怪異ここにあり
序、覚醒
途中からは、声も聞こえていた。
牧島が神棚にしまってくれたらしいこと。色々と手を尽くして、邪気を払うべく長い時間を掛けて術式を使ってくれたこと。
もうあかねがいない事。
そして、世界が大きく変わったこと。
それらの全ては、途中から聞こえていた。毎朝牧島が、神棚を掃除しながら、教えてくれたからである。
怪異は、死ぬ。
しかし、場合によっては仮死状態のまま、数十年を経てよみがえる場合も多い。
本当は、私は。あかねに力を全部くれてやって、その寿命を延ばしてやりたかった。色々な事を知った末に。こういう路を選ばなければならなくなった。
死ぬのも、ありだったかもしれない。
だけれど、最後に見届けたくなったのだ。
ちゃんと、私のデータが、役立ったのかを。
牧島が、私を持ち上げたのがわかった。おそらく、復活が近いと判断したのだろう。運ばれて行く。
「金毛警部補。 今から、復活させてあげます」
牧島の声は若いまま。
どういうことなのだろう。
対怪異部署にいたとしても、既に五十前の筈だ。いくら何でも、若々しいはずがないのだけれど。
しかし牧島の声は。
私に話しかけてくる彼女の声は。ずっと変わらず若いまま。
女性は声をコントロール出来るけれど。それにしても、少しおかしいと、私は感じていた。
私はどうせ、その内復活するけれど。
多分、復活のタイミングをコントロールしようと考えたのだろう。
まあ、職場にいきなりすっぽんぽんの私が出てきても問題があるし、その判断は間違っていない。
今更見られて恥ずかしいものなんてないけれど。
「きっと、驚かれますよ。 世界は、すごく変わりましたから」
牧島の声は優しい。
程なく、儀式が始まったらしい。
魔法陣に置かれた私の石に、周囲から強力な術式による干渉が行われているのがわかる。三十年経っても、術式は健在。それに、牧島の非常に強力な術の力も、びりびりと感じ取れる。
これも、おかしい。
五十前となると、どうしても霊的な能力には衰えも来る。
牧島の力は衰えるどころか、更に強くなっているようにさえ感じる。ひょっとして強化怪異になったのか。
いや、違う。
怪異としての力は、感じ取れないからだ。
力が、集まってくる。
私は、少しずつ。
元の人型に戻っていく。
その過程で、少しずつ五感も戻っていった。
ブラックボックス部分は、封印を再実施。普通だったら無理だったのだけれど。数十年がかりで、じっくり押さえ込むことに成功。
どうにか上手く行った。
私は、強化怪異になっていない。
良かったと、心の底から安堵してしまう。多分私の場合、強化怪異になっていたら、見境無く殺戮と暴力を振りまく、怪物になっていたのだろうから。
徐々に、視界がはっきりしてくる。
何十年ぶりかに、目を使うのだ。
しばらくはぼんやりしているのも当然。
ただ、始めて使うわけでは無いから。上下が反転しているようなことはなく。ちかちかするだけで、調整に手間取っているだけだった。
しばらくして、周囲が見えてきた。
どうも地下空間らしい。
周囲の床はコンクリでは無く、多分木製。其処に布が敷かれ、その上に呪術で使う高級な紙が引かれている。
紙に書かれているのは、陰陽道での方陣。
天井はかなり遠い。
此処は、対怪異部署の地下では無い。
彼処に、こんな広い空間はなかった。
コートを掛けられる。
それで、気付いた。
自分が、少し小さくなっている。というか、若返っていると言うべきなのだろうか。
妙だ。
私は二十代そこそこの肉体年齢で、1000年安定していた。
どうして今更に、若返るのか。
まあ、封印されて元に戻ったのは、初めての経験だ。何かしらの不具合が生じても、不思議では無いだろう。
顔を上げて、驚く。
優しい笑みを浮かべているのは、牧島。
老けていないのだ。
あの時のままの牧島である。
警官の制服では無い。神職が着る千早をしっかり着こなしている。まあ、少しは大人っぽくなっているけれど。
それにしても、五十手前の人間とは、とても思えない。
「お前、牧島……だよな」
「はい。 牧島奈々です」
「どういうことだ。 あれから三十年経ったはずだが」
「それも、これから説明します」
牧島の笑顔は、相変わらず優しい。
ただ、前のような子供っぽさが、笑顔からは消えている。造作は同じなのに、表情が違うと、人間はこうも雰囲気が違うのか。
着替えを貰ったので、いそいそと着る。
下着が、私には少し大きい。
いや、私だって、自分の下着のサイズくらい覚えている。やはり私が、少し縮んだとみるべきだろう。
鏡を貰って、覗き込んで、愕然。
十代後半くらいにまで若返っている。
これも、封印の結果か。
頭を掻いて、嘆く。
だが、驚くのは、実際には此処からだった。
どうやら此処は地上らしい。封印解除を行った部屋から出ると、光が差し込んでくる窓。外には、穏やかな木々の連なる光景。鳥も群れている。
陽光はあくまで穏やかで。
人類が滅びたようには見えない。
上手く行ったのだろうか。
別室に案内される。
慣れた手つきで、牧島が紅茶を入れてくれた。
「自分の手で、紅茶を淹れるのは久しぶりです」
「当代随一の才能を持っていたお前だ。 対怪異部署の長にももう収まっているんだろう?」
「対怪異部署は、部下に任せました。 今は警視庁を統括しています」
「ほう……」
なるほど、そうなると。今の牧島は、警視総監か。
見かけの割りには雰囲気が落ち着いていると思ったが。
紅茶を口に運ぶ。
ちゃんと出来ている。
「さて、どうなっているのか、聞かせてくれるか」
流石に、もうあかねが生きているとは、私も思っていない。私の力を分け与えれば、寿命を延ばすことも可能だったろうけれど。
そうなってしまうと、また繰り返しの輪廻に、あかねを突き落とすことになってしまう。
泣く泣く、見捨てるしかなかった。
あかねは、私を恨んでいるだろうか。
「まず、これを見てください」
牧島が机上に指を走らせると。
立体映像が浮かび上がる。
まあ、三十年後なのだ。これくらい技術が進歩していても、不思議では無いだろう。
浮かび上がった映像は、摩天楼でもなければ、古びた田舎町でもない。ほどほどに落ち着いた印象を受ける、ビル街だ。
「これは」
「統一政府の首都です。 現在地球は統一政府によって管理されていて、人口は三十億で安定しています」
「統一政府はいいが、三十億!?」
三十年前の半分以下だ。
あれだけ人口爆発が起きていたのに。一体何があったというのか。それに、地球統一政府の首都なのに、どうしてこのような些細な規模なのか。
牧島が、順番に説明してくれる。
ここ三十年が、どれだけ激動の時代だったか、を。
「金毛警部補を私が封印してから、五年後。 あかねさんが亡くなりました。 その際に、幾つかの事を遺してくれました。 それが、完璧に近いアンチエイジング技術と、子供の数をコントロールする技術です。 金毛警部補。 貴方の解析結果から、造り出した技術ですよ」
「ふむ……」
ヒカリが私を解析していたことを思い出す。
そのデータから、そんな事が出来るようになったのか。
ただ、それは危険な技術だとも思う。
あまりにも、悪用が容易いからだ。
頷く牧島。
恐らくは、その通りだと言うのだろう。
「その技術は、国立の研究所で解析が始まり、実用化に向けて動き出しました。 同時に、世界中で怪死事件が相次ぐようになりました」
「怪死事件、だと」
「はい。 あかねさんは、死こそすれ、消滅はしていなかったんです。 この技術を悪用する人間を族滅する存在として、概念になったんです」
なるほど、それはつまり。
己を、凶悪極まりない呪いそのものと化した、というわけか。
ネット上で、噂が流された。
今研究されている完全アンチエイジングと、人口抑制技術を、私利私欲で用いようとする人間は、呪いによって族滅すると。
最初は笑い飛ばされていたけれど。
大手の軍事企業が、一夜にして幹部全てを失い。
ある独裁国家の諜報組織が、一晩で家族ごと根こそぎ原因不明の怪死を遂げると、噂は笑い話では無くなった。
決定的だったのは、ある大国が、軍事力を盾に研究の開示を要求した事件である。
声明を読み上げていたキャスターの頭が、その場で破裂したのだ。
それどころか、その国の国家元首と主要幹部が、同じようにして全員同時刻に即死したのである。
勿論、家族もろとも。
これにより、恐怖とともに、噂は真実として語られるようになった。
研究は、あかねの意を受けた研究者達によって、黙々と進められ。それからも時々、技術を悪用しようとする人間が一族もろとも即死する事件が起きる以外は、淡々と事態が進んでいった。
そして、十年で。
研究は完成した。
「……」
考え込んでしまう。
あかねの奴。まさか、其処までするとは。
結局の所、あかねにはとても危険な精神的側面があった、ということで間違いなかったのだろう。
繰り返していた方のあかねも、思い詰めた末にあのような凶行に出た。
此方のあかねも。
結局真面目さが高じて、このような結果に陥った。
何だか悲しいなと、思う。
続きを促すと。
牧島は頷いて、話し始める。
「実用化された研究は、ネットを通じて全世界に開示されました。 それはさらなる混乱を招きました」
「そう、だろうな」
「研究成果は見事で、どんな貧乏な人でも即座に実施できるものとなっていました。 金目当てで悪用することは出来なくなりましたが。 軍事利用しようとしたりする人間は、いくらでも出て。 その度に、全員が死にました」
多い日は、一日に五万以上が。
一族もろとも、頭を吹き飛ばされて死んだという。
思わず戦慄する。
あかねは苛烈な奴だったけれど。おそらく、これは想定の範囲内だったのだろう。人類を一切信用していないから、このような手に出た、というわけだ。技術を悪用させない。というか、悪用した時点で死ぬようにする。
