疲弊の果てに

 

序、苦労人

 

纐纈警視が捜査一課に呼ばれてとくそうの部屋を出て行く。

北条紗希が務めているこのとくそう。怪異事件を専門に解決する、G県警の特殊部署で現在ボスをしている纐纈は。この部屋で一番階級が高い事もあってボスをしているが。それ以上にそもそも刑事として立派な人であるので、誰もそれに異は唱えない。

知ってはいたのだが、実際に本人がとくそうに回されてきてよく分かった。

新美が苦虫を噛み潰している。

新美心太郎警部補も、纐纈警視の右腕として精鋭が揃う捜査一課でバリバリ活躍していた理論派だ。

だからこそ、こんな怪異絡みの事件専門の部署に回されたことは、あまり気分が良くないのだろう。

ただ、とくそうで扱う事件が極めて厄介な事は数回事件に遭遇して肌で理解したらしく。それについてはもう文句は言わなくなった。

少し前に、どういう立場なのか分からないが。

怪異対策で協力してくれている佐倉さんという人に言われた。

怪異は正体が分からないとほぼ無敵だと。

正体さえ突き止めればどうにでもなるが。正体が分からない限り、誰にもどうにも出来ないのだと。

だから、怪異に対する専門知識がいる。

普通の警官を投入しても死人を増やすだけだ。

事件に対応も出来ない。

だから、こういう部署が必要なのだろう。

ほどなく纐纈が戻ってくる。

「纐纈さん、どうでしたか」

「捜査一課で厄介なヤマがあってな。 俺の人脈で、隣の県警と連携して解決に当たる事になった」

「そうでしたか」

「俺自身が加わりたいが、何しろ今はもう部署違いだからな。 ただ相手が俺が話をするだけで乗り気になってくれたから良かったよ」

纐纈はため息をつくが、新美は嬉しそうだ。

纐纈に憧れて警官になったらしいこのキャリアは。警部補のまま、ずっと新美の部下でいる。

出世にも興味を見せず、纐纈を支える事だけを考えているらしい。

キャリアと言えば、昔は権力闘争にしか興味を見せず。実際の事件を解決する事なんてどうでもいいと考えていた者も多かったが。

今ではすっかりあの大魔王……此処の元部長が力尽くで改革を行い。

有能な警官はたたき上げでも出世出来るようになっている。

「あの金髪のいけ好かない……」

「よせ心太郎」

「……すみません」

新美は恐らくだが。あの金髪の王子などではなく。纐纈こそがG県警のボスに相応しいと思っているのだろう。

だけれども、あの金髪の王子は。この間事件現場に、電波が届かないスマホに電話を入れてきた。

それこそ、盗聴などしなくても。

どこからでも、此方を監視できる程度の力は持っていても不思議では無い。

そう考えると、纐纈は新美を制止するのも当然とは言えた。

しばらく無言で仕事をする。

纐纈は新美に、来週休みを取るように指示。疲れは溜まっているように見えないが。新美は体が元々丈夫ではないらしい。こうして時々休みを取らせているそうだ。

また、意外な話を聞かされる。

「新美は結構料理が上手でな。 今度北条と愛染も振る舞って貰うといい」

「へえ。 それは面白そうだ」

「纐纈さん、ちょっと流石に……」

舌が肥えまくっている愛染である。

にやりとしたのが一目で分かった。

更に言えば、新美も愛染もぼっちゃんだ。どちらも舌は肥えているだろうし。シェフが作る料理くらい日常的に食べているだろう。

だったら、纐纈の言う基準とは多分かなり基礎が違う。

げんなりしている様子の新美だが。

確かに疲れは溜まっている様子である。そして、今度はその場の全員がげんなりする事態が起きる。

金髪の王子本人の登場である。

とくそうの部屋に入ってきた金髪の王子は、無言で周囲を見回すと、ふっと笑った。

「相変わらず狭い部屋だな。 こんな重要な部署なのだから、もっと機材を充実させてもいいのだが」

「貴方の権限でやっては?」

「残念ながら、私は予算から何から全て大魔王に握られていてね。 私が出来るのは、捜査の指揮と支援だけなのだよ」

肩をすくめてみせる金髪の王子。

この謎の人物が、一時期あの大魔王が対立していた組織のトップをしていたらしいことは北条も知っている。

だがそれがどうして今G県警のボスをしているのかが分からない。

あの大魔王。元部長が何を考えているのかは、昔っからさっぱり分からない事だらけだったが。

これが一番分からない。

ただ、此奴にG県警を私物化させる気が無いことは、今よく分かった。

それだけは安心した。

あの人も、やはり此奴を全面的に信用するような気にはなれないのだろうし。

ましてや衰えたわけではない、ということなのだから。

「それで君達に仕事の話だ。 少し面倒だが、早めに動かないと死人が出ると判断して良いだろう」

「!」

「本部長はどうしたんですか?」

「今回の事件はかなり面倒なようでね、別の部隊を率いて既に活動している。 要するに我々が任されたのは一端で、本命は別にあるという事だ」

肩をすくめてみせる金髪の王子。

ためいきをつくと、纐纈は問う。

「それで、どこで何が起きるのですかね」

「××ハイムというマンションは知っているか」

「はあ」

新美が間抜けな声を上げる。

そういえば、聞き覚えのある名前だと思ったら。

そうだ、新美が暮らしているマンションだ。

確か相当な金持ちばかりが入っている、高セキュリティのマンションで。いわゆるセレブ御用達という奴である。

個人的にはあまり好きにはなれない場所だが。

いずれにしても、其所が今回の事件の舞台という訳か。

「そこで大量に死人が出る可能性があるという事だ。 急いで住人を避難させる方が良いだろう」

「……行くぞ」

金髪の王子の発言に不機嫌そうな新美を纐纈が急かす。

愛染も無言で立ち上がった。北条は、一瞬だけ躊躇したが。それでも警官として動くべき時はわきまえている。

出来るだけ急いだ方が良いだろう。

少し遅れて、本部長からメールが来た。全員分に、である。

車は愛染のを使っているので、北条達が内容を確認する。

メールの内容は、こういうものだった。

「既に金髪の彼から指示を受けたと思うが、××ハイムにて事件が起きる。 簡単に言うと広域テロの予備実験のようなことを、我々が戦っている組織が行おうとしていることが分かった。 君達には××ハイムを担当して貰う。 私は幾つかの部隊を率いて、それぞれに対応する」

「本部長もメールでは言葉に威厳がありますね」

「……お前時々辛辣だな」

「いや、まあ」

新美が苦笑している。纐纈はにこりとも笑わないが、同じように思ってはいるのかも知れない。

メールはまだ続いている。

「今回事前に掴んだ情報によると、入浴をトリガーにして相手を強制的に昏倒させる兵器のようだ。 まだマンションの住人が入浴を開始する時間では無いが、それでも危険だから、機転を利かせてすぐに住人の無事の確認と安全の確保をしてほしい」

「浴槽に入った相手を眠らせる……?」

「それが本当なら非常に危険だ」

纐纈がかなり険しい声で言った。

北条も同感である。

警官は激務だ。特に難しい事件で夜間も働いているときなどは、体力を極限まで使う事もある。

そういうとき、風呂などに入って気が抜けた瞬間が一番危ない。

北条は経験がないが、風呂でそのまま死んでしまうケースもあるという話がある。

気絶したまま風呂に沈めば、窒息死、という事である。

ただ、そこまで疲れているのなら、何がトリガーになって死んでしまってもおかしくはないだろうが。

ただ、強制的に風呂に入った人間を昏倒させるとしたら。

それは恐ろしい程に危険な怪異だと言える。

怪異という言葉には、新美はまだ渋面を作っているが。

それでも、人命を優先すべきであり。

なおかつ自宅でそんな事が起きていると言うのであれば。それは本気で対応するつもりにもなるだろう。

今、時間は午後の二時。

優雅なセレブでも、流石にこんな時間に湯船に浸かるとは考えにくいが。それでも急がないと危ない。

ほどなく問題のマンションに到着。

いわゆる億ションだ。

G県では恐らく一番のセレブ御用達マンション。新美が此処に住んでいる事からも、実家の太さがよく分かる。

本当に纐纈に憧れて、激務である警官を選んだのだと。

こういう家を見るだけで分かるのが、何とも言えない。

まず新美が率先してセキュリティが掛かっている入り口を開けると、管理人室に直行。管理人は人が良さそうな老人だったが。警察手帳を見せると唖然とした。

「な、何かあったんですか」

「詳しくは話せないが、テロリストがこのマンションに仕掛けをしたという通報が入っている。 それも極めて殺傷性の高い危険な仕掛けだ」

「! テロリスト!」

テロの恐怖は、近年では誰もが知っているものである。

同時に狂信的な一神教徒の残忍さ恐ろしさを、誰の目にも焼き付けることになった。

一神教は元々極めて排他的な思想だが、その思想は勿論他者への加害にも用いられることになる。

とはいっても、テロが如何に邪悪に世界を乱すかというのを最初に示したのは、日本のテロリスト達であった。

また、宗教関係のテロで、世界を震撼させたのも日本での出来事だった。

この国はテロと無縁ではなく。

むしろ最悪のテロの起点になっている場所、とも言えるのだった。

「ど、どど、どうすれば」

「まずは住民全員の安全を確保。 出来れば館内放送も流して貰いたい所です」

「わ、わわ、分かりました」

「住居数は……」

纐纈がてきぱきと進めて行くが、勿論その間にも北条達も動く。

地図を見つけてくる愛染。

ビルは十二階建て。各階に五部屋ずつ。それぞれの部屋は一戸建ての住宅に遜色ない間取りであり。

更には最上階の五部屋は億は億でも五億もするという。

こんな高層建築不便なだけに思えるのだが。

これがブランドとなっているのもまた事実である。

ならば、それでいいのだろう。

北条にはよく分からない。

「それぞれ三階ずつを担当するぞ。 俺、心太郎、北条、愛染の順番に上から三階ずつを担当する」

「分かりました」

「マスターキーを出しておきます。 それと此方からは、緊急連絡をそれぞれの部屋に入れてみます」

「よろしくお願いします」

管理人が慌てている様子で、しかし機材を操作し始める。

すぐにそれぞれ分散して動く。

北条はまず六階に。いや、六階に出たはずが七階に出ていた。

此処もか。

頭を掻く。

古い高層建築にはたまにあったのだが、四階は不吉だからと四階が存在しないケースがある。

見ると、三階の次は五階。

そして最上階は十三階という標記になっていた。

面倒くさい事この上ないが、兎も角七階から順番に見回っていく。一部屋ずつチャイムを押すが、反応するのに何処も時間が掛かった。

横柄な様子で、一部屋目の住人が出てくる。

まだ若い様子の北条を見て、品定めしているようだったが。

テロの予告があったというと、流石に顔色を変えた。

「て、テロだって!?」

「タチの悪い宗教団体が予告を出しています。 一刻も早い避難を。 身の回りのものをまとめてください」

「わ、わわ分かった!」

既に外では、本部長が手配したらしい応援要員の警官達も到着している。皆ヒラの巡査ばかりだが。しかしながら人員誘導に関しては、この国の人間は恐らく世界最高の経験値を積んでいる。

