白狼の鎖

 

1、体内の獣

 

よく、人は体の中に獣を飼っていると言われる。これは人間が(獣ではない)という、極めて身勝手で非客観的な理論からもたらされた言葉であるが、意味的にはあながち外れではない。人間の中には理性では到底説明出来ない凶暴な本性が疼いており、ふとしたきっかけで表へ出て暴れ出す。教育と愛情によって押さえる事は可能だが、それも薄皮を張るに過ぎず、それを破るには本当に些細な行動で充分だ。人の理性とは、その程度の存在に過ぎない。特に、愛情を受けずに育ったり、偏向した環境で暮らした人間の場合、ただでさえ薄い膜が更に強度を落とす。理性という自我は、針でつつかれた風船の如く破裂して、内部に住まう獣に主導権を渡してしまう。人間が作り上げてきた文化芸術が、基本的に性と暴力で成り立っている事が極めて多い現実を考えても、その意味がよく分かるというものである。

それとは少し違った意味であり、一方全く同じ意味でもあるという、極めて興味深い事例が、ハイランド皇国皇城にて立ちつくすレオン=シルバーバーグの眼前にあった。

この世界の根元的な構成要素は、紋章と呼ばれる存在に集約される。紋章の多くは球体の形を取るのだが、特殊な技術を使って体内にエネルギー化して埋め込む事も出来、これを(紋章を宿す)と称する。宿す場所は額、両手の甲と決まっているが、これにはそれぞれ個人による特性があって、額にしか宿せない者、右手にしか宿せない者、もともと宿せない者などさまざまだ。紋章を宿した者は様々な魔法(紋章術)に始まる超常的な力を得る事が出来、結果紋章はこの世界の社会成立に無くてはならないものになっているのである。また、場合によっては物体に紋章を宿す事も出来、そういった武具や道具は絶大な力を発揮する。なかには、紋章がそのまま姿を変えている武具も存在する。

紋章は数多くの種類が存在しているが、最も純粋で強大な力を持つ紋章は二十七あり、(真なる紋章)と呼ばれる。世界に拡散している様々な紋章は、殆どはそれらから産み出されたものであり、人間が所有している場合大体国宝や秘宝として扱われ、過去の戦いでも紋章が戦況を変えてしまった事も珍しくない。そのような恐ろしき真の紋章の一つ。ハイランド皇国に伝わる獣の紋章。名前の如く、人間の主観のまま、非理性を司る存在である。主に狼の姿をもって現される事が多く、ハイランド皇宮の謁見室にも、狼をかたどった巨大な模様が書き込まれていた。そして、現在紋章本体を体内に宿しているハイランド皇王ルカ=ブライトの右手の甲にも、皇宮にあるものとよく似た白銀の模様が沸き上がっていた。そして、ルカ皇王は、獣の紋章の申し子のような男であった。

五十を過ぎているというのに、若々しく青年のようなレオン=シルバーバーグの瞳には、冷酷な光が宿り、玉座にて頬杖を付いているルカ=ブライトを眺めやっていた。父を殺し成り上がった新しい皇王は武断の人だ。常に鎧を着込み、強力な紋章を複数仕込んだ長大な剣を腰に帯び、全身からあきれ果てる程の殺気を放っている。視線は鋭い刃のようであり、殺しをしたくてしたくて仕方がないと言うのが、指先の動き一つからも伺える。皇子だった時代から、この青年の凶気は表に溢れかえるほどであった。今はそのつっかえが無くなり、体内の獣は何時自らが外に出られるのかと、うずうずと蠢いている。それがレオンーシルバーバーグにはよく分かった。

隣に立っている青年、ジョウイ=アトレイドと共に仕官してからしばしの時が経つ。ハイランドの敵手であった都市同盟軍は、彼らの活躍もあってほぼ瓦解してしまっているが、状況は今だ予断を許さぬのが現状だ。都市同盟軍の残党はランツェイという青年を中核に集まり、レオンの弟の弟子であるシュウを始めとする優秀な人材がそれを補佐し、侮れぬ戦力を持ったまま皇国に抵抗を続けている。彼らはレッドリバー軍と自称し、既に右往左往していたトゥーリバー市を味方に取り込み、勢いを増していた。この間送り込んだ宿将キバ将軍も無様に敗れ、それどころか降伏して向こうに着くという有様であり、このところずっとルカ=ブライトの機嫌は悪かった。青ざめて立ち並ぶ侍臣の前で、体を震えさせながら跪いている兵士が、恐る恐る報告をする。

「キバ将軍の部隊のうち、三千は戦場で散り、七千強は我が軍へ帰還してきました。 残りの半数の内、五千ほどは無法地帯化している旧ミューズ周辺に散った模様です。 五千ほどは、キバ将軍と共に、都市同盟軍の残党共の麾下に入り、我が軍に牙を剥く態勢を見せています」

「敵は五千を得て、我が軍は一万三千を失ったか……」

「は、はい。 しかし、連日少しずつ帰還している兵士達もおり……」

「下がれ」

頭を垂れると、兵士は逃げるようにその場を後にした。ルカ=ブライトほど怖れられている存在はこの国にいない。皇王は畏怖されるべき存在だが、彼のは少し過剰すぎる。この国最強の猛将であり、冷酷非道な性格は皆知っているのだ。レオンの左右に立ち並ぶ侍臣が皆震え上がってしまっているのも、それを良く印象づける。骨ごと肉をかみ砕き、丸飲みにすると、皇王は宣う。

「兵を準備せよ」

「は、はっ!」

「ハルモニアにも援軍を頼んでおけ。 奴らの兵が五千ほど計算出来るとして、動員数は五万五千……といった所だな。 まあ、五万でも充分だろう」

それは、ハイランドという国家としては、経済力から考えて総力戦を行う事を宣言するに等しい動員数であった。ハイランド軍は親衛隊である白狼軍(第一軍)にくわえて、第二軍から第四軍までの四個軍団で構成されているが、今回の動員戦力は首都を防衛する第二軍を除いた全てと言っていい。第三軍と第四軍、皇王の親衛隊である白狼軍、新兵達の部隊、その全てを含む圧倒的な戦力。これに対して、都市同盟の残党共は、どんなに無理をして集めても二万に達せず、しかも大半が烏合の衆だ。その上足並みも揃っておらず、現に都市同盟軍の主力であるマチルダ騎士団は日和見を決め込んでおり、戦いの準備すらしていない。仮に奴らが裏切って首都を急襲したとしても、第二軍で充分に対処可能だ。

「兵力、状況はともに此方が上だが、不安要素は何かあるか? あるのなら遠慮無く言うが良い」

周囲を見回し、ルカは言う。彼は意見を拒まない。凶暴な皇王だが、この点だけは誰よりも優れている。彼は有能な人材なら誰でも関係なく部下にするし、有用な発言なら何処から出ても聞き入れる。彼は都市同盟の人間を徹底的に憎悪しているが、これだけは話が別だ。白狼軍の中には、都市同盟出身の凄腕が何人か居るという噂がある。

無言の中、挙手したのは、白髪に白い髭の老将であった。ハーン=カニンガムという男で、国を代表する名将だ。第二軍の司令官で、老いたとは言え一度も職務を滞らせた事はない。

「陛下。 準備に三ヶ月は掛かるとして、資金はどうしますか」

「ミューズから絞り上げろ」

「……」

「構う事はない。 ミューズのクズ共を生かしてやっているだけで虫酸が走る。 連中が蓄えている金銀など、どうせ下らぬ行いにしか使わぬに決まっている。 兵士を向かわせ、金になりそうなものは根こそぎ奪い取ってこい。 家は潰して木材にし、石材にし、使い物にならないものは燃料にでもしろ。 抵抗したら殺しても構わぬ。 女子供は奴隷にして売り飛ばせ」

「陛下……」

「そうだ。 その後、例の実験に奴らを用いよう。 売れそうもない連中は、一カ所に集めておけ」

ハーンは頭を垂れると、下がってそれ以上は意見しようとはしなかった。別に気分を害した様子もなく、皇王は更に言う。

「各将は戦の準備を行っておけ。 今回は俺が自ら指揮を執る。 である以上、この戦に負けはない! 負ける時は、皆が死ぬ時だと心得よ!」

 

難攻不落の城塞都市グリンヒルをわずか五千の兵によって陥落せしめた功績により、一軍の司令官となっているジョウイ=アトレイドは、謁見の間から退出すると、レオンを連れて自室に引き上げた。自室と言っても、庶民の家ほどもある大きな部屋で、調度品も皆豪華だ。これがルカ=ブライトが、使えると判断した部下に行う待遇である。功績に応じて評価された者の中には、一兵卒から貴族に成り上がった者さえ何人か居る。功績に対する正当な評価という点では、ハイランドの民は一様にしてルカを認めている。暴君は決して知性が劣弱ではないのだ。

歴史にもしもは禁物だ。だがルカの母親がミューズ市先代市長の密命を受けた都市同盟軍の兵士によって彼の目の前で凶行にさらされなければ。それを元に心を病んで死ななければ。子を孕まなければ。父帝アガレスが母を救う事が出来ていれば。彼は体内の獣に精神の主導権を明け渡し、凶気に陥る事はなかったかも知れない。ひょっとすると、ハイランドを代表する名君として民の信望を集めていたかも知れない。

だが、仮定の話は意味がない。実情のルカは凶猛なる暴君であり、ジョウイにとっては差し違えても殺さなければならない相手だった。豪華な木材で作られた、磨き抜かれた机に手を着きながら、レオンの前でジョウイは言った。整った顔立ちに、露骨な怒りが浮かんでいる。今、問題なのは奴の行っている行為。都市同盟の民を虐殺し、虐待し、飽くことなく血を求め続ける奴を殺さねばならないのだ。彼の庇護下にあった少女がルカの行為から家族を失い失語症に陥った時から、ジョウイはそう決めていると、レオンは知っている。

「あの男を、一刻も早く殺さねばならない」

「今回の戦は背中を刺す絶好の機会です。 反乱軍共と白狼軍を相争わせ、適当に傷ついた所でとどめを刺してやりましょう」

若々しいレオンの顔には、嘲笑もなければ侮蔑もない。単純に卓上にある駒を動かした結果、それのみを伝えている。レオンの後ろ盾によって華々しい功績を挙げ、ルカが忌み嫌っている皇女ジルとの婚約を果たした青年は、ぎりぎりと歯を噛む。

「それよりも、ミューズで奴が行おうとしている暴挙を止めたい」

「無益です。 放っておきなさい」

「レオン!」

若いな、とレオンは思う。レオンがこの青年に力を貸しているのは、ノイズが多すぎるルカよりもずっと扱いやすいからだ。相当に頭の良い青年だが、レオンから見れば赤子も同然。熱した鉄のように、このような青年は叩けば叩くほど強くなる。だからレオンは叩く、叩く、叩く。サディスティックな趣味は特にない。単に目的の為に、必要だからそうしているだけだ。

「奴はミューズの民を虐殺するつもりでしょう。 放っておけばよろしい。 奴の評判が落ちれば落ちる程、後継者に対する期待は高まります。 そして善政をしけば、自然と国家の結束は高まり、平和への強固な礎となるでしょう。 貴方にとっては良い事ずくめではないですか」

「そういう問題じゃない! 現在ミューズに収監されている住民は二万近い! 二万近い人間を奴は蹂躙し、皆殺しにしようとして居るんだ! それなのに、どうしてそんな冷静になれる!」

「ジョウイ殿は此処十年間の都市同盟とハイランドとの戦いで、死んだ人数を知っていますか? グラスランドでの真の紋章を巡る戦いの末期、真の炎の紋章の暴走に巻き込まれ、何人のハルモニア帝国軍人が死んだか知っていますか?」

ジョウイは博識だが、思わず黙り込んでしまう。前者はともかく、特に後者は殆ど誰も知らない情報である。ハルモニア帝国は現在世界最大の国家だが、秘密主義においても類が無く、故に自らの恥を隠蔽する傾向がある。

「前者は二十八万。 後者は九万七千。 数十年の平和の為に、それだけの人間が犠牲になったのです。 そして今回のルカ皇王による暴挙に等しい都市同盟侵攻によって、今まで失われた人命はまだ七万に達していない。 これから二万が加わったとて、今更何が代わりましょうか。 貴方が立とうとしている立場は、そういう計算を出来なければ成り立たぬ場所だ。 もうすでに、分かっているでしょうに」

レオンが吐く言葉は凄まじいまでに冷酷であったが、口調に傲慢さや愉悦はない。ただし、歴史を人為的に管理しようと言う暗い熱意のみがあった。

「百年先を見据えなさい、ジョウイ=アトレイド。 ここでミューズを葬り去っておけば、新生ハルモニア帝国のためにもなる。 国家に二つの中枢は必要ない。 それに暴君に血迷った所行を重ねさせておけば、貴方の栄光の為にもなるのです」

「し、しかし、それでは僕は何の為にみんなを裏切ってまで……う……く……っ!」

不完全な真の紋章の一つを宿しているジョウイが、胸を押さえて蹲った。紋章の副作用だ。彼は悩み苦しむと、肉体的な苦痛と損耗を加速させてしまうのだ。机の上に置いてあった痛み止めをひっつかむと、わき目もふらずに飲み干すジョウイの顔は青ざめている。それを一瞥すると、レオンは調べる事があると言い、青年貴族の部屋を後にした。