「世界中で完全アンチエイジング技術が浸透。 現在、最年長の人間は、百二十五歳ですが、それでも若々しく、健康そのものです。 発展途上国での人口爆発も、既に停止しています。 人類は、老いと人口爆発と資源の乱開発を克服しました。 その代わり、下手なことをすればいつ頭が爆発してもおかしくない恐怖にも包まれていますが」
「あかねの奴、無茶をする」
「……」
牧島が寂しそうに笑った。
何でも牧島の話によると、様々な国家や軍事企業が、呪いを払うために専門家を多数雇いもしたという。
その全員が、返り討ちにあったということだ。
まあ、当時でも世界最強ランクの使い手だったあかねだ。それが渾身の力を込めて、己を呪いの塊にしたのである。
生半可な存在では、相手をすることさえ出来ないだろう。
紅茶を飲み終えたので、一緒に外に出る。
少し肌寒い。
ハイエースが準備されていたので、嬉しい。一緒に乗り込む。運転は牧島がするという事なので、任せた。
街に出る。
三十年後だが。車が空を飛んでいるようなことはない。
ただ電車は高架化して、リニアモーターカーに置き換わっているようだが。
車の騒音も、驚くほど静かだ。
また地面も、アスファルトでは無くて、何か別の物質に置き換わっているらしい。
昔の近未来ものに見られたような、異様なファッションの人々はそれほど見かけない。ただ、やはり服装の傾向は、三十年前とは大分違う。
昔の日本では、外国人を見かけることは希だったけれど。
見た感じ、かなりの数の外国人が、溶け込んでいるように見えた。
「統一政府の首相に、これから紹介します」
「そうか、お前日本の警視総監でなくて、世界政府の警視総監なんだな」
「はい。 出世しましたから」
「見事なものだな」
思わず、二度見してしまったのは、外。
怪異が、人に紛れて、平然と歩いている。しかも、周囲の人間も、それに気付いた上で、特に何もしていない。
「驚きましたか」
「ああ。 怪異と人間の共存が、実現したのか」
「まだ正確には、完全に同権という所までは行っていません。 しかし怪異化した人間を元に戻す技術は、私が研究して完成させました。 いずれ希望があれば、昔は元に戻すのが無理だった怪異達も、元に戻す技術を完成させる予定です」
正直、未来都市よりも。これの方が、余程に驚きだ。
音もなく、リニアモーターカーが通り過ぎていく。
ひときわ大きな建物が見えてきた。背丈はそれほどでもないけれど。非常に裾野が広く、まるで人工素材で出来た山だ。
「あれが、統一政府の総本山です」
「あんなにデカイ建物を、どうやって支えている」
「今では、魔術も呪術も、科学の一種になっています。 それらも全て利用して、あの巨体を支えています」
「大したものだな」
地下の駐車場に、ハイエースが滑り込む。
この辺りは、昔とあまり変わっていないけれど。しかし、ハイエースを出ると、いきなりかき消える。
どうやら、ホログラフによって姿を消したらしい。その後、おそらく地下空間にでも格納したのだろう。
現れたのは、完全武装の兵士数名。
牧島が身分証を見せると、敬礼して、通してくれた。
地下駐車場の一角にあるエレベーターに乗り込む。エレベーターが動くとき、一切揺れないのは、流石に技術の進歩を感じさせる。
地下八十階、地上五十七階とある。なるほど、実際には地下部分の方が、この巨大建造物の本体、というわけだ。
地下へ移動開始。
しかも、ものの三十秒で、一気に地下五十六階に到達。
此処に、首相がいるのか。
エレベーターを降りると、警備兵に敬礼された。無意識で力を使って調べて見たが、ひょっとすると此奴ら、ロボットか。人間としての気配が感じ取れない。
いや、違う。
魔術も呪術も、科学の一つになっているとか牧島は言っていた。
つまり私の力は、遮断されているという事だ。
長い廊下を歩く。
たまにスーツを着た人間とすれ違う。牧島が笑顔で一礼すると、向こうも返してくる。
年齢は千差万別。
中には、牧島よりも若そうに見える者までいた。
「完全アンチエイジングが浸透した後も、威厳を保つ目的で、敢えて中年以降に肉体年齢を維持している者もいます。 中には老齢にしている人も。 しかし、体が若いとどうしても体力もあるし頭の回転も速くなりますから、殆どが私と同じように、若々しい体にしています」
「そうか……」
強烈にいびつだけれど。
あかねの守ったこの世界。恐らくは、人類が自滅することだけは無さそうだ。
それにしても、三十億。
残りの人間が、混乱の中で死んだことを考えると。三十年で、あかねは一体どれだけの数の人間を呪い殺したのだろう。
いくら何でも、一族ごと皆殺しというのはやり過ぎだ。
だが、この革新的技術を悪用させないためにも。それは、必要だったのかもしれない。それでも、賛成は出来ない。
ため息が、漏れてしまう。
ひときわ警備が厚い部屋の前に出た。
何度かのセキュリティドアを、牧島が手持ちのカードで解除。
完全武装の兵士達に敬礼を受けながら。首相の部屋に入った。
首相は。
人間では、無かった。
「やあ。 君が九尾の狐かね」
声を掛けてきた、それは。
無数の脳みそが融合した、非常に巨大な肉塊。
それが、ガラスに満たされた栄養液に浮かんでいる。
「な……」
「紹介します。 現在の、人類統一政府の首相。 アルキメデスです」
「楽にしてくれたまえ」
天井からアームが伸びてきて、席を勧めてくる。
流石に落ち着かない。
牧島が、説明してくれる。
このアルキメデスとやら、元は普通の人間だったそうである。しかし五年前、事故で体を喪失。
脳みそだけが、生き残った。
いっそのことと考えた彼は、自分の脳みそを多数培養。自分の脳みそとつなぐことにより、驚異的な並列思考能力と、IQを手に入れたそうだ。
元々著名な政治学者だったそうだけれども。
今では、膨大なデータベースと直接自身をつなげていて。通常の人間の、五十倍以上の精度で政治が出来ると言う。
一種のサイボーグというわけだ。
何もかもが、いびつで歪んでいるこの未来世界。
私は。
あらゆるものに、驚くばかりだった。
1、破滅を免れた世界の形
とりあえず、貰った自宅に行く。
アパートが良いと言ったのだけれど。貴方の資産はこれこれと見せられて、なおかつ説明もされる。
今の貴方は、重要保護対象だと。
確かに、この世界を作り上げた完全アンチエイジング技術と、人口抑制技術が私から出ているとすれば、当然だろう。
牧島は、首相と話があるとかで。
帰り道を案内してくれたのは、無愛想な女性の兵士だった。
人相は見えない。
フル武装していて、ヘルメットで目も見えない状態だったからだ。
その女性兵士がハイエースを運転して、自宅へ送ってくれる。このハイエースもくれるとかいう。
困る。
車は出来れば持ちたくない主義なのだが。
「参ったな。 家でくらい、落ち着いた状態でいたいのだが」
「貴方は今や世界的なVIPです。 不自由には我慢してください」
「……」
今の声。
トーンを変えているが、聞き覚えがある。
ひょっとして、カトリーナか。
聞くと、フルヘルムの女兵士は頷いた。
「今は近衛隊長をしています。 金毛警部補」
「そうか……」
皆、出世したものだ。
対怪異部署の、他のメンバーについて聞いてみる。
平尾は今も警官として、現場でバリバリ働いているそうだ。彼奴らしいと、私は思った。生涯現役の鬼のデカ。
それこそが、平尾にとっての最大の褒め言葉だろう。
安城は私が封印されて二年後に引退。
今では田舎で陶芸をしながら、時々怪異事件の解決に連れ出されるという。完全アンチエイジングの技術を使ってはいるが、中年に年齢を保っているのだとか。これは若造に今更なる気もない、と言うのが理由らしい。
平野は既に死去。
完全アンチエイジングの技術を使用することを拒否する人間が一定層いたそうなのだけれど。
彼もその一人であったらしい。
対怪異部署以外の人間だと、八雲は完全アンチエイジングで、肉体の最盛期まで体を若返らせ。
今では、彼方此方の紛争に首を突っ込んでは、暴れ回っているとか。
「芦屋祈里は」
「あの方は、今でも地下で静かに過ごしています。 完全アンチエイジングを使って、何を思ったか十代前半まで肉体年齢を戻していますが」
「ほう」
「芦屋の一族を束ねる黒幕として君臨していますが、牧島警視総監とのコネの方が大きいようですね」
文字通り、地下に住まう闇の帝王、というわけだ。
自宅に到着。
自宅と言うよりも、なんというか、豪邸だ。こんな豪華な屋敷に住んだ経験はない。今まで五回結婚したが。
いずれもが、これほどの豊かな経済力に支えられた家は持っていなかった。
ただし、周囲を見ると、別段この家が大きくなったわけではない。
色々な混乱を経たとはいえ。
人口が半分になった事で、それだけ富が集約した、というのが事実なのだろう。
かなり強固な警備が周辺には敷かれている。壁には対魔術の強力な防壁が貼られていて、生半可な呪術なんて通らない。
これが世界基準になっていても。
なおも、あかねの呪いは有効なのだろう。
家の中には、私の私物が届けられていた。
平尾からである。
平尾は、手紙も付けていた。
復活おめでとうございます。
いずれまた、一緒に仕事がしたいです。
そう、見かけよりも達筆な文字で、記されていた。
彼奴らしいと、苦笑いしてしまう。事実上寿命がなくなったこの世界で、彼奴は。昔気質のデカとして、今も最前線に立っているのだろう。
スマホもあったので、使って見る。
団に連絡してみると。
意外な事に、すぐに出た。
「おう、まさか金毛か」
「ああ、私だ」
「声が少し若返ったな」
「封印からよみがえると、こうなっていてな」
盗聴されていることは、当然知っての上。
だから、当たり障りがない事しか喋ることが出来ないけれど。何しろ、ずっと親友だった相手だ。
