者に邪険にされたことは、未だに強い心の傷となって残っている。
自分は一体どうして、こんなに偏屈になってしまったのだろう。
休日を利用して、牧場にまで出かけた。
確実におかしくなっている自分の味覚をどうにかしておきたいと感じたからだ。多分、このままだと、私は発狂する。
元から楽しみが少ない人生だったのだ。
それなのに、唯一の楽しみまで、このようになってしまって。それで、今後をやっていけるはずがない。
首をくくるか、ビルから飛び降りるか。
或いは、電車に飛び込むか。
それ以外に、先が見通せない。本当に死ぬのは、目に見えていた。仕事が著しく順調だというのに、プライベートでは灰色の人生。このままでは、冗談抜きに、何もかもが終わってしまうだろう。
それで、いっそのこと。
肉の生の味を知り尽くしている人間の所に、話を聞こうと思って出かけてきたのだ。
畜産農家となると、流石に東京にはほぼいない。
今回選んだのは、北海道にある農場だ。
流石に飛行機代は痛かったが、それでもこのまま灰色の人生を送るくらいなら、なんぼマシである。
数万程度で改善が見込めるのであれば。
なお、事前に農場関係者とは話をした。
ネットで知り合って、メールのやりとりをした程度だが。どうやら、私のような人間は、決して珍しくないそうだ。
趣味が高じすぎて、こだわりがおかしな方向にこじれてしまう人間。
対処方法も、ある程度分かっているという。
だから、その牧場の評判をある程度調べた上で、わざわざ北海道まで一泊二日で出かけることにした。
土日が潰れてしまうが、仕方が無い。
他のOLみたいに、合コンに命を賭けているわけではない。私の場合は、ハンバーグがそれに相当するのだ。
飛行機の旅は、さほど時間も掛からず、終わった。
これなら、電車で遠出するよりも早いくらいかも知れない。
バスに乗り換えて、牧場のある方へ向かう。電車も使って、さほど時間を掛けずに、目的地に到着。
早朝に出て昼にはついた。
事前にメールで、待ち合わせの時間については相談してある。
目的の駅につくと、どうやらそれらしいのがいた。
私の名を呼ばれたので頷く。
「わ、もっと気むずかしそうな人を想像していたんですよ」
そういってにこにこ笑うのは、多分私よりもだいぶ若い女の子だ。高校を出て、即座に牧場を継いだのかも知れない。
田舎の子らしい、素朴な顔立ちと、私とどっこいどっこいの背丈。
ただし免許はとっているらしくて、ワゴンに言われるまま乗った。しばらくは、互いのパーソナリティを確認する会話を続ける。やがて、私が切り出す。
「私のような症状の人間が、他にも少なくないというのは、本当なのか」
「そうですよー。 多くは美食家気取りのお馬鹿なおじさまなんですけれど。 悲惨なのは、一つだけの趣味をこじらせちゃった人なんですよね」
「私のように、か」
「そうです」
はっきり言ってくれる。
ただ、今の場合は、そうしてくれないと困るのだ。
三つ編みをしている牧場の娘は、中古らしいワゴンを、あぶなげなく運転しながら、此方に話しかけてくる。
「この国は、私みたいな子供が言うのもなんですけれど。 世界的に見ても、美味しいものがあまりにも集まりすぎているんですよ。 みんなお金持ちという以上に、凝り性すぎるんです」
「そうなのかも知れないな」
「海外の駄菓子とか食べてみれば、分かりますよ。 この国のお菓子って、あまりにも美味しすぎるんです。 ふつうの料理だって同じ。 そりゃあ、国ごとに好みとかってありますけれど、それでもちょっとこの国の人は凝り性すぎるんですよ。 自分で作れないものでも、海外から最高のものを集めてしまいますから。 専門家に聞けば、どこの何々が一番美味しいなんて情報、すぐに出てくるでしょう?」
肉もそうだと、牧場の彼女は言う。
海外の牧場はとにかくビックスケールで、飼っている牛なども桁外れに多いという。その代わり世話はぞんざいで、味もどうしても劣ってしまう。
海外の客が、日本の高級ステーキ店に来て、人生観が変わったと言うことが珍しくないという話は、私も聞いたことがある。
こういう本職の人がいうならば、それは正しいのだろう。
「凝り性の国には、美味しい食べ物もたくさんありますけれど、この国は凝り性と経済力が合わさってしまって、それがこじれてしまっているんですよね。 だから本来の味が、忘れられる傾向にあるんです」
缶詰の話をされる。
海外の野菜缶詰では、虫は二匹まで入っていても問題ないとされるとか。
日本では考えられない話だが、それが普通なのだという。
色々とすごい。
牧場まで、飽きない話を、色々としてくれた。
ほどなく、牧場に着く。
まず消毒をするように言われた。厩舎などに入る場合は、消毒が必須だという。味を維持するには、それだけ神経質な環境が必要なのだとか。更に言うと、厩舎そのものには入れてくれないそうだ。
