白い鰐の夢

 

序、本家会議

 

ここのところ忙しくて、中々私は風祭本家に顔を出せずにいた。まあ父が実際には失踪扱いでも裏で指揮を執っているのは自明の理であるのだし。当主代行としても、私はばりばり怪異と戦っている。

式神にして本家に送った怪異は既に警官になってから百五十体を軽く超えており。

このペースは、歴代の当主よりも多いくらいである。

中には磯女やアカエイなどのかなり強力な怪異も含まれており。

要塞化している本家の護りを更に固めるのに、強力な役割を果たすことに成功もしていた。

もっとも、生半可なテロリスト程度では。

本家には、近づくことさえ出来ないのだが。

私は式神に対怪異の能力だけを与え。対人能力をオミットしているが。

実際には、殆どの能力者は怪異に対人能力や、対物理の能力を与えるのが常識である。私のはステータス全振りに近いやり方で。その極端なやり方を一種の縛りにして、逆に圧倒的な対怪異能力を私自身は獲得しているのだが。

まあ、あまり真似する者もいないハイリスクなやりかた、というわけだ。

つまりだ。

本家は、対人能力を持った怪異の巣窟であり。特殊部隊の隊員だろうが、伝説のテロリストだろうが。

風祭の敷地に踏み込めば、どうしようと探知され。一方的に見えない相手に襲われる事になる。

風祭は闇の世界でも怖れられているが。

それはヒットマンの類を送り込んでも、誰一人生還がかなわないからである。

しかも、すぐに雇い主から何から洗いざらい全部吐かされて、反撃される。どんな訓練をしていても、直接頭の中を覗くことさえ可能なのだ。どうしようもない。

更に反撃で送り込まれる怪異は、元神や、それに匹敵する力を持つ者が山ほどいるのである。

風祭と敵対して潰されたヤクザや犯罪組織は、二十世紀以降百を軽く超えており。

今では、風祭に喧嘩を売ることは絶対にするなと言うのが、裏世界の常識となってもいるのだ。

もっとも、父はそれを利用して、ヤクザ者を脅したりはしていない。

もっと強力に、有効に活用しているわけで。

私もその力を、その内引き継ぐわけだ。

本家の敷居をまたぐのは久しぶり。

何人かの使用人が傅く中、私は本家の自分の部屋に入ると。自慢のグッズが埃を被っていないか確認。

本家と言っても、実際には「母屋」に近く、多くの分家が敷地内に建っている。中にはマンションのようになっているものもある。

そういう関係で、本家はむしろ、本家の人間の住居と、集会所の要素が強く。家そのものは決して広くは無い。

ただし敷地そのものは極端に広大で。

風祭という家が、裏でどれだけの力を持っているか。敷地の面積を聞くだけでも理解できるほどだ。

一族会議の場に出ると。

既に、風祭分家の中でも。

一線級で働いている能力者達が、顔を揃えていた。年齢層は様々。中には、まだ高校生の能力者もいる。

ちなみに今日は、佐倉は参加していない。

彼女は此処に顔を出せるほど、風祭に貢献していないからだ。

ただし実力は認められているので、決してないがしろにはされていない。此処にいる面子とも、そう実力は違わないのだから。

最上座に私が座る。

白蛇王がその後ろでとぐろを巻くのを待ってから。

分家の中でナンバーワンの実力を持っている、市原の長。市原一臣が声を上げた。

「当主代行。 今日は、失踪中の当主から、連絡が届いております」

「失踪中というのも滑稽な話だな。 公然の秘密だが」

「まことに。 ただ、内容は重要でして」

「当主としての座か」

一臣が頷く。

父は婿養子で風祭に入ったが、その実力と豪腕は分家の誰をも唸らせるものだ。そして今までは、当主が空位で。実力でも対怪異能力でも風祭最強の私が代行をしていたが。そろそろ、本格的に「当主」にするつもりだという話が、流れてきていたのだ。

ただし父は、まだ奴らとの戦いから降りる気は無いだろう。

あくまで大御所に移行するだけ。

ただし、其処には大きな意味がある。

人事権が、私に移るのだ。

風祭の息が掛かった人材には、かなり優秀な対怪異能力者や。各地で活躍している一線級の技術者がいる。

これらを戦いに投入したい。

警官としても、若手の優秀な人材を、奴らとの戦いで活用したいと前から私は考えているのだが。

私が上部組織に移行して、今の編纂室の職務を若手に委譲する場合。今度は私が最前線に立つ事になる。

奴らは残虐非道だ。

今まで奴らの所行を見てきた私が、一番それを良く知っている。

風祭だって、後ろ暗いところがない家だとは言えないが。

奴らに関しては、もはやその限度を超えている。

奴らは人の歴史に存在して良い連中では無い。必ずや滅ぼさなければ、人類の発展にも、未来にも。

大きな負の影を落とすだろう。

「当首の座の重み、既に代行には充分に理解されている所かと思います。 そして我等一同、代行が当主に代わることに、不満はありません」

「そうか。 ならば、しかるべき時期に、それを受けよう」

「有難うございます。 もう一つ」

何だ、と私が聞くと。

一臣は、現実的な話をした。

「当主がもしもあり得ない事ではありますが、戦死した場合の事にございます」

「……」

「その場合は、即座に当首の座をお継ぎください」

「分かっている」

父が、死ぬ、か。

相手はこの間、原爆並みの火力を持つ怪異兵器を作り上げて、それを躊躇無く中東で使用した。

理屈が通じない連中だ。何をしてきてもおかしくは無い。それこそ、この風祭本家に、ICBMを撃ち込んでくるかも知れない。

無茶苦茶だが、それさえもやりかねない連中である。

今まで奴らの計画を幾つも潰し。

この間は、巨大洗脳プロジェクトを潰した。

各国で、それによる洗脳解除を受けた人間は、どうやら十万を超えているらしく。奴らの手駒は、一瞬にしてごっそり減ったことになる。

その実力はまだ未知数とはいえ。

流石に手駒十万の喪失と。

更には、洗練された洗脳技術の崩壊は。

奴らに、国家予算規模のダメージを与えたはずである。

事実米国では奴らに対して、FBIを中心とした戦力が猛反撃に転じているらしく、形勢が逆転したらしい。

この国でも、上部組織が、一気に攻勢に出ている様子だ。

だが。

これだけやってもなお。

それでも、まだまだ敵の戦力は巨大。

とてもではないが、気など抜ける相手では無い。父だって、必死の反撃をしてくる敵を相手にして、命をいつ落としてもおかしくないのだ。

あの魔人とも言える父が、である。

「階級は、どうなされるおつもりで」

不意に、違う方向から質問が来る。

それは、警官としての、か。

私は、前線で動きやすい階級が良い。かといって、部下が少なすぎるのも、また困る。私は。どこまでいっても拳で戦う人間だ。

そうなってくると。

部下はそれなりにいて。

しかし、部下の世話に忙殺される立場は避けたい。

「警視で当面は固定だな。 小暮やかごめには、もう少し出世して貰うつもりだが。 ただし、奴らの総統をぶっ潰してからは、一気に出世を狙う。 最終的には、警視総監になるつもりだ」

「警視総監……」

「そうだ。 この国の闇を統べるには、それくらいの地位が必要だ。 闇は必ず何処にでもある。 そして、闇を適切に管理してこなかったから、奴らのような悪逆の徒の跳梁跋扈を許してしまった。 これは度しがたい失敗で、繰り返してはならないことだ。 だから、誰かが、魔王として君臨しなければならない」

別にそういう意味では、警視総監でなくても、自衛隊のトップだとか、他の省庁のトップだとかでもいい。

日銀総裁とかでも良いだろう。

だけれど、私は警官としての仕事が、性に合っている。

それに、この国の警官は、せっかく優秀なのに、無能キャリアどもに足を引っ張られているのがもったいない。

丁度良い機会だ。

そいつらを大掃除して。

少し前線への風通しもしたい。

ノンキャリアだと、警部までしか事実上出世が出来ない。

そんな悪しき風習も。

私の力で、終わりにしたい。

実力がある奴は、どんどん出世させればいい。

むしろそうすることで。

犯罪を減らすことが出来るのなら、是非そうするべきだ。警察などの組織は、特に柔軟な運用が求められるのだから。

「ただし、風祭には分別をわきまえて貰う。 驕れる平氏は久しからずの悪例もあるからな。 私が警視総監になったからといって、平家にあらずば人に非ず、といった言動をするものが出るようならば、容赦なく粛正する」

「は……その辺りは父上と代わりませんな」

「そうだな」

私が苛烈すぎることは、自分でもよく分かっている。

だが、この苛烈さは。

あの凶悪極まりない賊である奴らと戦うには必要だ。特には法に対するグレーゾーンな行為をしてでも、奴らは狩らなければならない。

そして狩った後は。

どのような手を使ってでも。

奴らの邪悪な計画を吐かせなければならない。

どれだけの弱者が今まで奴らに泣かされてきたか。

奴らを滅しつくすまでは。

手加減は、絶対に出来ないのだ。

後は、細かい取り決めを行っておく。風祭は、この国と言わず、世界的に見ても、対怪異を専門とする一族の中では、トップクラスの実力だ。

此処での取り決めは、かなりおおきな影響を周辺に与える。

今私は、決済の権利を持っていて。

それがどれだけ大きなものかは、よく分かっている。

ハンコだけ渡されて、それを押しているような低脳とは違う。ハンコを持つということは、どういう意味があって。

そしてハンコを押すという事には。

どれだけの責任があるか。

私は分かっている。

だからこそに。奴らは許せないし。

戦う事にだって、躊躇しない。

「よし、議題は以上だな」

「はい。 見事な議題の処理でありました。 父上も喜ばれることでしょう」

「私がしっかりしていないと、お前達が好き勝手に暴れ出したりしかねないからな」

苦笑いする参加者達。

どいつもこいつもくせ者揃いの化け物どもだ。

いずれもが、生半可な軍部隊など寄せ付けない実力を持っている式神を、複数抱えている。

ただし、戦えば私の方が強い。

一方私は、近代兵器で武装した敵には強いとは言えない。

怪異と、それを操る者に対する一点特化。

私が当首代行をしていられるのも。

それを極めているからだ。

「では、解散とする」

会議が終わると、皆が此処を出て行く。

白蛇王が、懸念を口にした。

「今のメンバーの中に、敵組織に通じている者がいた場合、どうなさいます」

「消す」

「それは過激でありますな」

「それくらいは必要とされる状況だ。 もっとも、父上が手綱を握っている以上、そんな隙を見せるとは思えないがな。 で、そんな事を口にすると言うことは、何かあったのか?」

