はえといぶくろ
序、小さな寮の小さな高校生
柔らかな日差しが窓から差し込んできて、目が醒める。昨晩も良い夢を見た。
外では寮母さんが、花壇に水やりをしている音が聞こえる。平和な日常。体を起こした中沼優子は、大きく伸びをした。ふと、横を見ると、鏡に自分の姿が映る。僅かな違和感。そうだ。昨日から、パジャマを変えたのだ。ピンクのパジャマは子供っぽいと言われていたので、青いのに。しかし、パステルカラーである以上、これもあまり差はないようだった。
ちょっと残念だなあと思う。
欠伸をしながら、洗面所へ。歯を磨いて、顔を洗って。髪を軽く洗ってから、ドライヤーで乾かす。パジャマのボタンを外す。下着を替えて、セーラー服に身を包む。ちっとも女らしくならない体はコンプレックスになってはいるが、日々が楽しいのでつい忘れてしまう。
高校生になってから、東京に出てきて。寮で一人暮らしをするようになった。
専門のスキルを身につけるために通っている学校だから、変わり者も多い。だが、とても楽しい日々が続いていて、寂しいとは思わない。
戸棚を開けて、リボンを出す。青いの赤いの黄色いの。いろいろある。校則で禁止されていないから、ついつい揃えてしまったのだ。口紅も用意してあるが、これは冠婚葬祭とか、重要な時にのみ使う。それに使った所で綺麗になるわけでもないので、ちょっと苦手だった。
最近髪を切ったので、ポニーテールにするほどの量がない。ツインテールにするにはちょっと恥ずかしい。三つ編みにするには気が進まない。でも、リボンは使いたい。腕組みして悩む間に、時間が過ぎていく。
元気が良いノック音。お隣さんだ。女子寮で、こんなにドンドンノックをする人は、お隣さんしかいない。
「ゆーこ。 おはよー」
「おはよう、かな。 鍵は開いてるよ」
早起きのお隣さんはとは仲良しさんでもある。だから、鍵は朝から開けている。優子の部屋に入ってきたのは、優子よりも頭一つ大きいお隣さん。氷川かなえという。大人しそうな見かけとは裏腹に、力がとても強くて、ちょっと手加減しないとすぐ大変なことになる。学校では抑えているが、寮では逆に素でいることが多いので、ノック音も大きくなりがちなのだ。
かなは眼鏡マニアで、黒縁からサングラスまでいろんなのを部屋にしまっている。しかし恥ずかしいからと言うよく分からない理由で、外にはコンタクトで出かける不思議な子だ。今日もコンタクトにしているかなは、尻尾を振る犬のように友好的な笑顔で、狭い玄関から中に入ってきた。肩で切りそろえている髪がとても綺麗で、艶がある。時々男子が彼女の噂をしていると言うが、無理もない話だ。
所詮寝室とキッチン水回りだけがある小さな寮部屋である。数歩で、部屋にまで到達できてしまう。ましてや足の長いかなならなおさらだ。
「遅れちゃうよ。 どうしたの?」
「うん、リボンと髪型をどうしようかなーって」
「カレがいるわけでもないのに、どうしてそんなに張り切るの?」
「だって、こだわりなんだもん」
本当は験担ぎなのだが、それは他人に話したことがない。どんなに親しい相手でも、明かしたくない秘密というものは、誰にもあるものだ。かながしまってある水玉のリボンを取り出す。
「これにしたら?」
「ええー。 でも、子供っぽいよー」
「最近パジャマも水色の買ったんでしょ? それなら、水色で揃えてみたら?」
「うーん」
よく分からない理由だが、他人にそう言われると心も動く。それに、パンツも今日は水玉だ。揃えてみると何か良いことがあるかも知れない。
かなに手伝って貰って、髪ゴムでひっつめにして、上からリボンを巻く。もうちょっと伸ばした方がいいかなと思った。
床が腐りかけているので、どたどた走るのはあまり勧められない廊下を歩きながら、緑に染まっている木々を横目にする。階段を下りると、朝食の香り。今日はハムエッグとサラダだ。サラダには白いシーザードレッシングが掛かっていて、とても美味しそう。既に学年の違う何人かが、食事を始めていた。
「おはよー」
「おはようございますー」
ぺこりと頭を下げながら、食堂にはいる。自分の席に着くと、さっそくしゃくしゃくと食事を始める。かながご飯をよそってくれたので、お礼に醤油を取ってあげる。それぞれの好みを反映してか、此処のハムエッグには最小限しか味がついていないのだ。だから醤油を付けたり、胡椒を振ったり、各自で調整するのである。
少し遅れて、気怠そうに髪を掻き上げながら、一年下の生徒が入ってきた。後輩と言っても、少なくとも優子よりは五歳くらい年上に見える。未だに中学生や、酷い時には小学生に間違われる優子と違って、きちんと高校生に見えるのが不愉快だ。
「おはようございます」
「おはよー」
ふらつきながら、自分の席に着く後輩。もそもそと食事を始める。極端な低血圧で、朝はいつもあんな調子だ。あれでもエンジンが掛かってきたくらいなのである。心配そうに見つめるかなに、咳払い。
「遅刻しちゃうよ」
「う、うん。 分かっているわ」
優子を起こしに来ておいて、遅刻していては世話がない。
おかわりを三回して食事を済ませると、二人で一緒に台所へ食器を持っていった。マグカップ置き場に行って、牛乳を注ぐと、腰に手を当てて一気のみ。牛乳と小魚は欠かしたことがないのだが、全く背は伸びなかった。いや、小魚と牛乳を欠かさずにいて、ようやくこの背丈になった、のかも知れない。
150センチに届かない貧弱な背丈と体型は、優子のコンプレックスだ。
「じゃあ、学校へ行こうか」
隣で笑顔のまま、かなが言う。
口の周りの牛乳をハンカチで拭きながら、マグカップを軽く洗って、コップ掛けに置くと、頷く。
「うん!」
学校は好きだ。
最初は苦手だったが、今では大好きだ。
外に出ると、陽の光が一杯に降り注いでいる。振り返ると、二階建ての小さな寮。此処で暮らしている生徒は全部で12人。優子ら二年生は四人で、その中でも、サイエンス科は二人だけ。
学校までは歩いて五分ほどだ。
トラックが通るような危険な路は少なく、交通量も殆ど無い。ただ、学校の前にある急勾配の上り坂だけがちょっと面倒くさい。しかも此処は桜並木になっていて、毛虫やその糞が一杯なのだ。
近所のおじいさんが掃除をしてくれているのだが、文字通り干物のような人で、ちゃんと稼働しているのかいつも不安になる。小刻みな震えも止まらないし、掃除をしてくれているのにもかかわらず評判も良くない。
だが、そんなのは関係ない。毛虫が苦手なので、いつも挨拶は欠かさないようにしている。
「おはようございます。 いつも精が出ますね」
「あー、おー、おは、よ、う」
腰を曲げて箒を動かしていたおじいさんは、スローモーに動きながら、挨拶を返してくれた。多分自分が誰か、認識もしていないだろう。かなが笑顔のままに言う。
「ゆーこ、お爺ちゃんにいつも挨拶するよね」
「だって、毛虫苦手だもん」
「え? はい?」
「お爺ちゃん、時間は掛かるけど、毛虫もちゃんととってくれてるの知ってた? 苦手なの掃除してくれるんだから、感謝くらいはしないと」
ガードレールが毛虫だらけの状況を見たこともある優子にしてみれば、お爺ちゃんほどありがたい存在はいないのである。
お爺ちゃんは孤独な人だ。だから、自分だけでも、きちんと挨拶をするようにする。それが、優子の考える感謝の形だった。
学校が見えてきた。
制服は普通のセーラー服。大人しい生徒がむしろ多いくらいの此処は。
国が多大な援助をして造られた、幾つかの特殊専門コースを有する本格的な高校。高校で公立と言えば貧乏人が通うというイメージがあるが、此処は違う。
この国立桜花高校は、将来国を背負って立つ人材を育てることを目的として造られた、米国式とも言える全国でも極めてまれなエリート校だ。教育もかなり厳しい反面、校則を破って自己主張するような生徒もいないので、服装などは比較的ゆるやか。リボンなんか付けて登校できるのも、それが理由である。
ちなみに、この坂の手前くらいからちらほら見えるのは、強面の警備員である。たまにへんなのとかマスコミとかがちょっかいを出しに来るので、追い払うために常駐しているのである。噂によると、国際テロ組織の襲撃を警戒して、帯銃した警備員も控えているとか。そのために自衛隊員の一部が護衛として回されているとか言う話で、如何に国が此処にお金を掛けているかよく分かる。
優子とかなはサイエンス科の二年生だ。成績は中の中くらい。地元ではどっちも俊英だとか騒がれていたのだが、世の中は広い。ここに入ってみると、自分より上の人間などなんぼでもいると思い知らされて、今ではむしろ気楽である。最初の頃は二人して随分へこんだりもしたのだが。
入り口でIDカードを見せると、中に通してもらえる。下駄箱に靴をしまうと、教室に急ぐ。エレベーターは混むから使わない。三階まで一気にダッシュだ。生徒数は400と多めだが、それも全国から集められているから、競争率はとても高いのだとか。もっとも、受験をしたり、公募したりしているわけではない。スカウトされて入るのだ。
ドアの脇にあるスイッチを押すと、センサーが全身をしっかり調べて、ようやく開く。中にはしっかり空調が整備された部屋と、神経質なくらいきちんと並んだ机の群れ。そして既に七割方の生徒が来ていた。
「おはよー」
「おはようございます」
「うぃーっす」
なにやら不機嫌そうな声を挙げたのは、ド派手な金時計を腕にしている同級生。髪の毛もファイヤーな立ち方である。大人しすぎるくらいの生徒が多いこの教室で、ひときわ目立つ彼女は、篠原佳子という。通称おけい。佳子だから、ではない。やたら「オッケー」と言う事から着いたあだ名だ。
声は不機嫌そうだが、別に本当にそうな訳ではない。机で潰れている彼女は、どうやら昨日も夜更かししたようであった。
「おけい、また夜更かししたの?」
「オッケーっす」
「答えになってないよ」
「だから、オッケーっす。 この間話したジャン」
そういえば、言っていたか。オッケーと略せるゲームを見つけたので、それにはまっているのだとか。何でもオンラインゲームで、非常に過疎化が進んでいるらしいのだが、それが却って良いのだそうである。
金時計からも分かるように、おけいは財閥の一人娘だ。もっとも親と血はつながっていないらしく、優秀な子を孤児院から見繕ってきたのがおけいだという。代々そうやって優秀な当主を確保している家らしく、おけいも科学者として業績を残し、当主としての箔を付けることを期待されている。
そんなだから、随分破天荒な育ち方をしているおけいだ。山育ちの優子でも、おけいのワイルドさ加減にはかなわない。しかし、逆に言えば。だからこそおけいは、ゲームが好きなのかも知れない。
「そのゲーム、そんなに面白いの?」
「んーん? あたしみたいなクソゲー上級者じゃなきゃ、速攻で投げ出すと思うよ。 変な追加仕様をじゃんじゃん積み重ねた結果、訳が分からなくなってるゲームだもん」
助け船に巨大ハンマーを振り下ろして撃沈しておきながら、おけいは淡々と潰れたまま語る。
「でも居心地がいいんだ。 なまじ人が一杯いるオンラインゲームだと、変な派閥が初心者排斥してたりとか、ローカルルールが世界を造ってる常識みたいにまかり通ってたりとか、鬱陶しくて仕方ないんだって。 その点オッケーはいいね。 もっとも、クソゲー上級者のあたしでさえつまんないのが玉に瑕なんだけどさ」
「そ、そうなんだ」
「おけいって、つまらないゲームが好きなのね」
「そうなの。 因果な体質だよ、我ながら」
ひひひと、おけいは潰れたまま笑った。
おけいはクソゲーと呼ばれる、駄目だったりつまらなかったりするゲームの熱心なファンである。家にもプレミアのつくクソゲーがいっぱいあるそうだ。中にはクソゲーではなく、「とても高値なのに出来が悪くて怖い顔をしていて変な意味で人気が出てしまったおまけの邪神像」なるものも飾ってあるらしく、優子にはよくその趣味が分からない。写真も見せて貰ったが、確かに不気味な像だった。一万円もするらしく、どうしてそんなものにそんな値段がつくのか、ますます意味が分からなかった。
にこにこと笑みを浮かべていたかなが、不意に提案する。多分、そろそろ沈黙に耐えられなくなったのだろう。この子は図体がでかいが、心は都市伝説にある兎のようなのだ。つまり、寂しいと死ぬ。
時々優子は思う。この子はそのうち、死ぬほどくだらない男に引っかかって、苦労するんじゃないかと。
「ね、今日は授業も早く終わるし、そうしたらみんなでアイスを食べに行かない?」
「アイスー? あたしね、チョコミントがいいな」
「私はラベンダーソフトが食べたい」
「うふふ、じゃあ私はクッキークリームにするわ。 ゆーこ、貴方またラベンダーソフトにするの?」
不思議そうに言われたので、優子は小首を傾げていた。
だって、美味しいじゃないか。
山の中にある、小さな学校に通っていた頃。それこそ優子は、見かけた動物植物は全部食べたものである。人間とそれが飼ってる動物以外は。
雀はパチンコで落として食べたし、蛇は蒲焼きにしたし、蝗は佃煮にしたし、ツバメは爆竹で落とした。
雑草も殆ど食べてみたが、一度まむし草を食べて泡を吹いて病院に運ばれた。もの凄く怒られて、以降は出来るだけ人が見ていない所で、調べてから食べるようになった。
食欲は、全ての欲求に優先する。
いつのまにか、優子は図鑑ばかり読んでいて、とても勉強が出来るようになっていたのだ。
ラベンダーソフトが好きなのも、それが理由である。