気心もわかるし、何より話していて嬉しい。
色々と、最近の状態について聞く。
団によると、怪異の現状は、以前に比べてとても良くなっているという。今までは山野に身を潜めているしかなかった怪異も。今では、人間と混じって、一緒に生活する事が出来ているそうだ。
街で見かけた光景は。
何も、不思議なものではなかった、という事だ。
「クドラクどもはどうしている」
「権利を認める認めないで、かなり揉めたらしいがな。 結局今では相応の権利を認められて、普通の企業としてやっているそうだ」
「そうか……」
散々やり合った相手だが。
相手も怪異なのだ。
不幸な境遇にならずに良かったと安心してしまうのは、私がお人好しだから、だろうか。でも、それでも構わない。
酒呑童子について、聞いてみる。
驚く結果が帰ってきた。
「彼奴は人間社会に保有していた財産を全部返上してな。 抑えていた宗教団体も、全部解散させたよ」
「驚いたな。 彼奴はどちらかというと、欲望が強い方だと思っていたが」
「茨城が捕まって、思うところが色々あったんだろう。 今は小さな家に引きこもって、静かに暮らしているそうだ」
何だか気の毒だなと思う。
酒呑童子は、何度かやり合った仲だから、わかるが。彼奴は彼奴なりに、怪異の未来のことを考えていた。
結局、極めて強硬な手段で。
人間側から改革が行われて、こういう世の中になって。怪異の権利も、昔とは比べられないほどに保証されて。
それで無力感を味わったのかもしれない。
酒呑童子は強硬なやり方とはいえ、誰よりも真面目に怪異の未来を考えている自負があったのだろうから。
「今度、皆で酒盛りとしよう」
「私は飲めないが、それでも良いのなら」
「ああ、構わないさ。 酒呑童子には、わしから連絡をしておくよ。 彼奴も何度か電話番号を変えているからな」
「頼む」
通話を切ると、小さくあくび。
しばらく寝よう。
そう思って、横になる。
封印解除の後、ずっと動き回っていたからか。疲れも溜まっていて、すぐに瞼が落ちてしまう。
とりあえず、皆の事はある程度わかった。
平尾にはあっておきたいけれど、それもまた後だ。まだ警官を続ける意味があるかはわからないし。
何よりも、今は疲れを取っておきたいからだ。
眠りには意味がない。
しかし、それでも今は眠りたい。
不可思議な気分だった。
目が覚めると、翌日。
まだ陽が出る前である。
スルメでも食べようと思って、適当にコートを羽織るとコンビニを探す。外に出てうろうろしていると、すぐに後ろから声が掛かった。
「何をしているんですか」
「コンビニ探してる」
振り返ると。
昨日とは違って、フルフェイスでは無いカトリーナだ。此奴、近衛の隊長では無かったのか。
姿は、以前と殆ど変わっていない。
若々しいままだ。
多分、戦闘能力も同じだろう。
「今は、通販が普通です。 やり方は教えますから、家に戻ってください」
「大げさだなあ。 私を狙う奴なんているのか?」
「います、たくさん」
「……」
断言されてしまうと、仕方が無い。実際この世界の事は、まだ殆どわからないのだから。
家に戻ると、通販のやり方を教えて貰う。
所持金の欄を見て、噴きかけた。
今まで私が見た事も無い数字が並んでいるからである。
「何だこの金」
「特許料ですよ。 あかねさんは、死ぬ前に研究の売上金の一部を貴方の口座に送るようにと指示していました。 世界的に研究が用いられて、誰でも出来るようになっている今、その意味が何を示すかが、この金額です」
「そうか」
その気になれば、ジャンボジェットを買えそうな金だ。いや、ジャンボジェットどころか、そこそこ大きな会社でも、丸ごと買い占めることが出来るだろう。
スルメを注文していると、咳払いされる。
「怪異とは言え、感心できません。 栄養の偏りがないようにしてください」
「とはいってもなあ」
「此方のグラフが、栄養の偏りを示しています。 これがまんべんなく丸になるように、食糧を買い込んでください。 調理に関しては、最近のレンジは全自動でやってくれますから」
「メイドロボットでも雇いたいところだな」
それはまだ普及していないという。
まあ、三十年だ。
それくらいが妥当なところだろうか。
配達はすぐに届いた。食料品をレンジに放り込んで、その間にスルメを囓る。これだ、この味だ。
魂の味である。
しばらくスルメを味わっていると。
思ったよりもずっと早く、料理ができあがってきた。
テーブルを囲んで、二人で食事にする。カトリーナの奴も、自分の金で、朝食を買い込んでいたのだ。
一口食べて、びっくり。
ごく普通に美味しいのだ。
「何だ、出来合いにしては美味しいな。 普通に店の味だ」
「おかげでレストランはもう過去の業種になりましたよ。 今ではコックと言えば、この手の出来合い配達のレシピを考えて作るだけの職業になっています」
「世も末だな」
しばらく、温かくて美味しい朝食に舌鼓を打つ。
食事を終えると、警備に戻ろうとするカトリーナを引き留める。
「時に、聞かせて欲しい」
「私に、こたえられる範囲であれば」
「そうか。 では聞くが。 お前、何者だ」
カトリーナが、目を細める。
此奴が、あの、一緒に戦ったカトリーナだと言う事は疑っていない。牧島が近衛にしているくらいなのだから。
私が知りたいのは、その前だ。
そもそも、カトリーナは、東欧の独裁者一族の、腐敗しきった姫だった。
様々な経緯の果てに人間としてのカトリーナを部下に加えて、幾つもの戦いを一緒にこなしたけれど。
此方の世界に来てから、どうして日本人そのままの容姿で。カトリーナが現れたのかが、よく分からない。
最初の世界では、金髪碧眼の、典型的なゲルマンだったのだ。
「私の経歴には、目を通したはずですが」
「ああ、それは当然だ」
この世界でのカトリーナは。
貰った経歴を見る限り、帰化外国人だった。何世代か前に日本に帰化して、それから日本人と混血を続けて。
今では、容姿も日本人そのままである。
調べて見ると、東欧の例の国は、存在さえしていない有様。
経歴も洗うように、あかねに頼んでみた。
だが、それでも、結論は出なかった。
「私はカトリーナである、としかこたえられません」
「そうか、そうだろうな」
「私に何があるんです。 信頼もずっとしてくれなかった貴方の事を、随分恨みもしたんですよ」
「それはすまなかったな。 だが私としてもな。 お前を疑わざるを得ない事情があったんだよ」
せっかくだから、話しておく。
牧島に、話は聞いていたのだろう。
ループの話を聞くと、流石に眉をひそめたカトリーナも。最後には、納得したように頷いてくれた。
「確かに、出来すぎていますね」
「だろう? だから私としてもだな。 お前を疑わざるを得なかったんだ。 まあ、最後の戦いで命がけの活躍を見せてくれたし、今はもう疑っていない。 だが、それでも何者かは知っておきたかったんだよ」
「私にもわからないとしか言いようがありません」
突っぱねられるが、まあそうだろう。
しかし、此奴は一体本当に、何者なのか。
ただ名前が同じだけの別人なのか、それとも。
食事が終わると、カトリーナは警備に戻る。
さて、私はしばらくダラダラしたいところだけれど。幾つか、こなしておかなければならない事がある。
テレビらしきものがあったので、四苦八苦しながら付けてみる。
ニュースが流れてきたので、ざっと目を通すが。
やはり統一政府による支配は、間違いが無さそうだ。
世界は、あかねが呪いによって、強制的にまとめたとも言える。
一方で、まだ内戦は所々で起きているようである。
まあ、所詮三十年だ。
如何にあかねが猛威を振るい。
革新的な技術が世界を覆ったとしても、人類が変わるには、あまりにも早すぎる。確かに私が狙われる可能性がある、というのも。納得がいく話ではあった。
ネットにもアクセスしてみる。
色々調べて見るが、私の知っていた頃とは、何もかもが違っている。
今の時代に馴染もうとしているだけで、時間が容赦なく過ぎていく。
気付くと、後ろでカトリーナが咳払いをしていた。
「そろそろお昼の時間です」
「そうかそうか。 年を取ると、時間が過ぎるのが早くていかんな」
「貴方の肉体年齢を測定しましたが、十七歳ですよ」
「ほう……」
ならば、気の持ちようかもしれない。
いずれにしても、がみがみ怒られる前に、行動はしておくべきだろう。
それにしても、十七歳の体か。
さび付く前に、色々動かしておくのも、ありかも知れない。
2、月の下で
色々考えたが、警備がついてくるのも何なので、私の家に案内して其処で酒盛りをすることにした。
団も酒呑童子も、きちんと来てくれる。
二人とも、私が少し若返った事に驚いていたが。
それ以上に驚いたのは。
団が眷属を連れていることだ。
妖怪狸は、いつ頃からか衰退が著しく。確か団の所でも、眷属を作るかどうかで揉めていたのだけれど。
実際には怪異としての衰退が原因で、眷属は作りようがない状態になっていた。
それなのに、眷属を連れている。
聞くと、近年の技術発達の成果だという。
眷属と言っても、随分と折り目正しい女の子である。人間に姿を変えている、というわけだ。
「団お爺さま。 此方です」
「おう、すまんな」
つまみを出してくる眷属に、団が目を細めている。
まるきり、孫に甘いじいさまそのものだ。
呆れたように酒呑童子が言う。
「お前さんも、随分長い間、子供には縁がないって嘆いていたのになあ」
「酒呑の。 お前こそ、子供を作れば良いだろう。 今の技術なら、簡単に眷属を造り出す事が出来るぞ」
「わかってるがな、元々公安にも目をつけられていた身だ。 それに鬼の眷属となると、あまりよいイメージもないしな」
ぐっと酒を呷る酒呑童子。
私は今日は酒を飲まず、茶にしているが。その茶も、注文するとあっという間に宅配される。
酒盛りなので、せっかくだから聞いてみる。
