凍てつきゆく世界

 

序、凍れる島

 

モルト伯率いる精鋭二個中隊が、氷の森林島へ上陸したのは、異変が島を襲ってから二週間ほど経っての事であった。

同時期、サンド地方で始まった熱波襲来と、明らかに関連があるこの異変。アクアマリン地方は彼方此方の海で流氷さえ漂う強烈な寒波に覆われ始め、既に幾つかの村では凍死者も出始めていた。

そんな中、アクアマリン地方のメインアイランドからの出兵である。

元々寒冷の地であるアクアマリン地方の軍隊だけあって、率いられている兵士達は、皆が耐寒装備に油断無く身を固めている。更に今回、モルト伯は万が一を考え、増援を用意していた。

モルト伯の側に立つ陰気な男こそ、その助っ人である。

死人使いフォックス。

一人傭兵団と呼ばれる、イヴォワールでも屈指の使い手だ。しかも、寒冷地は死者にとって大変に相性が良い。軍の者達はフォックスを良く想ってはいないようだが、今は優れた使い手が一人でも多く欲しいのである。

四隻の軍船に分乗して、島に上陸したモルト伯は、早速状況の調査に、部下達を派遣した。

この島はモルト伯の領土であり、以前からある理由で出兵を準備していた。今回連れてきた二個中隊はその先鋒である。モルト伯は異変に備えておよそ五千の兵を準備しているが、その一部であった。

島は既に吹雪に覆われていて、少し先も雪で見えないような有様である。しかも積雪量は、既に大人の背丈をはるか超える有様だった。

これほどの積雪は、サルファーが襲来したとき以来だと、年老いたウサギリス族の島長は、しわだらけの顔を歪めて言う。モルト伯も、その意見に同意であった。一部を除いて。

「サルファーの襲来以来では無い」

「え……?」

「サルファーはまもなく襲来する。 そろそろ発表しようとしていた事だが、良い機会だろう。 この島には、恐らく異変の根源たる、サルファーの強力な部下が、既に現れているはずだ」

島長が、悲痛な叫び声を上げた。純朴そうな島長は、分厚い毛皮を何重にも着込んでいるにもかかわらず、見ていて気の毒なほどに震え始める。

無理も無い事だ。アクアマリン地方でも、サルファーは恐るべき猛威を振るい続けてきた。

寿命が長いウサギリス族にとって、その脅威は過去の話では無い。つい最近にさえ思える出来事なのだ。

島長は、一刻も早く島から退避したいと、モルト伯に泣きつく。

もとより、そのつもりだ。

以前、雪沼峠の島で、スカーレットが封印した魔物が大暴れしたことがある。その時と、今回は状況が似ている。

だが、違うのだ。

雪沼峠の魔物は、サルファーの部下ではない。強力であっても、ただの魔物だ。

此処にスカーレットが封印したのは、サルファーに直接関係がある、強大な邪悪の権化なのだ。

サルファーを退治するため、モルト伯は軍を鍛え続けてきた。此奴を倒せないくらいでは、意味が無い。

雪沼峠の時は、出陣が間に合わなかった。だが、今度は違う。今度は、必ず魔物を撃滅し、サルファーに痛手を与えるのだ。

いつも側に置いている老騎士に命じて、民の避難を急がせる。わざわざ四隻も船を持ってきたのは、そのためでもあったのだ。しかもこの船、流氷を砕きながら進める特殊な軍船なのである。

民はだいたいが避難に同意したが、残ると言い張る者達もいた。

この島は生まれ育った大事な土地なのである。それに、モルトが必ずサルファーのしもべなど打ち倒してくれると、信じている者もいた。嬉しい言葉だが、それ以上にモルトは勝利に万全を期さなければならない立場にある。だからこそ、本隊が到着してから、攻勢に出たい。

そのためには、全力で戦える状況を作りたいのだ。

何度か説得して、頑なな民達を避難させる。しかし、30名ほどは、どうしても残る気らしかった。

偵察に出していたフォックスが戻ってくる。

彼は魔術師としての力量も高い。だが、彼の実力をしても、冷気を緩和する術式は、分厚く掛けてもなおつらいようだった。

「モルト伯」

「状況はどうであった」

「最悪ですな」

フォックスは口数が少なく、最低限の言葉しか吐かない。今回の偵察についても、多くを語らず、要所での出来事しか言わなかった。

ただ、以前聞いていた、世界の全てを恨んでいるような空気は感じられない。憑き物が落ちたように丸くなっている。陰気なことには変わりが無いのだが、以前見た、近づく人間を手当たり次第に食いちぎりそうな雰囲気は消えている。たまにだが、部下と話もしているようだ。

状況を聞き出して、老騎士にメモをさせる。

最悪というのも、大げさではない。恐らく、異変の中心点と思われる場所へは、常識外の積雪が阻んでおり、温度も酷く低い。冷気緩和の術式を解除したら、人間など二刻と保たないだろうと、フォックスは言う。

元々寒冷地のこの島である。住んでいる動物も、寒冷な気候に適応しているものが多いのだが。

そういった動物でさえ、もはや死を待つしか無い状況だという。

「この冷気が緩和されたとしても、生態系は全滅状態でしょう。 島の復興には、時間が掛かると見て良いでしょうな」

「なんと言うことか」

さきに島長に話したが、これでは完全に30年前の悪夢再来だ。

あのときも、各地で気象の異変が相次いだ。人間が住めないような環境に彼方此方の島が落とされ、そもそも戦闘にならないような場所もあった。

勇者スカーレットが、多くの島を救ってはくれたが。

その影で、無念のまま、環境に潰されるようにして命を落としていった、責任感ある若者達も多かったのである。

モルトも、間近でそういった若者達の死を、何度も看取ってきた。

怒りが、老体の中でわき上がってくる。

絶対に、サルファーによる蹂躙を許してはならない。この日のために育ててきた精鋭なのである。今活用しなくて、どうするというのか。

「フォックス。 敵の中枢に迫るには、どうすれば良いと想うかね」

「……」

腕組みしていた陰気な死人使いは、ウサギリス族を中心に編制された、モルトの部下達を見回した。

ウサギリス族は、並の人間種族より寒気にずっと強い。

「冷気緩和の術式を分厚く展開して、相互に支援しながら進むしかありませんな」

「何名くらいネフライトが必要か」

「私を含めて、二十人という所かと」

「む……」

元々相当な腕利きのフォックスである。勿論この時に備えて、モルトも相当数のネフライトを動員できる体勢を整えてきた。

だが、これは。

兵力を絞るほか無いかも知れない。

「兵力を、此処にいる二個中隊に絞ればどうか」

「それならば、私だけでどうにか出来ますが。 しかし、その程度の人数で、サルファーの部下に対処できるのですか?」

「今いる3名の術者に、冷気緩和の術式を担当させる。 君の手が空く。 それで、対処は出来ないか」

難しいと、フォックスは言う。

フォックスは少し前に、砂漠でサルファーのしもべに憑依されたというベリルと戦ったらしいのだが。そのベリルはとんでもなくタフで、とても単独で対処できる相手ではなかったそうだ。つまり、それだけの力を持っている魔物が出てくる可能性が高いという事である。

部下達が戦慄しているのが分かる。

武名高いフォックスがそこまで言うのである。二個中隊程度の戦力で、どうこうできる相手には思えないのだろう。

若き頃の武勇があっても、難しいか。

「大変です! 伯爵様!」

「どうした!」

天幕に、分厚く雪を被った部下が飛び込んでくる。

部下はぶるぶると震えながら、必死に指さす。それは、村の外、港に通じる方の道であった。

「雪崩が、道を直撃しました! 退路を完全に塞がれました!」

「何だと!」

「先手を、打たれたようですな」

少し前、サンド地方でも、サルファーの部下が出たらしいという話は、モルトも聞いている。

そして、二度の襲来のことは、今でも克明に覚えている。

サルファーの襲来が近づくと、その部下は能力も知能も高くなる。人間を思わせるほど濃厚な悪意を身に纏うようになり、邪悪な謀略を巡らし、人々の恐怖を煽っていくのだ。調べた限り、それには一度の例外も無い。

そして、恐怖が頂点に達したとき、サルファーは姿を見せる。

天幕を出る。

猛吹雪の中、近づいてくる無数の影。それらが、全て悪霊と呼ばれる、サルファーの最下等の部下である事は明らかだった。しかも、完全に此処は包囲されている。動揺する兵士達の中で、モルト伯は叱咤する。

「怖れるな! 増援は必ず来る!」

ふと、空に輝きが見えた。

それは虹色に輝く鳥。モルトは、おもわず歓喜の声を上げそうになった。

あの鳥は。

確か、スカーレットが使役していた。

ならば必ず、スカーレットはこの世界に再来する。そして、サルファーを薙ぎ払ってくれることだろう。

「円陣を組め! 負傷者を内側に! 術者は冷気緩和の術式で支援! フォックス、君は攻撃に全力を注いでくれ!」

「承知!」

フォックスが術式を展開し、印を組む。

彼が使役しているらしい無数の死者が、闇から溶け出すようにして姿を見せる。異形ばかりだが、今はそれがとても頼もしい。

特に、陣の中央に陣取った塔のような死者は、全面に顔がついており、其処から無数の火球をはき出し始めた。空中で炸裂する火球が、悪霊を片っ端から叩き落とし始める。更にフォックスは、何体も死者を呼んだ。いずれもが、人外の戦闘力を持っている様子である。

流石一人傭兵団。たいしたものだ。

「増援が来るまで持ちこたえれば、攻勢にも出られる! 皆、これがアクアマリン地方の命運を賭けた一戦だ! 奮起せよ!」

「応っ!」

悪霊を薙ぎ払う死者を見て、兵士達の意気が上がる。

此処からだ。

勇者スカーレットは、必ず来てくれる。

それをモルトは信じていた。

 

1、二つの動き

 

虹色の鳥が舞い降りた先は、がらくた島。

部屋の中に飛び込んできた鳥を迎えたシェンナは、容易ならざる事態の到来を悟っていた。

見る間に鳥は、岩のような異形へと姿を変えていく。

魔王セルドレス。

シェンナの、古くからの知り合いである。

「何かあったのかい」

「俺の同僚が暴走してな」

それだけで、だいたい事態は分かった。この世界に魔界の者達が来ている事を、シェンナは知っている。

その中の一人、知恵の魔王と言われるソロモンは、昔から手段を選ばない。今回も、大魔王に釘を刺されているにもかかわらず、かなりの強攻策を実行し続けていた。おかげで、マローネが随分苦しい思いを、本来は不要な所でしている。

「あの陰険老人、今度は何を?」

「出兵したモルト伯を、雪山に封じ込めた。 しかもサルファーのしもべEタイプを、けしかけた」

「な……」

「今、そちらに向かっているマローネに経験を積ませようという意図なんだろう。 だがな……」

ソロモンはやり口が過激すぎる。

モルト伯は、対サルファーとの戦いで、主力となり得る戦力を動かせる、この世界でも数少ない徳人だ。カオスで薄闇に包まれているこの世界で、珍しくシェンナでも尊敬できる男であり、古くからの友人でもある。

シェンナは腕組みすると、すぐに雑務を常に担当しているムラサキを呼んだ。

そして、マローネへの手紙を手配させる。マローネは既に動き始めていると、セルドレスの部下からいち早く報告があったので、途中で此方に寄らせなければならないだろう。

「どうするんだ?」

「モルト伯には、フォックスがついている。 それに入念なモルト伯だ、耐寒装備くらいは充分に用意して出征しているはずだね。 数日くらいは余裕を持って支えることが出来るだろう。 無理をして撤退戦をしようとしたりしなければ、充分にね」

「ソロモンの野郎が、余計な事をしなければ良いが」

「所詮悪魔の謀略だ」

人間の世界では、こんなものなど序の口に等しい。それほどに高度で邪悪な謀略が、日常的にまかり通っている。ソロモンの場合は、単純に力が大きいので、損害が大きくなる傾向があるだけだ。実行している謀略自体は、児戯に等しい。

セルドレスもそれは分かっているらしく、シェンナに反論はしなかった。

ムラサキがボトルメールを手配している内に、シェンナは準備をしておく。コールドロンにも声を掛けておいた方が良いだろう。

セルドレスはどうするか。

まだ、姿を秘しておいた方が良いだろうか。少し考え込んだが、大魔王の方針としては、決戦の直前までは秘匿を貫いた方が良い、であったはずだ。それならば、魔界と歩調を合わせた方が良いだろう。

