心に潜むもの

 

序、白狼騎士団の苦戦

 

イヴォワール最強の戦闘集団である、白狼騎士団。傭兵団としての実力もさることながら、確固たる組織力と、個々の戦闘力の高さ、何より優れた指揮官である九つ剣筆頭ラファエルの手腕で、ここしばらく最強の名を恣にしてきた。

この傭兵団は、他の日銭を稼いで大きくなってきた傭兵団とは、根本的に戦略が違う。来るべきサルファーの侵攻に備え、各地の精鋭を集め、そして育ててきた部隊なのだ。だからこそ、隊長のラファエルを筆頭に、元々人外の領域といわれるイヴォワールでも、屈指の使い手ばかりが集っているのである。

だが、その白狼騎士団でも。

雲霞のように迫る悪霊の大軍勢を前に、どうも旗色は良くなかった。

ラファエルは殆ど休む暇も無く、短距離空間転移の能力であるヘリオトロープを使い、片っ端から迫る悪霊を斬り伏せていた。千切れ、引き裂かれ、悲鳴さえ上げずに消滅していく悪霊ども。

だが、数が多すぎる。

わずかに動きが止まった瞬間を狙って、悪霊が殺到してくる。

周囲の部下達が、即座にフォロー。能力持ちも大勢いる。炎が氷が稲妻が、悪霊を根こそぎ焼き払った。

しかし、敵は無尽蔵だ。

流石にラファエルも汗を拭う。増援は来ているが、はっきり言って焼け石に水だ。

しかし、此処をどうにか突破しなければ、パティ族をサルファーに肉薄させられない。それは、サルファーを完全に叩き潰す好機を失うことを意味する。

側に来た小隊長が、至近に現れた悪霊を斬り伏せながら言う。

ラファエルも、神剣ヴィシュヌで、側に転移してきた悪霊を両断しながら答えた。

「団長、少し休んでください」

「しかし、前線を少しでも進めなければ」

他の部隊も、似たかよったかだと報告が来ている。

左翼にいる獣王拳団は、此処ほど酷くはないようだが、凄まじい数の敵に襲われていることに変わりは無い。

命知らずの猛者ばかりとは言え、前線の維持が精一杯の状況だ。右翼にいる風の翼団とアマゾネス団は、敵をじりじりと押しているようだが、その分損害も大きいらしい。このままだと、後衛にいるヒーラー達の所に、悪霊の大軍が直撃するかも知れない。そちらにはフォックスが備えて控えているのだが、それでも被害は大きくなるだろう。

再び、敵の防衛線が現れる。

とはいっても、目に見える形で、ではない。前線の少し先には、天界の援軍がひっきりなしにクラスター弾というのを叩き込んでくれている。それによって敵は相当数を削られているのも、目視している。

だがそれでも、敵は無尽蔵なのだ。

海上でも戦闘が始まっているようである。クラスター弾を鬱陶しいと思ったのだろうか、或いは。

既に、どれくらいの敵を斬ったかも分からない。

ラファエルは汗を拭いながら、動かない足を動かして、前に進む。

休憩を入れようとすると、その途端に悪霊が現れる。必死に自身の体を叱咤して、進むしか無い。

前衛と、中軍の距離が縮まってきたと、報告が来た。

まずい。

この数の敵を、中軍に近づけるわけにはいかない。

中軍には魔王セルドレスがいるし、マローネの戦闘力については、既に安心の域に達していると思ってはいる。

だが、二人はパティ族を護衛している状態だ。

連れてきているパティ族は五十ほど。元々臆病な彼らは、もしも集中的な攻撃を受けたら、パニックになって彼方此方に逃げ散りかねない。此処でそんなことになれば、全滅は確定的だ。

「一度後退しましょう」

「それは出来ない」

部下の進言に、ラファエルは即答した。此処で引けば、同じ距離を進むのに、次は二倍の労力が必要になるだろう。

岩に腰掛けて、休む。

かろうじて、悪霊は出てこない。周囲にも、三交代で休むように指示。同時に、伝令には、進軍速度を遅らせるように、中軍に伝えさせた。

呼吸が随分乱れていた。

更に悪いことに、此処は空気が悪すぎる。周囲の悪霊共を散々殺したから、というのもあるだろう。

だが、それよりも、何か邪気のようなものを感じるのだ。

見ていると、疲弊以上に、相当に精神を乱している様子の兵士が多い。サルファーは、悪意によって力を得ている存在だと、ラファエルも聞いている。それならば、奴に近づけば、悪意の影響を受けるかも知れない。

今までに戦ったとき、そんな悪しき干渉は感じなかった。

サルファーの力が増しているのか、それとも。

奴が本気を出していて、世界そのものを悪意で汚染しようとしているのか。

敵が現れるまでは、休むようにラファエルは指示。兵士達がぴりぴりしているのが分かる。

皆、怖れているのでは無い。

妙に怒りっぽくなっている。初陣の小僧じゃあるまいし、この最前線に連れてきている傭兵は、みな歴戦に次ぐ歴戦をくぐり抜けてきた強者達だ。戦場で、これだけ感情を乱す者が出るのはやはりおかしい。

「見張りを交代しながら、食事を取るように」

「分かりました!」

ラファエルも、レーションを取り出して、口に入れる。基本的に栄養価は高いが、どれもまずい。

悪霊は、やはり出現をぴたりと止めている。

前衛は疲弊しているのが見えているはずだ。どうして、急に出てこなくなった。勿論偵察を出しているし、伝令もしっかり情報をやりとりさせている。

「右翼と左翼は、今だ敵の猛攻を受けている様子です。 援軍に入った部隊が、短時間で消耗する例も出始めています」

「中軍は」

「一度停止して、防衛戦力の再編成をはじめました。 後方から手当が終わった兵士を連れてきて、守りを固めているようです。 天軍も、既に戦力を出し惜しみせず、中軍にかなりの数を流し込んでいます」

「……」

それでいい。

それで良いはずなのに、どうして嫌な予感が止まらないのか。

休憩を終え、前衛を進める。

やはり、敵は現れない。ただ、おかしな事が、加速していく。

視界が悪くなり始めた。火山性の有毒ガスかと思ったが、どうも妙だ。そんな絶好の煙幕があるのに、悪霊は仕掛けてこない。

ほどなく、ガスが猛威を振るいはじめた。

兵士が一人、呻いて倒れる。助け起こそうとした兵士が、いきなり絶叫した。何があったのかと振り向いた瞬間、ラファエルに拳をたたきつけてきたのだ。

即座に手のひらで拳を払いつつ、引きつけて膝蹴りを叩き込む。

戦闘で興奮しすぎて、敵味方見境無く襲いはじめる奴はたまにいる。特に戦場経験が少ない奴は、その傾向が顕著だ。

気絶した傭兵は、倒れる。ラファエルは、殴りかかってきた瞬間の事を思い出す。目の焦点が合っていなかった。

しかし、この傭兵は、若い頃から戦場で剣を握っている相当なベテランだ。今のは、魔術か何かによる錯乱に近い。隊にいる魔術師は。振り返ったラファエルは、絶望的事態に直面した。

だめだ。高位のネフライトなのに、完全にレジストに失敗している。呻きながら頭を抱えている。

これは、何だ。

魔術か。それにしては、おかしな部分が多い。しかし、現象としては、魔術に似ている。

傭兵達が、同士討ちをはじめるのに、さほど時間は掛からない。

悪霊共は、さぞやほくそ笑んでいるのだろう。そう思い、歯ぎしりさえしながら、ラファエルは辺りの傭兵達を殴り倒し、同士討ちを止めさせた。

しかし、何人目かを殴り倒したところだろうか。

正気を失った傭兵達が、一斉にラファエルを見る。その目には、覚えがある。群れで結束して襲いかかってくる狼だ。

武器を使うつもりはないらしい所だけが救いか。

野獣と化した部下達に囲まれたラファエルは、頭が痛むのを、敏感に感じ取りはじめていた。

自分も、侵食されつつある。

不意に、フラッシュバック。過去の思いが、脳裏をよぎる。

スプラウトの家族を救えなかった悔恨。

だが、其処に隠れていた、邪悪な欲望。

昔のラファエルにとって、スプラウトはあこがれの対象だった。ラファエルには、一時期居場所が無い事があったのだ。

今では昔の話だが、名声を得る前のラファエルは、とにかく寂しい青年時代を過ごした。それが故に、暖かいスプラウトの家庭を見て、羨ましいと何度も思ったのである。普段は、それがあこがれとしてしか発露しなかった。

だが。時に、不快感がせり上がってくることがあった。

彼奴らがいなくなれば。スプラウトは、ラファエルを家族として受け入れてくれるのでは無いのか。

家族が、得られるのでは無いのか。

そんな荒唐無稽な悪魔の囁きが、時にスプラウトの脳裏に響くことがあった。無論、ただのおかしな妄想として、片付けていた。

だが、あれは。

本当の意味での、ラファエルの願望だったのでは無かったか。

だからこそ、サルファーの手でスプラウトの家族が皆殺しにされたとき。

ラファエルは、悲劇を前にして、表向きでは涙にくれながら。

実は、その裏で、喜んでいたのでは無かったか。簡単にスプラウトの家族として、心の隙間に潜り込めると。

そして、その後に。養子になることを申し出て、あっさり断られて。己の甘い観測が外れたことで、スプラウトを憎むようになったのでは無かったか。

頭を抱える。

それは、考えてはいけないこと。呼吸が乱れてくる。このようなおぞましき妄想、許されない事だ。もしも考えていたとしても、絶対に表に出してはいけない。少なくとも、思考の表層では、絶対に存在しなかった。実行されていれば、誰もが不幸になる。それだけではなく、死んだ者達まで、侮辱することになる。

ラファエルは、スプラウトの家族を、みんな好きだった。愛くるしくて無邪気だったブリアンだけでなく、スプラウトの息子夫婦も、好ましいと思っていた。

歯を食いしばって、己の中の闇をねじ伏せる。

そんな考えが合ったとしても、絶対に当時から自分は許さなかった。それが如何に甘美だったとしても、だ。

だから消え失せろ。

己の中に確かにあったかも知れない思考だが、そんなものは許しはしない。選択肢の中で、取り除いてきたものだ。そんなたわけた妄想に己をゆだねるほど、ラファエルは心身を柔に鍛えてきていない。

気がつくと、周囲の傭兵達は、みな倒れ伏していた。

だが、霧は晴れていない。更に濃くなっていく。

同時に、自覚する。ラファエルの中で、かって思った背徳と悪徳が、どんどん大胆に鎌首をもたげはじめる。だが、自覚できた時点で、どうにか対処は出来る。自分が嫌悪する自分くらい、誰もが飼っていて当たり前だ。

ようやく気付く。このガスは、サルファーの血肉だ。高純度の悪意で彩られたガスだからこそ、吸うだけで、激しい影響を受ける。そして心の闇を喚起されて、多くの場合その走狗と化してしまうのだ。

魔術どころでは無い。

多分、世界の根幹に関わる技だ。しかも、単なる力業で、それを成し遂げている。つくづく恐ろしい存在である。

私は愚かだと、ラファエルは自嘲した。思えば、雲霞のごとく悪霊を送り込んできた意図も、これだったに違いない。もしもサルファーに、意図があったとしたら、だが。

あれだけの悪霊を殺したのだ。サルファーの血肉が、この戦場を激しく汚染していてもおかしくは無い。

ラファエルは唸る。

この状況下では、悪霊が現れようが現れまいが関係ない。一刻も早く対策を練らなければ、他の傭兵団も、同じ事態に陥るだろう。

見ると、近づいてくる影がある。

剣を向けるが、それは闇に囚われた味方では無い。意識のある部下だった。

「ラファエル、様?」

「リーナか。 無事だったか」

「良かった、意識、ある、みたいですね」

彼女もぼろぼろだ。笑ってみせるが、余力があるようには見えない。

これだけ大人がいて、心の闇に耐えられたのは年若い彼女だけか。性格が単純だから、どうにかなったのかも知れないが、それにしても情けない話だ。ラファエルだって落ちかけたのだから、人のことは言えないが。