そう説明すると、かなもおけいもきょとんとして、反応に困っているようだった。非常に分かり易い話をしたと思ったのだが。他の生徒になるが、狐を捕まえて、エキノコックスが移らないように良く焼いて食べた時の話をしたら、真っ青になって泣かれたこともあった。人間とはよく分からないものである。
「雑草の味を知ると、野菜がどれだけ美味しいか、よく分かるようになるよ。 それで、ラベンダーも食べてみたくなる」
反応したのは二人ではない。別の生徒。二人は優子が変わり者であることは良く知っているので、別段反応はしない。
「ちょ、ちょっと待って! 理論と結論が変! ラベンダーを食べたくなる理由がよく分からないし、そもそも、ざ、雑草、食べたの?」
「そりゃあちっちゃい頃は食べたよ。 どんな味がするのか、興味もあるし、何より食べないと分からないし。 だから、普通食べない?」
クラス中の人間が首を横に振ったので、優子は自分が常識の外にいたことを、初めて知ったのだった。
「ええー。 何だかつまんない子供時代だなあ。 そりゃあ私も、まむし草食べて死にかけてからは無差別には食べてないけどね」
「まむし草っ!? な、何その怖そうな草!」
草の話題で泣きそうになるとは軟弱な奴だと、優子はその生徒を頭の中で勝手に論じた。もちろん。本人は気付いていない。
「食べると死ぬこともあるんだよ。 だから、すっごい怒られた」
にやにやしながらやりとりを見守っていたおけいが、ようやく話に加わってくる。かなはずっとアルカイックスマイルのままだ。
「うはー、前からちょこちょこ聞いてはいたけど、野生児だなあ。 オッケー、も少し聞かせて。 それじゃあ、何で毛虫が嫌いなの?」
「それはねー、イラガに刺されて酷い目にあったから。 あれから、毛虫は見るのも嫌なのです」
「エキサイティングすぎるぜ……ゆーこの人生……」
おけいが呟くと、クラス中の生徒が同意を示して頷いた。
これくらい、普通だと思っていたのだが。どうやら、此処の生徒は予想以上にもやしっ子集団だったらしい。
まあ、仕方がない。此処に通っている生徒は大半がもやしっ子の見本なのだから。
先生が教室に入ってくる。優子は鞄を机の横に引っかけると、教科書を確認して、今日の授業に備えるのだった。
1、学校の一幕
この桜花高校は超エリート育成高校である。
だから、それぞれの教科に関しても、進め方は普通の高校とは随分違う。一日辺り処理する量は二倍以上に達するし、教材もお金が掛かっている。見せてくれるビデオなども、最新鋭の情報が、常に取り入れられている程なのだ。
だが、其処にいる生徒達は、多少変わっていても、結局の所人間である。
そう、中沼優子は考えていた。
「本日は、クローンマウスを造る技術についてのおさらいです」
机について、足をぶらぶらさせている内に。どこかの大学で教鞭を執っているという、頭の禿げたおじいさんが、プロジェクターを動かして、説明を始めた。高校でクローンマウスの理論を教え、実際に造ってしまうのは此処くらいだという。殆どは大学レベルでの作業になる上、学生には滅多に触らせてもらえないのだそうだ。
説明を続ける教授に、手を挙げたのはおけいである。
「質問っす。 人間のクローンは、その理論じゃ出来ないんですよね?」
「そうだね。 仮に出来るとしても、今は倫理的な問題が強くて、なかなか難しいだろうね。 ただ覚えておいて欲しい。 何もクローンは同じ人間を造るだけの技術じゃあないって事だ。 内臓や手足のスペアを造るという意味でも、クローン技術は意味がある」
単純に考えれば。胃や手足のスペアが出来る訳で、今までどうやっても治療できなかった大けがや、或いは難病を軽々克服できる可能性がある訳だ。内臓などの再生については、豚などを使った技術が開発されているが、今後は倫理的な問題と、技術的な問題が、更に戦いを深めていくことであろう。
今までは癌に冒され摘出していただけの臓器も、自分の、しかも健康なものと置き換えることが出来る。そればかりか、最終的には、脳以外の全てをそっくり取り替えることも出来るかも知れない。
人間は脳の寿命が来るまで、健全に生きられる時代が来るかも知れないのだ。
教授はそう締めくくり、授業は終わった。
マウスのクローニング実習は、来週からだ。結構楽しみである。だから、つい口に出してしまった。
「ねーねー。 楽しみだね。 来週の授業」
「楽しみだねー」
「背中にもう一本手が増えたら、便利そうだよね。 でも、服を改造しないと着られなくなっちゃうかも」
さらりといったのはかなであった。にこにこしているのは優子とおけいだけで、他の生徒は真っ青になっている。
「おっけー。 かながそうなら、あたしは目を増やしたいなあ。 額にもう一個目があると、なんだかカッコいいし」
「その目からビーム出すの?」
「そうそう、しゅびびびびびーって。 あはははははははは!」
「あははははは! 何それ! なにそれ!」
三人でひとしきり笑う。
ふと優子が気付くと、周囲の生徒達はどん引きしていた。普通の会話をしていたような気がするのだが。気を取り直して、優子はちょっと真面目な話に移行する。
「ね、ね。 私は、クローン技術が発達したら、是非是非胃袋増やしたいなあ」
「え? 胃袋増やしても、別に食べられる量は変わらないとおもうけど?」
「ちーがーう。 ねんがんの反芻機能をてにいれたぞ! って奴だよ」
よく分からないが、この台詞自体はおけいに聞いて覚えた。妙に気に入ったので、時々使っている。語源など知らないが。思わずうっとりして、優子は呟く。そうだ。胃袋が増えれば。
「人間には消化できないものだって、胃が複数あれば多分消化できるんだよ! 凄いことだって思えない? 生の雑草だって食べ放題だし、ひょっとしたらまむし草にリベンジできる日が来るかも! 或いは、ふぐをそのまま食べられる日が来るかも知れない!」
「ゆーこ、あんたやっぱり食欲大魔神だわ」
「違うもーん」
「別に牛は胃が複数あるから反芻できるんじゃないと思うんだけどなあ。 それに毒は毒だと思うけど」
つまらないつっこみをするおけいは無視。そのまま隣の教室に移動しながら、会話の続きをする。次の授業は、そっちでやるのだ。全周型プラネタリウムのある、これまたお金が掛かった部屋である。
「クローンのマウスが作れたら、そういう実験が出来るのかな。 腕を増やしてみたりとか、胃袋を増やしてみたりとか」
「どんなマウスなのよそれ。 マウス怪人じゃない」
「あ、それ採用! 卒業するまでに、全長二十メートルで、手足が六本ずつあって、額に目がついていて、其処からビームを出せて、胃袋が十二個あって何でも消化吸収できるマウス怪人を作ってみよう! 良い考えだ! でもそれだけだとすぐ退治されちゃいそうだから、一週間に十倍以上に増えて、一匹放すだけであらゆる国を三日で滅ぼすことが可能な最終兵器にしよう! 進化の速度も凄くて、そのうち宇宙まで地力で行っちゃったりするんだぞ! で、私は全長3000メートルくらいあるマザーユニットを操作して、彼らのボスになるのだあ! わはははは、世界よ我にひれ伏せえ!」
「た、頼むからやめてえええっ!」
絶叫したのは、さっきから一番真っ青になってがくがくぶるぶるしていた、隅っこの席の飛騨伊熊さん。猛々しい名前とは裏腹に、優子ら三人組とは違ってごくまっとうなお嬢様で、マウスの首も折れない弱々しさだ。マウスの脊髄が必要な実験の時は、いつも優子が代わりにマウスの首をぐきっと折ってあげている。脊髄を引っ張り出すといちいち吐きそうになる可愛い子である。だから、ついからかいたくなる。
「やだなあ、いっくーってば。 冗談だよ」
「貴方が言うと冗談に聞こえないの! この間だって!」
水玉のリボンがちょっと傾いていたので直しながら、この間の楽しい事件の事を思い出す。そういえばあの時、いっくーは失神して、数日間自室から出られなかったのだった。元々頭がいいのですぐに遅れは取り戻せたが、それ以来優子を見る目に恐怖が宿っているお茶目さんである。
成績は、ちなみに優子より随分いい。背丈は優子よりちょっとだけ高いくらいだが、でる所がでていて、実に羨ましい。その辺も、虐めにならない程度にからかう原因になっている。
「それに、いっくーだったらもっと凄いの作れそうなんだけどなあ。 ゆーこもそう思わない?」
かなの何気ない台詞に、いっくーがフリーズする。
「あ、それもそうだね。 折角だから巨大ロボを建造して、大地を埋め尽くすマウス怪人に対抗してみたら?」
「あ、面白そう。 いや、むしろオッケー! 大地を埋め尽くし、白骨の荒野に君臨するマウス怪人軍団の頂点に君臨するゆーこと、巨大ロボットを人体実験とかを繰り返して完成させるいっくーの、宿命の対決! ロケットパンチが火を噴くぞ! 人類の命運は、今二人の狂人に託された!」
「やだなあ、せめてマッドサイエンティストにしてよ」
「いやああああ! 人を勝手にマッドサイエンティストにしないでええ!」
自分までマッドサイエンティストにされているのが不満であったらしい。いっくーは本当に泣きそうだったので、この辺にしておく。でも、この学校に通っている時点で、あまり差はないのだが。
「まあ、それは冗談として、ホントに胃袋は増やしてみたいよね」
つい本音が漏れる。そうすると、何故か恐怖が頂点に達したらしく、いっくーは泣き出してしまった。
他の生徒はどん引きである。駄目だ此奴ら、早く何とかしないと。そんな目をしている。
しかし、これくらいでないと、国をしょって立つ科学者としては失格だろう。優子をこの学校に推薦してくれた人物が、こう言ってくれたのである。
「少年少女よ、マッドサイエンティストとなれ。 そしていつか世界征服をするのだ」
素晴らしい名言だ。今でも優子はその台詞のことを思うと、胸が熱くなる。
実際問題、巨大ロボはまだ人類の技術力では建造不可能だ。だが、造ろうと思う気持ちが、いずれ奇跡を呼ぶ。世界を恐怖にたたき落とす巨大クリーチャー軍団に関しても、それは同じ事だろう。
かながハンカチで涙を拭いて上げているいっくーに、また話を振る。これ以上怖がらせてはいけないので、話題を変える。
「そういえば、いっくーの尊敬している人って誰?」
「え? な、なに?」
「いやー、怖がらせちゃったみたいだから、話題を変えようかなーって。 ちなみに私はねー。 エジソンかなー」
「え? 意外とまとも、なんだね」
心外である。エジソンがまともな人物の訳がない。だから、ついエジソンについて熱く語ってしまう。
「私もあんなバイタリティが欲しいよ!」
「やだなあゆーこ。 ひょっとして電気椅子を刑務所に営業して回った時の話?」
「オッケー、落ち着けゆーこ。 それなら、テスラ博士を虐めて無理矢理直流電流を押し通そうとした話にしてみたらどう?」
「ブッブー。 違うもーん。 才能がない奴は何しても駄目だ! ってあの例の話が個人的には好みなんだよ。 エジソンにホンモノの才能があったかどうかはよく分からないけど、自分を天才と言い切って信じる、アホと紙一重っていうかある意味ホンモノのアホの所が私好きー! 尊敬してるけど、絶対一緒の人種にはなりたくないけどね!」
やっぱり怖がってしくしく泣き出すいっくー。一瞬だけ泣きやんだのに、難儀な話である。
分からん。何でこんな楽しい話で怖がって泣き出すのだろう。
隣の教室に着く。教室同士は結構離れているのだ。というのも、設備室やらスタッフの控え室やらが結構多くて、それで廊下も長いのである。生徒数に比べて、学校がやたらでかいのも、最新鋭の設備を揃えまくっているからだ。
部屋に着く。此処には席はなく、中央の全周プロジェクターの回りに、めいめい勝手に座るのだ。床は気持ちが良い冷たさで、座るととても心地良い。部屋全体が丸みを帯びているので、雰囲気は抜群だ。デートスポットにもなるかも知れない。
行儀の悪いおけいはあぐらを掻くが、一応女の子としての自覚がある優子やかなは正座する。男子達もめいめい入ってきて、それぞれが仲の良い者達同士と固まって座る。
いっくーは離れようとしたが、かながその長い腕を電光石火の早業で伸ばして襟首を掴み、自分と優子の間に座らせる。小さく悲鳴を上げたいっくーは、もはや此処で命を落とすことを前提としたかのように、真っ青なまま黙りこくってしまった。
他の女子生徒は愚か、男子生徒もかばおうとはしない。
今日の犠牲者が決定したことで、他は被害を受けないことがほぼ確定したからだ。
いじめが蔓延するのも、これと似た理由にある。基本的に人間は、自分に被害が及ばなければ何もしない生き物である。例えば性的に魅力があるとか、反故本能をかき立てられるとか、そういう理由がない限り、他人などどうなってもいいと考えるのが人間なのである。
仮にいっくーにカレがいたら違う反応も示したかも知れないが。
しかし、優子らがいるこのクラスは周囲から「魔王の箱庭」などと呼ばれており、生徒全員が魔王の眷属扱いされているため、カレなどとても作れそうにないのであった。昔だったら、女子が困っていたら助けようという男子もいたかも知れない。しかし今のご時世、下心があってもそんな風な行動を起こせる男子など、絶滅危惧種になってしまっている。ただでさえこのクラスには、「おしとやかな女の子」という絶滅危惧種がいるのだ。二匹もの絶滅危惧動物が一カ所にいるわけもない。
先生が来た。
いわゆるバーコード状態のおじいさんで、生徒には全く興味がないらしく、「ボイスレコーダー」とかあだ名を付けられている人だ。ただ、宇宙科学についての知識は確かで、どんな質問をしても答えが返ってくる。人間的な機能は失われつつあるのかも知れないが、しかしとても優秀な記憶媒体であることは間違いないのだろう。
