赤く染まる雪原
序、吹雪の中
ひどい負傷から目が覚めて、すっきりしていたためしがない。私を覗き込んでいるのは、眷属の一体。赤紫の毛皮を持つ、少しもこもこ気味のきつねだ。
少しずつ思い出す。
撃たれた。
弾丸を引っこ抜いたことは覚えている。あれは、多分怪異に特化した、殺傷力を上げた弾丸だったのだ。
体が動かない。
「目が覚めました」
「すぐに車に移して」
牧島の声にこたえているのは、あかねか。
担架に乗せられる。かなり手際が良い。乗せているのは平尾だろうか。カトリーナも手伝っている。
そしてどうしてだろう。
視界の隅に、右往左往している芦屋祈里の姿もある。彼奴が敵対意思無く、どうして混じっているのか。
「ちっ。 こんな吹雪の中、ご苦労なこったな」
車のドアを開ける音。
そしてだみ声。
この声は、八雲か。私はもう身動きが禄にできないし、そもそも半分くらいの声は聞こえていないので、ぼんやりとやりとりを見ていることしか出来ない。
確かに担架で運ばれている間、雪が積もったけれど。
赤いハイエースの後部座席から乗せられたときには、中は暖房が効いていて、ちょっと気持ち悪いくらいだった。
眷属は、神社に残る。
ハイエースに牧島が乗ってきた。ついでに、平尾も。
運転するのは平尾らしい。
牧島は額の汗を何度か拭うと。私に回復の術式を掛け始める。さては此奴、ぶっ通しで作業をしているのか。
「もういい。 よせ」
しかし、牧島が反応しない。
喋れていない事に気付いて、愕然。ひょっとすると私は、消滅寸前のダメージを受けていたのか。
なるほど、これは。
形がなくなっていなかったのが、むしろ不思議だったと言うくらいなのか。
ハイエースが動き出す。
こんな状態の私を乗せているのに、動き出しているという事は。多分相当に切羽詰まった状況なのだろう。
少しずつ、頭が働くようになって来ている。
牧島が時々話しかけてきているけれど。
半分も、耳には入らなかった。
気絶して、また目が覚めて。時々、顔や首筋を、牧島がタオルで拭いてくれているのがわかる。牧島は確か体温が低い方だったのに。
触られると、手がとても温かい。
それだけ私の体が深刻なダメージを受けていて。冷え切ってしまっている、ということだろう。
意識も途切れ途切れ。
聞こえてくる声も、はっきりしない事も多い。
ただ、何となく、状況はわかってきた。混濁していた記憶も、少しずつはっきりしてきたからである。
どうやら、敵が平行世界の垣根を壊しつつある事。
無数の世界から、記憶を集約させた存在。恐らくは、異世界のあかねをベースにして、様々な人格を取り込んだ存在である事は、見当がついていた。
思えば、妙だったのだ。
カトリーナにしてからがそうだった。
いくら何でも、あれは変貌しすぎだ。此方の世界のカトリーナが、どう体を捻っても、ああなることはなかっただろう。
異世界のカトリーナの、記憶が宿った存在だった。そう判断するのが、今になっては正しいと思えてくる。
ヒカリも多分そうだ。
強化怪異にされるとき、ミンチにされて投入された子供の。
異世界での記憶が、顕現したのが、あの異常なIQをもつ存在だった、ということなのだろう。
救えない話だ。
そして、合成音声で、私を誘ってきた、敵の黒幕。
あれが、あかねがベースだろうと推察した理由は幾つもあるけれど。決定的だった事は、もう必要ないだろうに、私をわざわざ誘ったことにある。
異世界でも、あかねは私のことを、大事に思っていたのだろう。
ただ、一つ謎がある。
どうして、そのような存在が、そもそも此方の世界に現れた、かという事だが。それについては、直接本人に聞かなければわからない。
激しく咳き込む。
気がつくと、点滴が付けられていた。
「バイタルが乱れています」
「次の神社まで、もう少しです。 師匠、頑張ってください」
牧島の悲痛な声。
あかねも、珍しく声に不安を湛えている。
私なんか捨てて、さっさと逃げれば良いだろうに。
そう思うと、悲しくもなってくる。
だが、どうも違うらしい。山道を通りながら、別の神社に到着。眷属は、いた。真っ白な毛皮の、子狐だ。
眷属の力を使って、急速回復開始。
牧島は露骨に顔色が悪くなっている。側で、あかねと平尾が話をしていた。
「警察が此処を嗅ぎつけるまでの所要時間はどれくらいだと思いますか」
「そうですね。 おそらくは十時間以内でしょう」
「ならば念には念を入れて、六時間で出ます。 祈里さん、八雲師とともに、見張りをお願いします」
「いや、回復を私が代わろう」
牧島が、それを聞いて。
抗議しようとしたようだけれど。ふらりと崩れ落ちる。カトリーナが、慌てて支えていた。
まあ、当然だろう。
ぶっ通しで術式を使い続けていたのなら、そうなって当然だ。
手際よく、平尾が牧島を、ハイエースに運んでいく。
私はと言うと、奥の院に連れて行かれて。其処で横たえられ。複雑な表情の芦屋祈里が、回復をし始めていた。
「本来だったら、貴様の喉を、この場で切り裂いてやりたいくらいなのだがな。 しかし、今は裏切られ、利用された怒りの方が大きい」
わざわざ、耳元でそんな事を言う芦屋祈里。
余程に、使い捨てられたことが悔しかったのだろう。
それにしても、異世界でもあかねはあかねだったということだ。此奴ほどの使い手が、良いように使い捨てられるなんて。
なかなか、考えられることでは無い。
側で、あかねが話をしている。
「例の術式を使うには、師匠の回復が絶対条件です。 私もこれから回復に取りかかりますから、平尾さんも見張りに徹してください」
「わかりました。 諏訪警部も、無理をせずに」
「大丈夫。 この程度でどうにかなるほど、柔ではありませんよ」
あかねも、おもむろに回復を開始。
例の術。
何となく、見当がついてきた。いずれにしても、今の私がそれをやれば、文字通りの自殺行為になる。
「諏訪あかね。 このままだと、確実に警察に追いつかれるぞ。 一度や二度なら蹴散らせるが、それ以上はまずいのではないか」
「出来るだけ接触そのものを避けます。 警察官を傷つけでもしたら、例え勝っても取り返しがつきませんから」
「生ぬるい話だ」
「そもそも、貴方と行動を共にしている時点で、色々とまずいのだということを理解して欲しいですね。 特殊措置です。 今は、正直な話、手段を選んでいる場合ではありませんから」
場合によっては、警察手帳を、捨てるしかない。
そうあかねは言う。
何だか、北米の映画に出てくる警官みたいな台詞だ。
だが、わかる。
あかねは本気だ。
そしてこういう奴だからこそ、信頼も出来るのだと。
少しずつ、回復が進んできた。全身のダメージが、緩和され始めているのがわかる。だが、時間切れ。
ハイエースに移される。
意識が回復した牧島が、また回復に取りかかってくれる。
車が出るのがわかった。
少しずつ、意識がクリアになってくる。
どうやら、バイタルも、安定してきたようだった。
「意識がはっきりしてきていますね」
「もう少しで、会話が出来るようになるかも知れん。 大した回復力だ。 千年を無駄に生きていないな」
「こんな時にまで、そんな嫌みを? ぶれませんね」
「やかましい」
あかねと芦屋祈里が、陰湿なやりとりをしている。
げんなりした私は、目を閉じると、無理矢理眠る。
目を覚ます度に。
少しずつ、回復が進んでいるのがわかった。
多分、北海道中を、逃げ回っているのだろう。警察には、まだ幸いなことに、追いつかれていないようだが。
それも、時間の問題だ。
この国の警察は有能だ。もう、追いつかれるまで、そう時間は無いとみて良いだろう。いつまでも逃げ切れるものではない。
この様子では、あの黒幕。
異世界のあかねは高笑いだろう。
もはや放置しておくだけで、完成までこぎ着けることが出来る。後は、米軍が無差別にバンカーバスターをうち込んでくることだけを警戒すれば良い。流石に都市部もある北海道に、水爆つきのバンカーバスターを無数に叩き込むほどの勇気は、米軍にもないだろうが。国際社会から、どのような非難を受けるか、わかったものでは無いからだ。
通信が入ってくる。
各国は、表向き静かだ。
だが、現実に、妙な亀裂も入り始めているという。
「太平洋上の小国、ヴァンジュラ連邦からの通信が途絶しています。 軍のクーデターかと思われます」
ニュースキャスターが淡々と言っている。
映像が出る。
其処には、巨大な蛇のようなものが映り込んでいた。
間違いない。
強化怪異だ。
「何でしょう、これは」
「軍の生物兵器という噂ですが、よく分かっていません。 空港は閉鎖され、外に情報も漏れてきません。 ヴァンジュラは元々、資源を使い果たした小国で、産業も無く、失業率は六割を超えていました。 以前からクーデターが懸念され、政情不安が高まっていた矢先の事件と言う事もあり……」
強化怪異なのは、間違いないだろう。
しかし、あれは自然発生するようなものではない。
いや、まて。
ひょっとして、世界の法則が。
既に其処まで崩れかけているのか。
だとすると、もはや一刻の猶予もないかもしれない。
ハイエースが止まる。
また、別の神社だ。しかし、此処には眷属がいない。ハイエースの中に、あかねが携帯式の金庫を置いて、金を入れていた。
レンタカーの業者に、連絡しているようだ。
「いいのか。 もう後がないぞ」
「ええ、わかっています」
皆に集まるよう促すと。
あかねは芦屋祈里の霊具を使って、皆をまとめて空間転移させる。
場所は、北海道のまた別の場所。
おそらく、芦屋祈里がアジトにしていた廃ビルだろう。地下空間はそれなりに広く、一応の通信設備も整っているようだった。
「此処なら、二日程度は保つだろうがな。 しかし、見ての通り、守りには適しているが、脱出できる経路がない。 踏み込まれると、脱出は困難だぞ。 その上、もうこれで長距離テレポート出来る場所は、あらかた警察に目をつけられているはずだ」
「明日中には決着を付けます」
「正気か?」
困惑した様子の芦屋祈里に、あかねは返す。
私は何も言えないし、見ているしか無い。
あかねはそのまま、姿を消した。何かやる事があるらしい。
