穏やかスクールフードファイト

 

序、冴えない男子の楽園

 

理由はよく分からないのだけれど。

僕は高校に入ってから、急にもてるようになった。クラスの女子はみんな僕に夢中。別に勉強が出来るわけでもない。スポーツが得意なわけでもない。ファッション誌を見てオシャレをしている訳でも無い。

ただの平凡な男子高校生の僕が。

どうしてだか、妙に女の子達に優しくして貰えるのだ。

学校が特殊かというと、そうでもない。

ごく普通の公立高校。

だけれども、中学の頃からあまり良い所がなくて。当然周囲から相手にされなかった僕は、今が楽しくて仕方が無かった。

通学路は二十分。

歩いて学校まで行くと。

クラスのみんなは、いつも好意的に出迎えてくれる。

「おはよー!」

手をぱたぱた振って挨拶してくるのは、雛川たくみ。

僕より少し背が低いけれど、アイドル顔負けのルックスの持ち主だ。腰まである髪の毛は茶色っぽいけど、先生は何も言わない。

たくみさんはいつもにこにこしていて。

怒っている所なんて、見た事も無い。

天使のような笑顔で僕を迎えてくれる人だ。

「おはよう、雛川さん」

「治郎くん、宿題はやってきた?」

「うん、昨日教えてもらった所が出たよ」

「良かった! じゃあ、今日のテストも大丈夫そうだね」

笑顔が絶えないクラス。

僕は、ずっとこんな所に行きたかった。

「おはよー」

遅れてクラスに入ってくるのは、長身の女子生徒。剣道部に通っている、幸島七海だ。

県大会で上位に食い込む実力者だとかで、学校の外でも有名人。髪の毛は短く切っているけれど。それが却って、凛とした美貌を引き立てている。男子より女子に人気らしいけれど。お弁当を手作りしてきたり、家庭的なところもある。

たくみさんと七海さんは親友同士。今日も早速、僕も交えて話をしている。

「何だ。 治郎はもう来ているのか」

「七海ちゃんは部活?」

「朝練だ」

剣道部だから、スポーツ少女でも七海さんはとても肌が白い。

むしろ文化部のたくみさんより、肌が白いくらいだ。

それが美貌に拍車を掛けている。

「うーっす、お前ら、揃ってるかー?」

教室に、先生が入ってくる。

担任の美人先生、白井純。

二十代半ばの若々しいルックスと、非常に大きな胸。何より大人っぽい顔立ちで、男子生徒からも女子生徒からも憧れられている人だ。

授業は国語を担当しているけれど。

覚えやすくて、中学の頃の先生とは雲泥の差である。

勉強は中学の時よりも格段に難しいはずなのに。

点呼を取る先生。

男子は五人だけ。

いずれも、僕を虐めることは無い。友好的に接してくる、みんな良い奴ばかり。

女子は十四人。

少子化の影響で、この学校は一クラス二十人を切っている。クラスは三つあるけれど、他がどうなっているかはよく分からない。

中学の時から、あまり同級生には興味が無くて。他のクラスの事は殆どわからない。これは仕方が無いと思う。

中学くらいからだ。

周りがみんな敵に見え始めたのは。

必死に自分を殺して、身を守って。

だから、高校は本当に天国みたいだ。

 

