空へ伸びる光

 

序、統合された体

 

久しぶりだ。

サルファーは、嫌にクリアな意識の中、自分にあらがう人間達を見ていた。どいつもこいつも必死で、まるでサルファーを倒せると思っている様子だった。そんなことは、絶対に無理なのに。

今までは、意識や体の一部が戦っていた。

今回サルファーは、動員できる全てのパーツをイヴォワールに持ってきている。それだけで、今までとは根本的に状況が違うのだ。

勿論、人間に対する能力制限もある。元々サルファーは、悪魔を殺すために作られた兵器であり、その力は悪魔と戦うときに、最大の増幅が為される。

たとえば。

サルファーと戦った超魔王と名乗る悪魔は、その力の殆どを失い、キノコのようになってしまって、小さな異空間に閉じこもっている。その異空間の中でしか力を発揮できない、寂しい存在になり果てたのだ。

この超魔王、サルファーが喰らった悪魔達の情報から総合するに、宇宙中の邪悪な魂が集合して誕生したらしい。サルファーと似た境遇とも言えるが、そんな存在でも、サルファーには叶わなかったのだ。

人間に、何が出来る。

何も出来はしない。

かって人間だったとき、サルファーは大事な人一人だって、守る事は出来なかった。

それどころか、自分を人間だと認めさせることさえ出来なかった。

「畜生、堅すぎらぁ!」

「ドラブ、諦めるな! 確実に効いている!」

「でもよぉ!」

確実に効いているというその言葉、発した本人でさえ信じていない事が、サルファーには分かった。

何だか不快だ。

あの人のことを、思い出してしまう。だが、結局、あの人だって、どうにも出来なかったでは無いか。

サルファーは、結局。何のために生を受けたのだろう。

死してなおもてあそばれ、そして恐らく今。サルファーに、自立意思というものは存在していない。

考えてはいる。

だが、大本の本能が、思うように動く事を許してはくれない。

戦闘時に体を動かすことは出来る。しかし、それ以外は、全てが身に纏った悪意と、サンプリングされた本能が、サルファーを動かしていた。

手を軽く動かすだけで、人間など数百は消し飛ぶ。

口をちょっと動かすだけで、人間で言う最大級の術式を無尽蔵に放つことが出来る。

それでも、人間は迫ってくる。

最初に一撃を入れた青い光を纏った奴が、また来た。拳を叩き込んでくる。何処か遠くから、ちいさな音が響いてくるような、弱い弱い打撃。

だが、体が少しずつ削られているのも、サルファーには分かっていた。

やはり、そろそろ本気で戦うべきだろうか。

制限が掛かっているとはいえ、こんな人間共など、殲滅することは難しくない。この世界の人間は常識外に強いが、それでもたかが知れている。

さあ、殺そう。

全ての力を引き出している以上、もうサルファーも再生機能が働かなくなっている。手当たり次第に殺して、それから復讐しよう。

それでいい。

ふと、何か妙な感触を感じた。かって誰かから感じたような、柔らかい光の波動。

不快だが、気が動く。

 

マローネは、四度目の失敗に冷や汗を流しながらも、また最初から印を組み始める。

今は少し手応えがあった。サルファーとのコミュニケーションは、話しかけるだけでは駄目だ。

曖昧になっている相手の意識に、直接アクセスしなければならない。それは、何度かの失敗で、はっきり分かっていた。

サルファーの体には、虫食い状にダメージが生じ始めている。少しでも傷がつけば、其処からパティ達が空間を削り取り、悪意を異空間へ飛ばしてしまっているからだ。カスティルはかなり考えていて、細かく手話で指示しながら、傷を集中させ、少しずつ関節を中心にダメージを広げていた。

リーナが、青い顔のまま、此方に歩いて来る。

重力制御の力を使っているのか、彼女はスプラウトの巨体を担いでいた。意識が無いスプラウトは、酷い怪我をしていたが。生きてはいるようだ。

「おじいさん!」

「縛っておいた方が……」

「いや、無駄だろう。 普通の縄など、引きちぎられてしまう」

モルト伯が、後方に輸送して、手当をと指示を出すが、スプラウトが目を開く。どよめく兵士達。

先ほどスプラウトが見せた、あまりにも圧倒的な強さを、誰もが目に焼き付けている。既に九つ剣のかっての筆頭は、恐怖の象徴となり果てていた。

「儂の中に、サルファーが入っていたのか」

「はい。 でも、外に出てもらいました」

「愚かな。 儂ごと殺してしまえば良かったものを」

「そんなことを言わないで」

マローネが目を伏せるのを見て、スプラウトは鼻を鳴らした。モルト伯が咳払いをすると、けが人を後送するようにと指示。

スプラウトは身を起こそうとするが、無理だ。

黒い鬼神は、サルファーに乗っ取られ、ただでさえ無理をしていた体に、完全にがたが来てしまっていた。あれほど強健で、世界最強の名に恥じなかった肉体が。スプラウトが、本当に悲しそうに呻く。

「無念だ。 奴を前にして、復讐を果たせぬか」

サルファーの激しい攻撃は、衰える様子が無い。

少し動くだけで、多数の被害が出る。前線では、多くの犠牲が出て、負傷者がどんどん後送されていく。

此処までの経路は確保されているから、援軍は続々とやってくる。だが、意気がどれだけ上がっていても、まだサルファーを倒せる目は、全く見えなかった。

担架を見て、不要とスプラウトは一言だけ吐き捨てる。

そして無理に腰を上げると、その場で胡座を組んだ。彼の大剣は、既に失われてしまっていた。先ほどの戦いの少し前に、サルファーに突き刺して無理な使い方をしたから、それで砕けてしまったのだ。

「せめて、ここで見届けたい。 かまわぬか」

誰も答えない。

痛々しくて、マローネはもう、スプラウトを見ていられなかった。

また大きな爆発が起きる。

吹き飛ばされた兵士やクロームが、地面にたたきつけられ、転がるのが見えた。そろそろ本気でまずい。

カスティルは額に汗を浮かべながら、パティ達に手話で指示を出している。しかし、パティ達がサルファーの体を削りきるよりも、明らかに味方が消耗しきって、サルファーの猛攻を支えきれなくなる方が早い。

此処は、賭に出るべきか。

サルファーの顔面で、大きな爆発が生じる。

見ると、ウサギリス族のネフライトが放った術式だった。あの人は、見覚えがある。たしか九つ剣の一人。

前線で苦労していると聞いたが、ついに到達者が出たか。

煙が晴れると、サルファーが口を動かそうとする。だが、顔面が、今度は氷で覆われる。フレイムのコバルトブルーの能力だ。灼熱から極寒に急激に移行し、更に其処にコリンが雷撃を叩き込んだ。

伝導率が上がり、サルファーの全身が、稲光に包まれる。

そして其処へ、アッシュとドラブ、それにリエールが、それぞれの渾身の一撃を叩き込んでいた。

わずかに、サルファーが下がる。

マローネは、五度目のコミュニケーションを試みる。今度こそ、サルファーの深淵。宇宙でもっとも汚染された魂へ、心を届かせたかった。

 

1、死闘

 

アッシュは、少しずつパティ達がサルファーの体を削っているのを見ながらも、有効打を浴びせられないことに忸怩たる思いを感じていた。

既にエカルラートの限界展開時間はとっくに超えている。

だが、どうしてだか、まだまだ能力は展開できていた。恐らくそれは、ドラブも同じ。

サルファーが手を振り下ろしてくる。紙一重でかわしつつ、顔面に蹴りを叩き込んだ。先ほど爆発を浴びせ、凍らせて、更に雷撃を叩き込んだ上で一斉攻撃を浴びせてやったのだが、目に見えて削れている様子は無い。

爆風が、アッシュの全身を叩く。

サルファーの手が地面にたたきつけられると同時に、クレーターが出来るほどの衝撃が、地面を襲ったからだ。

ヴォルガヌスを、そろそろ投入するべきかも知れない。

真っ白に輝いているハツネが、無数の矢を放つ。サルファーが唸りながら、光の矢を払いのける。

その隙に、けが人を担いで、安全圏に逃れていく兵士達。命を落としてしまっている兵士も少なくないが、まだ、皆の心は折れていない。

ラファエルがサルファーの首筋に空間転移して、間髪入れずに剣を突き立てる。

しかし、剣が通ることは無い。澄んだ音と共に、跳ね返されるばかりだった。

「堅いな……」

サルファーが口を開こうとする。

だがその瞬間、バッカスが、回転しながら頭に上からの一撃を叩き込む。口を無理矢理閉じあわされたサルファーが、術式を邪魔されたことに憤りながら、体を揺する。それだけで竜巻が複数発生し、辺りの空気が荒れ狂う。

これでも兵士達は、士気を失わずに頑張ってくれている。傭兵団の猛者達に混じって矢を射掛け、槍でサルファーを抉り、剣で斬りかかる。

だが、その度に吹き飛ばされ、挽肉にされ、勇気に高い代償を払わされていた。

彼らが囮になってくれていることで、アッシュへの攻撃が減っているのも事実。猛攻が、マローネに向いていないのも事実だが。

しかし、やはり忸怩たるものを感じてしまう。

「まずいな、そろそろ限界だぞ」

指揮を続けていたガラントが言う。

アッシュは着地すると、呼吸を整えながら、ガラントに並んだ。

「何か、良い手はありませんか?」

「あったら試している」

いかなる戦場でも、諦めること無く勝利を模索し、そしてマローネの栄光に貢献してきたガラントが、そんなことを言う。

思えば、サルファーのしもべはいずれもが特性が有り、何かしらトリッキーな部分が存在していた。

それが故に弱点も有り、むしろそれを突くのは難しくなかった。

力の差があっても、勝ててきたのには、敵が分かり易い弱点を抱えていた、という理由があったのだ。

サルファーにはそれが無い。別次元の強さで有り、その上まとまっている。隙はいくらでもあるが、逆に変な特性も見えないので、弱点らしい弱点も無い。ガラントの指示で、さっきから一点を集中的に攻めてはいる。まずは腕を落とそうというのが、その考えなのだが。

確かに関節部へのダメージが蓄積し、サルファーの左腕は少しずつ動きが鈍くはなってきていた。

しかし、左腕が落ちるよりも先に、此方の体力がつきかねない。

そうなれば、確実にサルファーは前進を開始する。モルト伯とマローネ、それに作戦の要になっているカスティルとパティ達に対して、だ。

サルファーがその赤い目を光らせると、虚空に閃光が走った。

瞬時に数十人が両断され、遙か遠くで爆発が生じる。もう、一刻の猶予も、無い。

「焦るな!」

「しかし……」

「オレガイク」

バッカスが、進み出る。

全身は既に傷だらけ。スプラウトとの戦いでも、最前線でフルに戦っていたのだ。既に疲弊は限界が近いはず。

ガラントがハンドサインを出す。

鷹揚に、バッカスが頷いた。

「両腕さえ奪えば、勝機はある。 アッシュ、サルファーの最も邪悪な鼓動は、どこから感じる?」

「それは、胸の内から、ですが」

「そうだ。 此方にも、まだヴォルガヌスという切り札がある」

だいたいその説明だけで、アッシュにも分かってきた。

ガラントも、細かい説明をしている暇は無かったのだろう。頷くと、大剣を構えた。鍛冶士ヴァーデンに鍛え直してもらった大剣は、この激戦にも良く耐え抜き、まだ輝きを失っていない。

マローネが、バッカスに魔力を注ぎ込みはじめたのが分かった。

筋肉質の体を盛り上がらせ、リザードマンの戦士にして、ガラントの最も信頼する相棒は、天に向けて雄叫びを上げた。

それを見て、フレイムが、最初の口火を切ってくれた。

無言のまま、コバルトブルーの力を展開し、サルファーの顔を凍結させたのである。勿論瞬時に内側から破られるが、一瞬だけでも隙が出来る。

更に、フォックスが複雑に印を組むと、地中から巨大な蛇のような死人が躍り出て、サルファーの全身に絡みつく。体は蛇のようだが、顔は人間そのもので、とてもおぞましい姿をしていた。

だが、それが何だ。サルファーの動きが、止まる。

青い光を纏ったバッカスが、体を丸めると、回転しながら飛ぶ。いつも破壊的な威力を誇るバッカスのチャージだが、今日は、勢いが違う。

分かっている。アッシュには。

サルファーの、傷口に激突。凄まじい火花を散らしながら、バッカスが敵に食い込んでいく。

サルファーがこの日、初めて苦痛の絶叫を挙げた。蛇の死人をずたずたに引きちぎり払うと、右手でバッカスを掴もうとする。

だがその右手を、頭上から全力でタックルを浴びせ、ドラブが押さえ込む。更に、顔面にアッシュが突撃を掛け、大上段からの踵落としを叩き込んで、動きを止める。それでも、サルファーの右手は止まらない。

