理不尽と理不尽

 

序、異動してから

 

警視庁。日本の警察を司る省庁である。私はそこに務めることになったが、しかし今は不機嫌極まりなかった。

最初は順風満帆だった。それは国家一種試験に合格し、警察学校でも好成績を収め。更には、花形とされる捜査一課に配属も決まったからである。私の家、風祭家は。父も警官(ただし、現在は失踪)。兄は大学教授というエリート家系で。末娘の私風祭純も、相応の実力を求められた。

私の場合、変な方向に実力が出たのだけれど。

まあこれは母の影響だろうか。

勉強もできた。

これは、兄に教えて貰った事もある。ちなみに兄は養子で、血はつながっていない。だから兄は父にも母にも容姿が似ていない。私は母似なので、この辺りはちょっと面白い家庭だ。

とりあえず、私は。

国家一種に受かって。

警察学校でも好成績を上げられるだけの知能も身体能力もあって。順風満帆だった。殺人事件を担当する捜査一課は、エリートがあつまる花形部署でもあり。私はキャリアとして、警部補からスタートした。

だから、だろう。

どうして今、転属になって。

こんな書類上存在していない場所に、足を運んで。

そして、此処で、競馬新聞を真っ昼間から平然と読んでいる、大阪のおばちゃんとしか思えない上司を横目に。

図体ばっかりでかくて、心臓は兎並みの部下と一緒に、仕事をしているのか。

その仕事というのも。

よく分からない事件のデータを整理するという地味極まりない代物だ。それも、普通だったら、本当に起きたか小首をかしげるような内容ばかり。

まあ私の場合。

それが本当だったと知っているのだけれど。

それでも、どうしてこうなったのか。

そもそも私は、捜査一課が普通に解決できないケースの事件を解決するべく、エリートコースに乗った。

私がエリートになれば。

今増加している不可解な事件の際も、捜査一課が動きやすくなる。

その筈だった。

それなのに。

たくさんのキングファイルを運んでくる部下の小暮宗一郎は、二メートル近い大男で。私とは五十センチ近く背丈が違う。

この図体で、此処に配属されたのには理由があるのだけれど。それはいちいち面倒だから口にしない。

私と同じだ。

私の場合は、不本意極まりないけれど。

此奴は満足そうだからよしとしよう。

それに此奴は、私より年上なのだけれど。地位が上だからと、私にいちいち非常に旧態激しい上下関係で接してくる。

暑苦しくてかなわなかった。

「先輩、これらの書類は何処へ」

「これから私がデータ化する。 其処に並べておいてくれ。 どうせPCの操作は苦手だろう?」

「はあ、まあ」

「力仕事だけ担当してくれれば後は私がやる」

効率的にも、それが一番良い。

なお、上司である犬童蘭子は、競馬新聞を見ながら、色鉛筆でなんかチェックをしている。

別にこの人はこの人で、ある意味私以上の「専門家」なので、どうでもいい。

それに、だ。

私には分かるのだ。

この人は、真面目にやろうとしても、動けない理由が幾つかある。私は部下だし、どうこういうのも無いだろう。

キーボードを叩く。

あまり新型のPCではないのだけれど。秋葉原に行って部品を買ってきて、パワーアップしてある。

だから多少はもとよりスムーズだ。

ちなみに上司の許可は得ている。

器用なことをするなあと感心したように言っていたけれど。まあ私の場合、できる兄に恵まれただけだ。

兄は若くして大学教授をしているだけあって、相当にきれる。

私も、頭の方は兄にはかなわない。

別の分野では兄に勝っている自信があるが、まあそれはそれだ。

「しかし、凄い量でありますな」

「まあな。 それにこうやってデータ化しても、いずれ他のデータに切り替えないと、無駄になる可能性もある。 作業が終わったキングファイルも、処分はしないで残しておいた方が良いだろうな」

「先輩がそう仰るのであれば」

「……場所を取るのが面倒だが、幸い場所だけはいくらでもある」

元々異常に広い部屋なのだ。

一部署を収めるだけに作った地下スペースにしては広大すぎる。オフィスとして使っている一角は普通の広さなのだが。その奧には、倉庫として使えるスペースが、広大に拡がっている。

下手すると、上にある本庁の、一階の床スペースよりも広いくらいである。

色々な意味で妙な場所だが。

この部署そのものが。

相当に怪しいと、私はにらんでいる。

怪しいというのは、存続が、だ。

元々警視庁には、かなりデカイ鼠が前から巣くっているという話がある。これは警官なら誰でも噂で聞いている事だ。その鼠は国家上層とも相当に強力なコネクションがあり。

殺人も含めた、様々な非合法行動に手を染めているという。

おそらくこの部署は。

そいつとは連動していないが。

もしも、ぶつかるとしたら。

まあそれはいい。

あくびをしている私だけれど。マクロは既に組んで、データをどんどん流し込んでいる。ブラインドタッチはお手の物だ。

キングファイルの片付けは小暮にやらせるからそれでいい。

今日も、これだけで終わりかな。

そう思っていた私だけれど。

携帯が鳴った。

私の趣味の一つは、携帯だ。新しい機種が出ると、どんどん替えていく。いつ頃からか、これが楽しくて仕方が無くなった。

携帯にはメールが来ていたが。内容は、思わず眉をひそめるものだった。

「如何なさいましたか、先輩」

「スパムだ」

「スパムというと、たくさんメールに飛んでくるあれですか」

「そうだ」

スパム。

ネットの黎明期から存在する迷惑広告の一種。昔は手紙として送りつけられていたものが、電子化された。

内容は詐欺そのもので、掲載されている電話番号に掛けただけで、高額の請求が行われたり。

或いは詐欺事業を紹介していたり。

一時期、あまりにもスパムが増えすぎて、社会問題化した事もあって。警察は悪辣な業者の取り締まりに乗りだし、法まで改正されたのだが。

いずれも効果があったとは言い切れず。

今でも五月蠅くて邪魔で何の役にも立たないスパムは。

ネットであふれかえっている。

そこで、私はまずスパムがこないアドレスを設定して、フィルタリングしているし。そもそも親しい相手にしかアドレスは教えていないのだが。

どうしてスパムが来たのだろう。

小首をかしげているが、内容は更に不可解なものだ。

「今時チェーンメールだと?」

「チェーンメールとはなんでありましょう、先輩」

強面の小暮は、たくさんキングファイルを抱え、まるで綿飴でも運ぶように、軽々と動かしている。

此奴、多分肉弾戦闘能力では、日本最強クラスだろう。武芸に関しても、相当な実力を持っている。

ただし、心臓が兎並みなので。

強面で超強そうな外見で、更に二メートルという恵まれた身長で筋肉ムキムキの巨体という武器を、まるで生かせていないのだが。

もっとも、人間が相手なら、そうでもないのだけれど。事実此奴は、武器を持った相手を制圧したケースが何度かあり、それが出世の理由になっている。ずっとヒラでは無く、刑事長になっているのは、それがゆえだ。

