時間と空間の先

 

序、壁

 

膨大なレシピを見ながら、わたしは丁寧に調合をして行く。まず行うべきは、空間の壁の突破。

理論については理解出来た。

だから、それを実践に移すのだ。

まず分かったのは、同じこの世界の別の場所に一瞬で移動する場合。座標が問題になるという。

というのも、この世界の別の場所と言っても。

そもそも、わたしたちが乗っているこの大地は、常に座標という観点から見て動き続けていると言う。

これはカルドさんにも教わったのだが。

天文などを確認すると明かで。星の動きを見ると、「周天円」というものが確認できるのだそうだ。

これについては詳しく説明を聞いたのだが。

簡単に説明すると、空の星が動いているのか、この世界が動いているのか、どちらかなのかを見極めるために空を観察すると。

結果として、この世界が動いている、と言う事が分かる証拠なのだという。

お日様を中心にしてこの世界が回っているのか、それともこの世界を中心に星空が動いているのか。

精密な天体観測を行うと、後者の場合矛盾が出てくる。

逆に言えば、この世界は常に動き続けていると言う事で。一瞬で別の場所に移動する事は、非常な危険を伴う。

それならば、こちら側からの入り口は固定してしまう事で、別の世界を経由。この世界の別の場所へ行けるようにすれば良い。この方法だと、入り口を行きたい場所に一度持っていく必要がある。逆に入り口さえ設置してしまえば、何処にでも何時でも行ける事になる。

なお、レシピをまとめた本を見ると。最後に著者として、ソフィー先生の名前が記載されていた。

ソフィー先生がどれだけ先を行っているのか。

毎回のように思い知らされる。

一応、かなり古くから、この技術は確立されていたらしいのだけれども。此処まで「簡略化」したのはソフィー先生による功績が大きいらしく。

これでも簡略化されているのかと、頭を抱えるのだった。

ともあれ、座標指定から順番に作業をこなしていく。

先人が技術を確立している場合。

再現はさほど難しくは無い。

この場合は、かなり技術が高度なものを要求されるけれども。それでも、何よりレシピとして作られているのが大きい。

しかも、このレシピ。

複数の人の手が入って、完璧なまでに洗練されている。

技術と知識がつけばつくほど、そのすごさが分かってくる。

深淵の者所属の錬金術師が、更に手を入れたのだろう。

ソフィー先生も破格の異才とはいえ、作る物は常に完璧ではないだろうし。それに客観的な視点での調整を入れることによって、更に完璧にして行った、と言う事だ。そしてソフィー先生も、他者の調整を受け入れる度量を持っていた、という事である。

技量がずば抜けすぎると。

時に他人の言葉を一切聞かなくなってしまう事があると言う。

ソフィー先生は、錬金術に関しては、特異点と呼ばれるほどの逸材だと聞いているし。何よりも、本人からおぞましいまでの事実を聞かされてもいる。

そんな人でも、改良があると言うのなら受け入れているというのなら。

それはそれだけの度量があるという事で。

プライドが実力を削いでいない、という事でもある。

大した物だなと、わたしはただひたすらに感心するばかり。

こんな凄い人に、わたしは追いつかなければならない。

追いつけないとしても。

少なくとも、この人が暴虐を働こうとした場合は、食い止めなければならないのだ。

鉱物の声が聞こえるとしても。

それでもなおも難しい。難しすぎる。

ハルモニウムに繊細極まりない細工を行い。複雑な部品を順番に組み立てて行く。最終的にはドアの形にする。

汗を落とすことさえ許されない。

ハルモニウムは究極レベルの安定性を持つ金属だけれども。

故に刻み込む魔法陣には、それ以上の精密さが求められる。

ルーペを常に覗き込みながら、妥協を一切許さない最高のものを作っていく。

額を拭い。

糖分を補給しながら。

部品を一つずつ造り。

組み合わせて。徹底的に試行を繰り返す。

部品の一つずつに魔法陣が組み込まれているので。それらの全てが稼働し連動することを確認しなければならない。

こつこつと造り続けていたこの戸も。

ようやく完成しつつある。

ツヴァイちゃんに袖を引かれたので、顔を上げる。

相当に疲れが溜まっていたようで、ちょっと視界がぐらついた。身につけている装備類で常時回復が掛かっている筈なのに。それでも此処まで疲弊していたか。

頷くと、食事にする。

今日はレヴィさんが作ってくれたので、皆で食べる。レヴィさんは最近は孤児院で教師業をしてくれているが。非常に評判が良い。普段は何を言っているか良く分からないとか言われるが。その一方で、様々な事に詳しく、魔術については非常に知識が豊富だとか。振る舞う料理も子供達に評判が良いそうだ。剣術についても素養が高く、護身用の剣術の教師としていつも声が掛かるという。

剣術は大成するまでかなり時間が掛かる武技らしく。基礎的な戦闘術を教える場合は槍や弓が多くなるそうなのだけれど。武芸百般という言葉もあり、レヴィさんも実際には槍や弓が使えるという。

勿論槍や弓も教え、その合間に剣も教えられると言う事で。

どこでも教師としてやっていけると、複数の人から太鼓判を押されていた。

不思議な言葉遣いは兎も角。

生活力にしても身を立てるためのスキルにしても。

レヴィさんは高いレベルで備えているのだ。

本人も、時々冒険に行かせてくれれば、このまま教師としてエルトナに留まっても良いと言ってくれている。

今後はカルドさんと組んで、彼方此方の遺跡を見て回りたいとも言っていた。

皆、少しずつわたしと離れていく。

でも、皆がわたしを助けてくれた事は忘れないし。

お姉ちゃんとツヴァイちゃんは、きっとわたしといつでも一緒にいてくれるはずだ。

食事を済ませると、あと少しだけの作業を寝る前に行っておく。

無言で黙々と作業をしていくと。

あっという間に時間が過ぎていく。

いずれこの時間さえも、自由自在に出来るようになる筈だ。ソフィー先生を見ている限りは。

追いつかなければならない。

ソフィー先生が錯乱したとき。

誰かが、命を賭けてでも止めなければならないのだから。

しかし、わたしもいつの間にか、錯乱しているのかも知れない。深淵を覗き込んだ以上、わたしだっていつまでも正気でいられるかは分からない。

そういうものだ。

最悪の場合は。

わたしを、自分自身で止める準備もしておかなければならない。

わたしがもしも錯乱した場合。

現在、その気になれば。

小さな街くらいなら、簡単に滅ぼせる実力を既に手にしているのだから。

部品をくみ上げ。

一つずつ、組み合わせを試しながら実験を行う。

どの実験も極めて危険で。

行う際は屋外で。

それも周囲に看板を立てて、絶対に近寄らないようにとまで念押しをしてから、実験をしていた。

お姉ちゃんに見張りをして貰っているので大丈夫だとは思う。

また、レシピに書いてあったのだが。

この扉は、緊急時の撤退にも用いる事が出来るという。

ただの金属製の扉に見えても。

実際には、別の世界への扉なのだ。

確かにこれをうち捨てて逃げ込めば、敵は追いかけてくる事が出来ない。後で回収するのが大変だが。

それでも、命を捨てるよりは遙かにマシ。

死者を出すよりはずっと良い。

実験は一つずつ行い。

100を遙かに超えるチェック項目を一つずつ試す。

組み合わせるたびに行うので。

テストだけでも二週間を要した。

勿論その間にも、隣街への水路の確保。ポンプの作成。更に隣街の要塞化と、更に隣の街への道の作成計画の策定と。

順番に進めているので。

わたしの疲弊も、相当に溜まっていた。

お姉ちゃんが元気が出る料理を作ってくれるけれど、それでも限界がある。

わたしはいつの間にか、自力で決めた時間眠るように癖がついてしまっていたのだけれど。

最近は眠る時間が減る一方。

身につけている道具類での回復を宛てにして。自分でも普段だったら無茶だと分かる時間、働く日も増えていた。

わたしは、長老を追放した。

昔は素朴で優しい人だと思っていたのに。

豊かな生活が見えた途端、化けの皮が剥がれた。

重役達もそうだ。

今頃ライゼンベルグの牢屋で、哀れっぽい声を上げているだろう。

暗殺者を雇って、わたしを殺そうとしたのだ。

死刑にならなかっただけマシ。

どうしてそう思う事が出来ないのか。そんな事さえ考えられなくなったから、晩節を汚すことになったのだ。

わたしは頭を振って雑念を払うと。

三つほどあったエラーを抱えてアトリエに戻り。

原因であるらしい、刻み込んだ魔法陣の歪みを修整。

またテストをやり直しだ。この修正によって、またエラーが出るかも知れないし。

なによりエラーが出たら、それだけでとんでもない事故になりかねない。

時間と空間に関係する錬金術は。

ソフィー先生がさらりと使えているのが、おかしいくらいに危険で高度な錬金術なのである。

今、イルメリアちゃんには時間を。

わたしは空間を。

手分けして調査し、錬金術で操作する実験を繰り返しているが。

とにかく、上手く行ったら双方の試験結果をすりあわせ。

最終的には賢者の石の作成を行う。

そういう話でまとまってはいる。

わたしが遅れるわけにはいかない。

自分の肩を叩くと、今日出来る分まで、テストを行い。

ツヴァイちゃんに呼ばれたので、食事にする。一眠りすると、ポンプの方を作る。錆びない事を最重視しているので、プラティーンだけで作る。合金にすると、その時点で強度は上がるかも知れないが、錆びる可能性が出てくるからだ。まあ、数百年は錆びないが、出来れば絶対に錆びない方が良い。

