臓物のもつれ
序、不可解な輪
不可解な変死体が発見された。場所は都会のど真ん中。ドーナッツ化現象と呼ばれる人口減少が進んでいるとは言え、それでも普通に誰もが路地を通っている場所での事である。道路のど真ん中に、死体がいきなり落ちていたのだ。
最初の発見者は、酔っ払いが寝ているのかと思ったようだったが。
実際には違った。
すぐに警察に連絡が行き、発見者は事情聴取。こういう場合、事情聴取が面倒だから通報しない例も一時期あったようだが。警察の対応能力が上がった現在は、きちんと通報がされるようになっている。
つくづく、キャリアから権限を削り、現場のたたき上げに権力を渡したのは正解だったという事である。
更に幾つもの特殊スペシャリスト部署を作った事も正解だっただろう。
今は検挙率が抜群に上がっており、戦後最高とさえ言われているのだから。
ともかく、その変死体はすぐに科捜研に運ばれ。
調査が行われた。
そろそろ冬になる時期である。
飲酒による凍死という可能性もある。
念入りに調査が行われた結果、他殺と断定された。
決め手は体内から発見された超高純度の毒物である。
被害者は伊倉才蔵21歳。いささか古い名前に思えるが、一時期のDQNネームブームの反動で、こう言う名前をつける事が流行った時期がある。大学生であり、それ以上の経歴がよく分からない。
というか、殆ど問題を起こしていないのだ。
だが、体内から発見された毒物は、基本的に自然で摂取することはあり得ない代物で、そもそも食事などで摂取する可能性も極めて低いものだ。
複雑な行程を経て化学合成する毒物で。
その致死量は青酸カリの1000分の一。要するに青酸カリの千倍の毒性がある、という事である。
これが、致死量の550倍見つかっている。
確実に、他殺である。
科捜研が大慌てで死体を調べるのと同時に、捜査一課が動き出す。
そして、調査の依頼が、すぐに宮藤班に飛んできた。
宮藤は頭を掻きながら、事件の内容を聞く。
捜査一課も幾つか大きな事件を抱えていて、その内の一つが山場になっている。この事件は、調べるとなると工数がヤバイのは確定。
宮藤班にて、調査をしてほしい。
そういう事だった。
ため息をつくと、資料を請求して。石川と佐川に声を掛けておく。二人に話をすると、小首をかしげたのは石川だった。
「そんな無茶な毒物入れられて、どうして路上で? 路上で入れられたなら、傷とか残ってそうですけど」
「それが、倒れたときの傷以外残っていないらしい。 被害者は三十分前に、歩いているところを近所の住民に目撃もされている」
「うーん、資料待ちですねー」
「ああ……」
佐川がじっと見ているのは、毒物についてだ。
どうやって作るのかの行程を見ている。
実の所この毒物は、似たものがある。全くの同一ではないが、類似品はあるのだ。ただし「毒」として使用するものではない。
本来は工業加工用に用いるもので。
毒殺に用いる事はまずないという資料もある。
それもその筈。
危険すぎるからだ。
あまりにも速効で効果が出るため、暗殺にも使いづらい。遅効性の方が、毒物は暗殺に向いている。
此奴は文字通り入れられるとすぐに死ぬので。
暗殺者の足取りが掴まれやすいのである。
被害者の体内から発見されたものも同じ性質を持つはずだ。
カプセルなどに入れて飲ませるという手も使えない。
強烈な侵食効果を持っていて、カプセルなど溶かしてしまうのだから。
傷もないのだ。
どうやって被害者は毒を入れられた。
現場の状況が出てきたので。
早速石川が物理演算を始める。
捜査一課の調査能力は流石だ。足跡などから、どう被害者が歩いて来たのか、どう倒れたのか、完璧に分析している。
これを更に物理演算にかけて、途中何かおかしな事がないか調べるのだ。
石川は全力で集中を開始。
更に佐川は、大量のマクロを展開し、色々調べ始めていた。
「それではおいちゃんはちょっと休んでくるからね」
「ポッキー」
「じゃがりこ」
「はいはい」
パシリ警部補の渾名の通り。
休憩ついでに、リクエストがあった菓子を買いに行く。
署の近くのコンビニに出向くが、どうも売っていない。丁度悪いタイミングで、売り切れていたようだった。
仕方が無い。
健康も兼ねて少し歩くか。
そう思いながら、宮藤は足を伸ばす。近所のコンビニを幾つか回って、三つ目で発見。そのまま袋を手に、署に戻る。
その最中だった。
ぶつかられる。
前から歩いて来た男が、避けずにぶつかったのだ。
体幹がしっかりしているから、倒れたのは男の方だった。大丈夫かと声を掛けると、妙に血走った目で此方を見て。
そして、倒れた。
即座に脈などを測る。完全に白目を剥いているが、まだ息はある。即座に救急を呼ぶ。その間に心臓マッサージを施し、周囲の人に近寄らないように指示。
救急車が来るまで七分。
それまで、バイタルは維持した。理想的な状態だと救急隊員は言ってくれたが、それにしても今のは何だったのか。
捜査一課に連絡を先に入れておく。
一緒に病院まではいかなければならないからだ。
捜査一課側も、何だかよく分からない事件に巻き込まれたことは理解したらしい。了承してくれた。
問題は菓子だが。仕方が無い。石川に連絡を入れておく。
石川の方でも、変なトラブルに巻き込まれたことは理解したらしく、ゆっくり帰ってきてねーとか脳天気な事を言っていた。
まあそれはいい。
流石に防弾チョッキで出歩くようなことは無いが、刃物くらいなら通さない裏地の服を着て歩いてはいる。
今のが針とかについた毒物を突き込んできていたとしても、体には通っていないはず。
痛みなどもなかった。
それでも念のため、自分の体の方も調べる。救急隊員に言われたので、手帳を見せてから、一緒に乗り込んだ。
「ぶつかってきて、倒れた?」
「そうなのよ。 それで大丈夫そう?」
「応急処置が良かったので助かるとは思いますが、また妙な話ですね。 一応結束バンドは着けておきます」
「……」
救急車には何度か同乗したことがある。
色々な理由からだ。
危険な捜査で、同僚が怪我をして。一緒に病院まで行ったこともある。捜査一課時代の事である。
昔は、病院がパンパンで。
救急車が急患をたらい回しにされているうちに、患者が死亡するなんてケースもあったのだけれども。
今の時代はそれもなくなった。
ほどなく病院に到着。
救急車から患者を降ろして、緊急治療室に出向く。
既に刑事が来ていて、手帳を見せ合う。状況について確認した後、敬礼をかわした。
「なるほど、事件性の可能性はなさそうではありますね。 貴方も元々捜査一課で慣らした人間ですし、何かしらの逆恨みを買っている可能性もあったのでしょうが……」
「流石にそれはないと信じたいのですが、いやはや……」
「いずれにしても急患については理想的な処置だったと聞いています。 もしも何か分かったら知らせますので、ご安心ください」
「はい。 それでは」
病院を後にする。
アルコール臭がどうしても嫌だが、そればかりは仕方が無いか。
刑事は激務だ。
今の時代、夜勤はごく一部の業務を除いて全無人化され、禁止されているが。それでも、消防、医療、警察などの一部についてだけは、体調を崩さないように限定しながら行われている。
法整備がされる前は文字通りの無法地帯で、それこそこれらの夜勤業務で心身を壊していく人間が後を絶たず。
文字通りの地獄だった。
今でも一部の世代が大きく人員が欠損しているが。
ブラック企業の横行と。
これら過酷な労働の蔓延が大きな原因である。
大量の人間を殺した悪しき者達の多くは、今は刑務所だが。それでもまだ野放しになっている輩はいるだろう。
タクシーで帰ろうかと思ったが、それも何だか気が進まない。
電車に乗って、しばらく揺られていると。
スマホに連絡が入った。
さっき連絡先を交換した刑事だった。
「宮藤さん、今どこですか」
「電車で署に戻る途中ですが、何か?」
「患者の意識が戻りました。 貴方を殺すつもりだったと言っています」
「それはまた物騒ですね……」
やれやれ。
ぶつかったときの目からして、何かおかしいとは思っていたが、そんな事になるとは。
いずれにしても、病院に戻らなければならないだろう。
次の駅で降りて、乗り換える。
また、石川に連絡を入れる。
石川はどうやら完全に事件に巻き込まれたことを理解したらしい。後は向こうで対応すると言う事だった。
捜査一課からの依頼は、宮藤経由で来る。
今の時点では、特に心配する必要はないだろう。
ともかく病院に。
そして、病院で最初に検査を受けた。
相手に殺意があったというのなら。
何かしらされている可能性があるからだ。健康診断を受けている合間に、さっきとは違う刑事。
捜査一課の二郎が来ていたので、敬礼する。
直接顔を合わせるのは久しぶりか。
「これはお久しぶりです錦二さん」
「ああ。 ちょっと横に座るな」
「かまいませんよ」
採血で呼ばれたので行ってくる。
まあ、丁度良い機会だ。健康診断を本格的に受けておくのも良いだろう。
採血を済ませて戻ると、遮音のために、敢えて小声で会話する。
「さっきの奴な、どうも薬物反応が出ているらしい」
「ひょっとして薬のやり過ぎで?」
「それもなんだが、その割りにはお前さんの名前と素性を知っていてな。 結束バンドを外しかねない勢いで暴れて、鎮静剤を打ったそうだ」
「……あんな奴、見た事もありませんが」
頷くと、後で話すと言われた。
そのまま、二郎はその場を離れて。健康診断を最後まで受ける。
最後に内科医に説明を受けるが、毒物などの検出は無し。
体に傷もつけられていないそうである。
なるほど、それなら良いのだが。
病院を出ると、二郎がコート姿のまま待っていた。相変わらず現役の様子だ。ただし、流石にもう荒事は厳しいかも知れないが。
さっきの奴の経歴を見せられる。
流石は捜査一課。この辺りは仕事が早い。
もう調べ済みかと感心する。
だが、これは。少し、宮藤も驚かされた。