まあ、それはいい。

「不幸の手紙という奴を知っているか?」

「はい。 そういったものが存在したという話は」

「そうだな、もう過去の遺物だものな」

まずは其処からだ。

昔々。

この手紙を受け取ったら。同様の手紙を十人に出さないと、不幸になるという手紙が爆発的に蔓延した事がある。

これが不幸の手紙である。

類例は山のようにあり。

幸福の手紙という奴もある。

これは、十人に手紙を出さないと幸福になる事が出来ないという代物で。

結局は同じ内容である。

子供達を怖れさせ、震えあがらせた都市伝説の一つで。

実際に十人に同じような手紙を出してしまった子供もいたということで。それなりの感染爆発を見せたが。

ある時期からぴたりとやんだ。

誰もが効果がないと、悟ったからなのだろう。

それはいい。

問題は、形を変えて。

今もそれがネットの海に、ある意味の妖怪として漂っている、ということだ。数は一時期ほど多くは無いが。

それがチェーンメールである。

例えば、一時期いかにも良さそうなポエムを乗せて、コレを拡散してくれと言うようなメールが、無作為に放り投げられていた時期がある。

このポエムは、前半部分は実在のものだが。

後半は恐らく、悪意をもってこのメールをばらまいた人間が拡げたものなのだろう。

内容が途端に安っぽく。

そして、メールをばらまく事を促す内容となっている。

「自分の携帯には、今のところそういうメールは来ていないのであります。 たまにスパムは来るのでありますが」

「私も今まではそうだったんだがな……」

しかもだ。

このチェーンメールの内容が、また妙なのである。

大量殺人事件が、近く起きる。

このままでは、取り返しがつかない事になる。

この電話番号を広めて欲しい。

そして、事件を解決できるヒトは。

連絡してきて欲しい。

というのである。

目を細める。

このメール。

わずかに感じる。

いつのまにか、警部が此方に来ていた。相変わらず、競馬新聞を手にしたままだけれども。

それにしても、本当に大阪のおばちゃんだ。

「なんや、また古くさいもんが送りつけられてきたんやな」

「まあそうですね」

「気になることでもあるんかい?」

「……はい」

まず、ざっとネットで調べて見るが。

この電話番号、いわゆるスパムで拡散されている番号には記載がない。妙だ。今の時代、スパムが周りはじめると。

詐欺用で使われる電話番号については、殆どすぐ登録されるものだが。

更に、である。

スパムなどを対応するネット対策科に連絡を入れてみて、電話番号のDBにアクセスを掛けるが。

其処にも見当たらない。

新しいスパムか。

それにしては、妙だ。

文面をコピペしてみても、ヒットしない。

「先輩、何をなさっておいでです」

「一時期、スパムは猛威を振るっただろう。 現在ではそれもあってな。 ネットではスパムが周りはじめると、即座にこういう風にさらし者にされるものなんだよ」

「なるほど」

「だが、ネットでも見つからない。 スパムの情報を収集して、対応しているネット対策科にも事例がない。 更に、だ」

気になる事がある。

スパムの内容の一カ所。

どうしても解せない箇所があるのだ。

もう犠牲者を出さないで欲しい。

そう書かれている。

そして何より。

感じているのだ、さっきから。

私には、常人にはない感覚がある。いわゆる霊感、と言う奴である。小暮にも実はそれがあるのだけれど、本人は幽霊が大の苦手なので、それは指摘しないようにしている。

このメール、感じるのだ。

普通のスパムではない。

少し悩んだ後。

私物の携帯から、記載されている電話番号に掛けてみることにする。いつの間にか、警部は自席に戻って、競馬新聞のチェックに戻っていた。

けらけら笑っているのは、どうやらエロ記事があまりにも荒唐無稽で大笑いの内容だかららしい。

あの手の新聞には、購買層を意識してか、下品で現実味ゼロのエロ記事が記載されるものだが。

それが警部には楽しみの一つらしかった。

悪趣味である。

「先輩、高額ダイヤルとかにつながったらどうします」

「んなもん、電話会社に連絡して、即刻回線停止。 更にはスパムのデータをネット対策科に廻すだけだ」

「そうでありますか」

「なんだ、怖がっているのか」

此奴もやはり気付いているか。

まあそうだろう。

霊感がある奴なら、これには気付くはずだ。このメールからは、異様な気が漂っていると。

いずれにしても、放置は出来ない。

電話を掛ける。

そして、何度かコールが鳴った後。

相手が出た。

しばらく黙っている。

「もしもし」

二度、繰り返すと。

不意に、相手は。

低い声で喋り始めた。

女だ。

それも若い。

「このままだと、悲劇が起きる。 彼奴はそろそろ、目を覚ましてしまう」

「何の話ですか」

「はとりえりさ……」

「?」

聞いた事がある。

そういう名前のアイドルが実在しているのだ。ただし、アイドル名は川原ミユキ。そういう本名だということは周知の事実である。

子役時代からアイドルとして売り出している人物で、最近はそろそろアイドルと言うには無理が出始めてきたからか。

バラドルに転向。

アイドル時代に培ったファン層を利用して、すっかり衰退しきったバラエティ番組で、視聴率を稼げる数少ないアイドルの一人となっている。

かなりの有名人だが。

どうしてそいつが出てくる。

電話番号が、口にされる。

素早くメモを取る。

この声。なるほど、そういうことか。

「止めて欲しい。 彼女には、私のようになってほしくない……」

「情報提供には感謝します。 しかし」

次の瞬間。

私は、戦慄を覚えた。

そいつが、数年前の「未解決事件」を口にしだしたのだ。

それは六人の女性が殺された凄惨なもので。

儀式殺人に見立てた内容。

猟奇的な手口。

そして、犯人が自分で最後は命を絶ち。

結局、何がしたかったのか分からなかった事件。

その事件現場で、普通だったらあり得ないものが一つ落ちていたのだが。それをさらりと口にしたのだ。

警察関係者か。

いや、違う。

これは警察でもトップシークレットの事件で。この情報は外には漏れていない。それについては断言できる。

ましてや、警察官相手に。

それを口にするリスクを考えると、あり得ない事だ。

「貴方の名前は」

「林……奈緒」

通話が切れる。

はて。これは面倒なことになったぞ。だが、動かないわけにもいかない。

もちろん、今の通話は録音してある。ただ、小暮は真っ青になっていた。

「震えがとまりません」

「……まあそうだろうな。 とりあえず出るぞ。 警部、此処はお願い出来ますか」

「ええよ、いっといで」

「はい」

椅子に掛けておいた茶色のコートを手にする。

私は小柄で、自分用のスーツを仕立てているのだけれど。コートもちっちゃな私専用の特注品だ。

まあ正直、ちっちゃいことは私にとってはあまり嬉しくないことなのだけれど、それはもういい。

今は、あの惨劇を。自分にとっても、苦い思い出になっているあの事件を。

再現させないことが大事だ。

「出ると言っても、何処に……」

「昔から言うだろう。 現場百回だ」

小暮に。

私は頭を掻きながら。最近のキャリア刑事とは思えないような事を応えるのだった。

 

1、チェーンメール

 

まずは、地下から出る。

一応冷房は効いているひんやりした地下から出ると、立ちくらみを起こしそうになるが。これでも実践で使えるかはともかく、空手や剣道はそれなりにできる。問題は体格と筋力で、普通の相手にはそれこそ木刀でも使わない限り対抗できない、ということだろうか。まあこれはちっちゃいことの宿命である。

どうして背が伸びなかったのかよく分からないけれど。

私の夢は、兄と目線を合わせることだった。

私の背を吸い取るように育った兄は非常に背が高く。いつも羨ましいと、口を尖らせていたものだけれど。

そんな私を見て。兄は面倒くさそうに、相手をしてくれるのだった。

まずは、はとりえりさ、つまり川原ミユキについての調査だ。

さっそく各方面に足を運んで調べて見る。

経歴には、特段おかしな事は無い。

ごく普通のアイドルである。

この業界、深海の邪神のような闇が蠢き。

多くの地獄が日夜生産されている場所だが。

それにしては、川原ミユキは比較的クリーンな方で。黒い噂は殆ど出てきたことも無い。大物芸能人の中には、警察のキャリア官僚と関係があったり。政治家ともコネをもっている輩もいるが。

ミユキの事務所はどちらかといえば零細で。

そんなコネはもっていなさそうだ。

「先輩、マル暴に連絡して調べて貰いました」

「ん」

小暮に言って、調べて貰う。

芸能事務所には、暴力団と直接つながっているものも少なくない。警視庁の暴力団対策科、いわゆるマル暴であれば、その辺りのデータが出てくるものだ。

零細でも、いわゆる犯罪組織のフロントになっているものや。

更にその子会社になっているケースもある。

それを考慮すると。

川原ミユキの事務所を裏から洗っておくのは重要だろう。

実際問題、暴力団関連でトラブルを起こして、姿を消すAV女優は実在している。これは、表舞台から、という意味ではなく。文字通りの意味でだ。

命を落とすケースも少なくない。

この業界。

そういう場所なのである。

だから念には念を入れたのだが。

今の時点で、川原ミユキの事務所には、其処までの黒い情報は出てこないようだった。

では、川原ミユキではなく、一人の女性としてのはとり自身はどうか。

調べて見る。

川原ミユキとして売り出したのは十年前。昔は主にドラマなどの子役でならしていて。それからいわゆるチャイドルに転向した。

演技力や歌唱力にはともに定評があり。

声優としても、充分に一線級で仕事をできる実力を持っている。

小暮はこの辺り詳しく。

色々な番組で出ていることを、詳しく解説することができた。

「ファンか?」

「はい。 ファンの間では、ミユキちゃんと、皆で呼んでいるのであります」

「ふん……」

確かに整った容姿。

すらりとした体。

恐らく、相当に苦労して、体の調整をしているのだろう。

アイドルからバラドルに転向してからも、男の影の噂はなく。古くからのファンも、それで離れる事は無い様子だった。

「アイドルというのも不自由なものだな」

「先輩、携帯が」

「ん」

この着メロ。

あの林という女だ。

電話に出てみる。

前よりも更に、タチが悪い気が強くなっている。それが私には分かった。

「林さんですね」

「はとりえりさの暴走が始まる……できるだけ急いで欲しい」

「此方も今、周辺を調べている所です」

「まだ、ミユキは応じるはず……意識がある内に……連絡を」

ぶつりと、電話が切れた。

舌打ち。

面倒な事をしてくれる。

小暮は相変わらず真っ青になっていた。

今の通話、聞こえるように、スピーカーモードにしていたのだ。ダイレクトに声が聞こえていたのだろう。

「今、えりさとミユキを分けていたな」

「偶然でありましょうか」

「……急ぐか」

とりあえず、身辺に異常な様子は無い。

少なくとも、特に生活に困窮している様子も無い。

川原ミユキ自身も、視聴率を稼げることは稼げるが。

それだけだ。

正直な話、芸能界の重鎮でもないし。

芸能界での影響力も、さほど大きくは無いだろう。

消費型コンテンツ文化という奴は、人間を使い捨てしていくものだ。悪しき文化としかいいようがないが。

其処で働いている以上。

川原ミユキも覚悟はできているはず。

精神を病んだり、心がおかしくなったりするケースもあるが。

少なくとも、今調べた範囲内では、その状況はない。

さて。

教えられた電話番号に掛けてみるとするか。

「小暮、周囲の警戒を」

「はい。 不審者は絶対に近づけないのであります!」

「ん」

私自身、携帯のモードをスピーカーから通話に切り替えると、路地裏に入る。

積み上げられたゴミ袋に、猫が集っていた。

どうでもいいので、追っ払う。

周囲に人影無し。

他人が聞いている形跡も無い。

電話を掛けると。

少しコール音が続いた後。

誰か出た。

「誰、ですか」

「林奈緒さんから連絡を受けたものです」

「!」

相手が絶句するのが分かった。

そして、この声。

女は、声を一オクターブ以上切り替えることが出来る。訓練すれば更にコントロールする事も可能だ。

ちなみに私は、こんなちみっこい容姿なのに、声は超アルト。

一方相手は。

アルトに抑えていたが。地はソプラノのようだ。

まあ声優も歌手も経験があるとすれば、声のコントロールができるのは当然だろう。

今、電話の向こうにいるのは。

川原ミユキだ。

「話を伺いたいのですが、お時間は」

「……分かりました。 この電話番号を知っていて、奈緒の知り合いだというのであれば、行くしか無いでしょう。 行きます」

「お忙しいところ申し訳ありません」

「いえ。 私も、分かっています」

覚悟を決めた声。

さて、此処からだ。

 