白蛇王はしばし黙り込んだ後。

この間の一件。

戦略級兵器の作動映像と。

それに、複数の、膨大な邪気をため込んだ武器の数々について、口にした。

「アレは恐らく龍脈操作によるものだと思います。 あれら武器は、権威づけで極限まで力を増幅し、龍脈を刺激して、爆発を引き起こさせたものでしょう」

「皮肉な話だな。 旧日本軍が開発していた兵器が、今更になって目を覚まし、世界に牙を剥くのだからな」

「ええ」

「そうなると、もっと積極的に、奴らへは攻勢に出るべきでしょう。 先進国でも、奴らはあの兵器を使いかねません」

腕組みする。

その通りだが。何かが引っ掛かる。

まさか白蛇王は。

龍脈操作の技術が、此処から流出した、と考えているのか。

考えにくいが、確かに一考の価値はある。

あの地下鉄のあり得ない駅にあった研究施設は、上部組織と私達で、ぶっ潰した。ただし、研究成果は持ち出された筈。

しかしながら、持ち出された研究成果は完全だったとは思えない。

何かしらのスパイスがないと、完成しないはずだ。

「お気をつけください。 貴方の実力は、歴代風祭当主の中でも、間違いなく最上層に食い込んでくるものです。 しかしながら、どんな達人でも、死ぬときは一瞬で死ぬものです」

「ああ。 それは分かっている」

自室に戻ると。

ふかふかのままなベッドで、しばらく惰眠を貪る。

ここのところあまりにも忙しかったから、それもいいだろう。数時間ほど、眠りこけた頃だろうか。

携帯が鳴った。

仕事か。

携帯を開くと、どうやら間違いない様子だった。

仮面の男からである。

「やあや、休みの所をすまないね」

「構いませんよ。 それで事件ですか」

「ああ。 どうやら、小暮くんの所轄時代の知り合いの所で、妙なことが起きているようでね」

「……なるほど。 すぐに対処しましょう」

小暮の所轄時代。

巨体とは裏腹の蚤の心臓で、散々周囲には馬鹿にされていたらしい、という話を聞いているが。

今や小暮は、その技能を生かして、同期の誰よりも出世している。

何でも出来る奴なんていない。

小暮はその類い希なる戦闘力で、幾つもの事件で大きな金星を挙げてきている。それを評価されただけ。

むしろ、小暮の欠点ばかりを馬鹿にしていた周囲の連中こそ、愚かだったのだ。これほどの人材を使いこなせなかったのだから。

着替えて、外に。

まだ陽は昇っていないが、恐らく仕事は現地合流となるだろう。

いずれにしても、面倒な事件になる可能性が高そうだ。

何しろ。

今まで、仮面の男は、滅多な事では私の休暇中に連絡を入れてきていない。スケジュールを向こうも把握している事もあるのだろう。合計で数度だけである。早い話が、それだけ急を要する、という事なのだから。

 

1、現在の姥捨て山

 

小暮とかごめは、既に現地に来ていた。多分、編纂室にいるところを、別ルートで呼び出されたのだろう。

羽黒はまだだが。

彼奴も今日は非番だった。

多分、その内来る事だろう。

軽く状況を整理。

小暮は、なんと久々に姿を見せた犬童警視から、直接連絡を貰ったという。犬童警視は、何かとの戦闘で疲れ果てている様子だったけれど。

手助けがいるかと聞いても。

余計な事をするなと、低い声で凄むばかりだったそうだ。

「犬童警視がただ者では無い事は分かっていたのですが、あれは何というか、鬼気迫る怖さがありました」

「恐らくは復讐だな」

「そうね。 あの様子だと、それが一番考えやすい」

かごめも同意見か。

私はずっと、犬童警視は何かに復讐するために、警官をしているのでは無いかと思っていた。

というのも、むしろあの人は軍人向きで。それも出撃のグリーンライトを預けられているような、特殊部隊の隊長が一番向いている。

逆に警官のような堅苦しい仕事は、苦手な様子だった。

実際今までの事件でも。

裏で動いていることは何度かあったが。表で捜査している我々とかち合う事は滅多に無かった。

文字通り、戦うためにいる。

そういう人なのである。

まあそういう意味では、小暮も同じだけれど。

戦うの意味が少し違う。

小暮のは制圧。

犬童警視のは、相手の抹殺だ。

羽黒が来た。きっちりスーツを整えているので、これで編纂室が全員で揃った事になる。ただし、余計なのも連れていたが。

手をぱたぱた振って、満面の笑みでいるのはゆうかだ。

頭を抱えたくなる。

また此奴が来たか。

という事は。何かしらの都市伝説が、既に出ている、という事だろう。

「純ちゃーん! 最近よく会うねー!」

無言のまま、佐倉が拳骨を入れるけれど。

懲りている様子は無い。

平謝りする佐倉を見て、何というか、後輩として思うところは無いのだろうか。……ないから、こういう行動を繰り返しているのだろう。

色々と度しがたい。

「で、兄者からの指示か?」

「うん。 霧崎先生によると、この辺りの下水道で、怪物が目撃されているんだって」

「下水道の怪物ね……」

確かに定番の都市伝説だ。

だが、今は直接事件には関係無い。

ただ、嫌な予感がする。

「佐倉、目を離すなよ」

「分かっています。 此奴、目を離すと、もう襲われていることが何度もあったんですから」

「だろうな……」

佐倉と組ませ始めてから、事故率は極端に減ったけれど。

それでも危なっかしいことに代わりは無い。

とりあえず、一旦別れて、まずは小暮の所轄時代に世話になった人物とやらに話を聞きに行く。

近くには、護岸工事された川。

大きな下水道が見える。

あの中に入るのは、あまり良い気分では無いだろう。

長靴を買っておく必要があるかも知れない。

歩きながら、マンションを目指す。

この辺りは、老人介護機能のついたマンションになっていて。そこそこ裕福な人間が、老後墓に入るまでを過ごす場所だ。

周辺には病院や娯楽施設も多いが。

子供が喜びそうな娯楽施設は殆ど無く。

一通りのものは揃いそうではあるが。

その一方で、何とも言えない閉塞感があった。

「それで、世話になった人物、というのは」

「近藤嶺二という元警官なのであります。 巡査長で引退なさいましたが、色々と警察と捜査のイロハを教えていただいたのであります。 今はこの辺りの、自治会長をしているとか」

「ふむ。 ならば話は早そうだ」

呆けていなければ、警察関係者と話せるのは色々と大きい。

この間の事件の事もある。

怪異の気配は今の時点ではないが。

それでも、油断は禁物である。

「時に、先ほどの話ですが……」

「地下下水道の怪物か?」

「はい。 有名な話なのですか」

「むしろアメリカでな」

かごめが咳払い。

私はまあ良いだろうかと思って、軽く説明をする。

地下下水道に、化け物のような巨大鰐が住み着いている。そういう話が、アメリカで都市伝説として流れた事がある。そしてこれを題材にした映画まで実際に作られている。陽の光を浴びずに育った鰐は、迷い込んだペットやホームレスを喰らって、とんでもなく巨大な化け物に成長した、というのだ。

そしてこの都市伝説は。

ある意味嘘では無かった。

実際にある場所で、地下下水道に住み着いていた、遺棄ペットである鰐が発見されているのである。

サイズは三メートルほどと、鰐としては小ぶりだったが。

ある意味都市伝説が現実になった瞬間だとも言えるだろう。

また、アメリカでは。

地下下水道にて誕生した、亀の忍者達が活躍するカートゥーンが流行したこともあって、子供達が亀を地下下水道に放すという問題が発生した事もある。

これも、完全に無関係とは言えないだろう。

なるほどと頷いている小暮。

羽黒が、話を聞きながら、童顔に笑みを浮かべた。

「地下下水道は、広くて何があるか分からない場所ですからね。 都市伝説の題材にはなりやすそうですね」

「そうだな。 ただ、余程の腐敗と汚染に耐える力がないと、あっという間に体を壊して死ぬだろうがな」

「それはそうですが」

「鰐は全ての生物の中でも、屈指の免疫能力の持ち主だ。 それでも、地下下水道で生きていくのは大変だっただろう」

話をしている内に、近藤という人物の部屋に到着。

ドアをノックすると。

厳しそうな表情の老人が出てきたが。

私が警官で。

この辺りで起きている事について聞きに来たと説明をし、小暮が顔を見せると。ぐっと表情が柔らかくなった。

「おや、宗一郎じゃないか。 相変わらず蚤の心臓か?」

「申し訳ありません。 怪異に対しては、どうにも」

「まあ仕方が無い。 お前は肉弾戦闘力だけで言えば、多分日本の警官で最強だろうし、それくらいの欠点はしようがないさ」

からからと笑う近藤。

なるほど、この人柄なら、小暮を認めることも出来たのだろう。

日本の悪しき風習の一つは、とにかく相手の欠点を探して、減点法で判断する事。それでいながら。ビジネスコミュニケーション能力と称した、相手に媚を売る能力だけはその例外とすることだが。

この近藤という人物は。

そういった愚かしい風習の枠外から小暮を判断し。

その価値を見いだしてくれていたのだろう。

それは小暮が感謝するのもよく分かる。

私だって、小暮の立場だったら、感謝していただろうし。恩師として、名前を必ず挙げたはずだ。

私の場合、多分佐々木警視がそのポジションになったのだろうけれど。

あの人はとうとう、地位が並ぼうとしている私とは、どうしても折り合いが悪いままだ。

捜査一課にいたとしても、折り合いが良くなれたとは思えない。

色々と、人間関係は難しいものである。

小暮が、皆を紹介していく。

流石に近藤氏も、私とかごめの階級を聞いて驚くかと思ったが。なんと、知っているようだった。

「引退したが、これでも昔の仲間から情報は入ってくるからなあ。 聞いているよ。 疾風迅雷の二つ名で知られているそうじゃ無いか。 正体不明の部署、編纂室とかいうのが、彼方此方の未解決事件を、紙くずでも引きちぎるように解決していくとか」

「恐縮です」

「宗一郎を使いこなしてくれてありがとう。 他の部署だったら、此奴は蚤の心臓を馬鹿にされ続けて、ずっと碌な扱いを受けなかっただろう。 警部補にまでなれて、こんどは警部に昇進する事まで決まっているって? 本当に良い先輩に恵まれて良かったなあ、宗一郎」