「今日は、超新星爆発についての授業を行う」
ふるふる震える手でボタンを押すと、照明がゆっくり落ちていった。同時にプロジェクターが全天に美しい星の輝きを造り出す。
「わあ」
「綺麗だねー」
「オッケー! 最近のゲームでも結構いい星空造ってるのがあるけど、やっぱりこうやって見ると、プラネタリウムっていいよね。 まだまだゲームじゃ敵わないな」
「ああ、静かにしてくれ。 超新星爆発というのは」
星が死ぬ時に起こる大爆発。それが超新星爆発だ。
昔はあまり分かっていないことも多かった現象である。だが、最近は研究が進んで、細かい所まで分かるようになってきている。見かけ以上に危険な現象で、非常に強烈な宇宙線が放出され、少なくとも半径数十光年に渡って星々が汚染されるとも言われている。シリウスやαケンタウリなどの近場にある恒星が超新星爆発を起こしたら、地球は確実に死の星となるだろう。
先生が時々咳き込んだりしながら説明をしてくれる。そのまま魂が抜けてしまわないか不安だが、どうにか体に異常はないそうである。お金があるだけあって、国の方で無理矢理健康診断を受けさせているのだとか。
「昔は、大型の恒星しか超新星爆発を起こさないと言われていたのだが、近年の観測結果によると、死後白色矮星になるような小型の恒星でも、超新星爆発を起こす例が確認されておる。 ひょっとするとかなり小さい恒星である太陽も、寿命が尽きると超新星爆発を起こすかも知れないな」
げほんげほんと、先生が咳をする。何だか本当に大丈夫なのか、不安だ。
「ただ、それは50億年も先の話だ。 それまで人類が生き残っていることはないだろうし、生き残っていたとしても、対応策ぐらい造られているだろう。 もしそんなときまで人類が生き残れるようなことがあったら、それ以外にもっと深刻な問題に直面しているだろうし、気にすることではない」
続いて、超新星爆発の具体的な理論について、先生は説明してくれる。
全天型の美しいプラネタリウムが消えて、今にも爆発しそうな毒々しい恒星の映像に変わった。何かのドキュメンタリー番組のものらしいのだが、至近で、しかもプラネタリウムで見ると、凄まじい迫力だ。
「ええと、これが老年期に掛かった星じゃな。 赤色巨星という」
「やだ、怖い」
いっくーがもそもそと身を縮めた。相変わらず弱々しくて、嗜虐心をそそられる姿だ。でも、こんな暗い所で言葉責めして怖がらせても面白くない。というよりもそもそも最初から怖がっているので、これ以上はあまり意味がないような気もする。見ていて面白ければそれでいいのだ。
「これがコロナ。 普通の恒星でも100万度にも達するのだ。 こうやって膨張しつつある赤色巨星の場合、熱量は更に高い」
「これじゃあ、周囲の星は丸焼きですね」
「良い所に気付いたな、ええと、誰だっけ」
「中沼優子です」
そうか、な「が」ぬま君だったかと言われたが、訂正はしない。どうせ覚えてはくれれないからだ。そんなことで時間を取られるよりも、話を聞いた方が有意義な時間を過ごすことが出来る。
この教室に来ているような生徒は、皆一度聞いたことなら覚えておける程度の頭脳の持ち主だ。もちろん優子も例外ではない。特に授業などで、重要だと認識した事柄については、別に敢えて復習をしなくても、記憶の引き出しから引き出すことが出来る。ただ、その性能に、多少の差があるくらいの違いしかない。
「超新星爆発と言っても、いきなりどかんというわけじゃあない。 こういう風に衰えた星は、重力と、核爆発による外に出ようという力のバランスが崩れた結果、こんな風に広がってしまうのだ。 だから、核爆発がそのまま広がっていると考えた方が良いじゃろうて」
「つまり、核爆発に飲み込まれちゃう、って事ですか?」
「そうじゃな。 である程度それが進行して、中心核が鉄ばかりになって核融合が起こらなくなると、最終的な段階に移行する。 まあ、太陽くらいの星の場合は、大体の場合はそのまま白くて小さな白色矮星になる。 大きな星の場合はそのままドカンといって、残った所に中性子星やブラックホールが出来るというわけじゃな」
そうして、ドカンの絵を出してくれる。
それはとても美しい光景。しかし、そうなる過程で、どれだけ過酷な環境変化があったかと思うと、綺麗だと呟くにはあまりにも不謹慎だと、優子は思った。可能性は低いだろうが、その星の周囲に惑星があって、何か生き物がいた場合。万が一も助からなかっただろうから。
授業が終わると、おけいが大きく伸びをした。
この授業の後は何もない。ホームルームを終えると、アイス屋に向かう時間である。普通の高校に比べると授業量は多いが、どれもとても楽しいので、疲労は感じない。となりで青ざめているいっくーは、何故か疲れ果てているようだが。
おいおい生徒が出て行く。教科書を鞄にしまいながら、優子は足の甲でふくらはぎを掻いているおけいに言った。
「でかい花火だったね」
「光の速さで何十年も掛かる距離まで、皆殺しにする花火でしょ? もうそんなん、花火じゃないよね」
「そうだね。 花火じゃあないとすると、何だろ」
「超新星爆発じゃないの?」
さらりと、かなのつっこみが入った。それと同時に、笑いのスイッチが入った。
「あははははははは! 違いない!」
「そうだね! 確かにそうだ! 巨大核爆弾じゃ面白くないもん」
「まあ、それを言ったら太陽そのものが巨大核爆弾だよね」
「オッケー、話がループしたよ!」
ひとしきり笑うと、悲しそうに座り込んでいるいっくーに気付く。視線が自分に集まったことに気付いて、ひっといっくーは悲鳴を漏らした。
「な、何?」
「いっくーは、ロボット工学志望だったよね」
「うん。 そうだよ」
さっき話題が出たのも、無理がある話ではない。彼女はロボット工学の分野で、期待のエリートなのだ。中学の時代に全国ロボットコンテストの上位を取った事があり、強いプッシュを受けてこの学校に来た。
最近のロボットは単純な機械の塊などと言う簡単なものではなく、動物の神経系を真似した行動プログラムや、感覚共有基幹に到るまで再現しているものも多い。それぞれの個別授業ではそういった事も勉強するし、三年からの専門コースでは国でもトップレベルの最新知識を聞いて、しかも触れることが出来る。
マッドサイエンティストの卵としては、こたえられない環境なのだ。
「恒星をエネルギー源にしちゃうようなロボ、造ってみたいとかあるの?」
「な、なんでそうなるのっ!?」
「だってあの漫画の神様があんまり好きじゃなかったけどその代表作になってる作品の主人公も、お腹の中に原子炉積んでるでしょ? それだったら恒星を入れちゃった方がはやそうだなーと思って」
「あ、それはナイスアイデアね。 ダイソン球でロボットつくっちゃうんだ」
嬉しそうに言うかな。そう言えば彼女は宇宙技術科志望だった。隣の部屋には、いろんなロケットの模型が山ほど置いてあるのだ。
優子は楽しい話題に、ふと疑問点を見つけてしまう。
「でも、そうなると余程凄い敵がいないと、面白くないね」
「待って! 何で戦うことが前提なの!?」
「だって恒星まるごとなんてエネルギー、それ以外に使い道がないじゃん」
さらりと返すと、やはり泣きそうな顔をするいっくー。何だかよく分からない。基本的に、ロボットは人間に出来ないことを効率よくさせるために存在している人型の道具に過ぎない。かって奴隷にさせていたことを、代替してやらせるものだ。リラクゼーション機能を有することは出来るだろうが、断じて人間の友達などではないし、思考的なパートナーでもない。
恐らく、高度なAIを積んだロボットが現れても、それに代わりはないだろう。専門家でない優子でも、それくらいはすぐに分かるのに。
教室からは、不穏な空気を察してか、そそくさと他の生徒達が逃げ出していく。いっくーも逃げたそうにしているが、かなが笑顔のまま見張っているので、逃走できずにへたり込んでいる。
「それなら、さっきのマウスの話が面白そうだよ。 宇宙でも活動、繁殖できるように調整できない? オッケー、それだ!」
「あ、面白そうだね。 そうなると一匹当たりのサイズは百から五百メートルくらいにして、生体バサードラムジェットエンジンで宇宙を飛べるくらいの機能は欲しいなあ。 理論上は光速に近づけるもんね。 で、宇宙空間の戦闘を想定して、一番効果がありそうなのはレーザーとか荷電粒子砲だから、生体粒子加速器もつまないとね! それで、全体をコントロールするマザーユニットは水星くらいの大きさにするの! で、私は、その中枢で、宇宙の全てを支配するのだ!」
想像すると、思わずうっとりしてしまう。全てを食らいつくす宇宙マウス軍団を支配する、全能不老の狂科学者に、自分がなる。何と胸躍る光景だろうか。
全ての資源、全ての文明、全ての生命を消し、そして私も消えよう!永遠に!そんな台詞が似合いそうだ。
そのような科学力を人類が持つ時代が来れば最高なのだが。残念だが、今の科学技術では、とてもそんなものは作れない。良くない時代に産まれたものである。
優子の楽しい妄想を、かなが後押ししてくれる。
「それで、億を超える宇宙マウスの大軍団と、ダイソン球をエネルギー源にするいっくーの巨大ロボットが戦うのね」
「うっわー、凄そう! ドリルがいっぱい着いてる螺旋をエネルギー源にするロボットみたいな戦いが見られそうだね! オッケー、楽しそうだ!」
「それはよく分からないけど、凄い戦いになりそうだね。 で、コックピットでいっくーが言うんだよ。 ねんがんのダイソン球をてにいれたぞ! って。 その後、な、なにをする、きさまらーとかいいながら、私のマウス軍団に、ロボットを奪われないためだけに戦いを挑むの!」
「かくして、世界は二人のマッドサイエンティストの争いの中、滅びようとしていた」
「滅びないでええっ! そんな世界に連れ込まないでえええ!」
わっと泣き出すいっくー。
からかうと楽しい子である。
2、アイスとソフトとラベンダーとその他いろいろ
いっくーをからかうのも飽きたので、優子は当初の予定通り三人で、ホームルーム後にアイス屋さんへ向かった。
学校前の坂道を降りて、寮の前を通り過ぎて、十分くらい歩くとたどり着ける。アイスクリームだけではなくて、ソフトクリームも当然楽しめるお店で、歯ごたえのあるコーンがなかなか美味しい。
専門店だけあり、アイスそのものは充分に種類が多いが、欠点もある。そもそもアメリカのチェーン店から来ているらしく、どぎつい味のアイスが多い。これでも日本で販売する時にかなりレシピを弄っているそうなのだが、それでもちょっとデフォルトで味がきつめである。
だから、優子は余計にラベンダー味のソフトばかりを食べる。なに、お小遣いは国からも支給されているから潤沢だ。全身を金細工で飾り立てでもしない限り、充分すぎるほどに豪勢な生活を楽しむことが出来る。寮だけは狭いが、こればかりは仕方がない。公務員が初期の頃に待遇で苦労する点で、この国は昔から変わらない。どうせ優子達は、後に高級官僚か政府お抱えの科学者が確定している。
門限破りは、比較的素行が悪いおけいでさえしない。この学校は、天国であると同時に、地獄の一丁目。もし脱落するようなことがあったら、その先は語るも恐ろしい運命が待っているのだ。
何人かのスケープゴートの実話があるため、今では脱落者も殆どでない。誰もが怖いのだ。脱落することが。
「店員さーん、ラベンダーソフトもいっこ追加!」
「はい、かしこまりました」
「ゆーこ、あんたそれもう四つめだよ。 体重大丈夫?」
「大丈夫。 私牛乳飲んでもお魚食べてもアイス食べても雑草食べてもトリ食べても犬食べてもネコ食べても野菜食べても牛豚とか多分人間食べても背が伸びないから。 横にも大きくならないから」
そういうと、羨ましい体質だと言われる。
万年幼児体型でいいのなら、代わってあげようかというと、断られる。
難儀である。女という生き物は。
「ねえゆーこ。 ラベンダーも良いけど、チョコミントにしてみない? こっちもおいしいよ?」
「チョコミント? んー、そうだね。 もう一個食べたらね」
「悪食の割には凄い偏食だなあ。 アメリカに渡った安打製造器じゃないんだから」
「ああ、奥さんのカレーしか食べないってあの人ね。 きっとゆーこなら、あの人に匹敵する業績が上げられそうね」
子供みたいに笑って礼を言うと、かなにハンカチで口の周りを拭かれた。どうやら口の周りがラベンダーソフトで口紅状態になっていたらしい。
それを見ながら、おけいが呟く。
「昔の有害物質満載の化粧品だったら、流石のゆーこもダウンだったのかな」
「ああ、水銀とか鉛とか入ってたらしいね。 水銀に入れておけば腐らないから、究極の防腐剤だと思われてたみたいだし」
「腐らないって言うより、腐敗菌も死んじゃうって猛毒ですものね。 話によると、水銀に浸けられた状態で発見された古代の死骸が、新品同然の姿だったらしいわよ。 空気に触れたら、すぐに色が変わってしまったらしいけれど」
後ろでアイスを食べていたカップルが、真っ青になりながらこっちを見て、制服を確認するやいなやそそくさと逃げていった。
優子も聞いている。桜花高校は何でも魔王高校とか周辺で呼ばれているらしく、その生徒は地獄の使者で、いざ捕まろうものなら即座に人体実験の材料にされるとか。楽しい噂だが、実際には「其処まで」凶悪ではない。ただし、生徒に護衛を兼ねた監視がついているというのは事実である。今もおけいが、指でこっそり示した先に。それぞれの担当らしい私服のSPが、アイスを黙々と食べていた。