水路そのものは、既に作ってあるので。

貯水池にポンプを設置し。

後は水を送れば良い。

水を送る仕組みにしても、ポンプで水位について無理矢理克服させた後。

水路に自然に水が流れるようにしている。

この辺りの設計は、わたしがドアを作っている間に、カルドさんがやってくれた。遺跡なんかを散々見ているから、こういうのもお手の物だそうだ。

それに沿ってわたしは水路を作り。

給水管で高所に水をポンプで送ってから。

後は水位を利用して水を流す仕組みを作る。

だから、エルトナには、櫓と同じくらいの高さにある、プラティーンで内部を加工した石橋みたいのが出来て、あれは何だと住民に聞かれたが。

水路と応えると、驚かれるのだった。

流石にフルスハイムほど水は豊かでは無いので。

こうやって工夫して、インフラを確保していくしか無い。

また貯水池周辺の安全についても、徹底して対策を行い。

絶対に入らないように。

入った場合もすぐにつまみ出せるように。

アラームの魔術などを複数設置。更には、常時見張りも立てるようにした。見張りにはお給金もきちんと渡す。

こういった所で雇用も発生させて、お金も回す。

新しい役人達が来てから、エルトナの経済はスムーズに回るようになったが。

役人達との会議はとにかく機能的で。

今までの長老とは違い。

もし反対する場合でも、きちんと利に沿った反対をしてくるし。質問も、極めて論理的で。

丁寧に説明すれば良いだけなので、こちらとしてはとてもやりやすかった。

会議がもの凄く淡々と進むので、同席している人がたまに眠そうにしている事もあるけれど。

本来はそれで良いのである。

会議なんてものは、権力闘争の場では無い。

必要な事を、最小限の労力で決める場。

それをわたしは、今更ながら、本職が来たことで思い知らされる。

ただ、こんな本職が都合良く来る筈も無く。

多分深淵の者が育成したか、或いは深淵の者の息が掛かっている役人達なのだろうと言う事も分かる。

人材はそんなに余っていないと言っていたし。

わたしの将来性を見越して、有能な人達を回してくれたのだろう。

それだったら、わたしも。

その期待に応えなければならなかった。

水路の作成と並行し。

ほぼ砦と化した隣街の強化も行う。

隣街へは、すっかり安全に赴けるようになった。既に全ての住民はエルトナに移って貰い、今は守備要員だけがいる。

枯れた畑は森に代えてしまうことにした。

森にならないような、土壌を変えてしまうような作物は作っていなかったようなのも幸いした。

水路を作るのと並行して土を耕し。

獣を処理しながら草を植え、火を掛けて一旦燃やし。そして低木の苗を植えていく。

綺麗に作業が進んでいくのはとても気持ちが良い。

城壁そのものも、エルトナのものと遜色ないものを造り。

城壁の強化だけではなく。

シールド発生装置も作り、強力な獣の襲来にも備える。

此処は将来的に宿場町にし。

隣街との補給地点にする。

そう会議で説明し、役人と新しい重役達の承認も得ている。

また、どうしてもこの隣街に戻りたいと言う人のためにも、早めに宿場町用の設備を整えていかなければならないし。

そういう人達には、宿の営業などについて勉強もして貰わなければならない。

隣街は、わたしが道をつなぐまでは文字通り「息をしていない」状態だったので、仕事どころではなかった。

だからみんな無学だったので。

まずは勉強というと渋い顔をしたが。

著しい速さで発展していく隣街を時々見せて。此処に新しく住み直せると知ると、俄然やる気も出るようで。

皆、せっせかと勉強に励んでくれた。

汗を拭いながら、作業を並行して行い。

ポンプを稼働させ。

水路がきちんと動く事を確認。

ポンプのマニュアルについては役人と重役達にゼッテルに記して渡す。

街の中央に置いてあるシールド発生装置用の炉(三連構造)から動力はつないでいるので、基本的に動かす事は難しくないし。

機械に手を挟むような事故が起きないように、ポンプそのものには触れないようにもしてある。

水がきちんと隣街に行くことを確認し。

緑地に水が行き渡っている事もしっかり見届けてから。

わたしは空間操作の錬金術の、最終段階に入った。

街のインフラも疎かには出来ない。

もし疎かにしたら。

わたしが目指す未来への説得力が無くなる。

悪党はともかく。真面目に暮らしている人が馬鹿を見るような場所を、わたしの目が届く範囲で作ってはいけない。

だからわたしは、何事にも全力を尽くす。

全ての扉を組み立てた後のチェック項目は、実に400を越えた。

その全てがクリア出来るまで、徹底的にテストを繰り返す。

そして、全部のクリアが成し遂げられてから。組み立てた扉を開ける。

指定通りの座標の異空間が、其処には拡がっていた。

ただし、既に城のようになっていて。周囲には、人の気配もあった。

ソフィー先生が、指定した座標だ。

恐らくは、既に空間操作の錬金術の、実験場のようにして使われている場所なのだろう。

城と言っても壁も天井も無く。

手すりつきの床が。

不思議な色の空の下、何処までも立体的に入り組んでいるという、不可思議な場所だった。

此方に気付いたらしく、何人かが見ているが。

恐らくは深淵の者の構成員だろう。いずれも、優れた戦闘力や、知性を感じた。

これは、きっとソフィー先生が、時間を掛けて作り上げていったのだろう。最初はこの、何というか、不思議な色の空というか、何も無い空間しか無い場所だったろう所に、石材やら何やらを運び込み。

組み立て、此処まで巨大な構造物にして行ったのだ。

もう一度扉を開けて、入れることを確認。

中にお姉ちゃんと一緒に入って、ツヴァイちゃんにも遅れて入って貰う。

臭いがしない。

声も、周囲にある石材のものしか聞こえない。

見回すと、通路は何処までも続いていて。更に言えば、通路自体に吸い付くような感触がある。

ちょっと跳ねてみたが。すっと、通路に戻される。

なるほど、手すりの存在もあるし。恐らくは、落下事故を避けるための処置なのだろう。何から何まで良く作り込まれている。

流石はソフィー先生。

隙が無いなと、わたしは感心するばかりだった。

「これが、フィリスちゃんが言っていた……別の世界?」

「そうだよリア姉。 此処を経由して、世界の別の場所に移動出来るの。 もっとも、移動したい場所に、この扉と同じものを配置しなければならないけれど」

「少し面倒ね」

「……うん」

でも、配置した後は。少し歩くだけで、本来は下手すると数ヶ月はかかる距離を、一瞬で移動する事が出来る。

いずれにしても、わたしの技術は空間操作に漸く届いた。

後はイルちゃんが時間操作に届いているかの確認。

そして、ソフィー先生への中間報告。

この異世界の「街」に、場所を用意してくれるとソフィー先生は少し前に来て、言った。つまりその場所に、空気が無い空間を作り。其処で賢者の石の調合をする。

それは恐らく、今まで戦ったどんな恐ろしい獣よりも凶悪で。厳しい、ミスが許されない調合になる筈だ。だが、もはや絶対に逃げる訳にはいかない。イルちゃんもやり遂げていると信じる。

最後の戦いの時は。

刻一刻と迫っていた。

 

1、時空間を掴む

 

わたしは天才では無い。

ギフテッドはあるけれど、一を聞いて十を知る、と言うような真似は出来ない。天才と呼んで良いのかは分からないが。とにかく神童と呼べるキルシェさんを見た事があるわたしは、あの子ほどの頭のキレが無い事は自覚している。

まずわたしがやるべき事は。

最初にレシピ通り丁寧にやってみること。

それで上手く行ったのなら。

次の段階へ行くこと。

そして何よりも、反復練習を繰り返して、どんな難しい調合にも慣れること。

それらを全てこなして行くと。いつの間にか、わたしの手が。体が。全てを覚えていく。

勿論その記憶に頼りっきりでは駄目だ。

最終的には、論理的に出来るようになら無ければならない。

感覚だけで調合をすると、後からレシピを見たときに、かなり混乱することもある。ただでさえ、わたしの作るレシピは難しくて分かりづらいと言われる事が多いのだ。わたしは自己流で何でも行う。

だからこそに、その自己流を極めていく必要もある。

そして、繰り返しによるミスの減少に関しては。

今は相応の自信も身につけていた。

わたしが持ち込んだ、「二つ目」の空間転移ドアを見て、イルちゃんは頷く。機能も確認した。

「なるほど、流石ね。 これがあれば、わざわざ空飛ぶ荷車で、此処とエルトナを往復しなくても良さそうだわ」

「扉自体が広くないから、荷車はそのまま通せないけれどね。 サイズについては、今後工夫が必要かも」

「そうね……」

実は、わたしはあのお城のような異世界を、少し歩いてみたのだ。

キマリスさんに頼んで、少し周囲を散策させて貰った。

案の定キマリスさんは自分の家のように周囲を完璧に把握していて、何ら問題なく案内をしてくれたし。

わたしも迷わず歩くことが出来た。

それで分かったのは、深淵の者は、基幹都市レベルの本拠地を持っている、という事である。

世界を裏側から動かしている組織なだけはある。

それも500年掛けて、二大国を成立させ、世界の状況をある程度安定させた立役者なだけはある。

ただ、此処までこの強烈な異世界を拡げられたのは、ソフィー先生の助力による所が大きいらしく。

ソフィー先生が来るまでは、この十分の一以下の規模しか無かったという。

それでも大したものだと思うのだけれども。

いずれにしても、関門の一つはこれで突破出来た。

イルちゃんも、成果を見せてくれる。

時間操作の錬金術である。

レシピも見せてもらう。

何でも、空間と時間は密接な関係にあるらしい。

此処でいう時間操作というのは、魔術によって自分を加速したり、自分の体感時間を操作するようなものではない。

空間と一体になっている時間そのものを操作する、という高度なもので。

しかも時間操作の影響を、自分だけ受けない、という凄まじいものだ。

多分だけれども。

ソフィー先生がエルトナに来た時見せたあの奇蹟。

破壊した扉を一瞬にして修復するというあれは。

多分時間操作を行ったのだろう。

いや、あの時喋っていた事からすると、更に高度な錬金術だった可能性も決して低くはない。

いずれにしても、ソフィー先生の背中は遙かに遠い。

まだまだ、もっと力が必要だ。

まず実演して見せてもらう。

理論を聞きながら、イルちゃんの宿場町の隅にある、錬金術の実験用スペースに移動。周囲には厳重に柵などが配置され、誰かが入れないようにしている。

地面には爆発の痕や抉った跡。

恐らく此処で、爆弾や魔剣の実戦投入に向けての調整を行っていたのだろう。

わたしもエルトナで、似たような場所を作るべきだったか。

わたしの場合、周囲を見張って貰いながら、荒野で実験をしていたから。獣に横やりを入れられることもあり。

こういうスペースをきっちり作って、邪魔が入らないように実験を行っているイルちゃんには素直に感心する。

イルちゃんが取り出したのは、時計のような道具だが。

機械仕掛けの時計ではなく。

金属で覆ってはいるが、内部に歯車の類が無い事は、声を聞いて理解出来た。また、時針分針秒針についても動いている様子は無い。

「現時点で出来るのは、止めた時間の中で動く事だけよ。 悔しいけれど、私の現状の実力だと、パルミラのように時間を巻き戻す事までは出来ないわ」

「まずは一歩一歩、だよ」

「そうね。 分かっているわよ」

イルちゃんは頷くと。手を握るようにわたしに促し。

時計についているスイッチを握りこむ。

同時に。

世界が灰色になった。

「本来は、時間を止めてしまうと周囲の空気が鉄のように堅くなるの。 そこで、自分と接触している部分だけ時間を動くようにしているのだけれど、それを調整するのが本当に大変だったわ」

「うわ……雲まで止まってる」

「手を離すと貴方も止まるわよ」

「うん、分かってる」

ソフィー先生は、こんな力を、多分もう道具に触ったりせず。「時間を止めよう」と思うだけで、発揮できる道具を開発しているのだろう。

そうでないと説明がつかない事が多すぎる。

改めて戦慄する。

これは、もはや人間が触って良い力だとは思えない。

少なくとも悪用されたら、文字通り世界が滅ぶ力だ。

ソフィー先生は。

悪用どころか、必要と感じたらこれを使って、どんなことでも平然と実施してみせるだろう。

ぞっとする。

わたしは本物の怪物の掌の上にいて。

その気減次第では殺される。

今更ながら、それを思い知らされていた。

イルちゃんがスイッチを押し込むと、時間は戻った。呼吸を荒げるイルちゃん。凄まじい魔力を消耗したのは、一目瞭然だった。

血を吐くまでは行かなかったが、激しく咳き込んでいる。

かなり辛いだろう。

青ざめている彼女に、人間用の栄養剤を渡す。

イルちゃんは一気に飲み干すと、更に顔を青くした。

「本当に味に考慮しないわね」

「大事なのは栄養だよ」

「分かっているわよ!」

何度か更に咳き込むイルちゃん。

確かにまずいけれど、エルトナの地下で暮らしていたとき、食べていた保存食に比べればなんぼもマシだ。

イルちゃんは本当に舌が肥えているのだなと、こういったことだけでも分かる。

でもそれもまたイルちゃんだ。

一旦イルちゃんのアトリエに移動。

馬車のアトリエとは別に、かなり立派なアトリエを作っている。ただし、事故が起きたときの危険性を考慮してか、宿場町の隅に。しかも周囲にシールド発生装置を配置までしていた。

