老英雄の悲劇

 

序、燃えさかる全て

 

血涙を流して立ち尽くす英雄の前には、地獄が顕現していた。

サルファーを撃破して戻ってみれば、其処にあったのは灰燼に帰した我が家。我が家だけでは無い。島が全て、焼き尽くされ、打ち砕かれ、生きた気配は一つも残っていなかった。

確かに、サルファーは打ち砕いた。

手にしていた聖剣で斬り倒し、消滅するのを確認したのだ。側にいたラファエルの支援もあったし、気配が消えるのは、見届けた。

このようなことが出来るのは、サルファーしか存在し得ない。

打ち砕くだけでは、駄目だったのか。倒したと思ったのは、錯覚だったのか。

炭になった息子夫婦の亡骸。どちらも優秀な騎士であり、特に息子は次代の九つ剣とさえ言われていたのに。

そして。

瓦礫の中から、ラファエルが抱え上げたものは。

「おお……」

あらゆる悲しみを受け止め。

あらゆる悪を打ち倒し。

世界の平和を守ってきた英雄の心が、決定的にこの瞬間、打ち砕かれた。

其処にあったのは、既に残骸でさえない、肉の塊だった。愛らしかった孫娘ブリアンは、首を引きちぎられ、手足を奪われ、内臓さえ食い尽くされ。

ラファエルが、震えたまま、視線をそらしている。

むき出しになった肋骨からは、内臓の残骸らしいものが、見えていた。

そんな有様でも、スプラウトには、その亡骸が愛孫のものだと分かってしまったのだ。

死んだ直後なら、蘇生の術式が通じる場合もある。だが、誰が見ても。世界最高の術者でも。これでは、無理だと即答するだろう。

笑いが漏れ始めた。

今まで、どのような悪徳でも受け止めてきて、時には救いの手をさしのべてきた英雄スプラウトの心の闇が。

押さえつけていた全ての憎悪が、今。燃えさかり始めた。

高潔な英雄であったが故に、輝ける聖剣と呼ばれた。圧倒的な力を持ちながら、時には敵を許し、改心を促し、そして人生をやり直させる事もあったことから、大英雄とも呼ばれた。

だが、それが故に。蓄えられていた憎悪は、大きかったのである。

「その死体は、適当に埋めておけい」

「師父!」

「普通に殺すだけでは、サルファーを倒せないことは分かった。 儂はこれから、奴を完全に殺すための方法を調べるために、旅に出る。 モルト伯には、お前から伝えておけ」

地面に拳を突き、泣いている弟子を、もう一瞥さえしなかった。

海岸線には、ボトルシップが残っていた。家族が使い、時には観光にも用いていたもの。ブリアンが座っていた小さな席は、血だらけだった。前の座席には、運転手として雇っていた男の亡骸が、原型をとどめずぶちまけられている。

死体を乱雑にどかすと、輝ける聖剣と呼ばれる英雄は。

ボトルシップを起動させ、復讐の旅の、第一歩を踏み出したのだった。

殺す。

必ずや、奴を殺す。

全てを奪われた英雄の中には、もはやそれしか、思考が残っていなかった。

 

目を覚ましたスプラウトが最初に行ったのは、情報屋のラッドに連絡を取ることだった。どうもサルファーの到来が近いように思えるのだ。

少し前に、癒やしの湖島で、大規模な悪霊騒ぎがあった。

サルファーには復讐の概念がある。以前癒やしの湖島で、マローネという悪霊憑きのクロームが、サルファーの配下を撃退したことは調べが付いている。表向きは依頼が取り下げられていたので話題にはなっていなかったようだが、現地でラッドが調査を行った結果、ほぼ間違いないと報告が来ていた。

そして、そのマローネに取って、友人とも言える子供がいることも。

サルファーの配下は、本体の復活に合わせて、知能を上げていく。徐々に執念深くなり、残虐になっていく。一度に呼び出せる端末、通称「悪霊」の数も質も増していく。

だから、幾つか手を打っておかなければならない事がある。

まずは、第一に、勇者を見つけ出すこと。

サルファーが恨んでいるのは、間違いなく30年前、決定的な打撃を叩き込んでくれた勇者だ。

逆に言えば、その恨みを拡散させないように、その配下は丁寧に潰して行かなければならないのである。

そして、恨みを集約させる。

今の時点で、スプラウトは相当な恨みを買っている。ここ八年間で、殺したサルファーの部下は実に三十七。悪霊に至っては、二千を超える数を倒した。

ただ、まだ意識が明瞭になっていない段階の部下を20以上潰しているのは、カウントできないかも知れない。

無言のまま悪霊とその起点であるサルファーの部下を殺し、去った島もいくつかある。30年前の戦いで無人島になった島で、サルファーの部下が現れた例もあった。

足で探し、魔術を駆使し、あらゆる手段で、スプラウトは殲滅を続けた。海上にいることが多いのは、その方が襲撃時、あしらいやすいからだ。

今では重い鎧を着たまま泳ぐことも、戦う事も、自在に出来るようになっていた。

ラッドが連絡に出る。

早朝と言う事もあって、少し疲れが溜まっている様子である。

「旦那、何か進展がありましたか」

「癒やしの湖島で、穴を完全に潰しておいた」

まだ騒ぎが収まっていない癒やしの湖島だが、サルファーの部下は完全に粉砕され、再生の見通しは当分無い状態だった。

ただし、異世界との穴は健在で、放置すると危険だった。

だから、ダークエボレウスで吸収し、完全に消し去っておいた。これで、今回もサルファーの部下を潰したマローネへの憎悪が蓄積することはあっても、スプラウトには都合が良い。

