迫り来る魔手

 

序、要への一手

 

異変に最初に気付いたのは、バンブー社本社ビルに勤務している警備員達だった。それが仕事なのだから当然だとも言えたが、とにかくそれで初動は早くなった。

けたたましい警報が、ビル中に響く。

時刻は、昼の少し前。仕事をしていた社員達が何事かと騒ぐ前に、魔術による拡声装置が、ビル内に異変を告げた。

「大規模な異変が、ビル内で発生しました」

バンブー社本社では、多くのネフライトが働いている。

だから、こういう事故は、今までにも例があった。様々な危険な実験が此処で行われることもあったし、不審者が入り込むこともあった。

「仕事を直ちに中止し、即座に脱出してください」

「おいおい、なんだよ」

不平を零しながら、社員達がデスクを離れる。

彼らも知っているのだ。ネフライト達の力がどれだけ強力か。実験による損害が、どれだけ大きくなるか。魔術により作られた訳が分からない薬品の揮発ガスがどれほど恐ろしいか、製薬会社だから誰もが知っている。実験動物の中には、一般人では手に負えないものだって多いのだ。逃げ出したら、どれだけの人的被害が出ることか。

だから、急いで階下に向かう。

警備員達が、避難誘導をはじめていた。この会社の警備員は、軍人の中から優秀な者を選りすぐったり、元クロームだったりした実戦経験者ばかりだ。彼らが顔色を変えていることから、社員達はいずれもが、尋常ならざる事態だと悟る。

戦闘音がし始めた。

「何が起きてるんだ! 説明しろ!」

「走ってはいけません。 冷静に、階段を下りてください」

青ざめる社員達は、知っている。

走れば、それが致命的な事態を引き起こしかねないと。数百人が詰めているこのビルである。

もしも将棋倒しにでもなれば、死者の数は相当数に登るだろう。

ビルから飛び出していく社員達は、見る。

彼らが努めているビルが、真っ黒な霧に覆われていく、恐ろしい光景を。

悲鳴を上げて、逃げ惑う者もいた。

黒い霧の中には、明らかに、今噂になっている悪霊の影が見えたからだ。球体状の体で、顔中が口だけになっている化け物。

警備員達が逃れ出てくる。

怪我をしていない者は、一人もいない。いずれもが血まみれで、手足を失っている者もいる様子だった。

ブータン社長が青ざめたまま立ち尽くしている。

誰もが、口には出さなかったが。同じ認識を共有していた。

バンブー社は、終わりだ。

 

瞬く間に、島中、いやウィステァリア地方全域に、バンブー社を襲った異変は伝わった。最初に来たのが、イヴォワールタイムズの記者達である。小声で会話している彼らを横目に、コートに手を突っ込んだオウル族の男が進み出る。

フィルバート。週刊誌上がりの、敏腕で知られる記者だ。

真っ黒な霧に覆われたビルの中は、おぞましい影で既に満たされている様子だ。自警団はとっくに招集を掛けられていて、周囲の封鎖を行いはじめている。傭兵団にも、声が掛かりはじめているようだ。

だが、今の時点では、周囲に傭兵団の姿は無かった。

此処はメインアイランドである。それなりに常駐している戦力はいるはずなのだが。

ただ、不慣れそうな兵士達が、周囲を封鎖している。彼らは見るからに頼りなく、とても命を預けられそうな相手には見えなかった。

フィルバートがつれている数名の傭兵。その中で、槍のレーアと呼ばれる腕利きの人間族の女が、口笛を吹く。

「こりゃあ、今回も酷そうっすねえ」

「そうだな。 傭兵団の出動はどうなっている」

「この様子だと、声を掛けてはいるけれど、って感じでしょうね」

それはそうだろう。

今、世界中で異変が起こっている。白狼騎士団は全域で活動しているようだし、獣王拳団はやっと兵力の再編成が終わったところだと聞いている。他の傭兵団も、今はかき入れ時どころか、忙しすぎて目を回しているはずだ。

雪の森林島での異変が解決してから一月ほどが経過しているが、まるで世界の異変に関しては、解決の糸口が見えていない。

それぞれの地方で、主要となっていた大異変は潰されているようなのだが、彼方此方で悪霊の発生や、細かな異常気象が断続的に起こって、手が付けられない状況なのだ。

誰もが、口に出さなくても分かっている。

近いのである。サルファーの降臨が。

歴史上、何度も何度も繰り返されてきたことだ。イヴォワールの歴史は、サルファーによる破壊と、その後の再興で殆どが成り立ってしまうと言っても過言ではない。今回もまた、サルファーによる侵略が近い。誰が口に出さなくても、それは分かっている。だから、誰もが怯えている。

「社長が!」

社員らしい人物が、声を上げている。

どうやら、何かあったらしい。

目を細めると、フィルバートは群衆の中から姿を隠す。事件の臭いだ。

そろそろ、温めていた記事を、表に出すときが来ている。マローネの存在について、既にフィルバートは見極めたつもりでいる。

そして今、マローネに対する逆風は、和らぎつつある。

もう一つ、手を打てば。一気に形勢は代わる可能性が高い。

レーアは他の傭兵達よりずっと早く、フィルバートの動きについてきていた。この女は、傭兵として有能だ。ボディガードとしても使える。

「良い記事になりそうですか、記者さん」

「そうだな。 今回の件は、傭兵団が動く前に、恐らくマローネが来るだろう。 それからどうなるか、次第だな」

「おや。 すっかりマローネに対する認識を変えたみたいっすね」

「俺は自分で見たものしか信じない。 逆に言えば、自分で見たものには、責任を持つつもりだ」

裏口にでる。

兵士達がかなり防備を固めているが、踏み込む計画は立っていないらしい。まあ、悪霊を相手に、正面突破できる勇気のある指揮官はいないだろう。既に悪霊による被害は深刻化してきている。この平和な島にも、ついに悪霊が現れたという事で、むしろ怖れている兵士の方が多そうだ。

建物の影に身を隠したまま、フィルバートは様子をうかがう。

周囲を見回す男を発見。

キバイノシシ族の、中年男性だ。見覚えがある人物である。

少し記憶を検索し、そして思い出した。

悪辣なサーカスの運営で知られるシシカバブである。そういえば、此奴の素性については、面白い情報があったか。

路地裏に入ったところで、後ろから声を掛ける。

「シシカバブ親方、お久しぶりですな」

「お前は……!」

シシカバブの視線は、好意的では無い。

当然だろう。今までフィルバートは、シシカバブに対する必ずしもプラスの記事ばかり書いてきたわけでは無い。

サーカスの裏で行われている事や、不平等、虐待などについても、余さず記事にしてきた。

もっとも、シシカバブのサーカス団が、飛び抜けて悪辣だというわけでは無い。

サーカス団は基本的に水物の商売だ。地元の有力者などとの癒着もあるし、そもそもそうでなければやっていけない。

それを分かった上での、敵対関係。

感情的な対立はある。だが、シシカバブも、フィルバートをパイプ役として重宝しており、互いに利用し合う関係ではあった。

「今、忙しいンだが」

「マローネに救援を頼んでみては?」

ぴたりと、シシカバブが止まる。

忌々しげに振り返るシシカバブ。やはり、予想通りか。

「兄君が、中に取り残されたんでしょう? 傭兵団に今頃協力を打診しても、手遅れですよ」

「な、何故それを」

「状況を見ていれば理解できます。 というよりも、それくらい理解できなければ、この仕事は本来やっていけないんですがね」

そうでないブンヤが多すぎるのも、事実だ。

実際問題、周囲の同僚を見ていて、フィルバートは優秀だと思ったことは一度も無い。天下のイヴォワールタイムズでもこの程度かと、最近は軽い失望さえ感じ始めている。だが、それもまた、一つの新聞社の形だ。

しばらく躊躇していたが、シシカバブは身を翻して、走り出した。

レーアが目を細めて言う。

「いいんですか? あんなこと言って。 マローネちゃん毎回酷い目にあってるみたいなのに」

「どのみち出てくるのはマローネだ。 あの娘が今、自宅にいることは確認が取れているからな」

既に、その戦闘力評価はフォックスを超えて、単独で中規模傭兵団以上と評価されているマローネ。

周囲に従えているファントムの実力も高い。

だが、昔からマローネがこれほど強かったわけではない。最初に見た時は、明らかにフォックスの方が数段格上の使い手だった。急激な成長を見せているとは言っても、それはここ最近の、激しい戦いで揉まれ、鍛え抜かれた結果だ。

マローネは、もっと強くなる。

そして世界のためには、それは有益だ。

「一度新聞社に戻る。 距離を置いて、事態を整理する」

「はいはい、ご随意に」

不快そうなレーアの声。

きっと、マローネに少なからず好意を感じているからだろう。冷酷な判断を求められる傭兵としては良くない事かも知れないが、別にフィルバート個人としては、不快感は感じなかった。

事態は、急速に動きつつある。

サルファーは、近いうちに必ず現れるだろう。その時、抵抗勢力の核になるのは。恐らくマローネだろうと、フィルバートは確信していた。

 

1、意外な人の縁

 

金床に乗せられた剣は赤熱していた。

激しい音と共に、金槌がたたきつけられる。とても大きい音の筈なのに、何処かリズミカルで、不思議に不快感は無かった。

マローネは、ガラントに言われてストレッチをしながら、その光景を横目で見ていた。おばけ島の一角に作られた、小さな小屋。其処に越してきたのは、片目で、片足がすっかり萎えてしまっている、やせこけた人間族の老人のファントム。

雪の森林島を離れるときに、ついてきたファントムの一人だ。名前はヴァーデンという。

ヴァーデンは、ガラントの剣を見るなり、いきなり言い放った。

「まだ使い込みがたらんな」

そして、おばけ島に着くと、鍛冶場を要求。

いきなりの事であったから、皆面食らった。マローネは困り果ててどうして良いか分からなかったのだが、ガラントが代わりに対応してくれる。

ガラントはしばらく話してから、好きなようにさせて欲しいとマローネに言った。アッシュは不満そうだったが、しかし。

今は、予想以上の効果が出ていた。

赤熱した剣を、蜜が入った水につける。

凄い音と共に煙が上がった。

焼きと呼ばれる行程だ。それが終わると、剣はマローネが見ても、見違えるほど美しく生まれ変わっていた。

ガラントが来る。

「ふむ、出来ましたか」

「霊体の剣でも、同じように鍛えることが出来る。 それが分かっただけでも有意義であったわ」

「どれ」

ガラントが、剣を受け取る。

そしてしばらく振り回していたが、問題ない様子だった。むしろ、以前よりも明らかに切れ味は上がっているようで、ガラントは実に満足そうである。

こういうとき、男の人は、年齢に関係なくオモチャをもらった子供みたいな顔をする。それを、マローネは誰にも教わらず、いつの間にか覚えていた。

「素晴らしい。 腕はご健在のようですな」

「ふん、200年やそこら、ハンマーを振るわんでも、腕は衰えん」

「ご老体、私の弓も見てもらえるか」

「いいだろう。 見せてみろ」

今度はハツネが来た。

彼女は基本的に弓を魔術で具現化しているのだが、以前話した所によると、ベースになる形態があって、それを変更することでいくらでも弓の威力を上げることが出来るという。

今までは魔術によって単にパワーを上げてきただけらしいのだが、いよいよサルファーのしもべも強くなってきたという事情もある。

マローネも、作業を見せてもらいたい。鍛冶の仕事は、今まで見た事が無かったからだ。

「ねえアッシュ、私の杖も、たのんでみようかしら」

「それが良いだろうね」

即答である。そういえば、前回の戦いで、マローネの杖はかなり熱くなっていた。相当に良い杖らしいのだが、それでも今のマローネの力には追いついていないらしい。

鍛冶場にはパレットも入り込んで、面白そうにヴァーデン老人の仕事を眺めている。そういえば、魔道合成師と鍛冶士は仲が悪いという噂が聞いたことがあったのだが。世間のしがらみとあまり関係が無かったパレットには、そんな事などどうでも良いのだろう。

具現化された弓を渡されたヴァーデンは、とても重そうな鍛冶のハンマーをもてそうに無い細腕で、しばらく弓をなで回していた。そして、分解をはじめる。

魔界の弓も、構造自体は此方のものと変わらないらしい。組み立ても問題なく済ませると、ヴァーデンは片目をハツネに向けた。

「ふむ、この部分を強くすれば、更に威力が上がるな。 だが、引く力がもっと必要になるぞ」

「構わない。 やってくれ」

「よし、良いだろう」

ハツネとヴァーデンの間で、合意が成立したらしい。

ヴァーデンは遮光レンズを掛けると、弓の部品を外して、それをハンマーで叩きはじめる。

見ると、叩く度に魔力が注ぎ込まれているらしい。

時々、焼きを入れる。

その度に水の温度を微調整しているのが分かった。それだけではない。無事な方の足で動かしている鞴も、数を徹底的な調整をしつつ、運用している様子だ。魔力を込めるだけでは無い。

