絶対たる壁
序、攻略不可能
世界のルールが書き換わり始める。
一瞬にてアジア全域を制圧した田原坂麟による、世界の改変が始まったのだ。
雑多なアジアが、秩序の世界に切り替わり。
総生産態勢が開始される。
役人が最初に全て制圧され。
続けて会社。
そして、普通に暮らしている人々までもが。圧倒的かつ暴力的な支配力によって、ねじ伏せられていった。
血は一切流れず。
洗脳されたわけでもなく。
「従った」のである。
どうにか逃げ延びてきた田奈からそれを聞かされたわたし陽菜乃は、大きなため息をつくしか無かった。
前から、田奈に聞かされてはいた。
この能力の正体が、観測だと。
世界の覇者たる存在達が、観測したことによって生じる世界の改変。それが古代生物能力者達が振るっている力の正体。
だけれども。
観測そのものが能力だとすると。
四億年以上前から栄えていた種族である、完成度で言うと生物界屈指の存在である鮫が。観測した事による変化は。
圧倒的過ぎて、もはやどうにもならないだろう。
そして、こんな異常な能力者が現れていると言うことは。
恐らく、世界の根元。
わたし達に力を与えた、古代生物たちの意識の渦は。
何か考えを変えたのだ。
古代生物の能力者達は、世界をダイナミックに変えてきた。それでも、彼らは満足しなかったのか。
或いは、もっと別の理由か。
田奈は、相当に強力な能力を使ったようだけれど。
相手に与えたダメージはゼロ。
少し考えたいと言って、セーフハウスの一つに引き揚げて行った。
田奈は強い。
オルガナイザーとして現役で活躍していた頃だって強かったけれど。今では、世界最強の一人に入る。
わたしだって、もしやり合うつもりなら、死を覚悟しなければならないほどの手練れなのに。
その総力攻撃が、ノーダメージとなると。
事前に田奈が言っていた通り。
本当に勝率は、現時点ではゼロだ。
しかも、日本政府どころか、アジア全域が敵の手に落ちたとみるべき現状。加速度的に戦況は悪くなっている。
すぐに幹部に招集を掛けるけれど。
やはり、応答しない奴がいた。
エンドセラス陣営では、メガテウシスが行方不明になっていると言う。
何しろあの影響力だ。
実際に姿を見なくても、屈服してしまう奴は出てくるのだろう。しかも、弱めの能力者になると、もうどうしようもない。
わたしでさえ危なかったのだ。
どうすれば、この状況を覆せる。
テレビに、ついに麟が顔見せしたという。
見ると危ないので、まだ連絡が取れている能力者には、絶対に見ないように釘を刺す。その上で、自分では見た。
確かに、何処かの美の女神かと言うほどの姿だ。
着込んでいるのも、古代ギリシャ風のトーガ。
それでいながら、その美貌は。
現在人からみても、あまりにも超絶的だ。
美の感覚なんて、時代によって幾らでも変わるのに、である。
「支配を受け入れよ」
テレビに出た麟は、それだけを告げた。
その言葉だけで。
わたしは、がつんと殴られたような衝撃を受ける。言葉だけで、圧倒的な制圧力を有しているのだ。
これは、見るだけで狂気を発する神と、何ら変わらない。
力の差が絶望的すぎる。
ティランノサウルスと言えば、最強の肉食恐竜として、君臨した存在だというのに。
四億年以上海で繁栄し続けた、究極の魚を前にすると。
こうも力の差を感じさせられるのか。
呼吸を整える。
エンドセラスから連絡が来た。
今の放送、衛星放送で世界中に流されたらしいのだけれど。うっかりネット配信などで見てしまった人間が、多数支配下に置かれてしまったという。
それだけではない。
「米国政府の閣僚の大半が、麟に従う声明を出している。 殆どのパワーエリートもだ」
「は……」
「アジア圏全部の人間の、観測する力を利用したんだろう。 正直な話、圧倒的過ぎてどうやって接すれば良いのかさえも分からないな」
「……少し考えさせてください」
通話を切る。
そうか、事実上米国も陥落したか。
この様子だと、EUやロシアも危ないだろう。特にEUは、今内情が大混乱している。アジア圏が一日で問題の大半を解決したという話を聞いたら。自意識がなくなるのを承知で、膝を屈する政府が出てくるかも知れない。
これはどうしようもない。
田奈でさえ、いつまで意識がもつか。
「一瞬で、人類の半分が落ちたと見て良いかな」
呟く。
わたしは、正直な話。
此処まで無体な相手を目の前にしたことが無い。
ティランノサウルスの能力は、最初からかなり強かった、という事もある。
だから、どれほど強い相手でも。
何とか手を見つけられた。
だが、今回は違う。
蟻がドラゴンと戦うようなものだ。
そして、このドラゴンは。
今後更に強くなることが、確実なのだ。
一度日本を離れるか。
しかし、だからといって、何処へ行くのか。アジア全域を抑えられ、恐らく相手がその気になれば、数日で世界を陥落させるだろう。
それも武力無しで。
歴史上初めての事態である。
その結果、究極とも言えるディストピアが誕生する。
人間はその能力に合わせて動くようになり。それを完璧絶対たる、世界のあらゆる生物の意思の権化たる麟が制御する。
地球人類は、一気に技術を発展させ。
宇宙進出を果たす可能性もある。
その後の地球人類は。
恐らくは、群体生物と化すだろう。
蟻や、蜂のような。
全てが、女王個体のためだけに命をなげうち。個々の生体は、あくまで捨て石として扱う。
今の時点で、麟はそれぞれの人間の個性を、究極レベルまで引っ張り出して活用しているようだけれども。
それもいつまで続くか。
情報を得るために人間の脳を喰うような子だ。
いつまでも、のうのうと大人しくなどしていないだろう。
暴君として振る舞いはじめたら最後。
下手をすると、一瞬で世界が滅ぼされる可能性さえ、想定しなければならない。
「民主主義の原理、か」
虚しい言葉だ。
そもそも、専制主義の弱点は。
一個人に、圧倒的な権力を付与することにある。
同時に長所も其処にある。
混乱期に、優秀な個人に全てを託して、より常人より優れた判断を行う。それが専制主義の利点だ。
その一方で。
その優れた個人が、世襲などで代替わりしたり。
或いは、暴君となった場合。
手が付けられなくなる。
この世界の人間は、古い時代には、既に民主主義を開発していた。だがその流れは一度途絶えた。
問題点が多数発見され。
結局専制主義の方が優れているという結論が出たからだ。
今の時代は、民主主義が主流になっている。
しかし、である。
結果として、究極とも言える個が現れてしまった今。
本当の意味で、民主主義は死にかけている。
無能な政治家や、過激思想の持ち主が、良く気に入らない相手が選挙に勝ったりすると、民主主義は死んだとかほざくことがあるが。
そんなものとは次元が違う。
究極の個たる、最強の存在が出現したことで。
民主主義の意味そのものが失われようとしているのだ。
古き時代から、人間が夢想し。
利用してきた存在。
神。
それが今、現実に姿を見せようとしている。
その圧倒的な能力は、確かに人間が束になってもかなう相手では無い。文字通り、究極の存在とも言える。
しかしながら、だからこそ、わたしは屈する訳にはいかない。
わたしは、ディストピアには暮らしたくないし。
例え進歩は遅くとも。
古代生物能力者の手でダイナミックに改革され続けているとしても。
それでも。
ヒトという種族は。
自分で進歩するべきだと思うからだ。
勿論、無責任に人間の可能性なんて信じてはいない。
だけれども、このやり方では。
人間の未来に待っているのは、蟻だ。
意思も個人の尊厳も無い。
ふと、思い出す。
田原坂麟が、麒麟(ジラフ)だった時。
意思も尊厳も許されず。
親の気まぐれでしかエサを与えられず。
餓死寸前の状態にあったと、田奈が報告してきていた。
そうか。
ひょっとすると。
それが、むしろ。麟にとっては、普通のことなのかも知れなかった。
一度セーフハウスを出る。
見た目は何も変わらない。人々は、異常なほどの秩序を持って動き回っているが、それだけだ。
満員電車が出て行くが。
いつものような乗降の混乱は無い。
完璧すぎる秩序を持って乗客が乗り降りしていて。
それはさながら、思考が並列稼働しているかのよう。
元々、日本人は、こういった秩序に関しては、世界的に見てトップクラスであると言う評価があったが。
それでもクズはいた。
だが、それさえいない。
皆の格好も、それぞれ違っているけれど。
外に出るのに必要な清潔さを備えているという点では、完璧に全員が一致していた。気味が悪いほどである。
他にも、見て回る。
市役所。
全員が完璧に動いている。