「本当に」

まあ、立ち話も何だ。

中に入れて貰う。

せかせかと動く羽黒が、茶を淹れる。

近藤は流石に体にガタが来ているようだし、一番下っ端の自分がやる、というのだけれども。

羽黒の手つきは中々のもので。

出てくる茶は、殆ど完璧に仕上がっていた。

「こんな安い茶葉でも、此処まで美味い茶になるもんだなあ」

「あ、おほん。 それでは、そろそろ本題に」

かごめが促すと。

空気が変わった。

この辺りは、流石に元警官か。

「どうやらこの近くの下水道に、何か住み着いている様子でな」

「何か? 具体的にお願いします」

「分かっていたらそうしているさ。 ただな、昔は下水道に住み着いていただけだったのが、最近はどうも外に出てきて暴れているらしくてな……」

最近は、怪事件も良く起きていると言う。

女性が夜道で、得体が知れないものに襲われたり。

近くの理髪店で、捨てようとしていた髪が、ごっそりなくなったりしていたり、という事件が起きているそうだ。

かごめが、伊達眼鏡をあげる。

「浮浪者や変質者が潜んでいる可能性は」

「その辺も含めて捜査を頼みたい。 今の時点で死者は出ていないが、このままだと何が起きても不思議では無いからな」

「……近辺に気になる住人は」

「そうさな。 変わり者や偏屈者、それにわしが怪しいと思う奴なら……」

何人か、名前を挙げて貰う。

一人は、民生委員をしている堂本咲枝。

民生委員と言えば聞こえは良いが。

ボケ始めた老人に対して、様々な虐待を行い。あまつさえマルチ商法を押しつけている疑いがあるという。

何度か警察に訴えているそうだが。

警察の方で動く様子が無く。

色々と業を煮やしているとか。

「あれはひどい女だ。 勿論民生委員の全員があんなのではないことは分かっているが、それにしてもひどすぎる」

「分かりました、調査しましょう。 他には」

「この近くに住んでいる等々力定弘だな」

「どのような人物ですか」

 にやりと、近藤は笑う。

そして、とんでも無い事を言うのだった。

「戦争の生き残りだよ」

おっと。

そうなると既に九十くらいか。しかもこの等々力、どうやら戦争時は、軍属は軍属でも、兵隊として前線に行っていた訳では無いらしい。

更に、である。

あくまで噂であるが、今までに何人もが失踪しているというという話があると、近藤は聞かせてくれた。

ただし、私がさっと調べるが。

この近辺で、誘拐や失踪の連絡はない。

近藤は頷く。

「これについては、あくまで噂の範疇だな。 わしも正確なところは確認できてはいないなあ」

「分かりました。 他に気になる所は」

「どうにも嫌な予感がしてならん。 得体が知れない動物の鳴き声が夜に聞こえることがあってな。 野犬でもないし猫でもない。 そればかりか、野良猫が時々、夜中に悲鳴を上げて、それっきり、ということが結構ある」

「なるほど……」

まあ、仮面の男の連絡だ。

それも大急ぎ。

となると、何かろくでもない事が起きている可能性は高そうだ。

一旦礼をして、近藤宅を後にする。

此処からは、二手に分かれるべきだろう。

「かごめ、二手に分かれよう」

「そうね。 私は羽黒を連れて、まずは等々力という人物の所を確認しにいくわ」

「頼むぞ。 私は小暮と一緒に下水道周辺を調べて見る」

「ええ。 お願いね」

まずはかごめが、周辺の人間を調査。

そして私は、都市伝説の原因となっている場所を調べる。

これが時間短縮にも丁度良い。

戦力的にも、かごめがいれば不足は無いだろう。それこそ武装した特殊部隊にでも襲われない限りは、充分に撃退できる。羽黒もあれで、小暮が言う所によると、そこそこに出来るそうだ。

力はあまりない様子だが。

合気道に関しては、結構な腕前だそうである。

「流石に先輩にはかなわないと思いますが、暴漢を取り押さえるくらいなら、充分な腕前だと保証するのであります」

「それは頼もしいことだ」

さて、下水だ。

両岸を護岸工事されている小さな川。

流れている水の中には、あまり綺麗とは言えないながらも、魚が時々散見される。汚染に強い鯉が多いようだ。

茂みの中から、水の中に泳ぎだしたのは青大将だ。

無毒ながら、日本で最も大きくなる蛇の一種である。

あれがいるということは。

茂みの中には、それなりに豊かな生態系がある、という事だろう。

川の周囲には、歩けるように整備されている場所もある。

リラクゼーション効果、と言う奴だろうか。

下水道にも、いけるようにはなっていた。

早速、手札から、式神を放つ。

今回は、本家に行っていた、ということもある。

白蛇王を一として、主力は全部持ってきている。何があってもおかしくないので、必要な処置だ。

「うわー、汚そう」

早速、大きな下水道管があるのを見て、ニセバートリーが露骨に嫌そうな声を上げるけれど。

私が咳払いすると、青ざめる。

お仕置きは未だに怖いのだろう。

「分かったわよ、行く! もう……」

「気を付けろ。 何がいるか分からんからな」

式神達に注意を促し。

途中のコンビニで買っておいた長靴に履き替える。

ピンクの長靴だが。

それでも実用性は、既に途中で確認してあるので平気だ。

小暮に懐中電灯は任せる。

そして、怪異に周囲を警戒させながら、下水道に入った。

下水道と言っても、完全に丸いわけでは無い。両脇には、整備用の路が作られていて。汚水は間を通っている。

だが、それにしても。

ひどい臭いだなと言う感想しか出てこない。

そして、歩いている内に。

あまり歩きもしないのに。

既に違和感が、強烈に頭の中で点滅し始めていた。何だこれは。全体的に、妙だ。

黙り込んだ私を見て、小暮は既に背筋を伸ばしていた。

「先輩、何か違和感が」

「見ろ」

食い荒らされた死体。

それもまだ新しい。

死体といっても、当然人間では無い。この辺りでも無秩序に繁殖しているアライグマらしきものの残骸だ。

アライグマは、見かけと裏腹に非常に獰猛な性質をしていて、特に大人になるとその凶暴性は目に余る。

有名なアニメでも、アライグマを最終的には森に返すのだが。

これは凶暴になりすぎて、面倒を見きれなくなった、という理由からである。

なお、アメリカでは、アライグマは狂犬病のキャリアになっている事も多く。そして狂犬病は人間にも感染する上、発症してしまうとまず助からない。

それを考えると、アライグマには絶対に触ってはいけない。

勿論飼うのも、素人は絶対に止めるべきだろう。

「アライグマは獰猛でな。 猫や野犬程度にやられる相手では無い。 それも見ろ。 血痕を見る限り、外で襲って、中に引きずり込んでいる。 抵抗するアライグマをものともせずに、此処で引き裂いて喰らったんだな」

「恐ろしいでありますな」

「そうだな……」

少なくともアライグマより大きい動物という事になる。

ちなみに、家猫のサイズについて、どうしてあの大きさが採用されているのか、小暮に聞いてみる。

知らないと答えたので、返事。

「人間を殺せるからだよ」

「えっ……」

「単純な身体能力で言うと、人間はあらゆる動物の中でビリといって良いレベルで低くてな。 逆に猫を代表とする食肉目は、非常に戦闘力が高い。 特に猫科の動物は、倍くらいのサイズの犬だったら、その気になれば倒す事も可能だ」

飼い猫のサイズは。

人間に害をなせないギリギリの大きさ。

あれ以上大きい猫科になると。

子供くらいだったら、簡単に襲って殺す事が可能なのだ。

これについては、他の動物についても、似たような事が言える。

「アライグマは野生化している場合かなり俊敏だ。 それをあっさり捕らえて、引きずり込んでいるという事は、相当に強い動物だ。 保健所に頼んで駆除をするか、それとも……」

その時、奧から。

真っ青になったニセバートリーが飛び出してきた。

私の後ろに逃げ込むと、がたがた震えて、奧を指さすばかり。

何かいたと見て良いだろう。

にしても、此奴も怪異だろうに。

「どうした」

「ば、ば、ばばば、化け物! 顔だけ人間だった!」

「!」

一度撤退。

小暮に促して、すぐに下水道を出る。

ゆうか達にも、気を付けるように促す必要があるだろう。下水道周辺を縄張りにしているとなると。

相手は非常に厄介だ。

 

2、得体知れぬもの

 

差し迫って、最大の危険があるのはゆうかだ。怪異ホイホイという性質もあるけれど。放っておくと何処にでも突っ込むし、それで今まで何度も死にかけている。それなのに懲りない。

だから危険なのだ。

故に、最初に私は、ゆうかに電話。

「地下下水道に何かいる。 絶対に中に入るなよ」

「えっ、本当にいるの」

「中でアライグマが惨殺されているのを確認した。 最低でも野犬じゃあない。 大型犬でも、野犬化したとしても彼処まで鮮やかには殺せない。 お前、殺す気で向かってきたドーベルマンやハスキーとやりあって、生き残る自信はあるか?」

流石に青ざめたのか。

ゆうかも、わかったと答える。

佐倉にも電話を替わらせて、ゆうかを見張るように指示。

「其処まで風祭さんがいうとなると、本当に危ない相手ですね」

「ああ。 しかも、下水道の外を出て徘徊している可能性が高い。 絶対に油断するんじゃ無いぞ」

「分かりました。 オオイヌガミと一緒に警戒します」

「ん」

電話を切る。

とりあえず、これでまずは大丈夫か。

公園があったので、まずは長靴を洗う。少し水に入ったのだが、それだけでも非常に臭い。

「鰐でしょうか」

「違うな。 鰐は待ち伏せ型で、いわゆる徘徊型じゃあない。 鰐だったら、あんな風に獲物を引きずり込まないし。 何より、アライグマくらいだったら丸ごとぱくりだ。 食いちぎったりしない」

正確には食いちぎる行動はする。

水中で回転して獲物の肉を千切るデスロールという行動は有名だし。

某所の動物園では、檻の中にノコノコ入ってきた馬鹿な野犬の上半身を咥え、スナップをきかせて振り回した結果、上半身と下半身が泣き別れになって吹っ飛んだ、という事件も起きている。