鍛冶の技術の限りを掛けて、この老人は武具を強化していく。

しかも、見ていると、使い手の腕にも併せて武具を調整しているようなのだ。死んだときの年は、六十か、七十か。いずれにしても、人生を鍛冶に捧げて、それでもなお、何か満足できない未練がある、ということなのだろう。

弓が仕上がったのは、その日の夜。

ハツネは満足そうに、何度か弓を引いていた。ヴァーデンはただ武具を強く出来ればそれで良いらしく、何も報酬を求めることは無かった。鍛冶士の中には、秘匿される技術を持っていることから、かなりの報酬を要求する者もいると聞く。ファントムになって欲望が薄れて、何も欲しくなくなったのか、それとも。

しかし、欲が薄い人が、ファントムになったのだとすると。

一体何が未練だったのだろう。それが、気になるところであった。

コリンに言われるまま、瞑想をして。翌日は朝から仕事に出て、夕方に戻った。小さな島で、悪霊が発生したのだ。それを全て退治して、その日のうちに引き上げてきた。

今回は悪霊の数が少なかったこともあって、退治は難しくなかった。

ヴァーデンは、帰ってきても、ずっと鍛冶場に籠もっていた。戦えるような人では無いことは分かっているから、それについては別に構わない。他にも、輪廻の輪に戻るため、ずっとおばけ島に逗留しているファントムはいるのだ。

だが、驚いたのは、身近の道具類をずっと整理し、管理しているらしい事である。

特に、ガラントの剣同様、自分の一部となっているらしい鍛冶のハンマーに関しては、もの凄く微細な調整をずっと続けているようだった。

「鍛冶が、お好きなんですか」

「少し違うな。 俺の人生は、鍛冶そのもの、というだけだ」

手を差し出してくる。

杖を見せろ、と言うのだろう。無言で杖を渡すと、上から下から見回しはじめる。

「この杖は……良い杖だが、少し力が足りんな」

「あの、それはどういう意味でしょうか……」

「マローネと言ったか。 お前の力に比べて、杖の出力が足りていない。 このままだと、杖が壊れるだろうな」

パレットを、ヴァーデンが呼ぶ。

呼ばれたパレットに、ヴァーデンは何か難しい話をしていた。鍛冶に関しては、何でも知っているという事なのだろうか。

或いは、死後に身につけた知識かも知れない。

その可能性が高そうだ。いくら凄い技術者でも、何でも知っている、なんてことはあるはずもないのだ。

「鍛え直すが、少し時間がいる」

「分かりました。 でも、その……」

「大丈夫だ。 伸びしろも考えて、強くしておいてやる」

杖を分解しはじめるヴァーデン。

確かに、今まで使っていて、毎回冷や冷やしていたのだ。安心して使えるようにしてくれれば、それが一番嬉しい。

さっそく、分解した部品の一つを、ヴァーデンが打ち直しはじめる。パレットがたくさんがらくたを集めてきて、部品の一つと合成しはじめた。

ヴァーデンは何も言わない。時々、指さすだけである。

それで、パレットはどういう意図か、分かるようだった。知識と技術がある者同士のシンパシーなのかも知れない。

「気むずかしそうな人だけど、物わかりは良さそうだね」

「まあアッシュ、そんなことを言ったら失礼よ」

「マローネだって、そう思っていたくせに」

「思うことと、口に出すことは別です」

アッシュの言葉に苦笑すると、ポストに向かう。

悪霊による被害を解決しているマローネの噂は、既に相当に大きくなっているらしい。いろいろなところから、ボトルメールがひっきりなしに来るようになっていた。

事前に調べてから出ているが、それでも、一週間に三回から四回も出る事さえある。既に十カ所以上の島で、解決をしていた。

強力な魔物や悪霊には、今の時点では、雪の森林島以降遭遇していない。

だが、これだけ悪霊が活発に動いているのだ。まだまだ強力な悪霊が跋扈しているのは、疑いの無い所だろう。

いずれにしても、情報も無ければ手がかりも無い今は。

少しでも被害を減らすために、片っ端から悪霊を退治するしか無かった。

 

ヴァーミリオン地方で仕事が入った。

小さな火山島で、救助活動が行われたのだ。やはり今までずっと休火山だった場所が噴火して、住民が避難を行ったのである。

ヴァーミリオン地方には、このままでは人が住めなくなるのでは無いのかとさえ言われはじめている。幾つかの島での火山活動が異常に活発になり、どこの島でも戦々恐々としていた。噴煙で空は常に曇り、逆に明々と噴火の影響で染まっている箇所は不吉きわまりない。

今回は、アマゾネス団が近場と言う事で、一緒に仕事を行った。彼女らの船に避難民を乗せ、その間にマローネが時間稼ぎをする。マローネ自身は村の外、見晴らしが良い丘に陣取る。溶岩が迫る中、コリンが冷気の術式を展開して、溶岩をそらした。空にいるヴォルガヌスから、火山ガスが来ていないかを常に確認しつつ、溶岩を防ぐ作業を続ける。

ガラントとバッカスには、避難と誘導を手伝ってもらった。アッシュにも、同じ作業に従事してもらう。

バッカスは、家財道具をそのまま持ち上げて、軽々と運んでいた。病人も、ベッドごと輸送していく。

ガラントは、適切な避難を指示し続ける。感覚を共有して、現在の状況は、手に取るように理解できた。

その分消耗は大きい。

だが、実際に氷の術を展開しているコリンや、荷物を運び続けているバッカスに比べれば、マローネの疲弊などたかが知れたものだ。

「まだ時間はある。 大事なものは持っていく余裕があるから、慎重に行動するように!」

ガラントがそう叫んでいるのが分かった。

今のところ、悪霊は現れていない。

だが、いつ現れてもおかしくない。だからハツネには、常に警戒に当たってもらっていた。

地響きがくる。地震と言うには短いが、その代わり体の芯を揺らすような強烈さだった。

どうやら、かなり大きな噴火が近いらしい。

溶岩を術式で冷やし続けていたコリンが、手をかざして、火口付近を見つめる。

「そろそろやばいかな。 火山性のガスは、溶岩よりタチが悪いよ」

「ガラントさん、避難の方は……」

「急がせる。 もう少し、持ちこたえてくれ」

ガラントが避難を急がせる。カナンは既にアマゾネス団の船に乗り込んで、そちらで救援活動を支援している。

噴火の前から、既にかなり空気が悪くなっていたらしく、体調を崩していた村の人達も多かったらしい。

ヴォルガヌスが舞い降りてくる。

「マローネや。 いざというときは、儂をコンファインせい。 火山ガスを消し飛ばしてくれるわ」

「はい。 お願いします」

自分の身を守るためでは無い。

村の人達を、守るためだ。

ただし、それでも限界はあるだろう。一回ガスが吹き下ろしてくるだけで、済むとは思えないからだ。

また一つ、大きな揺れ。

溶岩の勢いが激しくなってくる。山の中腹は、完全に燃え上がってしまっていて、何もかもが見る間に焼き払われていた。

「避難が完了した!」

「分かりました! 撤退します!」

コリンを急かして、村へ。

何もかもが運び出されて、殺風景になり果てた村を走り抜けて、ボトルシップに飛び乗る。

おおと、コリンが声を上げた。

殺到する、凄まじい火山ガス。致命的な噴火と共に、火口から噴き出したのだ。

迷わずマローネは、ヴォルガヌスをコンファイン。エンシェントドラゴンは、間髪入れず、火山ガスの先頭部分に、全力のブレスを叩き込んでくれた。

轟音と共に、ガスが吹き飛ばされ、一気に拡散する。

その隙に、ボトルシップは出航。

村が、怒濤のごとく押し寄せた火山ガスに、瞬時に焼き払われるのが、遠くからも見えた。

ガラントの避難指示が遅れていれば、大勢被害者が出たことは疑いない。勿論、アマゾネス団の人達も活躍してくれたから、死者が出ずに済んだのだ。

あまりにも凄まじい光景に、息を呑む。

焼くなどと言う生やさしい代物では無かった。瞬時に、村が蒸発したような光景だった。しばらく、膝が震えてしまう。

そして、思い知らされる。あんなガスを、一瞬でも止めたという事は、瞬間的にはそれを凌ぐ力を出していた、という事だ。

力を使う責任が、重くのしかかる。マローネは、唇を噛んだ。決して安易に、力を振るってはいけないと。

船を、アマゾネス団のボトルシップに寄せる。

呼吸を整え、気持ちを切り替える。今は、自分の心よりも、やらなければならない事があった。

「けが人や、逃げ遅れた人は、いませんかー?」

「みんな無事だー!」

船から帰ってくる返事は、感謝の意思を含んでいた。ほっとしたマローネは、そのままおばけ島に戻る。報酬については、アマゾネス団の船に移ったガラントが受け取ってくれていた。

ただし、最低限の金額だ。

村を再興する費用も必要になってくるし、これからの生活費もある。

そんな大事なお金を村の人達から取り上げるなんて、マローネには出来なかった。たとえ正当な報酬だとしても、である。アッシュはこういうことを言うと呆れる。だが、マローネは、今生活に困っていない。それなのに、お金を必要以上に貯め込もうとは思わなかったし、その必要性も感じてはいなかった。

ヴォルガヌスをコンファインしたにもかかわらず、消耗はさほど大きくない。

今までは二度が限度だったが。これならば、三回まで行けるかもしれない。しかし、それでも追いつかないほど、敵は強くなってきている。

背後の海域は、明々と染まっている。

噴火の影響だ。とても恐ろしいことだった。そして、おそらくは、これは所詮サルファーの力の一翼に過ぎない。

本当にサルファー本体が降臨してしまったら、どうなることか。全く見当もつかなかった。

無言のまま、膝を抱える。

しばらく停泊していたが、やがてアマゾネス団は近場の島に、脱出した村人を満載したボトルシップと共に向かった。

皮肉にもそれはサンド地方の島である。

あのサルファーの部下らしい強力な魔物を倒してから、サンド地方の気候は比較的落ち着いてきている。

ガラントが戻ってくる。

バッカスと一緒に、海を泳いできたのだ。バッカスはその場でコンファイン解除。ガラントは、マローネの様子を見て、お金の袋を荷物の中に放りながら言う。

「力を持つ責任を感じたのか」

「はい。 とても恐ろしい力だなって思いました」

「それが分かっていれば大丈夫だろう。 力を振るうことに溺れると、善人が途端に残虐な虐殺魔に変わることもある」

力は麻薬だと、ガラントは言う。

この人の言う事には、重みがある。或いは長い傭兵団での生活の中で、力に溺れておかしくなってしまった人を見てきたのかも知れない。

無数の能力者が蠢くイヴォワールでは、あり得る話だ。

強力な能力が、後天的に目覚めることもあるらしいと、クロームギルドの資料で読んだこともある。

その場合。

今まで温和だった人が、手のひらを返したように凶暴で好戦的な性格になる事もあるそうだ。

きっと、それの実例を、ガラントは見てきたのだろう。

「疲れたか。 運転を代わろう」

「お願い、します」

無言で、後部に移る。相変わらず、荷物を置くことも多い後部のスペースは、狭苦しい。だが、風に当たって頭を冷やすには、丁度良かった。

霊体のまま黙っていたハツネが、話しかけてくる。

「何を消沈している。 見事な働きだったではないか。 お前のおかげで、多くの者が救われたのだぞ」

「ハツネさん、魔界では強い力を持ちすぎた場合、どうするんですか」

「同時に責任が生じる。 その責任を守れない奴は、遅かれ早かれ自滅する」

シビアな言葉である。

もっとも、話を聞く限り、魔界は力の使い方がしっかりしている世界のようだ。此方の世界のように、力の使い方を誤って、自滅する例はさほど多くないのだろう。

「お前は力に責任を持てている。 何も恐れる事は無いだろう」

そうハツネは太鼓判を押してくれる。

だが、マローネは怖いのだ。

今のところ、周囲はマローネを恐れる事はあった。迫害することもあった。

しかしこのままだと、違う接し方をしようとしてくる者が現れるはずだ。

たとえば、利用しようとする。

コールドロンは、今の時点ではマローネに好意的だ。あの人は凶暴で野心的だが、同時に約束を違えたり、義を踏み違えたりする人では無いようにも思えた。モルト伯も、それは同じだろう。