まるで顔が違っている。
薬物の重度依存になると、顔つきからして変わってしまうことがある。これは幾つかの例を見せられて、警察学校などで勉強する事である。
この患者の場合、その例だ。
昔はむしろふくよかで健康的なほどだったのに。
今は気の毒なほど、鬼相が出ている。
「これは殺人云々関係無く、まずは薬物関係で逮捕ですか?」
「ああ、それは手配してある。 それよりも、此処を見て欲しい」
「ええと、何々……」
調べて見て、分かる。
なるほど、そういうことか。
昔、うちで対応した事件の関係者か。
顔に見覚えがないはずである。
それにしても、捜査一課で表向き対応しているのに、どうして宮藤班の事がばれたのだろうか。
それについては、二郎が先に口にする。
「犯人の身元は調査中だ。 何でお前の所の事がばれたのかもあわせてな」
「そもそもうちの部署の周りにいる刑事達だって、うちが具体的に何をしているのかは知らない筈なんですがねえ」
「そういうことだ。 犯人は捜査一課の中にいるか、それとも……」
「あまり考えたくはありませんが、警視庁のファイアウォールを破るほどのハッカーが情報を流しているか」
頷く二郎。
一時期セキュリティ意識がガバガバだった頃、そういった事が何度かあった。
うちの国はまだマシな方だったが。
余所の国では、警察にハッキングが掛けられて、重要情報が根こそぎなんて事件もあったらしい。
今は、生半可なハッカーでは手に負えないようなセキュリティが掛けられているが。
それでも何があるかは分からないのがこの世の中だ。
用心しなければならないだろう。
「一応、宮藤班の周囲には警戒をつける。 お前さんは自衛出来るだろうが、他はそうもいかないだろうからな。 それと例の毒殺変死事件は後回しだ。 こっちに注力してくれ」
「ういっす」
「ああ。 彼奴らの能力の高さはこっちでも嫌と言うほど分かっているからな。 ともかく、お前も油断するな」
後は、二人無言でその場を離れた。
すぐに石川に連絡。念のため、高梨にも連絡を入れておく。
高梨の居場所は、実の所宮藤にさえ分からない。まさか高梨から情報が漏れたと言う事は無いだろうが。
一応は念のためだ。
高梨は、ないと断言。
「イマジナリーフレンドについては完全に僕の支配下にあります。 僕が寝ているときに起きたり、起きたとしても体を動かすことは出来ません。 これについては実証済みです」
「そうかい。 その場所は安全かい?」
「何とも言えませんが、まず大丈夫だと思います」
「……分かった。 気を付けろと言ってもどうしようもないだろうけれど、気を付けるんだよ。 おいちゃんも気を付けるからね」
また電車に乗り。
署に着いたのは夕方だった。
石川達に菓子を渡してから、軽く話をする。
護衛は来ている。
自衛隊で戦闘訓練を受けた、暗殺対策もしているプロだ。
だから、もしも絶対の安全を期したいなら署で寝泊まりしろ。どうしても嫌なら、連絡してから帰るように、と。
石川は脳天気に言う。
「それなら、佐川ちゃんとパジャマパーティーしますー」
「ですにゃー」
「そうかい。 じゃあおじちゃんは帰るからね」
「あいあい」
頭を抱えたくなるが。
此奴らが、生半可な頭脳の持ち主では無く、超がつくスペシャリストである事は宮藤もよく分かっている。
だから別に言動を咎めるつもりは無いし。
何よりも、此処でパジャマパーティだか何だかするのなら、外で見張るだけで良いのだから楽ちんである。
そもそも警察署というのは、基本的に内部で生活が出来るようになっている。
これはどうしても性質上泊まり込みが必要になってくるからだ。
近年では、基本的に受けつけ業務などは高度なAIを組み込んだロボットなどが行って、警官の負担を減らしているが。
それでも夜勤で此処には誰かが残るようになっている。
後は捜査一課があのヤク中をどうにかするのを待つしかないか。
流石にこんな事に高梨に出て貰うのは色々とリソースの無駄だ。
今も一つ案件を抱えて貰っているのだから。
自宅に戻る途中、視線などは感じなかった。護衛にはついてくれているはずだが、それも気付けない。
まあ流石はプロか。
それに、そんなプロをどうにかするような暗殺者がいるなら、もう宮藤にはどうにもできない。
諦めるしかない。
勿論そんな簡単に諦める気は無いので、狙撃を防ぐための工夫はフルに行っていく。
警察学校でも、狙撃対策は色々習った。
浅間山荘事件で、無茶な突入作戦で多くの死者を出した事があるが。
その教訓を生かし、最近では狙撃対策や、突入作戦についての知識は一般の警官でも学ぶようになっている。
自宅に到着。
誰かが入った形跡は無い。
後は誰もいない家で、適当に休むだけだ。
ため息をつくと、ベッドに転がる。
さて、面倒な事にならなければ良いが。
どうせ面倒事になるのは分かりきっているが。そんな風に、内心宮藤は呟いていた。
1、影知れぬ針
宮藤から連絡が来る。高梨は来るだろうなと思っていたので、別に驚かなかった。
例の、宮藤を襲った犯人。
クスリが抜けてきて、興奮状態が収まり。
会話が成立するようになって来た、という事である。
ただ鎮静剤を打たないと叫び続けて、会話がそもそも出来ないので、病院側も隔離病棟に入れて対応しているようだが。
捜査一課が、専門の刑事を派遣して、情報を集めた結果、以下の事が分かってきた。
かなり前に対応した事件があった。
極めて巧妙に偽装された殺人事件で。
殺人犯は、様々な偽装工作をしていたが。
全て高梨が暴いた。
その結果逮捕され、現在は極めて悪質な第一級殺人と言う事で、未だに牢屋にいる。まあ終身刑という奴である。
それで、である。
どうやら犯人はその弟であるらしいのだ。
これについてはDNA鑑定などで判明。
元々は会社員だったらしいのだが、兄の犯罪が露見し、逮捕されてから失踪。
しばらく行方不明になっていたらしいが、ヤク中になって戻って来た、というわけらしい。
いやはや。会社員の時は、そこそこ良い仕事をするという事で、それなりに周囲から評判も悪くなかったらしいのに。
何があったら重度のヤク中になってしまうのか。
それについても聞いているが。
何か催眠か暗示でも掛かっているのか。
凄まじい雄叫びを上げて暴れるばかりで、絶対に吐かないと言う事だった。
自白剤の類は非人道的と言う事で、使用が禁止されている。
そこで宮藤班に話が回ってきたというわけである。
本末転倒も甚だしいが。
しかしながら、これは仕方が無いだろう。
ともかく、一つずつ対応をして行くしか無い。
まず、宮藤を襲った犯人についての情報を、徹底的に集めて貰う。少しずつ犯人が吐いたところに寄ると。
兄が捕まって以降、逃げるようにして会社を退職。家も逃げ出したという。
犯人の両親はまだ家にいるのに。自分だけ、と言う事だ。
その後は貯金を一箇所でまとめて下ろすと。それを食い潰しながら、各地を放浪したというのだが。
三ヶ月ほどの記憶が丸ごと抜け落ちている。
それについては、専門の警官の手配をしているらしいが。
何しろ特殊技能だ。
時間がかかる。
宮藤班でも出来る事があるなら、早々にやってほしい。
それが一課のご希望だ。
それで、集められた情報から、犯人の人格を再生していく。
ヤク中である、と言う事は、別にイマジナリーフレンドの作成に問題を起こさないし。ヤク中の人格をイマジナリーフレンドとして作る事にも別に問題は無い。
というのも、シリアルキラーとかになってくると、生半可なヤク中では及びもつかない大量の脳内物質を常時垂れ流していることがあり。
それを脳内で再現しているのである。
別に本物のクスリを体に入れるわけでもない。
大した負担にはならない。
無言のまま、犯人のイマジナリーフレンドを構築することを試みてみるが。
駄目だ。
スカスカ。
やはり空白期間の情報がいる。
宮藤に連絡。
情報が足りないと素直に言うと。宮藤もそうだろうねと、疲れた様子で返してくるのだった。
「それじゃあ、もう一個の方片付けちゃってくれる? 中止になった毒殺事件じゃないほうね。 確かもう少しで終わりだったよね」
「はい。 それはすぐにでも」
「うん。 ともかくどうせ時間掛かるし、ゆっくりでかまわないから」
宮藤は妙に余裕があるな。
そう思ったが、後で石川から、佐川による分析も含めた資料を寄せられて納得である。
今回の件。
警察内の特殊部署を嗅ぎつけられた可能性があるという事で、公安が出張ってきているらしいのである。
それならば、捜査一課が焦るのも当然か。
公安は兎に角容赦が無い。
警察よりもやり口は非常に厳しいし。
実を言うと、警察以上に苛烈に無能なキャリアの排除が進められた場所でもある。
その結果、今では猟犬の様な極めて強力な組織に変わっており。
スパイはうちの国に入ったら生きては帰れないという噂まで流れているほどだとか。
まあ21世紀初頭に色々あって。
その結果、対応出来る人材が増えた、という事である。
勿論公安は捜査一課の内部に裏切りものがいることも想定して動くだろう。
そうなったら、捜査一課は色々と甚大なダメージを受けることもありうる。
焦るのは当然かも知れなかった。
それに、石川や佐川、宮藤も疑われるだろう。
高梨もだ。
まあ、冗談じゃあないというのは、他人事では無いか。
ともかく、もう一件。
もう解決していて、後始末をしている殺人事件について。犯人のイマジナリーフレンドと喋りながら、問題を解決していく。
幾つかの疑問点について吐かせた後。
全てをレコーダーで録音して。
そのまま佐川に送る。
後は向こうでまとめてくれるだろう。
一気にどっと疲れた。
一つイマジナリーフレンドを作るだけで、どっと消耗するのである。まあ人格を一つ作るのだから当然だけれども。
資料が届いた連絡が宮藤から来る。問題があったら、追加で連絡するとも。
頷くと、高梨は休む事にする。