だが、それにしても狭い下水道の中だ。

獲物はそれこそ、綺麗に片付けるだろう。

鰐では無い。

それは今の時点で、結論できる。

かごめと近くのファミレスと合流。

話を合わせる。

「地下下水道に何かいるのは確実と」

「それも危険度で言うと大型犬以上の奴だ。 非常に危険な動物だと判断するべきだろうな」

「そう。 此方も収穫があったわ」

かごめが、羽黒に促す。

頷くと、羽黒が手帳を拡げて、見せてきた。

まずは民生委員の堂本。

この女は近藤の話通り非常に評判が悪く、他の老人達への聞き込みでも、良い話は一切出なかったという。

実際、マルチ商法に手を出しているらしく。

老人達の家族が、訴訟を起こしたことまであるそうだ。

どういうコネを使ったのか、うまく逃げ延びたそうだが。そんな輩を良く未だに民生委員にしているものだ。

ちなみに、丁度来ていたので、話をしてきたそうだが。

かごめに徹底的にたたきのめされて、泣きながら逃げていったそうである。あの様子だと、この団地の老人達を食い物にしているのは確実だろうと、かごめは吐き捨てた。

「帰り次第逮捕してやるわ。 それだけの条件は十分に揃ったしね」

「まあ、世の中からダニが一匹消えるのは良い事だ。 それで他の情報は」

「等々力という老人ですが、どうにも怪しいです」

「詳しく」

羽黒が説明するところに寄ると。

どうも一人暮らしをしているらしい等々力という老人なのだけれども。奥の方に、妙な気配があるという。

正確には、臭い。

獣臭というべきだろうか。

眉をひそめる。此処は確か、ペットは良いとしても。あまり大型のは許可されていないはずだが。

「ふむ、臭うな」

「一度踏み込みましょうか」

「もう少し情報が欲しいな。 地下下水道の方でも、妙な生物が目撃されているようだし、今回の件、予想より危ないかも知れん」

「そうね。 もう少し人員を出せれば良いのだけれど」

残念ながら。

規模拡張は、もう少し先だ。

手が足りない中、この面子でやっていくしかないのが辛いところだが。まあそれは、仕方が無い。

咳払いすると、次の段取りについて決める。

「地下下水道の方は、私が縄張りに踏み込んだことに気付いている筈だ。 ただ、動物かどうかは正直分からない」

「まあそれが何かは敢えて聞かないわ。 それと、もう一つ、気になる話を入手してね」

「?」

「髪切り魔が出るって話よ。 一種の通り魔なのだけれど、女性の髪の毛を切り取って逃げていくとか」

そんな変質者までいるのか。

まあこの辺りは。老人ばかりで、あまり強い者がいない。悪辣な輩は、弱者に目をつけて、搾取を繰り返すものだ。

そう考えると、この辺りは。

絶好の稼ぎ場所なのかも知れない。

だが、それは警察としては看過できない。

何より仮面の男の依頼だ。藪をつつけば大蛇が出る可能性も高い。それが本当にただの変態なら良いのだが。

近藤の話とも一致する。そうなると、夜道で誰かを襲っているのは、その髪切り魔の可能性も高い。ただあの猛獣らしきものが、いつまでも大人しくしているとも思えない。

「まずは等々力だな。 重点的に洗ってみるか」

「では、明日は貴方も此方に来る?」

「……そうだな」

ざっと全体を把握したところでは、どうにもこの等々力という老人が妙だ。戦争の生き残りというのは、大変な思いをしただろうし、偏屈な性格になるのも仕方が無い。ただ、実戦経験者でも、まともな老人は幾らでもいるし。等々力という老人には、怪しい要素が揃いすぎている。

少し考え込んだ後。

わたしは決める。

「羽黒、この近辺での行方不明事件について、もう少し洗ってくれるか。 小暮もだ」

「分かりました。 二人で探ってみます」

「私は単独で、下水道の方をもう少し探ってみる。 かごめ、お前はどうする」

「等々力を調べて見るわ」

頷く。

さっと全員で分担して、行動開始。

チームとしてまとまっているから、分担しての行動も早い。かごめがすぐにPCに向かったのを確認すると。

私は、猿王を呼び出した。

「何用でありますか」

「下水の方を調べろ。 何だか嫌な予感がする。 何かいても、無理な交戦はするな」

「了解」

「それと」

児雷也も呼び出す。

此奴は等々力だ。

「等々力とやらを観察しろ。 家の中に入り込んで、ざっと間取りも調べておけ」

「委細承知」

「お前もだ」

「えー! 人使い荒いわよ!」

ニセバートリーも出すのは、此奴の勘の鋭さを信頼してのことだ。まあ式神使いは荒いかも知れないが。

此奴は、自分が犯した罪の意識があるのか。

口を尖らせて文句を言いはしたが。

すぐに従って、動き出す。

さてと。

私自身は、夕方の水辺へ。この時間くらいから、夜行性の動物が動き出す。今の時点で殺人事件や誘拐は明確になっていない。

だが、もしも大型の肉食獣などがあの下水道に隠れていた場合。正直面倒だ。

ゆうかが手を振って此方に来る。

佐倉もいる。

もしも大型獣が出てきた場合を想定して、対物理戦闘をこなせるオオイヌガミが欲しいと思ったから呼んだのだ。

それに、ゆうかの場合、側で見ていた方が良い。

苦手なのは、この際我慢する。

「純ちゃん、さっきの話だと、何か凄いのが隠れてそうなんだよね!?」

「食い荒らし方からして、少なくとも人間大。 下手をすると大型犬か、それ以上の戦闘力を持つ動物か、或いはそれに類する何者かだ。 何か非常に嫌な予感がするから、絶対に一人で動くなよ」

「はーい」

「おい……」

ゆうかの好奇心でらんらんと輝いている目を見て、佐倉が釘を刺すが。まあこれは想定内なのでいい。

川辺で、しばし周囲を観察する。

白蛇王が、首を伸ばして、じっと一点を見ているが。何かみつけたのか。

「どうした」

「気のせいでしょうか。 怪異の気配が残っているような気がします」

「うーむ、私にも感じないのだが」

「勘です」

まあ、此奴は怪異としての年期も違う。私も相当に鍛えている自信があるのだが、動物にしか分からない事があるのかも知れない。

マーキングや、糞は無いか。

下水道入り口周辺にそれらが無いか調べた後は。少し周囲を丁寧に観察していく。

人間に対する警戒心が強く、痕跡を残さないタイプの動物なのか。それとも、純粋な怪異なのか。

ニセバートリーが吃驚するくらい気味の悪い姿をしていたようだし。

怪異の可能性も高い。

ゆうかが写真を撮っている。雰囲気があると言って、きゃっきゃっと喜んでいるが。此奴、自分が怪異ホイホイだと忘れていないだろうか。

佐倉はずっと気を張って周囲を見張っているが。これは通り魔がいるかも知れない、と告げてあるからだ。

陽が落ちた。

そろそろ引き上げるか。今回は緊急性も高くない。

ゆうかに声を掛けようとした瞬間。

その影が動く。

同時に、私も動いていた。佐倉も一瞬遅れて動く。

佐倉が退路を塞ぎ。私が動きが止まったそいつに躍りかかる。

背負い投げ、一閃。

どんと、音を立てて道路に叩き付けたそいつは、手に鋏を持った、まだ若い男だった。

ゆうかが、呆然とへたり込んでいる。

髪を一部、斬られていた。

殺気が無かったので、対応が遅れた。佐倉が駆け寄ってきて。手錠を取り出す私の下で暴れているそいつを見ながら、携帯を取り出した。

「どうやら例の髪切り魔のようっす。 来て貰えますか」

「流石の引きだな。 まあいい。 暴行障害の容疑で確保」

「ち、畜生っ!」

コンクリの地面に、まさかの綺麗な背負い投げで叩き付けられるとは、思ってもみなかったのだろう。

打撃系中心の私の戦闘スタイルだけれど、別にその気になれば投げ技だって出来る。

普段使わないのは、単純に殴るのが好き……ゲフンゲフン、まあとにかく制圧するには、これが一番である。

まして此奴はただの人間。

怪異の気配もない。

すぐに、羽黒と小暮が来る。空には星も見え始めていた。

佐倉がゆうかのことを心配して声を掛けたが。

それより先に、オオイヌガミが言う。

「血の臭いはありません。 怪我はしていないようです」

「まあそうなんだけどな。 女にとって、髪を切られるってのは、スゲエショックなことなんだよ」

「それは分かっておりますが。 今は体の安全が優先でしょう」

「そうだけどな」

佐倉が苦虫を噛み潰しながら、乙女心をあまり理解していないオオイヌガミに言う。

私はと言うと、此奴が若い男で。そして、髪切り魔の特徴と一致していることを確認。現行犯だから、言い逃れも出来ない。

羽黒がパトカーを呼ぶ。

その間。軽く尋問しておく。案の定と言うべきか、此奴はこの辺に住んでいるタダのアホで。

髪フェチが高じて、理髪店までやっているという筋金入りのアホだった。

まあこんなアホはどうでもいい。

このアホが誤認されて、地下下水道の怪物が生まれたという都市伝説の可能性を潰せただけでもよしとするべきか。

パトカーが来て、羽黒が付き添って男を連れて行く。

嘆息すると、私は最近意識して延ばしている髪を掻き上げていた。

あんまり綺麗な髪ではないし、癖っ毛だから、ちょっと油断するとすぐに大爆発するのだが。

「これでまず一つは片付いたな。 ゆうか、無事か」

「あの男、写真公開していい?」

「ダメ」

「ひどい! 髪まで切られたのに!」

めそめそ泣き真似をしてみせるゆうかだが、小暮ならともかく、同性の私相手に通じるかそんなアホ演技。

とにかく、今日は帰らせる。

佐倉に付き添わせて、もう無理に戻させると。小暮に軽く聞いておく。

「で、成果は?」

「行方不明事件は起きていませんね。 失踪事件はありますが、どれも事件性がないものばかりです」

「……そうか。 兎に角、まだ死者が出ていないと言うことが分かればそれで良い。 少しは時間の猶予も出来る」

この国で失踪というのは、単純に居場所が分からなくなるケースも指す。だから事件性がない場合が大半だ。

いずれにしても、引っ越していった後行方が分からなくなったケースばかりのようなので、問題にはしなくても良いだろう。

近くにビジネスホテルを取ってある。

今回は、其処を拠点にして調査を進めるつもりだ。

「かごめはどうしている」

「等々力という男ですが、かごめ警部の話によると、数年前までは畜産系の獣医師をしていたようです。 ただ気むずかしいという事で、農家での評判はあまり芳しくなかったようですが」