あまりいい人だとは思えないが、少し前までつきまとわれたフィルバートも、同じ人種に思える。

だが、それ以外の人は、どうなのだろう。

クロームギルドなどを歩いていると、まだマローネの悪評は根強い。見下す視線が、恐怖に変わったくらいで、壁を作られていることに変わりは無いのだ。

気付くと、夜になっていた。

ヴァーミリオン地方の空が赤黒い。噴煙に、何処かの島の噴火が映り込んでいるのだ。

恐ろしい光景である。

実際、ヴァーミリオン地方から離れようとしている人達はかなり多いらしい。だが、サルファーが来たら、どこへ逃げても同じだと、考えている人もいるのだろう。島からの避難活動を手伝うことが、最近は増え始めていた。

帰り道、小さな島で補給する。

ヴァーミリオン地方を離れると、急に空気が変わる。有り体に言えば、居心地がとても良くなる。

水をたっぷり飲んで、体を冷やして、港に停泊させたボトルシップの中で仮眠を取った。

周囲にも、クロームの船は多くある。小規模な傭兵団も、最近は非常に忙しいようで、仕事場で姿を見かけることがあった。

マローネはいつも誰にでも丁寧に礼をするが、相手は気まずそうに視線をそらすことが多い。

悪口を言ったり、或いは迫害したり。

そういった行為を行った人達なのかも知れなかった。

見張りには、ガラントとバッカスが交代で立ってくれる。強面の上にガタイが良い二人がいると、それだけで抑止力になる。

安心して、しばらく眠ることが出来た。

夜中、ふと目覚める。

バッカスが口を半開きにして、一点を見つめている。

人間と違って、リザードマンは口を無意味に開けない。最大の武器の一つだからだ。

「バッカスさん、どうしたん、ですか?」

「キャクダ」

瞬時に、意識が覚醒する。言われている意味くらいは、マローネにも汲み取ることが可能だ。

此処をすぐに離れるべきか、迎撃するべきか。

気がつくと、周囲の人気も無くなっている。皆眠っているのか、或いはもっと恐ろしいことに巻き込まれているのか。

だが、今は怖いとは思わない。

まず船を動かすべきか、相手と交渉の余地があるか確認するべきか。それを冷静に考えるように、鍛えられていた。

「船を、動かします」

「……」

行くように、バッカスが手を動かす。出来るだけ、港に背中を向けないように、船に入ると。すぐに推進装置を起動する。

夜闇のしじまの中、大きな駆動音が、強烈な異物となって、周囲を蹂躙した。バッカスと感覚共有したガラントが、港の方を確認しているが、今の時点で仕掛けてくる様子は無し。

ハツネも霊体のまま、周囲をうかがってくれていた。

「海上にも問題は無いな。 ただ、殺気の出所が分からない」

「ハツネさんにも分からないの?」

「相手は相当な手練れだ。 だが魔界の者では無いな。 サルファーのしもべともまた違うと思うが」

この世界には、強者がいくらでもいる。

海上に出ても、まだ安心は出来ない。適当なところで、バッカスのコンファインを解除。しばらく海を行くが、まだガラントは険しい表情のままだ。

少し疲れは残っているが、そのままおばけ島に直帰する。

ガラントがようやく表情を緩めたのは、実に二刻ほども経過した後の事であった。

「殺気が消えた。 追跡を諦めたらしいな」

「ずっと海の上をついてきていたんですか」

「ボトルシップは見えなかったが、その可能性が高い」

ハツネも同意する。

この辺りの海は浅瀬が多いとは言え、マローネが通っていたのは航路になっている深い場所だ。

それなのについてきていたと言うことは、飛行する能力の持ち主か、或いは。

海の上を走ってついてきていたとか、だろうか。

どちらにしても、ぞっとしない。そんな凄い使い手に襲われて、生き残れるか、自信はあまりなかった。

おばけ島には、夜明けに着いた。

ヴォルガヌス以外の全員をコンファイン。そうすると、すぐにハンマーの音が聞こえはじめた。

鍛冶小屋を覗くと、ヴァーデンが日用品の修理をしてくれていた。恐らくマローネがいない間に、ガタが来ている日用品をリストアップしてくれていたのだろう。

だいぶ経済的に楽になってきているとは言え、日用品を無駄には出来ない状況である。気を利かせてくれていると言うよりも、単に鍛冶仕事が好きらしいのだが、ヴァーデンの行動が、今はとてもありがたい。

それに不思議な事に、ヴァーデンの鍛冶は、どうしてか五月蠅くないのである。

ハンマーを振るっている間も、眠ることはそれほど難しくない。他のファントムからも、苦情は一切無かった。

杖の方はどうなったのだろうと思ったが、時間が掛かると言われているし、今は気にしても仕方が無い。

ポストにも新しいボトルメールは入っていなかったので、そのまま寝ることにする。

カナンが洗濯と炊事をしてくれると言ってくれたので、言葉に甘えて、パジャマに着替えて寝床に入った。

鍛えているからか、最近は眠る時間をほぼ完璧にコントロール出来るようにはなってきている。

起こされた後の覚醒も、早くなっていた。

だから、翌日の昼少し後。

緊急ボトルメールが来たときに、マローネはすぐに起きることが出来た。

 

ボトルメールは、富と自由の島から、である。

こんな近場から、緊急ボトルメールが来たという事は、よほどのことだ。そうでなければ、普通のボトルメールでも、充分に間に合うからである。

だから、マローネはすぐに着替えをして、身だしなみを整えると、外に出た。

まだ鍛冶の音はしている。杖が仕上がるのは、まだ先だろう。だが、マローネの自力も上がっている。杖による増幅効果がなければどうにもならない、というような事はない。充分に行けるはずだ。

家を出ると、アッシュがもう準備を整えてくれていた。他のファントムも、すぐに出られる体勢である。

「アッシュ、手紙の内容は?」

「シシカバブ親方からだ」

「まあ」

かって、パティを虐待していたサーカスの親方である。

あの人がパティを連れて行った時の台詞は、今での脳裏に焼き付いている。現実的で冷酷な言葉だった。

その後、家族の写真と引き替えに、パティを開放はしてくれた。

だが、未だに怖い事に違いは無い。

「アニキがピンチだ。 助けに来て欲しい、とだけ書かれているね」

「お兄様がいたのね。 それにしても、ピンチってどういうことかしら」

「行ってみなくては始まらないと思うよ」

その通りだ。

すぐにボトルシップに乗って、富と自由の島に向かう。日常品を補給している場所でもあるから、寝ていても航路を外れる事はないだろう。出るときに、一応ヴァーデンに確認したが、杖はまだ数日はかかるという事だった。

全速力で、富と自由の島にとばす。

半ばほどだろうか。

手をかざして、ボトルシップの上から向こうを見ていたハツネが、警告の声を上げた。

「気をつけろ、サルファーのしもべの気配だ」

「えっ……! ウィステァリア地方のメインアイランドである富と自由の島に、ですか!?」

「30年前の混乱では、富と自由の島にも悪霊が出たと聞いている。 不思議な事ではあるまい」

確かにその通りだが、富と自由の島と言えば、人口で言ってもイヴォワール最大の島の一つだ。

クロームギルドもあるし、傭兵団のギルドだってある。

サロンとなっている雲島でも、此処までの規模は無い。当然強力な軍部隊と、常時幾つかの傭兵団が駐屯しているはずだ。

サルファーのしもべは、こんな場所にまで現れられるほど力を付けているのか。恐ろしい事である。

島に近づくと、暗雲が立ちこめてきた。

雨が降り始める。しかもこの季節に似つかわしくない、体を切り裂くような、冷たい雨だ。

島が近づくことを拒否しているのではないかと、錯覚させるほどに、嫌な雨である。

港に着く。

島が混乱のただ中にあるのが分かった。いつもボトルシップの管理をしてくれているキバイノシシ族のおじさんが、マローネを見ると声を上げた。

「もう来たのか、早いな」

「何があったんですか!?」

「あれだ」

指さされた先を見て、マローネは思わず息を呑んでいた。

この島のシンボルでもある、世界最大の建物の一つ。バンブー社の本社が、闇に覆われていたのである。

濃厚なサルファーのしもべの気配が、マローネにも感じ取れる。前は無理だったが、最近は少しずつ分かるようになってきた。まだほんの少しだが、それでも感じられるほど、強烈な気配なのだ。

小走りで来たのは、シシカバブ親方だ。

血相を変えて、取り乱しているようだった。

「来てくれたか! 急いでくれ!」

手を引かれて、走る。

バンブー社の異変は明らかだ。シシカバブのお兄さんは、あの中にいるとみて間違いないだろう。

走りながら、聞いてみる。

「お兄さんは、あの中ですか?」

「そうだ。 アニキは、バンブー社の社長、ブータンなんだよ」

「ええっ!?」

言われて見て、思い出した。

以前、シシカバブが取り戻したがっていた写真を見た。それはキバイノシシ族の家族を移した写真で、シシカバブらしい子供の隣に、恰幅が良い兄らしき人物が写っていたのである。

何処かで見た事があると思っていたが。まさか、何度か会ったことがあるブータンだったとは。

ビルの周囲は、自警団が封鎖を掛けていた。

シシカバブも、当然通そうとはしなかった彼らだが。マローネが進み出ると、青ざめた一人が呟く。

「あ、悪霊憑き……!」

さっと人垣が別れる。

悲しい事だが、今は起こっている暇も、泣いている時間も無い。無言で、シシカバブと一緒に通してもらう。

自警団の人達は、マローネを遠目に見るだけで、止めようとはしなかった。

ビルの入り口は、もう露骨に空気が違っていた。シシカバブは落ち着き無く、人気が消えたバンブー社本社ビルを見上げる。世界の健康を担うという看板が、むなしく垂れ下がっている。

悪霊は、玄関にまでは現れていない。

だが、此処でもたついていたら、すぐにでも出てくる事だろう。

めぼしいものを見つけては、コンファインをして行く。最初にガラントに出てもらい、ハツネとバッカス、それにコリンとカナンの順。まだアッシュとヴォルガヌスには温存してもらった方が良いだろう。

それにしても、こういう風に地域の中核を、ピンポイントで攻撃してくるとは。既にサルファーのしもべは、相当に知能が高くなっている。

そのうち、おばけ島を襲ってくるかも知れない。

「アニキの馬鹿野郎。 あいつ、一度は脱出したのに、大事なものを忘れたとか言って、制止を振り切って戻ったんだ」

「そんなに大事なものなんですか?」

「何言ってやがる! 命より大事なものなンて、この世にあるもンか!」

シシカバブは、血涙を流しそうだった。

気持ちは分かる。だが、ブータンの気持ちも、理解できる。

たとえばシシカバブは、命とサーカス団を天秤に掛けろと言われたら、どうするだろう。ブータンが取りに戻ったのは何だか分からないが、シシカバブのサーカス団に匹敵するような、大事なものなのではないか。

確かに命が一番大事だという事は同意できる。だが、他にも大事なものがあるという意見を、マローネは否定できなかった。

「既に悪霊は此方に気付いている。 シシカバブ殿。 此処を早く離れた方が良いだろう」

「そういうこと。 後は専門家に任せて貰える?」

「分かった。 頼むぞ、お嬢ちゃン、それと悪霊達」

コリンの言葉に頷くと、何度か振り返りながら、シシカバブはその場を後にする。

カナンをコンファインして、当座の戦力は揃った。

以前は来客用のエレベーターで一気に上まで上がったのだが、この様子だと当然動かないだろう。

受付の周辺は、書類が散乱していて、混乱が酷かった様子が一目で分かる。それでも死人は出なかったと道中シシカバブは言っていたので、不幸中の幸いというべきなのだろうか。

ただし、戦闘の痕は残っている。

多くのけが人が出たことは疑いない。此処の警備員は、腕利きを選りすぐっているという話だが、仕事を引退しなければならない人も出ているかも知れない。とても悲しい事であった。

非常階段を見つける。

既に辺りからは、おぞましい気配が漂いはじめていた。嘲弄するような声はひっきりなしに聞こえるし、いつ悪霊が襲ってきてもおかしくは無いだろう。

マローネを中心に、皆が陣形を組む。

カナンは何時でもクリスタルガードを展開できるように、詠唱を既に終えてくれていた。

戦いは、もう始まっているのだ。

 

2、おぞましい闇の中で

 

魔王ソロモンは、報告を聞いて慌てて現場に駆けつけていた。

まさか、これほどの人口密集地にサルファーのしもべが現れるとは、流石の彼も考えていなかったのだ。

しかも、である。

彼が従えている人間、ウォルナットともう一人、ウサギリス族の用心棒が、妙な動きをしているという報告があった。だから人間なんか信用するなと言ったのだと、セルドレスに散々嫌みを言われたが、今はそれどころでは無い。

