うごめき廻る蟲

 

序、小暮の受難

 

羽黒が編纂室に加わってから、六件ほどの事件を解決して。その有能さがはっきり明らかになったある日のこと。

羽黒はいつものように飄々としていて。

かごめはもう明確に羽黒を苦手としている様子が明らかで。

私はと言うと、DBの分析を進めて、未解決事件の中で、解決できそうなものがないかチェックしている作業をしていたが。

そんな中で。

妙にそわそわしている小暮が目立った。

ちなみに犬童警視は出張から戻らない。今回の出張は、相当長引いているけれど。ここのところ少し出張が多すぎる。

幸い、あの人がいなくてもこの部署は成り立つ。

そういうものだ。

あの人が無能なのではなくて。

此方に采配を預けてくれている。

だからこそ、成り立つ話なのではあるのだけれど。

「少しは落ち着きなさい」

小暮に、かごめが一喝。

平謝りする小暮だけれど。何かあったのか。

咳払いすると、私は助け船を出してやる。

「どうした、何か問題か」

「実は自分には妹がいるのでありますが、連絡が長い間取れないのであります。 普段だったら、メールを投げれば二三日以内には戻ってくるのでありますが……」

「二三日か」

ちょっと間が空くが、そんなものだろう。

小暮の妹は、少し年が離れていて、やっと大学生になったばかり、だという話を聞いたことがある。

ちなみに小暮にはまったく似ていない。

写真をこの間見たが、劇団所属で、普通に可愛らしい女性である。ただし背は平均よりだいぶ、というよりもかなり高い。

この辺りは、小暮と同じ遺伝子を継いでいるのだろう。

「シスコンね」

「し、しかし、こう長いと……」

「どれだけメールが返ってこないんだ」

「一週間ほどです。 それに、嫌な話も聞いておりまして」

小暮によると、小暮の妹である綾は。

どうも金に困っていたらしいのだ。

大学に行っているということは、仕送りを受けているのだが。劇団は所属するのに色々と金が掛かる。

特にプロを目指すような場所ではなおさらだ。アルバイトだけではなかなかやっていけない。この辺りの大変さは、以前はとりえりさに聞いた事がある。

大学そのものの学費もある。そのままだと、生活も難しい。

小暮自身が実家に仕送りしている金の幾らかも、妹の方に廻っているようなのだけれども。

それでも足りないのだろう。

不安そうにしている小暮は、動物園の檻の中で右往左往するクマのようだ。ちょっと見ていて不安を煽られる。

咳払い。

「体を売ったりするような子ではないのだろう」

「それは、保証できるのでありますが……」

「まあ先輩、少しは落ち着いて。 そもそも難しい年頃なんですよ」

「……」

羽黒のフォローになっているのかいないのかよく分からない言葉を受けて、更にむっつりと黙り込む小暮。

まあ気持ちは分かるが。

電話が鳴ったのはその時だった。

「やあ、この間はよくやってくれたね」

「お久しぶりです」

仮面の男だ。

ほぼ一月ぶり、と言う所だろうか。

あの客の消えるブティック事件以来である。

あの時、色々と芸能界や財界に激震が走り。むしろ、事件の後の方が色々と大きな問題になったと言う。

高嶋ブランドとコネがあった芸能人が凋落したり。

テレビ局内の勢力図が代わったりという些事もあるが。

政治家の中には、高嶋紅をスポンサーにしていたものもいて。そういった連中は、右往左往しているらしい。

後ろ盾が無くなった連中の中には、逮捕者も出ている様子だ。

金にものをいわせて悪さをしていて。それが隠しきれなくなった、というところなのだろう。

まあ自業自得だ。

ざまあみろとしか言いようが無い。

で、電話だが。

仮面の男は、少し切羽詰まった様子で言う。

「少し急ぎの用件だ。 山梨の奥地で、ちょっとした施設がある。 そこでどうにも非人道的な実験が行われているようでね。 高額なアルバイト料をちらつかせて、人数を集めている様子なのだ」

「それはまずいですね」

「まだあまり多くの被害者は出ていない様子だが、事は一刻を争う。 急いでくれたまえ」

電話が切れる。

そして、小暮が真っ青になっていた。

途中の話の内容が。

妹の言っていたアルバイトと一致するというのである。

「い、一大事であります」

「まずは落ち着け。 山梨に全員で行くとなると、大型車がいいな。 かごめ、頼んでもいいか」

「良いわよ。 貴方達の軽じゃ、どのみち容積不足でしょう」

「わあ、あのフォルクスワーゲンに乗れるんですね」

羽黒の脳天気な返しに、かごめは一瞬真顔になったが、もうそれは正直どうでもいいのだろう。

いや、兎に角本当に苦手で、うまい返しが思いつかないのかも知れない。

山梨に行くとなると、欲しいグッズが幾つかあるが、それは事件を解決した後だ。それに、仮面の男の様子からして、あまり時間はないだろう。本来なら新幹線を使いたい所だが。

しかし、新幹線を使っていると、山梨に入った後の在来線で時間が掛かる。下手をすると、最寄り駅からの移動で、手間が掛かりすぎてしまう。

それにしても、犬童警視はどうしたのか。ここのところ、出張続きで、殆ど帰ってこない。戻ってきても、すぐに出て行ってしまう。いつも以上に、編纂室に姿を見せない。上部組織の方でも、大きな事が起きているのは、確実なのか。

それとも、犬童警視の方で、何か用事があるのか。

どちらにしても、楽観視はとても出来そうに無かった。

「出かける準備をしろ。 その間にサーバは念のために落としておくぞ。 腐るようなものは残しておくなよ」

「長丁場を想定しているのですか」

「そうだ。 可能な限り電光石火で片付けようとは思っているがな」

小暮に指示を出すと、羽黒も何も言わず動く。

てきぱきと作業をこなしていく羽黒は、とにかく手際が良い。年齢的には小暮とあまり変わらない筈なのだが。

やはり、脳筋と頭脳派では、こういう所で差が出てくるのか。

間が悪いことに、枕は持ってきていない。洗濯のために、持ち帰っているところだったのだ。だが今回は予定としては短期決戦だ。特に、現場には最大限急いで到着しなければならない。寝ている暇も、家に寄っている暇もないだろう。こればかりは仕方が無い。

あくまで、腐るようなものを残さないのは念のためである。

「よし、準備完了」

此方が作業をしている間に、かごめが調べてくれていた。

それによると、やはり山梨の方で、妙な広告が出ているという。その広告は、東京でも配布されたそうだ。

日当四万。

治験薬のバイト。

それだけだそうだ。

あまりにも怪しすぎる。

実際に、治験薬のバイトというのは存在する。ハイリスクの代わりに、新しく開発された薬の臨床実験をするものだ。

勿論新開発の薬は、マウスなどで試すのだが。

この広告を見る限り。

どうにも、色々なところに不審点が目立ちすぎるのである。

「何よこれ。 薬事法にちゃんと則っているのかしら」

「バイトの中には、怪しいものも多いからな……」

私はげんなりして、広告を見せる。

新聞に挟まれているような求人欄の中。いや、スポーツ新聞などでは、新聞そのものに記載があったりする。

怪しい広告になればなるほど。

適当な内容と、異常な高額バイト料金しか書かれていない。

そして実際に現地に行ってみると。

アダルトビデオ関係の仕事だったり。

或いは、普通だったらやらせられないような、危険な仕事だったりするケースが殆どである。

様々な都市伝説の舞台にもなっている。

例えばある高額バイトに出たところ、スナッフムービーに参加させられて、惨殺されてしまった、とかいうようなものだ。

スナッフムービーそのものが、そもそも都市伝説の領域を出ない。犯罪組織によるアピール殺人動画などは別として、だ。

だから、二重に都市伝説なわけだが。

この手の怪しいバイトが、実際には割に合わない仕事を強要し続ける限り。

様々な都市伝説は消えないだろう。

中には、昔から悪名高い、タコ部屋に近い仕事をさせる高額バイトも存在するという話で。

あまりにも悪質なものには。

流石に警察の手が入る。

実は怪異がらみで、今まで二度。

その手のバイト現場に踏み込んだことがある。そのどちらも、思い出したくないような内容だった。

「準備万端なら行くわよ。 ナビはよろしく」

「おう、任せておけ」

充電装置と替えのバッテリーを鞄に入れると、私は答える。

かごめのフォルクスワーゲンには、カーナビなどと言う軟弱なものはついていないのである。

大概の場合、地図を全部覚えているから、必要ないのだ。

かごめらしい理由である。

すぐに編纂室の戸をロックして、外に。

既に季節は真冬。

コートを着てきているが。

山梨の山奥となってくると、これは更に厳しそうだ。

話は、フォルクスワーゲンに乗って、移動開始してからだと、私は思っていたが。その辺りの暗黙の了解は、全員に伝わっているようなので、安心した。

フォルクスワーゲンに荷物を積み込む。

結構な量になった。

というのも、最悪の事態を想定して、医薬品や、強力な警察無線も搭載していくからである。

何しろ仮面の男から連絡が来て、至急と言われるほどである。

何があるか、知れたものではないのだ。

出発する。

ドイツ車らしい頑強な車体。更に、かごめが好みそうな大型の形状が、うなりを上げて動き出す。

「うわー、迫力ですね。 アウトバーンも走れるんですよね」

「これは輸入車仕様だから、リミッターが掛かっているわよ」

「そうなんですかー。 残念ですー」

羽黒が脳天気に宣い。

その度に、かごめの表情が険しくなる。

ちなみに助手席に私。その後ろに羽黒。隣に小暮、という編成だ。かごめが、真後ろに羽黒という状況を嫌がったのである。

すぐに出る。

首都高に入った辺りで、一応念のため、捜査一課に伝言を残しておく。非常に非人道的な実験を行っている可能性が高い治験薬バイトの調査に出向く。万が一の場合は、指定の場所を調査して欲しい、というものである。

佐々木警視が電話に出て。

非常に面倒くさそうだけれど。

分かった、と応えてくれた。

続けて、兄者に連絡。

兄者も面倒くさそうに電話に出る。

どうしてこうみんな面倒くさそうなのかはよく分からないけれど。兎に角、話は聞いてくれた。

「違法バイトの都市伝説か」

「詳しく聞きたいな」

「風聞レベルでなら良いが。 近年はやはり犯罪組織が、餌食にする人間を物色するために用いている、というものが増えているな」

「やはりそうか」

幾つかバリエーションを聴いておく。

近年の都市伝説に関しては、兄者の方が本職だ。

時々、本家の人間が。これから対処しなければならない怪異について、アドバイスを貰いに行くくらいなのである。

これは私へのアドバイスの実績の結果なのだけれど。

兄者自身は、あまり良く想っていないらしく。

時々、渋い顔をしているのを目にする。

「治験薬関係については聞いたことが無いか」

「いやというほどあるな。 実際、薬事法に則って大学などで行う治験薬バイトに関しても、黒い噂が山ほどある。 薬品メーカーが行うバイトの中には、非常に危険な薬を、格安のバイト料金で人間に試すケースもあると聞いている」