いざ事故が起きたら。

アトリエだけが消し飛ぶようにしている。

こういった、自分もきちんと責任に含めるやり方はわたしもやっているが。好感が持てる。

責任をきちんと果たさない人間に。

力を持つ資格は無い。

わたしは持ち込んだ扉をイルちゃんにプレゼント。

これで、わたしのアトリエとイルちゃんのアトリエはつながったも同然。以降はお隣さんに行く感覚で行き来できる。

ただ、プライバシーというものもある。

少し考えた後、イルちゃんは扉の横の壁に、異世界への扉を設置。

更には、魔術の鎖でロックを掛けた。

「基本的に開かないときは、集中して錬金術をしているか、それとも風呂や食事の時と思って頂戴」

「うん、分かった。 それでイルちゃん、これからだけれど……」

「ええ」

レシピを拡げて、覗き込む。

イルちゃんが作った時間のレシピ。

私が作った空間のレシピ。

実はこれらについては、あくまで賢者の石を作るための下準備に過ぎない。

空間操作に関しては、空気が無い空間への侵入手段。

時間操作に関しては、調合を行う部屋での、不純物排除の手段。

いずれにしても、これらをそも前座として用いなければならないほどに、賢者の石の生成は難しいのだ。

そして賢者の石を生成すれば。

わたし達が全戦力を叩き付けてもまるで手も足も出なかったパルミラの本体に接触する事が出来る。

本体は、あのパルミラとは、それこそ次元が三つも四つも違う実力らしく。

そんなものを直視して正気を保てるか今から凄く不安だが。

それでもやらなければならない。

ソフィー先生は文字通り何をするか分からない。

最悪の場合は、わたしとイルちゃんが、命がけで立ち向かえば止められるようにしなければならない。

その程度の力は、手にしなければいけない。

「まずは提供される空間に、ハルモニウム製の釜を作って搬入ね。 ハルモニウムの鋳造は頼めるかしら」

「釜を作るのに充分なインゴットはもう用意してあるよ」

「流石ね。 では釜を作ってもらって頂戴」

実は、錬金術の釜については、知人で以前に作成した人物がいる。

ロジーさんである。

よくしたもので、ハルモニウム製の釜だったそうである。

多分ソフィー先生用の釜だろう。

あの人はあからさまにソフィー先生と一緒に仕事をしていた雰囲気があるし。間違いないとみて良い。

帰り際に、これはフルスハイムで頼めば良い。

ちょっとお金は掛かるが、戦略上の物資としては必要な出資だ。

「次に調合を行う部屋の作成ね。 ……時にどうする?」

「何の話?」

「わたし達二人がかりで調合する? 二人別々に賢者の石を作れとは言われていないわ」

「そうだったね」

プラフタさんは確かに、別々に作れとは言っていなかった。

それに、賢者の石のレシピを見る限り、貴重な素材しか使わない。それもどれもこれもが高品質なものばかりだ。失敗は許されない。失敗が多い上、初挑戦ではミスも多いわたしだけだとかなり不安だ。

少し悩んだ後、決める。

「一緒に作ろう。 今のわたしとイルちゃんなら、かなり時間を短縮できるはずだよ」

「分かったわ。 それが良さそうね」

実は二人で錬金術をするのは、これが初めてだったりするが。

それはそれだ。

石材などを組み立てて、空気の無い調合部屋を作るのは、わたしがやる。

この部屋の時を止めるのは、イルちゃんがやる。

後は、空気を纏う道具の作成。

それに加えて、賢者の石を作るために必要な、中間生成物を大量に作らなければならないが。

手分けして作業を開始。半日掛けてチャートを造り。

同意を得られたところで、一旦わたしは帰還。フルスハイムに寄って、ロジーさんのお店に。

ロジーさんはハルモニウムを渡して釜を作って欲しいと言うと。

この時が来たかと、嘆息した。

「実は少し前に、エスカにもプラティーンで釜を作ったばかりでな」

「あ、エスカちゃん、本格的に始めたんですね」

「ああ。 今はレンさんの所に通いながら、一つずつ錬金術を覚えている所だそうだ」

それは何よりだ。

エスカちゃんが珍しくいないと思ったら、そういう事か。

ずっとエルトナにいる訳にもいかない。

エルトナでも、フルスハイムでも勉強するとなると、レンさんにも教わるのが効率的だ。

その副作用かも知れないが。

どうもデスクの辺りがとっちらかっている様に見えた。

ロジーさんは素朴な雰囲気の穏やかな人だが。

この辺りはずぼらである。

それはエスカちゃんの尻に敷かれている事からも分かってはいたが。とにかく、有望な人材が出てきたのは良い事である。

ハルモニウムを渡す。ロジーさんはハルモニウムを手袋をつけてから触ったが。しばしして頷いた。

「流石に最高品質とは行かないが、これだったら充分な釜が作れるだろう。 何か凄いものでも作るのか?」

「はい。 最高のものを」

「そうか。 では俺も腕を振るうとするさ」

出来るだけ早くの完成を頼むと。ロジーさんはしばし黙り込んだ後、分かったとだけ応えた。ただし、二週間掛かると言う。大きな時間的ロスだが、ハルモニウムの加工の手間を考えると、それくらいは安いものだ。

エルトナにそのまま直帰。

アトリエに置いているもう一つの空間の扉を使って、イルちゃんのアトリエに行くと、釜についての話をする。

さて、此処からだ。

隣街から、更に隣街への道の確保。隣街の周辺の緑化。

水路が完成したので、インフラ工事もスピードアップ出来る。同時に、宿場町としての基盤を整えなければならない。

水周りは良いにしても。

建物などを作る人間については、専門家を確保したい。

というよりも、隣街は貧困が過ぎて、元長老の家くらいしか、まともな家屋が存在しなかったのだ。

糞尿も垂れ流しになっていて。

一度徹底的な大掃除が必須だった。

勿論イルちゃんも、まだ宿場町周辺での作業がある。それらも考慮し、チャートを組まなければならない。

「作成までの準備基幹の目安は二ヶ月ね」

「……ちょっと長いね」

「賢者の石よ。 その程度の準備期間で作れるなら安いものだわ」

それもそうか。

チャートを再確認した後、持って帰る。

そして、道具が揃って動き出した活版印刷を使って、まったく同じものを作成。

イルちゃんに返した。

活版印刷の無駄遣いだとイルちゃんは苦笑いしたが。

今はこれでかまわない。

後は、パイモンさんにも何らかの形で手伝って貰えれば良いのだが、流石にそれは高望みしすぎだろう。

素材類は揃っているし、これ以上は特に必要もない。

後は、覚悟を決めるだけ。

端末のパルミラでさえ、あれほど凄まじい力を持っていたのだ。本物を直視して、とにかく正気を保てるように、今から心しておかなければならない。

世界を変えるには深淵を覗くしか無い。

深淵までの道を整備する作業は。

既に整いつつある。

 

翌日。

早朝、叩き起こされる。お姉ちゃんが、わたしを揺すってまで起こすのは珍しい事態だ。疲れている事は、分かりきっているだろうに。

だからわたしも飛び起き。

慌てて着替えて、外に飛び出した。

叩き起こされた理由は分かっている。だから、戦闘の準備を整えて、外に出たのである。

周囲から、おののきの声が聞こえる。

空を舞っているのは、ドラゴンだった。

遠目に見る限り、多分中級ドラゴンだろう。色からしてシルヴァリアだ。戦闘能力は非常に高いが、ドラゴンらしく人間を殺す本能だけで動いている。

声を掛ける。

ドロッセルさんはまだいるので、すぐ来てくれた。

レヴィさんとカルドさんも。

アングリフさんは、既に大剣をわたしに返した。だから、最悪の事態に備えて、避難誘導を開始してくれている。

ドラゴンは上空をゆっくり旋回していたが。

様子見をしているだけらしく。

だが、目を離すわけにも行かなかった。

「シールド発生装置、起動しても大丈夫だ」

「分かりました。 起動します」

すぐに炉の方に行き。

其処に設置されている魔法陣に触れ、手順に沿って街を守る巨大なシールドを発生させる。

ドラゴンはそれを見ても何も行動を変えず。

ただ悠々と空を、おちょくるように飛び続けていた。

勿論ドラゴンが飛来した理由は分かっている。

エルトナの発展が著しいからだ。

状況次第では人間を間引くために動いてくるはず。だが、現時点では、ドラゴンは仕掛けてくる様子は無い。

それにしても、いきなり中級とは。

まだエルトナの規模は、フルスハイムどころか、ドナにも遠く及ばない。

インフラは相応に整っているかも知れないが、街に住んでいる人間の絶対数が少ないのだ。

「叩き落とす?」

側に来ていたティアナちゃんが、好戦的な笑みを浮かべる。

この子なら、空高くを飛んでいるドラゴンに対する攻撃手段くらいは持っていそうだが。わたしは首を横に振った。

様子見だ。

ドラゴンは朝日が昇り終えると、そのまま飛び去っていく。

どうやら、エルトナを徹底的に観察し。

分析を終えたので、帰って行った様子だ。

多分人間が増えている気配を察してここに来て。

攻撃を行うか否かの判断をした、と言う所だろう。そして今回は攻撃しても意味がないと判断して、戻っていった。

ドラゴンは本能で動いている。

人間に憐憫を掛ける事もないし。必要だと判断したら、即座に大量虐殺を始めるはずだ。

此処で戦ったらどうなるか。結果など、やらずとも分かりきっている。

勝てる。その代わり、辺りも無事では済まない。

せっかく整備したインフラも、ずたずたにされるだろう。もしもしつこく此方を挑発してきたり、シールドにブレスをぶち込んできたら叩き落として引き裂いてやるつもりだったが。相手にその気が無いのなら、仕掛ける必要はない。リスクばかりが高いからだ。

一旦シールドを解除。

念のため、今日は見張りの数を増やすことを宣言。皆を落ち着かせてから、重役の会議に出る。

これで作業が遅れるが。

必要なコストと言う奴だ。こればかりは仕方が無い。

それに、最初からトラブルが起きることは想定済みだ。この程度の遅れは、後から取り戻せば良い。

ドラゴンに対する方法はあまりない。

錬金術師と、錬金術の道具で武装した部隊で猛攻を仕掛け、倒す。

それだけだ。ドラゴンがあまりにも強すぎるので、必勝法と呼べるような戦術が確立されていない。これは見聞院でもドラゴン関連の本を調べて確認している。せめて対抗戦術が確立されていたら、少しは楽になるのだけれど。