今まで怪異が潜むのに使っていた山林や離島はどうしているのかと。団が、顔を少し赤くしながら、こたえてくれた。
相当嬉しいからか。随分痛飲している。
「そりゃあおまえ。 もう住処そのものは大体は引き払っているさ。 ただ昔からいる怪異の中には、やっぱり人里は嫌だって奴もいてな。 そう言う奴のためにも、今まで確保していた土地は遺してあるよ。 物好きはそういう土地に残って、わずかな住処を維持してくらしているな」
「そうか、それは良かった」
「お前さんも、また眷属を作る気はないのか」
「考えておく」
せかせか働いている団の眷属を見ると、確かに可愛らしい。私は子供が好きだし、そろそろ新しい眷属を作り出しても良いかもしれない。
ただ、眷属と言っても、私では無い。
教育も出来ないし、怪異としては立派な個別の存在だ。
だから、思い出してしまうのだ。
ブラックボックスと化した、彼奴のことを。
酒盛りを続ける。
最初にひっくり返った団を、眷属が布団まで運んでいく。子供のように見えても、眷属は眷属。きちんと力持ちだ。
団三郎は相応に有名な怪異。
ただ、私のように、類例が神社にいるタイプの怪異では無い。
眷属の居場所がないのでは無いかと、最初は心配したのだけれど。
街の様子を見る限り、大丈夫なのだろう。
ただ、人間に混じって、学校の類に行っているとも思えなかったが。
酒呑童子は立ち上がると、帰ると言って出て行った。或いは、私と二人きりで飲むのが気まずかったのかもしれない。
まだ、茨城は解放されていない。
そう出て行く際に、孤独な鬼は言っていた。
眷属が、寝込んだ団の側でちょこんと座り。じっと親の様子を見ている。酒を飲む有様を見るのは、或いは初めてだったのかもしれない。
驚くほど寡黙な子供で。
私が部屋の様子を見に行ったときも、何も喋らなかった。
眠りやすいように戸を閉じると、別室に。
怪異と人のあり方も、随分変わったものだ。それに、ひょっとすると、今なら。また新しく、眷属を作り出せるかもしれない。
各地の眷属達はどうなっているだろう。
小さくて可愛い団の眷属を見て。
久方ぶりに私は、新しい眷属も良いかもしれないと、思い始めていた。
ただ、あの黒い眷属のような輩を作らないように、細心の注意を払わなければならないだろうが。
団を送り出してから。
私はハイエースで、ふらりと外に出る。
カトリーナはついてきた。まあ、こればかりは、どうしようもないだろう。私がカトリーナでも、ついていくからだ。
「どちらに?」
「手近な神社に行きたい。 カーナビの設定は」
「呼びかけるだけで大丈夫です」
「ハイテクだな」
それは死語だと言われて、苦笑いする。
まあ、それも当然か。
カーナビに呼びかけると、あっさり起動。しかも、フロント硝子に表示が出る。邪魔にならない程度に、である。
これは確かに進んでいる。
「自動運転にすると、勝手に目的地まで行ってくれますよ」
「おう、流石だな」
「どうするんですか?」
「せっかくだから、任せるかな」
近場の神社を指定。
カーナビに、運転を任せる。
自動で運転を開始したハイエースが、適性速度を完璧に守って発進。私は、運転席で、スルメを囓っているだけで良かった。
適性速度も、昔よりかなり速くなっているようだ。
多分これは、事故を防ぐための仕組みが充実しているから、なのだろう。
手近な神社に到着。
円筒形の掃除用らしいロボットが、ちょこちょこと動き続けていた。昔流行った家庭内用の掃除ロボットと形状が似ているが、ずっと高度なようだった。落ち葉なども、綺麗に掃除してくれている。
大半の神社は、今や保護文化財だ。
そうカトリーナは言う。
まあ、時代が時代だ。それも当然かもしれない。
奥の院に行くと、眷属はいた。
私を見ると。、大喜びで駆け寄ってくる。
「九尾様!」
「久しいな。 壮健か」
「はい。 おかげさまで」
それは良かった。嘘をついている様子も無いし、何より今回来る神社は適当に決めた。何かされていたとして、取り繕う暇は無かっただろう。
眷属と一緒に、彼方此方を見て廻る。
神社の中は異常に清潔に保たれていて、むしろ息が詰まりそうだった。あのロボットの仕業だろう。
「綺麗すぎて人間味がないな」
「唯一の不満はそれです。 賽銭箱にお金を落としている様子もありませんし」
「退屈か」
「ええ。 様々な願いを聞くのは、楽しみの一つであったのですが」
苦笑いしてしまう。
勿論、叶えられそうなものについては、どうにかしてもいたのだろう。此奴はそれなりの年月を経た眷属だ。
色々と、話を聞いていく。
他の眷属とも会って、話をする事が時々あるという。
何処の神社もおおむね同じ。
平和で、綺麗すぎて。
来る人間はあまり多くない。
昔厄除けだので繁盛していた大型神社も、今はかなり寂れているという。ただし綺麗に掃除されて、腐食部分はきちんと修繕もされているそうだが。
「不可思議な話だな」
「人間は何がしたいのか、よく分かりません」
「……そうだな」
他の神社にも、適当に足を運ぶ。
眷属はきちんといる。
不満は最初とほぼ同じ。ただ此処の眷属はちょっとやんちゃな奴だったので、外に出てあそびたいとだだをこねられたのだった。
三つ目の神社をハイエース内で指定すると。
カトリーナが怪訝そうに言う。
「まだ神社を見て廻るんですか?」
「出来れば日本中の神社を見て廻りたいくらいだ」
「何日掛けるつもりですか」
「時間は腐るほどある。 どうせ私なんか、今更対怪異部署に戻ったところで、仕事なんかないだろう」
何しろ、牧島が。私の術式を解析して、怪異の傾きを是正する方法を編み出してしまったというではないか。
私の術は勿論それだけでは無いけれど。
空気を操作して、怪異の傾きを直す事は、対怪異部署における私の大きな存在意義だった。
勿論、私しかそれが出来ないのは問題だったのだけれど。
しかし、それにしても、である。
私の存在意義がなくなってしまったようで、悲しいとしか言いようが無いのも、事実であった。
その日は、飽きるまで、神社を見て廻って。
帰ってきたのは、夜中の九時。
新しい自宅は、どうしても慣れない。
一人で過ごすには、少しばかり広すぎるのだ。
ふと、思い当たる。
明日は、神社では無くて、墓参りにいこう。時間はあるのだし、それで構わないだろう。
勿論、見に行く墓の主は決まっている。
あかねだ。
あかねの墓。
ハイエースにそれだけ指定しても、流石に移動を開始はしなかった。咳払いしたカトリーナが、やり方を教えてくれる。
此奴も大概暇なのでは無いかと思えてくる。外出しようとすると、必ずついてくるのだから。
だが。車が出た後に、愕然とすることを聞かされる。
「私は一人ではありません」
「は? どういうことか」
「私のスペックが優秀だったと判断されたからです。 並列行動できるクローンが現在八十五人います。 全員で仕事を分担して、近衛の警備の負担を減らしています」
八十五人。
自分がそんなにいて、並列で思考をコントロール出来る。
はっきり言って、ついて行けない世界だ。ただ、それならば、こうして毎日わたしの側についている理由もわかる。
別に八十五人の一人ならば、私に張り付いて警備をしていても、問題は起こらないというわけだ。
車が動き出す。
あかねの墓に行くのなら、勿論準備がいる。
私自身は式服を着ているし。
途中で花屋によって、花束も買い込んでおいた。
お供えも。
あかねは好き嫌いしない子だったけれど。あまりしょっぱいものも何だろうと思って、控えめの甘さの和菓子を買っておく。
後はカーナビに任せて、運転させ。
運転席で、ぼんやりとした。
私から得られた技術を守るために、文字通り鬼と化したあかね。研究の持つ意味が世界に知られると同時に。
鬼としての力は猛威を振るい。多数の人間を、生きながら破裂させた。
さぞや恐怖の存在として怖れられているだろう。
墓所に到着。
何だか周囲を鉄条網で囲み、要塞のような有様だ。
「研究に関しては非常に厳しく目を光らせているあかねさんですが、自分のお墓には無頓着でしてね。 報復に墓を荒らしていく輩が目だったので、このようにしています。 そんな事をしても、何の意味もないのに」
「面倒だな」
「私が通行用のIDを持っているので大丈夫です」
入り口も、分厚い門扉。
カトリーナが手をかざすと、自動で開く。誰かが、内側から操作している様子はない。この辺りは、すぐれた技術だ。離れた位置から適当に手をかざしただけで静脈なりなんなりを読み取っているのだろうから。
墓地はかなり広大で。
ハイエースが駐車場に停まった後は、どこに行ったら良いのかわからなくて、少し途方に暮れてしまった。
まあ、世界の人口が半分になったのだ。それも、たったの三十年で、である。
これだけ広大な墓地が出来ても不思議では無いだろう。
その上あかねは、族滅という極めて苛烈な手を使っている。多くの人間が、葬られることもなかった場合もあったのだろう。
幾つかの、大きな墓。
無縁仏のものだ。
一つの墓に、数十の死者が葬られている。それが杭のように建ち並んでいる様子は、戦慄さえ覚える。
あかねは、人類を進歩させるために、手段を選ばなかった。
それは、繰り返さなかったこの世界でも、同じだったのだ。
あの子は真面目で、それが故に人間を信頼していなかった。繰り返していた世界では、何度も何度も徹底的に裏切られて。
そして此方の世界でも。
結局人間は信用に値しないと判断するに到った。
結局、あの子は。
人類にある意味敵対することを、宿命づけられていたのかもしれない。それはそれで、とても悲しい話だと、私は思う。
「此方です」
鉄条網がある。
その奧に、IDカード式のドアがあり。カトリーナが手をかざすと開いた。
中には、小さな、とても質素な墓。
諏訪あかね。
名前が書かれていて。