ぼんやりしていると、少しずつ眠気が襲ってきたので、それに身を任せる。
しばらくは眠るべきだ。
体が動かなくなる前に。
夢を見る。
この仕事を始めた切っ掛けは何だったか。
医者と一緒に、何だか顔を隠した男が数人来て、何か話をしていたのだった。そして、言われたのだ。
イマジナリーフレンドを自由に作れるというのは本当か、と。
そう。
意識がはっきりして。
色々な事が分かり始めた事に。自分を擬似的に八つの人格で構成して。他人の人格を再現出来ることが分かった頃に。
此奴らが来たのだ。
今になって思えば、公安とか、もっと更に暗部の組織だったのだろう。
言われた通りに、一週間ほど掛けて数人の人格を作ってみせると。
すぐに、宮藤班に配属になった。
宮藤という男は、通話していて分かったが、元々正義感が強い人物らしい。情報も貰ってイマジナリーフレンドも作って見たが。昼行灯のパシリをしている割りには、とても能力も高く、頭も回るようだった。
石川は物理演算のプロ。
とても頭が良くて、ゲームのスペシャリスト。
佐川は天才児。
IQ250という、高梨とは全く違う世界を見ている人間。
そんなのを集めて作った部署は。
高梨のイマジナリーフレンドを使って、事件を解決するための特務部所。
一応交通関係の部署の一つと公にはされているが。その実体は捜査一課の切り札である。
何だか面白いなあと思った。
実の所、捜査一課というのも、並行して調べた。
殺人に対する対応を中心とした、日本の警察の精鋭を集めた部署。
宮藤は其所で、問題を起こしてしまって、外れてしまったドロップ組。
だけれども、宮藤の能力は確かだ。
いずれにしても、勉強しながら、イマジナリーフレンドを作り出す力を使い。そして事件を解決していった。
数件の事件を解決すると、露骨に新しい案件が来るペースが増えて。
それに対応する事で、とても疲れるようになった。
宮藤はそれを敏感に察知して。
仕事のペースを考えてくれるようになった。
どこかで、宮藤に高梨の体がボロボロであると言う情報が渡ったのかも知れない。いずれにしても、配慮をしてくれる人物だと言う事だ。
やがて、石川や佐川とも連携が上手く行くようになって。
今に至っている。
宮藤が狙われたというのは、何処か遠くの世界の出来事のように思えるけれど。
あまり良い事だとは思えない。
目が覚める。
ぐっしょり汗を掻いていた。
ロボットアームが、何度か寝返りをうたせてくれていたようだ。機械に手を借りながら、風呂に入る。
そしてさっぱりしてから。
新しい情報が来ていないか調べた。
新しい情報は、来ていた。
捜査一課が、どうやら催眠解除のプロフェッショナルを派遣したらしい。ヤク中の犯人から、情報を引き出したようだった。
それでも、そんなに多い情報では無い。
何でも、ホームレス寸前の人達が働いている場所で、日雇いの仕事をしていた犯人は。ある日、突然日当たり五万の仕事を持ちかけられたという。
飛びついた犯人は、何処かに連れて行かれて。
暗い部屋で、ずっと話をされた。
内容については、呪文のようなもので、反復して聞かされたという。
内容についてもメモしてあるが。
何処の言葉かも分からない。
佐川の調査によると、実際には使われていない言語らしい。要するに、相手を催眠状態に置くために、ずっと継続して聞かせていたものらしかった。
これによって催眠状態にさせられた犯人にクスリをうち。
そして、宮藤を殺すように暗示を掛けたと。
しかしながら、犯人は持たされていた毒の塗られたナイフを落としてしまい。
結局、宮藤にぶつかる事しかできなかったようだ。
そのナイフについては、既に発見されたそうである。
つまり信憑性は高い、と言う事だ。
なお関係は分からないが、例の捜査中止になった毒殺事件の毒と同じものであったそうだが。それについては、この件とは一旦切り離して考える事になるそうだ。
犯人も少しずつ興奮状態が収まってきていて。
鎮静剤の量も減らしているという。
犯人によると、複数の人間が代わる代わる来て、頭がおかしくなりそうな呪文を聞かされる中、此奴を殺せ、此奴を殺せと言ってきたらしく。
その顔もうっすら覚えているという。
逆光が掛かっていて見えづらかったが。
人数は三人。
恰幅が良い男と、やせ形で長身の男。でっぷりした女だという。
現在、日本国内で、男に注射されていたような薬物はとても入手が難しくなっていると聞く。
いずれにしても、これは公安に譲るのも仕方が無い案件では無いのかとは、高梨も思ったが。
ともかく、公安には今まで四度案件を譲ったが、その度に色々面倒だった。
この国も比較的安全とは言え。
公安のような組織が存在しなければならない程度に闇もある。
その闇をどうにか出来るのなら。
何とかしたい所ではある。
ため息をつくと、追加の情報で、イマジナリーフレンドの再構築を始める。しばらくして、前よりもかなりはっきりした人格の犯人が出来上がった。
此処で大事なのは、壊される前の犯人を作る事では無い。
壊された後。
しかも、壊された後でありながら、会話が成立するようにしなければならない。
かなりの消耗をするが。
どうにか、作り出す事は出来た。
呼吸を整えながら、会話を幾つかしてみる。
話をしてみると、かなり気さくな人間だった。
「はじめまして」
「ああ、あんたか。 はじめまして」
妙な会話ではあるが。
「友人」であるという事に設定しているから起きる事だ。
まあ、その辺りの矛盾は、犯人のイマジナリーフレンドは気付けていない。高梨自身の口を使って、会話を続ける。
幾つか話をしていくが。
ごくごくまともな人物だ。
兄が殺人犯として捕まったときの事も聞くが。
ショックを受けて、怖くなった、と言う事だった。
周囲の白い目が兎に角怖くて。
必死になって逃げ出してしまった。
どこかで、誰も知らない場所に行って。
其所で再起したいと考えた。
だけれども、そんな無計画な行動が上手く行くはずも無い。
結局ホームレスが集まるこの世の地獄みたいな場所に流れ着き。資金も底をついて、もう何もできずに日雇いの仕事をする以外の道がなくなっていた。
涙が流れたが。
どうしようもなかった。
今更家にも戻れない。
生活保護だって犯罪者の弟だし受けられないだろう。
そういう恐怖が何処かにあった。
毎日泥を啜るようにして生きていた。
一時期に比べて、ホームレスの扱いはマシだと聞くが。
それでも倒れて凍死しているホームレスを何度も見たと言う。自分もいつそうなってもおかしくない。
その恐怖で、おかしくなりそうだったと犯人は言った。
「怖かった、怖かったんだ」
涙ながらに訴えるが。
そうか、としか思えない。
悪いが、そもそも心を母親に壊されてしまっているので。よく分からないのである。
いずれにしても、其所からは報告にあった通り。
日給五万の仕事に釣られ。
そして拉致された。
何だかくらい部屋に閉じ込められ、呪文みたいなのを聞かされて、心身喪失状態にさせられ。
宮藤への殺意を植え付けられた。
関わっていたのは三人。
問題は、此処からだ。
その三人の情報を、もう少し詳しく聞く。ひょっとすると、その真犯人を特定出来る可能性があるから、である。
情報を調べていくと、幾つか分かってきた事がある。
ぐわんぐわんと呪文が頭を揺らしている中、見た中では。
どうやら、太った女が最上位にいたらしい、と言う事が分かってくる。
何でも、他の男がどうも何かするときに、太った女に相談していた様子である。
だが、本当だろうか。
単に権力を持っているのがその太った女、というだけで。
実の所、取り巻きのどっちかが実権を握っていた可能性もある。
ともかく、可能な限り記憶を引っ張り出して、モンタージュを作っていく。
これは結構大変な作業なのだが。
異能であるからこそ出来る事であり。
故にやらなければならない事だ。
三人分のモンタージュ。それもそこまで正確なものではないが……なんとか作り上げたときには。
高梨は疲労困憊。
一度犯人を黙らせると、宮藤に連絡を取った。
「宮藤警部補、其方に情報を送ります」
「おっ、流石だね……。 捜査一課は右往左往してるってのに」
「いえ、疲れ果てました……」
「分かってる、送ってくれれば此方で調べるからね。 本当にありがとちゃん」
宮藤も暗殺されかけたと言うのにタフなものだ。
データをメールにして、そのまま佐川に送る。
これで佐川で分析して、色々と対応はしてくれるだろう。
大量の汗を掻いているのが分かる。傷口に染みる。
もう傷口は塞がっているはずなのに。
特に顔などは、医者が「何とか顔にした」というほど手酷く破壊されていたこともあって。今も変な風に汗腺が体の内部に食い込んでいるのかも知れない。こう言うときは、特に痛む。
体には欠損している場所も多いが。
この疲労が来ると、幻視痛も来る。
ため息をつきながら、しばらくぐったりと車いすに身を預ける。
文字通り、当面は出来る事もない。
気絶するようにして眠った後。
起きだすと、八時間が過ぎていた。
ロボットが栄養食を用意してくれたので、ロボットアームの手伝いを受けながら食べる。総入れ歯で、舌も無いから大変だ。唇だって再建したのだ。
黙々と食事をしていると。
メールが届いた音がした。
佐川のことだ。
分析は速効で済ませてしまっただろう。
かといって、八時間で進展があったという事は。何かろくでもない事が起きた可能性もある。
メールを確認。
追加情報だった。
どうやら犯人が、自殺を図ったらしい。勿論上手くは行かなかったが、意識不明の重症らしい。
重症、か。
重体になると命の危険があるらしいが。
重症と言う事は、恐らく舌でも噛み切ったのか。
今では、高梨にとって舌は幻視痛をもたらすものでしかない。
捜査一課は案の定パニック状態。情報源が完全に沈黙してしまったのだから、まあそれもそうだろう。
宮藤に連絡を入れる。
少し疲労の声が宮藤の言葉に混じっていた。