待ち合わせの時刻は、翌日の朝一。

渋谷の喫茶店に決めた。

渋谷の喫茶店といっても、ヒトでごった返すような場所では無くて。ちょっと路地裏に入って、更に分かりにくいところにある、いわゆる隠れ家的な場所だ。私が昔から利用しているのだけれど。

まあこれには理由がある。

その理由を小暮に言うと怖がらせるので、敢えて口にしないが。

小暮を連れて、そのまま図書館に。

まだ時間がある。

出来る事はやっておく。

まず、数年前の事件。

これの資料を、小暮に集めさせた。

「警視庁でDBを漁る方が早いのでは」

「それはもうやった」

「流石でありますな」

出る前に済ませてきた。

あちらでも、未解決事件扱いで、犯人が自殺した、という事もあるのだろう。もうタブーにしておきたいようだった。

実際問題。

調べれば調べるほど、訳が分からない事件なのである。

殺された者達は。全員が血を抜き取られて死んでいたのだけれど。皆、近隣の高校に通う女子生徒ばかり。

どうして殺されたのかも分からないし。

そもそも、どうやってさらったのかも分からない。

殺した人間も、近所に住まうOL。

両親は既に他界していて。

遺族も無く。

日記もつけていなかった。

SNSも利用していない様子だったから、とにかく本人の情報が出てこず。当時の担当警官も頭を悩ませていたようである。

新聞の方も。主要紙を全て閲覧してみるが。

碌なデータが出てこない。

ただ、現場の写真を撮ったものが一つあって。

それを見て、私は唸った。

なるほど、そういうことか。

この事件、私も昔関わった。ただし、本当の意味で解決したのは此処でではない。それに、その時まだ私は警察官では無かった。

「嫌な雰囲気の家でありますな」

「そうだな」

犯行は。

犯人の持ち家で行われた。

被害者は拷問の限りを尽くされて殺されたあげく、血を搾り取られ。それを犯人は浴びていた形跡がある。

六人が順番にそうやって殺され。

最後に犯人は、殺人に使ったのと同じナイフを用いて自殺した。頸動脈をかっきる凄惨な死に様だったという。

ちなみに、見かけだけなら普通の家だ。

だが私や小暮が見ると。

この写真の異様さが分かる。

そういうものだ。

まして私は真相に近い場所にいるのだからなおさらである。

続けて、警視庁のDBから割り出した、犯行現場に出向く。

家は取り壊され。

草ぼうぼうの土地だけが残されていた。

売り物にもならなかったのだろう。まあ、事件の内容を考えれば、当然か。

周囲はフェンスで覆われていて。

管理人に話をすると。

心底嫌そうに、フェンスを開けてくれる。

「せ、先輩。 もう、此処で何か分かるとは思えないのですが……」

びびりまくっている小暮。

まあそうだろう。

此処には、まだ。

理不尽に殺された女性達の怨念が、漂っているのだから。

私は印を組むと、真言を唱える。

そして、懐から、護符を出した。

舞うようにして、空中に星を描く。

そして、儀式を完遂した。

聞こえてくる。

「いたい、ひどい、くるしい、やめて、どうして、どうしてこんなことをするの……」

被害者の苦悶。

そして痛み。

昔は、この痛みに耐えられなかった。今の私は、眉をひそめる程度で充分なのだけれど。とにかく、致死に達する痛みの記憶だ。

いちばん大人しそうなのを選んだけれど。

それでも、ひどい拷問を受けて。

何が起きているか分からないうちに殺されたのは、事実だった。

「……先輩、何度見てもそれは、不思議でありますな」

「まあな」

そも、私がこの部署。

怪奇事件を専門に扱う、公式には存在しない部署にいる理由。

それは私が。

現在、この国でもトップ10に入る対霊能力者だからだ。

怪奇事件の全てがそうでは無いが、その多くには理不尽な不可解なるものが関わっている。

そしてそれに対応するには。

普通の警官では無理だ。

ちょっとした怪異でも、死人を出すケースがある。どれだけ屈強な男でも、理不尽が相手では勝てない。

だから私がいる。

ちなみに小暮も、霊感は人一倍強い。

ただ此奴の場合、幽霊が大の苦手なので。

物理的な事件に対応するために私としては連れてきている。

悪霊に入られた犯人が暴れたりすると。

私では致命傷を受ける事があるからだ。

こいつだったら。

多分、生半可なプロレスラーくらいなら、片手間に捻ってみせるだろう。

柔道も剣道も、充分に実戦で通用するレベルまで鍛え混んでいる猛者だ。格闘技大会に出しても、相当良い所までいける実力があることは、私が保証する。てか、生半可なプロが相手なら勝てるだろう。

だがこいつは、幽霊が大の苦手で。

こういう所では、怯えた子犬みたいになっている。

「せ、先輩。 嫌な予感と、震えが止まらないのであります」

「ちょっと待っていろ」

もう少し、印を切って調べて見る事がある。

既に日も傾き始めている。

悪い霊も集まり始めているから、早めに済ませたいけれど。

そうもいかない。

警視庁も、上層部は、怪奇なる存在が実際にあることは理解しているらしいけれど。対策部署は、小規模だ。

実際問題、普通の人間が起こす事件の方が、余程多くの被害を出すからである。

勿論怪異でも桁外れの奴になると、数十人規模の死者を出す例があるけれど。

それはあくまで例外。

まあ私も、幼い頃。

父に連れられて、そういうのと戦って。

鍛えてきたのだ。

「……だめだな。 一応犯人の顔を見ている奴がいるが、元々自殺しているから意味がないし、犯人には何かしらの霊が取り憑いていた様子だ。 霊そのものは見ていない」

「霊、ですか」

「簡単に言うと、シリアルキラーだ」

歴史的に名を残す悪霊が取り憑いて、狂気の殺人を犯したケースはある。これもその一つ。勿論表向きにはそんな事件は警視庁のDBには無いが。

まあ今いる部署でデータ化しているキングファイルの中には、そのケースが三十五、今まで見ただけでも存在していた。非公式資料という奴である。

だがこのケースは違う。関わった私だから、ある程度分かる。

しかし、どうにもひっかかる。

何か、妙な。

犯人の顔に、異様なものを感じたのだ。

あれは何だ。

確かに悪霊がついていた。だが、それをやらせたのは誰だ。どうしてただのOLが取り憑かれた。

更に高位の、妖怪やら邪神やらでもないとすると。

一体何が、ただのOLをシリアルキラーに変えた。

残虐な殺人を実行させ。

悪夢のような存在へと変貌させた。

かなり悪霊が集まって来ている。

面倒だ。まとめて片付けるか。

「オン!」

少しばかり全力で、真言を叩き込む。

同時に。

興味本位で集まって来ていた悪霊共は、まとめて蒸発した。

 