「可能な限り、味方をつれて下がれ。 この戦線は放棄する。 あまりにも多く悪霊を殺しすぎた」

「やはりサルファーは……」

「奴には戦っているという感覚さえ無くて、世界を己の色で塗りつぶしているだけなのかも知れない。 いや、それは考えすぎかな」

サルファーという存在の起源を知った今でも、奴の考えは分からない。

いずれにしても、此処に留まるのは、もう無理だ。

中軍は進路を変えるしか無い。より激しい戦いになるだろうが、それはどうにかしてもらう他無かった。

リーナに部下の撤退は任せ、ラファエルは単身、前進を開始する。

この先には、スプラウトがいる。気配で分かるのだ。

そして、あの復讐鬼が、マローネを襲うことがあってはならない。今のスプラウトの実力は計り知れない。もしも戦う事になってしまったら、マローネといえども無事ではいられないだろう。

サルファーとの決戦を前にして、消耗だけは、避けなければならなかった。

 

1、破壊神VS落ちた英雄

 

スプラウトが腰を上げる。

サルファーが、ついに空間の壁を破ろうとしているのが分かったからだ。この日のために蓄えてきた力を、たたきつける時が来た。

巨大な魔剣シヴァを、地面から引き抜く。

かって闇の武器商人を名乗るゴッドエリンなる存在から譲り受けたものだ。対価はいらないとかほざいていた。

知っている。この剣は実験品だ。エリンとか言うキノコは、スプラウトにデータ収集をさせていたのだ。

そしてそいつの気配は、サルファーから微弱に感じられる。

馬鹿な奴だ。サルファーを売り物にしようと近づいて、喰われてしまったのだろう。キノコのような姿をしてはいたが、異世界の人間だったのだろうエリン。所詮人間に、あんな存在を、御せる訳もなかろうに。

ゆっくり、歩いて行く。

サルファーのしもべを散々叩き殺したスプラウトだ。気配は知っているだろう。奴は必ず反応する。

もう少しで、仇を討てる。

少し前だが、悪魔と天使が、揃ってスプラウトの前に現れた。

そして、決戦の際は力を貸すようにと説得してきた。

その時、サルファーについての話も聞かされた。スプラウトの能力は、相性が悪いことも。

闇を吸収して力に変えるスプラウトの能力ダークエボレウスを、サルファー本体には絶対に使ってはいけないという話も。一瞬だけ奴を喰らうことが出来ても、絶対に内側から食い尽くされる。これに関しては、ぎくりとした。そうやってサルファーを殺そうと思っていたからだ。

だが、そうでなくても、勝算はある。カードは何枚も用意してきたからだ。

スプラウトは、天使と悪魔に答えた。

協力は出来ない。だが、奴の正体に関する情報は感謝する。だから、そちらに攻撃はしない。

スプラウトも、自分の命を惜しんではいない。

だが、犬死にだけはしたくないとも思っていた。怨敵を前に犬死にするなど、戦士としての最大の恥だからだ。

復讐鬼に落ちた今でも、無駄に命を捨てることは思考に無い。

スプラウトは勝算があって、ここに来ていた。

空間に軋みが走る。いよいよだ。

サルファーが、この世界に、姿を見せる。勿論それは奴の全てでは無い。サルファーは、その体の殆どを、異世界に隠している。此処に出しているのは、体の一部に過ぎない。触手の一本、程度だ。

だがそれでも、尋常ならざる闇の気配が漂い来る。

「現れおったな……!」

ウォルナットとか言う愚か者を抱え込むようにして、破壊神がその姿を、ついにイヴォワールに現した。

全体は人間に似ているが、しかし根本的に似ていない。骨のようなもので全身を覆っていて、上半身だけが見えている。

体躯は人間の五倍から六倍という所か。以前、ラファエルと共に戦い、打ち倒したときと全く同じ姿だ。感じるプレッシャーも、あまり変わらない。

この形態であれば、打ちのめすのは容易だろう。

しかし、問題は其処からだ。

 

ウォルナットが顔を上げると、スプラウトが歩み寄ってくるところだった。

サルファーの気配が強烈すぎて、気づけなかった。そうか、もうサルファーは現れようとしているのか。

スプラウトの姿が、かき消える。

同時に、衝撃が走った。

跳躍してからの、大上段の一撃を、サルファーが片腕を挙げて防いだ、という所か。どうやったのか、地面に衝撃を受け流したらしい。地割れが縦横に走っている。

今度は、左。

再びかき消えたスプラウトが、全身で振り抜くようにして、一撃を浴びせていたのだ。サルファーは、左腕を軽く下げることで、それを防ぐ。やはり避雷針のようにして衝撃をそらしたようで、地面に罅が走った。

「ほう、少しは知恵がついたようだな……」

スプラウトが、まるで鬼のような顔に、凶暴極まりない笑顔を浮かべた。

サルファーは無表情のままだ。頭蓋骨を思わせる顔は、悪意の塊にしては、何も感情が無いようで不思議である。

どちらも本気を出していない。

相変わらずウォルナットは完全に拘束されていて身動きが出来ない。スプラウトは一声吼えると、上段からの一撃を、その場から見舞う。

防ごうとしたサルファーの腕が、はじき落とされる。

そして、頭に。

スプラウトが間髪入れずに放った、横殴りの閃光が直撃していた。

巨体が、煙を上げながらよろめく。

間髪入れず、怒濤のラッシュを、スプラウトが仕掛けはじめた。背負っている巨大な剣を、縦横無尽に振り回す。剣が直接当たってもいないのに、その度にサルファーは右へ左へたたきのめされる。

だが、効いているようには、思えない。

体の外皮が砕けても、瞬時に再生している。スプラウトもそれを見て、にやにやと笑いながら、更に攻撃の火力を上げていくようだった。

ついに、大上段の一撃が、サルファーに直撃する。

だが、頭を砕かれても、サルファーは即座に再生した。逆に、右腕を無造作に振るうと、スプラウトが吹っ飛ばされる。

何度かバウンドして、地面にたたきつけられる大剣士。

爆煙が上がった。

そして、何事も無かったかのように、スプラウトも立ち上がる。当然のように、その体は無傷だ。

むしろ、開戦前よりも、力がみなぎっているようにさえ見えた。

「ふん、まずは小手調べよ」

「オマエは……俺のしもべを……たくさん潰した奴だな」

「そうよ。 お前に家族を皆殺しにされたスプラウトだ。 今こそ、この恨み、晴らさせてもらおうか!」

サルファーの右手が消える。

巨大な骨張った手が、スプラウトがいた場所を押しつぶしていた。だが、次の瞬間には、その手が真っ二つに切り裂かれる。

かき消えるサルファーの手。

現れたスプラウトが、残像を残しながら、ジグザグに走る。

剣を振るって、顔面に。

空間に、らせん状の光が走った。スプラウトの一撃を、サルファーが何かしらの術式か技で防いだのだ。

だが、その螺旋の光が消えもしないうちに、サルファーの巨体が吹っ飛ぶ。

真横から現れたスプラウトが、弾丸のような蹴りを叩き込んだのだ。完全に次元が違う攻防である。

しかし、サルファーの巨体がかき消えると、今度はスプラウトの真上に現れる。そして拳を組み合わせて、振り下ろしていた。

スプラウトが振り仰ぎ、剣を振るう。

はじきあう。

速度も攻防も、更にヒートアップしていく。スプラウトの顔の嬉しそうなこと。それに対して、サルファーは全身に更に禍々しい闇の力を纏い、力を強めていく様子だ。

「どうしたどうした? それでも幾多の魔界を滅ぼした邪神か?」

「……」

サルファーが腕を振るい、スプラウトが弾かれる。

見ていると、サルファーが一手を浴びせる間に、スプラウトは二十か三十、有効打をサルファーに叩き込んでいるようだ。これは、或いは。今までサルファーと戦った人間の中でも、もっとも善戦している存在かも知れない。

ただし、だからといって、サルファーがダメージを受けているようには見えない。多少、押されている、という程度だ。

サルファーが口を開ける。

本能的に危険を悟ったウォルナットは、頭を抱えて伏せる。

瞬時に、周囲に爆音が轟いた。稲妻の術式を、広範囲に、無差別に放ったのだろう。詠唱も無しに、これだけの術式を瞬時に展開できるとは。直撃を当然受けただろうスプラウトだが。

闇の力を全身から放ち、余裕で防ぎ抜いた様子だ。

着地するスプラウト。

「サルファーよ。 既に闇の力は、貴様の専売特許では無い!」

サルファーは答えない。

両者の力は、更にふくれあがっていく。

音も無く踏み込んだスプラウトが、大上段からの一撃を叩き込む。同時に、サルファーが全身から触手を伸ばし、それを地面に突き刺した。

触手が蠕動したかと思うと、全てが根元から引きちぎられる。

スプラウトの打撃を受け止め、受け流したのだろう。触手そのものを犠牲にすることで。いつの間にか、サルファーは最初よりずっと大きくなっているように、ウォルナットには見えた。

形も変わっている。

巨大な骸骨という風情だった最初に比べて、何か肉食獣的な雰囲気が見えるようになってきている。上半身だけの姿が、それによってまがまがしさを増していた。顔などは、まるで大型の爬虫類の骨格だ。

恐らく、戦闘態勢に入っている、という事なのだろう。これがサルファーにとって、洗練された戦いやすい形状、というわけだ。

触手がサルファーの全身から伸びる。真っ白な体と同じく、清潔感を感じない病的な色だ。触手自体は、口がついているわけでも目がついているわけでも無く、特に飾り気が無い。

スプラウトは、飛んできた触手を素手で掴むと、引きちぎる。剣を振るって斬り伏せる。そして、相手の手数をものともせず、悠然と進む。

振り下ろされたサルファーの右手を、片腕で受け止めてさえ見せた。

尋常ならざる準備をしてきたのだと、ウォルナットにも分かる。ウォルナットも、酒を控えて、達人に技を習って。最初から、これくらい熱心に準備をしてきていたら。

そう思うと、やはり後悔が募った。

また、サルファーが何か術式を展開する。

今度は炎だ。凄まじい火柱が、地面から吹き上がる。周囲の地面が瞬時に溶けるほどの熱量だ。

だが、それをスプラウトは、こともなげに一刀両断した。

文字通り、炎の柱を斬ったのである。多分魔術的な干渉を行ったのだろう。

だが、サルファーは驚く様子も無い。

この程度は想定内という風情で、今度は無数の光の矢を出現させ、スプラウトに飽和攻撃を仕掛けた。

爆発が連鎖し、スプラウトの姿が煙に消える。

だが、次の瞬間には、それを斬り破って躍り出たスプラウトが、サルファーの頭に、唐竹の一撃を叩き込んでいた。腹の辺りまで切り裂かれるサルファーだが、しかし、即座に再生する。

きりが無い。

だが、スプラウトは、それを見越しているようだった。

「どうした。 早く本体から力を引っ張りださんか。 さもなくば、儂には勝てんぞ」

「……」

サルファーは答えない。

だが、その力が、更にふくれあがっていくのを、ウォルナットは感じる。また、サルファー自体も、更に異形化していく。全身がとげとげしくなり、白さがますます病的になっていく。

ソロモンに使われているときに聞いたのだが、上級の悪魔などには、戦闘時に形態を切り替えるタイプがいるという。力の消耗を押さえたり、相手の出方を見るためだったりするそうだが。

サルファーの場合は、単に力を注いでいる結果、姿が本来のものに近づいている、というような理由だろう。

少しずつ、スプラウトが押し返されはじめる。

 

中軍が前進を止め、激戦地を迂回しはじめたのを見て、ラファエルは単身で、魔島を進み始めた。

心の闇は、どうにか振り払った。

だが、心にわき上がる邪悪な想念が消えたわけでは無い。不意にわき上がっては消え、ラファエルの罪悪感に噛みつき続けた。

悪霊は、姿を消しつつある。

強烈なクラスター弾の火力で掃討されたのか。いや、それは違う。先までも、そうやって怒濤の猛攻が浴びせられていたのに、敵の数は減る気配も無かった。

遠くで、稲光が見えた。

あれは恐らく、自然現象としての雷では無い。かっての師であるスプラウトが、今まさにサルファーと戦っている光だろう。

復讐鬼と化したスプラウトが、怨念の限りを、敵にぶつけているのだ。

中軍が辿り着くまで、まだ時間がある。

少しでも、サルファーの力を消耗させなければならない。他の九つ剣は、前線で戦っていて、それぞれの部隊を守るのに精一杯の筈だ。支援に駆けつけることは、期待出来ない。

不意に、何かが飛来した。バウンドして転がる。

それが切り落とされたサルファーの手だと気付いて、師が意外に善戦していることを、ラファエルは悟る。

しかし、前の方から感じる禍々しい気配に、衰えは全く無い。

更に言えば、パティ族がサルファーの空間操作能力を封じなければ、奴はいつでも、不利になった途端トカゲの尻尾斬りで逃げ出すだろう。

一旦師匠には引くように説得するべきだが、既に師はかっての偉大なる大剣士では無い。その思考回路は復讐一色に塗りつぶされており、敵を前に引くことなど、絶対に考えはしないだろう。

