呪われし壁

 

序、遭遇

 

あくびをしながら私は歩いていた。流石にちょっと昨晩は疲れた。実は殆ど眠っていないのである。

昨日、急に呼び出しがあった。

私だけだ。

うちの部署は、いわゆる夜番も無いから、余程の緊急事態だった、という事になる。そして、それは事実だった。

少し前に佐倉智子という女性を助けた。ゆうかの高校時代の先輩だったのだけれど、怪異がらみの事件に巻き込まれ、数年失踪していて。

そして私が救助した。

いわゆる神隠しからの帰還である。

その間、ある意味とても強烈な経験をしていたからか。彼女の周囲に、凄まじい数の怨霊が集まっていると、連絡があったのだ。

病院はちょっとしたホラー映画状態。死者は出ていなかったが、遅れていればどうなっていたか分からない。

私はタクシーでそのまま駆けつけると。

睡眠を邪魔してくれた怨霊どもを根こそぎ浄化した。機嫌が悪かったので、いつもより更に荒っぽく、である。

まあ仕方が無い。

佐倉はカルラ天の加護を受け。

更には数年来、強大な怪異の腹の中にいたも同じ状態だったのである。

案の定、訳が分からないほど強い力が宿ってしまったらしい。

普通の病院に入れるのはまずいと判断した私は。本家の人間が世話になっている病院に、佐倉を移した。

色々手続きもした。

佐倉は色々あって、もう親とも半分断絶状態。

学校に行ける状態でもない。

しかも数年分の記憶と成長が抜け落ちている。

そんな状態で、社会復帰は難しい。

というわけで、少し修行開始が遅くなるけれど。対怪異の能力者として、本家にいる人間に面倒を見るように指示。

まああれだけ特殊な状況から生還したのだ。

精神面のダメージさえ克服できれば、それなりの使い手になるだろう。その内、私が鍛えてやっても構わない。

まあ、とにかく。

色々あって殆ど眠れず、徹夜状態で出勤。犬童警部は事情を知っている様子で、何も言わず。

疲れているなら寝ていてもいいとまで言ってくれたが。

小暮が流石に困り果てている様子だったので。

気晴らしに外に出てきたのだ。

私は怪異に対しては無敵を誇るけれど。

人間としては、其処まで強くない。

小暮と素手で肉弾戦をやったら絶対勝てないし。

ナイフを持った暴漢を制圧する場合、奇襲ならともかく、正面から素手でやりあったら危ないだろう。

対怪異補正あっての実力なのだ。

私のような、怪異を相手にする仕事をしている人間には、此処まで極端に対怪異よりに能力を調整している者はおらず。

ましてや、対人殺傷能力を式神からオミットまでして、対怪異能力を上げている人間はいない。

私が世界最強の能力者では無い所以だ。

対怪異能力の高い奴になると、色々恨みを買うことも多い。対人戦を想定しているケースも少なくない。

私はそういう相手と遭遇した場合。

相手の能力は打ち破れても。

相手の肉体や、近代兵器を手にしていた場合、打ち破れない。

だから小暮のようなボディガードが必要になってくる。

なんだかんだで、私は欠点も弱点も多い。。

要するに、半端な能力者なのである。

対怪異能力者の中には、それこそ神に等しい実力を持つ式神を周囲に配置して、ライフルによる狙撃、時によってはロケットランチャーの直撃さえ防ぐものもいるそうだけれど。

私には、そんな真似はできないのだ。

ふと、気付くと。

目の前に、もの凄く尊大な、赤いのがいた。

相当なバタ臭い美人だが、傲岸不遜という言葉をそのまま人間にしたような姿格好をしている。私より背も、頭一つ分高い。

雰囲気は、暴虐なる女王、とでも言う所か。整った目鼻立ちも、どこか日本人離れしていた。

「邪魔よ」

「それは失礼したな」

道を譲ってやる。

もう一つあくびをすると。

その赤いのは、露骨に不愉快そうに眉をひそめた。コッチが威光にひれ伏さなかったことが、余程気にくわなかったのだろうか。

「何貴方。 職務中にその弛んだ態度は」

「昨日一晩中戦ってたんだ。 少しは許してくれ」

「はあ、何と」

「さあ、何だろうな」

私としても、実際問題怪異と戦っていましたと何て言えない。だから適当にはぐらかしたのだが。

頭に来たらしい赤いのが、手を伸ばしてくる。反射的に私も飛び退きつつ、手を払っていた。

両者の激突は、私が思ったより鋭かった。

ばちりと、火花が散る。

一瞬で戦闘態勢に入った私は低い態勢で構えているが。

赤いのは、少し足を開いて、堂々たる構えのまま。

右手を少し高く上げ、左手を下げて。

さながら王者としか言いようが無い、圧倒的な威を放ちながら、仁王立ちしている。

体格を生かした、正当派の正面戦闘を得意とするタイプだと見た。私のような奇襲を主にするタイプは。

実力が拮抗している場合、真正面からやりあうと、この手の敵には勝てない。

しかも此奴、相当にできる。

流石に小暮ほどではないが、少なくとも手を抜ける相手ではなさそうだ。武器を持った暴漢が相手になると、真正面からでは厳しいが。このくらいの身長差の、素手の相手だったら、普段だったら一ひねりにする自信があるのだが。

此奴は多分、総合力で、肉弾戦に関して私と同じくらいはやるはずだ。

ましてやこっちは、昨晩色々と疲れている状態。

やり合うのは面倒くさい。

何より、この拮抗した実力。

多分やり合い始めると、双方本気になる。その結末は、小競り合いでは済まないだろう。殺し合いになりかねない。

もう数歩分跳び離れる。

向こうも、それで戦闘態勢を解除した。

実力差。その結末。

双方を察していたのだろう。力量を備えているからこそ、できる判断だ。

「やるようね。 戦っていたというのは、何処かの犯罪組織か何かかしら?」

「そんなところだ。 しゃべり方に妙ななまりがあるな。 米国にでも行っていたか?」

鼻を鳴らす赤いの。不快感では無く、面白いと感じた様子だ。拳で語り合い相互理解が生まれる事は、普通女子同士ではまず起きえないが。

今回は、たまたま起きた、という事だろう。

近年は男子同士でも滅多に起きないと聞いているが。まあレアケースはあるものだ。

「噂には聞いていたのだけれど。 彼方此方の難事件にふらりと現れては、疾風迅雷に事件を解決していくキャリアがいるってね。 貴方がそうでしょう、風祭純」

「ほう、詳しいな」

「腑抜けているから腹も立ったけれど。 どうやら本当に疲れているだけの様子ね。 それならば別に構わないわ」

赤いのは、賀茂泉かごめと名乗る。

複雑な名字だが。

聞き覚えがある。

そこそこ有名な神社の家系の筈だ。

そして、何よりもその名前。

アメリカの方で、プロファイルを学んでいる俊英がいると聞いた事があった。そいつは尊大で周囲を下僕のように扱う嫌なキャリアの見本のような奴だけれど。実力は本物で、帰国後既に幾つもの事件を解決しているという。

本場アメリカでも評価は高く。

未解決事件を幾つか解決し。

今回、堂々錦を飾った、ということだった。現状は警部補だが、警部になるのも時間の問題だとか。

なるほど、情報と一致する。

そして向こうも、ここのところ立て続けに難事件を解決している此方に、目をつけていた、という事か。

それはそれで面白い。

「何でもオカルトがらみの事件ばかり解決しているそうじゃ無いの。 何か秘訣があるのかしら」

「企業秘密と言う所だ」

「そう。 それでは忙しいから行くわね。 名前、覚えておくわよ」

最初から知っていたくせに。

私は面白い奴が来たものだと思いながら。

一度外に出る。

少し暑さも和らいできているが。年々日本は暑くなる一方だ。明らかに昔より状況は悪くなっている。

もう一つあくびをすると。

私はどうにか眠気を覚まそうと、周囲をパトロール。

特に面倒そうな事件は起きていない。

目も適度に覚めてきたので、一度戻る事にしたが。

その途中、不意に後ろから声を掛けられた。

「純?」

「ん?」

聞き覚えのある声だ。

振り返ると、いかにも薄幸そうな女性が立っていた。見覚えのある奴だ。私より数歳年上に見えるが。

いや、これは違う。

苦労が重なって、老けているのだ。

それだけではない。

体の周囲に、露骨に良くない気を纏っている。

怨霊にダイレクトに取り憑かれているわけでは無い様子だが。

あまりこれは良い状態ではないだろう。

「お前まさか、雪乃か?」

「ええ、そうよ」

「窶れたな」

「……そうね」

この女性の名は春日雪乃。

私は色々あって、あまり本格的に学校に行く事が出来なかった。「本業」で忙しかったのが、その最大の理由だ。

もっとも、その学校は本家の息が掛かった私立。

来ている生徒も珍しい経歴の持ち主ばかりで。

この春日雪乃も例外では無かった。

数少ない、学校時代の、対等な友人だった相手でもある。

何しろ私の場合、自分より下の人間が基本的に多かった。部下だけでは無く、弟分や妹分、つまり子分達。

ガキ大将というのとは違うけれど。

家の中核となる事を求められていた私は。

基本的に、対等な友人がいなかった。というか、同級生の中にも実家の関係者がいて、半ばボディーガードのようにしていたという状況である。対等な友人ができる方が難しいだろう。