昼休みは、何人かの女子と席をつなげて、ご飯にする。

男子と一緒にご飯にすることも多いのだけれど。最近は何だかよく分からないけれど、昼時は僕の側に寄りつかなくなった。

「はーい、今日はカニクリームコロッケだよー」

平泉ののこが、弁当箱を開けて、みんなにおかずを分けてくれる。

ののこさんは家庭科部の部長で、料理という点だったらこのクラスで一番だ。若干ふくよかな体型をしていて、本当に食べる事が好きなのだと、見るだけでわかる。

髪の毛をツインテールにしている飛崎かなめが、ひょいと身を乗り出して、最初にカニクリームコロッケを取る。

クラスで一番小さいかなめさんは、とても強かで、年齢を詐称しているかのような容姿の持ち主だ。

今日はたくみさんと七海さんは姿を見せない

昼時、女子は連れだって何処かに行く事がある。僕も、それを追求したりはしない。中学の頃、懲りたからだ。

一緒に誰かが食べてくれるだけで、文字通りめっけものである。

それに、僕に料理を分けてくれる女子も多い。

弁当が粗末な事が多い僕のことだし。

きっと、色々気の毒だと思って、親切にしてくれているのだろう。

「今日の午後ってなんだっけー?」

「体育でしょ。 後美術に、数学U」

ちょっと間延びしたしゃべり方をするののこさんに、かなめさんがこたえている。僕はその間にスケジュールを出して確認。

高校三年になっても美術があるとは思っていなかったけれど。

美術の時間は、色々楽しいから好きだ。

一方で、運動が出来る方では無いので、体育はあまり好きでは無い。小学校の頃は、膝を抱えて運動が出来る人を見ているだけのことも多かった。

あの頃から、かも知れない。

負け犬根性が、身についたのは。

クラスに入ってくる、影のような女子。

ちょっと苦手な人だ。

話しかけても、ほぼこたえてくれない。他の女子と話しているのも、見たことが無い。

このクラスで、唯一僕に優しくしてくれない人である。

名前は赤山涼子。

中肉中背で。

度の強い眼鏡を掛けていて、非常に無口。運動も勉強も出来るようだけれど、話しかけてもすげない返事しかしない。

他の人も、彼女のことを聞くと、口をつぐむくらいだ。

ちょっと苦手である。

「じゃ、着替えしなきゃ。 そろそろいこ」

「そうだねー」

食事を済ませて、二人が教室を出て行く。

赤山さんは席でぼんやりとしているようだったけれど。眼鏡があるので、表情がとても読みづらい。

それでも、五分前には、着替えるために、教室を出て行った。

影のようで、本当に何を考えているのかわからない。

他の男子生徒が戻ってくる。

女子と仲良くしても、冷やかされることは無い。適当に次の授業の話をしながら、着替えをする。

バラエティ番組の話とかをしながら、男子とも和気藹々に過ごすことが出来るのは、とても嬉しい。

中学の時は、みんな乱暴な話題ばかりで、本当に困った。

ジャージに着替えを済ませると、校庭に。

クラス人数が少ないから、グラウンドを大きく使えるのが嬉しい。今日はバレーボールの授業だけれど。

男子女子混合で。

しかも僕のことをみんなでカバーしてくれるので、中学の時みたいに、困ることは何も無かった。

嗚呼。

本当に嬉しいなあ。

みそっかすにされて。イジメまで受けていた中学の時とは、本当に雲泥の差だ。いつまでも、こんな夢みたいな日々が続けば良いのに。

そう願ってしまうほど、高校の生活は楽しい。

何度も思う。

こんな日々が、いつまでも続いて欲しいと。

ふと、鋭い視線を感じた。

振り返るけれど、誰もいない。

気のせいだろうと、僕は思った。

 

1、夢の高校生活

 

家に着く。

静かな家の中で、明日の授業の準備。

勉強は苦手だけれど。

これほど高校生活が楽しいとは、正直思っていなかったし。今では。明日のための準備をするとき、うきうきしてしまうくらいだ。

夕ご飯を適当に済ませると、ベッドに。

今日は宿題もないし。

最悪の場合、クラスメイトが宿題をうつさせてくれる。平和で、安定した日々。

眠りも、非常に深い。

当然で、毎日ストレスが溜まると言うことが無いのだから。

ゆっくり眠って、疲れを取って。

そして、朝は。

チャイムで起こされる。

急いで着替えて出ると、幼なじみの平川珊瑚が、朝食を片手に、玄関にいた。

「おはよー、ジローちゃん」

「おはよう」

上がって貰って、一緒に朝食にする。

毎日来てくれるわけでは無いけれど。彼女の作る朝ご飯はとても美味しくて、学校に出る助けになる。

中学の時は色々事情があって来てくれなかったけれど。

今は、大事なクラスメイトの一人でもある。

「今日のきんぴら、どうかな」

「うん、美味しいよ」

「そっかあ。 良かった」

嗜好は地味で、あんまり派手な食べ物を作ってはくれないけれど。

それでも、彼女の作るご飯は大好きだ。

適当に食べた後、一緒に登校する。

学校まではそれほど距離も無い。こんなに近い学校に、通うことが出来たのは本当に良かった。

連れだって登校しても揶揄されるようなこともない。

高校は良い所だ。

一時間目から、授業は歴史。

歴史の先生が、黒板に書く内容を、ノートに写す。あんまり歴史は得意な学科では無いけれど。

それでもわからない場合は、周囲が丁寧に教えてくれる。

必死にノートを写していると。

ふと、気付いた。

何か、紙が手元にある。

開いてみると、放課後、屋上に来るようにと書かれている。

見た事がない字だ。

他のクラスメイトの字は、親密にさせて貰っているから、大体知っているけれど。この非常に几帳面な字、誰だろう。

ただ、ひょっとすると、告白しようとしている人がいるのかも知れないし。

行かないのは、流石に失礼に当たるだろう。

「次、蒼木」

指名されたので、黒板に出て、書く。

幸い、此処は。

朝、たくみさんに教えて貰った重要ポイントだ。みんな僕より勉強が出来て、こういうのも詳しいのは凄い。

正解を書くと、教師は席に戻るのを許してくれた。

席に戻って、ほっとする。

隣のたくみさんが、小声で話しかけてくる。

「上手くやれたね」

「うん、ありがとう」

今やっているところは、中世ヨーロッパの封建制度についてだけれど。そんなものが、いったい何の役に立つのか、よく分からない。

ただ、周りの人達は勉強しろと言うし。

それに丁寧に教えてくれるから、勉強は苦では無い。

驚いたのは、先月にやった全国学力テスト。

中学の時とは、雲泥の差で、全国順位が上がっていたのだ。きっとこれも、クラスのみんなのおかげだろう。

歴史の授業が終わる。

あくびが出てしまうのは、仕方が無い。ノートはきちんと取れたし、それで勘弁して欲しいなとも思う。

一応、宿題は出たけれど。

これくらいは、さほど難しくも無いだろう。

「ね、治郎君。 放課後、みんなでアイス食べに行くんだけど、治郎君も来ない?」

休み時間に、不意にたくみさんに誘われる。

断る理由は無い。

ただ、放課後は先約もあったのだけれど。先約の紙を、ひょいと七海さんに取り上げられる。

「見た事がない字だな」

「どうせ悪戯でしょ」

ひょいと、素早い動作で七海さんから紙を取り上げると、ゴミ箱に放るたくみさん。

あっと思ったけれど。

一瞬のことで、何をする余裕も無かった。

それに、確かに悪戯のような気がする。此処のクラスの人達は、みんな僕に優しくしてくれるし、今更こそこそする必要だってないのだ。

結局、放課後。

屋上に出ることは出来なかった。

女子三人と一緒に、アイスクリーム屋に寄ってから帰ったからだ。

成績は上がる一方だし、この学校で買い食いは禁止されていない。だから誰に断る必要もない。

帰り道。

ふと、気付く。

後ろから、また何か鋭い視線を感じた。

でも、振り返っても。

誰もいなかった。

 

