サルファーという名の原罪

 

序、生まれ落ちる闇の物語

 

カスティルが、両親と一緒に雲島に来たのは、マローネが魔島を脱出した翌日夜の事であった。

その時既に通信装置を使い、シェンナの船で迎えに行ってもらっていたのだが、途中の用事で遅れたのである。カスティルについては、既にバンブー社の派遣したヒーラーが、何名かサポートの体勢に入っている。体調については心配ないと、途中通信装置で知らせてきていた。

流石に疲労を考慮して、話をするのは明日と言う事で、事前に決めていた。マローネも忙しくて、会いに行けない状態であったから、仕方が無い。

目をこすりながら、マローネは何度も会議に参加した。既に獣王拳団、アマゾネス団、風の翼団は現地に向かっている。

後は、カスティルと、それにモカが、鍵になるのだった。

全ての会議が終わったときには、既に夜半を廻っていた。モルト伯はまだ精力的に働いて、軍や各地のセレストに書状を出しているらしい。天使と悪魔はどう動いているのかよく分からないが、既に考えられないくらいの大軍勢を準備しているとか、小耳に挟んだ。マローネがどうこうできる段階では無いだろう。

用意された宿舎に戻る。

お風呂に入っていると、それだけで落ちそうになった。寝台に潜り込むと、気がつくと朝になっていた。

食事を済ませてから、カスティルが泊まっている宿舎に向かう。

そこで、最後の調整を行わなければならなかった。

宿舎の周囲には、多くのパティ族が来ていた。彼らを見て、露骨に避ける人間もいる。だが、既に周知はされている。彼らが、今回の作戦における鍵になるのだと。森の盗人と言われるパティ族が、迫害から逃れる好機でもある。勿論、危険については、最大限の考慮をしなければならなかったが。

宿舎に入ると、カスティルがいた。

長旅の割に、顔色は悪くない。ついているヒーラー達から朝早くに話を聞いたのだが、どうも回復の方法が分かりはじめたらしいのだ。

軽く話してから、今度の作戦についての会議に入る。

その前に、モルト伯達に、本当にパティ族との交流が可能か、見せなければならなかった。

車いすを押しているのは、ヒーラーの一人。

カスティルの両親は、ビジネス面でのサポートに廻ると言う事で、雲島で忙しく走り回っている。

考えて見れば、今回は最大のビジネスチャンスでもあるのだろう。ただし、娘を放置しているわけでは無い。薬代にしても、今後はいくらでもお金が掛かる。だから、二人の行動は間違っているとは言えない。

歩きながら、カスティルと話す。

「カスティル、ごめんね。 こんな危険な作戦に参加してもらうなんて」

「ううん、理にかなった作戦よ。 それにモカを通じて私が世界の役に立てるなんて、とても光栄だわ。 でも、しっかり守ってね」

カスティルと一緒にいると、自然に笑顔がこぼれる。

途中で、モルト伯と合流。モルト伯は足取りが心なしか以前よりしっかりしているように見えた。仕事をしていると、生き生きとする人なのかも知れない。何より、少し前。シェンナと一緒にモルト伯とあったときの、嬉しそうな顔が忘れられない。

長年探していた勇者スカーレットと会うことが出来たのだ。無理も無い事である。

カスティルが完璧な挨拶をするのを見て、モルト伯は感心したようである。ぞろぞろついてきているパティ族達もまた、モカと音を介さず何かを話しているようで、行動には一定の秩序があった。

比較的大きな料亭に入る。

車いすを、ヒーラーとガラントが協力して持ち上げて、カスティルを奥に。

奥で待っていたのは、ラファエル以外の九つ剣と、シェンナであった。それと背中に翼が生えた人が数名と、見るからに人間とは違う存在が何名か。特に一番大きい人は、何度か会議で一緒になった。確か魔王セルドレスと言うはずだ。

席に着くと、会議を始める。

モルト伯が、サルファーについての説明をした。マローネも、昨晩、サルファーの正体については、ミロリから聞かされている。

だから、戦う事は、気が重い。

だが、今のサルファーは、既に哀れな存在では無く、哀れな存在を量産する悪鬼以外の何物でも無い。

どうにかして屠らなければ、世界そのものが蹂躙されてしまうのだ。

「サルファーは知っての通り、攻防共に最大級の力を持つ。 その実力は、歴代の九つ剣が多くの同胞を失いつつも、どうにか退けるのがやっとだったことからも明らかだ。 事実、先代の筆頭である大剣士スプラウトでさえも、サルファーにとどめを刺すことは出来ず、未だに奴は野放しになっている」

「ふむ、それで、そのパティ達が作戦の要になると」

「マローネ君」

「はい」

モルト伯と同格のセレスト達が見守る中、呼ばれたので、マローネは緊張しながら立ち上がった。

後ろに立っているガラントから、アドバイスは受けている、喋る訓練も、何度もやった。側では、カスティルもいる。

みんなのためにも、頑張らなければならない。

「サルファーの最も恐ろしい力は、空間を自由自在に渡ることだと思います。 そこで、彼らの力を借ります」

「ほう?」

「パティ族は空間を操作する事に特化した存在です。 勿論一人ではサルファーにはかなわないでしょうが、一族が力を合わせれば、サルファーが空間の向こうに逃げ去るのを、防ぐことが出来ると思います。 今回の戦いでサルファーと決着を付けるためにも、パティ族の力は必要です」

「しかし、パティ族に、それだけ緻密な指示が出来るものなのか」

オウル族の、高齢のセレストが腕組みをして唸る。

そもそもパティ族は、コミュニケーション不能の存在として名高い。森の盗人という悲しい誤解は、彼らが音声でコミュニケーションを取らないことが原因だ。

竜言語魔法などの例外的手段を用いれば、コミュニケーションは可能となる。だが、ヴォルガヌスのような特例を除いて、エンシェントドラゴンが人間に協力などするはずもない。

「そこで、カスティルの出番となります。 彼女は手話を用いて、パティ族と会話をすることが可能です」

「何……」

「面白い。 見せて貰えないだろうか」

「分かりました。 モカ、皆に挨拶をするように伝えて。 あいさつよ」

今まで、林立して突っ立っていたパティ族が。カスティルが手を動かし、指示を出すと、モカを介して途端に動き出した。

帽子を取ったり、ある者は花を出したり。誰にも分かり易い挨拶を、人間の代表達に行ったのである。

コールドロンやブータンも、顔を見合わせている。

セレストの中には、あんぐりと口を開けたままの者もいた。九つ剣のウサギリス族の女性魔術師は、呆然と固まっている。

「この私の友達であるモカは、ハイレント式の手話を身につけています。 基本的にパティ族はとても賢いので、他の子も、手話をすぐに覚えるはずです。 ある程度複雑な単語も教えていますので、サルファーに対する対策も可能です」

「ふむ、素晴らしい。 だが、問題がもう一つある。 確かパティ族は、相当に恐がりな種族だと聞いている。 サルファーのような規格外の魔物に出会ってしまって、その力を振るえるだろうか」

少し意地悪な質問が来た。質問をしたのは、老齢の人間族のセレストだ。確か、ウィステァリア地方のセレストである。富と自由の島にいるという話だが、彼処はバンブー社の独占地も同じなので、セレストは影が薄い。

カスティルは少し考え込んだが、マローネのフォローを必要としているようには見えなかった。だからそのままにして、カスティルの次の言葉を待つ。

「モカを通じて、ここに来る前、パティ達と話をしました。 彼らもサルファーの脅威については認識しています。 ただし、パティ達はあまり体が丈夫ではありませんから、それさえ気をつければ」

「なら、俺がガードする」

セルドレスが、重々しい声で言う。

彼は魔界でも武闘派として知られる魔王だという。悪魔では、サルファーに有効打を浴びせられないという話だが、攻撃を防ぐだけなら行けるはずだ。

「悪魔も空間の操作は得意だが、調べてみたらこのパティって奴らは俺らの上を行くみたいだし、かなり良い案だと思う。 後は、どうやってサルファーを倒すか、だが」

魔界や天界の兵器は、どれだけ進んでいても、サルファーには通じないと言う。

かといって、人間ではサルファーと戦って、どれだけ有効打を与えられるか、分からない部分も多い。

とりあえず、今までサルファーを退けられた英雄達の戦術について、確認が為されていく。

執念だけで勝機をもぎ取った場合もある。たとえばスカーレットの場合がそれだ。

連携で、サルファーを何度も退けた例もある。160年前のケースがそれである。この時の九つ剣は、なんと同じ島の出身で、全員が幼なじみだったそうだ。神がかった連携で力の差を埋め、数十年の平和を作り出した実績は特筆に値する。

他にも幾つかの事例が紹介されていった。

だが、結局の所、それらの撃退は、サルファーの消滅には結びつかなかった。

「肉体を完全破壊しても、サルファーは再生します。 それは私が、30年前に見届けています。 私の時は七回にわたってサルファーを滅ぼしましたが、それでもなお奴は再生をした……」

スカーレットの言葉に、皆が沈黙する。

だが、今までの血涙を流しながらの戦いでも、多くの成果はあったのだ。奴は力を増しているかも知れないが、しかし。

今回は、史上例に無い戦力が、イヴォワールに集っている。必ず勝てるはずだ。

それに、此処で一つ、より大きな勝機がある。それは、サルファーの正体についてだ。

そして今回、パティ達の協力によって、それを突ける可能性が高い。

幾つか、連携についての打ち合わせが終わり、会議は終了した。そのまま、船に向かう。モルト伯も、同じ船に乗ってきた。九つ剣は、幾つかの船に分乗する様子だ。

船の上には、天界の軍船が浮遊している。円盤状をした美しい白い船は、とても強力な防御機能を有しているらしい。

だが、勿論、サルファーにはかなわないだろう。

出来るだけ急いで、魔島に向かわなければならなかった。

 

1、サルファー

 

魔島に向かう船上で、マローネはカスティルにミロリを紹介する。軽く挨拶をして、雑談をした後。カスティルの方から切り出した。

船の揺れは小さい。側に控えているヒーラー達が処方しているお薬を飲んでいるからか、カスティルが船酔いする様子も無かった。

「これから戦う相手のことを知っておきたいの。 一体サルファーって何者なの? マローネは貴方から既に正体は聞いたと」

「かなりきつい話になるが、よいか」

「ええ。 お願いします」

「分かった」

ミロリも、話しているときはあまり楽しそうでは無かった。無理もない話だ。人間の業を、そのまま濃縮したような内容だったからだ。

人は、どこまでも残酷になれると、マローネは身をもって知っている。今まで、クロームとして生きてきて、どれだけそれを見てきたことか。だからこそに、その出来事があり得る悲劇だと理解できたのだ。

とても、他人事では無い。

アッシュが側にいなかったら、どうなっていただろう。

奴隷商人に捕まって、サーカスで見世物にされていたら。

人間は、弱者に対して、際限なく残虐になれる。自分が正義だと思い込むと、相手を殺しても何とも思わないようになる。

「およそ1000年前の事だ。 このイヴォワールがあった海域には、アトランティス大陸というものが存在していた。 今は大半が水没してしまっているが、現在イヴォワールにある文明の、基礎になったものだ」

「名前は聞いたことがあります。 各地から出土する古代文明の痕跡に、その名前が散見されると」

「そうか、まだ遺跡は残っているのか。 ……サルファーは、そのアトランティスで、人間として生を受けた。 ただし、考えられる限り、最悪の生まれでだがな」

ミロリは、淡々と話し始める。

呪われた文明と、その闇の歴史を。

 

マローネが生まれる、およそ1000年前。

イヴォワールがあった地域には、アトランティスという国家が存在した。正確には、アトランティス共和国である。人口はおよそ六億。他の大陸とは、版図の広さも人口の多さも、段違いの、圧倒的な国家だった。

アトランティスは、大陸そのものを丸ごと版図に納めた強大な国家であり、温暖湿潤な気候と豊かな土地から、世界最強の国家の名を恣にしていた。それだけではない。他の大陸を圧倒する強大な国力と、多大な人口にものを言わせた技術力からも、全世界を圧倒する存在だった。