目をつけておく相手は、少ない方が良いからだ。今後マローネは、更に成長が見込めると、スプラウトはにらんでいる。

つまり、勇者を見つけられなくても。

マローネの周辺に、サルファーが現れる可能性は、決して低くないのだ。

「それはようござんした。 あの島も大変で、あっしの知り合いが何人も死んだりしやしたから」

「それで、何か新しい情報は」

「まず第一に、最近影で動いていたらしい連中ですが、どうもおかしな事に、利害を無視して動いているようでして」

それは確かにおかしい。

サルファーが現れて、世界が一致して戦わなければならないという状況下でも、世界では利権が重要な意味を持っていた。

30年前も、モルト伯が主導しての掃討作戦を行った際、何度他のセレストが足を引っ張ったことか。

王族が役に立たない現在、世界は利権の巣窟だ。逆に言えば、この世界で利権を考慮に入れない人間は、一種の変人と呼ばれるのである。

「目的は見えぬか」

「はい。 ただ、例の「剣客」を取り込んだ様子でさ」

「……そうか」

通称、剣客。闇世界で最強を噂されるボディガードだ。スプラウトは素性を知っているが、敢えて此処で話す必要も無いだろう。

戦えば、勝てる。今はそれだけで充分である。

「他には?」

「第二に、幾つかの地方で、気象の異変が始まってやす。 ヴァーミリオン地方で、幾つかの火山島が噴火。 近隣の空が真っ黒になってまさあ。 サンド地方では、サンドウォームの異常活動に加えて、近年に無い熱波が襲っていて、既に死者も出始めている様子でして」

「……いよいよ、近いな」

「旦那、無理はなさらないでください。 それと、また風遊びが島に、悪霊が出始めたって噂がありやす。 対応を急いでくだせえ」

流石ラッドだ。情報収集の速さと精確さにはいつも驚かされる。

通信を切って、そのまま風遊びが島へ向かう。

スプラウトは研究の結果、サルファーの配下の出現には、一定のパターンがある事を理解している。

今回は、多分穴があるだけだろう。

だが、容赦なく叩き潰す。今回に限っては、それで充分だ。今後、風遊びが島に奴らが現れることは無い。

これもサルファーの習性の一つだ。何度か叩き潰して復讐心を植え付けると、今度は場所にはこだわらず、攻撃者を狙うようになる。

気象の異常から言って、サルファーの襲来は近い。

そしてその出現地点も、絞ることができはじめた。

後は、最後に。

奴を倒すべく、スプラウトが手を下すだけだ。

 

1、惨禍の跡

 

マローネが港に作られた病院を訪れると、丁度アマゾネス団の団員が、団長を見舞いに来ているところだった。

挨拶して礼をし、奥の部屋に。アマゾネス団の女性戦士は、一瞥だけすると、入れ替わりに出て行った。

フレイムは一週間ほど前に意識を取り戻し、今は術こみの手厚い介護によって、回復に向かっている。モルト伯が出した支援金によって、バンブー社がヒーラーを派遣し、それによって医療は比較的安値で行われているのだ。

戦いによって、十七名が命を落とした。重傷者がその二倍出て、手足を失った人も何名かいる。

その中で、フレイムは、比較的マシな方かも知れない。

ベットでフレイムは、ダンベルを使おうとしていたが、ヒーラーに止められていた。今は筋肉の維持よりも、怪我の回復を行う方が先だと。確かにフレイムは、筋肉の奥から焼かれるようなダメージを受けていた。体が形をとどめていただけでも、実は幸運だったのかも知れない。

マローネに気付くと、フレイムは半身を起こす。

包帯だらけだった前回の訪問に比べると、だいぶ状況が良くなっている。ただ、体中には、火傷の跡が痛々しく残っていたが。

恐らく火傷の跡は消えないだろうと、医師には言われているらしい。

「良く来てくれたね。 身内ばかりの見舞いだと、退屈でかなわない」

「お体は、大丈夫ですか?」

「まあまあだね。 あと一週間くらいで退院は出来そうだ」

お見舞いに、果物を出す。皆と話し合って、これが良いと言うことになったのだ。

ヴァーミリオン地方は暑い事もあり、寒冷地の果物が入手しづらい。勿論不可能では無いのだが、それなりに高く付く。

マローネが出したのは、イチゴの一種で、冬イチゴと呼ばれる果実である。かなり寒い地方限定で撮れる果物で、甘みが強く、独特の苦みがある。この苦みがあるため、調理をしてから出すのがマナーとされている。

持ち込んだのは、既に一度煮込んだ冬イチゴである。灰汁取りもしっかりしているし、味見して美味しい事も確認している。

カナンに作り方を教わったので、やり方も間違っていないはずだ。カナンが料理をしてくれると言ったのだが、けが人に出すものなのだ。せめて自分で料理したいと頼んだのである。

「うん、おいしい」

「良かった。 お口に合って」

「なんで私を見舞いに来る」

「それは……聞いてしまったから」

意識が無い状態で、フレイムは亡くなったらしい子供の名前を呟いていた。

短く刈り込んだ髪の毛を掻き回すと、フレイムは言う。

「よそ者には関係ない話だ」

「私だって、女、です」

「だからなんだ」

アマゾネスが、よその価値観から見ればとんでも無い集団なのだと言う事を、分かっていないとフレイムは言う。

目には今や、はっきりとした拒絶の光があった。

同情でここに来ているのでは無い。

何か、マローネに出来る事は無いかと思ったのだ。だが、島単位での事である。マローネが、今中規模傭兵団並みの戦力評価をされていると言っても、出来る事は限られてくる。だが、諦めたくも無いのだ。

