黒い影の帯
序、巨神消ゆ
T島より現れた巨影が、海を進んでくる。
全長はおよそ七十メートルほど。桁外れの巨体。だが、歴代のダイダラボッチにくらべれば、決して大きな方では無い。
今まで小さく収納していた体を伸ばしたばかり、というのもあるのだろう。
七年前、討伐に失敗。
消滅させ損ねたこの六代目ダイダラボッチは、行方がわからなくなっていた。そして今、リアル修羅の国とさえ言われるT島で力を蓄えて、戻り来つつある。奴にとって最も力を発揮できるのは。
自分にとっての信仰がある、日本本土だ。
半神とも呼べる、最強の妖怪の一角だが。
それも、脅威となったのは、昔の事。
現在では、もはや恐るるにたりない。
海自の護衛艦数隻が周囲を包み、既に何時でも攻撃が出来る状況が作られている。
怪獣映画だったら、一方的に撃破されてしまう自衛隊だが。現実は、怪獣映画とは違う。この数隻の戦力だけでも、ダイダラボッチを仕留めるには充分だ。
ただ、弱体化したダイダラボッチが、逃げる可能性がある。
故に、攻撃のタイミングを待っているのだが。
「全艦、包囲を維持したまま待機」
艦長が不機嫌そうに指示を周囲に出している。
海自の精鋭、イージス艦月風の艦上で、諏訪あかねは小首を捻っていた。
芦田警視正からの攻撃命令が来ないのだ。攻撃命令さえくれば、いつでも対怪異部署も協力した、総力での攻撃が行われ、ダイダラボッチは消滅する。
元々アレになった男は、前科12犯の連続殺人鬼。
師匠でさえ元に戻すのを諦めたほど傾いた。もはや人間に戻す方法も存在しない凶悪妖怪だ。
「対怪異部署、まだ攻撃命令は出ないのか」
「此方も不可解です。 一体何をもたついているのか」
「近代技術で作られた戦闘艦は、あの程度の怪物には屈しない。 だがな、被害が出ると、色々面倒なんだがな」
それはわかっている。
距離を保ちつつ包囲を形成し続けると言うことは、それだけ下がると言う事だ。
九州に辿り着かせてはいけない。
陸上に上がった場合。更に面倒くさい事になる。出来るだけ海上で、誰の目にも触れないうちに撃滅してしまわなければならないのだ。
「もう一度、本部に指示を仰ぎます」
「頼む」
赤土艦長は、不機嫌そうに声を荒げた。
既に速射砲もミサイル群も、いつでも敵を撃破する体制は整えている。それなのに、動けない。
これがどれだけもどかしいことか。
あかねにも、わかるつもりだ。
もう一度、連絡を入れる。芦田警視正はすぐに出たが。此方も、何だか要領を得ない発言ばかりだった。
「それがねえ。 どうも上から妙な命令が出ているんだよ」
「妙な?」
「指示あるまで待機、だそうだ」
それは、確かにおかしい。
そもそも警視正というのは、警官としてもかなりの高位になる。地方警察署では署長を兼ねることも多いし、本庁でも重要なポジションにいることが珍しくもない。警視正が上から、という事は。
更に上。
ひょっとすると、命令を出しているのは。
師匠が忌み嫌っている、安倍晴明か。
だとすると、何が目的だろう。
「目標に変化!」
監視を続けていた、海自の隊員が声を張り上げる。
慌てて甲板に出て、状況を確認。
距離を保って観察を続けていたダイダラボッチが。見る間に、透けていく。
そんなばかな。
しかも、姿が消えると同時に、気配も薄くなっていく。隠密行動をする術式か何かを使ったのかと思ったが、違う。
術を使っている気配は無い。
これでも、あかねは対怪異部署屈指の術使いだ。
相手が術を使っていれば、気付かない筈がない。微細な気配さえないのである。これは、ダイダラボッチが自壊しているとしか思えない。
だが、あの我が強い犯罪者が芯になっていて、しかも根強いダイダラボッチ信仰がアーキタイプになって傾いた奴が。
自壊など、ありえるだろうか。
ありえない。
そうあかねは結論。
すぐに本庁に連絡を入れる。
「すぐに攻撃命令を! ダイダラボッチが、気配を消し始めています」
「何だって。 でもなあ。 命令も今丁度来たんだよ。 何があっても、待機しろって」
「……っ!」
気が弱そうな芦田の声を聞いていると苛立ちがふくれあがってくるのを感じる。
元々自衛隊は、立場が極めて弱い組織だ。
下手な行動をすれば、今後が更に面倒な事になる。彼らに無理はさせられない。
そうこうしているうちに。
ダイダラボッチは、レーダーから完全に消滅。
小舟を出して、消滅した地点を確認。
ダイダラボッチの気配は残っているけれど。その存在は、欠片ももう無かった。本当に、この場で消滅したとしか思えない。
念のため、海岸線に展開している部隊に連絡。
此処で艦隊をやり過ごして、そちらにいきなり現れるかもしれないからだ。
また、奴が大きな被害を出させたT島にも連絡。
其方での状況も確認させる。
だが。
それらの全てが、空振りに終わる。
文字通り、霧にでも変わってしまったかのように。
ダイダラボッチは、もう以降は姿を見せなかったのである。
奴が姿を消してから、四日目。
捜索は打ち切られた。
文字通り狐につままれるようとは、この事である。私は部下達もろとも、飛行機で本庁に戻る。
報告書を提出するけれど。
芦田は文句の一つも言わなかった。
平野警視に到っては、同情するような目で此方を見る始末である。安城警部も、何だか大変だなと、視線を此方に向けていた。
いずれにしても、被害はT島のみに抑えられた。
ダイダラボッチが自壊したとは、どうしても思えない。奴が何処かに潜伏したのは間違いないと、あかねは考えているし、レポートにもそう書いたが。
もしもあの異様な消極的命令を出していたのが、安倍晴明だった場合。
レポートが顧みられることは無いだろう。
師匠の所に出向く。
師匠はというと、私がいない間に二件の事件を解決させられていた。どちらも怪異関連としては迷宮入りしていたものだから、流石である。
でも、疲れたようで。
借りたばかりの襤褸アパートを訪れると。
中でジャージのまま、ごろんと横になって、昼間からビールをちびちびやっていた。
情けなくて、頭がくらくらしそうだが。
今日は何も言わない。
「師匠、来ましたよ」
「おや? おー、今日は平日じゃないか。 仕事熱心なお前が、珍しいな」
「ダイダラボッチ対策の指揮が終わって、数日の休暇を貰ったんですよ」
「そうかそうか」
師匠は珍しく、ぐでんぐでんになっていた。
この人は此処まで酒を飲むことはあまりしない。というか、確か酔えないとか聞いたことがあるのだけれど。
まあ、気分が変わることも、あるのだろう。
つまみを買ってきているので、一緒に飲む事にする。
「ダイダラボッチはどうした」
「それが、目の前で霧のように消えてしまいました」
「ほう……」
「不可解な命令もありましてね。 攻撃を何度も邪魔されて。 指をくわえて、見ているしかありませんでした」
師匠は酔眼で此方を見ていたが。
尻尾をぱたぱたふりながら、スルメを口にする。
完全に脳がだらけモードになっているし。仕事の時のような、勘から一気に事の本質を突くような真似は、期待出来ないだろう。
だが、敢えてそれでも聞いてみる。
「どう思います、師匠」
「ダイダラボッチは力が強い妖怪だ。 無論近代兵器にもお前達にもかなわないが、それでも昔は大きな被害を周囲にもたらした。 だがな、彼奴はそう器用な真似が出来る妖怪でもない」
「そう、ですよね」
勿論今回の仕事に備えて、ダイダラボッチのことは調べている。
師匠の言うとおりだ。
器用に姿を消すような真似が出来る存在では無いと断言できるのだ。だとしたら、今までの事は何だ。
六代目ダイダラボッチは、どうして。
T島に潜んだり。
包囲から抜け出たり。
こんなにも、器用な真似をこなしている。
誰かが手でも加えたのか。
そうなると、一体誰が。
安倍晴明が糸を引いているのか。だとすれば、ぞっとしない話だ。上層部がろくでもない事をもくろんでいたとして。
警官として、一体何が出来るのか。
ハリウッド映画のように、手帳を捨てて、正義のために戦うか。それも良いかもしれない。ただその場合、上層部の腐敗を精確に把握することが条件だ。
今回の件で。
師匠が不信を抱いている安倍晴明に。私もある程度の疑念を感じた。
安倍晴明自身には、直接あった事はあまりない。
つい最近まで警部補だった下っ端なのだ。当然である。
だが、二度だけ。
それらしい人物を、遠目から見た事がある。
細身の老人だった。
髪はもう白く。だが背は伸びていて。
歩く動作も力強く。とても老人だとは思えないと、一目見て思った記憶がある。
彼奴は一体、何を考えている。
「安倍晴明が、何かをもくろんでいるとして。 師匠は何だと思いますか」
「彼奴は怪異でありながら、人間社会に溶け込むことに成功し、ましてやその上層に食い込んでいる希有な奴だ」
それは、何度か聞いている。
だが、師匠も、それ以上の事はわからないのだろう。
ぼんやりとした様子で、ぐびぐびとビールを呷る。
「私が聞きたいくらいだ。 出来れば、そのもくろみを叩き潰してやりたい」
「……」
師匠に、以前聞いたことがある。
とはいっても、師匠はその時泥酔していたから。言った自覚はないかもしれないけれど。
師匠が昔結婚していた男性は、皆安倍晴明に殺されたと。
「お前も、気をつけろ。 安倍晴明とやりあって、お前が負けるとは思わないが。 ただ、奴は権力を味方に付けている」
「わかっています」
公権力にいるからこそ、わかる。
警察や自衛隊をまともに相手にして、生き残る事なんて出来るわけがない。
今日は、とことんのみ明かそう。
私は、泥酔している師匠の向かいに座ると。自分も、ビールの缶を開けた。
目が覚めると、向かいに座ったまま、あかねが眠っていた。
夢うつつの中で、記憶が残っている。
確か、ダイダラボッチが消えたとか。