小暮に運転させて、今日はもう戻る事にする。

ただし、家にではない。

途中で銭湯に寄って汗を流した後、本庁に戻るのだ。

地下五階。

其処に、公式には存在しない部署があって。

私達がいる。

部長は。

もういない。

まあ、既に定時を過ぎている。いつも競馬新聞を読んでいるような部長だ。暇だし、此処にいる理由もないのだろう。

或いは、何かしらの別件で出ているか。

しかし「私も」そんなヤバイ案件があるとは聞いていない。

そうなると、単に暇だから帰ったというのが正しそうだ。

「私はそっちの仮眠室を使う。 お前はそっちな」

「了解であります」

「明日は六時に起きて、すぐに出る」

「先輩が、不思議な力をもっているのは知っているのであります。 しかし、今回のケースは、そんなに厄介なのでありますか」

即答。

厄介である。

まず、相手の正体が見えない。

林という女が何者かも分からないし。

そもそも現役のアイドルが、その名前を出した途端に、招聘に応じた理由も分からないのである。

ちなみに事務所を調べて見たが。

林という人間は「現在」在籍していない。

その上、あの声は。

まあ、其処については構わない。

それよりも、事件が起きた当時に、ある噂が蔓延していたことを確認した。その方が、大きな収穫だった。

OLもその噂を知っていたらしく、むしろマニアだったらしい。

これがかなり私にとっては有益な情報だ。

風呂も入ったし、パジャマを出してくる。パジャマを見て、小暮が唖然としたようだった。

「きゃ、キャラものですか!?」

「悪いか」

えっへんと無い胸を張る私である。

自分で言っていて悲しくなるが、まあそうなのだから仕方が無い。

ちなみにこれは、国民的人気の猫のキャラクターだ。一部には熱狂的なファンがいて、実は母がそうだった。

そして私は。

中学くらいから背が伸びなくなったし。

それにこのキャラが好きなので。母の影響を受けて好きになった事もあって。

今でも愛用しているのである。

ちなみに光る。

「とっとと寝ろ」

「分かりました先輩。 それでは、また明日」

「んー」

敬礼した小暮。敬礼を返して、私も別の仮眠室に入ると。

舌打ちした。

先客がいる。

小暮がいなくて良かった。彼奴がいたら、悲鳴を上げて絶叫して。或いは気絶していたかも知れない。

近くで恐竜か何かに吼えられるようなものだ。

それは実体が見えるほど強力な悪霊。

しかも、普通では絶対入れない此処に来られるほどの奴だ。

いや、怨念で、姿だけを飛ばしてきているのか。

「早く……早く……」

「分かっている。 黒幕の正体はまだ分からないが、少なくともはとりの状態は分かっている。 明日までは自分を抑えられるはずだ」

「お願い……」

「必ずどうにかしてやる。 だから、その際は天に帰れ」

頷くと、姿が消える。私の実力を察したから、だろう。

嘆息すると、私は。

この部屋の霊的防御を見直す必要があるなと思い。

そして、ベッドに潜り込む。

ちなみに、枕も同じ猫のキャラの奴である。

枕が変わると眠れないので、旅行の時は絶対に持参するようにしているのだ。からかう奴も昔はいたが。

それは全部実力で黙らせた。

下着についてはノーコメントである。

 

ベッドに潜り込むと、どうしても昔の夢を見る。

幼い頃から、色々変なものが見えた。

私はその手の血筋ではエリート中のエリートであるらしく。それが普通なのだと、父も母も教えてくれた。父も能力があったし。母に至っては、桁外れの力の持ち主だった。いわゆるサラブレットという奴だったのだ。

他の人には見えない。

だから、父母がいう相手以外には教えてもいけない。

そうも言われた。

それで、私は。

その見えないものと、どう接すればいいのかも、幼い頃から徹底的に叩き込まれていった。

悪しきものなら叩き潰し。

良き者なら仲良くする。

或いは、本来いるべき世界に返してやる。

それらの方法。

更には、戦い方。

いずれもを、徹底的に仕込まれた。

だいたいは母に教わった。母は専門家中の専門家。大体の事は知っていたし、とにかく戦闘経験が圧倒的に豊富だった。今ではもう引退しているが、居場所については公に知らされていない。危険すぎるからだ。

時には、他の高名な専門家が来て、教えて貰った。それぞれの専門分野に関しては、母さえ凌ぐ者も多かった。

覚えるのは、兎に角楽しかった。

私は耐性もあったのだろう。

だから、グロテスクな悪霊や。

雑多な妖怪を見ても。

何とも思う事はなく。

有害かを見極め。

対処できるようになるまで、時間も掛からず。対処する場合は、淡々とやれるようになっていった。

そうしている内に、兄が出来た。

不思議な話だけれど。

兄が後から出来る事もある。

父が言うのは。父の親友の子で。理由があって、養子にすることにしたのだそうだ。ただし、兄は基本的に無口で。

名字も変えないと言い。

それも、家族で認めていた。

兄は、とにかく頭が良くて、物知りで。色々とものを知らなかった私に、自分が好きなことを色々話してくれた。民俗学というらしいのだけれど。その話はとても面白かった。年が離れていたこともある。

何より、同じオカルトと言われる事なのに。

まったく視点が異なって、何より考え方も違うというのが面白い。

私が出来る事も兄は知っているし。

それでいながら、自分の民俗学を捨てたりもしない。

兄は誇り高く。

だから好きだった。

その内兄が大学に入った頃には。

私は中学生になり。

兄が大学教授になった頃。

私も、国家一種に受かっていた。

そして私がキャリア官僚になった頃には。

家庭は。

崩壊していた。

目が覚める。

両親の不仲で家庭が崩壊したわけじゃあない。父が失踪。母は危険を避けるために、私でも連絡がとれない場所に引っ込んだ。

兄はもとより関係者じゃない。

父は生きているかどうかさえも分からず。

風祭家は、色々な意味で空中分解してしまったのだ。

目が覚めたので、すぐにパジャマを着替える。

まだ五時半だが。

準備にはそれなりに時間が掛かるのだ。

化粧なりなんなりを手早く済ませる。それと、幾つかの武器も準備していく。恐らく、今日は戦いになる。

私を手こずらせるほどの相手と遭遇した事は最近殆ど無いのだけれど。

それもいつ、とんでもないのが出てくるか分からない。

備えはしておくのが当たり前だ。

私にとって化粧は。

呪術的な意味もある。

戦闘服と同じだ。

多分、多くの社会人女性にとっても、それは同じ事だろう。化粧をすることで、心身を切り替えて。仕事に臨む。

それは戦闘服と同じ。

男に見せるために化粧をしているわけではないし。

男を誘うためのものでもない。

これは多くの男性に勘違いされているが。

女性にとっての化粧は。

自分を切り替えるための儀式のようなもの。これから、公式の場に出るための、準備なのだ。

同様にオシャレというのも同じ側面をもっている。

まあ、単に好きだという要素も大きいのだが。

いずれにしても制服と同じようなものだ。

「おはようございます、先輩」

「ん、おはよう」

びしっと小暮が完璧な敬礼をしてくるので、それに応じる。

私より年上の小暮だけれど。

相手が敬意を示してくれるのだから、それに応える。ただ、小暮を顎で使うつもりは無い。

前線で戦ってきて、時間は掛かったが巡査長にまできちんと出世している男だ。肉弾戦闘能力では、おそらく本庁の警官の中でも最強の一人だろう。心臓が兎並みという弱点さえ除けば頼りになる。

私では、ナイフを持った暴漢には苦労するけれど。

小暮だったら、チェーンソーをもった素人くらいなら、一ひねりにしてくれるはずだという安心感があった。

ある意味、私の護衛としては完璧な人選だ。

そして小暮が対処できない相手には。

この私が対処すれば良いだけの事である。

「今日は荒事になる可能性が高い。 気を付けろ」

「分かっております」

「それでは、出向くか」

「オス!」

小暮は空手部だったらしく、そんな返事をする。暑苦しい奴だが、此奴なりの気合いの入れ方だ。

パトカーは使わない。

あれは、基本的にパトロールか、事件があったときに出向く場合。つまり、事件が起きてしまった場合に使うものだ。

普段は普通の車を使う。

私も車をもってはいるが。

通勤には使えないので、近くに住んでいる小暮のを使っている。

運転も小暮だ。

私は運転の途中。

助手席で目を閉じると、精神を集中。

気を練り上げる。

まあ、そこまでしなくても大丈夫だと思うが。

もし黒幕が六人を殺「させた」相手と同一だとすると、相応に本気で取りかからないと危ないだろう。小暮では対処できない。土俵が違うからだ。

川原ミユキ、つまりはとりえりさは。

もう待っているはずだ。

そしてその精神は。いつまでもつかわからない。

 

2、対面分析

 

指定の喫茶店近くの駐車場に停める。

そういえば、この国の駐車場は、海外に比べて異常な高額だという話を聞いたことがある。

まあ土地が高いのだから仕方が無い。

バブルの頃に比べるとこれでもマシになったそうだけれど。

海外の人間が話を聞くと、卒倒するそうだ。

まあ経費で切れるので、それはいい。

小暮と車から降りると、コートの襟を直す。眼鏡もしようかとおもったが、まあそれはいらないだろう。

私は兄ほど勉強ができなかったから。

どうしても、苦学になった。

「本業」との兼業は相応に大変で。

おかげさまで、同級生達とは話が合わないことこの上なかった。

同じ遊びはまったく知らなかったし。

アイドルとか、そういうのも分からなかった。

国家一種を受かって。

警察学校を出て。

警官になってから、そういう話を身につけ始めた、という変わり種だ。幸い、偏見まみれの親に育てられたわけではないので。そういうものに対する偏見はないつもりだ。アニメだって見るし、ドラマだって見る。