部屋の外にレオンが出ると、ジル=ブライトが俯いて立っていた。ルカの母サラ=ブライトに生き写しだと言われるこの美しく儚げな娘は、どうやらジョウイに惚れているらしく、彼の行動にいちいち心配する様子を見せている。ジョウイもまんざらではない様子で、だが冷静に愛を運ぼうと四苦八苦している様子が微笑ましい。政略結婚なのに愛情があるのだから、良しとすべき事例ではある。ジョウイとジルの結婚は、実は先帝アガレスの暗殺に深く関わっている事であり、その事で根が真面目な青年は深く悩んでいるらしい。レオンにしてみれば、毒を喰ったら皿まで貪る度胸を持つまで、まだまだ青年を鍛えるつもりであった。そんなレオンの意図や、父の死の真相など知らないだろう儚い娘は、心配そうに言う。

「レオン、ジョウイはどうしていますか? 戦が近いと聞いて、私は心配です」

「ご心配なく。 ジョウイ殿は今回も偉大な武勲を挙げて帰るでしょう」

「ジョウイが武勲を挙げると言う事は喜ばしいけれど、それは兄がまた非道の行いをすると言う事。 素直には喜べませんわ」

こういった言葉は政策批判になるのだが、ジルはジョウイとレオンを始めとする腹心達には、時々ぼそりと不安を漏らす。元々仲がよい兄妹ではない。ルカはジルの事を、母に似ていなければ縊り殺している、等と公言さえしている。凶暴なルカの発言に萎縮しがちなハイランド人も、この言葉には複雑な表情を見せる。かって穏やかだった皇子は、母が凶行に晒されて子を孕み、心を病んで死んだ事で性格を一変させた。そうして産まれた子がジルなのだから、いたわれと言うのには流石に無理がある。ただし、ジルには何の罪もないのもまた事実である。

一方で、ルカがハーンを信頼しているのは、彼が都市同盟軍の下郎共から母を救い出したからで、ハーンはジルの事も同じようにいたわってくれている。レオンにしてもジルにしても、ルカとの橋渡し役に彼を使う事が少なくない。

「所詮、血塗られた道です。 古代の英雄も征服地では様々な行いをし、武名を轟かせました。 それが結果として、百年の平和に繋がった事も多いのです。 あまり陛下を表立って批判せぬようになされませ」

「そうですね。 つまらぬ事を申しました。 忘れてください、レオン」

ただでさえルカとジルの間柄は薄氷を踏むような状態だ。くわえてレオンが見た所、ジルは善良だがさほど頭がよい娘ではない。それにくわえて、こんな所でジルが粛正されてはレオンとしても困る。よって、助けた。良識的な釘をわかりやすく差すと、ジルは素直に非を認めて、レオンに謝罪してくれた。これでよいと、上手く駒が動いたと感じたレオンは、喜びを覚えた。

ジルに礼をして部屋を離れる。戦いが始まる前に、仕込んでおく事はまだまだ幾らでもある。不平を持つ下士官や将校に唾を付けておいて、次の政権で力を振るって貰うのだ。現在目を付けているのは、シードという猛将と、クルガンという知将だ。どちらもそこそこの評価を受けている将軍だが、度重なるルカの非道を快く思っていない。

それに、手駒が言う事を聞かなくなるようでは困る。幾つか先に打っておくべき手があった。

二人の若い将軍は仲が良く、普段はほとんど一緒に行動している。案の定、今日も二人一緒に、高級士官用の食堂で面白くも無さそうに肉料理をつついていた。レオンは二人に話があるといい、裏庭に連れ出す。流石に二人とも歴戦の将、すぐに何事か頼みがある事を悟って、付いてきた。荒々しいシードは紅い髪の猛将で、冷静なクルガンは銀髪の知将だ。どちらも超一流の使い手であり、ルカ皇王を除けばその戦闘力はハイランドでも五指にはいると言われている。冷静なクルガンは、シード以外の誰にも敬語を使って話す。一方でシードは、上役には敬語で喋ろうとするが、油断するとすぐに粗暴な地が出る面白い男だ。

「レオン殿、何事でしょうか」

「うむ、実はな、ルカ皇王がミューズで虐殺を行う可能性がある。 放っておけば、住人の全てが皆殺しにされるだろう」

「何てこった……!」

二人は謁見の間に入るほどの地位を与えられておらず、レオンの言葉に蒼白になった。粗暴なシードだが、それは凶暴な事とは違う。二人はジョウイの配下に付く事を自然に承諾しており、忠誠度も期待出来る。

「何とか止める方法はありませんか? もし実行されれば、民に多大な被害をもたらし、恨みは数百年先まで蓄積されるでしょう」

「残念ながら、止める事は無理だ。 皇王陛下の性格はご存じだろう」

「くそっ! 何かいい手はないのか、クルガン」

「静かにしろ、シード。 レオン殿、我らを呼びだしたと言う事は、何か策がおありなのではありませんか?」

実のところ、レオンは二人のどちらかがこの事に気付かなければ、放っておくつもりだった。将来の幕下に招く事もやめるつもりであった。だが一応テストに合格した事だし、口の端を軽くつり上げて言う。

「うむ。 陛下は女子供は奴隷として売り飛ばせ、と言っておられる。 そこで、ジル殿から私財を出して貰い、お前達の配下を奴隷商人に偽装して買い上げろ。 その後は時期を見計らって、レッドリバー軍に売り飛ばせ。 戦力を増したい上、旧ミューズの難民を抱えている奴らは一も二もなく飛びつくだろう。 最低でも、二割ほどの利益を稼げるはずだ」

「なるほど。 考えましたな。 すぐに準備を始めます」

「まった、レオン殿。 他の者達は?」

「助けるのは無理だ、残念ながらな。 皇王陛下は生贄を欲している。 今助けられる人間はこれだけだ。 そして急がねば、その者達すら助けられなくなるぞ」

ぴしゃりと言い捨てると、レオンはその場を後にする。もし失敗した所で、この二人を蜥蜴の尻尾同然に切り捨てれば済むだけ。レオンの行動に無駄はない。そして、人間らしい感情も希薄であった。彼が喜びを得るのは、歴史の管理に成功した時のみ。人の死など、ましてや幸せなど、レオンにとっては塵芥に等しい価値しかなかった。

「さあて、次の手は……」

歩きながら呟く彼の若々しい顔には、何の狂気もなかった。だがその心の中は、ひょっとするとルカ=ブライトよりも強大な闇の獣によって支配されていたのかも知れない。

……レオンの策により、後に三千人ほどが、家財産を失いながらも命を拾う事となる。

 

2,老兵の狭窄

 

精鋭をもってなる白狼軍の構成員は、ほとんどが若者と壮年の者達で占められている。極端な能力主義者であるルカ=ブライトは、配下に無能な人間が居る事を許さない。第四軍の先代指揮官ソロンが使い殺しにされたように、部下の能力を常に試し、いらない人間はどんどん切り捨てていく。だから、その老人は白狼軍の中でとても目立っていた。

一見好々爺たるその老人は、剣が振るえるのか疑問に思えるほどもう衰えている。何でも紋章術の達人だったらしいと言われているが、その技を見た事がある者は誰もいない。かっては剣術も凄かったという話だが、戦場で彼が指揮をする所を見た者はいない。第二軍のハーン将軍とは良い茶飲み友達だそうだが、その割りには英雄としての昔話も伝わっていない。流石に指揮能力と知識は凄いのだが、誰もが認める武功を持たない人間が、白狼軍の指揮官に収まっているのは異例と言っても良い。不思議な老兵だった。名はフランツという。百人隊長を務めているが、普段彼が行うべき実務は副官が務めているのが現状だ。

その老人が、ルカの自室にやってきた。居並ぶ兵士達も、彼を止めない。厳しく武装はしているが、彼がルカに害をなせるなどと思う者は居ないからだ。兵士に剣を預け、戸を開け、皇王の私室へはいる。無骨ながら、広い部屋である。ベッド脇のテーブルには酒瓶が並べられ、生々しい骨付き肉が山と積まれている。椅子にふんぞり返っていたルカは、老人の顔を見てにっと笑みを浮かべた。その目は驚くほど優しい。

「おお、じいか! よう来た! 痛めていた腰の具合はどうか?」

「はい、おかげさまですっかり良くなりました。 若、出陣が決まったそうですな」

「うむ。 今度こそ母上の敵を討つ事が出来そうだ」

「おお、おお。 そうですか。 若、腕がなりますな」

「まったくだ。 それにしても、じいよ、若はよせ。 もう俺は皇王なのだぞ」

ははは、とルカが笑う。ハイランドの者が見たらさぞ驚くだろう。ルカがこんな風に、穏やかに笑う事が出来ると知る者は少ない。フランツは、ルカの味方だった。幼い頃から、彼の味方だった。ルカにとって、心が壊れてしまった母と、彼だけが家族だった。母が亡き今、フランツのみが、ルカにとっては家族といえる存在なのである。

「若、いや陛下。 今回はこのじいめも出陣させてください」

「ん? うむ、そうだな。 しかし、痛めた腰は大丈夫なのか?」

不安そうにルカが骨付き肉を持つ手を止めた。目には沸き上がってきた心配が張り付いている。

「何の、まだまだ若者には負けませぬぞ」

「それは頼もしい。 俺は個人戦闘の技量ではもはやこの世の誰にも引けを取らぬが、集団戦の知識ではまだまだじいに教えて貰いたい事が幾らでもある」

「恐れ多い事です。 じいは光栄ですぞ」

再び余人が見たら腰を抜かすような会話が平然と交わされている。傲慢不遜なあのルカが、他人の怪我を気遣い、なおかつ腰を低くして教えを請いたいなどと言っているのだ。今、この場面だけを見れば、この男が血に飢えた獣のような存在などと、誰も信じられぬだろう。しかしこれは、歴とした事実、側面の真実だった。

もう誰も知らない事だが、四十年以上も前から慢性的に続いているハイランドと都市同盟の全面戦争の、更に前の全面戦争で活躍した英雄こそが、このフランツだった。先代の皇王アガレスが即位する前からの戦歴を持つほどの古豪なのだ。しかし英雄と言っても、その仕事は常に影働きに徹し、華々しき栄光とは無縁の人生でもあった。

元々フランツは隠密行動を得意とする忍びで、一般人に変装して敵国に潜り込み、様々な情報を集めてくる事に天才的な技量を持っていた。ロッカクの里と呼ばれる、現在トラン共和国北部にある、忍者と呼ばれる特殊諜報員を育てる村の出身者である彼は、仲間の中でも隠密機動に関しては卓絶した力量を持っていたのである。戦うだけが忍者の仕事ではなく、彼のような行いこそが忍者の本分なのだ。当然の事ながら、様々な名前を人生で使い分けてきた。その一つがフランツである。元の名前が何かは、もう忘れてしまった。紋章術が云々とか、剣術が云々だとか、そういったものは彼が意図的に流したフェイクとしての情報である。むしろ彼が得意としているのは、マクロ的な情報把握からもたらされる、的確な情報分析と、それに基づく行動である。

ルカ=ブライトの従者に彼がなったのは、二十五年前の事。その頃は都市同盟との戦争も一時期沈静化しており、腕の衰えが出始めたフランツが、待望の長子であるルカの護衛に付いたのも妥当な人事であった。彼も最初は最前線での任務を望んだのだが、これもまた名誉な仕事であったし、彼は納得する事にした。それは今まで彼が感じた事のない、緩やかな任務であった。今まで彼は常に最前線で戦ってきた。剣を振るわけではないが、ばれたらいつでも命がない場所で、彼なりの戦いを続けてきた存在なのだ。

それが、今度の仕事は全く別であった。確かに失敗したら、命のない任務である。影から暗殺を警戒せねばならず、四六時警戒を絶やす事は出来ない。しかし、根本的に緩い。今まで彼が居た所とは、全く違う場所であった。

 

「フランツー。 フランツー!」

鈴を鳴らすように澄んだ声が、ルルノイエ城の中庭に響く。木々が植えられ、小さな池や川もあり、ちょっとした庭園になっている其処は、普段は時が止まったように穏やかな場所だ。皇妃サラ=ブライトが、自分を呼んでいる事に気付いたフランツは、木の上で僅かに身じろぎした。彼の任務は何よりルカの護衛であり、皇妃の護衛は別の人間の仕事である。何故自分を呼んでいるのか分からなかったが、取り合えず出向かぬ訳にはいかない。すぐに木を降り姿を見せると、心配そうに儚げな美貌を持つ皇妃は言う。

「ああ、フランツ。 ルカが居ないの。 何処に行ったか分からない?」

「皇子なら、今眠っておられます。 其方に」

ルカは大きな目が特徴的な、大人しい子供である。本が好きで、口数が少なく、何よりとても心優しい子であった。傷ついた小鳥を介抱して離してやったり、花も考え無しに摘まず、丁寧に手入れして美しく咲かせてあげた。今日もペットの白い犬と物陰で一緒に眠っていて、フランツはそれを見守り、暗殺を警戒するだけで仕事が全て終わってしまっていたのだ。殺伐とした世界で鍛え抜いた腕がなまりそうなほどに、緩く優しい時間であった。眠っているルカを見守るのは、フランツの密かな生き甲斐になりつつあった。

髪が白くなりつつあるフランツ。妻は、随分前に死んだ。仕事にばかり行っている夫をなじるばかりだった気もするが、それも仕方がない。妻には悪かったとフランツは未だに後悔している。子供は居なかった。だから、余計にルカが愛おしい。

サラ=ブライトは心優しい王妃だ。儚すぎて風に飛ばされてしまいそうだが、ルカの事をいつも心配して、たっぷりの愛情を注いでいる。

「ああ、ルカ。 良かったわ」

「では、私はまた監視に戻ります」

「ありがとう、フランツ。 ルカも貴方をとても慕っているわ」

「恐れ多い事でございます」

頭を下げると、再び目に付かない所へフランツは移る。アガレスもルカの事を可愛がっていて、フランツの目には理想的な家族に見えた。ルカの頭を膝に乗せて撫でるサラはとても幸せそうであったし、美しかった。