わたしも少し手続きをしてみたが。
コンビニの弁当が温まるほどの時間で、処理が全て済んでしまった。
雑然としているのが市役所のイメージだったが。
それもなく、非常に丁寧な整理が行われている。書類に関しても、雑然と突っ込まれている様子も無い。
恐ろしいまでの。
秩序の世界だ。
田奈から連絡が入る。
「少し休みます」
「無理もないよ。 あれとまともにやりあったんだから」
「いえ。 そうではなくて、どうやらもろに支配の力を浴びてしまったようです」
「!」
そうか。
時間差で発動させることも出来るのか。
厄介だ。
だが、それでも、屈する訳にはいかない。
休むように指示すると、わたしは他にも見て回る。アジア中を制圧したという事は。それなりに忙しくなっているはず。
むしろ、隙が出来ているかも知れない。
エンドセラスに連絡。
国会議事堂周辺に展開している米軍の特殊部隊はどうなったかと聞いてみるが。彼女は、電話の向こうで煙草をふかしたらしい。
それだけで、結果は目に見えていた。
「全滅だ」
「取り込まれましたか」
「その通り」
「……どうにもならないですね」
今回投入されていた特殊部隊は、米国政府が抑えている古代生物能力者も含めた、精鋭揃いだった。
それが、近づくことさえできず。
今回のアジア全域制圧にあわせて。
一瞬にして陥落させられた。
それこそ、敵を殺す事、制圧することに関して、世界中の何処の部隊よりも、過酷で緻密な訓練をしていただろうに。
「それで、どうする」
「普通の能力者では、近づくことさえできないでしょうね。 古細菌サイドの最精鋭と、わたしと田奈。 それに貴方と、ギガントピテクスくらいでしょうか。 精鋭中の精鋭だけを集めて、隙を見て強襲を掛けるしか無いでしょうね」
「反対だな」
「勝てる訳が無い、ですか」
エンドセラスは黙っている。
わたしだってそんなことは分かっている。
勿論、今仕掛けるつもりはない。
田奈が必死に攻略法を考えているし。
わたしだって、何か手は打てないか、ずっと思考中だ。
最強だからこそ。
何処かに穴はある筈。
そしてその穴を突けば。
最強だからこそに、敗れる可能性だって、否定はできないのだ。
ただし、それはまだだ。
「準備だけはしておいてください」
「分かっている」
「……」
通話を切る。
エンドセラスは、諦めかけているのかも知れない。
この世界が完全に制圧された場合。
古代生物能力者は、麟の手足となって働かされることになるだろう。普通の人間より遙かにスペックが高いのだから当然だ。
だけれども。
それは機械の歯車だ。
昔、サラリーマンが機械の歯車だと揶揄された時代があったが。それは違う。実際には、幾らでも替えがきくねじであって。取り替えると動かなくなる歯車などではなかった。経営者はそう考えていたから、代わりは幾らでもいると考え。
一時期、この国の会社は、深刻すぎる人材不足に陥った。
わたし達古代生物能力者は、文字通り本物の社会の歯車にされる。
そして、其処に自由意思は存在しない。
どうにかして、食い止める。
わたしは、別のセーフハウスに歩きながら。
そう、考え続けていた。
1、支配の霊獣
作り上げたデータセンターを用いて、支配の手をどんどん伸ばしていく。まず最初に、支配した人間を使って、データセンターを増設する。そしてそのデータセンターそのものを並列化して。
更に支配を強化するのだ。
一つや二つ、テロだの核だので潰されてもなんら問題なし。
最終的には、世界中にあるPCを全て並列接続して。
支配のための道具と使う。
そういえば、世界中のPCに並列接続して稼働するウィルスが、人類に反旗を翻すSFが存在したが。
おかしなものだ。
ウィルスでは無く。
この私自身が、それを使って、人間という生物を、完璧に制御するのだから。
声が聞こえる。
「現時点では順調だな」
「アジア圏全域は制圧できた。 だが、どうにも動かしづらい国が幾つかある」
アジアの奥地を、地図上で指さす。
情報インフラがどうにも不完全な小国達。
それらには、私の力が、どうにも及びづらい。かといって、及んでいないというわけではない。
今、完全制圧した中国から、部品を運ばせているが。
それでも、支配完遂までは、少し時間が掛かるだろう。
なお、少し前だが。
試しに、中東で暴れているテロ組織に、支配の手を伸ばした。
そして、完全に支配した後。
全員をその場で自殺させた。
ある意味、クズ親と、私の命を脅かしていた連中を殺して以来の殺しだが。まあ、殺してもなんら問題の無い連中だったのだ。
これくらいは構わないだろう。
その気になれば、いつでも処分出来る。
それが実験として行えたのだ。
充分な成果である。
「これから、更に支配地域を延ばすのか」
「いや、一旦此処で足を止める」
「ほう」
「しばらくは支配体制を盤石にして、頭足類の意識を受け入れる準備を行っておく。 この間篠崎田奈と戦ったが、勝ち目が相手にあるとは思えなかった反面、屈する様子も見えなかった」
つまり、だ。
相手はこれから、此方の能力を解析してくる。
私の能力が、観測だという事も、理解したはずだ。
もしそうなると。
今後はかなり厄介なことになる。
あれだけの能力者が、此方の手札を少しなりとみたのだ。勿論まだ使っていない手札は山とあるけれど。
それでも、何かしら。隙を突かれる可能性は、どうしても否定出来ないのである。
つまり、此方も。
盤石なる支配体制を整えるために。
力を更に増すべきだ、という事である。
「慎重だな」
「麒麟は虫さえも踏み殺さないという。 私は無駄な殺戮は可能な限り避けたいし、争いだってしたくはない」
「テロリストどもは駆除したのに?」
「あれは生きているだけ周囲に害を為す存在だ。 駆除する以外に方法はない」
冷厳なようだけれども。
恐らく、支配者階級の人間は全てがそう言うだろう。
そして、そいつらとも、私は一線を画している。
そいつらが自己の権力保全のために、そういうのに対して。
私はあくまで、人類という種族を、宇宙に進出させ。永劫の繁栄を造り出す事が目的なのだ。
そもそものスタートラインが違うのである。
今回は実験だったが。
今後は洗脳も兼ねて、どんどん不要な人間を処理していく。
多様性に関しては保持していくが。
それも私の管理下に置いてだ。
専制主義は、多くの場合、害毒にしかならない。少なくとも、優秀な個人が優秀でいられる期間は限られているからだ。
だが私の場合は違う。
バックアップについているのは、この世界を動かしてきた。世界の覇者たる生物たち全て。
それら全ての観測する力。
それがある限り。
私に逆らう事は出来ないし。
体を若返らせようが、更に強化しようが、自由自在だ。
神という存在がいるのなら。
私がそれ。
これは驕りではない。ただ単純な、そのまま客観的な事実に過ぎない。
「少し休憩を取るか」
「細胞は交代で休ませているが」
「オーバーホールをしておいた方が良いだろう。 何、何かあった場合は即座に動けるように、対応はしておけばいい」
「それもそうだな。 少しばかり休む事にする」
膨大な書類は既に片付き。
そればかりか、ネットワーク上での対応措置も終わっている。
実際の所。
今、する事はない。
だから、休むのであれば今だ。
さすがは鮫の総意。
的確な判断であり。アドバイスである。
執務室の机でしばらく眠る。しばらくといっても、三時間ほどだ。それで、全てを完全回復できる。
そういう体なのだ。
「回復は充分か」
「見ての通りだ。 能力の拡張も、順調に行われている」
「もう二週間ほどで、頭足類の意識が来る。 全てを受け入れれば、実力は四倍前後に跳ね上がるだろう」
「四倍か」
中々に素晴らしい。
現時点でも、世界征服は可能だが。
宇宙進出の後も、人類を制御して行くには。力はどれだけあっても足りない。
いっそのこと、古代の神話に出てくる巨人のように。体を巨大化させてしまうのもありかもしれない。
そうすれば、それだけ力は強くなる。
受け入れられる意識も。
必然的に多くなるのだ。
総理大臣が来た。
ガラス細工のような目で、報告してくる。
各国の支配者が、大急ぎで駆けつけてきたという。まあ、これについては、命令を出しておいたのだから当たり前だ。
国会議事堂の外に出迎えると。
中国のトップを先頭に。
アジア各国の指導者達が、ぞろぞろと歩いて来るところだった。
彼らは、いずれもが。這いつくばるようにして、礼をする。私という完全な支配者に対する態度としては、当然だろう。
手を伸ばす。
そして、彼らの脳に直接干渉。
絶対に逆らえないように。