「そうか……」

「気を付けろ。 そういった場所では、犯罪組織と癒着しているケースも、珍しくはないからな」

まあ此方には、武闘派が三人もいるし、大丈夫だろう。

ヤクザの十人くらいなら、小暮が一人で畳むだろうし。相手が拳銃を持ち出してきたら、此方も一段階暴力のレベルを上げるだけだ。

首都高を抜けて、静岡に。

しばらく東名高速を走ってから、山梨へ。時間は容赦なく過ぎていくが。かごめは法定速度を完璧に維持しつつ、見事な運転を続けている。

「小暮先輩、妹さんが心配ですか」

「当たり前だ」

「そういうときこそ落ち着いて。 小暮先輩の武力が、今回も頼りになる可能性は高そうですし」

「……そうだな」

小暮も青ざめてはいるが。

それでもパニックにはなっていない。

小暮と妹の関係は。

兄が一方的に年が離れた妹に構っているように見えるが。これはひょっとすると、私の場合との逆パターンか。

あれ。

そう思うと、ちょっと腹立ってきた。

兄者は私がこんなに思っているのに、いつも冷たいのだ。

それなのに、小暮は妹に。

うーむ、でもこれは、血がつながっている、という条件を無視した話だ。小暮の場合は血統上でも立派な妹なのだから、構うのは当然なのか。

いや、普通はむしろ、この年になると距離を取っているのは当然なので。

むしろ妹の反応の方が正しいのだろう。

「物資の確認。 そろそろ山梨に降りるわよ」

「小暮、羽黒、問題はなさそうか」

「食糧も数日分はあります。 医療キットも」

「人見を連れて行ければ良かったんだがな……」

残念ながら、人見は今、大事な講演があるとかで、留守にしている。何処かの大学で、解剖についての話をするそうだ。

ひどい状態の死体を解剖することになれている人見は、勿論豊富な経験を持っている。大学でも、話を聞きたがる学生は多いだろう。

医学生達も、忙しい中こぞって講演に来るそうで。

仕事を取りやめるわけにはいかないそうだ。

まあ、当然か。

「ならば、そのままコンビニなどには寄らずに行くわよ。 各自、適宜水分と栄養は補給しておきなさい」

「オス!」

「分かりました!」

私はと言うと。

その辺のコンビニで買える、ゼリー飲料を既に口にしている。これが結構便利なので、愛用しているのだ。

ちなみに味には最初から期待していないので、どうでもいい。

かごめがアクセルを踏み込む。

急げと言われていたから、というのもある。

きちんと急いでいるのは。

かごめが警官としての魂を、きちんと持っている事の、証なのだと言えた。

 

1、隔絶された研究所

 

夕方近くに、フォルクスワーゲンが現地に到着。山道を散々走った末での事だ。これは、完全に陸の孤島である。

山梨といっても、どこもかしこも田舎というわけでは無い。

武田信玄を輩出したことは誰もが知っているだろうが。

その開発によって、甲府などは一応発展はしている。地方都市としては、だが。

しかし、山の中に入ると。

本当に田舎だ。

この土地も、戦国時代には、ゴールドラッシュに湧いた時期があったのだが。それも今は昔の話。

既に金は掘り尽くされてしまっており。

今では、もぬけの殻となった山が、黒い骸のような姿をさらすばかりである。

この鉱山跡には、様々な怪談話や都市伝説があるのだが、それは今回はまあ関係無いと考えて良いだろう。

その一方で、手つかずの自然は彼方此方に残っており。

様々な稀少な動物を、見る事も出来る。

川辺などに降りると、東京などの都会では滅多に見られない種類の昆虫を見る事も可能である。

そんな自然豊かな、色々と人間の業と共にあった土地の一角。というよりも、山奥も山奥。僻地の中の僻地に。

その研究所らしきビルは、ぽつんと建っていた。

駐車場はあったので、すぐに止める。

かごめは念のために、タイヤロックを掛けていたが。これはこの場所を考慮して、盗難を防ぐためだろう。

実際、何が出るか知れたものではないのだ。

リュックに小暮が荷物を引き受け。

そして、研究所に入る。

研究所そのものの入り口には、警備員さえおらず。

何よりも、既に。

この時点で、血の臭いがしていた。

駐車場は広いが。

見て回ると、壊されている車が目立っている。

一つだけ、かごめのフォルクスワーゲン以外に、動きそうなものがあったけれど。

それはどうにも古い型の車で。

骨董品と呼べそうな代物だった。

ちなみにマイクロバスである。

「こんな古い型式の車、はじめて見たわ。 送迎用の車かしらね」

「後回しだ。 研究所の確認を急ぐ。 血の臭いがさっきからしている」

「分かっているわよ」

かごめを促して、中に。

研究所は三階建ての四角い工夫が無い建物で、そして入るやいなや、愕然とさせられた。

文字通り、滅茶苦茶だ。

何もかもがたたき壊されている。暴動でも起きたのだろうか。

そして、既に此処の時点で。

怪異の気配があった。

今はまだ夜では無いのだが。こんな時間からか。しかも、研究所の内部で、相当数がいる様子だ。

ただ、どの気配も小さく弱い。

数が圧倒的に多すぎるのが、少し気になるところだ。

かごめが目を離した隙に、式神を展開。

急ぎなので、今回は小物達と、天狗しか持ってこられなかった。副官とも言える白蛇王を連れてこられなかったのは痛いのだけれど。

今、白蛇王には四日間の休暇を与えている。

これくらいはあげても良いくらいいつも働いているので、白蛇王がいない事をどうこうは言えなかった。

「中に怪異がたくさんいる。 正体を突き止め次第知らせよ。 捕獲できるようなら、連れてこい。 交戦は出来るだけ避けろ」

「了解」

式神達が散って行く。

天狗は念のために側に待機させる。此奴が不意打ちでやられるような相手がいる場合、被害の拡大が懸念されるからだ。

もっとも、戦力は出し惜しみしない。

敵に地の利がある状態だ。戦力を出し惜しみしていたら、一気に潰される可能性が高いのである。

建物の中に入ると、最初に目についたのは、グチャグチャに潰れた肉片だった。

そして、その側で何かを調べていた白衣の人物。

顔を上げると、驚いたように眼鏡を直した。

初老の男性だ。

「な、なんだね君達は」

「警察です。 此処でなにやら起きていると通報がありまして、駆けつけてきたところです」

「警察か。 私は医者だ」

此奴も、けが人が出たという話を聞いて、駆けつけてきたのだという。

呂津修治と名乗った医者だが。

どうにも妙だ。

「これは……どう見ても死んでいますね」

「ああ。 それも尋常な死に様じゃあ無い」

羽黒が跪いて、肉塊を調べる。ミンチになっているが、元が人間だったのは確実だ。青ざめている小暮。

此処で何があったのか。

かごめが、呂津を促す。

「生存者を探すわよ。 貴方、医者でしょう。 何か話は聞いていないの」

「此処で治験のバイトが行われていたらしいのだが、けが人が出たとかで、車で来たところなんだ」

「ほう……」

私の声の様子に、小暮が気付いた。

呂津が目を離した隙に、くいくいと指で招く。

耳を貸せという合図だ。

小暮が頷き、膝を突く。私は、耳元に囁いた。

「彼奴から目を離すな」

「分かりました。 何か気付いたのですね」

「ああ」

恐らくあれは、通報を受けて駆けつけた医者じゃあない。それについては、今はどうでもいい。

出来るだけ固まって、生存者を探す。

それにしても、ひどい有様だ。

彼方此方が滅茶苦茶に壊されていて、それこそ暴徒にでも襲われたような有様だ。

ゴキブリが集っている死体を発見。これも完全にミンチになっている。まだ比較的新しいけれど。

虫たちは、死の臭いには敏感なのだ。

「まだ蛆は湧いていないな。 そうなると、死んでからまだ時間が経っていない」

「流石に詳しいですね」

「まあな」

羽黒に応えるが、これは人見の受け売りだ。

蛆は検死には非常に重要な昆虫で、サイズなどを確認するだけで、死んでからどれだけ経過しているかを割り出すことが出来る。

人見などは、悲惨な死体を見慣れているからか。

蛆が湧いているのを確認すると、大喜びでサイズを測りにかかると言う。

それだけの境地には私もまだ至れないが。

この死体が新しいことだけは確実だ。

かごめが死体の様子を確認しながら言う。

「羽黒、周囲に呼びかけなさい。 私達は部屋を確認しながら行くわ」

「分かりました。 生存者の方、いらっしゃいますかー!?」

羽黒の声は、かなり響く。

天狗が眉をひそめたのは、五月蠅いからだろう。この中では、見えている面子も多い。かごめも怪異が見えているし、小暮は言うまでも無い。羽黒はまだ分からないけれど。この部署に来たと言うことは、ひょっとする。

そうこうしているうちに、三つ目の死体発見。

いずれにしても、ひどい状態だ。原形をとどめていないというか、内側から爆発しているような状態である。

怪異の残り香がある。

この死体、一番新しいかも知れない。

「純、気付いた?」

「うん?」

「これだけ損壊が激しいのに、死体そのものに暴行を加えた形跡が無いわ。 死体になった人物が散々暴れた様子なのにね」

「まるで内部から爆発したかのようだな……」

その時である。

上から、声がした。

少し遅れて、戻ってきたのはあくまかっこわらいである。普段役に立たない此奴だが。今日は、驚くことに、最初の報告を持ってきた。

「報告します!」

「どうした」

「虫です! 変な虫の怪異が、やまほど、わんさかいます! 大きさはこれくらいで、白くて蛆虫みたいで……あ、成虫みたいのもいまして、それははさみ虫に似ていました」

「ツツガムシだな。 小暮、気を付けろ。 小さいが、危険度が高い怪異だ」

私は即座に特定。ちなみに、かごめ達は先に行っている。私は後方を警戒しながら、小暮に注意を促した。

ツツガムシは、そういう名前のダニの仲間もいるが。怪異としても存在している。

怪異としては人の家に忍び込んで吸血するというオーソドックスなもので、人を食い殺すほどの脅威では無い。

だが、この死体の有様。

何より仮面の男からの連絡。

双方をあわせて考えると、普通のツツガムシより凶暴化していると見て良いだろう。それも、この死体の有様。

無関係とは思えない。

程なく、上から呼ぶ声が聞こえた。生存者が見つかったのである。

 