しかし。ガラントが飛び、右手の親指の付け根に剣を突き立てると、サルファーの動きが、止まる。ガラントが掴み取られる。

殆ど本能的なその行動を誘発させることで、ガラントは、バッカスのチャージを、サルファーに通させたのだ。

バッカスの姿が、消えていく。

力を使い果たしたのだ。

そして、サルファーの左腕の肘には、見るも無惨な傷が出来ていた。其処へ、全てのパティ達が、一斉に空間削り取りを仕掛けた。

限界に達した、サルファーの左腕が落ちる。

握りつぶされたガラントも消えていくが、この時。確実な隙が、この場に生じた。

「前線の指揮は俺が引き継ぐ!」

ドラブが雄叫びを上げる。彼にとって、ガラントは師匠のような存在であったはず。無理も無い事だ。

右腕に、そのまま集中攻撃。顔にも攻撃を浴びせ、動きを可能な限り封じろ。

兵士達はサルファーの全身にくまなく攻撃。攻撃が出来れば、それでいい。何かラッキーヒットが生じるかも知れない。

単純だが、理にかなう。

アッシュは、もはや当分は実体化も出来ないほどのダメージを受けたバッカスとガラントの事を思う。そして、目を開けて、誓う。

自身がどうなろうと、この災厄の根源を、打ち倒すのだと。

 

マローネは、めまぐるしく、魔力を注ぐ対象を変えていた。

アッシュが攻勢に出るときは、アッシュに。

ハツネが矢を放つときは、ハツネに。

そして、ガラントとバッカスは、既に側に戻ってきている。声が聞き取りにくくなるほどの消耗をしてしまっている二人だが、ガラントはそれでも、的確にマローネにどうするか指摘をしてくれていた。

とても嬉しい。だからこそに、必ず勝たなければならない。そして、出来ればサルファーも、この運命から救うのだ。

ヴォルガヌスの投入は、まだだとガラントは言う。右腕もどうにかしたらだ、と。

目の前で、多くの兵隊さんが死んでいく。傭兵団の人達も。これは戦争だ。歯を食いしばって、傷と血を受け入れなければならない。

だからこそに、失敗は許されないのだ。

パレットが、いつの間にか、マローネの手を握ってくれていた。頷くと、マローネは集中する。

アッシュが、ラファエルの攻撃にあわせて、またサルファーの顔面に拳を叩き込む。タイミングは完璧。だが、それでも、サルファーは小揺るぎもしない。

カスティルは既にガラントの意図を察して、サルファーの右腕に、パティ達による攻撃を集中させていた。手話は非常に細かく、モカもかなり苦労しながら、味方に翻訳しているようだ。

想像を絶する苦戦。だが、確実に成果は上がってきていた。サルファーの右腕も、傷がかなり増えてきている。後一手、何かがあれば。

コリンが手をかざすようにして、サルファーを見ている。

彼女は平然としているように見えて、スプラウトからサルファーを切り離す際に、主要な役割を果たした。消耗は小さくないはずだが、落ち着いているのは何故だろう。

ハツネはひっきりなしに矢を放って、サルファーの顔面や、右腕の関節、それに左腕の傷口に精確な打撃を浴びせている。

ハツネは、以前と比べて、険しさが無くなった。凛とした強さはあるのだが、それ以上に落ち着きと優しさを得たような気がする。

彼女は誇りを失っていない。

むしろ、昇華させたのだろう。

「コリン。 貴様は結局、どうしてこの場にいる? 貴様の未練は何だ」

「あたしの? サルファーを殺す事だけど?」

「何か、奴に恨みでもあるのか?」

ハツネはまた柱のような大きな矢を多数空中に出現させると、一斉に放つ。サルファーの全身に直撃した矢が、その動きを鈍らせる。右腕に集中的な打撃を浴びせているラファエルが、それでやりやすくなる。

また、九つ剣が一人来た。大きな槍を持った、マーマン族の男性戦士だ。エイに似た姿をしていて、突進するやいなや、ラファエルと息を合わせて、サルファーの右腕関節に怒濤の猛攻を加えはじめる。

「ま、最後だし、いっか。 この島があたしの故郷だって話はしたよね」

「ああ」

「この島はね、あたしが理屈無しで好きだった、ただ一つのものだったんだよ」

コリンはいつもおどけているし、マローネが悲しんでいると、とても嬉しそうにしている。

本物の悪党で、多分魂は邪悪と言うに相応しい存在だ。

だが、マローネも感じるのだ。コリンには、何かとても大きな理由があると。

「故郷を蹂躙されたことが、復讐の動機か」

「ちょっと違うかな。 あたしとしては、人間なんかどうでもいいし。 マローネちゃんみたいに、痛めつけがいがある相手だったら、痛めつけて楽しく遊ぶけど」

話を聞いていたモルト伯が流石に眉をひそめたが、マローネが眉根を下げて苦笑したので、引き下がる。

この人のこういう言動は昔からだし、今更気にはならない。

「ただね、何となくあたしはこの島が好きだった。 自然とか、柔らかい空気とか、色々がね。 住んでいる人間どもは嫌いだったけど」

「貴様は頭が良いかと想っていたのだが。 それは巣穴を荒らされた獣と同様の怒りに思えるが」

「そうだよ? だから、普通の人に理解してもらおうとか思っていないよ」

そうはいうが、マローネは知っている。

コリンはなんだかんだ言っても、子供の面倒を見るのが好きだし、けが人を治療するのも、嫌そうでは無い。

感謝されると普通に照れているし、子供達を見て目を細めている事だってある。

同じ姿のまま長い年月を生きたらしいコリンだが、彼女にも人間的な要素は確実に存在している。

きっと、他の人に、人間である自分に踏み込まれたくないのだろう。

ハツネは相変わらず、的確な支援を続けている。新しく来たマーマン族の九つ剣の戦士に、サルファーが手を振り下ろそうとしたが、一斉射撃でその動きを止めた。その隙に逃れるマーマン族の戦士。

さて、とコリンが呟き、腰を上げた。

「右腕を落としに行ってくる」

「勝算は? 貴様も消耗は相当悲惨なように見えるが」

「ある。 心配するなっての。 このあたしが、勝算の無い戦いをするわけが無いでしょうに。 後、マローネちゃん」

「はい、何ですか、コリンさん」

コリンは此方を見ず、指さす。

「サルファーの中核は、胸の真ん中の奥。 ヴォルガヌスおじいちゃんが頭を押さえ込んでいる間に、かならず叩くんだよ」

きっと、それを見極めるために、ずっと静かにしていたのだろう。

マローネは感謝する。コリンは、やはり、偉大なる大魔術師だ。彼女はああ言っていたが、きっとこの島にいた人も大事な存在で、それがサルファーに対する復讐の動機の一つだったのだろう。

恋人も、いたかも知れない。

彼女ほどの偏屈を受け止められるほどだったら、同じくらいの変わり者か、よほど度量がある人だったのだろう。

コリンは歩いて行く。

彼女には、ずっと世話になってきた。

必ず、本懐は、遂げさせてあげたい。

 

腕が一本減って、サルファーの動きは確実に鈍くなった。傷口に塩をすり込むような嫌がらせを続け、なおかつ本命の右腕に集中攻撃を浴びせ。それでも、サルファーそのものは、心を折られたり、怒っている様子は無い。

せめて感情を乱してくれれば、随分やりやすくなるのだが。

兵士達の意気は確実に上がっている。腕が一本落ちたことで、左側が死角になったからだ。それだけではない。右側へ攻撃を集中するようにと言う指示も出ている。そちらにわざわざ向かい、槍でサルファーの肋骨に突き込む勇敢な者もいた。

上空を旋回していたリエールが、高度を下げてくる。何度か着地しては上空に舞い上がっていたリエールだが、ゆっくり歩いて来るコリンに気付いたらしい。

「貴方は、確かマローネ殿の」

「はーい。 コリンです」

「魔術師がこんなに前線に出て、大丈夫なのですか?」

「これからあの右腕を落としますから。 協力して貰えます?」

リエールは着地すると、何度か腕を回した。

飛んでいると、腕に負担が掛かるようだ。彼の場合は能力を使って短時間の高速飛行を可能にしていると言うこともあり、元々のオウル族とは短時間飛行のスタイルが、そもそも異なる。しかもチャージ技を得意としていて、何度もサルファーに特攻を掛けている事から言っても、腕の負担はそろそろ限界だろう。

目を細めたリエールは言う。

「死ぬ気ですか?」

「もう死んでるけど」

「それでも、女性に無理はさせられない。 前衛は承りましょう」

「……」

真面目な奴だ。

まあ、アッシュはサルファーの顔面に攻撃を加えるので手一杯だ。そして、アッシュの愚直で真摯な攻撃が、確実にサルファーの動きを鈍らせている。ラファエルも奮戦しているが、もう限界が見えている。他の九つ剣は、残念ながらラファエルに比べて一段見劣りする。

かといって、そいつらでも魔界でいうレベル三桁の実力者だ。前線から割いたら、一気に均衡が崩れる可能性も高い。

岡ノ上から、フォックスの死人が極太の閃光をサルファーに叩き込む。直撃し、サルファーがわずかにずり下がった。

サルファーの巨体が多少揺れる程度だが、それでも時間稼ぎにはなる。既にコリンも印は組み、術式の詠唱も終わり、いつでも解き放てる状態だ。

奴の腕を落とすには、あと一つ、何かが必要だが。

自分の横に並んだもう一人を見て、コリンはほくそ笑む。これで、駒は揃った。

「手を貸そうか?」

「フレイム殿か」

「性格の悪い魔術師、貴様は確か火炎系の術が得意だったな。 一気に冷やせばいいのか?」

「そう。 まずは温めて、一気に冷やして、其処を砕く」

熱膨張破壊という奴だ。

そして、コレに関しては、既に今まで仕込みを続けていた。

何ら考え無しに、術式が叩き込まれていたわけでは無い。特にガラントは、火炎と冷気を交互に掛けるように、前線で指揮を続けていた。彼も知っていたのだろう。それが、構造体を破壊する、最も簡単なやり方だと。

そして、其処にパティ族による集中攻撃が加わっている。

サルファーの右腕は、今、かなり罅が広がっていた。見たところ、後大きいのを一発入れれば、致命的な打撃を与えることが出来る。

その手駒も、今揃った。

悔しいが、利用をすることだけを考えているコリンでは、これだけの駒をそろえる事は出来なかっただろう。

マローネは、実際に認められている。

此奴らは、マローネと戦ったり争ったりしながら、その存在を認め、そして今では手を貸すことを吝かでは無いと考えている連中だ。コリンが出来るのは洗脳や支配だが、それではどうしても上手く行かないものは、ある。

マローネは、傷つきやすい心を持っていたが、それでも我慢して戦い続けた。

その結果、今では、彼女のために戦っても良いと思っている輩が、大勢出来てしまっている。

不快感はある。

何よりも、その一人が、コリンだと言う事に。

遊ぶための道具だったマローネが、自分の目的を果たすための、最大の駒となっている事に。

そして今や、コリン自身が、マローネの駒であるという事が、不快きわまりない。

しかしながら、目的のためなら、それも有りだ。

この島は、コリンの巣だった。

色々大事なものはある。研究もそうだし、自分が作り上げてきた魔術もそうだ。だが、無くしてみて、初めて分かった。

この島こそが、コリンの大事なものだったのだ。

「タイミングを合わせるよ。 あたしのカウント七でコバルトブルー。 十二であたしがテラファイヤを打ち込む」

「聞いたことが無い術式だが」

「そりゃあそうでしょ」

オメガ級の更に上を行く術式、テラ級。もっとも、この術が存在することは、百年以上前に確認している。起動することも。実際、サルファーのしもべとの戦いで使ったこともある。

一般では知られていないが、上位のネフライトには知っている者も少なくない。もっとも、オメガ級以上は戦闘では破壊力がありすぎる上に制御が難しいので、あまり実用的では無く、一般では知られる意味が無い、という理由もある。

フレイムは印を切ると、己の魔力を燃え上がらせる。

周囲は既に死屍累々。左腕が駄目になっても、サルファーの脅威は今だ凄まじいものがある。戦闘力だけでは無く、感知力も、対応力もだ。サルファーも、すぐに此方に気付くだろう。そして奴が手を動かすだけで、暴風が巻き起こるのだ。

気付かれたら、その瞬間にアウトだ。

ラファエルが先に此方に気付く。陽動のためか雄叫びを上げ、サルファーの傷の一つを抉った。

鬱陶しそうに、サルファーが目から光線を迸らせる。

遙か向こうの海が、吹っ飛ぶのが見えた。此処まで熱い雨が降り注いでくる。だが、それが隙になり、カウントが開始できる。

熱い雨に打たれながら、フレイムが印を切る。

そういえば、此奴は故郷の問題をマローネと口論していたはず。正確には、手をさしのべようとしたマローネに拒否を示していた、という所だが。

何故、マローネを助ける気になったのか。

まあいい。カウントを続ける。1,2,3。

ドラブが、敵の胸中央に拳を連続して叩き込む。此方とは関係ないが、それで少しでも気を引いてくれれば。赤い光がはじけるようにしてサルファーの真ん中に炸裂しているが、少し揺れるだけだ。

唸りながら、サルファーが口を開こうとする。

真上から、アッシュが蹴りを叩き込み、口を封じた。兵士達も、一斉に矢を射る。幾つかの矢が、傷口に突き刺さった。既にサルファーの体には、視認できるレベルの傷がかなり増えてきていて、それらには矢が刺さる。刺さったところで、ほんの少ししか、削れているようにしか見えないが。

しかし、完全に弾かれていたさっきまでとは違う。重くなればサルファーの動きも阻害されるのだ。

手を振り上げようとする、サルファー。

九つ剣のナンバーツーであるマーマン族の男が、高々と跳躍。恐らく水を用いる能力なのだろう。高圧の水流を、サルファーの腕にたたきつける。更に、ハツネの放った矢が、水を煙幕代わりに、サルファーの左から六十本、立て続けに襲いかかる。空中で軌道を変えた矢が、連続して爆発していく中、サルファーが揺らぐ。攻撃に出ようとするが、それがわずかに遅れる。