あれから全く連絡が来ていないことを確認。そうなると、ダイダラボッチは、消えたまま。何処かに姿を隠して、それっきりと言う事だ。
だが。
私が目を覚ましたことに気付いたのか。スマホが鳴る。
「はい、此方金毛」
「私だよ」
全身が総毛立つ。
安倍晴明だ。
奴め、一体どういうことか。此方が眠っているのを、今までずっと見ていたとでも言うのか。
あり得ることだ。
奴なら、それくらい出来ても、不思議では無い。
創始者というわけでは無いが、陰陽の術を実用の段階に高め、まとめ上げた怪物の中の怪物。
あかねくらいの術者でも、此奴と比べてしまうと。
いや、それはわからない。
正直な所、私でも、此奴の真の実力はわからない。憎しみのあまり、過大評価している可能性もある。
今のも、ただ監視カメラでも使っていた結果かも知れない。
「何の用だ」
「ダイダラボッチの監視ご苦労だったね。 あれについては、私の方で処理をしておいたよ」
「そんな事が出来るなら、どうして対怪異部署を出動させた」
「それは簡単な事だ。 私の準備が整うまで、足止めが必要だった。 そして諏訪君は、充分にそれを為してくれた」
そう、だろうか。
あかねは話によると、護衛艦に乗って、現地に出向いただけ。
ダイダラボッチは護衛艦を気にする様子も無く、九州に黙々と進んでいて。交戦の不許可命令が出ていたから、あかねは距離を取ってずっと見ていることしか出来なかったという。
実力を備えたあかねが。
愚痴を言いに来て、酒に酔って、眠っているくらいである。
無念がどれほどかは、本人に言わせなくても分かる。
「六代目ダイダラボッチは、既に無力化している。 君達は、もう気にしなくても良いよ」
「それはわざわざご丁寧に……」
「もう一つ。 クドラクの件だがね」
そうだ、そちらも大問題だった。
少し前に話があったが、北九州に、クドラクの本隊と思われる五百名以上が上陸したという。
現地の妖怪達と軋轢はおこしていないそうだが。
対怪異部署も、防衛線を構築。
確か安城が此方の指揮を執っているはずだが。荒事に向いていない私も、いつ動員されてもおかしくないと思っていた。
「そちらも、気にする必要は無い」
「!?」
「用件は以上だ」
ぷつりと、電話が切られる。
唖然としてしまう。
一体、何が起きているのか。
眠っているあかねを一瞥。これは、本当に。
私が知らないところで、何かとんでも無い事が起きている可能性が高い。唇を噛むと、私は。
団と連絡を取り合うことにした。
1、不可解の渦
呼ばれてもいないのに本庁に出たのは、いつぶりだろう。
一応警官の制服を出て本庁に出向いた私を見て、最初に驚いた顔で出迎えたのは、平尾である。
「金毛警部、どうしたのですか」
「……ちょっとな」
芦田警視正の所に出向く。
芦田は別に忙しそうにしている様子も無い。北九州に、例がない規模での妖怪軍団が上陸した、というのにである。
歴史的に見ても、これだけの数の異国の妖怪が上陸した事は無い。
しかもクドラクは、大陸の退魔組織とやり合ってきた筋金入りの集団だ。もっと厳戒態勢が敷かれていても、おかしくは無いはずなのに。
それがどういうわけか。
私に呼び出しも掛からない。
ダイダラボッチの九州進撃が連中の侵攻を招いたかとも思えたのだが。
だが、安城が戻ってきているのも、既に確認している。
これは一体、どういうことか。
「芦田警視正」
「金毛君か。 どうしたんだね」
「九州にクドラクの戦力五百名以上が上陸したという報告を受けています。 対処はどうなっていますか」
「ああ、心配になって来たのか。 其方については、問題が無い。 既に片付いたよ」
愕然とする。
既に、片付いた、だと。
吸血鬼はそれほど強い怪異では無いけれど、それでも大陸の見境がない集団とやりあってきた五百名である。
勿論連中は近代兵器も使いこなすはずで、怪異としてよりも、テロリストとして厄介だという噂も聞いている。
それが片付いた。
「理解できません。 何があったんですか」
「それがねえ。 わからないんだよ」
「はあ?」
「上から情報が降りてきたんだ。 一時九州に上陸したクドラクは、大陸にまた戻っていったってね。 確かに足取りを安城君に確認させたが、一時期北九州で拠点を作ろうとしていたようなのだが……」
不意に、その拠点を引き払い。
また密入国を介在している業者の手によって、大陸に戻っていったというのだ。
足取りも確認できており、密入国業者も確保しているそうである。
複数の確かな証言が得られており。
クドラクの五百名が、既にこの国にいないことは、確かだそうだ。
わからない。
本当に、何が起きているのか。
「納得できません」
「そうだろうねえ。 でも、しばらくは北九州に、うちの精鋭を貼り付けておく。 彼らが九州から此方に来た形跡は無いし、それで充分だとは思う」
此奴、本当に何を言っているのか。
だが、冷静になって考えて見れば。
確かに、芦田が言うとおりではある。対怪異部署としては、他にやりようがないのであるのだから。
「クドラクが何かを仕掛けていった可能性はありませんか」
「それも調査中だ。 だが、妙なんだよ」
「妙、とは」
「クドラクはねえ。 まるで何かに怯えるように、大慌てでこの国を出て行ったことがわかっているんだ」
それもまた、おかしな話だ。
命知らずで、頭のネジが外れていることは間違いない連中だろうに。どうしてそんな事になったのか。
敬礼をすると、芦田の元から離れる。
もう以降は、得られる情報もないと思ったからだ。
私は元々、荒事以外での方面が主体になる火消し屋だ。だが、それでも妖怪の顔役としての、情報収集という点では、他の誰にも引けを取らない。
それが、声が掛からないという事は。
推察できることは幾つもあるけれど。
今の時点では、明確な判断が難しい。
情報が、あまりにも少なすぎるのである。
軽く平尾とも話す。
一時期は、平尾にも九州に出て欲しいという話が出ていたらしいのだけれど。今は落ち着いていて、全く平常と変わらないという。
怪異の事件が時々起きるが。
それは、戻ってきた安城の部隊だけで充分だとか。
あかねもそろそろ復帰するし、それで多分何ら問題は無さそうだと、平尾は言う。
訳が分からないとは、このことだ。
一旦アパートに戻ると、九州、四国、中国、近畿と、順番に知り合いの顔役に連絡を入れていく。
九州の妖怪もそうだが、他もこぞってクドラクは見ていないという。
配下の妖怪からも、情報はないそうだ。
九州の顔役妖怪である、一反木綿からも、情報を得ていく。彼は知名度が高いこともあって、そこそこに知られた妖怪だ。
「噂によると、大陸に逃れたって話ですが」
「誰か、その場面を見ていないか」
「おいら見たよ」
声が通話に割り込んでくる。
多分まだ年若い河童だろう。話を聞いてみると、福岡の方で、その様子を見たという。
人間の暴力団員と、クドラクの連中が揉めていたというのだ。
詳しく聞かせて欲しい。
そう言うと、河童は、順番に話してくれた。
どうやら河童は、気配を消して人間の街を歩くのが好きだったらしい。其処で、何か言い争うところに出くわしたそうだ。
しかも片方は吸血鬼。
ただ事では無いと判断して、話を聞いていたのだとか。
「約束と違うとか、密輸の件はどうなったんだとか、怒鳴り合ってたよ。 でも、怒鳴ってるのは、殆ど人間だった」
「ほう?」
「それで、金は払うから、撤退だけ手伝えとか、吸血鬼は言ってた」
もしそれが本当だとすると。
あまりにも急に、彼らはこの国から出て行ったことになる。もしそうだとすれば、何が起きたのか。
何かとんでも無い事が、起きたことは間違いないと見て良いだろう。
勿論、聞かれる事を前提としてやっていた演技という可能性も捨てきれない。河童を疑うわけではないけれど。
鵜呑みには出来ない話だ。
河童に礼を言うと、一反木綿にもっと話がないか聞いてみる。
彼も、これ以上は何も知らなかった。
一通り、顔役には話を聞き終える。
団の奴も、情報を集めてはくれているが。これ以上は、単独では無理があるかもしれない。
だが、何かとんでもなく嫌な予感がするのだ。
見せかけの平和の裏で、何かとてつもなく巨大な、邪悪なものが動き始めているように、思えてならないのである。
以前も、この国に海外の妖怪が押し寄せたことがある。
丁度幕末が終わり、明治が来た時だ。
その時には、様々な災厄も同時にもたらされたけれど。不可解な事は無く、混乱が原因とはっきりわかった。
今回は、クドラクの動きがあまりにもおかしすぎる。
ひょっとして、だが。
来てすぐに帰ったのは。
目的が、一瞬にして達成されたから、ではないのか。
逃げ帰ったと思えるのは、多分楽観論。それも、最悪の楽観に基づく予想のような気がする。
奴らの目的は何だ。
独立派閥としてカルマが動いていたのなら、まだ話はわかる。
しかし、カルマがクドラクの総意に近いもので動いていたら、非常に厄介なことになるような気がしてならない。
スルメを口に入れる。
頭脳労働をすると疲れる。本当は甘いものが一番良いのだろうけれど、こればかりは一種の習慣だ。
スマホが鳴る。
団からだ。
団には、クドラクの連中が何をしていたか、調べて貰っていた。その成果があったのなら良いのだけれど。
「北九州の暴力団に、ちょっと粉を掛けてきたよ」
「おいおい、無事か」
「無事も何も、私を何だと思っているのかね」
まあ、確かにそれはそうか。
団は、そもそも。人を化かす事に特化した妖怪。狸の妖怪だ。
勿論私も同じく人を化かす事に特化した狐の妖怪なのだけれど。団の場合は、私よりも更に化かす事に極端に性能を割り振っている。
知人に化けて近づいたり。
話を聞き出す手管に関しては、多分この国の妖怪の中でも、随一と言って良いほどの存在なのだ。
それで、団に話を聞くと。
あまり良くない事がわかってくる。