疫病感染の可能性もある。それだけ、神経質な環境で、家畜は飼われているのだ。もしも疫病が伝染した場合、畜舎の動物全てを殺処分しなくてはならない可能性もあるとか。それでは、安易に見せては貰えない。
流石に北海道は広い。
牧場に着いたが、とにかく何もかもが、桁外れの大きさだ。
此方にと、案内される。
パンフももらった。まあ、上手くいけばこんごお得意さんになるわけだから、当然の話だろう。
しばらく無心に歩き回る。
今は季節が過ごしやすいから良いものの、冬ではこれは大変だろう。膨大な雪の処理だけで、毎日が終わってしまうのではあるまいか。
「此処は観光牧場じゃないですから、お客さんを楽しませる工夫はあまりしていなくて、すみません」
「いや、充分」
案内された小さな家。
中で、お肉を出してくる牧場の娘。
牛をそのまま解体している訳では流石に無い。ただ、出てくるのは、この牧場で作った肉だという。
ハンバーグについてはかなり五月蠅い私だが。
見るからに分かる。グラムいくらの高級肉にも、そうそう劣るものではない。これが作りたての肉の強みか。
ただ、作っているのを見て、驚く。殆ど何も加えていないのだ。
「ちょっと、なんだよ。 肉に何もしないのか」
「何もしません」
「え……」
「こじらせる原因の一つが、変に手を加えすぎる事、だと思っていますから。 良いから、見ていてください。 これでもお肉は、五歳の頃から触っているんですから」
そう言われると、それ以上は何も出来ない。
ただ席について、台所で作られていくハンバーグを見るに留まった。
火が入る。
香ばしい。此処まで、鼻腔をくすぐる芳香が、届く。
席について、まだ待つのが、拷問に思えた。
「はい、できましたよ」
「香辛料もソースも、何もなしか」
「はい。 ご飯もなしです。 まあ、まずは食べてみてください」
驚かされるのは、繋ぎにもこの牧場の肉を使っているらしい、という事だ。
何もかもが、此処で賄われている。賄われていないのは、ガスくらいだろうか。もしそうだとすれば、すごい。
新鮮なのも当然だろう。
ナイフを入れて切り分ける。肉がとても軟らかい。高級店のものと比べても、まるで遜色がない。
口に入れてみて、驚いた。
なるほど、これが。
肉の、生の味なのか。
「そうか、これが、肉か」
「そうです。 新鮮なお肉って、こういう味なんですよ。 ハンバーグにこだわり過ぎると、それを忘れてしまう事があるんです」
手が止まらない。
しばらく無心で口に入れてしまった。
それから、ご飯と、改めてハンバーグを出される。
これほどがっついたのは、いつぶりだったのだろう。二食目も食べてしまってから、何となく、今までの不幸が、分かってきた。
「あまりにも多くのハンバーグを食べてきたから、却ってこじれていたんだな。 肉の味を忘れていた」
「そう言う人、多いんですよ。 ステーキが好きって言う人にも、同じような事を言う人がいますから」
「……ありがとう。 来て良かったよ」
「これからもごひいきに願います」
パンフは大事に取っておこう。
ただ、幾つか、思うところもあった。
ワゴンで駅まで送ってもらいながら、色々と話す。
「あの肉の味は、どうやって作っているんだ? 普通の牛だと、彼処まで濃厚な味は作れないだろう」
「手間暇と愛情ですよ」
「餌は特別ではないのか?」
「勿論それは色々と企業秘密ですけれど。 思っているほど、不思議な餌は与えていないです」
それは、そうか。
良く言う母乳を与えて育てたブタとか、異様な食材を与えた家畜が美味いという噂があるが。あれは疑わしいと、私は思っている。
これでもいろいろな食材のハンバーグを食べてきたから、分かるのだ。
家畜の味は、野生動物のそれよりずっと上。
何世代も掛けて、味を調整してきたから当然だろう。
「私は、どうすれば良いんだろう」
「ええと……」
貴方は、あまりにも、ハンバーグを知りすぎているのだと、牧場の娘は言う。
だからこそに、初心に返るべきだと。
確かにそうかも知れない。
ならば、これからは懲りすぎない方が良いのだろうか。しかし、実際問題、まずいハンバーグをまずいと思うのは事実なのだ。
どう工夫すれば良いのだろう。
此処の肉が美味しいのは同意だが、取り寄せるとなるとかなり高い。いっそ、レシピなんかにこだわらず、最初からハンバーグを作る事だけを考えて見ようか。
それも良いかもしれない。
駅で挨拶をして、分かれる。
北海道に来たとは言え、別に腹が減っているわけでもない。目的のものは食べたし、もう充分だ。
そのまま飛行機に乗って、家に帰る。
収穫はあった。
だが、解決策はまだ見つかった訳では無い。
夢を見た。
やはり、あの夢だ。
青い空を引き裂いて、その向こうの世界に首を突っ込む私。やはり、其処に広がっていたのは、夢の外の世界。