カウント、6。

フレイムが、此方を見ずに、迷い無く印を切った。

恐らく彼女が、全力をつぎ込んでのコバルトブルー。今までも手を抜いていたわけでは無いだろうが、残る力の全てを叩き込んでの一撃。

裂帛の気合いと共に放たれた青い光と、フレイムの叫びが、完全に同調する。

「おおおおおおおっ! 砕け散りなああっ!」

フレイムの、良く日焼けした全身が、真っ青のオーラに包まれる。

青い光が、サルファーの腕に到達した瞬間。その効果は発動した。

見る間に凍り付いていく、サルファーの右腕。先ほど、九つ剣二番目の流水を浴びていたから、更に強烈に効果が生じていたようだ。凍るだけでは無く、見る間につららが出来、結晶になり、ひびが入っていく。サルファーの全身にまで、霜が降りていく。

サルファーが手を鬱陶しそうに振るう。それだけで、氷付けになった腕が、即座に復帰。氷は粉々に消し飛んだ。

アマゾネス団の団員が、力を使い果たしたボスを支える。

カウント、9,10,11。

此処までは、想定の範囲内。兵士達が、今のを無駄にしまいと矢を放つ。サルファーが面倒くさそうに身を揺すると、それだけで矢が全て地面に叩き落とされた。更に、地鳴りのような音と共に、吹き荒れた爆風が、至近にいた兵士達を、まとめて薙ぎ払う。

だが、カウントは止めない。

コリンの全身も強かに風の洗礼を受けたが、それくらいは何でも無い。強化用の印を切り終えると、血を浴びながらも、コリンは立っていた。

「テラ……」

弧を描く。

魔島の中枢に、光の輪が出現する。それをなぞるようにして手を添えて、コリンは術式を展開した。

「ファイヤ!」

瞬間、まばゆい閃光が、魔島の全てを照らしていた。

サルファーの右腕が、超高熱の球体に包まれる。まさにそれは、新しく其処に作られた太陽。

テラファイヤの超絶的火力は、今此処に完全開放された。今までにもこの術は、サルファーのしもべとの戦いで、使ったこともある。

だが、今回のように、長時間詠唱をしたあげく、全力で展開したものではない。

全身が、削られていくのが分かった。

目を細める。コリンは分かる。これで、コリンは最後になる。マローネ、良かったね。もう虐められないで済むよ。

それにコリンも、今の境遇は気に入らなかった。だから、これでいい。

サルファーが、身をよじる。苦痛に、声を上げている。コリンを見る。大きく、口を開ける。

その時。

マローネの魔力が、コリンを支えるのが分かった。

あの馬鹿。力は取っておけと言っておいたのに。コリンは馬鹿だなと呟きながら、何故か心が温かくなるのを感じる。

だが、いずれにしても。サルファーが攻撃目標を此方に定めた以上、逃げる隙は無い。テラファイヤの全力展開で身動きが取れないコリンに、サルファーは、圧縮された闇の力を、叩き込もうとした。

アッシュが下あごから上空へ突き抜けるような一撃を見舞うが、間に合わない。

だが、その時。

巨大な影が、サルファーの後ろに具現化したのである。

ヴォルガヌスだ。

「ようやく出番じゃのう!」

エンシェントドラゴンが、その超越的なパワーで、サルファーの頭を無理矢理に押さえ込みに掛かる。

テラファイヤの火力が納まったとき、サルファーの右腕には、もはや隠しようが無い亀裂が、縦横に走っていた。

此処だ。

リエールが、風を纏って飛ぶ。

残る全ての力を、つぎ込んで。

まだ熱いサルファーの右腕に、全力でのチャージを決行する。灼熱が、風で急激に冷やされた事もあって、更にサルファーの右腕の亀裂が、見る間に拡大していった。

パティ達が、ここぞと空間ごと、傷を抉っていく。

サルファーが、身をよじって咆哮した。ヴォルガヌスも、そう長くは押さえきれないだろう。

更に言うと、サルファーの腕は、まだ引きちぎられていない。コリンが思った以上に、奴の腕は頑強だった。アッシュはサルファーの頭にラッシュを叩き込むので精一杯だし、ドラブは負傷者の後送を必死にやっている。フォックスは手持ちの死人を使い果たしたようで、増援を呼ぶのに躍起だ。

もう一回。

既に血だらけ。痛みも、臨界近い。

だがそれでも、コリンは術式を発動した。マローネが注いで来た、魔力を全部つぎ込んで。

テラファイヤの後に無理に発動した術だから、威力は大きくない。

だが、それでも。

空から投擲された極太の稲妻が、サルファーの右腕の関節部を直撃し、へし折るのには充分だった。

 

コリンが満足したように消えていく。

存在を維持できなくなったのだ。特に酷いダメージを受けた、魂滅に近い状態である。サルファーの両腕が、ついに折られ。その代償としての、消滅だった。

「マローネ! まだ戦いは終わっていないわ!」

 カスティルが、青い顔で、だが気丈に叱咤してくる。

マローネは頷くと、ヴォルガヌスに全力を注ぐ。此処だ。サルファーの汚染されきった魂は、胸の中央にある事が、既に分かっている。

「アッシュ! サルファーを抑えて!」

「任せろ!」

アッシュも、既に長時間の戦いで、限界をとうに超えているはずだ。

それでも、無茶をして頑張ってくれている。

ヴォルガヌスが舞い上がる。兵士達に退避するように指示。結局、戦場に間に合った九つ剣は二人だけか。

だが、それでも。戦線の維持には協力してくれているし、後方から兵が間断なく来られるのは、彼らのおかげだ。

「よおーし。 儂は全力でのブレスをぶち込めばいいんじゃな?」

「はい、お願いします!」

「よしっ!」

ヴォルガヌスの口に、光が集中していく。

サルファーのしもべを、空の彼方まで吹き飛ばした超火力が、完全開放される。それまで、二秒。

しかし、サルファーもそれを見て、流石に面白くないと思ったのだろう。空に向けて、散々鏖殺の猛威を振るった光を放とうとする。

「やらせるかっ!」

アッシュが、エカルラートの燐光を纏ったまま突入しようとするが、しかし。光の壁のようなものに弾かれる。

サルファーも、ついに本気になったという事か。

いや、本当にそうなのだろうか。どうも妙な違和感がある。本気モードになるのなら、左腕を失ったときに、どうしてそうしなかったのだろう。

だが、今は、この好機を逃すわけにはいかない。

全身の魔力が、吸い上げられていくような感触。舌打ちしたヴォルガヌスが、サルファーの殺戮光を相殺するような形で、ブレスを放った。

中途でぶつかり合った光が、それぞれに破壊の光を拡散し合う。

爆裂する炎の中で、しかし。サルファーは、即座に第二射の体勢に入る。ヴォルガヌスは低い位置から空に敵を打ち上げようと、着地。兵士達がどよめく中、第二射の体勢に入った。

マローネは計算する。恐らく保ってあと一回。

今日は消耗が凄まじいから、杖による増幅効果があっても、あと一回のブレスで、マローネ自身の魔力が枯渇してしまう。

そうなれば、終わりだ。もう、サルファーに決定打を与える手がなくなる。アッシュはもう、既に動けているのがおかしいような状態で、これ以上無理はさせられない。

「両腕がなくなりやがっても、さすがはバケモンだな」

負傷者の後送から戻ってきたドラブが、隣に歩いてきた。

彼も、戦闘初期からずっと頑張っていた一人だ。全身は酷く傷だらけで、既に立っているのが不思議なくらいである。

たくましいキバイノシシ族だとしても、限界はある。

「回復を……」

「不要。 ドラゴンの旦那が、ブレスを叩き込む時間を作れば良いんだな」

「マローネ、行かせてやれ」

ハツネが、ドラブを見据える。

彼女とドラブは、直接殺し合った間だ。ハツネとしては思うところもあるだろうに、しかし敢えてそう言ってくれる。

ドラブは軽く頷くと、腕を回しながら、サルファーに向け歩いて行く。

フレイムとリエールは、既に力を使い果たし、下がった。前線で戦っているラファエルも、もう限界だろう。

後方からは、まだ増援が来ているが、殆どは経験が浅い兵士ばかりだ。此処で押し切れなければ、一気にサルファーに盛り返される。

パティ達は。まだけなげに頑張っているが、どこまで戦えるか、分からない。

ドラブが歩いて行く。

待って、と声を掛けようとして。カスティルに、手を握られた。

カスティルは、ずっと以前より強くなっている。弱い自分に嘆いていた彼女の姿は、もう無い。

「サルファーッ!」

雄叫びを、ドラブが挙げた。

そして、全身に赤いオーラを纏い、跳んだ。

 

ドラブは、メガロクロッカスの力をフルパワーで展開しながら、サルファーに驀進する。もはや、語るべき事は無い。

マローネの事を、今もあまり良くは想っていない。恩はあるから、それを返さなければならないとは考えている。

しかし、それは義務というべきものであって、感情はむしろ逆方向を向いていた。

今でも、やはりマローネは好きになれない。

多分、あの娘の本音が見えているからだろう。誰にも好かれたいというのは、ドラブから見れば軟弱な考えだ。

強さの中にある弱さ。それは別に構わない。

だがマローネの場合は、心の深奥にあるべき強さが、自分に起因していない。それが、ドラブには気にくわなかった。

もう、サルファーは至近だ。アッシュの攻撃を二度、三度とはじき返した、光のシールドを展開している。

奴の両腕は既に亡いが、口を開けば最大威力の術式をぶっ放し、目を光らせれば下手をすれば島を消し飛ばしかねない殺戮光を放つことが出来る。未だ、兵士や、ヒラの傭兵隊員には荷が重すぎる。

口を、奴が開こうとした、その瞬間。

白狼騎士団の女騎士が、重力を操作して、その口を無理矢理塞いだ。鬱陶しそうに、腕を振り回そうとして、それが無い事に気付いたサルファーが、激高した。

目を光らせようとした瞬間。

空間転移したラファエルが、左目に剣を突き立てる。さっきまでも試していただろうが、しかし。

恐らく、光のシールドで、今まで目を守っていたのだろう。

剣は柄まで、サルファーの左目に突き刺さっていた。

だが、そのまま、抜けなくなる。

「ラファエル団長!」

「私はいい! 早くこの怪物に、全力でのブレスを!」

サルファーが地鳴りのような声を上げた。兵士達が槍で突いたり矢を放ったりしているが、いまだ光のシールドは健在。

其処へ、地面を潜って、地下から現れた巨影。

フォックスと、その操作する死人だ。地下を進むミミズのような死人に掴まって、フォックスが至近に出たのだ。

死人が、サルファーに絡みつく。そして、フォックスが、至近からサルファーの左目に、雷撃の術を叩き込んだ。

シールドにひびが入る。

「おおおおおおっ! ブッ飛べやあ!」

ドラブは、渾身の力を込めて、拳をシールドにたたきつけた。

激しい雷光が走る。恐らく、これは、シールドの構成要素か。笑ってしまう。こんなものでシールドを作る相手を敵に回しているのだから。全身を稲妻が蹂躙する。だが、ドラブは雄叫びを上げながら、更にパワーを上げた。

体中が燃える。内臓まで焼ける。

だが、それでもドラブは止まらない。それが、自分の生き方であると、示すように。

息を吐ききると同時に、ついにシールドが砕ける。

レイブが、走り寄ってくるのが見えた。

全身から煙が上がっている。能力を使いすぎたか。筋肉もずたずたになっていることだろう。

だが、ドラブは満足していた。

「よし、残った野郎共で、最後の攻撃を仕掛けさせ、ろ」

「団長!」

もう、ドラブは立てなかった。

好きな相手ではないが。

マローネがこの後やりきれると、ドラブは信じていた。

 

サルファーが、暴れる。死人がずたずたに引きちぎられ、肉塊になって吹っ飛んだ。フォックスははじき飛ばされつつも、別の死人を呼び、無様に地面で体を打つのを避けた。側には、ラファエルも着地する。