フランツは忘れていた。幸せなど、すぐに壊れてしまう物だと言う事を。今まで自分の目で幾らでも見てきたというのに、すっかり忘れてしまっていた。あまりにも目の前の幸せが大きく、まぶしかったためがゆえに。

ルカはフランツの事をじいと呼んでくれた。確かに髪に白い物が多くなってきたフランツは、普通なら孫が居てもおかしくない年であったし、じいと呼ばれても違和感は無かった。大人しいルカは剣を学ぶよりも本を読む事を喜んだので、フランツに教えられる事はあまりなく、ただ見守る事しか出来なかったが、それでも良かった。フランツは、優しいじいであろうと思った。優しいルカを守る盾であり、心の支えになる人でありたいと願った。ルカもフランツを頼りにしてくれた。それだけで、フランツは幸せだった。ある日、部屋で本を読んでいたルカは、不意に影から護衛に付いているフランツに言った。

「じいは、いつも影にいるね」

「はい。 じいめは、若を影からお守りするのが仕事にございます」

「影に誰かが居てくれるのは、とても幸せな事なんだって。 僕は幸せだよ、じい」

「身に余る光栄です、若」

二人の間には、確かな絆があった。それは老人と孫の関係にも近く、主従とは少し違い、親子に似ていた。仕事が忙しく、家族とはなかなか一緒にアガレスが居られない事を、どうしてかフランツは嬉しいとさえ思っていた。不忠である事は分かっていたのだが、それでルカと一緒にいられるならと言う本音も何処かにあったのである。

全てがおかしくなったのは、戦争が一段落し、ミューズ市において休戦協定が結ばれる事になってからである。

 

ミューズ市市長ダレルとの和平調印式に出発する為に、皇家が出発した頃、フランツの耳には嫌な情報が入っていた。少し前に行われた、戦争のけじめとしての儀式に、不正があったというのである。留守に残ったフランツとしては、あまり平静ではいられない情報であった。

珍しく留守役を命じられたフランツは、今日は珍しく自室に籠もっていた。最近ずっと明るい外やバルコニーでルカの見張りばかりしていたから、宮殿の一階に設置されている暗い自室は却って慣れなかった。調度品はそれなりに豪華だが、防音装備が為されており、また普通に歩いていては近づけない場所にある部屋である。ルカの護衛はライフワークになっていたので、この部屋は少し息苦しかった。皇王は示威行動を避ける為、英雄と呼ばれる人間を連れて行く事を避けたいのだと言っていた。ハイランドでは知名度の低いフランツだが、都市同盟の諜報員にはそれなりに知られている。確かにフランツが同行すれば、あまり良くない印象を与える可能性があり、皇王の判断は正しい。しかしフランツは、やはり何処かで面白くなかった。そんな中、情報が飛び込んできたのである。

急いで戻ってきて情報をもたらした部下は、声を潜めながら言った。暗い部屋の中で、更に暗い言葉が行き交う。カーテンが音もなく揺れた。

「ボス、えらい情報が入りやしたぜ」

「どういう事だ」

「へい。 実はあのダレルって野郎、ゲンカク殿とハーン将軍の決闘に、ケチを入れたらしいんでさ」

ハイランドでも尊敬されている英雄ゲンカクには、ハイランド人でも普通に敬称を付ける。それに対して市長のダレルは大体呼び捨てだ。下劣な人格が良く知られているからで、この強欲市長が居る限りたとえゲンカクが相手でもハイランドは負けないとさえ言われている。何度勝てる戦いを目先の利益で放棄したか分からない愚物である。市長になった当初はまともな人間だったらしいのだが、重い糖尿を患って、恒常的な痛みを感じるようになってから人が変わってしまったのだと、フランツは聞いている。好きな料理も満足に食べられず、代わりに口にはいるのは刑務所の食事のようなまずく薄味のものばかり。激しい運動も、長時間の外出も皆禁止。殆どストレスの発散もなかった彼は、蓄財と権力強化にしか人生を注ぐほかなくなり、発散も出来ないストレスに苛まされ、いつの間にか醜く歪んでしまったのだという。可愛がっていた姪が流行病で死んでしまってからは、その歪みは決定的になり、現在は半ば狂気に侵されているとも言われている。

ゲンカクとハーンの決闘というのは、少し前に行われた、この戦争で最も注目された出来事だ。都市同盟軍の英雄ゲンカクと、ハイランドの名将ハーン将軍は、大の親友であった。しかし長引く戦争に嫌気が差した両政府の意向で、両国の代表者が一騎打ちして勝負を付けようと言う事になったのである。それぞれが勝った場合の領土線が決められ、戦いは厳粛に行われる、はずだった。しかしそこで不可解な事が起こった。ゲンカクがいきなり決闘開始と同時に剣を捨て、参ったと言ったのである。相手が如何に親友とはいえ、誇り高い武人ゲンカクがどうしてそんな事をしたのか、理解出来ずに怒声以上に困惑声が辺りを飛び交ったという。野次が飛ばなかったのも、ゲンカクとハーンが両陣営から如何に尊敬されていたのかよく分かる一つの事例である。ゲンカクは追放され、現在の所在は不明である。

「どうやらあの時、ダレルの命令でゲンカク殿の剣には毒が塗られていたとか。 それを知ったゲンカク殿は、ハーン殿を守る為に剣を捨てたそうで。 これはかなり信頼出来る情報筋からの特ダネでさ。 顔に泥を塗られたダレルの野郎、自室で血迷って吠え散らしていたとかで、何かしてくる可能性が高いですぜ」

「まずいな。 皇家が通る道に、幾つか危険な場所がある。 すぐに部下を派遣しろ」

「へい」

「ハーン殿には俺が直接話しておく。 お前は部下達を連れて、皇家の方々を守るべく急行しろ。 護衛に兵士は付いているが、彼らだけでは心配だ」

削られる領土の大半はミューズ市の管轄下にあり、特にダレルの直轄領地が多いと聞く。フランツにはダレルがこの場合どんな手を取ってくるのか、大体見当が付いた。孤独なこの男にとって信頼出来るのは物質化した力の顕現である金銭のみであり、それを奪う物は悪魔に等しいと認識しているのだ。

すぐに良く訓練されたフランツの部下達が動き出す。フランツ自身は、自室でふさぎ込んでいるハーンの元へと向かう。兵士達はすっかり祝賀ムードに酔いしれており、殺気だって急ぎ足で歩くフランツを見て、訝しげな視線を向けてくる者も多かった。

事情を知らず、親友の行動に混乱していたハーンは、自室で飲んだくれていた。名将の顔はワインのアルコールでどす黒く染まり、平和が来るかも知れないと言うのに全く嬉しそうには見えない。

「ハーン将軍」

「……フランツ殿か。 何用だ」

フランツの情報は、戦場でハーンの勝利に随分貢献してきた。ハーンもフランツも互いを尊敬しあってきたのだが、今のハーンはフランツをただ煩わしそうにしか見ていなかった。如何にショックが大きかったのかよく分かる。普段であれば、フランツが来た時点で異常事態を察知しただろうに。酔眼を向けてくるハーンに、フランツは事情を手短に説明していく。ワイングラスを持っていたハーンの手が、わなわなと震え始めた。

「なんだ……と!」

「残念ながら事実です、ハーン将軍。 急がねば手遅れになります」

「う、うむ! すぐに動かせる兵を纏めて、後から儂も追う。 貴公は早く陛下を追い、状況の確認に務めてくれ!」

これ以上は必要なかった。流石に名将、一度スイッチが入ればきちんと普段の状態を取り戻す事が出来る。早足で自らの部隊の指揮に戻るべく歩き出したフランツは、ハーンが呟くのを聞いた。

「ゲンカク殿……無事でいてくれ」

 

兵を纏めたフランツは、国境付近へと急いだ。周囲の者達は、ロッカクの里からスカウトした人材も含めた、ベテランの諜報員ばかりである。早馬を乗り継ぎ、疾風の如く山を駆け、彼らは馬車を追った。護衛の兵士はおよそ五十名。示威的にならないようにと、皇王アガレスが配慮した人数だ。いずれも精鋭だと聞くが、しかし幾ら何でも数が少なすぎる。

国境を過ぎ、三つ目の山を越えた時、フランツは自らの予感が最悪の形で的中した事を悟った。山中にて煙が上がっていた。

 

辺りには木材の破片が散らばり、累々と屍が転がっていた。屍は殆どが消し炭であり、抵抗の間もなく殺された事がよく分かる。雷の紋章術や、炎の紋章術を使うと、こういった独特の煙が上がる。しかも使われた術は、破壊の範囲を見る限り上級の紋章術だ。すぐに馬車の車輪が見付かり、フランツは周りに叫んだ。

「生存者を捜し出せ! まだ襲撃者は周囲にいる可能性がある! 細心の注意を払え!」

「了解!」

十人ほどが周囲に素早く散る。すばやく辺りの地形を頭に入れながら、フランツは素早く指示を飛ばした。

「お前はハーン将軍に事態を報告! 残りは俺に付いてこい!」

衰えたとは言え、彼は歴戦の忍びだ。敵が何処から襲撃をかけ、どちらへ逃走したかくらい、すぐに襲撃跡から判断が付く。フランツの脳裏には、心優しいサラ皇妃と、ルカ少年のあどけない笑顔が映っていた。不忠だが、皇王よりも彼らの方がフランツには心配だったのである。彼らがどんな目に会っているか思うだけで、老いたフランツの心は張り裂けそうであった。

襲撃者は山賊などではなく、都市同盟正規軍だと、フランツは当たりをつけていた。この襲撃の手際、更に用いている高度な紋章術、山賊如きに出来る事ではない。レンジャー訓練を受けた正規軍兵士が、綿密な計画の元に行った事に違いない。ならば、却ってフランツには都合がいい。都市同盟軍の行動パターンは知り尽くしている。焦る心を押さえつけ、ブッシュ深い山の中で、敵の痕跡を丁寧に探っていく。部下が、その時声を挙げた。

「頭領、あれを!」

フランツ始め、六人の忍びがすばやく駆け寄る。鬱蒼とした茂みの中、血だらけで木に背中を預け、大きく肩で息を付いているのは、皇王アガレス=ブライトその人ではないか。彼の手には柄まで血に染まった剣があり、刀身は曲がってしまっていた。礼服は彼方此方切り裂かれ、血が地面に染みこんでいる。恐れながらといいつつ、頬を軽く叩くと、皇王アガレス=ブライトはゆっくり目を開けた。

「陛下!」

「お、おお、フランツ! フランツか!」

「ご無事でしたか、陛下。 すぐに安全な場所へお連れいたします!」

「余はいい! それよりも、先にサラとルカを! あやつらめ、サラに、何という事を!」

アガレスの言葉だけで、フランツには何が起こったか理解出来た。戦場では珍しくもない事だが、故に絶対に許しては行けない事だ。ぎりぎりと歯を噛んでいる事を、フランツは実感していた。凄まじい憎悪が、フランツの中で鎌首をもたげ、荒れ狂い始めていた。こんな怒りを感じたのは一体何年ぶり……いや、産まれて初めての事かも知れない。部下の一人が、フランツの目を見てしまい、ひっと小さな悲鳴を漏らした。

「余が甘かった。 和平に敵国が傾いていると信じてしまっていた。 余の判断が甘かったが故に、兵士達を大勢死なせてしまった……」

「二人は私が助け出します。 陛下はこのままハーン将軍の元へお急ぎ下さい! アオ、ショウ、現在周囲を探索している者達を呼び集めながら、彼らと共に陛下を連れて安全圏へ急げ。 ハーン将軍がもう精鋭を連れて国境辺りまで来ているはずだ。 残りは俺と付いてこい。 皇妃様と、皇子殿下を救い出す!」

「すまぬ! フランツよ、すまぬ! 余は護れなかった! 逃げるだけで、精一杯だった!」

精悍な皇王の目から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。フランツは頷くと、山道を部下達と駆けた。敵が残した痕跡を一個も見逃さず、最大限の速度で走る。殆ど何もないような場所にも、彼の忍びとしての目には、足跡がはっきり見えていた。

ほどなく、熟練したフランツの目は、憎き敵を見つけだした。無言のまま部下達にハンドサインを出し、身を臥せる。山中の緑深い場所に、巧妙にカモフラージュした陣が張られており、百名ほどの山賊に偽装した兵士がいる。山賊に偽装してはいるが、見張りの手慣れた動きと言い、レンジャー訓練を受けた正規軍に間違いない。である以上、侵入も命がけの作業となる。

「俺が侵入する。 ホムラ、戻ってハーン将軍に敵の位置を伝えよ。 ヒスイとハンザキはバックアップだ。 狼煙を上げたら、敵陣を外から攪乱してくれ。 或いは、ハーン将軍が到着したら、合流してすぐにでも攪乱に移って欲しい。 俺は二人を助けて自力で脱出を計るが、無理な場合はその場に持ちこたえて何とか二人を守る。 一刻も早い救援が来るように、依頼してくれ」

「了解」

四人は最初から其処にいなかったかのように、素早く散った。気配どころか、痕跡も跡には残らない。走りながら、体が軽いとフランツは思った。若い頃の力が戻ってきたかのようだ。足音を消したまま歩き、素早く陣の側にまで寄る。木の間には細い糸が張り巡らせられ、それは巧妙に隠された鳴子やトラップに繋がっていた。地面には落とし穴が掘られ、周囲には犬を連れた兵士が巡回している。ものものしい警備である。そのうえ、実に巧妙に隠されている。フランツでなければ、数日は探し出せなかっただろう。だが相手が、歴戦のフランツであったのが運のつきだ。