「すまないね、高梨ちゃん。 急かすようなメールを入れて」
「いえ、それよりも送ったデータは」
「今捜査一課に回して、解析して貰っているよ。 モンタージュには驚かされているけれど、何しろ高梨ちゃんには実績があるからね。 信用して解析してくれているようだよ」
「宮藤警部補は何か危険な目にあっていませんか?」
大丈夫だと言われる。
追加の情報はと聞くが。何しろ犯人が、高梨が寝て直後くらいに舌を噛み切ったらしいので。
やはり何も分からないそうだ。
今、捜査一課がホームレスの日雇い関係の地区を調べて情報を集めているらしいのだが。そういう場所には、それこそどんなろくでなしでも幾らでもいる。難航しているらしい。また、犯人の足跡を辿るが、首都圏にどうやら箱根経由で入ったことらしい所までは突き止めたのだが、その先が途切れてしまうそうだ。
「箱根経由……ですか」
「少しだけの情報だけれど、送っておくね」
「はい、ありがとうございます。 宮藤警部補も無理はなさらず」
「大丈夫。 この程度でへばるほど年喰っていないよ」
そうはいうが。
人間は若い頃無理をすると、中年くらいから一気に体に来るという話もある。
警官で、捜査一課出身と言う事もある。殺人犯を相手にするのだから、相当に鍛えてはいるだろうが。
それでも宮藤だって無理があるはずだ。
ため息をつくと、新しく得られたわずかな情報を追加。
案の定、犯人は殆ど変化しなかった。
少し疲れが溜まっているので、疲れが取れるのを待つ。疲れているままだと、正確な情報が引き出せないからだ。
疲労については、何とか体で分かる。
疲労が危険域に入ると、露骨に思考が鈍るのである。
当然イマジナリーフレンドも動きが悪くなるので。
疲れながら作業をする意味がないのだ。
しばし休んでから。
作業再開。
犯人を呼び出し、聞いていく。
箱根の話をするが。
分からないと言われた。
そうなると、監視カメラか何かで調べたということだろうか。
いずれにしても、もう関東に入ったときには、犯人は心身喪失状態。
ナイフを取り落とすくらいである。
フラフラと署に向かい。
そして、宮藤を見つけ。
ナイフで刺そうとした。
確認すると、ナイフで刺そうとしたことだけは、何となく覚えているという。まあナイフはなかったわけだが。
だが、ぶつかって倒れて。
その後は何が何だか分からないそうである。
まあ重度のヤク中に加え、呪文みたいなので頭を掻き回されて、ずっと洗脳に近い事をされていたのである。
そこまで覚えているだけで立派か。
幾つか、他にも何か無いか聞いていくと。
興味深い事が聞けた。
「そうだ。 最初にクスリを打たれたときのことを思い出しました……」
「詳しくお願いします」
「ええと、あの気味の悪い呪文を聞かされていて、それで……いきなり右腕がちくっとして。 それで、言われたんです。 野太い声で。 これ高い薬なんだよ。 だから暴れるんじゃねえよって」
「……」
高い、クスリか。
そもそもそういうクスリが殆ど手に入らなくなっていると聞いている。だがそれでも、高いと言いながら手に入れられる。
要するにそれは。
作れる、と言う事では無いのか。
勿論捜査一課も、薬物関連の動きは追っているはずだ。
年々薬物関連の犯罪は減っていると聞いているし。
余計に目立つはず、だからである。
だが、もしそうだったとして。
「他に気になったことは?」
「太った女が話していました。 その薬をどれくらい打てば、頭がユルユルになるのかって……怖かったんですが、すぐに何も感じなくなりました」
「ユルユル……」
「実際、ユルユルになりましたから、言葉も無いです」
ふむ。
いずれにしても、他には分かりそうなこともないか。
幾つか他に質問をして行くが。
やはり捜査一課と連動しないとろくな情報は得られそうにない。公安が出しゃばってくる前に捜査一課も決めてしまいたいのだろうが。
そうも行かないのだろう。
「わかりました。 そうだ、貴方、今舌を噛んだようですよ」
「……僕は人を殺しかけました。 仕方が無いと思います」
「?」
「……」
応えてくれない。
少し違和感があったが、まあいい。
ともかく、わずかな情報だけでも、追加で送る事にする。
送ったことを知らせて、休む。
今回は消耗が大きい。少しでも、休んで体力を蓄えなければならなかった。
それにしても、何だか最初からずっと妙な違和感がついて回っている。この主観は正しいのか。
現時点では、状況証拠はある。
だが、何処かで何かが食い違っている可能性を考慮して、もっと情報が欲しい、というのが事実だった。
2、わき上がり始める違和感
捜査一課は無能では無い。
各地の県警と連携して、捜査を続行。
その過程で、今まで捕まっていなかった指名手配班三名を逮捕。また、まだか細く残っていた薬物売買のネットワークについても、一つを検挙。潰していたということだった。
高梨の所にはその情報が、宮藤経由で来る。
宮藤はあれから、不審者を目撃していないし。
周囲にその影もないと言う。
現時点では、昔のSWATのような秘密部隊も含めて、宮藤班の護衛と監視をしているらしいのだが。
そのチームからもおかしな報告は上がって来ていないらしい。
変だなあと高梨は思う。
通話で宮藤と話す。
「不確実性の高い、しかも素人の刺客一人を仕立てただけで終わりですか? 何だか妙だと思いませんか?」
「キミもそう思うかい? おいちゃんも何だかそこはおかしいと思っていてねー」
「資料をお願いします。 何だか嫌な予感がしますので」
「ああ、うん。 捜査一課から、追加で資料が届いたよ。 犯人が、家を飛び出してからの足跡が、ある程度分かってきたからね」
資料を受け取って、確認する。
捜査一課も本気なのだろう。
内部にある秘密部所。
部外秘どころか、警察が絶対に知られてはいけないはずの部署に、攻めてきている奴がいるのだから。
それが一回きりの襲撃で。
あからさまに素人によるものでもだ。
捜査一課の動きで、効果があったと教えているようなものである。
とはいっても、いくら何でもリスクが大きすぎる。
不可解と言うよりも。
不合理すぎる、というのが本音だ。
例えば宮藤本人によっぽど強い恨みがあるのなら。
ヤク中にした使い捨て何かよりも。
自分自身で、殺しに来たりしないのだろうか。
そもそも、犯人をヤク中に仕立てた連中は、何かしらの別の目的があったのでは無いのだろうか。
まだ情報が足りなさすぎて、犯人をヤク中に仕立てた三人組のイマジナリーフレンドは作れないのだが。
ふと気になる情報を見つける。
捜査一課が調べた所によると、ふらふら各地を放浪した犯人が。最後はホームレスの行き着く地区に場所に行き。其所で数度日雇いの仕事をしたことが確認されている。此処までは事実だ。
日雇いの業者は怪しい出の者が多いが。
それでも、捜査一課が締め上げれば、データを出してくる。
そうやって出されたデータの中には、犯人に対する印象もあった。
「なんというか、真面目な奴でした。 どうしてホームレスなんかやってるのか分からないような奴でしたね。 生活保護でも受ければ良かったのにと、アドバイスをしたんですが……寂しそうに笑うばかりで」
「よく働きましたよ。 他が殆ど真面目に働いていないのに。 小銭のために良くやるよと、呆れ半分に話していましたけれど」
中には、ちゃんと働くので、給金をおまけしたり。
或いは派遣で良いならと、勧誘する会社もあったという。
だが犯人は、やはり怖かったのだろう。
それらを避けて、毎日毎日をそれこそ残飯を漁るようにして生活していたようだった。
犯人が拉致されたらしいタイミングも大体特定出来た。
結果として、七日から九日の間に、あれだけ重度のヤク中に仕立て上げられたと言う事もはっきりした。
そして、箱根に放され。
暗殺者になった、というわけだ。
どうもおかしい。
記録を取り込んで、犯人のイマジナリーフレンドを再構築。
軽く話してみる。
「貴方がさらわれた日のことを、もう一度お願い出来ますか?」
「はい。 一日五万の仕事があると聞いて……」
「……本当ですか?」
「はい、本当です」
いくら何でもおかしい。
幾つか、質問をして見るのだが。
其所まで心身喪失に陥っているとは思えないのだ。
怯えてはいる。
だが、いくら何でも、一日五万の日雇いなんておかしいと思う程度の判断能力は残っていたはずだ。
実際問題、此奴をピンポイントで「三人組」が狙ってきていたのなら。
もっと別の言葉を掛けてきたのでは無いか。
そう、高梨は思うのである。
しばし考え込んでから、別の質問をする。
「貴方が受けた仕事ですが……」
順番に、証言があった日雇いの仕事について聞いてみる。
すらすらと答えが返ってくる。
やはり違和感が膨らむばかりだ。
この犯人、ヤク中になる前はむしろ真面目で。それが故に、パニックになって家を飛び出す前は、仕事だってまともにやっていた。
何もかもがおかしいのである。
日雇いの仕事だって。その前にフラフラしながらやっていた仕事だって。どこでも雇い主の評価は低くない。
仕事はしっかりやっているし。
むしろ生真面目で、どうしてこんな不安定な仕事をしているのか、小首をかしげたというのである。
労働基準法がガン無視されていた時代と今は違う。
昔はそれはそれは、人間をすり潰すような労働がまかり通っていたという話を高梨も聞いているが。
今それをやったら、速攻で逮捕である。
それでも、怪しい仕事というのは存在するのだが。
あるにしてもごく一部だ。
少なくとも、高梨が関わった日雇いは、労働基準法を守る内容だったし。
そうでなければ警察に潰されてしまう。
今は日雇いでも一日辺り一万円くらいが相場で。
酒とかで浪費してしまう人間以外は。
日雇いで大まじめに働いて、ホームレスを脱する人間もいる、と聞いている。
それが、犯人は連日すっからかんだったと聞いている。
やはり何かがおかしいのである。