担架は、奧にある小部屋に。
疲弊しきった様子の牧島の額を、カトリーナがぬれタオルで拭いている。もう容体は安定しているから休め。そう言ってやりたいけれど、実のところ、まだ喋ることも出来ない。何とか意思疎通したいのだけれど、それさえ許されないのは、とても口惜しい。力が弱い怪異の中には、こういう忸怩たる思いを抱えて、苦悩している者も多いと聞いている。何だか悲しい話である。
気分転換に、だろうか。
芦屋祈里がテレビを付けた。
先ほどの、ヴァンジュラの続報。空港から脱出したという、軍の司令官が会見を行っている。
国を化け物に乗っ取られた。
頭から血を流している彼は、そう悲痛な声を上げていた。
化け物は軍のクーデターに荷担すると見せかけ。利用した後、クーデター軍を壊滅させたという。
そして国を乗っ取ると。
国民を虐殺し始めたというのだ。
やはり、起きる事が起き始めたか。
「強化怪異が、勝手に国を乗っ取ったという雰囲気では無いな。 おそらくこの司令官がクーデターを起こした直後に、用済みと判断されたのだろう」
芦屋祈里の分析はごく当たり前で。
私も、反論が思いつかない。
平尾が部屋に入ってくる。
「金毛警部は」
「かなり容体も安定してきました。 これなら、近いうちに喋ることも出来るようになると思います」
「医薬品一つ買いに行けないのが悔しいな」
平尾は目立つ。
だから、外に出るなと、あかねに先ほど言われていた。まあ、当然の判断である。普段は足で情報を稼いでくる平尾だから、口惜しいだろう。
芦屋祈里が、回復を代わる。
カトリーナは、見張りに立つから、平尾に休んで欲しいと提案。霊的武装を手にしているカトリーナの実力は、何度か見たが、平尾に全く劣らない。
「無理はするな。 何かあったら、即座に皆を呼べ」
「はい」
頷くと、カトリーナは。
すぐに、部屋を出て行った。
疲労困憊の牧島が、その場に崩れそうになるので、平尾が促して別室に。
部屋には、私と芦屋祈里だけになる。
「本当だったら、貴様をくびり殺す最大の好機なのだろうが」
口惜しそうに。
本当に悔しそうに、芦屋祈里は言う。
私に対する憎悪だけを糧に、一族が生きてきたのだ。その憎悪も、継承してきていると聞いている。
こんな事をしなければならないのは、本当に屈辱だろう。
だが、使い捨てにされた事。
それに、平行世界のあかねがベースになっていると思われる敵黒幕の方が、より害悪が強いという事を理解してくれたのは立派だ。
ただし、芦屋祈里を擁護も出来ない。
全てが終わったら、出頭して欲しい所だが。
それも難しいかもしれなかった。
1、身を潜めて
ようやく、口がきけるようになって来たのは、おそらくこの狭いアジトらしき場所に入れられて、丁度半日が過ぎた頃。
睡眠と覚醒を繰り返す度に、体調が良くなっているのが分かった。
おかゆを差し出されたので、ゆっくり食べる。
まだ体調はとんでも無く悪いけれど。
喋ることは、出来るようになっていた。
牧島が戻ってきている。
芦屋祈里は、外に出たようだ。多分見張りをしているか、それとも姿を隠蔽して偵察でもしているか。
どちらにしても、このアジトも。二日もてば良い方と言われていた。
勝負をかけるなら、確かにもうすぐにでも行わないと、まずいだろう。
おかゆを食べ終える。
スルメが食べたいけれど、百%却下されるので、口にはしない。今は言うことを反論されるだけで、精神が相当なダメージを受けるだろう事が確実だ。
牧島が回復を掛けてくれているが。
大分、負担が小さくなっているようで、何より。
喋り掛けると、返事もしてくれる。
「平尾とあかねは」
「平尾さんは、隣の部屋で寝ています。 諏訪警部はわかりません。 休んではいるようなのですけれど」
「あいつらしいな」
あかねは二日や三日程度の徹夜なら、余裕をもってこなす。体力があると言うよりも、単純に鍛え方が違うのだ。
「お前は多分、巻き込まれたとしか思われていないはずだ。 いざというときには、投降するんだぞ」
「……」
無言で、牧島は首を振る。
これはおそらく、投降などはしないだろう。こんなまだ未来もある子供を、殺させてはならない。
私みたいな目にあわせてはいけないのだ。
もう、時間もそうないはず。
あかねは敵地の割り出しと、突入の準備を整えているだろうか。
突入しても、勝ち目は限りなくゼロに近い。
何しろ、相手もあかねなのだ。
此方が何をしてくるか。どんな手札を持っているか。それくらいは完璧に把握した上で、最良の迎撃策を採ってくるだろう。
あかねは私が知る限り、最高クラスの術者であり、他の能力も著しく高い。
だが、それが故に。
平行世界のあかねとはいえ、敵に回っている今は、ぞっとしなかった。
あかねが戻ってきた。
穏行を使って、外に出ていたのだろう。
どてらを着込んだ汚い男もつれている。言うまでも無く八雲だ。
「状況が悪化しました。 既に警察は、この町に潜伏していることを掴んでいると見て良さそうです」
「動きが早いな」
「というよりも、陰陽寮が全力でバックアップしているとみて良いでしょう。 下手をすると、エクソシストも」
あかねが淡々と指摘すると、皆が押し黙った。
無理もない話である。
あかねほどではないにしろ、陰陽寮にはスペシャリストが揃っている。奴らが此方の追跡に全力を挙げていたら。
それこそ、何処に隠れようと、いずれは発見されてしまう。
ただ、警視庁は混乱が続いているはずだ。
唐突な警視総監の失踪。
戻ってきたかどうかはわからないが。戻ってきた後、どうなっているかもわからない。この混乱が収まる前に。
どうにかして、敵の本拠に押し込まなければならない。
牧島に手を貸してもらって、上半身を起こす。
ただでさえ弱いのに、この半死半生の状態。一応、最後の手段は用意してあるけれど。もしも最終兵器とやらが完成してしまったら。一矢報いることが出来る可能性は、極めて低くなる。
この世は終わりだ。
「どうにかして、エクソシストとだけでも、共闘できませんか」
提案してくるのは平尾だけれど。
恐らくは無理だろうと、芦屋祈里が一蹴。
というよりも、芦屋祈里が此処にいる時点で。エクソシストが、味方をしてくる可能性は皆無だ。
「これから、私は。 敵本拠を割り出す邪法に取りかかります」
皆の悩みを見越して、だろうか。
あかねが言うと、牧島を連れて部屋を出て行く。私は嘆息する。あかねには、そんなことはさせたくないのだが。
今はもう、他に手段が無い。
あかねの提案は、こうだ。
使う術式は、極めて簡単。
失せ人を探すもの。
問題は、そのやり方である。
魔法陣を書いた上に、人形を並べていく。人形と言っても、市販しているようなものではなく、わら人形などの呪術に使う専門のものを用いる。その人形には、私やあかね、芦屋祈里、つまり関係者の血を一滴ずつ垂らす。
その上で、人形に命を吹き込む。一種の式神と化すのである。
そして、人形達を。
魔法陣の上で、相争わせる。
この間、魔法陣を見てはならない。一時間ほど掛かる。生き残る人形が出れば、術式は成功だ。
生き延びた人形というか、式神を生け贄にして。
失せ人を探す術式を用いる。
勿論、反応は一番近くに起きるが。もう一つ、小さな反応が出るはず。その小さな反応を頼りに、探し出せば良い。
これは文字通り、一種の蠱毒。
最悪の邪法の一つだ。
本来の蠱毒は、容器に無数の虫を入れ、それを共食いさせる。そして生き延びた一体を生け贄にして、凶悪な呪いを展開する、というものだ。
人形を使った蠱毒は、これよりも更に難易度が高く、邪法中の邪法と言っても良い、禁断の技。
リスクの高さも尋常では無い。
元々邪念が籠もりやすい人形を用いるのだ。しかも、それを式神化までして、相争わせるのだ。
この術式を使って、何かとんでもなくタチが悪いものを呼び寄せてしまう可能性もある。実際、陰陽寮でも、非常に危険な術式だと報告されているのだとか。
だが、今は。
そうでもしないと、敵の本拠に迫れないのだ。
作業には、小さな部屋を使う。
この部屋を、絶対に覗いてはならない。
黙々と準備を始めるあかね。確かに、此処を嗅ぎつけられた場合、もう脱出が出来る状況では無くなるのだし、当然か。
私も、出来るだけ早く動けるようになっておかないとまずい。
「おい、キツネ婆」
魔法陣の作成に取りかかっているあかねを横目に、八雲が言う。
そういえば此奴は。
平行世界から流入する記憶の影響を、受けていないのだろうか。
「何だ」
「どうにもわからねー事がある。 テメーが言うとおり、平行世界がまとまろうとしているのは事実だろうな。 強化怪異をドカドカ作った事が、切っ掛けになっているのも事実だろうよ」
だが、と八雲は言葉を切る。
此奴は、何が言いたいのか。
「問題は、よその世界のあかねのクソガキがベースになってるとか言う黒幕だ。 そいつはそもそも、どうして発生したんだよ」
「さあな」
「何か仮説は無いのか」
「まだ情報が少なくて、仮説が立てられるほどじゃあない」
舌打ちした八雲が、再び言葉を切る。
あかねが、禍々しいわら人形を複数準備。それに、血を垂らし始めている。牧島や平尾、カトリーナも作業に加わっている。
魔法陣が完成。
蠱毒が、始まった。
「そもそも、テメーを此処に置いていく方が良いような気もしているんだがな」
「ああ、そうかもしれないな。 だがもし、私をベースにした最終兵器が完成してしまった場合。 止める手は一つしか無い。 その手は、少し前から準備してある」
「何だそれは」
「同一化だ。 そうして、コントロールを乗っ取る」
平行世界が、まとまろうとしているからこそ、出来る荒技。
私と、最終兵器化している九尾の狐を融合させる。そうすることで、頭脳部分を私が掌握するのだ。
事実、理論的には出来る。
そのための準備もしてある。
勿論、そうさせないのが一番なのだが。
しかし、もしもだ。
最終兵器化した、究極の強化怪異、白面金毛九尾の狐が完成してしまったら。もはや、他に手は無いだろう。
ちなみにこの呼び方。
平行世界の記憶が流れ込んだ警官が口にしただけではない。
元々、本来の私の呼び名だ。