しばしして、キマリスさんが来る。

先ほどのドラゴンを追跡した結果、エルトナから北西、何も無い荒野のど真ん中に居座って。其処に丸まって、動かなくなったらしい。

メッヘンからも近いと言う事もあって、其方も騒ぎになっていると言う。

なるほど。

エルトナと連携してメッヘンも最近発展している。両方を同時に伺える位置に陣取るという訳か。

「度重なる挑発行為や攻撃を行ってくるようなら、撃墜します」

上級を倒したのだ。

中級に勝てないはずが無い。

アングリフさんが抜けて戦力は低下しているが、それでも充分。もしもしつこいようだったら灰燼に帰す。

そう宣言すると、役人は頷く。わたしの好戦的な台詞にも、引いている様子はあまりなかった。前の牢屋送りにしてやった長老は、青ざめたり、ヒステリックに反論してきたものだが。

感情が薄いホムで。

しかも深淵の者の息が掛かっているからかも知れない。

いっそ、役人はみんなホムにすれば、不正は九割減るのかも知れないが。流石にそういう訳にもいかないだろう。

この世界は皆で協力していかなければ成り立たないほど、あらゆる意味で厳しいのだから。

「分かりました。 いずれにしても、その場合の判断は早めにお願いするのです」

「はい」

頷くと、アトリエに。

お姉ちゃんに、開口一番睡眠が足りていないから寝直せと言われた。

ばたついた結果、もう昼過ぎだ。

でも、最近ただでさえ睡眠を削って仕事をしていたのだ。お姉ちゃんが怒るのも、無理はない。

言われるままベッドに入り直すと、少し眠る事にする。

嫌な予感。

これから集中を乱すようなことが立て続けに起きる可能性が高い。

街の側にいる邪神も、今の時点では静かにしてくれているけれど。あれがドラゴンに呼応して攻めこんできたりしたら、どうなるかは考えたくも無い。

魔術が使えるわたしの勘は馬鹿に出来ない。ましてや今は、魔力を極限まで増幅しているのだ。

呼吸を整えると、わたしは無理矢理にでも眠る事にした。

いずれにしても、今やらなければならない事は。頭をしっかり休め。ケアレスミスを減らすべく、コンディションをベストに保つ事。

それ以外にはあり得なかった。

 

2、並列旋回

 

荷車で石材と硬化剤を異界に運び込み、指定された地点にアトリエを作り始める。深淵の者には既に話が行っているらしく。何をしているのかと誰何してくる者もいなかったし。遠巻きにこっちを見ている者もいなかった。

逆に言うと、手伝おうと口にする者もいない。

これは恐らく、ソフィー先生から厳命が出ているのだろう。わたしとイルちゃんだけにやらせろと。

分かっている。

だからわたしは、黙々と手を動かして、作業を続けるのだ。

イルちゃんも時々来て、進捗を見に来る。

空気を体の周囲に纏わせる魔術を常時展開する道具。

更には、完成したアトリエから空気を吸い出す道具。

これはイルちゃんが作る事で決まっている。

前者は、いわゆるエンチャントと同じ原理。

イルちゃんは魔剣に様々なものを纏わせて、敵に突き刺して更に傷口を拡大する戦術を採っていたが。

これの応用だ。

人体を魔剣に。纏わせるものを空気にしただけである。

ただしイルちゃんの話によると、空気というのはあっというまに汚くなるらしい。

密閉された部屋で火を焚くと、すぐに命を落としてしまうらしいが。

つまるところ、調合に使える時間は少ない。

このため、現状ではまだ短い時間しか活動できない状態で。

これを改良するべく、今工夫をしているそうだ。

空気を吸い出す道具に関しては簡単だ。

問題は空気を吸い出した状態を維持することで。

これに関しても、今改良を重ねているという。

アトリエの壁には、隙間を一切作らない。入り口も出来るだけ狭め、ドアを二重につける。

実のところ、家を組み立てるのは初めてなのだけれど。

図面通りにものを組み立てるのは散々やっているので、別に難しくもない。

今回はお姉ちゃんやツヴァイちゃんに手伝って貰えないが。

その代わり、外はティアナちゃんが「責任を持って」見張ってくれるらしい。

お姉ちゃん達もいるし、エルトナの方は大丈夫だろう。

長老や重役達も、役立たずは排除した。

問題が起きても、事態を悪化させることは無く。

すぐにわたしを呼びに来るはずである。

「まったく飾りが無い造りね」

「うん。 それより、錬金釜をかき混ぜたりする時に、空気が中和剤に触れないようにするのも気を付けないと」

「それもそうだけれど、空気を全て無くすと、強烈に吸い出されるらしいのよ。 それに対しても工夫をしなければならないわ」

「うーん、課題は多いね」

ただ、今までのような難題だとは感じない。

イルちゃんはパイモンさんにも相談してみると言って、その場を離れる。

わたしは何が内部で起きても大丈夫なように、徹底的に堅牢性を重視してアトリエを作るだけだ。

石材を切り出すのも。

組み立てるのも。

硬化剤で組み立てるのも。いずれも、城壁を作るのと同じノウハウが生きてくる。

さっさと作業を済ませながら、わたしは貰っている飴を口に入れる。

最近お姉ちゃんが考えたのだけれど。

甘いものを適宜補給した方がいいらしい。

そこで、アルファ商会が(今になって思うと、アルファ商会も深淵の者と直接つながっていたのだが)、飴を卸してくれて。

それを必要経費で購入している。

勿論甘いものは相応に高価だ。

だから、飴は仕事時以外は口にしないことにしている。

たまに何か大きな事業を成功させた後、自分へのご褒美で良いものを食べもするけれど。

わたしは今、エルトナを両肩に乗せている身。

少なくとも、孤児院で面倒を見てもらっている子供達よりも、良い食生活をするつもりはない。

逆に言うとアングリフさんには、孤児院では他の家と同等の食事を出すようにとも話をつけている。

それだけの予算は渡しているし。

アングリフさんが、その予算をちょろまかすことは無いだろう。

額の汗を拭うと。丁度時計が鳴る。

これも必要経費で購入したものだ。

流石に此処までツヴァイちゃんは来ないし、何よりも此処異界は昼も夜もない。時間の感覚がおかしくなる。

そこで、カルドさんに言って、時計を選んで貰い。

簡単なアラーム機能がついているものを購入したのだ。

きちんと役に立ってくれているので大変有り難い。

異界を出てアトリエに戻る。

外に出ると、ツヴァイちゃんが、もう今日の出来事をリストアップしてくれていた。

「城壁の補強はほぼ完了しているのです。 獣による襲撃は七回。 いずれも問題なく撃退。 街に入り込もうとした盗賊を二人ティアナさんが捕縛したのです」

「分かった、すぐに処置するね」

「お姉ちゃん、あまり厳しい処置は……」

「大丈夫。 相手が匪賊でもなければ、罪に相応しい罰を与えるだけだよ」

わたしの笑顔が減っていると、この間ツヴァイちゃんが言っていたらしい。お姉ちゃんから聞いた。

それは悲しい事だ。

ツヴァイちゃんは嬉しい事にわたしを今では本物のお姉ちゃんとして慕ってくれている。血はつながっていないし、同じ人間とは言えヒト族とホムなのに。

だからそんなツヴァイちゃんを悲しませる訳にはいかない。

感情のコントロールは意図的にするようにしているが。

それでも、出来るだけツヴァイちゃんの前では、笑顔を浮かべるようにもしていた。

まずは隣街へ。

城壁の様子を徹底的に確認する。

隣街への道は、既に低木が根付き。更にポンプで水が送られている水路で、潤い始めている。

隣街にも貯水池を作るつもりだが。

それは、更に隣街への街道を延ばすとき、ポンプを使ってまた水を送り出すためである。

いずれにしても、両脇を緑で守ったことにより、街道の安全度は飛躍的に増した。

既に馬車が通っても、多少の護衛がついていれば何の問題も無い状況だ。

ただ、わたしは走る。

必要がないなら、空飛ぶ荷車はいらないし。

身体能力を極限まで引き上げているのだ。

使わない理由は無い。

護衛としてお姉ちゃんと、キマリスさんについてきて貰う。

そろそろ夕方から夜になる。

勘が鋭いお姉ちゃんと、夜目が利く魔族であるキマリスさんに護衛して貰えば、問題は無い。

なおキマリスさんには、型落ちとはいえわたしが作った装備品を渡しているので。

ついてくる事は造作もない。

ましてや夜になると、魔族の力は倍増するのだから。

日が沈み、急激に暗くなる中。

わたしは今日の作業分も含め、城壁の声を聞きながら、徹底的に調べて回る。鉱物の声は、もはや人間の声と変わらず聞こえる。植物や水の声も弱いとは言え聞こえるようになって来ているのだ。