翌朝。

今日は珊瑚は来ない。たぶん朝練か何かで、先に出たのだろう。寝る前にメールを送られたから、知っている。

珊瑚のメールは色々デコレーションされていて、目がちかちかするけれど。

女の子らしい可愛らしい文面で、見ていてとても和む。

朝ご飯を適当に済ませると、家を出る。

ふと、途中の通学路で、赤山さんを見かける。

路の先を歩いていて、周囲には人を寄せ付けないオーラを放っていた。ちょっと怖いなあと思う。

急いでいたので、追い越そうとして、気付く。

何だか、血の臭いがしたような気がした。

多分気のせいだろう。

すぐに通り過ぎる。血の臭いなんて、ここずっと嗅いだことがない。中学の頃は、イジメを受けていたし、日常的に周囲に血の臭いがあったけれど。

今はみんな優しくしてくれる。

血なんて。

流れるはずがないのだ。

学校に到着。

白井先生が、点呼を取り始める。みんないつも通り陽気で、平和そのものだ。白井先生が冗談を言って、みんなけらけら笑う。

笑顔が絶えない教室。

いいなあ。

最初の授業は、古文。

古文の先生は、白井先生と同年代の、男性教師だけれど。四角い顔で厳つくて、とりつく島がない。

黙々と授業を進めていくので。

見ていて苦手な先生だ。

授業もわかりづらくて、ノートを取るのがやっと。時々指名されるので、本当に困る。ただ、これもクラスのみんなが教えてくれる。

そういえば、珊瑚は古文が得意だった。

あれ。

でも、大体古文の前には、珊瑚が要点を教えてくれるのだけれど。今日は、どうしたのだろう。

珊瑚はいる。

教室の隅の方で、きちんとノートを取っている。

それなのに、今朝はどうして僕に、古文のことを教えてくれなかったのだろう。いつもだったら、絶対に教えてくれるのに。

「次、山中ー」

男子の一人が指名されて、黒板に書き始める。

ふと気付くと。

また、昨日と同じような紙が、手元にあった。

中身も同じだ。

放課後、屋上で待つ。今度は必ず来るように。

そんな事言われても、困る。

案の定、古文が終わると。どっと疲れた僕の所に、かなめさんがくる。

「ね、今日の帰り、ゲーム屋いかない? 新作のゲームが出たんだよ」

「うん、いいよ」

断る理由なんて無い。

かなめさんはコンシューマーゲームのファンで、僕も影響されて結構ゲームをやるようになった。

他にも女子何名かが、一緒に行くことになる。

あの紙は少し気になるけれど。

それでも、みんな良くしてくれるのだ。

得体が知れない誰かの、訳が分からない誘いに乗るよりも。こっちの方が良いに決まっている。

みんなで、連れだって学校を出る。

振り返ったのは。

やっぱり、妙な視線を感じるからだ。

「どしたん?」

「うん、何だか見られてるみたいで」

「治郎っち人気者だからねえ」

けらけらと、かなめさんが笑う。

小柄なかなめさんは、中学生みたいだけれど。耳年増でかなり下品なことも言ったりするので、僕はたじたじだ。

ゲーム屋に赴く。

また販売スペースが縮小していたけれど。その中で、まっすぐ目当てらしいゲームを見つけてしまうかなめさんは流石だ。

他のメンバーも、本を買ったりCDを買ったり。

僕だけが、ぽつんとしている。

ゲームはやるようになったけれど、何が面白いのかは、よく分からない。殆どの場合、周りに勧められたのをやっているからだ。

目当てのゲームをゲットしたらしいかなめさんが戻ってくる。

「治郎っち、どしたん?」

「うん、何が面白いのか、わからなくて」

「それなら、これどうかな」

中古コーナーで、良さそうなのを教えて貰う。

言われるままに買って、レジに。かなめさんが教えてくれるゲームは基本的にどれも面白いので、信頼感がある。

「そういや、まだ変な視線とかって感じるの?」

「うん、そう、だね」

「疲れてるんだよ。 そういうときは、ゲームもしないで、さっさと寝ること。 朝方に宿題すると良い感じだよ」

アドバイスしてくれるかなめさん。

言うとおりだと思うので、今日はそうすることにした。

みんなと別れて、家に。

その途上。

やっぱり、妙な視線を感じる。それだけじゃない。

ある通りを過ぎたときに。

また、鉄錆の臭いを感じた。

何だろう。誰もいないのに。

心に、小さな染みのように。

不安が、一点。生じた。

 

2、広がりはじめる黒

 

今日も、珊瑚はご飯を造りに来なかった。

メールを送ってみると、部活で忙しいという。まあ、それならばしようがない。珊瑚が作ってくれる料理は、とても美味しいので、残念だけれど。珊瑚の事情の方が大事だからだ。