生存者の中には、どうやら小暮の妹である、綾もいるようで。小暮は心底ほっとした様子だった。

そして、連絡が取れなかった理由もよく分かった。

携帯を開いてみるが、ずっと圏外だ。

最近だと、田舎でもアンテナが立つことは多いのだけれど。これは意図的に圏外にしていると見て良い。

電話線については分からないが。

いずれにしても、まずは話を聞く前に、やる事がある。

生存者達は、籠城していた。

震えあがっていた彼らは、口々に言う。

突然、治験を受けていた人が暴れ出したのだという。

そして、爆発して、死んだ。

凄まじい死に様で。

今でも何人かは、トラウマを植え付けられてしまったらしく、震えあがったまま、完全に隅っこで大人しくしている。しばらくは、口もきけそうに無い。

ひどい有様だ。

連絡が来る訳である。

どうやって上部組織がこの非人道的実験に気付いたかは分からないが。もう少し早ければ、三人も救えたのだろうか。

どうせ実験に関与していただろう所長はどうでもいいが。

とにかく、今は、一人でも多く助けなければならない。

既に三人の死体を見つけているが。今生きている生存者達の証言を聞く限り、此処の所長をしていた人物と。その妻の姿も見えないという。

「暴れ出して死んだのは三人だけか?」

「わ、分かりません。 凄く混乱していて……」

受け答えが一番はっきりしているのが、小暮の妹だ。それはすぐに分かった。

似ても似つかない容姿だが、背が目立って高いのだ。聞いてみると、確かに小暮綾と名乗る。小暮の反応からしても、本人として間違いないだろう。

他には、いかにもお金が無さそうな、中年の男性と。それよりは少し若そうだけれど、目に隈のある若い男性。

太めで、非常に苛立っている様子の若者。

それに、まったく似合っていない派手な服を着飾った女性だ。

後の治験者も、皆痩せていて、お金が無さそうな人ばかり。

そして、この全員の中に。ツツガムシがいるのが、私には感じ取れた。危険な状態だ。

怪異達は、一度戻して、防衛線を張らせている。相手が怪異なので戦闘は可能だけれど、数が多すぎるのだ。

指揮は天狗に任せる。

状況を把握し次第、敵を駆逐。

この生存者達を救出して、マイクロバスとかごめのフォルクスワーゲンに分乗して此処を脱出する。

呂津が診察をしているが。

まあその様子を見ると、医師っぽくはある。

だが私の見たところ、此奴は恐らく医師では無いか。或いは。

「警察だって言うなら、早く助けなさいよ! こっちは目の前で人が死んで、怖くて仕方が無いんだからっ!」

きゃんきゃんと叫んだのは、若い派手な女性だ。

それにしても何というか、非常に服と背格好容姿、何もかもが頓珍漢に釣り合っていない。

自分ではアイドルを気取っているのだろうか。

側から見ると、痛々しいだけなのだが。

伊従春菜と名乗るが、それもいわゆる芸名かも知れない。ただし、特徴的なのは声だけだ。

私も話は聞いているが、そこそこ出来る声優は、基本的に劇団出身者である。昔声優ブームという時代があったが、声のかわいらしさや、アイドル出身だったりする演技未経験者は、殆ど生き残ることが出来なかった。

声優も一番大事なのは演技力なのだ。特徴的な声が好まれるケースもあるが、あまりにも演技がひどすぎると、一時期は受けてもすぐに凋落する。

こんな根本的な所を見落としているから、色々と齟齬が生まれる。

更に言うと、声優という業界は、万の中から二百人から三百人程度しか生き残れない修羅の世界である。

生半可な覚悟でやっていける場所では無い。

「彼女、同じ劇団の子です。 あんまり劇団には出てこないですけれど」

寂しげに綾が言う。

ちなみに、参加者の中にもう一人、痩せた女の子がいる。血色が悪い、いかにもお金が無さそうな彼女は、荒川えみり。此方も同じ劇団所属者だそうだ。

「少し落ち着いてください。 冷静な人、誰か?」

「冷静で何ていられるか!」

ぎゃあぎゃあと叫ぶ春菜。

これはちょっとばかり、荒療治が必要か。

かごめを見る。

頷いたので、やっていいということだろう。いずれにしても、此奴らの体内にいるツツガムシをどうにかしないと、死は確定だ。

印を素早く切る。

そして、私は一喝した。

「喝!」

ズドンと、研究所そのものが揺れる。

全員がその場に卒倒。

体内に相当数のツツガムシがいたのだ。それはこういう結果になるだろう。唖然とした呂津の前で、目を回した皆を見回したかごめが言う。

「小暮、薫。 周囲を見回って、安全な部屋を確保。 後、全ての部屋を、順番に調べていくわよ」

「分かりました」

「此処は任せろ」

私は残るが、天狗は三人についていかせる。

何が起きるか分からないが。

天狗の実力だったら、ツツガムシのちょっとやそっと、屁でも無く蹴散らしてみせるからだ。

対怪異用に調整している式神達だ。

対人能力に関しては小暮がいるし、問題が無い。

この部屋は、残っている式神全てを展開して、防衛線を張っているし、現時点での不安要素は。

呂津だけか。

さて。

まずは、気合いを入れて、倒れている小暮綾を起こす。

一番話が分かりそうだからだ。

呂津は青ざめていたが。注意を此方が払っているからか、何もできない。何よりも、中にツツガムシがいるとはいえ。興奮状態にあったり、恐怖にすくみ上がっていた者達を、一瞬で黙らせた私に戦慄しているのだろう。

「むん!」

「はっ!? え、な、何が」

「体内に訳が分からないものが仕込まれていたようだからな。 私が今、全て浄化して消し飛ばした」

「え……その、風祭警部、さんです、か?」

その名を聞いて、呂津がさっと青ざめる。

見逃さない。

だが、今の時点では、黙っておく。

頷くと、私は。

何が起きたのか、順番に聞いていく。冷静さを取り戻した綾は。周囲の倒れている人達を気にしながらも、順番に話をしていく。

「あの、兄から話は聞いています。 不思議な力と、凄い強さと、賢さを兼ね備えている凄いおまわりさんだとか」

「そうか、褒めてくれるのは有り難いが、今は人命が掛かっている。 順番に、話をしてくれるか。 まずはどうしてこんな危険なバイトに来たか、だ」

レコーダーをオンにすると。

頷いた綾は、一つずつ話し始めた。

「劇団でやっていくのは、とてもお金が掛かるんです。 モデル志望のえみりや、さっき騒いでいた春菜は……あまり劇団では熱心ではありませんでしたけれど。 とにかくお金が欲しかったのは事実です。 それで十日ほどの治験で、飲食睡眠つきで四十万円を貰えるって話を聞いて、みんなで飛びついてしまって」

「甘い話には裏があるものだ。 今回で思い知っただろう」

「……ごめんなさい」

「続きを」

頷くと、綾は順番に話をしていく。

此処に連れてこられると、所長の黒崎という人物と。更にはその恋人で、助手らしい木村という人物が出迎えてくれて。

合計で十三人から四人程度の人間が、此処で治験を受けると言う事になったと言う。

ベッドに縛り付けられて薬だけを投与されるわけではなく。

部屋でそれぞれ自由に過ごしながら、一日一度、薬を飲まされるだけ、という簡単なものだったそうだ。

しかし、である。

昨日、異変が起きたそうだ。

「薬が、尽きたんです」

「ふむ」

「よく分からないんですが、管理人の黒崎さんと、木村さんがいなくなって。 そして、薬が提供されなくなりました。 そうすると、途端にみんな、凄くその……凶暴になってしまって。 私も、正直な所。 さっきの一喝を浴びるまでは、凄く……暴れたくて、仕方がありませんでした」

「そして、実際に暴れ出した奴がいたと」

頷かれる。

一旦レコーダーを停止。

式神を一人、様子を見に行かせる。

すぐに戻ってきた式神は、以前ゆうかの学校でも伝令をした武士の霊だ。ぬかりなく、周囲の様子を報告してくる。

「かごめ様達は、丁寧に三階から調べております。 話を聞く限り、三階は宿泊スペース、二階は実験スペースとのことで。 一階については、合流してから主様と一緒に調べたいと話しておりました」

「なるほど、そうか」

薬の残りはあるか。

そう聞くと、綾は首を横に振る。

普通だったら、麻薬か何かかと思うところだろう。何しろ、この状況。依存性によって暴動が起きた、と考えるのが自然だからだ。

だが、治験者達の中には、ツツガムシが巣くっていた。

どう考えても、ツツガムシを大人しくさせる薬、というのが正しい状況とみるべきだろう。

だが、である。

問題は、ツツガムシなんぞを体内に入れて、何の意味があるのか。

今までのように、怪異が人体をコントロールして、爆発的な身体能力を発揮する兵器としては、ツツガムシは不向きだ。そもそも体内に入らないといけない上に、何よりもそれほど爆発的な力は出せない。

というのも、ツツガムシは知能が虫並で。

人間の言うことを聞く、などという器用な真似は出来ないからだ。

怪異と一口に言っても様々。

中には、本当に動物と変わらない輩もいる。

動物と同じ姿をしていても、崇拝の結果人間より知能が高くなっているケースもある。そういうものだ。

どのみち、奴らが関与しているのだ。

何が起きているのかははっきり確認しなければならないし。

それに、此処にいる凶暴化ツツガムシ。

根絶しないと危険すぎる。

大体、奴らも、武装兵の部隊を増援で送り込んでくるかも知れない。ただ、そっちの対処は、出来れば上部組織に頼みたい。

我々はあくまで対怪異の専門部隊であって。

アサルトライフルで武装した特殊部隊とやりあうために作られた組織では無いのだから。

ほどなく、かごめ達が戻ってくる。

天狗が耳打ちしてきた。

「ツツガムシが、騒いでおります。 調査中も、かなりの数が、寄生しようと近づいてきていました。 全て打ち払っておきましたが」

「ご苦労。 前線の維持を」

「承知」

天狗が下がる。

咳払いすると、かごめが此方に来た。今、指揮をしているのは私とかごめだ。まず私が、かごめに、レコーダーの内容を聞かせる。

頷くと、かごめは、三階と二階の様子を話した。

「まず三階だけれど、ミンチになった死体が後二つあったわ。 どちらも、暴動が始まってからすぐに亡くなったようね」

「そうか。 後で回収して、調査に廻さなければならないな」

「ええ。 そして二階だけれど。 どうやら医療室らしきものと、薬剤室らしきものが存在していたわ。 ただね……」

羽黒に顎をしゃくるかごめ。

苦手だからか、喋るのが嫌なのだろう。

この辺りは、かごめが案外デリケートな所もあるのだと、分からせてくれて面白い。

「実は、ざっと薬棚を調べたのですが、どれも普通の医療に用いる薬ばかりで、依存性の強いものや、幻覚を引き起こしたり、凶暴になったりする副作用のある薬は存在しませんでした」