私の意識の一部を、叩き込むようにして植え込んだ。
びくんと彼らの体が刎ねる。
そして、顔を上げたときには。
既に意思は喪失していた。
「それぞれの国に戻り、私の指示通り動かせ」
「ワカリマシタ」
戻っていく。
ぐだぐだ長話をする必要もないし。接待などはまったくもって無駄の塊だ。やる意味も必要もない。
それぞれを返したが。
実のところ、今の一瞬で、能力値は把握した。
今いた支配者の内、四割ほどは戻り次第即座に更迭するつもりだ。
昔の情勢だったら、反乱を起こすかも知れないが。
今、私が全て首根っこを押さえている状況である。軍隊も全部が私の指示で動くようになっている状態だ。
クーデターなど起こせないし。
何より、私の指示を跳ね返せる意思の持ち主など。
あの中には存在しなかった。
存在するかも知れないと思って、頭に強制的な思考操作の杭まで叩き込んだのである。後はどうにもならない。
まず、充分な結果だろう。
一度執務室に戻る。
総理大臣が、恭しく差し出してきたのは。
先ほどの国々が持ち寄ってきた、土産の目録だ。
一瞬で目を通すと、指を鳴らす。
目録は燃え果てた。
把握したのだから、後はいらない。セキュリティ的な意味でも、残しておくわけにはいかなかった。
さて、順調だ。
だが、勘が告げてくる。
そろそろ、何かの逆風があるかも知れないと。
順調なときこそが、一番危ない。
この辺りで。
少し、引き締めが必要かも知れなかった。
能力を強化した警官隊。自衛隊。
そして掌握した在日米軍。
強化したのは、武装ではない。それぞれ個々人の能力だ。思考から一切の無駄を省き。筋力に始まる身体能力も極限まで高め。
銃などの使用精度も、限界まで引き上げた。
多分だけれども。
今なら。それぞれ雑兵の全員が。
鍛え抜かれたネイビーシールズの隊員と、それぞれ互角以上に戦ってみせるはずだ。世界最強の特殊部隊並みの能力を。全兵士が持っている、という事である。
これら守兵を。
油断無く配置する。
アジア全域で、同じ事を行う。
私の支配によって、支配地区での暴動はぴたりとやんだが。
まだ私に逆らえる能力を有している国が、幾つか存在している。米国も事実上落としたが、大統領が無理矢理動けば、或いはICBMを乱射してくるかも知れないし。特殊部隊を送り込んでくるかも知れない。
それに備えるためにも。
今の時点では、まだ油断する訳にはいかないのである。
海上でも、支配下に置いた海軍を巡回させる。
もう国家なんか無いも同然なので、全ての支配下国家が、同時に海軍を繰り出して、何ら問題を起こさず共同で巡回を行っている。
まるで蜂か何かだが。
それが人間にはお似合いだと、私は思う。
「徹底的な統制だな。 見事だ」
「そうしないと、此奴らは幾らでも不正する。 エゴに基づいて愚行を行う」
「そうか」
「そうだ。 今まで人類は、それを全面肯定してきた。 だから一切進歩することができなかった」
大学でも。
今、研究が高速で進められている。
今までの無駄を悉く省いた結果。
あらゆる大学で、研究のスペースが著しく早くなっているのだ。それによって開発された技術は私が目を通し。
問題ないようなら即座に採用させる。
普通の人間だったらこうはいかないが。
生憎私は人間では無いし。
もはや観測能力によって、不具合があったら強引に修正してしまうことだってできるのだ。
「さて、次の手だが……」
まだ、古代生物能力者三勢力は泳がせておいてもいいだろう。
むしろ仕掛けてきたときが好機だ。
一人ずつが戦って、勝負にならないのは。この間。篠崎田奈に力を見せつけることで、いやというほど示してやった。
だったら、全員で来る。
そうなれば、精鋭を一度に全部、まとめて手に入れることができるのだ。
敢えて隙を作ってやるのも手か。
だが、万が一もある。
何かしらおびき出す手立てを考えるか。
それとも。
しばし考えた後。
指を鳴らす。
部屋に入ってきたのは、支配下に置いた古代生物能力者達だ。その中には、エンドセラスの側近だった、メガテウシスもいる。
雑魚ばかりでは無い。
此奴のような強豪でさえ。
条件が整えば、今の私にはかなわない。一瞬で屈服するのだ。
「お前達に仕事がある」
「なんなりとお申し付けを」
「指示する相手を探し出せ」
既に、セーフハウスなどの情報は、全て引っ張り出した。その上で呼びつけたのだ。つまり、此奴ら自身の独創性で。
何処にいるかを探し出させる。
「見つけることができたものは、更に能力を上げてやろう」
「有り難き幸せ」
全員が。
その場からかき消える。
残像を作るほどの速度で移動したのだ。
勿論前には、此処までの実力はなかった。私が配下に引きずり込んだときに、能力を付与して、強化したのである。
その結果。
元々強かったメガテウシスなどに到っては。
恐らくティランノサウルスや、エンドセラスとも、良い勝負ができる筈だ。
しかもあいつらは、それぞればらばらには動かない。
相性が良い能力者同士で、自動的にチームを組んで。そして効率を最優先に、敵を探し始めるはずだ。
一番最初に狙うのは。
篠崎田奈。
あれは三勢力の接着剤にして、要。
あれがいなければ、三勢力の争いは終わらなかったと聞いている。
実力も三勢力の長に迫るか匹敵するものらしい。
まあ、私からみればどうということはないが。
それでも、抑えてしまえば。
敵(敢えてそう呼ぶ)に対して、決定的な打撃を与える事が出来るだろう。
愉快である。
ICBMをぶっ放してくる可能性がある国よりも、古代生物能力者達の方が、ある意味遙かに厄介だ。
今、此処で始末をつけてしまえば。
後が一気に楽になる。
書類仕事がまた来た。まとめてすぐに片付けてしまう。紙が破れたり燃えないようにするのが大変だ。
ちょっと早めにペンを動かすと。
すぐにそうなってしまう。
今の私の能力であれば、支配下に置いたアジア全ての国政を、まとめて処理することも可能だ。
それも、一時間足らずで。
可能だから、やる。
簡単な話である。
2、追撃の手
田奈は、少し離れた家の屋根から。セーフハウスに数人の能力者が踏み込むのを見ていた。
速い。
全員の動きが、だ。
むしろ麟の動きそのものは、ゆっくりしている。これは麟がのんびりした性格、などということではなく。
古代生物能力者を抑えるという事の優先度が低い。
ただそれだけの事を意味している。
速いのは、乗り込んできた制圧部隊の面々。
見知った顔も多いけれど。
全員が、明らかに能力を、元から跳ね上げられているのが分かった。これは一人一人さえもが。
田奈と良い勝負をするかも知れない。
しかもだ。
指揮を執っているのは、エンドセラスの所からいなくなったメガテウシスだ。彼奴は元々エンドセラスの片腕をしていたほどの実力者。
更に強化されていることが確実な今。
真正面からやりあうのは、あまりにも危険だろう。
元々のしょっぱい能力を、努力で伸ばして強くした存在だ。それに、更に基礎能力が加わったとなると。
侮る事は即死を意味する。
さて、身を隠したまま、移動開始。
完全に気配を消して移動すれば。
今の襲撃者達程度には見つからない。
今は、他の人間も、全部が敵に落ちていると判断するべきで。監視カメラなども避けて通るべきだろう。
しばし、口をハンカチで押さえたまま移動。
移動する姿も。
一般人には見せない。
路地裏。
影。
塀に沿う。
まるで昔の忍者だ。
忍者という存在が、実際にどのような者達だったかは、今でも諸説ある。とにかく貶めたがる学者がいる一方で。その神秘的な存在に惹かれる者もいて。実態は未だによく分かっていないのが実情だ。
残念ながら、今のこの日本には。
昔ながらの伝統を守った忍者は生き残っていないが。
それでも、その理念や思想は。
何処かで生きているかも知れない。
影を通りながら、田奈は急ぐ。
まずは陽菜乃と合流するのが第一だが。その隠れ家に向かうのは危険だ。まだ使っていない携帯を用いて、連絡を取る。
陽菜乃は、すぐに出た。
「セーフハウスが、襲撃されたか」
「もう驚きませんね」
「相手の実力がアジア全土に及んでいる以上仕方が無いよ。 それよりも、とにかく無事に逃げ延びることだけ考えて」
「……六年前、あれだけのことをした私に、相変わらず随分と優しいですね」
陽菜乃はくすりと笑う。
勘に障る。
だけれど、何も言わない。
通話を切ると。とりあえず、別のセーフハウスに向かう。
現時点で追撃を掛けられている可能性はない。相手があの麟でない限りは絶対にあり得ないと断言できる。
呼吸を整えながら、移動を続け。
誰にも見られないまま。