そして、私にはわかる。
あかねは此処にはいない。世界の全てを包んでいるけれど。その代わり、何処にもいないのだ。
救われない。
花を供える。
いない事をわかった上で。私は、墓を掃除しながら、語りかけた。
「馬鹿者が。 来てやったのに、いないのでは意味がないだろう」
あかねは今や、呪いそのもの。
多分今までに、一番多く人間を殺した存在だろう。企業ごと、という例もあったようだし、無理もない。
そのあまりに苛烈すぎる処置があったから、この研究は悪用されなかった。
様々な抜け道を考えた人間もいただろう。
その全てが族滅されて。
ようやく。研究を悪用することは不可能と判断した人間達は。真面目に、世界のために研究を用いる事を始めた。
其処までに、多量の血が流れた。
いや、現在進行形だ。
今でも、あかねによって誅戮されている者達はいる筈。
家族まで殺すのはあまりにもやり過ぎだと私は思う。
だけれど、あかねはそうでもしないと、とても人類は変わらないと判断したのだろう。救われない話だ。
「ほら、お前が好きそうな菓子だ」
何を喋って良いかはわからない。
式服だから、胡座を掻くわけにも行かない。
私は墓の前にて、持ってきた折りたたみ式の椅子に座ると。
しばらく、あかねの文字を、見つめていた。
世界で一番人間を呪い殺し。
そして恨まれた存在になり。
同時に感謝されただろうあかねの墓は。多分、怖がって触る者がそもそもいないからだろう。
半ば苔むしている。
静かな静寂の中。
あかねはそこにいない。ただ、墓標だけがある。私は、どうして良いのだろうと思って、ため息をついた。
あかねに会いに来たのだけれど。
これでは、無駄足だろうか。
いや、違う。
「掃除道具、くれるか」
「はい。 用意します」
「……」
カトリーナを見送る。
私は目を細めると、まずは周囲の草むしりから始めた。これでも、農家の出なのだ。草むしりは得意である。
草むしりが一段落した頃、カトリーナが戻ってくる。
式服が台無しだと言われたけれど、別にどうでも良い。今持っている天文学的な金を使えば、修繕でも、新しいのを買うのでも、いくらでも出来る。
まずは墓の苔を丁寧にそぎ落とす。
墓石を少しずつ、磨いて綺麗にしていく。
その間、私は語りかける。
此処にあかねがいなくても、それは大事なことだ。
「なああかね。 私は今でもお前の事が好きだぞ。 厳しい所はあったけれど、誰よりも真面目で。 だから、いつもこんな事になる。 お前は或いは、有能では無い方が幸せだったのかもしれないな」
苔を削ぎ終わったので、墓をぴかぴかになるまで磨く。
元々の墓石はそこそこにいいものだったらしく。磨いているうちに、しっかりとした艶が出てきた。
怒らせれば族滅されてしまうのだから無理もない。だから、私が、綺麗にしてやるのだ。
「お前は、私が好きだったか? うーん、正直な話、わからない。 お前が私を嫌っていたはずは無いと思いたいけれど。 お前の口から、聞きたかったな。 結局大人になってからは、仕事上のつきあいが基本だったからな」
墓石の掃除が終わったので、周囲の地面を丁寧にならす。
そうしていると。
見違えるように、あかねの墓は立派になった。
これでいい。
花も供えておく。
枯れてしまったら捨ててくれるくらいのことは、流石に管理人だってしてくれるだろう。
「何だか、私は何をして良いのかわからなくなったよ。 私に出来る事は、全て牧島が一般化してしまった。 それに私より頭の良い奴も、多分いくらでもいるだろう。 今更私が、対怪異部署に戻ってもな」
あかねは、こたえてくれない。
でも、この場にあかねがいたら。
きっと、こう言うだろうとは思った。
「師匠の帰りを、待っていますよ。 私がいなくても、奈々ちゃんや平尾さんが。 みんながいなくても、みんなの後輩達が」
しばらく、この場にいないあかねの言葉を、私は噛みしめる。
墓に水を掛けると。
後は、その場を離れた。
家に戻る。
テレビを見ると、今日は満月だという話だ。
良いではないか、満月。
久しぶりに、月見にすることにした。昔は彼方此方の神社にいる眷属や、顔役をしているコミュニティの妖怪達と、月見酒を楽しんだものだけれど。
もう酒は飲まないので、団子だけ食べる事に決めた。
団や酒呑童子を呼ぼうと思ったけれど。彼奴らは忙しいという事で、来ない。一人で飲むのも何だと思っていた時。
牧島が来ると、連絡を入れてきた。
平尾は無理だという。
まあ、仕方が無いか。
カトリーナもつきあってくれるというので、三人だけで月見にする。
準備はすぐに出来る。
月見は今も風習として生きていた。必要なものが、すぐにデリバリーされる。ススキがちゃんと来たのは嬉しい。
この辺りだと、何処まで行けば取れるのか、わからないからだ。
ネットで検索。
最近の月見のやり方について調べておく。
カトリーナが呆れる。
「飽きるほど月見なんてしたでしょうに」
「そうでもないんだ。 実はあれはな、地方によってやり方が違うんだよ。 時代によってもな」
「そうなんですか」
「毎回違う月見をしているのが、ある意味新鮮なんだ。 だから殆どの場合、招かれて月見をするのは好きだったけれど。 月見に招くのは苦手だったな」
お団子が届いた。
鮮度も味も申し分ない。見本用をぱくついて充分に美味しいと満足。
カトリーナが。また呆れた。
だが、黙り込んだのは。
あかねの遺影を私が出してきたときだ。
主賓が誰だか、気付いたのだろう。
勿論、あかねはここにもいない。
だけれども、此処であかねのために月見をするのは、充分に意味があることだと、私は思う。
準備を終えて、スルメを囓っているうちに、時間が来る。
牧島はほぼ時間通りに来た。
団子は用意してあると告げていたので。牧島も団子を買ってくる地獄絵図は避けられた。あれは多すぎると、途端に食事が作業になってしまうのだ。
ススキの処置は、カトリーナが終えてくれている。
後は、満月が出るか、だが。
庭に出て、蚊を避けるためのフィールドをカトリーナが展開。とはいってもバリアのような進んだ文明のものではない。単純に蚊が嫌がる化学物質を、周囲にカーテン状に撒くだけの仕組みだ。
机と椅子を並べた頃には。
雲が少しは出ているけれど。
月見には、丁度良い夜空が拡がっていた。
あかね。
呼びかけるが、当然答えはない。
私は、もう少し生きてみようと思う。
このどん詰まりの体でも、世界を変えられることは変えられた。全てが終わってしまう絶望の未来は回避できた。
勿論、人は油断ならない生き物だ。ちょっとでも気を抜けば、すぐに愚かしい事をする者が出てくるだろう。
だが、それだからこそ。
人間の中で生きるのは、面白いのかもしれない。
月を見ながら、しばし皆で団子を食べる。
合成だからまずい、などということもない。立派に美味しいお団子だ。昔名人が作ったような一品も食べたことがあるが。
今では、デリバリーでも、それに近い味が楽しめるというわけだ。
ここまで、世界が改善したのなら。
或いは、人類は。
少しは、進歩できたのかもしれない。
あかねはあまりにも膨大な血を流したけれど。それが無駄にはならず、こうして社会の安定化と高品質化を招いていることだけは嬉しい。
ただ、あまりにも血が流れすぎたのも確か。
今後は。あかねをどうするか、考えて行かなければならないだろう。
しばらく、団子に舌鼓を打った後。
牧島が時間だと言って、席を立つ。
何しろ世界政府の警視総監だ。それは忙しいだろう。
「金毛警部補。 その、警察に来て貰えませんか。 ポストは用意します」
「そうだな。 考えておくよ」
「しばらくは、心を整理する必要もあるでしょう。 気が向いたら、声を掛けてください」
昔のままの姿の牧島は。
そんなしっかりした事を言うと。
待っているSP達の方へ、歩き去って行った。
カトリーナが、団子を全て食べた後の、月見台を片付ける。
私は別に、月に向けて吼えるような習性は持ち合わせていないけれど。ただ、少し寂しいなとは思った。
3、新しい仕事
一月ほどだらだら過ごした後。
結局私は、牧島の提案に乗ることにした。
用意して貰ったのは、対怪異部署ならぬ、怪異部署の席。
怪異だけを集めた警察の部署だという。
今では、怪異化した人間は、世界的に珍しくもないし。何より、堂々と社会進出している怪異も、少なくないという。
時代は、変わったのだ。
昔は人間のフリをして、社会進出するのがやっと。
それも、安倍晴明の一人になって、とか。特殊な条件を満たして、それでどうにかというのが関の山だった。
ただ、何しろあれから三十年。
色々と怪異の立場は弱く。
怪異の中にも、人間社会への再適応を果たせない者も多い。
警察に来ている者は、比較的社会適応が出来ている怪異が多いと言う事だけれど。それでも、やはり問題は抱えているという。
そういった者達をまとめるのに、私は適任だと、牧島は言うのだ。
とりあえず、言われたままに赴任してみる。
警視庁の片隅にある、百名ほどの人員を抱える部署。
与えられた階級は警視正。
今まで、そんな高い階級をもらった事は無い。何だか、面倒だなと思う反面。いざというときには牧島がサポートするというので、不安感はあまり大きくなかった。
エレベーターに乗って、三階に。
警視庁の東の隅に、その部署はあった。
内部はそれほど大きくない。むしろ、昔の対怪異部署とほぼ同じ広さだ。
事務所に入ってみると、実に壮観だ。
多数の怪異が、堂々と働いている。
人間型をしている者は、むしろ少ないほどだ。
警察の制服を着ている私が、浮いている位である。
「あ−、いいかな」
咳払いする案内役。
牧島の部下だという警部である。
当然だが、知らない奴だ。見かけは四十代の男性警官だけれど。実際の年齢についてはわからない。
むしろこのアンチエイジングが社会浸透している時代。