勿論捕まったときの所持金もすっからかんだったようだが。
まあそれは、当然というか、仕方が無いと言うか。
しばしして。
佐川から資料が届く。
データをまとめたものだった。
佐川と通話して話す。
「この資料は?」
「犯人と関わった人間への聴取からの分析だニャー」
「ありがとうございます。 助かります」
「いいや。 役に立つと嬉しいにゃー」
今回は、物理演算屋の石川の仕事は無いだろうと思っていたのだが。
石川の方も、資料をくれた。
宮藤を犯人が襲ったというか、宮藤に犯人がぶつかったときの再現映像だ。
それによると、犯人は一度宮藤を視認して、ぶつかろうと近付いているのだが。
その直後に、視線を彷徨わせて。
宮藤にぶつかりはしたが、そのまま倒れている。
顔をしっかり守って倒れてはいるが。
何とも力ない倒れ方だ。
色々な資料が入ってきて、これでそろそろ完成させられるかも知れない。まだ不完全だと思っていたのだ。
だが、最後にもう一つ、資料がいる。
宮藤に確認する。
「一つ、仕入れてほしい資料があります」
「なんだい?」
「犯人が使っていたクスリについての資料です。 もう特定は出来ているのだと思いますので……」
「危険だよ。 一応情報は回すけれど……」
危険は百も承知。
これについても、もっと正確な情報が欲しいのだ。
やがて、情報が来る。
クスリを入れる事による症状。具体的な成分。
あらかたのデータを入れ終わった。
「……」
これで、完全に犯人を再現できる筈。
犯人本人は、今頃舌を噛んで死のうとしているはずだが。
残念ながら、舌を噛んでも人は死ねない。
何しろ高梨なんて、母親に歯全てを破壊され、舌も引き抜かれて。それでも生きているほどだ。
舌が無くなっても。
食生活が不便になり。滑舌が悪くなるだけである。
さて、犯人を再構築。
もう一度、全てを聞き出す。
やはりというかなんというか。
そうすると、最初から、少しどころではなく違っていた。
「何度もしつこいな。 何をそんなに聞きたいんだよ」
「貴方が嘘をついていることについて」
「嘘だと?」
「貴方、怪しい三人組に捕まって薬を打たれたと言っていましたよね」
黙り込む犯人。
嘘をつけないようにパラメータを調整した。
正直脂汗が流れるほど疲れるし。
汗が流れると、体中が痛くなるのだが。
今はそれも仕方が無い。
此奴は何か、とても危険な事を隠している。それを暴かないと、大きな災いになる可能性があるのだ。
「嘘なんじゃないですか、それ」
「……」
「本当は、単にクスリを買っていたんじゃ無いんですか?」
「……」
黙り込む犯人。
そういうことだ。
「どうやって、クスリを? 最初に買ったのはいつです」
「……兄貴が捕まって、怖くなって逃げ出した後の事だ。 あてもなくふらついているうちに、何だか知らない港町に出た。 そうしたら漁師達が何か打っててな。 俺が近付くと、慌てて隠した。 何かあると思った」
そういえば。
この犯人、確かにある港町。
太平洋側の港町に寄っている。
レコーダーで記録をしながら、話を進めて行く。
「続けてください」
「この街には何かあると俺はすぐに思った。 何だか、逃げ出して彼方此方をふらついているうちに、おまわりや周囲の人間が一切信用できなくなっていて、それで同時に何か怪しいものも見つけられる嗅覚がみについたんだ。 偶然だとは思うが、それでクスリを売っている奴を見つけたんだ」
それは、クスリを作る小さな工場で。
売っているクスリも、ごく少量だったという。
漁師町などは古い伝統が残っていることがある。
その漁師町には、古くは海外からの出稼ぎなどが来る事もあり。
要するにそういう需要もあった、ということである。
タチが悪い連中が、絡んでいるのはすぐに分かったが。
働きたいというと。
余程人手が足りなかったのか。
クスリ関係無く、仕事はくれたという。
其所でしばらく真面目に働いて。
クスリを貰ったのだとか。
「なんでクスリを」
「怖かったからだよ」
口調も露骨に変わってきている。
やはり正確な情報を得ないと、人格は完璧に再現出来ない。今回も、それを思い知らされる。
そして犯人は。
大まじめに働きながら、工場の老工場長に、注意を受けたという。
このクスリは、溶かして注射にして打つ事も出来る。それは強烈な快楽を招く。だが、真の使い路は、錠剤のまま飲むことにある。
現実と妄想の区別が付かなくなる。
その結果、ストレスをすっきり消してくれる。
だが、一日にこれ以上の量は飲むな。
体を壊す事になるからな。
用途によっては注射器がいらない。
それもこの凶悪な合成ドラッグの特性だった。それについては、宮藤が既に調べてくれている。人間を壊したり洗脳したりするときには注射するのだが。飲むことによっても効果があると。
注射器がどうしても必要になるのが危険な薬物の特性で。
飲むことで簡単にトリップできる強力なクスリの出現で、世界の麻薬市場は大きく動いたと聞いている。
ともかく、そのクスリを郵送する仕組みと。お金を支払う仕組みを確立した犯人は。
工場で少し働き。
其所で大まじめに働きを褒められた後。
その場を後にしたと言う。
だが、代償は大きかった。
「なんというかな、やめられねえんだよ。 すぐにこれ以上飲むなと言われた以上の量を飲むようになっちまった。 それはそうだよな。 怖くて怖くて仕方が無くて、酒が弱い俺じゃあどうにもできなかったからな」
「それで、言動が怪しくても大丈夫なホームレス街に」
「おうともよ」
もう、完全に犯人の印象は前と違う。
前の犯人は、要するにだ。
何か怪しい組織の存在をでっち上げるだけの狡猾さを頭の中に残していた。
だが、それを引っぺがして、嘘をつけなくした途端。
暴かれたのは、単なる無計画で。
愚かな薬物中毒者の素顔だった。
「日雇いの仕事はらくだったぜ。 だからクスリを飲むのも特に問題なかったし、作業が終わった後は段ボールにくるまって気楽に寝た。 周囲は死んだような顔の爺ばかりだったけどな、俺はむしろ気楽だった。 何しろ、クスリが効いている内は追われているって恐怖がなかったからな」
「そうですか」
「しかもこのクスリ、依存性はあるが別に飲んでいる間にラリって周囲に絡んだりもしないんだぜ。 酒よりよっぽど優秀だわ」
けたけた笑う犯人。
溜息が出る。
そういえば、薬物肯定派の人間は、酒だって飲めば体を壊すとか、タバコより害が少ないとか。決まってそういう言葉を口にするんだっけ。
此奴もそうだった、ということだ。
いずれにしても、此奴への信頼は既に地の底にまで落ちている。
そのまま嘘をつけないようにして、喋らせる。
「クスリは高くついたが、それでもちまちまと金は貯まった。 だから、理性が残っているうちに、俺を追ってくる奴をどうにかしようと思って、毒を仕入れた。 何、ホームレス街だからな。 昔スジ者だった奴もいた。 毒なんか、探せばあったし、売ってくれる奴もいた。 毒を売ってくれた奴、その数日後に凍死しちまったがな」
「追ってくる奴って言うのは」
「警官に決まってるだろ。 それで、思い出したんだ。 兄貴が捕まったとき、一人頼りなさそうなおっさんがいたなって。 あんな頼りなさそうなのに、捜査一課のおっかねえ警察達に混じって、へらへらしながら余裕でいやがった。 何となく分かったんだよ、此奴ヤバイ奴だってな」
宮藤のことだ。
そうか、此奴。
宮藤のことを、勘だけで危険だと察知したのか。
そんな馬鹿なとぼやきたくなるが。
確かに世の中には、そういうおかしな方向に鼻が利く人間は実在している。それは疑いようがない事実だ。
そして、犯人は。
無茶苦茶な事を言い出した。
「ホームレス仲間に少し金をやってな、スマホで検索してみたんだよ。 警部補の階級は見ていて分かったから、スマホから調べて見てな。 そうするとどんぴしゃりだ。 宮藤とかいったっけ。 何か交通課とかにいるらしいが、だったら余計におかしい。 なんであれだけやべー犯罪犯した兄貴の所に来てるんだよって、笑いが漏れたぜ。 後は、運び屋を探した」
「運び屋?」
「タクシーの中でも、訳ありの人間を届けてくれる奴がいるんだよ。 ちょっと値段は張るけどな。 移動の途中、訳が分からない組織に捕まって、クスリを打たれたって事を考えた。 後自主的にクスリも抜いた。 どれくらいのタイミングからクスリを飲んでいたのか、ごまかすためにな。 後は注射器で何度か腕をぶすぶすやった。 アリバイ工作だよ」
「運び屋さんは何か言いませんでしたか?」
さあと、ゲラゲラ笑う犯人。
まあ、おかしな人ばかり運んでいるプロなのだろう。
暴れでもしない限り、仕事はする、と言う事か。
そして箱根で降りた後、少数のクスリを入れた。
だが、それが失敗だった。
ナイフを落としてしまったのだ。
結局の所、この時点で、犯人は偽装工作をする頭は残ってはいても。それはそれとして、もう脳がおかしくなってしまっていたのだろう。
薬物依存症は、フラッシュバックも強烈だと聞いている。
無理矢理偽装工作をしようとしたことで。
脳に猛烈な負荷を受けてしまっていたのだろう。
そして二日。
見張りをしている内に、宮藤を見つけ。
そして後は知っている通り、だそうだ。暗殺には失敗。ナイフも毒物もなかったのだから。
溜息が漏れた。
録音分を、全て宮藤に回す。
一応、これで全てのつじつまが合う。
だが、何だかおかしい。
嘘はつけないようにはした。
だが、まだ何か隠しているのでは無いのか。
特に気になるのが。
宮藤をあっさり特定したことである。
警察でも、ある程度の人員公開はしているが、宮藤の所属とか顔写真とか、本当に公開しているのか。
兄の時に、宮藤の顔を見た、と言うのなら分かる。
それはまだ可能性がある。
しかしながら、どうもおかしな事がまだあるのだ。
すぐに宮藤に連絡。
疲れが酷く、意識を失いそうだ。
何しろ特級の大嘘つきと大まじめに話して、其奴から正しい情報をしっかり引っ張り出したのだから。