セーフハウスに辿り着いた。
何処にでもある、平凡な一軒家だ。
中に入ると、静かな中、やっと落ち着いて呼吸ができた。やはり自分の家だと分かっている場所だと、少しは落ち着く。
それにしても、追撃部隊を出してきたと言うことは。
此方を脅威に感じているのか。
いや、違う。
弱点を発見させる暇を与えないつもりだ。
特に、田奈を狙ってきたという事は。
唯一の交戦経験がある田奈に休ませない事で。
対抗策を開発させない。
そういう現実的で、なおかつえげつない狙いがあるのだと、判断しても構わないだろう。手強い相手だ。
さて、このセーフハウスも、いつまでもつか。
缶詰を開けて、口に入れる。
冷えているけれど、仕方が無い。
缶詰は生半可な事では傷まない。
しばし腹に入れて落ち着くと。ぼんやりと窓際から、外を窺う。今の時点では、敵の影はない。
気配も。
目を閉じて、休む事にする。
何かが近づいたら、すぐに起きられるように。
ヤバイ橋は散々渡ってきた。
オルガナイザーを現役でやっていた頃には。エンドセラスの勢力に目をつけられていたから。
何度も殺し合いをした。
敵の力が強い場合は。
どうしても殺さなければならない場合もあった。
不殺というのは、基本的に相手との力量差があって、始めて成り立つ事なのだ。相手と力が近い場合。
殺さないで勝つなんて事は出来ない。
できたとしても、それは偶然。
そんな事にこだわっていたら、信念に殺される事になる。それでも本望という者もいるかも知れないが。
田奈は嫌だ。
何か良いことがあったか。
人間時代から。
古代生物の能力を得てから。
シダを冷蔵庫から取り出すと、むしゃむしゃと口に入れる。この時だけは、比較的精神が落ち着いていられる。
だけれども。
気付く。
どうやら、もう追撃が来たようだ。
速すぎるというか、どうやった。
ネットの類は最小限しか使っていないし。既にばれている端末は停止させている。そればかりか、痕跡だって残していないはずだ。
シダを全て口に突っ込むと。
田奈は、外を窺う。
まだこの家と特定はできていないようだけれど。
それでも。
メガテウシスが、四キロほど離れた家の屋根で。周囲を睥睨しているのが此処からも見えた。
厄介な奴だ。
元から強かったし、オルガナイザー時代は何度も戦った。殺し掛けた事もあるし、殺され掛けた事もある。
互いに力を磨きあってきた相手と言っても良いが。
しかし三勢力が和解してからは、すっかりメガテウシスは腑抜けになって、能力者としても衰えていた。
エンドセラスに、何度もしかられていたくらいである。
まあ色々あって、モチベーションも維持できなくなったのだろう。三勢力和解の際にも、大きなもめ事があったし。
エンドセラスとしても、メガテウシスを片腕とは見なせなくなったのが大きかったのかもしれない。
何より、確実に手腕を発揮するギガントピテクスに仕事をあらかた取られてしまっていた、というのもあるのだろう。
力には、大きな差ができていた。
それなのだが。
今の彼奴は。
ここ数年ですっかり鈍っていた実力を取り戻し。
今の田奈に匹敵するか。
それ以上の実力を持っていると見て良い。
気配を消しながら。
セーフハウスを出る。
此処を嗅ぎつけられたのだとしたら。もう此処に隠れているのは、危険としかいえないだろう。
ちなみに、玄関からなどでない。
地下室があって。
其処から、地下下水道に直行できる造りにしてあるのだ。勿論提出している図面には乗っていない構造。
違法改造である。
良くないことは分かっているが、これはセーフハウスである。更に言うと、建築業者には四倍の代金を払っている。周囲の下水道などに影響がないようにも考慮して作ってもいる。
それが免罪符になるとは思わないが。
兎に角今は、生き延びることが最優先だ。
地下室から、下水道へ。其処から、更に急ぐ。
丁度自分の臭いも消せるから良い。周囲はひどい臭いだが、この程度は正直どうでもいい。
地下下水道を走る。
気配は、間もなく、田奈の家に突入。
ブービートラップは幾つか仕込んでおいたが。周辺の家に被害が出るようなトラップはない。
時間稼ぎ用だ。
とはいっても、スタングレネードを仕込んであるから、直撃すれば多少の負傷くらいはするはずだ。
だが、そんなもので、能力者は動けなくはならない。
勿論地下室は見つからないように工夫したが。
はてさて、どこまで時間を稼げるか。
振動。
スタングレネードが炸裂した音だ。
田奈はそのまま走る。
そして、かなり離れた地点で。
非常に広い空間に出た。
これは、雨水をため込む空間である。洪水を防ぐために、都市の地下には、こういった巨大空間が存在しているのだ。
今は水も殆ど無い。
重力操作を利用して壁に張り付くと。
ヤモリのように、さっさと天井へ移動。
まあ元々、田奈の能力の元になっているのは、史上最大のヤスデだ。こういった行動は、むしろ本分であるだろう。
ポケットから出したシダを食む。
そして、天井にあるメンテ口を開けると。
其処から脱出。
複雑な通路を経て。
都内でも最大、世界最高の年間利用人数を誇る、ダンジョンのような駅に出た。
出る前に、消臭剤を使って、下水の臭いを消しておく。
そして、敢えてわかりにくいルートを使って、移動。
駅を出ると。
ビル街の中を駆け抜ける。
これで追っ手はまけたはずだ。
問題は、当然のように追っ手は追撃を仕掛けてくるはず。それに備えて、敢えて駅の中を通ったのだ。
明らかにおかしな順番で、監視カメラに写るように通っている。
敢えて写るように動いたのだ。
これで多少は敵を混乱させられる。
そう思った、次の瞬間だった。
無数の槍が、田奈の至近。目の前に突き刺さる。これは、鉄筋コンクリートに使われる鉄筋か。
上空。
巨大な翼を生やしたメガテウシスが。
しらけた目で、見下ろしていた。
馬鹿な。
いくら何でも速すぎる。
その触手は、なんと五十を超える数にまで増えていて。
いや、違う。
あのホバリングに利用している触手。
アレを考慮すると、百ではきかないはずだ。
「まったく、此処まで麟さまの予想通りとはね」
「……!」
「人間の領域を超えていないあんたが、神域の裏を掻くなんて無理だっての」
包囲される。
いずれも田奈に近い実力者ばかり。
そうかそうか。
被害を小さくしてやろうと思ったのに。敢えて田奈を怒らせたいか。
実力が近いと言うのは、あくまで能力の話。
戦闘経験で言うと。
田奈は此処にいる全員を合わせたよりも多い。
戦いは、ごく短時間で終わる。
多少の手傷を負ったけれど。
瀕死で呻いている追っ手を残して、田奈は常闇の街に消える。
コレは少しばかり、本当にまずいかも知れない。敵の能力は想像の範疇を更に超えていると見て良い。
流石にこの国を一人で動かすどころか。
アジア全域を一人で回し。
地球上の人類の半数を既に支配下に置いている怪物だ。
地下下水道を一旦経由して、首都圏を離れるか。そう考えた田奈だけれども。敵はそうさせてくれない。
目の前に降り立ったのは。
知らない奴。
麟ではない。
いや、三勢力の能力者の誰でも無い。
田奈は三勢力全てにコネがあり、所属している能力者全員の顔と名前を把握している。能力もである。
こんな奴は見たことが無い。つまり、新人と言う事だ。
しかし、本当にそうか。
気付く。
まだ知らない可能性があるベテランがいる。三勢力に所属していない、秘匿されているタイプの能力者。
特に、入出国が極めて難しい独裁国家などで飼われている能力者の場合、知らない可能性が高い。
そいつは、まるでマリオネットのように。
重力を感じさせない立ち方をして。
ひょろっとした全身は。
男女のどちらかさえ判別がつかない。
やせこけた顔は、目だけがぎょろりとしていて。
結ばれた口元は。
感情をまるで示さなかった。
「何の生物の能力者ですか?」
「ヒトに知られていない種族」
「……」
つまり、名前も無い、ということか。
ちなみに頭足類に所属する生物で。化石は残っていないが、足を伸ばすと直径十三メートルに達するという。
最大級の水蛸が、足を拡げて数メートル程度。しかも、体は実際にはそれほど大きくもない。足が長いだけだ。多少獰猛だが、それでもパニック映画に出てくるような、船を撃沈できる怪物では無い。
それを遙かに凌ぐサイズだ。
UMAになると、ルスカという、全長六十メートルというクラーケン並の奴がいるのだけれど。
それはあくまでUMA。
いわゆる海岸に漂着するブロブ(原形をとどめない肉塊)を見て、想像されたものではないかとも、神話の生き物がUMA化したとも言われている。