敵は自然の洞窟を中心にキャンプを張っている。見張りが視線を逸らした隙に塀を乗り越え、音もなく陣の中に降り立つと、一つ一つ偽装したテントを確認していく。テントの数は七つ。襲撃に使ったらしい紋章や武具が雑多に転がされていたり、兵士が中でカードを仲間と切ったりしていたが、肝心のルカとサラはいない。一番危険な洞窟は最後にして、テントから先に全て確認する。本当なら兵士が一番注意力を落とす明け方に忍び込みたい所なのだが、事態は一刻を争う。それに、フランツの熟練した目は、兵士達の装備が駐屯用ではなく実戦用だと見抜いていた。つまり此奴らは、あまり時間をおかずに此処を去る気だ。証拠を隠滅した末に。

洞窟の入り口には歩哨が二人立っており、周囲に油断無く目を光らせている。テントが外れである以上、あの中にいるとしか考えられない。素早く周囲を確認してみるが、侵入口は少なくとも近くにはない。この様子だと合い言葉を設定していて、変装しても無駄だろう。敵兵の死角、岩肌の側にあるブッシュに身を潜め、フランツは機会を待つ。

こういった時に、焦っては駄目だと、フランツは知っている。冷や汗が流れ落ち、焦燥が心を揺さぶるが、じっと我慢して好機を待つ。外の二人に陽動を頼もうかとも思ったが、それは最後の最後の切り札としたい。そんな時、ついに好機が訪れた。

「!」

見張りの兵士の内一人が、フランツのすぐそばに向き直る。一瞬ひやりとしたが、すぐに呼吸は落ち着く。兵士の視線の先に何があるか悟ったからだ。

「どうした」

「ん、野犬、だな」

「訓練を受けた軍用犬かもしれん。 陣内を彷徨かせると邪魔だ。 仕留めておけ」

「ああ、分かっている」

尻尾を振っている野犬に、兵士は近づいていく。もう一人の兵士が視線を逸らした、その瞬間であった。

既に、その場にフランツの姿は無かった。一陣の風のように、彼は兵士達の死角を通り抜けて、洞窟の中に潜り込んでいた。囮になった哀れな野犬が、後ろで悲鳴を上げていた。

 

薄暗い洞窟の中では、却ってフランツに都合が良かった。夜目を利かせる訓練はずっと続けていて、この位の照度があれば松明など無くても充分行動出来る。水滴が落ちる音が、定期的に洞窟内部に響いている。独特の形の鍾乳石が床からも天井からも伸びており、飛び交う蝙蝠の鳴き声がやかましい。

それなりに大きな自然洞窟である。内部では要所要所に兵士達が詰めており、一人でも誰か居なくなればすぐに大騒ぎになるだろう。天然の要塞と言ってもいい場所で、攻略は容易ではなかった。まるで影だけしかないように、フランツはその奥へ奥へと潜り込んでいく。時間はない。一刻も早く、二人を捜し出さねばならない。

洞窟の中には敵が持ち込んだ物資や、他にも生活物資が散乱しており、良い感じで遮蔽物となっていた。この様子だと、都市同盟軍の特殊部隊が来る前に、生活していた者が居たのかもしれない。だがそんな者達が居ても、もうこの世には居ないだろう。何にしても、これは好都合だ。身を隠すには絶好だし、いざというときには発見した二人を其処へ移し、混乱の中を耐え抜かせる事も出来る。丁度岩壁を這うヤモリがフランツの目に入った。ヤモリのように音もなく、彼も洞窟の中を進む。そして、蟻の巣の一室のように奥まって膨らんだ空間の一つ、其処に地獄があった。

縛り上げられたルカ=ブライトが、床に転がされていた。親にも殴られた事のないその体には無数の傷が付き、頬には涙の跡がある。傷は殴打の跡、切り傷、擦過傷。殴られ、蹴られ、地面に引きずり倒されたのは間違いない。礼服は無惨に引き裂かれ、泥と血に染まっていた。そして、それよりも、無惨なのは皇妃であった。そのあまりに痛ましい姿を、フランツは直視出来なかった。見張りらしい兵士は、胡座をかいて、同僚と下卑びた笑い声を挙げている。好都合である。入り口と違い、この中ならば流石に兵士にも油断がある。この空間にも案の定様々なものが転がっていて。兵士達の隙を見て入り込み、身を隠すのは容易であった。声を最大限しぼると、フランツは意識があるルカに呼びかける。

「……?」

「若、若。 じいです。 じいめが助けに参りました。 そのまま、声を立てずにお聞き下さい。 分かりましたら。左手の小指を曲げてください」

後ろ手に縛られているルカは、震えながら、小指を曲げた。小さく息を吸い込むと、フランツは言う。

「じいめが遅れた為、若を恐ろしき目に遭わせてしまってもうしわけありませぬ。 サラ皇妃も酷い目に……腹を切ってもお詫びし切れませぬ」

「……」

「今、ハーン将軍が此方に向かっています。 将軍が都市同盟のクズ共に攻撃を開始すると同時に、じいめが若と皇妃様をお守りいたします。 しばし窮屈ですが、我慢をしてください。 じいめの処分は、その後に如何様にも」

こくりと、ルカが頷く。その目には、恐怖と悲しみを通り越して、凄惨な怒りが宿っていた。無理もない話である。状況からして、何が起こったのかは一目瞭然。多感な少年の目の前で、都市同盟の兵士達は、あまりにも非道な凶行を行ったのだ。箸よりも重い物を持った事もなかったような皇妃が、どんな恐怖を味わったかなど、わざわざ言葉にするまでもない。それを見て何も出来なかった皇子がどんな気持ちだったかなど、想像するだけで腸が煮えくりかえる。許し難い。皆殺しにしてくれる。ただ殺すだけではなく、生きたまま八つ裂きにしてやる。どす黒い憎悪の炎が、フランツの中で燃え上がった。

此処まで激しい憎悪を敵国である都市同盟の人間に感じた事は、フランツの長い人生の中でも初めてだった。サラ=ブライトとルカ=ブライト。この二人を家族と感じ、愛する事によって、フランツの視野は確実に狭窄していた。愛情は決してプラスの要素だけを産まない。むしろ、こうして思考を硬直させる事も少なくない。闇の中、息を殺して刃を研ぐフランツの耳に、轟音が轟いた。紋章術による物に間違いない。随分早いが、さすがはハーンと言った所だ。断続的に続く轟音に、兵士達が騒ぎ出す。

「何だ! 何が起こった!」

「敵襲だ! 総員迎撃準備! A隊は……」

見張りに就いていた二人も、慌てて立ち上がろうとする。フランツが飛び出したのはその瞬間だった。もう、遠慮している必要はない。素早く飛び出した老兵は、目にもとまらぬ手際でルカの手を縛っている縄を切り裂くと、少年を飛び越え、唖然とする兵士達に襲いかかった。悲鳴を上げる暇も与えない。腰から抜いた大振りのナイフが、手近な一人の喉を抉り去り、その血が地面に落ちるよりも早く、もう一人の左目に突き立つ。走り回る兵士達が、事態に気付く。流石に早い。

「若! 皇妃様を物陰へ! ここはじいめが防ぎまする!」

「分かった!」

穏やかだったルカの声に、思わぬ力強さがあったので、フランツは一瞬だけ驚く。だがそれは、マイナスの方向には作用せず、むしろ好ましくフランツには思えた。

ひくひくと痙攣している兵士の腰から、剣をひったくり引き抜く。こういった狭い場所では、剣の方が有利だ。今までも潜入先で発見され、敵兵を数人斬り伏せて逃げてきた事は何度と無くある。しかし、実は人質を守り、援軍が来るまで耐え抜くという状況は初めてであった。ハーンの手腕から考えても、援軍が来るまでそう時間はないはず。しかし老いた体には、今まで蓄積した疲労もあり、長時間の戦いは辛い。

「おのれ、人質を取り返せ! それは我らの生命線だぞ!」

「させん。 我が命に代えても、ここは通さぬ!」

出来るだけ隙が見えないように、空間の入り口に老獪に構える。これなら一度に同時に複数の人間が入れない。じりじりとした間合いの計り合いの後、一人の兵士が、喉から声を絞り上げながら躍りかかってきた。構えは力強いが、いかんせん若い。ぎりぎりまで引きつけて、通り抜けざまに胴を斬り払う。内臓をぶちまけながら横転する兵士。一方で、兵士の剣も、フランツの右脇腹を軽く抉り、血をしぶかせていた。さらにもう一人、今度は大上段から打ちかかってくる。無言のまま前に出ると、左肩に剣が突き刺さるのも厭わず、腹へ剣を突き通す。ぎゃっと悲鳴をあげた兵士が、蹈鞴を踏んで後ろに倒れる。肩に刺さった剣を力任せに引き抜くと、その次に続いた兵士を拝み打ちにしてやる。兜に半ば突き刺さり、頭蓋骨に六pほど食い込んだ剣は、兵士の意識を奪い去り、脳を潰した。倒れかかる兵士の剣が、血にまみれた脇腹をさらに傷付ける。かってなら避けられただろう一撃が、確実に体を傷付けていく。だが、恐怖も無ければ悲しみもない。逆に、高揚と戦意ばかりが浮き上がってくる。後ろに続く兵士が、蒼白になった。

「な、なんだこのジジイ!」

「どうした? それで終わりか? 都市同盟の精鋭はその程度なのか?」

可能な限り冷静を装いながら、フランツは兜ごと敵の頭を叩き潰した事により、曲がった剣を捨てた。泡を吹いて地面に転がっている兵士の手から剣をもぎ取り、振るって自分の血を落とす。ボウガンを構える兵士が目に入る。切り札を使うほかない。そのままフランツは一歩下がると見せかけ、懐から紋章の力を封じた(札)を空に滑らせた。札とは、体に宿した紋章と違い、一度使うと無くなってしまうが、その代わり誰でも使えるという利点のあるマジックアイテムだ。

「開! 荒れ狂え、紫電の宝閃!」

横殴りに数丈の電撃が走り回り、声もなく頭を焼き尽くされた数人の兵士が倒れる。ボウガンが地面に転がり、兵士の体そのものに潰されてひしゃげた。慌てて兵士達が下がる。そのまま下がっていろと、フランツは心中で呟く。もう品切れだ。今使った札は官給品としては最高級の物であり、後は防御用や回復用の物しかない。そして回復用の札は、サラとルカを助ける為にあるのである。構えを取り直すフランツに、だが時間がない故の焦りか、距離を置いた兵士が放った矢が連続で襲いかかってくる。ちらりと目をやると、ルカはサラをもう物陰に運び込み終えていたが、矢が其処へ飛び込まぬ保証はない。フランツは自らを盾に、矢を受ける。一本目は剣で何とか弾く事が出来た。二本目は膝に刺さり、三本目は右肩に刺さる。物理構造的に、これ以上剣を振るえなくなった。手にしびれが走る。それでも、フランツは剣を取り落とさなかった。筋肉が硬直してしまっているのだ。更に三本が次々と突き刺さる。致命傷は避けたから、もうそれで良い。兵士が剣を振り上げ、迫ってくる。振るう事は出来ないが、フランツの頭脳は驚くほどさえ渡っていた。上体をタイミングを合わせて反らし、走ってくる兵士の喉へ、下から握っているだけの剣を向けてやる。喉を貫いた剣が、体を反らす事により、ずぶずぶと奥へ潜り込む。白目を剥いた兵士が倒れた時、その兵士が突き込んできた剣が脇腹に刺さったまま、フランツは片膝で立ち上がって見せた。熾烈な眼光が、後続の兵士達の心を焼き払う。

「どうした、卑怯者ども! それで終わりかあああっ!」

「ば、化け物ジジイめっ! だ、第二射! 早くしろっ! 早く殺せ!」

うわずった敵隊長の声が響く。血みどろのまま悪鬼の如く立ちつくすフランツの姿に、恐怖を覚えたのだろう。兵士達は慌ててボウガンのワイヤーをまき直そうとするが、無様にそれを取り落とす者さえいた。フランツの気迫が、彼らを圧倒していたのだ。

「じい!」

「若! もうしばしの辛抱ですぞ! ほら、聞こえてきました! 勇ましき味方の足音が!」

わざと敵に聞こえるように言ってやる。事実、それは幻聴ではなかった。すぐに剣戟の音が響き、都市同盟訛りの悲鳴が轟いた。勝った。そう悟った瞬間、フランツの体からは力が抜けていた。目の前にわらわらと群れていた兵士達が、見る間に斬り倒されていく。朦朧としていく視界の中で、フランツはそれを見やりながら、ざまあみろと思った。かってはそんな事、思った事もなかったのに。現役で働いていた頃にはなかった人間性が、ルカを守るうちに産まれていた。それは同時に、利己性や排他性、偏狭な視線、人間が生来持つ強烈な闇をも、フランツの中に産み出していたのである。

「じい! しっかりして、じいっ!」

「おおっ! フランツ、しっかりせい! はよう医療班を呼べ! はよう!」

ルカの声と、ハーンの声が、遠くから響いてくる。俺は初めて何かを守る事が出来たのだと、フランツはその時思った。

 

長年鍛えてきたフランツの肉体は、二ヶ月ほどで回復に向かい、三ヶ月もすると外を歩けるようになった。五十過ぎの肉体としては考えられないと医師は驚嘆していた。フランツの執念が回復力を高めたのである。まだまだ、彼は死ぬわけには行かなかった。無論、ハーンの処置が適切だった事も、回復が早まった要因の一つである。フランツの奮戦は高く評価され、罪を問われるどころか、ルカ自身が勲章の贈呈を皇王に進言したと、ハーンが誇らしげに言っていた。