ただし、どれもが。

必要に応じて、だが。

歩きながら小暮が言う。

「最近見つけたこの近くのハンバーグショップが、実に美味なのであります。 今度先輩にも紹介するのであります」

「そっか。 お前が言うなら美味しいんだろうな」

「保証します」

「ああ」

小暮は重度の食道楽だ。

特にハンバーグは大好きで、色々な店に通っては、なんとブログでレビューまでしている。

勿論警官という忙しい仕事だから、更新は限定的だが。

それでも固定のファンがついているらしい。

実際私も、小暮に紹介されたハンバーグショップを何度か訪れてみたけれど。

味に不満を持ったことは一度もない。

これでもお金持ちの家に生まれて、食事に困ったことは一度もない私が、である。小暮の舌は確かだ。

歩きながら、打ち合わせをする。

川原ミユキ=はとりえりさは、一応公式のプロフでは私より八センチ上。小暮からして見れば、リスか子猫のような体格差だ。

凶器を持っていても、余裕を持って対処できるだろう。

本人だけで来るとは限らない。

用心棒を連れてくる可能性も高い。

だが、それでも、小暮がいればまず大丈夫だ。

生半可なヤクザの用心棒くらい、十人くらいまとめて畳んでみせる男である。実際に見た事もある。

しかも川原ミユキはその手の人脈がない。事務所がいわゆるフロントではないからだ。

問題は、その後なのだ。

喫茶店が見えてきた。

時計を確認。

近くに隠れる。

そして、見た。

変装しているが、間違いない。

はとりえりさ。つまり川原ミユキだ。そして前後で、客は入らない。まあこの時間だし、当然か。

護衛が時間差で入ってくるケースもあるが。

まあ、対処は難しくない。

頷きあうと。

雑居ビルの地下一階にある喫茶店に、足を運ぶ。

雑然としたビルの地下にしては、非常にしゃれた雰囲気だ。大人の隠れ家として設計されているだけはある。

コーヒーの香りがかぐわしい。

ここの喫茶では、キリマンジャロの良い豆を仕入れるルートをもっているらしく、それが自慢らしいのだけれど。

普通に紅茶も美味しい。

川原は、此方を見た。

そして、一人しかいない店員。つまり、初老の店主は。

彼女を顎でしゃくると。

意図を理解したらしく、通してくれた。

前にも二度か三度。

此処で同じように、尋常では無い事件の関係者と、立ち会ったことがある。そしてこれは自慢だが。

此処で立ち会った相手は。

それから死なせていない。

私の部署は、どうしても理不尽な事件になりやすく。

事件の内容では死者も出る。

捜査一課を離れてから、不満だらけだけれど。

死者が出てから呼ばれたケースでは仕方がないにしても。

此処の喫茶を使った後。

死者を増やした事は無い。

それが私にとっての自慢だし。

この喫茶を愛用する理由だ。

まあ雰囲気が気に入っているという理由もあるのだけれど。それはまあ、此処ではどうでもいい。

相席すると。

相手は、軽く会釈。

帽子を被り、伊達眼鏡をつけて変装しているが。事前にチェックした顔と同じだ。

ちなみに女優にしてもアイドルにしても、相当化粧で顔を誤魔化しているケースが多いのだが。

川原はあまり顔を変えていないようだった。

元の造作に自信があって。

土台を生かす化粧をしているのだろう。

「川原ミユキさんですね」

「はい。 その、貴方は」

「私は風祭。 警部補です。 此方は小暮。 巡査長」

「よ、よろしくお願いいたします! オス!」

気合いの入りまくった挨拶に、びびりまくるミユキ。

まあ、演技かも知れないが。

小暮はというと、多分有名人を至近で目の前にしているからだろう。窮屈な席で、ガチガチに緊張していた。

肘を小突く。

もっと堂々としろ。

私としては、そうとしかいえない。

ましてや、目の前にいる奴は。

既に私は見抜いている。

なるほど、そういう事情か。

「林から連絡を受けたと聞きました」

「ええ。 しかもあなたのプライベート番号つきでね。 チェーンメールだろうと思って破棄しようとも思ったのですが、色々事情があって、林さんと連絡を取ることにしましてね」

「……」

「単刀直入に言いましょう。 林さんはもう生きていませんね」

小暮が、弾かれたように此方を見る。

私は、そのまま。

じっと川原を。はとりを見つめた。

「四ヶ月ほど前に、ある心霊番組に出てから、原因不明の自殺を遂げた。 違いますか」

「……違いません」

「せ、先輩」

「事実だ。 既に裏も取ってある」

心霊番組なんてのは、大概が嘘の塊だ。

適当にそれっぽい人を連れて来て、大げさに事件を紹介する。そして音やら演出やらで怖がらせる。

そして、視聴者も。

大体の人間は、それがショーだと分かっている。

だが。

その心霊番組では、やってはいけないことをしてしまった。

ざっと概要を見たのだけれども。どうやら、例の六人殺人事件の現場に、直接出向いて、取材をよりにもよって午前二時半に行ったらしいのだ。

言うまでも無いが、丑三つ時。

禍々しき者達が、もっとも元気に活動する時間帯である。

スタッフの何人かが体調の異変を訴え、入院したが。

特にひどかったのが林奈緒だった。

彼女は精神が完全に錯乱。

その後自殺したとある。

「どのような様子になりました」

「ヒトを、殺したいと」

「!」

「たくさん殺して、血を浴びたいと言っていました。 その後すぐに、頭をかきむしって、絶対に嫌だって、泣いて叫ぶんです」

川原ミユキが、うなだれる。

林は、川原ミユキがまだ新人だった頃からのメイク担当で、それこそあうんの呼吸で仕事をしてきた仲だという。

いや、仲だった、か。

新人というと、子役の頃からだから、それこそ十年来のつきあいになるのだろう。そんな人が錯乱して死んだとなれば。それはショックだろう。

そしてその名前で。

なおかつ、自分のプライベート番号に電話が掛かってきたとなれば。

それは悪質な悪戯だとは思えず。

直接相対しにも来る筈だ。

「最初、どんな悪そうな人が来るのか不安でした。 でも、本当に警察の方だったんですね」

「……疑っていましたか?」

「当然です。 この業界、どれだけ後ろ暗い事があるかは、知っているかと思います」

「まあ、そうですね」

私だって、最初に連絡を入れたのがマル暴だ。

そのくらい、芸能界と裏の世界の癒着は激しい。捜査一課にいた時期は短いけれど、その頃逮捕した殺人犯の裏側。

奴がもっていた携帯から、芋づるで逮捕したヤクの売人。

そいつのリストから、芸能人が出てきたことがある。

捜査一課にいた頃には。

あの芸能人、間もなく逮捕されるぞと言う話が、何度となく耳に入ってきた。

芸能界は警察にコネをもつ者も少なくないが。

そのコネで庇いきれなくなる事件を起こすと逮捕される。

中には、薬物を用いた乱交パーティを主催しているような奴や。枕営業を取り仕切っている大物もいるとかで。

そういった連中は、面白くもなく、芸もないにもかかわらず。大きな顔をして、看板番組に出張ってくることもあるそうだ。

川原ミユキは見てきたのだろう。

そういう芸能界の腐敗を。

「林から……奈緒から連絡を受けたのはいつですか」

「それがね。 二日前です」

「!」

「貴方が電話をしたのでは無いかと、最初は疑ったんですがね」

すっと、目を細める。

私も捜査一課にいた人間だ。

警察学校で、警官のイロハを叩き込まれてもいる。

背はそれはちみっこいけれど。

脅しに屈するほど柔では無いし。

人間相手にてこずるといっても。

小暮クラスの相手なら兎も角。背丈が平均くらいの男子だったら、ナイフを持っていても普通に制圧する自信もある。

戦闘態勢に入った事を察したか。

小暮も、身を引き締めたようだった。

「嘘です……」

「だったら私はどうして此処にいるんですかね。 それと、何か、後ろ暗い事があるのでは?」

「……」

「これでも私は警部補。 警察の中では最下層とはいえ幹部です。 内容次第では対処できます。 話していただけませんか?」

ミユキは黙ったままだ。

伊達眼鏡の奥の表情は。

うかがい知ることができなかった。

ただ、分かる。

この瞬間。

決定的に、ミユキの気配が変わった。

「失礼します」

「料金は此方で払いますよ。 呼び出したのは此方ですし」

「……有難うございます」

一礼すると、そそくさとミユキは外に出る。

私は、釣りは後でと店主に言うと。

二千円を机において。

小暮を促した。

「追うぞ」

「はい、先輩。 あの様子では、何かあるとしか思えません」

「何かあるもなにも。 恐らくメールを送ってきたのは、はとりえりさ、つまり川原ミユキ本人だ。 メールの出元を偽装する手なんていくらでもある。 ……まあある意味違うとも言えるか」

「!?」

なんでそう言い切れる。

小暮の顔にはそう書いてあったが。私には見えていた。途中から、川原ミユキの姿がぶれているのを。

あれは、何かが巣くっている。

それも、巣くった奴は。

恐らくは、林奈緒から移動してきた奴だ。

もしも、林が電話をしてきたとしたら。

それはあの世からじゃない。

最も親しくて。

本当にあうんの呼吸で仕事をしてきた、ミユキの体を少しだけ拝借したのだろう。最後の力を絞って、である。

だが、妙なこともある。

あのぶれていた奴。

つまり、ミユキに入っていた奴だが。

どうも古い霊体には思えないのだ。

追跡を続ける。

ミユキは、ふらふらと。何処かおかしな歩き方で、姿をくらませようとしている。此方の追跡に気付いている様子は無い。

むしろ、あれは。

「見失いそうでありますな」

「ああ、それなら心配ない」

私には見えている。

彼奴から伸びている、白いヒモのようなもの。

さっき遭遇したときに、式神を一匹くっつけておいたのだ。結構老獪な奴だから、私の役には立ってくれる。

かなり妙な歩き方をして、路地裏へ、路地裏へと進んでいるが。

これはもう、抑えきれなくなったか。

「取り押さえますか」

「待て」

「?」

「あれは林と同じ状態だ。 つまり、殺人衝動に頭がいっぱいになっている。 そろそろ行動を起こすだろう。 其処を抑える」

青ざめる小暮。

私は、にやりとした。

勿論殺しなんてさせない。

そして私の予想が当たっているのなら。

ミユキは、獲物を確保しても。

すぐに殺しはしないはずだ。

甲高い悲鳴が、一瞬だけ上がる。

ちなみに周囲は無反応。

路地裏だとはいえ、少しはヒトだっているのに、である。まあこれは、現在日本だけの話では無い。

何かあったら、火事だと叫べ。

それが鉄則だと言われるほどだ。

助けて、の場合。人は来てくれない。

自分が巻き込まれるのがいやだからだ。

だが、火事なら、自分が巻き込まれる恐れがある。だから、助けが来る。そういう理屈である。

勿論、私達は、走る。

警官だからだ。

白い糸がぐっと伸びている。

獲物を確保したミユキが、一気に加速したのだろう。目測では、人間の限界速度に近い。ヒトを抱えているだろうに、だ。

「小暮、合図したら……」

「ええっ! い、いいのでありますか」

「かまわんからやれ!」

「分かりました!」

走りながら、私はそう指示を出すと。

一応鍛えている足で、犯人を追う。

これ以上、被害者を。

出してはいけないのだ。

警察という仕事は、どうしても後手に回ることが多い。殺人事件の場合は、特にその傾向が強い。

だが、今回は防げる事件だ。だから、どのような手を使ってでも、絶対にこれ以上の悲劇を重ねない。

既に林奈緒を加えると、七人が死んでいるのだ。

これ以上は。

絶対に、許してはならないのだ。

廃工場が見えてきた。

渋谷でも、端の方に来ると、こんなものがある。そして、うめき声が、聞こえてくる。もはや、一刻の猶予もない。

「応援は……」

「無用っ! 突入と同時にやれ!」

私は、工場に飛び込み。

ほこりっぽい床を蹴散らしながら、叫んでいた。

 