「セルドレス、あんたは隠れていてくれるかい?」

「ああ、餅は餅屋ってな。 あんたなら上手にやってくれるって信じているぜ」

「……」

上手にやる、か。

昔は、シェンナは非常に不器用だった。だからこそ、マローネに心が動かされるのかも知れない。

あの子は孤独で臆病だ。強い人間だったら、好かれようなどと思わずに、自分の道を行こうと考えるだろう。

あの子は違う。第一に、皆に好かれたいというものが心にある。

それは弱さだ。多くの考え方があるこの世界で、誰もに好かれるなどという事はあり得ないのだから。

だが、それでも。シェンナは思うのである。

少なくとも、幸せにはなって欲しいと。

コールドロンはすぐに来た。たまたま側の島にいたという話だが、実際はマローネの名を聞いて、飛んできたというのが正解だろう。

ファンクラブなどと言うものを作って、活動を開始しているコールドロンである。以前、マローネの戦いを見て考えが変わったらしく、今ではすっかり彼女のシンパであった。裏社会の顔役が子供に入れ込んでいるという声もあるようだが、コールドロンはそう言う意味で、マローネより強い。悪評など、気にもしていない様子だ。最もこの男は、悪評で出来ているような存在でもある。今更、なのかも知れないが。

側には、最近いつもコールドロンとつるんでいるキャナリーもいる。寡黙なクロームは、マローネのファンクラブにおける実働部隊として、いろいろな島でコールドロンの部下達と一緒に活動している様子だ。もちろん、コールドロンの用心棒としても、活躍しているようだが。

「シェンナはん、久しぶりやな。 で、マローネちゃんは? どこや、どこにいるんや?」

「落ち着きな。 今、この島に来るところだ」

「楽しみだなあ」

「鼻の下が伸びているぞ」

キャナリーの指摘に、わかっとると言いながら、コールドロンは相変わらず派手なシャツの襟を直す。

大事そうにコールドロンが取り出したのは、小型の杖だ。マローネは今でも腰に護身用のククリだけを付けて戦っていると聞いて、魔力増幅用に準備していたものだと、コールドロンが自慢げに説明する。マローネは基本的に他人をいやがらない。

ただ、プレゼントを受け取るという話は、聞いたことも無い。断られるんじゃあ無いかと、道中ずっとコールドロンは心配していたらしい。闇世界の帝王が、その一方でとんでもなく子供っぽい所がある事は知っていたが、シェンナは内心呆れた。

ほどなく、マローネが来る。

かなり急いでいるらしく、マローネは小走りで来た。

「シェンナさん、急用って……」

「久しぶりやなあ、マローネちゃん」

「あ、お久しぶりです。 コールドロンさん、キャナリーさん」

やはり、マローネは因縁浅からぬコールドロンをいやがらず、しっかり丁寧に礼をした。うわべだけではなく、コールドロンを本当にいやがっていないのが、すぐシェンナには分かった。

マローネも子供とは言え、いっぱしのクロームだ。コールドロンがどういう人間かは分かっているだろうに。それでも差別はしない。

この子は正真正銘の善人で、それでいながらすれていないという、希有な存在だ。だからこそに、シェンナは思う。

なんとしても、此処でサルファーを叩き潰したいと。

このような子が、悲劇に遭う未来を避けるためにも。

「ワシの用からでいいか?」

「好きにするんだね」

「そうかそうか。 マローネちゃん、これ、プレゼントや」

「えっ……? いいんですか?」

マローネは杖を受け取り、しばらく眺め回していた。小さな声。コンファインしてくれると聞こえた。

頷いたマローネが、側の花瓶に手をかざす。

シェンナの目の前で、花瓶が小柄な女に変わる。格好から言ってネフライトの魔術師か。そういえば、マローネの側に、性格が最悪だが腕利きのネフライトがいると聞いている。この女のことだろう。

女はマローネから杖を受け取ると、上から下から眺め回す。

「良い杖だ。 マローネちゃんにあわせて相当に調整されてる。 使えば魔力の増幅もたやすいね」

「でも、良いんですか、コールドロンさん。 こんな高そうなもの……」

「なに、ワシにとってははした金や。 それくらいでマローネちゃんが喜んでくれるなら、安い買い物やで」

「受け取って欲しい。 以前助けてくれた礼でもある」

キャナリーも説得して、マローネは少しためらった後ではあったが、それでも杖を受け取った。

小さな杖だが、全体は銀細工がなされている上に、魔力増幅用の機構が彼方此方に組み込まれている。問題は、膨大なマローネの魔力にどれだけ耐えられるか、だが。まあ、見たところ、現時点では大丈夫だろう。

続いてシェンナからだ。

「もう知っているようだが、私の古い友人が、今危機に陥っていてね。 助けに行って欲しいんだが」

「そのお友達は……」

「モルト伯だよ。 ただ、私が頼んだことは、内緒にしていてほしい」

「!」

マローネの反応は分かり易い。

以前、何度かマローネはモルト伯から仕事を貰ったことがあると聞いていた。つまり、モルト伯の人柄に接しているという事である。

マローネも、モルト伯を嫌っていなかったという事だ。

「すぐに行きます。 準備は、もう整えてありますから」

「頼むよ」

マローネはすぐに島を飛び出していった。

それにしても気になるのは、どうしてこうも早くイヴォワールタイムズが、モルト伯の遭難を掴んだか、という事だ。

満足そうな顔で出て行ったコールドロンとキャナリーは放っておいて、幾つかのつてから情報を洗う。

そうすると、すぐに分かった。

情報屋の一人が教えてくれたのだ。妙な動きをしている記者がいると。

記者の名前は、フィルバート。

どうやら以前から、マローネに対する記事を何度も書いている人物であるらしい。

「話は終わったか」

「ええ。 仕込みは終了。 マローネの足を一時的に止めて、その間に手は打っておいた」

「流石だな。 それで、俺はどうすればいい」

「必要ないとは思うが、ソロモンの足止めをよろしく。 マローネにこれ以上干渉されると、あの子の心が壊れる可能性がある。 今後、ソロモンの陰険爺が、マローネに手を出せないようにしてくれ」

おそらく、ソロモンは自分の基準でマローネを育てようとしている。それは修羅の世界、魔界の価値観でだ。

だが、人間は悪魔ほど単純では無い。

もしもマローネの心が、おかしな方向にねじ曲がったりしたら困る。この世界にとっての希望の一つが、潰えてしまう。

悪魔達は、人間の事が分かっていない。

彼らはある意味幸せな種族だ。力を第一に考え、それが故に平穏でもある。強いモノに従う。相手を従えるために強くなる。それだけで価値観が完結している。コミュニケーションにおける言語の比重の低さも、それを更に助長しているとも言える。

人間は、ある意味悪魔よりはるかにタチが悪い種族だ。それを理解しないと、ソロモンはこの世界の害悪になりかねない。

「分かったよ。 まあ、俺のレベルはソロモンより少し上だ。 足止めはさほど難しくないだろう」

虹色の鳥に変わると、セルドレスは消える。

腕組みして、シェンナは考え込む。まだ、何か手が足りていないかも知れない。しばらく思考を泳がせた末、シェンナは結論した。

「そろそろ、表に出るときかねえ」

「いいのか?」

「今、この世界に来ているサルファーの強力なしもべは三体。 そのうち一つが、この間倒された。 そしてまた今、マローネともう一つがぶつかろうとしている。 ならば最後の一体が、現れる可能性も高い。 そしてそれが潰されれば、サルファーの側近と、それにサルファー自身が此処に現れる」

「そう言われれば、潮時かも知れねえな」

サルファー自身がどういう切っ掛けで出現するかは分からない。

もしもの時は、魔島に足を運ぶ必要も出てくるだろう。おびき寄せるエサとして、だが。

とうにこの命は捨てている。あのときに。

激しい戦いをくぐり抜けた今となっても、根本的な決意は変わっていない。今更子を産む機会も無いだろうし、シェンナがこの世界で出来る事、するべき事は、あまり残ってはいなかった。

 

雪山で、ウォルナットは拳を見つめていた。

凄まじい破壊力だ。しかも、今までに比べて負担が著しく少ない。ソロモンとか言う悪魔と組んだのは正解だった。

奴が言うままに雪崩を起こした時、ウォルナットは自分の得た力に酔いそうになった。だが、それでは駄目だ。

ウォルナットの目的は、あくまで別の所にある。

そういえば、奴から貰った道具のおかげか、これだけの吹雪でも、何も寒くなかった。雪がただの邪魔なもの程度に感じるほどである。

「見事だ。 潜在能力を一気に巧く扱えるようになったな」

「ふん、たいした技術だな。 これを使ってさっさとサルファーをぶっ殺せばいいんじゃないのか?」

「サルファーは、我々悪魔ではどうやっても倒せん。 恐らく天使でもな」

吹雪の中から、件の魔王ソロモンが姿を見せる。

今のウォルナットでは、まだまだ勝てない相手だ。だが、そのソロモンでも、サルファーには勝てないと断言する。

一体この世界は、何に目をつけられたのだろう。

魔界の噂は、ウォルナットも聞いている。とんでも無い猛者達がしのぎを削る人外の地だという。

其処から来た悪魔達の長、魔王でさえ、サルファーには手が出せないというのなら。一体奴の正体は、何なのだろう。

まあ、どうでも良いことではある。

ウォルナットにとって重要なのは、カスティルを守ること。パーシモンも死なせたくは無いが、どちらにしてもこの世界の命運などには興味も無い。

サルファーなど、どうでもよいのだ。

ただ、この力は有益だ。あの悪霊憑きに一泡吹かせることも、この力ならばたやすいだろう。

「さて、此処は引き上げるぞ」

「何だ、あの軍隊と戦ったりしないのか。 或いは悪霊共を駆逐したりは」

「不要だ」

そういえばこの老人、少し前に上司である大魔王に釘を刺されたと聞いている。それで、派手な動きは避けたいのだろう。

だが、ウォルナットは見た。

確かその目付役が化身した虹色の鳥が、遠くを飛んでいるのを。これは恐らく、この老人の行動は筒抜けになっている事だろう。

そうなると、出来るだけ早く鞍替えをした方が良いかもしれない。

力をくれた恩はある。だから後ろから刺そうなどとは思わないが。破滅していく様子を見て、救いの手を伸ばさない程度の事はしても良かった。

モルト伯は、意外と善戦している。大暴れしているのは、死人使いのフォックスか。奴の呼び出した死人共が、悪霊を片っ端から薙ぎ払っているようだ。だが、悪霊の数は尋常では無い。周囲は完全に包囲されている。

鼻を鳴らすと、ウォルナットはその場を離れる。

他人は全て踏み台だ。

死のうが生きようが、ウォルナットにはどうでも良いことだった。

 

2、遮断された道

 

海が凍っていた。

流氷という現象については、マローネも知っていた。だが、これは流氷とさえ、一つ次元が違っている。

完全に海が凍ってしまっていて、その上を歩くことさえ出来るのだ。

非常に厄介な状況である。船がいらない、などという巫山戯た話では無い。船で移動できた距離を歩かなければならないし、何より危険が大きい。

此処にボトルシップを残していくと、どこに行ってしまうか分からない。かといって、ボトルシップを担いでいくのも無理だ。

幸い、前回砂漠で使ったそりがある。

そりを下ろして、ボトルシップを皆で乗せる。かなりの重量はあるが、それでもどうにかできる。

バッカスが引きずると、ボトルシップは動き始めた。羅針盤を見ながら、氷の森林島の方へと急ぐ。

所々、氷が浅くなっている場所があった。

氷を砕ける船が通った後だろうと、バッカスと並んでボトルシップを引きながら、ガラントが言った。

「軍船の中には、その程度の性能があるものは少なくない」

「すごいですね。 伯爵様の船かしら」

「モルト伯は相当な戦力を揃えているらしい。 可能性は高いだろうな」

ハツネは船の上に上がって、周囲を警戒してくれている。

一面が凍った海の上だ。身を隠す場所もないし、何より照り返しで視界が覆われてしまっている。この間砂漠で使ったゴーグルが、そのまま役に立つほどだ。しかも、所々に恐ろしい氷の裂け目が存在している。クレバスというらしいのだが、転落したら一環の終わりである。クレバスの下は海に直結している場合も多い。この凍った海に落ちたりしたら、ほぼ即死である事は、マローネにも分かる。