病室でハーンに聞いた話では、あの後用意していたように都市同盟側は領土侵犯の非をならし、大軍を持って侵攻してきたのだという。最初は各所で防衛線を破られたが、ハーンの防戦と援軍に駆けつけたキバ将軍らの勇戦により、今ではなんとか膠着状態に持ち直していると言う事であった。多くの領土は奪われたが、取り合えず一息つけたのである。

医者から、まだ一日の半分は寝ていろと命令されている。それでも、歩けるようになったフランツには、確認するべき事があった。

松葉杖をついて、フランツは城の中庭に出ていた。其処はかって、彼にとっては楽園だった。美しいサラ=ブライトと、彼女に愛されすくすくと育つルカ=ブライトがいた、夢の地であった。辺りを見回す。花々が咲き誇り、木々はただ蒼く、そして池が涼しい。しかし、そこはもう、楽園ではなかった。すぐにその場を後にし、城の外壁部分にある兵舎へと向かう。既にルカが今何をしているかは、フランツも知っていた。

遠巻きに兵士達が見守る中、兵舎の隣にある訓練場では、無言のままルカが剣を振るっていた。手の甲には獣の紋章が浮かび上がり、そして大きな目には巨大な憎悪がひたすらに渦巻いていた。鬼気迫るルカの表情に、幼い子供であるというのに、兵士達は明らかに恐れを抱いていた。だが、フランツにそんな感情はない。彼はルカと同じ感情を共有していたからである。身の丈ほどもある巨大な剣を一心不乱に振り回すルカは、やがて歩み寄ってくるフランツに気付いた。

「じい……」

「若。 じいは若と共に歩みます」

「そうか……。 俺は嬉しいぞ、じい」

一人称も代わったルカには、以前の本が好きだった少年にはない、野性的な凄みと、破壊的な衝動が宿っていた。話しているだけで、無音の圧力を感じるほどだ。少年の体からは、ゆらめく陽炎のような灼熱のオーラが吹き上がっている。木張りの床が、しゅうしゅうと音を立てていた。

「母上は、壊れてしまった。 ベットの上で、日がな一日中花を毟っている。 花が無くなると泣き出して、子供のように暴れる。 俺もアガレスも分からないらしい。 医師ももう手の着けようがないと言っている。 それに……おぞましい事に……腹にはややがいるようだ」

「おいたわしい事にございます」

俺は許さない。 都市同盟の人間を皆殺しにしてやる。 市長の首を引きちぎり、奴の手先の兵士共を八つ裂きにし、奴を支持した民草共を生きたまま引き裂いてくれる。 そのためには、戦の知識も、剣の技も必要だ。 じい、俺を強くしてくれ! 俺に、お前の持つ全ての知識を教えてくれ! 俺は、奴らを生かしてはおけない!

迸る凄まじい殺気に、兵士達が生唾を飲み込む。彼らは立ち会ったのだ。この地に破壊神の降り立つ瞬間に。歴史を加速させる、台風の目の出現に。

「分かりました。 若、じいがもつすべてを貴方に教えましょう。 そして、必ずや大望をおとげください」

「うむ。 俺は奴らを絶対に許さぬ。 俺は絶対に強くなるのだ!」

この後、ルカ=ブライトは若干十三才にして初陣をとげた。早すぎると危惧した宿将達は、その働きを見て蒼白になった。彼は敵陣の一角を突き破り、見事勝利しただけではなく、自らの手でも敵兵三十人を膾の如く斬り殺す鬼神の働きを見せる。その傍らには、都市同盟の人間に冷え切った目を向ける、老鬼の静かな姿があった。

この後、都市同盟軍やや有利だった戦況は、徐々にハイランド優位へと傾いていく事となる。

 

3,虐殺

 

ジョウイ=アトレイドは、自らの無力さに歯がみしていた。彼の眼前には地獄があった。かってと同じ、地獄が。

ユニコーン隊で、リューベの村で、トトの村で。彼はルカ=ブライトの手によって出現した、地獄を見てきた。彼はハイランドの出身者であり、かって軍の有望な若者を集めるユニコーン隊と呼ばれる部隊に所属していた。その部隊は、ミューズ市の新しい市長アナベルによって進められた和平案を崩す為の陰謀として、ルカの手で皆殺しにされた。表向きには都市同盟軍の奇襲によって殺された事になっているが、ジョウイと、もう一人生き延びたランツェイという少年だけは、真実を知っている。リューベの村では、ルカが衝動のままに、村人を虐殺する様を見た。トトの村では、知り合いになったピリカという少女の両親が、ルカによって殺された。後にピリカは、ルカが振るう剣が呼ぶ血の雨を目の辺りにしてしまい、恐怖によって声を失ってしまった。あの時だった。ルカを殺すと誓ったのは。彼はのし上がる為に、何でもやってきた。汚い事もした。卑劣な事もした。だが、それでも彼はまだ無力だった。今行われている虐殺は、今まで彼が見せつけられたものの中でも、最大規模の物だった。それを止められなかったのだから。

燃え上がるミューズ市には、獣の紋章が産み出した巨大な狼の怪物が無数に放たれ、逃げまどう者達を無惨に喰い殺していた。銀色の物も、金色の物もいた。彼らはあまりにも巨大で、特に銀色の双頭狼は、貴族の邸宅ほどもある巨体を誇った。わざわざ引き裂くのも億劫らしく、彼らは目に付く人間を、片っ端からひと飲みにしていく。火は、ミューズの市民が、狼から逃げられぬように放たれたのである。必死に火を抜けて逃げようとする者には、容赦なく外側に布陣したハイランド兵の矢が飛んだ。

一段高い丘で、ルカは周囲に諸将を侍らせ、悠然とワインを飲んでいた。獣の紋章に二日がかりで特殊な儀式を行う事により、怪物を生産するのは、彼が発案した新しい技術であった。その怪物による破壊力は見ての通りで、ルカは大いに満足していた。蒼白なまま立ちつくす諸将の中、ルカは震える侍女に、ワインをつがせる。その目に、罪悪感など、あるわけもない。

「行きがけの駄賃には丁度良い余興だ。 豚共が死んで、清々したわ」

暴君にはおべんちゃらを使う佞臣がつきものだが、この男の場合それはない。ルカの眼力は鋭く、無能な人間は側にいる事を絶対に許されないのだ。現におべんちゃらを使ってのし上がろうとしたラウドという男は、実績を上げられず、未だに出世出来ず足踏みを続けている。出世したければ、百万の言葉よりも一つの成果。それがルカの家臣に対する方針であった。

非理性の究極である凶暴性と、理性の究極である現実主義の、歪んだ融合。それがルカ=ブライトという男を形作っている。それに理想を見出し、或いは出世に対する恩を感じて、絶対的な忠誠を捧げる部下達も多い。不満を持ちながらも、ルカに対する忠義を捨てない部下も多いと聞く。価値観の絶対的な相違から吐き気を覚えたジョウイは、燃えさかるミューズ市から視線を逸らし、皆から離れた。

街は燃えているというのに、暗いその物陰は冷たかった。まるで路上生活者のように頭を抱えて座り込むと、彼は声に出さないように呟いていた。

「ランツェイ、ナナミ、ピリカ……ごめん。 僕は無力だ。 君達を裏切ってハイランドに潜り込んで、市長を暗殺して、皇王を暗殺して、なりふり構わず地位を伸ばして、いつか奴の寝首をかいてやろうと思って、酷い事もたくさんしてきて、それでもまだ無力だ……。 今日もあんな酷い事をされて、止められなかった。 僕は……悔しい」

ジョウイの手にある、黒き刃の紋章が、淡く輝きを発する。数ある紋章の中でも、特筆すべき攻撃能力を持つ紋章であり、一個小隊くらいの兵士なら楽々殲滅出来る。でも、これを使っても、とてもルカには勝てそうにない。不意を付いても、である。ルカの戦闘力は、いやというほど目の当たりにしてきた。寝込みを襲ったくらいではとても勝ち目がない。あの男の実力は異常すぎる。人間を遙か超越している。奴を討つには、奴が何かしらの要因で疲れ切った、その時を狙うしかないと、ジョウイは思う。

「此処におられましたか」

ジョウイが顔を上げると、レオンの若々しい顔が、真上からのぞき込んでいた。レオンには、頼りになると同時に、得体の知れない恐怖を良く感じる。ギブアンドテイクの関係が成立している以上、裏切らない人間だというのは分かる。だが何かとんでもない狂的思考の片棒を担がされているのではないかと、いつも不安になるのだ。

「陛下がお呼びです。 こんな所でいじけていてはいけませんぞ」

「……! すぐに行く」

「前から言っておりますが、これも奇貨となさいませ。 利用出来る物は全て利用する、使える物は全て使う。 それでなければ、とてもあの男を倒すなどなりませんぞ」

応えず、ジョウイは立ち上がる。正論、正論、また正論。反論出来ないのが悔しい。血塗られた道を行くと決めたのに、迷う自分にも苛立ちを感じる。情けを捨てろ。あの子を守る事だけ考えろ。あの子の言葉を取り戻し、奴を殺す事だけを考えるんだ。優先順位で物事を選別しろ。機械になれ。だが、強い言葉と裏腹に、迷いを決して捨てきれない。弱い自分を憎く思い、ジョウイは歩き出す。手の甲は、黒い光を、淡く放ち続けている。

家族の中で阻害され、孤独だったジョウイにとって、ピリカは初めて出来た妹も同然だった。本来、一般的に兄妹はそれほど仲がよい存在でもないのだが、それを知らず、もともと紳士的な心の持ち主であったジョウイには、掛け替えのない存在として感じられる少女だった。だから、一次性徴も出ていない幼い心を、無惨に踏みにじったルカ=ブライトは、ジョウイにとっては絶対に許しては行けない存在であった。

だが、ハイランドでがむしゃらに地位を押し上げていくうちに、世の中はそれだけではない事も分かってきた。現にジョウイにハイランド皇国の希望を見て、自らの命を託してくれるシードやクルガンのような者達もいる。彼らの希望に応えなければならないと、ジョウイも分かる。一方で、善良なのに、ルカには絶対の忠誠を誓い、戦場では悪魔のように剣を振るう兵士も何人も見てきた。それに、嫌な噂も幾つも聞いた。ルカ=ブライトが狂気に落ちる原因についても、おぼろげに聞いた。それを聞いて、何度もジョウイは迷った。結局自分は、あのルカと同じなのではないかと。ひょっとしてルカも、同じように物事に優先順位を設けて、それを実行しているだけなのではないかと。ジョウイにとって大事な事が、ルカにとっては踏みにじらなければならない事であるのは分かっている。では、逆に考えてみる。ひょっとして、ルカにとって大事な事を、ジョウイは踏みにじろうとしているのではないか。ジョウイにとって、ルカの行為は許し難い物だ。だが、ジョウイにとって大事な物が、ルカにとっては許し難い物なのではないのだろうか。

いつの間にか、ジョウイはルカの前に立っていた。無言のまま、最も憎む相手に膝を突く。凶暴に骨付き肉を口に運びむさぼり食いながら、ルカは言った。

「何処に行っていた、ジョウイ」

「はい、気分が優れず、夜風に当たっておりました」

そうか、とつまらなそうにルカは言った。ジョウイが時々体調を崩す事は、軍内では良く知られている。彼に限らず、真の紋章を体に宿した人間は、何かしらの強烈な副作用を体に受けるのだ。しばしつまらなそうにジョウイを見下ろしていたルカは、骨ごと肉をかみ砕きながら言った。

「貴様に一つ命令がある」

「はい、何でしょうか」

「さきほど、囲みを突破して、三十人ほどが逃げた。 追っ手を差し向けようにも、他の将軍共は攻囲に掛かりっきりだ。 まあ、無理に突破したらしく、殆どが深手を負っていたらしいが、念には念だ。 貴様の手勢で、皆殺しにしてこい」

ひくり、と眉を動かしたが、ジョウイはすぐに立ち上がった。

「仰せのままに」

「すぐに行け。 皆殺しにして、首を俺の前に持ってこい!」

 

ジョウイ自身の配下には、現在一万ほどの兵が配置されているが、手勢そのものは五百ほどだ。兵士達は基本的にジョウイの指揮能力を常に見ているから、忠誠度自体は高い。ただし、ルカに反旗を翻した場合、付いてくる兵士がどれだけ居るかは微妙だ。そういう品質の忠誠心だ。ただし、裏切るまで行かなくても、不満の心は持っているらしい事は常に伺える。事実、今も兵士達がひそひそと小声で不満をかわしていた。

「いやだなあ、また民間人の虐殺かよ」

「しっ! 皇王陛下に殺されたくなければ、そう言う事は言うんじゃない」

小声で、そんな会話が周囲にてかわされている。確かに軍務にプライドを持っている軍人にとって、民間人の虐殺などと言うダーティーワークが心地よいわけがない。見かねた副官が、小声で進言してくる。かなり勇気のある行動である。

「ジョウイ様、何とかごまかす事は出来ませんでしょうか」

「口を慎め」

「はっ、申し訳ありません」

何処にルカの信奉者がいるか分からない以上、安易に本音を漏らすわけには行かない。レオンに鍛えられた結果、どんどんジョウイは老獪な大人になりつつある。それが目的達成に必要な事だとは分かっているのだが、どうも心の底では、受け入れがたい事ではあった。本当のところで言えば、ジョウイはまだ子供の部分が多々ある。状況次第で幾らでも冷酷になる事はまだまだ出来ない。ダーティワークの後で、吐いた事は二度や三度ではないのだ。それでも自らを律し続ける事が出来るのだから、並の大人よりも遙かに優れた胆力の持ち主である事は間違いなかったが。