そんな中、例外的に。

友人となっていたのが、雪乃だ。

きっかけは何だかよく覚えていないが。

とにかく、スクールカーストも存在しない、珍しい学校だったので。色々とやりやすかったのだろう。

護衛も、特に脅威にならないと判断していたのか。雪乃には、何も言わなかった。

いつの間にか二人は友人になって。

色々な事を話せる間柄になっていた。

それに私も、多分対等な関係に飢えていたし。両親もそれを察していたのだろう。

「どうした、こんな所で」

「夫が自殺してね。 今身辺調査中なの」

「む」

これはまた、重い話だ。

結婚していた、というのは別に不思議な話でもない。私だって、結婚していてもおかしくない年だ。

しかも、雪乃の場合、早めに子孫を作れと親にせがまれていたはず。

何より、この老けぶり。

結婚で苦労したのだろう事は、一目で分かった。

「それで、夫の遺品を取りに来たのよ」

「案内が必要か?」

「あら、案内……そういえば、純は今お巡りさんなのよね」

「一応コレでも国家一種を通ったキャリア組だぞ。 しかも昇進試験にしか興味が無い無能なキャリアと違って、事件も幾つも解決してきた」

ふふんと胸を張るが。

寂しい笑顔を返すばかりの雪乃。

前は私が話をすると、いつもころころと楽しそうに笑っていたもので。それが私としても嬉しかったのだけれど。

人とはこうも変わるのか。

何だか憮然としてしまう。

此処まで結婚で人格が変わったという事は。

きっと、ろくでもない事があったのは、間違いない、とみるべきなのだろう。

それに、纏っているこの暗い気。

暮らしている場所も、良くないのは確実だ。

「今、何処で暮らしている。 お前の家系、確か修繕屋だったよな」

「ええ。 弟もこの間プロになって、二人で頑張っているわよ」

「住んでいる場所は」

「小さなアパートだけれど」

引っ越した方が良いと言うけれど、また雪乃は寂しく笑うばかりだった。

格安で。

あまり仕事が無い自分は、簡単には離れられないと。

 

地下の編纂室に戻った私は、ドアの前でもう一つあくびをした。

だいぶ眠気はとれた。

強烈な出来事が二連続で起きたから、だけれども。

それはそれとして、気になった事がある。

雪乃に纏わり付くあの悪い気。

苦労したから纏わり付いたとか、そういうレベルの代物では無い。それこそ怨念集う土地にて、何か悪い事をしたとか。

そういう次元のものだ。

放置しておくと、雪乃自身にも、あまり良くない事が起きるだろう。

部屋に入る前に咳払い。

ついてきていた怨霊が、びくりと身を震わせた。

隙を見せたら取り憑こうとでも思っていたのだろうが、そうはさせるか。

真言一発で消し飛ばすと。

目を擦りながら、編纂室に入る。

「戻りましたか、先輩。 お疲れ様です」

「あー」

小暮が挨拶をしてくるので、適当に応じる。

まだ構築中のサーバの方に行くと、ぼんやり見つめた。出る前に、少し作業を流しておいたのだけれど。

HDDが激しく点滅している。

これはまだ、終わって無さそうだ。

PCを立ち上げて調べて見るが、まだマクロは頑張り中である。

多少重いのを覚悟の上で、雪乃を検索してみると。

いきなりヒットした。

現在彼女は。

保険金殺人の疑いを掛けられている。

夫が自殺した、といっていたが。

その状況が不自然であり。

何よりも、保険金を受け取ったタイミングが悪すぎる、というのである。

こういうデータは、捜査中のリアルタイム情報以外は、共有されるようになっているのだけれど。

それにしても穏やかでは無い。

雪乃が人殺し。

あり得ないとは言い切れない。

あの窶れっぷりだ。

ましてや人は変わるものである。

あそこまで人相が変わったのだ。何が起きていても不思議では無いし。何より纏っていた暗い気が、私の不安をかき立てた。

更に情報を調べてみる。

どうやら自殺した夫には、DVの疑いが浮上している。

元々修繕屋というのは、良い仕事に巡り会えれば、数ヶ月分の給金を一気に得ることも可能だが。

仕事が無いときは、それこそ何一つ収入がないと言う、面倒な仕事なのである。

美術品の修繕は。

いつもあるわけではない。

海外には、美術品の状態維持を専任とした者達がいるらしいが。残念ながら日本では、其処まで専門的なチームはなかなか組まれない。勿論美術館などで、維持を専門とするプロはいるけれど。

基本的に狭き門で。

そういった大口の客がいない雪乃の場合。あまり生活は楽では無かっただろう。

そして、である。

現在、事件調査中の人間の名を見て、私は大きく嘆息した。

あの赤いの。

賀茂泉かごめだ。

彼奴はちょっとやりあっただけでも分かったが、相当にできる。しかもかごめは、明らかに雪乃を有罪とした前提で、事件を捜査している。その上、かごめは今捜査一課で、強力なルーキーとして着目されている。当然のようにキャリアで、しかも本場米国で最先端のプロファイルを学んできたかごめである。警視庁の精鋭が揃う捜査一課のエース候補として見なされているのは間違いなく。

佐々木課長も、一目置いているだろう。

詰まるところ、彼女の判断通りに捜査が進む可能性が高い。

そして、である。

はっきりいうが、私自身も、雪乃を庇いきれない。状況から考えて、彼女が犯人である可能性は決して低くないのである。

警官である職業病で。

友人でも、こういうときは疑う。いや、疑わなければならないのだ。警官としては、どうしても。

あまり好ましい状態ではない。

少し悩んでから。

私は雪乃に、電話を入れることにした。

 

1、呪いのアパート

 

小暮が唖然としている。

私も、こんな事だろうとは思っていた。

都内で、格安のアパート。

そんな条件は滅多に無いし。

あったとしても、まあこうなるだろうなとしか、言いようが無い。

見た目はさほどひどくない。

確かにちょっとは古い。築三十年と言う所だろう。リフォームはしていない。壁のくすみが相応に歴史を感じさせる。

だが問題はそうではなくて。アパートの周囲を、十を超える悪霊が闊歩している、ということである。

話によると、部屋代は月二万。

東京のど真ん中。

比較的大きめの駅から徒歩三分。

それでこの条件である。

二階建て、十四部屋のこのアパートだが。あまりにも頻繁に良くない事が起こるとかで、不動産でも事故物件として常にマークされており。実際住人の変死や自殺が、過去に何度も起きていると言う。

そりゃあ起きるだろう。

どう見ても、タチが悪い悪霊ばかりだ。中にはもはや人間の形をとどめていないものや、そもそも人間では無いものさえ散見された。

面倒くさい。

先に片付けておくか。

喝。

一撃で、強烈な浄化を叩き込み。

悪霊共がコッチを見た時には、衝撃波が連中を叩き潰す。一瞬にして光の粒子として消えていく悪霊共。

ただし、今片付けたのは雑魚。

このアパートは、あまりにも強烈な悪意をため込みすぎている。

ざっとネットで調べて見ても。

出るわ出るわ。

都市伝説の題材として、怪奇アパートの見本のように扱われている。しかも興味本位で見に来た奴が取り憑かれ、錯乱して病院送り、何てケースも普通に発生している様子なのだ。

これは、まずい。

引っ越しさせないと、だめだろう。

雪乃の部屋に行く。

小暮はまだ不安そうで、周囲を見回していたが。今のところ、危険な気配はない。てか、感じた端からぶっ潰しているので、問題ない。

「先輩、これは尋常では無いのであります」

「怪異は集まるからな」

小暮は完全にすくみ上がっているが、まあ仕方が無いだろう。これは毎晩怪奇事件が起きていても不思議では無い。

雪乃はそういうのに耐性があったか。

ちょっと分からない。

片言の日本語が聞こえてきた。どうやら住んでいるのも、訳ありの住人ばかりの様子だ。まあ無理もないか。

こんな所では当然だ。

東京のこの立地で家賃二万である。

何か無い方がおかしい。

雪乃の部屋をノック。やはり窶れている彼女が姿を見せる。部屋の中には、数体の悪霊がうろついていたが。

雪乃には見えているのかいないのか。

それとも、知っていて気付いていないのかも知れない。

たまりかねて。私が前に出る。

小暮は玄関を塞いだまま、固まって仁王像と化していた。悪霊がばっちり見えていて、怖くて進めないのである。

「ちょっと待っていろ」

「どうしたの?」

「少しばかり強烈なのを行く」

印を切る。五芒星の、いわゆるセーマンである。

その瞬間、土地そのものに、私が強烈な浄化を仕掛けた。どずんと、地震のような音が響いて。

そして、部屋の中にいた悪霊は。

綺麗さっぱりいなくなっていた。

これで、当面は大丈夫だろう。とはいっても、此処まで汚染されていると、一度本格的に、しっかり浄化しないとすぐまた元の木阿弥になるだろうが。

「まだ不思議な力を持っているのね」

「大人になると失う奴もいるが、私は生憎と老衰死するまで無くならない体質らしくてな」

「そういうのも分かるの?」

「まあ、専門家が周囲にいるからな」

上がらせて貰うが。

小暮は、まだ緊張しているようだった。

中は慎ましい。ざっと見聞してみるが、刃物で斬り付けたような跡とか、血痕とかは見当たらない。

雪乃は落ち着いているけれど。

多分気付いているはずだ。

私が既に、雪乃を疑っている事には。

ちなみに保険金は満額で既に下りている様子だ。昔と違って、保険金殺人は非常に難しくなっているのだが。

それでも降りたと言うことは。

つまり、保険屋は少なくとも事件性がない、と判断した事になる。

昔は、保険金を利用して、サラ金業者が他人を自殺に追い込み、高笑いして金だけ受け取るようなケースが頻発していたが。

今ではそれもできなくなっている。

それだけは良い事だ。あの手の輩が高笑いするような世の中は、ろくなものではない。

「粗茶ですが、どうぞ」

「すまないな」

「オス。 いただきます」

小暮が緊張した様子で頭を下げる。

私も、雪乃の部屋に来るのは久しぶりだ。前はそれなりに慎ましいながらも良い部屋に暮らしていたのだけれど。

それにしても、プロになったと言う弟は大丈夫だろうか。

それも少し不安だ。

軽く話をする。

東京の暮らしはどうか。そう聞くと、雪乃は寂しそうにほほえむ。この笑顔で、随分と周囲の男子の人気を集めていたようだけれど。

高校時代にもてていたのに。

結局男運には恵まれなかったようだ。

私の場合、あまり結婚を急ぐようには一族に急かされていない。というのも、やっぱり身重になると仕事を受けづらくなるからだ。

それに兄者もいる。

兄者が人見と結婚して家を継いでくれれば私としては言うことが無いのだけれど。相変わらず兄者は私が楽しい顔文字メールを送っても対応が冷たいし。ケーキ持って遊びに行ってもいけずである。