やはりというべきか。
悪い予感は、当たるものだ。
「北九州の暴力団の管轄内で、クドラクがなにやら情報のやりとりをしていたらしいのだがなあ。 どうもカルマと名乗る女吸血鬼が、その付近で目撃されていたんだよ」
「やはりか……」
「クドラクの内部分裂はないとみるべきだろう。 カルマという奴、恐らくはクドラクの尖兵として、この国に来ていた。 そしてクドラクは主力を動員してまで、データを直接受け取りに来た」
問題は、そのデータだが。
鵺の時のことを考えると、やはり。
妖怪の兵器化。
それも、爆弾にする技術。
特定は出来ない。
最も目立つそれをブラフに使って、更に危険な技術を運搬したのかもしれない。いずれにしても、これは由々しき事態だ。
「カルマの奴は、国外脱出したとみるべきだろうか」
「それがなあ。 数日前にも目撃されとるよ」
「……」
鵺の事件の時。
カルマはなんと十八体も姿を見せた。
奴がどういう能力の持ち主かは、私にもよく分からないけれど。分身を作る能力だとすると。
分身を何らかの目的で、この国に残しているか。
或いは、何かの理由で、この国に本人がまだいるのか。
どちらにしても、非常に面倒だ。
一度あかねに、中間報告を入れておく。あかねの方でも、調べてくれるという話をしてくれた。
スルメを口に入れる。
しばらく考えてから、七輪を出してきた。
普通のスルメを食べても良いけれど。今日は更に、炙って食べてみても良いかもしれない。
窓を開けると、スルメを焼きはじめる。
こういうときこそ。
好きなものでも食べて、気分転換することが重要なのは。私の無駄に長い生の中で、経験則として心身にきざまれていた。
本庁に呼び出される。
そして、九州へ出張の指示が出た。
またこれは随分遠い。平尾と牧島も連れて行くように、という事なので。多分向こうの未解決事件を処理するついでに、クドラクの動きを現地で調べて欲しい、という事なのだろう。
あかねと安城も、かなり広範囲で動いているようだ。
クドラクが何をこの国でしていったのか。
主力が帰ったとしても、カルマをはじめとする尖兵は、まだ残っている可能性が高い。連中は何をしているのか。
放置しておける案件では無い。
すぐに、空港に向かう。平尾は兎も角、牧島は其方で合流だ。電車で移動途中に、乗る飛行機は確認。
呼び出しを受けたときには、既にあかねが予約してくれていた。
九州に行くのは、久しぶりだ。
電車の中で、平尾が聞いてくる。
「向こうで足に使うのは、やはりハイエースでよろしいですか?」
「ああ、予約してくれるか」
「はい。 後、向こうの県警が、装備類を用意してくれます」
今回も、目撃されているのは、正体不明の妖怪だ。いつものように、妖怪の正体から確認しなければならない。
先に、地元の妖怪と連絡を取る。
話を聞いておくと、現地に着いたときに、捜査がやりやすくなるからだ。ごくごく希に、地元の妖怪のコミュニティ所属者が悪さをしていて。話を聞くだけで、一瞬で解決できる事もあるのだ。
残念ながら。
今回は、そういううまい話にはならなかったが。
空港に到着。
その時には、既にハイエースの予約も完了。
今度は黒い威圧的なハイエースだ。乗る分には悪くないけれど。足として使うのは、ちょっと目立つかもしれない。
空港で、牧島は待っていた。
今日は私服だ。
仕事着には、向こうで着替えるつもりらしい。
ワンピースか何かかと思ったら、動きやすいジーパンにシャツである。それでも、とても可憐なのだから、元の造作が良いのだろう。
「おはようございます。 警部、平尾先輩」
「おはよー。 早速で悪いが、さっさと飛行機乗るぞ」
既に事件についての情報は頭に叩き込んだかと聞くと、平尾も牧島も頷く。
もう、此奴らは。
いっぱしだ。
2、曲がりくねるもの
今回、九州で解決する事を求められた未解決案件は二つ。
一つについては、鹿児島の事件。
此方は、大蛇が目撃された、というものだ。
勿論動物園などから逃げ出した大蛇の可能性もあるけれど、周辺を確認した所その様子も無く。
複数の目撃例から、顔が人間だったというものがあったので。対怪異部署に話が回ってきた。
三ヶ月前から現在進行形で発生している事件で。
大蛇が人を襲ったという話は無いから、多分危険な怪異では無いとは思うけれど。一応、気をつけた方が良いだろう。
もう一つは、一年数ヶ月ほど前から発生している怪異。此方は発生地点が、長崎近辺と、九州の端と端だ。
此方は不可解な老人が目撃されている。
老人と言っても、凄まじい早さで走り回るとかで。類例は幾つかあるので、其処から正体を割り出していけば良い。
「どちらから片付けますか?」
「目撃例が多いのは大蛇の方だ。 此方から行く」
平尾にこたえると、福岡空港から、高速道路と国道を利用して、鹿児島に向かう。
運転はもう、平尾に任せてしまう。
その間に私は無線を使って県警に連絡を取り、調査に向かう旨は告げておいた。
昼前に空港を出て。
夕方には、鹿児島の現地に到着。
近場の神社の駐車場に停める。ただ此処は、単に現場に近いから選んだ。普通の八幡神社で、眷属も住み着いていない。
怪異を確保したら、場所を変えなければならないだろう。
噴煙を上げている桜島が見える。
県警は先に手を回してくれていて。目撃者のリストを作ってくれていた。
平尾はさっそく聞き込みに廻る。
私はと言うと、拠点にするハイエースを中心に、空気で壁を作って結界にし。その間、目撃報告があった地点を、牧島が洗い出しに掛かる。
式神は更にバージョンアップされていて。
完全に猛獣そのものの姿。しかも、大きさもかなりのものである。サイズも、既に三メートル近くあり、野生のライオンと渡り合えそうな迫力だ。
調査は二人に任せて。
結界を張り終えた後、事件の精査に掛かる。
蛇の目撃例は、特定の時間に集中していることから。多分、その辺りの時間帯に、囮を出すのが一番良さそうだ。
ただ妙なことに。
大蛇は人を脅かすだけで、するすると姿を消すという。大きさは目撃者によって様々だが、これは気が動揺していたから、だろう。
別に蛇の妖怪は珍しい存在でも無い。
世界的に見ると、古い時代の神々は、蛇の姿をしていたり、あるいは蛇から派生した例が多い。
たとえば、隣国の古き神であるショクインなどはその典型例だ。
それにショクインを例に出さなくても、洋の東西を問わず、古き神と言えば龍。その原型は、等しく蛇なのだ。
ただ、確認は済ませてあるが、古い妖怪でこの辺りにいる者の内、今回の騒動に該当している者は無い。
古い妖怪ほど人間の恐ろしさを良く知っているから、距離を取るためである。
二人に捜査させている間、私は周囲の状態を確認。眷属がいる神社が幾つかある。其処に引きずり込めば、短時間で怪異を人間に戻せるだろう。ハイエースの中で寝ているのもいいけれど、どうせ長丁場になる。
ハイエースを運転して、神社に。
幾つかを見て廻ったが、人が少なくて、五月蠅くない神社があったので、其処にする。住み着いている眷属も、ごく大人しい子狐で、寄るには丁度良かった。
夕方。
ハイエースの中でスルメをもむもむしていると、平尾が戻ってきた。
「幾つか新しい目撃情報が出ています」
「んー。 見せろ」
「はい。 此方です」
渡された資料に、さっと目を通す。
今までにあった資料と、目撃例は大差ない。頻度もかなり多く、この様子だと近々姿を見せそうだ。
スマホがいきなり鳴る。
牧島からである。
「警部、現れました」
「お、もう捕捉したか」
「それが、私の式神が到着した時には、既に消えかかっていまして。 今は、現場の確認をさせています。 今、私も向かっています」
場所を転送してくる牧島。
すぐに平尾がハイエースを出す。現地で合流だ。
既に日が落ち始めている。
元々この近辺は人口密度が低いが。牧島はかなり田舎にまで行っていて、ハイエースが進めば進むほど、民家は少なくなっていった。
あいつ大丈夫か。
ちょっと不安になったけれど。考えて見れば、ライオン並みの戦闘力を持つ式神が側についているのだ。
暴漢なんか十人単位で蹴散らすだろう。
その上、今の彼奴の肝の据わりよう。露出狂くらい出ても、鼻で笑って通り過ぎるに違いない。
現地に到着。
既に牧島は式神を周囲に集め。
自身は術式を展開していた。多分、周辺の情報を、徹底的に集めるためのものだろう。
目撃者らしいお爺さんは、不安そうに右往左往している。平尾が聴取をはじめる横で、私は牧島の側に立ち、周囲を見回す。
この辺りは、一種のベッドタウンだが、しかし寂れていて人影も少ない。脅かすのが目的なら、なんでこんな所に出た。
「映像、出ます」
「ん」
牧島が、術式を使って。
少し前に此処で起きた出来事を、立体映像にして虚空に映し出す。かなり高レベルの術だが。
こんなものまで、習得していたか。
この娘、才能はあかね並みとみて良い。努力をはじめる時期がかなり遅かったから、あかねと同水準になるまでは相当掛かるだろうけれど。元々、神職としての修行も積んでいる。
下地があるから、出来る事だ。
不意に姿を見せた大蛇。
さっとメモを取る。模様が特徴的で、専門家に見せれば、すぐに種類を特定できるかもしれない。
そして頭部だけは、嫌みのように人間だ。
この人間蛇が、杖を突いて歩いてきたお爺さんの前に、いきなり飛び出す。
お爺さんが腰を抜かして倒れると、蛇は満足そうに、するすると這って消えていった。隠れるのでは無い。
文字通り、溶けるように消えてしまったのだ。
「お知り合いですか?」
「いや、知らんなこんな奴。 古参の妖怪では無いし、確保さえ出来ればおそらくすぐに人間に戻せるはずだ」
「わかりました。 後は出現のパターンさえ割り出せれば、式神で抑えられると思います」
牧島が色々なデータを分析しながら言う。