現場に駆けつけてみると、既に異変は洒落にならない段階にまで進行していた。

この地域の中心とも言えるバンブー社本社が、サルファーのしもべの巣に変えられてしまっていたのである。

近くの建物の上でそれを確認したソロモンは、歯ぎしりする。

既にサルファーは、どこにでも現れるとみて良い。勿論いきなりソロモンの研究施設に強襲を仕掛けてくる可能性もあるだろう。

つまりは、警戒レベルを引き上げなければならない、ということだ。

側に虹色の鳥が舞い降りる。

それが、岩の塊のような、セルドレスへ姿を変えた。前から知っている事だから、ソロモンに驚きは無い。

「色々とまずい事になってやがるな、ソロモン」

「ああ。 それで貴様は、何をしに来た」

「決まっている。 お前が余計な事をしないように、見張るためだよ」

「余計な事だと……!」

大魔王カレルレアスが、既にソロモンに目をつけていることは知っている。だが、この世界でこれだけ活動してきているソロモンを、既に更迭できる段階には無い事も分かっていた。

だから今の時点で、周辺に危険は無い。

だが、煩わしいことに変わりは無い。特に、脳筋と馬鹿にしているセルドレスに見透かされるのは、最大の屈辱と言って良かった。

隣に、沸くように気配。

ウォルナットと、ウサギリス族の用心棒だ。

「呼んだか、魔王様よ」

「貴様、どこに行っていた」

「ちょっと力をどれくらい使えるか、試しにな」

せせら笑うウォルナット。

この人間族の男には力を与えたが、それからどうもおかしな動きばかりしている。不意を突かれても負けるとは思わないが、それでも注意する必要がありそうだった。

何しろ人間である。力の論理と誇りを基準に動く悪魔とは違っている。

「足下に火がついたみたいだな。 どうするんだ」

「どうもこうもないわ。 あれだけの力を発揮しているところからして、探していたサルファーのしもべMタイプだろう。 丁度今、マローネが突入した。 データを計測するだけだ」

「芸が無い事だな」

セルドレスが、呆れたようにやりとりを見ている。

確かに、此処まで言わせておいて、ソロモンには効果的な反論が見当たらない。

ソロモンが介入して倒してしまっては意味が無いし、かといって見ているだけでは子供の使いも同然だ。

かといって、ウォルナットを助勢に回すわけにも行かない。

此奴は文字通り、何をしでかすか知れたものでは無いからだ。

「それでソロモン、どうする気だ」

「どうもこうもないわ、セルドレス。 一度拠点は移す他あるまい。 恐らくサルファーのしもべが現れたのは偶然だろうが、それでも此方を察知している可能性は低くない。 次は拠点に対して、直接攻撃を仕掛けてきてもおかしくない」

この世界で、悪魔の力は制限される。

それでも具現化しているサルファーのしもべくらいなら、どうにか出来るだろう。ただしそれは、セルドレスやソロモンなどの魔王自身が出張った場合の話だ。

決戦前に、部下を消耗する訳にはいかないのである。

「近くに幾つか予備の拠点を確保している。 其処に司令部を移す。 異存ないか、セルドレス」

「やれやれ、慌ただしいことだな。 別にかまわねえよ」

「分かった、ならば決まりだな。 お前達は移動する部隊の護衛に当たれ。 サルファーのしもべが現れた場合は無理に交戦しないで、コレを使って我々を呼べ」

「了解」

小馬鹿にした態度のまま、ウォルナットはウサギリス族の暗殺者と共に消える。

マローネが幾つかの地域で環境改変型のサルファーのしもべを潰し、人類側がやっとサルファーに対する足並みを揃えはじめたところでこれだ。

既に天界も作戦の準備を終えていると報告が来ている。魔界だけが、対応にばたついているのではないかと思うと、歯ぎしりをしてしまう。

「此処は俺が見張る。 お前は移動する部隊を見ていたらどうだ」

「そうさせてもらうか。 忌々しい事だ」

セルドレスの申し出を受けると、ソロモンはこの場を離れる。

いずれ、報復の機会はいくらでもあるのだ。屈辱は、その時に晴らせば良い。何度か大きく舌打ちしながらも、ソロモンは根底の戦略を見失わなかった。

 

二階まで、襲撃は無かった。

だが、異様な気配は、消えることが無い。それに、どうしてか、階段が妙に長い気がするのだ。

マローネを中心に、皆が陣形を組んでいて、安心感はある。

だが、角を曲がった途端に、罠が待っているのでは無いのか。そんな不安が、終始ついて廻った。

ガラントが先行して、状況を見てくれている。

だから、マローネの不安は杞憂である事は分かっている。と言うよりも、ガラントが見抜けないような罠があったら、どのみち即死確定だろう。

三階まで上がる。階段が途切れていた。

それだけではない。ねじ切られるようにして、廊下が曲がっているのが見える。ぶらぶら揺れている照明が、言いようのないおぞましさを振りまいていた。ハツネが舌打ちする。

「内部構造が歪められているな」

「ハツネさん、これも空間を操作する技術ですか?」

「ああ。 このような異常な空間を作っても意味は無いのだが……」

心理的な圧迫が狙いなのだろうか。

だが、マローネの予想は外れた。

曲がりくねった廊下を歩きながら、先へ行く道を探し始めた、その時である。

壁からしみ出すようにして、無数の悪霊が現れたのだ。壁には質感がある。しかし、悪霊達には、自在に通り抜けることが出来るようだった。

何でもありだ。

というよりも、こういう極めて彼らに都合が良い環境に、このビルは作り替えられて締まったのかも知れない。

しかも、悪霊はどれも大きく、見るからに強い力を持っているのがうかがえた。

周囲で激しい戦いが始まる。

「動き回りながら迎撃! 足を止めるな!」

無言で、マローネの手を引いてハツネが跳ぶ。

足下から出現した悪霊が、マローネの足を食いちぎろうとした。走り回りながら、辺りの悪霊を斬り伏せるガラント。バッカスがマローネを無理矢理背中に乗せる。ハツネがバックステップしながら矢を放つ。

印を切り終えたコリンが、周囲をまとめて炎の術式で薙ぎ払う。

少し数が減った中、ガラントを先頭に、一気に敵の群れを抜ける。此処は死地だ。少なくとも、他の場所に移動しないと、抵抗できずになぶり殺しにされてしまうだろう。

歪んだ廊下を駆け奔る。

振り向きざまに、コリンが炎を後ろに放つ。

廊下を丸ごと焼き払う火力だ。悪霊達の悲鳴が聞こえた。間髪入れず、カナンがクリスタルガードの応用で、廊下に蓋をする。

しばらく抵抗している悪霊の影が、炎の中で踊っていたが。

コリンが術式を解除した頃には、敵影は無くなっていた。

「手傷は受けたか」

「スコシカマレタ」

バッカスの足から血が出ている。ハツネも、一度体当たりを受けたようだ。腕の辺りに青あざが出来ている。

だが、それよりも、今の戦いは短かったわりには体力の消耗が大きかった。不意打ちだった上に、狭い中で走り回って戦ったからだ。

カナンが応急処置をしている間、話を進める。

「アッシュをコンファインしましょうか」

「いや、止めた方が良いだろう」

ガラントが言うには、この狭い中で戦うには、人数が多すぎるという。そうなると身動きが取れず、自滅につながるとも。

確かにその通りだ。

その上、敵はこの先、天井からも床からも沸いて出てくる可能性が高い。

誰も口には出さないが、多分ブータン社長は。運良く生きているにしても囮として生かされているだけだろう。

だが、マローネがそんなことを考えていてはいけない。

一刻も早くこの歪められたビルを突破して、ブータン社長を助け出さなければならないのだから。

廊下を抜けた先には、応接間のような部屋があり、周囲は扉だらけだ。

扉を開けてみるが、その先がそのまま壁になっていたりもしている。三つ目の扉を開けると、いきなり階段に直結していた。

壁が床に、床が壁に。机が壁にめり込んでいると思えば、椅子の脚が床から生えていく。明かりはねじくれた怪樹と化して、不気味な存在感を周囲に振りまいている。美しかっただろう絵画は、まるで化け物の臓物のようになっていた。

悪夢がそのまま形を為したような空間。

流石に背筋に寒気が走る。まるで、誰かの悪夢の中に、迷い込んでしまったかのようだ。

さっきまではガラントとバッカスが離れて歩いていたのだが、今では側にぴったりくっついている。というのも、いつ至近距離から悪霊が現れるか分からないからだ。マローネが致命傷を受けてしまえば、その場でおしまいである。

だから、必然的に視界が狭くなる。

かといって、これ以上の人数を出すのも好ましくない状態だ。

「何じゃ、狭苦しいところで難儀しているのう。 儂が少しばかり吹き飛ばしてやろうかい」

「ヴォルガヌスさん、そんなことをしたら駄目です」

「意地を張っている場合かのう」

ヴォルガヌスが外を飛び回りながら、そんなことを言った。

マローネも分かってはいるのだ。強攻策を採らないと、危ないかも知れないという事は。実際問題、干涸らび島や雪の森林島で戦ったレベルのサルファーのしもべが現れた場合、手段なんて選んでいられないだろう。

至近。

暗闇。

押し倒される。同時に、鈍い音がした。

マローネの顔の寸前で、ハツネの矢で串刺しにされた悪霊が揺れていた。今の様子だと、マローネをバッカスが押し倒さなければ、顔を食いちぎられていただろう。

一気に動悸が速くなる。ハツネの反応速度とバッカスの動きが無ければ、死んでいただろう。

バッカスが立ち上がり、周囲を見回しはじめる。

歪んだビルの中では、もう部屋も廊下もない。上に進んでいるのか、戻っているのか冴えも、分からない。

「ナゼダ」

声が聞こえる。

片言ではあるが、バッカスでは無い。もっと低くて、悪意に満ちている声だ。バッカスは低い声だが、実直で、マローネを思いやる気持ちもある。

「ナゼマモラレル」

また、湿った声。

カナンが異変に気付いた。だが、既にその時には、遅かった。

腕を捕まれる。

そして、一気に闇の中に引きずり込まれた。

声を上げた。手を伸ばすが、届かない。

アッシュが、此方に手を伸ばしているのが見えた。だが、指が触れあう寸前、マローネは一気に闇の中に溶けていた。

 

これは面白い状況だ。生粋の快楽主義者であるコリンは、思わず声を上げていた。

「おー?」

コリンがのんきな声を上げた先で、マローネが闇に飲まれて消えた。

何が起きてもおかしくない状況である。ファントムのままのアッシュが取り乱し、叫ぶ。コリンの予想を超えない反応だ。

此奴は、正直あまり面白くない。死んでから300年程度もすると、いろいろな人間はだいたい見てきた。アッシュのような若さに任せた子供は、コリンの興味の範囲外だ。コリン自身も子供である事は自覚しているが、それはそれである。

「マローネ! マローネッ!」

アッシュより先に、カナンが駆け寄り、床を調べる。しかし、其処は先ほどまでと同じ、歪みきった床そのもの。

穴も無ければ、裂け目も無く。

勿論、マローネが消えるような場所は存在しなかった。

「コリン、調べてくれるかしら」

「調べるまでも無いと思うけれど? 今のは空間の転移を利用した攻撃だろうね」

「巫山戯るなっ! こんな時に、そんなに冷静に! マローネが死んだら、あんただってもう実体も得られないんだぞ!」

「落ち着け、アッシュ。 今は冷静になれ」

ガラントがアッシュをたしなめる。

コリンに対しては牙を剥くばかりのアッシュだが、ガラントのことは慕ってもいるし何より認めている。だから、静かになる。

拳を固めて、うつむいたままのアッシュを一瞥だけすると、ガラントはコリンに言う。

「コリン、そこまで冷静になれる理由があるのか?」

「うん。 というか、これでここに住んでる奴、墓穴掘ったも同然だし」

「どういうことだよ……」

「マローネちゃんは、あたし達と魔力で「つながってる」事、忘れてない?」

コリンの術式を使えば、今のマローネの位置を割り出すことは難しくない。

そしてそれは、この迷宮のような場所を渡り歩くよりも、ずっと有意義だ。一気に敵の中枢に向かうことが出来るだろう。

勿論、敵がマローネを殺す危険性は大きい。

だが、今の時点で、それは無いと思える。

「ドウカンダナ」

「バッカスさん?」

「ハジヲサラスヨウダガ……」

バッカスが、たどたどしく言う。というのも、悪霊と違って殺気が無かったので、反応できなかったのだそうだ。

つまりそれは、マローネに興味を持って、魔物が動いた、という事になる。

サルファーのしもべが、人間と友好関係を築いた例など、聞いたことも無い。恐らく絶無だろう。

かといって、サルファーのしもべは、人間を食料とは見なしていない。

食いちぎったり喰らったりすることはあるが、その後未消化のままはき出してしまうのが、幾度も目撃されている。悪霊が人間に食らいつくのは、攻撃の手段であって、わざわざマローネをピンポイントで狙って喰おうという意図は無いだろう。