「具体的にどのようなものがあった」

「ええと、専門的になりますが、良いですか?」

「ああ、かまわんよ」

さらさらと、羽黒が並べていく。

私はそれもレコーダーで記録。

そろそろ、頃合いだろう。

警察無線を使って、山梨県警に連絡。妨害がひどいが、この警察無線は電波を最大強化している特注品だ。

山奥で、携帯が使えないような状況でも、確実に電波を届けてくれる。

「本庁の風祭警部だ。 山梨県警の広川警視につないでくれ」

「分かりました」

広川は、以前貸しを作ったキャリアだ。

典型的な、国家一種を通っただけの無能で、危うく担当事件を迷宮化させるところだったところを、私とかごめで助けてやった。

更に、その手柄を譲ってやった。

貸しとして、だが。

同じ事を二件起こしている。それだけ無能な男と言う事である。不思議な話だが、日本では一般の警察官は有能であっても、指揮を執るべきキャリアが極めて無能というケースが目立つ。

つまりエリートが「出来ない」のだ。

此奴もそのだめエリートの一人。

無線に出てきた広川は、不安そうに話をしてくる。

「な、何か問題が」

「今、違法な治験バイトが行われている施設に来ている。 薬の影響か、暴動が発生し、既に五人が死亡したのを確認している。 暴動は鎮圧したが、十人以上が不安を抱えたまま立ち往生している状況だ。 すぐに出来れば十人以上の増援部隊と、護送車と、救急隊員を寄越して欲しい。 まだ暴徒がいる可能性があるから、フル武装で頼むぞ。 もう夜だが、出来るだけ早くだ」

「わ、分かりました。 以前は世話になりましたし……」

「事は一刻を争う。 急いでくれ」

無線を切る。

この無線、特注だからか、すぐにパワー切れになる。様子を見極めてからでないと連絡できなかったのだが。

これで、増援は来る筈だ。

最悪の場合、マイクロバスを使ってピストン輸送するしかない。この生存者の数から考えて、マイクロバスを一度動かすだけでは足りないし、何よりもあのバスでは動くか不安なのだ。

さて、周囲は式神達が固めているから大丈夫。

私は私で、することがある。

反応からして、ツツガムシは一階の奧に集まっているようだが。其処へ乗り込んで、敵の主力をぶっ潰す。

だが。小暮綾が、おかしいと言い出す。

青ざめて、震え始めてさえいた。

小暮が、ずっと心配していたからだろう。

真っ先に反応する。

「どうした、綾」

「お、お兄ちゃん。 おかしいの」

「何がだ」

「あの、さっきから気付いているんだけれど。 暴れていて、爆発した人が、いるの、その倒れている人達の中に」

はあ?と声を上げたのはかごめだが。

しかし、すぐに彼女らしく、冷静な判断を下す。

「興奮状態での幻覚でしょう」

「ま、間違いありません! あの奧にいる男性」

小太りの、いかにも気むずかしそうな青年だ。気を失っているから、今は静かだが、起こさなくても良いだろう。

手に、非常に特徴的な時計をしている。

何かのキャラクターグッズか。

「あれをしていたのを覚えています。 三階で、死んでいたはずです」

「そういえば」

かごめは、記憶力にも優れている。

すぐに、綾が言った事が間違っていないと言う事に気付いたのだろう。時計を確認するが、血まみれだ。

そういえば。

他の人間も確認するが。

何人か、血まみれの者がいる。

暴動に巻き込まれたのかと思ったが。

いや、本当にそうか。

ちなみに、血まみれになっている人数は三人。

つまり。

「二人は所長と、その助手か……?」

最大級に嫌な予感がする。

そもそも、所長がそんな危険な治験薬を、自分に入れていたのか。

山梨県警の応援が来るまで、四時間ほどと推定されている。その間に、ツツガムシの退治と。

この非人道的施設で行われていた実験の全てを。

解き明かさないとまずい。

私は、それを今更ながらに、悟らされていた。

 

2、双の影

 

式神達に防衛線を維持させたまま、私は皆と一緒に、調査を開始する。なお、小暮だけは不安だと言う事なので、その場に残した。

まあ仕方が無いだろう。

まずは、薬剤室を調べる。

かごめは科学方面の知識はそれほど豊富ではないと言う事で。羽黒が、これはどう、あれはこう、と説明しているのを、面倒くさそうに聞いているだけだった。ただし、聞いたことは忘れないようだが。

「なるほど。 やはり人間が爆発するような薬は、間違っても無い、というのだけは確実ね」

「それは断言して良いと思いますよ。 へへ」

「……」

なんか可愛く笑う羽黒に。

露骨に嫌そうに顔を歪めるかごめ。

本当に天敵なんだなと、ほほえましく思った。

いずれにしても、今はさっさと全てを片付けるべきだ。小暮の所には、式神がたくさんいるし。

生半可な神クラスの怪異なら、互角にやり合える天狗もつけてある。

簡易だけれど、私が結界を張った。

ツツガムシ程度なら、どれだけ背伸びしても、簡単には入れないし。

最初の一喝で、治験者達に巣くっていたツツガムシは全部処分した。

そればかりか、あの一喝で、この施設内のツツガムシの七割方は消し飛んだと見て良いだろう。

少なくとも餌を探して徘徊していた奴は、全部浄化されたはずだ。

天狗に襲いかかったのは、恐らくその後、巣から這い出してきた奴らだろう。

「やはりおかしな薬はありませんね」

「一階に下りるわよ」

「ああ。 気を付けろ。 一階の奧に、妙なスペースがあるようだ。 さっき聞かされたが。 立ち入り禁止にされていたらしい」

「へえ、臭うわね」

二階の部屋も、片っ端から調べる。

健康診断に使うような機器類がたくさんあったのだが。

それらを使う人員が見当たらない。

ふと、気付いた。

しおりが、一角にたくさんしまわれている。ざっとみるが、なるほど。この施設の正体が分かった。

一時期箱物が作られては、金が無駄になるという無駄行政が盛んに行われていた時期があったが。

此処もそうだったのだ。

どうやら此処は、地域用の医療施設だったようなのだが。

人員が集まらずに、五年と掛からず廃棄されてしまったらしい。

せっかく様々な用途で設備が作られたと言うのに。

稼働していれば、この辺りの医療に大きな貢献をしただろう事は間違いなく。本当にもったいない話だ。

それを、奴らが略取して。

邪悪な実験に使っていたのだとすれば。

なおさらに許しがたい。

「一階に行くか」

「風祭警部! 賀茂泉警部!」

不意に、羽黒が声を上げた。

駆けつけてみると。

其処では。

一階への入り口が閉じられ。

電子ロックが掛けられていた。明らかに、誰かしらの仕業である。まだ生存者がいた、ということか。

「かごめ、さっきの話、覚えているか」

「どの部分?」

「死んだのは五人。 だが、死んだ筈の人間が三人生きていた」

「……ええ。 幻覚でしょうけれど、それが何」

問題は、差分の二人。

そして今。

二人、行方不明者がいる。

「黒崎所長と木村助手だ」

「二人生きていて、妨害工作に出ている、ということ?」

「そういうことだな」

いずれにしても、扉が邪魔だ。

さっと扉を調べる。

補強はされているが、この程度は何でもない。

「羽黒、ブチ抜けるか?」

「無理ですよ! これ、結構分厚いですし」

「じゃあどいていろ。 かごめ、息を合わせていくぞ」

「ええ」

かごめはするりと、右手を上に、左手を下に。王者を思わせる構えを取る。

私はというと、腰を低く落として、踏み込みの態勢を取る。

そして、完璧に息を合わせると。

かごめが双掌打を。

私が、呼吸を整え、全身の力を一点に集中し、火力を上げた蹴りを、扉に叩き込んでいた。

一撃で拉げる扉。

そして、もう1丁、同じ一撃を浴びせてやると。扉は、蝶番ごと吹っ飛んで、階段の下に派手な音を立てながら落ちていった。

眼鏡を直す羽黒。

「凄いですね! 相当な武闘派だと聞いていましたけれど」

「小暮ならタックルで一撃だ。 私もかごめもまだまだ精進が足りんという事だ」

「流石にあの人間戦車と一緒にされたら困るわよ。 貴方もその体格で、非常識すぎるレベルの戦闘力だわ」

「いやー、褒められると照れるな」

かごめと私は実力を認め合っている仲だからか。

そうやってたまに面と向かって褒められると、ちょっと本気で照れてしまう。羽黒がにやにやしていたので、咳払い。

「さて、阿呆がいるなら一階ね」

「それは間違いないだろう。 二階にいながら、私達から気配を隠し通せるとは思えないしな」

とりあえず、おいつめて、ぶっ潰す。

これだけの事件を引き起こし。

下手をすると、十数人の死者を出しかねない事態を引き起こしたクズ共だ。

絶対に、許すわけにはいかないのである。

 

一階に下りる。

研究施設と違って、応接施設だが。まず一番危険が予想される場所については、後回しにする。

台所や食堂もあるが。

まずは所長室だ。

所長室には、手記があった。

恐らく奴らの組織から派遣されてきた人員なのだろう、黒崎は。そして恐らくは、あの呂津も、である。

だが、黒崎は、自分の手で手帳に日記をつけており。

それは、今でも閲覧できるようになっていた。

これは恐らく。

相当に大きな事件があったから、というのが類推できる。

ざっと中を見る。

いきなり、衝撃的なことが書かれていた。

「死んだ、だと」

木村が死んだ。

恋人であり。

組織内でもパートナーであり。

苦楽を共にして来た木村が、事故によって死んだ、というのだ。

危険な実験である事は理解していた。

それなのに、一瞬のミスだったと、悔恨に満ちた文字が、手帳に躍っている。それで、組織の人員は殆どが引き上げてしまったとも。

元々此処では、蟲と呼ばれる存在の研究をしていたらしいのだが。

その研究そのものについては、資料が出てこない。

同じ部屋を羽黒が漁っているが、流石に其処まで不用心ではないのか。何処にも存在しなかった。

だが、かごめが。

大きな声を張り上げた。

「ちょっと、こっちに!」

余程のことだ。

走りより、冷蔵庫を開けると。其処には。

人間の死体があった。

中年になる少し前の、くたびれた感じの女性。膝を折り曲げられ、冷蔵庫に入れられている。

確実に死んでいる

それは明らかだ。

「ネームプレートを見て」

其処には。

木村、と書かれている。

まさか。

これが、木村の死体なのか。

「本当に此処では、何が起きている」

「本当にねえ……」

不意に、第三者の声。

全員が、瞬時に戦闘態勢に入る。

其処に立ち尽くしていたのは。

小暮綾から聞かされていた特徴と一致する、所長黒崎。

馬鹿な。

どうして此奴がいる。

推理が外れたのか。それとも、他に何か、理由があると言うのか。

「せっかく蘇らせたのに、あの蟲どもめ。 低脳だから、知能まではどうしても再現できないんだよねえ。 挙げ句の果てに、形状を維持できなくなって、爆発してしまう始末だよ。 目の前で、愛する人の死に様を、二回も見せられる絶望、分かるかい?」