だが、もう一手、打たなければならない。既に周囲が見えていないサルファーが、無差別に攻撃をする事を、防ぐのだ。

フォックスは、全ての魔力を燃やし尽くす。

そして、光の鞭を作り上げた。

知らない相手と喋るのは苦手だ。ましてや格上の相手と話すのは。だが、やらなければならない。

意思さえ通じれば、それでいい。

「ラファエル、殿!」

「何か」

「これから、奴に何か打撃を。 私が、口を、無理矢理閉じさせる」

「既に剣は無いが……」

恐らく、サルファーの眼球の中で、剣は折れてしまったのだろう。ラファエルは力なくほほえむ。

だが、分かる。

この男は、やってくれる。

既に、ドラゴンはいつでもブレスをはける体勢に入っている。サルファーは目が見えなくても、それを確実に防ぎに来るだろう。

そしてマローネの消耗からして、ドラゴンのブレスはあと一回が限度だ。そして、あのアッシュというファントムの青年。

あれが、最後の最後の切り札になる。

印を切る。

魔力を使い尽くす覚悟だ。ラファエルが、サルファーの動きを、一瞬でも止めてくれれば、それでいい。

ラファエルが、空間転移を利用して、サルファーの至近に降り立つ。死人達も、もう殆ど残っていない。酷使して済まないと、周囲にいるファントム達にわびる。

だが、彼らはいつも、フォックスを支えてくれる。

こんな時でも、だ。

「すまない、皆。 いつも以上に、捨て石にするような扱いばかりをしている」

フォックスは、印を切る。

ラファエルが動く。ジグザグに走りながら、サルファーへの間合いを一息に蹂躙する。サルファーが、シールドを張り直そうとした瞬間。

死人の中で、既に稼働限界を超えたものを、一斉にサルファーの口の中に転移させた。

フォックスの能力、ヴィリディアン・カッパーは、死人を操作する能力。死体を継ぎ合わせて作ったものでも、ファントムを憑依さえさせれば、自由に動かすことが出来る。

サルファーが流石にはき出そうとするが。

しかし、無数の腐肉は頑強に抵抗し、サルファーの口の中で踏ん張り続ける。普通の生物であれば、窒息させられたかも知れない。

だが、サルファーは、その程度で屈するはずも無い。

舌か、或いは舌状の器官かは分からないが、それをふるって腐肉を口の中から掻き出す。否、舌の動きだけで、術式を発動できるらしい。

炎を吐くようにして、瞬時に死人を焼き払った。

すまないと言いながら、即座に次を投入。頭をふるってサルファーがいらだちを示す。そして、フォックスを見ようとした、瞬間。

サルファーの腹に、ラファエルが拳を叩き込んでいた。

ラファエルが肉弾戦をするのは初めて見た。そしてその拳から、広がる光の粒子。

サルファーの表皮は、鉄など問題にもならないほどの強度だが、それがひしゃげる。空間ごと、歪めたからだろうか。

サルファーが、空を仰ぐ。

口の中の死人を焼き払いつつ、体でラファエルを押しつぶそうとしたのか。否。体勢を低くして、フォックスを直に狙ってきたのだ。

至近。

ラファエルが出現すると、フォックスを担いで跳ぶ。

一瞬遅れて、空間を殺戮の光が薙ぎ払っていた。そして、その光は、完全にドラゴンからは外れていた。目を潰されていてもまだ殺戮の光を放てたことは驚きだが、しかし視力が無い事が、災いした。

ドラゴンが、ここぞとばかりに反撃。

全力でのブレスを撃ち放つ。魔力を使い切った上に、手札も全て使ってしまったフォックスは、それをしばし虚脱しながら見やるしか無かった。

サルファーの殲滅の光に勝るとも劣らない光が、奴の巨体を飲み込んでいく。

傷口が更にめくれ、そして胸に腹に、傷が入っていく。

よし。もうフォックスは、それを言う事しか、余力を残していなかった。

「助かった。 礼を言う」

「……そうか」

フォックスが、ラファエルにそんなことを言われて、どう答えて良いか分からなかった。

礼など言われたためしがなかった。

悪霊憑きと言われて、依頼主からも嫌われ怖れられて。マローネの境遇が羨ましいと思ったことは一再では無い。だがあのようにはなれないとも思っていた。

だから、どうしてか涙が出る。

ラファエルも力を使い果たしていたらしく、フォックスを下ろすと、膝を突く。

そして、二人で、煙を上げながら絶叫するサルファーを見た。

 

ついに、サルファーの全身に、鋭い亀裂が走り始めた。

アッシュは、マローネに言われている。

胸の中央にある、サルファーのコアに触るだけで良いと。

さっきから、マローネは七度以上、サルファーにコミュニケーションを試みているという。

マローネと魔力でリンクしているアッシュが、直接サルファーのコアに触れることが出来れば、今までに無く濃いリンクをつなげることが出来るという。そうなれば、一気に勝負を決められる可能性も高いと、マローネは言っていた。

マローネは嘘をつかない。

人のためになる嘘をつくことはある。一度そうして、酷く傷ついていた。

だが、そうでない嘘は、絶対につかない。一緒に暮らしていたアッシュだから知っている。

ハツネの支援砲撃が、アッシュを追い越していく。何度となく、サルファーの傷口に直撃する。

既にファントムに戻ったヴォルガヌスを横目に、アッシュは、残った全ての力を、エカルラートに転換した。

サルファーが、血まみれの、いや腐汁まみれの口を開き、アッシュを見る。否、血を流している目を、此方に向けてくる。

もう一度、殺戮の光を、放ってくるつもりか。

だが、その顔面に、一度ならずハツネの矢が炸裂する。しかも数本は、傷ついた目に直接飛び込んだ様子だ。

流石に揺らぐ白い巨体。

至近。アッシュは、残る力の全てを込め、踏み込んでいた。

地面に、かってないほどに、巨大なクレーターが出来る。その反発力をフルに使って、サルファーを天に打ち上げる。

音の速度を、超える。

音の壁を突き破りながら飛ぶサルファーに追いつく。もう、力が、殆ど残っていない。というよりも、ゼロになったのを、無理矢理引っ張り出している感触だ。だが、消えてしまっても、いい。

マローネは、サルファーを倒せば、英雄になる。

英雄になったからといって、楽に生きられるなどと、アッシュは思っていない。だがそうなれば、マローネの周囲には多くの理解者がいる現在なら。しかも、その理解者が、権力者に複数いる状態なら。

それに、アッシュは知っている。

マローネが、自分の事を、好きだと。

それではいけない。

死人を好きになっても、子供を作ることだって出来ないし、未来も無い。マローネが子供達に囲まれることも無く、夫に愛されることも無く、老いていくのは見たくない。

アッシュはサルファーを倒し、適当なタイミングが来たら、輪廻の輪に戻るつもりだ。

マローネの周囲には強力なファントムが多数いるし、本人の魔力も十二分に凄まじい。自分の身だったら、充分に守る事が出来る。

回転しながら、サルファーを蹴り落とす。

渾身の一撃だが、もう足に感覚が無い。音速から、逆方向に倍以上の速度で撃ち落とされたサルファーは、全身から炎を上げながら、落ちていった。

地面に着弾したサルファーに、更に、最後の力を込めた拳を叩き込む。二発、三発。罅が、全体に入っていく。

だが、その時。

サルファーが、首をねじ曲げ、口を開くのが見えた。

もはや、アッシュには、振り上げた拳を下ろす力も、かわす余力も無い。

それは周囲も同じだ。兵士達は多く走り寄ってきているが、サルファーの攻撃を止める事が出来る使い手は、もはや一人も残っていない。

万事休すか。

その時、アッシュの前に、立ちふさがる人影が、一つ。

長身の人間族であるそいつは、極めて不機嫌そうに、満身創痍の己の体から、炎のオーラを噴き上げた。

 

まるで羽虫のようだと、ウォルナットは自嘲していた。

スプラウトがサルファーに乗っ取られた直後まで、意識がもうろうとしていた。サルファーに慰められさえした。

我に返ったのは、その後。

人類側の総攻撃が開始され、サルファーが本腰を入れて対応しはじめた辺りから、である。

泥まみれになって転がっていたウォルナットは、それこそ這うようにして逃げ出した。

誰もが、それこそ子供さえ、逃げずに戦っているのに。

足が動かない自分の妹が、其処に来ている事さえ、分かっていたのに。

這って、転がって、必死にウォルナットは逃げた。大小を漏らしさえしていたかも知れない。

もはや、得体の知れない恐怖で、全身が溶けるようだった。

サルファーは、それからも語りかけてきていた。否、それがサルファーなのか、自分を慰めるための譫妄なのかさえ、ウォルナットには分からなくなっていた。岩陰に飛び込んで、頭を抱えて蹲ったとき。

気付いたのである。

自分をゴミのように見つめる、ウサギリス族の暗殺者に。

「まさか、此処までの意気地無しだとは思いませんでしたよ」

「う、うるせえ……」

お前だけには言われたくねえ。そうウォルナットは絶叫したが、分かっていた。それが如何にむなしい叫びかは。

奴は鼻で笑うと、すぐに消えた。目的があるのだろう。

何度か地響きがした。それだけとんでも無い次元での戦闘が行われている、という事だ。空を迸った光線が、遙か遠くの海を爆裂させるのを、何度も見た。サルファーが、文字通りの破壊者だと、今更ながらに思い知らされる。

頭が冷えるなどと言う次元では無い。

サルファーの本当の恐ろしさを見て、ウォルナットは体内の水分を全部小便にして垂れ流しそうだった。

カスティルは。

それに、パーシモンは。

このままだと、確実に死ぬ。カスティルはあの光線で焼き払われて。パーシモンは多分クロームギルドの人員を率いて島に来て、そこで手も足も出ずに捻り殺されるか、或いはサルファーが乗り込んできて、それにさえ気付かれずに焼き殺されるか。

畜生。

叫んで、拳を地面にたたきつける。

嗚呼、カスティル。

もう笑顔は見られないと、諦めてはいた。覚悟は決めていた。

だが、この姿を見たカスティルは、どう思うだろう。多分、道ばたの犬の糞でも見るように、ウォルナットを蔑むだろう。

それは別に良い。兄としての矜恃など、とっくに地面に投げ捨てたからだ。

だが、カスティルが生き残った場合、どうなるだろう。ウォルナットがしていた支援の事は、きっとばれる。

そんなクズ兄貴の支援で生きながらえた命なんてと、カスティルが自死でもしたら。

頭をかきむしる。

誰かに嘲笑されている。

サルファーだろうか。

分からない。ただ一つ、分かったことはある。

このままでは、死ねない。

ウォルナットは、これ以上も無いほど情けない有様を晒した。誰の前にも、顔を出す資格が無い。

だが、それでも、このまま死ぬ事だけは、最後に残ったプライドが、許さなかった。

走る。

まだ、わずかに力は残っている。ソロモンを殺して、それから殆ど休んでいなかったが、まだ蓄えはある。

何度も転び掛けた。

考えを変えて、何度も逃げようかとさえ思った。それでも、必死に走る。

カスティルとずっと会っていなかった。だから、カスティルが、自分を軽蔑しているかも知れないとは思っていた。

だが、それでも、ウォルナットには、カスティルが全てなのだ。

何があっても、死なせたくは無い。

ひたすらに走り、息を切らして、汗を飛ばして。

ついに、サルファーが見える。

サルファーは両腕を落とされ、既に全身が傷だらけだった。これなら、きっと勝てると一瞬思ったウォルナットの至近を、サルファーが放った光線が通り抜ける。全く威力が落ちていない。

呼吸を整えながら、胸郭の中を跳ね回る心臓を落ち着かせていく。

サルファーが、空に打ち上げられ、地面にたたきつけられる。地震のような衝撃が、此処まで来る。

ウォルナットは走った。今の攻撃を繰り出したアッシュが、もう限界なのは、見ていて分かったからだ。

それに対して、サルファーはあれだけ攻撃されても、まだ余裕が見える。同調したから分かるのだ。奴の削られた体なんて、まだまだ一部に過ぎない。その気になれば、サルファーは時間さえ掛ければ、失ったパーツを難なく再生するだろう。

サルファーの胸に拳を叩き込もうとするアッシュ。

其処へ、サルファーが顔を向ける。

恐らく、使おうとしているのは、空間をねじ曲げる術式だ。もういっそ、空間の裂け目に、相手を追放してしまおうというのだろう。

果てしない恐怖を感じる。

だが、それでもウォルナットは、サルファーに向け叫んだ。

「サルファーッ!」

「どうした。 その男を殺せ。 戻ってきたのなら早くしろ」

頭の中に、直接声が響く。

威圧的で恐ろしくて、それだけでまたウォルナットは漏らしそうだった。先ほどの、悪事をそそのかす猫なで声とは違う。

サルファーは、ウォルナットが裏切ったことに、怒りを感じている。

「うるせえっ! もう、てめえなんかにはしたがわねえ!」

「ほう。 裏切るというか」

「アッシュだったな! さっさとやれ! 此奴は、俺が押さえ込む!」

全力で、残る力を燃やす。

サイコ・バーガンディの火力が、ウォルナットの潜在能力を、全て、余さず引きずり出す。

そして、サルファーが既に抉られて血を流している目を剥く。

たとえ復讐の相手ではないと分かっていても、この炎のオーラには、憎しみを感じるのだろう。

叫びと共に、サルファーが、空間をねじ曲げる術式を発動したとき。

ウォルナットは上空高々と飛んでいた。

そして、拳を、サルファーに向けて打ち下ろす。その先が、暗黒の空間であっても、もはや悔いは無かった。

一瞬だけ見えた。

呆れているだろうなと思ったカスティルは。ウォルナットに気付いていた。

涙を流して、手を伸ばしていた。馬鹿な。クズの兄貴に呆れ、さっさと死ねと思っているに違いないと感じていた。

それだけではない。ウォルナットは、カスティルに、口には出せないような下劣な思いを抱いていた。

闇に飲まれながらも、ウォルナットは、一瞬でもカスティルを見失った自分を恥じた。そして、守り抜くことが出来た事を誇った。

そのまま、満足して、ウォルナットは闇の底へ落ちていった。

 

2、サルファーの救済

 