つまり、残された結論は。

魔物はマローネを観察したがっている。その間だけでも、時間はあるという事だ。

勿論、此方の戦力を怖れてマローネをさらったのでは無い。

もしもそうなら、こんな分かり易い場所に巣を作ったりはしないし、此方が仕掛けたらすぐに逃げ出すだろう。

「なるほどな、一理ある」

「じゃ、詠唱の間、時間稼いでくれるかな」

バッカスの上に飛び乗ると、コリンは詠唱を開始する。

まだまだ、マローネには死んでもらっては困る。アッシュはコリンの興味から外れているが、マローネは違う。

是非もっとコリンの前で苦しんで欲しい。

現実と理想のギャップにもがき、傷ついていって欲しい。涙を流して欲しい。そして、落ちていって欲しい。

変態的な願望だと言う事は分かっている。だが、コリンは幼い頃から、そして死ぬまで、ずっとこうだった。死ぬまで本性は変わらないとよく言うが、コリンの場合死んでも変わらなかった。

そして、その願望に身を焦がすのは、コリンの悦楽の時の一つ。

既に死んだ身である。元々不真面目だったコリンは、今、マローネというオモチャで遊ぶことを、何よりの楽しみとしていた。

詠唱をはじめる。

コンファインが維持されている限り、マローネの位置は分かる。

相手に相当に優れた術者でもいれば妨害は可能だろう。だが、知能が上がってきているとは言え、そんな術を使える段階では無い事もわかりきっている。

だからコリンは、落ち着いて追跡の術式を完成させた。

 

意識が戻ったが、最初はそうだとは分からなかった。

なぜなら、其処には闇しか無かったからだ。

だが、見られている。

身動きも出来ない。

うめき声が漏れる。上下に引っ張られたマローネの手足には、無数の触手が絡みついていて、身動きを封じられていた。手足の関節は完全に極められていて、抵抗できる状態では無い。おなかや股に絡みついた触手が、此方の抵抗を封じるように、ぬるぬると動き回っていて、気持ちが悪い。

捕まってしまったのだ。

顔を触手で撫でられたので、涙が出そうになる。

触手は、口がついているタイプでは無く、ミミズのような奴だ。生暖かくて粘液で湿っているので、非常に気持ちが悪い。

怖い。だが、今は、怖がってばかりもいられない。

きっと、今マローネは、このビルを占領した魔物に捕まっているはず。それならば、ブータン社長は近くにいる。

それだけではない。

みんなは必ず助けに来てくれる。信じているから、マローネは少しずつ、恐怖を落ち着かせることが出来た。

徐々に、周囲が分かってきた。

この闇そのものの空間で、マローネは空中に固定されているらしい。魔物自体は、どこにいるのだろう。

荒い息づかいが、近づいてくる。

不意に、至近に。巨大な目が出現する。闇の中なのに、それはどういうわけか、はっきり見えた。

「お前は、どうして、われわれを、ころす」

「あなたは、サルファーの、しもべなの?」

「われわれは、われわれ。 どうしてころす」

「貴方たちが、人々を苦しめるから。 貴方たちと戦わないと、多くの人々が、苦しむことになるから」

戦う事に、今はもう悩みは無い。

少し前に、アッシュに同じ話をした事がある。その時アッシュは、何か打ちのめされたような顔をした後、話してくれた。

アッシュは、今まで、復讐のために戦っていたという。

好きだった人達を殺したサルファーを許せなかった。だから、サルファーのしもべに拳を振るうことは、いつも以上に苛烈になっていた。

だが、マローネの話を聞いて、恥ずかしくなったという。

マローネだって、両親の事を思うと、どす黒い感情がわいてくることもある。だが、それでは何もかもが相手と同じだ。

「人々とは、なんだ。 このちにすまう、ざったなにんげんか」

「そう。 貴方は、どうしていつも酷いことをするの」

「酷いこと? わからない。 お前達がしていることを、酷いことというのか」

何か、今。

とんでもない事を、言われた気がする。

今まで、サルファーのしもべたちには、どうも引っかかることがあった。誰にも相談はしていないのだが、何かがおかしいことは感じていたのだ。

今回は、好機かも知れない。

サルファーのしもべは、どういうわけかマローネと対話している。

今まで、サルファーや、そのしもべとは、コミュニケーションが根本的に不可能だった。だが、今は向こうから、不思議な形ではあるが、歩み寄りを見せてきている。

「みえる。 お前も、酷いことをされている。 だが、その「人々」には、酷いことをかえさない。 だが、われわれには、酷いことをする。 何故だ」

「それは……」

「酷いこととは、そもそもなんだ。 弱肉強食の理か。 それならば、どうしてお前は、「人々」にそれを返さない」

「それは、みんなに好きになって欲しいから!」

乱れた呼吸を落ち着かせる。

そうだ。マローネは、臆病なのだ。

みんなに好きになって欲しい。だから、みんなのために働いていく。

みんながどれだけマローネの事を嫌いでも、いつかそうすれば、状況は変わる。幼い頃、お父さんにもお母さんにも、繰り返し言われていたことだ。

今では、その記憶だけが、両親とマローネをつなぐ、唯一の糸になってしまった。

「貴方は、どうしてイヴォワールを襲うの? それだけではなくて、他の世界も襲っていると聞いているわ」

「われわれは、ただかえしているだけ」

「……っ!」

やっぱりだ。

今まで、頭の中にあったパズルの断片が、次々に組み合わさっていく。

サルファーは、他の魔物と根本的に違う。たとえば、砂漠で遭遇したサンドウォームは、強くても所詮「動物」だった。大きさが桁違いではあったが、考えているのは、増えること、食べる事、それに安全を確保すること。それだけだ。

強力な存在と言えば、ヴォルガヌスも同じである。偉大なる古代竜も、結局考えているのは、縄張りの保全と、仲間の命の安全。

人間とは、違う。

魔界の戦士であるハツネでさえそうだ。

ハツネの理屈は、力による制御という極めて単純なものに依っている。それはハツネ自身が、何度もそう明言している。力と、それを使う「誇り」によって、成り立つ世界の出身者、それがハツネだ。

いずれもが、人間とは違っているのである。

人間と、極めて似通っているのは。どす黒い悪意に身を任せて、全てを喰らい尽くそうとしているのは。

「あなたは、ひょっとして……!」

「われわれは、お前が言う多くの「酷いこと」を、この世界に返していかなければならない。 それが、われわれの核であるそんざいが、ねがうことだからだ。 そして、われわれじしんも、そうしたい」

マローネの至近にいた、魔物の目が、離れていく。

待って。叫ぶが、もう声は届いていないようだった。闇の中に、むなしく声がこだまするだけである。

分かった。

分かってしまった。何となく、サルファーの正体が。

そして、その動機も。

あまりにもおぞましいその存在は、きっと。この世界の罪そのもの。そして、どれほどの血涙を流そうとも、解決しなければならない課題。

戦いは不可避。

対話は出来るかも知れない。だが、それは、多くの流血を伴った末だろう。

あまりにも重い現実がのしかかってくる。世界の、人間が積み重ねた業は、一体どれくらい重くて深いのだろうか。

涙が流れてくる。

それを拭くことも出来ないことが、今は口惜しかった。

 

3、業深き存在

 

マローネの気配をたどっていく内に、露骨に悪霊の抵抗が激しくなってきた。とにかく数を繰り出して、足止めに掛かってくる。いつもと同じように、味方の損害など、意にも介していない様子である。

アッシュは、参戦できない。

マローネがコンファインしてくれなければ、アッシュは只の無害な亡霊だ。多少の物理干渉は出来るし、声くらいなら周囲に聞かせられる。だが、早期警戒くらいにしか役立たないし、気配の察知は仲間達の方がアッシュより上だ。

ガラントが黙々と敵を斬り伏せながら、手招きする。

階段らしきものを上がり、そして壁をコリンの術式で貫通して、道を作る。どっと溢れてくる悪霊を、バッカスがタックルを浴びせて弾き散らした。ハツネは殆ど休む暇も無く矢を放ち続けていて、後ろに回った相手にも、側面から迫る敵にも、即応して矢を浴びせていた。

何度目かの襲撃を、切り抜けたときだっただろうか。

コリンが、待ってと周囲に声を掛けた。ガラントがどう進むかと、話をしようとしていた矢先である。

「かなり近いよ。 恐らく、このすぐ側にいるだろうね」

「今は恐らく、二十階くらいじゃろう」

定点観測でも使っているのか、ヴォルガヌスが外から感覚共有を駆使して話しかけてくる。

そうなると、確かこのビルは二十五階建てくらいだった筈だから、頂上までもうすぐだろうという結論が出てくる。

その辺りに、魔物が巣を作っているとなると、確かに近い。問題は、近づいたところで、どうやってマローネを奪回するか、という点に絞られる。マローネがまだ生きているのは確実だが、下手に近づくと、魔物に殺されかねない。しかも、マローネが五体無事でいるか、そうではないかで、作戦の過程も難度もぐっと変わってくる。

どちらにしても何かしらの方法で、魔物の注意を引く必要がある。

ガラントが腕組みした。

辺りは戦闘の痕が手酷く残っていて、魔物を倒した後、仮にビルが元に戻ったとしても、滅茶苦茶に壊れているだろう事疑いない。引き裂かれた敷物が散らばり、砕けた元は花瓶だったらしいものが散乱している。

今は構っている暇が無い。だが、この仕事が終わったとき、これがマイナスにならなければ良いのだが。

「戦力を分ける必要があるな」

「私は囮をする。 兵種として向いているからだ」

「あたしもこっちかなあ」

ハツネとコリンが、それぞれに引きつけ役を買って出る。本来はアッシュが救援に行きたいところなのだが、今は不可能だ。それが口惜しくてならない。マローネにもっと強く、コンファインするように頼んでおけば良かった。

そうなると、結論は一つに絞られる。

「オレガイッテクル」

「頼むぞ、バッカス。 アッシュもついて行ってくれ」

「僕には何も出来ない……ですが」

「マローネを救出したら、その場でコンファインをしてもらえ。 そうすれば、一気に防衛力が高まる」

ガラントはいつも冷静だ。

この老傭兵団長は、既に武力という点では、アッシュより下かも知れない。しかし安定度と人間としての円熟味、何より冷静な判断力を見ていて、全く叶わないと思わされるものが確かにある。

感謝して頭を下げると、アッシュはバッカスと一緒に、コリンが指定した道の歪みを行く。

マローネが酷いことをされていなければ良いのだが。

される前に、絶対に助け出さなければならない。相次ぐ修羅場で鍛えられているとは言っても、まだマローネは戦士として優れているわけでも無いし、魔術師としても三流だ。あんな強大な魔物相手に、自分の身を守れというのは、酷なことだろう。

歪んだ道を、走る。

バッカスは走るとき、殆ど音がしない。巨体なのに音がしないのは、歩法に工夫があるからだ。アッシュもまねしようと思ったのだが、元々前傾姿勢で四つ足に近い体勢のバッカスである。そもそも骨格が違うので、まねは難しかった。

扉の一つを開ける。

異界が、其処に広がっていた。

無数の黒い触手が、獲物を求めて蠢いている。踏んでしまえば、一気に敵に気付かれるだろう。

だが、他にマローネの所へ行く道はあるのか。焦るアッシュを裏腹に、バッカスは平然と進み始める。見ると、器用に蠢く触手を踏み越え、或いは跳躍して音も無く遠くに着地し、接触を避けている。

壁や天井に捕まり身を支え、更に奥へ這い進む。

既に、バッカスからは呼吸の気配さえも無い。これは以前目撃したウサギリス族の暗殺者に匹敵するほどのハイド技術では無いだろうか。野性的に荒々しく戦うのがバッカスだと思っていたのだが。

考えて見れば、野生では獲物の背後から忍び寄り、一撃で必殺を心がけるのが狩の基本だ。

バッカスはリザードマン族であり、人間より怪物扱いされる事も多い。文化的な生活よりも、野生動物としての生き方こそが本領の筈で、こういったハイド技術は生来のものなのかも知れない。