四十代の姿をしている、希有な例なのかもしれない。
働いている怪異達が振り返る。
その中に何名か、見知った顔がいるので、驚いた。
「今日からここのボスをしてもらう金毛木津音警視正。 皆も知っていると思うが、大妖怪九尾の狐だ。 よろしく頼む」
「よろしくお願いします」
敬礼した怪異はむしろ少ない。
へえ、彼奴が。
そう顔に書いている者の方が多かった。
見回す。
強化怪異相当の力を持っている者はいない。どうやらこの世界には、強化怪異化している者はいないと見て良さそうだ。
こういう部署には、当然武闘派もいる筈で。
それが、こうなのだから。
デスクについた後、軽く状態を整理。
PCは無いように見えるけれど。事前に言われているとおり、デスクに触れると、立体映像でキーボードとディスプレイが浮かび上がる。
時代も進んだものだと感心している暇は無い。
此処を統括している警部三名が、挨拶しに来たからである。
会議室を用意して貰っていたので、其方に移動。
警部の内二名は、見知った顔だ。
一人は、以前私のコミュニティにいたこともある怪異。非常に大柄な、太った老人の姿をしている。
山男の一種である。
「お久しぶりです、九尾殿」
「ん。 壮健なようで何よりだな」
「此処で務め始めたのは七年前からなのですが。 まさか、人間と混じって暮らすことが出来るとは、思ってもみませんでした」
そうだろうそうだろう。
しかも、話によると。
人間に戻ってみないかと、声を掛けられているのだとか。
だが此奴は、元々戦国時代から怪異をしている古株の中の古株だ。今更人間に戻ろうとは思わないだろう。
もう一人は、なんと。
吸血鬼のカルマである。
何でも、西欧でクドラクが企業化される際に、元の組織が一端解体されて、色々あって。最終的には警官として採用されて、此方に来ているとか。
怪異を利用したり。
或いは怪異に対する非人道的行為を行う犯罪組織はまだ多数存在しているとかで。そういう組織を摘発するためには、知識のある存在が重要。そう判断して、クドラク所属の吸血鬼は、今各地の治安維持組織で重宝されているのだとか。
ただ、この世界では。
私とカルマは、激しく戦った間柄では無い。
だから、向こうは此方を知らなかった。
「カルマだ。 よろしく頼む、東洋の大妖怪」
「あー。 お前さんにそう言われると、ちょっと不思議な気分だ」
「?」
「気にしなくて良い」
事情を説明しても、更に混乱させるだけだろう。
此奴も、周回前と同じく、あまり頭は良く無さそうだ。説明して、事情をきちんと理解できるとも思えなかった。
もう一人は、面識がない。
どうやら北米大陸の方で名をはせていた怪異だそうだ。
大柄で、ギャングのドンのような姿をしている。
握手を交わした。
見かけの割りに、誠実な言動である。
「ポール・バニヤンだ。 よろしく頼む」
「ああ、お前さんの伝承は知っているよ」
「それは光栄であります」
ポール・バニヤン。
アメリカ開拓史に出てくる、伝説の木こり。実際には、創成の巨人とでも言うべき存在である。
身長八メートルで、超人的な身体能力を持ち、化け物じみた力で何百人分もの仕事を一夜にこなしたという。
勿論それは一種の都市伝説だが。
それがアーキタイプを形作り、このようにして怪異に傾く存在が、実際に出たというわけだ。
軽く、現状の話を聞く。
一応、此処の部署の縄張りは日本だそうだけれど。実際にはサテライトオフィスの統括をしている立場で。世界中に、似たようなオフィスが三十五もあるそうだ。
そしてそれらのオフィスの統括メンバーを見て、驚かされる。
見知った怪異が、相当数いるのだ。
ちなみにクドラクも間接的に所属している。
奴は西欧支部の相談役をしている。まあ、カルマが此処にいる位なのだ。ボスのクドラクが、同じ組織に協力していても不思議では無いだろう。
仕事の内容についても、説明される。
どうやら、怠け者として、ダラダラ過ごすことはできなさそうだ。
ただ、昔に比べると、仕事というものの内容が、根本的に変わってもいる。効率化と分業が進められ。
何より、世界の人口が半減したのが大きいのだろう。
連日徹夜とか、残業が膨大に出るとか、そう言うことは一切無さそうだった。
「これからよろしく」
ポールに、握手されて。大きな手で、上下にシェイクされた。
体が振り回されそうだが、まあ向こうでの敬意の示し方だ。それに日本語もちゃんと使いこなしている。
相手にしてみれば、最大限の敬意を示しているわけで。それにこたえるのが、上司の器というものだろう。
これでも、色々なコミュニティで、顔役をして来たのだ。
それなりの知識と経験はある。
デスクに戻る。
書類の決裁や判断が主な仕事になるが。驚いたのは、相当量をAIが代替わりでやってくれる、ということだ。
最初の一日を使ってPCに人格をコピーしたのだけれど。
それが、ある程度は判断を肩代わりしてくれる。
極めて便利な代物だけれど。
此処まで便利だと、驚くしか無い。
仕事もシフトで回っていて、昔だったら考えられない事に、警官達はほぼ定時で上がっている。
残業がかさむのが嫌だから、私はあんな変則的な仕事のやり方をしていたのに。
これだったら、或いは。
ある程度は、どうにかなるかも知れない。
二日目からは、本格的に仕事が始まる。
昔だったら、どっさり書類を持ってこられたり。
或いは、毎日のようにつきあいと称して飲み会やらに引っ張り出されたりしたのかもしれないけれど。
どうやら、仕事が大幅に改善されているらしく。
今では、そのような事はしなくても良いようだった。
なるほど。
殺人的な多忙さの中にいてもおかしくない牧島が、月見に来られるはずだと、私は思った。
四日目が終わった頃。
牧島に呼び出されて、警視総監の部屋に出向く。
ちなみに、まだ私が出向いて解決しなければならないような事件は起きていない。ついでにいうと、蓄積した事件もない。
今まで、牧島が如何に精力的に、未解決事件を処理してきたか、という証拠である。前は私がどれだけ頑張っても、未解決事件はなくなることがなかったのに。
牧島は、幾つかのAIに書類仕事を任せながら。
それでも、電話で何かの応対をしていた。
相手は部下の筈だが。牧島の口調は柔らかく、丁寧だった。
「それでは、事前の指示通りにお願いいたします。 結果については、善し悪しにかかわらず、すぐに知らせてください」
通話を切る。
私の方に向き直ると。牧島はにこりとほほえむ。
「茶を淹れます。 其方にどうぞ」
「ん」
勧められた席に着くと。
自動でロボットアームが出してきた茶に口を付ける。そういえば、昔は取引先で出た茶には口を付けてはいけないとか言う謎のルールがあったが。今はそのような、愚かしい慣習はなくなっているのだろう。
軽く、最近の話を聞かれる。
この時代はどうかとも。
だから、素直にこたえた。
「今の時代は、怪異にとっては過ごしやすいようだな。 昔と違って、隅に追いやられてもいない。 人間と同格とまではいかないが、きちんと生活できるだけの権利も有している」
「あかねさんも、喜ぶでしょうね」
「……そうだな」
あかねは、多分もう喜ぶ機能さえ遺していないと、私は判断しているけれど。
それを此処で言う意味はない。
彼奴は怪異どころか、更にその先にあるもの。
もっとおぞましい存在へと変わり果ててしまった。そして、本人が望んでそうなったのだから、救えない。
あかねは私のことが好きだったのだろう。
だからこそ、此処までの事をした。
それが世界を変えた。
少しの間だけだけれど。生活してみて、よく分かった。この世界は、あかねが四十億人以上を間引く前より、明らかに良くなっている。
だが、それは、決して許されることでは無い。
あかねは、結局の所。
人という種族と敵対する運命を背負って、生まれてきてしまった子なのかもしれない。
世界中のどの独裁者でも、これほどの数を直接的間接的に殺してきた存在はいない。
誰もが、悪魔とあかねを罵るだろう。
だが、あかねがいなかったら。
この世界は、どうなっていたのか。
「今や、世界中で呪いのことは周知なんだな」
「ええ。 効果は宇宙空間でも発揮されることがわかっています」
「あかね……」
「世界中の人が怯えていると言っても良いでしょうね。 確かに完全アンチエイジングによって、寿命からも病魔からも人類は解放され。 出生率の完全コントロールによって、資源の浪費も避けられました。 最盛期を永遠に続けられる事から、様々な科学技術の進歩も著しく。 結局、以前の五十年分の進歩を、ここ三十年でしたとさえ言われています」
淡々と牧島は言うけれど。
分かっている筈だ。
「なあ、もしもあかねが、呪いでこの世界を覆わなかったら、どうなっていたと思う」
「間違いなく、地獄絵図だったでしょうね。 人類は十億も生きていたかどうか」
ため息が漏れる。
他に、解決方法は、無かったのだろうか。
その答えは、見つかりそうにもない。
牧島が、資料を持ってくる。
今後の人類文明の進め方、についてだ。
百四十年ほど後、氷河期が来る事はわかっている。今までも一応氷河期には分類される時代ではあったのだけれど。
それとは比較にならない、過酷なものがくる。
文字通り、全球凍結と呼ばれる規模の氷河期だ。
人類が好き勝手に浪費を続けたあげく、資源を食い尽くした後だった場合、ほぼ確実に生き残ることは出来なかっただろう。
だが、今は。
生き残れるかもしれない。
今、スペースコロニーが計画的に建造されているという。
また、軌道エレベーターの研究も、佳境に入っているとか。
月への移住計画は進行中。
火星のテラフォーミングも、五十年以内には着手できるかもしれない。そういう結論が出ているそうだ。
また、地球自体も、環境回復に向けての動きが出ている。
浪費した資源の回収とリサイクル。