3、そのものの名は

 

もう、抑えきれなかった。

殺したい。

血を浴びたい。

ずっとその衝動が、体の中から突き上げてきていた。どうしようもない殺戮の衝動。こんなもの、あってはならないはずだった。

嫌いな奴はいた。

芸能界が汚辱の世界だと言う事は知っていた。子供の頃から、叩き込まれてきたからだ。

子役の頃から、見てきた。

先輩芸能人達の、おぞましい素顔。

暴力とコネとお金がものをいう世界。

ヒトには言えないようなことだって、散々させられた。

深夜番組に出たときは。

とても親には顔向けできないようなことだってした。

それが許されるのが、此処、芸能界。

人間の尊厳を切り売りして。

そして金に換える。

換えた金は、闇に消えていく。

関係者は、自分たちを特権階級と考えていて。素人弄りと称して、大事な客の筈の視聴者を馬鹿にすることを大喜びで行う。

ニホンザルが行う地位確認と同じ。

そんな世界だけれど。

歯を食いしばって頑張って来たのは。

ステージに立つときに輝けるから。

それに、わたしは、ファンの人達も、大好きだった。時々変なことを言って困らせてくる人だっているけれど。

それでも、わたしのために来てくれる人達だ。

それを他の芸能人はみんな笑っていた。

あんなの、ただの金づるだろ。

そう大物アイドルはいった。

ファンからせしめた高額のアクセサリをつけて、サッカー選手とデートに行って。そのままホテルにしけ込んできた。

そう自慢するグラドルもいた。

ファンを踏みにじる事で、業界がどんどん衰退していることを、誰もが分かっているのに。

一度始めてしまった殿様商売は止める事が出来ない。

だけれど、わたしは。

せめてファンのために。

誠実であろうと思い続けていた。

奈緒は同志だった。

それなのに、どうして。

あんな変な番組に出たばっかりに。おかしくなって、そしてわたしを残して、この世から去ってしまった。

天国に行けたのだろうか。

分からない。

だけれども、きっと分かっている。

奈緒も、この殺人衝動とずっと戦い続けていたのだ。そして、ついに耐えきれないと判断したから。

人を殺すくらいならと。

自分での死を選んだ。

相談だってしてくれた。

だけれども、芸能人に顔が利く胡散臭い霊能力者とやらは、誰も彼も何の役にも立たなかった。

一人だけ、奈緒をみて青ざめたのがいたけれど。

私の手には負えないと、すぐに逃げ出してしまった。

奈緒は殺された。

いや、違う。

きっと、奈緒の殺人衝動が、最初に餌食にしようとしていたのは。

わたしだったのだ。

だから、奈緒はわたしを守るために。

嗚呼。

わたしは、奈緒を。

子役の頃から、ずっとわたしを守ってくれた。家庭内離婚も同然で、殆どわたしには何もしてくれなかった両親と違って。本当に大事だった人を。

死なせてしまったのだ。

黒い考えが渦巻く。

そして、いつの間にか。

わたしは、何処の誰とも知らない女性の髪の毛を掴んで、引きずっていた。髪の長い女性は悲鳴を上げてもがいていたが。

そんなのでは、どうにもならない。

今のわたしの腕力が異常すぎる。それだけで、充分に引きずっていけるほど。

工場が見えた。

彼処で、解体して。

血を浴びよう。

そうすれば、美しくなる。

拷問しよう。

悲鳴を聞けば、もっと美しくなる。

工場に入る。

誰もいない。わたしは、もはや、わたしではなくて。其処には、ただ黒い意思だけがあって。

気絶している、水商売系らしい女性を見下ろすと。

おもむろに、バックから取り出した、通販で手に入れた巨大なサバイバルナイフを、降り下ろそうとした。

そして。

側頭部に、何かが直撃した。

 

着地。

小暮に私を投げさせた。

そして私は、完璧なドロップキックを、ミユキ。いや、ミユキにとりついている何者かの側頭部に、叩き込んでいた。

着地までの流れは完璧。

我ながら実に美しい空中殺法だった。

「名付けて……風祭空中三回転!」

「回転はしていなかったようでありますが」

「あーおほんおほん。 そこの気絶してる被害者連れて、すぐに病院に行け。 気絶しているだけだから、多分大丈夫だろう。 その後、応援を呼んでおいてくれ」

「せ、先輩は」

私は此奴を片付けてからだ。

そう応えると。

白目を剥いて転がっているミユキの体から、立ち上る黒い影に相対していた。小暮はさっさとその場を離れる。被害者の安全を優先したのだ。私への信頼もあるだろう。

それは女のように見えた。

美しい女だ。

西欧風のドレスを着込んでいて。鋭い視線と、何処か人間離れしている狂気に満ちた表情。

小暮にも見えていたのだろう。これが生半可な存在では無いと。

つまり、理不尽であると。

この世には理不尽がたくさんある。

人間の社会の中には、多くの理不尽が隠れている。

だが、知られていない。

人間の社会の外側にも理不尽はたくさんあって。それが時々、社会の中に紛れ込んでくるのだと。

私はスーツのボタンを幾つか外すと。

浮かび上がってくるその化け物に、名乗る。

「風祭純だ。 お前は」

応えは、もはや言葉にならない絶叫。

人型をしているそれは。

狂気のわめき声を上げながら、私に襲いかかってきた。

私は鼻で笑うと、踏み込み。

拳を鳩尾に叩き込む。

ドカンと、大砲が直撃したような音がして。

黒い何かは。

一瞬の静止の後。

膝から崩れ落ちて、道路で潰れた蛙のように動かなくなった。

私は霊体に干渉できる。

干渉できるという事は。

つまり、拳で直接ぶん殴ることも出来ると言う事だ。

本来霊体には無い内臓とかも、擬似的に設定して、それを殴る事も出来る。つまりそれは。

この黒い何かを、ぼっこぼこに出来ると言う事を意味している。

悪いが、私は理不尽に対しては、この日本、いや世界でも屈指の理不尽だ。相手が人間だったら、小暮の方が遙かに強いだろう。

だが、理不尽が相手だったら。

例えそれが神でも。

私は負けない。

「起きろ」

蹴りを叩き込んで、黒い人影をひっくり返す。

悶絶していたそれは、なんで。なにがおきた。そう顔に書いていた。狂気から覚めてみると、ごく若々しい女性だ。

いや、正直な話。

はとりえりさ、つまり川原ミユキととてもよく似ている。

大体正体は見えてきた。

「お前、ひょっとして、自分をエリザベートバートリーとか思ってないだろうな」

「……っ!」

「はとりえりさにとりついたのも、その名前が都合が良かったからだろうが」

「んー! んーんー!」

ぱたぱた見苦しくあがいて逃げようとする黒いのを踏んづける。

それだけで、踏まれたゴキブリのように何もできなくなる黒いの。

私の拳が。

一撃で抵抗能力を粉砕したからである。

言うまでも無いが。

エリザベートバートリーは、実在した、史上最悪の猟奇殺人鬼の一人だ。日本でも知名度が高く、その悪行は闇の歴史に巨大な存在感を放っている。

西欧貴族の闇の側面を代表するような存在で、領内の若い娘を多数殺戮し、拷問し。その血を浴びて美容法と称していたという伝説が残っている。

最終的には裁判に掛けられ、貴族なので死刑にはならず。小さな部屋に幽閉されて、其処で一生を終えた。

だが、不可解な点も多い。

裁判によって彼女が事実上の死刑を宣告され。幽閉されて死んだことに関しては事実なのだが。

どうもその前後がきな臭いのである。

当時の西欧は、悪魔が逃げ出すほどの醜悪な政治闘争の場で。それが戦争に直結する世界でもあった。

彼女の夫は常に戦場にある武名高き男で。

夫婦仲も悪くなく、子供も四人いた。

そればかりか、資料によっては。

彼女は民に慕われていた、というものまである。

彼女の子孫は生き残っているのだが。その一部は、この裁判はえん罪であると主張しているものまでいるほどだ。実際問題、当時の西欧はそうあってもおかしくないレベルの魔窟であり。