「錯乱しているようね。 黒崎、殺人および死体遺棄、更には薬事法違反、監禁の容疑で逮捕するわ」

かごめが手帳を見せるが。

黒崎は、無気力な様子で、抵抗しようというそぶりさえ見せない。

にやにやと嗤っているばかりである。

そればかりか。

更に、事態は急変する。

ニセバートリーが、天井を突き抜けて、降りてきたのだ。

「大変よっ!」

「どうした!」

「尋常じゃ無い数の虫よ! あの気持ち悪い奴ら! あいつらが、一斉に三階に攻めてきたわ! 今は天狗が守ってるけれど! いつまでもつか!」

「よし、分かった。 すぐに行く。 戻って加勢しろ」

私はかごめと頷きあうと、瞬時に跳躍。

私は黒崎の顔面にドロップキックを浴びせてブッ倒し。

かごめが倒れたところに、後ろ手に手錠を掛け。

更に縛り上げて、羽黒に指示。

「担いで、ついてきなさい」

「んな無茶な!」

「急ぐわよ、純!」

「ああ」

もう、かごめもいちいち野暮だからか、ニセバートリーの急を知らせる言葉に対して、聞こえていないふりはしなかった。

そのまま、階段を段飛ばしで駆け上がる。

途中のドアはそのまま蹴散らして、三階に。

そこは、文字通りの、地獄絵図だった。

普通の人間にも見える程度の力を得たツツガムシ。それが成虫幼虫問わず、それこそ万を超える数で、私の作った結界に殺到しているのである。

天狗達が内側から結界を護り支えているが。

これでは、確かに喰い破られる可能性がある。

私は躊躇無く印を切り、喝を入れる。

「喝っ!」

だが。

数十のツツガムシが、瞬時に壁になり。

自壊する形で、私の一撃を、味方に通すのを防ぐ。そればかりか、浄化された仲間の死体を踏み越えて、今度は私達に向けて、殺到してくるツツガムシ軍団。

面白い。

見せてやろう。

気を練り上げると、踏み込み。

波動真言砲を叩き込む。

ごっと音がして、殺到してくるツツガムシたちが、蒸発する。しかし、それもだ。同じように、仲間を壁にして、自壊することでダメージを減らす。一度に数百しか減らせていない。

主力はまだ結界を破ろうとがじがじしているし。

かごめは怪異に対する決定打を持っていない。

舌打ちすると、私は、連続して波動真言砲を撃ちながら、足を進めていく。前線を押し上げていくが。

これにも限界がある。

なるほど、散々私にいてこまされて。

それで対策をしっかり練ってきている、ということか。

ツツガムシは決して強い怪異では無いが。

自壊することによって、味方への攻撃を防ぐというこの連携を行えるとは思わなかった。

まてよ。

これは少しばかりおかしい。

そもそも此奴らが、群れで狩りをするタイプの怪異だったら、もっと大きな脅威になっていたはずだ。

相応に危険な怪異なのは事実だが。

この行動そのものがおかしい。

かごめが動いたのは、その時だった。

影から飛び出してきた、凄まじい形相の人影が、出刃包丁を持って、波動真言砲を討った直後の私に、躍りかかったのだ。

それにタックルして、組み伏せる。

そして、手錠を即座に掛けた。

一瞬だけ顔を見たが。

なんということだ。

その顔は、あの冷蔵庫で死んでいた。

木村そのものではないか。

一体何が起きている。

いずれにしても、敵がこういう対策を取ってきた以上、此方も本腰を入れなければなるまい。

「天狗! 全力での一撃を入れる! あわせろ!」

「応っ!」

何度か舞うようにして、気を練り上げていく。

戦闘用の演舞だ。

こうやって体を動かすことにより、体内の力を練り上げていくのである。最大出力、波動真言砲。

更に、それに上乗せ。

悪しき怪異よ、滅ぶべし。

「最大火力……」

まずいと思ったか、凄まじい数のツツガムシが、向かってくる。

この統率された行動。

やはり、普通のツツガムシでは無い。それも、単に強化されている、というレベルではないだろう。

だが、関係無い。

怪異である以上。

私は、絶対に負けない。

あらゆる意味でだ。

「波動真言砲!」

敢えて口にするのは、言霊の力を乗せるため。

通路に満ちていた、万に達するだろうツツガムシどもは。天狗が他の式神達の力を集めてうち込んだ、浄化の風と混ざり合った私の波動真言砲の力を浴びて、文字通り根こそぎ。通路から、一掃されていた。

同時に、結界が破れる。

呼吸を整える。

流石に危ないところだった。

かごめが、手錠を掛け、拘束した木村らしき人物を押さえ込んだまま、やっと到着した羽黒に怒鳴る。

「遅い!」

「こんな細い僕に何を期待しているんですか。 僕はゴリラじゃ無いんですよ」

「私がゴリラだって言いたいのかあっ! このモヤシ眼鏡があっ!」

「まあまあ、怒っていなければゴリラじゃ無くてスーパーモデルですって。 それにゴリラは獰猛なチンパンジーと違って優しい森の守護者じゃないですか」

流石に唖然。

羽黒の肝の太さも凄いが。毒気を完全に抜かれたかごめが、あきれ果てた様子で脱力したのも凄い。

部屋から、小暮が出てくる。

「先輩、大丈夫であり……」

即座に気付く小暮。一緒に出てこようとした綾を必死に小暮が押しとどめた。

理由は簡単だ。

かごめが押さえ込んでいた、木村らしき人物が、ぶくぶくと、凄まじい音を立てながらふくれあがり。

かごめと、それに羽黒が意外に素早い動きで飛び退くのと同時に。

爆発したのである。

後は、ミンチだ。

慄然とする私の前で。既に正気を完全に失っている様子の黒崎は、けらけらと笑うばかりだった。

「二回目もだめかあ。 他の連中でも実験したのに、どうしても上手く行かないなあ」

もう、誰も言葉も無い。

部屋に入る。

全員無事だ。

ツツガムシに入られている者もいない。

ニセバートリーに褒めの言葉をやる。天狗も、ニセバートリーをフォローした。

「あの危険な状態で、よく伝令を買って出たな」

「へへ、どうよ」

「この娘、誰よりも早く判断して飛び出しました。 もう少し待遇を良くしてやってくだされ、主よ」

「ああ。 大したものだ」

今度、ちょっとした休暇をやろう。

此奴はいずれ成長していけば。式神として、私の手持ちのエースになり得るかも知れない。

部屋を見回す。今の騒ぎでも、起きだしてきた奴はいないけれど。

だが、この有様では、何が起きるか分からない。

私も、全力に、更におまけを乗せた波動真言砲を撃って、流石に疲れた。腰を下ろすと、小暮に言う。

「何か、くうものは……」

「あの、まだ残していたのですけれど、これ……」

「むぐう! ……し、しかし背に腹は替えられん。 いただこう」

綾が差し出してきたのは。

一本食べれば、他の何も食べる気すら起こらなくなる、激烈に甘くてもううんざりしてしまうチョコバーだった。

おなかがすいたら、というキャッチフレーズで販売しているアレだ。

チョコレートはレーションとして採用されるほどに、栄養価のコスパがいいのだけれど、これはあんまり調子に乗って食べているとあっという間に太るという恐怖の代物である。だが、今は少しでも、栄養の補給が欲しい。

予想通り、一本喰うだけでもう何も見たくなくなる。それくらい、カロリーが凄まじいという事だ。

口の中が甘味の大洪水になっている中。二人に確認しておく。

「かごめ、羽黒、血を浴びていないか」

「僕は大丈夫です」

「私もよ。 まあ、今見た事については、見なかったことにしておくわ」

かごめがそんな風に言ってくれるのは嬉しい限り。

まあ、もうそろそろ、かごめも素直になっても良いような気がするのだが。

それは、此処で言っても詮無きことだ。

黒崎については、皆が見ているところで、しっかり足も縛り上げて、尋問する。かごめが尋問しているのを、私は結界を張り直す天狗を横目に。ぼんやりと見ている他なかった。今は、力を蓄えるべき時だからだ。

 

3、死んだ筈の者と、いないはずの者

 

かごめは、ゆっくりと黒崎に尋問していく。

相変わらずの巧みな尋問である。

何より、頭のねじが完全に外れてしまっているからだろう。

言われた事に、黒崎はすらすらと応えていく。もう、隠す気は無いのかも知れない。

「どうして死んだ人間がもう一人いたの?」

「ドッペルゲンガーというのは知っているだろう?」

「ああ、本人と同じ姿をして現れると言う都市伝説の」

「此処ではそれを造り出す研究をしていたんだよ。 本物のドッペルゲンガーは、西洋圏で一神教の対怪異能力者に狩りつくされてしまっていてね。 疑似的に同じものを造るのと同時に、様々な応用実験もしていたのさ。 例えば、他人の手足をくっつけて、そのまま動くようにするとか。 最初は私と恋人と二人だけでやっていたんだけれど、つい最近になって急ぐようにって指示が来てさあ。 治験者をバイトで集めて、一気に効率化をしたんだけれどねえ。 でも、ご覧の有様だったんだよ。 最初に三人、続けて十人入れたんだけれどねえ」

かごめがあきれ果てた顔をするが。

黒崎は恐らく本当のことを言っている。

そして、その最後に言った事。

ひょっとして。

此処の実験が、応用されていた、ということか。

そういえば、高嶋紅の信者達を私が一喝で全員潰した後。その無理矢理移植した手足がすぐに腐れ果てたという話も聞いている。

という事は。やはり、あの手足には、此処で作り上げられた技術を使用していた、とみるべきか。

「人数を増やしてもね、どうしても肝心なところが上手く行かないんだ。 人間のDNAを摂取して、群れで擬態する蟲、ああ、怪異としてはツツガムシだっけ、それを作成することには成功したんだけれどね。 これがどうしても、知能は低いし、記憶は引き継ぎ切れないし、何よりも攻撃衝動は抑えきれない。 挙げ句の果てに、時間が経つと爆発してしまう。 怪異に肉を与えるのは、無理があった、ということさ」