最終的には、人間が基本的に死なず。必要なだけ増え。
社会が安定して排除される者も出ず。
誰もが嫌がる仕事はロボットにさせ。
文字通り、人間が神に等しい時代が来るかも知れない。
そう、牧島は言う。
私は、そうかとしか、思えなかった。
色々と見た資料だが。どうにも、ぴんと来ないのである。確かに人間がこのまま進歩できれば、或いは。そのような、輝かしい未来が来るかも知れない。
だが、はっきり言う。
人間とは、そんな事をこなせるほど、スペックが高い生物だろうか。
特に精神面のスペックが問題だ。
今の人間達も、あかねを恐れてはいる。
だが、一定数いる筈だ。
どうにかして、あかねの呪いを回避して。アンチエイジングと出産率コントロールの技術を、好き勝手にする方法を模索している奴が。
今まで、それらのもくろみは、全てあかねが主犯の一族ごと消し去ってきたのだろう。荒療治と言うよりも、粛正に等しい暴虐だ。
だが、今後も、本当に上手く行くのだろうか。
牧島に一礼すると、警視総監の部屋を出て、自分のデスクに戻る。
まだ若い警官が一人、忙しそうに来た。
ちなみに彼は、顔中に目がある怪異である。どうやら海外から来た存在らしい。口は何処にあるのか、よく分からない。
「警視正、大きな事件が発生しました」
「ん。 詳細を」
デスクにスクリーンを立体表示させる。
使いこなせるようになるまで、四日かかった。だが、使いこなせるようになると、むしろ旧時代のスマホやケータイよりも使いやすい。
画像が映し出される。
どうやら、人質を取った凶悪犯のグループが、政府に要求を出しているらしい。
問題は、人質にされているのが、怪異ばかり、という事だ。
怪異が人に交じって暮らすようになってから、その研究も進んでいるという。怪異が姿を隠していても見つけ出す方法も発達したし。跡形もなく殺す方法もまたしかり。
犯人グループは、二十名前後。
あるオフィスビルに立てこもり、其処の従業員全員を人質に。その従業員の殆どが、怪異と言う事だ。
そして、犯人グループの中にも。
怪異が確認されているという。
「特殊部隊から、支援要請が来ました。 突入班は人間の部隊がメインになりますが、特殊能力を持っている怪異に攪乱されると厄介です。 助言が欲しいと言う事です」
「んー。 わかった」
本当はスルメを噛んで寝ていたい所だけれど。
苦労の末に、やっと怪異が虐げられない世界が来たのだ。それを維持するための努力だったら。
面倒だけれど、やろうというモチベーションも、少しは湧いてくる。
部下達を促して、現場に行く。
勿論私の車は、ハイエースだ。
現場では、既に臨戦態勢の特殊部隊が待機していた。
敬礼をかわすと、状況を確認。
私の力を、久々に展開する。
怪異としての力は。
あの決戦のときほどでは無いけれど。多分全盛期くらいの力は出せている。ビルの全てを力ある空気で包み込む。
対策がされているといっても。
これに対策する方法は、ほぼ無い。
「この地点に、二人いる」
展開されている地図に、捕捉を行っていく。
特殊部隊の隊長は、私を侮っている雰囲気は無い。多分、警視総監から念を押されているからだろう。
ざっと見たが、あまりにも強力な力を持つ怪異は、敵側にはついていない。
いずれもが、私同様のザコばかりだ。
かといって、捕縛されている怪異に、名がある奴がいるかというと、そうでも無い。どちらも、あまり戦闘力が高くない怪異ばかりである。
「犯人グループは何がしたいんだ」
呆れて、思わずぼやく。
こんな無意味なテロをして、大それた要求を政府にして。それで聞くとでも思っているのだろうか。
テロの時代を乗り越えて、今はもう、テロというものがそもそも陳腐化している。
こんな状況で、誰がテロリストの主張などに屈するものか。
「テロリストの無力化、出来ますか?」
「スルメくれ」
「はい?」
「私のエネルギー源なんだよ。 ん、ありがとう。 無力化は出来ないけれど、テロリスト共の周囲の空気を薄くすることは出来る。 連中、どう見てもプロじゃないし、相当緊張している。 そう時間を掛けずに、高山病にすることができるはずだ」
充分と、隊長は言ってくれた。
そうか、それなら。
特殊部隊の力を、高みの見物と行こうか。
少し位置を移して、別のビル屋上に。
其処から望遠鏡で、占拠されているビルを覗き込む。
捕まっている怪異には、子供も多い。
子供の姿をしているからと言って、中身は子供とは限らないのが怪異というものだけれど。それでも腹立たしい。
しばらく、スルメを噛みながら、空気を薄くし続ける。
人質に害が出ないように調整するのが大変だけれど。今の私なら、これくらいは難しくない。
そろそろ、気付くはずだ。
テロリスト共が、妙な動きをしたら、即座に突入するように、事前に協議は詰めてある。
テロリストの一人が、ふらりと壁に寄りかかる。
周囲の連中が、騒ぎ出した。
突入開始。
さて、見ているだけで良いだろうか。
だが、窓を破って、怪異が一体逃れ出てきた。
人質では無い。
私は後を部下達に任せると。
ビルを駆け下りた。
追いついたのは、ビルの裏路地。
運動神経が良い訳では無い。格闘戦が苦手で、走るのだけ速いとか、そんな訳がない。
とりあえず、相手は狐の怪異。
それも、どちらかと言えば、私の眷属に近い姿をしていた。
「九尾の狐か」
「その姿、恐らくは管狐だな」
「いかにも」
体が細いそいつは。
口を歪めて、にやりと醜悪な笑みを作ってみせる。
管狐。
怪異としては珍しい、人間に使役されるタイプのもの。相手を呪ったり、とりついて不幸な目にあわせることを得意としている。
あまり高位の怪異では無い上。
怪異として、人工的に作り出されたものだということもわかっている。
下働きや、奴隷に近い立場の人間に、ひたすら苦痛を与え続け。
きつねだきつねだと刷り込み続ける。
そうすると。
管狐というアーキタイプにはまり込んだ怪異が出来やすいのだ。
似たようなやり方をする怪異に、犬神という存在がいるけれど。これはより非人道的で、おぞましく。
昔の対怪異部署に相当する組織に、使い手が叩き潰されて。江戸時代には、完全に絶えたと聞いている。
管狐も同様に、邪法は闇に葬られたと言う話だったけれど。
生き残りがいたのか。
「今の時代なら、そのような生き方をせずとも、どうにでもなるのではないのか」
「……気がついていないのか?」
「何が……」
口をつぐんだのは。
気付いたからだ。
その姿が、人へと変じていく。
そいつは。
見覚えがある警官だ。対怪異部署と対立することはなかったけれど。常に空気のように存在感がなく。
キャリア組である筈なのに、微妙に出世からも外れていて。
だというのに、隠然とした権力を持っていた、不可思議な存在。
「お前、まさか」
「ようやく気付いたようだな。 私こそ、お前達の手から逃れた、最後の安倍晴明だ」
そうか。
事情も、わかってしまう。
此奴はおそらく。人間の社会の闇のまた闇を見て怪異になり。
そして自由になった後は。
人間に対してひたすら復讐することだけを選んだ。それで、安倍晴明、いやウカノミタマに。
その暗い魂を、見込まれたのだろう。
気付かなかったわけだ。
これほど、存在感がない輩だったとは。
存在感を消す能力を働かせていたのかもしれない。そして、あの最後の戦いの日には。安倍晴明の一人として、万が一に備えて、警視庁を離れていたのだろう。自分の痕跡も、消していた可能性が高い。
そうなってしまうと、此奴の能力もあって、後から追跡するのは困難だった、というわけだ。
此奴から連絡があった、という話についても聞いていた。
そうなると、ずっと地下で活動していたという事になる。
「で、三流テロリストなんかに荷担して、どういうつもりだ」
「これは挨拶代わりだよ」
「挨拶だと」
「私は健在だという、ね」
管狐の周囲に。
無数の気配がわき上がる。
いずれも、凶悪な負の力を秘めている怪異ばかり。なるほど、ウカノミタマはどうしようもないとしても。
失った力を補うために、自分なりに工夫をしてきた、と言うわけだ。
「ウカノミタマは、独善的ではあっても、豊穣の神としての役割を果たそうとしていたが、貴様はその正反対のことをしようとしているのだな」
「勘違いしているぞ、九尾」
「何だ」
「お前のせいで出来たこの世界、ディストピアそのものだ」
SF的な用語が出てきたので、眉をひそめる。
だが、三十年後の世界。
複雑な技術の完成により、様変わりした世界でもある。
それに、確かに。
此奴が言うように、恐怖と絶望が支配する。偽りの楽園。ディストピアという要素も、確かにこの時代にはあるかもしれない。
見た感じ、管狐の力は、強化怪異ほどでは無い。
だが、ウカノミタマの側にいて、ずっと力を受け続けていたのだ。このまま放置しておけば、何かの切っ掛けで。いにしえの神々である、強化怪異に変化する可能性もある。あまり無視するわけにはいかないだろう。
「このディストピアは、必ず潰さなければならないのでね」
「……哀れな奴だな」
「そうとも。 だからこそ、安倍晴明様は。 いや、お前達が封じ込んだウカノミタマ様は、私を見いだしてくれた。 その恩に報いるためにも、私は地下でこそこそし続けるわけにはいかないのだよ」
捕らえられるか。
周囲にいる部下達の配置は悪くないけれど。管狐は、何というか能力の相性が悪い。極限まで気配を消す能力は、正直言うと非常に厄介だ。
しばし、にらみ合いが続くけれど。
先に引いたのは、管狐だった。
「さらばだ九尾。 いずれ、かならずこのディストピアを、劫火に包んでやる」
気配を極限まで消す管狐。
穏行どころの騒ぎでは無い。
力ある空気をフルパワーで展開するけれど。
それでも、管狐を追うことは出来なかった。
ビルにいたテロリストは、大半が高山病になっていたこともあり、特殊部隊に苦も無く取り押さえられていた。