ウォルナットが、体を張って作ってくれた時間を、アッシュは無駄にしなかった。

アッシュが、サルファーの体を砕き、拳を叩き込んだことで、ついにマローネはサルファーの魂へ、直接コンタクトを試みることに成功した。

既に、何度もコミュニケーションを図って、失敗している。

だが、マローネには、何となく、どうして失敗したかは分かっていた。

これが、最後のチャンスだ。

マローネは意識を集中すると、アッシュを介して、サルファーの中枢と、意識をつなげた。

何度か失敗しかける。

だが、側に立ったミロリが、周囲の音を遮断する術式を掛けてくれる。

「俺にはこれくらいしか出来ない。 頼む」

「ううん、とても助かったわ」

マローネは、ミロリが如何に奮戦していたかを知っている。

前線で戦っているファントム達に力を注いでいるマローネが集中できるように、次から次へ現れる悪霊達を排除し、体を張って近づけないようにしてくれていた。

ミロリは、マローネの事を、本気で守りたいと思ってくれていた。だから、気がついたのだろう。

マローネは、無音の中、最大に意識を絞り込む。

そして、世界でもっとも汚染された魂の中に、自らの意識を投入させていた。

 

泥の沼に飛び込んだような感触だった。

リレが言っていた。サルファーは、数十億人分の悪意を、数百年も浴びたような魂だと。それは、この世界が出来てから、最も汚染された魂に等しいのだと。その言葉が誇張で無かったのだと、意識をサルファーの魂につなげてみて、よく分かった。

瞬時に押しつぶされそうな闇が、周囲に充ち満ちている。

これが、サルファーの心象風景だというのか。マローネも地獄を見てきたが、それなどまだ生やさしかったのかも知れない。

マローネには優しいお父さんとお母さんがいたし、支えてくれるアッシュやファントム達もいた。

迫害はいつもどこでもあったが、それでもがんばれる、心の支えになるものが、確かにあったのだ。

この魂は、違う。

支えも無く、目標も無く、何のために生きてきたのかさえ分からず。その上、徹底的に陵辱され、蹂躙されたちいさな心。

吐き気がこみ上げてきた。人間は、主観で、此処まで人の尊厳を汚すことが出来るというのか。

魔王が人を滅ぼす理由に、充分値するかも知れない。そうとさえ感じさせられる。

だが、マローネは、死にたくない。生きたい。みんなに好きになって欲しい。誰の心にも光があると信じているし、間違いを犯して闇が生まれるとも考えているからだ。それに何より、この泥濘の地獄から、サルファーを救いたい。

深く深く、闇の中に潜っていく。

時間の感覚は無い。恐らく、殆ど過ぎてはいないだろう。

無数の手が伸びてくる。

足を捕まれる。腕を取られる。離して。叫ぶと、木っ端みじんに砕けた。マローネの生体魔力が、押しのけたのだ。魔力が高まっているだけあって、魂も強くなっているようだった。

自らの体が、うっすら光っているのが分かる。

闇の中、自分から発せられている光だけが頼りだ。ひたすら、深く、深く潜っていく。やがて、少しずつ、声が聞こえるようになった。

それまでも、何かしら悪意に満ちた声はあった。

だが、聞こえてくるこれは違う。か細くて、弱々しくて。ただの呼吸音に思えた。

実際に泥沼の中に潜っているわけでは無い。悪意に汚染された魂の深部に、意識を通そうとしているだけだ。

だが、不思議なイメージと共に、周囲の光景が見えてくるような気さえある。

マローネは、奥へ奥へと、下へ下へと潜る。

これでも、海で育ったのだ。水泳は得意である。しかし、当然のことだが、潜れば潜るほど、闇は濃くなっていく。

ただし、体は暖かい。

側で支えてくれているファントム達と、カスティルと、ミロリのぬくもりだ。

マローネは、更に深く潜る。

聞こえてくる。これが、きっとサルファーの、本当の息づかいだ。今まで接してきたのは、多分サルファーの声では無い。

サルファーの周囲を覆っていた、おぞましいまでに濃い悪意。

悪意の中には、意思を持つようなものもあったのだろう。サルファーは、その悪意に、何重にもフィルタリングされた意思しか、外に漏らせなかったに違いない。

何となく、分かる。一番深いところについた。

手を伸ばす。

どす黒い塊。人の形は、している。

だが、肉の塊そのものだった。どうやら顔らしいものがあり、手足らしいものがあるとしか分からない。

大きさは、それほどでもない。

カスティルに聞いた英雄達の物語では、悪役は、みな醜く書かれていた。そんな悪役そのものの姿が、此処にある。

先ほどまで戦っていた全力のサルファーは、人の骨の形をしていた。

それは、きっと。この、本当のサルファーが、唯一人に対して、さらけ出す事が出来る姿だったから、ではないのか。

何もかもが、常軌を逸する次元で迫害されていたサルファーの悲しみから生まれたのだとすれば、説明がつく。

サルファーには人格が無かったのでは無い。

最初から、悪意だけが、彼を動かしていたのだ。

この魂を浄化するのは、尋常では無い苦労を必要とするはずだ。強制的に引きはがすことは、出来る。する自信はある。

その場合、魂から引きはがされた超高密度の悪意は、しばらくこの島を汚染し、無数の悪霊を生み出すだろう。それは定期的に退治して、長いことを掛けて対処していかなければならない。

魂を浄化する場合はどうか。

その場合も、結果は同じだ。これだけの膨大な悪意、かき消す手段など、存在するはずもない。

パティ達に手伝ってもらって少しずつ削り、分散して異世界に飛ばすしか無いだろう。幸い悪意の欠片だけだったら、それほど大きな災いは起こさないはずだ。

「サルファー!」

「おまえは……」

「私はマローネ。 貴方を、助けに来たわ」

「ぼくを、たすけに?」

アンセレットと、聞いたことの無い名前を、サルファーが呟いた。

知らない人だ。

だが、ぴんと来る。サルファーは、これほど深い絶望に落ちている。という事は、彼に希望を見せた存在がいるのでは無いのか。最初から希望を知らなければ、此処まで深い闇に、心を溶かす事は無いだろうから。

一片の希望も無い世界であれば、むしろ最初から諦めてしまっていて、悲しむそぶりさえ見せないものなのだ。

しかしサルファーには、明確な悲しみがある。

闇を、振り払う。サルファーの周囲に近づく悪意も。可能な限り、魔力をぶつけて、追い払う。

「アンセレット。 それが、あなたの大切な人ですか?」

「ぼくの、たいせつな。 そうだ、おまえたちが、ひさんなころしかたをした……」

そこに浮かんでくるのは、怒りでは無い。

やはり悲しみだ。サルファーという存在は、悲惨極まりない生活の中で、それでも優しい心を持っていたのだ。

否、むしろ優しい心があったからこそ、完膚無きまでに蹂躙されてしまったのだろう。だが、そんな優しさを持っている事に、気付いた人がいたのだ。

それは、救いだったのでは無いのだろうかと、マローネは思う。ただし、アトランティスの人達は、その救いさえ、無惨に蹂躙したのだが。

「私も、悲しいわ」

「何故、おまえが悲しむ」

「私も、あなたと同じように、迫害されて育って来たから。 私だって、一歩間違えば、誰にも支えられずに、いや支えてくれた人達を失って、世界を恨んでいたかも知れないから」

サルファーが、顔を上げる。

アトランティスの人達が、醜い、気持ち悪いと、迫害した理由が何となく分かる。

完全につぶれてしまっている顔は、もう人間の造形では無い。奇形では無いのかどうかは分からないが。

だが、それを、マローネは気持ち悪いとかおぞましいとかは感じなかった。

むしろ、醜いからといって迫害を正当化する人達の心の貧しさを、哀れむばかりだった。アトランティスの人達は、今此処に呼び出したら、こう言うだろう。気持ち悪いし、汚いし、臭かったから、迫害した。迫害することは正しかった、と。

だがマローネは反論できる。

そんな考えをしているから、貴方たちは滅んでしまったのだと。

きっとアトランティスの人達は、肌の色が違うとか、髪の色が違うとか、目の色が違うというような理由で、相手を迫害して、あまつさえ殺す事だって平然と出来たのだろう。ミロリに聞いた、始祖の世界の人間が、そうだったという話だ。

マローネは、そうはならない。絶対にだ。

「貴方を、生き返らせてあげることは出来ないわ。 でも、貴方を悪意から解放して、輪廻の輪に戻してあげることは出来る」

「ぼくは、なにもいらない」

サルファーは、興味が無さそうだった。

無欲で、優しい心を持っていたのに。容姿で全てを否定したアトランティスの人達は、一体どれだけ心が貧しかったのだろうと、マローネは二度も三度も悲しくなった。

サルファーに触れる。

魂に触れて、直接暖かみを与える。サルファーは興味が無さそうだったが、少なくともマローネが臆すること無く触れてきたことを、いやがるそぶりは無かった。

「ぼくは何も欲しくなかった。 いらなかった。 気持ちが悪い姿をしているというのは、それほどに重い罪なのか」

涙がこぼれてくる。

そして、そのサルファーを徹底的に迫害しただけではなく、死後も侮辱することになった、世界の、運命の悪意にも、マローネは悲しみを感じていた。

マローネだって、一歩間違えれば、そうなっていたのだから。

「それは、おれたちの、ものだ」

「かえせ。 それはおれたちの、にんぎょうだ。 おれたちだけが、なぶっていいんだ」

周囲から聞こえてくるのは、サルファーが今まで取り込んできた悪意。

悪魔達の、人間達の。

ハツネが悪魔にも色々いると言っていたが、中にはこの世界の人間よりもタチが悪い悪意を持っている者達がいたのだろう。

おぞましいまでの、ストレートな悪意。

全てを蹂躙して、好きなように歪めてやろうという意思が、直接伝わってくる。

マローネは無言で、魔力を放出して、それらを蹴散らす。

いつまでも追い散らせはしないだろう。

ヴォルガヌスのブレス二回、皆の全力での魔力支援、杖のサポートがあったとは言え、マローネの魔力も、枯渇が近い。

「もう、楽になろう。 サルファー」

「楽になれるのか」

「来世があるのかは分からないけれど、貴方の地獄を、此処で終わらせることは出来るわ」

「アトランティスの奴らは、報いを受けるのか」

もはや、ただの一人だって生きていない。

そう告げると、サルファーは、そうかと言った。悲しそうでは無く、恨んでいる様子も無い。

ただ、そういうものかと、理解した風な口ぶりだった。或いは、悟ったのかも知れない。別に超自然的な行いが会ったわけでも無く、神の干渉があったわけでもなく。滅ぶべき文明が、滅ぶべくして滅んだのだろうと。

それには多くの悲劇が伴った。文明が全て消えたわけでも無い。だが、サルファーが汚染されつつも保っていた未練は、これで消えて無くなったはずだ。

悪意との結びつきが、確実に溶けていく。

無数の悪意が、悲鳴を上げるのが分かった。これこそが、本当に忌むべきもの。人間でも悪魔でも天使でも同じ。皆が持ち、そして弱者を破滅させていく、おぞましき諸悪の根源。

闇の中の闇。マローネが、拒絶するべきもの。

マローネは、サルファーを守るようにして、まだ侵食を諦めていない悪意の波動を、魔力で押しのける。

光が、サルファーの魂を包む。

少し足りないかと、不安になった。だが、すぐにその不安は晴れていく。

マローネは、魔力が流れ込んでくるのを感じる。カナン。それにパレット。残った力を、全て回してくれている。

それだけではない。

恐らく九つ剣の人達だろう。魔力が、どんどん送られてきている。マローネは、事前に打ち合わせた術式を展開。

サルファーの魂を、彼を包んでいる膨大な悪意から、切り離しに掛かった。

「ああ……ぼくをむかえにきてくれたんだね」

サルファーが、涙を流しているのが分かった。

誰かが迎えに来たのかも知れない。アンセレットという人だろうか。ファントムの姿はない。そうなると、サルファーは幻覚を見ているのかも知れない。

だったら何だと、マローネは思う。

たとえ幻覚の中でも、幸せを見る権利くらいはあるはずだ。現実ではないといって、サルファーを嘲弄する権利は、どこの誰にだって、無い。

悪意から、切り離した魂を、浄化する。

膨大な悪意に汚染された魂を浄化していく。バックアップされる魔力があっても、とんでもなく苦しい作業だった。

だが、やりとげる。

この世界の人達のためにも。

何より、世界で最も悲惨な運命に晒された魂を、救うためにも。

マローネは、全ての魔力を、サルファーを救うために注ぎ込んでいた。

 

マローネが目を開けると。手には、完全に浄化された魂があった。

そして、サルファーの体は。

溶け始めている。まるで、今までの堅さが、夢の話だったように。

否、これは本当に、夢だった。一人の弱者を痛めつけることで社会を維持した文明の残した、悲劇で作り上げられた悪夢だったのだ。

パティ達が、悪意の塊を切り取って、別の世界に、或いは知らない空間に飛ばしていく。

悪意なんて、どこにだってある。

あれだけの規模で、塊で無ければ、すぐに無害化していくだろう。周囲には、揃った九つ剣の人達と、戦いの中でずっと勝利に向けて進んでくれた傭兵団の団長達。

そして、マローネとずっと戦って来たファントム達や、それにこの戦いのためにはせ参じてくれた兵士達やクローム達が、みんないた。

巨大な魔法陣は、九つ剣の術者が展開してくれたらしい。

一人だけ、いない。

カスティルが、涙を拭っている。マローネも、まだ涙が流れているのを理解していた。ウォルナットが、最後にサルファーの気を引いてくれたおかげで、アッシュはサルファーの中核にまで、一撃を届かせることが出来たのだ。