散り散りに逃げた相手であり、闇に紛れての探索だから、探すのはただでさえ難しい。ただし、命がけだから、兵士達も必死だ。夜闇の中では、いわゆる魔物や怪物も徘徊しているし、早く探さないと捕まえるどころではなくなる。魔物の中には、普通の兵士の一個小隊程度ではどうにもならない相手も存在しているのだ。それを知る兵士達は、探索行もあまり積極的ではなかった。ジョウイも、無理な探索を強要出来なかった。

時々、力つきたらしい逃亡者の亡骸が見付かった。強引に囲みを突破した後でもあるし、無理もない事である。死体の中には、要領よく血の臭いを嗅ぎつけて集まってきた獣や魔物によって、半ば囓られている物も少なくなかった。見付かった死体は、全部で十七体。空は白み始めており、兵士達は蒼白になっていた。中には、細切れに散らばっているものもあって、特に実戦経験のない兵士には嘔吐する者も居た。

「ジョウイ様、どういたしましょうか……」

「……」

逃亡者が生きていたとして、もうこの時間になると、想定される居場所が広範囲に拡散しすぎて、探すのはほぼ無理だ。国境線が極めて曖昧なこの辺りは、もともと非常に危険な地域だ。要領がよい者は都市同盟、いやレッドリバー軍の勢力圏に逃げ込んでいるだろうし、そうなるとこの兵力では追う事も難しい。むしろジョウイは、生きている逃亡者が見付からなくて安心していたのだ。撤退を告げようとしたジョウイの耳に、嫌な声が飛び込んできた。

「見つけたぞ!」

散っていた兵士達が、見る間に集まる。もうこうなったら、何でも良いから少しでも多く獲物を得て、ルカの機嫌を損ねたくない。それが彼らの本音だ。敏感にその卑劣さを悟ったジョウイは、それが普通の人間の思考だと考えを修正しながら、すぐに声がした方へ向かう。槍を向けられたその人影は、自らの肩を抱きながら、必死に此方を睨み付けていた。足には深々と矢が突き立っており、傷口からはザクロのように弾けた肉が覗き、血はもう乾きかけている。側にはもう一目で息がないと分かる年老いた男が転がっていた。槍を向け、もう効果が薄くなっているカンテラを向けながら、兵士が言う。

「なんだ、まだ子供じゃないか。 女の子だ」

「ミューズに残ってた女子供は、奴隷に売り飛ばされたんじゃなかったのかよ」

「おい、この子を殺して首を取るのか? 俺、いやだよ……」

罪悪感を多分に含み、同時に責任回避を求める声が挙がった。進み出たジョウイは、自分を睨み付ける女の子を見て、一瞬だけ息を止めた。ピリカと同じくらいの年頃の子だ。多分ハイランド兵の手を逃れて、大人達の間にかくまわれていたのだろう。薄汚れてはいるが都会の子らしい複雑な構造の衣服を着た子は、目により大人びた感情の光を宿していた。紅い髪は乱れ放題で、頬に飛んでいる血痕もあって、まるで火のように顔の周囲に広がっているように見える。彼女が震えているのにジョウイが気付くのと、女の子が声を張り上げるのは同時だった。

「鬼! 人殺し!」

ジョウイには分かった。それは逃げられないと悟っての、最後の抵抗。この場の誰よりも、傷ついてもう動けない、この少女こそが誇り高かっただろう。少女の甲高い声は、ジョウイの胸を鋭く打った。拳を固め、俯くジョウイは、しばし高速で思考を回転させ、結論を出す。

「これは、傷ついた地元の住人だ。 多分戦の流れ矢に当たってしまい、驚いて此処まで逃げてきたのだろう。 我々はミューズ市の市民を殺せと言われているが、地元の住人を根絶やしにしてこいと、現在は言われていない」

少女はぎゅっと唇を結んで、ジョウイと、後ろにいる兵士達を睨み付けている。兵士達はばつが悪そうに顔を見合わせ、転がっている死体だけを引きずっていった。風が吹き、焦げ臭い、嫌な香りを運んでくる。ジョウイは二度とこの香りを忘れないだろう。千を超える人間が焼ける香りを。まだ少女を見ている兵士に、ジョウイは手を横へ振っていった。激しい意思表示だ。

「探索に戻れ。 時間はもうほとんど無いぞ」

「は、はいっ!」

散る兵士達に目もくれず、ジョウイは屈むと、すばやく傷をよく調べる。矢は少女の細い足を貫通して、鏃が逆側に抜けていた。骨も折れていない。好都合だ。矢に手を掛け、傷口の少し前で折る。そして、気をつけて、ゆっくり鏃が抜けた側から引き抜いた。ジョウイの手に熱い鮮血が掛かる。しかし目をぎゅっと閉じて、少女は悲鳴一つあげなかった。強い子だと、ジョウイは思った。

「もう少しだ。 我慢して。 淡い蒼き色の紋章よ、汝の流れ足る水の力にて、傷つきしこの者の体を癒したまえ。 ……開!」

矢が抜けきると、ジョウイは回復を主にする水の紋章を取りだし、詠唱して紋章術の効果を解放すると、淡い癒しの光で少女の傷を照らした。ジョウイの額を汗が伝う。応急処置に過ぎないから傷はすぐに治りはしないが、新陳代謝が活発化され、肉が腐るのだけは避けられる。この傷だと、跡が一生残るのは避けられないが。

「すまない。 僕は君達に何もしてやれなかった。 許してくれ等と、勘違いした事は言わない」

「……」

「きっと、ミューズの騒ぎを聞きつけて、もう少ししたら此処にレッドリバー軍の者が来る。 これを使うんだ。 すぐに見つけてくれる」

ゆっくりと、少女の手元に、小さな紋章をおく。閃光の紋章と言われる、黄色い球体だ。触って(開)というだけで効果を発揮出来る。一応魔力を消費するが、暗算をするくらいの消耗量で、子供にも使用面では問題ない。ただ少しの時間強く光るだけのものだが、いざというときの灯り代わりに、いつも持ち歩いているのだ。軍では一部で、照明弾がわりにも使っている。光を直接見ないように念を押すと、自らの高級なマントを惜しげなく千切って傷口を巻き、ジョウイは俯いて言った。

「レッドリバー軍が来たら、僕たちが何をしたか、全部言ってくれ。 鬼がどんな非道をしたか、人殺しがどんな悪事を働いたか。 そして、いつか強くなって、僕たちや、僕たちの親玉のルカ=ブライトを殺しにおいで。 最初に、僕が殺されてあげるから」

立ち上がると、ジョウイは走って部下達の元へ戻る。こんな事が罪滅ぼしになるとは思っていない。途中、兵士達の前で、わざと枝にマントを引っかけ、引き裂いて見せた。誰も笑わなかった。そして、誰もジョウイの行為をルカに密告しなかった。

 

非道な虐殺を行ったハイランド軍約五万五千は、ゆっくりとミューズ市跡を南下し、レッドリバー軍本拠地に迫った。これに対し、レッドリバー軍は南のトラン共和国に援軍を依頼、五千の兵を借り受けて陣容を整えていた。しかし、五千の兵が加わっても、レッドリバー軍は計二万五千。ついにハイランド軍の半数に届かなかった。

しかも緒戦にて、レッドリバー軍はルカを包囲して撃破する作戦を失敗、大損害を受けて城へと撤退した。包囲されて激しい攻撃を受けた白狼軍もほぼ同数の損害を出したが、損害比率から考えれば勝利に等しい。

追いつめられたレッドリバー軍に対し、じわじわと包囲を狭めつつあるハイランド軍。勝敗は、誰の目にも明らかに見えた。

 

4,狂皇王の死

 

明らかに気がはやっていた。此奴らを片づければ、もはや復讐に、人生の目標における障害がないと、ルカは思ってしまった。

危険性が高い夜襲を選んでしまったのも、気の逸りが招いたミスであった。緒戦で大勝利したのだから、そのままじっくり重厚に兵を進め、堂々と敵を包囲し叩けば良かったのだ。

夜襲への兵力運用自体は見事であった。元々ルカは百戦錬磨の猛将であり、夜襲を行った経験も一度や二度ではない。動かしやすい最精鋭のみを率いて夜中に行軍を開始、夜明けに敵城へ到達すべく、間道を縫うようにして駆ける。率いるのは白狼軍の中核およそ五千。彼らによる奇襲とタイミングを会わせ、本体約五万が総攻撃を開始する手はずであった。事実、上手くいったであろう。ものの見事に待ち伏せさえされなければ。

 

何かおかしい。スムーズに兵を進めながらも、ルカは嫌な予感を覚えていた。前方の部隊とも連絡が取れているし、道も殆ど障害がない。険しい道を疾駆しながら、ルカはいつもより周囲に気を配っていた。どうしても嫌な予感がぬぐえないのだ。

「陛下、いかがなさいましたか?」

「うむ、何でもない」

外では自分を陛下と呼ぶフランツが、さりげなく聞いてくる。曖昧に応えると、ルカはどうしてもぬぐえぬ嫌な予感に、親指を口へ運んでいた。爪を噛もうとした、その瞬間であった。

獣じみた勘で、ルカが顔を上げた時にはもう遅かった。周囲に浮かび上がる無数の松明。同時に、蝗のように飛来する無数の矢。流石の鬼神も、これの前には如何様ともしがたかった。数本の矢が、白いルカの鎧に突き刺さり、分厚い装甲を貫通して体に突き立った。乗っていた黒い馬にも無数の矢が刺さり、ルカは地面に投げ出されていた。

「ぐわっ!」

「陛下!」

「陛下を護れ!」

フランツの声がする。再び無数の矢が飛んできて、顔を上げようとしたルカの前で、まるで剣山のような姿になった兵士が、ばたばたと倒れていった。ここまで見事に待ち伏せされた事は、ルカの人生でも初めてであった。裏切り者が居る。突発的に、ルカはその可能性に思い立つ。夜襲は確かにリスクが高い作戦だが、こうも見事に首脳部の位置が把握されるのは、裏切り者による情報提供があったからとしか思えない。

体に刺さった矢は三本。更に風斬り音と共に、二本が追加で突き刺さる。立ち上がりかけていたルカは思わず蹌踉めく。人間離れした鬼神ルカ=ブライトといえど、ワイヤーによって巻き上げられた強烈な弦を持つボウガンの矢を喰らえばただでは済まない。それでも立ち上がるのが、ルカがルカたる所以であった。

「陛下っ!」

「円陣を組め! お前達は、後方に援軍を呼びに走れ!」

「駄目です! 敵に囲まれています!」

「ならば血路を開く! 総員、突撃するぞ!」

悲鳴を上げるだけの若い兵士と違い、すぐさま的確な指示を飛ばすフランツ。ルカも愛用の剣を引き抜き、ばたばたと兵士が倒れる中、矢が飛んでくる方向と敵がいる位置を見極め、血路を切り開こうと全神経を集中した、その瞬間であった。

敵の歩兵隊が現れる。見た瞬間に分かる。最精鋭だ。裏切り者が居ると、この瞬間ルカは確信していた。三十名ほどの敵兵の先頭に立つは、真の紋章の一つが剣の形を取った、星辰剣を持つ、敵方の勇者ビクトール。勝てないとは思わないが、今の状況では、三十人全ての相手をするのは普通厳しい。しかし、ルカは全く動じない。

「お前達は血路を開け! 此方は俺が蹴散らす!」

「良し! 半数は儂に続け! 後方の安全を確保する!」

「させるか! 全員、俺に続け!」

熊のような体躯を持つビクトールが巨大な星辰剣を大上段に振り上げると、地響き立ててルカに突進してきた。ルカの右手の獣の紋章が炎を発し、巨大な殺意のオーラが全身から吹き上がる。火花さえ散らしながら、手にしている無銘の剣が唸り、横薙ぎに星辰剣を迎撃する。ビクトールが顔を歪める。猛烈な初撃の応酬を終えると、両雄は飛び退き、今度はビクトールが突進しつつ横殴りに剣を振るい、踏み込みながらルカが地面をするような低高度から跳ね上げるようにそれを迎撃する。一合、二合、三合、激しく火花が散るも、見る間にビクトールはルカに追い込まれる。体格的には、ビクトールの方が上だ。上なのに。ルカ=ブライトのパワーは、遙かにビクトールを超越していた。上段からの一撃を受け損ねて片膝を付くビクトールに、続けて逆胴の一撃をルカが放つ。

「があああああああっ!」

「う、うぉおおおおおおおっ!?」

横殴りの一撃、地面に星辰剣を突き立て、てこの原理で数秒持ちこたえたが、岩ごと巨剣がめくり上がる。更に、ビクトールの巨体が押されるように浮き、灼熱のオーラに吹き飛ばされ、激しく地面に叩き付けられる。舌なめずりすると、明らかにひるむ敵兵に、ルカは突貫をかけた。防ごうとする敵兵士はいずれも強者ばかりだが、ルカから見れば赤子も同然。剣を振るうたびに、鎧が紙のように裂け、肉がちぎれて腕が、足が、首が吹っ飛ぶ。五人を見る間に斬り倒したルカは、地面を蹴って跳躍、立ち上がろうとするビクトールの頭を大上段からたたき割ろうとした。月を背中に、狂獣が剛剣を振り下ろそうとした、その瞬間。