惑星テラにおける最大勢力こそ、このアトランティスである事は、誰もが認める事実だったのである。

どうしてこれほど、一方的な力を持つ国家が誕生したのか。

それは、始祖の世界からの文明が、この大陸ではわずかながら残されていたからである。人類だけではなく、天使や悪魔の発祥が地球と呼ばれる星であった事は広く知られているのだが、この大陸では入植した人類が、その技術のわずかな一端を保存していたのだ。それがゆえ、圧倒的な技術力を実現し、文明は栄華を誇った。

だが、栄華は、やがて退廃と爛熟を産んでゆく。

どれほど強大な国家でも、それは同じだ。文明が爛熟したが故に、多くの凶悪犯罪やモラルの低下に、この強大な国家も悩まされていた。教育が形骸化し、最強であるが良いことに政治は腐敗した。軍事力はただのオモチャとなり、周辺の小国家を蹂躙、虐殺、植民地化を行う過程で、おおくの無意味な血が流された。

平和な本国と、泥沼化していく各地辺境前線の戦況。戦力は圧倒的なのに、ゲリラ戦を始めた敵の前に、優れた技術も意味をなさず、多くの血が流れたのである。しかし、複雑化しすぎた権力構造は、容易な撤兵を許さず、更に殺戮の連鎖は加速していった。

何もかもが堕落していく中、ある者が考えた。

誰か、全ての元凶である存在を作れば良いのでは無いかと。

それが、魔物システムである。

それまでも、不満のはけ口として、少数民族や犯罪者が用いられることがあった。だが、この魔物システムは、それらとは根本的に違った。少数民族にしても犯罪者にしても、それは人間である事は誰もが知っていたからだ。どれだけメディアが煽ろうとも、それに違いは無かった。

魔物システムは、社会の基幹として、作り上げられた。

国家ぐるみで、全ての悪逆の原因として、主体性の無い犯人である「魔物」を創造したのである。これにはメディアだけではなく、宗教勢力や、政治家、軍事組織までもが荷担した。

魔物はどこにでも存在し、どのようなことでも出来た。

人々の無意識にささやきかけ、悪意を生んだ。

戦争が起こるのも、異常気象も、すべて魔物のせいなのだとされた。長年による誘導政策により、徐々にそれが定着していく。最初は鼻で笑い飛ばしていた者達も、十年以上もそれが続くと、魔物の存在を信じるようになっていった。

やがて、魔物が憑依したという、恐ろしい怪物達が、世界に姿を見せるようになった。巨大な芋虫や、いにしえの伝承にしか存在しないドラゴン。あまりにも巨大で、おぞましい姿をした海棲生物。

討伐の度に大きな犠牲が出た。

やがて、魔物の存在は、噂の域を超え、「本物」となった。

そうして、満を持して魔物の長である、「魔王」が姿を見せる。軍が大きな被害をだしながらも捕らえたそれは、あまりにも醜く、人間の形をしていながら、人間だとはとても思えなかった。

それに対応して、勇者の存在もささやかれるようになった。

魔王を捕らえるために活躍した戦士がいたという。多くの兵士が命を落とす中、その戦士は勇猛果敢に戦い、魔物の群れを叩き伏せ、ついに魔王を捕まえたのだとか。勇者は凱旋パレードを行った。黄金の鎧を身につけ、目が覚めるような美形であり、ああこれならばと万人が納得する存在だった。宗教組織はこぞって勇者を称賛し、神の加護を受けた尊き戦士として絶賛もした。

ほどなく、檻に入れられた魔王を、衆人の監視の中、殺す「儀式」が行われた。数万人が入る事が出来る巨大なコロシアムにて、運び込まれたおぞましい叫び声を上げる魔王を、勇者が剣で刺し殺したのである。

娯楽に飢え、魔物に恐怖していた民衆は歓喜した。

おぞましい魔物共は、これでしばらくはおとなしくなるだろう。それに何より、見るからに醜くて汚らしい魔物共の長を、人間の代表である勇者が倒したのだ。これを喜ばずして、何を楽しむというのか。

そしてその歓喜は、次の魔王が現れるまで、続いたのである。

しばしして、アトランティスの各地で、またしても魔物が暴れはじめた。先代の勇者は凱旋してしばらくして現役を引退しており、軍はまたしても各地で大きな被害を出した。被害の中には、小さな村が丸ごと焼き払われたとか、皆殺しにされて喰われてしまったとか、そんな恐ろしいものが山とあった。

事態は、誰の目にも明らかだった。

また、新しい魔王が現れたのだ。

恐怖する民衆の前に、先代から受け継いだ黄金の鎧を身に纏い、勇者が現れる。

そして、魔王を、死闘の末に捕らえたのだった。

やがて、諸悪の根源である魔王と勇者がコロシアムで殺し合う儀式は、十数年おきに行われるようになった。

「殺しても良い相手」を、「希望の存在である勇者」が殺す血のセレモニーに、民衆は酔った。これは、誰もが喜ぶ儀式となっていた。軍は魔物退治の名の下に、粛正と侵略を繰り返せるようになった。政府は犯罪率の増加を抑え、民衆の不満をそらすことが出来るようになった。

退廃した文化になれていた民衆は、最高の娯楽を得て、満足していた。

全ての利害は、一致していたのである。

スケープゴートにされた者達の、慟哭を除いて。

 

其処まで聞き終えると、カスティルは口を押さえた。体が小刻みに震えている。嘔吐をこらえているのは明らかだった。

客観的に聞けば、誰にでも分かる。それが政府主導でおこなわれた出来レースであったという事くらいは。

停滞し、腐敗した国家の民衆は刺激を欲していた。だから、政府はガス抜きのためにも、刺激を用意した。

それが、魔物。そして魔物の長である魔王を、希望の代表である勇者が殺すという、「誰もが楽しめる」ショーだ。

「その魔王というのは……」

「資料は断片的だが、それいによると、多くの場合洗脳して意識を奪った、各地から選抜された、特別に醜い、浮浪者などの社会的弱者に、薬物を投与して作成したらしい。 想像を絶する異形に、遠くからでも分かるほどの異臭を放ち、誰もが殺しても罪悪感を感じないような姿をしていたのだそうだ。 勇者との戦いでも、実際には殆ど抵抗できず、その場で殺されるだけであったとか」

「ひどい……なんということなの」

カスティルが青ざめて、しばらく黙り込む。

国家が用意した、最悪の自作自演出来レース。それが勇者と魔王の戦いだった。もちろん魔王は魔物達の王などでは無い。殺されるためにだけ存在する。勇者は形だけ苦戦して、後は出来るだけ華々しく魔王を殺すのである。

そうして、溜まっていた民衆の鬱憤は晴らされる。明確すぎる悪が正義によって断罪されたのだ。それを喜ばない者などいなかった。

実際に効果は絶大であったそうで、この出来レースが始まる前後では、犯罪の発生率も段違いに下がっていたそうだ。喜びに満ちた資料がいくつも発掘されていると、ミロリは教えてくれる。

あまりにも酷い話だ。弱い者をよってたかって痛めつけて、それを正義と称していたのだから。

それだけではない。

国家に対して邪魔な不満分子や少数民族を、魔物の仕業と称して皆殺しにする事まで、アトランティス政府はやっていたらしい。魔物とされた生物兵器は各地でコントロール下におかれて暴れ回り、政府にとって邪魔な人間を根こそぎ消した。軍の中でも、魔物の実像を知っている人間はあまり多くなかったが、どちらにしても強力な軍の維持には、魔物という存在が必要不可欠だった。

スケープゴートの虚像は際限なく巨大化していき、やがて魔王を倒すために軍は多くの犠牲を払っていると称し、国民を納得させることが出来るようになった。邪魔な人間を根こそぎ消すことで不満分子もいなくなり、政府も「円滑に」動くようになっていった。

「わずかな犠牲」を出すことによって、死にかけていた巨大国家は、「無事に」再生を果たすことが出来たのだ。

だが、その繁栄にも、終わりが来る。

サルファーの登場である。

「サルファーは、かっては人間だった。 ただし、酷い異形で、まるで肉の塊のような容姿をしていたそうだ。 生まれた瞬間、両親は育てることを拒否。 哀れな幼子は、これはと目をつけた政府によって引き取られた。 そして、「魔王」となるべく、育てられたのだ。 皮肉な話だな。 それが本物の破壊者になり、アトランティスを滅ぼす元凶となったのだから」

生まれた瞬間、サルファーの運命は決まったのだ。

その名前すらもが、そもそも悪意に満ちている。当時の言葉で、異臭を放つ鉱物を意味しており、そもそも人間として誰もが認めていない存在だった。実の両親でさえもが、それは同じだった。政府がその子供を引き取ったとき、彼らは嬉々として金を受け取ったからである。

このおぞましい物体を、捨てることが出来る。そう両親は言って、金を受け取ったという報告があった。そう、ミロリは教えてくれる。

マローネは、両親の愛に包まれて育った。

だが、もしも。お父さんとお母さんの娘に産まれなかったら、どうなっていただろう。悪霊憑きと分かった時点で、たき火に放り込まれたかも知れない。或いは、人気の無い川だろうか。

人は、そう言うことを、平気でする。

マローネは、勿論人には善性があると思っている。みんなが大好きなのは、人は皆輝きを秘めていると思っているからだ。

だが、知っているのだ。人は同時に、深くおぞましい闇を湛えているとも。

嫌いな相手には、好きなようにその闇をぶつけることも。

政府の研究施設に、サルファーは入れられた。

そして、語るもおぞましい幾多の拷問が、その身に加えられた。ありとあらゆる悪意が、サルファーの人格を、形成前に破壊したのだった。

檻の中で、サルファーは更に醜くなるように、様々な薬品を死なない程度に投与された。日常的に拷問を加えられ、可能な限り非理性的に振る舞うように、滑稽な仕草や動作を強要された。

見る間に、元々美形とは言いがたい容姿をしていたサルファーは、人間離れした姿になっていった。

衣服も与えられなかった。最低限必要なエサだけは与えられたが、それだけだった。飼育されているというのが相応しい状態のサルファーは、裸体であっても性別が判別できないほど、姿が崩れていたという。

「サルファーについては、天界が回収した資料が残っている。 見るに堪えない内容だが、このおぞましい研究に参加していた者達は、当然のことだと思っていたようだな。 アトランティス全体のためを思って、というのがその言い分であったようだ」

「なんていう非道なの。 吐き気がするわ」

「行われていたのが、明らかに正気の沙汰では無いからな。 無理も無い事だ。 少し休むか」

カスティルは、首を横に振る。

時間は有限だし、今のうちに話は全て聞いておいた方が良いというのだろう。気丈なことである。或いは、マローネが側にいるから、かも知れない。嬉しい事に、カスティルはマローネを、信頼してくれている。カスティルを、マローネは支えたいと思っている。

マローネも、最初聞いたときは、吐き気がこみ上げるのを止められなかった。全体の繁栄のために、泣いている人は今の時代にもいる。たくさんマローネも見てきた。

だが、それを国家ぐるみで作り上げて、なおかつ運営していくというのは、正気を疑ってしまう。

だが、それが現実なのだ。

咳払いした後、ミロリは続ける。サルファーに起きた、呪われた物語を。

サルファーという子供には、世界の悪意全てが、集められていたかのようだった。

 

2、罪業を孕む闇

 

暗闇の中、サルファーは目を開ける。

まもなくだ。まもなく、スカーレットに復讐を行える。嗚呼、それだけが、ただ楽しみだ。

無数の悪意が、周囲に渦巻いている。

かって自分に向けられてきた、そしてぶつけられてきた悪意。天界が、それを力にする術を教えてくれた。魔界が、さらなる大量の悪意を用意してくれた。だからこそに、サルファーは。

何にでも復讐できる、力を得ることが出来たのだ。

身じろぎする。

まだ、起きるのには早いと、体が告げている。もどかしい。何もかも、さっさと滅ぼしてしまいたいというのに。

何か、無数の力が、サルファーに向けられているのを感じる。

恐らく魔界の連合軍だろう。懲りない連中だ。何度叩き潰しても、飽きること無く刃向かおうとする。

だからこそに、サルファーに力を与えてしまうのだと、気づきもせずに。

サルファーは、自分に向けられた悪意を、力に変えることが出来る。そして、知っている。悪意は返せば、さらに何倍にも増幅されて、戻ってくるという事を。

無数の分身を、生み出す。

体をわずかに振るっただけで、何千、何万という分身が生まれ出る。いずれもが、悪意を受けて形となった、サルファーの意思を受け継ぐ力達だ。殆どは、顔と口しか無い球体状のものだが。