桜坂高校の女子をナンパしようものなら、それこそ気がついたらゴミ捨て場にいるような状況。愛らしいいっくーに彼が出来ない訳である。優子の知る限り、今時の男子には、そんな恐怖に立ち向かうような根性も度胸も備わってはいないのだから。
ラベンダーソフトを食べ終えてしまうと、また口の周りが口紅状態になってしまった。かながまたハンカチで拭いてくれる。相変わらず、世話焼きやさんだ。
「店員さん、チョコミント一つ!」
「おお、チョコミント挑戦!」
「うん。 かなとおけいはもう食べないの?」
「私はもういいわ。 食べるだけ太っちゃう体質だから」
そういうかなは、見事に女の子の体型をしている。ダイエットの必要があるとは思えない。
ただ、かなの場合、いつも早起きして、体を鍛えているらしい。だからあんな馬鹿力なのだろうか。それに太らない訳だ。
「あたしはもうちょっと食べる。 今日もオッケーに潜るから、今の内に糖分入れて、脳みそ活性化しておかないとね」
「今日も潜るの?」
「うん。 管理が甘いからね、乱数がもう少しで読めそうなんだ。 チートの類はしないって信念があるんだけど、乱数弄るのは個人的にはオッケーだから」
「よく分からないけど、大丈夫なズルと、駄目なズルがあるんだ」
そゆことと応えながら、おけいが新しいチョコミントにかぶりついた。文字通りかぶりつくという食べ方で、豪快である。そのくせ、口の周りはチョコミントだらけにならないのだから面白い。
優子も似たような形でかぶりつく。ミントの味とチョコチップが混じり合って、確かに美味しい。ロングセラーになるはずである。
「牛も食べない雑草って点ではラベンダーもミントも同じなんだけどね。 味が微妙に違って面白いなあ。 がぶ」
「あははははは、そう言われちゃうと、身も蓋もないよなあ。 がつがつ」
「もう、下品だから、効果音つきで食べないの。 て、ゆーこ貴方。 いきなりコーンから行く人は初めて見たわ」
「昔、べろでコーンにアイス押し込みながら食べてたら、下品だって怒られたことがあったから。 先にコーンから食べて、後は丸ごと囓るようにしてるの」
そういいながら、優子は小さな顔からは想像も出来ないほどに口を大きく開いて、さながら人間サイズの蛇がバスケットボールを飲み込むがごとくに、残るチョコミントアイスをぺろりと平らげてしまった。
「んー、美味しいけどやっぱりラベンダーソフトのがいいなあ」
「まあ、好みはあるからね。 で、やっぱあんた、胃袋最初っから複数あるだろ」
「えー、そんな事ないって。 複数あったらもっと豪快に食べてるから。 でも、今日はもういいや。 おけいは?」
「あたしももういい。 引き上げよっか」
後に残るのは、アイスを刺して運んできた、曲がりくねった金属の山。周囲の学生らが、度肝を抜かれた様子で、机の上の地獄絵図を見つめている。会計を済ませて店を出る。てくてく寮に向けて歩きながら、楽しくトークをする。途中でおけいはお別れだが、その過程を楽しむのだ。
「そういえば、海外にはいろんなアイスがあるらしいね。 豚骨味とか」
「ああ、あたしも聞いたことがある。 日本じゃ下手物扱いの奴が、結構正当派扱いで売ってるらしいね。 ただ、それも味覚の違いから来る文化の差だろうけど。 でも、辛い系統とか、肉系のアイスは、ちょっと日本人には想像できないよね。 私的には全面的にオッケーとは言い難い!」
「正当派と言えば、沖縄ではさとうきびソフトというのが売っているのだけれど、あれはとても美味しいわ」
「またそれはストレートな。 でもちょっと食べてみたいなあ」
おけいはそう言う。実は、優子は二度それを食べる機会があった。砂糖の味が非常に濃厚で、とても美味しいソフトクリームだった。ただ、沖縄の何処でも食べられるという訳ではなくて、ちょっと限定的なメニューだったのだが。
また、さとうきびを素材にしているソフトクリーム自体は、独創的なものではない。日本本土でも食べることは可能だ。
優子の顔を見て、聡明なおけいは即座に気付く。この子は髪型や趣味はあれだが、優子よりずっと優れた洞察力と判断力を持ち合わせている。これくらいはお茶の子だ。
「ん? ひょっとしてゆーこ、食べたことがあるの?」
「ん、うん。 前にね。 家族旅行で沖縄に行った時に、ちょっと。 美味しいソフトクリームだったけど、何処にでもある訳じゃあなくて、見つけたのはすごくラッキーだったっけ」
「へー。 沖縄。 一度行ってみたいなあ」
沖縄、か。
常夏と言っても良い、亜熱帯気候のあの島で。生物学志望の優子は、いずれ過ごすことがあるのかも知れない。
だが、この三人は。いずれもが、将来の志望が違う。野心的であるが故に、きっとその路は、簡単に交わることはないだろう。そして仕事の難易度が故に。それぞれの路は、遠く離れていくだろう。
ちょっと寂しいおけいの言葉。修学旅行などと言う、子供の遊びは、桜花高校には存在していない。だから、きっと三人で行く機会は、無い。ただ、にこにこしているおけいにそれを告げるのも大人げないので、黙っていた。
おけいはちょっと思慮が足りない所があるので、時々こういう発言が出てくる。でもそれは、多分悪いことではない。目をつぶれば済む程度の欠点に過ぎないのだから。
T字路にさしかかる。そこは、平路に不意に坂が割り込んでくる、特徴的なT字路。幾つかある桜花高校の寮のうち、おけいが住んでいるのはこっちにある。何度かおじゃましたが、まさに電子の要塞というのが相応しい場所で、しかし自宅にある自室は最も凄いと聞いている。
「あ、もうこんな所か」
「じゃ、明日。 明日は海底移住の可能性についての話だったっけ」
「うん。 宿題忘れないようにしよーね」
「さよなら。 また明日ね」
おけいと別れる。
来年からは、それぞれ専門分野も違ってくる。宿題も多くなる。
元々並の学生とは処理能力も段違いな桜坂の生徒だが、六大学かそれ以上の学問を行う三年の授業による負担はかなり大きく、今までのように一緒にアイス屋でおやつにするようなことは簡単にはできなくなってくるのだ。
だから、今を謳歌する。
自分たちの寮も、比較的すぐ。帰り着くと、夕食までの少しの時間まで、やることをやっておこうと、優子は思った。
まず着替え。
自室では下着で彷徨くような子もいるが、流石に優子の貧弱な裸体を空気にさらすのはちょっと虚しい。水玉のパンツやら、子供っぽい上に下手をするとずり落ちかねないブルーのAカップブラジャーとかも、あまり人に見せたいものではない。傍若無人で食欲魔王のように思われている優子だが、体に関するコンプレックスは強く。共用の洗濯機に、着替えや下着を置きっぱなしにしたことはただの一度もない。
幾らこの寮に、男子がいなくて、侵入も不可能だとしても、だ。
だから水色のパジャマに着替えて、パソコンを起動する。中規模程度のサーバコンピューターとしての機能を持つほどの、優れたPCだ。ちなみに優子だけがこんな贅沢をしているわけではなく。一見古めかしいこの寮の、全ての部屋にこれと同等のPCが配置されて、使うことを許されている。
壊したら、補修を自分で行わなければならない。その上、どこから監視されているか知れたものではなく、事実重々監視されているだろう。だから、自由に使えると言っても、アダルトサイトとかに行く生徒は殆どいない。ただどうしても、特に男子は性欲が溜まるようだから、ある程度は大目に見られていると、聞いたこともある。
優子が使うのは、そういう目的ではない。まずは勉強のため。立ち上げると、今日の勉強の復習。必要はあまりないが、優子の成績はせいぜい中の中。他の高校ではずば抜けてぶっ飛んでいても、此処では並と言うことだ。そして、天才と言うには少し足りない部分もある。スペックが若干足りない。だから、念のためにも。多少は復習をしておく事を、自己に科している。
それが終わると、予習。
生物科学畑の優子は、今や並の教授並みの知識がある自負を持っている。しかしながら、専門分野以外の事はかなり微妙だ。だからこうやって、軽めに自習をしておいて、明日いっくーで遊ぶ準備をするのだ。
単純な知識欲もある。
如何に畑が違うとはいえ、学問とは元々楽しいものなのだ。
子供の頃、見かけた動物は、片っ端から喰らった。昆虫、ほ乳類、鳥類、魚類、菌類からあらゆる植物まで。人間とそのペット以外は、全てが優子のご飯だった。お人形遊びとか、ビーズのアクセサリなんてどうでもよかった。不思議とリボンだけは興味をそそられた。可愛いデザインの服にも気を引かれた。しかし、それも、食欲に優先するものではなかった。
まずは捕まえることから始めた。最初は手で捕まえられる虫から。工夫を凝らしていく内に、あらゆる事が身についた。パチンコを扱えるように。虫網を巧みに使えるように。そして、勉強しているうちに、危険な動植物の知識も増えた。対処方法も。
幼い内にイラガに刺されたのは僥倖だった。危険な動物が本当に危険だと言うことを、身に染みて学習できたからだ。キノコ類に手を出さない知恵も、まむし草を食べて生死を彷徨ってから、身につけた知恵だった。
毒蛇のとらえ方は、小学校に上がる頃には身につけていた。爆竹を使った改造爆弾で鳥を叩き落とすことは、小学二年の頃には成し遂げていた。
鳥はすばしっこく、簡単には捕まらない。だが何処の枝に止まるのか、縄張りはどうか。そう言うことを先読みして、爆弾を仕掛けて。近付いたら起爆して、気絶させてたたき落とすことは決して難しくなかった。同じようにして、魚も捕まえられるようになった。釣りなどと言う悠長なことはしない。防水加工をした爆竹の火力を極限まで上げて、魚が住んでいる所に仕掛けて、ドカン。それだけで、簡単に魚を捕らえることはできた。
対象がエスカレートするのに、時間は掛からなかった。
それが法に触れる事も。小学三年を過ぎた頃には悟っていた。そして両親が平凡であるが故に。自分の欲求と苦悩を理解することは、出来ないと言うことも。
中学に上がった時には。こっそり食べる知恵を身につけていた。
野犬を食べたいと思った。
だから、罠を張った。網と餌を使って捕らえた野犬は、試行錯誤しながら頭を割って、内臓を取り出して。焼いて食べた。
野良猫も食べてみた。こっちは頭が悪かったので、簡単に捕まえることが出来た。しかし食べてはみたものの、不味くて噴きそうだった。そういえば。四つ足は机と椅子以外何でも食べるというお隣の国でも、ネコは滅多に食べないと聞いたことがある。頷ける話だ。こいつらは恐らく、その身を、肉のまずさでも守っているのだ。人間という、恐怖の破壊殺戮者からも。
野生の鹿を食べてみた。捌き方は色々な文献から調べた。山奥に入って、野生化した山羊を見つけた時は幸せだった。危険を感じて逃げる山羊を、巧緻を極めた罠に追い込んで、そして焼いてばらして喰らっている時に。
迷彩服の人達が、優子を囲んだのだ。
骨付き肉を口に入れているにもかかわらず、左腕を取られて、逃走を封じられる。
「対象Y、発見。 確保しました」
迷彩服の人達は、そんな事を言った。動きからいって、自衛隊の精鋭。多分レンジャー部隊だろう。色々難しいことを話していたが、興味はない。だから、空いている右手で、食事を続けた。指先と、口の周りを、油だらけにしながら。度肝を抜かれた様子で、迷彩服のおじさん達は優子を見つめる。
優子にとって、食事は食事。
そして、それは侵し難き神聖な儀式。
「ねえ、誰だか知らないけど、これ食べ終えるまで待ってくれる?」
「抵抗はするな」
「しないって。 で、何のよう?」
「お前がこの近隣で、鳥獣保護法を犯して動植物を喰らっていることは、とうに調べがついている。 中学一年生とは思えぬ手腕だと言うことも分かっているが、大人をあまり侮らないことだ」
ああ、やっぱり来たか。そして逮捕されるのかなと優子は思った。
いや、優子の年だと補導か。それに、これだけ色々喰らったのだ。普通の精神科の人間が見たら、こう結論するだろう。
「次は、人間だ。 か……」
興味がないと言ったら嘘になる。
だが、実行する気はない。怪我をした時に、一度痛いのを我慢して自分の肉をちょっと囓ってみたことがある。腕の肉だったが、あまり美味しくなかった。
そして、カニバリズムについても調べたことがある。あまり美味しいものではない上に、特殊な性癖がなければ食べられたものではない事も分かった。
ぐつぐつと煮えている鍋を火から下ろす。入っているのは山羊の脳みその煮付けだ。どこかの国では御馳走である。手を離して貰ったので、お椀に装いながら、笑顔を浮かべる。ふーふーして、口に運ぶ。結構美味しい。お腹に虫が湧かないように、きちんと火を通さなければならないけれど。食べるかと聞いてみたら、断られた。だから、黙々と一人食べた。いつもと同じように。
「でも、大げさだね」
男達は優子には応えず、山羊を食べ終えるまで待ってくれた。
そして、車に連れ込まれて。知らない建物に連れて行かれた。気が弱い女の子だったら、もう怖がって泣いていたかも知れない。しかし優子は、妙に落ち着いていた。小さな足を助手席でぶらつかせながら、ジープを運転するおじさんに話し掛ける余裕さえもあった。
「何処へ連れて行くつもり? 警察じゃないでしょ」
「……」
車が到着する。
到着したのは。国立科学研究所と看板を掲げる、小さなコンクリートの建物だった。