サルファーの切り落とされた手は、禍々しい霧を発しながら消えていく。一瞥だけすると、ラファエルは、師が戦っている方向へ歩き始めた。

戦いを止められないのなら。

するべき事は、一つだ。

程なく、激烈な死闘が見えてくる。

サルファーは殆ど位置を変えていない。マローネの話にあったウォルナットだろう。それを足下に抱え込んだまま、スプラウトの猛攻を捌いている。スプラウトは凄まじい動きでサルファーの触手や魔術による怒濤の猛攻を凌ぎながら、真っ黒に輝く剣で打撃を浴びせている。斬撃と言うには、少し無骨すぎるのだ。

ラファエルが見たところ、スプラウトはやはり善戦している。以前ラファエルと二人で一度サルファーを倒した時とは比べものにならないほど力が上がっている様子だ。だが、サルファーは打撃を受けて体を削られても、即座に再生する。それどころか、どんどん力が上がっているように見えた。

それだけではない。戦術の多彩さも、一秒ごとに増しているようだ。スプラウトもまだ余裕を見せているが、それもいつまで続くか。

ヘリオトロープを展開。

スプラウトに向け、サルファーが腕を伸ばした瞬間、その関節部に転移して、一息に叩ききる。

絶叫したサルファーの顔面を数度切り裂き、飛び退いた。スプラウトが、此方を見もせずに言う。

「何をしに来た、青二才」

「引けと行っても、貴方は引かないでしょうから」

「ふん。 此奴を殺すのは儂の役割だ」

「いいですか、サルファーは空間を操作する力を持っています。 しかも貴方は既に、天界のものから、ダークエボレウスでサルファーを吸収しても殺せないことを聞いているはずだ」

サルファーが再び腕を再生させる。

それだけではなく、腕を増やした。二本だった腕が、肩関節から伸びてきた新しい白くて細い腕によって、八本にふくれあがる。

増えた手はまるで女子供のように細くふくよかで、病的な白が却って異様さと不気味さを強調していた。

「だからどうした。 儂が此奴を倒す切り札くらい、用意していないと思ったか」

「思ってはいません。 しかし、恐らくそれは通用しないでしょう」

「何……!?」

無数の腕が、殺到してくる。

地面を打ち砕くほどの速度とパワーだ。ラファエルは空間を跳躍してそれを避け、スプラウトは身体能力で攻撃をかわす。

すぐに、会話する余裕は無くなった。サルファーが残している二つの手を、ひらひらと舞うように動かしはじめたからだ。

途端、雲を割いて、小さな石が落ちてくるのが見えた。

とんでも無い爆発が巻き起こる。小さな石だというのに、地面に直撃すると、あれほどの破壊をまき散らすのか。

更に、手を動かすサルファー。

今のは狙いがはずれたが、あれを続けさせると、どんな被害が出るか知れたものではない。

スプラウトが、大上段に構えた剣を振り下ろす。

サルファーより遙かに前だが、衝撃波はサルファー自身を直撃し、わずかな間、動きが止まる。

その隙にラファエルはサルファーの懐に潜り込むと、術式をくみ上げている白い手を切り落としていた。

未だに、連携は健在だ。

しかし、それが故に、師が用意してきている切り札の正体も、ラファエルには分かってしまうのだ。

空間転移を繰り返しながら、切りつけていく。

詠唱などの行動は、これで阻害する。だが、元々の消耗が激しい上に、サルファーも当然黙ってはいない。

それに、分かるのだ。この場はあまりにも闇の気が強い。

下手をすると、またさっきのように、負の思念に飲み込まれかねない。中軍はまだ到達するのに時間が掛かるだろうし、更に強くなっていくだろうサルファーを相手に、どうするか。

無言で、スプラウトがサルファーの顔面に一撃を浴びせる。

師の全身からは、闇の力が途切れる事も無く放出され続けていた。

「守りに入って、このような相手を倒せるか!」

やはり、狂戦士になっていても、師は師か。

ラファエルは苦笑すると、再びサルファーに対して、攻勢に出た。

 

2、加速する混沌

 

前衛にいる白狼騎士団の、しかも最精鋭が壊滅的な打撃を受けているという報告が来る。必死に撤退してきている部隊と入れ替わりになるようにして、最前衛に立ったのは、獣王拳団だった。

中軍が進路を変えたのに伴って、必然的に獣王拳団が前に立つことになったからである。幸いにも、悪霊の攻撃が、若干和らぎはじめている。ただし、どうも空気がおかしくなり始めたと、ドラブは感じていた。

襲いかかってくる悪霊を、拳の一撃で粉砕しながら、ドラブは無造作に歩く。

点々と散って暴れ回っている九つ剣は、それぞれが独自のルートで、サルファーに向かっているようだ。それに対して、面の制圧を要求された各傭兵団は、必然的に歩みが遅くなる。

役に立たない兵士達の援軍はいくらでも送られてくるが、彼らの面倒をみてはいられない状況も多かった。

「伝令!」

「どうした」

「白狼騎士団精鋭部隊の壊滅の状況が分かりました」

「話してみろ」

呼吸を整えながら、ドラブは辺りを睥睨する。

まだ、ドラブはメガロクロッカスの能力を、フルで展開していない。

長期戦を見込んでいるのと、大物と遭遇していないからだ。だが、それでも、既に疲弊は無視できるレベルでは無い。負傷したり、命を落とした部下も、もうかなりの数出始めていた。

「悪霊を撃退し続けていた白狼騎士団は、その邪悪な力を浴びたそうです。 そして、同士討ちをはじめてしまったとか」

「何……!?」

「残りの白狼騎士団は、部隊を再編成して、面制圧の作業を続けています。 ラファエル殿は単身、サルファーの元に向かったとか」

白狼騎士団が如何に強固に鍛えられた集団かは、ドラブも知っている。

賞金ランキングで競り合えたのは、向こうが賞金の大小に興味が小さかった事もある。そもそもサルファーと戦うことを前提にして編制された白狼騎士団は、練度でも個々の能力でも、獣王拳団とは比較にならない事くらい、ドラブだって知っている。

つまり、白狼騎士団が脆弱で、そのようなことになったわけではない。

「さっきまで、悪霊どもがあれだけ激しく襲ってきたのに、急に現れなくなったのは、それが理由か。 まずいぞ。 すぐに伝令を出して、注意を促せ!」

伝令の手配はレイブに任せると、ドラブは部下達の状況を見て廻る。

今の時点で、同士討ちをはじめそうな雰囲気は、無かったのだが。しかし、空気が加速度的に悪くなっているのが分かる。

風が出始めた。

不意に、叫び声が上がる。

白目を剥いた古参の団員が、慌てる周囲に殴りかかっている。ドラブが羽交い締めにして、地面にたたきつけた。そして縛り上げさせる。

しばらく泡を吹いて喚き散らしていた団員の形相は、尋常で無かった。

動揺が広がっていくのが分かる。

「すぐに後方に下げろ! 戦場の狂気に当てられただけだ!」

違うことは、ドラブにも分かっている。

今狂った団員は、長いことドラブが面倒を見てきた男で、数多の戦場を経験してきた古強者だ。

初陣の小僧ならともかく、この男が戦場の狂気に当てられて、取り乱すことは考えられない。

わめき散らす団員が、引きずられて連れて行かれる。ドラブは背筋に寒気が走るのを感じていた。

敵は何もしなくても、此方の戦力を、自在に削ぐことが出来る。

中軍が前進してきているのが分かった。それに伴って援軍が来るが、そいつらは本物の素人だ。

出来るだけ焦りを表に出さないように気をつけながら、ドラブは指示を出す。

「前進するぞ。 一カ所に留まっていると、ヤバイ。 狂気に侵される」

「団長っ!」

部下の一人が指さす。

どうやら、地中に潜んでいたらしいマンティコアの大軍が、島の彼方此方で姿を見せ始めた。

クラスター弾による掃討で相当数が倒れたのは見ていたが、それでもこれだけの数がまだ生き残っていたか。

進むも引くも出来そうにない。

更に、上空。また、今までほどの数では無いにしても、おぞましいまでの悪霊が出現するのが見えた。

「クラスター弾とやらでの支援を要請しろ! 全員、円陣を組め!」

これは、進むどころでは無くなった。

散っていた部下達を集めて、戦力の密度を高める。そしてドラブ自身は、メガロクロッカスのパワーを完全開放。

赤いオーラに身を包むと、一番間近にいたマンティコアに躍りかかった。

 

進撃速度が落ちたことを、マローネは敏感に感じていた。

パティ達につけているカナンが、難しい顔をしている。時々現れる悪霊の群れは、魔王セルドレスが片付けてくれているが、どうも状況は良くない様子だ。

伝令が来た。

同時に、兵士達が連れて行かれる。戻ってきた兵士達は、意識が無い白狼騎士団の戦士達を、背負っていたり担いでいたりした。

以前何度か共闘したリーナという戦士が、青ざめているのが見えた。

「リーナさん!」

「マローネちゃん……」

以前はとても快活な人に思えたのに。まるで、居場所を無くした子猫みたいな表情をしていた。

怪我はしていない。

しかし、精神的なダメージが大きい様子だ。

以前、癒やしの湖島で、この人とは一緒に悪霊と戦った。その時、白狼騎士団の精鋭部隊は、多勢に無勢にもかかわらず勇敢で、各部隊の中核として、多くの戦闘参加者が生還する手助けになった。

勇敢で、それでいながら茶目っ気も忘れない、強い人だったのに。

中軍は蛇行するようにして、前進を続けている。白狼騎士団の精鋭部隊は失われたが、まだ二百名以上が健在で、中隊長達に率いられながら、中軍に合流した。中軍の一番外側に張り付いて、防衛を担当してくれる。

「何が、あったんですか?」

「分からない。 気がついたら、みんなが凄い形相で、殴り合ってた。 ラファエル団長も、例外じゃ無かった」

顔立ちが端正なだけに、闇に囚われたラファエルの形相は凄まじかったそうである。

リーナは、狂気の中、一人だけ正気を保っていた。

どうしてだろう。

何が相手になっても怖くなることは一度も無かったのに。怖くて怖くて、岩陰で頭を抱えて震えていたそうだ。

やがて、静かになって。ラファエルだけが、立ち上がった。頭を振りながら周囲の隊員を呼ぶラファエルは、自責の念からか、歯を食いしばって、見ていられなかったそうである。

リーナは手近な隊員達を引きずって、後方の友軍と合流。味方と共同して、意識を失っている白狼騎士団の隊員を、後方に送り届けた。

だが、その時には。ラファエルは単身、サルファーの所に向かった後だったのだ。

「私は戦士失格です……」

「少し休んでいろ。 バッカス」

ガラントがバッカスに声を掛けると、無言でバッカスはリーナを背中に乗せてしまった。

呆然としていたリーナだったが、もう抵抗する気力も無いらしい。うなだれたまま、バッカスの背中に乗せられるままになっていた。

「勇敢な戦士でも、ふとした切っ掛けから、トラウマを刺激されて壊れてしまうことはあるものだ。 そういうとき、他人が何を言っても短時間で回復は出来ん。 医師に掛からんと直らない場合も少なくない。 本人次第だ」