だがそれでもまだ嘘が混じっている。
ひょっとしてだが。
犯人は、昔から。
上手に隠せるレベルの、虚言癖の持ち主だったのではあるまいか。
そうなってくると、今までの調査が全て無駄になってくる。
催眠解除のプロまで騙すほどの虚言癖。
正直な話、尋常な相手じゃない。
一種の異能の域にまで到達しているだろう。
或いはだが。
兄が捕まって怖くなって逃げた、というのも。
今までにやってきた事がばれるのを怖れた、という面があったのではあるまいか。
大きくため息をつくと。
宮藤に連絡する。
宮藤は、合成音声からさえ聞き取れる疲れを感じ取ったのか、すぐに言った。
「無理はしなくて良いからね。 情報を送って。 それだけでいい」
「……」
「佐川ちゃんが解析するから。 後はゆっくりして」
応える気力もない。
すぐにデータを送る。データが専用のVLANで送られていくが。それも見ていて、とても疲れる。
呼吸を整えながら思う。
まだ犯人は隠し玉を残している可能性がある。
それを、宮藤に伝えなければならない。
だが、もう気力が限界だ。
意識が落ちた。
何かが同時に落ちた気がしたが。
何が落ちたかまでは、分からなかった。
3、戦慄
佐川による分析結果を受けて、宮藤は苦虫を噛み潰していた。
なるほど、これは高梨が疲弊するのも分かる。
今までの情報が、あらかた全てひっくり返るレベルだ。
公安の介入がどうのこうのという所までいっていたのに。
とりあえず必要なのは。
薬物の精製工場を抑えるところから、だろうか。
捜査一課に情報を展開。
十分ほどで、二郎が連絡を掛けて来た。
「宮藤、これは本当か」
「情報の精度が上がって、分かってきたと言うことですよ。 我々みんな、騙されていた見たいですね」
「……此処までの嘘つきは初めて見た」
「自分もです。 虚言癖の人間は幾らでも見て来ましたが、相手にそれを悟らせない人間は初めてです。 此奴、詐欺師としての才能がありますよ。 今捕まえることが出来て本当に良かったのでしょうね」
二郎が、すぐに対応してくれる。
港町の工場は即座に抑えられた。
確かに薬物が作られ、販売されていて。
成分が、犯人の体内から発見されたものと完全一致したという。
小規模ながら通販もしており。
その通販の網も、即座に警察で調べ始めたらしい
ただそれほど大規模では無いシンジケートだし。
現時点の調査では、資金で犯罪組織も関わっていない。
昔は、クスリを使ったしのぎと言えば犯罪組織の定番だったのだが。近年はこういう個人規模、超小規模での犯罪ネットワークが存在していて。
犯罪組織が昔ほど鼻が利かないこともあり。
却って厄介な存在として、警察を悩ませているのだった。
犯人はまだ重症。
喋れる状態ではない。
宮藤も捜査一課に顔を出すことに決めると、石川と佐川にこの場を任せようとしたが、佐川に反対された。
「もう少し待った方がいいにゃー」
「どういうことだい?」
「多分だけれども、まだ犯人には隠してることがあると思う」
「……聞かせてごらん」
頷くと、佐川は説明してくれる。
高梨が消耗しながら聞き出した情報は、恐らく全体の一部に過ぎないと思われるというのだ。
犯人はまだ隠し玉を持っている可能性が高い。
催眠誘導のプロに嘘を掴ませるような人間である。
高梨が起きだしてから、もう少し聞くべき事がある、というのだった。
「具体的には何を?」
宮藤を指さす佐川。
それで気付いた。
確かに、どうやって宮藤の所在を犯人が掴んだのか。ホームレス仲間のスマホから調べたと聞いているが。
奴の足取りを追っている捜査一課から、該当するホームレスを探し出し。スマホから検索情報の履歴でも見つからない限り、信用できないだろう。
嘘をつけないように高梨がしていたとしても。
何かしら、叙述トリックを混ぜているかも知れない。
そういうレベルの相手だ。
そう佐川は言うのだった。
「そもそも、交通課の人員公開ってしているんですか?」
「いや、聞いた事がないな」
「……やっぱり何かあるんじゃないですかこれ」
「可能性は確かにある」
そういえば、宮藤が高梨と話したとき、気絶寸前だった。
まだ言いたいことがあったのかも知れない。
ため息をつくと、休憩所に出向く。
周囲はまだ警戒が解けていない。
実際問題、虚言まみれで何が正しいのかさえも分からない状態なのである。この状況、何が起きてもおかしくない。
捜査一課も右往左往だろう。
たった一人のヤク中が。
これだけの人数を振り回しているというのも。
ある意味滑稽というか。
狂気的な光景ではある。
江戸の末期。
集団ヒステリーで、ええじゃないかというのが流行ったと聞いている。
皆でええじゃないかと叫びながら踊り狂った狂騒として知られているが。今回の事件は、それを人為的に起こしているようにさえ思える。
世の中には、狂った能力の持ち主がいるものだな。
そう思って、心底からタバコがほしいと、宮藤は思うのだった。
数時間後、高梨から連絡が来る。
一眠りして、出勤した後だ。高梨の声にはまだ疲労の声が色濃く、宮藤は少し心配になった。
「大丈夫かい? 今キミに倒れられると困るんだ。 無理は駄目だよ」
「ありがとうございます。 宮藤さんに伝えておいた方が良いと思った事が」
「なんだい?」
「まだ犯人は嘘を隠しています。 これから更に尋問をしてみますが、特に宮藤さんの居場所を特定した辺りが怪しいです」
流石だな。
イマジナリーフレンドを作り出している本人だけのことはある。
そしてそれを察知した佐川。IQ250の怪物も流石だ。
「大丈夫。 おっちゃんの居所を探し出した辺りについては、佐川ちゃんが嘘だって見破ってくれたよ」
「良かった。 頼りになります」
「もう少し眠っておきなさい。 此方である程度調べて、追加で出来れば情報は送っておくからね」
「……」
高梨は休ませる。
そして宮藤は、石川と佐川に伝言を残しておいた。
高梨が連絡してきたら、佐川が受けるように、と。
後、宮藤のPCも使えるように佐川に明け渡しておく。
データのやりとりは、石川が使ったVLANを使って行うのだが。セキュリティ的に、宮藤のPCからでないと出来ないのだ。
頷く二人に、先に菓子を多めに渡しておいて、言い聞かせる。
「いいかい、二人とも此処から出ないように。 おっちゃんは捜査一課行ってくるからね」
「必要なくないですか?」
石川が言うが。
首を横に振る。
今回の件、安っぽい「悪の組織」何かでは無く、もっとタチが悪いものが絡んでいるように思えてならないのだ。
県警にまず出向く。
電車で揺られて。
県警に行くと、入り口で手帳を見せて、捜査一課に入れて貰う。捜査のためだという事で、事前に連絡はしたが。入るまで少し時間が掛かった。今はセキュリティがガチガチで、昔のように警察の中に簡単には入れなくなっている。
古巣だから多少気まずいが。
昔の自分のデスクには、違う刑事の名札があった。
落としの錦二こと、二郎がいる。
二郎が腰を上げたので、ああ大丈夫ですと言って、側まで歩く。
「どうした、わざわざ来て」
「どうもこの件おかしいのでね。 自分が動く事で、ちょっと何か起きないか確認しておこうと思っただけです」
「危険を冒しおって」
「自分なら大丈夫ですよ」
二人、ついてきていたはずだと話すと。
二郎は口をつぐんだ後。
二人に連絡を取る。
二人と少し話していたが、首を横に振った。
「何回か見失いかけたそうだ。 全くそれでも一課の精鋭か」
「意図的にそうやって何か変な事を考えている奴がいるなら仕掛けてくる隙を作ったんですよ」
「ああそうだろうよ。 お前さんはそういう奴だ。 それで成果はあったか」
「……いえ。 これからもう一度同じ事をします。 護衛は増やさないでください」
ため息をつく二郎。
恐らくだが。
犯人の裏に何かがいるとして。宮藤を狙っているなら、動く。何かしらの動きを見せてくる。
これは確定だ。
しばらくずっと外にも出てこなかった宮藤が、電車まで使って移動しているのである。
捜査一課から出る。
護衛にはそれなりの腕利きがついているはずだが、どうにも頼りない。最悪の場合は、自分で自分を守るしか無いか。
勿論スナイパーが伏せている可能性もある。
それを考慮して、動かなければならないだろう。
移動開始。
帰りも同じ経路で行く。これは敢えて隙を作るためだ。だから、どこから誰がどのようにして突っ込んでくるか分からない。
ナイフを持った相手を素手で制圧するのはほぼ不可能だ。
これは拳法の達人でも同じである。
だが、警察では対応策を幾つか教える。
焼け石に水程度、だが。
さて、どう出る。
電車を降りる。
人気がない場所で、敢えて護衛を撒く。その瞬間だった。
飛び出してきた人影がいる。手元にはナイフが閃いていた。
体ごと突っ込んでくる其奴。
勿論、避ける暇など無い。
どんと、強烈な衝撃が走り。
膝を叩き込んだ襲撃者は、地面で吐いていた。
更に蹴りを叩き込み。悶絶させる。
ナイフを引き抜く。
勿論無策のまま出てくるわけが無い。防刃防弾の機能があるチョッキを仕込んできている。
当たり前である。
すぐについてきていた護衛が、男を取り押さえる。
刃物には案の定。
毒が塗られていた。
また毒か。
さて、これで事態はどう動く。
今回の件、どうにもおかしいと思うのだが。これでその違和感が決定的になった。犯人は凄まじい技量の虚言癖だが。
協力者。
いや、利用している奴がいる。
それも、恐らくは。
警察の内部に関係できる立場にだ。
署に戻って、デスクにつく。
襲われた直後とは思えないかも知れないが。これでも宮藤はそれなりに緊張はしているのである。
これからしこたま報告書を書かなければならない。
更に言えば、捜査一課から、あの鉄砲玉についても確認しなければならないだろう。
恐らくあれは慌てて仕立てられた第二矢。動きからしてスジ者。