そこで、優子は、如何にもえらそうな人達数人に、提案をされる。それが、桜花高校への進学が決まった瞬間であった。そして、真っ青になった両親と、対面した。
優子は笑顔で言う。
「私、入るよ、その高校。 楽しそうだから」
まるで化け物でも見るかのような、その時の両親の顔。それが何処か滑稽だった。その日の夜。家に帰された優子は、不思議な夢を見た。
闇の中、声を聞いたのだ。その声は、自分のものだった。不思議な一体感の中。その声は宣う。
我が名は暴食。七つの大罪の一つ。
そして、魔界でも最強を誇る、蠅の魔王である。
汝、暴食にて路を為す者。その道を、極めてみよ。
そんな声が、その時。自分の内側から、聞こえた気がした。
だからその日から。優子は己の暴食を、全て学問へと振り分けて。そして、此処にいるのだった。
いつの間にか。背中に透明な羽根があるイメージを、優子は持つようになっていた。見ることが出来ないのに。どうしてか、それには髑髏の文様があると、分かるのだ。
それは普段は出てこない。でも。時々、食欲が高まる時。背中に存在感を示して。そして、優子を食事に駆り立てる。
今日も、そうだった。
アイスは美味しかった。しかし、まだ足りない。
いずれ、もっと食べたい。その欲求は、学問への執念へと振り分けている。
やがて生物学者になった時。
優子はもっと多く食べることが出来るのだろう。
羽根の音が、闇の中で響く気がした。
3、海底ラプソディ
目を覚ます。もちろん背中に羽根はない。
大の字に、実に色気のない格好で寝ていた優子は、ノック音に気付いてしまりのない笑みを浮かべていた。
「おはー。 今開けるよ」
大きなノック音が、相変わらず的確に眠りを覚ましてくれる。
食い尽くせ。そういう蠅の王の夢が、時々優子を蝕む。だが、その夢を見た後は、不思議と頭が冴え渡る。
水色の着崩したパジャマを、部屋に入ってきたかなに手伝って貰って脱ぐ。今日はどんな髪型にしようかなと思いながら歯磨き。歯はとても丈夫だという自信がある。顔をばしゃばしゃ洗って、下着を替えて。
そして、制服をするすると着る。
「今日はどんな髪型にしようかなあ」
「ゆーこは小さくて可愛いから、何でも似合うよ」
「ありがと。 じゃあ今日は、しばんなくていいや」
ヘアバンドを取ってくると、それに赤い水玉のリボンを付けて、頭に装着する。今日はパンツも赤いので、おそろいだ。
験担ぎは、今でも続いている。だが、誰にも、例えかなにも、それは話さない。
朝ご飯を食べに降りる。そして、ハムエッグを食べながら、今日の確認。
「今日の勉強って、あれだよね。 海底移住の可能性」
「ええ」
「海底っていうと、なまこだよね」
なまこ。珍味。
あまり食べたことはないのだが、優子の好きな食材だ。クラゲも好きなのだが、あれは海底にはあまり住んでいない。住んでいる生物的に近い奴は、違う名で呼ばれる。イソギンチャクである。
ちなみに、イソギンチャクにも、遊泳能力があるのは秘密だ。食べて美味しいという話はあまり聞かないが、一応食べる地方もあるというのは知っている。まあ、優子には。毒が無くて食べられると言うだけで、大体がごちそうだ。
「食べたいなあ、なまこ。 海底に都市を造ることが出来たら、食べ放題なのかなあ」
「どうなんだろうね。 その辺の環境が汚染されて、食べられないかも知れないよ」
「それは困る」
ハムエッグを平らげてしまったので、ご飯に醤油をちょっと掛けた。なんだかハムの品種が変わったのか、いつもに比べて著しく満腹感が小さいのだ。ご飯だけ食べても、あまりお腹は膨れない。マーガリンはないかなあと冷蔵庫を漁るが、共用の冷蔵庫にそんな都合がいいものはない。大体あれは、あつあつのご飯の中に埋めて、上から醤油を掛けて美味しく楽しむものだ。パンに塗るなどというのは邪道である。
「マーガリンがないー」
「今日買いに行く?」
「やだよー。 だってこんな飢えた亡者どもの中に置いておいたら、すぐに無くなっちゃうもん」
「魔王も、自分の目が届かない所では、亡者の行進を許してしまうものなのね」
中腰で冷蔵庫をまさぐる優子を、後ろでくすくす笑いながらかなが見つめている、らしい。笑っているのはかなだけだが、見えないのでそうとしか判断できない。
古くなりつつあるおつけものを横にどけて、見つけたのはマヨネーズ。マヨネーズならシーチキンが相性抜群だが、生憎無い。シーチキンなどという素敵な食材がこんな所にあったら、瞬く間に食い尽くされてしまうだろう。コンビーフだってすぐに食べられてしまうくらいなのだ。仕方がないので、ふりかけを棚から出して、ご飯に掛ける。生徒ががつがつ貪り食うのを避けるために、非常に味が薄いごま塩ふりかけだ。
「かなー。 味気ないよー。 肉が食べたいー。 野菜でもいいー」
「まあ、いいじゃない。 塩分取りすぎで体がおかしくなるよりは、多少空腹でもそのまま過ごした方がいいよ」
「ジョーダンじゃない。 これ以上痩せたら、たださえぺったんこな胸がさらになくなって、ブラジャーがずり落ちちゃうよ」
優子に背中を向けて食事をしていた男子生徒が、噴き出す雰囲気があった。別にそれこそどうでもいい。
「雑草取ってこようか。 でも寮の周りにある奴って排気ガスすってるから不味いんだよねえ」
「またゆーこはそういう事言って」
「野犬とか野良猫とかいないかなあ。 罠だったらすぐ作れるんだけど、あ、でも爆竹がないや。 槍とかは竹から切り出せるけど……あ、竹もない。 ふべんだなあ。 鉛筆じゃ火力不足だし、包丁持ち出したら怒られそうだし」
「きっと野犬はいないよ。 野良猫はいるかも知れないけど、美味しくないって言ってなかったっけ?」
地面に突っ伏す。
そうだ。味気ないごま塩のせいで忘れていた。ネコほど不味い動物はそうそういないのだった。へたをすると骨ばかりのヒトデよりも不味いかも知れない。食べた優子だからこそによく分かる。
「ああああああ、そうだった。 あいつら美味しくないんだよ。 しかも食べると倫理的にどうだとか変な団体が五月蠅いし」
「じゃあ、ごま塩だけで食べればいいのよ。 帰りにファミレスにでも行きましょう」
「うー。 やっぱりひもじい。 血の味がほーしーいー!」
昨日あれほどアイスを貪り食ったというのに。
どうやら今日は、優子が机で潰れるらしかった。
学校に出ると、どうやら昨晩も深夜までオッケーにいそしんでいたらしく、おけいが机に潰れていた。
その近くで、優子も机に潰れる。ひそひそ声は、きっと。二人が静かにしてくれると助かるとか、そう言う意味なのだろう。
不意にがばりと顔を上げた優子が吠える。
「主食! 主食ー!」
「おかしでも食べる?」
「それは年頃の小娘の主食! あーうー。 肉が食べたいー! 雑草が食べたいー! 命あるものを、胃袋におさめたいー! 胃袋が複数ほしいー!」
どんどんどんと机に拳を振り下ろす。周囲の生徒達の間から、怯えた声が上がった。それが頂点に達する前に、若干錯乱気味の優子の延髄を、かながチョップした。
再び机に突っ伏す優子。周囲のざわめきが小さくなる。ほっとした様子である。
「あうう……。 いたいー。 折りたたまれるかと思ったあ」
「貴方もコムスメでしょう?」
「違うー。 私は蠅の王なのー! 司るのは七つの大罪の一つ、暴食なのー! こうなったら、もう獲物は問わぬ! その辺の生徒をそのまま丸かじりに!」
「ええい、いい加減に目をさませい! この暴食蠅魔王!」
再び振り下ろされるチョップ。机に潰れた優子は見た。親友の目が据わっているのを。口調が変わったかなが、鞄から何か取り出す。
それは乙女の主食。おかし。その中でも、食べ応えが実にある代物。
お腹がすいたら食べたい、チョコレートスティックのおかしであった。しかもこれはお腹が一杯になるといううたい文句を掲げながら、実際は口に入れたが最後他のものを食べる気もしなくなると言う、恐るべきファイナルウェポンなのである。ただでさえカロリーが高いチョコレートに、ピーナッツクリームとか色々入っているというある意味危険な代物だ。
これだけでも訳が分からないのに、海の向こうではこれを五つも入れてパイを作ったり、揚げたりするとか。恐ろしい話である。もはや怪談だ。
「ほら、あげるから後で代わりに何かおごってね」
「……。 甘い」
「お腹は一杯になるでしょ?」
「うん。 ありがとう」
何故か頬が痩け始めていた優子が、あまりそれ以上は喋らずに、もふもふと「お腹がすいたら食べる」チョコスティックを平らげる。それにしても、凄い甘さだ。これならば、確かに空腹を一発で黙らせることが出来る。一本平らげただけでげんなりしてしまった。あまりたくさん食べたい主食ではない。というよりも、欲求と微妙にずれた満腹感である。腹が膨れたのは事実だが。
教室を見回すと、いっくーを発見。何故か机の陰に隠れてがくがくぶるぶるしている。指先に着いたチョコを舐めながら、優子はふと思う。そういえば、チョコレートって血の色に似ているなと。
「そういえば、あの鮫映画ででてた血って、チョコレートシロップ使ってたらしいね」
「どうしたの、唐突に」
「うん。 何となく」
教科書を取り出す。今日は一日強化授業。
幾つかある棟の一つで、食事中以外は過ごすことになる。月に何度かあるこの強化授業は、集中的に何か特定の授業を行うのだ。
先生が教室に来た。ホームルームが終わると、すぐに強化授業開始である。
そのドーム型の教室は、丸ごと水槽の下にある。
調整された照明と、泳ぎ回る魚の影。デートスポットになりそうなほど美しい部屋の中で、今日は一日授業が行われるのである。潰れた水族館の設備を丸ごと買い取って作ったこの教室は、高級な設備がたくさん入っている桜花高校の中でも、もっとも美しい場所の一つとして有名であった。
優子も此処に足を運ぶのは、まだ三度目である。三年になったら、多分何度も何度も足を運ぶことになるのだろうが、今はまだ、物珍しい気分に浸ることが出来る。それは実のところ、とても幸せなことなのかも知れない。
飽きてしまうほど、つまらないことはないのだから。
ようやく電池が入り始めたおけいが、昨日の話をしてくれる。十三個ほどあった乱数を解析終了し、いよいよ大詰めに入ったのだという。それの解析が終われば、レアアイテムを一気にたくさん入手できるのだとか。
「レアアイテムっていうと、どんなの? レベル1でも毒の巨人と戦えちゃう凄く強い刀とか? 何故かすごく高級品な手裏剣とか?」
「え? そういうのじゃないよ。 そんなのはみんな手に入れちゃったもん。 今探してるのは、制作側の設定ミスでレアアイテムになっちゃってる奴かな。 趣味の悪い腕輪とか、消耗品の筈の薬草類とか、後は道ばたに落ちてる小石とか、雑草の絞り汁とか」
「そんなののために、乱数とか解析したの?」
「わっかんないかなあ。 それがいいんだよ。 オッケー、分かり易く説明すると、ゲームを全て解析し尽くして、中身をしゃぶり尽くして、骨まで囓る! これぞクソゲー愛好家の心意気なり!」
「なるほど! それなら分かる! やっぱり食料は、骨まで囓り倒してこそだよね!」
きゃっきゃっと騒いでいる内に、先生が来た。海洋学の先生は、この界隈では名が知られている女性教師。ただし綺麗な人ではなくて、姿はどちらかと言えばトドに似ている。彼女の娘さんは非常に美人さんなのだが、此方は残念ながらおつむの中身が微妙で、化粧にばっかり興味を示し、合コンに熱心に出ているため、博士号を取ることに苦労しているらしい。
「何だかもったいない親子」と、影で言われているのは内緒である。
「あー。 今日は海底移住の可能性についての授業を、一日がかりで行うから、今の内に心の準備をしておけ」
「あーい」
楽しげに手を挙げたのは、優子とかなとおけいだけ。他の生徒は皆真っ青になっている。冗談が通じない奴らである。ここで何の心の準備だとかつっこみが入れば、楽しい地獄絵図が見られるのだが。
いっくーは何だか隅の方でびくびくしているので、まだ構わないことにする。恐怖が頂点に達して、絡んできてからが楽しいのである。
「地球は知っての通り、七割が海だ。 海上に新しい島を造る目論みは様々な観点からも進められているが、今日授業として取り上げるのは、海上ではなく海底に住み着く方法についてである」
ひときわ大きなお魚が、頭上を通り過ぎた。
日本ではオヒョウと呼ばれるカレイの仲間だ。全長は育ちきった場合、2.7メートルにも達すると言われている。もっとも、此処で飼われているのはその三分の一にすらも達しないが。
続けて、尻尾がとても長いエイが通り過ぎる。此方はまだら模様がとても可愛い、イトマキエイの仲間。マダライトマキエイである。イトマキエイというとマンタが有名だが、小型の種類も少なくはない。
「この教室はある意味海底のわけだが、仮に此処で暮らすとなると、具体的に何が不便だと思う?」
「はい」
「中沼、食事関係は抜きだぞ。 分かりきったことだからな!」
わはははははと、一人豪快に笑うのは先生だけである。他の生徒は、しーんとしている。今朝の大騒ぎについて、記憶が新しいのだろう。
「空気の確保じゃないでしょうか」
「そうだな。 ある意味、それで全てが解決できるとも言える。 海底に移住する可能性を考えると、まず人間が過不足なく暮らせる環境を構築しなければならない。 食料の定期的な搬入も必須だが、それ以上に新鮮な酸素と水だ。 真水に関しては、近年は海水からの抽出技術も進んでいるとはいえ、海底で生活するためにその場で必要量を揃えるには少しまだ不足だ。 そして、海底の水圧に耐えるとなると、ドーム構造が相応しい訳だが、必要な分以上の空気が無ければ、それも難しい。 海底の水圧は凄まじい。 対抗するには、高度な建築技術と、豊富な空気圧が必須になってくる」