「畜産の獣医師は貴重なのにな。 まあ老後引退して此処で過ごしている、と言う所なのだろうな」

あくまで表向きは。

どうも等々力という男は妙だ。

かごめから連絡が来る。

それを気に、今日の捜査は切り上げる。

電光石火で、その日のうちに捜査を終えてしまうことも多い編纂室だけれども。まだ死者が出ておらず。

今後もその可能性が決して高くないのなら。

慎重に捜査をした方が良いだろう。

かごめが戻ってくる前に、児雷也とニセバートリーを戻す。猿王は、もしも例の何か良く分からない動物が現れたときに備えて、下水道に貼り付け。

児雷也とニセバートリーに話を聞くと、やはり妙なことが分かった。

「家に結界が張られていました。 拙者が解除しましたが、どうにも堅固でして、苦労しました」

「ただの畜産医ではないということだな」

「恐らくは。 家の奥には大きな檻があって、恐らくは其処に何かを入れていたのだと思われます」

「それと、泥だらけの長靴があったわよ。 乾いてたけど」

泥だらけの長靴。

まさか。

かごめが戻ってきた。芳しくない様子で、難しい顔をしている。後は、小暮の軽で、一旦近くのビジネスホテルに移動。

アホを引き渡してきた羽黒と合流。

ホテルのロビーで、軽く明日の打ち合わせをすると。もう今日は休むことにする。

嫌な予感が消えない。

何かあったときのために、猿王の所に伝令役の式神を何体か廻しておく。何かあれば、そいつらが知らせに来るはずだが。

最悪の場合、深夜に叩き起こされることも想定しておくべきだろう。

今回は、四部屋取ってあるので、それぞれ別々。これで、個人的にも動きやすくて良い。

九時少し前に佐倉から連絡。

ゆうかを家まで送り届けたそうだ。

兄者にそのタイミングで連絡を入れる。

面倒くさそうに、兄者は電話に出た。案の場だけれども、兄者の方でも、今回の件については、少し調べていた様子だ。それを聞いておきたい。

軽く話した後。私は切り出す。

「ひょっとして今回、人面犬が出るとか噂になっていないか」

「よく分かったな。 ひょっとしてもう遭遇したのか」

「やはりそうか……」

ニセバートリーは、少なくとも人面の何かを見た、という事だ。人面を持つ大型の怪異は何種類かいるが、危険な者が多い。ただ、人面犬は例外だ。妖怪としては危険なタイプが多いので、その辺りは微妙だが。

人面犬は、さほど危険な噂が無いけれど。

都市伝説としては比較的新しい上、どんな能力が付加されているか分からないのが問題だ。

兄者に一通り話を聞いておく。

「知っていると思うが、人面犬は小型犬や中型犬として都市伝説に登場する事が多いんだがな。 今お前が調べている近辺の奴は、大型犬として話題が上がっている。 大型犬となると、殺傷力も備えているとみるべきだろう」

「それで、佐倉の護衛込みを想定して、ゆうかを寄越したと」

「あの子は有能だな。 ゆうかの護衛を任せられる」

まあ、そこまで考えているのなら良いか。

実際今回も、殺気がなかったから髪を切られただけで。ゆうかを殺そうと近づいていたら、あのアホを一瞬で取り押さえていただろう。まあ私もいたから、佐倉が取り押さえる前に、アホの股間を蹴り潰していただろうが。

にしても、人面犬か。

人面犬は、比較的メジャーな都市伝説で、一説にはラジオのリスナーが冗談半分に広め始めたとも、或いはある映画で登場したインパクトのある姿が都市伝説化したとも言われている。まあいずれにしても、爆発的に広まった都市伝説だ。

東大の研究施設から逃げ出したとか、人間の怨念が犬に乗り移ったとか、色々な逸話があるが。

口裂け女のように殺傷力が高い逸話が追加されていった様子も無く。

ただ漫然と拡がって。

いつの間にか、噂は下火になって行った、特に危険性の大きくない怪異だ。実際問題、尾ひれや背びれがついて明後日の方向にブッ飛んでいく傾向の強い都市伝説怪異としては、極めて例外的に大人しいとも言える。まあ気味が悪いと言えば気味が悪いのだけれども。

内容的にも、人間の顔をした犬に出会った、というものが大半。人間の言葉を話したとか、中には噛みつかれると人面犬になる、とかいうのもあったが。いずれにしても、殆ど殺傷力も無かったので、専門家に処理されることも殆ど無かった。私もそういうことで、遭遇した事は何度かあるが、ブッ殺したもとい浄化したことはあまりない。

「それで、兄者。 どう分析する」

「大型犬というのが気になる。 何か人間の顔をした危険な動物か、或いは変質者かもしれないな」

「変質者は既に捕まえたが、そのケースは想定しなくても良いと思う。 地下下水道で食い殺されたばかりのアライグマの死体を発見した。 最低でも、大型犬並みの戦闘力と食欲を備えていると見て良い」

「そうなると変質者の線は捨てて良さそうだな。 気を付けろ。 お前が怪異に遅れを取ることは無いと理解しているが、相手が猛獣だとそうも行かないだろう」

確かにその通りだ。

他に幾つか確認したいこともあったので、軽く話した後、電話を切る。

兄者はやはり頼りになるが。

しかし、ここからが問題だ。

状況証拠からして、どうも等々力が地下下水道に出入りしていること。今回の何か得体が知れないものの飼い主だった可能性は高い。

だが、アパートの中に檻があったという事は。

それはどうして逃げた。

或いは、逃げたのでは無くて、敢えて地下下水道に離したのか。

いずれにしても、明日。

直撃してみるのが良いだろう。

もしも大型犬並みの戦闘力を持つ動物が、人間を襲いはじめると、取り返しがつかない事になる。

殺傷力もそうだが、不衛生な地下下水道で暮らしているとなると、噛まれただけでどんな病気になるか分からないからだ。

さて、どうするか。

少し考えた後。

私は、かごめの部屋の戸を叩く。

話を、しておく必要があると判断したからだ。

決戦は明日。

早い内に勝負を付けないと。恐らく、死者が出る。

 

3、影の成果

 

翌日。

猿王から、地下下水道では何も出ていないと報告を受けた後。等々力の家に出向く。勿論四人で、である。

等々力は、昨日かごめが来たことで警戒していたのか。扉も開けなかったが。

私が切りだした言葉に、完全に黙り込んだ。

「少し調べさせて貰いましたが、貴方、部屋を改造して大きな檻を持ち込んでいますね、等々力さん」

「……」

「ついでに、貴方が水辺で下水道の辺りをうろついているのを何人かが目撃しています」

「だ、誰がそんな事を!」

動揺が露骨に声に出る。

まあ実戦を経験していても、図星を突かれると誰だって動揺する。この老人も、例外では無かった、という事だ。

「扉を開けなさい。 下水道近辺で、大型の獣と、それによって食い荒らされたらしい動物の死骸が発見されています。 しかも、貴方がそれに関与している可能性が極めて高いと警察は判断しました。 聴取に応じないなら、令状を取るだけです。 害獣は当然射殺処分になるでしょうね」

「ま、待ってくれ!」

「待ちませんよ。 それでは小暮、礼状を取る準備を」

「分かった、開ける! 開けるから!」

まあ、こんなものか。

ドアを開けるいかにも偏屈そうな老人。九十近いだろうわりには、意外に頑健そうな姿をしている。

そして、確かに獣の臭いらしきもの。

泥のついた長靴も確認。

ただ、泥は乾ききっている。昨日警察(私と小暮)が動いているのを窓から見て確認していたのもあるのだろう。まあ、かごめが話を聞きに来て、身動き取れなかった、というのもあるのかも知れない。

「それで、何を隠していたんですか。 このマンションは、そもそも大型動物をペットに飼うことは禁止されていたはずですが」

「そ、それは」

「大型犬ですか? この辺りで、犬のような奇怪な大型動物の目撃例が出ているんですが」

「違う……」

等々力が俯く。

悔しそうに、口を震わせるその様子は。明らかに、事件に関与している事を示していた。だからこそ。

警官として、見過ごせない。

「大型犬並みの猛獣が暴れたら、簡単に人は死にます。 大型犬の戦闘力は、貴方も知っている筈だ。 現に昨日、私は食い殺されたアライグマの死体を見ています。 貴方も元畜産医なら、その意味は分かりますよね?」

「……」

「被害を出す前に、私は皆が幸せになる解決をしたい。 話をして貰えますか」

「どうせ……信じないだろう」

かごめが眼鏡を直す。

私は小暮を促して、ドアを固定させた。更に、羽黒が玄関に入ると、等々力を連れ出す。外で話を聞くためだ。

ちなみに、頑健といってもこの年。逃げられる可能性はない。

部屋に結界を施していたのは気になるが。家の中を確認した所、怪異の気配はない。気配を浄化できるだけの実力があるのか、それとも。

外に連れ出し。下水道の側で、話をさせる。

ちなみに、私は人見に連絡して。猟銃を確保していた。いわゆるベアバスター。クマでも撃ち殺せる大型の銃である。かごめに持って貰う事になる。銃の扱いは、かごめが一番慣れているからだ。

「あれは、もう手に負えない。 私の手からは餌を食べるが、それも最近は暴れる事が増えてきていた。 牢も壊しかねない様子だったから、やむを得ず下水道に移したんだ」

「で、その動物は」

「まさか、まだ生きているとは思わなかったんだ。 戦時中、軍が研究していた、知能を特別に強化した戦闘犬だよ。 純血のではなくて、かなり交配が進んで、犬に近くはなっていたが……」

なんと。これはまた、とんでもない話が出てきたものだ。

続きを促す。

少し躊躇いながらも、等々力は話し始めた。

二次大戦中、等々力は畜産医の卵として、軍に招聘された。生物兵器を作るため、である。

畜産医でも、国の勝利のために貢献しろ。

それが軍の命令であったらしい。

そして当時は、それに逆らう事が出来る状況では無かった。まあ当然だろう。

研究は、いわゆるオカルトの要素も含んでいて。

得体の知れない実験が行われ。

訳が分からない呪いを、何度も等々力は見たという。いわゆる科学的に作り出された生物兵器ではなく。

怪異を利用して、犬を改造した、というべきものなのだろう。

「そうして作り出されたのは、大型犬と人間を混ぜたような、世にも奇怪な生物で、知能も高く、人間の言葉を話すことも出来た」

「正気?」

「本当だ。 そもそも都市伝説で、人面犬の噂があっただろう。 あれは国が確保していた一部が逃げ出して、それが目撃されて広まったものだ。 まだ私は当時のコネで仕事をしていて、話を聞かされた。 すぐに逃げ出した個体は処理されたそうだがな」