今の時代、スジ者は極めて肩身が狭い。同類を鉄砲玉に仕立てると言う事は、余程慌てていると言う事。
つまり最初の奴が本命だったはずだ。
報告書を仕上げていると。
高梨から連絡が来た。
進展があったな。
そう思いながら、連絡を受ける。
「宮藤警部補」
「どうしたね」
「犯人が興味深い事を言いました」
「分かった、此方で解析するから、佐川ちゃんに送って。 その様子だと、まだ疲れ取れてないでしょ」
図星らしい。
高梨を休ませて、通話を切る。
少し待ち、膨大なデータが来るのを待つ。データが来たら、共有フォルダに移し、佐川の方で確認して貰う。
佐川は会話を十倍速で聞いているらしく、それを超高速で理解した後、文章に起こし直し。それで色々対応しているらしい。
人間離れした作業だが。
まあIQ250のなせる技だ。
ダダダダダと凄い打鍵音が聞こえる。
結構重要な事を犯人が吐いたらしいなと、結果を待つ。
やがて、佐川が無言で頷く。
宮藤の方でも、結果を確認。なるほど。これは厄介なわけだ。
捜査一課に情報共有。
さっき襲われたばかりだが。
そんな事は関係無い。
多分だが、今回はかなり面倒な事になる。
すぐに二郎が出た。さっき襲われた事については後回しだ。それよりも、重要な事がある。
「やはり警察の情報が流出していますね。 それも警察内部からです」
「それは分かったが、どうやってそれを……」
「分かりましたよ犯人」
「何……!」
周囲を見回した後、小声で伝える。
しばし黙り込んだ二郎だが。ぐうの音も出ない結論だ。
何も言えないだろう。
悔しそうに口をつぐんでいたが。
大きく、大きくため息をついた。
「確かにそれ以外に考えられないな」
「すぐに動いてください」
「ああ、分かっている」
電話が乱暴に切られる。
これは仕方が無い。
二郎としても、非常に悔しい結果だろうからだ。
すぐに捜査一課に資料を送って貰う。
こう言うとき、高IQ持ちの佐川がいるのはとても有り難い。とても分かりやすく資料をまとめてくれる。石川も手伝ってくれるので、兎に角レポートの仕上がりが早い。後はそれを元に、捜査一課が動くだけである。
これ以上は、出来る事はない。
一応、県庁から医師が来た。
さっき襲われた事で何か何か、応急で診断をするらしい。
この医者の身分も確認する。
襲撃を受けたばかりという事もある。
石川がぐっと親指を立てた。どうやら身分を確認してくれたらしい。後ろで凄まじい打鍵音が響き続けていて、医者は目を見張ったようだが。まあそれは、佐川に任せてしまう。
幾つかの診察を受ける。
傷も受けていないし打撲もない。
「普通刃物を持った犯人に襲われると無事では済まないんですが、良く助かりましたね」
「運が良かっただけですよ。 後はチョッキのおかげですね」
「……とにかく無茶はしないでください」
「わかっとります」
脈拍なども取られて。
やはり、年を取っているだけあって、それなりに血液の内容とかで色々出た。
生活習慣の改善をするようにと言われたが。
煙草を禁止されているだけで結構きついのに。
これ以上アレも駄目これも駄目をされると、精神に来るかも知れない。
まあその辺りは、もう仕方が無い。
年老いたのだと考えて、諦めるしかないのだろう。
石川と佐川の所に戻ると、丁度捜査一課に資料を送ったところだった。ダブルチェックをしたかというと、したと応えてくれる。
それにしても、凄まじい打鍵音で。
当然キーボードの消耗も早い。
確か隔月に一回くらいのペースで、決して安くないキーボードを買い換えているはずで。その辺りも警察で問題視されているようだが。しかしながら、既に五十を超える難事件を解決する決定打を作った部署だ。
対費用効果は充分過ぎる程で。
文句も宮藤で抑えなければならないだろう。
「二人ともお疲れちゃん。 少し休んでおいで」
「ふあーい……」
「佐川ちゃん、こっち」
「……」
佐川は猫を被る余裕も無いようで、石川に連れられて風呂に行く。仲が良い姉妹のように見えるが。
プライベートでは殆ど対等に振る舞っている様子だ。
この辺りは、年齢の垣根が問題にならないような仲。忘年の交わりと言う奴なのだろう。
年齢差の交流で苦労し続けただろう天才児、佐川に石川が気を遣っているのかも知れない。
石川も幼い頃から大人に混じって物理エンジンを組んだりしていたとか言う話だから。ある程度年齢差のある交流に抵抗が無いのかも知れないが。
いずれにしても、良い関係の二人だ。
後は高梨も、いずれ実際に会って話したいのだが。
向こうは向こうで、大変なようだから。
それこそ、簡単にはいかないだろう。
性別も分からない高梨や。
娘同然の年齢の石川や佐川を守り抜くこと。
それが、年長者としての宮藤の役割。
今回の件だって、襲われたのが石川や佐川、高梨だったら、万が一にも助かる事などなかっただろう。
そう考えると。
最低でも、盾としての役割は、絶対に果たさなければならなかった。
不意に部署が忙しくなる。
どうやら大捕物。
本庁での鼠退治が始まったとみた。
此方から出来る事はないが、それでも騒ぎはどうしても起きるだろう。
一瞬だけ、交通課の面子が通知を見て硬直したが。
すぐに作業に戻る。
交通課に来ている一般外来が不思議そうに小首をかしげていたが。
SNSに情報が流通するのは、恐らく明日以降になるだろう。
まあそれもそうだ。
恐らくだが、警察の体勢が大規模再編成を掛けてから、初の超特大不祥事である。キャリアはこれでますます立つ瀬がなくなるだろう。
本来厳しい国家一種を通ってきて、国の未来を背負うことを嘱望されたエリートだ。その知能だって本当だったらある筈だ。
それなのにこの国のキャリアは、昇進試験にうつつを抜かし、学閥で権力を独占し、挙げ句事件を己の出世するための道具ぐらいにしか考えていなかった。
だから此処まで腐りきった。
宮藤のスマホにも通知が来る。
二郎からだった。
逮捕した。
それだけが、記載されていた。
逮捕されたのは、隣の県庁の捜査一課の課長、犬山健一郎警視。
幾つかの証拠が押さえられた結果、蒼白になっている警視の周囲を、既に捜査一課の刑事達。
要するに彼の部下達が囲んでいた。
二郎が率先して口を開く。
皆、今までの上司に対して、いきなり強く出るのは難しいだろうし。
キャリアで二十代にて捜査一課の課長になっている相手に対して、良い感情があるわけもない。
勿論将来のために経験を積もうと、捜査一課のヒラとして来るキャリアもいるにはいるが。
そういう連中は学閥から外れていたり。
或いは「上昇志向がない」として、周囲のキャリアから笑われる連中である。
反吐が出るほど醜悪な世界だが。
これがこの国の警察で。
それも嘆かわしいことに。
余所の国の警察に比べれば、まだまだ全然マシなのである。
「犬山警視、殺人教唆、機密漏洩、二つの容疑で貴方を逮捕します。 此方がその証拠となります」
「ふ、ふざけ……」
「確保」
左右の若い刑事が、今まで無能な指揮を良くもと言わんばかりの表情で掴みかかると、瞬時に犬山を制圧。
手錠を掛けていた。
このために、少し前から動いていたのである。
後は宮藤班が決定的証拠を挙げてくるのを待つだけだった。
それにしても稚拙な話である。
犬山は、コネのあるマル暴の警官から、犯罪組織に対してアクセスし、取引をした。
取引の内容は簡単。
宮藤班のリーダーで要である宮藤を消す事。
とはいっても、今の時代海外の犯罪組織は国内に殆ど入ってこられないし。ヤクザは昔日とは比較にならない程弱体化している。
テレビ業界やクスリなどのシノギが徹底的に削られた結果である。
大陸の方でも、派遣労働が常態化した結果、暗殺組織が下請けを雇い続け、結果としてド素人が暗殺に向かってあっさり逮捕されるというコントのような事件が実際に起きたことがあるが。
この国でも、犯罪組織がゴミクズのように弱体化した結果。
今回のような事が起きたのである。
昔の任侠映画なんかで美化されたヤクザ何ぞ平成になった頃にはとっくに絶滅していたが。
この年で、まさかマル暴経由でヤクザに関わって。
暗殺を依頼するキャリアなんて馬鹿を逮捕することになるとは思わなかった。
ちなみに証拠だが、宮藤班から上がって来たルートを辿って、パケットを解析。警察署から飛び交っている膨大なパケットを解読した結果。モロに犬山から出されている指示が見つかった。
犬山のスマホは特殊仕様で、重度の暗号化がされているのだが。
それはそれ。
今の警察は電子戦にも力を入れている。昔のように、全てのパケットを手探りで調べて、億単位のパケットの中から犯人の痕跡を探すとか、馬鹿な事をしなくても済むようになっている。
証拠に対して、真っ青になって震えている犬山を引きずり起こすと、見苦しい悲鳴を上げる。
他の県庁の捜査一課には、まともなキャリアや、或いはたたき上げがいたりするのだが。
此処は違った。
そういう事だ。
ため息をつくと、頭を下げる他の捜査一課刑事と一緒に、取調室に。隣の県庁まで出向くことになったのは難儀だったが。
実は犯人が此奴である事も、幾つか証拠が挙がっていた。
ガバガバセキュリティ以外にも、幾つも細かい証拠がある。
特に宮藤を殺そうと焦って、二人目を雇ったときに完全に襤褸が出た。
一つだけ、新しく設置された監視カメラに、どなりちらす犬山の姿が映っていたのだ。声までは取れていなかったが、それについては監視カメラの画像を解析し、口の動きから発している言葉を解析。
なんとヤクザに対して直接指示を出していた。
宮藤班が確実に真相に迫っていることは、捜査一課同士の情報のやりとりで掴んでいたのだろう。
此奴は慌てに慌てていた、という事である。
尋問の人間が来る。
敬礼をかわした。
「落としの錦二さんですね」
「過分な渾名をいただいております」
「いえ、貴方の実績からすれば当然でしょう。 後はお任せください。 これだけの証拠があれば立件できます。 最近はキャリア同士のかばい合いも出来なくなっている。 学閥も介入できないでしょう」