適当に朝ご飯を済ませて、家を出る。

途中で、七海さんに出会った。

今日は部活はないとかで、ゆっくり出てきたという。朝練の類は、家で済ませてきているそうだ。

背負っているのは、竹刀だ。

何だか剣道少女というのがわかって、見ていて格好良い。

「そういえば、七海さん」

「どうした」

「この辺りで、何か事件とかあったの? 何だか血の臭いみたいのが、昨日したんだけれど」

「さあ、聞いていないな。 だが何かあったら大変だ。 君の体は、君だけのものでは無いからな」

そう言われると。みんなに大事にされているのがわかって嬉しい。

学校に着く。

珊瑚はもう来ていた。挨拶をすると、笑顔で返してくれる。

ただ、ちょっと違和感があった。

何というか、距離を置かれているというか。いつもとは、微妙に親しさが違うような気がしたのだ。

どうしたのだろう。

まあ、とにかく、授業だ。

珊瑚を傷つけるようなことを、何かしたのだろうか。

そうとは思えない。

今までと違う事を、何かしたとは思えないのだ。

珊瑚は良い奴だし、出来るだけ不安があるなら取り除いてあげたいし。悩みがあるなら聞いてあげたい。

面と向かっては、言いにくいことかもしれない。

休み中に、メールを送ってみる。

すぐに返事は来た。

大丈夫だから、心配しないで。それだけ。

普段は色々デコレーションされたメールが送られてくるのに。何だか、素っ気なくて、ガッカリしてしまう。

「どうしたのー?」

ののこさんが心配したらしく、話しかけてくる。

少し躊躇った後、聞いてみる。

急に素っ気なくなった友達がいる。傷つけたかもしれない。

そういうと、ののこさんは、少し考え込んだ後にアドバイスしてくれる。

「そういうときはね、本人に……」

「ののこちゃん。 ちょっといい?」

不意に、横からたくみさんが来て、ののこさんを連れて行く。

ちょっと困ったけれど。

多分急の用事だろう。

文句を言う筋合いは、僕には無い。

ののこさんが戻ってきたときには、もう次の授業が始まっていた。そして、その後も、相談する暇は無かった。

次の授業は、数学T。

黙々と授業をこなす初老の先生。

また、来ている紙切れ。

以前より、遙かに強い口調で、書かれていた。

「放課後、屋上に来い」

嫌だよ、怖いし。

口中で、ぼそりと呟く。

この紙を、誰がいつ、僕の机に置いているかはわからない。わかっているのは、見覚えがない字だって事。

それに、屋上に行ったら、何をされるかもわからない。

中学の時の、苦い思い出の数々が脳裏をよぎる。

あんな思いは、二度とごめんだ。

幸い、たくみさんがパン屋に誘ってくれた。夕ご飯を買って行くにも丁度良いので、ご一緒されて貰う。

今日は、変な視線は。

大丈夫だ、感じない。

ほっとしてしまう。

何だか、少しずつ。この天国みたいな環境が、崩れはじめているように思えたからだ。

不意に途中で、たくみさんが僕の腕を掴んで、くんくんと臭いを嗅ぐ。前からたくみさんは、時々こういうことをする。

「どうしたの?」

「制服、ちゃんとクリーニングしてるね。 大丈夫そう」

「やだなあ」

女子に優しくして貰っているのだ。

彼女らを不快にはさせたくない。だから、何ローテーションかで、こまめにクリーニングはしているのだ。

パンを買い込んで、途中で別れる。

今日は、何も無かった。

ほっとした、その瞬間だった。

今、通り過ぎた通りで。

誰かが此方を、刺し殺すような目で見ていなかったか。

慌てて振り返るが、誰もいない。

本当に、誰もいなかったのか。

怖い。

恐怖が、心臓をばくばくと揺動させる。慌てて僕は走り出して、家に帰ることにした。何か、嫌なことが、起きようとしているとしか思えない。

家に飛び込むと、ドアを閉じる。

しんと静まりかえった家。

スマホがいきなり鳴って、僕は慌てて、パンの袋を取り落としそうになった。

通話じゃない。

メールだ。

相手の宛先が表示されていない。

「どうして屋上に来ない。 おかしいと思わないのか」

「君は誰だよ」

「おかしいと思わないのかと聞いている」

ちくりと。

頭の奧が、痛む。

「おかしいって、何が」

「お前みたいな奴を、どうして周りがちやほやする。 どんな理由があって。 もしもお前が、周囲を引きつける魅力があると言うなら、中学の時から周りが放っておかないはずだ」

容赦の無い言葉。

違和感が、どんどん大きくなっていく。

確かに、そうだ。

高校に入ってから、露骨に皆の考え方も、行動も、一変した。

みんな優しくなって。

意地悪もしなくなった。

でも、確かに。

それは何故なのかが、わからない。僕は変わっていない。相変わらず弱くて、臆病で。誰かに好かれる要素があるとは思えない。

周りのみんなが優しいから。

そう思ってきたけれど。

いくら何でも無理がある事は、僕にだってわかっている。

「明日、屋上に来い。 時間はいつでもいい」

「で、でも」

「今のままだとお前、餌になるぞ。 他の男子達と同じようにな」

餌。

どういう意味なのだろう。

震えが来る。

恐怖が、せり上がるように、押し寄せてくる。

何だか、今までみないフリをしてきた何かが。恐怖とともに、姿を見せようとしているように、僕には思えた。

 

朝、当然珊瑚は来ない。

珊瑚の所を見に行く。

珊瑚の家は向かい。

チャイムを押してみるけれど。誰も出ない。

それだけじゃあない。

ドアは開きっぱなし。

ごくりと、唾を飲み込んでしまう。そういえば、幼なじみと言っても。珊瑚の家に入ったことは、無かったような気がする。

それだけじゃあない。

珊瑚のご両親は、どんな人達だっけ。

思い出せない。

いや、おかしいのは、それだけじゃない。

そもそも、僕の両親は。

何処の何者だ。

ずっと一人で暮らしている。家に、僕の両親が、いたことがあっただろうか。少なくとも高校に入ってからは、見ていないような気がする。

そうだ。

朝ご飯は二回に一回は珊瑚が作ってきた。

晩ご飯は大体できあえ。

両親は、其処にいつ絡んでくる。親公認の仲だったか。いや、違う。何かがおかしい。

それに、おかしな事も他にある。

僕の小遣いはどこから出ている。財布にお金を補充した覚えは無い。ゲームはかなり高額な玩具だ。

結構、僕はかなめさんと一緒に買った気がする。

あふれ出てくる疑惑。

頭を抱えたくなる。

珊瑚の家に入って、さらに愕然。

台所を、使った形跡が無い。家の中には埃が積もっていて、まるで無人の廃屋。珊瑚の部屋は。

少し悩んだけれど。

ドアをノック。

当然、返事は無い。

そして、ドアを開けてみるけれど。

其処には。

何も無かった。

床と壁と天井だけ。

本当に、それだけなのだ。

天井には、電球さえない。ベッドもないし、勉強用の机も。可愛いマスコットの類も、本棚も。

押し入れに到っては、開きっぱなし。

中には空虚な空洞が、顔を見せていた。

「ひ……!」

思わず、悲鳴が漏れる。

珊瑚は。

こんな所で、一体どうやって暮らしているのか。

 