大きな塊は、サルファーに近い姿や、感覚を代表する姿を取る。

人間だった頃、サルファーは感覚そのものが微弱だった。周囲はよく見えていなかったし、臭いはあまり感じ取れなかった。耳もそれと同じである。

あの時、勝つことが出来たのは。

たぐいまれなる勘を有していた以上に、それを努力で磨きに磨き抜いたから。

そう、あの時。

「勇者」が「魔王」を殺す時期がやってきた、あの時の事だ。

 

サルファーが入れられている排泄物だらけの檻に、男がやってきた。腰に何かぶら下げている。それは剣というものらしい。以前、何かで見た事があった。思い出せないが、確か剣は軍人が持つ筈だ。

そうなると、この男は、噂に聞いている軍人か。

周囲にいるのは白衣の人間ばかりで、どれもこれもひょろい。だがこの男は、妙に筋肉質で、強そうだった。口元はぼうぼうに無精髭が覆っており、顎は四角く、目つきはとても鋭い。

「出ろ」

「ハイ」

男の言葉のまま、肥大化した体を引きずって、サルファーは檻から這い出る。まともに動く事も無い足をどうにか使って、前に進んだ。そうしないと、肌に酸を掛けられることもあったからだ。すれ違う人間は、サルファーを見ると、皆鼻をつまむ。酷い臭いがしているらしいことは、サルファーも知っていた。逆らえば棒で殴られるし、研究員の機嫌が悪いときは、犬をけしかけられることもあった。

研究所の中庭に出る。

そこでぼんやりとしていると、男が棒きれを渡してきた。

サルファーの指は短く、ものを上手に掴むことが出来ない。だから、両手を合わせて、どうにかして持つ。

「俺はアンセレットという。 お前に剣術を教えるように言われた」

「ケンジュツ?」

「そうだ。 お前の先任の魔王が、あまりにも無様を晒したという事でな。 勇者が魔王を殺す事に説得力が必要だと感じた軍の上層が、鼻つまみ者の俺を呼び出したという事らしい。 まあ、どうでも良いがな」

男は無気力な様子で、どうして良いか分からないサルファーに、まずは棒の振り方だと言った。

言われたままに、棒を動かしてみる。横で見ていたアンセレットは、しばらく見てから、ため息を漏らす。ぶたれるのでは無いかと思って怖れたサルファーに、自分が見本を見せてくれた。

まずは、こう。続いて、こう。

言われたままに、棒を振るう。

元々間接も曲がりにくくなっている腕だ。少し振るうだけで、随分と骨が折れた。汗がすぐにだらだらと出てくる。

「はあ、新兵以下だな。 これは骨が折れそうだ」

「く、くさくて、ごめんなさい」

「ん? 戦場じゃあその程度の臭い、日常茶飯事だったぜ。 気にならねえよ」

少し休憩を入れた後、その日はずっと棒を振るっていた。何だかよく分からないが、アンセレットは時々サケというのを口に入れていた。甘いにおいがしたが、人が食べているものや飲んでいるものに興味を見せると、殴られる。だから、言われたまま、棒を振るった。

しばらくして、止めとアンセレットが言う。

「根性があるじゃねえか。 今日はここまでだ。 おい、お前」

アンセレットが、研究員に食事を準備するように言う。頷いた白衣の男が、二種類のものを持って来る。一つは研究員用の食料。もう一つは、サルファーのためのエサだ。

それを見て、アンセレットが眉をひそめた。

「何だコレは。 豚の餌か?」

「残飯から作成した飼料です。 その汚らしい化け物には、これで充分ですので」

「コレじゃあ駄目だ」

「はあ?」

ケンジュツを得るには、ある程度の力がいると、アンセレットは言う。

自分と同じものを食べさせるようにと。

露骨に軽蔑した目をした研究員を、その場でアンセレットは殴り倒した。もの凄い早業で、研究員は文字通り吹っ飛んだ。

「さっさとしろ。 俺はお前らをこき使う権利も持っているんだが?」

「は、はいっ! ただいま!」

不思議な人間だと、サルファーは思った。

今までの人間とは、どうも違う人種であるらしかった。

 

それから、少しずつ、サルファーの生活が変わった。

毎日、アンセレットが言うまま、剣を振るう。それが一月くらいすると、アンセレットが頷いた。

「よし、そろそろ技を教えてやろう」

「ワザ?」

「剣術には、いろんな技がある。 敵を倒すために使う技術のことだよ。 お前はひたむきで覚えも良い。 すぐにいろんな技を覚えるだろうよ」

アンセレットは、サルファーが努力することを、認めてくれていた。それだけでもどれだけ嬉しかっただろう。

檻に入れられるのも無くなった。風呂に入ったのは、生まれて初めてだった。一緒に裸になってお湯を浴びた。アンセレットは、手が上手く動かないサルファーのために、背中を流してくれた。

そして、ひどいがらがら声で、楽しそうに歌った。

「おーおアンセーン、アンセーン、ゆたかなだいちー。 おおアンセーン、アンセーン、しずかなだいちー」

「それは何ですか」

「もう滅んじまった故郷の歌だよ。 俺はガキの頃に故郷を追い出されてなあ、ずっと軍隊で暮らしてきたんだ。 お前は醜いとか言われてるが、もっと酷いツラの奴も、軍隊には一杯いたぜ」

ガハハハハハと、楽しそうにアンセレットは笑う。そういうアンセレットも、美形とは言えないらしい。というのも、研究員達が、猿とか呼んでいるのを聞いたからだ。

アンセレットが、どうして親身に接してくれたのかは、よく分からない。

握れもしない手で棒を必死にふるって、サルファーは剣術を学ぼうと頑張る。最初は殴られるのが嫌だったからだが。

いつの間にか、アンセレットに褒められるのが、嬉しくなり始めていた。

少しずつ、体も動くようになり始めた。寝る前に、アンセレットはいろいろな話をしてくれた。

それは、殆どの場合、人間以外の話だった。

ある戦場で見た山が、とても美しかった。行軍の際に足を挫いて、必死に味方の後を追って歩いた。食料を無くしてしまって、泣く泣く野草を食べて、おなかを下してしまった。いろいろな失敗談や成功談。

アンセレットは、酷い生まれだというのに、たくましく軍で生きてきた。

それが羨ましかった。

軍の中では、酷い虐待もされたらしい。大人の兵士にとって、手っ取り早い性欲の解消を行うには、立場が弱い奴か、子供の尻を狙うことだと、アンセレットは言う。目をつけられたら最後だから、必死だったと、アンセレットは冗談めかした。

いろいろな場所で戦って、何度も死にかけた。右腕を丸ごと切り落とされて、回復術でつなげてもらったこともあると言う。恐ろしい目にあっても、逃げ出すという選択肢は無かった。

「みんな、噂はしていたからな。 逃げ出した連中や、政府に邪魔な奴を、率先して魔物が襲うって」

「ぼくは、まものたちの王だってきいたけど」

「そんなわけあるか。 ありゃあ軍が作り出したバケモンだって、どの兵士だって知ってるよ。 かといってなあ、今は魔物がいなけりゃ軍だって維持されないし、知ってて放置してるんだよ」

ぼくはいったいなんだろう。そうサルファーが言うと。アンセレットは毛も生えていないサルファーの頭を、強引に掴むようにして撫でたのだった。

それからも、剣術の訓練は続いた。

少しずつ、動けるようになってきた。関節が曲がらない足を使って、機敏に動く術も身につけた。剣を振るわれたときの対処法も、分かるようになってきた。

本物の剣を渡されたとき、取り落とさないように、すごく緊張した。

「お前は分かっているかも知れないが……」

アンセレットの声に、影が差す。

これは、出来レースだ。サルファーは、勇者によって殺されるために生まれてきた。剣術を学んでいるのは、勇者が苦戦しているように見せて、血に飢えた民衆を楽しませるためだ。

知っている。

何となく、分かっていた。それを知った上で、アンセレットが、サルファーに良くしてくれていることも。

「今じゃ、どいつもこいつも知っているんだよ。 これが趣味の悪い出来レースで。 しかも、それがなければ、このでかくなり過ぎちまった年老いた国は、維持できないって事をな」

「ぼくは、みんなのために、ころされるためにいきているんですか」

「そうだ。 だが、そんな運命、受け入れられるか?」

首を横に振る。

頷いたアンセレットは、実戦訓練に入ると言った。

それからは、前よりもずっと激しい訓練になった。以前の棒を使った訓練とは違って、総合的な動きが求められるようになった。

何となく、アンセレットがどう動くか分かるようになり始めたのは、訓練を初めて四ヶ月も経った頃だろうか。

だが、アンセレットも手加減をしていることも、それ以上によく分かっていた。

足の皮膚も、手の皮も、ずっと強くなってきていた。研究員の中には、アンセレットに敵意の目を向けている者もいた。何度か言い争っているのも、聞いたことがある。

貴方の行為は、命令を逸脱しすぎでは無いのか。そう一度研究員が、激高して叫んだ。だがアンセレットは、鼻で笑って言い返した。

そう言って生ぬるい育て方をした前の魔王は、コロシアムで這い回り逃げ回るばかりで、身動きもろくに出来ず、民衆の嘲笑を浴び、勇者に刺し殺されたのではなかったかと。

それからも、アンセレットは、研究員の言う事に、耳を貸さなかった。

剣術の訓練をして行くうちに、どうやらアンセレットが、とても強い人なのだという事がわかりはじめた。少しずつ、体が動くようになっていったが、その度にアンセレットが手加減をしていてくれたことが分かるようになるのだ。

剣も、いつの間にか。

しっかり握れるようになっていた。

 

その日、訓練を早めに切り上げると、アンセレットと一緒に風呂に入った。多分、殺される日が近いのだろうと、サルファーは思った。

だが、別に構わない。

最初それを告げられたときには、生きたいと思った。だが、およそ1年ほど、アンセレットと訓練を続けて、考えが変わってきたのだ。

アンセレットに話を聞いて、世界のことを少しでも知ることが出来た。一緒に剣術をするのは楽しかったし、何よりアンセレットが人間扱いしてくれたのが嬉しかった。それに答えたいとも思っていた。剣術を習得するのが、その答えになると思ったから、力も尽くせた。

少しずつ指が動かせるようになっていたので、アンセレットの背中も流せるようになっていた。

今まで、鏡を見た事も無かったので、自分がどのような姿をしているかも知らなかったサルファーだが、浴室でそれは過去のこととなった。なるほど、他の人間と、自分は随分違っていた。全身はまるで肉の塊。頭には毛も生えていないし、足も手も色からして人間の肌では無い。

病気なのかと思ったが、違うらしい。どうやら、こういう姿に育つのが、生まれたときに決まっていたそうなのだ。

手指も足指も、満足に揃っていない。体に備わっている機能の多くが、サルファーには無いのだと、アンセレットは教えてくれた。研究員はそれらを知っていても、教えてはくれなかった。

最近は、やっと性別が男だと言う事が分かってきた。

しかし、生殖機能は無いだろうとも、言われていた。生殖機能についてもアンセレットに教えられたが、遠い世界の事に思えた。あっても何の意味も無いのだし、別に構わない。

風呂に並んで浸かりながら、アンセレットは言う。

「戦いじゃあ、酷い武器を渡される。 出来レースだからな。 お前の負けは、戦う前から決まってるんだ。 だが、だからって、何だって言うんだ。 本番じゃあ、全力でやれ、サルファー。 お前の姿が世間からみてどんなだろうが、気にするな。 お前の努力がどれだけ尊いか、俺は知ってる」

「はい。 がんばります」

「よーし、良い子だ。 お前が兵士だったら、これで一人前だ。 色町にでも連れて行ってやるんだが、使い物にならんのじゃ仕方がねえ。 風呂上がったら、酒を少し飲ませてやるよ」