いずれにしても、この異常な雰囲気。
まともな生活をしてきた相手では無いと判断して良いだろう。
消耗はあるが、逃げた方が良い。
そう判断すると。
いきなりスタングレネードを投擲し、自身は地下下水道に飛び込む。
だが。
其処は、既に敵の制圧下にあった。
いきなり、体が空中で制止する。
重力操作も通じない。
もがくことさえできない状態だ。
「俺の能力だ」
これは、どうしようもない。
能力を展開しようにも、できないのだ。
これだけの強力な能力。
恐らくは、非常に制限が多いものなのだろうけれど。しかし今の田奈のように、引っ掛かれば一撃必殺という訳か。
悔しいが、負けだ。
そいつが地下下水道を覗き込みながら。矢を撃ち込んでくる。
突き刺さったそれには。
恐らく、強烈な麻痺毒が仕込まれていた。
それも、クマを瞬殺するような奴だ。
しばし抵抗した田奈だったけれど。
意識は、まもなく落ちた。
しばしして、目が覚める。
何処かの病院のベッドの上に寝かされていて。
動けないように、点滴で何かの液体を注入されているようだった。
多分この様子だと、何処かしらの大学病院。
既に公共施設は全て。
敵の手の内にあるのだ。
朦朧とする意識の中。頭に包帯を巻いたメガテウシスが覗き込んでくる。
「やってくれたねえ」
鼻で笑ってやる。
お前に負けたわけでは無い。
それに、あの能力も。
彼処まで強力な拘束能力となると、展開できるのは、恐らく半径二メートルというところだろう。麟が、完璧なまでに、田奈の動きを予想した、と言うわけだ。
そして今。
その拘束能力は、働いていない。
体の様子を確認して、少しずつ状況を整理していく。
経過した時間。
想定された移動距離。
そして此処がどこの大学病院か。目に見える範囲から推理していくのは面倒だけれども。
やるしかない。
「それで、私を捕まえてどうするつもり?」
「それはもう、麟さまに従って貰う」
「お断りです」
「そう言うだろうと思った」
タブレットを出すメガテウシス。
そして奴は。
私の目の前に、タブレットを固定した。まだ私は身動きできない状態だから、視線も反らせない。
当然の話だが。タブレットに映り込むのは、あの田原坂麟。奴の形態はまたしても変化していて。
背中にあった一双の虫のような翼は。
トンボのように、二双になっていた。
分かる。確実に力が強くなっている。それも、桁外れに。前に戦った時より、更に強くなっている。
これはおそらく。
新しい意識を取り込んだと言うよりも。
滅茶苦茶に上げた身体能力を使って、学習した、というべきだろう。その学習方法も、試行錯誤ではない。
部下にしたメガテウシスなど能力者の頭の中を覗き。
経験を全部根こそぎ自分のものとして。
更に応用した。
そんなところか。
なるほど、これではもはや手が付けられない。降伏を促さなければ。陽菜乃達も、戦ったら死ぬだけだ。
蟻とドラゴンほども力の差があると思っていたが、訂正だ。
ミジンコとドラゴンよりも、力の差があるかもしれない。
朦朧とした意識の中。
容赦なく、麟が語りかけてくる。
「従え」
その声だけで。
頭をガツンと殴られるような衝撃が来る。呻く。既に自分の思考回路がおかしくなっている事は、はだで実感できている状況だ。
それに、直接この言葉が来ると。
もはや逆らいようが無い。
恐怖と言うよりも。
その先にある、絶対的な畏怖が、体中からわき上がってくる。前に直接対決した時は、相手は手加減していた。
今回は違う。
従えるための手加減をしていない。
ある意味、相手は紳士的なのかも知れない。
従える気はあっても、殺す気は無い様子なのだから。
もっとも、力を使う予行演習として、中東でテロリストの集団を自殺させた、という話が田奈の耳に届いている。
やはり、邪魔と判断したら。
消しに掛かるかも知れない。
「うそ、間近で麟さまの声を聞いて、それでも耐えてる」
「まだまだ、こんなものじゃ、ありません、よ」
虚勢を張ってみせる。
そして、今更気付いた。
両手両足が、結束バンドで、ベッドに固定されている。それも、この結束バンド、尋常な代物では無い。宇宙開発か何かに使っている素材なのか。触れていて、強度がある程度分かる。
力を自由に使えない今。
引きちぎるすべは無い。
「従え」
また、強烈な命令が来た。
脳が真っ白になりそうだ。
呼吸を整えながら、耐える。強く意識を持て。此奴らのようにだけはなりたくない。だって、私は。
あれだけの地獄をくぐり抜けてきて。
三勢力の争いだって終わらせて。
それで、それで。
やっと、今の地位に落ち着いて。
もう嫌だと思っていたオルガナイザーをやめたら。今後は、三勢力から等しく調停役として手腕を期待されて。
結局同じだ。
田奈はいったい。
何のために働いているのだろう。生きるためか。他の人間達の、尻ぬぐいをするためなのか。
直接、めのまえで。
麟の姿を見せつけられながら。
なおかつ、従えと命令されて。
それでも従わない田奈を見て、メガテウシスは惑乱している様子だった。周囲と、早口で何か話している。
此奴、こんなに強かったっけ。
まるで化け物だ。
そんな声が聞こえるけれど、正直五月蠅い。ピーチクパーチク囀るんじゃないと、怒鳴りつけてやりたい。
能力が使えるなら、地面に叩き付けてやりたいが。
今はそれができない。
麟は驚いているようだった。遠隔操作のタブレットとはいえ。何かしらの手段で、田奈の抵抗を見ているのだろう。
「驚いたな。 これだけやってもまだ耐えるか」
「こんなもの……今までの艱難辛苦に比べたら……」
「従え」
「うく……!?」
思わず呻きが漏れる。
これはまずい。
頭が、そろそろ耐えられない。
頭が吹っ飛ぶと言うほどではないけれど。脳が確実に、凶悪すぎる力の奔流に、逆らえなくなってきている。
次、この声を浴びたら。
耐えきれない。
呼吸を整える田奈は、さぞ自分が青ざめているのだろうなと思ったけれど。それでも、まだ耐えてやると、自分を鼓舞する。
だけれど、麟が世界を支配した方が。
何もかもが良くなるのでは無いか。
そんな考えも。
確実に頭の中で、侵食を続けている。それこそ、水に墨を落とすと、一気に黒くなっていくように。
思考回路が塗りつぶされていく。
麟を肯定する方向に、だ。
これではディストピアではないか。
悪夢でできた、いつわりの楽園。その先にあるのは、恐らく破滅しかない。人間は進歩するかも知れない。
だけれども、それは働き蟻として。
女王蟻である麟の判断次第で。
死ねと言われれば死に。
エサになれと要求されれば、何の抵抗もせず喰われてしまう。家畜とは、そういうものなのだ。
そして全世界の半数が、既に家畜になっている今。
逆らう事に、何の意味がある。
不意に。
硝子が割れる音がした。
視界の隅で、メガテウシスが吹っ飛ぶ。
一瞬の出来事だ。
更に。他の部屋にいた能力者も、叩き伏せられて、窓の外に放り出されたり。床に這って意識を手放したようだった。
タブレットをへし折って捨てると。
覗き込んできたのは、陽菜乃だった。
「大丈夫じゃ無さそうだね。 今、解放するよ」
「だめ……逃げて……」
「危険は分かってる。 恐らく、麟はこうなることも予想してるって事でしょ」
だったらなんで。
そう言いかけて、気付く。
陽菜乃は、知った上で動いている。
六年前の事件では。
田奈に大きな迷惑を掛けて。あの事件以来、田奈は心が凍り付いてしまったも同然だから。
元々壊れかけていた心が。
あの事件が決定打となり。
もはや取り返しがつかない所に来てしまっているから。
だから、危険を顧みず。
助けに来たと言うのか。
結束バンドを切り下ろす陽菜乃。ちなみに手刀でだ。此奴の手は、既に生半可な聖剣だの魔剣だのでさえ及ばない切れ味だ。
そして、点滴も外すと。
身動きできない田奈を抱えて、陽菜乃は病院の窓から飛んだ。
頭がまだぐわんぐわんする。
陽菜乃は、田奈を抱えたまま、言う。
「さて、追撃はどうなるだろうね」
「マリオネットみたいな奴は、私でさえどうにもならない拘束能力を使ってきました」
「マリオネット? 誰だろう」
「私も知らない能力者です。 恐らく半径二メートル以内くらいの相手にしか作用できないはずですが。 それでも、私を行動不能にする能力強度です」
それは厄介だ。
他人事のようにうそぶくと。
陽菜乃は、既に昼になっていた街を走る。
どうやら大学病院は、田奈が予想していた通りの場所だった様子だ。
敵に油断があったとは思えない。
陽菜乃は恐らく。
田奈が捕まった場合、普通の病院に搬送されると判断。
都内の病院を片っ端から調べて、気配を探ったのだろう。