しばらく、無言で見つめ合う。

フレイムはまた言う。声は、冷え切っていた。

「私達は、男を拒否した女達の末裔だ。 男女の考えの違いから、どうしても齟齬は出てくる。 社会進出している女も多いが、どうしても腕力に泣かされる女はいる」

だから、受胎可能な女性を妊娠させる能力者が島に来たとき。

その願いは、歪んだ形で爆発した。

「マローネ、お前は、能力が遺伝する事があるって知っているかい?」

「はい。 私も、お父さんとお母さんの力を受け継いでいるって、アッシュから聞いています」

「一番島で苦難を味わっているのは、受胎能力、アヌシアシオンの使い手である巫女でね」

生産階級と呼ばれる、力も無く技も無い女性がつかされる階級は、死ぬまでに十五人以上は子供を生まされる。当然体を壊す者も多い。

そして、アヌシアシオンの使い手の術者は。

「アヌシアシオンを受け継いだ子供が生まれるまで、自分で妊娠と出産を繰り返させられる。 一番酷い例だと、死ぬまでに20人以上産まされたって聞いている」

「そんな……」

「それだけじゃない。 生まれた子供のうち、男の子は全部処分されるんだよ。 イカレてるだろ? だけどな、それでも、島には一定の秩序があるんだ。 いきなり全部ぶっ壊したら、何もかもが台無しになる。 島の外で生きていける奴なんて、そう多くはないんだよ」

少しずつ変えるしか無いと、フレイムは言う。

そして、傭兵団長を引退したら、フレイムには権力が備わる。長老達の一角に加われば、島を変えられる。

まず、生まれた子供を殺さない。

そして、階級の差別を少しずつ取り払う。最終的に、男を受け入れる体勢を作る。

島があまりにも特殊すぎるため、生まれた歪みは。普通の人間的な生き方を取り入れることで、少しずつ解消するしか無い。

「私も外に出て、色々と今の島がおかしいことは分かっている。 だが、これは私の島の問題だ。 だからお前に手伝ってもらう事じゃ無い」

だが、それが何年かかるのか分からないという話になると、フレイムもつらそうだった。

いたたまれない話である。

マローネは、土産を置くと、病室を出た。港にある仮設の病院だから、潮風の香りが凄かった。

屋根に座っていたハツネが、音も無く降りてくる。

今の彼女は、実体を伴っている。護衛中だから、コンファインしているのだ。如何に悪霊を追い払ったとは言え、今もどこに何がある変わらない。

戦闘時は協力してくれたベリル達も、戦闘が終わると大半は島を出て行った。残りの人達は、今も無人化した家などを漁って生活をしているという。

だから、今はまだ、護衛が必要だ。

「話は聞いていたが、どういう風習だ」

「ごめんね、ハツネさん。 魔界は単純な世界だって話だから、余計に酷いことが目立つよね」

「……人間にも、良いところはあると私は思う。 事実マローネ、お前の事は嫌いでは無い。 あの女も、今後部族を変える気があるのは良いことだと思うぞ」

ハツネが好きなのは、多分マローネだけでは無いだろうと思ったが、其処は敢えて何も言わないでおく。野暮だと思うし、何よりも。いつもむすっとしているハツネが、初々しく恥じらいの表情を浮かべてガラントの側に座っていたりするのを見ると、悪い気分はしないからだ。

病院を出た後は、カスティルの家に向かった。

戦いのあと、意識を取り戻したのは、病院のベットだった。そして、側で寝ていたらしいカスティルが、マローネが起きたことに気付くと、大泣きして。大変だったのだ。その後凄く怒られたり泣かれたりで、忙しかった。

カスティルの体調は、意外なことに非常に良い様子だった。長時間魔物に拘束されていたのに、である。

それを聞いたカナンがコリンと一緒になにやら調べていたが、マローネにはよく分からない。

今でも二人は、検証中と言って、それについて触れてくれないからだ。

途中で、ガラントと合流する。

ガラントは護衛も兼ねて、島の彼方此方を見に行ってくれていた。島の状態は、今のところ平穏だという。悪霊もいないそうだ。城は今、白狼騎士団が警備している。あの後も、一個小隊を残してくれているのだ。

だが、途中から、急に警護を申し出てくれたのだと、島の自警団員のグライネが言っていた。何か起きたから、かも知れない。その何かの詳細までは分からないが、少なくともそれで、即座に悪霊が再来することは無さそうだ。

ガラントは、イヴォワールタイムズの最新刊を取って来てくれていた。歩きながら、主要な記事について話してくれる。

「ヴァーミリオン地方でまた火山島が噴火した。 島民は早めに脱出して無事だが、黒煙が今日辺りには、此方に届くそうだ」

「またですか?」

「サンド地方の猛暑も止む気配が無い。 幾つかの村では非常事態を宣言して、傭兵団による救出活動が行われ始めている。 この写真を見ろ」

思わず呻いた。

其処には、サンドウォームの死骸が映し出されていたのだ。まだマローネを襲った個体ほどに成長していない若い個体だが、それでもかなりのサイズだ。海に頭を半分突っ込んで息絶えている。

あまりにも砂が熱くて、海にまで出てきたが、潮水に体が耐えられなかったのだろうと、ガラントが言った。

「ところで、今日はカスティル嬢が何かするとのことだったが」

「悪霊騒ぎの前にも、同じ事を言っていたの。 やっと余裕が出来たんだと思う」

「ふむ……」

歩いている内に、カスティルの家に着いた。

家の前では、アッシュが待っていた。護衛の仕事が無いときでも、見張りはしてくれている辺りとても嬉しい。

中に入ると、メイドさんが出迎えてくれる。穏やかそうな雰囲気の、人間族の女性だ。涼やかな目をしていて、美人では無いが側にいて安心できる容姿である。

サフランは、今日はいないらしい。カスティルを残して、今も仕事に行っているという事だろう。

実は、仕事の後。

今度こそ、代金を払うと言われたのだ。そして、奥さんの美しい髪が、ばっさり切られてしまっていた。

噂には聞いたことがある。美しい髪は鬘の材料としてかなりの高値で売れると。

だが、マローネは断った。カスティルを助けたのは、友達だからだと。それに、何処かで、軽い反発を感じていたのかも知れない。

ビジネスという怪物に縛られるサフランに。勿論、ジョーヌもビジネスに関わる者として、命の次に大事な美しい髪を切る事が、どういう意味かは分かっていたのだろう。二人が同意の末に行動したことは疑いない。