むしろゆうかと一緒に部屋からつまみ出されることもあるので、理不尽だ。

私はこんなに兄者のことを大事に思っているのに。

「痩せたし、老けたな。 苦労したんだな」

「ええ。 色々ね」

「いっそ、地元に戻ってくるか。 私の家で働く手もあるぞ。 修繕屋の仕事だけでは無くて、他にもお前ならできる」

「それも考えたのだけれども、ね。 純には言っていなかったのだけれど、私もう地元に戻る気は無いの」

そういえば。

少し噂に聞いた。

雪乃は両親と上手く行っていない。まあ、そうだろう。跡継ぎをどうこうとせがまれれば、なおさらだ。

縁を切っているのかも知れない。

実際、雪乃の父親は美術館から声が掛かるような凄腕の修復師で、年収は確か億を超えているはず。

この業界、露骨に腕が金になるのだ。

ただ、雪乃の腕が劣悪だとも思えない。

仕事の内容を見せてもらうが。

傷んだ絵を、丁寧に修復している。充分にプロとして喰っていけるだけのものを持っていると、私としては思う。

まあ私も名家の出だ。いい絵くらいは見慣れているし。それがどういう状態かも分かる。だから、それには気付いたが。

今は口にしない。

「良い修復じゃないか。 これなら仕事としては充分な内容だが」

「ふふ、ありがとう。 でもね、仕事そのものがあまり来ないから」

「!」

小暮が、不意にびくりとした。

今見ていたのは鶏を得意とする画家の模写だが。小暮が見ているのは壁の方。そして其方を見ると。

其処には。

まるで、怨念が立ち上るような、女の絵があった。

これは、夜に見たら、普通の人間だったら悲鳴を上げるかも知れない。

強烈な迫力を秘めている絵である。

絵というのは、技術だけでは描けない。これは物語も同じだが、作者が気迫や、己のインナースペースを叩き込む事で、やっと芸術として昇華する。

作り手が善人か悪人かは関係無い。

問題は、作り手の心の庭が、其処に表現されるかどうか。

どれだけ技術的に優れていても。

自分の心の庭が其処に無ければ、それはただの模様だ。文字列だ。それが芸術だと言う事を、私は良く知っている。

この絵には。

少なくとも、作り手が凄まじい執念を込めた跡がある。

良きにしても悪きにしても。

圧倒的な印象を残す絵だなと、私は思った。

だがそれ以上に何だ。

少し腕組みして考え込む。

「凄い絵でしょう。 今、お仕事中の絵なの」

「恐ろしい絵でありますな……」

「我が子を喰らうサトゥルヌスほどではないがな」

「あれは……悪趣味ですな」

小暮が目をそらす。小暮も、我が子を喰らうサトゥルヌスは知っているのだろう。

その絵は、あまりにもおぞましい逸話に基づいて描かれた。

絵の題材はサトゥルヌス。ギリシャ神話におけるクロノス。時を司る神にて、ゼウスの父親である存在。

ギリシャ神話の後継のような形で発展したローマ神話では、サトゥルヌスと呼ばれたその神は。

予言によって、子供達に自分の地位を追われることを知った。

ギリシャ神話だけではなく、北欧神話でもそうだが、予言を司る神が存在する神話では。神でも予言に翻弄される。

そして、神は預言に抗う。

あろうことか、クロノスは、最悪の手段を採った。

その予言を覆すために。

悉く自分の子を喰らったのだ。

その狂気の有様を描いたのが、我が子を喰らうサトゥルヌス。この世でもっとも恐ろしい絵の一つとして知られるものである。

ちなみに、この凶行から逃れたゼウス(ローマ神話ではユピテル)によって、予言は成就してしまうのだが。

それはまた別の話だ。

さて、この絵だが。雪乃が説明してくれる。

「ふふ、これは黒闇天という神様を描いた絵よ」

「ふむ、ドゥルガーを原点とする神だな。 異説もあるが」

「どのような神なのです」

「元々のドゥルガーは、ヒンドゥーにおける戦闘神だ。 破壊の神として有名なシヴァ神の后の一人で、神々の怒りから生まれたという筋金入りの出自でな。 残虐で非常に好戦的な女神だ」

そして、その好戦的な神の怒りから生まれた、カーリーという更に凶暴な戦闘神もいるのだが。

まあそれは話しても仕方が無いので、横に置いておく。

ともあれ、このドゥルガーも仏教に取り込まれ。黒闇天という神になった。諸説あるので、他にも出自の可能性はあるが、それは今話していても仕方が無いので省略する。

ともあれ黒闇天は姉である吉祥天とは兎に角何もかも正反対の存在とされ、時に禍を招く存在ともされるが。

やはりこの神も、天の称号を受けているように光側の存在。

暗きものを司ってはいるが、信者には厄払いなどの加護を授ける側面も持っている。

軽く話をして。

そして、幾つか気付いたことがある。

裏付けを取りたい。

面倒だが、色々とやっておくこともある。特に今回の件、捜査一課の横やりを防ぐためにも、かごめとは接触しておきたい。

「そろそろ失礼する」

「ううん、また遊びに来てね」

「ああ……」

気付いたことが幾つかあるが。それは此処では敢えて指摘しない。今はまだ手札が揃っていないからだ。

私は、外に出ようと、小暮を促す。そして、玄関で、小声で言った。

「あの絵、あまり見るなよ」

「どういうことですか」

「あれは呪いの塊だ。 下手をすると死ぬぞ」

多分絵の具は血が混ぜ込まれている。

私は大丈夫だけれど、小暮くらいの耐久力だと、体調を崩すかも知れない。それくらい強烈な代物だ。

ひょっとすると、だが。

このアパートが一気に怪奇現象の巣窟となったのは、あの絵が原因ではないのか。元々ひどかったようだが、恐らく決定打になったのはあの絵の筈だ。

可能性はある。

というのも。

頭を振って、思考を追い払う。まあいい。

幾つか裏付けを取らなければならないのは事実だ。外に出ると、ドアにばこんと悪霊が当たる。

郵便受けから、中を覗こうとしていたらしい。さっき処理した横からこれだ。小暮はひいっとか分かり易く悲鳴を上げるし。

私もドアを開けた途端。追い払ったはずの悪霊がまた出てきたので、本当に頭に来た。

私が本気でブチ切れているのに気付いたか、悪霊はすっころびそうな勢いで逃げようとしたけれど。

襟首を掴んで捕まえると。

至近距離から真言を叩き込んで浄化。

まあ、あの世にコレでいけるだろう。ちなみに今の悪霊、何だか死んだ雪乃の亭主に似ていたような気がしたが。

少し遅れて、気付く。

しまった。

捕獲して、式神にするべきだったか。頭を掻く。まあ、一瞬しか見ていないし、そうだったとは限らないから、よしとする。そうだ、よしとしよう。それでいい。

自分を納得させると、私は小暮を連れて、一端本庁に戻ることにする。今の失敗は仕方が無い。てか、失敗では無かったぞ。うん、悪霊なんだし、浄化して正解だったのだ。

悶々としている内に、小暮が車を出す。

普段より、顔色が悪い。

「やっぱりあの絵の呪気に当てられたな」

「ううむ、やはり恐ろしい絵です」

「後で警部に祓って貰え。 あの人は其方の専門家だ」

此方としては、先にやる事がある。本庁に着いたら別行動と告げると、小暮は頷いた。

それにしてもあの絵。

あれは危険だ。

私がかなり本気で土地そのものに浄化を叩き込んだのに。あの絵から放たれる呪いは、いささかも衰えていなかった。

アレを書いた人間は。

それだけ、凄まじい怨念を込めていた、という事だ。

 

本庁に出ると、小暮は地下に。

私は資料室に。

それぞれ出向いた。

資料室では、佐々木課長がいて、本棚の影の誰かと話していた。声からして、それがかごめであることは明らかだった。

「では、自殺の可能性は極めて薄いんだな」

「ほぼ間違いなく偽装殺人です」

「しかし証拠が無い」

「礼状を取れば家捜しができます。 その際にしっかり洗えば、相手は素人。 手段も確認できるでしょう」

あいつめ、強引な奴だ。

でも私も強引、一撃必殺、一点突破が持ち味なのである。

そういう意味では、ある意味息があっているかも知れない。

佐々木課長が、その場を離れようとして。私に気付いた。

「お前、何をしに来ている」

「友人が事件に巻き込まれたので、調査を」

「ふん……彼方此方でよく分からない事件を立て続けに解決しているそうだな」

「おかげさまで」

実は、おかげで数ヶ月後には警部昇進が決まっている。どういうわけか、犬童警部も、警視に昇進だそうだ。

まあこの間の、芸能事務所プロデューサーによる大量殺人事件を暴いたのが大きかっただろう。

あれ以来マル暴も活発に動いており、あのプロデューサーと関係があった半グレを壊滅状態にまで追い込み、上部組織にも揺さぶりを掛け始めている。奴とつながりがあったカルトに関しても、近々ついにがさ入れが入るそうだ。票田としていた政治家も、かばえなくなってきたのだろう。あれだけの事件が起きて、ネットでは大炎上状態が続いている。まあこれは無理もないか。警察も色々あるし、失策をカバーするのに必死なのだ。