「うれしいです」

荒々しくて下品だが、アンセレットに悪意が無い事は知っている。

そして、何となく分かった。

戦いが、もう近いのだろう。

酒は酷く頭に響いて、美味しいとは思えなかった。相変わらず下品にガハハハハと笑うと、アンセレットは背中をばんばん叩く。

かってだったら、傷だらけになっていたかも知れない。

今はもう平気だ。皮膚も、以前とは比較にならないほど強くなっていた。

ぐっすり寝所で眠って、それから。

翌朝には、アンセレットはいなくなっていた。

ああ、やはりか。そう思う。アンセレットはどうなるのだろう。これだけ好き勝手に、サルファーに剣を教えたのだ。無事に済むとは、思えなかった。

朝の食事には、今まででは考えられないほど美味しいものが出た。アンセレットがいないにも関わらず、である。

研究員の中で、一番偉そうな人が来た。そして、死刑宣告をされた。

「最後の慈悲だ。 歴代の魔王の中には、女をあてがわれた者もいる。 お前はどうする」

「いらない」

「そうか。 じゃあ、その分飯を増やしてやる。 味わって喰いな」

アンセレットの話では、歴代の魔王も酷い方法で「作られた」という。

結局の所、この世界は人間のもの。魔物も魔王も、人間の手のひらの上で踊っているに過ぎない存在だ。

アトランティスの外の国は、どうなのだろう。

自分よりはマシだろうが、アンセレットだって、受け入れられやすい人だとは思えなかった。そう言う人の、居場所はあるのだろうか。

追加分の食事も平らげると、真っ黒なマントを羽織らされた。

魔王らしい格好を、という事らしい。何だか、この人達のほうが滑稽に思えてきた。檻に、再び入れられる。

下に車が着いている、檻車というやつだ。

そのまま、大きな乗り物に檻車ごと乗せられて、しばらく揺られる。どれくらい揺られただろうか。

乗り物が、止まった。

どうやら、此処が終末点らしい。檻車が、乗り物から降ろされる。そして、運ばれていった。

強烈な光。

見た事も無いほどの数の人。

巨大な円形の施設の中央に、地面がむき出しになっている場所がある。これが、アンセレットが言っていた、コロシアムだろう。

「紳士淑女の皆様! このたびも、勇者が魔王に打ち克ちました!」

わっと歓声が上がる。

円周上の一角に、高い所が有り、そこに人がいる。何だかとてもキラキラする服を纏っていて、棒のようなものを手にしていた。

「幾多の邪悪な魔物の軍勢も、軍の勇敢なる兵士達と勇者の正義にはかなわず、地底に逃げ帰りました! そしてこのたびも、勇者は魔王を捕らえる事に成功したのです!」

何を言っている。

勇者なんて、会ったことも無い。何となく、アンセレットが怒っていた理由が、わかりはじめた。

サルファーが来た方とは逆方向。

きんきらきんの輝きが、此方に歩いて来る。金色の鎧を纏った、とても整った顔立ちの優男。手には、美しい装飾の剣がある。

「しかし、愚かで残虐だとしても、相手は魔界の王! なぶり殺しにするのも、これまた節度に反する話! 今一度、勇者との最後の決戦の場を用意するのが、神のお慈悲というものです!」

何だか、馬鹿なことを言っているような気がする。

それに、周囲を見回すと、分かった。

誰もが、血に飢えた目をしている。みんなアンセレットが言ったように、知っていたのだろう。

これが、ただの殺戮ショーだと。

普通の人間に比べて、「著しく醜く」「くさくて」「きたない」「殺しても問題の無い相手」を、おもしろおかしく「人間の代表で有り」「美しくて華麗な」勇者が殺すショー。何ら罪悪感なく、合法的な虐殺を楽しむことが出来る。だから、みんな目を血走らせて、喜んでいる。

剣を渡される。

数度振ってみて、分かった。恐らく、あの勇者の鎧にぶつかったら、一発でへし折れるだろう。

つまり、勝機は、あまり多くない。

だが、こんな剣でも、相手を倒す方法はある。更に言えば、相手は見た瞬間分かったが、アンセレットに比べると子供のような腕前だ。装備の差があっても、充分に挽回が可能だろう。

指呼の距離まで、相手が来た。

「うへえ、醜い奴。 しかもくさいなあ」

いきなりそんなことを、勇者は言った。

此奴が如何に見かけ倒しとは言っても、剣が保たない以上、あまり時間を掛けると勝機は無くなる。

「おまえ、生きてて恥ずかしいだろ。 だからすぐに楽にしてやるよ。 なーに、見てる連中は、血が見られればいいんだ。 ろくに抵抗できなくても、誰も文句なんかいわねえよ」

言いたいように言わせておく。

それにしても、アンセレットが言ったとおりだ。勇者は見かけが良い者が選ばれる。それだけではない。軍の偉い人間の子息だったり、政治家に関係があったりする者が、優先される。

これがショーであるよい証拠だ。

剣を取り落として、緩慢に拾い直す。勇者が噴き出しそうになり、必死にこらえる。勿論、わざとだ。

奴が纏っている鎧は急所を綺麗にガードしているが、それでも幾つか、狙えそうな場所はある。

見た感じ、奴はほとんど実戦も経験していない。

ただし、長引いたりすれば、きっと邪魔が入る。勝負を決めるなら、一瞬だ。これは、意地の勝負でもある。

どうせ、殺されるのだ。

「そういやお前、アンセレットとかってオヤジに剣習ったんだって? そのへっぴりごしで、その動きじゃ、全く無駄だったみたいだなあ。 まあ、クズが何やったって、所詮無意味だよな」

くつくつと、勇者が笑いながら近づいてくる。

落ち着け。冷静になれ。

度胸は、アンセレットに鍛えられた。

近くで見ると、勇者の剣には毒が塗られていることが分かった。一体どれだけ、厳重な準備をしているのだろうと、ちょっとおかしくなった。勇者なんて言葉が、実体の無い飾りだと、よく分かる。

「あのオヤジも、なんでこんなクズに入れ込んだんだか。 長くも無い寿命を縮めて、馬鹿な奴だぜ」

「いま、なんていった」

「あん?」

「アンセレットをどうした」

体の芯から、怒りがわき上がってくる。勇者は、多分自分の状況が分かっていないのだろう。

必死に笑いをこらえながら言う。

「あんなオヤジ、処刑したに決まってるだろ? そもそも、なんでお前なんかを指導したと思ってるんだよ。 死刑囚だったからだ、バーカ」

「あの人が、何をした」

「お父様が小さな村をおもしろ半分に略奪して、ガキをハンティングして楽しんでる所を、刺しやがったのさ。 幸いお父様は無事だったがな、せっかくの面白い遊びが台無しになったお父様はご立腹でな。 ただ死刑にするだけじゃ無くて、お前みたいなクズと過ごさせろと、ご命令になったんだよ」

笑いさえ、こみ上げてきそうになる。

そうか、アンセレットは、こんな奴らのために。

うつむいたサルファーに、余裕綽々で、勇者が近づいてくる。

「あーっと魔王、勇者の威厳に打たれて、戦意喪失か−!?」

「殺せー!」

ぎゃあぎゃあと、見ている連中が叫びはじめる。

もう少しだ。勇者の奴は、此方の様子を見て、完全に勝った気でいる。もう少し。わき上がる怒りを、只の一度のチャンスに、全て乗せる。

「あのオヤジの首を切り落として、この剣の試し切りにしたんだぜ。 いやー、これ、良く切れるんだわ。 お前もこれから、ばっさりやってやる、よ!」

勇者が踏み込んできた。

思ったよりも、剣の動きが遙かに速い。

一応、これでも勇者に選ばれるだけはあったのか。袈裟の一撃を、おおげさに驚いたようにかわす。

見ている奴らが、どっと笑った。

勇者が、満面の笑顔で、大上段に剣を振り上げる。

此処だ。

全力で踏み込むと、サルファーは。

勇者の目を、渾身の突きで貫いていた。

大量に浴びせられていた嘲弄がぴたりと止み。そして、悲鳴に変わる。

何が起きたか分かっていない様子の勇者に体当たりを浴びせて、剣を取り落とさせた。悲鳴を上げて目を押さえ、もがく勇者を尻目に、奴の剣を拾い上げる。

良く切れそうだ。

「取り押さえろ! 早くしろ!」

「魔術師はまだか! あの化け物を焼き殺せ!」

わあわあと、周囲が声を上げていた。パニックに陥っているのが分かる。

サルファーを取り押さえようと、大勢の人間が走ってくるのが見えた。サルファーは無言のまま、剣を振り下ろし、無様に悲鳴を上げ続ける勇者の首を、目を押さえている手ごと叩き落としていた。

 

気絶するまで暴力を加えられ、檻に入れられたサルファーは。裁判とか言うものに掛けられた。

どうしてその場で殺さなかったのか、よく分からなかった。だが、すぐに理解することになった。

其処は、円形の空間だった。真ん中が一番低くなっていて、あらゆる方法で頑丈に拘束されたサルファーが、無理矢理に座らされている。

そして、周囲にはたくさんの人間がいて、ひたすらサルファーを罵った。

「貴様は、卑劣な手を使い、神聖な勝負を汚した!」

「貴様は卑怯者だ! 魔王の名にふさわしい邪悪な存在だ!」

徹底的に、休憩は一秒も許されず、代わる代わるひたすら罵られ続ける。口には布を詰め込まれ、手は拘束される以前に折られていたので、耳を塞ぐことも出来なかった。

最初は、何を馬鹿なと思った。

アンセレットと、ずっと努力を続けたのだ。さぼることも無かったし、手だって抜かなかった。

むしろ、装備と立場に胡座を掻いて、武芸を磨くことをさぼったのは、勇者に祭り上げられた人間では無いのか。

それなのに、周囲の人間全てが、違うことを罵り掛けてきた。

「お前は勇者の慈悲を踏みにじった!」

「なんでお前のような奴が生きている! 死ね! 今すぐ死んでしまえ!」

食事も与えられない。

排泄をするのも、その場でしなければならなかった。それどころか、排泄をすれば「裁判を侮辱している」とか「汚くて臭い」とかで、即座に気絶するまで殴られ、水を掛けられて叩き起こされるのだった。

頭がぐらぐらしてくる。

この者達は、要するに。

勇者が魔王を惨殺するという最高のショーが台無しになったから、こういう形で憂さ晴らしをしているのだ。

自分たちにとって最高のショーを踏みにじられたから、報復をしているのである。何しろ、サルファーにはどのような悪意をぶつけても良いと、公認されているのだ。しかし、連日全く休むことも許されず、周り中から悪意をぶつけられれば、思考力はどんどん混沌へと落ちていく。

自分が罵られるのは、別にどうでも良かった。

何より悔しくて悲しかったのは、アンセレットと一緒に努力した日々を、ことごとく否定される事だった。

「お前は生まれるべきでは無かった!」

「お前はいるだけで、全てを不幸にした!」

「私の家族を返せ! このゲス! このクズ!」

「死ね! 早く死ね!」

そんな覚えは無い。

殺そうとしてきた勇者を倒しただけだ。それ以外に、人を傷つけた事なんて、ない。

だが、反論は出来ない。口を塞がれているから。それだけではない。どうも、喉を潰されているらしかった。

もう、腹の中は空。極限の空腹と、精神のダメージが、全身を徹底的に痛めつける。意識が落ちそうになれば棒で殴られ、呻けば棒で殴られ、身じろぎしただけで棒で殴られた。

どれだけの悪意を、浴びたのだろう。

周囲には、いつの間にか、金ぴかの鎧を纏った勇者が、たくさんいた。彼は笑いながら、剣で次々にサルファーを刺した。その剣は一つ一つが、罵声となって、サルファーの身を切り刻む。

「お前の味方は、世界のどこにもいない! そんな状態でも、生きている事を望むか!」

「意地汚い化け物が! お前など、地獄に落ちてしまえ!」

剣が刺さる度に、勇者が笑う。

剣は巨大ないもむしになってサルファーの全身を這い回りながら、耳元でささやく。お前が死んでいれば、アンセレットは死なずに済んだかも知れないのにな。

勇者に、首を切り落とされずに、済んだのかも知れないのにな。

殴り倒されて、一瞬だけ、正気が戻る。

だが、すでに頭をたくさん殴られたからだろうか。もう目は見えず、正常に耳も聞こえなくなっていた。

勇者の笑い声が、辺り中から響いている。アンセレットは弱かった。斬ったとき、とても楽しかった。

ぎゃははははははははは。あはははははははは。わはははははははははは。ひひゃはははははははは。

やがて、判決とやらが出た。

内容はもう、聞こえていなかった。既にその時、サルファーの精神は崩壊していたからだ。

サルファーは殺された。

ものすごい長い時間を掛けて殺された。どんなふうに殺されたかは、よく分からなかった。

 