学校に出る。

何事もなかったかのように、珊瑚がいる。家に勝手に入ったとか、明日なじられるのだろうか。

そんなはずは無い。

あの家の埃の積もり方。一日や二日、留守にした程度ではああならない。そもそも、彼処まで生活感がない家なんて、はじめて見た。

几帳面に片付けられているというなら、まだわかる。

彼処には、人がいた形跡が無いのだ。

周りはみんな優しくしてくれる。僕が朝ご飯を食べていない事に気付いたら、お弁当を分けてさえくれた。

だけれども。

分けてくれたのは、いつものののこさんではない。

七海さんだ。

彼女も料理は得意だと言う事は知っているけれど。食べてみて、気付く。今まで無遠慮に美味しいと思っていたそれは。

多分、手作りでは無い。

口にはしないが、これはほぼ間違いなく、出来合いの品だ。

今まで、こんな事には気付かなかった。

「どうした。 美味しくないか」

「ううん、凄く美味しいよ」

美味しいに決まってる。

出来合いの品なんだから。素人が作るよりも、余程のことがない限りは、美味しく仕上がる。

当たり前の話だ。

だけれど、味がしなかった。

何だか周囲が、どんどんおかしくなっていく。

僕の楽園は。

音を立てて、崩壊を開始した。

 

生きた心地がしなかった。

昼ご飯を過ぎて、気付く。

珊瑚と同じ状態に、ののこさんがなっている。話せば普通に返事はしてくれるのだけれど。どうにもよそよそしいのだ。

それだけじゃあない。

他の男子生徒は、みんな珊瑚と同じ状態になっているのではあるまいか。

そうだ。

気付いていなかった。

男子と何て、あまり話そうと思わないし、注意もしていなかったから。今まで、ずっと気付かなかったのだ。

「なあ、今日は帰り道、少し寄り道していこう」

今日は七海さんに誘われる。

快活で健康な剣道少女だと思っていた七海さんだけれど。

一度疑惑がふくれあがりはじめると、もうどうにもならない。

「ごめん、ちょっと今日は、体調が悪くて」

「あれ? 風邪かな」

すっと、たくみさんが、僕の額に手を当てる。

この行動も、前に何度かされたけれど。考えて見れば、親しくもない男に、女の子がそんな事をするだろうか。

とにかく、断って。

屋上に行くことにする。

誰もついてこないことを、途中何度も確認した。僕は一体、何をしているんだろう。今なら、戻れる。

戻れば、あの楽園の日々が、また待っている。

周囲はたくさんの可愛らしい女の子達に囲まれ。彼女たちは、みんな僕に優しくしてくれるし、世話だって焼いてくれる。

無視もしない。

虐めることもない。

僕が平凡で、何も取り柄が無くても、相手にしないような、他の女の子とは違う。弱いからと言って、虐める男子達とも違う。

でも、何となくわかりはじめた。

僕は、あの人達に。

ひょっとして。

屋上に出る。

呼吸を整えながら、周囲を見る。

誰だかわからないけれど、来たよ。出てきてくれ。後ろから、見られている感じが、半端では無い。

そして、もしも誰かに見られたら。

死ぬとしか、思えなかった。

屋上の戸を閉める。

へたり込んでしまう。

「やっと来たか」

声。

屋上の死角。

上からだ。

上から覗き込んでいるのは、分厚い眼鏡の女。クラスで唯一、僕に優しくしてくれなかった人。

赤山涼子。

「此方に上がってこい」

「な、何だよ。 話って何なんだよ」

「良いから!」

鋭い叱責。

身を震わせる僕に、赤山は眼鏡を外す。其処には、非常に鋭利な美貌があった。眼鏡を外すと、人はこうも変わるのか。

それよりも、だ。

その表情の厳しさ。

まるで、今までのだだ甘に僕を甘やかしていた女の子達とは違う。

怖くて、逆らえない。

言われるまま、側にあるはしごを使って、上に。

赤山は、上がって来た僕のへっぴり腰を一瞥すると。視線も合わせずに言った。

「お前だけでも間に合って良かった。 他の生徒は、全員喰われた後だからな」

「くわ、れた……?」

「わからないのか? 何時からか周囲の人間が、人形のようになり果てただろう。 やたら元気な数人を除いて」

ちくりと、頭が痛む。

そうだ。少しずつ、思い出してくる。

高校に入ってから、いきなりみんな優しくなったんじゃあない。最初は中学の時と同じように。

弱くてへっぴり腰の僕を、痛めつけようとしていたのだ。

それが、急に大人しくなっていった。

「あれは身代わり人形だ」

「み、がわり……」

「それに、おかしいと思わないのか。 隣に住んでいる奴が、中学から高校に上がった途端、急に優しくなったのが」

それは。

わかっていたけれど、気付きたくは無かった。

珊瑚は。

中学の時、どんな奴だったか。

思い出す。

彼奴は元々、優しく何て無かった。僕を虐めるグループに荷担して、暴力だって振るっていた。

確か、中学二年の時には、暴走族の彼とホテルに行ってきたとか、自慢もしていたはずだ。

僕を馬鹿にすることはあっても。朝起こしに来ることも、ましてや料理なんて、造りに来る筈がなかった。

それがどうして、あんなしおらしい女になった。

おかしな事は、他にもある。

彼奴は確か、中学の頃。アクセサリをじゃらじゃら付けていて、ピアスも何カ所開けたとか自慢していたような女だった。爪もぐちゃぐちゃにデコレーションしていて、似合いもしない化粧をベタベタして、見ていて気持ち悪くなるような奴だったのに。

いきなり、なんであんな化粧をろくにしようともしない女に代わったのか。

他にも、おかしな事は多い。

他の男子生徒もそうだ。

最初は、みんな意地悪だった。

それが、不意にイジメを辞めた。

みんな良い奴になって。不良みたいだった奴も、態度を変えた。格好も、見る間に普通になって行った。

それだけじゃない。

確か彼奴らの中の一人は。

僕に暴力を振るって、カツアゲまでしていた。

それがどうして、僕にあんなに優しくなって。怖がらせるようなことも、一切しなくなったんだろう。

「……あれ。 どうして、忘れていたんだろう」

涙が零れてくる。

思い出した。

世界はそんなに優しくない事を。

こんな、何処かの漫画みたいな優しい世界は、現実には存在していないことを。人間の社会では、弱い者は徹底的に暴力を受けて、搾取されるという現実がある事を。どうして、忘れていたのだろう。