口惜しそうに言う等々力。

戦争が終わった後も、研究は続けられていたそうだ。

なんとGHQのお墨付き。

あの龍脈の実験場を思い出す。

満州第731部隊の実験データを米軍が回収したのは有名な話だが。それ以外にも、旧日本軍のデータが、妙な形で生き残り、実験が続いたケースがあったという訳だ。

仕事を失うわけにも行かず、等々力は協力を続けていたが。

ある時点で、実験は打ち切られることになった。

「理由を聞かせてくれるか」

「理由は主に二つ。 一つはあまりにも凶暴すぎること。 知能が高いといっても、無理矢理与えた知能だ。 犬の脳では処理するには無理がありすぎて、どうしても凶暴性を抑えることが出来なかった。 実際研究所でも、手指を食いちぎられる研究員が何人もいたくらいだ」

「もう一つは」

「知能が高いということは、それだけ狡猾だと言う事だ。 檻から逃げ出す個体も珍しくなかった。 研究所では、常にライフルを手にした者が檻を見張っていたくらいで、それでも死者が何回か出たんだ」

そうか。それは確かに生物兵器としては失敗作だ。

米軍としても、これはダメだと判断したのだろう。とにかく、研究は打ち切られ、成果物はデータだけ残して殺処分された、というわけだ。

だが、どういうわけか。

等々力は、運命の悪戯か。

逃げ延びた一体の。子孫をこの近くで見つけてしまった、というのだ。

「本当に、偶然だった。 一目で分かった。 政府に見つかれば殺処分されるのが確定だし、他の犬と交配してかなり血が薄まっているのもすぐ分かった。 散々殺してきた俺だし、せめて最後に罪滅ぼしをしたかった」

「その結果が、これか」

「……実は、もう終わらせるつもりだった」

シアンを用意していたという。

エサに混ぜて、食べさせるつもりだったそうである。

血は薄まっても、大きくなればすぐに凶暴になって行った。どうしようもない業。更に、檻を破られるのも、時間の問題だと分かっていた。

だから一度地下下水道に移し。

最後の自由な時間をあげてから。

慣れている自分の手で、毒エサを与えて始末するつもりであったらしい。

かごめが挙手。

「犬が性成熟するのに必要な時間は一年程度よ。 それ、大量繁殖していないでしょうね」

「問題は無い。 何しろ兎に角交配が難しい種類だった上に、性成熟するのに十六年も掛かる有様だった。 二次大戦が始まるずっと前から研究していたらしいが、まだ最初の頃のが性成熟していなかったくらいで、GHQが引き継いでから交配可能な個体が出てきた程なんだ」

「なるほど、そういう点からも失敗作だったのか」

「人の要素が強く出すぎたんだ。 人の悪い部分ばかりが出てしまった。 それはきっと、あの犬たちにも、不幸なことだったに違いないと思う」

等々力のつぶやきは。

私には、どうしても不良息子をしからなければならず。しかし遅くに出来た子供を庇おうとも思って、四苦八苦している年老いた親のようだとも思えた。

だが、実際問題として。

危険な怪物が放たれてしまっているのは、事実なのである。

「シアンは」

「もう準備してある」

「そう。 では立ち会うから、殺処分に行きましょうか」

「……分かった」

容赦なくかごめが促す。

これは、かごめも分かっているからだろう。

既にその怪物は、地下下水道から出て、徘徊を始めている。等々力を求めているのか、それとも。

もはや凶暴性を抑えきれずに。

獲物を狙っているのか。

歩きながら、まっすぐ地下下水道に向かう。私が、アライグマの惨殺死体を見た辺りへだ。

「ちなみに聞きたい。 その犬人間の戦闘力はどれくらいだ」

「実験だと、体重三百五十キロのエゾヒグマを単独で倒した」

「何……」

「どうも物理的な力以上の実力が出ているようで、仕組みはよく分からない。 米軍が、研究を続けさせた理由だ。 噂によると、実験の一部は米軍が持ち去って、何処かで続けているとか」

それは多分米軍ではなくて、奴らだろうが。

どちらにしても、今の話だけで放置出来なくなった。

ヒグマの戦闘力は、ちゃんと武装したハンターでさえ返り討ちにするケースがあるほどなのである。

勿論戦車砲や対物ライフルをぶち込めば即死だが。

それでも、ヒグマを追いやるのに、人間は随分と苦労を続けたのだ。

虎やライオンは更にその上を行く戦闘力を誇るが。

それ並と考えると。

かごめに任せたベアバスターでも足りないかも知れない。

佐倉に連絡して、来て貰う。ゆうかを見張って貰う以上に、保険として、対物理能力を持つオオイヌガミがいると心強いと思ったからだ。

相手は文字通りの化け物。

小暮でも、押さえ込むのは難しいだろう。

長靴を履いて、地下下水道に。

ちなみに等々力の腰には、ロープを付けている。これは最悪の事態を避けるための処置である。

地下下水道で単独で逃げられたら、全滅の可能性もあるからだ。

なお、当然だが。

ゆうかと佐倉には、外で待機して貰っている。そっちが襲われるとまずいので、少し距離を取ったマンションの屋上で、此方を見て貰っている状況だ。

「むごいですね」

羽黒が呻く。

昨日、アライグマの死体があった場所は、もう綺麗さっぱり何も無くなっていた。つまり、あの後怪物が平らげた、ということだ。代わりに、乱雑かつ獰猛に喰らった跡を残すようにして、血が飛び散っていた。

それだけじゃあない。

側で死んでいるのは、ハスキー犬。

これなどは、頭部と背中の皮の一部だけを残して、残りが丸々喰われている。凄まじい食欲だ。

ハスキー犬は体格から言っても、人間とそう代わらない。

これを此処まで喰らうとなると。

もはや怪物が人間を襲うのは、時間の問題だったと見て良いだろう。

「俺だ。 出てこい」

等々力が呼びかける。

此処が、丁度いつも餌を与えていた場所なのだろう。

等々力はバケツに一杯の肉を持ってきていたが。

ひょっとすると、それでは足りなかったから、これだけ外で生物を捕まえて、喰らっていたのかも知れない。

少し距離を取って、様子を見守る。

「来ましたな」

夜目が利く白蛇王が呟くように言うと。

周囲に、おぞましいまでの怪異の気配が満ちた。

かごめが腰を落として、ベアバスターを構える。

やがて、それが。

わたしにも見えてきた。

なるほど、これはニセバートリーが逃げ帰ってくるはずだ。

顔は人間。

それも、能面のような、女の顔。

それでいながら、頭はつるつるで。非常にいびつな造形になっている。

更に、体の方はというと。

闘犬のような、凄まじい筋肉がついた、巨大な肉体になっている。サイズから言っても、ライオン狩りに使われるような特殊な猟犬に近い代物だ。

なるほどなるほど。

血が薄まってこれだということは。

元は更に凄まじかったということだろうか。

いや、まて。

この怪異の気配、覚えがある。

少し考え込んで、そして結論が出た。

そうだ、これは。

牛鬼だ。

牛鬼というのは、日本の妖怪の中でもトップクラスの危険度を誇る怪異で。様々な姿で描写されている。

他の怪異と似たような特徴を持つ事も多いが。

共通して人間に祟り為す存在だと言う事があり。

そしてその祟りも。

見ただけで族滅するという夜刀の神のような、強烈な代物ではないほどにしても、いずれも致命的なものばかり。

それだけ危険な怪異と言う事だ。

それを犬に混ぜ込んだのか。

いや、それだけではない。

これは恐らく、海外の怪異の因子も混ぜ込んでいる。

気配からして、ひょっとして窮奇か。

大陸で四凶と呼ばれる怪異の一体で、それだけ凄まじい力を持つ邪悪な怪異である。

なるほど、生物兵器として調整されたことだけはある。

こんなものを放たれていたら。

それこそ、中隊規模の兵士が、皆殺しにされても不思議では無かっただろう。

その研究所では、よくもまあこんな化け物を、死者数人程度で抑えられたものだと、ある意味感心する。

いずれにしても、非常に危険な妖怪の要素を取り入れられ。

人の顔を持ちながら、もはや獣でさえないそれは。

いじらしく尻尾を振りながら、等々力に近づいていき。たどたどしい言葉で、話しかける。

「エサ、くれ。 はら、減った」

「そう、だな」

バケツを見せて、置く等々力。

尻尾を振りながら、バケツに顔を突っ込む怪物。その体は筋肉質でありながら女性的で、それも人間の女性に見られる特徴が幾つも見受けられた。

怪異を無理矢理動物と融合されたのだ。

どんな変化が出ていてもおかしくは無い。

小暮、かごめ、羽黒と頷き会う。

かごめが狙いを定め。

そして、ベアバスターの弾丸をぶち込んだ。

直撃。

下水道が、崩落するような轟音がして。

怪物は、吹っ飛ぶ。

最大サイズのグリズリーでさえ一撃で仕留める弾丸を放つ銃だ。散弾銃に分類されるが、装填される弾丸は、ライフルを弾くことさえあるヒグマの装甲さえ易々とぶち抜く大型スラッグ弾。

勿論人間に使う武器では無いし、反動も凄まじいが。

かごめは平然と立ち尽くし、油断なく第二弾を装填していた。生半可な鍛え方なら吹っ飛んでしまうほどの銃なのだが。

この辺りは、流石に米国で鍛えられただけのことはある。

等々力は、すまないと言いながら。体に大穴を開けながらも、それでも立ち上がってくる怪物を見て、涙を流して土下座した。怪物は、唸り声を上げる。

急いで構えを取るかごめ。二発目はすぐにでも撃てる。

だが、此処は。

私が前に出る。此処からは、私の仕事だからだ。

動物としての部分は死んだ。

今度は、怪異としての部分を、殺さなければならない。

凄まじい雄叫びを上げる怪物。

だが、それが動くより先に。

白蛇王が動く。

蛇特有の瞬発力で、怪物の巨体に巻き付くと、締め上げる。蛇は全身が瞬発力を産む筋肉で、持久力はないが、一瞬のスピードに関しては凄まじいものがある。白蛇王も、その辺りは変わらない。