人質の死者はない。
この手の作戦では、人質の何%が死ぬ、ということを前提に特殊部隊は動くものだという話だけれど。
今回は、私の特殊能力がきちんと効いて、テロリスト共を無力化できたのが、早期で被害の小さい鎮圧につながった。
もっとも、管狐の話を聞く限り。
これは、ただの挨拶代わり。
此処にいたテロリストどもは、或いは管狐に洗脳されていたか、或いはそそのかされていただけの可能性も小さくない。
特殊部隊の隊長と敬礼をかわすと。
一緒に来ていた部下達と、警視庁に帰る。
途中、データベースを確認。
管狐は。
登録されていなかった。
少なくとも、前科がないということだ。これは犯罪に手を染めていないという事では無い。
逮捕されていないことを意味している。
警察のやり口は、当然熟知している筈で。管狐の能力もあわせて考えると、捕まっていないのは、不思議とは言えない。
最初に声を掛けてきた、目だらけの怪異警官が、聞いてくる。
「警視正。 これからどういたしますか」
「全国指名手配。 何をしでかすかわからないし、どれだけの勢力を構築しているかもわからん」
「わかりました。 すぐに手配します」
すぐに動いてくれる怪異頸管。
今の時代、指名手配はとても簡単にできるものらしい。
それだけは有り難い。
彼奴は放置出来ない。安倍晴明がどれだけ厄介だったかは、私が一番良く知っている。勿論管狐とは雰囲気が違うけれど。
それでも、第二の安倍晴明が出現して。
なおかつ、以前と同じように、隠然たる勢力を保って。しかも、ウカノミタマとは逆に、社会の安定を一切考えず、ただテロだけに走ったりしたら。
想像するのも恐ろしい。
この世界も、完全に平和というわけではなさそうだ。
しばらくは、私の住む場所もあり。
出る幕も、用意されているかもしれなかった。
警視庁に着くと、牧島が待っていた。
「早速の活躍、お見事です」
「よせやい。 突入したのは特殊部隊だし、私は敵を逃がしてしまった。 情けない話だと思ってる」
「それでも、敵の主力を高山病にして弱体化させたのは金毛警視正です。 特殊部隊にも人質にも、被害が出なくて本当に良かった」
牧島は、嘘を言っていない。
この子は昔から、こういう純粋なところがあって。それは今も、良い意味で変わっていない。
此処だけは、例えディストピアでも良かったと、私は思う。
オフィスに戻ると、しばしスルメを噛む。
当面は、管狐の対処に、全力を注ぐのが良いだろう。
それが終わった後は。
首を振る。
その時は、その時だ。
私が必要とされるか、そうではないかはわからない。
しかし、事実上寿命が消失したこの世界で。
怪異と人の垣根は、今までに無いほどに失われている。
だからこそに、私も。
やるべき事が、あるのかもしれなかった。
エピローグ、闇の中に林立するろうそく
管狐は、ある部屋へと入り込むと。
暗闇のその部屋で。
恭しく、頭を垂れた。
既に人の姿に変じている管狐は。
周囲に、部下としている者達を、従えていた。
「ウカノミタマ様」
返事はない。
しかし、管狐の他には誰もいないはずの部屋で。無数に立てられているろうそくに、火がついていく。
勿論、誰も何もしていない。
この部屋は。
管狐が仕える存在の、神殿。
封じられたウカノミタマの力を、少しずつ解放するために作り上げた、闇の世界なのだ。
「管狐よ」
声が聞こえる。
ウカノミタマは封じられたとはいえ、五千年を経たいにしえの世界の神。その実力は、文字通り圧倒的だ。
だからこそに、少しずつ力を封印の外に出すことも出来るし。
自身を、外で再構成することも出来る。
皮肉極まりない話だが。
ウカノミタマの声は、九尾そっくりとなっていた。
「本日の活動は、見事であった」
「ははっ。 恐縮であります」
「いずれ、私の本体を、封印から解放するためにも。 更に組織を拡大せよ。 そして機会を見て、九尾を殺せ」
「お心のままに」
ウカノミタマの気配が消える。
封印から、これだけ力を送って、直接指示を出しているのだ。それなりに、消耗しているのだろう。
部下達を促して、神殿から出る。
其処は、ある封鎖された病院。
今では心霊スポットとされている其処の地下を改造して、神殿と変えたのだ。なお、結界を張っているので、基本的に人間は近づかない。
周囲にいる怪異達は。
この世界に不満を持つ者ばかり。
今までの時代で、もっとも怪異の周辺環境が良いとは言え。それに不満を持つ怪異は、いくらでもいる。
此処にいる者達も、その一部。
管狐にとっては。
また支配者としての座を取り戻すための、大事な手駒だ。
さあ、次の計画だ。
今度のテロは、更に大規模。
世界に我等がいると示した後は。
更に協力者を募り、この狂った世界を壊すために。聖戦を開始するのだ。
無数に建ち並ぶのは。ろうそく。
火がついているものも、そうでないものもある。
これらは、全てが、駒だ。
ひときわ明るく輝いているのは、諏訪あかねのろうそく。
これは、歴史上もっとも使える駒の一つ。
死してなお、その評価は揺らぐことがない。
自分の行動を聖戦と信じる管狐の狂態を、ろうそくの間に丸まっている影が見つめている。
その影は、世界の間にいて。
あらゆる現実を観測することが出来るのだ。
昔はその力を利用して、世界をよりよくしようとした事もあった。
だけれども。
今では、ただ面白くなるように、世界をいじくり廻すだけである。
影の名前は。
ウカノミタマ。
倒されたフリをして、世界の間に逃げ込んだ、いにしえの神々の生き残り。豊穣を司り、世界に平穏と富を撒く者。
しかしその心は。
既に、闇に病んでいた。
諏訪あかねも、九尾も、気がつかなかったのは何故だろう。
あまりにも、安倍晴明の情報能力が、図抜けすぎていると。
あれは他でも無い。
此処から見た情報を、ウカノミタマがささやいていただけ。全てを、面白おかしく動かすために。
別の世界に視界を切り替える。
建ち並んでいるろうそくの面子がかなり違う。
諏訪あかねが、ウカノミタマの力の一部を得て、神王となった世界。確かに滅びは回避したけれど。神々の間での戦争が深刻化して、人間が再び世界に広まる時代は来そうにもない。
別の世界。
諏訪あかねの努力むなしく、全球凍結して、生物が死に絶えた世界。
氷が溶けた後、まず世界は微生物からやり直し始めた。
何億年も掛けて、前にいた生物の痕跡を根こそぎ消し去りながら、新しい時代を作り始める。
これまた、別の世界。
九尾が、諏訪あかねを撃退した世界。
そこでは、人類が黄金時代を迎えようとしているが。
世界を覆う諏訪あかねの呪いは深刻で、人類は恐怖と絶望に包まれながら、栄光の時代を過ごしていた。
どれもこれもが、面白い。
手を直接下した世界はあまり多くない。
どの世界も、耳元にささやいてやるだけで、簡単に舵を変えるのだ。ましてや、諏訪あかねというとびきりのジョーカーが登場してからは。
実にスリリングで、見ていて飽きなかった。
気がつく。
此方を見ている者がいる。
此処は。神々の空間。
のぞき見をしている事を、悟られるほどもうろくしてはいないはずだが。一体、誰が見ているのだろう。
驚いた。
九尾の狐だ。
「ウカノミタマだな」
「どうして気がついた、九尾の狐」
「千年も過ごしていれば、どうしても特定の視線には気付く。 お前本人と戦ったときのことを思い出せば、その視線が何者かは、割り出すのは難しくなかった」
諏訪あかねを退けた世界の九尾は。
死の運命を乗り越え、こうして立ち続けている。
そして今。
私の存在に気づき。
戦いを挑もうとしているのか。
「其方から此方に来ることは出来ぬ」
「そうだろうな。 だが、覚えておけ。 どんな力だって、いつまでも無敵でいるわけではない」
九尾は、此方に中指を立てて見せる。
西洋から来た、下品な挑発だ。
「私の弟子を好き勝手にもてあそんでくれた礼はいずれかならずさせてもらう。 私がステゴロができない事と、お前を殺せないことは話が別だ。 墜ちた豊穣神よ、いずれ其方に行く。 覚悟しておけ」
「面白い。 その時を待っているぞ」
今まで、ずっと。
ただたゆたうろうそくの群れを、見つめているだけだった。
だが、このような事が起きるなんて。
やはり、怪異は面白い。
人間よりも、理不尽で。
弱いけれど何をするかわからない。
それが、怪異の楽しいところだ。
さあ、宴を準備しよう。
他の世界の九尾は出来なかった事を、やってのけた奴がいたのだ。
どれだけ弱くても、これほど面白い奴は久しぶりだ。
勿論、来る事を邪魔しなければならない。
そうだ、散々周囲に不幸もまき散らしてやらなければならない。
それでも、まだ来るというなら。
直々に相手をしようでは無いか。
嗚呼、楽しみだ。
くつくつと、豊穣の神は笑う。
ふと気付くと、無数のろうそくの明かりに照らされて。その影は、もはや狐でもなんでもない、無数の触手を持つ化け物のように見えていた。
それでいい。
怪異という存在から踏み外してしまえば、それはもはや化け物。
人が怪異になる事で、化け物になるように。
怪異から更に踏み越えれば。その先にあるものは、理もなにもない、ただの壊れた世界の屑だ。
だが、それが故に。
いにしえの神々は、強かったのである。
さあ、来るが良い九尾。
お前が来るのを、楽しみにしている。
私が放った手駒は、まだまだお前の周囲にたくさんいる。その全てを、見極められるかな。
見極めて、そして。
是非、私を殺しに来い。
全てを超越してしまったかなしい豊穣の神は。
もはや神とも魔とも、化け物とさえも言えない体を揺すると。
何処か、もの悲しい声で。
笑い続けていた。
(怪異と人の物語、闇宵ろうそく立て、完)
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