「意味が分からないわ。 貴方の妄想を話せと言っているのじゃあないのよ」

「本当のことだよ。 だって冷蔵庫の死体を見ただろう。 あれは本物の私の恋人だったモノだ。 どうしても葬儀をする気になれなくてね。 まあ色々と無茶な実験をしていたし、それで死んだのだろうけれど」

「恋人で実験をしていたというの」

見る間にかごめの眉間に皺が寄っていくけれど。

黒崎は、更におぞましい事を言う。

「私も実験対象さ。 だから、ほら。 其処をみてごらあん?」

顔を上げる。

気配もなかったのに。

部屋の入り口には、黒崎が立っていた。

顔には、狂気だけが浮かんでいた。表情も、もはやまともなものだとはとても思えなかった。

無言のまま、小暮がタックルを浴びせて吹っ飛ばす。

壁に叩き付けられたもう一人の黒崎は、すぐに爆発して、ミンチになる。

何が起きているのか、まったく分からないと言う様子の綾の視界を、小暮が体で防ぐ。妹にこんなものは見せられない、という配慮だろう。

「だから、何度も実験したんだがねえ。 それでようやく抑止薬が出来て、偽物を本物に混ぜ始めたんだよ。 だけれど、薬が急に届かなくなった。 後は抑止薬が切れた偽物が暴れ始めて、この有様、というわけさ。 その騒ぎの中、隔離していた本物も逃げ出して、そこに混ざったみたいだけど」

かごめは押し黙った。

此奴が嘘を言っているとも思えず。そして、どう判断したものか、困っているという雰囲気だ。

プロファイルの達人も、専門外の事については、どうにもならない。

なるほど、綾が爆発した人がいる、というわけだ。爆発した人は偽物で、本物はどさくさに紛れて、何が起きているかも分からないまま、合流していた、という事なのだろう。

かごめに耳打ち。

この様子だと、「ドッペルゲンガーもどき」が、まだ現れる可能性がある。その時に備えておく必要があるからだ。

幾つか耳打ちしておく。呂津についても。

なお、かごめも呂津が怪しい事は悟っていたらしく、静かに頷くと、私に尋問を交代した。

私としては、別の事を聞く。

「本物はどこにいる」

「へ?」

「今の話が本当なら、治験を前からやっているだろう。 何人かの治験者がいたはずだがそいつらはどうした」

ひひひと、黒崎が笑う。

その笑いは、とてもではないが。もう、正気を残しているとは思えなかった。

「そんなもの、残しておくわけないだろう。 とっくにツツガムシたちのエサだよ。 この間作った試作品の三人分も、処分しようと思っていたんだけれど、その矢先にこの事件が起きてね。 それは出来なかったんだあ」

「……そうかそうか。 では、そのツツガムシとやらはどこに巣がある」

「もう察しているとおり、一階の一番奥のプールだよ。 さっきの猛攻をよく凌いだねえ、だけれど奧にはまだクイーンが残ってる。 幾ら君が化け物じみていても、とてもではないが倒せっこないよ」

「もういい黙れ」

此奴にもう用は無い。

狂気の果てにおぞましい実験を行い。少なくとも三人を手に掛けた連中の一人、という事は分かった。

そして、私はこれからやるべき事がある。

「行ってくる。 此処は任せるぞ」

「何処へ。 何をしに」

「一階に、此奴が言うクイーンとやらを潰しにだ。 他の皆は正直専門外の分野だろう」

少し疲れは溜まっているが。

もし山梨県警の警官隊がそれに襲われたら大変なことになる。殉職者が大量に出ることになるだろう。

それに、さっさと怪異そのものは片付けて。

他にやる事があるのだ。

「小暮、かごめ、羽黒。 此処は任せるぞ」

「無理はしないようにしてください、先輩」

「ああ……」

まあ、大丈夫だ。

怪異相手に。

私が負ける事は無い。

 

一階。

一番奥には、広大なプールが拡がっていた。というよりも、一階が沈み込むように不可思議な構造になっていて。

正確には地下一階、というべきかも知れない。

これは恐らく、箱物施設として作られた所に、無茶な改造を施した、という所だろう。そして、周囲には。

異常なまでの血の臭いが漂っていた。

怪異がいる。

それも、さっきと同等か。それに近い数の。

天井から、不意に降り注いでくる無数のツツガムシ。私は軽く手を払うだけで、その全部を浄化したが。

常人だったら、一瞬にして食い尽くされて死んでいただろう。

だが、それを引き金に。

全方位から、一斉にツツガムシが現れる。

後ろからもだ。

だから、私は冷静に。まずは振り向き様に、波動真言砲をぶっ放し。後ろのツツガムシを瞬時に浄化すると。そのまま後方の通路へと飛び込む。

後は、軽く下がると。殺到しすぎて前方の通路を塞いだ膨大なツツガムシを。まとめて波動真言砲で消し飛ばすだけである。

さっきとは状況が違う。

此方に備えていたわけでは無く、不意打ちに近い形で、密集していたところをまとめて叩かれては、ひとたまりも無い。

一撃で大半が消し飛び。

そして、もう一撃がとどめとなった。

さて、もう一度。

25メートルの。おぞましい汚水が貯まったプールの部屋に入る。そして、気付かされた。

なるほど、高嶋紅がいたあの部屋。

あれと同じ仕組みか。

恐らくは、私達が踏み込む前に回収されていたのだろうが。彼処の汚水プールにも、ツツガムシが放たれていたのだ。

そういうことか。

そして恐らく、薬が届かなくなった理由についても。仮面の男が、急ぎだと言ってきた理由も分かった。

上部組織が、此処での研究成果を確認。

薬の供給源を、製造施設をぶっ潰すか、ラインを断つかして、破壊したのだろう。

或いは、別の研究所を潰したことで、此処の存在が明らかになったか。

いずれにしても、部隊を送り込むには何かしらの障害があったのか。

それとも私達に経験を積ませるためか。

故に連絡が来たのだ。

人命が掛かっているのだ。後者という可能性は考えにくい。恐らくは、前者だと判断して良いだろう。

「さて、姿を見せろ、クイーンとやら」

少し疲弊しているが、関係無い。肩を掴んで右腕を回しながら、プールに歩み寄る。そうすると、ついに観念したか。

それが、姿を見せた。

大きな蛇のような体に。顔だけが人間。

なるほど、磯女か。

吸血を行う怪異は日本にも何種類かいるが。その中でも、磯女はかなり凶悪な部類に入る怪異である。怪異としての危険度は、名が知れた祟り神に匹敵するほどの存在だ。若手の対怪異能力者を返り討ちにするケースもあるほどの実力派である。

主に九州に出現する怪異だが、殺傷能力が非常に高く、類種も含めて相当に危険な怪異の一つとしてあげられる。排除対象の怪異が此奴だと分かっている場合は、ベテランが投入されるのが原則だ。新人では縊り殺されるのが関の山だからである。また、放置しておくと、原因不明の海難事故死者を量産することにもなる。

海の怪異は大きかったり殺傷力が高かったりするが、それは昔の海がそれだけ危険だった、という事を意味している。

この磯女は、岩場に生息し、誘惑した男の血を吸い尽くして殺してしまうが。

これは岩場で事故死した人間が、海の水にさらされたり様々な理由で血が抜けた死体として発見され。

それが怪異の仕業とされたのが原因だろう。

「妾の子らをようも手に掛けてくれたな人間……」

「古い怪異のくせに、その人間に良いように使われていていいのか、うん? それとも年を取りすぎて、呆けて判断力を無くしたか?」

「だまれ、喰いころ……」

最後まで言わせない。

跳躍した私が、顔面に拳を叩き込んだからである。

ふっとんだ磯女が、プールの遙か向こうまで蛇体ごと飛んでいき。壁にびたーんと面白い音を立てて叩き付けられる。

そして、ずり落ちる磯女は。

髪を振りかざして抵抗しようとした。

一撃浴びてまだ抵抗しようとするのは、流石に古豪が故か。そして磯女は、髪の毛から血を吸うという伝承があるのだ。

だが、関係無い。私の一撃を食らって、戦闘能力が残る怪異は存在しない。

プールを迂回して、すぐ側にまで近寄っていた私が。

髪をそのまま手づかみすると、振り回してコンクリの床に磯女を叩き付けたからである。

ぎゃっと悲惨な声を上げて。

磯女の蛇体が破裂した。

サンマの蒲焼き状態になった磯女は、痙攣していたが。すぐに、奴らが施していたらしい、邪悪な呪法の気が抜けていく。

みるみる、その体も、縮んでいく。

頭を踏みつけると。

磯女はもがく。

「ま、まて、妾は、したくてこのようなことをしたのでは……」

「ああ知っている。 だが、三人ほど此処で喰ったな」

「それは、妾を操っていた奴らに、洗脳されていたから」

「黙れ」

ぐしゃあと、更に踏みつける。

蹴り技の応用で。足をそのまま殆ど動かさずに。ストンピング以上の衝撃をそのまま叩き込む技だ。

身動きしないまま、相手に痛打を浴びせられるので、重宝している。

もう、髪も動かせない磯女は、むぎゃあと情けない悲鳴を上げる。

「喰ったな?」

「ゆ、ゆる、ゆるしてたもれ! 妾は」

「喰ったかと聞いている」

「ぴぎゃあああっ!?」

今度は、髪の毛を掴んで顔を引っ張り上げ。更に顎を蹴り挙げた。

天井に頭から突き刺さった磯女の、蒲焼き状態になっている尻尾を引っ張って。天井から引っこ抜く。

また、びたーんと地面に伸びた磯女。

床には、プラナリアみたいな形のコンクリの粉砕跡が残り。

天井には、此奴が突き刺さった跡が残っている。

「ごめんなさい、喰いました……しかし妾が喰ったときには、既に死んでいました……」

「死体の残骸は残っているか」

「その、喰らったのは、魂だけですので……」

「そうかそうか」

無理矢理磯女の口を上下に引き裂くと、もう声も出ない様子の喉の奥に手を突っ込み、魂を三つ、引っ張り出す。

そして、真言を叩き込んで浄化して、この世から解放。

もう言葉も無く、床でぴくぴくしている磯女を、手札に入れる。顔を覆ってしくしく泣いているのは、私は被害者ですのにアピールだろうか。

巫山戯るな。

何度か磯女やその類例怪異とは交戦したことがあるが、伝承の通り獰猛な連中ばかりで、多くの場合人も殺していた。

奴らに捕まり、何らかの理由で操作されていただろう此奴も例外ではない筈だ。

まあ式神にして、後はずっと本家でこき使う事にしよう。便所掃除を百年くらいさせるのがいいか。

「さて、お前を捕まえに来たのは何故だと思う」

プールの側を歩きながら、確認。

ちなみに、その前に一喝して、まだわずかに残っていたツツガムシを全部まとめて浄化したので。

既に怪異の気配はない。

此処に残っていたツツガムシが全滅したという事は。

例の疑似ドッペルゲンガーも全滅した、ということである。

「わ、妾には分かりませぬ」

「此処のボスの顔は分かるだろう」

「そ、それはもう。 あなた様にであれば、すぐにでもお知らせいたします」

プールの中には、無惨な死体が三つ、浮かんでいる。かなり死んでから経っている様子で、腐乱がひどかった。

事件が起きなければ。ドッペルゲンガーを作られていた、今の治験者達も、こうなっていた可能性が高い。黙祷すると、私は嘆息。

どうにか山梨県警が来る前に、全てが終わりそうだ。

頷くと。

私は、これからどうすればいいか、磯女に指示した。そして、その段取りも、である。

「しくじったら完全に消し飛ばすから覚悟しろ」

「そんな恐ろしい事絶対にいたしませぬ! 不動明王が如きあなた様のお力、充分に思い知りましたが故!」

「そうかそうか」

太鼓持ちはどうでもいい。

必死に顔色を窺っている磯女は。

もはや、哀れな私の走狗に過ぎなかった。

 