元よりギフテッドを持っていた鉱物に関しては。

非常に緻密子細に聞こえるのが、わたしにとっては当たり前の事になっていた。

「リア姉、カンテラをお願い。 キマリスさん、周囲の警戒を」

「うん、任せて」

「おう」

カンテラをかざして貰うと、わたしは問題の箇所を確認。

ピッケルを取り出すと、少し削り。持ち込んでいる石材を埋め込み、硬化剤で補強。何度か叩いて、強度に問題が出ていないことを確認した。

手抜き工事ではない。

使った石材に内部空洞が出来ていて、それが脆くなる原因となっていた。

それだけである。

問題を解決したので、念のためにブリッツコアから雷撃を叩き込む。

城壁は吹き飛ぶどころか、小揺るぎもしない。

満足したので、わたしはキマリスさんに話を聞く。

「城壁にプラティーンを使っていることは、気付かれていませんか」

「ああ、問題ない。 流石に頑丈すぎると不思議がられているようだが」

「そのくらいなら大丈夫でしょう。 もしおかしな動きをする人がいたら、すぐに連絡してください」

「分かっている」

プラティーンも、今では簡単に作れるとは言え、貴重な金属だ。

インゴット一つで家が建つくらいの価値はある。

ハルモニウムのように、国宝級とまでは行かないにしても。

それでも盗賊などが知ったら、それこそどんな手を使ってでも盗み出そうとするだろう。

更に物見櫓に昇って、状態を確認。

昔はお姉ちゃんに手を貸してもらって昇ったくらいだったけれど。

今だったらはしごなんか使わずに、そのままひょいひょいと壁を掴んで昇ることが出来るくらいだ。

此処は特に頑強で無ければならない。

丁寧に鉱物の声を聞いて、問題が起きていないか確認。

どうやら問題ないらしい。

降りるときも、はしごなんて必要ない。

そのまま飛び降りておしまいである。

忙しいのだから、すぐに次へ。

エルトナに戻ると、ティアナちゃんが捕まえた賊を引見する。

何人か入り込んでいた賊の頭を確認する限り。新しくエルトナに赴任した公認錬金術師はまだ小娘と言う事で、最初は侮られていたらしい。

だが今では、エルトナに入ると生還不可能。

匪賊だったら絶対に殺されるという噂が流れているらしく。

此奴らも、真っ青になって、既に小便を漏らしそうな顔をしていた。

「何でも喋ります! だから命だけは!」

「尋問なんて無駄なことはしません。 貴方たちの記憶を全て確認し、その上で適切な罰を降します」

五月蠅いので猿ぐつわを噛まし。

頭を掴んで、記憶を引っ張り出す。

どうやらこの男達、かなり貧しい街から盗賊行脚をしながら此処まで流れてきたらしく。

女を抱く金ほしさに、こそ泥を繰り返していたらしい。

フルスハイムの歓楽街で、女を抱く記憶も出てきたので。お姉ちゃんが露骨に眉をひそめたが。わたしは別にもう何とも思わない。

匪賊が人間をいたぶりながら殺し、更には場合によっては生きたまま切り刻んで喰らうような記憶だって見たのだ。

今更男女が交わる映像を見た程度で動揺するほど頭も子供じゃ無い。

というか、わたしはどうも錬金術を極める程にどんどん感覚からして人間離れして来ている様子で。

欲求なども、極めて弱くなっているのを実感していた。

性欲も同年代の女子だったら相応にあるらしいのだけれど。わたしは自覚するほど薄い。誰か良い男と結婚したいとか、そういう欲求も無かった。

或いは、こういう記憶を散々覗いてきたから、かも知れない。

いずれにしても、この二人に他に仲間は無し。罪状はこそ泥を十数件。

更にはお金は全て使ってしまった事も分かった。

記憶にあった被害者をリストアップ。

全ての被害者に、被害額を補填するように立ち会った役人には指示。

この二人には仲間もいないことが分かったので。

後は法に従って、奪った金の分だけ強制労働だけでいいだろう。

少なくとも殺すほどの罪はおかしていない。

「きちんと真面目に懲役を果たしたら、解放してあげます。 以降は盗賊から足を洗って真面目に働くのなら、エルトナの民として迎えることも考えます。 ただしまた盗賊になるようだったら、その時は罰が更に重くなりますので、注意してください」

告げると、盗賊は記憶を引っ張り出された事。

何の動揺も無く、わたしが冷酷に罰を宣告したことに対して、震えあがっていた。

噂以上の怪物。

そう思ったのかも知れない。

いずれにしても、これで今日の作業は終わりだ。

懲役刑を受けている他の盗賊達と同じ懲罰房に入れると、監視させる。

その手続きを済ませると、後は夕食後に眠る事にする。

今日はうちで食事をすることにする。

アトリエでずっと過ごすのも、あまり健康的に良い事とは思えない。それにお姉ちゃんとレヴィさんだけではなく、たまにはお母さんの料理も食べたい。

最近は夕食になると。

お父さんとお母さんが、旅をしていた頃の話をしてくれる。

二人とも相応に戦えたそうだが。

インフラが整っていない地域で、傭兵を雇って移動する時は、本当に毎回が命がけだったという。

匪賊に襲われた事も当たり前のようにあったし。

目の前で人が死んで行く所も、何度も見たと言う。

流石にお姉ちゃんをノルベルトさんから引き取った話はしなかった。それについてはしばらくこういった場では出ないだろう。

だけれど、それはデリケートな話だし。

こういう場では、出ない方が良い。

「生活は良くなってる?」

「ああ。 前には不満ばかり零していたお隣さんも、病気は治ったし、仕事もとても楽になったと評判だよ」

「そう、それは良かった」

仕事はいくらでもある。新しいエルトナは、拡大の途上なのだ。

ドロップアウトする人が出ないように、仕事は色々用意しているし。力が足りない人には、型落ちとはいえ私が作った装備類を貸しだしてもいる。また、仕事には向き不向きがどうしてもある。

あまり他人と関わりたがらない人でも、一人で出来るような仕事を用意もしているし。

何も集団活動だけが全てでは無い。

わたしと同じくらいの年の幼なじみも。

二人目の子供が出来たらしいけれど。

それで不満を零していることは一切無い。

更には、外から新しい血が入ってきた事で、それを歓迎する風潮も強いようだ。

「何かあったらすぐにいってね。 全部解決するから」

「頼もしいな。 でも、フィリス」

「大丈夫、何でも一人で解決できると思ってはいないから。 其処までうぬぼれられるほど、わたしは強くない」

そう。

手も足も出ない相手だっていた。

ギリギリの勝負だって散々経験してきた。

わたしは世界最強でも何でも無い。わたしよりずっと凄い錬金術師も存在することを知っている。

だから、一人で何でも解決できると思うほど、わたしはうぬぼれていない。

もしそんな風にうぬぼれても。

お姉ちゃんがきちんと喝を入れてくれるだろう。

今日は自宅で休む事にする。

チャートを一瞥してから、だが。

完了したタスクを潰して行くが、まだまだ先は長い。隣街に置くべき施設だけでも、まだ完成していないものが幾つもある。

そして、賢者の石に全力投球するためにも。

コンディションを、更に高めていかなければならなかった。

 

異界のアトリエが完成する。

同時に、イルちゃんが持ち込んだ空気抜きの道具を稼働。凄まじい音と共に空気が吸い出され。

更には、その状態で固定が行われた。

魔術を利用して、空気が入り込まないように壁を作る。

これにより、アトリエの内部には、強烈な内向きの圧力が掛かるらしい。

本来、家屋というのは内向きの圧力には対応しておらず。

普通の家だと一瞬でぺしゃんこになるそうだ。

既に廃屋で実験済みだという。

ただ、勿論わたしも頑強さと密閉性に関しては、徹底したものを作った自信がある。アトリエそのものもそうだが。アトリエの外側の壁にも、薄くプラティーンで装甲を施している程だ。

更にそのプラティーンには、装甲強化の魔法陣を徹底的に刻み込んでもいる。

このアトリエは、内部で何が起きても壊れないことを想定しているのだ。

「問題は無いようね」

「次は内部に入るための準備だね」

「ええ。 まずは動物実験よ」

荒野で捕まえてきた兎。ただ小型の個体だ。

これに空気をまとわせる道具をくくりつける。

ものとしては腕輪に近いのだが。腕輪には、チューブのようなものがついている。

原理を確認すると、この腕輪が魔剣に炎や雷撃を纏わせるように、空気を装着者に纏わせ。

更にはこのチューブで、外と空気を常時入れ替えさせるという。

これにより、本来なら爆散してしまう環境でも、行動が可能になるという。

イルちゃんは、異界の空や。

通路の下に拡がっている、何も無い空間を見て呟く。

「何なんでしょうね、この異界。 理論は理解出来ているのだけれど、とてもではないけれどこの世の事とは思えないわ」

「この世ではないんじゃないのかな」

「あるからには「この世」よ。 別の世界だろうが関係無いわ」

「それはそうかも知れないけれど」

イルちゃんも表情が険しい。

いずれにしても、ここからが本番だ。

アトリエに入れた兎は、怯えきっていたが、すぐに死ぬような様子も無く。ストレスで苦しんでいるくらいで、それ以外のダメージは無い様子だった。

数日このままの状態を維持。

問題が無いようなら、この空気を纏う装置を量産するという。

頷くと、わたしはフルスハイムでそろそろ錬金釜が出来る事を告げる。

イルちゃんはそれを聞くとため息をついた。

「ハルモニウム製の錬金釜だなんて、ライゼンベルグにも幾つも無い筈よ」

「そうかも知れないけれど、あるんだから使おうよ」

「ええ。 分かっているわ」

名門だなんて言って、ふんぞり返っていた家族が滑稽にしか思えない。

そうイルちゃんはぼやく。

まあ気持ちについては大いに分かる。

今や、イルちゃんの方が「名門錬金術師」の両親や兄姉よりも確実に力量が上なのだから。

公認錬金術師試験を受けたときには、既に生半可な公認錬金術師よりも腕が上だと言う事は保証されていた。

世界でドラゴンを倒せる錬金術師はそう多くない。

その時点で、それは明らかだった。

ただし、だからといって万能では無い。

今回も、二人で試行錯誤を繰り返していることから言っても、それは明らかすぎる程である。

念のため、徹底的にアトリエを調べて、問題が無いことをもう一度確認してから戻る。

今日はエルトナにエスカちゃんが来ていた。

どうやら授業日は決まっているようで。授業日に併せて、空飛ぶ荷車で送り迎えしているそうだ。

送り迎えに関しては、孤児院の方でお金を出している。

錬金術の才能持ち。

それが如何に貴重な存在か、誰もが知っている。

エスカちゃんはロジーさんの所で働いている事からも、お金は持っているので。自分で最初は払いたがったそうだが。

錬金術の基礎を教えているヒュペリオンさんが、本職になったらお金は幾らあっても足りなくなると説得したらしい。

今では、既に中和剤を作れるようになり。

簡単なお薬も作れるようになって。

着実に腕を上げているそうだ。

流石に才覚は怪物級とまではいかないようだが。それでもかなり才覚はある方だと、ヒュペリオンさんは太鼓判を押していた。

この人自身が凄い錬金術師だと言う事は、試験の時から分かっていた。

或いは、この人が。

キルシェさんの言っていた、自分でも及ばない錬金術師、なのかも知れない。

恐らくキルシェさんをライゼンベルグに送り届けるよう、アルファ商会に口利きしたのは深淵の者関係者だろうし。

あり得る話だ。

だとすると、深淵の者には、ソフィー先生やルアードさん、プラフタさん以外にも、文字通り魔物のような人材が揃っている事になる。

だが、それでも世界の改革には成功していないし。

どん詰まりも回避できていない。

その事実を考えると気が重い。一歩一歩、未来に向けてやっていくしかない自分の非才が歯がゆいばかりだ。

授業が終わったので、ぺこりと一礼して、エスカちゃんが帰って行く。

ヒュペリオンさんと軽く話す。

エスカちゃんのお薬も見せてもらったが、まあまあの出来だ。とりあえず、わたしが最初に作ったのよりずっと良い。

躊躇無くナイフで肌に傷を入れて薬を試すわたしを見て。

ヒュペリオンさんは苦笑いしていた。

「流石にあの魔人ソフィーどのの弟子なだけはある。 其処まで思い切って自分で実験は出来ませんよ」

「敬語は良いですよ。 貴方の実力は知っているつもりです」

「ふふ、貴方は深淵の者でも未来のエース候補として着目されています。 才覚に関しても、私を上回っていますよ。 ならば年少者であっても、敬意を払うのは当たり前の事です」

「ありがとうございます」

それにしても、魔人か。

むしろ魔神のような気もするが。それは敢えて口にはしない。

ソフィー先生の恐ろしさは、深淵の者関係者でも一致した見解なのだろう。

イプシロンさんから話は幾つか聞いたが。

深淵の者は500年ほど前から活動を開始してから、ずっと腐敗と無縁だという。ルアードさんがそれだけ徹底的に組織管理をしているという事や、世界の現状を知っていて、500年前からアンチエイジングで幹部として頑張っている人材の有能さ。更には貪欲に人材を取り込んでいる事もあるが。最近ではソフィー先生が抑止力担当として加わった事もあり、不正なんて怖くて出来ないという空気があるそうだ。