「せいぜい背中には気を付けることだな。 キャリアはただでさえ敵が多い」

「ご忠告痛み入ります」

「ふん」

佐々木課長は、相変わらず私を目の敵にしている。そして、大股で、不機嫌そうに資料室を出て行った。

かごめはとっくに此方に気付いていて。

佐々木課長が行くと、ひょいと姿を見せた。

あれだけ堂々と王者が如き戦闘の構えを見せたと思ったら。

意外に身軽なところもある奴だ。

「佐々木課長が目の敵にしているとは聞いていたけれど、本当のようね」

「まああの人にとってはそうだろうな。 そもそも私が廻されている仕事の内容は、調査済みだろう」

「怪しげなオカルト関連」

「まあそう思っても構わんよ」

すっと、見せてくるのは。

春日雪乃と書かれた調査ファイル。

目を細める。

此奴、私が雪乃のことを調べていると、知っていたのか。まあ耳が早そうな奴だし、不思議でもない。

受け取ると、ざっと目を通す。

まず、自殺した夫だが。

アパートから少し離れた森で首をくくって死んでいる。

死体は死後すぐに発見され。

検死には人見が当たっている。

人見の検死なら信頼出来る。内容をざっと確認するが、どうも胃薬を直前に飲んでいた様子があると言う。

はて。

首をくくる奴が、胃薬なんか直前に飲むか。

それだけ強烈なストレスを抱えていたのか、と思ったら、そうでもない。此奴はヒモ野郎で、最初は真面目に働いていたが、ここ二年ほどは手に職も無く。パチンコを趣味にして妻の収入を食い潰し。

あげく、妻に暴力を振るっていたことが、調書から明らかになっている。

幾つか、私の仮説を裏付ける内容があったので、覚えておく。

「何でも、捜査一課の中には、あのアパートで幽霊を見たものがいるそうよ」

「へえ」

「馬鹿馬鹿しいと思わないかしら」

かごめが怒気を言葉に含ませる。

というか、実際あの状況では見ても不思議では無いので、適当に流す。だが、かごめは、流すことを許さなかった。

「この事件はね、最初詐欺を担当する捜査二課から廻されてきたのだけれどね。 つまりその時点で、殺人が疑われていたのよ。 警視庁の精鋭が揃う捜査一課に対して、廻された事件。 それなのに、幽霊ですって?」

「あの立地に、家賃二万。 訳あり。 過去に怪事件多数。 何より雰囲気が最悪だと言う事もある。 色々と悪条件が重なれば、人間の脳は様々な誤認をするさ」

「それが情けないと言っているのよ。 確かに人間の脳がいい加減で、時に物理的な感触さえ伴う幻覚を見るのは私も認めるけれど。 それにしても鍛えられた捜査一課の精鋭が、情けないとは思わないのかしら」

「もし本物がいたら?」

少し前から。

私は自分の後ろに、ニセバートリーを実体化させている。

一応婦警の姿をしているが。

本人はコスプレか何かとしか想っていない様で。指示された服を着て、いつもと違う格好にご満悦のようだ。

要するに、邪におかされなければ。

怪異ってのは、本来こういうものなのである。

日本の妖怪にひょうきんな一面があるのは、怪異を研究している誰でも知っていることだろうが。

邪に汚染されなければ、怪異は本来、享楽的で、むしろ無邪気なものなのだ。

そして、である。

かごめが、ニセバートリーに何度か視線を送っているのを、私は確認していた。ちなみに一般人には見えないようにしている。

人見は霊感がほぼない。

余程強力な怪異で無ければ見ることが出来ない。

だが此奴、かごめは。

明らかに、力を抑えたニセバートリーが見えている。

つまり、それは。

見えるものを否定している、という事だ。

真意を少し測りかねる。

拳を交えて互いを少しは知ったが。

それでも、全てを理解したわけでは無い。ましてこれから友人になる訳でも無い。一線の警戒を引く必要があるだろう。

指を弾くと。ニセバートリーは、頬を膨らませて式札に戻った。

「本物とは、また随分ね」

「というか、私の本業を知っているんじゃ無いのかな」

「……」

ばちりと、火花が散った。

見えているくせに。

耳元で囁かせてみるが。かごめはまるで動じない。此奴、幽霊がいたとしても、平然と殴り倒して通るタイプだ。

それはそれで面白い。

精神力が鉄同様の強固さを誇る、という事なのだろう。

「では、風祭純。 貴方の見解を聞かせて貰おうかしら」

「この事件、殺人事件である事はほぼ間違いないな。 友人である春日雪乃を疑うのは非常に心苦しいが、彼女が犯人の第一候補と見て良いだろうな」

「根拠は」

幾つか聞かせる。

ふんと、かごめは鼻を鳴らした。

嘲弄ではない。

相手を認めたとき、こういう反応をするらしい。ガチガチに行動の作法が決まっている日本では、それだけでヒステリーを起こすかもしれない行動だが。この女ほど仕事ができる場合。それもねじ伏せられる。

それにかごめは、本庁の指示でアメリカに行き、最先端プロファイリングを学んできているほどの逸材だ。

そんな逸材に、高圧的に出て潰そうとする奴は……いるかも知れないが、いたとしたらどうしようも無い阿呆だ。

「得意な怪しげな術による推理?」

「いんや。 今回は実際に現地に足を運んでな。 雪乃に接触してきたのだが、色々と怪しい点が多すぎてな。 この資料を見て、ほぼ確信できた」

「問題はどうやって、吊したか、だけれども」

「それが難しい」

実のところ。

今の雪乃は、体重七十キロに達していた夫の死体を、吊すことができる状態にはない。というか、死体は脱力すると基本的にもの凄く重くなる。華奢な雪乃に、七十キロもの死体を吊すのは、苦行を通り越して地獄に近いだろう。

「ミステリ小説じゃあるまいし、何かトリックを使ったのかしらね」

「それについては、私の方からも調べて見るつもりだ」

「あら、相手が親友なのに積極的ね」

「私はこれでも警官だ。 民草を守るのが仕事。 雪乃が民草を害する可能性がある以上、手錠は掛けなければならん」

もう一度、かごめは鼻を鳴らす。

どうやら彼女も。

刑事の誇りは、きちんと持ち合わせているようだった。

「此処は協力態勢と行きましょうか」

「それはありがたいな。 佐々木課長に横やりを入れられると面倒だった。 お前が協力を申し出てくれれば、佐々木課長も少し静かになるだろう」

「ふふん、疾風迅雷の名が伊達では無い所、見せてもらうわよ」

「良いだろう。 ちょっと今、事件の影響で部下が体調を崩していてな。 解決を急ごうと思っていた所だ」

軽く、手札を見せ合う。

黒闇天の話もするが。

それについては。かごめは眉をひそめた。

「ああ、あの壁に掛かっていた絵」

「恐らく血を混ぜた塗料で描かれた絵だ。 あれについてはどう思う」

「血で描いて何か被害者に悪影響が出るかというと、それはNOとしか言いようが無いのだけれど。 あれだけ強烈な絵だと、被害者に心理的ストレスを与える効果もあるかも知れない」

「ましてや暮らしていたのは有名な幽霊アパートだ」

私としても。

雪乃が無実であるケースを探したいのだが。

今回の件は、プロファイルの専門家であるかごめと話せば話すほど、その線が消えていくのである。

頭を掻く。

これはもう。

雪乃をどう白状させるか、に掛かっているかも知れない。

「私は雪乃の友人だ。 その立場を使って、もう少し家捜しをして見る」

「そう。 では此方は、状況のさらなる分析をしておくわ」

「頼もしいことだ」

「事件解決のために、得意分野を生かし合うのは当然よ。 部署どうしで足を引っ張っても詮無きことだわ」

どうやら此奴。

部署同士のいがみ合いとか、そういうことはどうでも良く。警官として、事件を解決することを大事に考えられる頭を持っているらしい。

見た目はまるで暴君だが。

警官としては、しっかりとしたものを持っている。

大したものだ。

軽く打ち合わせをして、アドレスを交換すると、資料室を出る。

さて、此処からが問題だ。

雪乃は、どうして犯罪に手を染めたのか。それについては、ほぼ見当もついている。だが、雪乃が犯人では無いケースは想定できないのか。

一度固定観念が頭にこびりつくと、それを引きはがすのは難しい。

私は、頭を何度か掻き回すと。

気分を変えて、地下へ戻る事にした。

 

2、呪いというもの

 

編纂室に戻ると。

丁度、小暮の呪いを部長が祓い終えていた。小暮はうすうす勘付いていたのだろうけれど、部長までもが不可思議な力を使ったことに、驚いているようだった。

昼寝ばっかりしている部長が警視となることは既に小暮にも話してあるが。

実は裏側で、よほど大きな仕事を立て続けにしているのだろう。体に対する負担も大きいだろうに。

少し同情してしまう。

「これで良い筈や。 ただ、思ったより楽に済んだな」

「何故でしょう」

「この間のカルラ天だろ」

「……」

犬童警部は、微妙な顔をすると。そういえばそうだったかと、顔に書いて。ソファに転がり、競馬新聞を読み始めた。

この間の、超弩級怪異との戦いで、カルラ天が小暮に守護を施した。

その影響だろう。

小暮の霊感が、恐らく一段落アップしたと見て良い。

小暮の年齢になってから、急に霊感が強化されるケースはあまり多く無いのだけれど。カルラ天ほどの強力な神格に、それが分霊とは言え加護を貰ったのだとすると。確かに能力が強くなっても不思議では無い。

冷や汗をハンカチで拭っている小暮に。

椅子に逆向きに座りながら、冗談交じりに話してみる。

「どうだ、少し本格的に対怪異の修行をして見るか。 怪異を殴れるくらいまでは強くなれるはずだぞ」

「ご冗談を。 自分は人間相手だけで手一杯であります。 それに、自分は人間の制圧が得意ですし、それを延ばしていきたいので」

「そうか、それはちょっともったいないな。 私は対人戦が極端に苦手だし、お前が怪異に対してちょっとは防御手段を持っていると、更に楽になるんだがな」

犬童警部は興味なさげである。

私は咳払いをすると、声を落とした。

「どうやら雪乃はほぼ間違いなく黒だ。 幾つか情報を見てきたが、彼奴、意図的に幾つか嘘をついていた」

「む……そうでありますか」

「馬鹿な奴だ。 私に相談してくれれば、DV夫なんぞ顔面を平らにして、刑務所に放り込んでやったんだが」

だが、男女の恋愛感情というのはよく分からないもので。

世の中には、だめな男にばかり恋をするいわゆるダメンズウォーカーなどと呼ばれる女性もいる。

相手が最悪な性格の持ち主でも。

体の相性が良かったりすると、結婚生活が続いて。その結果、余計に体がぼろぼろになっていくケースもある。

ちなみに私も恋愛経験はあるけれど。

あんまり長続きしなかった。

周囲の恋愛経験話を聞いていると、色々とアレな修羅場も出てくるし。正直な話、恋だとかよりも利害が一致している相手の方が上手く行く気がする。

もっとも、今の時点で。

私の周囲にそういう相手はいないのだが。

「先輩、ご親友がその……殺人犯で、悲しくはありませんか」

「悲しいさ。 東京に来てから私は忙しくなったし、何しろ疎遠になってしまっていたからな。 彼奴がどんな状況か分からなかった。 この土地には少しばかり怪異が多すぎる」