「ガラントさんも、そういう経験があるんですか?」

「ある。 まだ俺が若造の頃だったが」

そうか。

今はもう、鉄の精神を持つ人だと思っていたが、若い頃は色々と苦労をしていたのだ。分かっていたのに、時々忘れそうになる。

超人など、マローネの周囲にはいないのだ。

ハツネが見えた。

少し前から、偵察に出てくれていたのだ。経験が浅い兵士達を色々と指導しながら、戻ってくる。

ハツネはマローネの側にまで来ると、状況を説明してくれた。モルト伯も、ハツネの偵察能力は信頼している様子で、すぐに話を聞きに来た。

「今まで黙っていた悪霊達が、また活発に動き出した様子だ。 此処にも襲撃を掛けてくる可能性が高い。 気をつけるべきだ」

「そうか。 すぐに備えよう」

モルト伯が何度か頷きつつ、指示を出す。

指揮手腕に関しては、ガラントのものをみて、マローネは何度も感心させられた。だが、モルト伯のは、それとは違う。

魔島の全てが頭の中に入っていて、リアルタイムで動かしているようなのだ。戦略級の頭脳の持ち主なのだろう。ガラントはどちらかと言えば、戦術が得意な様子に見えたから、学ぶことはとても多い。

坂道にさしかかった。

先にハツネが出て、早期警戒をはじめる。何名か兵士を連れて行き、指示をしながら、やり方を教えているようだ。

手を貸して、カスティルの車いすを引き上げる。

手が空いているように見えて、ガラントもアッシュも、周囲に備えている状態だ。ハツネもそれは同じで、鋭い目つきのまま、大きな岩の上に陣取って、辺りを鷹のように見据えている。今の時点で、する事が無いマローネが、今回の作戦の肝になるカスティルを、あらゆる意味でサポートしなければならない。

石を踏んで、車いすががくりと揺れる。

「カスティル、大丈夫?」

「平気。 それよりも、マローネ。 何だか雲行きがおかしいようだわ。 気をつけないと」

「うん。 きっと、悪霊達が来る前兆だね」

カスティルは観察力がとても高い。

彼女が指摘したのは、前の方の空。ずっと曇っていて、日光があまり見えない状態であることに変わりは無いのだが。雲が妙に早く渦巻いているのだ。

今は天候が比較的落ち着いているが、一日くらい前は稲妻が飛び交い、竜巻が吹き荒れる地獄のような有様だったはず。地面に穴がたくさん空いている所から見て、雹が降り注いでいた可能性もある。

遅々とした歩みがもどかしい。急がなければならないのに。

しかし、あの白狼騎士団でさえ、大きな被害を出す地獄だ。焦れば焦るほど、不利になってしまう。

代わりに前衛になった獣王拳団が、強力な敵の防衛ラインに接触したと、連絡が来た。ファントムのままのヴォルガヌスが話しかけてくる。

「色々とまずいのう。 マローネや、そろそろ考え時では無いのかな」

「強行突破か、安全策か、ですか」

「そうじゃ」

モルト伯にも、ヴォルガヌスの声は聞こえているはずだ。

マローネには二つ懸念がある。一つはパティ達と、カスティルだ。今は手厚い防備を固めているが、強行突破に切り替えれば、彼女らが直接悪霊の猛攻を浴びかねない。

もう一つの懸念は、先ほど姿を見せた暗殺者。

モルト伯の息子さんだという話には驚かされたが、あの人は一度引いたとは言え、そう遠くない位置で、此方を監視しているはずだ。

下手な動きを見せると、つけいられる可能性が高い。

今、此処でモルト伯を失うと、魔島で戦っている全戦力が、瓦解しかねない。

マイペースでついてきたコリンが、カナンに何か耳打ちする。

「どうしたの? コリンさん」

「ああ、急げるかって聞いたんだよ。 後ろの方で、どうもかなり大規模な襲撃があったみたいでね。 混乱が広がってる。 このままだと、補給線を断たれるよ」

「それは本当かね、ファントムの魔術師」

「本当も何も、音を拡大してあげるよ」

モルト伯の側で、ハツネが指先を動かして、小さな魔法陣を中空に作り出す。

途端、後方の阿鼻叫喚が聞こえ来た。

今回の戦闘では、悪霊の襲撃に備えて、強者が彼方此方に散って派遣されている。しかし、どうしても戦力の空白地帯は出来てしまう。

それが、ピンポイントで突かれた感触だ。

だが、同時に朗報もあるという。

「前衛が、敵を蹴散らしたみたいだよ。 もしも行くなら、今をおいて他にないと、あたしは思うけどなあ」

「伯爵様、急いでください」

カスティルが、決然と顔を上げた。

此処で後方に下がるのは、愚策の中の愚策。マローネも、下がるべきではと理性がささやきかけるのだが、それは敵の策だと分かっている。

残酷なのでは無い。

その場その場で、対応してもらうしか無いのだ。むしろ此処で急がなければ、死んでしまう人が増えることになる。

「狼煙を使って、後方に九つ剣の誰かを派遣。 数は四百ほどのようだから、対応は不可能では無いだろう」

「俺が行ってもいいが」

「いや、魔王セルドレス、貴殿は中軍に。 恐らく、敵は前進を開始すると同時に、中軍に大規模な攻撃を仕掛けて来るだろう。 それを防ぎ抜いてもらいたい」

「先の先まで読んでるんだな。 分かった」

セルドレスも、今までの戦いで、モルト伯の高い指揮能力は身で感じているのだろう。素直に言葉に従う。

モルト伯は、かなり年老いている印象があった。

だが戦場に出てくると、背も伸びているし、言動もかなりはきはきしている。問題は足が弱ってしまっていることだが、杖を突きながら、かなり健脚に歩いていた。

行軍速度を、早める。

前衛が見えてきた。

陣形を変えながら、獣王拳団が踏み散らした敵を避けるようにして、進み始める。辺りは血の臭いがものすごい。原型を残さないほど砕かれた、異形の怪物達の死体が、辺りには点々としていた。

カスティルを何度か気遣うが、彼女は平気だと言った。とても気丈で、マローネの方がむしろ勇気づけられる。

肩で息をしながら、前方を見据えているドラブを見つける。

手を振って声を掛けると、ドラブはふんと鼻を鳴らした。

「早く行け。 今は一時的に撃退しただけだ」

「ドラブさん、ご無事ですか? 怪我をしているなら、手当てします」

「ふん、余計な心配をするんじゃねえ。 だいたいすぐにサルファーの所まで、俺も辿り着く。 お前に手柄を独占させてたまるかよ」

血震いするドラブ。

恐らく、フルパワーでメガロクロッカスを展開して、短時間で敵を殲滅したのだろう。消耗も相当なはずだ。

だが、それでも憎まれ口をたたける辺りが、歴戦の猛者である貫禄だろう。

アッシュがマローネの肩に手を置く。これ以上は、戦士である彼の事を、尊重しない行為につながるというわけだ。

進みながら、モルト伯が伝令を細かく飛ばし始める。戦いも散発的に、だが確実に回数が増え始めた。

移動してきたアマゾネス団と風の翼団が、消耗の激しい獣王拳団に変わって、前衛につく。

そして、フォックスもそれに加わった。

前進速度が、露骨に上がる。

伯爵が、陣形を切り替えた影響だろう。

ただし、同時に敵の出現頻度も上がる。マローネはカナンとパレットと一緒に、ずっとカスティルとパティ達の側についていた。

打ち直してもらった杖に、何度も触る。

みんな、戦っている。今、マローネだけが、心を乱すわけにはいかない。全体の指揮をしているモルト伯を信じる。

そして、この戦いを、終わらせるのだ。

頭上。

空が真っ黒に見えるほどの悪霊が現れる。今までとは、数の桁が二つくらい違った。

セルドレスが空を見上げた。

「どうやら、俺は此処で足止めをする必要がありそうだな」

「セルドレスさん!」

「どうせ俺はサルファーとの戦いじゃあ役にたたん」

それに、とセルドレスは続けた。

マローネが言ってたウォルナットが、彼の有人である魔王ソロモンを殺した相手なのだという。

まだサルファーはウォルナットを殺していない可能性もある。そうなると、セルドレスは冷静な判断が出来ない可能性が高い。

「殆どの世界の人間はずるがしこいばっかりでよわっちい奴らだが、この世界は嫌いじゃねえ。 それに、サルファーをどうにかしないと、俺たちの世界まで、いずれ侵略されるだろうしな。 此処は俺がどうにかするから、あんた達はサルファーを頼むぜ」

「信頼してくれるんですね」

「俺は、ソロモンの奴と一緒にお前さんを見ていたからな。 信頼出来る人間は多くないが、お前はその少数だって思っているよ」

サルファーは、もうすぐ側だ。

多くの人が道を作ってくれる。

セルドレスと一緒に残る兵士も多い。経験が浅い者も少なくは無いが、いずれもが決死の覚悟を顔に浮かべていた。

まもなく。

ウォルナットと戦った地点に、到着する。

 

触手の束が、スプラウトの斬撃を、ついに受け止める。

一秒ごとに強くなっていくサルファーが、とうとうスプラウトの力を、目に見えて上回りはじめた。

もっとも、サルファーにとっては、この程度は肩慣らしに過ぎないのかも知れない。

力を、ただ少しずつ、空間の裂け目の向こうから、引っ張り出している、くらいに過ぎないだろう。

「むううっ!」

はじき返されたスプラウトが着地する。だが、残像を残して振るわれた触手が、その姿を、叩き潰しかき消した。

轟音と共に、クレーターが出来る。

ラファエルは空間転移を繰り返しながらサルファーに傷を付けていくが、埒があかない。そろそろ、限界が近い。

触手を吹き飛ばし、スプラウトが立ち上がる。

巨漢の老いた体には、既に傷が無数につき、鮮血も噴き出しはじめている。真っ黒な鎧も、もう罅だらけだ。

だが、スプラウトが諦める様子は無い。

彼が懐から試験管を取り出し、地面にたたきつける。濃厚な魔力を含んだ霧が立ちこめ、スプラウトの体の傷が消えていく。相当無茶な回復術を、しかも圧縮して蓄えていたのか。言うまでも無く、回復の術は体への負担が決して小さくない。あれだけの速度での回復となると、尋常では無い痛みがあるはずだが。

既にスプラウトは、痛みを感じないか、或いは超越してしまっているらしかった。

サルファーは、既に腕が八本、頭が三つという異形になり、全身から丸太のような太さの触手を無数に伸ばしている。

その体格も、最初ラファエルが戦いはじめたときに比べて、三倍以上にふくれあがっていた。しかも傷を付けても即時再生するところから見て、攻撃は殆ど効いていない可能性が高い。

さて、どうする。

スプラウトは、今まで多くの切り札を使って来ている。サルファーを拘束する闇の鎖や、一瞬足止めをした巨大な黒い槍、それに光で出来た剣で、サルファーの首をはね飛ばしもした。

確かにどれも一瞬は効く。

だが、次の瞬間には、もう効果が見えなくなっている。

しかし、スプラウトはそれを知っている様子だ。

「その道具は、どれも大陸で見つけてきた遺物ですね。 前時代の」

「そうだ。 どの世界でも、人間の先祖となった連中がいるらしいが、そいつらの持ち込んだものだ。 儂にしてみれば、この化け物を殺す事さえ出来れば、何をしようと構わぬからな。 使う事に、何らためらいはかんじんが、或いは学者であれば憤激するかも知れんなあ」

スプラウトが、剣を構え直す。

サルファーの力は、既に明らかにスプラウトを凌いでいる。ラファエルも、今はもう、簡単には仕掛ける隙が見つけられないでいた。

「ダークエボレウスは無意味ですよ」

「言われなくても分かっておる」

じりじりと、間合いを計り合う。

かっての九つ剣筆頭と、現在の九つ剣筆頭の連携でも、サルファーには勝てる目が全く見えない。

以前戦ったときよりも、明らかにサルファーが強いのは、何故だろう。

天界と魔界が、色々と工作をした結果なのか。だが、はっきりしていることは、マローネによる作戦が上手く行けば。

もう、サルファーは、何度潰しても復活する怪物では無くなる。

スプラウトが、かき消える。

触手が、空中で無数にぶつかり合った。ぶつかっている場所で、スプラウトを叩き潰そうとしているのだ。残像を残しながら空中を跳ね回っているスプラウトが、大上段からの一撃を、サルファーに叩き込む。

同時にラファエルが、サルファーの足下に飛び込む。

足は無いが、内臓はむき出した。真下にいるウォルナットと、一瞬だけ視線が合った。サルファーの頭蓋骨が、スプラウトの一撃を、火花を散らしながら跳ね返すのが見えた。ラファエルがその瞬間、渾身の力でヘリオトロープを展開。