気がつくと。

サルファーは、光の中にいた。肉体を失っていることは分かった。それなのに、どうしてか、周囲が分かる。

自分は筒のようなもののなかに入れられていた。それは透明で、向こうが見えた。

向こうには、羽が生えた、人間のような者達がいた。みんな白い羽で、表情が無機的だった。

「この魂は理想的だな」

「はい。 世界にこれほど拒絶された魂は、見た事がありません。 蓄積している外部からの悪意も、理想的な量です」

「どのみち、対悪魔用の究極兵器を作るために魂は必要なのだ。 これほど世界からいらないとされている魂は、他に無いだろう。 必要とされている魂を犠牲にすることは出来ないし、丁度良い」

「待ってください!」

反論があがる。

小さい羽が生えた人間だ。女だろうか。

他に比べると、感情が分かり易い。

「我々天使は、秩序の守り手と同時に、救われぬ魂の救済も司っているはずです! 神が失われた今、我々こそが、このような哀れな魂を救うべきなのではありませんか!?」

「それぞれの世界に介入することは禁じられている。 己の正義で世界に介入していけば、結果は大乱を誘発するだけだ。 今までに多くの事例が、それを証明している。 この魂は、その世界のルールにより、いらないものとされた」

「それに、地球人類の直系子孫である幾つかの魔界の猛攻で、既に前線が危機に至っている。 秩序と、より多くの命を救うためにも、わずかな犠牲に躊躇するべきでは無い」

「エンデ、貴殿は研究職にはむいていない。 才能はあるが、冷酷さをもたなければ、却って被害を増やしてしまうことになるだろう」

サルファーをかばおうとしてくれた者がいることは驚いたが、それも無数の反論で潰されてしまう。

結局、此処でも同じか。

サルファーの魂には、変更が加えられる。

より、多くの悪意を集めるように。

そして、悪意を集めれば集めるほど。力が強くなるように。

ほどなくサルファーは、肉体を与えられた。正確には、肉体を作り出す事が出来るまでに、魂が強くなった。

周囲の声が、聞こえてくる。

「第二千十七魔界に投入しよう。 あの世界は、住んでいる悪魔共が、始祖である地球人類と性質が最も近い。 悪魔殲滅兵器乙型の実験場として最適だろう」

「連中が無差別に打ち込んでくる恒星間弾道核融合ミサイルのせいで、我が軍は大きな被害を受けている。 早めの対処が必要だろう。 投入をためらう理由は無い」

「問題は制御機構だが……」

「マジェンタ・コアが使えるかも知れない。 幾つか生産しておこう。 いずれにしても、天界は避けるようにインプリンティングしてある。 魔界を好き勝手に此奴が荒らす分には、我らに損は無い」

「ぼくの、名前は、サルファーだ」

羽をもった奴らが振り返る。

何か調整作業を始めた。

「まだ自我が残っているか」

「膨大な悪意に晒され続けて、人格を粉々にされたと言うに、しぶといな。 だからこそ、兵器として有用とも言える」

兵器か。自分は、こんどは兵器にされるのか。

魔王と呼ばれて、好きなように悪意をぶつけてよい存在とされ。

今度は兵器として、好き勝手に利用される者となり。

最後には何が待っているだろう。

やがて、自由になったサルファーは、生まれて始めて、意図しない暴力を振るった。否、それが終わってから、初めて暴力だったという自覚が生まれた。投入された魔界で、悪魔を片っ端から殺し、そして全部を喰らった。

何の悲しみも覚えなかった。

気がつくと、ただ荒れ果てた荒野と、文明の残骸だけが広がっていた。

「他の魔界も破壊せよ。 次は……」

頭の中に、声が広がる。

命令を聞くほか無かった。自分の力が、強くなっているのが分かる。

次の魔界も。次の魔界も。その次の魔界も。

ことごとく破壊し、殺しつくし、そして喰らい尽くしていった。

 

何時からだろう。

頭の中の声に、逆らえるようになっていた。空間を渡る力を、使いこなせるようになっていた。

魔界を三十個ほども潰した頃だろうか。

最初の内は、何をしているのかも、何をされているのかも分からなかった。

悪魔という種族は、攻撃の際に、どのようなものであっても悪意をぶつけてくる。サルファーは、それをことごとく吸収して、自分の力にする事が出来た。最初の内は、ぼんやりとしたまま、ただ機械的に作業を行っているだけだった。

だが、何時からだろう。

吸収した悪意が、意思を持っていることが分かりはじめた。或いは、喰らった悪魔達の怨念かも知れない。

少しずつ、周りが見えるようになってきた。

殺せ。潰せ。

悪意達がうめき声を上げる。

他の奴らも、みんな喰っちまえ。

悪意がそそのかす。

サルファーにとって、悪意は生まれたときから側にあるもの。自分に対して向けられるもの。

世界の基準にとって醜く生まれたときから。

どこの世界でも、サルファーは受け入れられることは無い。そんなことはわかりきっている。悪意は、それを教えてくれる。

さあ、なんでも壊してしまえ。

そうだ、お前の故郷はどうだ。お前にしてくれたことを、全部返してやれ。

他の奴らも、悪意で満たしてしまえ。

嗚呼。

そういえば、他の者が悪意に満ちると、どうなるのだろう。サルファーはそれを知らない。ただ無心に殺していたから。

意識は、どんどん薄くなっていく。

それなのに、何処かではっきりしている。意識にまで、悪意が侵食してきているのが分かる。人格が、徐々に悪意によって、溶けて行っている。今、はっきりしている意識は、悪意によって作られたのかも知れない。

分からない。

ぼくは、いやこの私サルファーは。俺は、余は、朕は。

世界の敵で、そして。世界を壊すものだ。さあ、今度は、あの忌々しいアトランティスを訪れようでは無いか。

しゃべり方も、一定しなくなってきた。一人称さえも。とんでもなく狡猾な考えも、時々浮かぶようになっていた。

気がつくと。

アトランティスは、跡形も残っていなかった。大地さえも砕け散り、泥に濁った海が、逆巻いているだけだった。

これが、あれだけ正義を主張し、サルファーに全ての悪を押しつけてきた世界の末路なのか。

ある意味拍子抜けしたサルファーは。

一度、アトランティスのことを忘れた。

しかし、もう一度戯れにアトランティスを訪れて、愕然とした。其処には、また人間が無数に住み着いていたからだ。

殺せ。

喰ってしまえ。

お前をそうしたように。

無数の悪意が、ささやきかけてくる。嗚呼、そうだ。殺さなければならない。そうしなければ。

また、あの人が、殺されてしまう。

呻く。

もう、あの人の名前も、思い出せない。だが、絶望と恐怖が、雪崩のように襲いかかってくる。悪意が、ささやきかけてくる。

そうだ、もうあんな事は許されない。

殺して、殺して、殺し尽くせ。

復讐だ。

 

サルファーの目が、赤く輝く。

意識は、既に。悪意に埋もれ果てていた。

 

3、闇の歴史の末

 

ミロリが、一旦話を止める。

カスティルは流石に具合が悪くなったようで、しばらく休憩を取りたいといった。マローネが背中をさすってあげる。

「大丈夫? 無理はしないで」

「平気よ。 ねえ、ミロリさん。 教えて。 どうして、どうしてこんなことが起きてしまったの?」

「……」

マローネも、悪意の恐ろしさは知っている。

だが、スケープゴートを用意して、それに全ての悪を押しつけて、正義を気取るなんて。そんな考え方が許されるなんて、どうにかしているとしか思えない。

勿論、天界もサルファーの全てを知っている訳では無いらしい。だが、其処から伝わってくるのは、獰猛なまでの人間の悪意の波。

ミロリは少し休憩を入れた後、人間としてのサルファーが死んだ後の話をしてくれた。マローネも、その言い方を聞いて、ミロリが変わっていないことに安心した。たとえアトランティスの人達が認めなかったとしても。サルファーは、人間だったのだと、マローネは思う。

以下の話も、悪意と混沌に満ちたものであった。

かって、イヴォワールにあった大陸で、醜いとされる基準に生まれついたサルファーを、あらゆる悪意が滅茶苦茶にした。

そして、その闇に染められた魂を、「もっとも不要とされていたから」という理由で、天界が兵器利用のために回収した。

この当時、天界は複数の魔界に猛攻を受けていた。いずれもが、「始祖の世界」の影響を強く強く受け、負けた相手からは徹底的に略奪し、破壊し尽くし、生き残った相手は奴隷化して死ぬまでこき使うような者達だった。

現在でも魔界は荒々しい者達が多いが、こういった連中は今の悪魔とも一線を画している。

これらとの戦いで、天界は疲弊していた。無差別に弱者への鏖殺と略奪を繰り返す幾つかの魔界に対しても、有効な策を打ち出せなかったからだ。天界は秩序を守る事を旨としており、それがゆえに一つしか存在しない。

魔界よりも規模が大きいとは言え、もとより戦闘に長けた者が少ないのが天界なのである。どうしても、対抗の手段は限られていた。

しかしながら。

それでも、魔界を幾つか皆殺しにしてしまおうと思いつくまでには、どれだけの思想的な発狂があったのか。当時の天界が如何に対応に苦慮し、そして思考を暴走させていったのか。

そして、悪魔に対する絶対最終兵器、サルファーが作り出された。

サルファーは悪魔と名のつく存在であればどのような攻撃も受け付けないという圧倒的な強さを発揮して、天界に攻撃を仕掛け他の世界を蹂躙しては殺戮と略奪の限りを尽くしていた幾つかの魔界を、瞬く間に滅ぼした。

どれだけ強大な武器を持っていても、恐ろしい魔術を使っても。サルファーには、悪魔が作ったものだという時点で、全く刃が立たないのだ。それどころか、悪魔の攻撃を受ければ受けるほど、サルファーは強くなっていくのだという。

「サルファーの魂は、これ以上も無いほど高密度の悪意に晒され続けてきた。 だから、彼の心は、悪意をどれだけ浴びてももはや壊れない。 いや、心がこれ以上も無いほど、深い悪意に染まっていると言って良いだろう」

そして、その悪意を、サルファーは力にする。

無数に現れるサルファーのしもべは、今まで彼に向けられた膨大な悪意が、剥落したものだ。

元が実体をもたないのだから、空間を渡ることも自由自在。

そして悪意は食事をしない。食欲だけは残っているから相手を食いちぎるが、はき出してしまうのはそのためだ。

やがて、サルファーは天界にとっても他の世界にとっても有害な魔界を全部食い尽くしたあたりで、制御を受け付けなくなった。

悪意をため込みすぎて、自我が崩壊したのかも知れない。

天界を襲うことだけは無かった。しかし其処から、サルファーは暴走を開始した。まずアトランティスを破壊し尽くし、大陸ごと砕いた。それからは思い出したように魔界を襲っては、悪魔を食らいつくし。そしてイヴォワールを、何度も何度も目の敵のように襲うようになった。

サルファーが今何を考えているのかは、誰にも分からない。

もはや、本能しか無い怪物なのかも知れない。しかし、その本能とは、何だろう。復讐の概念を持っているのだ。もしかすると、復讐だけが、サルファーの意図している事なのだろうか。それ以外は、全て魔界を殲滅するという本能に基づいているのだろうか。

マローネには、悪意に彩られた人格というのが、どういうものか予想できない。ましてや、悪意だけで構成された人格とは、どういうものなのだろう。

サルファーの中には、いくつもの人格があるのだろうか。

「それにしてもこの世界の人間は、良くサルファーを何度も撃退できたな」

「この世界の人間は、基礎能力が桁違いに高い。 其処の魔界の弓使いに聞いているんじゃ無いのか?」

「ハツネだ」

「すまない。 ハツネさんに聞いているのでは無いのか」

言われるとおりだ。

魔神クラス以上の使い手がごろごろいるとか、魔王クラスに達している者もいるとか、マローネは聞かされている。

普通はあり得ないそうだ。どんなに強い人間でも、魔界の悪魔には基本的にかなわない。魔王と戦うには、それこそ入念な準備と、徹底的な鍛錬が必要になる。それなのにこの世界では、魔王以上の実力を備えている人間が、片手の指にあまるくらいいるというのだから。