一世代若い警官がそう言うと、本当に助かったと頭を下げられる。
大した事はしていないのでむずがゆい。
「礼なら宮藤班にお願いします」
「例の特殊部署ですね。 プロファイリングのスペシャリストチームだとか」
「詳しくは我々も知らんのですが、まとめている宮藤によるとIQ250の天才が所属しているとか」
「それはすごい」
軽く雑談をするが。
これは聞いている犬山に恐怖を感じさせるためだ。最強のプロファイリングチームが解析した結果。多数の証拠。もう逃げられない。
後は自殺しないように監視しながら。他のキャリアの介入も防ぎながら、裁判所に放り込むまで。
自白は最悪しなくても良い。
証拠はがっちりそろっているのだから。
どの道、弁護士がついてもつかなくても此奴は終わりだ。
ヤクザとの癒着。
暗殺依頼。当然千万単位の金が動いているだろう。それも、これからどう動いたか吐かせれば良い。
ついでに機密情報の漏洩。
以上が重なれば、まあ終身刑である。
特に暗殺依頼は二回も行っており、その内一回はヤク中の人間を用いるという極めて悪辣なものである。
どうしようもない。
詰んでいる、という事を悟らせれば。
少しは舌も滑らかになるだろう。
それを軽く敢えて聞こえるように話すと。
その場を後にする。
どうやら舌を噛むのを防ぐために猿ぐつわを噛まされたらしく、絶望混じりの凄まじい唸り声が聞こえた。
あれが警官か。
本当に同類として情けない。
帽子を下げると、困惑している若い警官達と一緒に、県警に戻る。
後は、此処の県警の仕事。
昔だったら同じ学閥にいる上位のキャリアが介入してきたりして、事件をもみ消されたりしたかも知れないが。
今はそんな事は出来ないように厳しい監視作用が働いている。
それに今回の事件は、解決の過程で国内に残っているドラッグ工場の摘発にも成功し。そのネットワークも潰せている。
充分過ぎる成果だと言えるだろう。
県庁に戻ると、課長が青ざめていた。
「どうだったかね」
「恥知らずは豚箱行きになるでしょう。 それも永遠に出てくる事はかなわないかと思います」
「そうか……」
此処の課長は少しはマシだが。
まだ各地の県庁には、ああいうのがいるだろう。
キャリアというと穀潰しの代名詞になっているが。
いつからこの国のキャリアはこうなってしまったのか。昭和には、既にその無能さは語りぐさになっていたが。
本来は、厳しい選抜試験をくぐり抜けているはずなのに。
後始末が残っている。
膨大な裁判用資料をまとめなければならない。
これも宮藤班が大半の処理をしてくれているので、後はもみ消されないように送るだけである。
なお、犬山の動機だが。
非常にくだらないものだった。
以前、宮藤班が犬山が迷宮入りさせてしまっていた事件を、たった二日で解決してしまった事があったのだ。
それも二回。
それを逆恨みしていたのである。
人間として器が小さすぎるという話以前に。
自分が警官として無能であるという事を理解さえしておらず。
それを恥じる事さえないと言う、警官としての素質に決定的に欠ける行動が、この事件の全容だった。
溜息が出る。
粛々と後始末に掛かる。
明日には報道官が、SNSに今回の事件について、発表する事だろう。
無能なキャリアには、国民もうんざりしている。
さぞや燃えるだろうな。
そう二郎は、情けないと思いながら考えていた。
4、真相の更に裏
高梨は、最初に宮藤を襲った犯人が思い出したことを告げられた。
それが今回の事件解決につながった。
ホームレス達が働くこの世の最果てで。
クスリをやって、朦朧としている意識の時に。
話しかけられたのだという。
お前、彼奴の弟だろ、と。
それで興味を持った。
相手は、醜い女だった。
太っていて、二人の男を連れていた。
考えてみれば。
それが、クスリを入れられた妄想の原典だったのだろう。モデルは実在していた、と言う事だ。
ヤクザの関係者らしいなと犯人は悟ったが。
もう此方に失うものは何一つない。
だから、そのまま聞いていた。
お前、ダークヒーローになりたくないか。
そうも言われたという。
ダークヒーロー。
面白そうだ。
興味を持って、笑みを浮かべると。
ぐわんぐわんと揺れ。
歪むの世界の中で、女は聞かれてもいないのに、ベラベラ喋り始めたと言う。男二人は周囲を伺っていて。
誰かが介入してこないように、見張っているようだったとか。
その女の話によると。
犯人の逮捕劇がおかしいという。
生半可なプロファイルチームに出来ることでは無いと。
何かが絡んでいる。
その何かが暴れると、こっちとしてもまずい。
後ろ暗い商売はしているが、こっちも生きるのに必死なんだ。警察なら対応出来るが、バケモノが相手ではどうにもならない。何とかバケモノの所在は掴めたが、此方はガチガチにマークされていて動けない。
だから、お前をダークヒーローにしてやる。
警察が飼っている化け物達を指揮している男がいる。其奴を教えてやるから、殺せ。成功したら金をやる。
やり方は、任せる。
そう言われた。
そもそもどうやって此処を嗅ぎつけたと聞くと。
女は笑ったという。
クスリのネットワークは、今でも我々の手の中にある。分散はさせているが、利益の一部は上納させている。
だから情報だって入る。
顧客はみんな知っている。
規模が小さい分、把握はしやすいのだ、と。
それだけ言って、犯人の意識はふつりと切れてしまった。
その時点で、高梨にはこの事件の全容が掴めていた。
後は宮藤に話して終わりである。
高梨はため息をつく。
今回も疲れる事件だった。
身勝手極まりない動機の連続。
警察のお偉いさんには、宮藤班が業績を上げるのが気にくわないのがいる。
ヤクザの中には、検挙されるのが怖いのがいる。
利害が一致した。
そして昔ほど、警察内でキャリアの権限は絶大では無い。ヤクザも犯罪慣れしていない。だから、今回のようなトンチキな事件が起きた。
大陸の犯罪組織が好き勝手に入り込んでいた時代や。
キャリアが腐りきっていて、警察内で絶大な権力を握っていた頃だったら、多分これはこんなに簡単には終わらなかっただろう。
公安案件になった可能性も高い。
いずれにしても、高梨は出来る事を全てやった。
これで終わりだ。
宮藤から連絡が来る。
此方を心配しているようだった。
二回も襲われたというのに。
「高梨ちゃん、体の様子はどうだい?」
「どうにか大丈夫です。 宮藤さんは」
「おいちゃんはこの程度へっちゃらよ。 西部警察……言っても分からないか。 昔の刑事ドラマみたいに、マシンガンもった相手と銃撃戦なんて事は流石にしないけれど、それでも伊達に修羅場はくぐっていないからね」
宮藤はタフな男だ。
実戦経験もあるし、体の鍛え方も違う。
襲撃した犯人は気の毒だっただろう。
まあ、不幸になったのは悪党だけ。
今回は良しとするべきなのかも知れないが。
それでも、警察内部に悪党が巣くっていたことは大問題だろう。
昔に比べて、ぐっと警察の風通しは良くなったと聞いている。
だが、それでも完璧な組織なんてのは存在しない。
精鋭を集めたらしい捜査一課にも問題を起こす人はいる。
世界から犯罪が消えないように。
それが事実なのだろう。
「一つ、知らせておきたいことがあってね」
「なんでしょう」
「どうやら犯人においちゃんを襲うように命じたヤクザね、殺されて見つかったみたいなんだわ。 風体とか全部高梨ちゃんが言ったとおりの三人のうち二人。 若頭……まあ結構偉い方の人間なんだけれど、蜥蜴の尻尾切りで見事に。 男二人田舎の港で土左衛門になっていたようだよ」
「そうなると、もっと上が絡んでいたと言う事でしょうか」
少し躊躇った後、宮藤は言う。
恐らく、高梨を巻き込みたくないのだろう。
明確な危険案件だからだ。
「可能性はあるね。 或いは、高梨ちゃんに探して貰うかも知れない」
「大丈夫ですよ。 僕はもう人間ですらない身です」
「そんな事、いうもんじゃない……」
「僕がどんな体になっているかはもう聞いているでしょう? 世間一般では、そんな体になっている者を人間と呼んだりしないそうですよ」
宮藤が黙り込む。
明確な怒りと、それ以上の哀しみを感じた。
高梨に向けられているのは哀しみ。
怒りは、誰に向けられているのだろう。
高梨の母だろうか。
母に体を滅茶苦茶にされたことは、聞いているのだろうから。
いや、それさえも機密かも知れないが。
「とにかく、今は休んでね。 おいちゃんはこれから健康診断の結果に沿って、色々健康になるように何かメニューだとかを受けなければならないからね」
「お大事に」
「……」
通話を切る。
更に上の犯罪者か。
警察の中にいるのだろうか。
それとも。
いずれにしても、ヤク中になったあの犯人は、十年だかは警察から出られないだろうし。それにあれだけ狡猾な犯人だ。
今の時代、再犯の可能性が高い犯人を安易に刑務所から出す事は無い。
徹底的に様々なチェックをしてから、やっと釈放となる。
懲役10年というと、昔は2年3年で出られたそうだが。
今は最低でも10年は出られないと言う事が確定するという意味になっている。恩赦だの模範囚だのという制度が悪用された結果である。
また、刑務所でも、犯罪者同士の接触は殆ど出来ないようになっている。
これは非人道的だという声が上がっているらしいが。
実際には、刑務所での人道を配慮した結果、それを悪用した者が多く出たからこうなっているのだ。
ぼんやりと、休む。
ここしばらく無理をしたから、体力を戻すのが大変だろう。
だが、どうにかしなければならない。
生活するためにも。
誰が自分を見いだしたのかは分からないが。
石川も佐川も、宮藤も嫌いじゃない。
この仕事は。
続けていきたかった。
(続)
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