ついに、サルファーの肋骨の内側に、潜り込んだ。

一息に内臓を斬り伏せると、肋骨の内側から脱出する。全身から真っ黒な血を噴き上げたサルファーが、悲鳴を上げながら触手を振り回す。

痛打だ。完全に入った。

スプラウトが、もう一撃、サルファーの頭に打撃を叩き込む。頭蓋骨がへこみ、更にもう一撃で、唐竹に打ち砕かれた。

さっきまで何度も浴びせていた打撃で、サルファーの体には大きなダメージが入っていたが、すぐに回復されていた。

しかし、今度は違う。

明らかな手応えがある。

スプラウトが、剣を逆手に持つと、サルファーの頭蓋骨の切れ目に突き刺す。剣からは、膨大な闇の力が、あふれ出ていた。触手がスプラウトを何度となく打ち据える。だが、スプラウトは、ついに術式を完成させる。

「サルファー! 貴様を儂らと、同じ土俵に引きずり落としてやろう!」

剣を捨てて、スプラウトが飛び下がる。

剣から噴き出した闇が、サルファーの全身を包んでいく。これは、ダークエボレウスで、今まで蓄えた力を、逆噴射しているのか。

サルファーの体が、染まっていく。

白から、黒に。

それは、スプラウトがため込んだ力と同質のもの。

つまり、今、サルファーはスプラウトの怨念で汚染されたことになる。奴の体は全てが悪意の塊だ。

しかし、確実に黒が白をむしばんでいるのが分かる。これは、サルファーがまだ限定的な部分しか、この世界に出てきていないこと。そして、それだけスプラウトがため込んで調整してきた怨念が、濃いということだろう。

スプラウトが印を切る。

同時に、サルファーの全身が、真っ黒に染まった。

これなら。スプラウトの力が、今なら、サルファーの中枢にまで届くはず。

これが、スプラウトの切り札か。恐らく最初は、サルファーを丸ごとダークエボレウスで吸収しようと思っていたのだろう。だが、それが不可能だと知った今、柔軟に戦術を切り替えた。

まだ、スプラウトは、現役で九つ剣筆頭をやれる。

サルファーが絶叫する中、スプラウトが全力での拳を、奴の胸の中枢に叩き込む。それを支援するべく、ラファエルはヘリオトロープを全力で展開し、サルファーの触手を、全て叩ききった。

「もう一撃……っ!」

着地したスプラウトが、更に拳を叩き込む。

あまり時間は無い。今攻めきれば、このままサルファーを倒せる可能性が高い。奴の中枢、汚染されきった魂へ攻撃が直接入れば、流石のサルファーでさえひとたまりも無いだろう。そして今、攻撃は確実に届いている。

サルファーの手が振り下ろされる。

その姿は、最初の、骸骨のようで上半身しかない、シンプルなものに戻りつつあった。悲鳴を上げながら、サルファーの全身から、黒い気が放出されていく。スプラウトの怨念だ。異物を排除しようとしているのだろう。

だが、スプラウトが、拳を休めない。

ついに、その拳が、サルファーの全身にひびを入れる。息を漏らすような音と共に、サルファーの額から、剣が抜け落ちた。

サルファーの全身に、罅が走っていく。

雄叫びを上げるスプラウトに呼応するように、その罅から、光が迸り出始め。

そして、落ちてきた剣をスプラウトがつかみ、構える。

ラファエルも、それに合わせて、構えを取った。

「最大の一撃を叩き込むぞ!」

「応ッ!」

大上段に構える、スプラウト。

剣に手を添えるようにして、構えを取るラファエル。

二人が呼吸を合わせるのは、三十年ぶり。だが、その呼吸に乱れは無く、まるで吸い込まれるように、一双の一撃は、サルファーに叩き込まれていた。

光の柱が、その場に出現する。

それが納まったとき。

サルファーの姿は存在せず、其処にはただ虚無だけが残されていた。

 

勝ったのか。

スプラウトは、己の拳の感触を確かめる。手応えは、確実にあった。しかし、どうもおかしい。

側には、ウォルナットとか言う若造が倒れている。

周囲の闇の気配は、消えていない。つまり、サルファーは死んでいないと言う事だ。魔剣シヴァを拾い上げると、次はどうするか、考えはじめたスプラウトの全身を、鈍痛が襲った。

しまった。

敵に己の力を馴染ませるという事は。

敵も、此方の力に馴染むと言う事なのだ。サルファーの力が、スプラウト自身に注ぎ込まれていることが分かる。

思わず咆哮した。

まさか、仇を討つことも出来ず、敵の苗床になろうとは。許せる事では無い。

思わず腹をかっさばいて死のうと思ったスプラウトの手が止まる。既に、筋肉までが、敵の支配下に落ちている。

己の体から、白い力が溢れはじめるのを見て、スプラウトは絶望した。

「ラ、ラファエル……! 儂を、殺せ! 今すぐ!」

爆発的な邪悪な力が、スプラウトの内部から、炸裂するように噴出した。

 

3、邪神死せず

 

もの凄い魔力の波動が来た。

マローネは思わずカスティルをかばう。空に向けて伸びた光の柱が見えた。

沈黙の中、誰もが思う。

ひょっとして、先行していた誰かが、サルファーを倒したのでは無いのだろうかと。

しかし、それにしてはおかしい事が多い。

後方での戦闘が、まだ続いている。雲間では、セルドレスが放った魔術が、悪霊をまとめて吹き飛ばしている。今でも、まだ戦闘は続行中なのだ。

それに、魔島を覆う嫌な気配は、まだ消えない。

それどころか、ますます強くなっているのが感じ取れるのだ。

「む……どう見る」

「サルファーは死んでいません」

「……だろうな」

モルト伯は、続けての前進を指示。嫌な予感がする。

しばらく上り坂が続いた。カスティルを押して、出来るだけ急ぐ。後続のパティ達は頑張ってついてきているが、流石に疲れが見え始めたようだ。一緒に来ているヒーラーが疲労緩和の術式を掛けているが、それでも限界がある。

坂を登り切る。

殆ど同時に、光の柱が途切れた。

周囲に降り注いでくる、光の粒子。何だろう。とても嫌な予感がする。

コリンがにやにやしながら、光の粒を一つ取って、握りつぶす。途端、それが真っ黒な闇と化して、周囲に小さな夜を作った。

背筋に寒気が走った。

「口を押さえてください! それを吸い込んだら駄目です!」

「何だこれは!」

「きっとこれは!」

今まで、多くのサルファーのしもべ達を見てきた。

共通していたことがある。体が、どれもこれも、病的な白だった、という事だ。つまりサルファーは、光にも見える闇で全身を覆っている。

コレは恐らく、その最小要素だ。

慌てて口を押さえる周囲のなか、カスティルが指さす。

倒れている何名かの人。一人はウォルナットだと判別できた。意識無く、倒れ込んでいるようだ。

もう一人は、誰だろう。

身を起こしたことで、分かる。大柄な老人。スプラウトだ。激しい戦いの末だからか、鎧が砕けてしまっている。手にしている大剣も、既にぼろぼろの様子だ。

ラファエルがいて、二人から距離を取っている。

ついに、此処まで来たか。

虚空には、巨大な闇の穴。まだ脈動を続けている。

悲鳴を上げる兵士もいた。あのような恐ろしいものを見たのは初めてなのだろうし、無理も無い事だ。

「ラファエルさん!」

「来るな!」

強烈な、拒絶の意思。

視線が注がれているのは、スプラウトに対してだ。ラファエルが、冷や汗を掻いている様子が、遠くからでも見て取れた。

サルファーは、いない。

否、いる。分かる。あの強烈な波動は、消えていない。そして、目が合った瞬間に、理解できた。

スプラウトが、サルファーに乗っ取られたのだと。

唸り声を上げながら、スプラウトが此方を見る。

そして、マローネが反応するよりも早く。

既に、間近の至近に、全身を分厚い筋肉で包んだ落ちた英雄が、剣を振り上げて立っていた。目は真っ赤に染まり、何があったかは分からないが、正気を保っていない事は確実である。

風が吹き荒れるのが、その後。

スプラウトは、風より早く動いたと言うことになる。身動きも出来ない。あまりにも圧倒的な力を、感じ取ってしまったから。

剣が、振り下ろされる。

死ぬ。

だが、そう思った時。

動いた人が、三人だけ、いた。

金属音と同時に、マローネの前の地面が、巨大なひび割れを起こす。

ガラントが、大剣で、スプラウトの一撃を受け止めていたのだ。もう一人、ラファエルが並んで、剣を受け止めてくれていた。

ヘリオトロープの力か。

そして、もう一人は、アッシュ。

マローネをかばうようにして、剣を白羽で取っていた。だが、その顔は蒼白である。三人がかりで、やっと剣を止められたから、だろうか。

「マローネ!」

カスティルの声で、我に返る。

モルト伯が指示を飛ばした。

「急いで皆を集めよ! サルファーと接触した! 最前線は、サルファーと接触したと、狼煙を上げよ!」

「だま、れ……!」

バッカスが、膠着状態の四人に向けて跳躍し、回転しながら突撃した。スプラウトが残像を残してかき消え、バッカスを踏みつぶす。

だが、アッシュが横殴りの蹴りを叩き込み、スプラウトがわずかにその巨体を揺るがせた。

それで、気付く。

スプラウトの全身から、禍々しい青白い光が立ち上っている。

これは、サルファーのしもべに憑依された可哀想な動物たちと、同じ症状だ。

「コリンさん!」

「出来るだけ消耗はしたくなかったんだけどなあ」

カスティルに、目配せ。

彼女も、動き出してくれた。

 

雄叫びを上げたアッシュが、エカルラートを全力で展開する。

まだマローネの魔力バックアップは受けていないが、その状態で、アッシュはフルパワーで戦うつもりだった。

もはや、消耗など気にしていられる段階では無い。パワーもスピードも桁違いの相手だ。一瞬だけでも上回らないと、とてもではないが話にさえならない。

拳を顔面に叩き込む。

だが、スプラウトは、それを指一本で受け止めて見せた。

スプラウトの巨体が、それでも流石にずり下がる。岩だらけの魔島の地面に、二本の巨大な裂け目が走った。スプラウトが高速で地面を擦り下がったためだ。

唸り声を上げたスプラウトは、剣を横に、無造作に振ろうとする。

其処へ、真横に回り込んだラファエルが、剣を振り下ろして、止める。だが、ラファエルの頭を掴んだスプラウトが、地面にたたきつける。そして、ハツネが必殺の気合いで放った光の矢を、一喝だけでかき消した。

「カアアッ!」

爆風が、飛んでくる。

ただ、叫ぶだけで、悪霊達を幾多と仕留めてきたハツネの矢を。

兵士の中には、吹っ飛ぶ者さえいた。マローネはカスティルの車いすをかばうようにして、しがみつく。

パティ達が慌てて右往左往している。その中で、モカがもう準備を始めた様子だった。

スプラウトの大砲のような一喝が、ハツネの矢を打ち消したことは、戦慄以外の結果も生む。

その隙に、ガラントが至近に潜り込むことに成功したのだ。

振り下ろした大剣が、スプラウトの剣とぶつかり合う。たった一合で、剣豪ガラントが、顔を歪めるのが分かった。

自力が、違いすぎる。多少隙が出来たくらいで、どうにか出来る相手ではない。

タックルしたのは、バッカス。先ほど踏みつぶされたダメージが残っているだろうに、勇敢なリザードマンの戦士に、怖れる様子は無い。しかしバッカスよりも体格的に優れているのではないかとさえ思わせるスプラウトは、面倒くさそうに、左手一本でバッカスをはじき返す。

だがその時には、両手がふさがったスプラウトの至近に、アッシュが迫っていた。ゆっくり、スプラウトがアッシュを見て。

その拳を、膝を挙げて受け止めていた。

スプラウトの後ろの地面が、吹っ飛ぶ。

「小僧……!」

一瞬の攻防。

ラッシュを叩き込むアッシュだが、その全てがスプラウトの左手一本、しかも人差し指だけで防がれる。

完全に格が違う。いや、これは異常すぎる。

元々の実力に、サルファーに乗っ取られたことが影響されているのか。

「儂、を、殺せ……!」

戦慄が走る。あの復讐鬼スプラウトが、そのようなことを口にするなんて。何があっても、自分でサルファーを殺す事にこだわっていただろう男なのに。それほどの絶望が、彼を包んでいたのか。