ウォルナットは、最後の最後で、世界のためにエゴを捨ててくれた。

エゴの怪物だったウォルナットも、最後に変わってくれた。

カスティルの様子からして、関係があったのだろう。或いは、ウォルナットの大事な人は。

ウォルナットの本当の名前は、やはりフェイディットと言ったのだろうか。

ほどなく、サルファーは完全に消えて失せる。

勿論、魔島はしばらくの間、濃厚な悪意と、その影響に晒され続けるだろう。人が住めるようになるには、何百年も掛かるに違いない。

だが、終わった。

終わったのだ。

「一度戻ろう。 負傷者も多いし、この島は安全とは言いがたい」

「撤収! 負傷者、死者を回収して、速やかに海岸にまで下がれ! 余力のある者は、最後尾で支援!」

てきぱきと、モルト伯の部下である老騎士が動き出し、撤退が始まる。

マローネは、カスティルの手を引いて、言う。

「帰ろう、カスティル」

「……ええ。 兄さんの様子を見て、分かったわ。 貴方をずっと苦しめていたウォルナットという人は、兄さんだったのね」

「孤独の中で、ウォルナットさんは、きっと自分を保つのに必死だったんだわ」

カスティルは、ずっと涙を流し続けていた。

マローネも、悲しかった。ウォルナットは、自分がたどり得た末路の一つだったのだから。

かくして、長い長い戦いは終わりを告げる。

幾多の魔界を滅ぼし、人類の原罪であり、破壊の権化であったサルファーの消滅とともに。

 

暗殺者フィランゼは、舌打ちしていた。

結局、父を暗殺することが出来なかった。隙は何度かあった。だがその度に九つ剣が到着したり、サルファーの反撃があったり。

近づけなかったのだ。

だが、何だかおかしな気分である。これでよかったのかも知れないと、思えはじめていた。

父は死ぬ。

今回の指揮は、それこそ死力を振り絞ったものだった。

戦士としての勇者がマローネだとすれば、指揮官としての英雄は間違いなく父だ。しかし、父は老齢で無理をしすぎた。程なく死ぬだろう。

フィランゼが見たくなかったのは、英雄である事を否定し、老いさらばえていく父。

だから、英雄として殺しておきたい。そう思っていたのだが。

どうやら、手を下す必要も、無くなった様子である。

サルファーがいなくなった後、この世界はどうせ平和になどならない。利権ががんじがらめに絡み合い、貧富の差は大きく、社会的な矛盾は限界に近い。

フィランゼが生きる場所は、今後もいくらでもある。

そう思えば、勝ち残ったのは、フィランゼなのだと言えた。

笑いが漏れてくる。

マローネを殺そうとは思わない。あの娘は、政治にも社会にも興味が無い。シンボルとしての英雄視される事はあっても、担ぎ上げられることも危険視されて排除されることも無いだろう。勿論そうしようと考える馬鹿はいるだろうが、マローネは実力でそれを排除できるはずだ。

いずれ忘れ去られる英雄。そう、フィランゼは見た。

それに対して、父は末代まで語り継がれる。それだけ多くの人間を動かして、サルファー討伐の音頭を取ったのだから。

それで充分だ。

フィランゼはサルファーがいた場所をもう一瞥だけすると。

誰にも見られないまま、魔島を後にした。

こういう勝ちもある。そう考えながら。

 

獣王拳団の一員としてずっと戦っていたビジオは、中衛から後衛で、経験が浅い兵士達を守りながら走り回っていた。

空では魔王とやらが、もの凄い勢いで飛び回って、悪霊を撃墜し続けている。ビジオはすげえと思ったが、それ以上のことは出来なかった。

昔は、色々とあった。

今は、腕力を生かして、兵士達を守る事が出来ている。獣王拳団にも居場所が出来た。だから羨ましくないし、妬ましくも無い。

そして、悪霊達が逃げ出し、或いは消えていくのを見て、悟ったのだった。

勝った。

マローネが、やったのだと。

「やった! マローネさんがやったぞ!」

無邪気にビジオが叫ぶと、周囲の兵士達が、徐々に喜びの顔に変わっていく。

荒れ地に、頭を抱えて蹲っていた兵士も。血だらけになって横たわっていた兵士も、歓声を上げはじめた。

嗚呼。俺は、今歴史を目撃している。

かってマローネに救われて、そして今では、その栄光を見ている。

マローネの栄光は、自分の事のように嬉しい。歓声を上げる周囲に合わせて、ビジオは落涙していた。

撤退が開始される。

ビジオは負傷した兵士達を一度に何人も背負って、海岸に向かった。

途中、オウル族の記者と出会う。目つきが鋭い人物であった。

「ほう、君は獣王拳団のビジオだな」

「俺を知ってるんすか?」

「ちょっとした縁でね。 歩きながら、軽く質問に答えて欲しいが、良いか」

「良いっすよ!」

マローネが如何に凄い奴か、ビジオはそれから聞かれてもいないのに、ずっと話し続けた。

苦笑していた記者だが、しっかりメモは取ってくれていた。

今日は、きっと人生最良の日だ。そう、ビジオは感じていた。

 

3、顛末と行方

 

ラファエルが見舞いに行くと、スプラウトはもう意識を取り戻していた。胡座を組んで座り込んだ後、気がつくと意識を失っていたらしい。最後の意地、だったのだろう。どんな超人的な精神力でも、限界はあったのだ。

話はヒーラー達に聞いていたらしい。しょげているのかと思ったが、そうでもない。むしろ、自分に腹を立てている様子だった。

「来たか、ラファエル」

「名前を呼んでくださいますか、師よ。 いつぶりでありましょうか」

「もう儂は目的も何も無い、ただのくたびれた爺よ。 九つ剣筆頭を、若造呼ばわりも出来まい」

流石に頑健なスプラウトの肉体である。ヒーラー達が、年齢としては考えられない回復だと驚いていた。

だがそれでも、全身は包帯まみれである。生死の境も、数日はさまよったそうである。戦況を、最後まで見ていたラファエルから細かく説明する。スプラウトは、自分が見ていない戦場についても、すぐに飲み込んで理解した。

話し終えると、一刻近くが経過していた。

スプラウトは、しばらく口を開かなかった。

彼の家族を全滅させたサルファーが、どういう存在であったかは、うすうすと知ってはいたのだろう。

目に入れても痛くなかった孫娘が惨殺されたことで、スプラウトは壊れてしまった。しかし、諸悪の根源であったのは、サルファーと言うよりも、むしろ周囲の存在だった。膨大な悪意は分散されて、無数の世界に消えた。

もはや、スプラウトが憎む相手は、いなくなってしまったのだ。

「……何だかむなしいな。 それにしてもあのマローネという娘、やりおったか」

「本当に見事でありました。 サルファーが滅びた今、九つ剣は過去の称号とされる予定です。 今後は残しておいても政治的に利用されるのが目に見えていますが故」

「そうであろうな」

モルト伯は、長くは保たないだろうと、ラファエルは言う。

帰ってから、すぐに体調を崩したそうだ。無理も無い話である。あれだけの戦闘を、魂を削るようにして指揮し続けたのだ。

医師達も、あまり長くは無いだろうと言っている。

跡取りは当然いる。ただし平凡な男だ。

今後放置しておけば、イヴォワールは短い平和の後、恐らく統一に向けての戦乱が始まる。有名無実化している王族の代わりに、支配者となる事をもくろむ貴族が現れるのは確実だ。

モルトの名を、暴君の血で汚すことは、ラファエルも好ましくないだろうと思う。

「くだらん話だな」

「今、天界の代表者と話をしているところです。 実質的な統治能力が無い王族を貴族達が支えて連合政権を作るにしても、何かしらの後ろ盾が必要になります。 天界は人間世界への干渉を禁じておりますが故に、軍事力と言えば、候補は少数しかありません」

たとえば、マローネだ。

今、サルファーを倒したことを、秘密にしようという話さえある。イヴォワールが混沌の中、最低限の秩序を保っていたのは、悪しき存在の究極としてサルファーがいたからだ。人間同士の戦争は御法度になっていたが、それはサルファーに抵抗できなくなるからである。傭兵団同士での争いの禁止も、それにおおむね準ずる。

サルファーがいなくなれば、傭兵団もクロームも、弱体が進むことは確実だ。

「つまり、サルファーは死んでいないと、思い込ませるということか」

「そうです。 ただしそうなると、サルファーに近い存在を、何年かに一度、呼び込んで適当に暴れさせる必要があるでしょうが」

「人間の業は、ひょっとするとサルファーよりもタチが悪いのかも知れんな」

「いずれにしても、後は私がモルト伯と相談して決めます。 マローネにも、出来るだけ負担が掛からないようにいたしますがゆえ、師はお休みください」

「ふん……」

スプラウトは面白くも無さそうに、寝返りを打つと、視線をそらしてしまった。

病室を出る。

此処は富と自由の島の、バンブー社本社ビルのすぐ側にある医療施設。本社ビルはそろそろ復旧が完了する事もあり、活気が戻りはじめている。有名な医師も、何名も努めていた。

もう一つの部屋を見舞う。

カスティルが入院している部屋だ。

彼女は紛れもなく、今回の作戦の成功を導いた立役者の一人だ。パティ族の住む緑の守人島は、永続的な開発禁止が既に決定されている。また、カスティルには膨大な報酬金が支払われ、なおかつ体の治療に、完璧なまでの医療体制が組まれることになった。

医師達に話を聞いているが、既にマローネの側にいたファントムのカナンの話から、完治の目処はついているという。

要するに、カスティルはかなり負担が大きい能力の持ち主であり、それがひ弱な体をむしばみ続けていた、という事だったそうなのだ。

だから、いかなる治療も、効き目が無かった。対処療法しか出来なかったのは、それが原因だ。

能力に関しては、サイコバーガンディの可能性が極めて高いという。彼女の兄も同じ力を持っていたという事で、なるほどあり得る話だ。この能力は、遺伝する可能性が高いという。二人とも、何かしらの形で、スカーレットと血がつながっているのかも知れなかった。

今は能力の発現を抑える薬を一種類ずつ試しているそうだ。これが効果を見せたら、リハビリをして体を鍛え、能力を使っても大丈夫なまでに頑強な肉体を作る。そうなれば、薬も必要なくなる。

それらの説明を、カスティル自身がしてくれた。

「なるほど、それならば、そう遠くない未来、外に出ることが出来そうだね」

「はい。 外に出たら、マローネとモカと一緒に、兄さんを探します」

カスティルは、少し影のある笑顔を浮かべた。

最終決戦、下劣な行為を繰り返し、マローネを死なせかけたウォルナットは。最後の決め手となる一手のために、自ら捨て石になった。

生きているとはとても思えないが、展開されたサルファーの術式は、空間の裂け目に相手を放り込むというものだったと聞いている。それならば、イヴォワールでは無い別の世界に、生きているかも知れない。

医師達につれられて、カスティルがリハビリに行く。

体が頑強であればあるほど良いと、彼女は言われているそうだ。今はまず歩けるようになるのが、目標だとか。

もしも彼女が、能力を使いこなせるようになったら。この世界最強の戦力を持つマローネが側にいることもあり、勇者と呼ばれるようになるだろう。

そうなれば。

ラファエルは首を振って、嫌な予想を追い払う。

これから二十年程度なら、恐らく平和は続く。小規模な戦乱程度なら起こる可能性があるが、その程度なら対処は出来る。その間に、ラファエルとモルト伯で、対策は整える。

彼女らが、手を血に染めなくても良い未来を、今のうちに準備しておかなければならなかった。

外に出ると、フィルバートが待っていた。護衛の槍使いの傭兵と一緒である。

彼はマローネの詳細な記事が評価され、次代のデスク長は確実と言われている。帽子を取って挨拶するフィルバートと、二三言話す。

「これから、平和の時代が始まりますな」

「ああ。 だが、分かっているとは思うが、油断すればあっという間に地獄の戦乱に落ちてしまうだろう」

「そのようなことが起こらぬように、協力は惜しまないつもりです」

「マローネを注意深く観察し、その真なる姿をペンにて記し、名誉を守った君であれば、きっと協力してくれると信じているよ」

人は変わる。だから、いつまでも無条件で信じるわけにはいかない。

だが、少なくとも今のフィルバートは現実主義者だ。

きっと、互いをよりよく利用していくことが出来るだろう。

時間は、そう多くない。

あらゆる種類の力と協調して、平和な未来を模索していかなければならないのである。

「大陸の方では、既にきな臭い動きがあるようですな」

「サルファーが抑止力となっていたことは否定できない。 そして、此処からは内密だが……」

ラファエルは、フィルバートが此方の意図を読んでいる可能性も考慮した上で、敢えて話を始めたのだった。

 

富と自由の島の片隅の酒場。

オウル族の男が一人、テーブルに着いていた。

パーシモン。ウォルナットと親交を持っていた、数少ない人物である。オウル族の中でも伊達男と知られた彼は、普段は高い酒しか口にしない。

しかし今は、安酒をずっと口に入れていた。

向かいのテーブルには、友人がずっと飲んでいたオーカー酒の瓶。

帰ってくるはずは無い。顛末は、マローネ本人から聞いている。異世界に飛ばされたとしても、其処が空気がある場所である保証は無い。空高くに放り出されてもおかしくは無い。