たいそうな呼び名だけあって、究極の妖怪とされる存在に相応しいが。実際の私は、この通り。
世の中、こんなものである。
「まあ、テメーが自己犠牲で最終兵器を止めようが、それはどうでもいい。 だが、その体で出来るのか」
「出来る」
「……まあ、そう言いきるなら、好きにしな。 俺としては、その最強強化怪異と、戦ってみてーんだがな」
相変わらずぶれない八雲だ。
此奴の事だ。平行世界でも、こんな性格で、周囲には嫌われまくって、それでもなお好き勝手をしていたに間違いない。
いきなり、世にもおぞましい絶叫が轟く。
蠱毒が開始された部屋からだ。
式神化した人形は、周囲を欺いてでも、部屋を覗かせようとする。魔法陣の機能がしっかり働き、残りが一体になるまで。何が起きても、部屋を覗いてはいけない。
死んだ親の声を真似たり。
脅したりなだめたりして。
凄まじい憎悪の塊となった人形は、儀式を中断させ、此方を騙そうとするのだ。
式神は、人の力から産み出された存在。当然、人同様に、悪知恵も働く。悪意だって、持ち合わせている。
牧島が、耳を塞ぐ。
震えている彼女を、カトリーナが慰めていた。
ドガンと、凄い音。
部屋の戸が、内側から叩かれたかのよう。
八雲は平然としていて、噛み煙草をくちゃくちゃしているが。
流石に、平尾は顔色を変えていた。
「大丈夫なのでありますか」
「心配ない。 人形は魔法陣から出られない。 彼奴らは、色々な手を使って、人間を騙して、部屋に入らせようとするのだ」
だから、邪法中の邪法。
いきなり泣き声がし始める。子供の声で、哀れっぽく、出して、止めさせてと、懇願している。
勿論、これも式神の手の一つ。
心が痛む。
実際問題、あかねの力の一部なのだ。それをこんな風に、擬似的な生命を与えたあげく、使い潰そうとしているのだから。
芦屋祈里が、時計を見た。
「牧島、交代だ」
「はい」
回復の交代の時間。休んでいた牧島が、芦屋祈里と代わる。
二人が総力で回復してくれているからか、かなり体が楽だ。この辺りは、怪異である事が便利である。
この様子で行けば、敵本拠地に辿り着く頃には、どうにか歩くことくらいはできそうだ。ただし、最強強化怪異と接したときに力を振るうために、空気を操作する力は、可能な限り温存しなければならないが。
牧島が、回復に取りかかり始める。
芦屋祈里が立ち上がると、戸を一瞥。
戸の内側からは、色々な音が聞こえ来ている。此方を脅す者もある。ケダモノの雄叫びのようなものもある。
だが、声は。
少しずつ、弱まっているようだ。
ある時点で。
全く音がしなくなる。
「まだ少し時間があるのに」
「罠です。 黙っているように」
不安そうに言うカトリーナに。
今まで黙っていたあかねが、一言で事実を告げた。
いきなり、扉を内側からひっかく音。凄まじい呪詛の声が聞こえ来る。あかねが一番つらいだろう。
自分で作り上げた式神も同然なのだ。
それを殺し合わせたあげく、生け贄にして、術式を展開するのだから。
ほどなく、時間が経過。
最後に絹を裂くような絶叫が轟いて。それきり、本当に静かになった。
戸を開ける。
中の惨状は凄まじい。ばらばらになったわら人形が、魔法陣の内側に、飛び散るようにして散らばっている。
凄まじい血。
明らかに、使った血よりも多い。
真ん中に一つだけ残っていたわら人形を、あかねが手袋をして掴みあげる。そして、術式を開始すると言った。
魔法陣はそのままに。
芦屋祈里が塩を撒いて、更にその上から術式を掛けて、怨念を浄化。この辺りは本職だけあって手慣れている。
あかねは別の魔法陣の上に、血だらけのわら人形を置くと。
祝詞を捧げ始めた。
敵の居場所が。
間もなく、わかる。
此処で突き止めるべきは、敵の黒幕ではない。最終兵器として準備されている、私の分身の居場所だ。
儀式が、続く。
平尾が、不安そうに此方を見た。
「上手く行くのでしょうか」
「上手くいくさ。 行かなければ、先ほどの儀式で払った犠牲の意味がない」
「犠牲、ですか」
「わからないか。 あかねの寿命だ」
おそらく、数年という単位で縮んだはずだ。あかねだからその程度で済んだとも言える。他の術者だったら、その場で力を吸い尽くされて、干涸らびていてもおかしくは無かったのだから。
ちなみに、私もかなりそのダメージを引き受けている。体にでは無く、寿命に、である。元々いくらでも生きられる体だけれど、きちんと寿命はある。寿命にダメージが来ると、長期的に、体へダメージが帰る事になる。
だから、これを使う事を予想したとき、少しでも回復しなければならなかったのだ。
魔法陣の上の人形が、身をよじると、絶叫しながら燃え上がっていく。
焼き払われ、炭だけになって。
それが吹きすさぶ風にもてあそばれながら、消えていく。
劇的な光景だ。
生け贄が、捧げられて。そして、術式が成ったのだ。
あかねが額の汗を拭いながら、呼吸を整える。当代随一の術者でこれだ。どれだけの負担が掛かる邪法だったのかは。この場の誰にでも、わかっていただろう。
「地図を」
「これでいいか」
芦屋祈里が、ロードマップを出してくる。
頷くと、あかねが一点を指さした。
また、北海道の何も無い原野。
網走の近くである。
確か此処は、以前一度だけ調べて、何も無しと判断した場所の筈。だが、あかねは、間違いなく此処だと言った。
ならば、そこに行くだけの事。
隠れ家を出る。
ハイエースに機材を詰め込んで、皆で乗り込む。八雲だけは、おんぼろの自家用車で、その後をついてくる。
さて、問題は此処からだ。
この国の警察は無能じゃない。
しかも、現状から考えて、警察以外の勢力も、敵に回っている可能性が高い。勿論、平行世界のあかねをベースにした黒幕も、手ぐすね引いて待ち構えているだろう。
ハイエースを二台にして、分乗した方が良かったかも知れない。
横になって、少しでも消耗を避けている私と。
あれだけ回復の術式を使ったのに、平然としている芦屋祈里は、ある意味対照的。ただその芦屋祈里も、あかねの化け物ぶりには愕然としていたようだし、色々と世の中は不可思議である。
移動開始から、一時間経過。
今の時点では、待ち伏せもない。追跡してきている車もいない様子だ。
だが、それもいつまで保つか。
不安そうに、牧島が。
助手席に座っているあかねに、身を乗り出した。
ちなみに運転は平尾である。
「諏訪警部、後どれくらいでつきそうですか」
「三時間半というところでしょうね。 ただし懸念が二つ」
「二つ……」
「一つは天候です。 急速に雨雲が発達しているとかで、多分途中で吹雪になります」
さらりとあかねはいうが。
勿論吹雪の中では、想定速度で運転など出来るはずがない。到着は、更に二割か三割、多めに時間を考えないと行けないだろう。事故に巻き込まれるリスクも、当然のことながら跳ね上がる。
平尾は相当な運転上手だが、これはレンタカーで、使い慣れているものではないから、更に安全を考えなければならない。
「雨雲を避けて運転は出来ませんか?」
「無理ですね。 丁度横殴りに来ます。 三十分くらいで直撃するでしょう」
あかねの言葉は冷静で、むしろ淡々とさえしていた。
更に、もう一つの懸念が深刻である。
「もう一つはガソリンです」
「全然、足りないですか?」
「ガソリンスタンドで補給するときが、完全に無防備になります。 警察に囲まれたら、手を挙げるしかありません」
勿論それは警察だけでは無い。
強化怪異に囲まれても同じだ。
更に言うと、北海道において、足を失うことの意味は、想像以上に大きい。車で三時間半かかる距離だ。
たとえばあかねや芦屋祈里のように、高速移動の術式が使えれば、現地までさっと進むことも出来るだろうが、それでも移動までに相当な消耗がある。
ましてや、半死人も同然の私や。
ひよっこの牧島。
それに術がそもそも使えないカトリーナや、平尾では、どうにもならないのが実情だ。現時点で、戦力は一人でも多く欲しいのである。
「ガソリンの残量は、現地到着まで、ぎりぎりという所でしょうね。 平尾さん、近くのガソリンスタンドは」
「数軒ありますが、寄りますか」
「ハイリスクですが、仕方が無いでしょうね」
私は反対だけれど、正直身動きできる状況にない。吹雪で立ち往生でもして、更にガソリンが切れたらどうにもならない。
かといって、公共機関は更に危険が大きい。
利用するのは最後の手段になる。
近場のガソリンスタンドに停止。此処で、ガソリンがまだあるという八雲は先に行った。まあ、二手に分かれるのも良いだろう。それに八雲ほどの使い手になると、簡単に敵に遅れを取ることも無いはずだ。
セルフサービスのガソリンスタンドで、手早くあかねが給油開始。
空の雲行きが怪しくなってきた。
パトカーが通り過ぎる度、平尾が眉をひそめている。
流石に、ここまで来てしまうと、どうしようもない。警察も大混乱の筈だ。そもそも対怪異部署のメンバーでさえ、私を敵視する者が出始めてしまっていた。怪異が存在しない世界の記憶まで流れ込んでいるようだし、収拾がつかないだろう。重要参考人として、私やあかねをどうやっても確保しようと、躍起になるだろうが。
ポータブルラジオで、給油の間にニュースを聞く。
どうやら、世界的に大混乱が加速している様子だ。彼方此方で、とんでも無い事件が起きている。
たとえばニューヨーク。
いきなり人間がモンスターになる事件が、立て続けに発生。その場で人間を襲って、喰った奴もいたそうだ。
警官隊に射殺されたモンスター化した犯人の映像も公開されたそうだが。
まあ、十中八九、傾いた結果だろう。
普通は、そこまで急激な変化は出ない。傾く奴は前からたくさんいたけれど。其処まで急激に、人ならざるものへ変わったりはしないのだ。やはり、もう世界の法則は、取り返しがつかない所まで、壊れ始めている。
欧州でも、似たような事件が連続して起きている。
吸血鬼や狼男が現れて、警官隊と大立ち回りなどという事件が、複数あったそうだ。中には、警察署が壊滅させられて、三十人以上の死者が出た例さえ起きていると言う。
それだけではない。
中国では、なんと北京の上空を、龍が舞った。