アッシュは無言で、バッカスについていく。

やがて、無数の触手が蠢く、広場に出た。

ビルの中には、こんな空間は無かった。恐らく空間をねじ曲げて作り出したものなのだろう。

触手はあるにはあるが、魔物の気配は無い。

つまり此処で蠢いている触手は、奴の端末。どかんと一つ大きな揺れ。恐らく、ガラント達が魔物と交戦しはじめたのだろう。

ガラントとコリン、ハツネとカナンの四名が揃っているのだ。生半可な魔物ならば、後れを取ることも無い。

周囲を見回す。

バッカスが上を見上げて、それにつられてアッシュも見た。

無数の触手が貼り付けにしている人型を発見。間違いない。マローネだ。

手足を引っ張ることで、力を入れられないようにしている。あんな小さな子供を相手に、念が入っていることである。

それだけ、二体の大物を潰したマローネを評価しているのかも知れない。

「チャンスは一瞬ですね」

「ソウダナ」

バッカスはしばし辺りを見回していたが、程なく一点に視線を集中させる。

触手が集まっている箇所がある。その触手は、マローネの右手を掴み、押さえている。其処を斬れば、マローネを押さえている触手を一気に弛緩させるか、もしくは断ち切ることが出来る。

だがその場合、マローネは空中に投げ出されてしまうだろう。他の四肢を押さえている触手をバッカスが切断する間に、マローネは地面に激突する。

その瞬間、アッシュのコンファインが成功すれば、マローネを助けられる。

だが。其処までの瞬間的な連携が、可能だろうか。

信じるしか無い。

マローネも戦闘に次ぐ戦闘できたえあげられているのだ。判断力も、もうアッシュが驚くほどのものとなっている。

ならば、きっと行ける。

バッカスが、身を低く沈める。アッシュも、マローネに声を掛けた。名を呼ぶ。マローネはぐっと目を閉じていたが、わずかに反応した。聞こえたはずだ。

これ以上の声は出せない。触手がどう動くか分からないからだ。

数瞬が、数時間にも感じられるその時が過ぎ。

バッカスが、動いた。

足を撓ませて強力な跳躍力を発揮すると、回転しながら触手を背びれで一気にまとめて切り裂いたのである。

予定通りの行動。

触手の粘液が噴き出すと同時に、バランスを崩したマローネが、宙ぶらりんとなる。更に回転しながら、他の触手束も切り裂くバッカス。マローネが、中空に放り出される。

アッシュは、跳躍の瞬間に備える。

マローネが、印を切るのが見えた。

跳ぶ。実体が得られると同時に、マローネを受け止める。まだマローネの左足には触手が絡みついていたが、着地と同時に踏みつぶした。

無数の触手が、周囲から迫る。

マローネを床に下ろすと、着地したバッカスと背中を併せて立つ。

手袋を直す。

一気に、此処を突破して、敵の首魁の所へ行く。ガラント達が作ってくれた時間、無駄にはしない。

「アッシュ!」

「ごめん、遅くなって。 酷いことはされなかった?」

「うん、大丈夫。 でも……」

マローネは、アッシュに抱きかかえられたことを、特に何とも思っていない様子だったが。他に何か、大きな悩みを抱えているようだ。

何か、魔物に吹き込まれたのかも知れない。

「今は後だ。 一気に突破する。 走れる?」

「大丈夫。 戦いに集中して」

「分かった!」

アッシュのエカルラートも、相当な長時間展開できるようになっている。マローネの力が上がった事もそうだが、アッシュ自身がおばけ島で時間を見ては技を練り込んできたからだ。

無駄な動きを減らし、パワーを込め、そして走り抜ける。

群がる触手の群れを叩き潰して道を開き、退路を走る。

迫り来る触手は、バッカスが尻尾をふるって薙ぎ払った。バッカスを飛び越え、更に出てくる触手に拳を叩き込む。蹴りで吹き飛ばし、爆ぜる体液を浴びつつも、更にもう一つを貫く。

マローネは普通についてくる。手足には青あざが残っていた。だが、マローネは元気に走っている。長い時間触手に締め上げられていただろうに、もうかっての守らなければ死んでしまうひな鳥のような脆弱さは、ない。

寂しいと同時に、頼もしい部分もある。

避けきれないタイミングで、横殴りに太い触手が来た。だがマローネが展開したクリスタルガードが、はじき返す。

通路の先にいる触手は、バッカスが引きちぎっていた。退路が出来る。

後ろから追ってくる、無数の触手。まるで黒い巨大なミミズの大群に追いかけられているようだ。

「カワレ」

「任せてください!」

殿軍にバッカスが出て、壁の石を引きはがし、敵に投げつけた。

ぐしゃりと言う嫌な音がして、蠢きながら触手が潰される。マローネとアッシュが走り抜ける横で、バッカスは更に一枚、壁を引きはがした。

破壊音を後ろに、廊下を駆け抜ける。

マローネは呼吸を乱していたが、すぐに立ち直る。入るときと全く廊下の様子が違っていたが、魔物の力の影響だろう。

前に、再び触手が。後ろではバッカスが大暴れしているが、まだ通らせてはくれないか。アッシュはエカルラートの燐光を強め、弾丸のように突進。敵の壁をぶち抜き、一気に広い場所に出た。

其処は、既に地獄と化していた。

闇の中に浮き上がるのは、無数の目玉。闇の中にいるのに、それがくっきり見えている。それだけではない。

目玉は中心の球体から触手によって伸びていて、ある種の花のようだ。更にまるで闇の中全てを覆うかのような、とんでも無い数の触手が辺りをまさぐり続けている。どうしてだろう。妙に淫靡だと感じてしまった。

「遅かったな」

「すみません、手こずりました」

ガラントは傷だらけになりつつも、剣を構えて巨大な魔物に立ちふさがっている。

コリンは既に相当に魔力を消耗したようだ。その隣でカナンは、新しい術式を今、完成させようとしている所だった。

ハツネは壁際まで下がって、攻撃の機会をうかがっている様子である。

妙な違和感を感じて、エカルラートの燐光を纏ったまま、前に出る。跳躍して、拳を叩き込もうとした瞬間、違和感の正体が分かった。

跳んできた床石が、アッシュを吹き飛ばしたのである。

それだけではない。

花瓶だったものや、扉だったもの、椅子だったものが浮遊し、明確な殺意をもって襲いかかってくる。

避けて、ガラントの所まで下がる。

魔物は、その間。微動だにしていない。

「ビルの様子から想定はしていたが、見ての通りだ。 想定よりも悪い状況、かも知れんな」

「まさか、ビルがあの魔物になっているんですか!?」

「その通りだ。 今やこのバンブー社本社ビルがこの魔物そのものというわけだな」

 

マローネは、自分たちを包んでいる光に気付く。それはガラントとアッシュがいる辺りまでを柔らかく包み込んでいた。

カナンが展開している術式だ。正体は分からないが、少なくとも魔物の触手は、今のところこの光の範囲に入っては来ない。

バッカスが遅れて来る。傷だらけになっている。マローネを逃がすために、敵中に孤立したのだから無理も無い。

だが、平然としているのは、バッカスが戦士だから、だろう。

そういう人種が存在することを、マローネは、知っている。そして、それを否定する気は無い。

信頼している戦士バッカスに一礼すると、マローネは歩み出る。

あの魔物に、話したいことがある。

手も足も、おなかもいたい。触手に体中を好き勝手になで回されて、すごく気持ちも悪かった。足の間にだけは入られなかったが、それもたまたまの可能性が高い。下手をすると、アッシュの顔を二度と見られなくなるような事をされていたかも知れない。

だが、今は平静だ。

今まで、何度も死にかけた。だから怖くは無い。死の恐怖で感覚が麻痺したのでは無い。もっと怖い事に何度もあって来たから、今更心が壊れるようなダメージは受けない、という事だ。

もっと幼い頃。

孤児院から出たすぐの頃に受けた行為の方が、もっと心に傷を作っている。

「魔物さん!」

呼びかける。

ガラントは黙ってみていた。アッシュは、驚いたようだが、すぐに戦闘態勢を取り直す。

もう一度呼びかけると、魔物から反応があった。

触手を伸ばして、顔に目玉を近づけてくる。

「どうした。 われわれは、「酷いこと」をして、されているところだ」

「貴方は、やはり貴方たちは、この世界で生まれたんですか?」

「そうだ。 ここはわれわれが、うまれたばしょだ。 イヴォワールとか呼ばれているまえは、アトランティスと呼ばれていた」

「アトランティス……?」

コリンが耳ざとくその単語を聞きつけたらしく、此方に注意を集中しているのが分かった。

もう、確信に変わっている。

「私達が、貴方が言う「酷いこと」を止めたら、貴方はどうしますか」

「そのときは……」

ぴたりと、魔物が動きを止めた。マローネは辛抱強く待つ。

誰もが出来なかった、サルファーのしもべとのコミュニケーションなのだ。簡単に投げ出すわけにはいかない。

沈黙が、流れていく。

何も言わずに、相手の言葉を待つ。大人数でぎゃあぎゃあとがなり立てるようなものは議論では無い。そんなことは、子供のマローネでも知っている。まずは相手の言葉を待ち、それから此方の言葉を返す。

会話にはダーティなものも含めていろいろなテクニックがあるとガラントに聞いているが、此処では使いたくない。

根気強く、言葉を待つ。

そして、言葉は来た。

「おまえたちをみなごろしにする」

「……っ!」

魔物の雰囲気が変わる。

いわゆる逆鱗に触れたことを、マローネは悟った。まるで首を切られた蛇のように、触手と、その尖端についている目が、虚空を跳ね回る。

「おまえたちをみなごろしにするおまえたちをみなごろしにするおまえたちをみんなみんなぶちころしてやるころすころすころすころすころすころすころすころすころろろろろろろろろろろろろろAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」

絶叫が、辺りにとどろき渡る。

やはり、すぐの対話は無理か。至近。振り下ろされた触手が、床を直撃。ガラントが手を伸ばして引き戻さなければ、一瞬でミンチにされていた。

魔物の目は、既に安全圏まで引き下がっている。だが、その巨大な威圧感は、むしろ増したようにさえ思える。

怖くは、ない。

正体が知れた以上、むしろ今までの得体が知れない恐怖は失せた。思えば、呼ばれ方からして、変だったのだ。

ファントムとは似て違う存在なのに、どうして悪霊と呼ばれていた。

きっとこの世界の人達は、その存在の正体を、昔から無意識下で悟っていたのだろう。

「攻撃力はたいしたことないんだけど、何だか通らないんだよねえ。 術も攻撃も。 マローネちゃん、何か思い当たることは?」

「コリンさん、本当は知っているんじゃ無いですか?」

「何のことだろ」

言葉とは裏腹に、コリンの表情は、露骨に真実を語っていた。

分かっているのは、ただ一つ。

今はこの魔物を、撃退しなければならない。そして、魔物を倒さなければ、ブータン社長は救えない、という事だ。

魔物との戦いの中、周囲で多くの人が死んでいくのを見た。たった一人でも、命なのだ。安易に奪わせるわけにも、見捨てるわけにも行かない。きれい事って言われても構わない。

「通らないというのなら、通すだけだ」

ガラントが剣を振る。

魔物が、雄叫びを上げながら、無数の触手をふるって躍りかかってきた。

 

観察を開始。

周囲の声が、ミロリを現実に引き戻す。イヴォワールに戻ってきたという事、来るなりマローネがサルファーのしもべと全力で交戦していたという事が、驚きとなって頭を打ちのめしていたのだ。

慌てて自分も、仕事に戻る。

リレが見ているのだ。さぼろうものなら、その場で脳天に魔導書での一撃をもらいかねない。

空間透過モニターには、戦闘の様子が、余すこと無く映し出されていた。

アッシュが走る。ガラントも、それに少し遅れて走る。

無数の触手が、獲物を求める毒蛇のように、二人に襲いかかる。上から下から右から左から、それに前から。

それだけではない。

触手の雨霰を斬り破って進もうとしたアッシュが、巨大な柱に潰される。

間一髪逃れたアッシュに、今度は無数の石が降り注いだ。慌てて逃れるアッシュだが、突破の道は見えていない。ガラントも似たような状態だ。一点を境に、全く進めなくなる。

「さて、どうする……?」

頬杖をついたまま、指揮シートに座っているリレが呟く。

此処は天界軍旗艦級戦艦ハイロウの環境。周囲は光に満ちており、それが故に原始的な闘争が大モニターに映し出されるのは、非常な違和感を伴っていた。

アッシュが、身に纏う燐光を、更に強化する。

暗い空間が、青い光に満たされていく。

だが、魔物の動きに、変化は無い。

押し返す自信があるのか。

「サルファーのしもべMタイプ、魔力上昇! レベル、500を突破!」

「観測を続行」

リレの声は冷たい。

ミロリが見たところ、恐らくマローネが今戦っているMタイプというサルファーのしもべは、特化型だ。空間を自分が有利なように作り替えることで、その魔力を殆ど使っている。