お金が如何に大事かは、マローネだって知っている。最近は力がついてきて多少の余裕は出てきたが、昔は本当に大変だったのだ。だが、これは社会のけじめというものを超えて、異常だと思った。

会社と娘の治療を両立させているサフランは、とてもビジネスマンとしては立派な人だ。でも、マローネは、友情をそれに優先させたかった。

「お嬢様がお待ちです」

「有り難うございます。 此方、後で食べてください」

冬イチゴの入った籠を渡すと、カスティルの部屋に。

カスティルは、以前よりだいぶ顔色が良くなっているように見えた。どうしてかは分からないのだが。あの魔物に掴まって帰ってきてから、妙に血色が良いようなのだ。

「マローネ、来てくれたのね」

「うん!」

ハツネとガラントは、気を利かせて部屋から出てくれた。アッシュもカスティルにとっては友達の一人として認識して貰っているらしく、顔を見せると喜ぶ。コンファインして、アッシュが姿を見えると、カスティルは顔を笑みにほころばせた。

「来てくれて嬉しいわ」

しばらく、他愛の無い雑談をする。

途中、カナンを呼んで、カスティルを診察して貰う。カナンは薬を幾つか見た後、カルテを神経質そうな顔で付けていた。脈を測ったりした後、コリンと話すと言って、部屋を出て行く。

「どうしたのかしら?」

「カスティルの体が元気になってきているから、コリンさんと何か話しているみたいなの」

「そう……」

不安にさせてはならないと思い、マローネは話題を変えた。

何を見せたいのか聞いてみる。そうすると、頷いて、カスティルは端っこでひらひら動いていたパティのモカに声を掛ける。

モカは、どうやら自分が呼ばれていることに反応することは覚えたようだ。

カスティルのベットの上に上がる。以前抱きしめて知っているのだが、パティ族はとても軽い。ベットの上でも、カスティルの負担になっている様子は無い。

「え……?」

驚きの声を上げたのは、アッシュだ。

カスティルが、モカの目の前で、なにやら手を動かす。そうすると、モカはマローネとアッシュに対して、帽子を取って丁寧な挨拶をしたのだ。

「今のは、挨拶をしてと言ったの」

「手話……!?」

「アッシュ、手話って?」

「耳が聞こえない人のために作られた言葉だよ。 そうか、音でコミュニケーションを取らないパティ族には、最適かも知れない」

にこにこと、カスティルはほほえんでいる。

そして、モカに対して、また何やら手を動かした。今度は、マローネ達にも分かり易いように、口で喋りながら、である。

「首飾りよ、首飾り」

「あっ……!」

パティが手を動かすと、光がらせん状に迸る。

以前、カスティルから貰った大事な首飾りを隠されてしまったときとは、色が違う。以前は白っぽい光だったが、今度は青っぽい。

また、回転の向きも逆だった。

柔らかい絨毯が敷かれた床に、首飾りが落ちる。

嗚呼。カスティルは、凄い。マローネではとても思いつかなかったことを、実行に移してくれた。

「カスティル、凄いよ……」

「良かった。 これで、モカが、マローネに嫌われなくて済みそうだわ」

感無量とはこの事だ。

しばらく首飾りを抱きしめて無言でいたマローネは、思い出す。

今、一つ。

大事な、取り戻さなければならないものがあるのだった。

 

富と自由の島に向かう前に、マローネは一度ボトルメールを出した。現在、癒やしの湖島の港には、白狼騎士団が作った連絡場があり、数体のボトルメールが常駐している。魔法生物であるボトルメールは、体で数えることが多い。

メールを出した後、マローネは改めて思い知らされる。

白狼騎士団は、流石だ。

規模が最大と言うだけでは無い。元から騎士団を名乗るだけあって、物資も武装も展開できる質が違っている。それはこういう後方支援体制にも現れてくる。

団員の中には、土木系の技術や、魔術の知識がある者も少なくない。

だから、こういう連絡所も、てきぱきと作ってくれた。大けがをしている団員はまだ入院中だが、他の人達だけでも、作業は充分であったようだ。

はっきりいって、ラファエルがいなくても、充分に白狼騎士団は強い。それが、他の傭兵団との、決定的な違いなのだろう。

小隊長をしているおじさんが、マローネに歩み寄ってきた。一礼すると、敬礼を返される。

この間の戦い以来、おじさんはマローネに丁寧に接してくれる。恐縮してしまう部分もあるが、それでもぞんざいに扱われるよりはいい。以前と違って、こうやってマローネに人間として接してくれる人は、少しずつ増えてきていた。

「マローネくん、何か用があるのなら、引き受けるが?」

「あ、お構いなく」

「そうかそうか。 何事も自分でやって、立派だな」

そう言ってくれるのは嬉しいが、マローネは実際には料理も下手で、家事関係はかろうじて人並み、という所だ。

周囲にスペシャリストがたくさんいるから、やって貰っている事はたくさんある。

今の字だって、練習に練習を重ねて、やっと書けるようになったのだ。

おじさんはガラントを呼び止めて、色々と話を聞いている。ガラントは傭兵団の団長だったらしいから、白狼騎士団の小隊長よりも格上、という事なのだろう。年長者に対して接している事もあり、おじさんはマローネと接するとき以上に、丁寧にガラントと接していた。