多分これは、妖怪のステータスも、同時に解析しているのだろう。もっとも、牧島の式神は、短時間でファンシーグッズから戦闘向けの本格派に変貌を遂げた。此奴に勝てる妖怪は、あまり多くは無い。
おじいさんを、平尾に家に送らせる。
その後は、近くにとってあるビジネスホテルに移動。
目撃例を確認して、出現パターンの割り出しに掛かる。県警からの情報提供もあわせると、さっそく見えてきたことがある。
「この妖怪、老人だけを選んで脅かしていますね」
牧島が言う。
確かにその通りだ。それだけではない。
「着目すべきは老人達の経歴です。 いずれも、あまり外に出歩かない老人ばかりです」
「つまり、いつ外に出るかを知っていて、ピンポイントで狙って脅かしている、ということだな」
当然この程度の事、県警も力を入れて調べれば、すぐにわかっただろう。人死にが出るわけでも無く、ただ脅かすだけの怪異だから、本腰を入れていなかった、という事だ。
すぐに、今までに被害に遭った老人を確認。
そうしていくと、共通点は見つからない。
つまり怪異は、適当な老人に目をつけて、しばらく観察して。外に出歩きに出た時点で、わざわざ姿を見せて脅かしている、という事だ。
それがわかったのは大きいが。
問題はどうやってこの悪戯大蛇を捕まえるか、である。
「本当に、脅かしているんでしょうか」
「そうだな、それも不可思議だ」
牧島が出現させた立体映像を見ても。
大蛇は、老人の前で威嚇したりはしていない。単に顔を覗き込んでいるようにしか見えない。
そうなると、此奴は。
ひょっとすると、誰かを探しているだけかもしれない。
二時間ほど掛けて、県警とも連絡を取りながら、更に情報を精査していく。その間も式神を牧島は飛ばし続けていたが。
疲れる様子も見せなかった。
十一時で、一旦捜査を切り上げ。
各自、それぞれの部屋に戻って休む事にする。
私はすぐにこてんと落ちたが。
他の二人は、二時くらいまで起きて、自分の部屋で調査と精査を続けていたようだった。
ワーカーホリックだなあと、口中で呟く。
もっとも、その言葉自体が今は死語だ。
そして、分かったことがある。蛇の方は、ひょっとすると、今日中に捕まえられるかもしれない。
切っ掛けは、牧島が見つけたある新聞の切り抜きだった。
牧島の式神が抑えているのは、人面を持つ大蛇。全長は五メートル半ほど。現実にこのサイズの大蛇は、人間を襲う可能性がある。七メートル級になると、立派な猛獣だが。それに近い脅威である。
ただ、五メートル級の大蛇は、猛獣の中では弱い方になる。蛇は瞬発力は高いけれど、持久力には著しく劣るからだ。
「よし、押さえ込んだまま連れて行くぞ。 平尾、トラック借りてきたか」
「はい、此方に」
「荷台に載せろ」
えんやえんやと、荷台に大蛇を載せて。
牧島が術式を展開して、縛り上げる。ざんばらの髪を振り乱した大蛇は、声を上げることもなく。
口をぱくぱくはしていたが。それだけだった。
あまり暴れる事も無い。
やはり此奴は、単に人を探していただけだったのだ。
側で確認したが、やはり妖怪化してからもそれほど時間が経っていない。多分、一日少しくらいで、元に戻せるだろう。
神社に出向くと、すぐに元に戻すべく作業を開始。
平尾には、次の事件。
老人が高速で走り回るという、福岡で起きている怪異の調査に向かって貰った。牧島には、私の力を近くで増幅して貰う。
稲荷神社にいる眷属と、牧島のブーストを両方受ける事で、私の力は一気にふくれあがる。それは当然のことながら、怪異を人に戻す苦労が減ることも意味していた。
縛り上げられた怪異が、すぐに輪郭を保てなくなる。
それほど、怪異としては新参と言う事だ。
気の毒な奴である。
此処からは持久戦だ。しばらくスルメを口に入れながら、怪異を空気で包んで、少しずつ戻していく作業が続く。
大変ではあるけれど。
それしかする事も無いので、大変退屈だ。
牧島が座るための折りたたみ椅子を用意してくれたので、それに座って作業を続ける事にする。
怪異がのたうち回るけれど。
やはり、猛獣のように、暴れる事は無い。
此奴は元々、それほど危険な怪異では無いのだ。
だから、出来るだけ無理なく、負荷を小さく、人間に戻してやりたい。幸い、今回は時間もあるのだ。
牧島が、栄養ドリンクをくれたので一気に飲み干す。
今回は、もう一人、控えているのだ。
時間はあるけれど。
疲労をため込むのは、良い手では無い。
「はやく、私も運転が出来るようになりたいです」
「お前はまだ、花も恥じらう十六歳だろ。 良いんだよ、そんな事を考えるのは、まだ先で」
疲れた私の補助をするために、なのだろう。
そんな風な気を遣って貰えるのはとても嬉しいけれど。子供は子供らしくしていればいいのだ。
ましてや今の時代は、子供でいられる時間も長い。
生理が来たらすぐに結婚。場合によっては、十二十三で出産。
そんな時代も、それほど遠くない昔には、実際に存在していたのだ。勿論母胎の負担は尋常では無く大きかった。
それを考えると、今の子供が如何に恵まれているかは、言うまでもない事だ。
「それよりも、お前も仮眠を取っておけ。 幾ら若いと言っても、これからは長丁場になるからな」
「わかりました。 でも、何かあったら、すぐに声を掛けてください」
「んー」
元々、それほど広い神社では無い。
奧の殿を借りると、牧島はすぐに眠りはじめたようだ。私も小さくあくびをしながら、元に戻りつつある怪異に、力を注ぎ続ける。
不幸になる奴は。どうしてもこの世から絶えることは無い。
妖怪になってからも、そう言う奴は、大概は不幸だ。
だが、人間に戻る事で、最低限の尊厳を取り戻せる場合もある。
あまり周囲に話した事は無いけれど。
実は、数百年を経た妖怪の中にも、何とか人間に戻して欲しいと言ってくる者が、たまにいる。
どうしても無理な場合を除いて、私は話を受ける事にしている。
ただ、そんな長い年月を生きてしまった妖怪の場合。人に戻っても、完全に人間には戻れないことも多いのだ。
夕方になると、平尾から連絡が来た。
福岡の事件で、情報を集めているという。此方は目撃頻度がそれほど多くない上に、県警も協力的では無いので、苦労しているという。
「噂には聞いていましたが、やはり対怪異部署に良くない感情を持っている警官が多いようですね」
「万が一もあるから、気をつけて捜査を続けろ」
「わかりました」
もっとも、平尾の場合は。
襲ってきた奴が無事で済むかを考えなければならないだろう。
夜半を過ぎると、流石に眠くなってきた。
横になると、力をオートで展開できるように術式を設定して、そのまま眠る。流石に怪異からは離れる訳にはいかないのが面倒だ。
蚊が寄らないように空気を展開もするが。
気が緩むと、奴らはすぐに私の柔肌に吸い付いてくる。尻尾が長くて鞭のようにしなればたたき落とせるのだけれど。
まあ、こればかりは、仕方が無い。
仮眠と起きるのを繰り返し。
その度に、元に戻す作業を調整。
起きて来たあかねに、栄養ドリンクを何度か買ってきて貰う。ひょっとすると、思ったよりも、時間が掛かるかもしれない。
朝、十時七分。
怪異の、人間への回復を確認。
流石に私も疲れた。大あくびをしている横で、牧島が手配してくれた救急隊員が、素裸の子供を救急車に担ぎ入れて、運んでいく。
大蛇の正体は、あの子だ。
両親を事故で亡くし、孤児院に入った子なのだが。その後、親戚に引き取られた。しかし血のつながらない子供をかわいがることが出来る人間は、あまり多くは無い。負のスパイラルの中で、子供は虐待を受けるようになり。それを黙って耐えるようになってしまった。
無口なその子は、とにかく全く喋らないと、周囲から評判だったらしい。
何処かで、その子の異常に気づく大人がいれば良かったのだけれど。
学校は学校で、最近はシステムの崩壊が著しく、子供の異常などに構っている余裕は一切無し。
近隣の住民に到っては、子供に声を掛けたら内容関係無しに犯罪者扱いされる昨今、子供の異常に目など配る余裕がある訳も無い。
周囲が何もしないことを免罪符に、子供を平然と虐待する養父母。
抵抗すれば、更に酷い目に会う。
何度かの経験でそれを学んでしまった子供は。ずっと黙って耐えていた。
最悪なことに。誰かがその子に、余計な事を吹き込んだ。
どうも年老いた遠縁の親戚がいるらしいという話を聞いたらしいのだ。実際には、そんな親戚はいないことが、既にわかっている。
しかし、希望を得た子供は。
既に虐待で苦しみ抜いていた心を、決定的な所で、壊してしまった。
結果、怪異になり。
自分を引き取ってくれるかも知れないと考えて。夜な夜な、老人を見て廻っていたのである。
これがわかったのは、牧島が見つけ出した資料にある。
モンタージュを確認した所、共通点が見つかったのだ。脅かされた老人達の顔に、特徴的なえくぼがある事が分かったのである。
そして、行方不明者の写真と確認した所。
特徴が一致する子が、ぴたりと当てはまった。
後は式神を片っ端から周辺の老人宅に廻し、該当する特徴がある老人を探し出させ。
そして探し出した後は、張り付かせた。
庭に隠れて潜んでいる怪異を見つけ出した後は、簡単だった。念のために住み着いている老人を避難させ。
そして、大捕物。
もっとも、殆ど怪異は抵抗せず。
捕らえるのは、すぐに出来てしまったが。
ちなみに怪異はタワラヘビと呼ばれる、ツチノコの一種とみなされる妖怪だった。蛇との関係が深い九州にたくさんいる、蛇の怪異の一種である。
恐らくは、怪異としては何でも良く。
潜んで近寄るのに丁度良い蛇が選ばれた、という事だったのだろう。
平尾に連絡。
アフターケアの手配をさせる。
虐待をして怪異になるまで追い込んだ親戚の元からは離して、実績のある人間の場所へ移す。
その後は、時間を掛けて、心の傷を癒やして貰うしかない。