パレットが船の中で、コリンと何か相談していた。コリンだけなら嫌な予感しかしないが、パレットも一緒なら大丈夫だろう。

「マローネおねいちゃん。 後ろの推進器を噴かせると、少しはバッカスさんの負担が軽減できるかも」

「本当? でも、大丈夫かしら」

「シンパイダナ。 チョウセイハデキルカ」

「あたしがやるから平気」

コリンがパレットを抱きかかえるようにして、座席に着いた。

ボトルシップの駆動系が動き出す。確かに見ていると、ガラントとバッカスが、引きやすくなったようだ。マローネも一緒に引こうかと思ったが、ガラントがそぶりを見ただけでやらなくて良いと言った。

「マローネ嬢は船の上に。 力を温存しろ」

「でも……」

「此方だ。 司令塔は周囲を見ておくのも仕事になる」

ハツネが手を伸ばしてきたので、諦めて引っ張り上げられる。

カナンはコンファインされず、後ろの座席で足をぶらぶらさせていた。暇そうにしているのかと思えばそうでも無く、何か考え事をしているようだった。

そういえば、カナンがコリンと話をする回数は、以前に比べてかなり増えているような気もする。

カスティルの病を癒やす何かのヒントが掴めているのなら良いのだが。そう上手く行くだろうか。

遠くまで、真っ白だ。方角を時々確認しているが、それでも今どこにいるか分からなくなりそうである。恐らく海路を行く知識が無ければ、確実に迷子になってしまうだろう。しかも、島に近づくにつれて、どんどん天気が悪くなってきた。

ついに、雪が降り出す。

「コリンおねいちゃん、ゆき! ゆき、すごい!」

「大丈夫、といいたいけれど。 こりゃあ少しまずいな……」

此処の状態がまずいとコリンが言っていないことくらい、マローネにも分かる。此処でこの有様なのである。島にまで辿り着いたら、どのような惨劇が待ち受けていることか。イヴォワールタイムズでは、積雪は人間の背丈をゆうに超えていると恐ろしいことが書かれていた。

すぐに、雪が吹雪になる。

冷気緩和の術式で守っていなければ、あっという間に氷像だ。

しかも事前に調べたのだが、この島は集落が独特の構造を保っている。普通、どの島も港と集落を一体化させているのだが、此処は違うのだ。

理由はいくつかあるらしいのだが、その一つ。元々この近辺の海は、船が乗り入れるのに、そもそも適していないらしい。海流の関係や、浅瀬の多さなどもあるのだが、熟練の船乗りでも事故を起こす可能性が高いそうだ。

だからこの島では、港が発展しなかった。

逆に言えば、そんな環境でさえ、住み着くヒトのたくましさに驚かされるという点も、またある。

遠くに、大きな島影が見えてきた。

同時に、停泊している船影。現在、弱体化している軍が傭兵団に勝っているのが、数と船の質だとマローネは聞いたことがある。あの大きな船は、どれも白狼騎士団が使っていたものよりも大きい。

つまり、軍の船だ。

見ると、ボトルシップでありながら、先端部分に鋭い角のようなものを付けている。衝角というらしく、氷を砕いたり、海戦で相手の船に穴を開けたりするそうだ。

既に、吹雪は酷い有様となっている。視界もろくに確保できない状況だ。

島全域がこの状態だと、補給もままならないかも知れないと思っていたのだが。これは或いは、どうにか出来るかも知れない。軍が先に来ているのなら、補給物資を分けてくれる可能性もある。

「おーい! おーい!」

手を振って呼びかける。反応はしばらく見られなかった。

至近まで近づいて、納得である。全員が耳を分厚い毛皮のフードで覆っていたからだ。マローネが側まで来て、驚いて顔を上げる兵士の姿が目だった。これでは、敵に接近されていたら、どうなっていたことか。

「貴方は、悪霊憑き……!」

「よせ」

兵士達が色めきだつが、その中で、司令官らしい人が来る。ウサギリス族の老人であり、モルト伯ほどでは無いが相当の高齢だった。着込んでいる格好良い鎧や、たくさんぶら下げている勲章からも、指揮官だろう。

何度か咳き込むと、老人は分厚い眉毛に隠された目で、マローネをしげしげと見つめた。

「貴方の噂は聞いている。 私はアクアマリン地方軍のネセセウ将軍。 増援に来てくれた、と考えて良いのだろうか」

「はい。 遭難したと聞きまして。 伯爵様にはお世話になっていますし、駆けつけてきました」

「……そうか」

言葉の間に、不安と観察が混じっているのが、マローネには分かる。この人は、長い間軍人として活躍し続けてきたのだろう。

この世界で、軍人は肩身が狭い。

サルファーの襲撃で活躍してきたのは、九つ剣や傭兵団だ。コリンがいう随分前の襲撃で、彼方此方の国家が瓦解してから、軍隊は力を失ったらしい。有能なヒトは、現在では軍には行かず、クロームになったり傭兵団に入ったりする。

そんな中、長い間誇りを持って軍人をしていくのは大変なはずである。

「今は戦力が欲しい。 此方に来なさい」

「はい!」

ぺこりと頭を下げるマローネを見て、将軍は無反応だった。まだ、マローネを見極めようとしているのかも知れない。

船に入れて貰う。中では、兵士達が忙しそうに行き来していた。

ガラントをコンファインすると、周囲がどよめく。彼らを一瞥すると、ガラントが腰をかがめて、耳打ちしてくる。

「兵士達の練度が低い。 共同作戦は難しい」

「やはり、そうなんですか」

「今回は我らだけで突破することになる。 情報と物資だけ貰ったら、さっさと此処を離れるぞ」

ガラントの発言は冷酷なようだが、兵士達を思ってのものでもある。

此処からは強行軍になる。修羅場をくぐった経験は、一応マローネも、此処の兵士達よりはマシだろう。

それを考えると、練度の低い兵士達をつれてはいけない。

守りきれないからだ。とくに、最近たちの悪さを増している悪霊達にとって、練度の低い兵士など、ただのエサに過ぎないだろう。

会議室に入る。船の中もかなりスペースが広く、移動には苦労しなかった。船はとても良い。

だが、それを動かしている人間は、皆二流三流だ。会議に参加させられたが、それも長いばかりで、何の実も無かった。

マローネが見ている前で、どの部隊が前線に立つかで、隊長達が不毛な議論をしている。しかも内容は、雪崩で埋まった道をどう掘り返すか、に集約されている。

その雪崩が、明らかに人為的に起こされたのにである。

とうとうたまりかねたのか、ガラントが咳払いする。その眼光は、とても周囲の経験が浅い兵士達に、対抗できるようなものではなかった。

「無駄な議論は止められよ。 雪崩が人為的に起こされた以上、それを掘り返しても無駄だと思わぬか」

「しかし、迂回路は遠くて……」

「ならば、我らが先行する。 精鋭だけでも同行して貰いたいところだが、此処にいる部隊の練度では話になるまい。 物資だけは渡してくれれば、それでモルト伯を救出してくるが、どうか」

不快そうに隊長の一人が目を背けた。

マローネはどうしようかと思ったが、兵士達をあまり酷く言うのも気の毒に思える。

「ええと、それならこうしましょう。 私達が迂回路を行きますから、皆さんは雪崩で埋まった道をどうにかして貰えませんか?」

「ふむ、それも手か」

「将軍!」

「実際問題、此処にいる部隊の練度では話にならんよ。 さっきもマローネ殿がすぐ側に来るまで、誰も気付かなかったというでは無いか。 吹雪の中で悪霊とこれから戦わなければならないのだぞ?」

将軍は立ち上がると、マローネに物資を分けること、雪崩で埋まった道を掘り返すこと、この二つだけを周囲に命じた。

それでも部隊長達は、誰がどこを担当するとかで揉めていたので、もうマローネは会議室を出た。

船を出ると、再び吹雪のただ中に。

毛皮のコートを被り直す。コリンをコンファインして、冷気緩和の術式を張り直して貰う。

「やれやれ、あたしが生きていた頃と随分違うなあ」

「コリンさんが生きていた頃は、軍隊はまともだったんですか?」

「そりゃあね。 まあ、人口が今よりずっと多かった、って事もあるんだけど」

地面に降りる。

雪に埋もれそうだ。こんな異常な雪がずっと降っているのなら、確かに人は住めなくなってしまう。

先ほど地図で確認したが、迂回路は此処から南。

この島にある二つの山の一つ、それをぐるっと回り込んで、モルト伯がいる村を目指すことになる。本来だったら山を丸ごと回り込むという、あり得ないルートだが。昔から村に住んでいる人達は、緊急路として使っていたそうだ。

このルートは未開発の雪原を行くことになる上、雪崩に巻き込まれる危険もある。ガラントは皆を集めて何か話していた。アッシュが時々、待ってとか、それは困るとか、言っている。

不安がふくれあがる前に、話は終わった。

「行くぞ、マローネ嬢」

「はい。 やはり迂回路を?」

「この吹雪では、ヴォルガヌス老の目も役にたたんから、不安はあるがな」

アッシュは、どうしてかずっと黙り込んでいた。

きっとマローネに危険がある作戦が提案されたのだろう。それは、言われるまでも無く、推察できた。

しかし、ガラントは勝算が無い作戦を提案しない。今まで彼の指揮によって、どれだけ勝ちをもぎ取ることが出来たか。だから、作戦指揮面でのガラントを、マローネは全面的に信頼している。

アッシュの感情論も嬉しいのだが、それよりも、今は多くの人達の命が掛かっているのだ。

港にボトルシップを置き、そりに荷物を載せて、此処からは強行軍を開始する。どこまでも続く雪原は、既に容赦の無い吹雪で、全面白く覆われていた。

しかも右手には、いつ雪崩が起きてもおかしく無さそうな山。

「雪崩を使っての退路遮断は、当然の戦術だな」

「人間同士の争いならそうですけれど。 悪霊達に、そんな知恵が備わっているなんて」

「知っての通り、奴らはどんどん知恵を付けてきてるからねえ。 空間転送を利用した機動戦を仕掛けられたのを忘れたのかな、アッシュちゃん」

「それを言われると弱いですけど」

コリンは術者だが、ガラントの話に普通についてきている。

ハツネはと言うと、そりの上に陣取って、ずっと山の様子を見ていた。今、脅威になるのは悪霊による強襲と、何より雪崩だ。そのうち一つを、監視してくれているのだろう。吹雪の中だが、彼女には何かしらの手段で見えているのかも知れなかった。

吹雪が、更に酷くなってくる。

「孤立しているのは二個中隊という話だが、術者が数人で耐えられるかなあ」

「シェンナさんの話だと、伯爵様はきっと備えているって……」

「サルファーの襲撃を二回も経験しているし、それくらいは大丈夫か」

「待て、止まれ」

ガラントが声を落とす。

見ると、川があった。ただし、水は完全に凍っている。川と分かったのは、其処だけ積雪が少なかったからだ。

腰を落として、ガラントは川を見ていた。

何かあるのかも知れない。

「コリン、術式による探査を」

「いや、どうもその必要は無さそうだよ?」

全員が、戦闘態勢を瞬時に取る。

積もっていた周囲の雪から、一斉に飛び出してくる影。

いずれも怪物ばかりだ。マンティコアが数体、キノコの怪物、それにスライム種に、他雑多な怪物達。

おかしいのは、いずれもがこんな積雪には耐えられないような者達ばかりという事だろうか。

「サルファーの影響? 何だか様子が……」

「雪崩を誘引するとまずい! 速攻で、できる限り静かに仕留めるぞ!」

周囲から、一斉に躍りかかってくる怪物達。

明らかに正気を失っている様子は、何だかもの悲しかった。

 

斬り伏せた怪物が、すぐに熱を失っていく。マンティコアの巨体も、この自然の猛威の前では、ひとたまりも無い。

ガラントが剣を振るって血を落とす。

アッシュも構えを解いた。既にハツネは、視線を山に戻している。

襲撃はこれで七度目だ。いずれもが此方の勝利に終わったが、消耗は決して小さくない。多数の悪霊を相手にしてきたとは言え、限界もあるのだ。

幸いと言うべきか。

コールドロンから貰った杖を手にしていると、だいぶ消耗が小さくなっているような気はする。

この気候である。最悪、砂漠で戦ったような、超弩級の魔物との戦闘も想定しなければならないだろう。その時に備えて、力を温存しているのは、決して無駄では無い。

雪の中、棘のような木が無数に生えている。本来この島は、針葉樹が無数に生えている、森林資源が豊富な場所であったらしい。

だが今では、その木が丸ごと凍り付けになってしまっている。

如何に寒さに強い木でも、これでは耐えられないだろう。森林資源も、生態系も、全滅に等しい打撃を受けているはずだ。

アクアマリン地方でも最も寒い島になると、殆ど木も生えていないという。其処がどうなってしまっているのかは、恐ろしくて考えられない。

それに、この辺りで、此処まで怪物が凶暴化しているとなると。

魔島では、一体何が起きているのか。

「これは、縦深陣では無いのか」

「可能性はありますね。 しかし、流石に其処までの知恵は……」

「猛獣の中にも、知能が高い奴には、罠くらいは駆使する連中がいる。 ましてや、この間の機動戦や砂漠での消耗戦を見る限り、サルファーのしもべには、それくらい出来ても不思議では無いだろう」