つまり、私が暮らす世界だ。
悲鳴を上げて逃げ惑う人間共。
まずそうだ。
牧場に行きたい。
動物を捕まえて、まとめて焼いて、ハンバーグにするのだ。
人間共を薙ぎ払いながら進む。軍隊も何も関係無い。出てきた奴は、片っ端から蹴散らして進んだ。
ミサイルも怖くない。銃弾も痛くない。
ハンバーグ。
ハンバーグを食わせろ。
ぶつぶつ呟きながら、進む。やがて、海が見えてきた。良い牧場へ行くには、海を渡るべきか。
其処で、気付く。
もうどうでもいい。
人間でも、材料にしてしまえばいいではないか。
手当たり次第に、人間を捕まえる。そして、生のまま、むしゃむしゃ食べた。肉の味がする。
金属の味も。
人間はやはりまずい。噂には聞いていたが、あまり美味しいものではない。だが、ハンバーグは食いたいのだ。
いや、そうではない。
牧場へ行って気付いた。私は、ハンバーグも好きだが。
それ以上に、肉の味を、楽しみたかったのではないのか。それでは、野菜と相性が悪いわけだ。
でも、どうしてだろう。
ステーキを食べていて、美味しいとは思えないのだ。
ハンバーグがどうして好きなのか。それには、まだ理由があるのではないのか。
広がっていく私の体。
地球上の生物全部を貪り喰らっていく。微生物さえも喰らいながら、思うのだ。ハンバーグではない。
生の肉の味は好きだけれど。
やはり、ハンバーグが一番なのだ。
しかしこの体では、料理できるほど、器用ではない。
そうか。
やはり、人間の体でなければ、駄目なのだろうか。そうだとすると、この夢は何だろう。
抑圧された私の意識なのか。
しかし、夢にしては妙にリアルだ。これは、私の。願望なのか。ハンバーグのために世界を蹂躙することが、そうなのか。
だとすれば笑えない。
笑えないほどに滑稽で、そして幼稚な夢だ。
気付く。
飛行機は、終点についていた。
今までの、異形の夢を見たときと、時間の経過が違う。以前は一年もの時間が飛んだというのに。
パンフはしっかり握りしめていた。
私は一体、何がしたいのだろう。
あの夢は願望か。確かに会社でろくな目にあってこなかったと言え。高校でも、ずっと孤独だったとはいえ。カレシは誰も彼も、私の孤独を埋めてはくれなかった。
本当にそうか。夢の後、何もかもが上手く行くようになったのも、本当に偶然か。やはりあれは、願望の形か。
気になってスマホを見てみる。
案の定、訳が分からない怪物が人を食いまくっている、というようなニュースはない。取り越し苦労か。それならば、良いのだけれど。
美味しいハンバーグを食べる事が出来たのに。
どうして、こうも不安で心が冷えているのだろう。
私がこじらせているのは、本当にハンバーグへのこだわりだけか。それ以外にも、何か強烈な鬱屈があるのではないのか。
自宅に戻る。
孤独の家。
一応此処ではペットもオッケーという事にはなっているが。猫やら犬やらを飼うのは、あまり気が進まない。
ベットに転がる。
達成感はない。
どうして私は、こんなに冷えているんだろう。それが、どうしても、分からない。
4、美味しくハンバーグを食べる
子供が泣いている。
私は傘を差して歩いていたが、それには目もくれなかった。今の時代、よその子供に関わっても、良いことなど一つも無いのだから。
ただ歩いていたと言うだけで、通報される時代である。
子供に声なんて掛けたら、その場で刑務所行きにされてもおかしくない。私が女でも、それは同じだ。
雨が、少しずつ強くなってきた。
狭い路を、少し歩く速度を上げて行く。車が水たまりをはねるようになってきた。下手をすると、ぐしょ濡れになるだろう。
狭い路も、暗い道も、怖いと思った事は無い。
体が小さい私は、昔から痴漢にも変質者にも狙われたことはなかった。隣に立っていたOLが痴漢に酷い目に遭わされているのを横目に、大変だなと思っていた事もある。助け船をだしてやろうかと思ったのだが、トラブルに巻き込まれるのが嫌だった。
私は超人でもなければ、勇気だって無い。
行動力も。
アパートに着くと、傘を乱暴にふって、雨水を落とす。
仕事は上手く行った。
相変わらず、何もかもが寒いままだが。私は一体、どこへ向かっているのだろう。
宅配が届く。
少し前に行った、例の牧場からの肉だ。すぐに調理して、ハンバーグにする。分かったことは、あまり手を加えないハンバーグが一番、という事か。すぐにご飯のお供にして食べてしまう。
しばらく茫洋として過ごした。
雨の音が凄い。
このままだと、場所によっては洪水になるかも知れない。あの泣いていた子供は、親に見つけられただろうか。
そのまま死体になったら、都会の闇とか報道されるのだろうか。
あほらしい。
闇を作ったのは、自分たちのくせに。