ここから先は、専門家の仕事だ。
出来る事は手伝いたいけれど。
私に出来る事は。悔しいけれど、ないのだ。
荷物を積み込むと、神社を離れる。ハイエースを高速道路に乗せる。無言でいる私を、牧島は気遣う。
「あの、警部。 今日も、見事なお手際でしたね」
「ああ、そうだな。 どれだけ解決しても、この手の事件はきりが無いがな」
「警部は、昭和のずっと前からこの仕事をしていると聞いています。 ずっと、こんな苦しみを味わってきたんですか?」
「私の能力は、空気を操作する事。 それで、怪異を人に戻せると気付いたのは、怪異になってから、二百と五十年ほど過ぎた頃だ。 皮肉にも、私自身は絶対に人間には戻れない状態になってからだな」
その頃には、知っていた。
怪異は弱い。
夜の住人という呼び方がある。だが、それは結局の所、過ごしやすい昼間から追い立てられた者達という意味なのだと。
夜行性の動物とは違う。
本来昼間生きたいのに。昼間からは追い払われ。夜の闇の中で生きていくのがやっとの者達。
それが怪異なのだ。
ウィンカーを出して、隣の車線に。前のトラックが、妙に不安定な上に、荷物をしこたま積んでいるからだ。
事故られでもしたらたまらない。
「コミュニティで話を聞いてみると、人間に戻りたいという妖怪は思っての他多くてな」
稲荷などにいる眷属の力を借りて、妖怪を人間に戻す作業は、場合によっては十日以上掛かることもあったけれど。
人間に戻って、怪異よりはマシな生活状態になる者も多かった。
逆に、絶対に人間には戻りたくないという者もいた。
社会になじめない者。
永遠の時間に過ごすのが、心地よい者。
例え、狩られる立場になっても。その方が良いという者も多かった。
だから私は、妖怪達に相談を受けたときだけ、人間に戻す事にした。時には、人間に、知り合いを人間に戻して欲しいと頼まれることもあった。
色々な時代を経て。
弱い怪異達をまとめ上げて。
それでわかったのは、怪異になるのは、悲劇だと言う事。だから、戻りたい奴は、戻してやらなければならないのだ。
「警部、つらい話をさせてしまいましたか?」
「ん、気にするな」
これでも、1000年の時を生きてきたのだ。
子供程度に心配されるほど、私は脆弱では無い。
スルメを口に入れると、アクセルを踏み込んで、少し速度を上げる。やはりトラックが妙に不安定だ。出来るだけ急いで離れた方が良いだろう。
福岡に到着。
近場のビジネスホテルにハイエースを止めると、既に待っていた。平尾と合流。平尾が集めて来た資料を、三人で確認する。
さて、此処からだ。
今度の高速移動老人の方が、あからさまな部分も多かった蛇怪よりも、かなり手強いはず。
できる限り短時間で決着を付けたい。
「警部、怪異を人に戻した疲れがある筈です。 後は私達でやりますので、先に休んでいただけますか?」
「阿呆。 お前達も休んでおけ」
「でも……」
「牧島、休もう」
平尾が声を掛けて、一段落したところで作業を終える。
どうにも良くない。
子供に心配されるようでは、先行きが不安だ。
3、明滅
福岡の県警に顔を出す。
というのも、情報が足りないと判断したからだ。県警の連中と話をするのは、いつも平尾に任せっきりだが。
それは何より、煩わしいからである。
だが、今回はそうも行かない。
相手が恐ろしく速いことが、少し調べて見て分かったからである。
式神が、相手を捕捉したのは昨日のこと。
すぐに現場に向かおうかと思ったのだが。牧島が伝えてきた、相手の速度は、常識を外れていた。
時速、実に440キロ。
ドイツのアウトバーンを走ることを想定した車両でさえ、簡単にはいかない到達速度である。
勿論、牧島の式神でも追いつけず、呆然とするばかりだったそうである。
害が無い反面、速度に特化した妖怪だ。
つまり、見つけてから追いかけるのでは、捕縛できない。情報を丁寧に集めて、先回りをするしかない。
妖怪についての資料は、県警にある。
面倒くさいけれど。
芦田警視正に連絡を入れて、そっちから県警に話をして貰う。私は知る人ぞ知る存在であっても、一警部だ。
警視正が持つ影響力とは、比較が出来ない。
しかも、芦田は本庁の警視正だ。県警本部の指揮官は警視監だが、それでも無視できない影響力がある。
だが。
それが故に、逆に圧力も強くなる。
事実私は、牧島もそうだが。
周囲から、露骨に反感の視線を浴びているのを感じていた。
「面倒くさいなあ……」
「いつもよりはマシであります」
平尾が、黙々と資料を集めてくる。
牧島は式神達を周囲に展開して、情報の精査を続行中。いわゆるマルチタスクを式神達と行う事により、情報の確認作業を最適化しつつ高速化もするのだ。
資料室に閉じこもって、数時間。
怪異の発生情報がまた入ってくる。
一匹だけ飛ばしていた式神が見つけたのだという。移動経路と速度を確認させ、情報を追加。
やはり、時速四百キロを軽く超えている。
都市伝説に、ターボ婆、或いはジェット婆などと呼ばれるものがある。
高速道路で併走してくる老婆の幽霊だ。似たような都市伝説はたくさんあり、誰かが広めたものが類例として分化していったものだろう。
それら都市伝説をアーキタイプとして、妖怪化した可能性もあるが。
実際には、何とも言えない。
「移動経路を見る限り、必ず高速道路を、一定方向に進んでいるようです」
「ふむ……」
腕組みしてしまう。
交通ルールを自分なりに守っている、という事だ。まあスピード違反という点では完全にアウトだが。
行方不明者のリストも、平尾が集めてくる。
今のところでは、情報が少なすぎる。
何とかして、怪異と接触したい。此奴の場合、無理矢理捕まえるのはかなり大変だろう。勿論高速で逃げる相手を捕縛するための改造を施されたパトカーもあるけれど、私は車の運転がそんなに得意じゃないし。
何より、流石に時速四百キロには追いつけない。
速度で対抗できる妖怪も何名か頭の中には思いつくけれど。彼らには手を借りるつもりは無い。
妖怪の中でも。
妖怪を人間に戻す事には、賛否があるのだ。
私が仲良くしている妖怪の中でも、意見は割れていると言える。そもそも、人間に戻った後に、怪異が幸せに過ごせるという保証も無い。
今まで以上の苦境に陥るとしても。
怪異のままが良かったのでは無いかと、後で文句を言う者もいるのだ。
だから、私は。怪異になって、まだ自我が確立できていない者と。自分から望む者だけに、処置を施す。
その手伝いもしかり、である。
とにかくだ。
怪異の発生条件。
進行速度。
この二つが割り出せれば、コミュニケーションを取ることが出来るかも知れない。
あかねに連絡を入れる。
地上では駄目でも、ヘリでは同じ程度の速度が出せる機体もある。陸自に力を借りるのは最終手段だが。
それでも、何かあってからでは遅いのだ。
「わかりました。 私の方で、何とかします」
「頼むぞ」
さて、資料の整理だ。
いざ陸自のヘリを出して貰った時点で、怪異が現れないでは話にならない。怪異が現れるタイミングを、徹底的に割り出さないと行けないだろう。
不意に、呼び出しが掛かる。
私にだ。
県警の本部長だから、警視監である。部長から見るとかなり階級も上になるし、一応敬意は払わなければならないだろう。
面倒くさいが、彼の部屋に出向く。
此処の警視監は、典型的なキャリア組で、エリート意識が服を着ているような男だという話を聞いていた。
実際に見ると、その通りである。
私を見ると、鼻で笑い飛ばす。
「九尾の狐とか言うのは君かね」
「はい。 これでご満足ですか?」
ひょいと尻尾を出してみせると、流石に仰天した様子である。
キャリアの中にも、対怪異部署の存在を認めていない者がいるとか聞いているけれど。此奴もそれだったというわけか。
多分私を手品師とか呼ばわりして、罵倒するつもりだったのだろうが。
怪異である事を分かり易く見せつけてやれば、この通りだ。
「それで、何用でしょう。 此処でどうにも出来ないでいる怪異を処理するのに、調査がまだまだいるのですけれど」
「ずいぶんな言いぐさだな」
キャリアの世界は、基本的に功績の奪い合いだ。分かり易い事件を解決することが、それだけキャリアの栄達につながる。
元は同じ国家試験の合格者だ。
勿論人脈も影響してくるが。
故に、事件を解決できずにいることは、それだけ出世に響くことにもつながる。怪異に関する事件を甘く見ている上、それが解決できず。しかも対怪異部署の介入を招いたのは、此奴にとって痛恨の事態なのだろう。
どうでも良いことだ。
此奴の事情なんて、実際に怪異になって苦しんでいる者に比べれば、それこそ塵芥の価値も無い。
「とにかく、余計な事はしないでくれたまえよ」
「此方で必要としているのは、怪異となった存在を救うための情報だけです。 刑事事件や傷害事件には関与しませんので、ご心配なく」
「……」
にらむような目で私を見ていた警視監だが。
舌打ちすると、視線をそらした。
この程度の小童、今まで散々相手にしてきた。確かに怪異は人間に比べると弱いかもしれないけれど。
経験の差がある。
考えも手に取るようにわかるし。それに今、部屋中に空気を巡らせて、弱みもかなり掴んでおいた。
脅せる材料も幾つもある。
「あ、そうそう。 右のその棚にあるエロ本、部下に見つからない場所に隠しておいた方が良いと思いますよ。 私物を自室に持ち込むのも感心しませんね」
瞬時に真っ青になる警視監。
敬礼だけすると、部屋を出る。この部屋が監視されていることを承知の上で、わざと言った一言だ。
私を侮るとどういうことになるか。
わからせただけで、充分である。
資料室に戻る。
二人の調査は、まだ終わらないけれど。コピー機を使って、なにやら資料を整理しているようだった。
「どうでした、警視監は」