「なるほど、そう言うことでしたか。 分かりました。 此方でも、適当なところで警戒を切り上げ、それからは巡回に移りましょう」

「問題はベリルだが……」

「新しいベリルが来ていると言う話は、聞いていません。 以降は自警団だけで対応が可能だと思われます」

「うむ、分かった。 ラファエル団長によろしく伝えてくれ」

ボトルシップに乗り込む。

一度、家に戻るためだ。以前聞いたアドレスを確認する限り、富と自由の島で受け渡しをするよりも、おばけ島の方が近い。

それにしても、事情が何となく分かった気がする。

パティが出した写真を見ると、幸せそうな夫婦と、兄弟らしい二人の子供が写っている。キバイノシシ族の親子の写真だ。

何となく面影がある。弟の方が、シシカバブ親方だろう。

パティのモカを興業に使っていたサーカス団の団長だ。

そして、モカに隠された、この写真。持ち主であり、奪還を依頼してきた人物でもある。

シシカバブはサーカス団の団長であり、話してみた限り、冷酷な現実主義者である。モカに対する虐待の疑惑もある人だ。実際、モカの反応を見る限り、優しくしていた、という事は無いだろう。

だが、そう言う人でも、心はある。この写真が、シシカバブ親方の家族のものだとすれば、なおさら納得がいく話だ。

おばけ島に到着したのは、昼少し前。

最近忙しくて、数日島を開けることも珍しくなかった。だから、最近は、島に帰ってきて最初にすることは、お掃除になっている。勿論上陸前には、島を一周して、不審者がいないことも確認しているのだ。

そういえば。

どういうことだろう。あの写真の、恐らくお兄さんのほうだが、何処かで見た事があるような気がする。とっさに誰かは思い出せないが、その前にまず家事を片付ける。

皆をコンファインして、手分けして掃除。

他では無理だが、おばけ島であれば可能な作業だ。

今なら、一緒にいるファントム全員を、同時にコンファインすることが出来る。流石にヴォルガヌスは無理だが。

パレットと並んで、洗濯物をあらう。その間に身軽に屋根に登ったハツネが、補修を進めてくれていた。

コリンが水を濾過して、カナンがそれで料理を始める。

少し前に、水を濾過する装置を、新型に変えたのだ。このため、飲み水を使うときの浄化が、以前より手間が軽くなっている。

アッシュが家の中の埃を払っている音がした。ガラントが周囲を見回って、安全を確認。今は力仕事は特にないので、バッカスは少し暇そうにしていたが、時々呼ばれて手伝いに行く。

やがて、お風呂が焚けた。入ってくるようにと言われたので、さっそく向かう。

当然のことだが、ファントムには新陳代謝がない。一度、コリンやハツネとお風呂に入ったのだが、垢も出ないし髪も汚れもしていないと、二人は嘆いていた。コリンが残念そうにそんなことを呟くのを見て、ファントムは人間と違うのだと、改めて思い知らされたものである。

お風呂に入って、体の汚れを洗い流して。

さっぱりして出ると、少し休憩した。ベットで横になっていると、そのまま眠ってしまいそうになる。

だが、お風呂に入ったのは、お客様が来るからだ。

伸びをして眠気を払うと、まず大事に返して貰ったペンダントをしまって、外に出た。掃除は、もう終わっていた。

屋根の上から、ハツネが声を掛けてくる。

「丁度来たようだぞ」

「はい、マローネちゃん、ばんざいして」

カナンに、身繕いをされる。鏡を見て手直ししてきたつもりだったのだが、まだ不手際が彼方此方にあったらしい。

ボトルシップは、大慌てという様子で接舷した。

それだけでも、シシカバブが、どれだけあの写真を大事にしていたかが、はっきりしていた。

砂浜に飛び出してきたシシカバブは、顔色からして違っていた。血相を変えているとは、この状態だろうと、マローネは思ったほどである。

「お嬢ちゃン、写真が戻ったって、本当か」

「はい、此方ですか?」

「……! おお、おおっ!」

シシカバブは写真を受け取る。キバイノシシ族の手足は、人間と同じく指先があるのだが、基本剛毛に覆われている。これは男女ともに関係なく同じだ。

戦士として鍛えているキバイノシシ族と違い、シシカバブは比較的細い体をしているが、それでも指先は毛だらけで、知性よりまず野生を感じさせられる。

だが、それでも。

家族への情は篤いらしい。しばらく、シシカバブは涙をこらえるのに、必死になっているようだった。

「あの、約束通り、パティにはもう手を出さないで貰えますか?」

「おお、わかっとる。 わかっとるよ。 ありがとう、ありがとうな……」

サーカス団の団員らしい人間が、袋をくれる。

報酬だった。

ずしりと重い。これほどの高額の報酬を貰ったのは、久しぶりだ。最近は仕事で貰える報酬額が増えてきているし、確実に報酬が貰えることも多いのだが。それでも、これほどのお金は、滅多に貰えない。

「受け取ってくれ。 この写真はな、俺にとって命の次に大事なものなンだ」

「でも、良いんですか?」

「良いンだ」

まるで宝石でも撫でるかのようにして、シシカバブはボトルシップに戻っていく。アッシュが、目を細めた。

「冷酷な人だと思っていたけれど、家族思いな所もあるんだね」

「アッシュ、すぐに船を出して」

「どうするんだい?」

「この報酬を、本来届けられるべき人の所に持っていくの」

どちらにしても、この報酬は、マローネが受け取るべきものではない。本来受け取るべき人は、他にいる。

それは、言うまでも無い。

カスティルだった。

「きっと、カスティルも、これで自信を付けてくれるわ」

「そうだね。 パティと会話する事に成功した、初めての人間がカスティルなんだ。 これくらいの報酬はあっても当然だね」

マローネも全く同意である。このずっしりとしたお金の重みは、決して下品なものではない。

労働の結果の、尊いお金だった。

 