いや、大人になった今は、私にも責任があるか。そんな腐ったものを放置してきたのだから。
笑いが零れる。
自分のクズぶりが、面白くて仕方が無い。
そうとも。
結局の所、私はクズだ。
仕事が出来ようが、関係無い。ベットの上で何度か寝返りを打つ。外では、凄まじい雨の音が、車が行き交う音までもかき消していた。
このまま、ただ年老いていくのだろうか。
だとすれば、何なのだろう。
息をして、飯を食い、服を着るだけの生物。仕事はそれを支えるためだけのもの。何だかむなしい響きだ。
ハンバーグは好き。
だが、それを会社で、少なくとも表に出すことは出来ない。
子供っぽい趣味なんて、口にしてみれば、その時点で終わりだ。がんじがらめにされたコミュニティの中で、死が確定する。
結局今はそこそこ裕福だが。
その代わりに、どうしてこうも生きづらい。
私はひょっとして、海の底にでもいるのではないのか。此処まで生きにくい社会は、誰が作ったのだろう。
せっかく美味しいハンバーグを食べる事が出来たのに。
まるで、達成感がない。
後輩から、声を掛けられたのは、その数日後。
ボランティアを、後輩がやっているらしい。
私に、料理を出来るかと、後輩は聞いてくる。プロにはなれないが、そこそこにはと応えた。
これについては、事実だ。
ハンバーグばかり食べているわけにもいかないから、他の料理も作る。それを繰り返しているうちに、そこそこに料理の腕がついたのだ。高校時代から、自炊くらいは出来る腕前はあった。
はて。
そうだったか。
後輩が目を輝かせる。
「それだけで充分ですよ! 今の女の子って、料理出来ない人、多いですから!」
「で、料理がなんだ」
「ボランティアで、孤児院行くんですけど。 其処で、料理作って貰えないですか?」
「……はあ?」
勿論、ボランティアだから、金なんか出ない。
ただし今の時代、ボランティアは風当たりが強い。今までボランティアの美名の元に、好き勝手をして来た連中がいて、その悪行が表に出始めたからだ。故に、色々と切り詰めないといけないらしい。
「確か先輩、カレシいないですよね? 今度の休日、開いていないですか?」
「カレシがいない事と今度の休日が開いていることが、どうつながる」
「暇かなって」
「暇は暇だがな。 それこそ、お前こそどうなんだ」
後輩は確か、今年だけで三人目のカレシを振ったはずだ。
つきあいが激しい奴だと、それくらいは普通である。別に後輩が、飛び抜けて多情という事は無い。
「今は独り身ですよ。 というか、ボランティアは高校から続けてますから、カレシいてもソッチが優先です」
「へえ……」
「何ですかもう。 私、子供が好きなんです」
好きなのは、子供が出来ないように、子供を作る事じゃないのかと、内心で毒づいたが、別にもうどうでもいい。
私が男日照りなのと暇なのは、あまり関係がないと言いたいが。実際には、関係はあるだろう。
そんな事は、内心ではなくても、分かってはいる。
仕事は出来るようになったけれど。
どうせこのままでは、死ぬまで独身だ。
まあどうせ暇だし、気分転換にはいい。
次の日曜日、孤児院に出ることにした。
そうして、孤児院に出向く。孤児院の表札には何だか前向きな名前が書かれていたが、こういう所は、あまり美しくない事情に彩られていることくらい、私だって知っている。
当然のことで、一番難しい年頃の子供達を、親でもない人間が世話しなければならないのである。
実の親でも難しい事を、こなすことが如何に大変か。
実際問題、殺伐とした環境である事も、覚悟していたが。
幸い、この孤児院は、比較的子供達もおとなしいようだった。
ただし、人なつっこく、寄って来る子供もまたいない。現代社会でも、親から引き離される子供はいる。
露骨に大人に対して、恐怖の視線を向けている子供もいた。
酷い虐待でも受けたのか、或いは犯罪にでも巻き込まれたのか。いずれにしても、将来は薄闇の向こうだろう。
「先輩、への字になってますよ」
「私はいつもこうだ」
「にこっとしましょうよ。 ただでさえ、難しい子供達なんですから」
「そういうのは、得意な奴がやれ」
私に出来るのは、愛想笑いくらいだ。それも、上手とは言いがたい。そもそも私は、料理要員としてここに来たのだが。
台所を見せてもらう。
年上の子供達は、料理も担当しているらしい。
そこそこに整備されている台所だ。プロほどではないが、一応料理はしているから、ざっと状態を確認する。
何人かの子供が、こっちを見ていた。
どう考えても、好意的な視線ではない。縄張りに入ってこられた猫が、敵を見る目だ。
ボランティア側で用意された材料を確認。
ざっと見るが、まあ普通のハンバーグしか作れないだろう。手を洗って、エプロンを着けて。マスクもする。
「わ、先輩、まるで小学校の給食みたいですね! ちっちゃくて可愛いですし!」