4、真相

 

三階に戻る。

黒崎は、私を見て、目を見開き。がたがたと震え始める。分かったのだろう。私が、一階というか、その奥にある部屋にいる怪異を全滅させたと。

かごめが伊達眼鏡をすりあげる。

「一応、本物かどうか確認しても良いかしら?」

「構わないぞ」

「私が持っている王者のコレクションとしてふさわしいグッズは?」

「レディGGモデル」

ふふんと、かごめが何故か自慢げ。

そして、私もそれに返す。

「ちなみに私の自慢の一品は、超合金モデルだ」

「どうやら本物のようね」

「……何の話ですか? 小暮先輩」

「お二人が好きな猫のグッズだ。 正直自分にはついて行けない世界だが」

自慢げな私の様子を見て、羽黒が小暮とひそひそ話している。

何故このグッズの良さが分からないのかが問題だが。それはひとまず、後回しである。まあ、真のコレクターは、相手の趣味を尊重するもの。実際かごめと私は、同じグッズのコレクターだが。相手の良さは認め合う仲だ。コレクターとは、かくあるものでなければならないのである。

咳払いすると、安全が確保されたこともある。

私は、目を覚ましている小暮綾も安心させるために、(そして黒幕を潰すためにも)説明をした。

「とりあえず、まず第一に、この研究所の地下に巣くっていた危険な害虫は全部まとめて駆除してきた。 そして残念だが、三人分の遺体が、プールにひどく損壊した状態で発見された」

「そう。 いずれにしても、何かしらのおぞましい儀式殺人が行われたのは間違いない様子ね」

「ああ。 そして安全が確認された。 気を失っている連中は、県警が到着したら起こすとして、だ。 その前に」

私が、黒崎の額に。

磯女を封じ込んだ札を貼る。

更に、印を切った。

黒崎は、一瞬目を剥いたが。

地面に倒れ、動かなくなる。呂津が慌てて、叫んだ。

「な、何を!」

「……」

黒崎が、不意に。

まるで、西洋の怪奇映画のような立ち上がり方をする。

そして、呂津を指さした

「所長は私じゃ無い。 この男だ」

「! な、何を言って」

「やっぱりな」

「予想通りだわ。 内部の人間の告発なら、疑いないわね」

私とかごめが、頷く。というか、これから磯女には。黒崎にしばらく取り憑いて貰って、呂津について知っている事を、全部ゲロって貰う。

最初から疑っていたのだが。

完全に黒だと判断したのは。この建物の中を、妙に知っていて、歩くのに迷いがなかったからだ。

更に言うと、こんな暴徒に荒らされたような状態で。

まず警察では無くて、医者を呼ぶというのもおかしい。というかこの状態では、それこそ救急車数台と、警察十数人が来ていないとおかしいはずだ。

あらゆる違和感が。

呂津と言う男が、医師では無いか。

或いは、呂津と言う男がいたとしても、此奴では無い事を物語っていた。

更に、私は。

切り札を用いる。

警察無線である。

先ほど、呂津の病院については、羽黒に聞き出させている。山梨県警につなぐ。あまり時間は保たないが、それで充分だ。伝えること、調べる事は、それこそ十分も掛からない。その程度の時間なら、電池も持つ。

すぐに連絡が来る。

県警の人間が、調べてくれた。救急病院もやっているそうで。すぐに連絡がついたそうである。

「今、呂津医師は、病院にいるそうです」

「決まりだな。 貴様が何者かは知らないが、此処の非人道的研究を行っていた重要参考人として拘束させて貰う」

「く、くそっ! 証拠はあるのか! 私はただ」

「身分詐称でも逮捕は出来る。 今、此奴は完全にあらゆる全てを自白する状況になっている。 逮捕した後、ゆっくり聞かせて貰うだけだ」

反応は、小暮が一番早い。

目にもとまらぬ速さで拳銃を抜いた呂津が。綾を撃とうとした瞬間。

小暮がタックルを浴びせて、壁とサンドイッチする。文字通り軽自動車に潰されたような光景だ。

文字通りぺしゃんこにされた呂津と名乗る男は、拳銃を取り落とし。

その場で失神し、倒れる。

そして、妹に銃を向けた相手に、小暮はいつもより荒々しく、手錠を掛けた。

「殺人未遂の現行犯で確保! 拳銃不法所持もだ!」

羽黒には、今のうちに。

黒崎に証言をさせる。

今黒崎に入っている磯女が。黒崎の記憶の中から。マインドコントロールで。呂津に化けていた男が指示したことや。組織についての知識など。絶対口外しないようにしているものを、全て引っ張り出す。

ただ、此奴は所詮末端。

呂津に化けていた男が、実際は厚生省の人間で。其処に巣くっていた奴らの配下の一人だと言う事はわかったし。

此奴の手引きで薬を仕入れていたこと。

此奴が上位の人間の指示で彼方此方にあのツツガムシを出荷していたことは分かったが。

それ以上の事は分かりそうに無かった。

いずれにしても、厚生省の。それも結構上位にいる人間が、極悪非道にもほどがある組織に荷担していたというのは、凄まじい。

やはり膿出しは大変だ。

警察にも、奴らの走狗が紛れ込んでいるのである。

他の省庁にいてもおかしくは無いだろう。ましてや厚生省となると、色々と闇が深い組織なのだ。

いずれにしても、これは恐らく、上部組織に任せてしまうことになるだろう。

山梨県警が到着。

呂津と名乗っていた男は、呻きながら起き上がったが。その時には、もう気絶させていた全員を起こし終えていた。

逃れようとする呂津と名乗っていた男だが。

小暮が、押さえ込んで。絶対に逃がそうとしなかった。

 

警察の車両が、被害者を連れて行く。ちゃんとした病院で、全員を診てもらうためである。

此処で非人道的な実験が行われていたことは、多分極秘になる。というか呂津と名乗っていたあの男は、多分情報を引き出された後は消されるか、それとも特殊な独房にでも放り込まれるだろう。

実際、受け取りに来たのは。

道明寺だった。

「やあお疲れさん。 今回は、既に出てしまっていた被害以外は出さなかったそうで、流石は次代のエースチームですな。 黒崎とそいつは受け取りますよ。 こっちであらゆる方法を使って、しっかり情報を引き出しておきます」

「じゃあ、もういいか。 磯女、戻れ」

「おう、ならば少しはその、手心を」

「考えておく」

何か悲しそうな顔をした磯女だが。そもそも顔を修復してやっただけで有り難く思えこのアホがと、罵倒したくなる所を必死に押さえる。ちなみに、トイレ掃除期間を縮めるつもりはない。

特殊な護送車にて、完全に精神崩壊した黒崎と、呂津と名乗っていた男が連れて行かれる中。

小暮が。

妹と相対していた。

空には、月が出ている。星明かりで、周囲が見えるくらいだ。それくらいの田舎なのである。

「どうしてこんな無茶をしたんだ。 金なら自分が稼ぐと言っているのに」

「だって、うち、お父さんもお母さんも収入少ないんだよ。 私だって、大学生で夢を目指すんだったら、どうしても……」

「それなら堅実なバイトにするんだ。 今回は、たまたま自分の頼もしい先輩達が来てくれたから良かったが。 下手をしたら死んでいたんだぞ」

助かったのは十人。死んだのは四人。その内一人は敵側関係者だが。確率としては三割弱。

小暮綾が、死んでいても。

不思議では無かったのだ。

実際、亡くなった三人も、みなこんな怪しいバイトに応募しなければならないほど、切羽詰まっていたのだ。

そんな弱者を食い物にするゲスどもがこの世にいることを。私と一緒にいて。小暮は思い知っているのだろう。

「頼む、もう無茶はしないでくれ。 自分は恐ろしい世界を散々目にしている。 この世には、悪意があるってことを、知って欲しい。 悪意の前には、弱者はエサでしかないんだ」

「ごめん……心配掛けたね」

「ああ。 劇団で頑張ることは反対しない。 だがもう心配を掛けないでくれ」

綾も病院に連れて行かれる。

研究所の内部のミンチや、それにプールのひどい状態の死体。それに冷蔵庫の死体。いずれも山梨県警のメンバーが回収していくが。

これらは上部組織が、適切に判断するだろう。

いずれにしても、今回も末端を潰しただけ。この間顔を見せた金髪王子のような、幹部をブッ殺さないと、この戦いは。

弱者を食い物にするゲスどもが、札束で顔を扇いで笑っている状態は、終わらせられない。

かごめが、促してくる。

もうそろそろ深夜だ。

だが、此処で一泊するのは、正直やめておいた方が良いだろう。

「帰るわよ。 それとも、山梨にビジネスホテル取る?」

「それなら山梨市街に一度降りて、それで検索してみるか。 帰るのは別に明日でも構わないだろう」

「この時間に取れるかしら」

「……まあ私も枕がないから眠れないし、兎に角疲れた。 もし戻れるのなら、戻ってくれても、良いんだぞ?」

ちょっとかごめは腕組みしたが。

彼女はこの面子の中では、余裕がある方だろう。

戻ってくれる、という事だった。

県警の警部に敬礼して、後は帰ることにする。

帰りの山道は空いていたが。流石にかなり暗い。小暮は不安そうにしていたので、私が一応言っておく。

「妹はもう大丈夫だろう。 流石にあれだけ酷い目にあえば懲りるさ」

「本当に、そうでありましょうか」

「人間が一番学習するのは、痛い目にあったときよ。 だから敢えて痛みを使って、学習する手もあるわ」

かごめがフォローしてくれる。

そして、羽黒もその節を裏打ちした。

「昔忍者がやっていたという学習法ですね」

「そういう伝承もあるわね、確かに」

「でもあれって、覚える事が多すぎると、傷だらけになってしまって大変なんですよねえ」

「よりにもよって試したのか」

呆れた私の声に。

不思議な、つかみ所のない笑みを、羽黒は返すばかりだった。此奴は、本当によく分からない奴だ。

時々ニセバートリーがからかっているのだけれど、見えているのかどうかは分からない。見えていてもおかしくはなさそうだし。何より、見えている場合、私の式神が対人殺傷力をオミットしていることくらいは見抜いていそうだ。