地道だが。
文字通りの現場百回。
大した物だ。
追撃が掛かる。
陽菜乃の後ろから、三十を超える能力者が追撃してくるのが見えた。
麟は、どう田奈が逃げるのかさえ予想していた。このままだと、どう考えても罠に填められる。
「最適解、避けられますか」
「勿論さっきから避けてる。 でもね、どうしても敵が先回りしてくる」
「発信器か何かは」
「可能性無し」
さっき、拘束バンドを外すとき。
体も調べたという。
陽菜乃くらいの手練れになると、一瞬でそのくらいは見抜く。ならば、どうして。揺らぎさえも、観測して。
対応出来るというのか。
執拗についてくる三十人。
陽菜乃についてこられているというよりも。
動きを読んで、先回りしてきている。
そうでなければ、陽菜乃に追いつけるものか。
だが、此処で。
陽菜乃が、いきなり道路の真ん中に降り立つ。
そして追跡者達が。
困惑した様子で、陽菜乃の居場所を見失った。
エンドセラス。
能力を展開し、待ち受けていたのだ。
「引き上げるぞ」
「……」
まだ、相手に対抗できる方法が、思いつかない。
田奈は口惜しい。
こうしている間にも。
敵は、更に力を増しているのだから。
3、全ての始まり
もしも、この星に生命が生まれなかったら。それは、麟も考えてしまうことだ。
いわゆる、生命体が存在しうる可能性のある星は、この太陽系だけでも幾つもある。火星にしてもそうだし、木星の衛星の幾つかもそう。
金星は流石に不可能だが。
ただ、他の惑星でも。
人間が想像し得ない形で、何かしらの生命体が存在している可能性は、否定出来ない所だ。
一度この星は。
全ての可能性を。
一種類の生物のエゴで。
何もかも投げ捨てた。
一時期、公害問題を取りあげる創作物が多くなったのは。実際問題、公害による実害が極めて大きくなったからだ。
しかしながら、のど元過ぎれば、という言葉通り。
公害をある程度克服した現在。
公害による危機と、自然との融和を叫んでいた作品は。
地獄のような公害病を知らない世代からは、気持ち悪い代物、として受け取られるようになっている。
つまり人間という生物は。
個人では学習するが。
生物としては学習しないのだ。
麟はそう判断せざるを得ない。
ならば、生物として、この地球を飛び立てるようにするためには。
強引にでも、その思考回路を調整し。
まともな生物として動けるようにしなければならないだろう。
麟に力を与えた意識の渦。
そしてその尖兵である鮫の意識が。
同じように結論していたが。
今、ネット上の膨大な情報を取り込み。更に、無数の人間の脳内を覗くことによって。その結論は強くなるばかりだった。
事務を終えると。
メガテウシス達が来る。
手酷くやられているが。
それも想定の内だ。
「逃げられたそうだな」
「申し訳ございません」
「想定内だ」
「……」
無言のまま、退出する数名の能力者。
悔しそうだったが。
作戦の概要は最初から告げている。
未だに抵抗を続けている勢力については。
今後も放置する。
唯一神の宗教で。絶対の力を持つ神が、どうして悪魔を放置しているのか、という問題がある。
理由はきちんと用意されている。
悪魔の誘惑に、耐えられた人間を選別するため。
人間が悪魔の誘惑にさらされて。それでも堕落しなければ、天国へ連れて行ってやる、というのだそうだ。
まあ唯一神教らしい思想だが。
それに近い道具として。抵抗勢力を使う事にする。
その上で、である。
抵抗勢力には、絶対に勝てないと思い知らせてもおく。
今回にしても、連中のブレインである篠崎田奈の知略を悉く上回って見せた。勿論逃がしてやったのもわざとだ。
従えるのは。
徹底的に調教してから、でいい。
寝首を掻こうとするのも元気で良いが。
此方が寝ていても勝てないと悟ってからでも遅くない。
実際問題、今でも、最大の懸念だった米国は、既に閣僚やパワーエリートの大半を支配下に引きずり込んだ。
アジアは全域を完全統制においたし。
EUやロシアにも、相当数のしもべを確保している。
更に、である。
現在アメリカとEU、中国とシンガポールに、日本と同じ強力な支配推進用のデータセンターを作成している。
これらが完全に稼働を開始すると。
もはやこの世界のネットワークは、麟の私物と化す。
昔、インターネット全域が麻痺する事件があった。
その事件以来、色々な対策が行われてきているけれど。
いずれも麟からすれば紙くずの様な壁だ。
引き裂いて、好きなように弄るのは、簡単極まりない。
外に出ると。
歩きながら、秘書官が言う言葉を聞く。状況に応じて、幾つかの返事をして。それから、車に乗り込む。
勿論防弾だが。
RPG7程度なら、直撃を喰らっても痛くもかゆくも無い麟にとっては、単にちょっと堅いだけの車である。
そのまま、空港に向かう。
今回は、ロシアに直接乗り込むのだ。
それが終わったら、空中分解寸前のEUに出向き、
最後に米国にとどめを刺す。
大国が全滅した後は。
ゆっくり支配の手を広げていけば良い。
それも、ゆっくりといっても。
頭足類の意識が到着することには。
この星は、もはや麟の私物と化しているだろうが。
「うまくいきすぎるな」
「神に等しい存在のバックアップがあるのだ。 当然だろう」
「だから危険なのだ」
鮫が言う。
何でも、滅びた前の世界でも、似たような存在が世界に干渉していた節があるらしいのだ。
だが、それでも世界は滅びた。
神がいても、世界は滅びる。
その世界では、どう神が動いていたのかは、まだよく分からないところ、らしいのだが。
「経験者としては、どう思う」
「そうさな。 少なくとも能力者の類はいなかったし。 何より、神が直接支配に乗り出すことも無かった」
「それでは、人類は増長するばかりだったのではなかったのか」
「信じたのだろう」
愚かなと、呟く。
人間ほど信用ならない生物など、他に存在し得ないだろうに。
空港に着くと。
専門の飛行機が待っていた。ご丁寧に、護衛の戦闘機も着いてくるのだという。前だったら、外交問題になりそうだが。
ロシアもロシアで、軍は既に掌握済み。
今更その程度の事で、ぎゃあぎゃあ喚くことも無い。
もはや防空域も関係無いし。
アジア圏に到っては。
支配者層も何もかもが。
全てが麟の奴隷と化している。
複雑なコネもなにもが。
もはや麟の手の中で。
今まで人類社会を不必要なほどに複雑化させていたエゴによる人間関係も。全てが綺麗に精算されていた。
飛行機が離陸して。
鼻を鳴らす。
くせ者だ。
どうやら、先回りして、飛行機に乗り込んでいた者がいるらしい。
護衛達が色めきだつが。
そいつは。
子供のような姿をしたそれは。にやりと笑った。
「何もかも、好きにさせると思うな」
「ユリアーキオータだな。 古細菌勢力の能力者」
「その通り」
同時に。
飛行機が爆発。
ユリアーキオータは、すっと姿を消した。
私はと言うと。
爆発に巻き込まれそうになった部下達を、瞬時に防爆した上で。全員を空中に浮かせ。私自身とともに、ゆっくりと空港近くの地面にと降り立った。
代わりの飛行機を用意させるか。
そうのんびりと考える。
三勢力の中で、もっとも強力な能力者が控えているという噂の古細菌。そうなると、今のような妨害も、今後どんどんしてくるだろう。
楽しみだ。
それくらいでないと、張り合いが無い。
「予定が遅れるな」
「別に遅れる事もない」
「ほう」
「お前達は、今回は災難だったな。 お前達に責任は無い。 それぞれ、帰宅するように」
護衛の者達に声を掛けると。
私は、歩き出し。少しずつ、速度を上げ。やがて時速百キロを超え。更に更に加速していく。
時速六百キロを超えた頃。
青森に到着。
そのまま抜けて、北海道に。
途中にある海は。
勿論走り抜けた。
北海道からも、海を走って抜ける。
ある程度の速度になれば。
水なんて、固体と大して変わらない。
実際、水上を走るトカゲだって実在しているほどなのだ。私ほどになれば、海を走って抜けるくらい簡単である。
ロシア領域に突入。
息も切らさないまま、更に加速して。
モスクワに到着した。
空から来ると思っていたロシアの高官達は愕然としたようだが。私が従えと言うだけで。完全にその場で陥落した。
ロシアの首相も然り。
歩いて行くだけで。
地獄のロシアを支配してきた者達が、頭を垂れ。まるで一種の昆虫のように、ひれ伏していく。
予定通り。
何ら感慨も無い。
ただ支配をすることによって、人類を進歩させるには。
これくらいでないと、話にならない。
ロシアのVIP歓待施設に案内される。贅を尽くした食べ物が出されるが、それだけである。