気合い一閃、回し蹴りをスプラウトの左側頭に放つ。だが、それは、スプラウトが避けもしなかった。

手応えどころか、まるで鉄の塊を、蹴ったような感触だ。首の筋肉と骨だけで、受けきられてしまった。

アッシュも、それなりに鍛え上げてきた。魔物にも、鍛え抜いた体術は通用する事が、今まで証明されてきた。それなのに、これほどの戦力差が生じてしまうと、背筋に寒気が走る。

スプラウトの圧倒的な実力は知っていたが、これはもう、人間の形をした別生物だ。

立ち上がったラファエルが、背中から容赦の無い突きを繰り出すが、スプラウトの姿は既にかき消えていた。

そして、上空から飛んでくる、極悪な風圧。

拳をただ繰り出しただけで、この有様か。地面が、巨大なこぶしの形でえぐれる。逃れる、暇など無かった。

着地するスプラウト。

その全身に、四方八方からハツネの放った矢が、同時に降り注ぐ。今の一瞬で、準備してくれたのだろう。

鬱陶しそうに、剣をふるって、こともなげにその全てを叩き落とすスプラウト。もう、手が無い。コリンは切り離すための術式の準備中だし、スプラウトに痛打を浴びせられる人間が、周囲にいない。

これまでか。アッシュが覚悟した。スプラウトが、まずはアッシュを殺そうと、剣を振り上げた。

だが。その全身が、瞬時に凍結した。

「諦めるんじゃないよ!」

すぐ至近。アマゾネス団の団長フレイムが、彼女の能力であるコバルトブルーを展開し、立っていた。

氷が砕ける。内側から、スプラウトが爆砕したのだ。

だが、スプラウトを横殴りに、風を纏ったチャージが襲う。体勢を崩していた巨体が、吹っ飛んで、地面を数度バウンドする。

オウル・ミョゾディス。今度は風の翼団のリエールか。

更に、極太の光の矢が、スプラウトに迫る。雄叫びとともに、スプラウトが拳を振るい、それを強引に上空へ向け吹き飛ばした。

岡ノ上には、見覚えのある大砲のような死人。

フォックスだ。少し後ろで、敵の追撃を防いでいたはずだが。

至近、着地した巨体。

全身に赤いオーラを纏ったその男は、さっき敵の前衛を爆砕してくれた、ドラブではないか。

「小僧、タイマンでやろうっていっただろうが。 それに、すぐ行くって言っていたよな」

「……っ!」

悔しさからの声では無い。

ガラントも、ラファエルも、バッカスも、皆立ち上がる。

スプラウトが、禍々しいオーラを全開に、躍りかかってきた。だが、ここからが、本番だ。

まだ、サルファー本体も出てきていないのに、此処で手こずるわけにはいかない。

「多少は手応えが……ありそうだな」

スプラウトが、まずは空中を旋回しているリエールに躍りかかろうと、腰をかがめる。だが、アッシュが、踵落としを間髪入れずに叩き込む。

地面に走る亀裂。飛び退く。

マローネ。今、此処で無理をしなければ、勝てない。

以心伝心。アッシュの全身に、力がみなぎっていくのが分かる。思考が伝わったのだろうか。

否、マローネが、それだけの戦術判断能力を身につけている、という事だ。

動きを止めて、スプラウトから闇の力を切り離す。それさえ出来れば、後は決戦に持ち込むことが出来る。

コリンの詠唱は、そろそろ完成するはずだ。

後は、スプラウトの動きを、止めれば良い。

「小僧、チャンスはあまり無いぞ」

「分かっている!」

ドラブも、赤いメガロクロッカスのオーラを、煌々と全身から噴き上げていた。

上空にいるリエールも、印を組んでいるフォックスも、そして次の手に入ろうとしているフレイムも、もう最終攻撃に出る準備は出来ているはずだ。

ガラントやバッカス、ハツネに至っては、言うまでも無い。疲弊が激しいラファエルも、きっと一手は有効打を入れてくれるはず。

此処で、一気に勝負を付ける。

マローネの消耗も、これから控えている可能性が高い本戦のために、押さえなければならない。

「二秒! 時間を作って!」

「楽勝だ!」

コリンの声に、ドラブが応える。

不覚にも、頼もしいとアッシュは思ってしまった。

 

魔島の海岸線では、既に船が幾つか出航しはじめていた。

負傷者を運び出しているのだ。いずれもが、魔島の隣の島に作られた医療キャンプに移されている。

既に海岸線の基地は、けが人で満杯だ。更にこれからけが人が増えることは、目に見えていた。

三隻目が、四百名近いけが人を乗せて出航していく。既に海上でも悪霊の襲撃が起こり始めているため、船には兵士達百名以上が護衛として乗り込んでいた。傭兵団が使うボトルシップよりも、海軍の船は大きくて性能も高い。軍が傭兵団に勝っている唯一の要素だと言われているほどだ。

出航する船を見送るブータンは、次々に渡される請求書を見て青くなる。

今回、戦いのために、バンブー社は全面的なバックアップをすると明言した。

古来より、戦争では補給が勝敗を決める。軍も今まで蓄えた物資を、全力で供給してくれてはいる。

だが、バンブー社の負担が、とんでも無く大きい。

ヒーラーは殆ど全員が魔島に集結し、けが人の治療に当たっている。軍部隊に従軍している者達もいるし、当然戦闘が終われば死者も出ているだろう。

それだけではない。物資も、今は湯水のように使われている。

回復系の術だけでは、けが人は助けられない。包帯も薬品も、必要なものはそれこそいくらでもある。

ヒーラーの補助をする人間も、殆どがこの魔島に来ている状態だ。

悲鳴のような声が上がった。

兵士が一人、引きずられていく。オウル族のまだ若い男だ。戦場の狂気に当てられてしまったらしい。大の大人が、泣きながら引きずられていく光景は、滑稽などでは無い。空恐ろしかった。

そして、請求書の書面に並ぶ金額も。

既に予想されていた消耗を上回っている。バンブー社の数年分の黒字が、この数日のために消し飛ぶことは、疑いようも無かった。

人類が勝つためだと言う事は分かっている。

今まで、どうしても倒せなかったサルファーを、滅ぼせる可能性が、今こそ到来している事も。

だが、痛みは大きい。

大きく嘆息したブータンの肩を、誰かが叩いた。

「誰だ」

「よお。 久しぶりやな、社長はん」

「コールドロンか」

島喰らいのコールドロン。悪辣な不動産業で知られる顔役だ。それでSP達も、行動を遮らなかったのか。

何度かバンブー社も、立ち退きの関係で仕事を一緒にしたことがある。あまり良い印象が無い男だが、仕事上では重要なパートナーだ。なれなれしく接してくるが、何を考えているか全く分からない男でもある。

利害が一致している上では無害な相手だから、今のところは何ら気にすることは無い。

葉巻を咥えると、火を付けてくれた。

しばらく、出航していく船を、並んで見やる。

そういえばコールドロンは、今回傭兵団の出費を全額バックアップしたと聞いている。主要傭兵団の装備関連だけでは無い。中小の傭兵団や、腕利きのクローム達までもが、あまりに大盤振る舞いなコールドロンの行動に小首をかしげているそうだ。

コールドロンはけちでは無いが、金の使い方がとにかく厳しい。闇社会で怖れられているのは、実際に危険な要素が大きい男だからである。

「コールドロン、あンた今回、どうしてあンなに多額の支援をしたんだ?」

「何だ、社長はん。 わからんでか?」

「分からンね。 まさか、本当にマローネの魅力に参ってるとかいうつもりじゃないだろうな」

「……」

腕組みをしたコールドロンが、鼻を鳴らす。

「社長さん、あの娘の価値が、わかっとらんようやな」

「分かってはいるわい」

実際、マローネの実力は凄まじい。

白狼騎士団でも短期間では攻略が難しかろうと思われた本社ビルの異変を、あの小娘は手持ちのファントムだけで、短時間で解決して見せた。

それによる本社業務の停止被害は最小限で済んだし、あの事件は下手をすると富と自由の島全体に損害が拡大していただろう。

かって、緑の守人島の研究施設建設を邪魔されたという恨みはある。

だが、それ以上に恩義がある。

だから今回の件では、借りを返す意味もあって、出資には同意した。それにブータンも分かっているのだ。サルファーをどうにかしなければ、イヴォワールは終わりだという事くらいは。

「マローネちゃんに女としての魅力を感じるかと言われたら、それはワシだってノーや」

「当たり前だ。 お前さんには確か妻もいただろう」

「だがな、あの子はこれから、歴史上最大の英雄になるんやで? はっきりいって、どれだけ投資してもおつりが来る。 こんなぼろい商売、他にあると思うか?」

どうやらコールドロンは、マローネがサルファーを倒せると確信しているようだった。

側に控えているキャナリーとか言う腕利きのクロームは、じっと黙り込んだまま、魔島の方を時々見ている。

「で、本音は?」

「何や、つっかかるのう、社長はん。 さっき報告書見とったみたいやけど、さては収支に青ざめたか? 図星か」

「そうとも。 だがそれで悪いか? 確かに此処の戦いで、人類の未来は決まるかも知れンし、そうだとも思う。 だがな、その後のことを考えると、青くなるってもンだ」

「贅沢な悩みやで、それ」

圧倒的な化け物を、見たことが無いだろうと、ブータンは言われて、頷く。

コールドロンは、あるのだろうか。

あるのだろう。この男は、ブータンよりもずっと後ろ暗い事をしてきたのだから。

俺は社長だと、ブータンは吐き捨てる。

社長にとって大事なのは、自分の会社だ。両親から受け継いで、そしてこれからも守っていかなければならない。

今は確かに、全力で人類の未来を掛けて戦っている者達のバックアップをしなければならない。しかし、それだけでは視野狭窄だ。

「じゃあ、こう考えたらどうや。 死ねば全部ゼロになる。 やけど、マローネちゃんに投資して、人間が勝てれば、少しは財産が残る。 残った分の財産は、丸儲けや」

「その程度の事はわかっとる」

「ならば、よろこぶべきやろ。 全財産が吹っ飛ぶより、ずっとましやで」

キャナリーが、目にもとまらない速さで動いた。跳躍して、着地する。そして、刀を鞘に収めた。

彼が切り伏せたのだと、分かった時には、既に悪霊は両断されていた。何度か見た、球体状の怪物。口だけしか無い、おぞましき異形。

霧状になって消えていく怪物は、あの時。本社ビルが潰されたとき、無数に溢れていた奴と同じだった。

「流石やな」

「これもマローネ殿のためよ」

「ああ、わかっとる。 だから、此処にいて貰ってるんや」

コールドロンは、或いは。

マローネに命を救われて、何かが変わったのかも知れない。

ブータンはどうだろう。変わるには、年を取りすぎたかも知れない。実際、理屈では、コールドロンが言っていることは分かるのだ。

ビジネスでは、どれだけでも柔軟に考える自信はあるのに。

年老いてきた自分が、何よりもつらかった。

 

モルト伯は、少し離れて戦況を見ていた。

凄まじい死闘だ。かって剣豪として鳴らしたモルト伯であるから、どうにか戦闘を見きることは出来る。

しかし、介入しろと言われたら、絶対に無理だ。

既に手足は弱り切り、目も悪くなっている。今、一つだけモルト伯が出来るのは、此処に少しでも多くの強者を集めること。

伝令を飛ばし、狼煙を上げ、手管の限りを尽くして、モルト伯は指揮を続けていた。マローネは、既に魔力を味方に注ぎ込む作業に入り始めている。

青い光と、赤い光が、交互にスプラウトにぶつかり合い、落ちた剣豪を必死に押さえ込んでいる。だが、スプラウトのパワーは、身体能力を極限まで強化する二つの光による猛攻を、素手で凌いでいた。

その場にいる誰もが分かっている。むしろ二人がガードに回り、他の者達がスプラウトの足を止めなければ、勝機が無いと。

スプラウトが、突進してきた赤い光を、左腕一本で空に弾き挙げる。

追撃を仕掛けようと飛ぼうとしたところを、フレイムの放ったコバルトブルーの能力が、スプラウトの足を凍り付かせる。だが、それをものともせず、氷を砕きながらスプラウトが飛ぶ。