人が集まれば。

怪異も集まる。

それは自明なのだが。この土地に来てから私には余裕が無かった。実際問題、仕事が終わってから叩き起こされて。本家がらみの怪異退治や。或いは仮面の男から指示を受けて、怪事件の解決に動く事も多い。

私も鍛え方が違うとは言え。

これでは、周囲に気を配れない。

今度警部に昇進する事で、何人か部下を得られるかも知れない。本家の弟分や妹分の中にも、そろそろ成人する奴が出てくる。

そいつらを部下にすれば。

少しは負担を減らせるか。

いずれにしても、この土地で怪異を利用して、邪悪な事件を起こしまくっている奴ら。あれをぶっ潰して、死刑台にジャーマンスープレックスするまでは。

休息の日は無い。

「雪乃の奴、私に一言でも相談してくれていれば」

ぼやく。

小暮は、お気を落とさずにと言うが。

気分の切り替えは、中々上手く行かなかった。

 

体調が少し悪いけれど。一応祓うことに成功した小暮を連れて、翌日には自殺の現場を見に行く。

調査は徹底的に行われていた。

まあ保険屋も立ち会ったのだろうから当然だ。

あいつらは昔、サラ金やらに徹底的に利用されたこともあって。今ではすっかり調査のプロになっている。

下手な警官よりも鼻がきく位だ。

さて、見て回るが。

どうやら死んだ雪乃の夫の亡霊はいないようだ。あの時浄化してしまったのがそれかなあと思うけれど。

忘れることにする。

ミスをリカバーできるのがプロだ。

そして私はプロなのだ。

自殺が行われた木の下に来た。何の変哲も無い、小さな森。公園の中に作られた緑地が、ちょっとした雑木林になったものだ。

特に邪悪な気配はない。

あのアパートのすぐ側だというのに。

さて、と。

どうやって殺して。

死体を吊した。

暗示か。

いや、それは考えにくい。暗示によって自殺させるのには、かなり高度なテクニックと、心理理解がいる。

少し前の事件で、私が相手の心理を突くことで自白を引き出したけれど。

あれは実のところ、犯人の周囲に何人か、過去の事故を悔いている霊がいて。そいつらから話を聞くことが出来たから。

そういう意味で私は。

アドバンテージを持っているのだ。

「小暮、どう思う」

「七十キロはある死体を吊すとなると、自分でも難しいですね」

「滑車の類を使った場合は」

「現実的ではありませんな」

その通りだ。

よく推理もののコミックなどでは、たこ糸などを使った密室トリックが出てくるが、あれらの殆どは実際にやってみると上手く行かないし、やったとしても痕跡が残ってしまうものなのだ。

この国の警察は、不祥事も起こすが、事件の捜査能力に関しては世界でも随一のレベルに達している。

近代捜査、例えばプロファイリングなどに関しては米国に一歩劣っているし。凶悪犯罪に対処するプロチームの編成についても微妙な所はあるが。

少なくとも、対一般犯罪については世界最高峰の実力だ。

無能キャリアさえ絡んでこなければ、だが。

私はキャリアだが、あいつらは警察の恥だと考えている。とにかく、ああならないように。事件は確実に解決していかないと。

死体が吊されていた木についても調べるが。

やはり小細工を使用した形跡は無い。

少し考え込んだ後、ふと気付く。

「協力者がいた可能性は」

「ううむ、それでも短時間で死体を吊すのは難しいかと。 人見先生の話によると、死んですぐに死体が吊されたか、吊されたことによって死んだ事は間違いないという検死結果のようですし」

「……」

腕組み。

そして、もう一つ問題点がある。

多分雪乃には、死体を吊す腕力が無い。

これは本人が鍛えているいない以前の問題なのだ。そうなると、一体どうしたのだろう。

調査資料を思い出す。

死体は吊された状態で見つかった。

かなり新しい死体で、まだ蛆も湧いていなかったし。腐敗もしていなかった。

「とりあえず、此処は此処までだ」

「次はどうするのです」

「雪乃に会いに行く」

もういっそ、直に吐かせるか。

彼奴にあまり手荒なまねはしたくないのだけれど。

それでも、やっておかなければならない事がある。

それに、既に確認も取れている。

あらゆる状況証拠が。

雪乃が黒だと、告げているのだった。

 

アパートに出向く。

やはり周囲には悪霊の姿。あれだけ念入りに浄化してやったのに懲りない。あの黒闇天の絵が、原因の一つであることは間違いないだろう。

片っ端から浄化しながら、雪乃の部屋に。

雪乃は、家で何か整理をしていた。

「来たぞ。 上がって良いか?」

「ちょっと待ってね」

「む」

ストップ、と声を掛ける。

雪乃は怪訝そうに振り向くが。私は、ちょっと困った。

「今、警察から殺人の疑いが掛かっているのは分かっているな。 そんなときに、疑われるような行動は慎め」

「あら、そうだったわね」

「疑いが晴れれば自由になれる。 それまでは我慢しろ」

ただ、疑いが晴れる日は恐らく来ないだろう。

また茶を出してくれる。

私は、咳払いすると。

いきなり確信に踏み出す。

「あの黒闇天の絵、間近で見ても良いか」

「!」

ぴたりと、雪乃が止まる。

やはりそうか。

小暮が困惑する中、私は掛け軸へと歩む。強烈な圧がある。文字通り、呪いが天敵である私を押し返そうとしているのだ。

セーマンの印を切ると、私は真言を叩き込んだ。

凄まじい力のぶつかり合いの末。

競り勝ったのは私である。

ばちんと凄い音がして、黒闇天の。血で描かれた絵は、一気にその呪いを失っていく。コアを砕かれたのである。少なくとも、外に力を放出する能力は失った。

掛け軸を外す。

そして、その掛け軸の裏の壁には。

世にも禍々しい札が貼られていた。

写真を撮って、兄者に送信。コレは何かと話を聞く。兄者も少し考え込んでから、調べて見ると返してきた。

どうも密教の曼荼羅をモチーフにしているようなのだけれど、見たことが無い札だ。描かれている文字も、何だこれは。分からない。

ラテン語でも梵字でもない。

ルーン文字でもない。

魔術に別の国の言語を用いる方法を、例の奴らは得意としている。どうやら、此処にも奴らの手は伸びていたらしい。

「この札は?」

「そ、それは。 幽霊アパートだからって、管理人さんが……」

「効果ゼロだっただろ」

「……」

俯く雪乃。

嘆息する私。その様子が、私が本気で怒っているのだと、雪乃は気付いたはずだ。どうして話してくれなかった。

どうして、最悪の奴らに。

利用されてしまった。

「これはな。 恐らく内容からして、悪霊をむしろ呼び寄せるものだ。 例えば、他人を自殺させるような、な」

「そんなもの、分からないわ」

「いや、分かっている筈だ。 多分トリガーは、この絵に触ること、そして札に対応する何かの言葉だな」

スパンと、真相を貫く私の言葉。

雪乃はしばらく黙っていたけれど。

やがて、完全に口を閉ざした。

小暮が困惑していたが。

私と雪乃のにらみ合いは続く。

「その手、使い物にならないだろう。 もう修繕師としてはやっていけないな」

「!」

「私はな、相手を筋肉で見る事も出来るんだよ。 お前の手が繊細な動きを可能にしているかは、見れば分かる。 修繕はそれこそ職人技が必要になってくる仕事だ。 その手では、もう無理だろう。 夫のDVによるものだな」

「何もかも、お見通し、なの」

悲しげに言う雪乃。

そうだ、この顔だ。

雪乃は私の数少ない友人で。

そして、知っていた。

私が、怪異を退治していることを。そして怪異を退治するには。怪異に力を与える人間を熟知しなければならない事も。

もう、どうしてとは言わない。

DV夫とくっついた経緯も。

もはやどうしようもない事だ。

私も多忙だった。

一度でも雪乃にメールでも入れていれば。こんな事態は避けられたのかも知れない。だが、全ては遅い。

「話してくれるか」

「……」

「話したくないか」

「分かって。 あの人のために、犯罪者の汚名を着せられることだけは耐えられないの」

そうかそうか。気持ちは痛いほど分かる。だが、もう雪乃は、犯罪者なのだ。黒闇天の掛け軸を確認。

これは修繕対象ではないな。

というよりも、修繕はとっくに終わっている。

少し前に見せてもらった修繕中の掛け軸も。

恐らくは、弟に仕事を廻してしまうつもりだったのだろう。

電話をする。

相手はかごめだ。

「此方風祭。 雪乃が、ほぼ犯行を認めた。 だが自供は拒否している。 後は任せても構わないか」

「疾風迅雷の噂は本当ね。 分かった、すぐに行くわ」

「此方は此方でやる事がある。 雪乃のことは任せるぞ」

通話を切る。

かごめとは、一度拳で語り合ったことが良かったのだろう。それに何より、同じ事件に対する存在と言う事もある。

本来は、こういった横の連携が取れるべきなのだ。

そうすれば、事件の解決はぐっとスムーズになる。

感情論など抑えて、それぞれが得意分野をこなすようにして行けば良い。何でもかんでも全員ができるようにしてしまうと、それは却って効率を落とす。更に言えば、教育も無駄になりやすい。