すぐに二部屋目。

そこで、漸く館内放送が流れたようだった。

すぐに避難の準備を開始してください。

危険な事態が発生する可能性があります。出来るだけ急いでください。

老管理人の必死の説得である。それで、慌てて部屋を出て来た住人もいるようだった。これは、まずかったかも知れない。

「部屋の確認をするので、鍵は開けたまま外に急いでください」

ただ、フォローがあった。鍵を掛けようとしていた住民が、鍵を開け直してくれているのが見える。

チェックシートは即席のものを作ったので、それに今出て来た住人をチェック。また、部屋も確認して、問題が無いことを確認しておく。

七階の住居は問題が無いことを確認。

続いて六階だが。

六階では、一つの部屋の鍵が開かない。これはまずいかも知れないと思うが、他の安全確認が優先だ。チャイムを鳴らしても反応しない。まさかもう。だが、焦ればそれだけ危険も増える。

六階の他の四住宅は問題なし。

続いて五階。

五階でも、一部屋が反応無し。出たときに、鍵を掛けてそのまま、というのなら良いのだけれども。

四本あるエレーベーターは、激しく行き来している。こんな五部屋しかないマンションで、四本も必要ないだろうに。

無駄に金を掛けることがステータスなのだろうが。それにしても無駄にも程がありすぎる。

纐纈に連絡を入れる。

「六階、五階で一部屋ずつ反応がありません」

「分かった。 外で今点呼を取っている。 そのまま管理人室に向かって、そこで合流する」

「はい」

一端情報をまとめて、続いて管理人と一緒にマスターキーを使って点呼も取れていない部屋を確認する。

そういう手はずだと言う事だ。

一階に下りると、既に愛染が待っていた。続けて新美がくる。最後に纐纈が降りて来たが、でっぷりふとった品のないご婦人がきゃあきゃあわめき散らしていた。

「テロリストなんて、さっさと捕まえなさいよこの税金泥棒!」

「今はまず安全を優先してください」

「私の家の家具はどれもこれも最高級品ばかりなのよ! テロだかなんだか知らないけれど、傷でもつけたらただじゃすまさないからね! 警察にもコネはたくさん持ってるんだから!」

うんざりした様子で、歩く肉玉スピーカーを警官に押しつける纐纈。まあ気持ちはよおく分かる。はっきり言って同情してしまう。

だが、それはそれこれはこれだ。

ああいうのも助けなければならない、というのは事実である。

すぐに管理人の所に行き、情報の擦りあわせ。

外の警官とも連絡を取り、点呼を取った結果を確認する。

その結果、合計四部屋の住人が反応がない。

留守にしているだけならいいのだが、このマンションの住人は自宅から仕事をするような人間が大半である。

リモートの環境が整っているケースもある。

「まずは十一階の三号室か。 いや、十二階だな。 ややこしい」

「急ぎましょう」

「ええと……」

相当慌てているのか、管理人がマスターキーを取り落とした。慌てて取ろうとして転びかける。

怯えているのが分かる。

それはそうだろう。テロの予告と言う事で、無理矢理住人を外に連れ出しているのだから。

ただ、テロが此処で起きるというのは事実なのだ。

早くしないと、犠牲者が出る。

十一階もとい十二階に到着。纐纈は用意良くペンチを持っていた。これはチェーンを切るためである。

三号室に向かう。チャイムをもう一度鳴らした後、無反応を確認。鍵も掛かっている。

マスターキーで内部に侵入。最悪な事に、電気はついている。つまり人がいると言う事だ。

奥の部屋に踏み込むと、いかにもな金持ち男が、いかにもな女性とベッドで同衾していた。

むしろ安心して溜息が出た。

女性が悲鳴を上げるが、北条が前に出て手帳を見せる。

「な、なんなんだね君達は!」

「このマンションにテロの予告がありました。 全員に一時退去して貰っています」

「テ、テロっ!?」

「いつ何が起きてもおかしくありません。 すぐに服を着て外にお二人とも出てください」

文句も引っ込んだらしく、大慌てで着替えを始める男性。

奥に声も掛けている。

やがて、連れ込んでいた愛人らしいのを二人伴って、男性が部屋の外に出ていく。まあ随分とおさかんなことだ。

「後三部屋、急ぎましょう」

「マスターキーが一つしか無いのが悔しいな」

新美がぼやくが、こればかりはやむを得ない。

まだ、全員の無事は確認できていないのだから。

 

1、間一髪

 

二つ目の部屋は外出中。本人とも連絡が取れた。三つ目の部屋は、内部で人を発見。どうやら熟睡すると何があっても起きないタイプらしく。部屋に踏み込んできた北条達に叩き起こされて、ようやく寝ぼけた声を出していた。

「何……?」

「このマンションでテロが起きる可能性があります」

「……」

「愛染、付き添って連れていけ」

「おう」

愛染が、まだぼんやりしている様子の、痩躯の中年男性を連れていく。そこそこ有名な作家らしい。

まあ、だとすると変則的な生活をしているのも仕方が無いのだろう。

後一部屋だ。

エレベーターを使って急ぐ。

それにしても、頭に来るくらい速いエレベーターだ。無駄なところに金が掛かりまくっている。

不動産バブルがはじけた後、一時期不動産関係はどこも地獄を見たと言う話があるのだけれども。

それでもこういう無駄の塊みたいなマンションは出来る。

こんな所、地震があったら危ないし、何もかもろくな事がないだろうに。

まあ何とかと煙は高い所に登りたがるというのは事実なのだろう。

北条からして見ればどうでも良いことだが。ともかく、順番に一つずつこなして行くしかないのである。

「反応無し。 この部屋の住人も、職場に通っているタイプではないようだ」

「ドアを開けます」

管理人がドアを開ける。更に、チェーンが掛かっていたので、最悪の予想が当たる。

チェーンを切って内部に。

内部に入った後、周囲を確認。奥の部屋、風呂から音がしている。

まずい。

急いで風呂場に飛び込む纐纈。

何だか部屋の間取りを完璧に把握しているようだったが、これはどういうことなのだろう。

いずれにしても、かなり危ない所だった。

風呂には、既に半分浸かっている男性の姿。シャワーが、ずっと虚しく床で大量の水を吐き出し続けている。

全裸の男性を湯船から引っ張り出し、呼吸を確認。まだ体が温かい。

すぐに人工呼吸を実施。纐纈の手並みは完璧で、程なくして、男性が激しく咳き込んでいた。

その間に北条は救急隊員を呼ぶ。

間一髪だった。マスターキーが複数存在していたら、この人ももう少し早く助けられたのに。

後遺症とかでないといいのだけれど。

そう思いながら、床でぐったりして激しく嘔吐している男性を見た。

「な、なんだ、なんなんだよ……」

「間一髪でしたね」

「……」

それ以上は何を言う気力もなかったようで、男性はそのまま救急隊員に運ばれて行った。文字通り間一髪である。

外の警官隊と連絡を取る。

「点呼は問題ないか」

「はい。 全員の無事を確認できました」

「一人危なかったが」

「それは……」

ともかく、である。

警察の方で、此処からは対応をしなければならない。

一旦からになったマンションは、当面住居者を戻せない。全員に外に移って貰う。それにしても、もう少し連絡が遅れていたら、新美も犠牲になっていたかと思うとぞっとしない。

さっきの男性の様子を見る限り、ぐつぐつと風呂にて煮込まれてしまった可能性も低くは無かっただろう。

ぞっとする話だ。

外で愛染と合流。

こんなマンションに住むような人間達だ。皆、それぞれ別に住居や生活をする場所くらいはあるのだろう。

警官にずっとさっきのおばさんは食ってかかっていたそうが。

それも、死にかけた人が搬送されて行くのを見て、黙ったという。

本当に危ない所だったと気付いたのだろう。

愚かしい話である。

いずれにしても、それぞれの連絡先を控えて貰う。また職場に出ていた人間については、マンションにはしばらく戻れないことを通達。

流石にいつ爆弾(とはいっていないが)が炸裂するかも分からないマンションに戻る気にはなれないのだろう。

連絡を取れた本人は、分かったと言ってすぐにビジネスホテルを予約したようだった。

さっきの人の話を聞くと。愛染が言う。

「似たような都市伝説があるな」

「どんな都市伝説よ」

「おい、無駄話なら……」

「心太郎。 この事件は怪異絡みの可能性が高い。 話は聞いておこう」

黙る新美。

本当に、纐纈には絶対服従なんだなあと北条は思ったが。それ以上は言わないでおくことにする。

そのまま、愛染は話を始めた。

一人暮らしの老人が、昔ながらのガス焚き釜の風呂で死んでしまった。死因は分からないが、いずれにしても適温で死体が温められたのだ。その後は、すぐに腐敗が始まり、ぐずぐずに湯船で崩れてしまった。

異臭に気付いた近所の住人が気付いたときには。

風呂には人間で作ったシチューが満たされていた、という事である。

通称人間シチューだそうだ。

ちなみに愛染は、珍しくこの都市伝説については否定した。

「興味を持って調べて見たんだが、こういう風に見つかった死体は実際には存在していないらしい。 少なくともこの都市伝説が拡がっている日本ではな」

「あのおじさんも、人間シチューになっていた可能性が高そうですね」

「……捜査が一日遅れていたら、どれだけの死人が出ていたことか」

纐纈がぼやく。

人間シチューとやらに感じる生理的嫌悪感よりも。

人が無駄死にすることが、纐纈には許せないようだった。

まあそれは当然とも言えるだろう。

警官の魂を、この人は持っている。それは、何度か仕事をしてみて確認は出来た。そういえばあの元部長も。あらゆる意味でブッ飛んでいたが。警官の魂そのものはきっちり持っていたように北条には思える。

科捜研が来た。勿論魔女先生もいる。

「お疲れ様、とくそうのみんな。 ちょっと余所で仕事が大変で、来るのが大変だったわ」

「お疲れ様です。 内部の確認をお願いします」

「ええ、任せておいて」

如月先生は、部下らしいのを何人か連れてマンションの中に。

勿論、此処からは北条達も捜査をしていかなければならない。

科捜研が現場を保全してくれるが。それはそれである。このマンションには60からなる部屋が存在していて。

そこの全てで、恐らくは怪異を使ったテロが起きる寸前にまで行っていたのだ。

確認せざるを得ない。

夕方まで、マンションをそうして漁る。

部屋の中に侵入などの痕跡はない。科捜研と連携しながら、情報を調べていく。マスクと更にキャップをするように指示された。埃まで回収していく科捜研だ。警官の髪の毛とか落ちたら手間が増えるのである。