「死んでろ」
「その愛想がない所がまた可愛いなあ。 私はあっちの子達に、紙芝居してきます」
嘆息すると、早速調理に掛かる。
挽肉にざっと塩こしょうをまぶし、下ごしらえ開始。本当だったら、もう少し早くから来ておきたかったのだが。まあ、他のボランティアより先に来て、不審者扱いされてつまみ出されても面倒だ。
フライパンはかなり使い古されていた。
子供の数を確認して、てきぱきと作業を進める。下ごしらえを済ませた肉から、順番に成形していった。
紙芝居を、向こうでははじめている。
後輩はそれは嬉しそうな笑顔で、膝を抱えて座っている低学年の子供達に、紙芝居を振る舞っていた。
今時紙芝居やら人形劇があるのも驚きだが。
考えて見れば、幼い子供に分かり易いのは、こういうものか。テレビアニメがどこでも見られるようになっている今でも、それは変わらないのだろう。
少し年かさの子供達は、無言で作業を手伝っている。
「手伝いましょうか」
見上げているのは、高校生になるかならないか、という年頃の女の子だ。
私は背が低いので、さっきから作業台を使っていて。それで、見上げられる形になった。しばらく無言で見ていたが、向こうから更に言う。
「お料理は達者みたいですけれど、運んだりするのは大変じゃありませんか? 運びますよ」
「別に料理だって上手じゃない。 ただ、運んでくれるなら、好きにしてくれ」
「分かりました」
ハンバーグに火を入れはじめる。
火加減には好みがあるが、元々柔らかい挽肉なので、ちょっと間違えるとすぐに中が生になってしまう。
料理にはセンスがある。
私は、好きなハンバーグについては、的確な火加減で焼くことが出来るけれど。興味が無い他の料理は、どうしてもおざなりになる。
そういえば、そもそも以前はこれ、ろくに出来もしなかったか。やはり何かがおかしいのだろう。
ご飯は炊けたので、炊飯器を持っていって貰う。
どちらかといえば華奢な体なのに、平然と持っていく孤児院の子達。心に壁を創っているのが、一目で分かる。
私も同じようなものか。
サラダが出来たので、運ばせる。
後はスープか。
子供は野菜嫌いな場合も多い。だから、好まれることが多いポタージュにしてある。レトルトの奴も最近は美味しくなってきているが、此処に一工夫。生クリームを入れると、かなり美味しくなる。
これらも、ハンバーグの添え物として、研究してきた結果だ。
正直な話ポタージュも邪魔だと思っているのだが。周囲はそうは考えないだろうし、子供はポタージュが好きだ。
ポタージュも出来たので、持っていかせる。
後はハンバーグ。
焼き上がったのを、順番に持っていかせる。
できる限り短時間で焼き上げなければならないのは、当然の話。冷めてしまうと、味がだいぶ落ちる。
黙々と作業をこなしている内に。
だいたいの作業は終わった。
紙芝居も、丁度良い具合に終わっている。最後のハンバーグを運んでいるのを横目に、私は片付けをはじめた。
台所を綺麗に掃除し終えると、丁度子供達がハンバーグを食べ終えたところだった。
今回はミキサーやそのほかのハンディ機具も持ち込んで作業をしていたが。それらもさっさと洗ってしまう。
品が良さそうな院長と、ボランティアのリーダが話をしている。
だが、私には関係無い。
作業を終わらせると、自分の肩を揉んだ。
大勢のためにハンバーグを作る事になるとは思わなかった。思ったより、ずっと肩が凝るものだ。
さっき、料理を運びに来た子供が、こっちに来るのが見える。
何だ、文句でも言いに来たのか。
作業台を運んで、ワゴンに積んでいる私に、横から話しかけてくる。
「有り難うございました。 普段の奴より、ずっとずっと美味しかったです。 小さな子達も、みんな喜んでいました」
「お世辞はいい」
「いえ、本当です。 ハンバーグ、特に美味しかった。 お店の奴より、美味しかったと、私は思います」
そんな風に言われたのははじめてか。
それはそうだろう。ずっと自分のためだけに、作ってきたのだから。もう一度礼をすると、女の子は他の子達の方へ戻っていった。
しばらく頭を掻き回していたが。私はあの子を呼び止める。
「レシピ」
「はい?」
「レシピがあれば、誰にだって作れる。 今から言うから、メモして」
頷いた女の子が、ノートを取ってくる。
何十回も作ったハンバーグだ。
レシピくらい、空で暗誦できる。
そういえば、其処まで出来るようになったのは、いつからだろう。牧場から、帰ってからだろうか。
「今の、暗記しているんですか?」
「そうだ」
応えると、何とも言えない顔をされた。
嬉しかったのだろうか。
いや、そうとは思えない。よくある、みんなでご飯を食べたら、というのも違う気がする。
これでもしも、乾きが癒えるようだったら。男でも作るのはありだったかも知れないのだが。