実のところ。
もう食糧は必要なかった。
そして、私がEUを抜け。アメリカに直接上陸した頃には。
人類は、一部の抵抗勢力を除いて、全てが支配下に入っていた。ジャングルに住んでいる、文明を拒否した者達までがそうである。
一度、この世界は私の手に落ちたと判断して良いだろう。
これで、いい。
これからが、始まりだ。
カオスが終わり。
秩序の時代が始まる。
そして抵抗勢力は、敢えてまだ残しておく。神が悪魔を目こぼししておくのと、同様の理由で、である。
日本に戻る。
その時には、既に。
私の力の影響力は。
地球全土。
しかも、地下に到るまで、及びきっていた。
4、再起への路
田奈を救出して戻ったわたしは。
へとへとだった。
敵の質が尋常では無く上がっている。
そればかりか、麟の能力が、やはりというか、いやむしろ予想以上に凄まじすぎる。あの田奈が先手先手を取られるわけだ。
逃がされたのだと分かっているから。
気分も良くない。
此処までこけにされたのは初めてだ。だけれど、怒りをぶつける矛先が存在しない。そもそも、土俵が違う。
此方は一種族。
それにたいして、相手は種そのもの。
更に言うならば。
相手には、あの意識の渦のバックアップまでついている。
これでは勝ち目などありよう筈も無い。
闇医者という存在もいるにはいるが。
そういう連中も、既に完全に麟の制御下におかれてしまっている。というよりも、アンダーグラウンドの連中ほど、ダメージが大きいようだった。
テレビをつけると。
ニュースが入ってくる。
世界的に悪名高かったテロ組織が、全員自殺して発見されたという。
それだけではない。
悪名高いハッカー集団も、同じように自殺しているところが発見され。しかも自殺前に、警察に電話までしていたというのだ。
なるほど。
世界の害にしかならない連中は。
手を汚すまでもなく。
自分で死ね。
そういうわけか。
まあ麟の考え方は、間違っていないのかも知れない。この手の連中が痛めつけるのは、基本的に弱者。
秩序ある社会を完成させるには。
この手の弱者を痛めつける事を商売にしている連中を、根こそぎしらみつぶしにして。この世から消し去る。
それが重要で。
それに、わざわざ社会のリソースを割くのもばからしい。
だから自殺させればいい。
そういうわけだ。
また、自首も相次いでいるという。
自首した犯罪者達は、口から全ての犯罪履歴を垂れ流し。後は裁判所が、一日未満で判決を下してしまう。
死刑は行われていないようだが。
その代わり感覚を何千倍にもする薬と。
苦痛を与える薬を併用して。
何も無い部屋に閉じ込め。
食事も与えず。
地獄を味合わせている様子だ。
幾つかの情報源から、それらを知ったわたしは。
徹底的で容赦ないなと。
何というか、他人事のような感想を抱いた。
思うにわたし達は。今まで、世界を改革することはしてきた。してはきたのだが、その一方で。
影に徹することに地道を上げてきた。
あの支配力が強いエンドセラスでさえ。
自身が政治家として、表舞台に立とうとはしなかった。
幾つも国を支配して。
事実上運営はしていたが。
それはあくまで黒幕として。影の支配者としてだ。影の支配者は、所詮影の存在に過ぎないのである。
今回の麟のように。
エンドセラスが圧倒的独裁者として、表に出てくることはついぞ無かった。それは、影から動いた方が都合が良かったから。
つまり。
都合の問題だった。
麟は違う。
都合云々ではなく。
単純に、支配する装置として動いている。
本人の意思も、独裁一色だ。
完璧な独裁のみを考え。
それを誰も真似できない精度で実行し続けている。
文字通りの、支配の怪物。
歴史上存在したどの独裁者でも。これほど完璧に、己の支配を確立し。それでいながら、全体のために社会をダイナミックに動かした存在はいるだろうか。
いないはずだ。
だが、独裁者は変心したら終わりだ。
特にこれほどの強力な独裁者。
もしも支配に興味が無くなったり。弱者を皆殺しにするつもりで動き始めでもしたりしたら。
それこそこの世は。
修羅悪鬼が蠢く地獄など、比べものにならない悪夢の世界になる。
田奈が目を覚ました。
薬が抜けきった様子だ。
起きていたのかも知れないけれど。
安全と判断して、目を閉じていたのだろう。
六年前の出来事以来。
田奈とはできるだけ、直接合わないようにして来た。色々すれ違いもあって、問題も起きてきたからだ。
だが、これはもはや仕方が無い。
「此処は、セーフハウスじゃないですね」
「地下下水道の一角」
「……もう鼠のよう」
「誇り高き暴君竜の王を捕まえて、鼠呼ばわりか。 シダの森の王」
敢えて冗談めかして言うけれど。
田奈は乗ってこなかった。
半身を起こすと。
全身のチェックを始める。
そして、重力操作して。
傷口から、薬物を全部抜き出してしまった。
かなりショッキングな光景だけれど。
田奈自身は何とも思っていないようである。
ある程度以上の使い手になったり。或いは傭兵として長年戦場を渡り歩くと。自分の体をパーツとして考えるようになる。
わたしもそうだけれど。
田奈はわたし以上にそれが徹底していた。
気配が近づいてくる。
エンドセラスだ。
「随分とひどいところだな」
「仕方がありませんよ。 其方こそ、良く此処にたどり着けましたね」
「もうどうしようもない。 一旦地下に潜むしかないからな」
長身のエンドセラスは。
地下下水道の脇道。
小さな部屋の一角に腰を下ろすと。
腕組みして。足を組んだ。
「そいつほどのキツネが、完全に裏を掻かれたあげくに、全ての動きを読まれたというのは本当か」
「キツネではありませんが、本当です」
「化け物だと言う事はわかっていたが……」
エンドセラスも、げんなりしている様子だ。
そもそも、田奈自身が。
長年オルガナイザーを続けた結果、化け物じみた手腕を有するようになっているのである。
その田奈を好き勝手に翻弄したと言うだけで。
相手がどれだけの怪物かは、いわずとも明らかだ。
そしておそらく。
相手は此処も知っている。
だけれど、もはや捕まえる必要もないのだろう。
敢えて泳がせている。
そう見て間違いなさそうだった。
「反撃の糸口は」
「もしもあるとしたら……」
エンドセラスに、田奈が応える。
実際に麟と会話して。
そして、部下とも戦ったのだ。
古細菌側も、そうそうに抵抗を諦め、地下に潜伏したと聞いている。今は、田奈の知恵が頼りなのである。
「一度、支配を確立させてしまうのが良いかも」
「モチベーションを失わせると」
「いえ、油断を作ります」
まともにやりあっても勝てない。
それなら勝てる状況に相手を引きずり下ろすしかない。
だが、どうやって。
毒の類なんてきくはずも無い。
例えば、田奈だって。
象やらが悶絶するような毒を点滴でぶち込まれていただろうに、短時間で復帰してきている。
古代生物能力者はそういうものだ。
手練れになればなるほど、その傾向が強くなる。
例えば、人間の致死量数万人分の薬剤を投与して、喰わせたとしても。
麟がダメージを受けるかは、甚だしく疑問だ。
「意識の渦のバックアップを断つしかないでしょうね」
「何だと」
エンドセラスが呻く。
そんな事、できるのか。
わたしも思った。
そもそも、極悪非道を行って来た古代生物能力者は、いる。人肉の味を覚えて、手当たり次第に殺していたような連中だって見た事がある。そういうのに限って戦闘力は高かったりして、面倒極まりなかったが。
だが、そんなのでも。
意識の渦に愛想を尽かされることはなかった。
わたしやエンドセラスだって。
愛想を尽かされている気配はない。
今、意識の渦に。
全力でバックアップされているだろう、麟に逆らっているにもかかわらず、である。これはどうしてか。
それに、意識の渦は、そうも寛大だ。
今回は、何かしらの意図があって究極の支配者を造り出したようだが。
それにしても、簡単にそのバックアップが途切れるとは、到底思えないのだった。
だが、田奈が言う事だ。
耳を傾けることにする。
「何か案は」
「今回、意識の渦は、麟の中に鮫という古代から最も繁栄してきた魚類の意識を全て投入するという暴挙に出ました。 コレが本当に、意識の渦の総意だったら、我々はどうして力を失っていないのか」
「何か理由があると」
「わざと逃がされたのも腑に落ちません。 もしも完全なる支配を意識の渦が命じているのであれば。 私達を従える事を、絶対の命令とするはずです」
ところがだ。
麟はまず雑魚から従える事に専念している。
エンドセラスは。まだギガントピテクスを失ってはいないようだが。