だが、勢いは確実に殺される。リエールが風を纏ったまま突進し、横っ腹にチャージを浴びせ、わずかによろめかせた。

其処へ、赤い光と、青い光が、息を合わせて、上空から隕石を落とすような打撃を叩き込む。

「舐めるな、雑魚共があああっ!」

肘を打ち下ろして、二人を同時に叩き落とすスプラウト。

しかし、其処へ二度目の、光の矢による飽和攻撃が襲いかかった。自由落下しながら、その全ての直撃を受けるスプラウトだが。着地した時、その動きが鈍っているようには見えなかった。矢は刺さること無く、スプラウトの纏う青白い病的なオーラにぶつかると、爆発していたというのにだ。

首を鳴らしながら、スプラウトはまだ立ち上がるアッシュと、ドラブに歩み寄ろうとする。

剣を振り上げて、真後ろから大上段の一撃を叩き込んできたガラントを防ぐスプラウト。更に、斜め後ろから、回転しつつ躍りかかったバッカスの打撃を、残像を残しながらかわして見せる。

息をもつかせぬ連続攻撃にもかかわらず、スプラウトは全く動じない。どれだけ攻撃を浴びても、ひるむことさえ無い。

それはまさに、現世に降臨した、戦いの神。

戦いに全てを捧げた男の、悲しい末路。

天使の兵士が、何名か空から来た。

マローネの護衛としてずっと影のように従っていた部隊と、何か話を始める。あまり言い予感はしない。

部下達を動かして、指揮を続ける。

フィランゼの事が気がかりだ。あの不肖の息子は、まだ自分を狙っているとみて良いだろう。

しかも奴は、どんな手を使ったのか、既に最盛期を過ぎた筈の肉体で、強さを増し続けている。

スプラウトのように、禁術の類に手を染めたのか。

それとも、何か違う手か。

体を鍛えることは、モルト伯だって欠かしたことは無い。それでも、人間族で言えば四十くらいになる八十を超えると、どうしても体の衰えを隠せなくなってきた。そういうものなのだ。

羨ましくは無い。

技の類は、門外不出でも無い。既に達人を雇って、秘伝書に残させている。

鍛錬法や、戦術に関してもしかり。

モルト伯が消えることで、この世から失われるものなど、己の命だけ。そういう状態は、作り上げている。

死のうとは思わないが、それがセレストとしての責務だ。後継者を残さずに死に、民に迷惑を掛けるようなことがあってはならない。

逆に言えば、民のことを考えず、己の剣と薄汚れた夢だけを抱えて生きることを選んだフィランゼを、モルト伯は許せない。

伝令が来る。かなり傷ついていたが、まだ走ることは出来そうだった。

「伝令!」

「如何したか」

「九つ剣の皆様、此方に来ることは難しいとの事!」

「前線の維持が精一杯か」

分かってはいた。

かってない戦力を動員して、此処への道を作り上げたのだ。

そして、あまりこういうことは言いたくないのだが。三十年の平和が、九つ剣を弱体化させた。

傭兵団のトップとして剣を磨き続けたラファエルは良いが、他の九つ剣は、モルト伯の時代に比べるとやはり頼りない。それに比べて、今スプラウトと戦っている者達はどうだ。未来の光を担うに相応しい益荒男達では無いか。

「九つ剣は、前線の維持」

「よろしいのですか」

「かまわん。 九つ剣には、それぞれ強大な戦闘力を利用して、後方を守り抜いて欲しい」

雄叫び。

ドラブが、渾身の打撃を放つ。指一本でそれを受け止めるスプラウトだが、その時。

スプラウトの全身を、青い炎が包み込んだ。

偉大なる剣豪が、わずかにひるむ。見ると、マローネが、息を合わせて、隣にいる天使兵と一緒に、攻撃魔術を放ったのだ。その手にしている杖は、マローネの稚拙な魔術をフルに強化し、スプラウトさえ一瞬足止めするほどに、火力を上げていた。

それだけではない。

スプラウトの全身を、光の鎖が縛り上げる。今度は、マローネの側にいるヒーラーのファントムによる術式だ。これも、拘束できるのは、一瞬。

だが、それで充分だった。

スプラウトの足が凍る。

上空からチャージを浴びせかけたリエールが、スプラウトの巨体を揺るがす。

更に、スプラウトの足下から生えてきた無数の手が、落ちし剣豪の足を拘束。フォックスの死人だ。

一斉に、アッシュと、ガラントと、バッカスと、それにドラブとラファエルが組み付いた。アッシュの青い光とドラブの赤い光が交わり合い、紫の閃光となって、辺りを照らし蹂躙する。おおと、モルト伯は呻いていた。スプラウトの全身から漏れている禍々しい病的な白光が、一時的に完全に打ち消されているでは無いか。

もがこうとするスプラウトの眼前に、光が炸裂。

ハツネが放った矢が、閃光を発したのである。たとえ突き刺さらないにしても、爆発が効果を示さないにしても。

これで、動きを止めない生き物は存在しない。どれだけ人間離れしているとしても、同じ事だ。

アッシュが、叫んだ。

「今だ!」

詠唱を終えた魔術師コリンが、印を切る。

スプラウトの体を上下に切り裂くようにして、円状の魔法陣が出現する。絶叫するスプラウト。だが、コリンも、見る間に汗を流しはじめる。

「ちょ、まずい! 抵抗が激しすぎる!」

「コリンさん!」

非常に危険だ。

アッシュ達は、マローネからの魔力供給で、かろうじてスプラウトのパワーを押さえ込めている。

コリンの周囲に、天使達が降り立つ。

筋骨たくましい男性の天使が、声を張り上げた。

「力を魔術師に注ぎ込め! ミロリ、後は任せる!」

「スパルタクス隊長!」

「しっかりやれよ! おまえなら、出来る!」

恐らく、この世界に顕現するための力を、根こそぎ使い切ったのだろう。

膨大な光を放ちながら、天使達が粒子に戻っていく。最後に、筋骨たくましい天使が、力強い笑みを残しながら、消えていった。死んだわけでは無いのだろうが、最後の最後で、頼もしかった。

コリンが舌なめずりした。

行ける。

モルト伯は、思わず、成功してくれと、心の中で願っていた。

「出てこい、サルファーっ!」

「お、おおおおおおおおおおおあああああああっ!」

コリンが発動した魔法陣に締め付けられるようにして、真っ赤な目のスプラウトが、天を仰いで絶叫する。

同時に、カスティルが、手話で指示を出した。

パティ族達が、その細くて小さな手を、一斉に空に向けた。

白い光が、渦を巻きながら、スプラウトの体から抜け出ていく。それが、骨のような巨大な怪物を形作るのに、時間は掛からなかった。

サルファー。

ついに、現世に、その姿を見せたか。

そして、モルト伯は、杖で地面を叩きながら叫ぶ。

「ここからが本番だ! 各自、勇者達に可能な限り加勢せよ!」

 

4、不落の破壊神

 

エアロックから、リレが旗艦ハイロウの中に戻ると、まず戦況を確認した。

数時間の戦闘で、五万を超える悪霊を倒してきたリレだが、何しろ相手の数が多すぎる。戦況にはさほどの影響を与えられなかった。大型のサルファーのしもべは見つけ次第叩き潰したが、それでも、である。

既に味方の損害は、一割に迫ろうとしている。

魔界軍もそれは同じであった。

しかも、援軍は難しい。

この軍勢は、現在の天界の総力と言って良い。リレが急あしらえでとはいえ、それなりの実力まで育て上げた兵力の殆どが此処にいるのだ。兵器はまだまだ売るほど存在しているが、残念ながら使える者がいない。戦闘経験のある天使はもとより殆どおらず、数だけ集めても邪魔になるだけだ。天使長の中にも、武闘派と呼べる連中はまず存在しておらず、天界の守りに残す兵を割くと、此処に出す援軍など無い。

魔界はと言うと、低確率ながら、援軍が来る可能性はある。

大魔王カレルレアスは開戦前に、支配下に無い幾つかの魔界に書状を送っていた。望みは薄いが、ひょっとしたらそれらの魔界が呼応する可能性は、ある。

指揮シートに戻る。指揮を任せていた天使長が、代わりに休憩に入った。

「状況を」

「敵の数は、相変わらず解析不能。 攻撃を集中してくるような事はありませんが、全戦線で我が軍は押されています」

「イヴォワール地上で、スパルタクス隊長率いる部隊が消滅。 サルファーを撃破するために、受肉を解除した模様です。 残りのマローネ護衛天使兵部隊は数名の模様」

「サルファーの完全体は、先ほどついに顕現しました。 レベルは現在測定中……」

一気に状況が動いたか。

リレは素早く三次元立体戦況チャートを見やり、幾つかの地点の補強を指示。

魔界軍が主に奮戦しているが、味方天使兵も少しずつ盛り返している。敵は此方を包囲していると言うよりも、むしろ周囲から際限なくわき出てきている、という印象が強い。これは緻密な作戦を立てるよりも、むしろ。

「敵に大規模な援軍! サルファー完全体顕現の影響かと思われます!」

艦橋にどよめきが走った。

今まででも手に負えなかったのに、この状況下で更に敵の数が増えるというのか。チャートが、見る間に敵を示す赤で埋め尽くされていく。敵の援軍は、元の数を凌ぐ。つまり、この劣勢で、更に敵は倍以上にふくれあがった。

流石にこれは、リレの想定も超えていた。

まずい。

口に出すわけにはいかないが、リレはそう思った。兵士達が崩れはじめたら、ただでさえ包囲されているこの状況、一気に壊滅に動く。

幸い、武器弾薬が尽きることは心配しなくて良い。

ハイロウの至近にいた護衛艦が、爆散。激しく旗艦が揺れ、天使達が悲鳴を上げる中、リレは傲然と立ち尽くす。

もしも此処でサルファーの部下どもを食い止めていなければ、こいつらはイヴォワールになだれ込むだろう。

そうなれば、今までサルファーを撃退できていたイヴォワールの住民達も、おそらくはひとたまりも無い。そしてこの作戦が失敗すれば、次にサルファーを食い止める作戦を立てることは、極めて困難になる。

しかし一体、この数はどういうことだ。サルファーの魂が尋常で無く汚染されていることは分かっているが、それにしても異常すぎる。これほどのしもべを造り出す能力、噂に聞く宇宙最強の悪魔、超魔王バールのようではないか。

「サルファーのレベルが測定できました!」

「いくつだ」

「それが……」

データが送られてくる。口頭で言わなかった理由が、それで分かった。

レベルが3000を超えているとしか思えないステータスだ。

実質的なレベルは2000。しかしながら、天界がレベル判定する以外の要素が、あまりにも卓絶して凄まじい力を有しているのだ。

恐らくサルファーは、次元の狭間に体を隠してきた事により、その実力も保全してきたのだろう。

あのようなレベルの肉体を、通常空間に晒していたら、やがてマイクロブラックホールのように蒸発してしまう。

強すぎる力は、維持するのもとても難しいのだ。だから殆どの場合、ある程度以上の力を得ると、自分用にカスタマイズした世界に閉じこもってしまう。それはとても狭かったり独自のルールで動いていたり、何度か足を運んだことがあるがいずれも過ごしやすい場所では無かった。

サルファーは、既にその隠れ家を失いつつある。

これは危機であると同時に、最大の好機だ。

「大魔王カレルレアスに連絡。 総力戦にて、敵の攻撃を迎え撃つ!」

「し、しかしこの敵の数は」

「これはサルファーの、出せる限りの全ての戦力だ。 これを潰したとき、サルファーはもう、依るべき土地を持たない!」

リレが凛と言い放つと、天使達が押し黙る。

わずかに勇気がわいてきたらしい天使達に、リレは指示を出し、敵の猛攻を食い止めるべく最善を尽くし始めた。

 

サルファーが姿を見せると同時に、露骨にその場の空気が変わった。

まるで押しつぶされるような威圧感である。

空に覆い被さるようにしているその巨体は、人間の背丈で言うと、軽く十人分以上という所か。最も大きな魔物はいそうだが、巨大なだけでは無い。全身から一瞬ごとにわき出している魔力だけでも、普通の人間が一生がかりで造り出すほどの分量だ。