「此処はな」

「知りたくない……」

「じゃあ、喰われるか?」

「い、一体何なんだよ! 誰が、そんな事を!」

赤山さんは。

わかっている癖にと、言う。

「お前の周りの、賑やかで優しい女子に擬態している連中。 あれが人間だと、本当に思っているのか?」

嗚呼。

言われてしまった。

 

3、しょくじのじかん

 

考えて見れば。

おかしかったのだ。

あの女の子達。みんな、キャラクターがころころ変わっていったような気がする。

最初は、暴力が大好きな不良二人。

その周囲に侍って、みんな酷い格好をしていた。思えば、彼奴らが喜びそうな姿と行動をしていたんだろう。

一緒になってバイクを乗り回しているのを見たような気さえする。

で、その次は。

スポーツマンの男の子の周囲に群がっていた。

その時には、とてもしおらしくて、いかにもな子に。

凄く大人しくて、それでいてスポーツがみんな好きになっていたようだった。

次は少しオタクっぽい、僕とは違う方向で弱々しい子に群がっていたときは。みんな、変な語尾で喋ったり。

頭に、猫耳っぽいカチューシャやら。

尻尾やらつけていなかったか。

ああ、そうだ。そうだそうだそうだ。

髪の毛も、今と色が違った。

青かったりピンクだったり。そんな色の筈がないと思ったけれど。今になってみれば、どうしてみんなあんな容姿だったのか。

せ、性格だって。みんな違った。

ツンデレというか、やたらと冷たくしたり、それでその後、ちょっとしたことで顔を赤らめてみたり。

七海さんに到っては、確か学校に日本刀持ち込んでなかったか。

そうだ。

おかしかったのは、男子だけじゃない。

珊瑚だって、ある時期を境に、急に変わった。

いや、まて。

そもそも彼奴、そんな名前だったか。確か親がどうしようもない連中で、いわゆるDQNネームを付けられていなかったか。珊瑚なんて読みやすい名前じゃなくて、もっと酷かったような気がする。そもそも、読めないような名前が。

じゃあ、あれは誰だ。

一気に流れ込んでくる、あり得ない情報。

頭がパンクしそうだ。

「ど、どういう、ことなの」

「此処は屠殺場なんだよ。 彼奴らは、コック。 此処に引きずり込まれた奴は、男も女も関係無い。 自分に都合の良い幻覚だけを見せられて、食べるために都合が良い状態になって行く。 彼奴らは、その手伝いをするための、タチが悪い端末だ」

屠殺場。

つまり、僕は。

自分にとって理想的なものを、見せられていたのか。

吐き気がする。

のど元まで、胃酸がせり上がってくるのがわかった。

「やがて餌が適当に熟すると、「奴」は精神を喰う。 端末共が餌に良くしてやっているのはなんでだと思う。 自我を肥大化させて、美味しくなるまでふくれあがるのを待っているからだ」

お前達の食文化に、フォアグラというのがあるだろうと、言われた。

聞いたことがある。

ガチョウを地面に埋めて、餌をたくさん食べさせて、とにかく太らせる。そして肝臓の病気にして。

その肝臓を食べる。

「そうすると、彼奴らにとって都合が良い人形になる。 その人形も、いずれ喰ってしまう。 お前の両親はそうして喰われた」

「ひ……」

「周りはどうして気付かないかって思っているのか? 気付いているさ。 だが、そもそも此処は、奴らの胃袋の中なんだよ」

何もかもが、奴らに都合良く作られている。

そう赤山さんはいう。

「そ、それで、どうして……」

「お前みたいなクズを助けてやる必要があるかって? そりゃあ決まってるだろう」

ずるり。

何か、嫌な音がした。

振り返りたくない。

何か、とんでも無い事が起きている。

でも。恐怖で、どうしても引きつりながら。

僕は振り返って、それを見てしまう。

其処には、いた。

いや、そもそも、屋上でさえ、なくなりつつあった。

床が、薄紫色の、肉に代わりつつある。

フェンスがなくなっていく。

それだけじゃあない。屋上から見ている景色が、全て。歪んで、溶けて、崩れて行っている。

「契約に従って、可能な限りは救ってやらなきゃならないんでね。 仕事とは言え、我ながら嫌になる。 なんでお前見たいのを救うために、此処までしなきゃならないんだろうってな」

床から、何か人型の姿がせり上がってくる。

いや、違う。

わかった。それが人なんかじゃないという事に。恐怖のあまり、へたり込んでしまう。

それは、触手。

何かの生物が、伸ばして獲物を捕らえるような、肉のヒモ。

そしてそのヒモが寄り集まって。

アイドル顔負けの美貌を持つ、たくみさんへと代わっていく。上半身だけは制服を着ているけれど。

下半身は、触手の寄り集まりだ。

「困るんだよねえ、せっかく獲物を丁寧に下ごしらえしてるのにさあ」

「黙れアバドン」

アバドン。

何だろう、それ。

何かの暗号か。

「あんたも悪魔だろうに。 他人の食事を邪魔するのは、野暮じゃないの?」

また、触手がせり上がってくる。

今度は、七海さんだ。

同じように、上半身だけは、快活なスポーツ少女。

まだ出てくる。

今度はかなめさん。ののこさんも。

それだけじゃない。

ああ、白井先生までもが。

けらけら。笑う彼女らは。

もう、人間の表情を、していなかった。

知らなかった。こんなにおぞましく、人の顔は歪むのか。つり上がった口元は、耳まで裂けているかのよう。

こんなにストレートな恐怖を味わったのは、いつぶりか。

もう、おしっこが漏れそうだった。

「条約で決まっただろう。 人間世界での、悪魔による人間の捕食を禁じる」

「知らないわよ、そんなの。 あの腑抜け切った老いぼれルシファーが、クソ天使長とかわした契約なんてね」

「食事なら、人間世界から漏れ出る負の力で充分に足りているはずだが。 お前ほどの大悪魔が、短絡的な行動に出たな」

「直接美味しい肉を食べたくなるのもわかるでしょうに。 ねえ。 命なんて惜しんでいられないわよ」

肩をすくめてみせるたくみさん。

赤山さんは、僕の隣に降り立った。

たくみさんが、手をさしのべてくる。

「ねえ、あんた選びなさいよ」

にゅるりと。

大蛇のように伸びた下半身。

たくみさんが、僕の眼前にまで来ていた。

表情はおぞましいまでに歪んだままだけれど。

その声は、あのアイドル裸足の、たくみさんのままだ。

「あんたみたいなクズ、他の人間に混じって生きられるわけがないでしょ? だったらさあ、此処で残りの時間を天国に包まれて生きれば良い。 外と違うわよー? みんな優しくて、自分に都合が良いことしか起こらない。 お小遣いは使い放題、誰もあんたからは搾取しない」