だが、どうしてかパーシモンには分かるのだ。彼奴は、生きていると。

顔を上げる。

ウォルナットかと思ったが、違った。彼の義理の父だった。

「貴方が、パーシモンさんですね」

「サフラン氏ですな。 話は聞いております」

ウォルナットは、かってはフェイディットという名前であったと、泥酔したときに口にしたことがあった。

ウォルナットがいなくなってから、独自に調べて、サフランの事はすぐに見つかった。皮肉な話で、ウォルナットの大事にしていた人も、それで分かってしまった。

サフランとは連絡を取り合い、そして今回直接会うことになった。ただし、カスティルと会うかどうかは、まだ決めかねている。

「息子が世話になったと聞いています。 様々に迷惑を掛けたとも」

「彼奴は、俺の数少ない親友でした。 迷惑だとは思っていません」

握手を交わした後、オーカー酒で乾杯した。

安酒だから、まずい。心地よくも酔わない。

だが、これが彼奴の味だ。人生の裏街道に踏み込み、心身を荒らしていたかも知れないが、生きていたのだ。

そして、今も何処かで、必ず生きている。

パーシモンは、サフランとウォルナットの話を交換する。やはりあの男は、幼い頃から斜に構えて、何処か世間と距離を置いていたらしい。

彼奴らしいと、パーシモンは思った。

サフランが行った後、パーシモンは決める。

彼奴が帰ってきたとき、居場所は作ってやろうと。

不器用で愚かで、だがパーシモンの親友だった男は、生きている。だから、それだけは、してやりたかった。

 

天軍の宇宙艦隊は、残敵の掃討を完了していた。魔界軍との共同戦線は、恐らくこれが最初で最後になるだろう。

損害は、最終的に三割を超えた。殆ど全滅状態であり、魔界軍もそれ以上の被害を出していた。魔王クラスの悪魔だけでも、七体が戦死したという。それだけ圧倒的な物量との、悲惨な消耗戦が続いていたのだ。

サルファーが倒れたことで、敵には戦意が無くなり、その場で消滅してしまう者も出た。もう少しサルファーの消滅が遅れたら、恐らく被害は更に一割増えていただろう。指揮シートに座るリレの撃破スコアは最終的に二十万を超えたが、それでも焼け石に水だったのだから。

ミロリも、現場でかなり活躍したと聞いている。

パティ達に迫る悪霊を退け、最後にはマローネに力を譲渡した。今、側に控えているミロリは、男の顔になっていた。

それでいい。リレは思う。

マローネが来たと、報告があった。ミロリが背筋を伸ばすのが分かった。

マローネは、力を使い果たして、数日は寝ていたと聞いている。だが、既に動くのに、支障は無い様子だった。

「おはようございます、リレさん」

「おはよう。 サルファーの撃退、素晴らしい手際だったと聞いているわ。 貴方が命を落としたときには、天界は天使長としての地位を用意しているからね」

これは本当の話だ。

マローネは死んでも、その魂は相当な強度を有していることが確実である。輪廻の輪に戻してしまうのはもったいない。

腑抜けた天界の兵士達を監督する豪傑的な存在が、一人でも多く必要なのだ。

マローネは苦笑いすると、光の塊を差し出してくる。

それは、サルファーの魂だ。

既に浄化が完了しており、今更手を加えても、再び兵器化することは不可能である。それに、今は天界と魔界は、かってほど関係が悪くない。一部の魔界には跳ねっ返りがいるが、その数は昔に比べるとぐっと少ない。

「サルファーさんの魂を、輪廻の輪に戻してください。 その天使長、というのはよく分からないですけれど。 条件は、その一つだけです」

「分かったわ。 このリレの名に誓って、必ずその条件、果たしましょう」

天使達も、敬礼する。

マローネがサルファーを倒したから、生きていられる天使も多いのだ。

大魔王カレルレアスは部下達を率いて、既に戻っている。魔王セルドレスはマローネのことがいたく気に入ったらしく、居場所がなくなったら魔界に是非来て欲しいと言っていたそうだ。

「いっそのこと、今すぐ天界に来てはどうかしら」

「いいえ。 元の世界には、友達もいますから」

「貴方がイヴォワールで、平穏に暮らせる期間は、長くないわよ?」

リレがそう言うが、マローネは笑顔を崩さない。

この娘は、恐らく分かっている。サルファーがいなくなれば、イヴォワールがどうなっていくか。

だが、それでも。逃げずに、現実と戦いたいのだろう。

いずれみんなが、マローネを好きになってくれることを願って。

誰にも好かれることが、マローネの夢だと、リレも既に聞いている。馬鹿馬鹿しい夢ではあるが、達成できればたいしたものだとも思う。

サルファーの魂に関しては、輪廻への帰還をしっかりリレ自身が見届けるつもりだ。既に存在する意義が無い兵器であるし、これで過去の清算が一つは成立した。

マローネを送り届けさせると、天使長の一人が、耳打ちしてきた。

「リレ殿、よろしいのですか?」

「サルファーの事かしら?」

「はい。 あれほどの強大な存在、輪廻の輪に戻すのはもったいないかと。 我らの手駒として確保しておくべきなのでは」

「愚かな事を言うものでは無いわ」

既にサルファーが兵器として再利用不可能なことを告げると、天使長は残念そうに引き下がる。

今回の勝利で、リレは大天使長への昇格が確定している。天界でも最高位に近い大天使長である。既に他の天使長達は、リレにこびを売ることに必死だった。永く生きているばかりで、大天使長になる見込みも無い連中は、特にその傾向が顕著だった。

だから、今のような輩も出てくる。彼らは、リレに何か有益なアドバイスをすることで、あわよくば夢見た大天使長への栄達を、と考えているのだ。

しかし、リレは権力に興味が無い。顧問として招かれた天界の戦力を整備すること、それに魔術の深淵に至るべく研究を続けること。それがリレの全てだ。自身が戦う事は余技に過ぎない。世界最強の力を得ようとも、思うことは無い。

大魔王カレルレアスから通信。

早速、イヴォワールの幾つかの勢力から、兵力的な後ろ盾が欲しいと言う申し出があったそうだ。

妖艶な大魔王は、相当な激戦の後だというのに、ソファーに腰掛けて平然としていた。さすがはいくつもの魔界を束ねる大魔王だ。何名もの魔王が戦死した激戦だというのに、怪我の一つもしていない。

足を組み直すと、大魔王は揶揄するように言う。

「あほらしいから放っておくが、そちらはどうする」

「それなら、こうしましょうか。 後ろ盾をするのなら、マローネにすると」

「それは面白い。 あの娘は権力にも興味が無さそうだし、最高の抑止力となろう」

ミロリに指示して、いざというときはマローネの援護に駆けつける戦力を、二千ほど見繕う。

今のイヴォワールは人外の地だが、数十年もすれば弱体化は確実。その時には、天使兵の優れた技術が猛威を振るうこととなるだろう。

天界は、人間世界の争いに干渉しない。

しばらくは、リレも魔術書をひもとく、平穏で楽しい生活に戻る事が出来そうだった。

 

マローネはおばけ島に戻ると、ポストに溜まった手紙の量にうんざりした。

最初は、お礼の手紙も多かった。それらには感動的な内容もあった。

サルファーに家族を奪われた人達からの、血の涙がにじんだ手紙。イヴォワールタイムズの新刊には、フィルバートが書いたマローネの記事も載せられていた。英雄視するのではなく、今までの行動を冷静に分析した記事で、とても公平で嬉しかった。

だが、サルファーが倒れて二月もすると、状況は大きく変わってきた。感謝の手紙は減り、代わりに我欲が籠もった手紙が増えるようになった。

いろいろな勢力が、粉を掛けてきているのだ。

ガラントが、一つずつ説明してくれる。中には勢力を失っている王家の使者もある様子だった。

それだけではない。イヴォワールの外側の大陸の国家からさえ、スカウトの手紙が来ている。

何となく、スカーレットが身を隠した理由の一つが、マローネには分かった気がする。彼女はサルファーからの復讐を防ぐためだけでは無く、こういった人達から、身を隠す必要があったのだろう。

数えると、手紙は三百通を超えていた。呆れて、アッシュが肩をすくめる。

「僕が処分しようか?」

「ううん、駄目よ。 みんな返事を書くんだから」

どんなに魂胆が見え透いているとしても。

手紙を送ってくれた人達は、マローネに手紙をくれたことに違いは無いのだ。だから、マローネは全てに目を通して、その殆どに、丁寧なお断りの言葉を書いた。

文面はカスティルと話し合いながら最初は書いていたのだが、今はもうだいたいどう書けば良いかが分かってきている。

だから、膨大な手紙に、一つずつ返事を書いていくのも、あまり苦労はしなかった。

不思議な事に、サルファーが未練の材料になっていただろうみんなは、まだかなり残ってくれている。

ガラントは手紙にアドバイスをくれるし、荒事関連の仕事では率先して指揮を執ってくれる。相変わらず、とても頼りになる。

バッカスは基本的にいつも無口だが、面倒見はいい。最近はパレットを背中に乗せて、その辺りを泳いでいる姿が目だった。

ハツネは屋根の上にいて、いつも不審な勢力の接近を監視してくれている。それで助かったことが、今まで二回あった。どういう理由かは分からないが、マローネを暗殺しようと島に来た人達がいたのだ。

今は力の差が開いているから、殺さずにお帰り願うことが出来た。だが、それも力の差が無い状態だったら、どうなっていたか分からない。

リレも言っていたが、英雄は長くは英雄ではいられないらしい。

おかしな事に、まだ十三才のマローネに、求婚を申し込む手紙もかなり多い。殆どはセレストからで、政治的な結びつきを作ろうという意図が見え見えだった。マローネは、そういった人の悪意を、しっかり理解できる。だが、それ以上に、人には善意があると信じていたから、一つずつの手紙に、返事をするのだった。

コリンは新しい術の研究をするのだと張り切っていて、おばけ島の片隅に怪しい小屋を建てて、其処に閉じこもっている。時々変な術式を新しく作ったと言っては、ふらりと出かけていく。

今のマローネは、コンファインを維持した状態のファントムを、遠くまで送り届けることも出来る。流石にイヴォワールから出るのは不可能だが。コリンは、富と自由の島に出かけては、そこのネフライト達と色々怪しい実験に興じているようだ。

カナンはというと、マローネと一緒に富と自由の島に出かけては、カスティルの治療を確認していた。

カスティルは治療が上手く行けば、今年中に歩けるようになるという。一緒に外を歩く日が、今から楽しみでならない。

ヴォルガヌスは、今日も上空を旋回している。

きっと、寿命が来る前くらいのしばらく、空を飛べなかったのが、今でも悔しくてならないのだろう。時々島に降りてきては、とてもためになる知識を披露してくれる。ガラントとは実体化した後、酒盛りを楽しんでいることも多いようだ。マローネはまだお酒は飲めないから、加わる事は無いが。

いなくなった人もいる。

鍛冶士のヴァーデンは、既にいない。鍛冶の小屋はパレットに残したまま、輪廻の輪に戻っていった。

マローネが帰ってきたときには、もういなかった。ひょっとすると、マローネがサルファーを倒すところを、遠くから見ていたのかも知れない。

彼の武器は、サルファーを倒す、これ以上も無い手助けになった。きっと、もうこれで未練は果たされたのだろう。

みんなも、いずれ輪廻の輪に戻っていく。

側にいてくれると約束したアッシュも、マローネが大人になる頃には、きっとこの世を本当の意味で去るだろう。

マローネにも、分かっているのだ。

人間と幽霊の恋は成立しない。今はまだ良いが、いずれ取り返しがつかないことになる。それをアッシュは理解している。

カナンが料理を作ってくれたので、マローネは夕食にする。

食事をしないアッシュは、静かにほほえみながら、それを見ているだけだった。

「ねえ、アッシュ」

「なんだい?」

「まだ、しばらくは、いてくれるよね」

アッシュも、分かっている。マローネが、理解していることを。

だから、食事の間は、無言が続いた。アッシュもその気になれば食事は出来るが、最近はむなしいだけだからと、全く何も口にはしなかった。

カナンの作ってくれる料理はとても美味しくて、なにも不満は無い。

だが、どうしてこう寂しいのだろう。

「輪廻の輪に戻るって、どういう感じなのかな」

「僕にも最近は、少し分かりはじめてきたよ」

「え……?」

「僕たちは、結局未練って糸で、この世界につなぎ止められている不自然で不完全な存在なんだ。 それが切れて、元ある流れに戻っていく。 他のファントム達が、輪廻の輪に戻るのを、何度も見てきたからかな」

そんなのは、嫌。

でも、仕方が無い事だ。マローネは、涙がこぼれるのを、どうしても止められなかった。

「大丈夫。 きっと僕は、また君のそばに来るよ」

「……うん」

席を立つと、マローネはアッシュに抱きつく。

冷たい体。

それだけではない。マローネの魔力が無ければ、実体化することも無い。生理的な欲望は残っておらず、子供を作ることも出来なければ、人を愛することも出来ない。

「せめて、消えるその時まで、一緒にいて」

「ああ」

アッシュが、抱きしめ返してくる。

もう、恐らく一緒にいられる時間は、そう長くない。

それを、マローネは理解していた。

だからこそ、少しでも長く。

アッシュと、一緒にいたかった。

 

エピローグ、輪転の珊瑚礁

 