とんぼ返りしてきたマローネを見てカスティルは驚いたが、大金を渡されて、更に驚いた。

最初、カスティルは受け取れないと言ったのだが、マローネとアッシュは説得した。

そもそもこのお金は、尊い労働の結果である事。

カスティル以外の人間は、誰もパティ族との会話に成功していないこと。どんな腕利きの傭兵団でも腕利きのクロームでも、恐らくパティとの会話は出来なかっただろう事。

以前、ヴォルガヌスは竜言語魔法という非常に特殊な術式を使ってパティとコミュニケーションしていたが、それは絶対に人間にまねできない。しかし、ドラゴンを退治することが出来ても、従えることが出来る傭兵団やクロームの人間は存在しない。九つ剣であっても、それは同じだ。

この世でカスティルだけが出来る事があって、その結果、人の笑顔が守られたのだ。たとえ冷酷な人であっても、その人が家族を思っていることは本当で、涙を浮かべながら笑顔を作っていた。

それらをつげると、カスティルは目元を拭った。

カスティルが泣くのを見るのは、二度目だなと、マローネは思った。

「私、役立たずじゃ無いのね……」

「君は、とても賢いよ。 きっとこれからも、その賢さが、世界のためになる」

「まあ、アッシュったら」

泣き笑いながら、カスティルは言う。

和やかで、静かな空間が、その場に出来た。

マローネは立ち会ったのだと思った。友が、人間としての尊厳と自信を身につける瞬間に。

それはとても尊いものだと、マローネは感じた。

しばらく過ごしてから、おばけ島にまた戻る事にしようとして、カスティルの家を出る。そして、不意に空気が変わったことに気付いた。

白狼騎士団の人達が、血相を変えて詰めかけてきていたのだ。

「マローネくん、此処にいたか。 おばけ島にいなかったから、慌てていたのだが」

「どうしたんですか?」

「風遊びが島から緊急のボトルメールだ。 どうやら、あちらに悪霊が出たらしい」

 

2、業と力

 

風遊びが島。

苦い苦い思い出がある場所だ。ウォルナットと最初に出くわし、オクサイドの餌食になった。

あの島の島長は、とても悲しい思いでの主だ。最初マローネに優しかったのに、ウォルナットの言葉を聞いて、対応の手のひらを返してきた。その時、どれだけ心が傷つけられたか。しばらくは立ち直れなかったほどである。

悪霊と最初に対戦した島でもある。ファントムが相手なら、きっと仲良くなれるという幻想は、あのとき打ち砕かれた。

「ほっとけば?」

コリンがさらっと言った。この人は相変わらず、マローネが苦しむようなことを、選んで発言する。そして、反応を、今も楽しんでいる。

ガラントは、マローネが好きなようにすればいいと、表情で言っている。バッカスもそれは同じだ。リザードマンが、実はかなり表情豊かなことを、マローネは最近わかり始めていた。無口なことに変わりは無いが。

「これから我々で討伐に赴く。 敵の戦力が多いようなら、民の避難だけを行うつもりだ」

「ラファエルさんは?」

「団長は恐らく来られないだろう。 今回は少数戦力での緊急任務になる。 報酬については、今回もセレストの連合から請求できるとは思うが」

報酬のことを言われたのは、少し悲しかった。

だが、マローネとしては、やはりその話は見過ごすことが出来ない。

「行きます」

「そうか、助かる」

おじさんが、顔をほころばせる。

問題はこの島の警備だが。それを話そうとしたところで、此方に来たのは、グライネさんだ。まだ包帯を巻いているが、以前とは別人のように頼もしかった。目つきとか、全身に纏っている雰囲気が、全く違うのだ。

「此処は大丈夫だ。 俺たちが死守してる。 万が一悪霊が出ても、カスティルは絶対に逃がすから、安心しな」

「お願いします」

一礼すると、マローネは自身のボトルシップに乗り込む。今は、凄く頼もしい。

最初に戦ったときは、マローネを認めてくれてはいなかったと思う。だが、今は違う。少しは、好きになって貰えたのかも知れない。だとしたら、涙が出そうなほどに嬉しかった。

風遊びが島は、此処から距離的にもさほど無い。此処からなら、数刻以内に辿り着く事が出来るだろう。

仮に、酷い言葉を吐いて、マローネを虐待した相手であっても。

あの恐ろしい悪霊に、頭からかじられる様子を、黙認するわけにはいかなかった。

運転を担当するのはパレットである。居住空間の後ろの、小さな座れる場所。樽型になっているボトルシップの後ろにある、わずかな荷物置き。最近は其処へ腰を下ろすことが多かった。座ると、丁度船の後ろを、無心に見つめることが出来るのだ。

海が、どんどん前へ前へとながれていく。

自分が後ろに下がっているのだとは分かっていても、どうしてか不思議な安心感が、それで生まれる。

潮しぶきが掛かることも無い。ボトルシップの推力になっているボトルの射出口から、丁度外れる場所にあるからだ。

そして具合が良いことに、居住空間がそもそも盾になって、風もさほど吹き込んでこないのである。

ぼんやりと、前へ流れていく海を見つめていると、上の方から声がした。

おっちょこちょいだが、腕前を周囲から認められている、白狼騎士団の女性騎士だ。癒やしの湖島で共闘する前にも、確か見かけたことがある。

「マローネちゃん、こっちに上がってこない?」

「えっ……でも……」

「行っておいで。 生きている人と接するのも、大事なことだよ」

霊体化したままのアッシュが、そう言ってくれる。船が速度を落として、接舷した。ロープを下ろしてくれたので、つかまって甲板に上がる。

白狼騎士団はいくつもボトルシップを持っているという事だが、これはその中でも小さい方の船だという。といっても、マローネのボトルシップの八倍くらいの長さがあり、高さも五倍くらいはあるだろう。

一個小隊を、緊急派遣するときに使う船なのだと、隊長のおじさんは以前言っていた。

女性騎士はリーナと名乗る。

悪意の無い笑顔からは、裏を感じなかった。

ガラントも一緒に上がって来たのは、万が一に備えてのことだろう。パレットも抱え上げていた。

マローネのボトルシップは、コリンが運転してくれるらしい。コンファインでの負担はたいしたことが無いのだが、少し不安になった。スピード狂のイメージがあるからだ。だが、運転を始めると、意外に安定した速度で、舵取りもしっかりしていた。