雪乃は黙り込んだまま、じっと座っている。

また電話。

兄者からだ。

「純、今の札だがな」

「何か分かったか」

「恐らくはバスク文字だ」

バスク文字。これはまたマニアックなものが出てきた。

バスク語というのは、ヨーロッパに残った、唯一の別系統言語だ。普通はラテン語で記されるのだが、秘匿されている本来のバスク文字も存在していると噂に聞いている。兄者がそういうなら、間違いないだろう。

それにしても、バスク文字。

バスク語は基本的に、非常に特殊な言語と言う事もあって、言語学者にとっては垂涎の品なのだが。

それをこんな邪悪な代物に利用するのは、正直頭に来る。

文化に対する侮辱と言えるだろう。

「内容については分かるか、兄者」

「そうだな。 恐らくは、何かしらの呪術をターゲットに向ける、というものだろうな」

「そうかそうか。 有難う」

小暮は恐らくその条件を満たしたな。あのまま行くと、雪乃の夫のように、自殺していたかも知れない。

私はそんなもの、正面からぶっ潰すだけなので何ら問題なし。いずれにしても、この札は証拠品Aとしてこの場から外す。

そして、この黒闇天の絵とセットにしなければ。

害は発揮できない。

「誰に貰った、雪乃」

「……」

「保険金殺人の事を持ちかけたのもそいつだな。 この絵も、そいつが持ってきたのではないのか?」

「いいえ。 この絵は、部屋の鏡の裏に最初からありました」

そうか、それだけは応えてくれるのか。

しかし、そうなると。

絵を仕掛けたのは、誰だ。

 

3、黒闇天

 

かごめが来たので交代。軽く状況を説明する。黒闇天の掛け軸は、此方で預かると言うと。かごめは好きにしなさいと言うのだった。ただし、ひと揉めしたあとに。

「その絵については着目していたけれど、おいていってくれないかしら」

「これには此方で用事があるんでな」

「絵に用事?」

「終わったら戻しに来る。 破いたりはしないから心配するな」

いちいち、色々と面倒な奴だ。結局持っていくことは承知してくれたが、かごめはとにかく、自分が気に入らないものには、探りを入れないと気が済まないのだろう。

現状、かごめの対怪異能力については分からない。

だから、式神を残しておく。

この間の事件で、少し手持ちにエース級が足りないと感じたので、本家から三体ほど強い式神を郵送させた。

その内の一体。

以前八幡神の皮をかぶせられて信仰されていた邪神。

先祖が調伏した事によって式神にした、強力な元怪異をおいていくことにする。

もはや名前さえも散逸した、古代からの信仰を受け継いだ怪異。姿は巨大な白蛇そのものであり。

ミジャグジと関係があるかも知れない。

ただ、しっかり躾けはしてあるし。遠隔で何をしているかも分かる。私の言うことも良く聞く。

というよりも、口うるさいくらいの忠臣だ。

何でも子供を育てるのが好きらしく、私が幼い頃は側で見守っていて、こうしなさいああしなさいと、いつも口うるさかった。それが本心からいたわっての言葉だと言う事を理解していたので、私も聞いていたけれど。

正直。

はっきりいって、うざかった。

まあ、でも今はその言葉を受け入れる度量も得ている。だから、此奴が久々に手元に来た時は。

むしろ懐かしいし。頼もしいと思ったものだ。

なお、歴代当主の教育係もしていたそうで。子供の躾はお手の物だと豪語している。実際問題、私は此奴に厳しく躾けられて礼儀作法を学んだし、色々な術の基礎を叩き込まれた訳なので、それに異論はない。

式神であると同時に。此奴は私の師匠の一人だ。

そして私が此奴を超えたとき。弟子が師匠を超えるのは最高の誉れだと、此奴は本当に喜んでくれた。

だから口うるさくて色々とがみがみいうけれど。此奴の事は、嫌いじゃない。

背中も預けられる。

「白蛇王、頼むぞ」

「お任せを。 怪異には一切手出しさせません」

「ああ」

小暮を連れて、外に。

小暮は突如現れた、それこそ全長十メートルを軽く凌駕する巨大スネークにびびりまくっていたが、こくこく頷いてついてくる。かごめは明らかに見えているのに、見えていないフリをしていた。まあその辺は、多分かごめなりのこだわりなのだろう。

さて、外に出ると。

軽く伸びをした。

そしてストレッチ開始。

これから、この絵と。

札についている呪いを。

根本的に処理する。

 

少し広い倉庫を借りてあるので、其方に移動。

入ると同時に、セーマンの印を切って、倉庫を霊的に封印した。札が必要になる奴もいるが、それはレベルが低い術者だ。私くらいになると、印を切って陣を組むことを、札無しでできる。

手持ちの式神を数体解放。

小暮には、誰も入ってこないように、外を見張らせる。

それにこれから起きる事は、小暮にはちょっと怖いだろう。

「分かりました、先輩」

「頼むぞ」

さて、と。

絵を床に拡げる。

そして、札を側に放った。

密教系の術式と、バスク文字で書かれた西洋魔術の混合か。また面倒くさいものを繰り出してきたものだが。

実力でねじ伏せるだけだ。

何度か印を切っている内に。

浄化したはずの絵から。

黒いもやが、膨大な煙のように、わき上がり始めた。

怨念の塊。

呪いの塊。

それらが、黒闇天という、祟り神として扱われやすい媒介を利用して、集められた呪いの絵。実際には祟り神などでは無いが、信奉者がそう考えれば媒体として機能する。それがオカルト。迷妄。怪異にとっても極めてはた迷惑な、人間の思念が産み出す闇。

これがこの絵の正体だ。

描いた人間は、恐らく世界そのものから排斥され続け。そして全てを呪いながら死んでいったのだろう。

その前に、己の全ての呪いを。いや、怒りを。この絵に叩き込んだ。

絵は、魂を込められることで芸術になる。

この絵は、この絵を描いた人間そのものだ。伝わってくる怒り。呪い。哀しみ。そして、絶望。

それが全て込められている。

黒い芸術。

それはある意味、黒闇天という神を題材にするには、丁度良いものだったのかも知れないけれど。

だが、芸術であっても。

私には認めることができない。相手を不幸にすることだけを目的とした芸術は。もはや凶器だ。

「あの男は、死んで当然だったぁ」

もやが呻く。

この声は。

雪乃のものだ。雪乃の思念が、この呪いの塊に、完全にリンクしている。そして、実体を為そうとしていた。

それだけではない。

様々な声が聞こえてくる。

この絵は、あまりにもたくさんの怨念を。怨嗟を。呪いを。執念を。吸収してきたのだ。だから、怪物と化した。

「放出能力は奪ったが、内部にはまだ本体が生きていたな。 姿を見せてもらおうか」

「うあああああああああ」

うめき声。

それが、形を為していく。

腕を複数持った、インド神話特有の姿格好。

いや、違う。

真似ているだけだ。

黒闇天は、そのような姿をしていない。醜いが、それはそれ。ドゥルガーの系統に属する神であっても。

ヒトの形を逸脱していない。

ほどなく、それの形が変わっていく。

背中に翼が生え。

蛇のように下半身が変化し。

そして、雄叫びを上げた。

「お前も死ねえええええええっ!」

鼻で笑うと。

私は、そいつの、蛇の尻尾を踏んづけた。

ぎゃあっと悲鳴を上げるそいつの腹に手を当てると。真言を至近距離から叩き込む。

カルラ天でも封印するのがやっとだった怪異を、一撃で倒した私だ。

この程度の、ニセの邪神なんぞ。

相手になるか。

尻尾を踏んづけたのは、吹っ飛んだとき、それを利用して逃げられないようにするため。ばこんと地面に激突して、跳ね返ってきたところに、顔面にグーパンを叩き込み。更に今度は髪を掴んで、振り回しながら地面に叩き付ける。

そして、頭を踏むと。

邪気が、一気に抜けていった。

「お、おまえ、おまえなに、なんなの、なに……」

「不動明王並の力だそうだ。 カルラ天のお墨付きだぞ」

「……」

愕然と。

徐々に姿が戻っていくそれが、私を見る。

それは恐らく。

絵を描いた人間の執念が、形を為した存在。邪気がどんどん抜けていく過程で、見えてくる。

絵師は女性だった。

酒飲みの夫に殴られながら絵を描いて。それを二束三文で買いたたかれた。

時には、高名な絵師の描いた絵、として。自作を売りさばかれる事もあったという。

狩野派などの高名な絵師の家系では、特殊な技術伝授が行われていたと聞いている。それは昔描かれた優れた絵を、そのまま模写することを、修練としていた、というものだ。確かに、ある程度腕がある絵師ならば、それで上達する。

だが、歴代の当首の中には。

いたのだろう。どうしても、とてもではないが、喰っていけるレベルの絵を描くことが出来ない者が。

そういう者に代わって、絵を描いて。

そして、気付いたのだ。

自分の絵は、残らない。

自分の名前も、残らない。

才能を搾取されていく。

何もかもが、夫の酒に代わっていく。夫は酒を飲みながら自分より若い女を抱き、博打をし。

借金をこさえてきて、私を殴る。

そして絵を描かせて、それが繰り返されていく。

嗚呼。

憎い。

全てを呪う。

ああそうだ。

私の全ての怒りを。呪いを込めた絵を描こう。絵は私の血で描こう。そうすれば、私の全てが。

この絵に籠もる。

私は、この絵、そのものになるのだ。

邪気がすっかり抜けたそれは。私の足下で、しくしく泣いていた。まあこの状態なら、もうお仕置きは必要ないだろう。

「ごめんなさい、殴らないで、殴らないで、お願い……痛いのいやあ……」

「自殺させたな? 何人も」

「それは、あの札が……」

「札は能力増幅のためのものにすぎないし、そもそも最近貼られたはずだ。 お前は多くの者を不幸にして来た。 お前が不幸だったのは認める。 だったらどうして駆け込み寺にでも何にでも行かなかった」