「……そうだね」

コリンが、不意に二人の話題を遮った。口元に指を当てて、黙るようにしぐさを見せる。そりを引いていたガラントが止まった。ガラントも、山の方を見ていた。

この地形は。

山から見ると、丁度雪崩が起きたとき。その雪の勢いが、最大限の力を保ちながら、全力で流れ込んでくる。

もしも、此処に誘い込まれたのだとしたら。

「いかん! 雪崩が来るぞ!」

「ノレ!」

マローネを、強引にバッカスがそりに乗せ挙げる。そして、全力で皆が走り出した。コリンがそりの上に飛び乗り、詠唱を開始。

ドゴンと、凄い音。

同時に、山から、地鳴りのような恐ろしい響きが轟き始めた。間違いない。敵は此処に、此方を誘い込んできたのだ。

全力で駆ける。

少しでも遅れれば、一瞬で白い暴力に飲み込まれてしまうだろう。その破壊力は、小さな村くらいなら瞬時に壊滅させてしまうはず。

まるで津波のようだ。膨大な雪が、巨大な怪物のごとく襲いかかってくる。

もう、後方にその余波が見えてきた。手だ。白くて、恐ろしい手が。地面を這うようにして、全てを砕きながら迫る。

息を呑みながら、マローネは皆を信じる。だが、今こそ、試すべき事がある。

「駄目!」

コリンが、ヴォルガヌスを呼び出そうとしたマローネを制止。そして、珍しく冷撃系の術式をぶっ放していた。

後方に、巨大な氷の塊が出来る。

それは雪の勢いに押されて転がりながらも、後から来る奔流のような白い殺意を分断し、左右に分ける。

其処へハツネが、爆発するタイプの矢を、連続して叩き込んだ。雪の流れが、わずかに変わる。

バッカスが、大きく口を開いた。

もう、至近まで雪が迫っている。それは洪水のように、マローネの全身を打った。今、コリンが放った術式が間に合わなかったら、全員が怒濤に飲み込まれていただろう。

視界が真っ白になる。

雪から顔を出して、深呼吸。

結局埋もれた。だが、致命的な雪の圧力で、全身が潰されるのは防いだ。

バッカスも顔を出す。ガラントと協力して、そりを引っ張り出す。マローネの後ろで、ハツネが雪から顔を出していた。

「この世界でも、なかなかに自然は猛威を振るうものだな」

「魔界の雪も、これくらい凄いんですか?」

「これが平均だ。 ただし、魔界の悪魔達は体が強いから、この程度は苦にしないが」

「良くこらえたね。 ヴォルガヌスをコンファインしていたら、多分その場で仕掛けられていたよ」

マローネの手を引いて、コリンが雪から引っ張り出してくれる。続いてハツネも引っ張り出す。

押しつぶされた痛みは、さほど無かった。カナンが手早く診察してくれるが、大丈夫だという。

毛皮についた雪を払う。

吹雪は相変わらず、此方を嘲笑うように吹きすさんでいる。まるで獣の唸り声のような吹雪は、単純に恐ろしい。

その向こうに、恐ろしい策謀を企んだ魔物がいるのは、疑いの無い所であった。

恐らく今回相手にしなければならないのは、今まで戦った魔物の中でも、最強の相手だろう。

戦慄するマローネ。その側には、ずっとアッシュがたたずんでいた。

 

ようやく、北上を開始する。

二つある山の、西側に回り込めたのだ。此処から北上して、更に山裾をなぞるように進み、東に出ると、モルト伯がいる村に出る。

ビバークを途中一回行ったが、寒さがそろそろ洒落にならなくなってきている。最悪なのは、コリンしか寒気遮断の術式を使えないことだ。

つまり、コリンが戦闘不能になったら、詰む。

パレットやマローネも術式を教わっているし、使えることは使える。だが、これほどの精度では無理だ。コリンは大魔術師の名を恣に出来るほどの術者であり、その代役はとても務まらない。

マローネの魔力は、生前最盛期のコリンを既に超えているという話だ。

だが、魔力だけ大きくてもどうにもならないのである。術式の組み方、繊細な制御、それに何より、魔力を操作するセンスがものを言う。マローネは魔力容量が大きいが、それらに決定的なほどにセンスが足りていない。

「コリンさん、まだ大丈夫、ですか?」

「戦闘をこなしながらだと、あと丸一日が限度かな」

「マローネ、コリンさんから代わった場合は?」

「私だったら、四刻も保たないわ」

アッシュが悔しそうにうつむく。

そりの進みから言って、あと一日以内に、村につける保証は無い。更に言えば、これから先、相手の妨害が激烈になるのは必至だ。

山の向こうで、時々激しい光がちかちかと瞬いている。

吹雪の向こうから見えるくらいだから、相当な使い手が暴れているのだ。そういえば、モルト伯が腕利きを伴ったと聞いている。知っている人なら良いのだけれどと、マローネは思う。

いずれにしても、今は足を動かす。

雪まみれの靴は、中に水がしみないように工夫されているから、重い。水がしみなくても、汗は外に出て行かない。それが凍れば、凍傷一直線だ。凍傷になれば、指くらいは簡単に落ちて消える。

ハツネが警戒を呼びかける。

頭上、左右、後ろ。立体的に出現した無数の悪霊が、一斉に襲いかかってきた。雪崩を突破した頃から数えても七回目だ。

しかも、全滅するまで戦うようなことは無く、ある程度此方の力を削ると、さっと引き上げていくのである。

それだけではない。ガラントやバッカスには目をくれず、明らかにコリンを狙ってきている。ハツネが射落としながらガラントの支援を待つ状態になると、すぐに引く。奇襲がいつ来るか分からないので、気が休まる暇が無い。

「あたしモテモテ」

冗談めかしてコリンは言うが、既に洒落にならない状態である。

的確な波状攻撃に加えて、恐らくこれは待ち伏せしている。素人であるマローネにも分かる。

先ほど、縦深陣かという話が出たが、それも可能性が高い。これから村に近づけば、更に敵の密度は増していくだろう。ひっきりなしに奇襲を受けて、どこまで持ちこたえられるのか、分からない。

一旦、ガラントが手を振った。

足を止めるという意味である。雪崩が来ない位置にビバークの準備を整えると、寒気緩和の術式を最小限に抑えて、皆で会議に入る。

このまま進むと、かなり危険なことは、マローネにも分かる。

それにしても、兵士達を連れてこなくて良かった。足手まといになるだけだっただろう。能力以上に士気も低かったからである。

せめて、賞金ランキング上位に食い込んでいる傭兵団がいてくれれば、多少は助かったのだが。

ガラントが地図を広げる。

運んできた現在位置を測定するための様々な道具から、今の場所は分かる。

この島は、二つの大きな山があり、それが島のほぼ中央部に、ほぼ南北に並んでいる。マローネ達が通っているのは、その南側の山。そして山の間にある道が、本来は島の主要交通路だ。

だがそれは雪崩で塞がれた。

今は山をほぼ迂回し終わり、東に少し進めば村に出られる。村での戦闘の様子は、此処からも見ることが出来る。つまり、それだけ接近しているという事である。

だが、この激しい敵の抵抗は、尋常では無い。このままだと、村に接近しきる前に、削り倒される可能性がある。

逆に言えば。

村にまで到達できれば、未だ抵抗しているモルト伯麾下の精鋭と合流し、一気に反転迎撃が可能だという事も意味していた。

「我々が敵の目を引きつけている間に、主要道の復旧が終わっていれば良いのだが、まあ其処までは望めまいな」

「恐らく、だけどね。 此処の島にも、この間の干涸らび島みたいに、超弩級のがいるよ」

コリンが、どうしてかわざわざわかりきったことを言う。

ハツネは会議に参加せず、ビバークの入り口付近で、外を見張っていた。ヴォルガヌスも、万が一に備えて、外で寝そべってくれている。とはいっても、霊体で、だが。

「村は釣りエサの可能性も高そうだけど」

「それでも行きます」

コリンが舌を出した。マローネの決意に水をさせないと理解したからだろう。

ガラントは地図をじっと見つめる。

アッシュが幾つか質問をするが、それにてきぱきと答えていく様子は流石だった。

「このまま東にまっすぐ進むのは、危険ですか」

「最悪の場合、さっきのように雪崩を起こして来るだろうな」

「くっ……」

「強引に突破するのも手だとは思いますよ」

カナンが涼しい目のまま言う。

この人は、滅多に過激な意見を言わないのだが。こういうことを言いだしたのには、当然理由がある。

マローネはしばらく考えた後、気付く。

おそらくは、村に孤立している兵士やモルト伯の体調を心配しているのだ。

カナンは医師だ。戦闘力を持つネフライトという以上に、まず患者を癒やすことを考える傾向が第一にある。

今、一番体調的に危険なのは、村で籠城している人達だろう。

それに、忘れられているかも知れないが、恐らくまだ村には民間人も残っている。彼らのことを考えると、一刻の猶予も無い。

「少し北上する」

ガラントが、軍から譲り受けた地図上で指を走らせた。

つまり、雪崩が起きたと思われる北側の山の裾まで移動する。距離はさほどでも無い。そこから、山裾を這うようにして東に行き、一気に村へ突入する。

雪崩による攻撃の危険を避けるためだ。それだけではないと、ガラントは言う。

「此処に川があるが、これを利用する」

「川を、ですか?」

「この寒さと積雪だ。 既に川面が破れる恐れは無い。 そりを乗せて、一気に村まで降る」

マローネに、ガラントが説明してくれる。

基本的に人間は、水が無いと生きていけない生物である。だから村は必ず水のある立地に作られるのだ。

現在は真水を魔術で製造する事が容易になった。マローネも真水を作る道具一式をおばけ島に持っている。

しかし、大勢の人間が暮らすとなると、やはり上水だけでは無く下水も重要になってくる。

そのため、川に沿ったところに、村は作られる。今回は、凍ってしまっている川が問題になっているが、それを逆利用するのだ。

更に言えば、吹雪が後押しもしてくれると、ガラントは言う。

「このルートに沿って、此処から川を下る。 山からの吹き下ろしの風も、我々の後押しになってくれるはずだ」

「うっは、たのしそ!」

目をコリンが輝かせる。この人は子供だ。マローネは苦笑いしたが、その分ハツネは青ざめていた。

マローネの安全は大丈夫だろうかと懸念を示すアッシュに、ガラントが舵を取ることを明言。

更にハツネが補助をする。速い乗り物が苦手な彼女だが、多分やってくれることだろう。そして、いざというときに備えて、コリンが術式でバックアップ。

ただし、負担が累乗的に増えるから、一気に村への突入を果たせなければ危険だ。

地図を見て、川の流れを判断。どの位置でどう曲がるかを、入念に打ち合わせる。一刻ほどの打ち合わせの後、方針は決まった。

「よし、こざかしい敵の裏を掻く。 今までは進撃速度の低下から、敵に先手を打たれてきたが、この辺りで巻き返すぞ」

「もし、相手に手を読まれたら、どうしますか」

「返し手は幾つか思い当たるが、いずれもそうそうに準備は出来ない」

されると困る手としては、たとえば川の途中に切れ目を入れられる、などだ。凍った川の場合、容易にそれが出来るだろう。

だが、よく考えると、今まで敵がやっているのは、単純な待ち伏せと兵力配置、それに雪崩の発生だ。

そこまで人間を知らない相手が張っている罠だというのは、冷静に考えれば分かる。

ビバークに使っていたかまくらから出る。そのまま、最大速度で、北上。

この戦いでは、速度が何よりも大事だ。

それは、戦闘の素人である、マローネにも分かることだった。

 

3、策略の渦

 

分厚い雲の中、それは漂っている。

セルドレスは既に発見していたが、敢えて放置していた。その姿は、全体で言えばおぞましい触手の塊なのだが、一双の耳に見えない事も無い。

無数の触手が蠢きながら、それは下界の情報を収集している。

サルファーのしもべ、Eタイプと名付けられている個体だ。

あの恨めしき破壊の権化サルファーには、下等な部下の他に、分身と呼べる強力な部下がいる。魔王クラスの実力を持つ場合が多く、今までに三百種ほどが確認された。

イヴォワールで確認されているのは、主に四種。

一種類は、その分身の中でも最も力が弱いタイプで、サルファーの写し身とでも言うべき輩だ。此奴はBタイプと呼ばれる。具現化が不完全なため、骨状の体に内臓をぶら下げているという、なかなかに猟奇的な姿をしている。このタイプは再生能力に優れ、しかも汎用性が高い。