やはり全身は骨に似ている。そして、その骨は、あまりにも人間に似ている。肩や腹の辺りは、鎧のようになっていて、継ぎ目からはあまりにも赤い体内のパーツが透けて見えた。

鼓動している。

オオトカゲを思わせるぎざぎざの牙だらけの口が、ゆっくり開く。サルファーがゆっくり息をしている、それだけで。

人間であるマローネは、窒息しそうだった。

戦うとか、そういう次元の相手ではない。

マローネの隣にいた兵士が、腰砕けになる。

小便を漏らしてしまっている者もいるようだ。無理も無い。子ネズミが、本気で怒った虎を目の前にしたようなものである。

怖くないと言えば、嘘になる。

出来れば、この場から、逃げ出してしまいたい。

だが、そうすれば、みんな死ぬ。

比喩では無く、みんな死ぬのだ。

「マローネ!」

か細い肺から、絞り出された息が、マローネの耳を打つ。

マローネの手を握っている、力弱い手。

カスティルだ。

彼女は、じっとサルファーを見据えていた。そうだ、人類の闇の歴史そのものである存在。それがサルファーではないか。

空間の穴が、既に閉じられている。

パティ達が、サルファーの隠れ家とも言える空間の穴を、崩壊させたのだ。結果、その全ての力を絞り出したサルファーが、此処に顕現していた。

言うならば、完全体。

今まで、どんな雄々しい勇者も、最強と言われた世代の九つ剣でさえ、これほどの威容を前にした事は無いだろう。

モルト伯が、何度か咳払いした。

「天界の戦士よ。 これでサルファーは、全力なのだな」

「間違いないと思う」

「ならばたやすい! このサルファーさえ倒せば、長く続いたサルファーとの戦いを終わらせることが出来る!」

モルト伯の声が、辺りに響く。

徐々に、勇気がわき上がってくる。

アッシュが、立ち上がるのが見えた。ガラントが、バッカスに支えられて、立ち上がる。

傭兵団の団長達も、ラファエルも。

そして、名前も知らない兵士や、クロームや、傭兵団の人達も。

サルファーは、興味が無いように、或いは虚脱したかのように、その様子を見つめていた。

ナンダコレハ。

不意に、マローネの頭の中に、重苦しい声が響いてくる。

サルファーなのだろうか。

もし、そうだとすれば。

あの時の、バンブー社本社に現れた魔物のように、コミュニケーションを取ることが出来るかも知れない。

だが、今は。作戦通りに行く。

きっと、コミュニケーションは、簡単には取れない。最後の最後まで、全てをぶつけ合って、それでやっと話す土俵に互いが上がれるはずだ。

「アッシュ!」

「応っ!」

アッシュが先陣を切る。

巨体に向けて、躍りかかったアッシュが、青いエカルラートの燐光を纏い、顔面から拳を叩き込んだ。

だが、サルファーは動く事さえしない。

アッシュの拳は、大海に水を垂らしたように、何ら変化を呼び起こさない。サルファーは、眠たそうに目を細めただけだ。

しかし、それくらいは想定の範囲内。

皆が、アッシュに続く。サルファーの全身に光の花が咲く。ハツネが、マローネの近くに降りてきた。さっきまで、小高いところに陣取って、ずっと狙撃をしてくれていたからだ。

「マローネ、頼みがある」

「ハツネさん、どうしたんですか」

「私の存在が、悪魔でなくなるくらい、魔力を注ぎ込んでくれないか」

ハツネは、悪魔である自分に、誇りを持っていた。

だが、今の気持ちは。

サルファーを倒したいという心が、自分の根源になる誇りを壊してしまうほどに、強いのだろうか。

「違う」

マローネの考えを察したか、ハツネが少し寂しそうに笑う。

大きな爆発が起きた。サルファーの顔面に、誰かが攻撃術を叩き込んだのだ。だが、煙が晴れると、サルファーは何事も無かったかのように、その場にいた。

「このままだと、私は役に立てない。 この世界を、私は守れない」

「そんな、ハツネさん」

「私は、既に故郷を失った身だ。 命までも、それで失った。 だが、此処は私にとって、第二の故郷だ」

もう失いたくない。

戦闘のことしか考えていないと思っていたハツネは、そう言って、マローネをもう一度見た。

「きっと、そんなことをしたら」

「多分魂に対する変質は、致命的な結果を招くよ。 少なくとも、悪魔として転生することは、もう無いんじゃ無いのかな」

コリンが、連続して火炎の術式をサルファーに叩き込みながら言う。

サルファーはシールドの一枚も張っていないのに、効いている形跡が無い。赤い光と青い光がサルファーに連続して打撃を叩き込んでいるが、やはりまるで怯んでいない。だが、このサルファーは、既に全力状態。

余力はどこにも無い。

「マローネ、私は。 人間が嫌いだが、お前は例外だ。 やってくれ、頼む」

「……」

「マローネ!」

カスティルが、時間を稼いで欲しいという。

パティ達が、空間を操作して、サルファーの巣を壊した事で、想定内の事態を作り出す事が出来た。

此処からは、更に先へ行かなければならない。

それには、サルファーに、決定打を与えなければ。

そして、そうするには。今の手札では、足りないのだ。

ヴォルガヌスを投入するのは、まだ早い。もう、他に、選ぶ路は無かった。

「ハツネさんには、いっぱい、いっぱい助けてもらいました。 ハツネさんの誇りを奪うようなことは、したくありません」

「私の誇りは、魔界の戦士であること。 敵を打ち倒すこと。 そして今は、お前や、数少ない人間の友を守る事だ」

ハツネが、光を帯びる。

強く、強く。

マローネは涙を流しながら、ずっと助けてくれた。魔界の弓使いに、許容量を超える魔力を注ぎ続けた。

人前では泣かないと決めていた。

だが、此処は。泣かないと、人では無いと思った。

「ありがとう」

白く輝くハツネは、あまりにも神々しく思えた。

きっと、湛えている微笑が、戦の女神を思わせたから、かも知れない。

真っ白い弓を構えるハツネは、言う。

「私が加わっても、焼け石に水だと言う事は分かっている。 パティ達を使う、いや協力を得ることで、突破口が開けるんだな」

「はい! カスティル!」

「モカ!」

カスティルが手話で、指示を出す。

同時に、ハツネが。柱のような光の極太の矢を、数十本虚空に出現させた。

おおと、声が上がる。

放たれた矢が、一斉に、時ならぬ驟雨のようにサルファーの全身に降り注ぐ。わずかずつ、その白いからだが削れはじめる。

パティ族は、生き物に対しては空間操作を使えない。

だが、そもそもサルファーの肉体は、悪意を固めて作り上げられたもの。

普段はとてつもなく頑強だが、それでも所詮はモノなのだ。

わずかでも傷がつけば、其処からしみ出すようにして、パティ族の空間操作を使って、削り取ることが出来る。

ひっかき傷程度のダメージが、見る間に拡大していく。

今まで、まるでダメージを受ける気配が無かったサルファーに、少しずつ、わずかずつだが、傷がつき始めたことで。

希望が、芽生えはじめた。

 

マローネが気付くと、其処は真っ白い空間だった。

周囲には誰もいない。

何があったのか。確か、サルファーにダメージが入り始めて、それで。

サルファーが凄まじい雄叫びを上げた。記憶があるのは、其処までだ。

「アッシュ! カスティル!」

呼んでみるが、返事は無い。

しかし、ファントム達とつながっている事は分かる。つまり、みんなは何処かで戦っていると言うことか。

否、違う。

これは、マローネの方が、何処かおかしくなっている。

顔を触ってみる。

やはりだ。感覚がおかしい。どうも変な浮遊感があるし、顔を触った感触が無いのである。

視線を感じて顔を上げる。

其処には、巨大な目玉があった。

「おまえは、どうして、俺を殺そうと、する」

「殺そうとする? まさか、貴方はサルファー?」

「サルファー。 そうだ、俺の名前だ」

コミュニケーションを、向こうから取りに来てくれた。

今度は失敗しない。これが一種の夢という可能性はある。しかし、それにしては、妙に感じる力がリアルなのだ。

「貴方を殺す気はありません」

「ならば、何故攻撃をする」

「貴方の体を幾重にも覆った悪意を、まずは剥がすためです。 貴方の悲しい魂を、浄化するためです」

分からないと、サルファーは答える。

以前、サルファーのしもべにコミュニケーションを取ろうとしたとき、茫洋としたものを感じた。

サルファーそのものも、悪意に汚染されているだけで、本来は意識がとても薄弱なのかも知れない。

悪意に基づいて行動する。だから復讐が、行動の基幹になる。

その行動は、無数に向けられた悪意によって、導き出されている。それは思考の選択では無い。思考の誘導だ。

「貴方がサルファーだというのなら、貴方の悲しい人生は、私も知りました。 もう、終わりにしたいと、思いませんか」

「俺は、何を終わりにする」

「憎しみと、復讐の連鎖を」

「違う。 俺はただ」

目が覚める。

サルファーからの、はっきりとした拒絶を感じた。

顔を上げる。全身に冷や汗を掻いていた。恐らく今の瞬間、マローネはサルファーと魂がつながっていた。

もしも下手をすれば、サルファーに魂を打ち砕かれていたかも知れない。

しかし、それ以上にチャンスだと感じた。サルファーは、戸惑いはじめている。今のうちに、押し切らなければならない。

「マローネ、大丈夫?」

「うん、平気よ」

カスティルの手を握ると、見据える。

サルファーは、怒濤の猛攻で、傷を増やしはじめている。アッシュが拳を叩き込み、ほんのわずかでも傷がつけば、其処からパティ達が空間ごとサルファーの肌を削り取る。少しでも削り取れば、後は一気に傷を拡大していける。

サルファーが、鬱陶しそうに腕を振るった。

それだけで、爆風が巻き起こる。

サルファーが、面倒くさそうに口を開く。

それだけで、周囲に極太の稲妻が降り注いだ。

爆発。蹂躙。

誰かが倒れ、兵士達が此方まで引きずってくる。ネフライトのヒーラーが回復術を唱えはじめる。其処へも、稲妻が降り注ごうとする。

ネフライトの魔術師が、シールドを展開して、十人がかりで、防ぐ。

援軍はどんどん来る。けが人は後送され、一兵士までもが、サルファーに対する陽動を行って、戦況に貢献できている。各人の、この戦いを終わらせたいという気迫が、戦況を維持している。勿論、それを生かしているのは、モルト伯の冷静で緻密な指揮だ。最前線では、ガラントが声を張り上げて、戦術を指示している。それで、皆が的確に動いて、確実にサルファーを削り取っていた。

今、イヴォワールは、できる限りの団結を果たしている。

しかし、それを見て、サルファーは赤く目を光らせる。

何となく、マローネに、サルファーが苛立つ理由が分かる。

彼は、「みんなのために」犠牲にされた弱者だ。同じ事が繰り返されているように、思えるのだろう。

もしもサルファーが、本気で皆を殲滅する気になったら、この状態でも長くは保たないだろう。

マローネにも、出来る事をしなければならない。ヴォルガヌスを投入するタイミングを見極めると同時に、もう一つ出来る事がある。

さっきのアクセス経路を思い出す。

何度でもよい。サルファーとコミュニケーションを取り、その魂を浄化する機会を狙わなければならない。

狂風が吹き荒れる。

サルファーが、目を光らせただけで、風の最高位術式が巻き起こされたのだ。もう、詠唱さえ、サルファーには必要では無いらしい。思考するだけで術式が、しかも最高位のものが展開されている。

前に出たカナンが、クリスタルガードを展開。パレットも、それにならった。

二重のクリスタルガードが、瞬時に打ち砕かれるが。だが、それでも、風を弱め、カスティルに致命打を与えることだけは避ける。ぱたぱたと余波で倒されたパティ達も、逃げ惑うこと無く、立ち上がるとまた空間ごとサルファーを削る作業に戻る。

サルファーの攻撃頻度が、上がり始める。

味方の消耗が、それに伴って、激しくなってきている。マローネは、コリンにアドバイスを受けながら、術式を組んでいく。もたついている時間は無い。このままだと、もっと被害が出る。

今だ、状況は。

予断を許せる状態では無かった。

 

(続)