必死にもがいて逃げようとする怪物。

殆ど千切れ掛かっているというのに。

とんでもない大物怪異を二体も体に含んでいるから、だろうか。

ベアバスターの直撃だけでは、とても死にそうに無かった。

「今、楽にしてやる」

「裏切ったなあああああ!」

怒りはしごくごもっとも。

だが、此奴は生物として存在してはいけない。

もはや、そのレベルで。

生態系から逸脱した怪物になってしまっている。

人の業から造り出された悪魔。

だからけりをつけなければならない。そして、けりをつけるのは、今の世代を担う私達だ。

許してくれとは言わない。

言葉にせず、そのまま。拳を、顔面に叩き込む。

やはり怪異が混じっているから、効果覿面だ。凄まじい悲鳴を上げて。白蛇王が拘束をほどいたと同時に、吹っ飛んでいく。天井にぶつかって跳ね返り、汚水の中に落ちた。

更に跳躍して、蹴りを叩き込む。

汚水が派手に吹き上がるが。

気にしてはいられない。

まだもがいて暴れようとするのは、犬の要素を使っているのか。

だが、シアンが効いてきた。

怪異だけなら今の私の打撃で即死。

犬としての要素なら、ベアバスターとシアンの二段構えで、もはやどうにもならない。生物である以上、毒は対処が難しいのだ。中には特定の毒に対して抗体を持っている動物もいる。

だが、犬は違うのだ。

しばしもがいていたが。

最後に、怪物犬は、呻くように言うのだった。

「呪ってやる……」

「では私が祓ってやろう」

「おのれ……」

「人という生物そのものが、お前を造り出してしまった。 怪異と混ざり合った哀れな存在。 今、楽にしてやるからな」

最後の悪あがきか。

首だけが千切れ、私ののど元めがけて飛びかかってくる。

だが私は余裕を持ってそれを受け止めると。

壁に叩き付けた。

それこそ、トマトが爆ぜるようにして、吹っ飛んで。

それと同時に。

下水道からは、怪異の気配が消えていった。

性成熟には十六年程度かかると言っていたか。これの他に、同類の怪異がいるのではないかと不安になっていたが。

それもなさそうだ。

これは恐らく。

本当に、狩り立てられた中で、生き延びた最後の生き残りだったのだろうから。いや、もしくは。

まあいい。

その考えは、今は保留だ。まずは、安全を完全に確認しておかなければならない。

死ぬと同時に、犬は体格が変わり始める。それも、これが尋常な存在では無い事を、嫌と言うほど示していた。

 

完全に浄化を済ませた跡、死体を引っ張り出す。

体格は凄まじく、頭が残っている状態だったら、軽く二メートルを超えていただろう。最大サイズの大陸狼並である。

筋肉も凄まじい。

死ぬ前の、女性的な特徴が強く出来ていた肉体とは、えらい違いだ。アレは、怪異を憑依させている事による影響だったのだろう。

確かに、ヒグマに単独で勝ったというのも、頷ける話だった。

この鍛え抜かれた体格に。

日本でもトップクラスの危険度で知られる凶悪怪異と。

大陸でも四凶とまで呼ばれる最強の怪異の一角が混ぜ込まれていたのである。超危険生物として、処理が行われていたのも、頷ける話だった。

ひょっとすると。

目撃された人面犬に、不自然なくらい危険な逸話がなかったのは。

元々の危険性を更に増長しないように。政府側が、手を入れていたのかも知れない。

つまり私が遭遇した何体かは、「偽物」だったわけか。何とも皮肉な話である。まあ怪異として具現化している以上、そっちも「本物」には違いないのだが。

仮面の男から連絡が来たが。今回に関しては、ひょっとすると、奴らの関与は無かったのかもしれなかった。

いや、それはまだ分からないか。

小暮と羽黒が汗を拭う。

それだけ、この巨体は凄まじかったのだ。

頭部が吹っ飛んでいるから、もう衆目に晒しても大丈夫だろう。バツが悪そうに俯き続ける等々力を、羽黒に家へと送らせる。

保健所に、その間に小暮が連絡。

私と、かごめは。

死体の側に残された。

「どう思う?」

「偶然にしては出来すぎている」

かごめの問いに、私はそう答える。かごめも、やはり何処かで引っ掛かっていたのだろう。

運命の悪戯は、ある。

私のような生活をしていると、どうしても勘で判断した事が当たったり。運命の悪戯に遭遇する事は、どうしてもあるのだ。

そもそも霊感が強い人間は、そういう傾向が強い。

だがそれにしても、だ。

この偶然は、出来すぎている。

旧軍が作り上げた怪異生物兵器の生き残り。GHQの判断で全てが処分された凶暴すぎる生物。

だが、本当にそうなのか。

ひょっとすると。資料を基に、奴らが再現したのでは無いのか。

そして、何かしらの目的で。昔の関係者である等々力の所に捨てたのでは無いのだろうか。

可能性はどうしても捨てきれない。

しかし、はっきりしている事は。

この件はどうにか解決したこと。

そしてもう一つ、やるべき事がある。

保健所の職員が来た。

絶句している。

こんなデカイ野犬ははじめて見たのだろう。ちなみに私は前に、シベリアに怪異を潰しに行った時、野生の狼を見た事がある。あれは此奴と殆ど同等くらいのサイズがあった。まああの辺りは、クマも桁外れにデカイし、虎までいるという魔境なのだが。

「これは、大型犬のミックスですか? こんな奴は見たことがありませんが」

「下水道に住み着いて、近くの生物を補食していた。 通報を受けて、ベアバスターで仕留めた」

「良くそんなものを用意できましたね」

「まあ、な」

手帳は見せているから、保健所の職員も、それ以上は何も言わなかった。この下水道は封鎖するように指示。

勿論しっかり浄化しておくけれど。

まだ、奴らがどう動くか分からないからだ。

怪異を地下下水道に放って、しばらくすると。

猿王が最初に戻ってきた。

「見つけました」

「やはりあったか。 すぐに向かう」

「戦略兵器の元になるのが、どうでもいい原始的な武器というのは気になるけれど、奴らに渡すわけにはいかないものね。 小暮、もう準備は済んだ?」

「はい、既に」

小暮が持ってきたのは、小さなリヤカーだ。

これで少し大きめの武器でも持って行ける。更に、リヤカーには、ゴム手や、泥の中で作業するための道具類。

更に、消臭剤も積んでいる。

今朝、準備しておいたものである。

かごめはそのまま、ベアバスターを持ったまま警戒。というか、既に警戒度を一段階全員が上げている。

もう奴らも、此方の行動を黙って見逃すばかりでは無いだろう。そう、皆の見識が一致しているのだ。

羽黒も戻ってきた。

全員帯銃している。準備が整ったことを確認すると、下水道へと踏み込む。

ライトは私のヘルメットにつけた分と。

リヤカーにもつけた分。

二つの灯りが、奧を照らす。

ひどい臭いがしているが。猿王が案内してくれる。何回か分岐点があったが、迷うような構造にはなっていない。

最悪の場合、水が流れている方向に行けば出られるのだ。

それにしても。

死体が見つかる見つかる。

食い荒らした死体が、実にたくさん散らばっている。

これはハトだろうか。羽の部分だけが残っていて、体の方は完全に消滅。辺りに血が飛び散っていた。

多分此方は、小型犬だ。

可哀想に、右足が一本だけ、放り出されるように落ちていた。既に蛆が湧いている所から見て、等々力があの人面犬を地下下水道に隠してすぐに殺されたのだろう。食いちぎられて、振り回され。

足が一本だけ、飛び散ったというわけだ。

これは鼠か。頭の一部だけが残っている。

「何だか食い残しが多いわね」

「何となく理由が分かる」

「?」

「等々力に残しておこうと思っていたんだろう」

かごめの言葉に、私がそう応えると。

少しだけ黙り込んだかごめは。伊達眼鏡を直した。

「そう。 そうかも知れないわね」

「等々力は、獰猛になるあの化け物に手を焼きながらも、幼い頃から面倒を見ていたし、あの化け物も衝動に振り回されながらも、等々力を慕っていたのだろう。 だが、放置しておけば、近いうちに確実に死者が出ていた」

だから、殺すしか無かった。

もはや、どうしようもない事なのだ。

あのような動物では、動物園で引き取るわけにも行かない。政府機関でさえ、殺処分が決まったような獰猛な代物。

生かして飼う事が出来る場所など、存在し得ない。

下水道の奥まった所に。それはあった。

どうやらククリのようだ。

少し湾曲したナイフの一種で、かなり大型な部類に入る。何かの伝説の武器にククリがあったかと思って、手袋で掴んで、汚物から引き抜いてみて。

納得だ。

これはダマスクスだ。

「変わった模様でありますな」

「最近まで作り方が失伝していたダマスクスという鋼鉄だ」

「ああ、ゲームなんかで良く出てくるあれですね」

「そうだ。 失伝していたが、近年作り方が再現されてな。 どうやら、それで敢えてククリを作ったらしい。 伝説の武器のレプリカというよりも、伝説の鉱物で作った武器、というわけだ」

羽黒が調べたいというので、後でと釘を刺してから。証拠品として、布を巻いて保存し、確保。

さて、後は、もう少し周囲を確認。

猛獣がいないかしっかり調べて。変質者や、襲撃者がいない事も確認。周囲の下水はくまなく調べ。

鼠と、後は細々とした動物やら虫やらしかいない事を確認完了。

下水から出ると。

もう夕方になっていた。

後は、近藤に報告して終わり、

等々力は。もう、これ以上は仕方が無いだろう。そもそも、人面犬を飼っていた、ということを罪には出来ないし。

何よりもう重すぎる罰を受けた。

最後の心の支えを、自分で裏切って、死なせたのだ。

恐らくもう長くは生きられないだろう。それも、罪悪感を背負いながら、後の人生を送っていくのだ。

人を殺しかねない猛獣を、地下下水道に放った罪は。

充分すぎる罰として、今後のしかかることになる。

そして彼は、恐らくもう救われない。

だが、それが罪を償うと言う事。私もいずれは、何かしらの罪を背負い。罰を受けるのだろうか。

その時は。

このような目にあうのかも知れない。

 

4、骸

 

ゆうかと佐倉に顛末を告げて、そして近藤の所に。ゆうかは大型犬の死体を見られなかったことを残念がっていたが、それはそれでまた図太いというか何というか。ただ、佐倉には釘を刺しておく。

「警戒段階を一つあげている。 お前も気を付けろ」

「分かりました。 今回も危ない仕事だったんすね」

「ああ……」

かごめがいて助かった。

羽黒ではあの銃は撃てなかっただろうし。小暮は銃はあまり得意ではないと聞いている。私はと言うと、銃は出来るが。あんな規格外の大型は扱ったことがないし、あまり扱うのも自信が無い。