地球の七割が水に覆われていると言っても、水圧が小さい大陸棚はほんの一部に過ぎないのだと、先生は言う。
かろうじて太陽の光が届く大陸棚近辺の海底は、豊かな生態系が維持されている。しかしそうではない地域。つまり深海になってくると、そうも言ってはいられない。確かに独特の生態系は存在しているが、それはあくまで砂漠のような環境。
地上でさえ、現在も砂漠に住むことはとても難しい。
「鼠のように増える人間が住むことが出来る環境は、いまだ地球のほんの一部に過ぎないのだ。 そして、海底の環境よりも、更に厳しいのが宇宙だ。 まず海底に住むことが成功したら、次に宇宙と考えるべきだろうと、私は考えている。 爆発する人口を押さえ込まなければ、海底移住にさえ間に合わないだろう」
それから、幾つかの模型が運ばれてきた。先生が教鞭を執っている大学の学生らしい若い人が、カートに乗せて持ってきた。
丸っこい建物である。
大きな水槽に入れられているそれの斜め上には、発泡スチロールで造られたらしい島が浮かんでいて、其処へチューブ状の通路が延びていた。
「これは深海ではなく、大陸棚の海底に、地上の延長として構築することを前提とした建物だ。 いわゆるメガフロート(人工島)とも連携する形での構築を予定されている」
スペックが黒板に書き出された。そうしてみると、ちょっと大きなビルくらいの人員しか入らない上に、維持コストが尋常ではない。
「環境問題を考えると、最大の問題となる事がある。 こういった海底住居を建てると、それだけ凄まじいコストがかかってしまうと言うことだ。 しかも住むことが出来る人数はごく限られてしまっているからな。 現時点では、技術的にもコスト的にも、現実的ではない。 手放しで人口爆発に耐えられると絶賛出来るほど、頭の軽い学者は何処にもいない」
「オッケー、理解できました。 少し大きな水族館とか、或いは通信ケーブルとかの保持施設とか、そんな事くらいにしか使えなさそうですね」
「今の時点では、な。 篠原の言うとおりだ。 日進月歩の技術革新が進んでくれれば良いのだが、しかしそれも現時点では難しい。 今は新しい技術を造り出すよりも、古い技術を如何に奪い合うかが、焦点になりつつある」
先生は、その雄大な体躯に相応しい、大きなため息をついた。
それから、幾つかの細かい技術が説明されて。それが一段落して、やっと最初の授業が終わった。
密度の濃い授業である。要点だけを頭の中でまとめておく。後でざっと復習だけしておく必要があるだろう。
「ゆーこ、さっきの授業、面白かったね」
「うん。 私としても、わざわざトロール網で深海魚取るのも面倒だしね。 深海の移住は実現してくれると嬉しいんだけれど」
優子はそう応えるが、実際には、深海魚を捕まえる方法は、トロール網以外にも幾らでもある。
近年では、深海に近い環境であるならば、深海魚は平然と住み着くことが分かっている。港の側溝などから、深海魚が発見される例もあり、養殖の技術が確立されるのも、そう遠い未来のことではないかも知れない。
それらは優子も知っている。
ただ、食欲に結びつけないと、やはりやる気が起こらないのも事実であった。
「また食べること?」
「だってちょっと浅い所だとタラバガニでしょ? 鱈でしょ? アンコウでしょ? 金目鯛でしょ? あ、後は忘れちゃいけないメルルーサ! 深海は美味しい魚介類の展覧会場だもの。 ああ、喰いたいなあ」
「こら、水槽のガラスを触らない! メンテが大変だって言われてたでしょ?」
涎を流しながらガラスに触る優子を、かなが片手で引きはがした。心なしか、優子の側から、魚が消えたような気がした。殺気に反応したのだろうか。
「うー。 食べる食べる食べるー! がるるるるる! 食料! 獲物! 栄養ー!」
「あんた、この時期はいつもこうね。 去年もこんなだったっけ?」
「しょうがないじゃん。 女の子には、月に一回体調が悪くなる時期があるんだから」
「いや、今のあんたのは、それとは関係がないでしょ。 確か一週間くらい前にあったじゃない」
かなの腕力は強大で、小柄な優子ではとてもかなわない。しばらくばたばたしていたが、諦めて涎を手の甲で拭うと、ちょっとチョコがついた。朝食べた例のチョコスティックの名残らしい。
ぼんやりとそれを見つめる内に、食欲が失せてきた。思い出すだけで食欲が無くなるとは。恐ろしい最終兵器である。
「放課後は、またアイス屋さんに行く?」
「いや。 飽きたし、別の所がいい。 ケーキバイキングは?」
「いくら何でも、ケーキバイキングはちょっと。 私、親に仕送りもしてるから、あんまりお金も余ってないし」
そういえばかなは、両親が共に生活能力が無くて、政府から支給されているお金のいくらかを送っているとか聞いている。家にいた時は、家事の類も全てやっていたという。気の毒な話ではあるが、此処に来ている生徒の殆どが、何かしらの負い目を持っていることが多い。
優子自身もそうだし、いっくーもそうだ。あまり詳しいことは聞き出せていないのだが、いっくーは両親からの虐待を受けていた節がある。あの気弱な性格も、そこに起因しているのかも知れない。
だから、優子なりの方法で、元気づけている訳だ。
「じゃあ、喫茶店に行こうか。 この辺りの喫茶だと、いい所あったっけ」
「喫茶なら、そうねえ」
此処で求められているのは、普通の喫茶店ではない。美味しいケーキ類を出す喫茶店の話だ。
動植物を貪り食うことを好む優子であっても、やはり甘いお菓子は好きだ。ただ、主食ではないと言うだけのことだ。ものには限度があるが。
「フラン・ベルジュはどうかしら」
「ああ、あそこ。 チーズケーキがおいしいとこだよね。 ちょっと血の味に似てて、好きなんだよ。 ブルーベリーソースがまた、焼いた内臓から出てきた体液に似てて、食欲をそそるんだよねえ。 あ、涎出てきた」
「ま。 またそんな事言って。 悪い子ね」
「や、やめてええええっ! チーズケーキが食べられなくなっちゃう!」
ささっといっくーから男女生徒が離れる。
今日も、また。食いついた。
一端休憩に入っていた先生は、戻ってくると何故かいっくーが優子ら問題児三人組の真ん中に座らされているのを見て、小首を傾げていた。いっくーは蒼白で、まるでこの世の終わりのような顔をしている。
ちなみにこの学校では、教室という教室に、トイレというトイレに監視カメラが隠されていて、プライバシーなど欠片もない。その代わり虐めなど発生しようがないようで、生徒は平和に暮らしている。一応女子トイレの監視は女子の警備員がやっているらしいのだが、わざわざ昼休みに、用を足しに寮まで戻る生徒さえ実在する。例えば、いっくーとかがそうだ。
「よーし、また授業を始めるぞ」
わくわくする話だ。目を輝かせる優子は、もちろん最前列に陣取っている。
「さっきは海底に建造物を建て、その中で暮らす方法についての話をした。 しかしながら、それではあまり現実味がない。 現状の技術では、どうしてもコスト的にも見合わないからだ」
そこで、敢えて未来の話をすると、先生は言う。
「何故未来の話をするかというと、ある程度の完成したイメージは、目標になりやすいからだ。 現状では無理でも、こういう形状のものを作りたいと考えていけば、いずれは成し遂げられる可能性も高い。 今、幾つか考えられている海底都市について、揚げてみよう」
そういって先生が手を叩くと、学生が何人か模型を持ってくる。
最初に出てきたのは、ぶどうを思わせる、面白い住居だった。メガフロートの下部からぶら下がっているそれは、水槽に入っている魚たちがおもしろがってつついている。
「これはそのまま葡萄式と言われているタイプだ。 メガフロートの下部にぶら下がる形で増設していくことが出来る。中央の大型エレベーターを使って、仮に海底まで伸びたとしても、物資の搬送が可能だ。そしてこのエレベーターの動力源には、水面と深海の水圧差を利用する」
なるほど、簡易式の軌道エレベーターという訳だ。あれとは規模が比較にならないが、それでも着想は実に面白い。軌道エレベーターも、宇宙と地球の気圧差を利用して動かすという案が出ているのだ。
「オッケー。 理解しました。 問題は光源ですね」
「その通りだ。 場所はほとんど無限に確保できるが、人工的な光を一切得られない状況が、どんな病気を招くか分からない」
おけいの言葉に頷くと、水槽を回転させて見せてくれる。
現在は水槽の横から光が差し込んでいるが、メガフロートの下になると、まず光を得るのは無理だろう。ただでさえ、海は少しもぐると暗黒の世界に早変わりするのだ。透明度の高い海でも、光が届くの深度にはかなり強い限界がある。ましてや、メガフロートの下に建設する都市をそのまま海底に伸ばしていけば、更に闇は深くなる。
そして、深海と海面を結ぶエレベーターも問題になる。水圧を利用するとなると、上から常時海水を輩出しなければならないはずだ。メガフロートの一部に排水口を着けるとしても限界があるし、何より深海の生物をどれだけ吸い込むか知れたものではない。相当な影響が出るだろう。
「ただ、良い点もある。 事故発生時の生存率を上げるには、複層構造の方が望ましいからな。 この構造は、その点からは優れている」
「美味しそうですしね」
「またそれか。 お前ならそのまま齧り付きかねんな」
わははははははと、先生が笑う。誰もそれには習わなかったので、ちょっと豪快な先生も寂しそうだった。
「さて、次は少し脱線して、深海でのファームについてちょっと触れてみる」
同じ模型の下部にライトを当てる。
そうすると、テトラポット状の構造物が大量に積み上げられているのが見えた。これはさながら、砂時計のような構造である。良くしたもので、テトラポット状の部分には、お魚たちも住み着いていた。
「概念的には、他の場所で行っているような養殖とほとんど同じだ。 しかも此処では海底と海上をつなぐエレベーターを使って、効率的に収穫をすることが出来る。 ついでに、有り余った廃材は全て養殖場の建設に回すことが出来る。 砂漠同然の深海にも、こういう場所を造っておけば、ある程度水産資源の効率よい収集が見込める」
「深海だと、食欲の大きいお魚が多いですから、放し飼いは難しくありませんか?」
「中沼、いい所を着く。 問題はそれだな。 もちろん網でガードするとして、水面近くや大陸棚の海底で行うような養殖のように、上手には出来ないだろう。 ただ、こればかりは実際に試行錯誤していかなければ分からん。 どんな養殖も、いろんな苦労の末に、ようやく技術が確立されていくものだからな」
一端模型を引っ込めさせると、先生は幾つかの技術的問題について、白板にマジックで書いていく。兎に角、海流にどうやって強度を維持するのか。光源はどうするべきなのか。耐用年数が短いのをどう克服するのか。
いずれも、現在の科学技術では、難しい問題ばかりだった。
「ただ、これくらいの事はクリアできなければ、軌道エレベーターの建造も到底無理だろうな。 何しろ向こうは、長さからして違う。 此方も水圧だの水流だのが壁になるが、ちょっと風が吹くだけでそれ以上の負荷が掛かってくる。 下手をすれば、あっという間にぼきり、だ」
軌道エレベーターを実際に造るとなると、その建造費用は何兆円程度では済まないだろう。
それを考えると、海底へのエレベーターは、確かに良いモデルケースなのかも知れなかった。
続いて持ってこられる模型。今度は非常にストレートに、丸ごと巨大ビルを海底に沈めたような格好である。
「これは見たまんまだな。 そのまま、でかいビルを海底に沈めている。 さっきの構造に比べると頑強だが、見ての通りそのまま山を沈めるようなものだ。 わざわざ海中に造るメリットがないし、何より建造費用も桁違いだ」
それに、海底にいきなり巨大な山が出来たりしたら、どんな影響が出るか分からない。そう先生は呟いた。
「さっきのタイプだと、深層海流に与える影響も最小限で済む。 だがこのクラスになってくると、確実に影響が出てくるだろう。 知っての通り、地球の気温調節というものは、深層海流というラジエーターシステムが大きく関与している。 この都市一つでそうなるとは流石に思えないが、もし幾つも建てるようなことになったら、氷河期が来かねないと、私は思っている」
今回はさっと下げさせる。続いて来たのは、海底に複数のケーブルが伸び、その間をあやとりのようにして都市がぶら下がっているタイプであった。
「これは蜘蛛の巣型のモデルだな。 海流などに影響は与えにくいし、此方も受けにくい形だ。 ただし、恐らく住んだ時の不快指数も一番大きいだろうと予想されている。 まあ、そうだな。 ぐらぐら揺れるのが当たり前のような構造だな」
チャイムが鳴る。
今日は午後もこの授業が続くのだ。ゆっくり伸びをして、ぼんやりする。授業の内容を反芻しておいて、後でまとめる苦労を減らすのだ。あと一時間で昼食になるから、もう少しの辛抱である。
「ふいー。 面白いけど、情報量が多いね。 ちょっと肩が凝るかも」
「クリアしなければならない問題が多いですものね。 おけい、貴方は大丈夫? 畑違いでしょ」
「んあ? 大丈夫大丈夫。 ちょっと脳みそがショートしかけてるけど。 オッケー、平気だよ」
「あははははは。 脳が丸焼きになったら言ってね。 晩ご飯にするから」
いっくーが怖がって涙をこぼし始める。