後は、数時間掛けて、高速に。

首都高に乗った頃は、皆口数も少なくなっていたが。

不意に、かごめが言う。

「今回の件、前回の件と恐らく関係がありそうね。 あの黒崎って男、まともじゃなかったけれど、それでも嘘とは思えなかった」

「そうだな。 しかし、同じ人間を作ったり、つながる筈がない手足をつなげたりして、何ができるか、だが」

「需要はあるでしょうよ」

かごめは言う。

実際問題、クローンはまだ現在の社会では、実用する科学技術が確立していない。人間のクローンは軍などで実用化されているという噂もあるが、これも都市伝説の域をどうしても出ていない。

だが、これらの技術は。

それこそ、何処の政府も、垂涎の筈だ。

倫理的な問題なんぞ、現実的な利益の前には簡単に吹き飛ぶ。

実際世界では今でも奴隷労働が行われているし。自由経済の名の下に、非人道的な労働を肯定する風潮さえある。

倫理は利益に勝てないのだ。

クローンが作れるのなら、優秀な人間を増やすことが出来る。そればかりか、自分のクローンから内臓などを移植すれば、病気だって完璧に直す事も出来る。記憶移植の技術が完成すれば、永遠の生命さえ実現可能だろう。

才能はそれぞれ個別に違っていて。あらゆる全てを完璧に出来る人間なんていないが。高スペックに、要求する性能を備えている人間はいる。つまり、適性が高い人間、と言う奴だ。

そういう適性の人間をクローンで増やせば。

それこそ、無敵の軍が出来上がる。

軍以外でも、優秀な人間をクローンで増やすことは、利益にしかつながらない。倫理など、皆鼻で笑い飛ばして、手を出す事だろう。

それが現実というものだ。

現時点では、まだ人のクローンは実現できていないが。

擬似的にクローンを作れるとなれば。

軍事会社も製薬会社も、それこそ莫大な金を出すことだろう。

弱者を食い物にして、稼ぐことを何とも思っていない奴らにとっては、正に金づるの筈だ。

かごめの話はそう。私もそれに同意。

ただ、問題は。今回のケースが、そういった要件を満たせるか、だが。私には、正直別の用途に使われているように思える。

それに、だ。

「今までの事件で、奴らがやってきた事を、一度まとめてみるのも良いかもしれないな」

「そうね。 それに連中がもしも此方を本気に潰しに来たら、どうする?」

「当然徹底抗戦だ。 だがアサルトライフルで武装した特殊部隊に来られると分が悪い」

「警察の仕事じゃないわねえ、それは」

そもそもだ。

敵の戦力が、毎回異常なのだ。私のような人間や。かごめのような超エリートがいるからどうにかなっているが。

そうでなければ、とてもではないが対応出来ないような事件が多すぎる。

上部組織に犬童警視が所属しているのはほぼ確実として。

もし上部組織に正式に組み入れられたら、今度は実働戦力となる部隊を編成しておかないと危ないだろう。

私自身も、あまり外を出歩けなくなるかも知れない。

私も人間だ。

ライフルで狙撃されれば、死ぬのだ。

後は、無言。

家に辿り着くまで。私は疲れもあって、もう何も喋らなかった。

 

5、その後の卵

 

事件を解決して、少し後。

小暮がメールを嬉しそうに見せてきた。携帯をどんどん変えている私と違って、小暮のはずっと同じ携帯だ。

「妹からであります」

「ん。 ちゃんとしたバイトを始めたようだな」

「少し忙しくなるようですが、一攫千金というものには落とし穴があるものです。 これくらいで丁度良いでしょう」

ちなみに写真の中では。

私とかごめが好きな猫のキャラクターのキグルミの。胴体部分だけを着込んだ小暮綾が、汗を拭っている。

キグルミの仕事は、売れないアイドルがやったり、劇団員がやったりする事が多いのだけれども。

まあ、劇団でのコネもあるのだろう。

多少ハードだが、こういう堅実な仕事で稼いでいくのが、ベストだ。大学も、四年でなければ、まだ時間はある。

劇団員としても、学問も。両立することができる筈だ。

危険に関して、私達は良い。

そもそも危険な仕事をするのが警官だ。市民の盾になって、法を破る悪と。弱者を貪る外道と。

戦い抜くのが警官なのだ。

市民は、敢えて自分から危険に出向くべきでは無い。少なくとも小暮綾は、危険な世界に足を踏み入れるべき存在では無い。

小暮綾は、満足そうに笑顔を浮かべていて。

隣には、別人のように痩せた、あのキャンキャン五月蠅かった声優志望だとか言うのも写っていた。別のキグルミを着て、である。

本気で痩せようと努力すれば、ちゃんと痩せられるものだ。残念ながら、やっぱり顔は整っているとは言いがたいし、アイドルが着るような服を着ても似合うとはとても思えないけれど。

それでも、短時間で努力をしたのは分かる。

やっぱり、あの時死ぬ所だった、というのは。救出された後、病院で色々聞かされて、悟ったのだろう。

顔は整っていなくても、芸事では色々やりようはある。

勘違いさえ捨てて。きちんと精進すれば。少なくとも、声優としてはしっかりやっていけるようになるかも知れない。

もう一人の子もいる。

その子も、やっぱり別の着ぐるみを着ていた。まあ、ハードな仕事ではあるけれど。しっかりしたアルバイトだ。

「学業も疎かにしないようにと、メールをしておきました」

「真面目なお前らしいな」

「ええ。 学問は学生の本分ですので」

「そうだな」

実は私にとっては別の世界の話も同然で。正直な話、羨ましいのだけれど。

小暮は失言に気付かなかったようなので、放っておく。悪気があって言ったことでは無いだろうし。

それに、いちいちそんな事を気にしていられない。

小暮は肉弾戦において、非常に優秀な人材だ。

くだらない事で、人間関係を壊すのはあまりにももったいなさ過ぎる。

こういうのをSNSでは確か地雷を踏むとかいうのだが。

この程度の地雷、私には蚊に刺されたほども効かないので、それこそどうでもいいのである。

ちょっと悔しいのは秘密なくらいだ。

かごめが、話を振ってくる。

今は特に仕事もない。私もDBを漁って、解決できそうな事件を探っているところだ。

「時に純。 今度Pランドで、限定グッズが発売されるようなのだけれど、どうしましょうかね。 かなり並ぶはずよ」

「丁度バイト中の小暮の妹に買って貰ってくるのはどうだ」

「それも良いかもしれないわね」

「恐らく、妹も、喜んで引き受けると思います。 恩返しをしたいと言っていましたので」

Pランドは、私とかごめが大好きな猫のキャラクターを出している会社のテーマパークで、総本山とも言うべき場所だ。

残念ながら警官になってからは忙しくて中々足を運べないけれど。

それはそれ、これはこれである。

小暮の妹が、もし買ってきてくれるのなら、良い事だ。

ちなみにグッズはそれほど高いものではないので。

二人分買うくらいなら、そう面倒でもないだろう。

値段とは裏腹に、こういう期間限定グッズは入手難易度が高い。作る数が多くても、である。

小暮が、せっせとメールを打ち始める中。

私は、今までの事件を整理したデータをかごめに送る。

二人で精査するためだ。

小暮と羽黒には、言わない。

今、犬童警視があまり帰ってこない現状。

いや、その前から。

此処は私とかごめの二頭体勢だ。

戦略級の頭脳労働は、私達でやるべきことであって。

小暮や羽黒には、実働で動いて貰いたいのである。

十分ほどで目を通して、かごめがメールを返してくる。

「なるほど。 何処かしらに、敵が大規模実験場を用意している可能性が高い、と」

「それも、恐らく村一つ、というレベルでのものだ。 敵はほぼ確実に、幹部クラスの人員を来日させている。 それ以降、上部組織が徹底的に末端を叩いているようだが、相手は痛痒を感じているとは思えない。 もし痛痒を感じさせるとしたら、この実験場を見つけ、潰すことだが……」

「恐らく敵は、それこそ武装した兵士を守りにつかせているわよ。 我々四人での突破は難しいわ」

「そうだ。 だから出来るだけ早く上部組織と合流したい。 近代兵器で武装した兵力には、専門家に対処させたいからだ」

しばしメールでやりとりした後。

かごめが結論づける。

「いずれにしても、私達が警視になるのはもうあまり遠くない未来よ。 処理した未解決事件の数から言っても、勲章を貰っても良いレベルにまでなっている。 それに疾風迅雷の貴方の名は、警察の内外にも轟き始めている。 奴らももう、放置は出来ないでしょうしね」

「そろそろ前線に、か」

「ええ」

私とかごめが前線に入れば。

敵を一気に押し返す自信もある。

私は小暮を手放したくは無いが、恐らくは幹部として別の部隊をそれぞれに率いる事になるだろう。

或いは、上部組織のトップに私が座れば。

いや、それはまた後の話だ。

兎に角今は、連携して、世界に巣くう癌であるクズ共を処理しなければならない。

「先輩、妹が、グッズを購入できそうだ、ということであります。 アルバイトの特権で、だとか」

「そうか。 では手間賃として、一人当たり二万払うと言っておいてくれ。 これは正当な報酬だから、問題ないともな」

「……分かりました。 妹はあまり喜ばないかも知れませんが」

「良いんだよ。 こういう手間賃は、受け取っておけと、説得しておくんだ」

転売では無くて、この場合はプレゼントだし。何よりも、身内同士のやりとりだから問題ない。

何よりそれで、小暮の妹が。

少しでも夢に近づけるのなら。

それでいいのだ。

市民の夢が叶うために、尽力する。

警官として。

いやそれ以上に持つ者として。

やるべき事とは、これだろう。

私はそう思い。

次の仕事に備えて。手持ちのデータを、整理し続けた。

 

(続)