だから、戦闘自体は大変地味で、本体の実力そのものはたいしたことが無い。

アレを倒すには、空間そのものを破壊し尽くして手を奪うか、それとも膨大すぎる魔力を正面突破するか、或いは。

コリンが床に手をつく。

術式を発動すると同時に、アッシュが仕掛けた。コリンが発動したのは、どうやら雷撃系の術式らしい。ビル全体に、微弱な電撃を仕掛けた様子だ。勿論、寸前にバッカスがマローネを抱えて跳躍している。

ファントムは冷気にも暖気にも強い。それを生かした訳だが、果たして。

「お……!」

周囲から、驚きの声が漏れた。露骨に飛来する瓦礫が、減ったからだ。

やはりビル全体を支配下に置いているのを、逆手に取ったか。巨大なビル全体に攻撃を仕掛けられたことで、戦闘ポイントである此処への注意が散漫になった、という事なのだろう。

だが、それでも、飛来する瓦礫や、危険物は多い。アッシュが燐光を纏ったまま突入し、体中傷だらけになりながら、強引に走り抜ける。地味なはずの攻撃なのに、どれもこれもが、的確にアッシュを傷つけていく。

「おぉおおおおおおおおおっ!」

全力での、エカルラート開放。マローネが力を与えているのか、さっきよりも更に力強い。

バッカスが着地。

その時には、アッシュに続いて、ガラントも走っていた。

アッシュが、鉄壁に見えた敵の防御を、ついに突破する。ガラントも続く。無数の触手が、うなりを上げながら迎撃。左側にある触手をガラントが斬り伏せる。アッシュは右側の触手をいなしながら、血と汗を飛ばしつつ、敵の至近に迫る。

しかし。

上から降り注いだ触手の群れが、アッシュを瞬時に地面にたたきつけていた。

「空間転移攻撃を確認」

「体の一部だけを、空間転移させることが出来るようね」

「冗談じゃ無い……」

思わずミロリは戦慄する。リレは淡々と言っているが、そんな無茶苦茶な事も出来るのか。

しかもあれだけの数が、そんな攻撃を仕掛けてきたら。

大量の鮮血がぶちまけられる。

ハツネだ。

今まで、息を殺して機会をうかがっていた彼女が放った矢が、魔物の中枢を貫通したのである。

アッシュが触手を払いのけて立ち上がり、起き上がりざまに敵の目玉の一つを拳で打ち砕いた。

悲鳴が空間に轟く。

同時に無数の触手が、マローネ達に、空間を跳躍しながら襲いかかった。クリスタルガードを展開するカナンだが、それも即座に打ち破られる。バッカスがカナンとマローネを抱えて跳ぶが、空中で撃墜された。しかし、自分の身を盾にして、二人を守るバッカス。

ハツネが触手に捕らえられ、空中に投げ上げられる。

だが冷静にハツネは、空中で二本の矢を放った。それぞれが触手の尖端についている目を貫通し、視界を狭める。

蠢く無数の目を、片っ端から潰すアッシュ。

だが、その間、無傷というわけにも行かない。無数の触手が殺到し、バッカスが流石に口を開けて苦痛の声を漏らした。下にはマローネがいる。コンファインを解除したら、瞬時にミンチだ。

思わずミロリは立ち上がる。

「救援を……!」

「もう少し待ちなさい。 この程度の逆境で倒れるようでは、サルファーとの戦いでは役に立たないわ」

「あんたは……!」

流石に激高しかけたミロリだが、リレが言う事が正しいのも分かる。

仕事に戻り、状況の観察を続ける。腹の虫は納まらないが、今はミロリ一人が怒っても、何も解決しないのだ。

ハツネが着地するが、その瞬間、大量の触手が殺到する。恐らく最後の一撃だろう矢を放った次の瞬間に、マローネがコンファインを解除。床が打ち砕かれ、大量の瓦礫をまき散らす。

ハツネが放った矢が、敵の中枢を再び貫通。

その隙に、アッシュが最後の力を纏い、躍り出る。

横殴りの一撃。ガラントが、極太の触手を、一息に切り捨てた。

「行けっ!」

アッシュは無言で、空間全体が青く照らされるほどの燐光を纏い、跳ぶ。マローネも、魔力をことごとくアッシュにつぎ込んでいるようだ。残像さえ残しながら、アッシュはついに敵の中枢に到達。同時に、隅っこの方を走り回りながら要領よく詠唱を続けていたコリンが、術式を発動する。

今までに、何度も魔物を、寄生先から切り離してきた術式だ。

魔物の中枢を、魔法陣が両断する。否、魔物の中枢を両断するようにして、魔法陣が姿を見せる。

悲鳴を上げながら、巨大な口だけの魔物が、姿を見せる。

口の周りには多くの触手が生えていて、その先には。恐らく寄生の餌食にされたらしい、大型のゴキブリの姿があった。このビルに生息していたものだろう。

アッシュは無言で、魔物本体を、空間の壁に向けて蹴る。

全力、渾身の一撃。裂帛の気迫と共に放たれた蹴撃は。魔物の体をひしゃげさせ、不動と思われた難攻不落の魔物が、ついに吹き飛ばされた

黒い空間にひびが入り、次の瞬間砕ける。

ビルの外に吹き飛ばされた魔物が、既にコンファインを終え、待ち構えていたヴォルガヌスの射線上に出る。

悲鳴を挙げる魔物。

だが、シールドも、空間転移も間に合わない。それほどの超高速で、攻防は行われ、連携は完璧に取られていたからだ。

炸裂する白光。

無数の人間が見守る中、巨大な魔物が、憎悪の絶叫を挙げつつ、消滅していく。空に向ける白い光は、成層圏の果てにまで達し、空気をプラズマ化させながら薙ぎ払い、そして最後に魔物ごと爆発した。

魔物の巨体が、灼熱の中、完全に分解される。

そして、何も残らなかった。

「サルファーのしもべMタイプ消失! 完全破壊です!」

「おおっ!」

歓声が上がる。

レベル500オーバーと言えば、そこそこに強い魔王に匹敵する実力だ。それを、単独の人間が倒すとは。

出身地だから、イヴォワールという場所が魔界に等しい人外の地だと言う事は認識していたが、確かに素晴らしい。ミロリも額の汗を拭い、脱力して観察を終了した。マローネだったら、長く続いたサルファーによる悲劇の螺旋を、断ち切ることが出来るかも知れない。

ビルが、魔物の影響から開放され、元に戻りはじめる。

歪められた場所や、砕けた壁や天井は、流石に元には戻らないようだ。椅子は散乱し、照明器具は散らばり、窓は砕けて無惨な姿をさらしている。

地域のシンボルだった建物だが、一からの再建が必要だろう。ミロリはイヴォワール出身といっても、ずっと奴隷として暮らして、脱走してからは極貧生活だったから、こんな建物は見た事が無い。だから何処か他人事のように、そんなことを考えていた。

「総員に告ぐ」

リレが立ち上がったのに気付いて、皆が一斉に起立する。

天界の雇われ天使長であるリレは、相変わらず慈愛の欠片も無い鋭すぎる視線で周囲を見回しながら、宣言する。

「必要なデータは取得できた。 これから幾つかの魔界と連合しての、サルファー殲滅作戦に移行する!」

「おおっ!」

ついに、この時が来た。

サルファーは、イヴォワールが出所とは言え、世界全ての罪悪の塊と言っても良い。今まではどうにも出来なかった存在。だがリレの辣腕により、複数世界が共同の体制を整えたことで、ついに討伐の目処が立った。

悲劇は、イヴォワールだけで起きたのではない。無数の魔界を蹂躙もした邪悪なる魔物、サルファーを、ついに討つことが出来る。そして、ミロリとしては。これでマローネの周囲の環境が絶対零度では無くなると思えば、望外の喜びであった。

「ミロリ」

「はい。 天使長殿」

「貴方はスパルタクスらが率いるイヴォワール支援部隊に参加しなさい。 私も後からそちらに向かうわ」

「分かりました。 直ちに」

勿論、イヴォワール出身だから、そのチームへの参加が決まったのだろう。

まさかこれほど早くマローネに礼を言う機会が訪れるとは思っていなかった。そして、第二の命を賭けてマローネのために戦えるとも。

リレがその意思を汲んでくれたのかは分からない。

だが、感謝はしている。リレが色々と鍛えてくれなければ、こんな機会は訪れなかったのだろうから。

すぐに精鋭天使兵二千からなる部隊が編制された。

イヴォワールへの支援任務、開始である。

 

4、意地っ張りの兄弟

 

ブータン社長は、屋上階の社長室にいた。

色々と悪趣味な贅沢品で飾り立てられていた社長室は、見る影も無く破壊され。価値のあるだろう美術品は、ゴミのように周囲に散乱していた。

此処だけが酷い有様なのでは無い。ビル全体が、滅茶苦茶になっているのだ。

社長は、何かを握りしめたまま、真っ青になってデスクについていた。きっと此処まで強行突破はしたが、相当に怖い目にあったのだろう。

マローネを見ると、ブータンの目に、露骨な恐怖が浮かぶ。

「ブータン社長、マローネです。 助けに来ました」

「ひいっ! こ、こないでくれ! 喰わないでくれ!」

困り果てたマローネがアッシュを見るが、肩をすくめられるだけだった。

鏡の残骸があって、自分が写って納得である。足にも手にも酷い痣が残っているし、全身は魔物の返り血で真っ黒だ。戦いになれば、こういう状態になるのは当然のことで、何も驚くには値しない。

昔は死ぬほど驚いたこともあったが、今は気にならなくなった。

綺麗な戦いなんて、存在しないのだ。

ブータンはデスクで頭を抱えて震えていたが、マローネが根気強く話しかけていくと、徐々に此方を見てくれるようになった。

やがて、ある一点で、現実を認識したのだろう。ふと、目から恐怖の色が消えた。

「お前は、あの悪霊憑き! どの面下げて、ここに来た!」

「お仕事です。 シシカバブ親方から頼まれて来ました」

「ま、魔物は」

「酷い目に遭いましたけど、どうにかやっつけました」

マローネは、敢えて表情を崩さないで、そう言った。これ以上ブータンを怖がらせないために、必要だからだ。

魔物は。

サルファーのしもべは、コミュニケーションを図ってきた。サルファー自体には、恐らく知能がある。

しかも、その正体は。

マローネは、笑顔を保つのが、難しかった。後でみんなに聞いて欲しいと思う。それから、どうするか決めたい。

戦う事は、決めている。

しかしその後どうするかは、マローネ一人で決めてはいけないことに思える。

「あんな恐ろしい魔物を、お前のような小娘が?」

「もう、魔物はいません。 でも建物のダメージが深刻ですから、早く出ましょう」

「う、嘘だ、信じられるものか! お、お前も魔物なんだな! そうなんだろう!」

「マローネ、コンファインして」

アッシュも疲弊が酷いが、まだ一仕事必要となれば、動いてはくれる。

コンファインしたアッシュを見て、更に気の毒な悲鳴を、ブータンはあげた。不快には感じない。それだけ酷い目にこの短時間であったという事だ。さぞや怖かったことだろう。

「失礼します」

アッシュが、ブータンの後ろに回ると、手刀で延髄を一撃。

白目を剥いたブータンを担ぐ。

恐怖でパニックに陥った人は、時に冷静な殺人犯よりも危険な存在になる。犯人を制圧するときの邪魔になる事も多い。だから落ち着くまで気絶させて、後で話を聞くというのは、良くある事だ。

クロームや傭兵団でも、人質を取って立てこもったベリルを制圧するときなどに、この方針を用いることがある。

マローネも仕事でベリルの制圧は何度かしたが、流石に人質がいる中に乗り込んだことは無かった。アッシュは経験があったのだろう。

重いブータンの体を、軽々と担ぐと、アッシュは先に歩き出す。

二十五階に達するビルを歩いて降りるのは、大変だった。外では多くの群衆が集まっていたので、裏口から出る。

裏口には、あまり人もいなかった。警備にいたのは、いつも船を守ってくれるキバイノシシ族のおじさんだ。

「マローネ、無事だったのか」

「はい。 おかげさまで」

「ブータン社長は」

「無事です。 パニックになっていたので、眠ってもらいました」

警備の兵士達に、状況を説明。

既に魔物を退治したことを告げると、彼らは確認のため、すぐに中に入っていった。マローネも、まさか魔物が残っているとは思わないから、不安は無かった。だが、戻ってきた彼らの顔は安堵に満ちていたが、同時に難しそうに顔を歪めてもいる。それで不安を喚起された。