何だか信用がない話である。実際にやりかねないとか思っているのだろう。
心配ない。
実際にやりかねないのは、優子自身でも理解しているからだ。
「海底都市のモデルとしては、こんなんかな」
「午前中一杯は技術的な話に終始しそうだね。 午後は、でも、そうなるとどんな授業になるんだろ」
「海底に、直接住み着く話かな。 遺伝子操作とかして」
「人魚みたいだね」
いっくーが膝を抱えたまま応じる。ちょっと投げやり気味なのは、隙を見て逃げようとした瞬間、かなの腕が残像を残すほどの速さで動いて、連れ戻されたからだろう。それこそひょいとつまんで、優しく置くくらいの速さだった。軽いとは言っても、いっくーの体重は四十キロを超えているはずだが、片手で、である。
「下半身が魚の人魚は洋の東西を問わずにあるよね。 あれって、やっぱり肺呼吸なのかな。 それともえら呼吸なのかな」
「両方出来るとなると、オタマジャクシみたいだね」
「オッケー。 繁殖の方法も気になるなあ。 やっぱり卵生なのかな? 卵胎生の可能性もあるけど、そうなると子供がお腹の中で鮫みたいに食い合うのかも」
「いずれにしても、深海に住み着けるのだとなると、強靱な生物になりそうだね。 綺麗な人魚さんとは正反対の姿になりそう」
そうだ。深海から上がってくる、海底にも住み着ける人間。
仮に地上の人間どもが核戦争で滅びたとしても、海底深くで平然と生き残り。そして邪魔な人間どもがいなくなってきてから、海岸より這い上がってきて、その遺産を独占するのだ。
「いいなあ、強靱な生命力。 うっとり」
「ゆーこは、人間の形とかに未練はないの? そんなのになったら、多分人間の原型をとどめてないんじゃないかな」
「んー、そうだね。 ちょっと微妙な所だけど、美味しいものを独占できて、深海にも行けて、宇宙でも適応できるんだったら、こんな体に未練はないかなあ。 腕が六本で、目が千個で、翼が百枚とかでも平気だよ」
「ふええええ。 もうやだあああ!」
わっと泣き出すいっくー。そんなに怖い話はしていないつもりなのだが。なでなでしながら、耳元にささやきかける。
「いっくーも遺伝子改造して深海に適応してみたら? それで海底に沈んだ古代都市とかを支配する、古き神々の一柱となるの! もちろん名前は発音不可能な方向で!」
「オッケー、楽しそうだ。 そうなると、あれだね。 見ると狂気に陥るくらいの姿がいいね」
「まあ。 鮹とかイカとか魚とかの姿が、混ざり合っている感じかな」
「そうそう。 それで闇の力を得た私と、激しい人外のバトルをするのだ! 蠅の魔王と戦う鮹の神王! うーん、わくわくするカードだね!」
いっくーを見ると、気を失っていた。
先生が入ってくると、学生の習性の悲しさで、いっくーが目を覚ます。そして、ひいっと悲しげな悲鳴を漏らした。
先生の後ろには、幾つかクリーチャーとしか思えない生物の模型があったからである。出欠を取って、授業を始めると、先生は模型を見回しながら言った。
「これは、海底都市を造るに当たって、幾つか実験的に考案された食用の生物だ。 網で囲った区域で、養殖することになる」
目が巨大な魚だ。全身は二メートルを超えているだろう。
「金目鯛をベースにした魚だ。 深海の環境でも平然と生きる上に、餌は何でもいいという燃費の良さだ。 幾つかの品種を掛け合わせて造る事になるだろう。 ただ悪食だから、ある程度離して飼う工夫をしないと、あっという間に共食いをするだろうな」
くらっといっくーが傾く。可哀想なので支えてあげる。電車の中で寄りかかられたように、体温が掛かったので、耳元に色々素敵な台詞を囁いてあげると、すぐに目を覚ました。こう言うのは確か、こう言ったはずだ。
「前門の虎、後門の狼だな。 あまりやり過ぎるな。 虐めになるぞ」
「分かってますってば」
くすんくすんと鼻をすするいっくー。これでも何もしようとしないのだから、このクラスの男子どもは終わっているとしか言いようがない。
次に出されたのは、巨大なアンコウだ。一メートルを軽く超えているだろう。
「チョウチンアンコウを品種改良したものだ。 こっちも悪食で、燃費がいい。 しかも深海で比較的丁寧に飼えるから、品質も均一に揃えられるだろう。 ただ、このサイズだと、油断すると腕ぐらいは食いちぎられるだろうな」
何しろアンコウは、海面まで出てきて鳥を食うほどの貪欲な魚なのだ。下手をすると同族さえ喰らうことがある。深海の過酷な環境で生き残って来ただけのことはあると言えよう。基本的に砂漠に等しい過酷な環境である。目に着いた動物は全部餌だと思うくらいでないと、生き残るのはとても難しい。深海魚の中には、自分より大きい餌を食うために、胃袋を進化させた種までいる。口が大きい種類がやたらと多いのも、その過酷な生活を示していると言える。見つけた餌を逃がさない工夫の結実なのだ。
「次はこれだ」
どんと出てきたのは、超巨大なワラジムシだった。知っている姿だったので、優子は挙手する。
「ダイオウグソクムシですか?」
「お、良く知ってるな」
「背泳ぎをする目つきが悪い海棲ワラジムシだって事くらいしか知りません。 後食用にすることもあるとか食用にすることもあるとか食用にすることもあるとか食用にすることもあるとか」
涎がこぼれそうになったので、ハンカチで拭く。
「じっさいにこのサイズだと、食用にする事もあるとは聞いている。 ただし、あまり美味しくはないそうだ。 そこで、味を改良して、更にサイズを大型化させたのが、このダイオウグソクムシ改になる」
「かっこいいですね」
かなの言葉に頷くと、先生はダイオウグソクムシ改の姿を、ぐるっと回して見せてくれた。お腹の下にあるたっぷりな足を見て、悲鳴を上げたのは男子の一人。大したモヤシどもである。
「うわ、美味しそうな足!」
「海老や蟹の例から言って、此処までのサイズにすれば食べがいがある可能性が高いだろうな。 ただこれもかなり悪食な動物で、しかも主食はデトリタスだ。 改良を加えておかないと、肉も臭くてとても食べられないだろう」
とても優子から見ると美味しそうな模型どもが引き上げられると、先ほどの海底都市の模型がまた運ばれてきた。
今度は下の方に網が張られていたり、或いは囲いが造られたりしている。
「これが養殖場の想定モデルだ。 現状の技術力で造った網では傷みが早いから、採算を取るためには工夫が必要だろうな」
「海面近くとかにも、養殖場は造れないんですか?」
「もちろん、それも併用する。 回遊性の魚なんかは、そうやって養殖をする予定だ」
先生が時計を見た。ある程度時間が余った所で、皆にレポート用紙が配られる。こういう特殊授業では、必ず行われることだ。
「とりあえず、午前中の授業は此処までだ。 午後は細かい技術の説明や、遺伝子操作関連の話に入る。 午前中の残りの時間は、復習のためにもレポートを書いて提出して貰うぞ。 内容がいい加減な者に関しては補習授業をするから、そのつもりでいろ」
先生はそう言うが、今までの時点で補習授業はでたためしがない。モヤシ集団とはいえ、みな優子と同等以上の力を持つ生徒達なのだ。記憶力も発想力も、市井の水準を遙かに超えている。
レポートを書くために、隣の教室に移動。さっきまでのように水槽と一体化しておらず、段差状の部屋に机が並べられた、普通の大学の講義室を思わせる作りである。授業で使用した模型類が、教室の前に置かれていた。いずれ劣らぬ面構えの魚たちが、レポートの出来を監視しているようだった。
先頭に陣取ると、さらさらと優子はレポートに鉛筆を走らせる。かなもおけいもかなりスピーディだ。元々優子にとっては得意分野でもあるし、負けてはいられない。いっくーには逃げられたが、それは別にいい。
此処で書くレポートというのは、感想文とは違う。幾つか指定されている事項があるので、それにそって詳しい内容と、発展的な展開について記載するのだ。テストと同じで、成績に掛かる配分もかなり大きい。もちろん専門的な技術からの見地や、将来的な展望を書いてもいい。二枚目に突入。三枚目を書き上げる。四枚目に入った所で、となりでおけいが伸びをしていた。
「よーし、あたしは終わり」
今は応じる暇がない。続けてかなが筆を置いた。彼女が使っているのは非常に頑丈な鉛筆で、特注のものに、更に特性のキャップを着けて強度を補強している。いつもにこにこ笑顔が素敵な彼女だが、ここに来る前は笑うことも少なかったらしく、真剣になると少し怖い事もある。だが、レポートを書き終えた今は、いつもの穏やかな仏像を思わせる笑顔に戻っていた。
七枚目に突入。海底都市の自分が考える理想図を書いてみる。スケッチは苦手ではない。一般には人体を描くことでスケッチ力は向上するが、優子の場合は食料にするべく様々な生物をあらゆる角度から計算してきたという過去がある。だから、絵は苦手ではない。描き上がったそれはスカート状に広がった形態であり、広がった部分の中に囲い込むようにして養殖場を造る。中央のエレベータを挟み込むように建てられており、拡張性が高い。しかしその形状は波には若干の脆弱性があるかも知れないので、水面部分の構造には工夫を擁するかも知れない。そこで、お椀型の構造にして、波への抵抗力を高くする。全体的には、巨大なくらげに見える。
食欲さえをも抑えて、レポートを書き続ける。
コスト面や技術面についても触れて、持ってきている計算機を叩く。計算機の高速タッチは得意技だ。一気にタッチを終えて、計算式と結果をレポートに書く。コスト面では、ぶどう型よりも少し掛かるようだが、しかし養殖の効率がかなり上がるので、巧くすれば地上の都市や他の海底都市に資源を輸出する大型生産施設になるかも知れない。ただ、黒字になるには十年以上が掛かるだろう。国家的なプロジェクトになってくるのは間違いないが、最終的には自給自足が出来、更に輸出による生産強化も図ることが出来る。どちらにしても、とんでもない規模だ。小さな国が丸ごとはいるほどの、巨大都市になることだろう。
十三枚目に突入。掌が彼方此方黒くなっていたが、関係ない。時計を見ると、そろそろチャイムだ。額の汗をこしこしと拭うと、ラストスパートに掛かる。想定される収容可能人口や、ランニングコスト、メンテナンスの方法についても触れ、軽く図を混ぜていく。
最後に締めとして、ウナギの養殖設備について記載。深海でウナギが産卵するのは周知の事実だが、その環境をこの都市の下に擬似的に造ることによって、一大養殖設備を作るのだ。そしてついでに、メガフロートの部分に擬似的な陸上空間を作って、其処でウナギの成体を飼えばいい。非常に適切かつ的確に、ウナギを養殖し、増やすことが出来るだろう。
この設備であれば、稚魚だけ買って大きくするのではなく、もう直接卵から孵して育てることが出来る。しかも、極めて元の生態に近い形でだ。既に卵からウナギを育てる方法は開発されつつあるが、それを更に発展させることが出来る。より高品質な養殖を行うことが可能となるだろう。
筆を置くと、チャイムが鳴った。レポート用紙が回収される。皆で外に出て、まず行ったのは手を洗うこと。掌も指先も真っ黒で、流石に洗いたかった。真っ赤だと別に気にならないのだが、不思議である。
別に急ぐことはない。どうせ学食は比較的空くし、最悪外に食べに行ってもいい。中学時代の学食のことを覚えている優子には、此処のは天国に思える。山羊か何かを生で食べさせてくれれば最高なのだが。流石にそれは望みすぎである。
食堂でカレーを注文しながら、二人のレポートについて聞いてみる。かなは例として示された海底都市の発展継承について中心的に触れたレポートであったらしい。それに対して、おけいは主にハードウェア面での脆弱性と対応策を書いたものとなったそうである。優子のレポートの内容を聞いて、かながカレーにスプーンを突っ込みながら言う。彼女はカツカレーを注文した。優子は既に二杯目である。
「なかなか素敵な海底都市ね。 それだけ大型の養殖設備と一体化していると、食料危機の対応にも役立ちそう」
「焼け石に水だけどね。 それでも、略奪農法よりはマシだと思うから、ちょっとは役に立てるかも知れない」
「オッケー、でもゆーこがその都市に住んでたら、上がりの商品を全部食べかねないぞ」
「あはははははは、違いない」
カレーをがつがつ食いながら、優子は笑う。
「何かの神話に出てくるような、失われた海底都市って、案外こういうのなのかも知れないね」
「あら。 そうなると、私達は外なる神々に近付きつつあるのかしら」
それはちょっと面白い。
海底に沈んだ都市というモチーフは良くあるが、元々海上にあって、メンテナンスの不備や大型の災害で沈没した都市となると随分イメージが異なってくる。
「そういえば、いっくーはどんなレポート書いてた?」
「ああ、あの子はちらりと見ただけだけれど、都市そのものが移動可能な、超大型の船みたいなものを提案していたよ。 網を引きずるような形で、養殖場も合わせて移動可能みたい。 他の都市と連結することで、更に大型の都市にも改造が容易だって説明が書いてあったよ」
「なるほど、移動型メガフロートの付属施設ってこと。 それ、面白そう。 で、変形して私と戦うの!」
「機動漁業施設いっくーZ? おおー、オッケー! 何だか格好いいぞ!」
向こうの方でいっくーがくしゃみをしている。くちゅんとか、随分可愛らしいくしゃみだ。そしてそれが収まると、怯えきった表情で、此方を見つめていた。分かり易い子である。
三杯目のカレーを平らげる。ようやく人心地がついた。既に満腹した様子でスプーンを置いているかなに、優子はきちんと覚えていたことを告げる。