「恐らく、サルファーによる蹂躙を何度も受けているのが原因だろう。 一種の自然淘汰だ」

「自然淘汰?」

「強い者だけが選抜されて生き残ってきた、というような事よ。 酷い話。 サルファーに対して、もの凄く酷い自然淘汰を強要した結果、今度は自分たちがサルファーの手で強制的に自然淘汰されてしまうなんて」

「皮肉な点はまだあるよ?」

フォローを入れてくれたカスティルに、コリンが満面の笑みを浮かべて付け加える。

彼女は終始楽しそうだった。悲劇を聞いて、マローネが苦しんでいる様子が、あまりにも彼女にとって甘美な光景だからだろう。

「そもそもサルファーが本当ににくいのは人間だろうに、悪魔に対して無敵の力を得ても、人間に対しては無敵じゃ無いんだからねえ」

その上、アトランティスの人間をいくら皆殺しにしても。

もはや、サルファーに悪意を向けてきた当人達は、一人も生きていない。あの世があるかは分からない。ファントムがいるのだから、天国とか地獄とかはあるかも知れない。その天国の方に、サルファーを虐待した人達が行っていたら。

この世そのものが、悪意によって作られているのかも知れなかった。

「マローネ、君の信念は、とても強いものに思える」

不意に、ミロリが話を変えてきた。

これから先は、とても危険だ。だから、覚悟を試そうと思っているのかも知れない。

「だが、その信念は、何によって培われた」

「私は、みんながすき。 たとえ悪意にまみれていても、酷いことばかりしていても」

だから、みんなにも、私を好きになって欲しい。

きっとそれは、聞く人によっては、エゴに過ぎないと思うかも知れない。

だが、マローネは、みんなのために頑張れば、いつかは差別と迫害から抜け出せると信じている。

お父さんとお母さんの、教えだからだ。

「マローネは本気だよ」

フォローを入れてくれるアッシュには、随分迷惑ばかり掛けてきた。

この信念は、決して楽な生き方を呼ばない。どちらかといえば、普通の人寄りのアッシュは、何度もマローネの生き方に苦言を呈してきた。暴力に訴えるべきだと、ストレートに言ったこともある。

だが、マローネは、考えを変えなかった。ガラントも、バッカスも、荒事をして生きてきた人達は、みんな同じ考えのことも多かった。比較的温厚なカナンやヴォルガヌスも、だいたいの場合、意見は同じだった。

パレットだって、マローネよりは考えが中道寄りだと思う。ハツネに至っては、基本的に戦う事、敵を制圧すること、勝利を生かすこと、しか考えていない。生粋の戦士だ。まあ、ガラントが絡むと女の子らしい顔も見せてはくれるが、それだけ。コリンは合理主義の塊だ。快楽主義者でも有り、その快楽にはマローネの苦痛が関係している。

「ならば、聞く。 サルファーは、そのみんなの中に、入るのか」

空気が、固まったように思えた。

今まで、本能のまま襲ってくる相手などは、頭を切り変えて対処することが出来た。だが、サルファーという存在が何者か知ってしまった今、同じように戦えるのか。

次に言葉を発するまで、たっぷり時間が必要だった。

「ねえ、ミロリさん」

「あんたは俺の恩人だ。 ミロリでいい」

「うん、じゃあミロリ。 サルファーを救う方法はあるの? 破壊しただけじゃ駄目なんでしょ?」

サルファーを逃がさない方法は、準備できた。

だが、もしも本当に殺すのだとしたら。

「マローネ、君はファントムを殺す事が出来るか?」

「え……」

「もしサルファーを殺すとすれば、方法は一つだ。 体を壊すんじゃ無い。 体の周囲に張り付いている、とんでも無く膨大な悪意を、引きはがす。 そして、その上で、魂を殺すしか無い」

魂を滅する。

それは恐らく、輪廻の輪に戻るとか、そういう話でさえない。魂の、完全消去。

サルファーの魂は、とんでも無い高次元で汚染されていると、ミロリは言う。

「サルファーの汚染は次元が違う。 人間で言えば、数十億人分という単位の悪意を、何百年も浴び続けたような状態だ。 そうだな、いうならば、悪意の神、悪意による破壊の神、という所だろう。 かって天界には天使達の代表である神がいたって話だが、そんな生やさしい存在じゃ無い。 下手をすると、一つの世界を丸ごと悪意で歪められるような、そんな化け物だ」

「それって、今イヴォワールで起きている異変の事ですか?」

「そうだ。 火山を噴火させ、寒気を異常発達させ、熱波を極限まで強化し、空間を歪めに歪めて生き物を住みにくくし、悪意だけで世界を染め上げる」

破壊の、神。

その破壊を止めるには、もう方法は、一つしか無い。

速やかなる死。

理論的には、出来る。

マローネは、魂だけの存在に、仮の肉体を与える能力者だ。その逆をすれば良い。

コリンに魔術のことも教わっているから、理論的にもくみ上げることは出来る。恐ろしくて、やる気にはとてもならないが。

「なら、あたしが代わりに組もうか?」

口に出してもいないのに、コリンが満面の笑みを浮かべる。

少し普段のコリンと接しただけで、この魔術師が正真正銘の危険人物だと知ったらしいカスティル(今までは、医師として診察をしているカナンの「助手」をしているコリンしか知らなかったのだ)が、ぐっとマローネに身を寄せる。

だがコリンは知ったことではないと言う風情で、理論をすらすらと述べはじめる。

耳を塞ぐわけにはいかない。

だって、これが、最後の切り札なのだから。

「あと少しで、到着します」

「じゃあ、準備しようか」

「今の術を、あんたに試したいもんだよ」

「やってごらん? あたしがいなくて、サルファーに勝てる、てんならね」

けたけた笑いながら、コリンは部屋を出て行った。やっぱりアッシュは、この人には勝てない。

あの人は、アッシュの弱みを知り尽くしている。コリンが排除されれば、翻ってマローネのためにならない事を、熟知しているのだ。

「強者だが、最低の女だな」

「でも、いないと勝ち目は無いから。 それに、あの人なりに、私のことを、好きだって事は知っているから」

それがどんなに歪んでいても。

マローネは、コリンのことが、嫌いでは無かった。

 

船が魔島に到着する。流石に用意された船は、マローネの壊されてしまった小さなボトルシップとは比較にならず、揺れも小さかった。

上陸する。

魔島は恐ろしい存在感を、その場に示し続けていた。海は相変わらず真っ黒に逆巻き、落ちたらひとたまりも無い事が一目で分かる。

既に作戦は開始されているようだった。陣地は完成していて、其処から恐ろしい音がする術式を魔島に間断なく打ち込んでいる。島はだいぶ静かになってはいたが、それでも恐ろしい気配は消えていない。

陣地の中には、顔見知りも何名かいた。フォックスと、それにリエールが前衛をどうするかで話をしている。フレイムが片手を挙げて挨拶してきたので、頭を下げる。他にも、各傭兵団の主力は、あらかた顔を揃えている様子だ。

九つ剣は、これから合流するという。

船から下りてきたパティ達に、モカが何か話しかけている。兵士達にも、パティを守るようにと言う指示は出ている様子だ。

天界の軍を率いているという人を紹介される。長い紺色のローブを身に纏って、三角帽子を被っている女性だ。若々しいが、とても威厳があって、目には力がある。絶世の美女、というわけではないが、顔立ちはそれなりに整っていた。

「マローネです。 初めまして、大天使様」

「カスティルです。 はじめまして」

車いすの上からでも、カスティルの礼は完璧だった。リレと名乗った人間にしか見えない天使の長は、しばらくマローネを見つめていたが、鷹揚に頷くとこれからすぐに発つと言う。

理由については、聞かなくても教えてくれる。

「サルファーの配下は、私達があらかた引き受ける。 貴方たちが、サルファーそのものは何とかしなさい。 知っての通り、悪魔はサルファーに対して有効打を打てないし、天界も兵士達の練度から言ってそれは同じ。 貴方の双肩に、勝利は掛かっているわ」

「あの、一つ良いでしょうか」

白い目を向けられる。

今更、覚悟でも無いだろうに。何をしにここに来たと、目は語っていた。この人は、他の戦闘慣れしていない天使達とは違う。身のこなしなどで、一目で分かる。間違いなく殺し合いを日常的に経験し、才能を努力で磨き抜き、実力で今の力を得た人だ。

しかし、気になる部分はある。どうして、この人が直接戦わないのだろう。

それにもう一つ。

サルファーを天界が破壊兵器にしたというのなら。その弱点を、知っているのでは無いのか。

その二つは、さっき話を聞いている内にカスティルが指摘した。今、マローネが、それを代弁する。本人が怒らないように柔らかい口調で、だが。

リレはしばらく黙っていたが、やがてマローネに視線を合わせてきた。

「それ、自分で考えたことじゃないわね?」

「……すみません。 私じゃ無くて、カスティルが考えました」

「まあいいわ。 まず第一の質問だけれど」

天使の攻撃も、サルファーには通じない。

リレは言い切った。

自分は顧問のような役割で、生きている年数はともかくれっきとした人間だが、と前置きした上で、彼女は言う。

「天界の天使長、という時点で、サルファーには攻撃が通じないの。 もっとも、サルファーも、攻撃を受けない限り天界軍には反撃しないようになっているのだけれど」

「どういう理屈ですか?」

「そっちの性格が悪そうな魔術師のファントムに聞いてみなさい」

即座に、コリンがファントムである事を見抜かれた。

見たところ、コリンから見ても数段格上の魔術師だろうし、無理も無い。コリンは舌を出すと、呆れたように言う。

「存在概念関連の防御、とか?」

「正解。 悪魔の攻撃は、その独特の悪意の波長からサルファーには通じないのだけれど、本来この悪意の波長って言うのは、どんな攻撃にも含まれていてね。 これを概念化して……」

リレの理論は非常に難しくて、聞いていても六割くらいしか理解できなかった。カスティルは分かっているようなので、羨ましい。

悪魔も天使も、本来の人間に比べて、単純すぎるのだと、リレは言う。これは進歩による精神的なそぎ落としの結果だというのだが、それが今回は悪く働いている。

要するに、悪魔からの攻撃は通じない。

それを利用して、天使からの攻撃も、通じなくなった。

本来は、リレ自身の力は、通じる。

だが、今回はその「通じない」部分が混じってしまった。

「私が戦うとなると、相当レベルは300強というところかしらね。 貴方たちの最精鋭くらいには戦える自信があるけれど、それならば宇宙空間で艦隊戦の指揮を執った方が早いし効率的。 そういうこと。 納得いった?」

「はい。 もう一つの質問は……」

「サルファーの資料はね、何名かの大天使の記憶の中に、天界の最重要機密としてしまい込まれていたの。 魔術によるものなのだけれど」

特に一番多くの資料を引き出せたのは、天使長エンデ。比較的まだ若い女性の天使で、サルファーの研究に途中まで関わった人物だった。彼女は罪悪感からか研究を離れており、そのため得られたデータは限定的だった。

サルファーのおかげで、天界は破滅的な事態を免れた。

しかし、その後、形勢が天界に一気に傾いたわけでは無い。

各地で天界の軍勢は苦戦を続けていて、サルファーが魔界を食い尽くしていかなければ、或いは天界そのものが滅んでいたかも知れないという。

つまり、それは。

機密ごと、失われた命が、少なからずあったと言うことだ。その中には、サルファーを研究していた天使達も名を連ねていた。

「サルファーの制御装置兼空間制御装置として作られたマジェンダ・コアという道具が複数あったらしいのだけれど、これはほどんど散逸。 一つが後にある戦場跡で見つかったのだけれど、ゴッドエリンとかいう愚かな武器商人が、サルファーを制御して稼ごうとか考えてねえ。 今ではもろともに、サルファーのおなかの中」