それはそうだろう。

あの人に掛かったら、それこそ不正など一瞬で見破られ。どんな恐ろしい目に会わされるか分からない。

最初はわたしに未来をくれた人だった。

でも今は、怖くて仕方が無い相手でもある。

「それよりも、この教育施設はとても良いですね。 もっと無料での体験教室を開いてください。 錬金術師の素質は残念ながら滅多に持っている人がいません。 今までヒト族以外で確認されたこともありません。 しかし、多数の人間を調査すれば、或いは……」

「分かっています。 インフラが安全になった今、どんどん手は拡げていくつもりです」

「お願いしますよ。 世界の終末が詰んでいることは共通の認識です。 打開のためには、少しでも人材が欲しいのですから」

頷くと、孤児院を離れる。

さて、今日は後の時間、隣街用の設備の調合。

それに足りなくなっているものの調合。

更にはコンテナの整理をするか。

忙しい日が続くが。

まだやれる。

わたしは、こんな所では、立ち止まるわけにはいかないのだから。

 

3、賢者の石へ

 

完成した錬金釜を受け取る。ロジーさんの所にエスカちゃんの姿は無く。しかしながらある程度片付いている所から見て、多分エスカちゃんも勉強の時以外は、此処に手伝いに来ているのだろう事が伺えた。

改めて見ると、今わたしがアトリエで使っている錬金釜と同等か、それ以上の代物だ。

もの凄い錬金釜である。ライゼンベルグでせりに出したら、それこそ屋敷どころか、小さな街くらいなら丸ごと買えるお金が動くだろう。

ハルモニウム製の道具は、ただでさえ国宝級の価値があるのだ。

勿論、売りに出すつもりは無い。

今、この世界のどん詰まりを解消するためには幾らでも人材がいる。

そしてこの道具は。

世界のどん詰まりを解消するための鍵になり得るのだ。

価値が分からない阿呆に渡すつもりは無いし。ましてや政治の道具にもさせない。

信頼出来る鍛冶師であるロジーさんに作成を頼んだのも、それが故である。

「時にフィリス。 前に同じようなものを作った錬金術師は、今地獄を彷徨っているに等しい状態だ。 今のお前も目は濁りきっているし、やり方がどんどん苛烈になっていると聞いている。 錬金術は奇跡の御技だと俺も知っている。 力には代償が伴うことも理解している。 だが、大丈夫か。 あまり不幸ばかり量産するようだと、俺は錬金術関連の仕事を受けるのを止めるかも知れない」

「その前の人というのは、ソフィー先生ですよね」

「ああ。 分かってはいるんだな」

「はい。 ソフィー先生が、文字通りの魔人と化していることは分かっています。 でも、それならば、今の世界が詰んでしまっていることも……知っていますね」

ロジーさんは素朴で真面目な人だ。

寡黙で真面目なので、かなりもてるらしいが。鍛冶一筋なので、浮いた話は殆ど無いらしい。

エスカちゃんは子供過ぎるし、流石にその辺りで妙な噂が立つこともないようだ。少なくとも現状は。

そんな真面目なロジーさんだから。

腕組みして、話をきちんと聞いてくれる。

「確かにソフィーはそんな事を言っていたな。 だが、俺は見てきている。 元々少しおかしかった彼奴が、本格的に錬金術を始めた途端に、加速度的に狂気に染まっていったのを。 フィリス、お前は大丈夫だろうな」

「分かりません。 ただ、分かっているのは……このまま放置したら、この世界は全て食い潰されてしまう、と言う事です」

「そうか……」

何に食い潰されるのかは、ロジーさんは敢えて聞かなかった。

それが人間だとは、はっきり言って知らない方が良いだろう。

釜を受け取ると。

すぐにエルトナに戻る。

今回は持ち帰るものがものなので、フルメンバーで護衛に来て貰った。アングリフさんはいないが、それ以外のメンバーは全員揃っている。

その後は、すぐにアトリエに釜をしまい。

エルトナに徒歩で引き返す。

常時周囲を警戒して貰うが。

それくらい今回に関しては、重要なものを持ち帰るのだ。

幸い、獣にも盗賊にも襲撃を受けなかったが。

遠くに見えた獣をお姉ちゃんが速射して即座に仕留めたことからも、皆がどれだけ殺気だっているかは分かる。

獣を回収しに行くのも、ドロッセルさん一人でやった。

エルトナに帰り着いて、アトリエの外をしっかりガードして貰いながら。

わたしは異界へと錬金釜を運び込む。

同時に、イルちゃんが、時間を操作する道具類を、アトリエにセットし終えていた。

此処からだ。

これから数日は、アトリエに籠もりっきりになる。

そのために、緊急時以外は呼びに来ないようにとも伝えてある。また、これまでに使っていた時計のアラームも停止した。難しい調合の時に、ほんの少しでも集中が途切れると大変な事になるからだ。

ここ500年で、ソフィー先生以外に作成者が出ていない賢者の石。その作成にわたしとイルちゃんが取り組む。

其処までは伝わっていないが。

いずれにしても、錬金術の奥義に挑むと聞いた皆は、協力を惜しまないと約束してくれた。

また、隣街に設置する用の炉とポンプは既に作って納品してある。

少し無理をして、早めに仕上げたのだ。

これで、集中できる。

イルちゃんも、アリスさんとその同族に、宿場町のことは任せ。今回の事に全力投球するつもりで来ているという。

既に空気が無い中行動するための道具は、動物実験で成功した。

兎は数日間、平然と生きていた。

だから大丈夫だ。

アトリエに入る。釜を設置する。

空気が無いからか、音も伝わらない。ハンドサインを決めておいて、更に壁にはチャートを貼る。

タスクは凄まじい量だ。

手分けして、交互にそれぞれの得意分野を担当し。錬金術の奥義である賢者の石の作成に挑む。

これをソフィー先生は一人でやったのか。

そう思うと戦慄が背中に走るが。しかしプラフタさんのアドバイスもあったのだろうと、自分を鼓舞し直す。

理論については理解した。

怪しい所については、イルちゃんと徹底的に議論して、理解するまで嫌になるほど話をした。

時間を止める道具の実験がてらに、である。

つまるところ、外での時間と、今のわたし達の時間は既に色々な意味で一致していないのだが。

この辺りも、もうわたしが、人間ではない証左なのかも知れない。

まずは中和剤から。

初手から最高品質のものを使う。

つまり竜の血だ。

竜の血は、結局湖底の邪竜からしか回収出来なかった。

わたしが交戦したドラゴンの内、他の二体。ドラゴネアもロギウスも木っ端みじんの消し炭にしてしまったからだ。

ものの声を聞き。

その意思に沿って変質させる。

それが錬金術の基本。

完璧な環境で、最高の素材を用いて錬金術を行う。中和剤をわたしが揃えている間に、イルちゃんはとなりで時間操作の道具を使いながら、素材を細かく砕いたり、不純物を取り除いたりと言った作業を、淡々黙々とこなしていた。

音が全く無い世界。

釜に火を入れ。

不純物を徹底的に取り除く。

爆発するほどの凄まじい魔力が釜の中に満ちている。竜の血を素材にした中和剤を、極限まで変質させて強化しているのだから当たり前だ。やりようによっては、これをそのまま硝子瓶に詰めて、魔力を暴走させるだけでも生半可な爆弾よりも火力が出るかも知れない。

それほどの危険物を扱っているのだと、自分に言い聞かせながら作業を続行。

更に、ドンケルハイトを取り出す。

最高峰の薬草。

これについては、イルちゃんがすり潰して、丁寧に不純物を取り除いてくれていた。

品質をわたしがチェックする間に、イルちゃんは次の作業に入る。今度はわたしが時間を止める道具を使い、チェックに掛かる無駄な時間を省略する。時間が止まると、わたしと触っているものだけが動いている虚無の空間が周囲に出来上がる。

イルちゃんもまったく動いていない。

それどころか、さっき以上の無音だ。

わたしの中からする音が、異常に大きく聞こえてくるし。何より、言われていて知っていたが、とにかく動きづらい。

ドンケルハイトの声は、軋むようで。

何というか、秘められた魔力が強すぎて、ダイレクトに心の奥底にある狂気を揺さぶってくる印象だ。

この花は、伝承では新月の夜にしか咲かないらしいが。

実際には、そんな事もなく。条件さえ整えば、一応何処でも咲くようだ。ただしその条件を整えるのが厳しすぎるので(特に土地に超高純度の魔力がなければならない)、滅多に手に入れられないらしい。

そんな土地は邪神の支配下か。

或いは強力なネームドの巣窟だから、である。

丁寧にすり潰したドンケルハイトを確認。不純物はない。後は何段階かの行程を踏んで、此処からエキスだけを抽出する。

蒸留もするし濾過もするが。

いずれも温度を適性に保ち。

徹底的な管理の下でやらなければ、爆発したりすぐに駄目になってしまう。

一旦この段階のものを、外に持ち出し。ツヴァイちゃんに複製して貰いたいくらいなのだが。

まだこの状況では安定していない。

つまりそれは出来ない。

時間停止を解除。

次の作業に移る。

イルちゃんが錬金釜に入っている中和剤を、偏執的なまでに蒸留した蒸留水で洗浄した硝子瓶に移し、空気の欠片も入らないようにして密閉。更に釜を洗う作業に入る。

この蒸留水だけでも、作るのに相当な手間暇を掛けている。

空気のあるところに出したら、即座に変質してしまうようなデリケートな中間生成物が多すぎる。

とにかく、一秒も無駄に出来ない。

タスクを一つずつ潰しながら。

順番に作業をこなしていく。

釜の洗浄が完了したので、今度はわたしが釜にうつる。釜に首を突っ込んで、丁寧に声を聞く。

不純物残留0。少なくともわたしには確認できない。

問題が無いことを確認してから、次へ。

賢者の石は、本来ではありえない組み合わせのものを、中和剤と錬金術の変質によって、無理矢理組み合わせ。

更にそれを強引に安定させる事で作り出す事が出来る。

結果として完成するのは、究極の媒介。

神への道を開くほどのもの。

勿論これで剣や防具、身につける装備を作ったら、その性能は天をも穿つだろう。ただ、それでもあのパルミラにかなうとは思えないのが厳しいが。

交代で作業をする。

ハルモニウムのインゴットを、アトリエに設置した炉で溶かし直し。

徹底的な温度管理で、不純物を完璧なまでに取り除く。

人間離れしているかも知れないとは言え、わたし如きが行う作業だ。

完璧なんて事はあり得ない。

だが、それでもやらなければならない。

わたしが身につけている道具類で、わたしのスペックは極限まで上昇している。

だからこそ、出来る。

今はわたしの作った装備達。

荒野で生き抜き。

強敵に打ち克ち。

そしてライゼンベルグまでの道を無理矢理こじ開けた、文字通り肌身につけ続けた相棒達を信じる。

同時にわたしはわたしを信じない。自分を盲信することは、ケアレスミスを誘発させるからだ。

完璧な人間なんて存在しない。少なくともまだわたしは人間離れしていたとしても完璧な存在ではない。

あのソフィー先生でもミスはするはず。あの人くらいになると、ミスを即座にリカバーできているのだろう。そういえばアングリフさんも、生き残るコツはミスをしないことよりも、ミスをした時のための対応力をつけることだと話していた。何処でだったかは覚えていないが。