少なくとも私という偏屈ものには、皆で食べれば美味しいとか、食べて貰えれば幸せとか、そういった事は無いようだった。
帰りのワゴンで、後輩がジュースをくれる。
ボランティアだから、ささやかな礼、という奴だ。
「先輩、終始への字でしたね」
「いつもそうだろうが」
「子供達、可愛くなかったですか?」
「だからお前は、男をとっかえひっかえしているのか」
流石にそこまで言われると、面の皮が厚い此奴でも怒るかと思ったが。しかし、予想を超える面の皮の厚さだった。
後輩は、相変わらずのへらへらぶりである。
「それもありますね。 一緒に子供育てられそうな人、探すの楽しいですから。 先輩は、そうじゃないんですか?」
「あいにくだが、私の背丈とツラじゃ、男なんか寄ってこんわ」
「そうですかね? 可愛いと思いますけど」
「余計なおべっかは不快なだけだ」
他のボランティア参加者も、話に乗ってくる。
私が作ったハンバーグは、好評だったとか。
ハンバーグ以外の料理も、美味しかったとか。
此奴ら、子供と一緒に食べていたのか。
「普通にプロになれますよ。 今度別の孤児院に行くときも、来て欲しいんですけれど、いいですか?」
「考えておく」
「子供達って正直ですから、きっと感謝してくれます。 今回はありきたりの材料しかなかったですけれど、あれだけ美味しいのが作れるんだったら、多少相談にも乗りますよ」
「そうしてくれ」
実際、市販の安い材料だと、あれが限界だろう。
それにしても、プロになれる、か。
肉の味を忘れて、趣味をこじらせていた私が、そんな風に言われるとは思わなかった。結局、私の乾きは、癒やされない。
だが、子供達に感謝されて。
今、プロになれると言われて。
何か、見えてきた気がした。
結局私が選んだのは、ネットの動画サイトを利用しての配信だった。
レシピサイトなんかはそれこそいくらでもある。私だって、利用していたくらいなのだから。
だから、美味しいハンバーグについての作り方を、直撮りで配信してみたのだ。自分の顔は加工して。
そうしたら、意外な反響があった。
一番閉口したのは、私が小学生か聞いてくるユーザーだった。私は努めて声を低くして作業をしていたのだけれど。
背丈から、そう判断しているらしい。
何回目かの動画で、社会人だと言ったら、wとか大量に画面中に書き込まれた。意味が分からない。
とりあえず、反響については、ある程度そういうものだと思って諦めた。
手持ちのレシピというか、頭の中にあるものは、現在では相応の数がある。動画におこしていっても、それなりに作る事が出来る。
音楽を付けようかとか、画像を加工しようかとか、言ってくるものも現れたが、適当に相手をしておいた。
今日も動画を作るが、分からない事も多い。
あの夢は、結局何だったのだろう。
最初にあの妙な夢を見たとき、一年。
二回目には、半年。
時が飛んだ。
その時、私は明らかな変調をきたした。その間の記憶もないし、何より能力が大きく変わった。
あの前の私だったら、ハンバーグをこんなに美味しく作る事は、出来なかっただろう。何があの時あったのか、今でも私には分からない。
そうして動画を配信していると、妙なコメントがついた。
「ハンバーグが好きなんて、子供みたいですね」
「好きで悪いか」
ぼやくと、そいつがまた動画にコメントを入れてくる。しかも、私がコメントを確認しているときに、ピンポイントで、だ。
気味が悪い。
「私も、よくそう言われました。 でも、結局好き止まりで、此処までこだわることはできませんでしたけれど」
「私も前はそうだった」
「何だか貴方は、私に似ていますね」
「ああ、そうだな」
実際には、会話などはしていない。
相手のコメントに対して、リアルで呟いているだけだ。
おかしいと感じたのは、此処からである。
「貴方は、変な夢を見た事がありませんか? 黒い触手が、荒野でたくさん蠢いていて、それが自分だと分かる夢。 そして、此方の世界に来て、暴れる夢です」
「……!」
「私、その夢を見てから、妙に自分の能力が落ちたような気がするんですよ。 背は少し伸びましたけれど」
どういうことだ。
そうしたら、同じようなコメントを入れてきた奴がいる。
「私もそんな夢を見ました。 奇遇ですね。 それ以来、仕事も男関係も、上手く行きません。 ハンバーグも、あまり上手に作れなくなりました」
「あら、それは面白い。 うぷ主さんはどうなんでしょうね」
「きっと同じ夢を見ているはずですよ」
他の連中も、この異様な状態に気づきはじめた。
電波とか、頭おかしいとか色々笑っているけれど。私は、体の芯から震えが来るのを、感じ始めていた。
どういうことだ。
更に、コメントが来る。また別の奴からだ。