何かあったら困るから、ツーマンセルで動くように。

そう纐纈に指示されて、愛染と一緒に動いているが。

今のところ、変な現象はあの部屋に入った男性以外には起きていない。

変な怪異が出てくる様子も無い。

だが、本部長が大規模に動くくらいだ。

いつも何しているかよく分からないあの人が、である。

そうなると、余程の状況と判断して良く。ただ北条に見えていないだけで、訳が分からない怪異だらけかも知れない。

しかしながら、そういうのが見えるっぽい愛染にも、見えている様子が無いことから。

どうも何かが違うのかも知れない。

乱れたベッドの部屋に来て嘆息。避難放送も聞かずにおさかんにベッドでまぐわっていたあのおじさんの部屋である。

愛染は流石に気まずいのか風呂に行き。

そこで、様子がおかしくなった。

「ちょっと、どうしたの刹那!?」

「……」

愛染はそのままふらつくと、風呂の中に飛び込むようにして転びかける。必死に後ろから抱き留めて、自分ももろともに転ぶようにして尻餅をつく。

北条は愛染を横にするが、目が虚ろだ。

毒ガスか何かのような兵器なのか。すぐに纐纈に連絡。すぐに纐纈と新美が来てくれたので、三人で愛染を風呂から引っ張り出す。

服がグシャグシャである。

「愛染、しっかりしろ!」

「……」

「これ、あの被害者と同じ症状では」

「北条、何があった」

纐纈が静かに、しかし強い圧を掛けてくる。

順番に話をしていく。そうすると、纐纈がしばし考え込む。

「これは恐らくだが、本部長の話もあわせて考えると、誰かが一人で風呂に入ると急激な眠気に襲われるのではないのか?」

「でも、この風呂には先に若い女性が入っていましたよね」

「そうだ。 だからどうして愛染に作用したのかが分からない」

「……男性だけに作用するとか」

北条が思いついた事を言うと、纐纈は無言のまま考え込む。

いずれにしても、今の時点では情報が足りない。遅れてきた科捜研が、すぐに愛染に応急処置をしてくれる。

そして救急で連れていった。

「男性が入っても、今こうして我々は無事だ。 どういうことだ……?」

「怪異が原因だとすると、何かトリガーがあるのかも」

「いずれにしても、毒ガスや何かの薬を用いた可能性もあります。 あの本部長からの連絡が来ているからといって、すぐにそう怪異に結びつけるのは早急でしょう」

新美の言葉ももっともだ。

一旦部屋から撤退する。

科捜研の人達も心配になったが、あの魔女先生がその辺りで抜かるとは思えない。多分なんか霊的なのとか呪術的なのとかで、防護をしているのだろう。事実、科捜研の人達が被害にあったという話は聞かなかった。

そのまま夜まで捜査と聞き取りを続ける。手分けして六十部屋にいた人達に、順番に話を聞いていく。

また、マンションに出入りした人間についても調べる。

全て終わったのは、夜中のことだった。

 

翌朝。

早朝から、愛染は復帰してきた。

なんだか強烈な眠気に襲われて、何か何だか分からないうちに風呂にはいりこもうとしていたらしい。

あれは本当に危なかったという話をすると、ありがとうなと礼を言われた。

愛染はぶっきらぼうだが、きちんと礼は言うし、失敗したら謝る。

この辺りは、本人なりの筋を通してくれているのだろう。

まず、四人で科捜研に出向く。如月先生の所では、案の定あらゆる全てを分析に回しているようだが。

一つずつ聞かされた。

「まずあのマンションの水だけれど、どうもおかしいわねえ」

「水がおかしい、ですか」

「まだ調査が必要だけれども、恐らく何かあるわ。 特定はまだ出来ていないけれど」

「……水、か」

確かにその可能性はある。

というか、愛染が言っていたあの話。人間シチューが案外的を射ていたのかも知れない。

ひょっとしてだが。

今度の怪異は、人間シチューに人間をしようとする怪異なのでは。

もしも水場に特定条件が揃うだけで、人間をシチューにしてしまう怪異だとすれば。

それはかなり危険度が高い。

どうやって作るかは分からないが。

そんなものが兵器化され、世界中にばらまかれたら。それこそ途方もない被害が出ることは確定である。

身震いしてしまうが。

その様子を見て、如月先生は妖艶に微笑む。

「それと、それぞれの部屋には特に強引に侵入した形跡などはなかったわねえ」

「そうなると、何か仕掛けをそれぞれの部屋にした訳では無いと」

「……」

纐纈が考え込んでいる。

ひょっとすると、何か思いついたのかも知れない。

いずれにしても、怪異に対抗できる人を連れて行く方が良いだろう。そう思って、北条は聞いてみる。

「時々本部長が回してくれる佐倉さん、何とか手配できませんか」

「あら、あの子も頼りにされているのね」

「若いですけれど、頼りになります」

「……あの子貴方より年上よ北条さん」

やはりか。纐纈に対する態度などから、そうではないかと思ってはいたが。いずれにしても、佐倉さんは本部長の方の管轄で。基本的に問題がありそうなら、本部長が普通は回してくれるという。