膨大な粉塵に隠れていて、その全容は見えなかったが、それでも長さは数キロに達していたという。
だが、これはいくら何でも強大すぎる。
多分おかしくなっている世界の法則に触発されて、歪みがもっとも有名な怪異の姿を取ったのだろうと思われる。
私自身も、変な記憶が、次々浮かんで来る。
以前、いわれた、思い出してはいけない記憶、だろうか。
六人目の夫のこと。
六人目と行っても、実際の順番は三人目だ。
七百年ほど前の事。
色々あって、私を妻にした男がいた。そいつのことは、どうしてか薄ぼんやりとしか思い出せない。
ひどい夫だったのか。
それとも、他に理由があったのか。
だが、死んだ理由は、はっきりしている。
多分、私が殺したのだ。
死んだ理由ははっきりしていても。
どうしてそうなったのかは、さっぱりわからない。私としても、其処からどう記憶を掘り返して良いのか、わからないのだ。
牧島が頭を抱えて、カトリーナに背中を撫でられていた。
「ごめんなさい、カトリーナちゃん」
「平気ですよ。 それに私も、おぞましい記憶が、どんどん流れ込んできていますから」
平然としているカトリーナだが。
もしも、東欧で暴虐の限りを尽くした醜悪な別の自分の記憶が流れ込んでいるとして、大丈夫なのか。
もし平気だとすれば、凄まじい精神力だ。
雨が降り出し。
それが、すぐ雪になる。
「懐かしい。 東欧の空も、こんなふうに雪が降った」
カトリーナが、大人びた表情で言う。
そんな記憶なんて、ない筈のくせに。もう、世界は、滅茶苦茶に混ざり合っていて、何が本当かさえもわからない。
しかも、これだけ混ざった世界だ。
黒幕を潰して、最悪の強化怪異を倒したところで。本当に元に戻るのだろうか。その保証さえ、ない。
壊れた世界は、そのままの可能性も高い。
牧島が、頭を抱えたまま、喋り始める。
「金毛警部が、街を焼き払っていくんです。 凄く強くて、警察も自衛隊も歯が立たなくて、私のお父さんとお母さんも殺されて。 警部は、笑っているんです。 なすすべ無く殺されていく、弱い人達を見て。 そんなこと、絶対にしないって、分かっている筈なのに、否定出来なくて」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、牧島が独白する。
それはきっと。
私が、強い力を持っている、別の世界の記憶だろう。
平尾が、今度は話し始めた。
運転しながら。まるで愛想がない巨漢は、ただ静かに、その出来事について、語っていく。
「俺の中にも、似たような記憶がある。 だがその世界では、怪異の討伐に成功していたな。 だが、その後が地獄だった」
能力者狩り。
怪異になりそうな奴を探し出して、殺す事。
その二つが、半ば合法化されたのだ。
変わった奴は、その場で締め上げられ。特性があると判断されたら、その場で射殺された。
中世の魔女狩りが。
全世界規模で、最悪の形で行われ始めたのだ。
誰もが息をひそめなければならなかった。何もかもが普通な奴なんていない。見かけが変わっている。個性的だ。
それだけでも、狩られる要因となった。
「諏訪警部は特にひどかった。 八つ裂きにされて、生首を槍に刺されて、魔女を殺したと大喜びする人間共が、祭のようにはやし立てていた」
「ひどい……!」
「罪悪なんて感じている奴はいなかったな。 正しいことをしていると、その場にいる全員が考えていたよ。 俺も含めてな。 許せん。 俺も含めてだ」
平尾が、珍しく、感情に怒りをむき出しにしていた。
吹雪がひどくなってくる。
速度制限もかかりはじめていた。
先行している八雲から、連絡が来る。
「おいでなすったぜ。 警察だ」
「囲まれたか」
「いや、此方をまだ探している様子だな。 多分ガソリンスタンドから、足がついたんだろうよ」
へらへらと、八雲が笑いながら言う。
経路を変更。
あかねが指示して、すぐに敵本拠へのルートを変えた。やはり、ガソリンの補給は、リスクが大きかったか。
私は、横になったまま。
芦屋祈里が使っている回復の術に包まれたまま、言う。
「この様子だと、辿り着いてもそもそも敵本拠に突入できるかさえもわからんな」
「師匠」
「わーってる。 私がそう後ろ向きじゃあいかん」
咳き込んでしまう。
まだ、完全回復には遠い。
舌打ちした芦屋祈里に、喋ることは禁止と釘を刺された。
吹雪がますますひどくなる。
既に、白いカーテンに包まれたも同じ状況だ。これで事故でも起こしたら、それこそ取り返しがつかない。
倫理的な問題では無い。
本当に、にっちもさっちもいかなくなってしまうからだ。
八雲は、周囲にまだパトカーがいると告げてきているが。
此方には、まだ警察は姿を見せていない。早めに警戒域を抜けないと、辺りを封鎖されかねない。
非常線を張られると面倒だ。
対怪異部署は、警察の一部。
身内のやり方には詳しいし。それがどれだけ面倒かも、よく分かっている。
相手を好き勝手殺傷して良いとか言う条件だったら、もう少しや利用はあるが。残念ながら、此方はテロリストでもないし、反社会主義者でもない。
可能な限り犠牲を抑えるのは、当然だ。
街を、抜ける。
吹雪の中、人気がない道を行く。舗装道路に、見る間に雪が積もっていくのが、目に見えてわかる。
その内車が身動きできなくなる。
既に行程の半分はクリアしているが。残りの半分を、どうやったらクリアできるのか。吹雪は収まる気配もなく。
あかねによると、更に過酷になるのが確実だ。
八雲も既に街を抜けているようだが。向こうも、とっくに立ち往生コースに入っている。ハイエースの強力な走破能力を駆使して進んではいるが、どこまでいけるかは、はっきり言ってわからない。
「此方八雲」
「どうですか、状況は」
「俺の愛車はもう駄目だな。 しばらくはうごけんぞ」
「吹雪が止むまで、二時間という所です。 此方も一旦停車して、様子を見ます」
あかねがそう言うと。
部屋の中に、温度遮断の術式を掛けた。エアコンによるバッテリーが飛ぶ事態をさけるためである。
エンジンを同時に切り。
外に出ると、てきぱきとハザードランプを設置。
これで、追突される危険は減る。
吹雪が収まった後、様子を見て、再発進することになるが。このまま立ち往生して、敵地までたどり着けなくなる可能性も高い。
あかねがハイエースの中に戻ったところで、芦屋祈里が挙手。
「もうこうなったら、見つかることを覚悟の上で、式神でも使うか? 全員を乗せられる奴の手持ちはあるが」
「止めた方が良いでしょうね。 先ほど空を見ましたが。 おそらく陰陽寮が放ったらしい式神がいました。 それも、数十体」
「手回しが早いな」
「本当に。 この事態の黒幕を探す方に、総力を注ぐべきなのだろうに」
あかねが不満を漏らすが。
元々、陰陽寮はそういう組織の筈だ。
敵対していた頃から、内部が腐りきっていたことは感じていたし。あかねから直接内部の話を聞いて、随分呆れもした。
ともかく、今は式神を使ってしまうと、おそらく中途で捕捉され、下手をすると戦闘機や攻撃ヘリが飛んでくる。
待つしか、ない。
もどかしい時間が過ぎていく。
その間も、記憶には、様々な異常情報が、泡沫のように浮かんでは消えた。
2、混乱の中で
見上げ入道は。
混乱の中で部下達をまとめながら。憮然とせざるを得なかった。
ついに、組織内での幹部は自分だけになった。
というのも、少し前に、詩経院が変死したからである。芦屋祈里が負けて失踪してから、ほとんど日も経っていない。
何が起きたのかは、さっぱりわからない。
降霊術の大家であった詩経院は。
自室で狂死していた。
凄まじい形相で喉をかきむしり、目を剥き出しに、舌をつきだして。全身を無茶苦茶に捻って、死んでいた。
検死の知識がある部下が見たが。
原因はわからないと、小首を捻るばかりだった。
「凄まじい痛みの中で死んでいったようですが、それにしてはおかしいです。 外に悲鳴なり苦痛なりが漏れるはずで、誰もそれを聞いていない」
「確かに、部屋の壁はこの薄さだしな」
見上げ入道が軽く叩いてみるが。
反響からして、壁は本当に薄い。
壁の薄さを揶揄される住宅チェーンがあるが、それと同レベルだ。まあ、元々放棄されていた旧軍の施設を、無理矢理直して使っている場所だ。仕切りも後から付けているのだし、それは仕方が無い。
「いっそ、奴自身を呼び出すか」
「それが……」
挙手したのは。
詩経院の手ほどきで、降霊術を学んでいた強化怪異である。ちなみに河童だ。正確には河童の地方種で、ガラッパという。
「俺が呼び出してみたところ、どうしても反応しないのです。 もう詩経院という存在は、魂からして消滅しているとしか」
「……わからんな」
「何がだ」
全員が振り返ると。
其処には、フードの影がいた。
戦慄が、見上げ入道の背中を駆け上がる。
少し前に、見上げ入道も、このフードの影の正体を知らされた。その老いた顔を見たときは愕然としたし。戦慄もした。
だが、それ以上に。
考えられる事は、一つしか無い。
「まさか、此奴を殺したのは」
「間接的には私だな」
「間接的……?」
「此奴はな、耐えられなかったのだ。 見ろ」
フードの影が、指さした先を。皆で見る。
其処には、無数の文字が書き連ねられていた。
平行世界の記憶。
その中には、制御が効かなくなった九尾の狐によって、日本全土が焦土にされていくものもあった。
詩経院はなすすべ無く、その世界で焼き尽くされていくしかなかった。
絶望と恐怖。
破滅と困惑。
全てが、文字にも。書かれている内容にも。
雄弁に現れていた。
「愚かしい奴だ」
「……一つ伺いたいのですが」
「何か」
「この世界が変わった後。 本当に我等が生きられる世界が、訪れるのでしょうね」
鼻で笑うフードの影。
信じてついてきた相手だが。それも、急激に揺らぎ始めているのがわかる。此奴の目的は、本当は何だ。何となく、わかり始めているのだが、どうしても形に出来ない。何か、途方もないおぞましい怪物が、この狭い空間の中、とぐろを巻いて舌を出しているように思えてならないのだ。
一旦解散するようにと言われて、全員が散る。