いずれにしても、有用な言葉。

真理そのものである。

だからわたしはミスを減らすための布石を怠らない。

徹底的な相互チェックを行い。

ミスが見つかったら、即座に妥協せずに何度でもやり直した。

二十時間ほど、ぶっ続けで作業をする。

これは時間を止めていた間も含めた時間だ。

どうしても時間が掛かってしまう作業に関しては、ある。それを行っている間に時間を止めて、徹底的にタスク処理に掛かる時間を短縮する。

考え得る完璧な素材を揃えてから。

最後にプラフタさんを呼ぶ。

そう決めているから、作業に関してもまったく滞りは無い。

だが、流石に集中力を使いすぎたか。

一段落した所で、二人揃ってアトリエを出る。なおアトリエ内の時間は完全凍結させた。

アトリエを出て、空気を纏う道具を外した途端、へたり込む。

凄まじい消耗だ。

回復に関しては常時していた筈なのだが。

手を離せない作業。

何よりも妥協が許されない作業もあって。消耗が尋常では無かった。隣では、イルちゃんが同じようにへたり込んで、大きく息をついていた。青ざめている程である。

「まだ、全然だね……」

「当然よ。 錬金術の秘奥の中の秘奥よ。 あのソフィーにとっては朝飯前かもしれないけれど、ね……」

「……そうだね」

ソフィー先生が使っている道具類。

あれらは、多分賢者の石を媒介に使っていると見て良い。

ただ、それでも性能が異常すぎる。あの人は単独で邪神を倒すという噂まで深淵の者関係者から聞いている。本人が桁外れに強いのもそうだが、其処に異常な基礎能力倍率が掛かっているのだ。

元々特異点と呼ばれるほどの存在が、更に究極を求めた結果出来た道具類だとしても、なおもその先にある気がする。

立ち上がると、アトリエにそれぞれ戻り。食事を腹にかっ込むと、ひとしきり眠った。

 

中間生成物の時点で、既に今までに作った道具類のどれよりも高度な理論と、普通だったらあり得ない技術が使われているものがずらっと並んでいる。わたしにとっても、イルちゃんにとってもそうだろう。

数日間、徹底的な作業を続けた。

その間、両方ともスケジュール管理を徹底し。問題が起きる度に、調合は延期した。

時計のアラームはもう参考には出来ない。

アトリエの時間を凍結しているとは言え。

トラブルが色々と双方で起きすぎた。

わたしの方では、まず隣街での作業で、大きな事故が発生した。貯水池を作ろうとしている時、地盤の一部に罅が入ってしまったのである。

地盤が安定している事が前提の城壁が、それによって軋んだ。

変な音がするという通報を受けて見に行くと、案の定補強が必要な事態になっていて、すぐに対応しなければならなかった。

強固な石材を選び、更に硬化剤も惜しまずに投入して、徹底的に地盤を補強。

更に城壁の一部に補強材を入れ。強化の魔術を更に上書きで施して、どうにか対応はした。

これに関しては、完全に事故だ。

ただ、わたしが隣街で作業していたら、地盤の声を聞きながら貯水池を作っていただろうから、防げていたかも知れない。

イルちゃんはイルちゃんで、また面倒な事が何度も起きた。

何処かの名門だとか言う錬金術師が来て、推薦状を出せと言って来たらしいのである。ライゼンブルグのお偉方にコネがある名門の御子息だとかで、もの凄い尊大な態度だったそうだ。

後で分かったのだが、イルちゃんの両親が政略結婚させようと考えていた相手だったらしい。イルちゃんより二十も年上なのだが。

例えば、状況が厳しくて、どうしても公認錬金術師試験を受けに行けなかったようなパイモンさんのような例はある。

だが、名門出身となると、豊富な書物や、そもそも専門知識の持ち主に囲まれているはずで。

それがどうしてこの年まで公認錬金術師試験を受けなかったのかという疑問は残る。

そこでイルちゃんは相応に難しい課題を出したら、相手がいきなり激高。

金貨の袋を放って、これと交換にしろと言い出したらしい。

当然違反行為である。

しかしながら、そもそも公認錬金術師になったばかりの上、足下がまだまだ固まっているとは言い難いイルちゃんは、相手をたたき出すことも出来ず。

ライゼンベルグの市長に連絡すると同時に。

深淵の者にも相談。

深淵の者の方からライゼンベルグの上層部に働きかけたらしく。結果、その「名門の御子息」は、青ざめて帰って行ったそうだ。何処へ帰るのかは知らないが。

まだ地盤を固めていない公認錬金術師の所に来て、金で推薦状を書かせようとする時点で色々と知れている。

勿論対応にはかなりの時間が掛かり。イルちゃんは相当怒っていた。

予感は当たった。

多分色々トラブルが起きるだろうとは思ってはいたのだが。想像以上に互いのスケジュールが阻害された。

隣街の建設にはわたしが惜しみなく資材を提供したが。

トラブルが起こりすぎるので、霊か何かが悪さをしているのでは無いかと言う噂まで流れ始めた。

実際にわたしが確認すると、いずれも原因がはっきりしているトラブルばかり。

それらは丁寧に説明したが。

人夫の中には、錬金術師が強引な方法を採っているからだ、とか言い出すものまで出始めて。

わたしとしても、そういった人達を納得させるためにも、時間を掛けて理論を説明し。丁寧に対応をしなければならなかった。

どうしようもない相手を駆除するのはまったく心も痛まないが。

迷妄に流される弱い人間は排除されて当然、などという事をわたしは考えない。

自分で考えない人間に存在意義は無い、などという理屈は。それこそ優れた者だけが生きる価値がある、みたいな無邪気で残忍な理論だ。そんな理屈を振り回していれば、いずれ世界が滅びるのも道理。

人間が駄目な生き物だと言う事は身に染みて分かりきっているけれど。

だからといって、いちいち諦めるわけにはいかないのだ。それに今後、更に戦略事業の規模を拡げていくとなると。

もっと酷い人間の業を、見せつけられることになるのは確実だ。

プラフタさんに聞いた話を思い出す。ソフィー先生の師匠になった程の人でさえ、そういった人間の業に苦しめられに苦しめられた。

わたしも今、同じ道を通っている。

溜息を殺しながらスケジュールを合わせ、そして気付く。

プラフタさんが出来るだけ早めに開始するようにと言った理由が何となく分かってきた。

おそらくわたし達が立っている場所がとても危うく。

睨みを利かせている間は良いけれど。

調合に本腰を入れ始めると、問題が色々と噴出するだろう事を、プラフタさんは見抜いていたのだ。

とにかく、コンディションを保たなければならない。

コンディションが悪いと出来るような調合ではないのだ。

中間生成物の幾つかに至っては、あっという間に劣化するために、チェックさえ命がけだった。

多数の失敗が許される程、物資は存在していないのだから。

汗が零れそうになって、あわてて額を抑える。

咳をしそうになったイルちゃんを、後ろから大慌てで口を押さえた。

もしもどちらでもやってしまったら、全て台無しである。

疲れていると判断したら即座にアトリエを出て仕切り直し。

ソフィー先生はこれをほぼ一人でやったのか。

そう思うと、その凄まじさに冷や汗が出っぱなしである。

いつの間にか、賢者の石を調合し始めてから三週間が経過。予定を既にかなりオーバーしているような気がする。

実際、チャートは混沌としていて。

処理出来ていないタスクも、まだ残っている。

それを一つずつ潰しながら、互いに中間生成物の品質をチェック。その過程で、わたしは気付く。

鉱物以外も。

いつの間にか、かなりはっきり声が聞こえるようになって来ていた。

イルちゃんはそんな事はないらしい。

ただ、イルちゃんには、膨大な経験が身についていて。これはこう使う、という事が。言われなくても反射的に分かるようになっているらしかった。

此処までの膨大な調合経験を積み上げたのだ。

時間までインチキしながら、である。

それはそれくらいのことは出来るようになるかも知れない。

ただ、ふと鏡を見て。

窶れている自分に気付いてしまうと、苦笑いも浮かばない。賢者の石を作成するために、わたしは命を絞り取っているかのようだった。

更に一週間。

最後のタスクに取りかかる。

現状で、四つの中間生成物にまで絞り込むことが出来た。最後の一つを完成させたら、締めの調合をプラフタさん立ち会いで行う。

簡単に説明すると、本来は絶対に交わりあう事がない四つの要素を、一つに強引にまとめ上げて安定させる必要がある。

四大元素などと一般的には言うが。

高度な錬金術になってくるとそれは大体嘘だと言う事も分かってくる。四つの要素程度に、世界を分割はできないのだ。

むしろその四つの要素とは。

恐らく世界に干渉している「四つの力」とでも言うべきもの。

これを強引に一つにまとめ上げるには、普通の世界で働いている理論だけでは駄目で。

高度な魔術を錬金術で極限まで増幅し。

刹那の瞬間を見きった上で完全に適量の素材同士を組み合わせ、中和剤で瞬間的に変質させなければならない。

達人なら素で出来るかもしれないが。

わたし達の技量程度では、時間停止に頼らないと不可能だ。

熱も徹底管理。

水銀温度計を使い、湯を張った盆にフラスコに入れて完璧に温度を調整したところで作業開始。

緊張の一瞬だ。

フラスコに入った青黒い液体に、赤黒い液体を垂らす。

次の瞬間には、一瞬で全部が反応。

一気に赤黒い石へと変化し、硝子フラスコをを内側から吹き飛ばしていた。

即時で時間停止。

硝子を丁寧に取り除く。

通称深紅の石の完成である。この状態になると、多少空気に触れたり水に触れても大丈夫だ。

時間を止めたまま、状態を徹底的に確認。

二つに切って中身も確認し。

必要な品質を満たしている事も確認した。

中間生成物を四つ、これで揃える事が出来た。

いずれもが、普段は絶対に手に入らない素材を、潤沢に使わないと作れないものばかり。

この500年で、ソフィー先生しか手が届かなかった深淵の中の深淵。

そこにわたし達は、ついに到達した。

アトリエの時間を停止し、外に出る。

異界のアトリエの外で、へたり込む。

ふたりとも息が完全に上がっていた。わたしは真っ青。イルちゃんは真っ赤になっていた。どちらも緊張の糸が途切れてしまったのだ。まだ最後の調合があるのに。そもそも、二人で試行錯誤しながら作った賢者の石の中間生成物だ。本来の作り方や、達人が作る場合とは、やり方も違っていたかも知れない。何しろ、参考に出来る資料なんて殆ど無かったし。