それが来ないと言うことは。

今回は、別件とやらが余程大変だと言う事か。

「本部長のチームは優秀だから、そろそろ本丸を潰してあの子も貴方たちの支援に来るでしょう。 まあ、それまでは頑張って捜査を続ける事ね」

「分かりました。 他にも分かった事があればお願いします」

敬礼をすると、纐纈が話を切り上げて、皆を促して科捜研を出る。

勿論これから、今日は手分けして行動である。

「俺と心太郎でこれからマンションの住民の人間関係を調べる。 心太郎はあのマンションの住人だ。 その方がやりやすい」

「分かりました」

「そういえば纐纈警視。 何だか歩き慣れているように見えましたけれど」

「俺は心太郎の家に時々招かれて、食事をしているからな。 あのマンションは典型的な部屋割りが全て同じになっているマンションで、それで動きやすかっただけだ」

ああそういう。

何だか薔薇が咲きそうな想像をちょっとしてしまったが。まあそれは考えなかったことにしておく。

ただでさえ新美はお小姓なんて渾名があるのだ。

捜査一課にいた頃からそういう状況だったらしいが。何だかそんな渾名が出るのも、納得してしまう。

ひょっとすると、新美の家に纐纈が時々出入りしていることなども、捜査一課では知られていたのかも知れない。

「北条、愛染、お前達は現場の調査。 水周りを特に調べろ」

「分かりました」

「愛染、お前は一人では風呂場には入らないようにな」

「へい」

愛染も流石に懲りているのだろう。纐纈にはまだ少し思うところがあるようだが、指示は的確であるし従う事を嫌がらない。

そのまま、愛染の車で現地に行く。

「そういえば、刹那はああいう高いマンションに住まないの?」

「俺は実家通いだよ。 実家が一番落ち着くし、何より俺がいなくなると、色々困る奴がいるんでな」

「そういうものなの?」

「ああ、色々とな。 ただでさえ俺の家は色々面倒でな。 あの大魔王には恩があるんだよ」

そういえば、愛染は元部長と前から面識があった様子だが。

恩があった、と言う事くらいしか聞いていない。

興味が出て来たが。

まあ根掘り葉掘り聞くのもなんだろう。

そのまま、現場までは黙って移動する事にする。

マンションの入り口には数名の巡査が見張りに立っていて、手帳を見せて中に入る。周辺住民の視線は、どれも好意的ではなかった。

先にこっちの聞き込みをするか。

そう判断して話を聞くと、やはりである。

「あのマンションの人達やたら横暴でね」

近所の店の人はそう開口一番に言った。

確かにマンションの周囲にあるのは普通の店ばかりだ。そこに、億ションを買うような人間が出かけていけばどうなるか。

新美がどう思っているかは知らない。

そもそも愛染が手料理を嗜み、相応に食事についても詳しい事は北条も知っている。

だが、あのマンションの住民にはいるのだろう。

金を間違って持ってしまったような輩が。

権力も金も、器というものがあって。

持つべき者では無い者が持つと、完全におかしくなる。

それまでは謙虚だった人が、いきなり傲慢になったり。突然人が代わってしまう事は珍しくもない。

それについては北条も聞いた事はあるが。

いずれにしても億ションの住民達は、自分を特権階級か何かと考えていた様子で。周囲の住民に傲慢極まりない接し方をしていたようである。

幾つかの証言を集めて回って、それで戻る。

くだらない。

呆れ果てて、溜息まで出た。

兎も角、一度戻って愛染と合流。そのままマンションに入って、調査に移る。

科捜研は有能で、廊下も共用スペースも徹底的に調べている。この様子だと、マンションの外側も調べ始めるかも知れない。

ただ、今の時点では事故としか思えない事しか起きていない。

そうなると、これだけ科捜研が動くと言う事は。

本部長が全力で指示を出している、と言う事なのだろう。

声を掛けられたので振り向く。

佐倉さんだった。

「ああ、来てくれましたか」

「対応していた案件が一段落したんでな。 それで、このマンションで何が起きたのか説明してほしい」

あれ。

余所でも同じような事が起きているのかと思ったが、違うのか。

いずれにしても、詮索は無意味。軽く歩きながら話すと、佐倉さんは小首をかしげた。

「相手を眠りに誘う怪異は別に珍しくもないんだが、有名なのはどれも気配を感じないな」

「アンタほどの専門家でも分からないのか?」

「……怪異の気配そのものはある。 だが、それの正体が分からない。 少しばかり、調査に同行させて貰いたい」

なるほど、それか。

この間佐倉さんが言っていた。

怪異は正体が分からないと、人間に対応するのは不可能だ、という話である。

正体さえ分かってしまえば、簡単に対応できるらしいのだが。

逆に正体が分からないと、クトゥルフ神話の外の神やその眷属がごとく、何をやっても勝てないのだとか。

ここのも同じなのだろう。

愛染が、説明を順番にしていく。頷くと、佐倉さんは科捜研が調査を終えた部屋の一つに入り、周囲を見回した。

「強い怨念を感じるな。 いや、怨念と言うより嫉妬だ」

「嫉妬!?」

「ああ、そうなるな。 嫉妬は……周囲からこの建物自体に集まっている様子だが、それ以上は今の時点では分からない」

別に高級な家具に興味をみせるでもない。

この部屋には女性がくらしていたらしく、高級な宝飾品などもある様子だが。それにも佐倉さんは目もくれなかった。

元々動きやすい格好を最重要視している人である。

ドレスだの宝飾だの化粧だのには興味が無いのかも知れないと思ったが。先手を打つように言われる。

「私が猿みたいだとか思ってないか?」

「いや、別にそんなつもりは……」

「私の場合、いつ襲われるか分からないからな。 だから基本的にいつでも対応出来るようにしている。 それだけだよ」

心でも読まれているのか。

まあ、それはそれとして、だ。

ともかく、部屋を見てもらう。

風呂場に出る。水場も見てもらう。だが、佐倉さんは無反応だった。

風呂場で愛染に起きた事も既に話してある。

だが、佐倉さんは目を細めてやたら広い風呂場を見回した後。興味が無さそうに外に出た。

次の部屋に出向く。

男性の部屋だ。

丁度良い。

あの、男性が人間シチューになりかけた部屋がいいだろう。其所へ案内する。愛染が倒れかけた部屋だと、何か問題が起きるかも知れない。

この部屋は真っ先に調査が行われたらしく、中は綺麗に整理されている。佐倉さんは、少し周囲を慎重に見回していた。

「……此処はさっきと違うな」

「何かありそうですか」

「空気が違う。 さっきは嫉妬が集まってたが、此処は怨念を感じる。 さっきに比べて、だいぶ濃い」

風呂場にも案内する。

勿論綺麗に片付けられ、水も一滴残らず残っていなかった。

あの男性も、危うくシチューに煮込まれてしまうところだっただろう事を考えると、ぞっとしない。

「愛染巡査、気を付けろ」

「俺だけか?」

「……あんた達の推理はある程度当たってる。 どうやらこの怪異は、男性だけをターゲットにしてるな。 それも怨念が非常に強い。 今は水がないから良いが、一人でまた水が溜まっている状態でここに来たら、また死にかけていたかも知れないな」

ぞくりとする。

佐倉さんは口元に手を当てて、ブツブツ呟いている。

女性の怪異とは考えにくい。

女性だったらもっと陰湿な手を使う。

恐らく正体は男性の怪異だろうが。

既存の怪異では無く、幽霊や怨霊に手を加えた者かも知れない。だとすると、むしろ原始的な方法の方が。

そんな言葉が聞こえたが。

いずれにしても、部屋からは出る。

そして、あのおっさんたちがいた部屋に入る。此処でも、やはり強い怨念を感じると佐倉さんは言うのだった。

後幾つかの部屋を見てもらって、佐倉さんは結論を出した。

「間違いないな。 人間シチューだかなんだかしらないが、そのターゲットは男性、それも裕福な男性だ。 条件はそれだけしかない」

「条件は、「それだけ」?」

「ああ。 新美の部屋もさっき見ただろう。 彼処にも怨念を感じた。 何者かは分からないが、いずれにしても人間シチューを作りたがっている奴は、裕福な男性を見境無しに憎んでいると見て良い」

新美か。

愛染と喧嘩ばかりしているが。刑事の鏡である纐纈を本気で尊敬している、理論家の刑事。

立派な警官だ。

要するに金持ちと言うだけで全てを決めてかかっているという訳か。それとも金持ちにだけ作用する呪術なのか。

それは正直分からないとしか言いようが無い。

「相手は恐らくだが、あんた達が考えているような大それた存在じゃない。 多分ぐっと単純で、それで悲しい相手だと見て良いだろうな。 呪いの起点になっている奴は、多分もうこの世の存在じゃないよ」

佐倉さんは、いずれにしても危険の回避方法は教えてくれた。単独で裕福な男性が風呂場に入らない。以上、だそうである。

そのまま、一旦佐倉さんはマンションを離れる。

まだ事後処理を幾つかしなければならないらしい。

いずれにしても、怪異対策については教わった。今の時点で、誰にでも出来る事である。

ただし、これを一般利用者に説明するわけにもいかない。

怪異の元を見つけたら、連絡がほしい。

そう佐倉さんは後でメールをくれた。

この怪異は極めて限定的な作用をする代物だが、対応はそれはそれでしなければならないという事である。

いずれにしても。

幽霊の正体見たり枯れ尾花と言っても。

枯れ尾花は、北条達で見つけないといけないらしかった。

纐纈に連絡を入れる。

一通りの内容を説明すると、分かった、とだけ答えられた。

纐纈の方でも、何か思うところがあるのかもしれなかった。

 

2、襤褸が出る

 

翌日。

マンションの調査を本格的にとくそうで始める。科捜研が一旦引き上げた後なので、マンションはすっきり。

そして不思議な事に。

この手の事件になると絶対ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てる無能なマスコミはだんまり。

セレブであり、コネがどうのこうのと騒いでいた連中も、だんまりであるらしい。

風祭が関わっている。

その話だけがされたらしいが。馬鹿共にはそれだけで充分だったのだろう。

風祭というのは、あの元部長の姓だ。

どうも影響力は金持ち限定ではないらしい。

いずれにしても、捜査がやりやすくなるのは有り難い話だった。

今日は新美を残して、三人でマンションの部屋を調べる。万が一を考えると、分散して捜査するのは危険だ。

昨日話に挙がった、怪異の発動条件がある。

一応風呂からは既に水も抜いてしまっているのだが、それでも何が起きるか分からないのである。

仕方が無いので三人一組になり、徹底的に部屋の調査をしていく。

日本の科捜研の有能さは有名だが。

G県の科捜研もそれは同じ。

ましてやあの魔女先生がボスをしているのである。殆ど塵一つ見逃さずに、何もかもが回収されて調査に充てられていた。

新美から時々連絡が来る。

何号室の利用者について、というような内容だ。

科捜研が調べた結果、出るわ出るわ。

今まで二件、違法薬物利用の痕跡が発見され。部屋の利用者が逮捕される事態に至っている。

昔のG県警だったらともかく、今だったらもはや逃れる術は無い。

立件までそれこそダンクシュートである。

この他にも犯罪の形跡が幾つも残っており。

科捜研を部屋に入れたのが運の尽き、という輩は何人もいるようだった。

そういう逮捕された人間の部屋を中心的に調べているのだが、もう徹底的にドブさらいが行われた後だ。

何も見つからない。

困り果てていた所に、纐纈が手を叩いた。

「考え方を変えるぞ」

「考え方を変えるって、具体的にはどうするんだよ」

「ちょっと刹那」

「かまわん北条。 まず佐倉の話によると、基本的に金持ちの男性が相手なら何でも無差別に怪異が攻撃しているのは確定なのだろう。 そうなると、このマンションで何かが起きているとして、だ。 特定の人間が狙われたのではないのかも知れない」

北条は少し考えた後挙手。

此方も意見があるからだ。

「あの金髪の王子と本部長が出張ってきている以上、これは例の組織が噛んでいる事件の可能性が高いです。 広域殺傷兵器の実験だとしたら、何か見落としている可能性があるかも知れません」

「ふむ……それは分かってはいるが。 それで何を見落としていると思う」

「マンションに出入りした人間を洗い出すべきです」

「それはもう新美がやっている」

それはそうなのだが。何か、それでも見落としているのではないのだろうか。

頭を掻きながら愛染が提案。

「それなら、もう少し管理人のじいさんに聴取してみるか」

「そうだな、俺もそれが良いと思う。 北条、どう思う。 恐らくお前は、安全に単独行動が出来ると思うが」

「いえ、私も同行します」

「そうか」

いや、怪異が怖いのでは無い。

それは勿論少しは怖い。今まで散々酷い目に会ってきているからである。実際一人でいたらまず確実に殺されていただろう場面にも、何度も何度も立ち会ってきたのである。今更といえる。

だが、今回の場合、何か見落としているとしたら。

それは恐らくだが、怪異の性質にも関係があるのではないだろうか。

プロである佐倉さんを疑うつもりはないが。

いずれにしても、枯れ尾花の部分については、佐倉さんも分からないと断言していたのだ。

それを調べていて、藪をつついて蛇を出す可能性がある。

ようは一人で動くのはリスクが大きすぎるのだ。

一回エレベーターで一階に下りる。

管理人さんは暇そうに昔の漫才をスマホで見ていた。今の時代は、基本的に老人でもこうやってネットのコンテンツを使いこなす。

ネットの向こうには人がいる。

その基本的な例である。

「管理人さん。 よろしいですか」

「はい。 何なりと」

「何度も済みません。 少し確認したいことがあります」

「はい。 覚えている範囲なら答えます」

管理人さんは協力的だ。紳士的な老人で、こう年を取りたいとも思う。

既に今まで、ここ数年マンションに出入りした業者などのリストは提出して貰っているし。

監視カメラの画像も今科捜研が解析中だ。

だからこう言うときは。

ずっとマンションの管理をしている人間に、話を聞く方が早い。

「科捜研の調査の結果、この件には恨みが関わっていることが分かりました」

「恨み、ですか」

「はい。 何か心当たりはありませんか?」

「……知っているでしょうが、このマンションの利用者は周囲の人達みんなから恨まれている状態です」

なんだか申し訳なさそうに、管理人さんはいう。

それは分かっている。

だけれども、恐らくそれはマンションを何となく、抽象的に全てまとめて恨んでいるという所だろう。

新美も巻き込まれているのだ。

新美が何か恨まれる事をしたのだろうか。

多分やっていないだろう。

あの杓子定規な堅物である。権力を振り回して、周囲の「貧民」を見下すような行動はしていないだろう。

いわゆるノブリスオブリージュを丁寧に守っている事は確実で。

そういう意味では、愛染よりもずっと行儀が良い坊ちゃんだと言える。

「マンション内でのトラブルなどで、何か印象的なものは」

「マンション内のトラブルはしょっちゅうですよ」

「……」

管理人さんは寂しそうに目を伏せる。

何しろどいつもこいつも金持ちだ。

例えば、このマンションの内部は壁も分厚く、多少の物音程度なら全く隣に聞こえる事はない。

生半可な一軒家よりも防音性は高いだろう。

だが、それでも物音の件で、住民同士が喧嘩になった事が何度もあるという。

レコーダーで証言は全て記録しているが。

今更隠しても仕方が無いというのだろう。

管理人さんは淡々と話す。

「年に何度も起きていましたね、そういうトラブルは」

「仮にですが、そのトラブルの結果此処を出ていって、何かしらの形で戻って来た人はいますか?」

「……何かしらの形、とは」

「例えば元は此処の住人だったのに、此処の住人に顎で使われる立場になって此処で働いた人とか」

纐纈がずばりと具体例を言う。

確かにそれはうらまれるかもしれない。

だが、管理人さんは首を横に振った。

「このマンションはただでさえトラブルが多いんです。 利用する業者には人員の名簿を出してもらって、此方の方でもそういう方がいないかはチェックしています。 何故か今回の件でマンションの管理会社の方から何か言ってくることはありませんが、普段からとても五月蠅く言われているんです。 恐らくですが、マンションの管理会社でも、こういうお金持ちがたくさんお金を落としてくれる物件は、金の卵に見えているんだと思います」