口を押さえるカスティルに構わず、リレは言う。

緊急制御装置でさえ、もうサルファーはどうしようも無い状態なのだ、と。

「あの、質問を追加しても、良いですか?」

「何?」

「もしも、サルファーの魂を浄化することが出来たのなら」

リレが今日、初めて驚いたように、マローネを見る。

マローネは、リレの目から、視線をそらさず言った。

「サルファーの魂を、輪廻の輪に戻して、あげられますか?」

「話は聞いているでしょう? 何十億という単位の人間から、何百年という単位で悪意を浴びせられ続けたに等しい、究極レベルにまで汚染された魂よ。 汚染密度は、測定不能の次元。 はっきりいうけれど、宇宙が誕生してからという単位でも、これ以上汚染された魂は存在しないのではないのかしらね」

リレが言うには、地獄というものは存在するが、それは魔界の一種。必ずしも罪深い魂が落ちる場所では無いと言う。まあ、罪深い魂が、集まりやすい場所で、相互に汚染し合うそうだが。

だが、それに比しても、サルファーの汚染は桁違いに凄まじいという。

「諦めなさい。 消す好機があったら、容赦なくやるのよ」

「でも、もしも、救うことが出来たのなら」

「……その時は持ってきなさい。 悪いようにはしないから。 ただし、貴方も修羅場をくぐってきた戦士の筈。 諦めるときは、諦めなさい」

天界軍の旗艦という船に乗って、リレは何処かへ消えた。空の彼方へ飛んでいったのだが、すぐに雲を突き抜けていった。

きっと、雲の上でも、恐ろしい戦いが始まるのだろう。

魔島の上には、黒雲が渦巻いている。天幕で、最後の作戦会議をこれから行う。

船は続々と来る。

海上でも、陣形を組んでいる。攻撃のための陣を。

人間の全戦力が、この魔島に集まろうとしていた。

 

4、始まる決戦

 

ウォルナットは拘束されたまま、全てを見ていた。

サルファーは、徐々に姿を明確にしていく。その巨大な体躯は、しかし見かけの大きさ以上に、圧倒的に感じた。力が、あまりにも段違いに過ぎるのだ。強くなったウォルナットでも、どうにか出来るとは、とても思えないのである。

島には、ひっきりなしに光の魔術が降り注いでいる。爆発で怪物は片っ端から淘汰されているようなのだが。サルファーにとっては、魚で言えば鱗の一枚にさえ値しないのだろう。

奴が出てきたら、ウォルナットは瞬時に捻り殺される。

そして、少し前から、さらなる良くない要素があった。。

大剣士スプラウトが、小高い丘の上に座り、此方を見ていた。サルファーが完全に実体化したら、即座に戦いを挑むつもりなのだろう。スプラウトの実力は、完全に人間を超越している。化け物共の戦いに巻き込まれれば、万に一つも助かりはしない。

もはや、命運は尽きたと言っても良い。

あの大剣士は超常的な使い手だが、それでもサルファーに勝てるとは思わない。

つまり、この世界はもう終わりだ。

カスティルも、死ぬだろう。パーシモンも。

馬鹿な自分のせいだ。世界などどうなっても良いと思っていたのに、こうして詰んだ状況を目の当たりにすると、情けなくなってくる。

もう、ウォルナットに、出来る事など一つも無かった。後はせめて、楽に死ねることを祈るばかり。だが、そんなことは、ウォルナットのプライドが許さなかった。

自身のミスを自覚してから、不思議とあれほど燃え上がっていたマローネへの憎悪が、消えてしまっていた。

あの時。

奴とは、決定的に相容れない事が、分かったのに。

それでも奴は、マローネは。ウォルナットに、手をさしのべようとした。サルファーに囚われたウォルナットを救おうとしていた。

あれほど、マローネに対して、非道を働いたウォルナットに対してだ。

救いがたいお人好しだと思う。

だがマローネは、お人好しをして、死なずに済むだけの実力を持っていた。周囲には、それを可能とするスタッフを揃えていた。

ウォルナットには、それがなかった。

力を得たと思ったのに、どうしても足りていなかった。社会の底辺を這いずってきたからこそ、勘違いをしてしまったのだろうか。

あいつも、マローネも、同じだったはずなのに。

所詮、世界に拒否されたということか。

「お前は、似ている」

脳の中に、直接声が響いてくる。

何だろうと周囲を見回す。だが、考えられることは、一つしか無かった。

「世界から拒絶された魂。 俺と同じだ」

「……」

そうだ。

世界から拒絶された魂だ。仮に許されたとしても、まっぴらごめんだ。最初に拒絶したのは、お前達では無いか。何故、許してもらわなければならない。

そもそも、ウォルナットが乱暴者と言われるようになったのは、カスティルを孤児だと言って馬鹿にした隣のクソガキを殴り倒してからだ。

今は、カスティルも。ウォルナットを、徹底的に嫌っていることだろう。

「お前は、スカーレットでは無いな。 でも、別に構わない。 どのみちこの世界は、焼き払うのだ」

「そうかよ」

「その時、お前は俺の中で、見ることになるだろう。 お前を拒絶した世界が、ことごとく焼き払われていく有様を。 そして俺と一緒に嗤うのだ。 おぞましい世界が、清浄になっていく様子を」

脳が、黒一色で塗りつぶされていくような感触だ。

だが、気持ちが良い。

思い出す。家を飛び出して、師匠に裏切られたときのことを。憎悪を滾らせて、全てを憎んでいたあの頃のことを。

嗚呼。これこそが、俺では無いか。

サルファーは、俺だったのか。

「人間は皆殺しだ」

サルファーが、言った。

それも良いかもしれないと、ウォルナットは思った。

どうせ、手に入らないのだから。

 

今までの情報があったから、作戦会議はすぐに終わった。

五万に達する軍勢は、既に展開を完了している。これに魔王セルドレス率いる魔界の精鋭と、ミロリをはじめとする天界の援軍がそれぞれ加わって、魔島に突入作戦を開始することになった。

海上にも、艦隊は展開している。

船には天界の軍勢が持ち込んだ進んだ技術の兵器が満載されており、海上から、魔島に現れる敵を打ち砕くことが出来る。

更には天界と魔界の軍勢が、別の所でサルファーのしもべ達を引きつけるべく動いており、魔島に突入する部隊が負担しなければならない敵の数は、さほど多くは無い。その筈だった。

だが、クラスター弾というのを打ち込み終えて、魔島に足を踏み入れたマローネは、それが甘い考えだったのだと、すぐに思い知らされることになった。

前衛として突入したラファエルの白狼騎士団が、苦戦しているという報告が、即座に届く。

そして、それが届くやいなや。

空を覆い尽くすほどの悪霊が、出現したのである。

天界が敵を引きつけていないとは思えない。引きつけてくれていてなお、この数だという事だろう。

しかも悪霊は、空間を好き勝手に渡って、自分たちの理想の土地である魔島に侵入してきた人間を、迎撃開始した。

見る間に、周囲は阿鼻叫喚の有様と化した。

特に、経験の浅い軍部隊が狙い撃ちされている。空間を渡るという最悪のヒットアンドアウェイを繰り返す上に、いきなり背後や頭上に現れる悪霊の大軍勢に、軍は右往左往するばかりの様子だった。

「右翼第三部隊、後退開始! 被害甚大!」

「支援砲撃を!」

「左翼第二部隊に、敵の攻撃集中! 支援願う!」

マローネが一緒に進んでいる中央部隊に、ひっきりなしに伝令が走り込んでくる。一緒にいるモルト伯はその度に的確な支援を約束し、撤退を支援させ、救援の部隊を穴埋めにねじ込んでいた。

しかし、支援砲撃をしても、最初は効率よく敵をつぶせても、すぐにから撃ちになってしまう。

敵は撤退するのでは無い。

文字通り、空間を渡って別の所に行くだけなのだ。更に言えば、死も怖れていない。撤退中の部隊も、攻撃を受け続け、被害を増やす一方のようだ。

幸いにも、バンブー社の派遣してくれた医療部隊が、後方でフル回転している。これで少しでも被害が減れば良いのだが。

また、百体以上の悪霊が、頭上に現れる。

各傭兵団のボス達は、それぞれが前線で暴れている状況だ。九つ剣もそれは同じである。マローネと、この場にいる天使達の精鋭、魔王セルドレスで、パティ達とカスティルを守りきらなければならない。

「カナンさん! パレット! 守りはお願いします!」

マローネに頷くと、カナンとパレットが、二人でクリスタルガードを展開して、味方を守る。

激しい戦いの中、セルドレスは此方に気を遣って、自分が率先して戦ってくれていた。流石に魔王と言うだけあって、圧倒的に強い。アッシュやガラントは、側に来る悪霊を薙ぎ払うだけで事足りた。上空で、四方八方に火球を放つセルドレスが、空から来る悪霊は、みんな蹴散らしてくれている。

地響きを立てて、小山のような巨体が着地。

既に敵影は無い。

「お疲れ様です、セルドレスさん。 おけがは?」

「ん? ああ、大丈夫だ。 しかし、おめえ、俺が怖くねえのか?」

「大丈夫です」

セルドレスは確かに恐ろしい姿をしているかも知れないが、それは人間とは違う、というだけだ。

話してみると、意外に理性的で、敵と認識されなければ危険は無い事がよく分かる。確かに魔界は力が物を言う世界なのだろうが、それは此方の世界とは力の使い方の概念が、根本的に違うから成り立つとも言える。というよりも、人間が感情でぶれ過ぎなのかも知れない。

ハツネに聞く限り、悪魔にも感情はある。むしろ、激しい部類に入る。だが、悪魔はそれ以上に、力の理論と、誇りによる制御を行っている。それは、人間には中々出来ないことだ。

その代わり、悪魔は価値観が平坦になった。それは、人間に比べて進化しているのか、退化したのかは分からない。

だが、そういった理屈で動く世界がある事は、マローネには受け入れられる。

生理的な恐怖は、確かに生じるだろう。

だが、サルファーの話を聞いた今、マローネは生理的な嫌悪感で相手を判断することの愚かしさを、思い知っていた。

勿論、周囲は分厚く天界の兵士や、腕利きのクローム、それに傭兵団から選抜された凄腕達が固めている。セルドレスがいなくても、敵は充分に撃退できる。今の時点で、ならばだが。

杖をついて歩いているモルト伯の隣で、老騎士が地図を見ながら、周囲に指示を出している。今のところ、確実に味方は前進している。

だが、前衛の白狼騎士団は酷い苦戦をしている。軍の部隊が増援に出ている様子だが、状況が好転しているとは思えない。

この前進には、大きな代償が伴っている。

だからこそ、サルファーを必ず倒さなければならない。

「マローネ」

「アッシュ、どうしたの?」

「もしも、つらかったらいうんだよ。 僕が代わりに対処するから」

「ううん、アッシュ。 これは私がしなければならない事よ。 だから、最悪の場合は、私が……サルファーの魂を、消去するわ。 でも、それは本当に、最後の手段にしたいの」

勿論今は、その前に。

サルファーの怒濤の猛攻を凌がなければならない。

魔島に侵入開始後、六刻。

そろそろ日が暮れようとするこの時間になっても、激烈な敵の抵抗のため、まだ半分まで、到達できていない。

 

布陣した天界軍の宇宙艦隊は、既にサルファーのしもべ達を、指呼の距離にまで捕らえていた。

敵は此方の備えて出てきてはいるが、布陣の類はしていない。宇宙空間に、微妙な密度を保って散開している。

だが、それで正しい。

個々が空間転移能力を有し、その気になればどこからでもどのようにでも攻撃できるという悪霊は、ある意味究極の短距離ワープ兵器だとも言える。魔界の悪魔も、上級のものになるとこれくらいは出来たりはする。

だが、この無数の個体全てがそれをやれるというのは、異常だ。

宇宙艦隊は、精密機器の集まりだ。魔術でサポートしている部分もあるが、それを差し引いても、悪霊が訳の分からないところに入り込んでくると危険だ。

誘導型のミサイル兵器は使えない。敵が空間転移を行うからだ。空間転移されると、目標を見失ったミサイルはただの危険物と化す。更に各艦では、陸戦戦闘要員を必ず加えており、敵が必ず船内に侵入してくることを前提とした戦術訓練が行われてきた。