レシピにしても、極めて難解だったのだから。

ふと気付くと。

側に、口元だけ笑みを浮かべているソフィー先生と。

口を引き結んだプラフタさん。

それに、アトミナとメクレット、つまりよそ行きの顔をしているルアードさんが立っていた。

ソフィー先生は、相変わらず目だけ笑っていないが。それでも優しげな声で語りかけてくる。

この人が秘めている狂気を思うと、却ってその方が怖い。

「どうやら、上手く行ったみたいだね、賢者の石の作成の前段階まで」

「ソフィー。 後は私が監督します」

「えー。 プラフタだけ、初めての瞬間を見られるの? いいなあ」

「貴方は日常的に賢者の石を作っているでしょう」

ぞっとする。

日常的に賢者の石を作る。そんな言葉が飛び出してくるなんて、どんな異次元の実力なのか。

まて。確かソフィー先生は何度も繰り返している、という話をしていた。

つまりわたし達が賢者の石を作る事が出来たのは、ソフィー先生が経験している繰り返しの中でも初めてなのか。プラフタさんは、それに気付かなかったようだが。

震えが改めて来る。

如何に無茶な事をしていたのか、今更ながらに思い知らされる。本当に賢者の石に到達するのは、困難の極限だったのだ。

「二人とも、一日じっくり休んでからまたここに来てください。 賢者の石は、それぞれで作らなければ意味がありません。 確認しましたが、二人がそれぞれ賢者の石を作るのには充分な中間生成物が揃っています」

「いつの間に……」

「此処のアトリエはずっと状況を確認していました。 黙っていたのは申し訳ありませんが、致命的な事態が起きる可能性は低くありませんでしたから」

プラフタさんは、それだけ言うと、ソフィー先生をちらりと見る。

なるほど、何となく理由は分かった。

ソフィー先生は、その「致命的な事態」が起きても一向にかまわないと考えているから、なのだろう。

何千年単位の繰り返しを何度も何度も経験している魔人だ。

今回はもうちょっとだった。

それくらいで、わたしの命もイルちゃんの未来も、平気で投げ捨てるのかも知れない。或いは今までの周回ではそうしてきたのだろうか。

「順番としてはフィリス、イルメリアの順で行います。 ものの声が聞こえている人間の方が、初見での作業は成功しやすいからです」

「……はい」

イルちゃんは少しだけ悔しそうにしたが。これはプラフタさんの言う事が正論だと思ったのだろう。それ以上、何も言わなかった。

後は、ゆっくり休む事にする。

スケジュールが阻害される可能性についても考えたが、プラフタさんは此方の四苦八苦を知っているようで、問題が起きた場合は先に連絡しろとも言ってくれている。機会を逃す事は多分無いだろう。

アトリエに戻ると。

わたしが疲れ切っているのを察してか。

軟らかく煮たスープ類を中心とした食事を、お姉ちゃんがすぐに作ってくれる。

あまり食欲も無かった。

本当に全精力を使い果たしたのだなと、わたしは分かった。

食べ終えると、片付けをささっとツヴァイちゃんがやってくれる。自分でやろうかと思ったのだけれど、お姉ちゃんがもうすぐに寝なさいと言って、鏡を見せてくれた。勿論自分の状態は知っている。

それ以上は、何も反論できず。

反論する気力さえも残っていなかった。

ベッドに入り込むと、後はもう糸が切れるように、意識が落ちた。

このままでいると、睡眠がおかしくなったりするかも知れない。無茶な生活を続けていると、眠れなくなったり、ある時突然気絶するように眠るようになったりするという話もある。

そしてここしばらくのわたしは、ずっと無理を続けていた。

夢の中で、わたしは泥沼のなかにいて。

もがいても、脱出どころか身動きさえ出来ず。

ただ沈み込んでいくだけだった。

そんな状況で、わたしは睡眠がおかしくなっているなと、まるで他人事のように、自分を分析していた。

わたしはこのまま、壊れてしまうのだろうか。

ソフィー先生は、話を聞く限り、賢者の石を作る前から色々とおかしかったという。狂気の片鱗は最初からあり、賢者の石を作成する事はきっかけで。逆に言うと、深淵に直接触れても其処までは変わっていないらしい。

要するに、元から素質が非常に強く。

それ故に狂気も深かった、と言う事なのだろう。

わたしはどうか。

本当に最初からまともだったのだろうか。いや、そもそもまともとは何だ。周囲とあわせる事か。自分を殺してでも、社会の枠組みの中で無理矢理死んだように生きる事をそういうのか。

分からなくなってきた。

もはや、夢の中でさえ安らぎは無い。

目が覚める。

夢の中でも、思索を進めている辺り。もうわたしは、夢の中に安息を求めて逃げ込む事さえ出来ないのかも知れない。

ぎゅっと布団を掴む。

わたしは更なる闇にこれから踏み込もうとしている。人類のどん詰まりの未来を打開するためにも。ソフィー先生という存在の暴虐をストップできる存在になるためにも必要だと分かっていても。

やはり、どこかで。まだ怖いと言う感情が、残っていた。

 

4、深淵への片道切符

 

プラフタさん立ち会いのもと、賢者の石の調合に入る。

深紅の石そのものを中和剤として使い。それそのものの要素も取り込みつつ、他の素材から作り出した中間生成物を全て同時合成する。

本来は混ざり合う事が無い要素が全て、これにて混ざり合う。

調合そのものは簡単だ。

深紅の石そのものが、中和剤として最上級の品。それこそドラゴンの血から作った中和剤などこれに比べれば路傍の小石に等しい程に、である。

故に、変質は凄まじく。

文字通りハルモニウムの釜で無ければ、爆発していたかも知れない。

生唾を飲み込むわたしの前で。

反応が収まっていく。

やがて、目に分かるほど美しい赤い石が、釜の底にへばりつくようにして出来ていた。

丁寧に剥がす。

思ったほど堅くは無い。

というよりも、ヘラを入れて剥がしてみると。すんなり剥がれてくれた。

そして硝子容器に入れると。

それはゆっくり時間を掛けながら形を変えていく。

プラフタさんは、最小限のアドバイスをしただけ。

そして、頷いた。

「ソフィーの作った賢者の石と比べると、58点と言う所ですね。 100点満点で」

「はい」

思ったより高い品質なんだなと、わたしは思う。

あの人が作るのが100点だとすると、今のわたしがそれを超えるはずが無いので、まあ妥当なところだろう。ましてや初めて作るのだから。

ただ、これを70点にするには更なる膨大な努力が必要だろうし。

90点を作る頃には、多分身内はみんな死に絶えているだろう。

わたしは一人アンチエイジングで生き延びていて。毎日の日課に、お墓参りが追加されているかも知れない。

何だか悲しい話だが。

そういうものだ。

続けて、イルちゃんが調合を開始する。

さほど時間は掛からず、イルちゃんも上手く行ったようだった。

賢者の石は。

二人とも完成させる事が出来たのである。

疲れは取れていたし。

思ったよりも、最終作業は楽だった。

だが、何となく分かる。

賢者の石を作った事で、わたしは恐らく、決定的に変質した。

そう、わたし自身が、である。

力がわき上がってくる。

賢者の石を作る事で、膨大な経験を積んだから、ではないだろう。プラフタさんが言っていたように。賢者の石を作ると言う事そのものに意味があったのだ。

差し出されたのは高栄養のレーション。

それを食べてから、少し休んで、すぐに戻ってくるようにと言われた。

恐らくは。

世界の創造者。

端末ではない、本物のパルミラと会うために、体調を万全にしておけ、という意味だ。ある意味死刑宣告に近いかも知れない。

呼吸を整えると、アトリエに戻る。

そして、おなかが温かいなと思いながら。茫洋と天井を見つめた。

「隣、いいかしら」

「うん……」

ベッドにお姉ちゃんが座る。

わたしが寝ているとき、お姉ちゃんはきちんと距離を取ってくれる。いつも鬱陶しいほどべたべたしてくるのに。

この辺り、わたしを溺愛している反面。

きちんと嫌われないように、距離の取り方を心得ている、と言う事を意味もしている。逆に言うと、お姉ちゃんは本当にわたしが大事だから、絶対に嫌われたくは無いのだろう。

「とても難しい事を成し遂げたのね」

「……ううん、一番難しいのはこれから。 きっとわたしは、もう戻ってこられないと思う。 この場所には戻ってこられるとは思うけれど、もう人間じゃあ無くなっていると思う」

「そう」

「リア姉、何だか力を得るってのは悲しい事だね」

お姉ちゃんは何も言わない。

お姉ちゃんには葛藤があった筈だ。閉鎖的なエルトナで地位を確保するためには、それこそ必死だったはず。

お父さんとお母さんが現役を退いてから、お姉ちゃんの両肩には更に重荷がのしかかった。

外で狩りを行い。

たまに来る商人から、ぼったくられないように、舐められないように、更には怒らせないようにもしなければならない。

そんな難しい立場を任されるまでには。

それこそ血のにじむような努力をしたはず。

弓矢の達人になるまでだって、相当な鍛錬を積んだはずで。それはわたしが錬金術につぎ込んだ努力と、まったく遜色ないものだっただろうと見当は簡単につく。

「何があっても私はフィリスちゃんの側にいるし、例えフィリスちゃんが何になっても私は味方よ」

「うん……ありがとう」

「もう自分で決めた事なんでしょう」

「……このままだと、世界はどん詰まりの果てに滅んでしまうんだよ」

お姉ちゃんは何も言わない。

そういえば。

わたしが旅に出るとき、お姉ちゃんは同行を申し出たが。あの時の前後、少し様子がおかしかった。

ひょっとしてわたしより先に。

ソフィー先生はお姉ちゃんに接触して全てを話していたのかも知れない。

或いは、だが。お姉ちゃんにも、錬金術師としての素養があってもおかしくない。何しろ、公認錬金術師二人の子供なのだ。

ノルベルトさんはロギウスの作った砂塵を時間限定とは言えかき消したし。

その奥さんだった人は、下級とは言えドラゴン相手に非戦闘員が逃げるくらいの間時間稼ぎを成功させている。

素質がお姉ちゃんにあってもおかしくはない。

「力を得たからには、相応の責任を果たさないと。 でも、なんでだろう。 力を得れば得るほど、どんどん心が静かになって、目がよどんでいくのが分かるんだよ。 友達や仲間を大事にしようという気持ちはあるの。 だけれど、どんどん何処かで一線を引いている自分にも気付いてしまうんだ」

わたしは泣いていたかも知れない。

でも、お姉ちゃんは何も言わず、話を聞いてくれた。

「この世界のどん詰まりは本当に悲惨な末路を迎えるの。 それを食い止められるならどんな手でも使わないと……でもわたし、邪神より邪悪な存在にはなりたくない」

わたしは目を擦りながら半身を起こすと。

行ってきますとだけ言い残して。

その場を離れる。

お姉ちゃんは何も言わず、わたしを見送ってくれた。

さて、これからあのパルミラの本体に謁見する。

そして、最悪の場合でも。

何をするか本当の意味でまったく分からないソフィー先生の、抑止力にはなる力だけでも手に入れなければならない。

だが、あのソフィー先生が相手だ。

文字通りそれには激甚なリスクが伴うだろう。

わたしは戻ってきたとき、もうあらゆる意味で人間ではなくなっている。

最後の別れだ。

わたしは、扉をくぐって異界に。

くしくも、イルちゃんも。同じタイミングで、異界に入ってきていた。

プラフタさんが頷く。

さあ、時間だ。

 

(続)