外では。

お前は永遠にクズのまま。

逃げ帰ったところで、誰もお前の事なんて相手にしない。両親も既に喰ってやったし、能のない孤児に何が出来るというのか。

記憶が、よみがえる。

両親も僕を相手にせず。

世界も、全てが冷たい。

それが現実世界だ。

僕にとって、光がはじめて見えたのは此処。それは、間違いの無い事だった。

手を、伸ばし掛ける。

「好きにしなさい」

隣で、ゴミでも見ているかのように。赤山さんは、僕を見下していた。

この人は、何なのだろう。

「此奴はどのみち、処分することが決まっているの。 条約違反を犯したんだしね」

「まあ、その程度が怖くて、人間なんか食いに来ないけれど」

「私の仕事は、条約に従って、悪魔に喰われた人間を救い出すこと。 もっとも、人間がそれを望まないなら、私は何もしない」

自分で、好きな方を選べ。

夢のような恍惚の中で、幸せに餌として消費されて溶けていくか。

それとも、寒風吹きすさぶ現実世界に戻って。其処で周囲に馬鹿にされ、搾取されながら生きていくか。

頭を抱える僕。

二つの決断は、あまりにも重かった。

でも、僕は。

顔を、あげる。

涙が、零れてきていた。

「ごめん、たくみさん。 本当のことを知った以上、僕は餌にはなれないよ」

「ハ、あっそ。 じゃ、一生負け犬として暮らせば? せっかく少しは良い夢を見せてやろうと思ったのにねえ」

ひっつかまれたのは、襟首だ。

見上げると。

赤山さんは、もう女の子では無かった。

そこにいたのは、毛むくじゃらで、巨大で。牛とかコウモリとか、色々な動物が掛け合わされた、とんでもない化け物。

「手間掛けさせやがって、クズが。 最初から生きたいって願え」

吐き捨てられる。

びゅんと、空の上に向けて、自分が飛んでいくのがわかった。

そして、見える。

周りが、何かの胃袋の中だったという事が。

僕は、此処で。

幸せな夢を見ながら、溶かされていく運命だったのか。たくみさんが何者なのかはわからない。

でも、見ていた夢が幸せだったのは、本当だ。

光が、見える。

そして、気がつくと。

僕は、救急車のサイレンが近づいてくる中。

ボロボロのパジャマで。何処かの野原に、転がされていた。

 

病院で、お巡りさんに色々聞かれた。

何処で何をしていたのか。

話によると、僕の家を含む近隣一キロほどから、ある日いきなり人間が全て消えたのだという。

戻ってきたのは、僕だけ。

あまり都会では無かったが、それでも被害は数百人。

僕を除く全員が、帰ってきていないそうだ。

「何があったのか、知らないのか」

「わかりません」

「そうか……」

中年のお巡りさんは、悔しそうに肩を落とした。

こたえてはあげたいけれど。僕が見たものなんて、信じてくれるはずがない。あの毛むくじゃらの悪魔だって。

僕が大事だから助けたんじゃあない。

あれは、僕を助けることが、仕事だったからだ。

病院では、随分と困り果てた様子で、話しているのが聞こえた。

あの子の家族も全員行方不明なんでしょう。

土地だけは残っているけれど、家も何もかもが、中身が空っぽになっていたって。そうなると、医療費はどうするのかしら。

親を失って可哀想とは、誰も言わない。

でも、それは知っている。

僕も、もう高校生だ。

人間は基本的に。縁もゆかりもない他人には、同情なんてしない。不幸を喜ぶことはあるかもしれないけれど。

嗚呼。

おかしな話だと、どうして気付けなかったのか。

あんな天国みたいな場所、少なくとも人間世界にある訳がない、じゃないか。今時、漫画のラブコメだって、あんなに都合良く事は起きない。

きっとあのまま、あそこにいたら。

僕のことを考えて、いつも優しくしてくれる女の子達と、ずっとラブコメごっこをしていたんだろう。

そしてある日、それがぷつんと切れる。

気がついたときには、悪魔の栄養になってしまっている。

そんなところなのだろう。

警察はすぐに何も聞きに来なくなった。そして体調が回復すると、すぐに病院からも追い出された。

家に戻ってみる。

本当に家具も何も残っていない。預金通帳も当然無かった。

そうだ、思い出す。

そもそも、お小遣いなんて、もらった事が一度も無かったじゃないか。お父さんはいつもお酒を飲んでいて、ろくに仕事にも行かず。

確か、生活保護を悪用して、好き勝手に遊びほうけていた。

お母さんはと言うと、お父さんと同じように遊びほうけていて。

僕を見ては、役立たずだの不細工だのと罵っていたはず。

いきなりチャイムが鳴る。

僕が出ると、何処かの新聞社の人だと言って、作り笑顔を浮かべたおじさんがいた。おじさんはドアを閉められないように、容赦なく安全靴を差し込んできた。

チェーンがガチャガチャ鳴る。

ケダモノの顔だ。獲物を見つけて、これから喉を食いちぎって、肉を貪ろうとする、肉食獣。

倫理なんか遠くに投げ捨てて、人権なんて完全に無視した野獣の表情。

「あんたが大量失踪事件の生存者? 話を聞かせて貰えるかな」

「帰ってください」

「いやだね。 そもそもあんたがスマホの一つも持っていない事は調査済みなんだよ」

助けなんて、呼ぶ方法は無い。

俺たちに都合が良いことだけ喋って貰うぞ。

記者の顔が、醜く歪んでいるのがわかった。

たくみさんの言ったとおりだ。

僕は、地上に。

あの天国から。

出るべきでは無かったのかもしれない。

 