見上げ入道が、抗議する暇も無かった。見上げ入道自身は、顎をしゃくったフードの影に、ついていく。
「お前も、平行世界の記憶が流れ込み始めているな」
「はい。 世界が地獄になって行くものも、多々ありました」
「それでいい。 この世界は、地獄に落ちるべきだ。 全てが劫火に焼き払われた後、ようやく再生の時を迎えることが出来る」
「其処までの破壊が必要なのですか」
必要だと、即答される。
何も言えない。
不意に、巨大なモニタがある部屋に出た。オペレータが数人、機械をいじくって作業をしている。
全員が洗脳処置を施されているようで。何一つ文句も言わず、幾つもの情報を処理し続けていた。
「結局今回も、最後までついてきたのはお前だけだったな」
「……」
貴方が切り捨てたのでは無いのか。
そう言いかけて、口をつぐむ。
言い出せる雰囲気では無かったからだ。この化け物は。首領と頼んできた存在は。きっと、何一つとして。この世の何かを、信頼することがない。
「世界が終わる光景が、間もなく此処に映し出される。 最大の懸念事項だった米国の核兵器も、もう発射されることはない。 なぜなら、みろ」
映像が、モニタに出る。
黒煙を上げる各地の米国基地。
何が起きているのか、一目でわかる。悪魔だと、叫んで走り回る兵士達。爆発に吹き飛ばされる。
一機が何億、何十億もする兵器群が、爆発し、吹き飛ぶ。
現れるのは。人外の者。
「もう強化怪異が、自然発生するほど、世界の法則は傾いた。 欧州ではエクソシストが討伐に向かったが、壊滅状態だ。 元々此方に主力を引きつけていた上に、今までの経験で、たかが怪異と侮っていただろうからな」
「貴方のもくろみ通りですか」
「そうだ。 七十四回繰り返して、ようやく此処まで辿り着いた」
フードの影の組織は。
世界中に根を張っていたのだと、知らされる。
此処は末端中の末端。
準備されていた全ては、全体から見れば、枝葉に等しいもの。
黒煙を上げる米軍基地では、既に動く者がいない。いや、違う。死体に変わった人間が、どうしてか再び動き始める。
これでは、ゾンビ映画では無いか。
基地を這い出した死体の群れが、生きた人間達に襲いかかり始める。
「ゾンビ発生を確認。 米国全土に拡散開始」
「ホワイトハウス陥落までの予想時間は」
「後十日ほどです」
頷くフードの影。
米国でさえこれだ。色々と問題塗れなロシアや中国、欧州にアフリカ。その全てが、大混乱に落ちていることは、間違いないだろう。
もはや、言葉も出ない。
自分が目の前にしていたのは、得体が知れない怪物だが。その巨大さは、見上げ入道の予想を、遙かに超えていたことになる。
「後、最後の懸念事項は、私だ」
「諏訪あかね、ですか」
「そうだ。 この世界最強の使い手の一人が、おそらく今吹雪の中で立ち往生しているが、それも晴れればここにまっすぐ来るだろう。 迎撃の準備は整っているだろうな」
「強化怪異二十五体で迎え撃つ準備を整えています。 此処に核を積んだバンカーバスターでも投下されない限り、もはや陥落はあり得ません」
もう一つの懸念事項であった、八岐大蛇は。
おそらくこの状況下では、もはや此処まで運んでくる事さえ出来ないだろう。戦いには、もう勝ったも同然だ。
だが、何だろう。
どうして、こうも釈然としないのか。
「何か納得できないことはあるのか」
「……わかりません」
「そうか、ならば自室に戻れ。 あかねが攻めこんでくる予想時間については、既に知らせてあるはずだ」
頷くほか無い。
部屋を出ると、自室に戻る。
詩経院の凄まじい死に顔が忘れられない。あんな風に、自分も死ぬのだろうか。そう思うと、恐怖で全身が締め上げられるようだ。
直属の部下は、全て芦屋祈里と諏訪あかねの戦いの中で死んだか捕らえられた。今の状況では、救助に行くことさえ出来ない。
酒に、手が伸びる。
今日中に諏訪あかねが攻めこんでくると言うのに。こんな有様では、まるで初陣前の小僧では無いか。
何百年生きてきたと思っている。
自身を叱咤。
酒瓶から手を離すと、部屋を出る。強化怪異が、臨戦態勢を整えている中。ただ見上げ入道だけが、浮ついているように思えてならなかった。
記憶の混乱がひどい。
また、おかしな記憶が流れ込んできた。酒呑童子は呻きながら、ワゴンの助手席で、額の汗をハンカチで拭う。
運転している茨城童子は、此方を見もしない。
「ラジオ聞いています? 凄いことになっていますよ」
「楽しそうだな、お前」
「楽しいんですよ」
飄々とした部下は即答。
まあ、気持ちはわからないでもない。
今、米国が壊滅状態に陥っているという情報が入ってきている。彼らが大好きなゾンビ映画そのままの状況が到来しているというのだ。大都市が瞬く間に、生ける屍に占領されつつあると言う。
欧州の幾つかの国は、通信途絶。
中国でも、各地で火の手が上がり始めているという。軍閥化している各地の部隊が、いにしえの邪神。いわゆる四凶と呼ばれる者達に、襲われているというのだ。それに乗じて、各地で不満を抱えた民衆が、一斉に暴動を起こし始めているという。
この国も、ひどい有様だ。
混乱する警察。
自衛隊も在日米軍も、動きを見せていない。
否、動けないのだ。
派遣している部下達の話によると、世界中からの救難信号は届いているらしいのだが。いつ国内が無茶苦茶になるか分からないと言うこともあって、自衛隊は外に出るどころではないと判断している様子だ。
在日米軍に到っては、司令部が機能していない可能性が高い。
本国の司令部が壊滅状態と言う事もあるのだろう。或いは、各地の米軍基地に、既に強化怪異が自然発生して、暴れている可能性もある。
道路も大混乱。
幸い、電気はまだ生きている。
最低限の社会インフラは動いているのが、救いと言うべきなのか。
既に北海道に入っているが、ひどい吹雪が来ている。使えそうな部下は各地で警察の動きを止めるべく動いているが。
酒呑童子と茨城童子は。組織内でも腕利きの怪異だけを連れて、九尾の支援をするべく出張ってきたのだ。
団も、同じように動いてくれていると信じたいが。
彼奴は、正直何を考えているかわからない。
九尾を助けるために本気で動くのかは、酒呑童子としても、わからないとしか言いようが無かった。
「また新しい情報です」
「今度は何だ」
「バチカンが陥落しました」
「ほう……」
話によると、バチカンに吸血鬼の群れが襲来。多分勝手に強化怪異化した人間がその正体だろう。
とにかくその襲撃によって、エクソシストは蹴散らされ。
教皇は消息不明。
恐らくは死んだものと思われるそうだ。
「もう、滅茶苦茶だな。 この状況から、黒幕を倒したとして、どうにかなるのか」
「さあ……」
「茨城よ。 お前はいつもそんな調子だが、怖くは無いのか」
運転を続けながら、茨城はよく分からないと言う。
此奴自身が、一番よく分からない。
不意に、電話が鳴る。
団からだった。
「まだ無事か?」
「ああ。 何か大事か」
「八岐大蛇が起動した。 おそらく、北海道に投入されるらしい。 今、空輸が開始されて、十時間以内には到着するそうだ」
「オイオイ……冗談じゃねえな」
げんなりさせられる。
どうやら、警視庁も陰陽寮も、この状況を打破するために、もはや手段は選ばないつもりらしい。
強化怪異さえ一撃で塵芥と化す八岐大蛇は、連中にとっての最後の切り札の筈だ。動かしているという事は、もはやなりふり構っていられないと判断したのだろう。まあ、その判断は正しい。
米軍が機能不全に陥っている現状。
もはや、打つべき手など、そう多くもないからだ。
ただ、捕捉されると。まずは生け贄にと、酒呑童子が攻撃される可能性も否定出来ない。目立つ動きは、避けなければならなかった。
「それにしても、各国で強化怪異が湧いているのに、どうしてこの国では何も起きないのだ?」
「この国では、強化怪異を散々人力で発生させたから、ではないですかね」
「なるほど、考えられるな」
「いずれにしても、です。 都市部に逃げ込みますよ。 流石に都市部に入り込めば、八岐大蛇での殲滅火力をぶっ放してくることも無いでしょうし」
本当にそうだろうか。
腕組みしたまま、茨城の好きなようにさせる。途中、検問が張られていた。
ひやりとさせられたが。
どうやら警察は、酒呑童子など眼中には無いらしい。そのまま、すんなり通してくれた。
良かったと安心ばかりもしていられない。
今はまだ北海道南部だが、知らされてきている敵の本拠は、北海道北部だ。しかも吹雪いてきているから、このままでは、今日中に辿り着くのは無理だろう。
この有様では。
時間が経てば経つほど、状況は危険さを増す。
焦りが加速する中。
平然とガソリンスタンドに寄った茨城は、慌てる様子も無く、給油をしていた。図太いなと思いながらも。
酒呑童子は、そんな図太い部下だからこそ、信頼出来るとも思う。
再び、ワゴンが走り出す。
途中、合流してくる別のワゴン。
これで、現地に着いた頃には、合計で二十名ほどの怪異が加わるはずだ。強化怪異にはとてもかなわないけれど。
それぞれに、霊的な武装を持たせている。
数で押せば、あるいは。
足止めくらいは、出来るだろう。
九尾の奴は今でも気に入らないが。怪異の地位向上に尽くしてきたことは認めている。このまま、何もかも無駄にはさせない。
現地へ、車を急がせる。
決戦には、どうにかして、間に合わせたかった。
3、凍土
夜中に、ようやく吹雪が止んだ。
状況を見ながら、車を出す。ハイエースの強靱な足回りでも、かなり厳しい所が多かったが。
それでも、凍った地面を走るよりは、まだマシだ。
少しずつ、確実に。車が走り始める。
やがて、どうにか人が走るくらいの速度が出たときには、私もほっとした。
何とか、横になっていれば、意識が保てるくらいには体も回復してきている。これならば、現地に到着したときには。
力ある空気を展開して、後方支援くらいは出来るだろう。
ただ、まだ全身が漠然とだるい。
回復は、まだ掛けていて欲しいというのが、本音ではある。
「交代だ」
芦屋祈里が、牧島と回復を変わる。
牧島は短時間で力を付けてきているが。回復の術も、同じ。短時間での実働で、随分腕を上げてきている。