むしろ、静かに諭す私の声に。

絵そのものとかしていた絵師は。もう一つだけ、ごめんなさいと、いうのだった。

そのまま、式札に封印する。

まあいい。しばらく、そうさな。私の孫の代くらいまでこき使ったら、解放してやるのもいいだろう。

此奴は負の連鎖の最初の一点。此奴によって不幸にされた人もいるけれど。雪乃の夫のようなクズを殺した事は怒りきれない。

終わったことを、小暮に告げる。

「今のは、一体……」

「哀れな女性絵師の怨念だ。 まあ、それにしても犯した罪は重いから、私の家でしばらくこき使うがな」

「……その、雪乃さんの夫の死にも」

「此奴の仕業だよ」

恐らくは、雪乃は何かしらの手段で夫に暗示を掛けた。

そして、この絵が、後押しした。

後は、夫が自分から首をくくった。

だから、刑事事件として立件することは、正直な話難しい。だが、恐らく雪乃は、認めるはずだ。

どうして別れなかったか。

それは、雪乃にとって、あの夫が結局大事な存在で、離れる事が出来なかったから。

愛とはときにそうもおぞましい代物になる。

人を縛り。

道を踏み外させる。

とりあえず、これで一つ怪異を大人しくさせた。あのアパートには、後で丸一日がかりで、強力な浄化の術式を使っておく。

これで多分、以降は大丈夫な筈だ。

アパートに戻る。

多分、今頃。

かごめが、雪乃を落としているだろう。

 

アパートに到着。

案の定、パトカーが来ていた。雪乃が、コートを掛けられて連行されていく。そして、苦虫を噛み潰すようにして、かごめがそれを見ていた。

「吐かせたのか」

「自殺しかけたのよ」

「!」

まさか。

そうか、そういうことか。

自分にも、同じ手を適用していた。つまり、もう既に、この世で生きていく気力を無くしていて。

あの絵に何をすれば死に向かうかを理解した上で。

それを実行していた、というわけだ。

なんと愚かな。

恐らく、雪乃の境遇は。黒闇天の絵を描いた女性絵師と同じだったはずだ。結末まで同じにしてしまって、たまるものか。

「どうにか食い止めてはくれたのだな」

「一瞬の差だったわよ」

何でも、何処かから用意した劇物を飲もうとしたらしい。

茶を出してきた時。

自分の分にだけ入れていた。

臭いでそれに気付いたかごめが払わなければ、致死量を嚥下しているところだったという。

雪乃は、此方を見る余裕も無いようだった。

「それで、吐いたのか」

「……覚悟は決めていたのでしょうね。 幾つか順番に不審点を追求していったら、吐いたわよ」

「そうか……」

「最後に茶を、というのが甘かったな」

絵については、もう必要ない。

籠もっていた怨念は全部引っこ抜いて。中に巣くっていた怪異は式神にしてしまった。だから、くれてやる。

かごめに絵を渡すと。

彼女は、露骨に眉をひそめた。

「何よこれ」

「さっきの絵だが?」

「そんなことは聞いていない。 何かしたわね」

「さあ? 見た目は変わっていないはずだが?」

絵を開いて、かごめは露骨に眉に皺を寄せた。

私はにやにやとそれを見ている。

かごめは気付いている筈だ。

この絵から放たれていた、圧倒的な呪詛が、消え果てていることに。何しろ、此奴にも。

見えているはずなのだから。

少し意地が悪いかとも思ったが。

それはそれだ。

私としては。必要なことをしなければならなかった。

「やってくれたわね……」

「これ以上犠牲者を出さぬためだ」

「そんな事は言っていない! 解析をもう少し進めれば、この絵でどうやって自殺させたかが分かったのに!」

「残念ながら現在科学では無理だ。 特に毒物の類が出ているわけでも無いし、この絵による精神暗示と言っても限界がある。 実際、毎日を好き勝手に享楽し、雪乃から搾取していたクズ夫は、自分から死のうなどと思わなかっただろうしな」

ばちりと、火花が散る。

かごめはどうして。

見えているものを否定する。

プロファイリングは最新の技術。犯罪を解き明かすために、人類が造り出した、推理の糸。

犯人をそれで絡め取り。

撃ち倒すための知恵の鞭。

だがそれは、決して怪異と相容れぬ存在ではないはず。

時に、科学的と称するものの方が。

実際には、迷妄から来るオカルトに変じるのは、世の常。

世界にはたくさんの、科学と称するエセが満ちている。

カルトの多くも、それを利用しているのは周知の事実。

かごめ自身は怪異が見える体質であるのに。

どうしてそれを認めようとしない。

今激高しているのだって。

怪異が見えているから、だろうに。

「それで、これからどうする」

「春日雪乃は、暗示によって夫の首を吊らせた。 自殺指嗾になるから、罪はかなり重くなるわね」

「本人の証言だけでそれができるのか」

「自殺のための道具を、雪乃が準備したことは、既に確認が取れているわ。 薬物を用いての自殺指嗾は、実際にはそれほど難しくない……」

確かに、暗示を掛けるのに薬物は必須だ。

あるとないとでは、効果がまるで違う。

いずれにしても、これで黒闇天の出所は分からなくなった。自身をも葬ろうとした雪乃だ。

今後、この絵の出所について。

語る事は無いだろう。

気まずい。

小暮が、右往左往しているが。

正直今は、構ってやる余裕が無い。

「貴方の見解は」

「呪いだな」

「はあ?」

「呪いだと言っている」

かごめが激高するのが分かった。

だが、私としては、譲るつもりもない。実際問題、これは呪いとしか言いようが無い現象だからだ。

「呪いの訳がないだろうが!」

「呪いというものはな、科学的な意味でも、現実に身近にあるんだよ」

「どういう意味で!」

「例えば、子供を囲んで、こうはやし立ててみる。 お前は歌が下手だ。 お前は歌が下手だ。 お前は歌が下手だ。 そして歌う度に、皆で笑ってみせる。 下手くそすぎて、聞くに堪えないと」

すっと、かごめは怒りを収める。

言いたいことが分かってきたのだろう。

「それが事実だろうが無かろうが、人間の脳にすり込まれるそれは、呪いとしか言いようが無く、本人の未来を容赦なく縛っていく。 場合によっては本人が唄うことさえできなくなる」

「精神暗示を呪いというつもり?」

「そうだ。 人間の脳はいい加減に出来ているからな。 暗示によって、様々な事をさせる事が出来る。 コレは子供だけでは無く大人に対しても有効だ。 現在、幾多のカルトが、信者を洗脳するのに、実際に用いている」

「……」

苛立ちを覚えながらも。

かごめは、此方をじっと見つめていた。

不愉快だが。

確かにそれは認めざるを得ない。

そういう顔だ。

だが、なおも彼女は聞いてくる。

「で、春日雪乃の呪いとは」

「愛だな」

「……」

「経歴は既に洗っているはずだ。 さっさと跡継ぎを作れという親の強制。 上手く行っていない弟との関係。 都会に出てきてから思い知らされる孤独。 仕事が来なかった理由の一つは、親からの圧力もあっただろう」

そう。

雪乃の父親は、日本でも有数の修繕師。

機嫌を損ねたら。

必要なときに、必要な美術品のコンディションを、確保できなくなる。だから、むしろ客の方が、相手の顔色を窺わなければならないという状況。

文字通り、殿様商売を行って。

それが許される立場にいたのが、雪乃の父親だ。

だからこそ、その縛りは圧倒的で。

元から苦しかった、ルーキーに過ぎない雪乃の仕事を、更に容赦なく奪っていった。

其処へ現れたのが。

クズ。

人の弱みを見つけると、すり寄ってくる輩。

いつの時代にも存在する、搾取するために、人間を壊す事を、何とも思っていないクズが。

雪乃の心の隙間に入り込んだ。

そして、クズ野郎は。

独自の人脈で仕事を探してきては。

雪乃に暴力を振るって仕事をさせ。そして自分に依存させていった。

お前には、オレしかいない。

オレの言う事を聞かなければ、何もかもまた元の木阿弥になる。

誰からも相手にされない孤独に落ち。

そして、最後はのたれ死んでいくのだ。

それが嫌なら働け。

オレの酒代を稼げ。

オレがもっと若い女と遊ぶための金を作れ。

絵が描けない?直せない?

だったら保険金を掛けてやるよ。

首をくくって死ね。

そうすれば、お前は最後までオレの側にいられるだろう。何、どうせもうどこにも居場所が無いんだ。

最後くらい、看取ってやるよ。

悪意に満ちた声が、私には聞こえた。闇黒天を浄化したとき。

あの絵は。

雪乃に起きたことを、全て見ていたのだ。

自分と同じだから、知っていたのだ。雪乃がそれでも、どうにもならなかったことを。体の相性が良かったこともあったのだろう。

孤独が怖い。

その呪いが。

雪乃を縛り。

取り返しがつかない所にまで、追い込んでしまったのだ。

「これが、雪乃に掛かった呪いだ」

「くだらない。 弱いからそうなる」

「そうだ。 弱いからこそ掛かった呪いだ。 だからこそに、我等は助けをさしのべなければならない。 理由は簡単だ。 我等は警察官。 我等こそ、弱き民草に助けをさしのべ、邪悪なる者を逮捕する存在だからだ!」

喝破するが。

まるで不動の暴君のように、かごめは立ちふさがる。

認めようとしない。

否。

其処にあるのは、拒絶では無い。完全なる価値観の相違だ。

「警察官の仕事とは、法を守らせる事よ。 弱者のためだけに法はあるのでは無く、法を利用して弱者を装う外道もいる。 そのような輩を増長させぬためにも、誰にも法の執行は平等で無ければならない!」

「それは法が誰にでも平等であればの話だ! この世に未だ誰にでも平等で公平な法など、存在した試しがあったか!」

「無ければ作るまで!」

「現在の人類には不可能だ!」

しばし、にらみ合う。

やがて、咳払いが。戦いを中断させた。

苦虫をまとめて噛み潰して立っているのは、佐々木課長だった。

「その辺にしておけ」

「失礼します」

かごめは身を翻すと、帰って行く。

佐々木課長も。

私を見て、舌打ちすると、その場を去って行った。

 