「せえええええいっ!」

印を切り終えた女紋章術士が、円をかくようにして両手を回し、蒼い軌跡を空に残す。極太の雷がルカを頭上から貫いた。スカートを穿いて短めの髪をヘアバンドで纏めた、気が強そうな娘だ。グリンヒルにあったニューリーフ学園の学生服を戦場にて着込んでいる姿は嫌に目立った。無音の世界に、ワンテンポ遅れて爆音が響き渡り、静寂を叩き壊す。

「ぐ、おおおっ!?」

体中から煙を上げながら、ルカが着地し損ね、蹌踉めく。逆に跳ね起きたビクトールが、槍を揃えて突き掛かる周囲の兵士達と一緒に、ルカに殺到する。今の術は稀少な雷の紋章の上位紋章、雷鳴の紋章の最高位攻撃術、雷の嵐。こんな速さでこんな高等術を正確に発動するとは。あんな平和呆けした学園に、こんな使い手が居るとは予想外だった。ルカは歯がみすると、剣の柄を握りしめ、己の内なる殺気を炸裂させた。

それは、ただの剣圧だった。剣を右から左へ振りぬく事によって生じる、ただの圧力だった。にも関わらず、爆薬で吹き飛ばされたようにルカの眼前の地面はえぐれていた。まるでヤスリで磨いたような断面を見せているのは、ルカが剣を振るって、剣先が地面に潜り込んだわずかな箇所のみ。その後は見事に吹っ飛んで、巨大なスプーンで無理矢理えぐりとったような跡を為していた。さながら高位の火炎紋章術で吹き飛ばしたような有様だ。

へたり込んでいるのは、顔に制服に大量の熱い返り血を浴びたさっきの女紋章術士。彼女の前にいた兵士の何人かはそのまま胴切りになり、ミンチになっていた。星辰剣でとっさに防いだビクトールは生きていたが、数メートルを吹き飛び、腹部を大きく抉られ血の海の中立ち上がれない。上半身が吹っ飛んだ死体が、呆然としている女術師のすぐ前に転がっていて、今でも断続的に血を吹き上げていた。大きく肩で息を付きながら、ルカは剣を構え直す。右手の甲にある、獣の紋章が疼く。獲物を欲しいとせがむ。

「ふう、ふう、ふうっ! 良い腕だが、俺を倒すにはまだまだだな……」

「あ……? え……?」

「死ね!」

一歩進み出ようとしたルカは舌打ちしていた。女術師の後ろから、わらわらと増援が現れたからである。同時に、何とか血路を開いたというフランツの声が届く。きびすを返すと、びっこを引きながらルカは下がる。何人かのハイランド兵が、レッドリバー軍と彼の間に入り、必死の形相で剣や槍を構える。無傷な者は殆ど居ない。

「早く、皇王陛下!」

「むうっ!」

「逃がすな、追えっ!」

今の戦いで激しく消耗したルカに、見栄を張る余裕はあまり無かった。後ろですぐに激しい戦いがわき起こる。ばたばたと部下がうち倒されていくのが分かる。歯がみし、ルカは吠えた。

「おのれええっ! この屈辱、如何にして晴らしてくれようかあああっ!」

「落ち着かれませ、陛下! 今は味方と合流し、傷を癒すのが先です!」

「おおっ! 分かっておる、分かっておるが、この屈辱、許し難い!」

足早にびっこを引き、ルカは必死に今まで来た道を戻る。ここまで悲惨に秩序を粉砕された撤退戦では、精鋭を率いて殿軍をなし、味方を逃がす事など出来ない。あまり敗軍の苦しみを味わった事がないルカには、身が震えるような屈辱であった。彼の周囲にはおいおい味方が集まってきていたが、それは意図的に集められたのだと、すぐに分かった。自らの身にも数本の矢を突き立てたフランツが、慌ててルカの前に出た。

少し小高い坂の先に、敵兵が布陣していた。散発的に戦闘が行われているようだが、殆ど残敵の掃討に等しい。後方からは、人間の盾として残ったハイランド兵達を排除したレッドリバー軍がひしひしと追ってきている。

「青雷のフリックか……!」

旗印が見える。フランツが味方に警告する意味も込めて、あえて前面に布陣する相手の名を口に出していった。長きに渡りハイランド軍を苦しめてきた敵の若き知将の名は、敗残に疲れた兵士達を怯えさせる。自ら最前衛に出ると、ルカは吠えた。

「青雷なにするものぞ! 突破する! 皆、俺に続けえっ!」

「……やむを得ませんな。 皆、皇王に続け! 血路は他にない!」

露骨に躊躇する周囲の兵士達の中で、唯一フランツがそう言った。あれだけ露骨に布陣している以上、周囲はレッドリバー軍伏兵の巣である可能性が一番高い。更にもたもたしていると、後方からビクトールの部隊が追いついてくる。死んだ部下達の犠牲を無駄にせぬためにも、ここは突破するしかない。

ルカを先頭に、ハイランド軍は一丸となって突撃する。すぐに気付いたフリック隊は、躊躇せず膨大な矢を撃ちかけてきた。元々疲れている兵士達は、次々に矢に射られて倒れていく。死に際に皇王の名を呼ぶ者も居て、ルカは歯がみしながら坂を駆け上がった。

「おおおらああああああああっ! どおおけええええええええええっ!」

数本の矢を受けながら、血の糸を引きながら、ルカは坂を駆け抜け、下がろうとする弓兵に容赦なく斬りかかった。斬り倒すと言うよりも、瞬間的にミンチにして吹き飛ばす。見る間に血の雨が降り、追いついてきたフランツと他のハイランド兵士達が、ルカの周りに集まりつつ、血路を開こうと突撃する。だが、血戦のなか、疲れ切っているルカの部下達は明らかに不利だ。激しい組織的な攻撃を浴び、見る間に兵士達は半分になり、四半減する。フリック隊は激しい攻撃を受け流しつつ下がり、紋章術の攻撃に切り替えて来た。炎の術が、雷の術が、風の術が、傷ついたハイランド兵を容赦なく襲う。もう悲鳴すら上げられず、力つきた血みどろの兵士達が乱戦の中どんどん倒れていった。

「ひるむな! 血路を開けえっ! 他に退路はない!」

流石のルカも、もう感覚が無くなりつつあった。体に刺さった矢の数は、もう十本を超えていた。疲労も激しく、思考も散漫になりつつある。そんな彼の前に、フリック本人が現れる。ビクトールより随分と細い印象を受けるが、この男は雷の紋章術を使いこなす超一流の魔法戦士だ。彼の周囲にはビクトールの時と同じく精鋭の兵士達が並び、その後ろには、槍を構えた素朴な顔立ちの少女が立っている。気が付くと、ルカの周囲には、もう誰もいなかった。

「悪いが、ここはとおさん」

「ちいっ……! 此処も罠であったか!」

「貴様ほどの戦巧者なら、露骨に道をふさいでみせれば伏兵を警戒して、敢えて突破に掛けてくるだろうと思ってな。 行くぞ、ルカ=ブライト! 戦乱の元凶を、此処で討ち取らせてもらうっ!」

「ほざけえ、豚めらがああああっ!」

灼熱のオーラが、ルカを覆う。同時に、フリックが詠唱を始め、槍を構えた少女が前に出る。その構えに、ルカは見覚えがあった。神槍と呼ばれる、ツァイという男のものとよく似ている。弟子か、娘か。槍を短めに持ち、穂先を心持ち下げているその構えから、鋭い踏み込みと、伸び上がるように一撃が飛んでくる。一撃自体もかなり重い。剣で防ぎ、はじき返そうとした時には、もう間合いの外に逃れている。そのまま地を這うように鋭くサイドステップすると、少女は雷のように間合いを詰め、連続しての突きを放ってきた。槍の一番の長所は、そのリーチと、突き主体という極めて実戦的なスタイルにある。りゅうりゅうと槍をしごいて突き掛かってくる少女は、詠唱が終わるまでの時間稼ぎに留まらず、隙あればいつでもルカの喉を突こうと、疾風が如き連打を繰り出してくる。反撃しようとすれば、瞬きの間に間合いの外に逃れ、すぐさま反転して攻撃してくる。蜂か何かのような動きだ。確かに強いが、動き自体は直線的で読みやすいから、普段であれば対応出来たはずだ。槍を力任せに斬り折る事だって、闘気を込めた一撃で吹き飛ばす事だって容易だ。だが、もう力の殆どを喪失しているルカには、それらは夢物語に過ぎない。対応しきれず、何度も穂先は傷ついた鎧を掠め、或いは叩いた。雨のように飛んでくる穂先に、閉口したルカが一歩下がった瞬間、フリックの術が発動した。槍使いの少女が飛び退く。

再び、極太の雷撃が、横殴りにルカを襲う。先ほどの雷の嵐に比べると二枚ほど威力が劣るが、それでも普通の人間なら消し炭にする火力だ。更に、数人の紋章術士が、一斉に攻撃術をルカに放つ。エビが跳ねるように、ルカの巨体が激しく揺れた。

「ぐ……おおおおおおおおおおっ……!」

「やった! とどめだ、死ねえええええっ!」

「ばか、待てっ!」

「駄目! 離れて!」

体中から煙を上げ、白目を剥いて、押し殺した声を漏らして、ルカが片膝を突いた。同時にレッドリバー軍兵士達が、槍使いの少女とフリックの制止も聞かず突進してくる。待っていたのは、この時であった。

「ぐあらあああああああああっ!」

圧縮した闘気が、ただの剣の一撃を、破壊的な剣圧を伴った死の息吹へと変貌させる。爆発は突進してきたレッドリバー軍兵士十人以上を吹き飛ばし、巨大な煙幕を作り上げた。更にもう一撃、大上段から叩き落とす。地面をえぐる剣圧はだいぶ衰えていたが、その余波を受けたらしく、フリックの悲鳴が聞こえた。同時に、周囲で散って戦っていたハイランド軍兵士がルカの周囲に集まり、フランツが自らも額より多量の血を流しているにもかかわらず、ルカに肩を貸し、何とか立ち上がらせた。

「陛下、お急ぎを!」

「無念だ、俺ともあろうものが……! すまぬ、そなたら!」

何を謝っているのか、ルカには分からなかった。暴君でも、自分で選び育てた部下には、そういった言葉を素直に吐けるのだと、その時彼は初めて知った。顔を上げた彼の視界には、多少傷を受けながらも猛然と突進してきている先ほどの槍使いの少女の前に立ち塞がり、その神速の乱打を体を使って止めている兵士達の姿が入っていた。血しぶきが飛び、ボロ雑巾のようになった兵士が崩れる。

「く、くそっ、おのれ……!」

「若!」

「無念、無念っ! 俺は無念だっ!」

周囲の兵士達が、更に矢を受けて倒れていく。這いずるようにして、もう殆ど力を残していないルカは、フランツが必死に切り開いた血路から、フリックの堅陣を逃れていった。もう、周囲に従う兵士は、殆どいなかった。

 

力つきたハイランド軍兵士が、また一人地面に崩れ落ちた。死んでいく兵士の方が、集まって来る兵士よりも明らかに多い。既にルカの周囲の人間は十人を切っている。兵士達は、或いは互いに支え合い、或いは槍を杖にして、必死にルカと共に歩いていた。悲惨な撤退戦の中、傷ついているのはルカも同じであった。

ようやく敵の追撃から逃れたかと思えた。暗闇の中は静かで、殺気も感じられない。進んでいくと、大きな木が見えてきた。同時に、周囲が開ける。せり出した崖になっていて、その先端に木が生えていたのだ。忌むべき地形だが、ルカは思わず足を止めていた。

無数の松明が、遠くの闇の中を動き回り、激しい戦いが行われている。味方の主力部隊も、この有様では此方に救援などには来られない。絶望して、膝から崩れてしまう兵士もいた。背中に五本も矢を生やしていた彼は、そのまま前のめりに息絶えてしまった。

「陛下、すぐに此処を離れましょう」

「うむ……ん?」

木の幹に、僅かな異変が見える。よく見ると、枝に何かが引っかけられていた。無言のまま歩み寄ったルカは、それを手に取り、星明かりに照らして見た。其処には、こう書かれていた。

狂皇ここに死す

「……っ!」

「第一弓隊、斉射」

酷く冷静で落ち着いた女の声がした。フランツが前に飛び出すのと、ルカが剣に手を掛けるのは、同時だった。

多量の矢が、ルカの前に立ち塞がったフランツを貫く。十本以上の矢が老いた体を串刺しにし、彼が倒れる前に更に十本以上が突き刺さる。何が起こったか理解する前に、降り注いだ矢が、生き残っていたハイランド軍兵士達を次々と貫く。悲鳴を上げて、地面に臥してしまう兵士もいたが、それ以上にルカの前に飛び出し、フランツのように盾となって死んでしまう者も多かった。

「第二弓隊、斉射」

「ぐ、くくっ!」

殆ど間をおかず、膨大な矢が再度飛来する。それは立ちつくすルカに次々と突き刺さり、守ろうとする兵士にも容赦なく突き立っていった。

「陛下を護れえええっ!」

その時、ルカに追いついてきたハイランド軍の一部隊が、ルカの前に飛び出す。誰もそれを躊躇しない。ミューズやその他の場所で、ルカのいうまま虐殺をしてきた者達と同一の存在とはとても思えないが、これが無惨な現実だ。戦争は人をこうも変貌させるのである。非道な虐殺者である彼らは、信じる者の為に進んで命を捧げる者でもあった。異常な環境で、その二つは両立していたのである。

高密度の斉射が続けられ、肉の盾となったハイランド兵は見る間に命を失っていった。ルカの体にも、次々と矢が刺さる。腕を上げて、急所を庇うのが精一杯だ。ルカの目からは、はたはたと涙が流れ始めていた。