「これは、建物を一度全部作り直さないと無理だな」

「建築系の術式を使うネフライトが総出でも、1年はかかる」

「……」

難しい顔をして、ガラントが腕組みした。

何か、良くない事があるのかも知れない。ほどなく、警備兵が、シシカバブを呼んでくる。

何度か揺すると、ブータンは目を覚ました。

周囲を見て、警備兵達を確認して。そして、やっと安心したようで、大きく嘆息した。

「た、助かったの、か」

「アニキ!」

「お前、シシカバブ!」

必ずしも好意的では無い声。離れて見守っているマローネは不安になったが、それがすぐ現実になる。

シシカバブを拒否する光が、ブータンの目の奥にはある。

「マローネをやってよかった! 他のクロームじゃ、アニキの所までたどり着けなかっただろうよ! ああ、命が助かって良かったよ!」

「巫山戯るな! その悪霊憑きが、ワシの会社にどんな損害を与えたか!」

「巫山戯てるのはアニキの方だろ! こんな状態のビルに一人で突入しやがって! 何がしたかったんだ! 命あっての物種だって、親父はいつも言ってただろ!」

「五月蠅い! 関係あるか! だいたいお前が、親父を語るンじゃねえ!」

胸ぐらをつかみ合って、見る間に殴り合いになりそうな空気が生まれる。元々体格の良いキバイノシシ族だから、迫力は満点だ。

怒鳴りあいを呆れてみている警備兵達。流石に社長とその弟だ。割って入る訳にもいかないのだろう。

ヒートアップしていく二人の話を聞いている内に、事情は見えてきた。

シシカバブは、自分の夢を家業に優先したのだという。ブータンが叫んでいるところに依ると、元々バンブー社はかって最大企業でも無く、同業内でさえトップでは無かったそうだ。それは知っていたが、同業者に押されて、相当に厳しい時代もあったらしい。そんな時代、シシカバブは父の遺言だった家業を兄と一緒に継ぐことを拒否し、夢を追ってサーカス団を開いたのだとか。

なるほど、ブータンの過剰な現実主義的な性格や、拝金主義的な所は、こういう事情が作り出したのだろう。

親不孝者だとか、ブータンは罵っている。

だが、シシカバブの言う事も、分かるのだ。それに何より、ブータンは、決してシシカバブを憎んではいない。さっき、マローネはそれを知った。

マローネはお節介かと思ったが。するべきだと思ったので、二人の間に入る。

「これ、落としましたよ。 ブータン社長」

「あぁン!? ああっ、そ、それは!」

奪い取ろうとするブータンから、さっと離す。

そして、わざとシシカバブに見えるようにした。気絶したとき、ブータンが手から落とした、写真を。

「それ、家族の写真じゃねえか……」

「それを握りしめて、ブータン社長は、ずっと社長室にいたんです。 きっとお父さんとお母さんが守ってくれたんですよ」

もし嫌っていたら。

シシカバブが写った部分だけ切り離すとか、そういう処置をしているはずだ。ブータンはそうしなかった。

ばつが悪そうに、熱が冷め果てたブータンに、写真を返す。

兄弟で、二枚の、同じ写真を宝物にしていたのだ。きっとこの二人の間には、世間一般で言う絆があるはずだ。

無言でマローネはその場を離れる。

もう、これ以上は、兄弟の問題だと思ったからである。

 

魔王セルドレスが一旦大魔王カレルレアスに報告を入れ、富と自由の島地下にある魔界軍の前線基地に戻ると、其処では血の臭いが充満していた。

ただ事ではない。

すぐに部下達をやって、周囲を調べさせる。本部を移設して、主力が抜けているからとはいえ、このような事態は容易にあり得るものではない。

屈強な悪魔達が、なすすべ無く倒れ伏している。刀傷を受けたもの、燃やされたように炭になっているもの、いずれもが原形をとどめていなかった。いずれもが魔神クラス以上の使い手ばかりだというのに、何があったというのか。

ソロモンは、いない。

奴の仕業か。いや、それにしては妙だ。そもそも動機が無いし、サルファーを憎んでいる点では、ソロモンは信頼が置けたのだ。人間ではあるまいし、こんな凶行を行うとは考えにくい。

そこまで考えたところで、気付く。

「セルドレス陛下!」

「どうした!」

「ソロモン王が!」

部下に呼ばれ、奥へ。

ソロモンは、奥の部屋で倒れ伏していた。これはもう助からないと、一目で分かる傷を受けている。

後ろから、刀傷を一つ。

そして、もの凄い熱量での一撃を、全身に受けたらしい。体の殆どは炭化してしまっており、今命があるだけでも奇跡だった。

「せ、せるどれ、す」

「あの人間達か!?」

「そうだ……。 あいつらは、サルファーを殺す事より、ゆうせんしたいこと、が、あるらしかった……」

そんなことで。

サルファーを放置していたら、世界がどうなるか知れたものでは無いのだ。今までイヴォワールは滅びを免れてきたが、それも今回で終わる可能性だって高い。

世界なんぞどうなろうと構わないと考える人間がいることは知っていた。だが、ソロモンが決戦用に育てていた人間がそうだったとは。ぞっとしない事態である。

「何か、言い残すことは」

「サルファーを討ってくれ……」

「よし。 任せておけ。 俺が必ず、それを見届ける」

「……」

灰になって、ソロモンの体が消えていく。

外で、生き残りが見つかった。まだ子供の淫魔だ。ロッカーにとっさに隠れたらしく、恐怖でずっと震えていた。

彼女の話によると、やはり人間二人が、大暴れして、此処にいた悪魔達を皆殺しにしていったらしい。

「あのウサギリス族の男と、長身の人間族だな。 すぐに部下達を手配。 この大事なときに、足並みを乱されてはたまらん。 見つけ次第俺に知らせろ。 かならずぶっ殺してやる」

拳を胸の前で合わせる。

ソロモンは陰険で気に入らない奴だったが、それでも殺されるほどでは無かった。ましてや、この世界のために活動していたことは事実なのだ。どうしてこの世界の人間に殺されなければならないのか。

争う声が聞こえたと淫魔は言う。

いずれにしても、放ってはおけない。油断さえしなければ、ソロモンだって負けるはずが無かった相手だ。

セルドレスが、地獄の果てまででも追い詰める。

 

ウォルナットは、心の奥に燻る炎を、消せずにいた。

少し前の事である。悪魔共の本部移動任務の護衛を終えて、久しぶりに行きつけの酒場に出た。其処では当然のように親友のパーシモンと出くわして、軽く飲み交わした。

不満が多そうだと、パーシモンが言う。

オーカー酒の入ったグラスをテーブルにたたきつけながら、ウォルナットは、親友に一つずつぶちまけていった。無論、固有名詞や、重要な場所はぼかしながら、だが。

まずカスティルの治療代である。

どういうわけか、あの強欲なネフライトが、代金は結構だとか言い出したのである。既にサフランの方から支払いがあったのだとか。

サフランの会社は業績悪化に苦しんでいるはず。どこからそんな金が出たのか。まさか、カスティルの友を自称する(そうでは無いかも知れないが、考えたくない)マローネが、支払ったとでも言うのか。だが、カスティルがそれで喜ぶはずがない。

それだけではない。カスティルが、マローネかららしい手紙を受け取っては、目を細めて非常に幸せそうにしていると、サフランから聞いた。反吐が出るどころか、その場で焼き殺してやりたい話だ。

面白くない。

ソロモンの施した魔術治療やらで身体能力は上昇し、サイコ・バーガンディも負荷を小さくして使えるようになった。金もソロモンから支給されているから、カスティルの薬代も出せるようになった。

それなのに、どうしてだろう。

調べてみて、分かった。

カスティルが、マローネの手引きで、一度大口の仕事を成功させたのだという。病室から出ることも出来ないカスティルが、だ。

それで一ヶ月分の薬代が稼げ、それ以降はサフランの負担が減ったこともあり、業績が回復。薬代に回せる金が増えて、今ではもうウォルナットがお金を入れなくても大丈夫、という状況だそうだ。

それだけではない。

どういうわけか、サフランが薬の知識を身につけだしたらしく、ネフライトが出している薬が高すぎることに気付いたらしい。それに泡を食ったネフライトが、治療代を大幅に値下げしたのだとか。

これも、裏でマローネが動いていることは、間違いない所だ。

「面白くねえ。 面白くねえんだよ!」

「まあそう腐るな。 それで、そのマローネだがな」

「悪霊憑きがどうかしたか」

「最近、方々で活躍している。 幾つかの地域で異常気象を解決して、英雄視する動きまで出始めた。 イヴォワールタイムズでは、あのフィルバートが率先して、マローネの活躍を記事にして載せはじめたくらいだ。 今までマローネを否定していた連中が、こぞって手のひらを返しているらしい。 それに、あのコールドロンがファンクラブとかを作ったとかで、そちらからも人気が出ているとか」

何がファンクラブだ。何が英雄だ。

酔眼をフィルバートに向けながら、ウォルナットは吐き捨てる。

「さぞや儲かってるんだろうな、ええ!?」

「それがなあ」

「どうした」

「最低限の報酬しかもらってないそうだ。 場合によっては、必要経費分しか仕事料を受け取ってないとかで、ただ働きに近い事も多いらしいぜ。 クロームギルドの中でも、それを聞いて見方を見直す奴まで出始めていてな」

ふつりと、音がした。

ウォルナットの中で、何かが切れた。

マローネは、この瞬間、ウォルナットの全てを否定した。奴を殺さなければ、ウォルナットの生きる場所は、この世界のどこにもない。

カスティルを奪うだけでは無く、人生の全てまで否定するとは。

残った酒を乱暴に胃に押し込むと、代金をテーブルにたたきつけ、ウォルナットは店を出た。

店の外には、あのウサギリス族の暗殺者が待っていた。

或いはこの男、気付いていたのかも知れない。

此奴は生粋の快楽主義者だ。だからウォルナットが激しく燃え尽きるのを、側で見たいのだろう。

「さて、どうします? このままだと貴方は、あの悪霊憑きのサクセスストーリーに手を貸すことになりますが」

「させるか」

「結構。 それでは、まずはあの愚かな魔王殿を斬るとしましょうか。 魔王を斬ったことは流石に私もありませんから、ぞくぞくしますよ」

世界がどうなろうと、関係ない。

ウォルナットにとって大事なのは、カスティルとパーシモンだけだ。

世界は力で動く。

金は命より大事。体に刻みつけられてきたそれを、ことごとく否定するあのガキを殺す事は、ウォルナットの至上命題だ。

あのガキさえ殺せれば、サルファーなんぞどうでもいい。

無言のまま、魔王ソロモンの所に行く。ソロモンは書類を整理しているところだった。ウォルナットが酔眼のまま入ってきたので不快感を刺激されたようだが、恐らく小物だと思っているからだろう。意に介さず、淡々と話した。

「どうした。 酒なら外で飲んでこい」

「俺はこれから、あのマローネとか言う小娘を焼き殺しに行く」

流石に愕然としたソロモンが動くより早く。

暗殺者が、背中からソロモンを一撃。ソロモン自身が持ってきた、魔界に伝わる名刀を仕込んだ杖だ。其処に世界最強の暗殺者の技が乗ったのである。魔王でさえ、ひとたまりも無かった。

其処へ、ウォルナットが全力でサイコ・バーガンディを叩き込む。火力は凝縮され、部屋に広がること無く、しかし魔王の体さえ瞬時に焼き払った。消し炭になって倒れたソロモンを尻目に、後は群がる悪魔共を片っ端からブチ殺し、そして去った。冗談と思えるほど、たやすかった。

港でボトルシップに乗り込む。最近は輸送にばかり使っていた船だ。だが、今度は違う。途中で、荷物はみんな捨ててしまった。高笑いしながら、オーカー酒を呷る。暗殺者にも渡すが、いらないと言われた。だから全部自分で飲み干す。

目指す先は、魔島。

しかも離島では無く、本島だ。

途中、休憩中に、マローネにボトルメールを出す。

「世界が大変なことになります。 話を貴方だけにしたい。 魔島へ来てください」

「随分と抽象的な文面ですねえ。 コレで来ますか?」

「来る」

ウォルナットは、何度も奴と戦った。だからその反吐が出る性質も理解している。

恐らく、今のウォルナットと暗殺者でも、正面からはマローネに勝てない。だから、魔島本島に引きずり込み、消耗させた末で叩く。

あのクソガキを焼き殺して、消し炭にする光景を思い浮かべるだけで、ウォルナットは暗い情念が燃えさかるのを感じた。

「さて……狩の時間だ」

ウォルナットは呟くと、拳を握りしめる。

もはやあらゆる意味で、このオクサイド専門のクロームは、人の領域から外れつつあった。

 

(続)