かの有名な、エリザベートバートリーと双璧を為すサイコキラー、いわゆる青髭に関しても、同じえん罪説が上がってくるほどなのだから。

様々な噂が錯綜し。

現実が見えにくくなっているから、だろうか。

都市伝説にあるのだ。

そのエリザベートバートリーが、吸血鬼になって。今でも闇をさまよっているというのが。

実際、彼女を題材にした小説は実在している。

吸血鬼伝説のモデルとなった名著、吸血鬼カーミラである。

吸血鬼ドラキュラとこの作品が、現在の吸血鬼という存在のイメージを作り上げたと言っても過言ではなく。

それまではゾンビと大差ないような存在だった吸血鬼が。

一躍最強クラスの怪物へと変化する切っ掛けとなった作品でもある。

そして。

このエリザベートバートリーがさまよっているという噂が流れたのが。

前の六人殺人事件の時。

そして、つい最近。

私は既に此奴の正体を見抜いていた。

此奴は、エリザベートバートリーの悪霊などではない。

前は本物だった。だが、今度は違う。

「お前には聞きたいことが幾つかある。 だから一撃で木っ端みじんにしなかった」

荒い呼吸。

涙目で此方を見る黒い幽霊は。

恐怖に全身を引きつらせていた。

いや、此奴は。

まあいい。

ひょいと背中をつまみ上げると。私は片膝を立てて、奴の腹をそれに乗せた。そして、服を脱がして、尻を出す。

「まずは尻叩きと行こうか」

「んー! んーんーんー!」

「何をもがく。 昔の西欧圏だと、子供の躾は鞭が基本だっただろう」

固まる黒い奴。

ちなみに、鞭というのは極めて殺傷力が高い武器で、速度も尋常では無い。文字通り、皮を裂いて肉を切る武器だ。

拷問用に用いられていた印象があるが。

その拷問では、実際には鞭で叩かれて痛い、程度ではすまなかったのである。

それこそ、凄まじい痛みをもつナイフで、切り裂かれているようなものだったのだ。勿論拷問されてしまえば、体に取り返しがつかない傷が残るのだ。

そして、それは。

子供にも用いられていた。

躾け。

その言葉は、あまりにも都合が良すぎる。

当時の西欧では、貴族同士は、血統を重んじて近親婚を繰り返していた事もある。遺伝病の巣窟となった上に、鞭などを使った過酷な教育。

彼らの心身が歪んで行ったのも。

必然だったのだろう。

だから私は、最近の、西欧貴族を格好良いものみたいに描写する風潮や作品を見ると、鼻で笑ってしまうのだが。

手をゆっくり上げると。

私は、カウントを開始する。

「5,4,3」

1まで数えず、手を降り下ろした。

まだ来ないと思っていた黒い影は。

めんたまが飛び出しそうな顔をして、しばらく引き結んだ口を膨らませていたが。

やがて、はらはら涙を流しながら、ぐったりした。

いつ来るか分からない攻撃の方が、精神的なダメージが大きいのである。だから使った。

「知っているか。 昔棒で殴る刑罰があったのだがな。 太い棒を使ったから、大の大人でも、二三回で失神するか、下手をするとショック死したそうだ。 今の私の掌は、それに勝るとも劣らないぞ」

「……! や、やめ……」

「10,9,8」

またカウントを始める。

ぱたぱたもがいて逃げようとする黒い影だけれど。私が抑えていて逃げられる訳がない。それこそ、ドラゴンが可哀想な子鹿を押さえ込んでいるようなものなのだ。

6で、また尻叩きが炸裂。

再び、目が飛び出しそうな顔をした黒い影だが。

ほどなく、ぐったりした。

しくしく泣き始める。

「三度目は必要か?」

「ご、ごめんなさい、何でもします、許して」

「それでいい。 ただし嘘をつけば、即座に尻叩きが飛んでくるからな」

態勢を維持したまま。

私は聞く。

「お前、幽霊でさえないな」

「! ど、どうして……」

「都市伝説ってものはな。 言霊の塊なんだよ。 たくさんの人間の口を介して伝わって行く内に原型を失って、最終的には元とは似ても似つかないものへと変わっていくものなんだ。 お前はそうして、「エリザベートバートリーの悪霊が、現在もこの世をさまよっている」という言霊から生じた存在だ」

「……」

口をつぐむ黒い影。

知っていたのだろう。

自分が悪霊でさえなく。

ただの、殺人衝動を引き起こすだけの、愚かしい存在である事を。

「お前が殺したのは林奈緒だけだな」

「そ、そんなことになったなんて、思わなかったの! エリザベートバートリーだと思って、うろうろしてたら、たまたま相性が良いのがいて。 それで入っちゃったの!」

「あげく殺人衝動を引き起こして、人を殺したくないと思った林奈緒を自殺させた、か」

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの! そんなつもりじゃなかったのに、どんどん黒い意識が押し寄せてきて、それで……!」

頭を抱えて震える黒い影。

その黒い影も。

どんどん白く、弱々しくなっていくのが分かった。

ただ尻を叩いたのでは無い。

浄化の意味もあったのだ。

まあ荒療治だが。

それにしても、この情けなさ。

当時の西欧貴族は、それこそ自尊心の塊だ。女性についても、それは例外ではない。

昔日本で、小公女という作品が流行したが。

アレに出てくる小公女は、日本版と海外版で、性格が180度違っている。

日本版では清楚な薄幸の美少女だが。

海外版では、現状に対して反発を続け、絶対に復讐してやると誓うような、気の強い女なのである。

エリザベートバートリーもそうだっただろう。

自分の美貌を保つために、大量の殺人を重ねたような女だ。

プライドは高く。

そしてこんな程度の拷問に屈する筈もない相手だ。

感性も、幼児期からそもそもまともであったとは思いがたい。

なお、これらを知っているのには理由がある。

「あ、あんた一体何者よ……どうしてそんなに、エリザベートバートリーに詳しいのよ」

「そりゃあ決まってるだろ。 言霊に引き寄せられて、数年前に大量殺人事件を引き起こした本物のエリザベートバートリーの悪霊をぶっ潰したのは私だ。 戦ったのはあの大量殺人事件の現場じゃないがな」

「え……」

「当時は高校生でな。 手加減もできなかったし、自分が悪いことをしたとまったく思っていない傲慢な態度がムカついたからな。 素手で十八分割して、二度と再生出来ないようにしてから、地獄に叩き落としてやった。 今頃ズタズタになった精神で、ぐちゃぐちゃになった肉体を引きずりながら、地獄で鬼か悪魔だかの手によって、世にも恐ろしい責め苦にあっているだろうよ」

がくがくと震え始める影。

ようやく悟ったのだろう。

自分がどんな相手の前にいるか。

どんな相手に、喧嘩を売ってしまったのか。

そして、これから。

もはや希望などひとかけらも無いことを。

「にしても、お前を言霊で引き寄せて実験した馬鹿が何処かにいるな。 いずれそいつもぶっ潰してやるとして……」

「お、お願い、ころさないで、ころさないで……!」

冷えた目で、私は情けない懇願をするそいつを見た。

そして、鼻を鳴らした。

 

4、黒い霧の向こう

 