「典型的な、学校のお勉強だけ出来るお坊ちゃんだな。 ちなみに部屋に四冊もエロ本を持ち込んでいたよ。 それもSM系の奴ばかりな。 緊縛が好きらしくて、その手の小説もあった」
流石に石化する牧島。
唖然とした様子で、式神達も私を見ている。
真っ赤になって、何度か咳払いした後、牧島は言う。
「その、慎みを持ってください。 部長、とてもおきれいなのに」
「おきれいねえ」
昔々のこと。
今はおばさんのことを女の子、などという呼び方をするが。当時はオバタリアンなどという言い方が広まり、結婚を揶揄する表現も多かった。
私はそう言う意味では、大オバタリアンだろう。
今風の言い方で言えばバツ5。
いずれも死別だが、既婚者で大年増なのだから。何より閨でやるような事はあらゆるものを経験済みだし、この場で牧島が卒倒しそうな知識も山ほど仕込んでいる。
今更、カマトトぶっても仕方が無い事だ。
大体、綺麗だとして何だ。それが何か役に立つのか。
そんな事で、私の夫を一人でも救えたか。子供達を、一人でもしっかり育てることが出来たか。
出来なかった。だから、私の容姿なんて、どうでも良いのだ。
話を変える。牧島にこの負の感情を向けても仕方が無いからだ。
「あんなお子ちゃまの事はどうでも良い。 今は、苦しんでいる怪異を救うことが最優先だ」
「はい。 資料の精査を進めます」
「そういえば、少し気になるものを見つけました。 警部、此方をみていただきたく」
平尾が出してきたのは、写真だ。
高速の自動記録写真だが。
あの高速移動老人。なんと高速の改札で、なにやら身分証らしきものを提示しているのである。
あまりにも速すぎて、一瞬しか捕らえられなかった様子だが。
「これを解析できれば、或いは」
「いや、コマ送りした写真だから、これ以上の明晰化は難しいだろう。 それよりも、ヒントになるかもしれん」
この老怪。
或いは、此方が思っているよりも遙かに、ルールを守るのは正確にやっているのかもしれない。
そしてそれが。
この妖怪の、正体を現してもいた。
「なるほどな」
今までのデータと照らし合わせることで、法則性がわかった。
これで、此奴を捕らえられる。
このいけ好かない県警とも、おさらばだ。
翌日。
福岡県警に許可書類を出して、早速実験を行う。
怪異が出る条件については、幾つかを割り出せた。その途中で、トラップを仕込むのである。
トラップとは。
渋滞緩和だ。
渋滞が起きた場合、それを緩和する手段が幾つかある。それが、渋滞の後尾で、わざと遅い車を走らせる、というものだ。
幾つか理由があるのだが、これをすることによって、渋滞の肥大化を確実に防ぐことが出来る。
勿論途中の移動は遅くなるけれど。
そも、渋滞になってしまうと、亀も同然の速度になってしまうものなのだ。今更怒ったところで仕方が無いのである。
警視監が文句を言うかと思ったけれど。
私が部屋に隠しているエロ本のことをあっさり当てたことで、侮れないと判断したのだろう。
というよりも、むしろそれで怪異を捕縛できるならそれでよし。駄目なら攻撃する材料となると判断したのかもしれない。
平尾には、レンタカー屋で、ハーレーを借りてきて貰う。
サイドカー付きの奴で、そちらには私が乗り込む。
おっきなバイクなんて、怖くて操縦できないので。平尾にやらせるのだ。
牧島は、あるパーキングで待ち伏せさせる。
読みが正しければ、高速移動老人を、其処に追い込むことが出来る筈だ。
早速、作戦開始。
福岡県警の車両数台を動かして、高速道路で意図的な遅滞を起こさせる。元々この時期、渋滞は必ず起きるのだ。
それにあわせての行動である。
そして、出現する高速移動老人。
何カ所かのカメラで確認。
「引っかかったな」
平尾に指示。
パーキングを出て、追跡に掛かる。高速移動老人は、渋滞が酷くなっていく中、スピードを明らかに落としている。
時速は、二百キロどころか、百五十も出ていないだろう。
つまり、ハーレーで追いつける。
サイドカーで私は、ヘルメット越しに、びゅんびゅん後ろにすっ飛んでいく車を見て、愕然。
怖いので、サイドカーに張り付きっぱなしだ。
「警部、もうすぐ捕捉できるのであります」
「……」
「警部?」
「うん」
怖いので、口数が小さくなる。
人間だったら大体相手を見抜くことも出来るけれど。こういう状況が、怖いのは昔からだ。
見えてくる。
驚いたことに、高速移動老人は、杖を突きながら歩いている。凄く速く歩いているという雰囲気も無し、歩く動作も普通と同じだ。
それなのに、速い。
足を素早く動かして速いのでは無い。
地面を滑るように移動しているような雰囲気だ。
「横に並べ」
「やってみます」
高速道路とはいえ、路肩にいる車もいる。あまり速度を出していると、衝突しかねない。平尾は運転が上手いが、バイクはそれほどでもないらしい。まあ、一応乗りこなせてはいるが。
正直、何度も冷や冷やした。
サイドカーから顔を乗り出すのも、実際には怖いけれど。
何とか頑張って、老人の方を見る。
顔が全く無い。
平べったい顔で、目鼻口も存在しない。
何となく、正体が読めた。
「おい、聞こえているか」
話しかける。
何度か話しかけていると、ぬるりと此方を見た。
勿論、完全な平面だ。
「お前、何をしている」
返事は無い。
ただ老人は。無言のままだ。
だが、私が核心に突っ込むと。此方を慌てた様子で見直す。
「お前、此処で六台の玉突き事故を起こしたな」
「!」
罪悪感で、恐怖に囚われている内に、その姿になっていたか。そして今も、あの時の事を後悔し通しだから、交通ルールを守って、何度もこの高速道路を行ったり来たりしている。
そう指摘すると。
図星を指されたのっぺらぼうは、うめき声を上げた。
「アアアアアアア……」
「お前には、罪を償って貰う」
側で走ってみて、よく分かった。
此奴は、罪悪感が怪異となったものだ。
交通ルールを守らなかったことで、六台が絡んだ玉突き事故を発生させた張本人。故に、その時の事を悔いるがあまり。
安全運転を、繰り返している。
ただし、気の逸りがある。
何度も何度も、同じ路を繰り返し通ることで、自分は安全運転をする事が出来たという達成感を覚えて、自らを救おうとしている。
故に、四倍速で、全てを行っていたのだ。それが、異常な超スピードにつながっていたのである。
更に言えば。
自分を老人に変えたのも、それが理由だろう。
ゆっくりと動く老人なら。
きっと交通事故を起こさないと、考えたのだ。無意識下で。
そして、歪んだ心理は顔にも現れている。
自分の顔を、周囲に見せたくない。
結論として、アーキタイプとしてはのっぺらぼう。しかしながら、都市伝説にあるターボ婆の妖怪も取り込んだ、異形が誕生したというわけだ。
電子標識。
渋滞中につき、時速三十キロ制限。
普通はそんな制限速度は掛からない。だが、見る間にのっぺらぼうは速度を落としていく。
慌てる様子ののっぺらぼうに。
側に付けた平尾が、ドスの利いた声で叫ぶ。
「取り調べを行う! 次のパーキングに降りろ」
交通ルールを破ったことに対する罪悪感から作られている怪異だから。警官の指示には逆らえない。
パーキングに降りるのっぺらぼう。
既に其処では。
式神と、捕縛用の道具一式を揃えた牧島が、待ち構えていた。
駐車場に、律儀に入る老人。
周囲から縄を掛けると、うめき声を上げる。
私はへとへとになっていたけれど。出来るだけしゃっきりした様子でサイドカーから降りて。
縄を掛けられたのっぺらぼうを一瞥した。
「さて、何か申し開きは」
「……」
「玉突き事故で、死者が出なかったことだけは幸いだ。 お前には相応に重い罪も課せられるが、それでも人生はまだやり直せる。 罪は、きちんと償って貰うからな」
縄を掛けられたのっぺらぼうを、トラックに乗せる。
近くに眷属がいる小さな神社がある。
其処で、全てを終わらせる。
神社に連れ込んだのっぺらぼうは、抵抗しなかった。
空気で包んでみると、私の推察が大体当たっていたことがわかった。罪悪感と安心感を得るために。
一種倒錯した思想の元。
のっぺらぼうは、加速しての暴走行為を繰り返していたのである。
しかも、事故を起こした高速道路限定で。
そう言う意味で、非常に強い罪の意識に、苦しみ続けたのだとも言えた。
ただ、観念していたこともある。
かなりスムーズに人間へ戻す作業は進んだ。
自衛隊のヘリを借りる必要はなくなった。其処まですると、後が色々と面倒なのである。あかねにも、途中の経過報告は入れておく。
「一週間もかからず、二件とも解決ですか。 流石ですね」
「そうはいうがなあ」
私自身はげっそりだ。
その一週間以内で、二人も妖怪化した人間を元に戻している上。先までは、恐ろしい高速道路での、生きた心地がしない行動をしなければならなかった。
もう二度とバイクには乗らない。
誰にも言わないが、固く誓う私である。
「とりあえず、引っ越しの処理はしておいてくれるか」
「いつもの仕事後引っ越しですね」
「ああ、そうなる」
「わかりました。 此方から手配しておきます」
通話が切れる。
あかねの奴は、この辺りは優しい。これで普段から、私を働かせようとしなければ、もっと良い奴なのに。
平尾が持ってきてくれた折りたたみ椅子を使って、怪異の人間か作業を続けていく。日が暮れて、夜半を廻る頃には。
既に外観は、人間に戻りつつあった。
戻してみてわかったが、中年の冴えない男性だ。
事故を起こしてしまったとき、さぞ怖かったのだろう。どうみても気が強そうでは無い中年男性は、気の毒なほどにうなだれていた。
これで、死亡事故だったら、どれだけの悲惨な結末が待っていたことか。
だが、事故の調査によると、玉突き事故の直接のトリガーを引いたのはこの人物ではあるが。
前の車のいい加減な運転や、何より霧が出ていたことも報告されている。