30年前のサルファー撃退以来、魔島を中心にして出現が確認され、今までかなりの回数撃退されている模様だ。その多くは、スプラウトの手によるものである。

一方で、これ以上の存在となってくると、姿は安定している。その代わり、臓器一つ一つの姿をもしている事が多い。そして、気候を操作するなどの超絶的な力に加え、魔王クラスに匹敵する圧倒的な戦闘能力を有している。

既にマローネによって打ち倒されたIタイプは、目だ。

そして今、この島で異常気象を管轄しているのは、耳。他には、Mタイプと呼ばれるものもいるのだが、これに関しては今だ居場所が確認されていない。何度か姿は確認されたのだが、スプラウトに撃退されてダメージを受け、身を隠してからは発見できていないのである。

セルドレスが挑めば、Eタイプのしもべは倒せるかも知れない。

サルファー本体には悪魔の力は通じない。上級のしもべにも、力は通じにくい。だが、同じ魔王クラスでも、この程度の輩なら充分だ。

ただし、セルドレスは此処で仕掛ける気は無い。

大魔王にも言われている。決戦までに、可能な限りマローネを育て上げなければならない。

いうならば、奴をマローネのエサにするのだ。

そして、ソロモンが余計な事をするのを、此処で防がなければならない。

Eタイプはセルドレスに気付いている。だが、此方に対しては動きを見せない。恐らく奴は、人間を殺す事に特化したしもべ。

魔界に攻めてきた、悪魔を殺す事に特化した「戦闘タイプ」とは違っているのだろう。もっとも、戦闘タイプだからといって、Eタイプに比べて圧倒的に強い、というような事は無かったが。

ソロモンは距離を置いて、北側の山の上から監視している。

ふと気付く。その側に、人間の戦士がいる。この世界にいる剣士を一人配下にしている事は知っていたのだが。

それとは、別の存在だ。

焼け付くような炎の魔力を身に纏った、刃のように雰囲気が鋭い男。あれはひょっとすると、九つ剣に拮抗する戦力を持っているかも知れない。少なくとも、魔神クラス以上の実力はあると、セルドレスは見た。

さてはソロモンが生体改造したのか。あり得る話だ。この世界の人間を生物兵器化しないことは大前提として大魔王に指定されていたのだが。ソロモンはあっさり指示を破ったことになる。

あの陰険爺。

口中で呟くと、セルドレスは一旦Eタイプから距離を置く。

マローネがどうあれに対応するか。これから見極めつつ、ソロモンの介入を防がなければならない。

責任は、重大だ。

 

ますます吹雪が酷くなってくる。

フォックスは、矢継ぎ早にファントム達に指示を出しながら、状況のコントロールに努めていた。

今回持ってきたのは、いずれも自信作である。以前、砂漠での戦闘で悪霊に憑依されたベリルとの戦闘時のことを土台にし、様々な改良を加えた。

塔のような不死者は、全方位への間断無い攻撃が可能だ。ネフライトのファントム数体を憑依させており、回転しつつ精度の高い攻撃を実現する。はき出す火球は、魔力の塊だ。しかも頂点から周囲のマナを吸収しつつ、無制限の乱射を可能とする。

これは、無数にわき出す悪霊共に対処するための、基本火力となる。

そして、周囲で戦っている二体。

一体は狼に似た死人だ。無数の怪物の死体を組み合わせて作ったもので、塔による攻撃が討ち漏らした悪霊を仕留める。事実高速で村の中を動き回り、空間転移してきたり、火力の滝をくぐり抜けてきた相手を打ち倒している。

そして、もう一体。

巨大な人型をした死人である。これは強力なサルファーの部下が出てきた場合に対処する。パワーもスピードも段違いである。生前達人だったファントム達に意見を聞き、調整しながら作った。

ただし、これは動きを止めるためのものだ。

本命は此処には召還していない。

以前も用いた、大砲と呼ばれる死人がそれだ。フォックスの魔力を砲弾にして、敵を叩き込む。

この火力は、以前は自信があった。

だが、砂漠の戦いで、マローネの展開した火力を見て、考えが変わった。マローネに対する悪意はもう残っていないし、むしろ信頼感がある。同時に、乗り越えてやりたいという気持ちもある。

だから、改良に改良を重ねた。

今では、以前の数倍の火力を実現している。過剰な火力にも思えるが、伝承に聞くサルファーの力を考える限り、やり過ぎと言う事はないだろう。

塔が火球を放つ。空中で炸裂した火球は、衝撃波で敵を次々になぎ倒していく。

だが、横殴りに飛んでくる大粒の雪が、どうしても視界を塞ぐ。空中で炸裂する衝撃波が如何に敵を巻き込むとしても、塔だってその全体についている無数の目で相手を視認しているのだ。

また、無尽蔵に火力をばらまけると言っても、限界はある。

塔の真上には、対処できないのもその一つだ。

それを補うため、フォックスは自身で塔の頭上への攻撃は担当していた。だが、襲撃が六回目を数えた辺りから、だろうか。

悪霊は塔の真上から、雪崩を打って攻めこんでくるようになったのである。

一戦ごとに、連中は学習している。

兵士達も必死に弓矢を放って悪霊を撃退していたが、それにも限界が出始めていた。塔はかなり傷つき始めている。

念のため、三本の塔を用意はしてきてある。

その一本は、既に引っ込めた。死者を自在に移動できる能力を持つフォックスだが、最初からいない死者は、どうにも出来ない。

襲撃を、辛くも退ける。

魔術師達は、既にへたりかけていた。寒気緩和の術式が、どんどん弱くなってきているのが分かる。ローテーションで交代させているのだが、それにも限界があった。

石に座り、少しでも休もうと目を閉じる。周囲にはファントム達もいるし、奇襲は防げるだろう。

疲弊感が酷い。

モルト伯は接してみて尊敬できる男だと分かった。だが、それ以外はどうか。

特に、村に残っていた民間人は、どいつもこいつも、フォックスを差別してきた連中と同類だ。戦闘が始まれば勝手な理屈で逃げ回ろうとし、フォックスの死人を見ては悲鳴を上げてぎゃあぎゃあ騒ぐ。

マローネという娘に、フォックスは希望を見た。

だが、こういう現実を見せつけられると、やはりヒトはろくでもないものだと、思い知らされてしまう。

「フォックス、あれを」

「どうした。 ……ほう?」

顔を上げると、古参のファントムの一人が、指さす。

吹雪の先に、先からちかちかと瞬く光がある。或いは、増援が近づいているのかも知れない。

あり得る話だ。

雪崩で埋まった道を迂回して、此処まで増援が来ている可能性は高い。モルト伯は何かしら宛てがある様子だったし、傭兵団にモルト伯の部下が支援要請をしてもおかしくはない。

マローネだったら言う事はないなとフォックスは思った。今やマローネは、下手な傭兵団一つよりも、戦力的に頼りになる。何より、以前と違って、純粋に信用できるとフォックスは思っていた。

モルト伯が来た。部下達をこの困難な状況下で良く統率し、今のところ脱走する者は一人も出していない。

身勝手な村人共も、モルト伯には心酔している様子で、今のところ最低限の秩序だけは保たれていた。

「フォックス、すまんな。 君がいなければ、我々はとっくに全滅していただろう」

「何、仕事ですから」

「そうか。 誠実な奮戦、痛み入る」

腰が曲がった小柄なウサギリス族の老人。

それなのに、どうしてモルト伯は、弱々しく見えないのだろう。付き従っている老騎士も、状況を怖れている様子は全く無い。

サルファーの襲撃を二度も経験して、腰が据わっているのか。それとも、何か勝算か希望があるのか。

「誰か支援の宛てがあるのですか?」

「うむ。 勇者スカーレット様の使いを、戦いの前に見た。 きっと勇者様は、危難に駆けつけてくれるはずだ」

「スカーレット……」

「勇者様はまだ生きている。 私は確信しているよ」

勇者についての噂は、フォックスも聞いている。というよりも、モルト伯が掛けている膨大な懸賞金は、クロームの間でも傭兵団の間でも知らぬ者は無い。勇者捜しを生業にしているクロームさえいるほどなのだ。

だが、埋蔵金の類と同じく、現実感が無いとフォックスは思っていた。

倒しても倒しても現れるサルファーに、相当な打撃を与えたのである。無事で済むわけが無い。

これほどまでに、露骨なサルファーによる侵略があっても姿を見せないのは理由があるはずだ。これはフォックスの勘だが、戦闘不能なほどの怪我を受けているからでは無いのか。

まだ、九つ剣は健在。特に筆頭のラファエルは、以前戦闘を見た限りは超絶的な使い手だ。決してサルファーに、たやすく屈することは無いだろう。

だが、伯爵は、スカーレットが来なければ駄目だろうと判断しているらしい。それほどサルファーは、常識外の魔物という事なのだろうか。

敵の襲撃は、しばらく止んでいる。

おそるおそるという風情で、伯爵の部下が持ってきた薬湯を飲み干す。苦くてまずい。だが、ほぼ三日寝ずの戦いをしているフォックスには、これが千万の言葉よりもありがたかった。

「敵の襲撃がありませんが、引いてくれたのでしょうか」

「さてな。 大攻勢の準備をしている可能性もある」

兵士が安心を求めてすり寄ってくるが、フォックスは一蹴。

モルト伯は嘆息すると、フォックスに苦言を呈した。

「君が強いことは承知しているが、そのように突き放してはいかん。 誰もが君のように強いとは限らないのだぞ」

「伯爵様。 俺はそもそも社会から迫害され、はじき出された人間です。 悪霊憑きと呼ばれ、多くの差別も受けてきました」

今まで散々差別してきた連中に、どうして甘く接してやる必要がある。散々弱者として見下しておきながら、いざ危難になったらすり寄ってくるような輩は、一番不快だ。

そうぶちまけるフォックス。だが、モルト伯は、呆れるでも無く、言う。

「そうか。 君の強さと弱さが、それで分かった気がするな」

「……俺が弱いことは、承知しています」

「そうではない。 君は孤高の強さを持っている。 だが、世の悪徳に晒されてきた不幸から、自分の周りの全てを受け入れられなくなっている弱さも持ってしまっているのだろう。 何もかもを突き放す必要は無かろう。 誰か、信頼出来る者を造り、其処から信じていけば良いのだ」

マローネの、誰にでも対する笑顔と礼節を、フォックスは思い出していた。

あのように、フォックスはなれない。

若い頃は、サルファーが早く来て、世界を滅ぼさないかと思っていた時期さえあった。今はマローネの戦いを見て、少しは態度も軟化している自覚があるが。それでも、世間一般の人間に、シンパシーは一切感じない。

だが、伯爵の言う事も、分からないでもなかった。

偵察に出ていたファントムが戻ってくる。シムルグという鳥の怪物のファントムだ。言葉は喋ることが出来ないが、適性勢力の存在は敏感に察知することが出来る。

耳元で、鳥が何回か鳴き声を上げる。知能が高いので、ある程度の簡単な情報を、そうやって伝えてくれるのだ。

それを聞き終えると、フォックスは薬湯を飲み干した。

「朗報と悲報です」

「どういうことか」

「援軍が此方に向かっています。 悪霊共は、其方に主力を裂いている模様。 しかし、勢いを止めきれず、蹴散らされているようです。 かなりの進軍速度らしく、半刻以内には此処に到達するでしょう」