マローネが乗っていないから、おもしろがっていないのかも知れない。それはそれで、問題があるような気がするが。

白狼騎士団の船の中には、小さいながらも幾つか部屋があった。倉庫と寝室、それに水回りと、少し手狭な部屋。通路を挟んで、四つの部屋が配置されている。少し手狭な部屋で、事前に作戦についての下調べをする様子だった。

以前、マローネは風遊びが島に上陸したことがある。

島の面積の割に大きな岡があって、其処から風が常に吹き下ろしている、不思議な島だ。上陸した辺りの村には、たくさんの風車があった。それ以外にも集落があったはずだが、足は運んでいない。

白狼騎士団は流石で、かなり精密な地図を手にしていた。隊長らしいおじさんが、マローネの前で、てきぱきと偵察と民間人の退避について、説明していく。まず上陸してみて、手に負えそうに無いのなら、即座に撤退。その際は、可能な限り民間人を救出する。本隊に救援を求めつつ、近場の島に民間人をピストン輸送。風遊びが島の近くには、比較的人口が多い島がいくつかある。それらには常駐の軍もいるので、支援のボトルメールも、今のうちに送っておく。

風遊びが島の人口は、この間の悪霊騒ぎでかなり減っているらしいが、それでもこの船では一度に運びきれないだろうと、隊長は言う。

勿論、風遊びが島にも多数の個人所有ボトルシップがある。それらを使って、民間人を輸送することも考えるべきであった。

マローネはほとんど意見を言う暇が無かった。言っていることは分かるのだが、適切だし、何より口を挟む暇が無い。それに白狼騎士団の人達は、どちらかといえば鈍そうなリーナさえもが、自分が何をすれば良いのかしっかり把握している様子なのだ。

正直、肩身が狭い。

だから、ガラントが挙手してくれたときは、嬉しかった。

「白狼騎士団の本隊は?」

「今、ヴァーミリオン地方の火山島で、救助活動を。 村一つが溶岩に飲み込まれそうになっていましてな」

「なるほど、それは放置出来ぬな」

「救援は手配しているので、巧くすれば傭兵団か、手練れのクロームが来てくれる可能性はありますが」

だが、立て続けである。

癒やしの湖島での事件から、一月程度しか経過していない。サルファーの先兵とされる悪霊が、これほどの短時間で続けて出現する事を、怖れない者はどこにもいないだろう。マローネだって、怖くないと言ったら嘘になる。

不意に、気温が下がった。

無言で隊長が立ち上がり、一緒に船の甲板に出る。

そろそろ風遊びが島の筈だが、其処にはあまりにも異様な光景が広がっていた。

癒やしの湖島よりも、酷いかも知れない。

空が真っ赤に染まっている。火山が噴火したのでは無い。まだ昼間の筈なのに、夕焼けのような色が、空にぶちまけられているのだ。しかも、運ばれてくる空気が、異常に冷たい。

以前、氷に閉ざされた雪沼峠の島を訪れたことがあるが、その時とはまた寒さの印象が違う。

本能の芯から、恐怖を訴えかけてくる。

そんな寒さなのだ。

手をかざして見ていたガラントが言う。

「いるな。 既に肉眼で視認できる。 村の方にはいないが、丘の方には、かなりの数が群れている」

「マローネ、ハツネさんをコンファインして」

「分かったわ、アッシュ」

ガラントを戻し、ハツネを代わりにコンファインする。

既に此方の船に移っていたファントム状態のハツネが、マローネのシャルトルーズで実体化すると、周囲の白狼騎士団員が驚きの声を上げた。

「何度見ても驚かされるな」

「ふん……」

周囲を睥睨すると、ハツネは船の後部、一番高い所に登った。このボトルシップは帆の類は無いが、甲板後方に大砲を積んでいるスペースがあり、其処が一団高くなっているのだ。

しばらく手をかざして見ていたハツネが、深刻な声で言った。

「ざっと見ただけでは百程度。 たいした数では無いが……」

「その程度の数なら、この戦力でどうにか出来るのでは無いのか」

「村や町に全く侵攻する様子が無いのがおかしい。 彼奴らが空間を好き勝手に渡る事が出来るのは、前回の戦いで証明されている。 どうして手頃なエサの筈の非戦闘員を襲わない」

そういえば。

前回の戦いでも、悪霊達は城に群れてはいたが、まだ島に残っている人達を襲いにいこうとはしていなかった。

最初癒やしの湖島で交戦したときは、カスティルの家に大挙押し寄せたりした悪霊達なのに。

「いずれにしても、救出は急いだ方が良さそうだな」

「この船だと、ぎゅうぎゅうに詰めても五十名が限度だ。 操船をする者が一人必要だとして、残りは島に残って、生き残りを護衛する必要があるか」

「悪霊が手を出してこないのなら好都合だ。 今のうちに島民を可能な限り避難させるべきだと思う」

騎士達が、いろいろな意見を出している。

いずれもが建設的な見地に基づいた意見だが、マローネは把握しきれない。そわそわしているのを見てか、リーナが助け船を出してくれた。手を叩いて、皆を笑顔で見回す。

「それじゃ、貴重な戦力のマローネちゃんには、どうして貰うべきだと思う?」

「まず我ら全員が島に残るのは決定事項だ。 操船は、アルタカ、君が」

「分かりました」

アルタカと呼ばれたのは、一番若い騎士だ。

前回の戦いで、軽傷を受けている。まだ治癒しきっていないらしく、今回避難民を輸送することに関しては、暗黙の了解が出来ていた様子だ。

マローネは、島に残ることを申し出た。隊長さんは頷くと、自分も最後まで残ると、責任感を露わにしてくれた。

「軍の支援ボトルシップが来るまで、多分半日前後はかかるだろう。 最悪の場合は、この船でのピストン輸送も考えなければならない。 その場合、十日ほどはあの島で持ちこたえないと駄目だろうな」