なるほど、その辺りは金が絡んでいるからか、纐纈より管理会社の方が上手か。

考え込む纐纈。

「それでは、ここに働きに来た人で、印象的な人はいましたか?」

「印象に残った人ですか? ……そうですね、ここしばらくだと一人少し様子がおかしい人がいましたね」

「?」

「掃除に来た人です。 こう言うマンションですから、業者を雇って掃除をしますし、かなりきちんとした業者を雇います。 マンションの住人とのトラブルが起きやすいので、基本的に一番人がいなくなる昼過ぎに来て貰うのですが」

管理人さんの言う所によると。

歩いていて、見てしまったそうである。

じっと、ドアを見ている掃除業者を。ただ、管理人の気配に気付いてすぐに仕事を再開していたそうだが。

「あれは何というか、ねたみというか、やりきれない怒りと言うか、そういう目でした」

「……」

業者の名前を確認する。

快く、管理人さんは教えてくれた。

一旦新美と連絡。その会社について調べて貰う。科捜研が調査をしているので、すぐに其所からもリストが出て来た。

「比較的長期的にマンションから雇われて出入りをしている業者ですね。 基本的に非常に評判は良い様子です。 今までトラブルを起こしたという話は挙がっていません」

「マンションの住人から、か?」

「はい。 管理人の言う通り、やはり相当にクレームが多いマンションであるらしく、利用していた様々なサービスは基本的に必ずクレームを受けている様子です。 そんな中で、珍しくクレームを受けていない業者のようでして」

「……分かった。 その会社の住所を教えてくれるか」

纐纈が何か見つけたらしい。

一旦マンションの外に出ると、住所を愛染に渡す。

愛染は小首をかしげながらも、車に乗るように北条に促す。纐纈も、車に黙々と乗った。

「クレームもない会社の様子を見に行くんですか?」

「それが逆に怪しい」

「よく分からない話だな」

「そもそも、来る業者を貧民と決めつけて、何かあったら文句を言うような金持ちが集まっているマンションだ。 そんなところで、何年もクレームを出さずに仕事をしている業者だぞ。 どういうやり方をしているのか分からないが、社員の負担は極めて大きいのではないのか」

なるほど、確かにそれは盲点だ。

北条も頷く。確かに理にかなっている。

「管理人さんの証言とも一致しますね」

「清掃業者は老人などが務めることが多いが、先ほどの管理人の話による限り、恨みが籠もった目でドアを見ていた人間はまだ若かったそうだ。 確認をしてみる価値はあるだろう」

「そういう事なら」

愛染がぐんと車を飛ばす。

法定速度を守れよと呆れながら纐纈が言うが、勿論と愛染は答える。

この間窓硝子を割られたこの車は、もう新品同様になっているが。

基本的に愛染はスピードメーターを見なくてもスピードをほぼ把握できている様子で、法定速度はかっちり守っている。

ただ、加速が鋭いのとスキール音がかなり強烈なので、スピードが出ている感じが凄まじいが。

「もしも、これで何も見つからなかったらどうします?」

「その時はまた洗い直しだな。 それと、嫌な予感がする」

「?」

「また後で話す。 どうせ科捜研が数日以内に調べるしな」

何だかよく分からないが。

それっきり、纐纈さんは黙り込んだ。

程なくして、小さな駐車場に停まる。

勿論有料だが。こればかりは仕方が無いだろう。愛染も、車を路駐するのは、緊急時だけだ。

小さなビルのテナントの一つに、問題の掃除会社が入っている。

纐纈を先頭に出向く。

手帳を見せると、掃除会社の受付をしているらしい女性が慌てて奥に行き。

何だか傲慢そうな社長が出て来て、手もみをした。

「あの、警察が何の御用でしょうか」

「××ハイムというマンションは知っておいでですね」

「はあ」

「其所で事件が起きていることも当然知っているかと思いますが」

社長が周囲をせわしなく見回した後。

会議室に通される。

三人分の茶を出した後、社長は冷や汗を掻きながら。傲慢そうな顔を必死に繕っていた。お茶くみにきた様子の社員を見ても、この社長が普段どう振る舞っているのかは明らかである。

典型的なブラック企業なのだろう。

こういう会社は基本的にブラックである事が多いが。

ただ、今は日本企業はどこでもブラック気味だ。

むしろまともな会社の方が少ない。

嘆かわしい話である。

「うちは、あのマンションで清掃業務をとても模範的にこなしていると評判なのですが……」

「それがおかしいんですよ。 あのマンションではクレームが日常茶飯事だ。 貴方の所だけがクレームが一切無い。 社員にどういう教育をしているのか、少し聞かせていただきたいのですが」

「どういう教育と言われましても、お客様第一としか」

「つまり、社員はどうなってもいいと」

北条が突っ込むと。

社長はそれは当然でしょうと、当たり前のように答えた。

呆れた。

どうやらビンゴらしい。

「文字通りお客様は神様です。 社員が我慢をするのは当たり前ではないですか」

「具体的にどういう我慢をさせているのか、是非伺いましょう」

「ちょ……」

纐纈が愛染と北条に視線を送る。

意図は理解した。

即座に会議室を出ると、すぐに手分けして聞き込みをする。纐纈が、抗議の声を上げようとする社長を押さえ込んだのが分かった。

「そんな、横暴な」

「問題が無いなら狼狽する事はない筈だ。 茶でも飲んだらどうです」

「ど、どんな会社だって問題の一つや二つくらい……!」

「それが分かった上で抑えていると。 ならば此方も相応の処置をさせていただきましょうか」

後ろで絞め殺される鶏みたいな声を上げる社長。

完全に空気が変わったことを悟ったのか。社員達は、こぞって聴取に応じてくれる。

そして判明した。

パワハラ、セクハラ当たり前の状況。

更には、今まで辞めていった社員や、失踪した社員のリストまで。働いている社員が率先して出してきた。

この手の会社では基本的にキングファイルを多用するのが常だが。この会社でもそれは例外では無い。まあ警察も似たような所があるので、それについてはあまり多くは言えないのだが。

兎も角、それを確認させて貰う。

更には、参考資料として押収させて貰った。

程なくして、纐纈が呼んだ労基の人間が数名来る。

わんさと労基の人間に群がり、実態を話し始める社員達。更に纐纈は、警官も呼んでいた。

「パワハラを受けた人は証言を」

其方にも、すぐに警官が群がる。

社長は纐纈に掴みかかろうとした。顔は真っ赤で、まるで鬼のようだったが。

即座に動いた纐纈が、その場で放り投げて押さえ込み、手錠を掛ける。

公務執行妨害の現行犯で逮捕。

まあ、これはもうこの会社は終わりだろう。

北条はさっき出して貰ったリストを抱えて、急いで外に出る。後は労基と、纐纈が呼んだ警官に任せれば良い。

先に、手錠を掛けられた社長が連れて行かれる。

この様子では叩けば埃が山ほど出るだろう。まあ、十年くらいは刑務所行きが確定と見て良さそうだ。

「北条、その戦利品をすぐにとくそうに持ち帰って調査するぞ」

「分かりました。 これで事件の解決の糸口が見つかると良いのですが」

「いずれにしても、佐倉の言葉が真実だとすると、もう一人は亡くなっていると見て良いだろう。 覚悟はしておけ」

「はい」

死体は。

嫌と言うほど見た。

あの燃える地獄の村で。

それこそ、ありとあらゆる形で尊厳を陵辱された死体を見て来たのだ。

だから、今更死体を見たくらいで吐くような柔な精神はしていない。それについては確かである。

すぐにとくそうに戻る。

途中で纐纈が新美に連絡を入れていたらしく、すぐに手分けしての調査に入る。そして、北条は見つけた。

「この人、失踪していますね。 一人暮らしで親も他界済の様子です」

「臭いな。 その人の情報は」

「今調べていますが、34歳独身。 あの会社にいたようです。 住んでいた住居は、家賃の支払いがなくて鍵が掛けられています」

「よし。 俺と心太郎がその人物の住居を調べてくる。 北条、愛染と一緒に管理人に話を聞いてくるように」

即座に全員で動く。

またマンションに出向くのかとぼやく愛染だが。

今回はかなり手応えがある。

これで事件が解決するのなら、文字通り安い話である。ただ、佐倉さんが言うように、あまり良い結末にはならなさそうだが。

マンションに到着。

警備をしている警官が、またかという顔をしていた。

此方も敬礼をして、敢えて嫌みを言う。

「おつとめお疲れ様です。 現場百回ですので」

「いえ、失礼しました」

ちょっとギスギスしたやりとりの末に、管理人の所に出向く。

管理人はまた漫才を見ていた。既に亡くなった芸人による番組の様子だ。

「おう。 もう何か見つけたんですか?」

「はい。 先ほど話題に挙がった人は、この人では?」

「……おお、そうですそうです。 この人です。 見覚えがあります。 もう三十路だったんですね」

「どうやら当たりか。 流石だな纐纈のおっさんも……」

愛染がぼやく。

北条はすぐに纐纈に連絡を入れる。纐纈の方も、どうやら重要参考人に浮上した様子の清掃会社勤務の人間の家についたようだった。

「此方は今アパートの管理人に部屋を開けて貰った所だが……妙だな」

「妙というと」

「失踪したという割りには、部屋が片付きすぎている。 冷蔵庫もからだ。 管理人の話だと、一切手をつけていないらしい。 ゴミ箱の中もかなり綺麗で、ゴミはないな。 人間がしばらく出入りしていないから、少し埃っぽいくらいだ」