ある程度は、減刑が出来るかも知れない。
まあ、あくまで「かも」だが。
いずれにしても。
一瞥した。この冴えない中年男性は、もう逃げようともしないだろうし。後は時間を掛けるだけで解決だ。
さて、これで「別件」は片付いた。
後は牧島と平尾を先に返した後、此処でクドラクの動向について、調査する。此方の方が本件だ。
ダイダラボッチが消えたことについても、調べておきたい。
不意に、スマホが鳴る。
意外な人物からだ。
「ん、どうした?」
「随分だな」
「何、性悪吸血鬼にだまくらかされて、悲しみのあまり引きこもってるかとでも思っていたんだがな」
「貴様……」
分かり易く、通話先で青筋がびきびき音を立てている。
電話の主は、言うまでも無い。
酒呑童子だ。
彼奴から此方に掛けて来たという事は。何かしらの形で、私が九州に来ていると知っているのだろう。
少し前から、酒呑童子も九州で血眼になって動き回っていると聞いている。私も同じように妖怪に話を聞いて廻っていたのだ。(主に電話で、だが)
酒呑童子が、私の動向を知っていても、不思議では無い。
「で、何用だ」
「共同調査をしたい」
「どの面下げてそう言える」
ちなみに、私自身は。
酒呑童子を許していない。
当たり前の話だ。此奴のせいで、どれだけの事になったか。
今までも、色々と思想の違いから、ぶつかり合うことはあったけれど。酒呑童子と私は、互いを認め合ってきたつもりだった。
それが、あのような最悪の形で裏切ったのだ。
「俺だって、この国の妖怪の。 いや、妖怪全てのことを考えてした事だ。 確かに大きな失敗はした。 だが、取り返したい」
「すぐにはいとはいえんな」
「今回は情報交換だけと行こう」
「……」
酒呑童子は、元々関西が本拠。
此奴の情報網は私とも違う。更に言えば、私には真実を言わなくても。酒呑童子には口が軽くなる妖怪も多い。
それに、気持ち的には相容れなくても。
理屈としては、此奴が言っていることが正しい部分を含むことも、私はわかるのだ。
「わかった、良いだろう」
「助かる」
通信が切られる。
電話番号については、メモを取る必要もないだろう。しばらく考え込んでいると、牧島が下から私を覗き込んでいた。
「どうした」
「九州まで来たのには、やはり理由があるんですね」
「隠しても意味がないことだ。 早い話が、九州に来たがあっさり撤退したクドラクの連中の動向を掴みたい。 それに、何故か消えてしまったダイダラボッチについても、探っておきたい」
どうにも、最大級に嫌な予感があるのだ。
勿論対怪異部署としての仕事も、疎かにするつもりは無い。その証拠に、先に「本来の」仕事を片付けたのだ。
少し考え込んだ後、牧島は言う。
「私、残っても良いですか」
「高校は良いのか?」
「単位は足りています」
それに此奴は、民間協力者としては、出色の成績を上げている。私のアシストが殆どだが、複数の事件解決に大きな実績を上げていることで、警察からの評価も上がっていると聞いている。
それに加えて、学業の方面でも、良い評価を聞いている。
学業で成績を落としているようなこともないそうで、元々かなりよい大学に充分は入れるだけの実力はあるそうだ。
まあ、それなら構わないか。
社会勉強という意味もあるのだから。
「わかった。 平尾、お前はどうする」
「本官としては、地道に足で稼ぐことが得意ですので。 警部のお手伝いは充分に出来るかと思います」
「しゃあない。 今回は私一人で行くつもりだったが、お前達にも助手を頼むか」
二人がいれば、少しは心強いのも確かだ。
私はこれだけ永いことを生きても。
少しだけ、寂しがり屋の所があって。
それはまだまだ、抜けきっていないらしかった。
4、消失の跡
救急車が、神社から中年男性を連れて行く。
行き先は警察病院。
意識が戻り次第、取り調べだ。
無理もない。彼は六台が絡んだ玉突き事故の、重要参考人として指名手配も掛かっていたのだ。
県警本部から、連絡が来る。
事件解決の礼についてだった。
ただし、礼を入れてきたのは、玉突き事故の犯人を追っていた老警部だけ。まあ、無理も無い事だろう。
後は、適当に引き継ぎを平尾に任せて。
此方は、クドラクが来た足取りを確認することにする。
ハイエースで、福岡の街に出る。
リアル修羅の国などと揶揄される福岡を含む北九州だが。実際の修羅の国であるアフリカの幾つかの国や、中東の危険地帯に比べれば天国に等しい。勿論日本の中では治安は悪い方だが。
幾つかの神社を見て廻り、まず眷属の様子を確認。
最悪の場合、拠点にするためだ。
県警から貰った資料も確認。
その後は、地元の顔役達に、実際に会って廻る。
この辺りの怪異には、人間の荒々しさを反映するように武闘派も多い。古い時代の妖怪も、時々見かけることがある。
ただ、流石に私や酒呑童子が、この国でも最も古い妖怪である事に代わりは無い。
武闘派であればあるほど、生き残れなかったのだ。
妖怪としてどれだけ強くても。
人間には、叶わないのである。
妖怪の中には、神社に住まわせて貰っている者も少なくない。彼らと話をするのは楽で良いのだけれど。
面倒なのは、人間にとりつくような形で、人家に住み着いている者だ。
彼らとはとにかく連絡が取りづらい。
しかも、そういう妖怪に限って、独自の情報網を作っていたりするので、面倒さは倍増しである。
幸い今回は、牧島の式神が役立ってくれる。
式神を使って、妖怪達とのアクセスをして。
場合によっては呼び出し。
場合によっては、私が力を込めた空気を纏って、本人の所に出向く。そうして、情報を集めていく。
妖怪の話は、平尾にメモさせる。
第三者のメモによって、聞き逃しなどを防ぐためだ。平尾はメモの技術も高く、殆ど聞き逃しはなかった。
あかねには、二日ほど滞在すると断ってある。
かなり疲れは溜まっているけれど。
それでも、この国の妖怪達のために。此処で、骨を折っておく意味は、大いにあるのだ。
酒呑童子から、連絡が来る。
情報交換をして、軽く流す。
向こうも、クドラクの足跡は掴めていないようだ。クドラクの主力部隊は、日本に来て、すぐ帰ってしまったとしか思えない。
ただ、酒呑童子は、暴力団関係者に顔が利く。
其処から直接、密入国業者の居場所を割り出して、話を聞きに行くという離れ業を披露していた。
此処までやると言うことは。
余程に頭に来ているのだろう。
まあ、気持ちはわかるが。
問題は、クドラクだけでは無い。
合法的にこの国に入る事が出来る、危険集団がいるのだ。
いわゆるエクソシスト。
一神教の退魔組織である。見境がないことに関しては、世界一危険な集団とさえ言われている。
海外に出向いたとき、何度かやり合ったことがあるが。
出来れば、二度と戦いたくない相手だ。
元々ステゴロは苦手なので、出くわすのも嫌だ。
そいつらが来ていると、酒呑童子は言う。
「確認されているのは、五名だけ。 エクソシストはナンバーで互いを管理していて、上位から番号が若くなるが。 一桁台の使い手になると、生半可な怪異では歯が立たないことで知られている」
その程度の知識はある。
だが、今回日本に来たのは。ナンバー3を含む、一桁二人。二桁三人だという。その中には、クルースニクと呼ばれる、吸血鬼専門の能力者が二人いるとか。
それは、まずい。
そいつらの出方次第では、対怪異部署に出張って貰う必要さえある。
以前も、明治時代に。
日本に勝手に来たエクソシスト共が、あまりにも好き勝手に暴れ回ったことで、かなり深刻な被害が出たことがあるのだ。
「そっちも気をつけておけ」
酒呑童子が電話を切る。
嫌な予感がする。
「これは、推測ですが」
話を聞いていた平尾が、此方を一瞥した。
拠点としている神社からは、福岡の街が一望できる。此処は小高い場所で、夜景も綺麗なのだ。
数名の妖怪が、不安そうに顔を見合わせる中。
平尾は、一番最悪の予想を口にした。
「大勢来たクドラクのメンバーはフェイクで、本隊は別から上陸したのでは無いでしょうか」
「可能性はあるな」
「確かに、エクソシストの動きが妙ですね」
クドラクと長年渡り合ってきたエクソシストにしてみれば、相手の手の内はある程度読めている。
精鋭を五名も派遣してきているのである。
何か、とんでも無い事が起きているとみるべきだろう。
「本官が、連中との接触を試みましょうか」
「やめた方が良いぞー?」
見境ない事では、世界的に有名な連中なのだ。
何をしでかしても不思議では無い。平尾や牧島ごと、見境無しに殺しに来てもおかしくない奴らなのだ。
しばらく考え込んだ後。
私は、地元の妖怪達に、できる限りエクソシストには近づかないように指示を出すにとどめた。
以前の事件での契約が生きているなら。
エクソシストは、無害な妖怪には手を出せない。
ただし、それも誰も見ていないところなら、何をするかわからない。そう言う連中なのである。
いずれにしても、ここ九州で。
何か、とんでも無い事が起こりつつある。
それだけは、確かだと見て良さそうだった。
闇の中。
それは、唐突に人の姿を取る。
吸血鬼の中では、最長寿の一人。クドラク。
組織の名前を冠する、最強最古の吸血鬼だ。もっとも、この国の怪異と同じ。実力としては、それほど大したものは持ち合わせてはいないが。
元々嗜血症だったクドラクは、幼い頃から迫害されて。碌な人生を送る事が出来なかった。
彼の脳裏にあったのは、自分の事を迫害した世界への怒り。
生まれてから370年ほどの間。
人間への憎悪は、忘れたことがない。
クドラクの前に、跪く姿。
それは、男装の女吸血鬼。カルマである。
対外的には、過激派の一部として組織から離れたとされるカルマだが。現実にはこの通り。
この女は。クドラクの忠実な部下だ。
「真祖様」
「うむ……」
部下達が取り出してきた椅子に座る。