メガテウシスは取られてしまった。
雑魚と言っても、幹部クラスの奴らまでもが、既に敵の手に落ちている状況なのである。もはや一秒の猶予もない。
「敵の間に齟齬が生じている?」
「いえ。 ひょっとすると、一神教の神と悪魔という立場に、それぞれをおこうとしているのかも知れません」
「当然麟が神だな。 そうなると、我々は。 人間を試すために、生かされている哀れな悪魔、というわけか」
「そうです」
田奈の言葉に。
凶暴な笑みで返すエンドセラス。
わたしも、はっきり言って気分は良くない。
実害が大きいテロリストなどは、さっさと全部処分してしまった麟だ。既に地上のほぼ全てが、奴の手に落ちている。
地球は陥落。
世界は麟の手に落ちたのだ。
その上で神を気取り。
積極的に支配しなくても、此方を悪魔の立場にしたというのなら。
此方にも考えがある。
「聖書では、悪魔は数人しか人を殺していない。 それに対して、神とその軍勢は、人類を何度も滅亡の縁に追いやっている」
「エンドセラスさん?」
「滑稽な話だなと思ってな」
どちらが悪魔だか知れたものではない。
そういう意味では、確かに滑稽だ。
そしてこれから。
悪魔とされた我等は。
神に反逆する。
「何かプランは」
「失敗させます。 意識の渦に、見放させるしかありません。 それには、麟が失敗することが大前提です」
「あのスペックの相手に!?」
「一つだけ、案を思いつきました」
田奈もまた、笑みを浮かべる。
穏やかそうな笑みだが。
最近はすごみを増している田奈が浮かべる笑みは。
どこか強い闇を秘めていた。
麟が二度目の各国行脚を終えて戻った頃には。
既に地球上に。
彼女に逆らう人間はいなくなっていた。
まあ、当然と言えば当然だろう。
意識の渦のバックアップを受けている麟だ。その影響力はまさしく圧倒的である。近くで声を聞かせるだけで、普通の人間は耐えられない。
あっという間に正気を失い。
その場で精神支配の手に落ちる。
そういうものだ。
飛行機さえ使わず主要国を、飛行機を使うよりも早く廻った麟は。その脚で発展途上国にさえ出向いた。中東もアフリカも。太平洋の孤島の国も。全てを、走り回って訪問した。
昔日本で、凄まじい精巧な地図を作り上げた人物は、地球一周分歩いたそうだが。
麟の場合は、文字通り数日で、地球全土を歩いたのである。
コレができるのが、今の麟のスペックだ。
発展途上国の中には、内乱状態になっている国も多いのだが。
麟が出向いただけで、全員が蛙のようにひれ伏し。
戦争は終わった。
後は、戦争を始めさせた連中と。
戦争で稼いでいた連中を皆殺しにし。
全員を公開処刑にした上で。
肉を豚の餌にするショーを見せつけて。
それで終わりだ。
これはどういうことかというと、途上国では、存分に野蛮な理論がまかり通っている。彼らの流儀に会わせただけである。
人道支援の物資を送れば。
それを売りさばいて自動小銃を買い。
近くで略奪をして、此方の方が楽だと宣うような連中だ。
彼らに対して必要なのは。
殺戮の嵐と。
圧倒的な暴力と。
支配だけである。
そう麟は考えていた。
そして、戦争を煽っていた、一番悪い連中については、麟が全部殺したので、もはや何の問題も無い。
更に、新しく戦争を起こそうというものも生かしてはおかなかった。
文字通り、究極の独裁だが。
麟はそれをするために、肉体改造をしたのだ。
これくらい、スムーズかつスピーディにできなければ。わざわざ体を弄った意味がないというものだ。
日本に戻ってくる。
疲れは感じていないが。
自分の体をメンテナンスする。
特に問題は起きていないが。
多少は回復をさせた方が良いか。
頭足類の意識を丸ごと受け入れるまで、まだ少し時間があるけれど。その時には体を万全にしておきたいのだ。
自分専用の家に入ると。
裸になって、全身のチェックを一項目ずつしていく。
元々身体制御は完璧にしているのだが。
それでも、実際にチェックしてみないと、分からない点も幾つかある。
健康を診断するために必要な機器類も、全て完備されている。
ちなみに医者はいらない。
現在の最先端医学は、全て頭に入っている。
しかも、医療を全自動で行う仕組みも組んであるので、補助も一切必要ないのである。
様々な細かいチェックをしながら、麟は総理大臣を呼ぶ。
総理大臣が来た頃には。
既に全身のチェックは済み。
愛用のトーガを、着込み直していた。
「麟様、如何なさいましたか」
「これから世界の人口を半分にする」
突然の宣言である。
だが、いきなり半分を殺すわけではない。
状況を進めながら、順次減らしていくのだ。
「現状の人類は、明らかに資源と技術、人口の釣り合いが取れていない。 其処で各国から、モラルに欠けている人間を処理してバランスを取る」
「麟様が殺戮して廻るのですか」
「自殺せよと命じるだけだ」
既に作業は始めている。
中東にある武装組織は、その全てを処理した。
全員を自殺させたのだ。
死体は敢えてさらし者にしておく。
そうする方が良いと判断したから、である。
各国の過激派。
過激思想派。
これらもいらない。
カルトも不要。
半分になるように。
順次処置を下していく。
そして、大量の死体の山が築かれるが。これらは、全てガラス玉のような目をした清掃局員が。
ゴミと一緒に処理していった。
「バランスを取った後、余の統制のまま世界は宇宙開発に向け、本格的に動きだす。 その間に遺伝子改良も進める。 人間は遺伝子から欠陥生物だと言う事がよく分かったから、そこから是正するのだ」
「ワカリマシタ」
「物わかりが良くてよろしい。 数日以内に必要な書類は作っておくから、それぞれ指示通りに動くように」
総理大臣は去って行く。
ちなみにこいつも、処理の対象だ。そして総理大臣は、それを知った上で、粛々と指示を受け入れた。
それだけ麟の支配力が圧倒的なのである。
もはやこの世界。
少なくとも地球人類に。
逆らえる存在など、いなかった。
メガテウシスが続けてくる。
此奴もパワーアップしてやった上で、比較的高い地位に就けてやっているが。
操作は完璧だ。
逆らうようなら。
脳を弄ってしまうだけだから、別に問題も無い。
「お呼びですか、麟様」
「現在余の支配下に落ちていない古代生物能力者のリストをつくれ」
「わかりました」
実は、これについても。
実情は、把握している。
把握した上で、他の者の手によって、どのようなデータが出てくるかを、確認するためだ。
如何に麟が神そのものだといっても。
どうしても存在がある以上、完璧と言えない部分が出てくる可能性は、否定することができない。
それならば、である。
念のために、他人による精査もしておかなければならないだろう。
メガテウシスが出て行った後。
自分用のスパコンを立ち上げ。
各国の状況を確認。
各国でデータセンターを作らせているが。
これは全て支配強化のためだ。
コレを使ってネットワークを完璧に支配した上で。
インフラから何からを。
全て制御下におく。
人類は管理しておくに限る。
それが麟の結論だから。
インフラの完全管理と。人間の数の管理は、絶対に欠かせないことなのだ。
「順調すぎるほどだな」
「そろそろ仕掛けてくるだろう」
鮫の言葉に。
麟は凶暴な笑みで返す。
当たり前の話で。
麟が頭足類の意識まで取り込みでもしたら、もはやどうしようもなくなる。実力も、今の比では無くなるのだ。
その状態で、どうやって戦おうというのか。
まだ勝ち目がゼロに限りなく近くても。
今のうちに叩こうと考えるのが自然だ。
だから、それを完膚無きにたたきのめすためにも。今、こうして、わざわざ自宅などと言う不要なものをつくり。
其処に移り住んだのである。
勿論、移り住んだことは、全世界に配信する。
奴らもすぐに嗅ぎつけるはず。そして、最精鋭を揃えて襲撃してきたところを、正面から叩き潰す。
そして思い知らせるのだ。
悪魔は神には勝てないと。
裏側から、姑息な手を使ってくる可能性もある。
だがそれに関しても。
勿論手は打ってある。
今までのハッカーのやり口は、全て頭に入れてある。つまり、対抗策も全てねってある、という事だ。
あらゆる対策は実施済み。
さて、来るが良い。
支配を盤石にするために。
貴様達を糧にしてやろう。
麟はくつくつと笑うと。
あしらえた、多少下品な玉座につく。
わざわざ反撃のための路を整えてやったのだ。
傷の一つくらいはつけて貰わないと。
今回は面白くなかった。
(続)
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