「私も同じような夢を見ています。 変な話なんですが、この夢を見てから、どうも子供が嫌いになったみたいでして。 ハンバーグ以外に、興味がなくなっちゃったようなんですよねえ」
「あら、こんな所に、同じ夢を見た人が、三人も」
「いやあ、うぷ主さんを入れれば、きっと四人でしょう」
「てか、見ているんでしょう? 会話しましょうよ」
流石にコメントの更新を控えた。
だが、その後も、現実の侵食はとまらない。自分宛のメールに、不意に届く文章。
「貴方には、趣味をかなえる能力を与えた」
いきなり何だ。
頭が混乱してくる。
「だが貴方は、とても欲張りだ。 三人も介して、貴方の能力を向上させたのに、嬉しそうには一切していない。 貴方は何が望みだ」
アドレスは、どこから。
見た事も無いアドレスだ。それも、一回ごとに変えてきている。あまりにも悪趣味すぎるやり口だ。
スマホの電源を切る。
そうすると。
今度は、ドアをノックする音。
郵便が投函される。あり得る話ではない。今は夜中だ。
パソコンを落とす。
手紙なんて、怖くて見られるはずが無い。窓は雨戸を掛けている。覗かれる畏れなんて、無い筈だ。
何を心配している。此処は四階だぞ。
毛布を被って震える私を笑うように、ドアのノックは続いた。それも、早朝まで。ドアを見に行くと、手紙が山と投函されている。怖くて、中を見ることなんて出来ない。封筒には、数字が書かれていた。
警察に電話するべきだろう。
そう思ったが。家電はない。スマホを起動するしかない。
起動すると、一気に大量のメールが流し込まれてきた。
震える指で、警察を呼ぶ。
だが、思い知らされる。滅多な事では、警察は動かないのだと。異常事態だと告げて、非常に面倒くさそうに、警察署まで来いとか言われて。私はキレた。
「変質者がドアの外にいる! さっさと働け公僕!」
やっと警察が動く。
その間も、スマホには、メールが着続けているようだった。
しばらくして、やっと警察が来た。
ドアの外には誰もいなかったと言うことだが。膨大な量の手紙を見て、流石に異常事態と気付いたのだろう。
証拠品として、手紙を押収していった。
一応、巡回の警官も、手配すると言うことだった。だが、その程度で、用を為すのだろうか。
ストーキングされる覚えはない。
ネットでは動画をアップする以外、ほぼ他者とは関係を持たずに来た。コメントに対しても、最小限しか返さなかった。そんな私の住所を特定し、これだけの事をしてくるなんて。相手はいわゆるウィザード級のハッカーか。
会社を、休むことにする。風邪を引いたと言って、それでおしまい。
スマホのメールを、まとめて消そうと思ったのだが。その時、新しくメールが来る。
「脅かしすぎたかな?」
「……」
此方は、あまりにも怖くて、会社まで休んだほどなのに。まるでちょっとした悪戯をした子供か何かのよう。
腹立たしくて、それ以上なにも言う気になれなかった。
「君は、どうしてそんなに乾いている。 その異様な乾きが、夢の世界と言われる場所を通じて、他の人との能力交換という異常事態を引き起こしたのは、理解できているのかな」
「知るか……」
「君は他の人の能力を奪い取った。 ハンバーグを美味しく食べたいという渇望一つのために」
言われて見れば、納得できる。
あの変な夢を見てから、自身の能力は露骨に向上した。ハンバーグが好きだという思いだけが変わらなかった。
背は縮んだが、それは何故だろうと思っていた。
他の人間とすり替わっていたのだとすれば、納得も行く。
「君はハンバーグを好きなばかりに、知らずに多くの人達を踏みにじっていたのさ。 にも関わらず、好き勝手なことを言い続けていた。 だから、踏みにじられた人達と、ちょっと縁をつなげてみた」
「あんたは、何者だ」
メールを、送り返してみる。
すぐに返事があった。
「荒野の主。 外の宇宙から来た者」
「あの訳が分からない夢の世界の住人とでもいうつもりか」
「あそこにいた黒い触手の塊は、人の夢だ。 あちこちで、強い夢に引き寄せられるようにして、集まる。 そして強い夢がある程度指向性を持つと、此方の世界にはみ出してきて、他の人にも影響を与える。 昔はしょっちゅうあったのだけれど、最近は珍しくてねえ」
黒い触手を襲う者達は、それを防止するための存在だったのだと、訳が分からない奴は言った。
そうか。
私は、夢の世界の主に逆らってまで、夢を叶えたのか。
それなのに。
「君は渇いている。 それが、その渇望の源泉ではないのかと、私は思う」
「何だよそれ……」
「君を放置してみたのは、夢を馬鹿にする傾向が強い現在人としては、例外的な存在だったからだ。 夢を馬鹿にする周囲に壁を造りながら、それでも自分の好きを大事にしている。 それではっきり分かったが、夢の世界を賑やかにするには、とにかく世界を渇かせる方が良いみたいだね」
ふつりと、メールが途切れた。