「じい……じいよ……!」

仰向けに倒れたまま、もうフランツは動かない。刺さったボウガンの矢が、頭をスイカのように砕いていた。当然即死だ。阿鼻叫喚の中、更に女の声がして、第三斉射が行われる。それが終わった時、もうルカの前には、誰も生きた味方はいなかった。

全身に二十本以上の矢を刺したまま、死体の山の中、ルカは立っていた。今までと違うのは、周囲に転がるそれが敵の死体でないだけだ。目を擦り、涙を落とす。もう、彼はこれで一人になってしまった。家族だと思っていた、母も、じいも、死んだ。これで正真正銘一人になった。母の敵を討とうと燃え上がっていた心の炎が、どうしてか揺らぎ始めていた。

「は……はは……は……」

「撃ち方、やめ。 後は、僕たちが決着を付ける」

「お前は……そうか……そういう筋書きか……」

ゆっくり歩み出た相手を見て、ルカは静かな理解を得ていた。全て罠だったのだ。此処に逃げ込むようにし向け、掃射で傷付け、そして最大戦力でとどめを刺す。それは、ハイランドの敗北をこれ以上もなく見せつけるセレモニーにもなる。

歩みでて来た少年は、レッドリバー軍総帥ランツェイ。紅い服を着た小柄な少年で、まだ若いどころか幼ささえ残している。彼の後ろにいるのは、人相からして確か姉のナナミ。今は怒りを顔に湛えているが、本来はとても明るそうな、黒髪の娘だ。此方も相当に若い。調査によると、姉弟はゲンカクの子であり、双棍の相当な使い手だ。二人の後ろには、眼鏡を掛けた小柄な女が、分厚い味方の壁の中立っている。人相からして、レッドリバー軍軍師のシュウとは奴だろう。癪だが、敵ながら見事だとルカは思った。

どうしてか、ルカはとても静かな気分だった。屈み、目を見開いたまま息絶えているフランツのまなこを閉じてやる。そして、死んでいった部下達を避けるように、一歩、二歩と歩き、前に出る。ランツェイとナナミが、左右に展開し、じりじりと間合いを計るが、もうどうでも良い。

最後まで、殺し尽くすだけだ。彼らしいやり方で。恐怖と憎悪を撒くだけだ。彼らしいやり方で。

ルカは、斜め後ろに回り込もうとするナナミに言う。

「娘。 何故、俺に憎悪の瞳を向ける?」

「決まってる! あんたのせいで、みんなおかしくなっちゃった! 世界も、ジョウイも、みんなみんな! 許せない、絶対に!」

「ふふん……若いな」

「この戦いを、終わらせる。 それだけが、僕の願いだ」

腰を落とし、双棍を構えるランツェイの目には、どうしてか憎悪以上の使命感があった。ルカにはそれが気に入らない。

「俺を殺した所で、戦いは終わらぬ。 荒野には嘆きと恨みが木霊し、戦いは永遠に続くだろう」

「あんたが始めたことでしょうっ!」

「愚かな。 この戦いが、今に始まったことなものか。 俺だけがこの戦いを望んでいたのなら、ハイランドの兵士達が、身を投げ出し死んでいったと思うか?」

「……それで、自分を正統化しているつもりか? 貴様が今までしてきた事を、僕はこの目で直接見てきた! 貴様の行いが、いかなる理由に基づこうと、許せるはずなどない!」

少年の目に宿る怒りが、初めて使命感を凌駕する。理論は怒りの後付に過ぎない。これだ。これがいい。この黒き炎こそ、我をなす存在だ。最後の敵も、こうであってくれなければ困る。

ルカは死ぬ。もう自分が死ぬと、分かっていた。体は冷え始めていて、思考も鈍り始めている。手当てしてもまず助からない。だからこそに、このまま戦いを終わらせてなるものかとも思う。今までの都市同盟人共の亡骸は、母へ手向けた花束だ。この後に積ませる都市同盟人共の亡骸は、フランツへの花束。そしてハイランドと都市同盟の間に植えついた深い深い憎悪こそが、ルカ=ブライトがこの世に存在した証。誰よりも優しく平和を愛した少年と母を無惨に踏みにじった世界への、復讐の形。

屈折していた。だがそれは屈折させられたのだ。ルカは別に悲しいとも思わないし、それに負い目も感じていない。屈折させた世界そのものに復讐するだけだ。踏みにじられて屈折するような弱さが悪いというのなら、人類の全てが悪。現実はそんなものだ。それに反する例外などわずかしかいない。

前後でじりじりと間を詰めてくる姉弟は、どちらも彼が知る限り屈指の使い手だ。どちらかを殺していけば、レッドリバー軍は取り返しがつかない損害を受ける事になる。出来たら実に愉快だが、恐らくは無理だ。しかしもういい。

「はあっ!」

「せあああっ!」

ランツェイとナナミが、同時に間合いを詰めてきた。剣を振るい、前にいるランツェイを半歩下がらせると、棍を突きだしてきたナナミの一撃を受け流し、顔面に肘を叩き込んでやる。だが、ナナミは空いている左手の棍で肘をガードし、素早く飛び離れる。流石に早い。速さだけなら、弟より上か。仕留められそうもないが、別に構わない。そのまま回転するようにステップし、地面を擦りながら剣を回し、再び踏み込んできたランツェイの脇の下から抉りあげる。角度、速さ共に、避けられる技ではない。ランツェイは棍に腕を添えるようにして、一撃を受け止め、そのまま受け流し、宙に舞う。着地し、数度サイドステップする弟を支援するように、ナナミが真後ろから回転させた棍を頭上から振り下ろしてくる。実戦で鍛えられたコンビネーション、たいしたものだ。対人戦も嫌と言うほどやってきたのだろう。殺すと決めたら、加減無しに潰しに来るこの覚悟、正にルカの最後の相手として相応しい。腕を上げて棍の一撃を防ぐ。鈍い音がして、手首が折れた。だが、剣を持つてが生きていればもういい。そのまま、剣と折れた腕をてこにするようにして棍を挟み込み、しゃがみながら力を込める。絶妙なタイミングで、浮いたままだったナナミは流され、前のめりに、ルカの前の地面に叩き付けられる。その時既に、ランツェイはルカの右横に回り込んでいた。

「んあっ!」

「ええいっ!」

腕と密着させた棍を突き込んでくるランツェイに、ルカは軽く一歩引きつつ、カウンターの一撃を叩き込んでやろうとしたが、もう体が言う事を聞かない。通り抜けざまに放ったランツェイの一撃が、鎧の上から激しくルカの体を打ち据えた。大量の血が食道を逆流し、吐血しながらも、ルカは肘をランツェイに打ち落としていた。前のめりに地面に突っ込むランツェイを、踏みつぶそうと足を挙げるが、後ろからナナミがタックルをかけてくる。蹌踉めき、踏み込んだ足はランツェイの顔のすぐ横の地面をめり込ませていた。跳ね起きるランツェイ、逆の当て身を受け、はじき飛ばされるナナミ。だが姉弟は全く屈せず、息を乱しながらも左右に飛び離れる。

もうルカの左手に感覚はない。獣の紋章を宿した右手だけが異様に熱く、体の殆どが冷たい石のようだ。

「ふーっ!」

右手に、残る全てを集めていく。姉弟は頷きあうと、地面を蹴る。燃え上がるルカの剣が、轟音と共にランツェイを襲う。少年が素早く右手を振り、出現した眩い光の盾が、それを防ぐ。不完全なる真の紋章の一つ、輝く盾の紋章。眉をひそめると、ルカは更に剣に力を込める。わざと、憎々しげに叫びながら。

「豚め、死ねえええええええええっ!」

「ぐ、う、くあああああああっ!」

最後の力を結集した一撃は、見る間に盾へと食い込んでいく。キリキリと火花を発しつつ、高速でぶれながら剣が少年の頭へと迫る。少年の目が見開かれ、恐怖と憎悪に歪んでいく。これでいい。

激しい痛みを覚えたルカが、一瞬だけ剣に掛かっていた注意を解いてしまう。勝負が付いたのは、この瞬間だった。ついに右腕の筋肉が切れ、同時に突貫してきたナナミが繰り出した棍が、鎧をうち砕いて脇腹を強か叩き、肋骨を数本へし折っていたのである。力の掛かり方がおかしくなったルカの剣は、強烈な圧力に耐えきれず、ついにへし折れる。間をおかずに跳んだランツェイが、棍をルカの頭へと、躊躇無く振り下ろしていた。それが、嫌にゆっくり見えた。

頭蓋骨が砕けた。大量の鮮血が飛び散った。二歩、三歩、意志に関係なく歩む。それを見るナナミの目に、恐怖が浮かぶ。周りを囲む都市同盟軍の兵士達にもだ。更に三歩進むと、ルカは止まった。そして、天を仰いで笑い始めた。

「くく、くくくくくくくく、くははははははははははははは!」

「ひっ……!」

「邪悪だと人は言った! 道に外れると人は言った! 邪悪、残虐、鬼畜外道、大いに結構! 俺は望んでこうあった! 望んでこうなった! 俺は、自らの赴くまま、生きてきた! 天よ見よ! 地よ聞け! 脆弱なる道徳を踏みにじり続けた、破壊神の死に様を!」

もうルカの目は見えなかった。だから、天と思える方向を仰ぎながら、ただ吠える。

「俺は! 俺が望むがまま! 俺が思うがまま! 邪悪であったぞ! くは、はははははははははは、ひあーっははっはっはははっははははははははははははは!」

凶暴なる笑顔のまま、ルカは止まった。立ち尽くしたまま、止まった。手から、剣の残骸が落ちた。

『母上よ、そしてじいよ。 今、俺も……其方へ行く。 ん? ははは、笑わせるな、悔いなどないわ』

それが、ルカの最後の思考であった。ルカ=ブライトの鼓動は、二十八才、三十を待たずして停止した。壮絶なる、立ち往生であった。笑ったままのその亡骸には、実に二十五本の矢が突き刺さり、三十七カ所が骨折し、体内の血液の実に七割が死んだ時には流れ出ていたという。獣の紋章によって生命力を極限まで強化していたとはいえ、その怪物をも超越した存在は、後々の世まで計り知れない恐怖と共に語り伝えられる事となる。

 

5,白狼の残像

 

ルカ=ブライトが死んだ場所には、小さな墓が建てられていた。この場で死んだハイランド兵達との合葬だが、丁寧に整備された、心の籠もった墓だ。

その墓に手を合わせているのは、レッドリバー軍の首領ランツェイであった。彼はしばしじっと黙祷していたが、やがて静かに立ち上がり、振り向いた。彼の視線の先には、心配そうに少年を見つめる、姉の姿があった。

「姉さん、どうしたの」

「ランツェイ、どうしたの? そんな奴の、墓参りなんて」

「……姉さんも、見ただろう」

ナナミはしばしの逡巡の後、頷いた。見たものは、シュウが持ってきた、ルカ=ブライトの生い立ちに関する資料だった。今のお前達なら見せても良いだろうと、シュウが渡してくれたのだ。濡らした布で、綺麗に墓を掃除するランツェイ。ナナミも、躊躇はしたが、それに習う。

「今でも、僕はルカ=ブライトを許す事が出来ない。 多分、一生許せないだろうと、思う。 でも、あの資料を見て、少しだけ分かった気がする。 あの憎悪が何処から来たのか、何処へ向いていたのか」

「それが、どうしたっていうの? あいつに殺された人がどれだけいるか、忘れたの?」

「忘れていない。 ……でも、考えて欲しい。 僕たちも、きっとあいつと同じなんじゃないかって。 あいつはたまたま異常な力を手に入れて、それを思う様振るう事が出来る状況になってしまったから……ああなったと思うんだ」

「私たちも、獣の紋章を手に入れていたら、ああなったっていうの?」

手を止め、自らをぎゅっと抱きしめながら、ナナミが言う。ランツェイは、掃除を続けながら言った。

「そうなったかも知れない。 ただ、確かなのは、奴の憎しみは戦争で連鎖的に作り出されてきたものだって事だ。 あいつをおかしくした連中だって、多分何かの恨みをハイランドの人に抱いていたんだろう。 そのハイランドの人だって、何かの恨みを都市同盟の人に抱いていたんだろう。 ……鎖だ」

「悲しいね、それって」

「だから、僕が断ち切る。 戦争を終わらせて、憎しみを断ち切る。 終わらせなきゃいけない、じゃない。 終わらせるんだ。 終わらせて、世界を変える。 いや、きっと世界そのものは変わらない。 でも、手の届く範囲は変えるんだ」

綺麗になった墓の前で、ランツェイは言った。

「彼奴みたいな、手遅れになる奴を、これ以上出さない為にも。 僕が犠牲になって戦争が終わるんだったら、幾らでも犠牲になる」

「ランツェイ!」

「ごめん、姉さん。 ……もし、僕が生きている間に平和が来て、憎しみの鎖を立つ事が出来たら……きっとそれが僕の幸せになるから」

唇を噛んで、涙を拭うナナミ。幸せになって欲しい弟の決意が、彼女を深く傷付けたのである。ランツェイはごめんと小さく言うと、墓を後にして歩き始めた。今のところ、ハイランドは足並みを揃えられず、再侵攻を掛けてきてはいない。だがそれは此方も同じ事だ。戦争は、終わって等いない。誰かが終わらせなければいけない。

そして、そのためには、犠牲がまだまだいるのだ。

ランツェイは歩き出す。ナナミは涙を拭うと、小走りでその後を追った。何処からか流れてきた風が、静かに残された墓を撫でていった。

この後更に一年余、都市同盟とハイランド皇国の総力戦、及び都市同盟の内戦は続く。そして十万近い人間が、狂皇王の後を追う事となるのである。

 

(終)