完全に倒れているはとりえりさ、つまり川原ミユキを背負って工場を出ると。警官隊が到着する所だった。

何でも工場内での大砲のような音は外にも聞こえていたらしく。

複数の通報があったそうである。

不機嫌そうな見るからにたたき上げの警部が。私が警部補であるのをみて、舌打ちした。

「その若さだとキャリアだな。 キャリア様がこんな所に何用で」

「あんたはたたき上げか。 もうちょっと早く来ていたら、そもそも私が手を下さなくても良かったのだけれどな」

川原ミユキを降ろして、後は任せる。

まあ悪いようにはしないだろう。

あの様子だと、まだ殺しはしていない。

林奈緒が必死に守った川原ミユキは。

今後も、どうにかやっていくことが出来るだろう。

まあスキャンダルになるだろうし、無事ではすまないだろうが。

何しろ。

原因は、私が取り除いたのだから。

救急車が、目を回している川原を連れて行く。

軽く事情聴取。

殺人未遂を私が止めた。

なお、小暮も病院から戻ってきて、それについて証言してくれた。あと少しでも遅れていたら。

殺人事件になっていた可能性が高いと。

完全に目を回している川原ミユキに聴取するわけにもいかない。

不機嫌そうに、その場を去る警部。

後の現場検証を始める警官達。

私は小暮を促して、その場を去ることにする。

小暮は、流石に長距離を走ったからだろう。多少は息を乱してもいたけれど。流石の体力だ。

もう平常に戻っていた。

「先輩、ご無事で何よりであります」

「ドラゴンが子鹿に不覚を取ると思うか」

「そ、そんなに差があったのでありますか」

「まあな」

ちなみに。

小暮には言っていないが。あのニセバートリーは、今手持ちにある札の一枚にしてしまった。

封印しておいて。

いざという時にでも使うつもりだ。

もっとも、雑用にこき使うくらいしかできないだろう。

ただ、本物でなくてよかった、とは思っている。

以前交戦した本物は。

冗談抜きに、人間の闇を凝縮したような存在だった。

邪悪で残忍で、他人を殺す事を何とも思わず。

民なんて殺して当然と考え。

その血を絞って美容に使うくらい普通だと思っていた。

もっとも、である。

それらは、後から言霊に乗せられ、付与された性格の可能性も高い。様々な悪条件が重なった存在だったのだ。

本人は、或いは。

何の悪気もなく。

ただ虫を潰すようにして。

弱者を嬲っていただけなのかも知れない。

それはそれでタチが悪いし。

私に八つ裂きにされて、地獄に叩き落とされて当然と言えば当然だが。

まあ、恐がりの小暮に言っても仕方が無い。

此奴に教えてやるのは。

私が勝った。

それだけでいいのだ。

「さあ帰るとするか。 ああ、せっかく時間があいたんだ。 例のハンバーグショップに案内してくれるか」

「了解であります!」

びしっと敬礼する小暮。

まあ、今回の事件は、綺麗に解決したのだ。

食道楽の此奴が美味しいと断言するものを食べて、帰るくらいは良いだろう。

既に出てしまった死者に関しては。もはやどうすることもできない。

だが、これ以上死者が出ることは防いだし。

心神喪失状態だった以上。

川原ミユキが、今後の全てを失う事もない。

殺され掛けた水商売の女性も。

取り返しがつかない傷を受けたわけでもない。

全ては、綺麗に解決した。ただし、私は。そこまで楽観的では無かったが。

どうにも妙だ。

捜査一課からこっちに移ってから、担当した事件はいずれも解決しているのだけれども。

どれもこれもが、都市伝説に関わっている内容ばかりなのである。

しかも今回のケースの場合。

以前私がぶっ潰したエリザーベートバートリー悪霊本人の、真似をしている事に気付いていない何者か、という有様。

それも、私の見たところ。

人為的に植え付けられた記憶を元に、殺しをしようとしていた可能性が高い。

元はただの不幸な地縛霊か何かか。或いは下手をすると、単なる言霊で造り出された思念の塊にすぎないかも知れない。

いずれにしても。

類例のケースが多すぎる。

コレは恐らく、裏で何かが動いていると見て良い。

家に帰ってこない父も、何かと戦っていた可能性が高いし。

母もそれに同道して。時々大物とやり合っていた様子だ。

いずれ、父や母。それにその同志達と戦っていた何か得体が知れない存在が、私の前に姿を現し。

殺すために、仕掛けてくるのだろうか。

一瞥する。

小暮は人外のレベルで強い。

人間相手なら、まず遅れを取ることは無いだろう。

これにたいして、理不尽に対して理不尽に強くても。

私は人間に対しては、所詮常識の範囲内での実力しか持っていないのだ。此奴を頼らざるを得ない部分が多くなってくるだろう。

こんな蚤の心臓を頼るのは癪だが。

それでも、方法もない。

「先輩、此処であります」

小暮が足を止めたのは、寂れた小さな食堂だ。

だけれども、確かにおいしそうな香りがしている。

まあ、運動後の腹ごしらえには丁度良いだろう。

促されるまま。

私は、食堂に入ることにした。

 

あまりにも胡散臭い。

誰もが、胡散臭いと即答するだろう男が。全てを影から見守っていた。煙草を噴かしながら、その男は。

携帯電話を取り出す。

掛けた先は、番号がマスクされている。

よそから見えないように作っている特注品。

それだけ機密が高い案件なのだ。

「私です」

「どうだね、例の部署の様子は」

「なかなかのもんですよ。 例の言霊を、一撃で黙らせて、後はしっかり尋問まですませて。 取り憑かれていた本人まで助け出しました」

「そうか……」

声には安堵が籠もる。

例の連中が、既に目をつけ始めている。

それを知っているから、電話先の相手は、不安で仕方が無いのだろう。

どれだけ地獄を見てきて。

悪夢と戦って来ても。

やはり。大事だと思うものはあるのだ。

もっとも。

この胡散臭すぎる男から見れば、それは無用の心配だと思うが。

奴らは確かに強大だ。

日本政府の中枢にまで巣くい。

様々な非人道的な実験を行い。

それを使っての悪逆非道の数々。そればかりか、兵器化して海外に売り出そうとさえしている。

だが、そんな事はさせない。

警察中枢でも、抵抗勢力は存在しているし。

それの中でも。

我々は、怪異に対するトップエリートだ。

そう、胡散臭すぎる男は自負している。

「目付の犬童は」

「今は大人しくしています。 あの例の奴が、姿を見せていないからでしょうね」

「無理はできない体だ。 しばらくは怠けさせてやるのもいいか」

「そうですね」

話ながらも。

周囲には気を配る。

いつ襲撃があるか、知れたものではないからだ。奴らの手は、それこそ何処にでも届く。寝ているときに襲撃を受けたことも、もはや両手足の指の数ではきかない。それを切り抜けてきたからこそ。

今生きているのだ。

「これからもあれを見守ってくれ」

「分かっています。 時に其方は」

「また一つ、研究所を潰してきたところだ。 言霊を用いる事により、人工的に悪霊を集積し、憑依させて大量殺人をさせる。 即席のテロリスト製造システムだな」

「今回は実験だった、というわけですね」

そうだ、と電話の先の声は応える。

川原ミユキには災難だった。

彼女を必死に守ろうとした林奈緒は死なせてしまった。

だが、林は死してなお。

家族以上に大事に思っていた川原ミユキを守ろうとした。

だから、もっともミユキを守れる可能性が高い者を執念で探し出そうとしていた。

胡散臭すぎる男は、それに少しだけ手を貸した。

結局、風祭は。

その期待に、完璧に応えてくれた。

数年前の惨劇では、同様の実験のために、六人が殺された。犯人を含めると、七人もの命が奪われた。

その時には本物のエリザベートバートリーの悪霊が用いられたが。

今回は、偽物であったにも関わらず。

それに近い被害が出るところだったのだ。

「やはり大本を叩くしかないですね」

「ああ。 いずれ必ず、だ」

「……」

後は幾つか確認をして、通話を切る。

今回は、手助けをしてやる必要はちょっとだけしかなかった。だが、それでもまだ、あの二人の周囲には人材が足りない。

今までの事件で関わった人間と、もっと関係を濃密にさせ。

そして集団として、強い力を持つよう構成させる。

最終的には、跡を継いで貰う。

だが、跡を継ぐ前には。

この国に巣くっている巨大なドブネズミを片付けたい。奴らは、それこそ裏の世界の恥さらしどもだ。

奴らは今回の事件のような惨劇を、何とも思っていない。

対応が遅れたときには、数十人を一夜に殺すような化け物を呼び出したこともあり。集落が一つ消滅したことさえあった。

それだけやっても何一つ罪にさえ問われない外道共。

法が裁かないなら。

我々が裁かなければならないのだ。

 

5、戻ってくる日常

 

病室から出た私を、小暮が待っていた。

「どうでしたか、川原ミユキは」

「だめだな。 ここ数ヶ月の記憶が混濁していて、自分が何をしていたのかさえ、殆ど分からないそうだ」

「先輩の蹴りが……」

「馬鹿をいうな」

確かに側頭部にロケット砲のようなドロップキックをぶち込んだが、それは憑依していたニセバートリーを追い出すためだ。

記憶の混濁は、無理矢理憑依していたニセバートリーとの分離が原因である。

まあ、確かにちょっと追い出すためには過激だったが。

そうでなければ、人が殺されていたのである。

「ただ、我々のことは覚えていた。」

「本当でありますか」

「林奈緒が我々を呼んでくれたことも、何となく理解していたようだ。 助けてくれて有難うと言われたよ」

「照れるであります」

病院の廊下で立ち話も何だ。

病室の前で警備をしている強面の警官が、不機嫌そうにしている事もある。

小暮を促すと、すぐにその場を後にした。

心身喪失状態であること。

暴行罪を適用するにしても、恐らく裁判は一審だけで、それも執行猶予がつくだろう事。そういう意味では、ベストに近い結果だ。

ただし、これで川原ミユキは恐らく、芸能界を引退だろう。

未遂で終わったとは言え暴行事件。

大物だったら警察にコネがある事務所が庇うだろうが。

彼女は零細事務所の人間だ。

事務所を潰さないためにも。

その事務所を離れるしかない。

ただし、林奈緒は、死してなお。親友を守ったのだ。

或いは、不屈の精神で、別の事務所に入り直して。また芸能活動に復帰するかも知れないが。

私には、それが幸福なことだとは思えなかった。

ただ、本人が望むことをできるのなら。

それは理想的な結末なのかも知れない。

病院の駐車場に停めていた車で、戻る事にする。

今日は報告書を仕上げた後は、またキングファイルの整理だ。うんざりするほどデータがあるし。

それらを整理するのにも、大変に時間が掛かる。

地下の部屋に戻ると。

犬童警部は、ソファで競馬新聞を被ってぐっすりだった。もっとも、私が部屋に入ると、すぐに起きだしたが。

「なんや風祭。 もうおわったんか」

「はい。 後は裁判所の仕事ですね」

「そっか。 じゃあうちはまた寝るわ」

「少しは仕事をして欲しいのであります」

事情を知らないだろう小暮が文句を言うが。

私は何も言わない。

この人は、恐らくもうフルパワーでは動けない体だ。動けるとしても、ほんのわずかな時間だけだろう。

だからぐうたらしていても、責める気は無い。

「さ、残りの就業時間、キングファイルを処理するぞ」

「分かりました、先輩」

小暮と作業に取りかかる。

きっと林奈緒も、満足してあの世に行く事が出来ただろう。

私は、そう思った。

 

(続)