そして、今までたくさん来ていたメールも、いつの間にか、全て消え失せていた。
慌てて、アップロードした動画も確認する。
あの奇怪な会話も、残っていない。
ただし、会話があった事を彷彿とさせる痕跡は、彼方此方にあった。
運営に消されたのではないのか。
ストーカーじみて怖かったし。
私をちゃんづけしながら、大丈夫かと聞いているコメントもあった。
念のため、警察に掛けてみる。
そうすると、案の定だった。あれほど来ていた手紙が、全て煙のように消えてしまったというのだ。
それでようやく、警察は本腰を入れて調査してくれると言い出したのだが。
もう、何もかもが、遅い気がした。
動画の方のログも解析してくれると警察は言っていたけれど。案の定、後日。何も痕跡は見つからなかったと、知らされただけだった。
それから、世界の情勢は急激に悪化していった。
世界各地の紛争はうなぎ登りに増え、先進国でも治安は目に見えて悪化の一途をたどっていった。
そんな中、私の改良していったハンバーグレシピは、彼方此方で絶賛された。噂によると、一流店でさえ、私のレシピを商品に取り入れているものまであるとか。テレビ出演を打診されたこともある。断った。雑誌に取材を受けたこともある。顔を出さないという条件で、ちょっとだけ話を聞いてやった。
こんな形で、私が認められるなんて。幼い頃は、ずっと考える事が出来なかった。
だが、私の乾きは続いている。
あの正体不明な存在の言っていたことは、現実になり、今でも続いているという事だ。
お金はある。
二年前に寿退社した。夫はある事情から見合いをして、知り合った男。
いわゆる年に一千万稼いでくる男だが。この手の花形社員につきまとう噂通り、夜帰ってきても夫婦の営みをする体力も残っていない。
風呂に入って、寝るだけの生活。
無理もない。毎日日付が変わってから帰ってきて、日が昇る前に出て行くのだから。
その代わり、私が使える金は腐るほどある。
どうせ夫婦の営みは苦痛なだけだから、それでも別に私は構わない。家事だけこなして、後はハンバーグのことだけ考えて見れば良かった。私は専業主婦になって、今では悠々自適だ。
そして、あの夢の世界の支配者とやらが言うように。
何一つ満たされていない。
夢をかなえた代償。
夢の代わりに、多くの人々の能力を奪った故の結末、なのだろう。
最近、寿退社した会社の後輩と出会った。
久しぶりに顔を合わせたので、喫茶に入って軽く茶をすることにする。相変わら後輩は、男をとっかえひっかえしているようだ。
奴に言われて、驚いたことがある。
「先輩、への字じゃなくなりましたね」
鏡を見ると、納得がいった。
ウェディングドレスを着込んだ写真でさえへの字だった私なのに。いつのまにか、逆への字に、口元を結んでいた。
それなのに、この乾きはいかなる事なのだろう。
「ホスト遊びでもやってみます? 何しろお客商売ですから、先輩をひたすら褒めて、とにかく良い気分にしてくれますよ? まあ、気をつけないと、おしりの毛までむしられちゃいますけど」
「興味が無い」
「じゃ、養子取ってみますか? 先輩はお金も暇もあって、お料理も出来る。 その幸せを、他の人にも分けてあげて欲しいです。 特に恵まれない子供達に」
「……養子、か」
どうせ夫と子が出来る見込みはない。
というよりも、夫の様子からして、あと十年もしないうちに未亡人確定だろう。全身は病巣まみれで、なおかつ医者に行く暇も無いのだ。目に見えて体調が悪くなっているのは、素人である私からも確定事項だ。月あたり休みは二日程度しかなく、その二日も家でずっと寝ている。新婚旅行のあと、夫婦の営みは片手の指に足りないほどしかしていない。
忠誠心は放って置いても得られると本気で思っている会社が、極限までこき使って、使い潰す気満々なのだから、夫がこんな有様なのも当然。
夫が死ぬまでに、貯蓄は億を超える。
それならば、子供を育てることも、不可能ではないか。
もっとも、私に育てられたら、さぞや子供は歪んだ性格を形成することだろう。それに父親は顔も殆ど見せないと言うことになる。
それはそれで、面白い。
「分かった。 夫とは話してみる。 もっとも、あーとかうーとかしか言わないだろうけどな」
「ゾンビみたいですね」
「この国じゃ、真面目な人間はゴミ扱いされるか、ゾンビにされるんだよ」
金を私が出してやる。
外に出ると、スマホに緊急ニュースが飛び込んできた。
何処かの国で、核兵器を用いたテロが行われたらしい。死者は百万を超えると言うことだった。
いつ、死んでも分からない世の中。
私は、それでも。
好きなものを好きだと、言い続けたかった。
美味しいハンバーグが、食べたい。
(終)
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