「おお! そうか……。 して、悲報とは」

ここで、フォックスは死ぬかも知れない。

そう思わされるほどのものであった。

「おそらく、援軍に来た者と、此方をまとめて潰すつもりなのでしょう。 かってない数の化け物共が、村の周囲に展開しています。 数は四桁に達するかと」

「そうか、総力戦を用意しなければなるまいて」

杖で何度か地面を叩くモルト伯。

そうすると、吹雪の中、ぐったりとしていた兵士達が立ち上がり、此方を見る。ウサギリス族も人間族もいる。

いずれもが、モルト伯に全面的な信頼を置いているのが分かった。

「まもなく、ここに援軍が来る。 同時に、悪霊の大軍勢が押し寄せてくるだろう。 だが、援軍は一騎当千の強者だ。 必ず、皆生きて帰ることが出来る」

「モルト伯」

モルト伯は、来るのがスカーレットだと確信している様子だ。だが、シムルグは、そりに乗った少数の人間だと言っていた。

恐らく、傭兵団では無い。スカーレットでは無く、フォックスが考えていた、出来れば来て欲しい人間だ。

モルト伯が落胆しなければ良いのだがと、フォックスは思う。

ヒーラーも奮起して、けが人達の治療に当たり始める。既に諦めていた兵士達が、皆活力を取り戻すのが分かった。

モルト伯自身も、さっきより気力がみなぎっているのが分かる。

信仰の対象である存在が近づいている。そう思うことで、気力を取り戻すことが出来る。それも、人間の強さの一つか。

フォックスは、近づいているのが、恐らくマローネである事は敢えて言わなかった。

実際に戦闘になってから、共同で迎撃すればそれでいい。それに、今回は敵にとっても主力を集中しての大ばくちである事は間違いない。ここで敵を退ければ、一気に形勢は有利になる。

或いは、雪崩の影響でふさがった道が開放されるまでの時間稼ぎになるかも知れなかった。

吹雪がますます強くなってくる。

戦闘をしないのであれば、フォックスも耐寒術式を組んで、耐えることが可能だ。だが、これ以上戦闘があると、モルト伯が連れてきたネフライト達が保たないだろう。

そう言う意味でも、次が勝負だ。

しかし、モルト伯がスカーレットを崇拝しているように。

フォックスとしても信頼の対象であるマローネが来ている事は、とても心強かった。

 

そりが、高速で凍った川を滑り降りていく。

途中、悪霊が群れをなして此方を防ごうとする。だが、ハツネが片っ端から敵を射すくめた。彼女の射撃精度はますます上がっていて、悪霊が反応するよりも早く、敵を打ち抜いていく。

吹雪になっている事が、今度は此方に有利に働いているのだ。

敵も吹雪になれば、先が見えない。大まかな位置しか判断できないのか、或いはボスに位置を教えられているのか。どちらにしても、タイムラグが生じている。

その一瞬の差が、勝敗を分ける。

川の傾斜が浅くなってくる。凍っているからか、速度にもろに影響が出る。

だが、村は地図で見る限り、もう少しの筈だ。敢えて、ガラントが川から外れるコースに舵を切る。

どちらにしても、大量の雪が積もっている状態だ。速度を落としつつ、そりは危なげなく止まる。膨大な雪が吹き上げられ、マローネは咳き込んだ。耐寒術式が無ければ、これだけで凍っていたかも知れない。

吹雪の向こう、喚声が聞こえる。

これまでに無く近い。空で無数の火球が炸裂しているのも分かった。戦闘が行われているのだ。

「そりを一旦放棄! 走るぞ!」

「マローネ! 手を伸ばして!」

そりから降りるのに苦労していたマローネを、アッシュが引っ張り上げる。そして、ガラントを先頭に、走る。

村の柵が、吹雪を突き破るようにして現れる。

そして、空に浮かぶ大量の悪霊も。

モルト伯の配下らしい兵士達が、悪霊と必死の戦いをしている。一人、つり上げられ、無数の悪霊に集られそうになった。其処をハツネが、つり上げている悪霊を射貫いて助け出す。

「伯爵さまー!」

マローネが叫ぶ。ガラントが飛びかかってきた悪霊を斬り伏せ、バッカスが悪霊に飛びついて食いちぎる。

アッシュが跳躍し、悪霊を蹴り砕いた。

雑魚悪霊なら、かなり大きい奴でも、もう皆相手にならない。カナンが周囲を見回して、けが人に走り寄っては、応急手当をしていた。

再び、伯爵を呼ぶ。

村の真ん中辺りで指揮をしていた伯爵が、マローネに気付く。

驚いた様子だった。

「君は。 どうして此処に」

「新聞で見たんです! いてもたってもいられなくて!」

「そうか……」

露骨な落胆の様子が、伯爵の顔に浮かぶ。

本当だったら、怒って良いところなのかも知れない。だが伯爵は咳払いをすると、すぐに気持ちを切り替えたようだ。

「すまない。 スカーレット様が来てくれたのかと思ったのだ。 だが、君も一騎当千の強者。 できれば、この苦境を打開する手伝いをして欲しい」

「はいっ!」

見ると、フォックスもいる。

此方をちらりと見ただけで、フォックスは死人の指揮に戻った。塔のような死人が、四方八方に火球を吐き、此方を包囲している悪霊を片っ端から撃墜している。先ほど、ちかちか瞬いていたのは、この炎か。

周りを見て戦況を確認していたガラントが叫ぶ。

「東側に注意しろ!」

顔を上げた兵士が、無数の悪霊に押しつぶされる。

怒濤のように、数百を超える悪霊がなだれ込んできた。フォックスが反応するより早く、コリンが雷撃の術式を振らせる。炸裂した雷撃が、大量の悪霊を薙ぎ払う。更にハツネが、かなり大きな矢を、ここぞとばかりに放った。

悪霊を蹴散らしながら、柱のような矢が飛んでいく。かすめただけで、悪霊は破裂し、吹き飛んだ。

兵士達も、意気を取り戻す。

更にフォックスが、以前砂漠で使った大砲のような死人を呼び出す。

撃ち放たれる魔力砲が、虚空を一閃。敵の残存勢力を、根こそぎ焼き払っていた。

コリンもハツネも、とっさの反応だったからか、相当に消耗が大きいようだ。だが、マローネ自身には、まだ若干の余裕がある。

ここに来る前に渡された杖が、力を増幅しているのだ。全身が、ほんのりと熱い。

ただ、杖はそれ以上に熱くなっている。無理をすると、壊れてしまうかも知れない。

悪霊が引いていく。

兵士達が歓声を上げるが、それがすぐに恐怖の声へと変わった。

「どうやら、親玉の登場らしいな。 みな、気をつけろ! 今までの奴らの比じゃ無いぞ!」

アッシュが叫ぶ。

吹雪の向こうから、巨大な影が降りてくるのが、マローネにも見えた。

それはおぞましい触手の塊で、全体的には蝶のように最初見えた。だが、近づいてくると、どちらかというと一双の耳のように見える事が分かった。耳の間には、無数の小さな目があり、それぞれが此方を見ている。

なるほど、聴力で此方の居場所を探り当てては、支援攻撃を悪霊にさせていた、というわけだ。

巧みに待ち伏せ攻撃をしてくるわけである。そして、そりで川下りを始めた途端、反応が鈍ったわけだ。ビバークしている間、此方に仕掛けてこなかった理由も、これで分かった。攻撃しなかったのでは無く、此方を見失っていたのだろう。

一方で、吹雪の中からも此方を的確に見つけ出す聴力は凄まじいものがあった。生物の常識を遙かに超えている。化け物と呼ぶのも無理がある、更にその上の存在と言って良いだろう。

ガラント達は、相手を過大評価していたと同時に、過小評価していたのだ。

こういった分析は、マローネも最近は出来るようになっていた。

無数の触手が伸びる。

触手には、それぞれ目が多数ついており、先端部分は蛇のように口がついている。当然、捕食行動だ。

頭から食いつかれたウサギリス族の兵士が、もがくが。そのままつり上げ、丸呑みしようとする触手。

ガラントが中途から、切断。兵士はもがいていた。自力でどうにか触手から脱出してもらう他無い。手助けしている暇は無い。

周囲は阿鼻叫喚だ。丸呑みを狙わず、そのまま押しつぶしに来る奴もいる。体当たりをしに来るものもある。

全てから、味方を守りきれない。

ハツネが、マローネの名を呼ぶ。先にカナンが走った。

耐寒術式を唱えていたネフライトに、五本以上の触手が同時に襲いかかる。クリスタルガードの術式で、カナンがそれを全てはじき飛ばすが。

それも、伏線に過ぎなかった。

頭上から降り注ぐ、無数の光の矢。

触手は囮だったのだ。触手で飽和攻撃を仕掛けている隙に、本体が詠唱を行っていたのだろう。

爆裂。

村全土が、吹き飛ばされたかのような衝撃だった。

マローネが目を開けると、目の前で気絶した兵士を、触手が飲み込んでいた。他の触手も、半ばがふくれているものが目立つ。

ガラントもアッシュも、傷つきながら奮戦しているが、とても手が足りていない。

立ち上がろうとして、気付く。足が血だらけだ。今の光の矢の、直撃を防ぎきれなかったのだろう。

手がさしのべられる。

フォックスだ。

「時間を稼ぐ。 大きいのを準備できるか」

「はい、何とかしてみます……痛っ!」

「む、足をやられたか。 肩を貸す。 俺は回復術が使えないから、耐えろ」

顔を上げると、ハツネが触手に締め上げられている所だった。今の直撃を、彼女も受けていたらしい。

触手の一つが、口を開ける。

それが、内側から吹っ飛んだ。

いや、切り裂かれた。

着地したのはモルト伯だ。手にしていた仕込み杖で、切り払ったらしい。凄い威力だ。以前は武闘派だったらしいと何処かの資料で見た覚えがあったが。

だが、年波には勝てないようで、着地すると同時に体勢を崩す。

降り立ったハツネが、お返しとばかりに、触手を次々打ち抜いた。怖れて逃げ惑う兵士から、触手は狙っているようだった。

「怖れるな! 怖れる者から狙われている! 戦い、道を切り開け!」

恐怖に包まれていた場が、一気に高揚する。

この隙に、触手の群れをかいくぐって、アッシュが仕掛けた。

本体に拳を叩き込む。だが、地面の下から不意に躍り上がってきた触手が壁になり、アッシュの拳を受け止めて見せた。それだけではない。

彼方此方の空間から、いきなり触手が現れ、四方八方からアッシュに襲いかかる。

コリンがタイミングを合わせて、術式を展開。

アッシュをファントムに戻すと同時に、上級の火炎術を打ち込んだ。触手は数十本がまとめて焼き払われたが、敵は意にも介していない様で、しかも即座に再生していく。

これは、四方八方から、好き勝手に敵は攻撃出来るも同じだ。

触手を押さえようにも、空間から現れる上に、再生が容易である。その上、魔術にも敵は長けている。

まずい。

とんでもなく、手強い。

「ゆくぞ! 精霊は我が意に従い、怨敵を滅ぼさん! 魔道の能力! ヴィリディアン・カッパー!」

肩を借りているフォックスが、死人を呼び出す。

闇より暗い黒い穴から出現したのは、既に触手に巻き付かれて身動きできなくなっているトーテムポール型の死人では無く、複数のイヌのような姿をした死人だった。いずれもが猛獣や怪物の死体をつなぎ合わせて作っているらしい。

それが、五体。

同時に、四方に死人達が飛ぶ。触手に躍りかかり、食いちぎる。体当たりして、兵士を救出する。

兵士達も、それぞれ剣や槍を振るって、反撃に出る。

絶望的な戦況の中、わずかに光明が差す。

カナンが走り寄ってきた。マローネに回復術を掛けてくれる。マローネは頷くと、ガラントを呼ぶ。

「隙を作ってください!」

「ほう……! 分かった、任せておけ! アッシュ! バッカス!」

アッシュを、再コンファイン。

前線に出て、体を丸めて太い触手に体当たりし、引きちぎっていたバッカスが、着地。敵の本体に向け、三人が突撃を開始する。

させじと群がる触手に、イヌ型の死人が躍りかかり、食いちぎった。フォックスも、かなり負担が大きい様子だが、額から汗を飛ばしつつも、必死に死人を扱ってくれている。額の、能力者の印を示す痣も、赤く輝いていた。相当なオーバーヒートを起こしている証拠だが、それでもフォックスに屈する様子は無い。

つまり、ここは。マローネが、全力で頑張らなければならないときだ。

印を切るマローネ。

虚空に出現する、ヴォルガヌス。着地。地面が揺るがされる。着地と同時に数本の触手を踏みしだいたヴォルガヌスは、ためらうこと無く、全力でのブレスを敵に叩き込んでいた。