かごめはあの大型銃を、一撃必中させて見せたのだから、大したものだ。

ゆうか達を帰らせてから、近藤に話をしておく。

戦時中の亡霊。

その生き残り。

そうかと、近藤は大きく嘆息した。

「厄介な相手とやりあったんだな。 小暮、お前、逃げ出さなかったか」

「もちろんであります! いざという時は、先輩達の盾になるつもりでありました!」

「そうか。 本当かね、警部さん達」

「まあ、逃げ出さなかったのは本当ね」

かごめの言葉は、彼女にしては最大級の褒め言葉という訳だが。彼女らしい、ちょっと毒のある言葉で。

でも、近藤は察してくれたようだった。

「小暮、お前は良い警官になれる。 みな、此奴を頼みます」

「分かっています。 お任せを」

敬礼をして、近藤と別れた。

そして、帰路につく。

途中、ニセバートリーが、耳元に囁く。

「コッチを見てる奴がいる。 それも、多分カタギじゃ無いわよ」

「やはりな」

「?」

「監視している奴がいる。 気がつかないフリを」

小暮に、事前に決めておいたハンドサインを出しておく。羽黒も見た筈だ。かごめは、既に気付いていたようだ。

分かっている。そろそろ、奴らも、此方の行動を無視できなくなってきた。

例え風祭を本気で怒らせるリスクを負うとしても。

私をそのまま放置しておくと、何が起きるか分からない。奴らが、そう判断したのは間違いない。

「潰す?」

「放置」

「……そうね。 泳がせましょうか」

いずれにしても、ただで済ませるつもりは無い。ただ、今は放置して、相手側の動きを探りたい。

今は犬童警視もおかしな動きをしているし。上部組織も、敵の動きは察知しているはず。

此方で下手な動きをして、開戦を誘発したくない。

「そのまま本庁まで帰るぞ。 相手が何処までついてくるかだけは確認しておこう」

「了解であります。 発砲してきた場合は」

「その場合は正当防衛成立よ」

かごめは、ベアバスターを担いだまま。

ちなみに日本でも狩猟免許は持っているそうだ。彼女なら、振り向き様にヘッドショットを決めてみせるだろう。

防弾チョッキを着ていてもひとたまりもない。

相手は、三人ほどか。

車に乗ると、当然のように、三台に分乗して着いてきた。それも、途中で一台が脱落。意図は分からない。

警視庁に戻ると。そのまま、前を通り過ぎていく。駐車場の前を追跡者が通り過ぎてから、私は舌打ちしていた。

潰すべきだったか。もう開戦は。避けられそうに無い。

「しばらくしてから、別々に本庁を出ましょうか」

かごめの提案はもっとも。

いずれにしても。

もはや、戦いを避けるつもりは、私にも無かった。

 

都内某所。

テレビ会議が行われる薄暗い部屋で。金髪の王子と呼ばれる男は、ほくそ笑んでいた。

大体が予想通りに行われている。

風祭純と、その仲間で構成された精鋭チーム、通称編纂室。

日本で行われている実験を、片っ端から潰している実働部隊。何度か他の幹部には、兵器は耐久力を把握してこそ売り物になると説明しているのだが。それにしても、被害が大きくなりすぎている。

風祭と全面抗争に入るのは、皆が尻込みしているが。

それでも、やらなければならないときが来たと、幹部達は強迫観念に駆られてしまっているようだった。

実際問題、そう煽ったのは。

ファントムと周囲に名乗っている、この金髪の男なのだが。

既に状況は、味方の圧倒的勢力で押していた状況から。

敵と互角にまで持ち込まれるところにまで逼迫している。

米国が本腰を入れてきたこと。

今まで協力的だった、旧左派の国々でさえ、あまりにもやりすぎたと考えたからか、そっぽを向き始めたこと。

更に本拠である西欧でさえ。

この状況に、反発する者が出てきたこと。

それらが原因で組織から離脱するものまで現れ始めている。

日本での激戦で、幾つもの重要な実験施設が潰され。

それが、元をたどればあの編纂室の仕業だというのが大きい。編纂室のバックには、風祭もいるのだ。

ただし、実際には、兵器開発は既に終わったラインばかりが潰されているのだけれども。被害の大きさに目を回した幹部達は、冷静に状況を把握できていないのだった。それが、ファントムには滑稽でならない。

「折衷案といきませんか」

「何かね、それは」

「一度に複数の事件を彼らにぶつけましょう。 そうして、仕事を飽和させて、彼らをそれぞれ孤立させる」

後の意味は、言わなくても良いだろう。

此奴らは暴走する。

四人だと、恐ろしく統率が取れたチームである編纂室。事実上の二頭体勢だというのに、である。

だが、全員がばらばらになれば。

「多数の事件解決が評価され、ツートップの風祭純と賀茂泉かごめは、近々警視に昇進する事が決まっています。 これは地方警察ではトップを務められる地位です。 これを利用して、複数同時の仕事をそれぞれに担当させるように、警察内部の協力者に促させます」

「それで、孤立状態を作れると」

「ええ、合法的にね」

「……」

ひそひそと、小声で話しあっている。

単独なら、殺れるか。

暗殺したりすれば、あの風祭が、総力で潰しに来る可能性が高い。今、劣勢の状況で、それは避けたい。

いや、いつまでも風祭を怖れてばかりもいられない。

実働戦力として、怪異を確実に潰せる風祭純をこれ以上野放しにしておくと、此方の大事な商品が、滅茶苦茶にされる可能性がある。

やるしかない。

幾つもの意見が飛び交う中。

ファントムは咳払いした。

「時に、風祭純を殺すための戦力は揃っていますか? あまりにも大規模な部隊を動かすと、彼女らの上部組織に即座に気付かれますよ」

「既に何名か、腕利きを入国させている。 怪異に対しては絶対的な力を持っていても、遠距離からの狙撃であればどうにでもなる」

「だといいのですが」

「どうにでもなる!」

強気な声は。

恐らく自分を鼓舞するためのものだろう。

なおファントムは。

この作戦が失敗することを、既に想定している。恐らく風祭純を動かしている上部組織は、この状況を既に見抜いているからだ。

ファントムとしては、全面抗争を誘発したいのである。

勿論、自分の身を守る算段はしている。

いつも扇動者は。

煽るだけ煽って、自分は安全な場所に隠れるものだ。卑劣なやり方ではあるが。後一歩で、手が届くのである。

この好機。

逃すわけにはいかなかった。

「焼却爆弾の原理を悟られる訳にもいかん。 あれは原爆に変わるクリーン兵器として、今後戦場の主役になるほどに売り込める代物だ。 中枢の研究所は、念のため日本から移すべきでは無いか」

「しかし、そんな事をしていたら、真っ先に敵に気付かれるぞ」

「だからこその襲撃だ。 大事な娘を襲撃されて、風祭が激高した隙を突く」

おやおや。

あの兵器については、既にファントムが、主要データを海外に持ち出している。つまりこいつらは、それにも気付けていない。

まあいい。

此奴らを処分する好機だ。

そして最終的には。

全ては、ファントムが握るのである。

あの無能な中央の「影の支配者」の姿を知る、数少ない人員であるファントムは。必ず、この世界の闇に君臨する。

影の支配者が入れ替わっても。

誰も気付く事などない。

それが、ファントムにとっては、極めて好都合だった。

 

鮮血に塗れて、それでも止まるわけにはいかない。

犬童蘭子は、ついに追い詰めた相手を殺そうと、何度も仕掛けているが。どうしても仕留めきれない。

何しろ狡猾。

何しろ強い。

戦いは既に一月以上にわたっている。

勿論ずっと戦い続けているわけではなく。その間、何度も休憩を入れながら。捕捉している相手を追い。

仕掛け。

ダメージを与え。

自分もダメージを受け。

チキンレースをしている状況だ。

既に鏡は見られたものではない。何度かひよっこどもの様子を見に編纂室にも足を運んだが。

もはや、あいつらは犬童がいなくても大丈夫だ。

携帯が鳴る。通話を開始すると、相手は挨拶も無しに本題に入った。

「大丈夫かね。 相当に無理をしている様だが」

「この日のために無理矢理つないできた命や。 此処で燃やさんでどうする」

「実は、大きな情報が入った」

「なんや」

邪魔が入るかも知れない。

仮面の男。

あの道化師は、そう言う。

何でも、犬童と戦っている彼奴の実力に。奴らが目をつけた可能性があるという。

愚かしい。

あれは制御出来る代物では無い。

いっそ奴らに渡してしまうのも手だ。奴らを徹底的に食い荒らして、内側から壊滅させてしまうだろうから。

だがそれは。奴らの魂を喰らった彼奴が、更に強大化することを意味している。

ようやく此処まで弱らせた。

あと一息なのだ。

それなのに、邪魔をさせるわけには、絶対に行かない。

「邪魔だけは許せへんな。 潰して貰えるか」

「もう一つ、悪い情報がある」

「……」

「敵が、編纂室の分断工作を始めた。 損害を無視できなくなってきたからだろう。 或いは、例の幽霊がたきつけたのかも知れん」

風祭純か、賀茂泉かごめを暗殺する。

その準備に入った、という事だ。

勿論、此方でもそれは把握済み。対策もしてあるが。それでも、犬童としては、水を差されることになる。

此方は少数精鋭。

全てに対応出来るほど、手がない。

「同時に相手は無理や」

「分かっている。 今回は総力戦になると見て良いだろう。 だから君は、そいつの処理にだけ集中して欲しい。 此方は、時間差各個撃破で、どうにか敵の攻勢を、一つずつ潰してみせるさ」

「ボスの指示か?」

「そうだ。 ボスもそろそろ、娘を独り立ちさせるつもりなのだろう」

鼻を鳴らすと、通話を切った。

さて、血みどろの体だが。ボロボロで、もう長くはもたないが。それでも、風祭純を死なせるわけにはいかないし。

奴を逃がすわけにも行かない。

だから、廃工場の中で腰を上げると。

犬童蘭子は、額を拭う。

ついさっきまで、奴と此処で戦っていたのだ。

奴は深手を負って逃げたが、遠くにはまだ行っていない。徹底的に追い詰めて、そして殺す。

もう少しだ。

自分に言い聞かせながら。

犬童蘭子は、獲物を追う。

そのために、今日まで生きてきたのだから。

 

(続)