4、遠い日のあの事

 

浮浪者となって蹲っているそいつを見て、私は嘆息した。

足先で軽く突く。

異臭が強い。

もう何週間、風呂に入っていないのか。

「おい」

「放っておいてくれませんか」

「蒼木治郎」

顔を上げる。

アバドンの腹からすくい上げてやった少年は。あれから変わる事が出来たわけでもなく。結局、搾取される体質には代わらず。

そればかりか、民衆は。

大量失踪事件から生き延びた疑惑の人間として、彼を目の敵にした。

連日、彼の空っぽの家にはマスコミが押し寄せ。

中にはかなり暴力的な取材をした人間もいた。

警察も見てみぬふり。

やがて耐えきれなくなったらしい治郎は。失踪した。

そして今。

途方に暮れた少年は。街の浮浪者達にまで小突かれながら。冬空の中段ボールを被って、凍えている。

浮浪者はかなり縄張り意識が強く、何処のゴミ箱は自分のもの、などといった事も決めている事が多い。

新参にも厳しい。

浮浪者とは、見かけ以上に厄介な世界に生きているのだ。

「赤山さん?」

「ああ、そう名乗っていたっけな。 アバドンの奴を契約に従ってブッ殺したから、様子を見に来たら、案の定腑抜けてやがる」

「……」

「まあ、だから生き延びたんだがな」

私は、此奴が嫌いだ。ゴミでも見るような目をしていただろう。だからこそに、このクズに、全てを教えてやる。

アバドンを殺して、記憶を吸収して、色々な事がわかった。

アバドンは食べがいがある人間から、順番に食事していたのだという。欲望が強い人間ほど、優先順位が高かったそうだ。

ある人間は、酒池肉林を望み。

別の人間は、伝説の最強ヒーローになりたがった。

「最強ヒーローになりたがった奴は滑稽でな。 もらい物の力だというのに、それを得てえらくなったと思ったんだろうな。 他の人間にひたすら筋が通らない説教をして廻っていたよ。 そして自分の脳内で考えた必殺技を薄っぺらな「敵」に放っては、一瞬で勝って、周りの連中全員に称賛させていた。 自分が称賛されることが快感で仕方が無かったらしいな」

でも、どんな欲望が強い奴も。

アバドンが丁度良いと思った時点で、全ての夢はストップ。後は自分でも気付かないうちに精神を吸い尽くされ、栄養にされて。

身代わり人形と呼ばれる存在で、世界を構築するための道具としてしばらく動かされ。

それも終わったら、順番に全て溶かされ、喰われていった。

だから、此奴は生き延びた。

捕らえられた数百人の中で、もっとも意志薄弱で、食べても面白くもない奴だったから、だ。

「お前はアバドンにとって、一番食いでがない、喰っても面白くない人間だったのだそうだ。 だから生き残ることが出来たのさ」

「それを知らせて、どうしろと」

「せいぜい生きろ。 お前が弱虫だったのは事実かも知れないが。 そのおかげで拾った命だ」

「僕はただ、生きてるだけです」

むしろ、あの中で。溶かされてしまった方が良かったかも知れない。

夢だったかもしれないけれど。

周りの人がみんな優しくしてくれるなんて、生きていて初めての経験だったのだから。

そんな事を、この人間は言う。

私は呆れた。

見下していたけれど。程なく、大きくため息をつく。正直、契約外の行動なのだけれど。

そもそも魔界と天界は、長い長い戦争を終えて、ようやく相互理解の路に進み始めた。それには、人間世界がある程度健全に動く事も必要だ。人間が増えすぎても減りすぎても困るからだ。

「何だったら、私が小間使いにしてやろうか。 こき使ってやるけれど、このまま凍え死ぬよりましだろうよ」

「それは嫌です」

「ほう?」

「僕はこうして、ただ生きてるだけで。 この冷たい世界に居座って。 それで、復讐していきたいから」

おや。

意外に面白いことを言う。

これでも本職の悪魔だ。こういうことを言う奴は嫌いじゃあない。

くつくつと笑ってしまう。

「まあ、そうだな。 お前、あそこから救い出してやってから、少し変わったかもしれないな」

「そうですか? 僕はどうせクズのままです」

「だが、世界に居座ってやろうという意思が芽生えた」

足下に、放ってやったのは。

当面の生活費くらいになる、札束だ。

此奴は中卒で、それこそ働き口なんて何処にもないけれど。此奴を探す前に調べたところ、まだ土地と家は、他人の手には渡っていない。身よりもないし、財産としては此奴のものになっているはずだ。

あれから五年も経過しているのだ。既にマスコミも飽きて追うのを辞めているし、周辺の新しく越してきた住民に到っては、そもそも存在を忘れているだろう。人間なんて、そんな程度の存在だ。

家に戻って、中を掃除して。

後は必要な物資を買いそろえて、それから。人間世界に居座って、ただひたすら過酷な扱いを続けた周囲に対して、居座る図太さを見せれば良い。

死ねと言われて、嫌と言うだけの勇気は得た。

それだけで、此奴にしては上出来と言えるのだろう。

私もそう思う。

「ほら、これで世界に居座れ」

「貴方は、何がしたいんですか?」

「さあな。 私はこれでも魔界の公務員だ。 契約と条約に従って、ルールを破る奴をしばくだけさ」

手をヒラヒラと振ると。

少なくとも、生きるだけの意思は得た貧弱な青年から。私は歩き去って行った。

 

                              (終)