出来るだけ威厳がある老人の姿を取るクドラクだが。若者の姿を取ることも出来る。この可変性が、永く生きてこられた秘訣。
要するに、敵の目を誤魔化しやすいのだ。
人間の退魔組織と、正面からやり合っては、絶対に勝てない。
それを知っているからこそ。
あらゆる手を使って、相手との直接対決を避けてきた。
現に、この会合を行っているのは、山の中。周囲に人気はないどころか。ヤブ蚊が飛び交い、熊がその辺りをウロウロしているほどだ。
こんな場所で、格好など付けても滑稽なだけだが。
クドラクとしては、こんな場所でも、美学は維持したかった。それは余裕を見せることにもつながるからだ。
「状況はどうだ」
「実験のデータは回収しました。 既に、ネット上のストレージに、分割保管も済ませてあります」
「うむ」
これで、まずは第一段階だ。
ただ、状況は良くない。
既にエクソシスト共は嗅ぎつけて、この国に精鋭中の精鋭を送り込んできている。中でも、吸血鬼殺しという点では世界最強と噂されるナンバー3、エドモンド=グラーフが来ているのは痛い。
此方も精鋭を連れて来ているが、奴とやり合うことになったらそれでも保たない。
「第二段階の計画は、どうなっている」
「既に連絡は取ることが出来ています。 利害は一致していますので、恐らくは乗ってくることかと」
「偉大なる大先輩だ。 敬意は欠かさぬようにな」
「御意……」
カルマが姿を消す。
クドラクは立ち上がると、部下達を睥睨。
この国の怪異は、世界的に見てもかなり数が多いが。それでも、人間にはとても抗する事が出来ない。
その状況を、変える。
昔、ある場所で、ある書物をクドラクは読んだ。
驚かされた。
それは、あり得るはずがない書物。いわゆるオーパーツと呼ばれるもの。その書物には、驚愕の事実が記されていたのである。
もしも、それが本当なら。
怪異は人に怯えずにも、生きることが出来る時代が来るのかも知れない。
太陽を独占する、愚かなる生物に、鉄槌を加えることが出来るかも知れないと思うと。積年の恨みが、喜びに変わっていくかのようだ。
だから、複雑な計画を立てて、緻密に実行を続けた。
今、その計画に。王手を掛けている。後幾つかの手順さえクリアできれば。あの忌々しいエクソシスト達にも、もはや遅れを取ることは無いのだ。
この国の怪異達には悪い事をしたが。
全ての計画が動き出したときには、感謝してくれるだろう。
その時には。
人と怪異の力の差は、逆転する。
クドラクは人間社会の書物も読む。特に日本で発行されている漫画の中には、吸血鬼が異常に強力に描写されているものもある。
あんな力が、実際に備わっていたら。
クドラクも、他の吸血鬼達も。
血反吐を撒きながら、人間から逃げ回らなくても、良かっただろうに。
あの異常な力を、現実のものとする。
そのためにも、この計画は、失敗させるわけにはいかないのだ。
この国に、今来ている吸血鬼は十四名。
五百名の本隊は、この十四名の身を隠すための森だ。本命が隠れる時間だけを作るのが、主力部隊の仕事。
だから、もう大陸に戻させた。
忸怩たる思いで大陸に戻った彼らのためにも。
クドラクは、失敗できない。
闇の中を、移動する。
部下達は脱落せずについてくる。
彼らはいずれもが、クドラクが長年手塩に掛けて育ててきた部下達。いずれもが、見境無いエクソシストと渡り合ってきた、海千山千の猛者達だ。戦いには勝てなくても、身を守り、生き延びる術は知っている。
闇を、抜け。
街に出る。
其処は世界最大のメガロポリス、東京。
夜を知らない街。
さて、此処からだ。
此処で、夜が昼を征服する、怪異のための物語が始まるのだ。
5、ふくれあがる悪寒
東京に戻った私は、新しく手配されたアパートに移る。
中々居心地が良いアパートだ。あかねが選んでくれたものらしく、駅からも近い。周辺の治安は最悪だけれど、別に気にしない。
最悪の場合は、認識できないように、力を込めた空気で身を守れば良いのだから。
今回は、少し疲れた。
ジャージに着替えてゴロゴロしていると。スマホが鳴る。
帰ってきたばかりなのに。
口をへの字にして、電話に出ると。電話を掛けてきたのは、聞いたことも無い声の持ち主だった。
おかしい。
此処の電話は、ある特殊な処置をしていて。間違い電話などが掛からないようになっているのだが。
「金毛九尾の狐だな」
「ああ、それがどうかしたか」
「私の名はクドラク」
流石に、全身が総毛立つ。
噂に聞くクドラクの首領は。自分の名前を、組織にそのまま付けているという。
この電話に、悪戯が出来ない事は、既に確定済み。
つまり、本物の可能性が高い。
「東洋でも最古参の妖怪の一人である君に、聞いておきたい事がある」
「何だ、吸血鬼の首領」
「君は、妖怪が人間に押さえつけられる、今の世界を満足しているかね」
「しているわけが無いだろう」
当たり前の話だ。
どれだけの妖怪が、今まで涙を呑んできたと思っている。人間の都合で妖怪化させられ。その後は、一方的に悪と断じられ、狩られてきた。
だから、自分なりのやり方で、皆を守ってきたのだ。
無力なのは先刻承知。
だからこそ、出来る事を、自分なりにこなしてきた。
「それは結構」
「テロに加われというなら、しないぞ」
「いや、君は見ているだけで良い。 間もなく、妖怪の力が、人間のそれを上回る時がやってくる」
「何……!?」
それは、あり得ない。
古い時代は、妖怪が圧倒的な暴威を振るう事は。条件さえ整えば、実現した。かくいう私も、実現したことがある。
尾ひれがついている私の伝説は、その一端だ。
しかし今は。
人間の圧倒的な力の前に、妖怪は隠れるしかない。
純粋な力でも。
技術でも。
妖怪は、人には勝てない時代なのだ。
もしも、これをひっくり返す事が可能だとすれば。それは、文字通り、世界を変えてしまう革命だろう。
「お前は、何をもくろんでいる。 世界的な経済を麻痺させようが、世界大戦を起こそうが、人間の優位は変わらないぞ。 例え核戦争が起きたところで、だろうな」
「そんな野暮はしない」
「ならば……」
「この世界の法則は、ある時点で書き換わったと言ったら、信じるか?」
思わず、口をつぐむ。
法則が、書き換わった。
何だそれは。はじめて耳にする。
これでも、長く長く生きてきたのだ。色々な賢者と語らう事もあったし。物知りな妖怪と、一晩中様々な事を話した事も多かった。
だが、そんな話は、聞いたことが無い。
400年ほど前、チベットの高僧と話したときには、その徳の高さに驚かされもした。
260年前。錬金術師の最後の生き残りと話したときには。その独自の世界観に、何度も感心させられた。
ギリシャ哲学に詳しい人間には、良くそんな事を思いつくものだと驚かされもしたし。
あらゆる歴史に精通した人間とは、実際の歴史と伝承の違いについて、一晩中議論もした。
勿論、オカルトの専門家とも様々に話してきたが。
胡散臭い話ばかりだった。
その中でも、特に胡散臭い話だというのに。クドラクが、何故にそのようなものを信じ込んで。
なおかつ、自分も信じそうになっているのか。
頭を振る。
これ以上は危険だ。
「信じられないな、そんな与太話は」
「与太話かどうかは、すぐにわかる。 この間、ダイダラボッチなる大妖怪が消えた事件があっただろう」
「ああ、それがどうかしたか」
「奴は間もなく姿を見せる。 この国の怪獣映画に出てくるモンスターに勝るとも劣らない力を身につけて、な。 それも、東京に、だ」
一方的に通話が切れた。
舌打ちして、スマホを布団に投げつける。
ダイダラボッチが東京で大暴れだと。それはテロ予告と見なすべきなのだろうか。いずれにしても、連絡は入れておいた方が良いだろう。
まずあかねに連絡をして。
それから、芦田だ。
平野にも、一応連絡はしておく。
芦田は、クドラクのテロ予告かもしれないと言って、対策は練ってくれると言った。
すぐに準備を始める。
正直な話。現実に、映画に出てくるあの核の子である怪獣が現れても。自衛隊で、対処は可能だ。
あれは著しく問題のある戦術を、明らかにおかしい戦略下で駆使しているから負けているのであって。
怪獣を倒す方法など、現実にはいくらでもある。
ましてや、妖怪であるならば、なおさらである。
それなのに、どうして嫌な予感は、消えてくれないのか。
しばらく悩んだ末。
安倍晴明にも、連絡は入れておく。
最悪の雇い主は、私の話を聞き終えると。そうかそうかと、感心無さそうに言った。別に、それはどうでもいい。
もしもクドラクが何かしでかした場合。
安倍晴明の無能さが際立つだけだ。
此方で、出来る事は全てやっておいた。後は念のために、平尾と牧島にも、臨戦態勢を取るように告げておく。
連絡が一段落して。
スマホが、また鳴った。
今度は酒呑童子からである。
「おい、まだ生きているか!?」
「急になんだ」
「クドラクの野郎から連絡が来ただろう! すぐにその場を離れろ!」
激烈な嫌な予感が、背中を駆け上がる。
とりあえず、大事な荷物だけを手に取ると、すぐに着の身着のままでアパートを飛び出す。
同時だった。
私のいた部屋に、鉄骨が横殴りに直撃したのである。
前に飛び出していなければ。ドアを突き抜いた鉄骨に、私自身が串刺しにされていただろう。
心臓がばくばく鳴っているのがわかる。
それ以上に、あまりの異常事態に、脳がついていかなかった。
巨大な人型。
そいつは、圧倒的内容を見せつけながら。夜闇の東京に、まるで支配者のように君臨していたからである。
「六代目ダイダラボッチ……!」
姿を消したはずのそいつは。
咆哮を空に向けて放つと。
近くのビルを。積み木細工のように、打ち砕いていた。
(続)
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