「……」

最悪の予感が加速していく。

佐倉さんの話では、恐らくもうこのテロを仕掛けた人間は生きていないだろう、と言う事だった。

だとすると。

その部屋の様子は、身辺整理を済ませて覚悟して出ていったとしか思えない。

少し悩んだ末。

科捜研の如月先生に連絡を入れる。要は魔女先生に、だ。

すぐに魔女先生は出てくれた。

「丁度暇なタイミングで連絡をくれるとはなかなかやるじゃないの。 今度うちに遊びにきなさいな。 貴方が経験したこともない百合色のひとときを」

「いえ、結構です。 それよりもマンションの事件で聞きたいことを」

百合が実は猛毒を持っている事を知っている北条は、慌ててその後何か恐ろしい事を喋ろうとした如月先生の言葉を遮ると。

一つ、確認を取る。

「マンションの裏口などから、侵入の形跡はありませんでしたか?」

「ないわ。 そんなものがあったら、すぐに其方に報告が行っているわよ」

「分かりました。 ありがとうございます」

「いいえ。 それじゃあ頑張ってね」

ちゅっと投げキッスらしい声がしたので、ぞっと背筋が凍った。

あの人の場合あらゆる意味で冗談では済まないので、北条としても話をする度に寿命が縮まる気分である。

本当に大蛇か何かが此方を見下ろしているような雰囲気なのだ。

あの元部長、要は大魔王くらいだろう。

あの魔女先生に軽口を叩かせなかったのは。

「刹那、重要参考人が最後に仕事に来た日、リストに載ってる?」

「どれどれ。 この日だな」

「管理人さん、入室記録の確認をお願いします」

「はい、此方です」

しばらくデータを確認。

この手のマンションは、入るのは大変だが出るのは簡単である。だから、出る時の記録は基本的にはない。

このため閉め出しがたまに起きてしまう。

閉め出された利用者から、理不尽なクレームが来る事もあると、管理人さんはぼやいていたが。

やがて、マンションにその人が入った記録を見つけてくれた。

「掃除が終わったくらいのタイミングの後の、入り口付近の監視カメラを見せてもらいますか?」

「いいですよ。 データはと……」

意外になれた様子でPCを操作する管理人さん。

かなり年を召しているようだけれども。こういう仕事をしている以上、嫌でも覚えるのだろう。

「此処から一時間前後くらいですかね」

「分かりました。 刹那、出ていく人間についてチェックするわよ。 私の予想が当たっていたら、重要参考人は最後の日、このマンションから出ていないわ」

「それはまた、どういうことだ」

「このマンションに怪異が巣くったのなら、恐らく……」

それで理解したらしく、愛染も黙る。

後は二人で、黙々と監視カメラをチェック。それらしい人物が出ていった形跡は無い。掃除の人間も単独では無かったのだが。

入る時の映像はあるが。

出る時に、重要参考人の姿がない。

つまり、一人減っているのだ。

どうやら、枯れ尾花の正体が掴めたらしい。頷くと、北条は愛染とともに、覚悟を決めていた。

 

3、くらき水の底

 

当日、仕事をしていた人間をリストアップする。纐纈に進捗を報告。頷くと、纐纈は連絡先をくれた。

先の会社に捜査に行った警官の連絡先だ。纐纈の知り合いらしい。

手分けして、作業をする。

当日の監視カメラの画像を、愛染に片っ端から調べて貰う。その間に北条は、警官の方から情報を得て。その問題の日に仕事をしに来た掃除業者の社員と連絡を取ることに成功していた。

「警察……何だか大変な事になってるって聞いたけど、どうしたの?」

「貴方の会社に捜査が入りました」

「そっか、まあ時間の問題だと思ってたけど、そうだよな」

まだ若そうな社員は、ひひひと笑う。

何というか、何もかもがどうでもいい、という雰囲気だ。

焼け鉢というか何というか。

聞いていて、苛立つと言うよりも。壊されてしまった人間と話しているような、哀しみを覚える。

それはそうだろう。パワハラが蔓延していたワンマン企業だ。ブラック企業に三年も勤めれば、人間は簡単に壊れる。

そしてこの人は、経歴を調べる限り七年もあの会社にいたようなのだ。

重要参考人の話を聞く。

それで、幾つか分かってきた事がある。

「ああ、あの人か。 真面目で良い人だったよ。 俺より年上だったんだけれど、何というか優しくてさ。 上から目線でものをいうこととか一切無かったし。 酷い事件があった後は、自分の事みたいに悲しんでた。 だから俺たち、あの人のこと良い人って呼んでたよ」

「あの人が失踪したことは知っていますか?」

「知ってるよ。 でも、うちの会社だと、失踪は日常茶飯事だったからね」

「……」

それもまた、酷い話だ。

まだ流石にあの社長が全部喋ったり、実態が全て明らかになることはないだろうが。

それでも何というか、報われない話である。

そんな、周囲から良い人と呼ばれるような人が。恨みを込めて見つめる。どんな事があったのか。

マンションでの仕事について話も聞く。

もうあの社長がいないしいいかと前置きしてから、その若い社員は話し始める。

「地獄だったよ、あのマンション。 基本的に誰かが通り過ぎたら、掃除機止めて頭を下げて通路の端に避けるようにって言われていてさ。 社長曰く、あのマンションに住んでいるのはお前らみたいなゴキブリじゃなくて神様だから、分をわきまえて対応するように、だってさ。 もしも埃とか落ちてるとかクレームがあったら、即座に給料を半分にするとも脅されてたよ。 あのマンションではなかったけれど、他の職場で今言ったような仕事をしなかった奴が、顔の形変わるまで社長に殴られた事があってさ。 更にその後も脅されて、強制的に退職に追い込まれてたっけ。 勿論退職金なんてでない」

それはもう、絶句するしかない話だ。

なお、今の話を警察でしてほしいというと。喜んですると言ってくれた。あの社長は既に公務執行妨害で捕まったという話をすると、嬉しそうにする。

「この世の悪が一人消えたな。 俺の知ってるだけでも十件くらい余罪あるから、今から全部警察で話してくるよ」

「それなら、この連絡先にお願いします」

「サンキュ。 ありがとさん」

何だか軽い人だったが。一気に捜査が進展した。

それより愛染だ。

電話が終わると同時に、声を掛けて来る。

「北条、大変だ。 監視カメラにとんでもねえものが」

「幽霊でも映ってるの?」

「いや、そういうのはないな。 それよりこれだ」

映像を見る。

どうやら重要参考人は、仕事を終えた後。ふらりと何処かに消えている。

明らかに合流箇所では無い。

つまり、北条の見立ては当たっていたと言う事だ。

外に出た形跡も無い。

ということは。

このマンションの中に、死体があると判断して良いだろう。生きている可能性は、経過日数から考えてほぼ絶望的だ。

季節は冬で、そろそろ真冬になる。

G県は山ばかりの土地と言う事もあって、寒くなるのはかなり早い。死体が見つからなかったのも、それが理由なのだろう。

即座に纐纈に連絡。

分かった、と一言だけ纐纈は言った。その後は、そのまま捜査を続けるようにと続けて、通話を切られる。

北条は管理人さんに伝えなければならない。

「恐らくですが、マンション内で人がなくなっていると見て良いでしょう」

「そうですか……」

「意外に驚きませんね」

「わしもずっとこのマンションにいるわけではないですからね。 ずっと前にいたマンションでも、可哀想な死に方をした人を見た事があります。 それに、こんな人の業が詰まったようなマンションです。 誰かが死んでいてもおかしくは無いし。 事実少し通報が遅ければ、死人が出ていたんでしょう?」

そうか。年を取ったのは無駄に取ったわけではなく。きちんとその辺りは落ち着いている訳だ。

年を取っても精神面は一切代わらず、むしろ悪化していく人も世の中には多いのに。

きちんと取るべくして年を取れたというのは、良いことなのかも知れない。

すぐに科捜研に連絡をする。

今まで調査したところを確認。

今回でたのは如月先生ではなくて科捜研所属の普通の刑事だったのだが。様々な状況証拠から、マンション内で人が死んでいる可能性が高いという説明をすると、すぐに対応してくれた。