砂漠をマローネは歩いていた。

周囲には人間は一人もいない。その代わり、ファントム達がいる。砂嵐に、被っているフードを何度も吹き飛ばされそうになる。

だが、マローネは平気だ。砂漠は歩き慣れている。

今回、カスティルは別行動だ。もっとも、今やカスティルも、イヴォワールを代表する勇者の一人。

多少のことで、危険は生じないだろう。

「マローネ、少し先に大きな気配がいくつかある。 討伐対象に違いないだろう」

「分かったわ、ハツネさん」

「此処から狙い撃てるが、どうする」

「ううん、もう少し近くまで行って、様子を見ましょう」

そのまま、砂漠を歩く。

念のため、周囲を守るファントムを、何名かコンファインした。

その中に、アッシュはいない。

ガラントもバッカスも、そしてヴォルガヌスもだ。

皆、各地でマローネを慕って集まってきた猛者達。いずれもが、マローネの魔力で、生きていた頃に比べて途方も無いほどに力を上げている。

中には、かって九つ剣だった戦士や、伝説を残した術者もいた。種族はまちまちで、今は人間族、マーマン族、オウル族にウサギリス族、更にウェアウルフ族と、一通がいた。そしてその全員が、一騎当千のスペシャリストだ。

「英雄一個小隊だねえ」

軽口を叩くコリンと、こくこく頷くパレット。

彼女らは、結局、サルファーを倒して随分経った今も、残ってくれていた。パレットは見かけ幼い子供のままだが、相当な数の術を身につけ、既にマローネよりも魔術の腕は上である。これは、元の素材が良かったからだろう。

ハツネはその白く輝く姿が話題になって、戦女神とか呼ばれていると聞いたことがある。おかしな話である。噂をしている人達は、彼女が元悪魔だと知ったら、どんな顔をするのだろう。

カナンもまだいてくれている。彼女はいつもマローネのために料理を造り、戦闘ではけが人を手当てしてくれる。優しい彼女の笑顔に救われたけが人は、もうどれだけいるのか、分からない。

砂嵐が酷くなってきた。流砂に足を取られないように、前を行くファントムの戦士が促してくれる。砂漠出身の戦士だ。オールマイティに高い経験を蓄積していたガラントが輪廻の輪に戻った頃には、既にいろいろなスペシャリストがいてくれた。だから、それからも今までも特に不自由はしていない。

大きな岩場に、一旦隠れた。

地図を広げ、コリンに術式を展開してもらって、現在の場所を確認する。他にもいる術者のファントム達も、位置は間違いないと断言してくれた。

「今日中に片付ける?」

「このまま行くと、夜になりそうですか?」

「おそらくは」

それなら、むしろ好都合だ。

ファントム達は、夜の方が力を発揮できる。実体化した後も、それに変わりは無い。

マローネは再び砂嵐の中に出る。

困っている人達が、大勢いるのだ。立ち止まってはいられない。

 

あれから、七年が過ぎた。

マローネは既に大人になり、まだクロームを続けていた。背は伸びたし、平均よりもだいぶ寂しかった胸も少しは大きくなった。サルファーを葬り去った伝説の勇者としての名声は揺るぎないものがあったが、ラファエルや故モルト伯の尽力により、今では比較的動きやすい環境が整っている。

アッシュは消える最後の日までマローネを心配していたが、今の所問題は無い。

むしろ、アッシュが今どんな世界に転生して、どんな生活を送っているのかが、気になって仕方が無かった。

イヴォワールにいたらいいのだけれど、だからといってアッシュには新しい人生があるのだ。当然、新しい名前も。

また側にいてくれるとは言ったが、大人になった今は、思うところも多い。

アッシュへの想いが消えたわけでは無いが、輪廻転生したのなら、それはもう別の人だ。アッシュへの想いを胸に接したら、それはきっと我欲の押しつけになってしまうだろう。

依頼があった村に着く。

どんな時代にも、悪党は尽きない。この村は入り組んだ立地を良い事に、閉鎖的な風習が村民を縛り、更に権力者層がベリルと結託して、酷く貧しい村を更に過酷な環境に落としていた。

今の村長になってからは、違法奴隷までもが売買されるようになり、このままでは村は終わると、ボトルメールが来たのである。

手紙を出した人の安否も気に掛かる。何よりも出動の決め手になったのは、犯罪組織がこの村を拠点化して、違法奴隷の中間売買地にしようとしている、というクロームギルドからの情報だった。

後から、本隊としてこの地域を治めるセレストの部隊が来る。事前に調査して、信頼性が高い部隊を派遣してもらうように確認はしてある。

勇者の仕事などと言うのは、殆どはこんなものばかりだ。

社会の底辺の尻ぬぐい。かっては強力な魔物や怪物を相手に、各地の島を巡ったこともあった。

だがサルファーがいなくなってから、社会そのものにマンパワーを割けるようになった事もあって、怪物や魔物の猛威は明らかに減少した。基本的に、怪物による害は、人間の武力が及ばない状態で発する事が多いのだ。そうでなければ、人間がこれほど広範囲に勢力を持つはずもない。

むしろ今は拡大しつつある社会的矛盾の隙間に入り込んだ悪い人達が、活動範囲を広げつつあった。

かってはコールドロンが手綱を取っていたのだが、人間が増えて経済活動が活発化しはじめると、制御が効かない部分も増えてくる。

今では辺境と呼ばれた場所まで開発が進み始めていて、その結果多くの悲劇が生まれるようになっていた。

マローネは、みんなに好きになって欲しいと、今でも思っている。

だが、現場に出かけてみると、紛争の鎮圧だったり、犯罪組織の壊滅だったりして、誰からも恨まれる仕事である事が、良くあった。

どれだけ相手のことを思って行動しても、恨まれるときは恨まれる。

ウォルナットがそうだったように。

村に着く。

夜闇の中、村は静まりかえっていた。ただし、既にマローネも、ある程度の殺気は感じ取れるようになっていた。

備えているという事だ。手紙を決死の覚悟で出した人は、もう生きていないかも知れない。

前衛に出ていたファントムの戦士達が戻ってくる。

「ベリルが入り込んでいる。 数は十から十四」

「村人の中にも、武装している者がいる」

「マローネ殿、指示を」

「制圧できますか? できる限り、死人は出さない方向で」

今回は、ゲリラでも無い、殆ど素人同然の相手だ。

だがこういう辺境だと、とても珍しい怪物を飼っていたり、用心棒がいたりする。ファントム達に注意を促す。

ハツネは小高いところに出ると、弓を引き絞った。彼女の制圧射撃は、もはや文明が進んだ天界の兵器をも凌ぐ精度と破壊力を持つ。前衛として突入した戦士達の背後や側面を襲う敵は、即座に打ち抜かれる事だろう。

コリンは念のため、全員に防御系の術式を唱える。そしてカナンはパレットと一緒に、けが人を治療するべく、回復用の魔法陣を準備しはじめていた。

マローネ自身は、全員と意識をリンクする。

そして、いざというとき、魔力を注ぐことで能力をブーストし、戦況を有利に導く。

かってはこれも、ガラントの判断に頼りきりだった。今では、ある程度まで自分で行ける。

周囲には、傭兵団の団長をしていたファントムもいる。彼らに判断を仰ぐのは、難しい局面だけだ。

夜闇の村に、ファントム達が突入を開始した。

待ち伏せしていたベリルや、武装した村人が出てくるが、その場で打ち倒される。村長はいない。どうやら先に逃げた様子だった。

上空を飛んでいた大鷲の怪物のファントムから連絡がある。でっぷり太った人間族の村長は妻子と愛人を連れて逃げている様子だ。砂漠だから丸見えである。

「すぐに確保してください」

「承知」

重装甲の戦士のファントム数名が、猟犬の様に飛び出していった。すぐに砂漠の向こうに見えなくなる。

やがて、村長も抑えることが出来た。

村の広場に、捕まえたベリルや、武装解除した村人達が集められる。マローネの事は彼らにも知られているらしく、月明かりに照らされた顔を見て悲鳴を上げるベリルもいた。

「か、神の災い……!」

最近は、マローネは特に犯罪者から、そう呼ばれているらしかった。

とにかく、戦っても抵抗しても絶対に勝てない。逃げようとしても逃げられない。マローネが来たら、もう諸手を挙げて降参するしか無い。

最強の邪神サルファーでさえねじ伏せた存在。

犯罪者達は、固まって震えている。泣き始めている者までいた。

「マローネ殿、此方に」

マローネがファントムの一人に呼ばれ、民家の一つに入る。砂漠の民家は砂と風の対策のため、土まんじゅうのような造りになっているか、或いは岸壁に作られて風を避けている。

だから中は洞窟になっている事が多い。

その民家は、地下から血と油の臭いがした。

地下には複数の牢が有り、拷問道具が陳列されていた。切り離された指が無造作に並べられ、血だらけの人が何名か倒れている。

まだ、息がある人も少なくなかった。

「すぐに救助を。 助けられる人は必ず助けてください」

「分かりました。 担架だ!」

担架を即席で造り、負傷者を皆運び出していく。死者は、丁重に葬った。

捕らえた村長は、マローネの名を聞いて、失禁するほどに震え上がった。しかし、この村から、違法奴隷として売り飛ばされた人の証言、それに村を救って欲しいと言う手紙があったと聞くと、開き直る。

「ほ、他にどんな方法があるって言うんだ! こんな貧しくてちいさな村に、産業なんてあると思うのか! 人間を商品にするしか、生きる方法は無いんだよ! お前みたいに強い奴が、勝手な事をほざくんじゃねえ!」

「貴方だけが豊かになるために、村の人達を犠牲にしたことを私は責めています」

「……っ!」

「産業が無い。 貧しい。 分かります。 私だって、ずっと貧困の中で、震えながら生活していたんですから。 でも貴方は村の中を恐怖で支配し、人々を売り飛ばし、犯罪組織と結託し、美味しいものを食べて愛人まで作って。 それで、何の正義を主張すると言うんですか?」

マローネの言葉に、苛烈さは無い。

むしろ悲しい行動に対する柔らかい追求があった。歯ぎしりをする村長。この人の気持ちも、分かるのだ。

人は悪いことが出来るなら、したくなる。自分が豊かに生きられるのなら、他の人を犠牲にしようと思う。

一度足を踏み外すと、どんどん闇へ落ちていく。

今、イヴォワールは、社会的経済的矛盾が、拡大の一途をたどっている。こういった悪に手を染めてしまう人は、今後もっと増えていくだろう。

軍が来た。

幾つかの傭兵団は、軍として正式登録された。獣王拳団もその一つである。

すっかり立派になったビジオが、一団の兵を率いていた。厳つい顔のビジオだが、マローネを見ると不器用に敬礼して、破顔した。

「いつもながらの鮮やかな手際、感服であります!」

「出来るだけ、更正の機会を与えてください」

「お任せを。 ただ……。 村長一家、特に村長については、極刑の可能性が高いでしょうね。 村の内部でも凄惨な拷問をしていたようですし。 貴方からの口添えだとしても、善処は難しいかも知れません」

その法は、決して不平等とは言えない。

もう一度お願いしますと頭を下げると、マローネは武装解除をもう一度確認した上で、砂漠の村を後にした。

 

おばけ島に戻ると、イヴォワールタイムズが届いていた。

記事の一面には、ついに来るべき時が来たことが書かれている。

セレスト同士が、小競り合いを始めたのだ。両者ともそれほど勢力のあるセレストでは無いが、片方には、大陸側の勢力が荷担しているらしいとある。近々大規模な戦争に発展する可能性が大きいとも。

記事を読み進めていくと、マローネの動向が注目されるとある。当然の分析だ。

記事を書いたのは、フィルバートだ。相変わらず丁寧な記事で、とても読みやすく、双方の内情を綺麗にすっぱ抜いている。ただし、かってと違い、今はサルファーがいない分、暗黙の了解としての情報への保護がなくなりつつある。フィルバートはかなり危ない思いをしたのでは無いだろうか。

ラファエルから手紙。

カスティルからもだ。

まず、合流して、どうしたら戦争を止められるか、話し合わなければならないだろう。

もしマローネが介入したら、そちらが確実に勝つ。今ではマローネの魔力は、レベル四桁の魔王に余裕で並ぶという。この間会った魔王セルドレスに、どこの魔界でも魔王として迎えて貰えると太鼓判をもらったほどだ。

ウォルナットを探すカスティルにつきあって行った別世界で、本のような魔王と戦って、酷い目に遭わされたこともあった。異世界に封じられたバールという恐ろしい魔王と戦って、退けたこともある。

もっといろいろな不思議な経験もした。

もうマローネの能力は、完全に人間を超越してしまっている。寿命ももう無いだろうと、コリンに言われていた。

だからといって、この世界を好きにしようとは思わない。

「パレット、ボトルシップの整備は?」

「大丈夫。 すぐにでられます」

「みんな、ごめんなさい。 疲れているところ申し訳ないのだけれど、すぐに出ましょう」

マローネは七年前の戦いで報償としてもらった高速ボトルシップに乗り込むと、すぐに大海原に出た。

夜空の星の光を受けて、美しく輝く珊瑚礁。

だが其処は、楽園では無い。

たとえ、サルファーがいなくなった今でも。

人間がいる限り、そこには楽園など存在し得ないのかも知れない。

だが、マローネは。

それでも、誰もに好きになって欲しいと思うし、誰もを好きになりたかった。

「今なら間に合います。 急いで戦争を止めましょう」

同意の声が上がる。

ファントム達はマローネを理解してくれている。

そしてこの理解を、いずれ全ての人々にも、広げたかった。

 

 

(輪転の珊瑚礁 完)