触手など、文字通り蹴散らされるだけの存在でしか無い。

だが。

敵の至近、寸前で。ブレスがかき消え、あらぬ方向からその光の奔流が見える。

先にアッシュを襲った、空間転送攻撃か。防御にも使えるというわけだ。

だが、連続では使えないようだ。

ついに、ガラントが振り下ろした剣が、敵の中枢部に食い込む。

大量の鮮血が噴き出す中、アッシュも拳を叩き込む。そして、バッカスが、二人に襲いかかろうとする触手に、回転しながら体当たりし、赤い霧に変えた。

兵士達も勢いづき、手近な触手を片っ端から打ち払い、仲間を助け出す。

コリンが雷撃の術式を発動。しかし、敵本体は剣や拳よりもそれが厄介だと判断したか、術式で防ぎに掛かる。

また、虚空に出現する、無数の光。

だが、まだコンファインが解除されていないヴォルガヌスが雄叫びを上げると、術式がかき消された。

竜言語魔法か。流石エンシェントドラゴン。しかも、話によると、マローネの魔力のバックアップで、以前よりパワーアップしていると聞く。

ガラントが、叫ぶ。

「今だ! 敵中枢を!」

「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAっ!」

世にもおぞましい雄叫びを、敵本体が挙げる。

其処を、ハツネが放った柱のような太さの矢が、直撃。貫通した。更にとどめとばかりに、ガラントが剣を引き抜き、再び突き刺す。

大量の鮮血が噴き出し、触手がほどけていく。

地面に落ちた触手は、しばらく蛇のようにのたうっていて、やがて動かなくなった。

無事だった兵士達が、しばし呆然とその様子を見つめている。触手に飲み込まれた者も多かったが、途中で触手が斬られたりして、全員が死んだわけでは無い。ただ、飲み込まれた時点で窒息死した者も、少なくなかった様子だ。

勝ったのか。

マローネは、どうも嫌な予感がするのを、止められない。

以前も見かけた老騎士に助け起こされるモルト伯も、それは同じようだった。

「妙だな、サルファーの側近にしては脆すぎる……」

「やはりあの魔物は、サルファーの側近なのですか?」

「そうだ。 マローネ君、良くやってはくれたが、まだ油断してはならぬ。 あの程度で死ぬようだったら、九つ剣やスカーレット様が、苦戦するわけも……」

吹雪が、止み始める。

それは、決して勝利の合図では無かった。

視界がクリアになると同時に、その恐怖は、誰の目にも焼き付けられる。兵士達が、指さし、口々に悲鳴を上げ始めた。

山の中腹。その少し上の空。

其処に、今の魔物の本体らしき、巨大な触手の塊が、見えたからである。形は、今打ち倒した存在と、あまり離れていない。

だが大きさが段違いだ。

なるほど、容易に雪崩を起こせるわけである。

虚空に轟く、魔物の雄叫び。そして魔物は、雪崩が恐れ入るほどの勢いで、村に向けて突撃を開始した。

 

怒濤のごとく山を駆け下りてくる魔物は、嫌でも視界に入る。

マローネは、それでも、意外に自分が冷静なことに、驚きを感じていた。

現有の戦力はどれほどか。

ヴォルガヌスは、もう一度総力でのブレスを撃てる。

ガラントとバッカスは平気だ。

コリンは大型の術式をもう一回が限度。ハツネも柱のような矢は、後一本撃てるかどうか。

そして、アッシュは。

エカルラートを、フルパワーで、まだ展開可能だ。

だが、相手は空間を曲げて、攻撃をそらす能力を持っている。足を止めて、なおかつその能力に対する対策を立てなければ、勝ち目は無い。

「弾幕を張る。 少しでも来る前に、戦力を削ぐ」

フォックスが、大砲のような死人を呼び出した。以前も、砂漠で切り札として使い、先の戦いでも密集した悪霊の群れを薙ぎ払った。

吹雪が消えているという事は、魔物がダメージを受けたのでは無い。

本気になったことの証左。

怒濤のように近づいてくる魔物。杖で、モルト伯が地面を叩いた。

「怖れるな! サルファーはあれよりも強い! ここで奴を倒せなければ、どのみちこの世界は終わりだと知れ!」

無数の触手を手足のように使い、迫り来る巨大な魔物。

今まで忘れていたように、ネフライト達が耐寒術式の展開を解除。コリンは吹雪が晴れた時点で、とっくに解除していた。この辺り、戦い慣れの度合いが見て取れる。

凍り付いた木々を、まるで積み木細工のように蹴散らしながら迫る巨大な魔物。フォックスが、先手を取った。

大砲型の死人が極太の光の一撃を放つと同時に、大型の火炎術を撃ち放つ。相当な射程の術の上、相手の動きを読んでいたのだろう。

フォックス渾身の攻撃は、魔物に直撃。

だが、爆炎を蹴散らすようにして、魔物が姿を見せる。傷ついてはいるが、動きは全く止まらない。

勇気づけられたか、ネフライト達が、それに続いて術式を放ち始める。魔物は足を止めない。だが、家の屋根に登ったり、方陣を組んだりした兵士達が、弓を周囲で引き絞る。けが人を、村の隅の方に運び始める。

モルト伯が、杖で地面を叩いた。

「撃ち方始め!」

「撃てっ!」

矢が、驟雨のように打ち込まれ始める。

村の柵を蹴破って入ってきた魔物が、家を吹き飛ばしながら迫る中、その体に次々に矢が突き刺さる。

至近で見ると、かなり傷自体はついている。

避ける気が無いのか、それとも。

触手が蠢き、魔物は体を前に進める。うねる触手は、家も柵も井戸も関係なく蹂躙し、踏みにじり、踊るようにくねっている。

「退避!」

モルト伯が叫び、その進路上から兵士達が逃げ始める。マローネも、ガラントが抱えて飛び退いた。

凄まじい咆哮を上げながら、魔物が村の反対側から抜ける。蹂躙に巻き込まれた兵士は若干名。踏みにじられてしまった兵士は、どう見ても助かりそうにも無かった。はじき飛ばされた兵士が、呻いている。ヒーラーが青ざめながらも、引きずっていく。

この時点で、モルト伯が連れてきた兵士の中で、戦えそうな者は半減してしまっている。死者も相当数が出ていた。だが、それでも。

中核になるモルト伯がいるからか、兵士達の意気は衰えていない。

たとえ、魔物が通り過ぎた村が、ぺしゃんこに潰されてしまっていても、だ。

「すぐに戻ってくるぞ!」

「足を止めるには……!」

「私が死人での一撃を打ち込む! 間髪入れずに次を!」

「分かりました! お願いします、フォックスさん!」

不意に、魔物が行動を変える。

触手を撓ませると、その巨体で跳んだのだ。

唖然としているうちに、見る間にその影が近づいてくる。触手はさっきのものと比較にならないほど大きいとは言え、蛇のように口がついている事に変わりは無い。

蠢きながら、落ちてくる触手の塊。

モルト伯が兵士達を散らせる。その真ん中に、魔物が落ちてきた。

地響き。

村がとどめを刺される。家がつぶれるのでは無く、文字通り砕けた。防御施設が粉砕され、柵が内側から倒れた。つぶれた家の中から、這々の体で民間人が出てくる。こんな状況で、避難していない者がいたのか。

「おのれ、サルファーの影め! お前など、勇者スカーレット様が来れば!」

「モルト伯!」

フォックスが叫ぶ。

若干の不快感が、その目に浮かんでいた。

彼の叫びに呼応するように、大砲型の死人が、触手を振り回して暴れに暴れている魔物に照準を合わせる。

嘲笑うように、魔物の姿が歪んだ。

撃てるものなら撃って見ろと、言わんばかりだ。

だが、その時。

モルト伯の側に控えていた老騎士が、かき消える。そして、魔物の向こう側に、姿を見せた。

剣を振るうと同時に、触手が数本、根元から吹き飛ぶ。

一瞬の隙。

其処に、乗じないほど、その場にいる誰もが、甘くなかった。

大砲が、光を放つ。

そして、極太の光の筒が、魔物の体を貫いた。虚空へ立ち上る閃光が、魔物の体を押し上げる。先と違って、至近からの一撃だ。

爆発。

魔物が、内側から、炎を噴く。

「いまだ、畳みかけるのだ!」

「言われずとも!」

触手の塊に、皆が一斉に躍りかかった。

ガラントが触手を斬り伏せ、ハツネの矢が魔物を貫く。アッシュの拳が、魔物の真芯を捕らえ、貫く。

魔物も黙っていない。

全身から煙を上げながら、触手から血を噴きながら、猛攻を迎え撃った。

 

4、来るべき時

 

ソロモンに姿が見えるように、セルドレスはわざと滞空していた。

サルファーのしもべEタイプとの激烈な死闘が、佳境に入りつつある。地獄のような消耗戦の中、マローネという娘は逃げずによく頑張っていた。

「頑張れ……。 お前を正面からは助けられないが、それでも出来る事はしてやりたい」

セルドレスも。異界の魔王も、思わずそう呟きたくなる。

この世界の人間が、始祖の世界のそれと同じく、ろくでもない事は理解している。だからこそ、かも知れない。

セルドレスも、決してマローネに対して、心が動かない事は無かった。

それはソロモンも同じなのだろう。奴の場合は、それが歪んでいる、というだけで。

魔物が、姿を変える。

どうやら、最終段階に、戦闘は移行しつつあった。

 

触手が、急速に束ね挙げられていく。

その体は白く、骨張っていて。一双の耳を中心としていて。

そして、マローネは気付く。

或いは、これは。

以前、二度刃を交えたサルファーのしもべらしい魔物と、何処かでやはり似ている。ただし、此方の魔物の方が、ずっと体がしっかりしている。一方で、人間の上半身の形状を保っていた以前の魔物と違い、耳しか人間に似ている部分は無い。

違いは、何なのだろう。

魔物の全身で、無数の目が開く。

同時に、視界が閃光に包まれた。

辺りが、何かの術式で薙ぎ払われたことは分かった。兵士達が倒れている。千切れた腕を探して、這い回っている兵士が、即座に焼き払われた。勿論即死だ。

フォックスが吼える。

四体の犬に似た死人が、四方八方から魔物に襲いかかる。

そのうちの二体が、瞬時に焼き尽くされる。だが、二体はそれぞれ耳に噛みつき、食いちぎりに掛かった。

閃光。

マローネの前に立ちはだかったカナンが、クリスタルガードを展開。だが、それでも防ぎきれない。

吹き飛ばされ、柵の残骸にたたきつけられる。

激痛。見ると、決して細くない杭が、右腕に突き刺さっていた。また光。光の形状をした、魔物の殺意。カナンが防ごうとするが、耐えきれない。

クリスタルガードが砕け、カナンが吹き飛ばされるのが見えた。魂滅レベルでは無いが、あれではもう、今の戦いで再コンファインは無理だろう。

杭を引き抜く。

大量の血が流れ出る。いや、噴き出すというのが近い。だが、意に介さず杖をかざす。

阿鼻叫喚の中、ハツネがゆっくりと弓を構える。ハツネに魔力供給。

後ろでは、コリンが詠唱を完了していた。

後一手。それが、マローネには待ち遠しい。

そして、機会は。来た。

「今、私が隙を作る。 一度しか出来ぬ」

「伯爵、様……」

「そうだ、勇者様の到来を待ってばかりではいけないということさえ、いつの間にか忘れていた。 30年前も、勇者様が来たのは、皆が必死に戦い、それでもなお絶望を感じたその時であった。 年を取るというのは、悲しい事だ。 こうも私は、心が老いてしまっていたのだな。 だが……それも此処までだ!」

既に老体故、一度しか出来ぬと、伯爵は言う。

あの従者の老騎士も、既に身動きできる状態では無さそうだ。これが本当に、最初で最後の機会。

フォックスも限界が近い。

マローネは震える手で杖を構え。そして、残る魔力を、全て集中していく。

目を、見開く。

同時に、モルト伯が動いた。

かき消える。残像が、転々と見える。

魔物が、無数の光を放つが、全て残像を抉る。

虚空で、モルト伯の、仕込み杖から剣を引き抜く影が見えた。

何処かで見た事がある構えだった。

一閃、そして炸裂。

魔物が無数の目から放った殺戮の光が、中途で切り裂かれる。信じがたい事に。

そして、魔物自体も。唐竹割になる。

驚きの瞬間。

全ての時が止まると同時に、魔物の動きが、一瞬停止した。

魔物の横に、モルト伯が膝をつく。仕込み杖に納刀しながら、伯爵が呟く。

「一の太刀、光閃……!」

「今だ! もらったッ!」

二つに切り裂かれた魔物を、更に切り裂くように、コリンの術式が発動。その体を、上下に両断するように、魔法陣が出現した。

魔物を、その住処から、強制的に切り離す術式。

膨大な闇が、辺りにばらまかれ始める。

干涸らび島での、サンドウォームとサルファーのしもべを切り離した術式と同じだ。魔物が、全身を蠕動させ、絶叫した。

その体から、得体が知れない影がぬるりと這い出してくる。これも、干涸らび島と同じ、何かの魔物を乗っ取ったからだだったのか。タフすぎると思ったのだ。コリンは最初から、気付いていたのだろう。