まずは共用トイレからか。

こういうマンションでは、来客などのために共用のトイレが作られているらしいのだけれども。

そういうトイレはまだ調査していないらしい。

更には地下。

地下にはボイラー系の設備があるのだが。此方もまだ調査はしていないそうだ。

更には屋上。

此処も今の時点では調査をしていないのだとか。

「いずれも密閉性が高いですが、此方の方でもこれから人員を派遣します。 トイレなどだと、素人には見つからない可能性が高いので」

「? 昔の汲み取り式なら兎も角?」

「いえ、トイレは屋根裏に上がりやすいんです。 そういう場所で死体が見つかった例は今までにもありまして」

「分かりました。 それでは此方はまず地下から調べます」

連絡を終える。まず鍵を貰って、地下に。

ボイラーと言っても、この規模のマンションだ。それなりに大きい。それにポンプもある。

この手のマンションでは、水道からポンプで屋上に一気に水をあげ。

其所にある受水槽という水のタンクから、下へ水道を伸ばし。水を供給するシステムが一般的である。

蛇口を捻るだけで水が出るのは、上に水が溜まっているタンクがあるからなのだ。

管理人さんに鍵を借りて、まずは地下から。

地下はひんやりとしていて、こう言う場所が怪談の舞台になりやすいのも分かった気がする。

ポンプはグオングオンと音を立てていて。素人目に見ても何があるかはよく分からない。このポンプも、マンションの規模によって大きさが変わると聞いた事がある。

ボイラーもあるが、此方もかなりの大きさだ。

なんというかマンションに詰め込む豪華な機能を、とことん詰め込んだような印象がある。

何というか無駄に贅沢ばっかりしている感触で。

見ていて北条も良い気分はしなかった。

隅から隅まで確認していく。

動いている機械もあるので、愛染に注意を促された。

「髪とか巻き込まれないように注意しろよ」

「ええ、分かっているわよ。 それよりどう様子は」

「……これは素人には分からないな。 臭いがすれば話は別なんだろうが……」

「そうね。 死体が変な風に腐敗すると、独特の甘い匂いがするのよね。 あれは二度と嗅ぎたくないわ」

愛染はそれについて、聞き返してくることはしなかった。

いずれにしても、北条は彼方此方で地獄のような場を見て、其所で様々な死体を見て来ている。

様々な状態の死体の臭いも嗅いだが。

此処ではそれは感じ取れない。

北条は鼻が利く方なので。

これは恐らく、少なくとも密閉された機械の中とかにない限りは、死体は此処にないと見て良いだろう。

次だ。

科捜研が来ていた。また、纐纈からの連絡も。地下だから電波が悪くて、通信が届かなかったのである。

すぐに掛け直すと、纐纈は其方に向かっている途中だという話をして、すぐに電話を切った。

少し取るまで間があったから。車を運転している最中だったのかも知れない。

そうなると、新美がポケットからスマホを取って、スピーカーモードにして話をするようにしたのかも知れない。

見事な連携が、見なくても分かるようである。

科捜研がトイレに散って行く。地下には、一人入れ替わりで入った。管理人さんに、鍵を更に借りる。

今度は屋上の鍵だ。

屋上か。

少し前にも、屋上で嫌な出来事を目にしたばかりだ。

鍵穴に違和感。科捜研はまだ此処は調べていないと言っていたか。しかしながら、調べて見て分かった。

鍵が開けられている。

管理人さんも、こんな所には来る必要がないと判断していたのだろう。北条は頬を叩いていた。

愛染もそれに気付く。

掃除の途中に、屋上の鍵を預けられ。それの型を取ったとしたら。

此処に入るのは、鍵屋で鍵を作ってもらえば、簡単かも知れない。見るとかなり簡単な構造の鍵だ。

このマンションでは、それぞれの家の扉は面倒くさい鍵を使っているので、鍵屋が簡単に作れるようなものではないが。

屋上は例外で、ドアノブを使った簡単なものになっている。

これは恐らくだが、防犯性が低いと判断したからだろう。

周囲から此処に来られるような場所では無いし。

別に此処に入らなければ困るような事だってない。

そもそも、たまに業者がメンテナンスすれば良いだけの場所だ。屋上というのは、むしろ入っても何も無いのだ。

昔の学園もので屋上で云々なんてのは幻想で。

今でも屋上は殆ど誰も用事がない場所だ。昔もである。

たまに屋上に入れるようにしていて、其所を活用している学校もあるにはあるが。それは例外に分類される。

そして、このマンションも。

屋上には、大きなFRPの受水槽が存在していて。

飛び降りを防ぐためだろう。

屋上を囲むように、フェンスが設けられているだけだった。

他にも細かい設備が幾つかあるが、それくらいである。ただ、それほどもののある密度は大きくないし、雑多すぎて影が見えないと言う事もない。

周囲を見回す。

「恐らく此処の何処かにいるわね」

「まだわからねえぞ。 とにかく先入観で判断するなよ」

「……ええ」

愛染の言う事ももっともだ。

警官として一番重要なのは、先入観を捨てる事。これはマスコミなどにも共通している事の筈だが。どうしてか一部の人間は、己の主観を前に出して記事を出したり。人の命に関わる行為に関して、主観を優先させる傾向がある。

北条はこれについては、後から叩き込まれた。

賀茂泉さんという恩師に、徹底的に叩き込まれた概念だ。

どんな事件も外から見ろ。

恐怖心は捨てろ。

あらゆる先入観よりも現実を重視しろ。

目の前で起きている事をまず把握し、それから適切な対応を取れ。

それが、賀茂泉さんの言葉。

あの人はガチガチのオカルト否定派だったが。それでも目の前でオカルトとしか思えない事が仮に起きたら。相応の対応をすると口にしていた。

その後、誰にも言うなと念押しされたが。

あの人が、あの大魔王とどうも交友があるらしい事は聞いているので。今になって見ると、言葉の意味が分かる。

いずれにしても、あらゆる状況証拠から、多分此処だ。そして、恐らくその場所は、一箇所しかないだろう。

周囲を丁寧に見て回る。物陰などで凍死している可能性もあるから、である。

愛染も専門家でないと開けられないだろう受水槽は後回し。周囲を丁寧に調べながら、状態を確認していく。

だが、見つけてしまう。受水槽のはしごに、布の切れ端が掛かっている。

それは、あのブラック企業で配っている、スイーパーの服に間違いなかった。

多分、最後の最後で焦ってしまったのだろう。

更に言えば、業務内容を見たが。ここの清掃は別の業者が行っている筈。

それでも、念には念だ。

最後まで、隅から隅まで確認し。

愛染が戻って来たので、状況を告げる。

大きく愛染はため息をついていた。

「分かった。 連絡を入れよう」

「ええ。 人間シチューでしょうね」

「……そうだろうな」

手分けして連絡を入れる。まずは纐纈に。続いて科捜研に。佐倉さんに。

三者が揃うのを待つ。

元々此方に向かっていたらしい纐纈はすぐに来た。新美も一緒である。なお、管理人さんにも声を掛けておいた。

科捜研もすぐに来る。今回は如月先生はいなかったのだが。如月先生も来た。これは、或いは纐纈と同じく、此方に先に向かっていたのかも知れない。

最後に佐倉さんが来た。

彼女は屋上に出るなり、受水槽をじっと見た。

更に溜息。事態は明らかすぎる程である。

北条は、科捜研に受水槽に引っ掛かっていた布について説明。すぐに科捜研の中で知識のある人間が、如月先生に言われて前に出て、サンプルを摂取。

更に受水槽の知識がある人間らしい刑事が、はしごを挙がり。受水槽を開けていた。

こういう受水槽は、雑な造りのものだと中に動物とかが入り込んで、死んでいる事が珍しくないと前に聞いた。

特に猫などは良く死んでいることがあるという。こう言う隙間に入りたがるからだ。

そして人間も。

あるマンションで、ホームレスが受水槽の中から死体で発見されたことが実際にあるという。

経緯は不明だが。

いずれにしても、現場を見た人間が二度と口にしたくないと語るほどの惨状だったそうである。

この受水槽は見た感じかなり新しく、フィルターもついている様子だ。

だから、利用している水は変な臭いなどがしなかったのだろう。

だが、科捜研の人間が受水槽を開けた瞬間。

凄まじい臭いが、周囲に漂い始めた。

冬だというのに、あからさま過ぎるほどである。

「ホトケを確認」

「サンプル採取を急いで頂戴」

「分かりました。 水を止めてもよろしいですか?」

「は、はい、お願いします」

気の毒な管理人さんは恐縮するばかり。北条も纐纈に促されて、内部を見に行く。

多分耐性が無ければ、即座に吐き戻していただろう。

其所にあったのは。

都市伝説ではなくなった、本物の人間シチューだった。

今の季節から考えると、恐らく傷むのにはかなり時間が掛かるが。しかしながらこの人が失踪した時期。更には、監視カメラに最後に映っていた時期を考えると。この状態も当然だろう。

大きな溜息が漏れた。はしごを下りる。

佐倉が厳しい顔をしていた。

印を切ると、額に指をつけられる。

小首をかしげると、首を横に振って、佐倉は悲しそうに言うのだった。

「後で説明する」

「分かりました。 あの方は……」

「それも後でやっておく」

佐倉が如月先生を見た。

要するに専門家がきちんと対応すると言う事だ。

ならば、北条としてはやる事もない。

管理人さんは、会社に連絡を入れている様子だ。いずれにしても、このマンションは一度廃止か、或いは水道管を全部入れ替えかも知れない。

セレブアパートだから費用もバカにならないだろうし。

それも極めつけの事故物件になった。

仮に北条達がブラック企業を告発して潰さなくても。あのブラック企業はどの道潰れていただろう。

どういう気持ちで、人間シチューになる事を重要参考人だった人は選んだのだろう。

それが悲しくてならない。

こんなに尊厳が否定される死は、そうそうないだろうに。

「北条、愛染。 気を強く持っているな」

「はい」

「大丈夫です」

「心太郎も、平気か」

平気だと、新美は答える。

纐纈の言葉は、それぞれの覚悟と決意を確認するようなものだった。北条はもっと酷い死体をたくさん見ている。だから大丈夫だ。正直な話、あのくらいなら。尊厳を全否定された死体の群れを見た後なら、特にきついと感じる事だってない。

後は、現場の保全を行い。

科捜研に引き継いで、任せる。

一度とくそうに戻る事にする。

途中で本部長に連絡を入れておく。本部長は、大きなため息をついていた。

「そうか。 昔は奴らと呼ばれていた敵組織の残党は、そんな事を行って、大規模テロに変えていたか」

「どの辺りまで掴んでいたんですか?」

「ほぼ全く掴めていなかった。 ただ、捕まえた敵組織の末端が吐いたんだよ。 そのビルで近々テロを行うとね」

テロは「大衆」に対して大々的にやるか。

もしくは金持ちに対して行うか。

そのどちらかが一番有効的だ。

軍などの大して攻撃を行う場合は、もうテロでは無くてそれはゲリラなどになる。正規兵に対しての攻撃能力を持った場合、わざわざ自爆テロなどする必要もなくなるからである。

あの犠牲者について、どうやって掴んだのかは分からない。

だがいずれにしても、怪異兵器としては充分だろう。

あのマンションでは、ブラック企業にすり潰された人の怨念が。金持ちに対して無差別に向けられた。

確かに向けられて当然の下衆もいたが。

新美のようなまともな金持ちだっていたのだ。

だが、そんな事を考えられないほどに、あの人間シチューになってしまった人は思い詰めていたのだろう。

受水槽に入っていた水は、各家庭で使われていた。

それについて、どうこうと感じる事はない。

あの命を暗い水底で絶ち、人間シチューになってしまった気の毒な人の事が、ただ考えていて辛かった。

「君達ならきっと真相を掴んでくれると信じていた。 後は此方で全て対応するから、心配しなくてよい。 レポートだけは出して欲しい」

「……分かりました」

「そういえば、今回はあの金髪の野郎は事件そのものにしゃしゃりでて来なかったな」

「ああ、彼ならマンションの管理会社にコネを使って圧を掛けてくれたよ。 多分あの管理人さんも酷い目にあう事はないだろうね」

そうか、奴も裏方に回っていたのか。

通話を切ると、溜息をつく。

誰もそれを咎める事はなかった。むしろ新美の方が辛いだろうに。意外にけろっとしている。

纐纈が電話を受けて、そして受け答えをしていた。

内容からして、同僚からだろう。

「逮捕者が更に増えそうだ。 あのマンションは、或いは廃棄されるかもしれないな」

徹底的に調べた所、色々犯罪を働いていた人間が更に増えたという。近々逮捕、だそうだ。

あのマンションには60世帯が存在していたが。

結果として、そのうちの十世帯が叩いたら埃が出て捕まることになったというわけである。

十世帯も。

何だか世紀末的なものを感じてしまう。

「新美警部補、特に身体に異常はありませんよね。 あの受水槽の水を使っていたわけですが」

「僕は水道水は使わない主義だ。 風呂などでも変な臭いなどはしていなかった。 恐らくフィルターの効能だろうが……」

「その受水槽は良くても全入れ替えだろうな」

「ああ、分かっている」

愛染にも、冷静に答える新美。

これは本格的に大丈夫そうだ。

そのまま、県警に到着。とくそうに戻る。後は、レポートを書かなければならない。それぞれ手分けして、事件の全容について確認していく。

なお科捜研が、有り難い資料をくれていた。

どうも科捜研の方ででっち上げてくれたようだが。

死体が腐敗した結果、催眠を誘発する物質が出ていたという結論になったらしく。

それで風呂でおぼれかける人が出た、と言う事らしい。

まあ実際に対外的に報告するには、それしかないだろう。

何でも使っていた服が特殊なもので、それが水に長期間浸かった結果だとか説明を行うらしい。

まあ確かにそれで何とか説明できるのなら、説明はそう片付けた方が良いだろう。

また人間シチューになってしまった人の身元は伏せ。

更には、ブラック企業によって自殺した人として発表をするそうだ。

なお自殺場所などは伏せ、あの事件との関連性は敢えて見せないようにする。

異常に手際が良いが。

多分あの金髪の王子辺りが筋書きを書いているのだろう。そう思うと、色々と腹立たしい。

だが、それでも別にいい。

それよりも、もう気付いたときには亡くなっていたとは言え。

人を救えなかったことの方が心に刺さる。

北条にはどうしようもなかったのだ。それも分かってはいるが。それでも、悲しい事は間違いなかった。

気を紛らわすために、仕事に没頭する。

大した量のレポートじゃないので、その日のうちに終わる。本命の処理は科捜研だし。更にマンションの管理会社の方は、金髪の王子が片付けてしまうだろうから、此方にはあまり関係がない。