しかし、それでもまだ、リレには充分だとは思えなかった。

用意された時間を使って、みっちり新兵達は鍛えてきた。元の能力が人間よりはずっと高いから、多分悪霊相手に互角以上の戦いくらいは出来るだろう。

だが、それでは駄目なのだ。相手の数があまりにも多すぎる上、どこから現れるか全く分からないからである。

魔界側は、準備万端と言ってきている。

兵力は天界軍の方が合計して少し上。だが、原始的に見える魔界軍の方が、士気も兵士達の力量も、上にリレには思える。

通信が入る。

カレルレアスからだ。

「敵の数が計測できないと報告があった。 そちらは?」

「前衛だけで数百万。 それ以降、増援が現れるのはほぼ確実でしょうね」

「その数だと……サルファーも、こちらが本命の攻撃部隊だと、誤認したか、判断に迷う所だな」

「誤認したかは分からないけれど」

魔島に突入した部隊から、かなりの抵抗があると連絡が来ている。出来れば、増援を回して欲しいとも。

人間の軍はかなり善戦しているらしいのだが、敵の数が多いそうだ。

ならば、本命であるそちらをスムーズにサルファーの所まで到達させるためにも、攻撃を開始しなければならないだろう。

「攻撃を、開始しましょう、大魔王」

「うむ……そうだな」

歯切れが悪いのは、どうもおかしいと思えるからだ。

しかし、此処は動かざるを得ない。

しばしして、魔界軍がまず最初に攻撃を開始。続けて、天界軍もそれに習った。

攻撃の主力は、魔界軍による特大威力の魔術と、天界軍によるレーザー系の兵器で幕を切る。

宇宙空間に、先制攻撃の花火が咲く。

ばらまかれた大量の殺戮の炎が、悪霊を焼き払っていく。だが、それによって此方を攻撃対象と見なした悪霊が、即座に反撃に出た。

「敵撃破数、およそ二十万前後。 ……前衛艦隊の中に、無数の悪霊出現! 交戦が開始されました!」

見る間に、一隻が爆散する。

そして、布陣している艦隊を囲むようにして。

敵の本隊が現れた。

此方も二千万を超える大軍だというのに、敵はそれを三次元的に包囲して、なおかつ厚みを有している。

「敵数、測定不能! 最低でも数千万に達するものと思われます! 下手をすると、億の単位に達する可能性も……」

「個々の悪霊はたいしたことが無いわ。 それぞれ対空砲火で迎撃しつつ、内部に侵入されたら陸戦要員で対処。 攻撃によって被害を受けた艦は、乗員を退避。 悪霊の数が多いようならば、自爆させなさい」

流石に、今まで百を超える魔界を食い尽くした邪神だ。

本気になれば、これだけの戦力を動員できるという訳か。それにしても、もしそうだとすると。

どうして、イヴォワールにはその全戦力を、投入しなかったのか。

実のところ、サルファーにはまだ分析できない部分が、リレにもある。ひょっとすると。魔界や、それに協力する勢力には本気で対応できるが、それ以外には何かしらのストッパーが掛かっている、のだろうか。

あり得る話だ。

イヴォワールには多くの強者がいる。レベル三桁に達している者も珍しくなかった。だが、サルファーの実力は、更にそれをしのぐ。今まで十回近く、サルファーを撃退できているのは何故だ。

無言のまま、相手も見ずに右手を挙げ、顔に食いつこうとしてきた悪霊を爆破する。既に旗艦ハイロウの中にも、悪霊が入り込みはじめている。数体なら、経験の浅い天使兵でも対処できる。

しかし、多くに入り込まれると、もうどうしようも無い。通信途絶し、漂いはじめる艦が散見される。

自爆する艦も、出始めていた。

魔界軍も、包囲の中激しい戦いを始めている。

優秀な悪魔の中には、宇宙空間に躍り出て、戦闘を開始した者もいるようだ。カレルレアスも、その一人。流石大魔王。自らが前線に立ち、部下達を鼓舞するか。力ある世界の長達を、その実力でまとめているだけのことはある。大きめのサルファーのしもべを発見。Mタイプ。実力は、余裕で魔王クラス。

「雑魚悪霊は対空砲火と各自の対処に任せなさい。 各艦の主砲は、大物を集中的に狙うのよ」

まだ制御が残っている艦が回頭し、集中砲火を浴びせる。戦艦の主砲は、それぞれが核攻撃に匹敵する破壊力を持つ。

光の中に消えるMタイプ。撃破の報告。

歓声が上がるが、それもすぐに消える。

別の大物が、味方の艦に食らいつき、一瞬で侵食して、ぐちゃぐちゃにねじ曲げたからだ。

パニックに陥ったその艦は、乗員ごと自爆して果てる。サルファーのしもべも、それに巻き込まれ、光の塵になった。

「前衛部隊、損害七%に達します!」

「第七分艦隊、被害甚大! 旗艦アレクサンデル撃沈!」

「魔界軍も、敵の猛攻を受けています!」

リレは冷静に対処策を一つずつ出していくが、前線指揮官達の中には、パニックに陥っている者も少なくない。

大魔王が凄まじい速度で飛び回り、片っ端から悪霊を粉砕している。すでに大物を十匹以上始末しているようだ。

だが、それでも、敵は億に達しようかという数だ。戦況に大きな影響は、無い。

「私も出ようかしらね……」

既に外は、無数の爆発光が彩る、宇宙の地獄だった。

昔、魔術の才能があって、スカウトされて専門の教育機関に行って。その時は、まだただの小娘だった。

ただし、其処での経験が、あまりにも異常すぎた。

ある事件に巻き込まれ、膨大な戦闘経験と魔術の知識を強制的に叩き込まれ、不老不死の実現もさほど難しくないほどに力を付けた。学校は五日で卒業した。その五日は一万回以上繰り返した五日だったが。

卒業したときには、世界的な権威だったその学校の校長さえ、鼻で笑えるほどの実力になっていた。

今では、戦闘は息をするのと同じレベルでこなせる。

格上の相手に勝ったことも、何度もある。

だが、リレは自分が歪んでいることを知っている。人間の常識をとっくの昔に越えてしまっていることも。

人当たりは良く振る舞っていた。

だが、人間がいつの間にか、リレから距離を置いていることに、気付いた。そして、知人がみんな死んだとき。

リレは、故郷の世界を離れたのだった。

指揮を自衛くらいは出来る天使長に任せた後、リレはエアドッグへいく。宇宙服など必要ない。

術式で、充分に真空と極寒から身を守ることが出来る。

「カレルレアスより派手に戦うとしましょうか……」

宇宙空間へ飛び出す。

さあ、戦いの時間だ。既に、悪魔達の中でも、宇宙空間に出られるものは、自主的にそうしている。

天使の中には、其処までの使い手はあまりいない。

とりあえず、手当たり次第、目につく相手を爆破しながら、リレは思う。

久しぶりに、楽しめそうだと。

 

いよいよだ、この時がついに来た。

海岸線に伏せていた暗殺者フィランゼは、じっと一点を見つめていた。其処は、モルト伯が今いる中軍。前衛よりも少し後ろに位置し、既に激しい戦いの最中にある。

後方にいる部隊は、支援を目的とした者達ばかりだ。軍が中心で、戦闘力も低く、九つ剣もいない。

ただし、後方の部隊にも、既に敵襲がある。

海岸線に治療部隊がいる。其処には、どんどん負傷兵が運び込まれていた。停泊している船は、病院として使用しているらしい。海岸線の陣地では、既に足りなくなる事を見越している、というわけか。

相変わらずの、作戦制御能力。

30年前にサルファーと戦ったとき、父モルト伯は、英雄に相応しい人間だった。

あの時に殺しておけば良かったと、なんとフィランゼは後悔したことか。しかし、その後悔も、今は過去の話だ。

やはり父は戦場で生きてこその人物なのだ。

それを確認できただけでも、今まで生かしておいて良かったと想う。実際、この三十年、もうろくした父を殺す好機など、それこそ何度でもあったのだ。

父は真面目な男だった。

妻以外の女は一切愛さなかった。家督の争いが、如何に惨禍を招くか、知っていたからだろう。

だが、それでも本能を押さえ込める人間は多くない。

父は立派に、真面目に本能を押さえ込んだ。だからこそだろうか。父は腑抜けになってしまった。

かっては剣術の達人だった。

九つ剣にも、その気になればなれていたかも知れない。

それなのに。父は、武人としての自分を捨てた。温厚な人格者としての道を選んでしまった。

貴方がとるべき姿は。それではないだろう。何度叫んだことか。剣術の達人として、前線で戦い、英雄として生きた父はどこへ行ってしまったのか。

そんな父は、死んだも同然だ。

これから、フィランゼは、モルト伯を殺す。父を殺しに行く。

色々と、父を殺す理由はある。いくつもある。その中には、ただ気に入らないというものもある。

だが。一番の理由は。

もっとも父が、良い死に方を出来るように、してやりたいのだ。

寝所で死ぬなど、戦士では無い。歪んでいることは、知っている。嫡子としての相続権を剥奪され、お前は心を病んでいると言われたときから。

いや、もっと前からだ。

初めて剣を握ったとき。これ以上も無いほどの嬉しさと楽しさを感じた。剣を振るうことよりも、剣を振ってなせることが面白くて仕方が無かった。

それを見た父は、首を横に振ったのだ。

お前に剣は教えない。

家督も継がせない、と。

異常なことは分かっている。だが、異常なりに愛情はある。

今、モルト伯の側にいるのは、マローネだけ。

セルドレスもいるが、奴は単細胞だ。悪霊の対処があるときは、そちらにかかりっきりになる。

天使兵共はもとより相手にもならない。ろくにこちらの気配も読めないし、優れた武器に依存しきってしまっている。

もはや、フィランゼを防げる奴は、どこにもいないのだ。

闇より這い寄るようにして、暗殺者は行く。

目指すは、彼がずっと目標にしてきた父。世界最高の暗殺者と呼ばれ、素性を隠して多くの人間を殺してきた。

もはや刺客を怖れる必要もなくなってからは、用心棒としていろいろな人間を観察しては、おもしろ半分に殺した。

魔王ソロモンについたのも、その一環。

裏切り、殺したのもだ。

阿鼻叫喚の戦場を歩く。時々悪霊が兵士や傭兵団と交戦しているが、気配が薄いフィランゼには全く気付かない。

至近距離にいても、雑魚悪霊くらいなら、気配を悟らせない自信がある。

実際交戦しているすぐ横を通り過ぎて、誰にも気配を悟らせていない。

さあ、仕込み杖を手に、行こう。

彼奴を、殺すために。

中軍に到達。戦いは激しさを増す一方だ。モルト伯は、中軍の前の方にいる。マローネと、それにぞろぞろつれているパティ族。そして、パティ族と会話が出来るという、車いすに乗った子供。

それらには興味は無い。

そして、まだ殺すには、少しタイミングが早い。

父を殺すのは、その英雄的死が、一番輝く瞬間である。そうでなければ、殺す意味が無いのだ。

九つ剣は、周囲にいない。

後は。気配を消して、その場にいれば、いい。

ふと、気付く。

マローネがいない。車いすの子供の側にいるのは、防御術式を担当しているヒーラーの女と、子供だけだ。

まさか。

振り返ると、其処には。剣に手を掛けている、ガラントとかいう老剣士がいた。

それだけではない。いつの間にか、背後にはアッシュという拳士もいる。マローネは、その隣に立っていた。

まさか。

本気で断っていた気配を、察知したのか。

「暗殺者さん、見つけましたよ」

「どうやって、と聞いても良いでしょうか」

「確かに気配を消すことに関しては素晴らしい技術だと認める。 だがな、お前は天使兵の持っているのが、武器だけだと思っていたのか」

なるほど、部隊に参加していないような連中をあぶり出す道具を持っていた、という事だったか。

これは不覚。

だが、これくらいの不安要素があった方が、まだ面白い。

モルト伯が振り返り、眉を怒らせた。

「貴様……フィランゼ!」

「お久しぶりです、父上」

「え……!?」

煙玉を地面にたたきつけると、即座にその場を離れる。

これは失敗だ。だが、それでもいい。これからこの場は地獄になる。そうなれば、いくらでも好機はあるからだ。

むしろ、簡単にいきすぎてしまえばつまらない。

こう来なくては。

そう、フィランゼはうそぶきさえしていた。

 

(続)