虚空に現れる闇。それは、あまり今までと姿が変わっていない。一双の耳に近い。乗っ取った生き物の体を、自身に似せていたのか。

逃げようとする魔物を、今まで動かなかった、大きな人型の死人が飛びついて押さえ込む。

最後の手が、整う。

詰みだと、マローネは思った。

人型の死人を振り払い、動こうとする魔物。

だが、フォックスが、大砲型死人から、恐らく最後の力を込めた最大の一撃をぶっ放す。

その一撃が、かき消える。別の虚空から、極太の光の柱が、あらぬ方向へ飛んでいく。

しかし、それこそが勝機。

バッカスとガラントが、その瞬間。間合いを零にし、魔物に食らいつき、そして大剣を突き立てていた。

「アッシュ!」

「応っ!」

やはり、密着状態で、攻撃の強制排除は使えない様子だ。至近、踏み込んだアッシュが、全身をエカルラートの青い燐光に包み、踏み込む。

既に滅茶苦茶に砕かれた村の地盤が、まるで隕石でも落ちたように吹き上がる。全力エカルラートでの踏み込みは、既に此処までの破壊力を有している。勿論、その後の動作による威力は、言うまでも無い。

魔物を、渾身の力をもって、アッシュが蹴り挙げていた。

空気さえはじき散らし、おぞましい蝶にも見える魔物が、空中へ、高く高く浮き上がる。力を使い果たしたバッカスとガラントが、コンファインを解除。

そしてマローネは、目に入る汗さえもはや気にせず、超高速で空を噴き上げられる魔物さえスローモーションに見えるほどの集中力の中、コンファイン。

偉大なる古代竜ヴォルガヌスが、最後の力を振り絞り、全力でのブレスを放つ体勢に入る。

そして、魔物の上空には。

既に先に回り込んでいたアッシュが、青い光をまき散らしながら、踵落としの体勢に入っていた。

どちらかを防ごうとすれば、もう片方が直撃する。

魔物でも、躊躇する。それが致命的になる。

それは、ブレスが直撃し。その破壊力を倍加させたアッシュの踵落としが、裂帛の勢いで挟み撃ちにたたきつけられる結果を生んだ。

空中で生じた衝撃波が、まるで水面に走る波紋のように、空を切り裂くのが見えた。

煙を上げながら、魔物が下へ向けて飛んでくる。

とどめだ。

「ハツネさん!」

「任せろ……っ!」

ハツネが、柱のように巨大な矢をつがえる。それはスパークさえ帯びており、まるで神々が放つ稲妻のような威圧感を、その場で見せつけていた。

撃つことを躊躇する理由は、何一つ無い。

放たれる矢。

魔物の、最後の抵抗。

膨大な殺戮の光が、此方に向けて放たれる。ハツネの矢に対してシールドを展開しても、このままでは地面に直撃する。つまり、もう魔物には、他に手が無い。

窮鼠でさえ、猫を噛む。ましてや、これだけ強大な魔物の最後の攻撃だ。それは凄まじいまでの白光を帯び、全てを消滅せしめるかに思えた。

だが、それさえも打ち砕いて。

ハツネの矢が、魔物を貫通していた。

空へ向けて伸びる、稲妻の矢が、魔物を内側から焼き尽くしていく。絶叫さえ、もはや其処には残らない。

ハツネが弓を下ろしたときには。

既に虚空に、あのおぞましい魔物の姿は、残っていなかった。

ゆっくり、呼吸を整えていく。

杖はもう熱すぎて、触ることも出来ない。今更のように、腕を引き裂くような痛みが来る。

脱力感も酷い。意識を失うほどでは無いが、立ち上がる事は出来そうに無かった。

カナンはしばらくコンファイン出来ないし、つらい。既に吹雪は晴れ、空には青さえ見え始めているというのに、気は晴れなかった。

「勝利だ! 勝ち鬨を揚げろ!」

兵士達が、勝ち鬨を揚げはじめる。

しかし、この様子では、生き残りは三分の二もいるかどうか。村の人達にも、大きな被害が出たはずだ。

サルファーのしもべは、滅ぼすことが出来たかも知れない。

だが、兵士達の命は、戻ってこない。彼らにも生活があったのだ。村の人達だって、それは同じなのに。

涙が出てきた。

どうして、サルファーのしもべは、こんな酷いことをするのだろう。どちらも傷つくだけなのに。

それがどうしても、マローネには分からなかった。

 

5、永遠に続く痛み

 

うめき声が漏れる。そして、声が聞こえた。

「痛むのか」

気付くと、フォックスに見下ろされていた。すでに夕方になっていた。いつのまにか、気を失っていたらしい。天幕の中に寝かされている。周囲にはけが人が多かった。

腕の手当もされていた。カナンの手当に比べると若干雑だったが、応急措置は済まされている。恐らくヒーラーは生き残ったのだろう。

雪崩で埋まった道が、やっと復旧したらしい。忙しく兵士達が行き交っていた。天幕の中からも、村が滅茶苦茶になっているのが分かった。悪霊に飽和攻撃を受け続けた上、あの恐ろしいサルファーのしもべとの主戦場になったのだ。もう、原形をとどめないほど、村は壊されてしまっていた。

役立たずとか、金切り声が聞こえた。

村に残った人達が、滅茶苦茶になった村の恨みを、兵士達にぶつけているらしい。理不尽な怒りを今まで散々浴びてきたマローネは、悲しくなった。

「サルファーならともかく、その子分程度に好き勝手にされて! これだから軍隊なんか信用できないんだよ! あたしの家を返せ! 今すぐ戻せ!」

「身勝手な輩だな……」

その兵士達が、命がけで避難誘導をしたこと、魔物との戦いでも、逃げ出さずに最後まで戦ったことを、忘れてしまっている。

怒りが、目を曇らせている。だから、滅茶苦茶なことを言える。

しかし、普通に生活しているヒトにとっては、家が、財産が、全てだ。サルファーは恐怖の存在で、抵抗できるわけも無い。

今や軍隊は、戦争をする組織では無い。サルファーに対抗するために作られはしたが、弱体化しすぎて傭兵団にお株を奪われてしまった存在に成り下がっている。だが、所属しているのは、人間だ。

練度が足りなくても、精一杯をやった。命を賭けた。

それを批判する事なんて、出来るだろうか。

マローネは、身を起こそうとする。

腕に痛みが走るが、関係ない。コンファイン出来そうな人は。みな、消耗が酷すぎる。パレットだけは大丈夫だが。賢いパレットは、マローネの視線を受けると、すぐに意図を理解してくれた。

「おねいちゃん、大丈夫。 あたいがささえる」

「ごめんね」

パレットをコンファインして、立ち上がる。

軽いマローネだからか、パレットも手を貸してくれれば、どうにかなった。立ち上がって気付くが、意識しないうちに、足や背中にも、酷い傷を受けていたらしい。それはあれだけの猛攻の中だ。気付かなくても、不思議では無い。

包帯を巻かれた手足を酷使して、歩く。

フォックスも、ついてきた。マローネを支えると言い出さなかったのは何故だろう。マローネの自主性を尊重してくれたのだろうか。

天幕を出ると、兵士達が困り果てているのが見えた。怒鳴っているのは、ウサギリス族の中年女性だ。歩いて行く。マローネに気付くと、女性は次の怒声を飲み込んだ。

「やめて、ください。 みんな、命がけで戦ったんです」

マローネ一人で勝てたかと言われれば、それは否だ。

フォックスの援護もあった。

戦闘時も、地味ながら兵士達は魔物に対して矢を浴びせ、槍で突き、戦い続けていた。魔物の戦力が、そちらに削がれていたからこそ、マローネは戦闘に集中できた側面も大きいのだ。

おばさんは指さす。

ぺしゃんこにつぶれてしまった家を。彼女の、壊れてしまった日常を。

「あの家を! 建てるまで、十二年掛かったんだ! 辺境のこの島で、必死に働いて、夫だって! それなのに! あの兵隊達がふがいないから、一瞬で全部おじゃんだ! 今日から、どうやって生きていけば良い!」

マローネが頭を下げる。

どうやら、彼女も、マローネが戦ったことだけは、認めてくれているらしい。

「ふがいなかったのは、私だって同じです。 力だって足りませんでした。 許してください。 お願いします」

「……っ」

おばさんは、大きく息を吐くと。

諦めたように、視線をそらした。

「分かったよ。 あんたの活躍は流石に見てた。 あんたがいなければ、命だって失ってただろうよ。 頭を上げてくれ。 そんな怪我までしているのに、其処までされたら、あたしだって矛を収めるしか無いよ」

マローネが頭を上げると、力なくおばさんは去って行く。

あの人も、犠牲者なのだ。だから、その悲しみをどうにかしてあげたいと思った。

「おねいちゃん……」

「ううん、いいの。 悲しみを乗り越えたら、きっとみんなを許してくれるわ」

「申し訳ありませんでした、マローネ殿」

兵隊さんに、敬礼される。

その手が震えていることに、マローネは気付く。恐怖からでは無い。感謝からだ。

「あの女性の言うとおりです。 我らがふがいないが故、被害は此処まで大きくなってしまいました。 モルト伯や秘書官の方にまで無理をさせてしまって」

「このご恩は忘れません。 我ら一同、次の機会があれば、必ずや雪辱を果たします」

「それは私も同じです。 もっと強くなって、きっと今度は、みんなを守ります」

フォックスは何か言いたそうにしていたが、最後まで結局喋らなかった。

だが、マローネを以前より信頼してくれているのは。

不思議と、言葉を交わさなくとも、分かるのだった。

 

ソロモンと距離を保ったまま、セルドレスは全てを見届けた。

サルファーのしもべは、更に強くなっている。既にレベルは300後半相当にまで上昇していると、セルドレスは判断した。このままだと、近いうちに更にレベルが高い輩が現れることだろう。

姿を隠しているしもべMタイプが出てくるのも、時間の問題だ。

しかし、それ以上にマローネの成長は早い。

そして、それだけではない。

理不尽な怒りを受け止め、そして心を溶かす。あれは、本当にセルドレスの知る邪悪で狡猾な人間なのだろうか。

相手を思いやっているから出来る行動だ。

きっと心だって傷ついているだろうに。

視界の隅に、瞬く光。下を見ると、どうやら既に滅ぼされた魔界の住人らしいファントムが、此方を見上げていた。恐らく、氷の欠片を動かして、光を反射して見せたのだろう。

弓を扱う一族の者らしい。様々な名前で呼ばれるが、いろいろな魔界に住んでいる、オーソドックスな悪魔だ。

マローネと肩を並べて戦っているのを、何度か見た。

ソロモンは動く気配も無い。接しておくのも、悪くは無いだろう。

着地し、近づいていく。

女弓使いのファントムは、敬礼すると、セルドレスに話しかけてきた。

「魔王セルドレス様と見受けます」

「いかにも」

「私はハツネと申します。 貴方は何の目的で、このイヴォワールに」

「言うまでも無い。 サルファーを倒すために来ている。 マローネというあの娘の成長には、俺も期待しているのだ」

「左様でありましたか」

先ほど、この女が放った一撃は、凄かった。どこの魔界でも、重鎮として迎えられるだけの腕前だった。

既に命を失ってしまっていることが、本当に惜しい。

「お前から見て、あの娘はどうだ」

「この世界では無く、魔界に生まれて欲しかったと何度も思いました。 理不尽な差別に晒され、酷い境遇にありながらも、必死に生きている所が悲しくてなりません。 ですが、それがゆえに、強く強く育っているとも言えます」

「そうか。 これからも支えてやって欲しい。 我らも目処が立ったら、お前達に合流して、サルファーを滅ぼすべく動く。 ただし、まだ他言無用だ」

「了解しました」

敬礼をかわすと、その場を去る。

マローネは、足を引きずりながらも、帰路についている。ハツネもそれに合流すべく、雪原を駆け始めた様子だ。

色々と、まだマローネを取り巻く環境は厳しい。

だが、少しずつ改善の傾向は見え始めている。

マローネの周囲にいる人間は、彼女を信頼し始めているし、シンパも増えつつある。

このままなら、サルファーとの決戦が始まる頃には。足並みをそろえる事が、出来るかも知れない。

それ以上に、セルドレスはマローネの状況が改善されていることを感じて、嬉しく思った。

感情を移入し始めているのかも知れない。

一度、富と自由の島に戻ることにする。

その前に、がらくた島に寄る。

今回のことを、報告しなければならないからだ。この世界の盟友であるシェンナに。それは、大きな意味を持つ事だった。

 

(続)