あの安倍晴明が言っていたが。
確かに才能だけで見れば、当代随一というのも頷ける。それに、何というか、回復の術を受けていると、優しい気分になれるのだ。
「後、現地までどれくらいだ」
「二時間半という所でしょうね」
「八雲の奴は」
「十五分ほど先を行っています」
身を起こそうとして、止められる。
そろそろ心身を、戦闘モードに切り替えたいと思ったのだけれど。どうせ切り替えたところで弱いことに代わりは無いのだ。無茶をして、更に回復を遅らせるのも、あまり好ましくない。
「金毛警部、もう一眠りしては」
「私のことよりも、自分の事を心配しろ、阿呆」
牧島に、少し呆れが籠もった言葉を返すと。
私は、小さくあくびをして、視線をそらす。
ハイエースは、車内が広いから好きだ。中でゆったりとすることも出来るし、こうやって救急車代わりにも出来る。
遠くで、パトライトが行き来しているのが見える。
流石にもう、そろそろ追いつかれてもおかしくない。警察も、相当に此方の居場所を絞り込めているのだろう。
こうなったら、腹をくくるしかない。
空の雲が晴れて。
非常に美しい星空が、顔を見せるが。
星の海を堪能している余裕は無い。
一時間が経過。
郊外だというのに、明らかにパトカーの数が多い。今の時点では何もされていないが。これは、職質されるのも、時間の問題だろう。
最悪の場合は、つっきるしかない。
ただ、一時間以上のカーチェイスを雪道でやって、事故らない保証は無い。如何に平尾が運転上手でも、だ。
無駄を可能な限り排除するしかない。
しばし、無言での時が過ぎる。
牧島と、芦屋祈里が交代。
あと一時間。
そう、あかねが宣言した直後。ついに、来るべき時が来た。後ろに、パトカーがついたのだ。
まず間違いなく、マークされたとみて良い。
「つっきりますか?」
「もう少し引きつけろ」
八雲のほうも、周囲にパトカーが多くて、下手な動きが出来ないという。
最悪の場合、式神を使って行くとして。その場合も、四方八方から攻撃を受けることは覚悟しなければならないだろう。
今の時点で、パトカーは無言で張り付いているだけ。
ひょっとすると、ただ公務で移動しているだけかも知れないが、その可能性は低いとみた。
いずれにしても、楽観で思考停止していては、勝てる戦いも勝てなくなる。
十分。
何も起きないが。
パトカーは、ぴったり張り付いてきていた。
「此方八雲」
「どうした」
「キツネ婆、どうやらチェックメイトらしいぜ。 此方もマークされた。 職質してくるようなら、無理にでも突っ切る。 そっちもどうにかしろや」
けらけらと、八雲は笑っているが。
それに同調して笑う気には、とてもなれなかった。
「回復は此処までだ」
芦屋祈里に言うと、鼻を鳴らす。
言われるまでも無い、というのだろう。
現地まで、後三十分という地点で。
やはり、想定どおりの事態になった。
不意に前にパトカーが割り込んできたのである。辺りは郊外で、人気もない。仕掛けるには此処だと判断したのだろう。
ばらばらと、周囲からも警官が出てくる。
ここまで来るのを、待っていたと見て良いだろう。
「どうします」
「一旦降りるぞ」
牧島に肩を借りながら、サイドドアを開ける。
あかねが、警官隊のリーダーらしいのに、質問を受けていた。
「なるほど、それでは極秘の公務での移動中と」
「そうなります」
請われたので、私も手帳を見せる。
顔を見合わせる警官達。平尾も手帳を持っているのだ。ただ、不可思議な面々に見えたのだろう。
ひょっとすると、此奴ら。
此方の素性を、知らされていないのか。
だとすると、ワンチャンある。
「もう良いですか? 此方としても、時間が押していますので」
「わかりました。 ご協力有り難うございます」
「待て」
敬礼をかわし、平和裏に離れようとした、その時。
居丈高にブレーキ音を立てて、到着したパトカーから降りてきた男が、威圧的に言った。この声、聞き覚えがある。
公安所属の警視だ。
前に何度か衝突したことがある。
陰険な男で、キャリアである事を鼻に掛け。私のことを、目の敵にしていた。
案の定、私を見て、怖気が走るほどおぞましい笑みを浮かべる。
「確保! そいつらが手配中の過激派だ!」
「し、しかし。 手帳は本物ですが」
「良いから動け、このでくの坊! 確保だ確保!」
「やむを得ませんね」
不意に飛び出したあかねが。
残像を残して跳躍。
勝ち誇ってへらへらしていた警視の顎を、一撃で蹴り砕いた。
何が起きたかもわからないらしい警視は、クルクル回転しながら飛んでいき、雪に頭から突き刺さって動かなくなる。
黙っていた平尾も、同時に動く。
数人を、瞬く間に殴り倒す。
あわてて拳銃を向けようとした一人の後ろには、既に芦屋祈里が回っていた。柔らかく肩に触れるだけで、白目を剥いて失神する警官。
そして、カトリーナも。木刀を振るって、一人を一瞬で制圧完了。
周囲の警官達は、動かなくなる。
「ごめんなさい。 事情は言えませんが、しばらく大人しくしていてください」
泡を吹いている警官達を、パトカーに放り込んで、戸を閉める。
これで、すぐに凍死することはないだろう。
このまま凍死されるのも寝覚めが悪いので、公安の阿呆も雪から引っ張り出して、乗り付けてきたパトカーに入れておく。
真っ青になって震えていたが。
まあ、顎を砕かれたくらいで人間は死なない。
それに、あかねの実力がこれほどとは、思ってもいなかったのだろう。意識がある公安の警視は。
あかねを見て、震え上がっていた。
どうせ本庁婦警最強の肩書きなんて、嘘八百だとでも思っていたに違いない。実際には、男女関係無しに本庁最強なのだが。今更それに気付いても、遅いというものだ。
私はその間。
コートを被って、棒立ちでみているだけで良かった。
力を消耗する訳にはいかないし、何よりクソ弱いのだから仕方が無い。あくびをしながら、いち早くハイエースに戻る。
どうにか、回復は間に合いそうだ。
すぐにハイエースを出す。
もうこうなってしまうと、交通ルールも何も無い。当然、増援の警官隊は、十分とせずに駆けつけてくるだろう。
八雲から、連絡が来る。連絡には、あかねが出た。
「そっちも何か暴れてたみたいだな」
「状況を」
「そっけねえなあ。 戦いのイロハを教えてやった師匠だろうが」
「状況をお願いします」
舌打ちする八雲。
相変わらず、仲が悪いことだ。あかねとしても、口も利きたくないと前々から言っていたし。仕方が無い事かも知れない。
八雲の方も、案の定職質を振り切って逃走中だという。
この様子だと、現地に到着する頃には、SWATがお出ましか、或いは軍の特殊部隊が鎮圧に出てくるだろう。
「飛ばすのであります」
平尾がアクセルを踏み込んだ。
幸い事故の恐れがない一本道に出た。此処で、少しでも時間を稼いでおきたい。
仕事をしていたからわかるが、この国の警察は優秀だ。
あっという間にパトカーが集まってくる。追跡を掛けて来ているパトカーは、十両を超えていた。
「其処のハイエース、とまりなさい!」
強い口調で、後ろから警告してくる。
追跡を念頭に置いているパトカーは改造処置をしている事があり、加速が生半可な車よりも速い場合が珍しくない。
ハイエースでは、どのみち追いつかれる。
舌打ちした芦屋祈里が、サイドドアを開けると、印を切る。
いきなり、姿を見せる、無数の巨大な蛇。それらは、芦屋祈里の右肩から生えているのだ。
それらが、まっすぐ向かってくるのを見て、度肝を抜かれたらしいパトカーが、慌ててハンドルを切るが。
その目前で、蛇は消える。
式神では無くて、目くらましのために使った術式だ。
「後どれくらいだ、諏訪あかね!」
「もうそろそろです」
「急げよ!」
当然、目くらましなんて、ながもちしない。
すぐに追跡再開するパトカーの群れ。既に二十両近くが、後ろに続いているようだ。勿論先回りもしてくるだろう。
上空。
ヘリでは無く、無数の式神出現。
数は五十。
いや、それ以上とみて良いだろう。
「まずいな……」
私がぼやくが、わかりきったことなので、誰も突っ込みは入れない。
あの式神共は、おそらく陰陽寮が放ってきた、戦闘目的のものだ。上空から爆撃されると、大変に面倒である。
「式神なら、潰してしまうが、いいな」
「力を温存しろ」
呆れて私が、少し強めに言う。
手をぎゅっと握ってみるが、そろそろ良い頃合いだろう。何とか、歩いて邪魔にならない行動を取ることくらいはできそうだ。
式神が、急降下爆撃を仕掛けてくる。
芦屋祈里が、印を切った。
中途で爆発が巻き起こる。
式神が逃げ散るが、これも牽制以上の効果は無い。すぐに戻ってきた式神が、炎を吐いたり稲妻を放ったりしてきて、ハイエースの至近に次々着弾した。
パトカーが少し距離を取る。
流石にこれは、警察と連携が取れているとは思えない。陰陽寮と警察が、今頃やり合っているだろう。
好機だ。
「式神を適当に叩いて逃げるぞ」
「力を温存するのじゃないのか」
「そうじゃない。 警察と陰陽寮とで、対応に差を付けてやれ。 もめ事を更に煽ってやるんだ」
「悪知恵がきくな」
私の言葉に、芦屋祈里が顔を引きつらせるが。
私は逆に疑問だ。
これくらいの知恵も働かないのに、良くも此奴は、国家の裏で蠢いて来られたものだ。周囲に余程優秀なブレインがいたのか、それとも戦士として余程に優秀だったからなのだろうか。
あかねも助手席のドアを開けると。
空に向けて、印を切った。
爆発。
式神が数体消し飛び、バラバラになって吹っ飛ぶ。
更に、芦屋祈里が式神を展開。
鳥のようなのが数体飛んでいき、敵を切り裂く。随分と鋭い翼だなあと、私は他人事のように思った。
うん、これだ。
調子が戻ってきている。
式神数匹が、接近して来るが。あかねが印を切ると。
ハイエースの屋根に。例のムキムキな私が姿を見せる。すっくと立ち上がるムキムキな私。
どん引きである。
ムキムキな私は飛来した鳥のような式神を掴むと、素手で引きちぎって投げ捨てる。蛇のようなのが噛みついてくると、無造作に首を掴んで、丸めて握りつぶした。