予想通りその日のうちに作業は終わり。

定時で上がる。

新美に住居はどうするかと聞いたが、しばらくはビジネスホテルに泊まるのだそうだ。中々剛毅な話である。

本当に、生活のために働いているのではないんだなという事が分かって、色々と複雑な気分になる。

ただ、新美が刑事という仕事に命を賭けているし。

本気で尊敬している纐纈のために全力を尽くしている事も知っているので。どうこうというつもりはなかった。

仕事が終わったので切り上げる。

その途中、佐倉さんが帰路で待っていた。もう夕方。この人と一緒にいると、何か寄ってきそうである。

それを承知の上で、佐倉さんはいう。

「特に体に不調はないか?」

「ええ、大丈夫です」

「そうか。 実は北条、お前既に取り憑かれていたんだ」

「!」

佐倉さんは、淡々と言う。

別に悪霊ではなかった。

だが、自分に同情している人間に引きつけられたのだろうと。

既に祓ったが。

それでもしばらくは、精神的に影響を受けるかも知れないと。

「どうしようもない状況だったんだろ。 入れ込みすぎるなよ」

「……はい」

「今回の事件に関しては、北条、お前には責任はないんだから」

そういって、佐倉さんはひょいひょいと跳躍して消えていく。漫画に出てくる忍者みたいだが。

まああの人なら別に不思議でも何でも無い。

取り憑かれていた、か。

確かに思考が随分と自殺した人に寄っていたかも知れない。

だけれども、それが悪い事だとは思わない。

ブラック企業に心身共に陵辱されて、自殺を選んだ人を哀れまないような人間が。人間としてまともと言えるだろうか。

北条にはそうは思えなかったからだ。

警官としてはまだまだ未熟も良い所であることくらいは分かっている。

それでも、人間を捨てるつもりはない。

客観性を常に持たなければならないことだって理解している。

しかしながら、こういう所で人間性を捨ててしまったら終わりだとも、北条は思っていた。

だからこれでいい。

そう言い聞かせて、安アパートに戻る。

風呂に入って、湯船で疲れを取っていると。

まだこうすることだけで、疲れが取れることの幸せさを感じてしまう。

そもそも心身を徹底的に壊されると、睡眠や風呂くらいで疲れが取れることはないそうである。

きっと、あの自殺した人は。

そう考えると、何もかもが救えない話だった。

 

4、睡魔の理由

 

とくそうにお客さんが来た。

魔女先生である。

如月先生は実に楽しそうに、とくそうに顔を出すと、検死結果などを話してくれた。その結論は、溺死では無いと言うものだった。

「あんな状態でも、それが分かるんですね」

「科捜研の能力は高いわよ。 あのホトケさんは、死ぬ前にある薬を飲んで、それから受水槽に入ったようね」

「或いは、あの強烈な睡魔は」

「……」

新美の言葉に、にんまりと笑う如月先生。

違うのだろう。

だけれども、そう考えてくれると話が早いとでもいうのだろうか。

実際問題、金持ちの男性にだけ作用する睡眠薬なんて存在しない。それに死体があの状態だったのに、本部長から通報が来てから、ようやく睡眠効果がマンションに波及し始めたのだ。

あらゆる意味でつじつまが合わないのである。

怪異の仕業だったのだ。

そう結論せざるを得ないだろう。

「それはそうと、貴方たちが告発した例のブラック企業だけれど」

「何かあったんですか?」

「人づてに聞いたのだけれども、逮捕を免れた役員が、何人か風呂で溺死して発見されたようよ」

「……」

それって、ひょっとして。

佐倉さんが、北条にとりついていたというあの人間シチューになってしまった人を祓ったから、なのか。

いや、あの人がそんなへまをするとは考えにくい。

きっとだが。

あの受水槽に死体があった事はあまり関係無くて。

物理的な水に問題があったのではなかったのだろう。

たまたま死体に近いあのマンションにいた人達はむしろとばっちりで。

復讐のために命を絶ったあの人の怨念は。会社の社長や役員など、人間をすり潰していたクズ達にむしろ向いていたのかも知れない。

だとすれば、この結末も納得はできる。

出来るが、出来れば防ぎたかった。

「社長も発狂したらしくて。 何だか留置場で騒いでいるそうよ。 水に顔が映る、こっちを見て笑ってる、鏡から見てるって」

「如月先生、関わっていないですよね」

「まさかあ」

くつくつと如月先生は笑う。

その様子からは、それの真偽は何とも言えなかった。

いずれにしても、此処までである。

兎も角何もかも終わったと判断して、次に行く。

警察の仕事は基本的に終わる事がない。ましてやとくそうが関わる事件は、とびきり厄介なものばかりなのである。

如月先生が出ていくのを見送ると。

纐纈が呆れたように言った。

「怪物じみているが、その一方でまるで捕まえた獲物を見せに来た犬のようだな」

「纐纈さん……」

「分かっている。 下手な事を言ったら、どんな災厄が降りかかるか分からないな」

新美の慌てた様子を見て、茶化す者はいない。

仲が悪い愛染ですら茶化さない。

あの人が本物の化け物じみた存在である事なんて、此処にいる全員が知っているのである。それこそ超自然的な力を、当たり前のように駆使してもおかしくなどないのだ。

纐纈が同僚に連絡を入れて。

如月先生のいっていた事が本当であった事が分かる。だが、それらの管轄は別の部署がやるという。

あの自殺した人の怨念は、もう消え去ったのか。

それとも社長に取り憑いて、それでもう他に害は無いのか。

知る術はないが。

いずれにしても、もうとくそうが出る事はない。それは確実のようだった。

 

私の所に、連絡が来る。

金髪の王子からだった。

定時連絡を入れるように指示はしてあるのだが。まあきちんと仕事の時間は守る奴である。

よって私風祭純は、負担が多少は減って助かる。

警視総監になってから、これでも忙しいのだから。

「というわけで、多少ヒントを与えてやれば彼ら彼女らは有能だ。 特に問題も起こさず、事件も解決する。 怪異には君の手駒の佐倉君が当たっているがね」

「それでかまわん。 それで、例の件はどうなっている」

「今内偵を進めているよ。 この間の大攻勢で、組織の半分は潰したと見て良いだろうね」

「古巣でもそのものいいか」

金髪の王子は、通話の向こうで薄く笑ったようだった。

そもそも此奴は魔女の一族の出。「奴ら」を乗っ取る事には成功したが。その組織を恨んでいたことは想像に難くない。

勿論危険な男だ。

だから監視はがっつりつけているし、いざとなったら即座に爆破処分だって出来るようにしてある。

しかしながら、金髪の王子は今の時点では裏切る気配はないし。

それでいい。

利害が一致している間は、特に問題も起こさないだろう。私としては、それ以上を相手に求めなかった。

幾つかの報告を他にも受ける。

飛騨に近い場所から、問題になっているあるものが発見されたそうである。かなり危険な任務になるので、とくそうだけには任せられない。佐倉とゆうか、それに義兄に出向いて貰う予定だ。

ゆうかはゆうかで、凄まじいほどの修羅場をくぐっていて。今では武装した相手の数人くらいは生身で畳めるようになっている。

義兄も相応の自衛能力は持っているので、特に心配はしていない。

私は、動けない。

本当だったら私が出向くのが一番良いのだけれども。

私は、今やっている事で手一杯なのだ。

私は警視庁の、自分のデスクにはいない。

今いるのは、G県の山奥である。ある遺跡を精鋭と共に調査していたのだ。周囲には、昏倒したアサルトライフルで武装した、組織「FOAF」の構成員どもが転がっている。殺してはいないが。

これから死ぬより酷い目にあう事だろう。

「此方確認しました。 どうやらこの遺跡で間違いない様子です」

「全く、とんでもない代物に手を出してくれなアホ共が……」

私はぼやくと、展開している全式神を呼び寄せる。

私は怪異に対しては絶対の力を持つ。不動明王並みと、太鼓判をリアルな神に押して貰った事もあるし。本物の上級堕天使を拳で沈めたこともある。

だからこそ、私が出張らなければならないのだ。

床に描かれた魔法陣を解析して、奴らが何をしようとしているかは既に判明している。問題は、恐らく「扉が開く」事を止められないという事だ。

これら周辺の魔法陣は全て消していくが。

当然本命の「扉」については、「FOAF」が総力を挙げて来るだろう。

奴らの残党を一網打尽というような簡単な話ではない。

もしもそれが本当に実行されてしまったら。

多分G県全域が地獄になる。

これは言葉のあやではない。

文字通りの意味だ。

私は次に向かう事を告げ、此処は任せて次の遺跡に向かう。G県にはかなり古い遺跡が点在していて。それらで奴らは例外なく悪さをしていた。

今日中に全ての下準備をして。

奴らが開いてしまう扉についての被害を、最小限まで抑えなければならない。

しかもこれと同じようなものは世界中にある。

もしもこれを「兵器化」された場合の惨禍は、それこそ想像を絶するものとなるだろう。

特撮の悪の組織というものは、「徐々に戦力を削られていく」か、「一気に戦力を出して壊滅する」かの二択になる事が多いらしいが。

今回、「FOAF」は後者を選んだらしい。

日本に潜伏していた重要メンバーを、あらかた集めているようなのだから。

次の遺跡に到着。

既に来ていた小暮が、精鋭の特殊部隊と共に敬礼してくる。顎でしゃくった先には、十名を超える武装兵がいた。

行くまで仕掛けるな。そう指示は出していたが。これはどんな霊的なトラップを仕掛けているか分からないからだ。

私はすぐにそのトラップを見抜くと、強烈な一喝を浴びせて潰す。

私の得意な、面制圧である。

周囲が地震のようにドカンと揺れて。そして慌てた武装兵の元に、小暮が突貫。瞬く間に殆どのメンバーを制圧。他の連中も、残りの精鋭が沈黙させていた。

さて、此処でも作業だ。

面倒だが、仕方が無い。

これから起こる災厄の被害を減らすためだ。

私は、そのためなら幾らでも身を擲とう。

警官として。

 

(続)