「あ、さっきはチョコありがと。 カツカレーおごるよ」
「ありがとう。 仕送りが少し多めで、ちょっと困っていたの」
「はやく高校卒業して、好き勝手な研究したいね」
その優子の言葉は、冗談めかしてはいた。しかし、切実な言葉ではあった。
優子自身はいうに及ばず、かなは家庭に問題があるし、おけいは名家のしがらみとやらにうんざりしている。二人は時々愚痴をこぼすが、そればかりは優子も真剣に聞く。辛いことが分かっているからだ。
この高校は、でるだけで博士課程をクリアしたのと同等の評価が与えられ、エスカレーター先の大学では専門のカリキュラムが用意される。何か研究したい場合は、余程国益に反しない限りは認められ、予算も相当な金額が用意される。
研究者には天国のような環境だ。しかし、それに伴う代償も。決して、小さくはないのである。
食事を終えて教室に戻ると、午後の授業が始まる。
予想通り、午後は遺伝子操作を利用した、海底移住の可能性についてであった。
幾つかの模型が運ばれてくる。
それはいずれ劣らぬ面構えの。深海生活に適応した人類の姿であった。
半漁人のような、ストレートで分かり易い者もいる。全身がアンコウのように扁平で、巨大な口をしているもの。もちろん、口の中には巨大な牙が立ち並んでいる。目玉が大きく飛び出していて、光っているもの。背びれを持ち、水かきがあって、肋骨の間からえらがあるもの。全てが、中途半端に人間の要素を残しているため、余計にグロテスクな度合いを増しているとも言える。だが、先生は、優子ら三人を除く、気味悪がる生徒に、冷静に言った。
「あー。 皆の中には、これらの姿を気持ち悪いと思う者もいるかも知れない。 だが、標準的な生物から見れば、現状の人間は充分に気味が悪い姿をしている事を、忘れてはならない。 頭部は巨大すぎるし、全身のバランスもおかしい。 全身の毛の分布も、かなり偏っている。 他の動物が人語を解することが出来たら、いずれもが人間のことを気持ちが悪いというだろうな。 二足歩行に特化しているが故に、人間は極めて珍しい形態の体をしているのだ」
くすんだ配色の、等身大の模型は。いずれもがすぐにでも動き出して、襲いかかってきそうなほどに迫力がある。特に大きな口をしている模型は、全長が二メートル半はあり、人間を襲って喰らいそうなほどであった。
挙手。今日の授業は特に誰も発言しようとしないので、優子が率先して発言しないと、進展が悪い。
「先生。 全体的に人間より大きいように思えるんですが、それはやっぱり深海適応の結果ですか?」
「中沼、いい所を突くな。 その通りだ。 全ての深海生物が巨大な訳ではないが、適応した結果大型化した生物が多いのは事実だ。 人間も遺伝子的に深海への適応を果たすと、同じように巨大化する可能性が高いと、私は睨んでいる」
「でもそうなると、陸上ではもう暮らせそうにないですね」
「別に交配したり暮らしたりする必要はないだろう」
先生の言葉はドライで、そして彼女が考えている事の一端を示してもいた。
多分、先生は。人類がこのまま、地上を支配し続けるとは考えていないのだ。この加熱した文明が空中分解した時。核の冬が訪れなかったとしても、人類は大きなダメージを受けることになるだろう。
その時に、海底に適応できたのならば。滅亡を免れることが出来るかも知れない。
地球の大部分を占める海。特に深海を生活の場と出来たのならば。その生活圏は、地上とは比較にならないほどに広い。
もしも容姿が変わることに抵抗がなければ。人類は、新しく黄金時代を築くことが出来るのかも知れなかった。
一通り新しい人類の説明が終わった後には、技術的な説明が続いた。三種のレポートの提出を命じられて、それに応じてさっさと仕上げる。
独創的な授業は、実に面白い。
優子は、充実した時間を過ごしていた。
4、ゆめ
目が醒めると、其処は海底だった。
光が殆ど届かない、暗い水底で。ゆっくりと、思い出す。体の隅々まで、感覚を張り巡らせていく内に。
徐々に、己の姿が、分かってきた。
ごぼりと、泡が浮き上がる。
そうだ。私は。
水面へ上がる。水圧が内臓を圧迫するが、どうでも良い事だ。むしろその程度の圧力、心地が良いくらいである。
大量の海水を押しのけながら、海上へ出た。
背中にある羽根を、四枚とも拡げる。髑髏の文様が、空から降り注ぐ光を浴びて、エロティックにぬらぬらと輝いた。
吠えたける。
食物!
ボラの群れが見えたので、口を開けて水面を進む。逃げようとする所を、丸ごとぱくり。ごくん。大量の海水を吐き捨てて、ボラを胃袋におさめた。足りない。足りないぞ。
操縦席で、優子は吠える。
操縦席。脳の中。無数の神経が、セーラー服を着たままの全身から伸びていて、体の各所につながっている。頭には直接周囲の映像が、満腹中枢には、渇きのような飢えが。そのままダイレクトにつながってくる。
喰いたい!食い足りない!
翼を拡げ、舞い上がる。
陽光を遮るほどの大きさだが、物理法則を無視して浮き上がる体。翼が一度上下する度に、津波のような大波が、辺りに襲いかかる。消化液を口から垂れ流しながら、巨体が吠えたける。
一番豊富な肉と言えば、決まっている。人間だ。ユーラシア大陸へ、まず人間どもを喰らいに行く。
進み始めると、すぐに音速を超えた。木っ端戦闘機どもがミサイルを撃ち込んでくるが、痛くもかゆくもない。そうだ、我は蠅の王!人間の造った玩具など、歯牙にも掛けぬ存在だ。
即座に後ろに回り込むと、戦闘機を丸ごと噛み砕く。逃げようとする奴も、追いついて喰らった。パラシュートで脱出しようとした奴も、そのまま丸ごと喰らう。美味!吠えると、再び襲いかかるミサイル。今度は、かなり大きかった。その上、水上から飛び出したものだった。
直撃したミサイル。爆風が収まると、何事もなかったかのようにホバリングする巨体。今の優子には、その程度のミサイルなど痛くもかゆくもない。出てこい!吠える。そして、大量の海水を押しのけながら現れるのは。
「おお!」
思わず、歓喜の声が上がっていた。
それは、巨大な戦闘用ロボット。全体の形状は鮹に似ていて、背びれがあり、目は巨大で爛々と光っていた。そうだ、こいつは見覚えがある。高校を卒業したいっくーが作り上げた、対蠅の王用究極決戦兵器。海底機動都市、クトゥルフX。全長はほぼ、生体究極蹂躙兵器蠅の王と五分。外なる神の名を借りたその存在は、まさに神域の兵器。今まさに、神魔の戦いが、始まろうとしていた。
再び飛んでくるミサイルを、長い腕を振るってたたき落とす。わめき声を上げながら、突進してくるクトゥルフXと、がっぷり四つに組み合った。触手が絡みついてきたので、刃になっている腕を振るって切り落とす。頭部と肩が開き、無数のレーザー砲塔が現れる。全身を打ち据える対生体レーザー。肉の焼ける音が、操縦席の優子の所まで届く。
「うはははははは! 洒落臭いわ!」
全身の肉を盛り上げ、即座に焼かれたカ所を再生。刃がついている腕を振るい、頭に食い込ませた。そのまま何度も斬りつけ、機械の分厚い装甲を無理矢理食い破りに掛かる。だが、ひときわ太い二本の腕が、蠅の王に絡みついてきた。そのまま、飛びついてくる。押しのけながら、高度を上げようとするが、体重は相手の方が重い。徐々に、海面が近付いてくる。
口を開けると、強力な酵素を含む酸を吐き着けた。クトゥルフXの表皮が、派手な音を立てながら溶けていく。クトゥルフXの動きが鈍ったので、蠅の王を拘束している腕を無理矢理引き裂き、自由になる。そして、両腕でクトゥルフXを掴み揚げると、海面にジャーマンスープレックスで叩きつけた。
核ミサイルが落ちたかのような、巨大水柱が上がる。半分機能不全になったクトゥルフXに、再び酸を掛けてやる。そうすると、どうしてか、露出した。椅子にすがりつくようにしてもたれて、がくがくぶるぶるしている、白衣を着たいっくーが。
「いやああああ! 来ないで! 来ないでえ!」
「美味そうに育ったなああああ、いっくー! 今から貴様の頭も体も乳も腕も! 腸も足も腹も! 貪り喰らいしゃぶり尽くして、私の一部にしてくれるわ!」
けけけけけけけけけけ。笑い声が漏れる。
大きな口を開けて、かぶりつこうと迫る。さあ、いっくーはどんな味だ。人肉はあまり美味しくないのは承知の上だが、この娘だけは何だか美味しいような気がする。涎がこぼれる。頭を抱えて蹲るいっくーを、今まさに飲み込もうとした瞬間。
飛来したミサイルが、口の中に飛び込んでくる。
見れば、無事だった触手の一本から、射出されたものらしい。力尽きた触手が、海面を弱々しく叩いていた。
「洒落臭いわ!」
そのまま噛み砕く。口の中で巻き起こる爆発だが、痛くもかゆくもない。しかし、問題が起こったのは、その後だった。
全身に震えが来る。
「こ、この、この味は。 この味はぁあああああ! おのれいっくー! 最初から、これを狙っていたかああああああっ!」
そう。
それは。
唯一優子が苦手とする食べ物。
お腹がすいたら食べる、チョコレートバーであった。
急激に、優子の力の源である食欲が消えていく。蠅の王が、機能低下に絶叫しているのが分かった。体中に伸びている神経から必死に命令を伝えるが、優子自身もあまりにも痛烈な食欲不振により、体も意思も美味く働かせることが出来ない。しかし食に対する誇りから、口の中のものを吐き捨てる事も出来ないのであった。
海面に墜落。派手な水柱が上がる。ごぼごぼと沈み行く、蠅の王の巨体。巨大だけあって、生活サイクルも長い蠅の王である。また食欲を取り戻すまでには、長い時間が掛かるだろう。気持ち悪いと思いながらも、今や蠅の王と一体化している優子は、壁をどんどんと叩きながら吠える。
「よくもこの私の弱点を突いたものよ! 今は退く! だが覚えておけ! 光ある限り暴食もまたある! 貴様ら人間どもがそれを忘れた時に! 私はまた闇の底から現れて、食欲のままに全てを食らいつくすだろう! その時お前達は、救世の食料足る、お腹がすいたら食べるチョコスティックを今だ残しているかな? わはははははははは、うわーっはははははははははははは!」
深海へ、落ちていく蠅の王。
再び、眠りにつく時が、来たようだった。
がばりとベットから起き上がった優子は、今までの事が夢であったことに気付いた。時計を見ると、まだ十一時半である。
そうだ。海底都市の授業を楽しく受けた後、喫茶店でチーズケーキをたんまり食べて。宿題をこなした後、おけいに勧められたクソゲーをかなと一緒にやって。あまりのつまらなさに、気がついたら三回くらい意識が飛んでいたのだった。美しい里の謎とかいうゲームだったが、クソゲーとしてはあまりに有名な代物だったらしく、確かにとんでもない電波具合であった。
それでいそいそとゲームをしまって、無言のまま二人とも今日は寝ることにした。ベットに潜り込んで。気がついたらもう寝てしまっていたらしい。お腹が出ていたので、パジャマを着直す。布団を蹴って退けてしまっていたので、再び被りなおした。
しばらくの無言の後。呟く。
「面白い夢だったなあ。 是非現実にしよう」
布団に入ると、優子はすぐにまた眠りの世界に落ちていくのを感じていた。
そして、二度と目を覚まさなかった。
翌日の朝まで。
翌日。学校に出ると、いっくーは休んでいた。何でも昨日もの凄く怖い夢を見たとかで、体調を崩したのだそうだ。相変わらず机で潰れているおけいは、さぞ無理な睡眠時間でゲームをしたのだろう。
「おはよー」
優子が挨拶をすると、軽く片手を揚げるかな。目の下には、どす黒い隈ができていた。
「昨日、またゲームしてたの?」
「んー。 オッケー」
やはりそれか。かなが寝癖を梳かしてあげながら、おけいに聞く。
「欲しかったアイテムは、手に入った?」
「んいー。 後四つー。 雑草でしょ? 半分腐った木の棒でしょ? ちょっと変わった模様がついた小石でしょ? 後は耐久力が殆ど無いなまくらの剣。 これが揃ったら、さすがにオッケーも卒業かな」
そんなもののために徹夜するおけいは流石である。あのなんとかの謎をクソゲーとして愛好するだけの事はある。恐らくは、クソゲーマーとして、おけいは自称ではなく客観的にも充分一流の域に達しているのだろう。クソゲーマーの世界に、あまり優子は詳しくないが、そんな気がする。
「優子は楽しい夢でも見たの? 何だかつやつやしてるけど」
「うん。 蠅の魔王になって、世界を滅ぼそうとする夢ー! でも肝心な所でいっくーが操るクトゥルフXに邪魔されて、お腹がすいたら食べるチョコを食べさせられて、負けちゃった」
「うふふ、楽しそうな夢ね」
「うん! 是非近い将来に、生体究極蹂躙兵器蠅の王を建設しようって、決意を新たにさせられたよ!」
熱く語る優子を見て、他の生徒達がどん引きしている。さあ、今日はいっくーがいないことだし、誰を弄るか。或いは弄らない方向で、三人だけで楽しく過ごすか。
先生が入ってくると、皆席に着く。学業は、学生の本分だ。将来の夢を叶えるために、どんな知識でも、足りないと言うことはない。
この世界は、資本主義という名の暴食の魔王に支配されている。それは人類の文明を著しく向上させたが、優子という存在も誕生させた。やがて、暴食の意思を一身に体現した、優子が相応しい力を得た時。
教科書を取り出しながら、優子は考える。
やがて、この世界を。完全に己の手に握ることのことを。
(終)
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