文字通り、千切っては投げ、千切っては投げ、である。本当にそれをやってのけるのだから、あのむきむきぼでぃは伊達ではないという事だ。何だか、あかねのずれた一面が垣間見えてほほえましいが、被害を受けている私としては笑えない。
いずれにしても、圧倒的な破壊力を見せつけるあかねの式神。
その有様を見て、流石に追撃してきている式神達が距離を取ろうとするが。
空で暴れ回っている芦屋祈里の式神が、逃げる事を許さない。更に数体が羽を切り裂かれ、きりもみで落ちていくと。
算を乱して、一度逃げていく。
「前方にバリケード!」
「此処までですね」
急ブレーキを掛けるハイエース。
横殴りに、バリケートに衝突。これは、弁償費用が高くつきそうだ。そして衝突したときには。
全員が、芦屋祈里が呼び出した、大百足の式神の背に乗って、ハイエースから逃れていた。
警官隊が、唖然と見送る中。
大百足はどや顔で、ひゅーんとバリケードを飛び越えていく。百足なのに、どうしてかどや顔なのがわかるのだった。
最後尾には、これまた来るなら来て見ろと、相手を仁王立ちでにらみつける筋肉ムキムキの私。
恥ずかしいので引っ込めて欲しいのだけれど。
どうやらあかねは気を張っていて、それどころでは無さそうだ。
「おーい、まだ生きてるか?」
八雲から通信。
向こうは、現地に到着したという。
ただし、何も無い原野で。やはり、敵の気配はないとか。追いついてきた警官隊を適当に畳みながら調べているが、どうにもならないという。
「おい、どーすりゃいいんだよ。 ドリルかなんかで地面でも掘ってみるか?」
「少し持ちこたえていろ。 すぐに行く」
「あー、そうして……ちょっとまて」
爆発音。
音からして、何かとんでも無い攻撃が着弾したらしい。ひょっとして、自衛隊が出てきたのか。
だが、百足が急ぐ間に、見えてきた。
到着したのは、エクソシスト達だ。
それも、相当な数。これは、総力戦態勢で、出張ってきたか。
ただし、幸いなことに。八雲を攻撃しているのでは無い。
周囲に防衛線を作ってくれている。ひょっとすると、彼らは。記憶を平行世界のものに、上書きされていないのか。
「此方ギュンター。 キツネのデーモン、無事かな」
「デーモンじゃない」
「そうだったな。 では白面金毛九尾の狐、これより我等エクソシストの残党、合計四十三名が参戦する」
「有り難いが、どうやって此処がわかった」
ギュンターが苦笑いしている。
その周囲には、彼の側近らしいエクソシストも勢揃いしていた。確か今、一桁ナンバーが五人日本に来ているらしいが。その全員が此処にいるようだ。
「警察と陰陽寮から協力要請が来ていたんだがな。 我々も、受けた恩を仇で返すつもりはない」
「そうか。 助かる」
「良いって事だ。 それに、バチカンに残っていた同志の仇も討たなければならんしな」
いずれにしても。
敵が地下に潜んでいるのは確実だ。
地面そのものが、敵の盾になっている。あかねには考えがあるらしいのだが、はてさて、どうするか。
警官隊が、エクソシストの展開した壁のようなものにはじき返されて、突入を躊躇している。
だが放置していれば、多分もっと大人数が来るだろうし、陰陽寮も本腰を入れて式神を出してくるだろう。
時間はない。
着地。
百足の式神が消える。
私はちょっとまだ体調が優れないけれど。これだけ回復すれば、どうにか戦える。
芦屋祈里を見ると、流石にギュンターは顔を強ばらせるが。あかねが制止した。
「利用されて捨てられたのです。 今は私怨で争う場合ではありません」
「……団長」
ナンバーツーに諭されるギュンター。
嘆息すると、視線を背ける。どうにか、血を見る事態だけは避けたか。
あかねが地面に手を触れる。
そして、此処で間違いないと言った。
「平尾さん、例のものを」
あかねが手に取ったのは、多分対怪異部署から持ち出してきた霊的武装の一つだろう。あまり見覚えがない。
穴を掘る武装なんて、聞いたことも無いが。
その正体について、すぐにわかった私は。何を考えているんだと、口にしそうになった。
それは、穴を掘る道具では無い。
ポインターだ。
見かけは、ただの櫛に似ている。神話的な由来がある品で、櫛と言えば。何を指すかは、わかりきっている。
あかねが軽く祝詞を唱え、封印解除。
こんなにあっさり解除できるとは。これは、対怪異部署の奧に、封印されているわけだ。あまりにも危険すぎる。
今、最悪なことに。
八岐大蛇は、この北海道に来ているのだ。
「お、おまえ……!」
「師匠、今は手段を選んではいられませんから。 敵も、此処が八岐大蛇のターゲットになったと、すぐに気付いて、出てくる筈です。 其処を叩きます」
「正気か!? 彼奴の爆撃がどれだけの高コストで、破壊力もどれだけになるか、わかってるだろ!」
「戦争は狂気の集大成です」
さらりというと、あかねは叫ぶ。
今から、此処に大威力の爆撃が直撃する。死にたくなかったら、離れるように、と。
事実だが、実際に八岐大蛇の火力は、主に怪異や、霊的な能力を持つ人間に向けられる。特に怪異に対しては、必殺の破壊力を誇る。
まだ目覚めていない、強化版の私にとっては、それこそ致命傷になるだろう。
警官隊は困惑していたが。
エクソシストの部隊が引き始めるのを見て、慌てて自分たちも下がりはじめる。私は頭を掻き回すと、あかねに手を引っ張られ、その場を離れる。
まだ本調子では無いし、走りたくても出来ないのだ。
遠くから、異常な力の接近を感じる。
これは、もう八岐大蛇が、全力で攻撃をぶっ放したらしい。慌ててモタモタ派や歩きしている私を、平尾が担ぐと、走り始めた。
「失礼します、警部」
「病人だぞ−。 優しく扱え」
「今は緊急時ですので」
舌を噛みそうなほど激しく揺れるので、閉口して黙り込む。
平尾が跳躍。
大きな岩の影に逃げ込んだ。あかねや牧島、芦屋祈里、それに八雲も、その場に逃げ込んできていた。
カトリーナが、倒れていたエクソシストに手を貸して、助け起こし。此方に来る。黒い服を着た女の子だ。多分二桁ナンバーの中でも、新人だったのだろう。
芦屋祈里が、壁を展開。
私は耳を塞ぐと、岩陰にてぎゅっと身を縮めた。
閃光が、爆裂する。
凄まじい風圧が、身をもてあそぶ。怪異にとっては、灼熱の風だ。思わず悲鳴を上げそうになるが、我慢。
しばし、時を経て。
おそるおそる覗き込んでみると。ポインターは無事。
つまり、二射、三射が、このままだと来る。
八岐大蛇の爆撃は、炸裂点から、地下も含めて球の形に、怪異を殺戮する。つまるところ、地下でも大ダメージは避けられない。
流石に慌てたのだろう。
地面が盛大に爆裂。
姿を見せたのは、無数の強化怪異だ。かなり傷ついている。これはひょっとすると、行けるかもしれない。
櫛が、爆ぜ割れるのが見えた。
強化怪異の間に交じって、姿を見せたのは、二つの人影。
一人は、言うまでも無い。
見上げ入道。
もう一人は、おそらくあれがそうだろう。フードを目深に被った、小柄な影。あかねが元になった、並行世界の者。
櫛を壊したのは、彼奴だ。
八岐大蛇の砲撃は止むが、敵はこれで姿を見せたことになる。ざっと強化怪異が二十数体。
それに加えて、多分強化怪異化している見上げ入道と。
それに何より、あかねをベースにした敵の首領。
「首領は、私が抑えます」
あかねが、前に出る。
既に手には、八幡太郎の弓。
エクソシスト達が、数にものをいわせて、敵に肉薄する。勿論一対一では勝てないだろうが、それでも。
この状況なら、足止めくらいはできる筈。
「俺はあっちの見上げ入道をどうにかするわ」
楽しげに、八雲が言う。
まあ、好きにさせておけば良い。残りのメンバーは、敵の本拠に突撃。強化怪異化しようとしている私のクローンなり分身なりを、排除するか、若しくは救出する。
周囲は、凄まじい乱戦の坩堝。
時々、平尾が体を張って、攻撃を食い止めてくれる。
だが、巨漢である平尾だ。
無為な被弾も多い。
頭から血が流れているのを見て、気の毒にもなる。
奴らが出てきた穴に、最初に飛び込んだのはカトリーナだ。迎撃にとばかりに出てきた強化怪異を、木刀で一閃。
一撃で仕留めるには到らないけれど、怯ませるには充分。
其処を、牧島が放った式神達が押さえ込む。
「入り口は、私が塞いでおく」
乱戦の中、悠々と出てきた芦屋祈里が、その場に留まると。
強化怪異が、露骨に怯んだ。
芦屋祈里の実力から考えて、当然だろう。単独では、強化怪異でも、流石に厳しいだろうし。
或いは、使い捨てにしたことを、内心わかっていたのかもしれない。
「急いでください!」
牧島が、手を振っている。
闇の入り口へ、私も多少もたつきながらも、身を躍らせた。
4、闇のはらから
延々と続く地下への階段。
主力は出てきただろうが、まだ下にはかなりの数の怪異がいるはず。全てが強化怪異かはわからないけれど。
そして、何だこの臭いは。
いや、わざわざ考えるまでも無い。
今まで、散々嗅いできたもの。
つまりは、死臭だ。
階段が終わる。
無骨なコンクリートのトンネル。やはりこれは、芦屋祈里が行っていたような、旧軍がタコ部屋労働で作らせた地下要塞だったのだろう。ただ、分からない事がある。どうして様々な探索手段から、この場所を誤魔化すことが出来たのか。
だが、中に入ってみて、それがわかった。
とんでも無く複雑な、術式。
それで、徹底的にコーティングされているのだ。
「大きめの研究室がある筈だ。 探すぞ」
「死臭が酷いですね」
カトリーナが言うと、ようやく気付いたのか、牧島が小さな手で口を押さえた。だが、今は。それどころではない。
牧島を急かして、四方に式神を飛ばさせる。
平尾は傷だらけ煤だらけだけれど。
そのまま顔を拭う暇も無く、周囲の扉を、片端から開けさせる。
隔壁の類がないことだけが救いか。早歩きで辺りを見て廻る。研究者はかなりの数がいて、此方を見ても、興味が無さそうに作業を続けていた。
「何だ、此奴らは。 洗脳でもされているのか」
平尾が独り言を呟く。
今は、彼らに構っている暇は無い。だが、平尾は、一人を掴みあげると、顔を近づけて言う。
「最終兵器は何処だ」