雪乃への面会が許されたのは、その四日後。

やはり牢の内部で二度の自殺未遂をはかり。その二度とも食い止めることに成功はしたが。

だが、更に窶れ果てている姿は。

もはや痛々しかった。

現在は24時間態勢で見張りがついている状況だ。

「最悪の男に引っ掛かって、しかも依存してしまった。 その呪いに掛かった自分を、まだ恥じているのか」

「……」

雪乃は寂しそうに笑う。

それは肯定の意思に他ならなかった。

私は、大きくため息をつく。もう一度、ため息をつく。親友である私の言葉さえ、もう彼女には届かない。

それが分かってしまった。

髪を掻き上げると。

教えてやる。

「呪いを解くことはできるぞ」

「いいえ、このままで結構」

「良いわけがあるか……!」

「いいのよ」

非常に強い拒絶を、其処には感じた。雪乃は。最後の最後で、自分の人生を滅茶苦茶にした夫と。

何より、そんな夫を平然と闊歩させてきたこの世界に対して。

拒否の意思を示したかったのだ。

厄介だ。

この手の自縄自縛に陥ると、人はもはや身動きすることができなくなる。そして、私のように、怪異に対する手段を無理に用いれば。

雪乃の精神は崩壊してしまうだろう。

こういう状態に陥った人間には、カウンセリングは効果がない。現実を変えなければ意味がない。

結実点になったのは、雪乃の指が壊されたとき。

クズ野郎は、せせら笑っただろう。

お前の体にはもう飽きていたし、金も絞れるだけ絞った。後はお前、首くくれよ。そうすれば保険金が入るからよ。

その言葉も。

黒闇天の記憶の中に残っていた。

問題は、この絵が。

誰から送られてきていたか。

それだけは、私にも分からない。黒闇天そのものも、ずっと強烈な霊的封印が施された箱に閉じ込められ。

周囲が見えない状態にされていたのだから。

「絵をどこから手に入れた」

「……」

「話してくれ、雪乃。 この絵をお前に送りつけた奴は、今まで四桁に達する人間を死に追いやっている。 そして死を金に換え、高笑いを続けているクズ野郎だ。 私が、地獄に叩き落とさなければならない輩だ」

「ねえ、純」

返事を待つ。

だが、雪乃の笑みには、もはや正気は残っていなかった。

其処にあるのは、既に清浄な思考能力を失った、古き友。クズに惚れてしまったが故に、人生の全てを台無しにしてしまい。それに気付いてからも、自らをどうにもできなかった、弱き者の慟哭。

自身への怒り。

その権化。

嗚呼。今の雪乃は。黒闇天そのものだ。伝承通りの黒闇天ではなく。あの絵の黒闇天。

呪いは感染する。

そして、その呪いは、もはや雪乃の体を捕らえて、話す事はないだろう。

「私、これから食を断つわ」

「ならばやむを得ぬか」

「……何をするつもり」

私は立ち上がると。セーマンの印を切る。

そして、雪乃に対し。

最大級の、呪いに対する術式を展開した。

 

取調室から出る。

雪乃はもはや、当面口をきくことさえできないだろう。自殺しようという強烈な意思。呪いによって生じたそれを。

さらなる強力な呪い。

生き延びようという呪いで、上書きしたからだ。

それは雪乃に最大限の負担を強いる。心にも、体にも。

ちなみに、雪乃の家族は、こうなることを既に予知していたのだろう。既に親子の縁を切っていた。

勿論面会に来る様子も無かった。

一族の恥さらしが。

そう父親は言っただけ、だそうである。

なるほど、雪乃が縁を切るわけだ。

家族がコレでは。雪乃が追い詰められるのも、無理はない。

取調室の外では。

壁に背中を預けたかごめがいた。

「何かしたわね」

「このままでは、近いうちにどうやっても死んだだろう。 だから、死に逆らう呪いを掛けておいた」

「そんな事をすれば、まともな証言が……」

「これ以外に生き延びさせる方法が無かったのでな」

嘆息すると。

かごめは入れ替わりに取調室に入る。

もう何も聞き出せないだろう。

それを理解した上で。

私は、大きく嘆息する。何度目だろう。また、大きく嘆息する。

私も忙しかった。連絡を入れる暇も無かった。だから、もし一度でも、しっかり連絡を入れていれば。

運命が代わったかと思うと。

やりきれなかった。

或いは、ひょっとしてだが。

連中が、私の友人が雪乃だと知って。このような行動に出たのだろうか。その可能性は、否定出来ない。

そうかそうか。

何にしても、だ。理由がどうであれ、雪乃に致命的な行動をさせてくれたという「恩」がまた増えた。

これはもう、一度や二度地獄に叩き込むくらいでは、恩は返せないだろう。

待っていろ、ゲス野郎。

何処へ逃げようとも追い詰め。

必ずや地獄に落ちた方がまだマシだという目にあわせてやるからな。

私は、そう決意したのだった。

 

4、移籍

 

苦い事件が終わって、翌々日のこと。

小暮が、血相を変えて、地下五階の部屋に飛び込んできた。私は丁度サーバの構築が完了して、周辺機器の構築に取りかかっている所だった。もっとも、設計などは全て終わっているから、多少弄って、調整して。動かないようなら試行錯誤していくだけだが。

「先輩、大変であります!」

「どうした」

「それが」

「へえ、此処が貴方の部署」

この声は。

顔を上げると。其処には。

女王が如き威を周囲に見せつけながら、立ち尽くす赤いの。

賀茂泉かごめの姿があった。

「何だ、こんな所に何をしに来た」

「移籍してきたのよ。 辞令が出てね」

「はあ!?」

思わず私も立ち上がっていた。どうしてだ。捜査一課が、次代のエースである此奴を手放すわけがない。

ましてやこの部署は。

怪異事件担当の、非公式部署もいい所なのだ。

申し訳なさそうに。

犬童警部が言う。

「あー、そうそう。 新人が来るのを伝えとかなければならんかったな」

「貴方が犬童警部。 警視庁の裏側の実働部隊を率いている一人と聞いているわ」

「なんや、そんな事まで聞いていたんか」

面倒くさそうに競馬新聞を置くと、手を叩く犬童警部。

そして、皆を見回しながら言った。

「これから、例の連中との戦いはますます激しくなる。 まあ最前線に立ってるのはうちらやけどな。 それでも、表だって事件を解決する戦力も必要になる」

「この国で、怪しい動きをしている組織があると言うのは、米国を出るときに聞かされているけれど。 余程面倒な相手のようね」

「そうや。 人間を何百人殺そうと、平然と笑ってるようなゲス共でな。 奴らを叩き潰すためにも、今此処にいるうちをふくめた四名は、今後大きな敵と戦い続けることになるだろう」

頼むで。

そう言われると。

何故かマントをばさりと払いながら。

かごめは鼻を鳴らすのだった。

「大敵、望むところね。 色々この間の事件は納得がいかない点も多かったけれど、それでも今後退屈はしなさそうだわ」

「やれやれ……」

私は思わずぼやいていた。

佐々木課長が。

捜査一課が、これからますます苛烈な横やりを入れてくるだろう事は、ほぼ確実だからだ。

エースと見なしていたかごめまでとられたのだ。

あの気が短い上にキャリア嫌いの佐々木課長が、黙っているはずが無い。

ましてや、前には巨大すぎて、姿が見えないほどの敵。

これは厳しい戦いになりそうだ。

「では、それぞれ次の仕事が来るまで解散。 ゆっくりしとき」

「それでは、好きにさせて貰おうかしらね」

かごめが指を鳴らすと。

運び込まれてくるのは、彼女のものらしいPCと机。しかも、使われているのは、捜査一課の刑事達では無いか。

まるで下僕のように扱われている彼らは。

どうしてこんな目にと、顔に書いていた。

何というか、ご愁傷様である。

そして、驚かされたのは。

彼女の机に並べられているグッズの数々である。

「む、貴様もか」

「あら、ひょっとして貴方も?」

そう。仕事を選ばない国民的人気を誇る猫のキャラクター。それも、決してその辺で簡単に手に入るものばかりではない。かなりのレアリティを誇る品ばかりではないか。

自慢げなかごめ。

だが私も、これに関しては、少しばかり自信がある。

「どうやら、この点でもライバルであったようだな」

「へえ、コレクターとして私のライバルを名乗るとは、面白いわね。 笑止と言わざるを得ないわ」

「では、どれだけのレアアイテムを持っているか、見せてもらおうか」

「ではこれを見てひれ伏すと良い!」

かごめが見せてきたのは。

なんと。

米国で限定販売された、レディGGの特注モデル。全世界で百個しか生産されなかった品だ。

米国を代表するスーパースターであるレディGGは、この猫のキャラクターの熱狂的なコレクターとして知られており、コラボが行われたのである。ちなみに良心的な値段で知られる事も多い関連グッズだが。これは例外で。一個あたり六万五千円もする。

しかもこの品。

ロットナンバーが一桁。

それこそ、どれだけ金を積んでも手に入らない品だ。

やるな。

だが、私も負けてはいない。

「では、此方も見せてやろう! 驚くが良い!」

「それは!」

かごめが思わず驚く。

これぞ、仕事を選ばないにもほどがある猫のキャラクターの極北。超合金モデル。

なんと超合金の合体ロボになるという暴挙を果たしてしまった結果、できた品で。限定生産品として、97個しか生産されなかった。

それも、此奴もロットナンバーは一桁である。

ちなみにお値段はなんと八万一千円。

ただし、これについては、入手難易度についてはレディGGモデルとあまり代わらない。ちょっとだけ高いけれど、私にとっては誤差の範囲内だ。

「どうやらなかなかの使い手のようね。 これは認めざるを得ないわ」

「此方もだ。 少しばかり、今後は本気で応対させて貰うとしようか」

「つ、ついていけない世界であります」

小暮が呆然とぼやく中。

私とかごめは。

あきれ果てている犬童警部の前で、握手を交わしたのであった。

 

(続)