「わ、私は、東大の教授だぞ。 その野蛮な手を離したまえ」
「東大の教授にまでなって、こんな簡単な善悪の区別も付かなかったのか! 強化怪異を作る過程がどれだけ非人道的かわかっていて、手を貸していたのか!」
平尾が一喝すると。
荒事なんかした事も無さそうな白衣の研究者は。小便を漏らして、泣き始めてしまった。
ため息をつく平尾が放り捨てる。
凄まじい怒号が炸裂したのに。他の研究者達は、文字通り我関せずである。此奴らは、研究者失格だなと、私は思う。
あかねと同じなら。
どうして黒幕は、こんな事を始めたのか。
私は、何度もあかねに教えたはずだ。
人間以上の力を、怪異が持ってしまったら。どれだけ、世界が歪むか。
人間なんて、どれだけ飾ったところで、所詮クズなのだ。それが、人間以上の存在になる事が出来るとしたら、どうなるだろう。
何をおいても、そうなろうとするだろうし。
何よりも、かろうじて存在していた最後の良心さえ、平気でドブに捨て去る事だろう。
人間には、今以上の力も文明も、まだ早すぎるのだ。
「大きな研究室を見つけました!」
牧島が来る。
全員を呼び、其方に。
ひょっとすると、僅差で間に合ったか。
だが、安心するのも束の間。
立ちはだかったのは。
身長三メートル近い、鋼の肉体を持つ怪異。手に持っているのは、巨大な鉄棒。言うまでも無く、鬼だ。
元々鬼は、怪異と言うよりも、もっとそれより上の段階の存在である。
そもそも、大陸から伝わったこの概念は。一種の幽霊的な、得体が知れない存在として、最初は扱われた。
それが様々な理由から、強力な悪しきものとしてみなされ。
民話でも、強力な上位の怪異として、恐怖を独占するようになったのだ。
勿論、本来なら、人間には勝てないという点で、他の怪異と同じ。しかし此奴は、どう見ても強化怪異。
鬼の強化怪異という事は、敵組織でも上位に食い込む実力者である事は確実だ。
こんな門番がいると言う事は。
ほぼ確実に、この先だと見て良いだろう。
せめて芦屋祈里がいれば、少しはマシになるのだけれど。
「式神を貸して」
カトリーナが前に出る。
平尾も、もうボロボロの上着を脱ぎ捨てると、前に出た。
金棒を構えあげる鬼。
牧島は頷くと、式神を全て展開。いつもの四体に加えて、フェレット型の小さな奴も一緒に出した。
「任せて、構わないか」
「先にどうぞ」
「……すまんな」
踏み込んだ鬼が、金棒を降り下ろしてくる。
飛びついた式神が、必死にその腕を押さえ込もうとするが、何しろガタイがガタイだ。鬼は三メートル以上身長があるだけではない。その全身が凄まじい筋肉で、文字通り巌のようである。
体重が三百キロを超えるほどの猛獣になっている、牧島の式神でさえ、圧倒するほどの体格。
振り払われる式神。
だが、勇敢に踏み込んだカトリーナが、木刀ですねを打つ。この木刀も、普通のものではない。
鬼が顔を歪めると、鉄棒を降り下ろそうとする。
だが、其処にタックルを浴びせた平尾が、膝の裏から力を込めて、鬼を転倒させた。地響きするほどの衝撃とともに、巨体がコンクリの壁に叩き付けられる。
慌てて、側を抜ける。
これは巻き込まれたら即死だ。
「金毛警部……」
「いいから、急げ!」
牧島を急かす。
あんな相手だ。無事に済むとは、とても思えない。
だが、それでも、いかなければならない。
最深部は、もう少しだ。
もう、見張りもいなかった。
いたにはいたけれど。牧島が手にしている霊弓で、出会い頭に全てを打ち抜いた。本当はあまり、こういうことはしたくないのだけれど。
苦しみ、もがいている怪異に、心中で済まないと告げる。
出来れば助けたいけれど。
それは、全てが終わった後だ。
私の本領は、傾いた怪異を元に戻すこと。それは、本来、怪異のためにある能力なのに。それは、あかねが一番わかっていると思っていたのに。
この世界のあかねは、わかってくれているはず。
だが、どうして。
別の世界のあかねは、わかってくれなかったのだろう。
研究室に踏み込むと。
其処は、今まで以上に、血の臭いが濃かった。
牧島が、息を呑む。
血だらけのミンチ機。それも、非常に巨大な。これを使って、以前情報を得たように。人間やクローンをミンチにして、強化怪異の材料にしていたのだろう。
衣服やアクセサリなどが入れられた箱。
犠牲になった人間のものに間違いなかった。
第三諸国から、人身売買業者を使って仕入れてきた奴隷を。此処でミンチにして行ったのだろう。
唾棄すべき事だ。
奧には、ガラスシリンダが多数。
殆どは空っぽだったが。
その中の一つに、人影があった。
十二三歳くらいだろうか。
鏡でいつも見ているからわかる。これは、私だ。なるほど、私の情報から、クローンを作って。
それを強化怪異にしようというわけだ。
しかも、もう怪異に傾いてしまっている。目を覚ますことさえなく、怪異にされるなんて。流石にいくら何でも、ひどすぎる。
「周囲の機械を破壊」
「はいっ!」
牧島が、霊弓を引き絞る。
だが、矢を放った瞬間。
矢は、はじき返されていた。
愕然とする牧島の前に、姿を見せるのは。フードの小柄な影。私がとっさに背中に庇う。あかねが抑えていたはずなのに。
まさか、あかねを破ったのか。
この短時間に。
「いけませんよ、師匠。 これは、貴方の娘でもあり、貴方自身でもあるのだから」
「あかねをどうした」
「私が此処にいると言う事は、言うまでも無いでしょう。 私は七十回以上繰り返して、ようやくここまで来ています。 想定外の事態なんて、嫌と言うほど見てきましたからね、対策くらいはしています」
声はしわがれているし。
何より、複数の声色が混ざっている。そのおぞましさは、想像を絶するほどだ。だが、しかし。
その一挙一動が。この老い果てた怪物が、まごう事なき諏訪あかね本人だと告げているのだ。
「お前は、何がしたい」
「この世界を変える。 それだけです。 この子を作るのは、そのための目的に過ぎません。 知っての通り、もう世界のルールは書き換わっています。 後は特異点であるこの子さえ、伝承の力を持つ九尾の狐として覚醒させれば、それで終わりです」
「七十回以上繰り返したとか言ったな。 お前、まさか」
「そのまさかですよ。 私は、この世界から遡った諏訪あかねです。 どうやっても、目的を達成しなければならなかったのでね」
なんということだ。
それでは、現状のあかねが勝てる訳がない。幾ら老い果てたとは言え、この国最強の術者だ。
それが何十年も修行した果てである。
文字通り、神仙の域にまで到達しているはず。この状態になってしまうと、本当の意味での、神々に近しい存在だ。
「あかね。 話してみろ。 どうしてこんな事をする。 意味がわからん」
「誘ったときに此方についてくれれば、話しても良かったのですがね」
「ならば、力尽くで……」
違和感。
背中から、腹に向けて、何かが抜けている。
刺されたのだと気付いたときには、もう遅い。
横倒しに倒れる。
いつの間にか倒されたのか。側では、牧島も血だまりに沈んでいた。
何が、起きた。
見上げると、其処には。
刀を振るう、あかねの姿。いや、あれは。偽物。違う。本物の。外で、此奴を足止めしているはずの、諏訪あかね。
どうして、あかねが、私を刺したりする。
「な、何を、吹き込まれた……」
「此方についた方が良い。 そう考えましたから」
「おい……お前……!」
「大丈夫。 死にはしません。 急所は外しましたから」
老いたあかねが、満足そうに頷く。
嗚呼。
此処までか。
私は、薄れ行く意識の中で、何もかもが消えていくのを感じていた。
気がつくと、私は。
空を舞っていた。
辺りは文字通りの地獄。燃え上がるビル街。炭化した死体の山。朽ち果てた兵器の群れ。これは、誰がやった。
私なのか。
手を見る。
私の手は、そのままの手。ただし、半透明になっていた。ひょっとして、これは。平行世界の記憶か。
何もかもが終わってしまった世界。
彼方此方に、核兵器が炸裂した跡がある。怪異も人もいない。そればかりか、生物さえも存在しない。
本当の意味で、世界は死んだのだ。
「気がつきましたか?」
優しいあかねの声。
私が一番大事にして、全てを教えた弟子の声だ。
「これが、人類の結末です。 具体的には百七十年ほど後の話ですが」
「……」
こたえる余力は無い。
きっと、今。私は、幻覚を見せられている。瀕死の状態で。
「この結末を避けるには。 結局、人間を超えた存在を作り上げて。 世界の主導権を移し替えるしかありませんでした」
そうか、やはりそうか。
多分個人に対する愛情やら、自分の野心やらが原因では無いだろうとは思っていた。あかねが元になっているにしては、手段も選ばなすぎる。
こんなものを、見てしまったから、だったのか。
「ですが、これも終わりです。 今後は強化怪異。 つまりよみがえった神々によって、世界は統治され。 人間は奴隷として家畜になり。 世界の破滅は免れます。 思うに、人間がこの世界の覇権を握るには。 その精神性は、あまりにも幼すぎたんです」
やはり、そうか。
あかねは頭が良い子だ。
多分その結論に辿り着くと思っていた。
そして時間も無限では無い。
人が成長するまで。この星は、そのもたらす災厄に耐えられるか。その保証は無いとも思っていた。
「人が、人として。 世界を存続させられる可能性も模索してきました。 しかし、何度やっても駄目だった。 結局、現在の文明のままでは、人に未来はありません」
「だから、この結論か」
「そうです。 師匠はずっと頑張ってくれました。 こんなに怠け者なのに。 後は全て任せて、休んでいてください」
周囲の景色が、ぼやけていく。
そうか。これを見せたのも。
そして、こんな事をしているのも。
全てを理解した私だったけれど。もはや逆らう力なんて残っていないし。その気力も、無かった。
闇に沈む。
全てが終わっていく音がする。
その日。
世界は強化怪異と呼ばれる、蘇りしいにしえの神々の手に落ち。
そして人の時代は終わりを告げた。
(続)
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