「十日……」

想像以上に厳しい状況だ。

悪霊達を殲滅するのは、現状の戦力では厳しいかも知れない。攻撃をすれば、倒せるかも知れないが。

その間に、避難できていない人達が悪霊に襲われるかも知れない。

しかし、攻撃と防御で分けるほど、戦力は此処に無い。如何に手練れ揃いとは言え、所詮一個小隊なのだ。マローネが加わっても、空間を移動するという非常識な力を持つ悪霊を、民間人を守りながら多数相手にするのは難しい。

そして、さらなる問題が、島に近づくと明らかになってきた。

座礁したのでは無い、どう見ても壊されたボトルシップが、多数海岸線に見え始めたのである。

何が起きたかは、明白であった。

既に悪霊も、此方に気付いているとみて良いだろう。

状況は、想像以上に厳しいと言えた。

 

島に上陸すると、異常な空気がマローネの全身を包んだ。

この風遊びが島は、そもそも吹き下ろしてくる風を利用して、生計を立てている。だから風車が林立している特徴的な光景が印象的だったのだが。その風車が軋む音が、生理的な嫌悪感を招くほどである。

船の方では、白狼騎士団の人達が、ボトルメールを出している。

島の生存者を護衛しつつ、脱出作戦を行うことは、既に港の惨状からも無理だと言う事が明らかだった。悪霊がどれほどの数いるかは分からないが、脱出しようとすれば、船の方を集中的に狙ってくるのが目に見えている。

奴らは空を飛ぶ。海上に逃げても、関係ないのだ。だから、増援を呼ぶ。最低でも一個中隊はいないと、作戦実行は無理だと、隊長さんは判断したらしい。的確な判断だと、マローネは思う。

それに、問題はこの空気だ。何だか嫌な予感がしてならない。コリンがコンファインして欲しいと言ってきたので、その通りにする。

実体を得たコリンは地面に魔法陣を書き始めた。

リーナが歩み寄ってくる。船上ではにこにこと締まりの無い笑みを浮かべていたが、既に臨戦態勢に心身を切り替えている。

「何か分かりそう?」

「ちょっと待ってね。 ふんふん、へえ……」

コリンが楽しそうに周囲を睥睨した。ろくでもない結果が出たのだろう。

その予想は当たった。

「風に瘴気が混じってる。 こりゃあ、人間が長時間吸い続けると、心身に異常をきたすだろうね」

「まずいな……」

「とりあえず、防げる結界は作るけど、あまり大規模には張れないよ」

リーナがコリンと相談しながら、結界を作り始めた。ガラントは剣を構えたまま、いつ襲撃を受けても大丈夫なように、無言で辺りを見回ってくれていた。

偵察に出ていたハツネが戻ってくる。

「生き残りは結構いる。 というよりも、悪霊に襲われた人数はさほど多くないようだな」

「ハツネさん、どう思いますか?」

「どうもなにも、持久戦の構えだろう。 退路を塞ぎ、空気をおかしくして、弱らせてから一網打尽というわけだ。 島の彼方此方では、人間同士の争いも始まっているようだな」

なんと言うことだろうか。

隊長さんが来る。あまり表情は芳しくない。

そもそも、白狼騎士団の主力は、今噴火した火山島で救援活動を行っているという。増援はしばらく来られないとみて良いそうだ。

近隣の傭兵団にも声を掛けているのだが、来られそうなのは風の翼団だけ。アマゾネス団は癒やしの湖島での打撃が残っているし、フォックスはそもそも単独だから、今回の仕事には向かない。獣王拳団は再編成が終わっていない。小規模の傭兵団が有している船と戦力では、悪霊の襲撃を防ぎきれないだろう。

ガラントと腕組みして、隊長さんが話し合いをしている。それが一段落すると、隊長さんは、マローネにも状況を説明してくれた。

「今、イヴォワール全域に異常が広がっている。 傭兵団は軍と協力して対応に当たっているが、そろそろ手が足りなくなりつつあるようでな」

「風の翼団は、どれくらいの数が来てくれそうですか」

「主力をつれて急行すると言っていたが、あまり期待はできん。 リエール殿は信頼出来る戦士だが、この状況だ。 脱出する船を指揮するとして、どれだけの期待が出来るか……」

いっそ、悪霊を叩くのはどうだろうかと思った。

だが、此方にいるのは、手練れとはいえ一個小隊である。街の自警団と併せても、戦力は甚だ貧弱。

少なくとも、今は身動きが取れる状態では無かった。

「悪霊憑き……っ!」

強烈な憎悪を帯びた声が、不意にマローネにたたきつけられた。

振り返ると、以前マローネに、この島の悪霊退治を依頼してきた島長である。オウル族の中年女性である島長は、目を血走らせ、羽は乱れきって、完全に狂気に陥っているようだった。

「お、お前が、お前がまた、悪霊を……!」

「それはあり得ませんな」

隊長さんが、マローネはずっと自分たちと一緒に、別の島にいたことを証言してくれる。

だが、狂気に陥った島長に、そんな論理的な説明は、意味をなさない。唾を飛ばしながら、まくし立てる。

「また悪霊を出して、島を、滅茶苦茶にして! 殺す! 殺してやる!」

「取り押さえろ。 縛っておけ」

会話するだけ無駄と判断したのか、隊長が部下達に指示。わめき声と金切り声を上げながら、島長は引きずられていった。

化け物。異常者。人殺し。

叫び声が、マローネの耳に残る。リーナが、マローネの肩を叩いた。

「マローネちゃんが正しいことは、此処のみんなが知ってるよ。 気にしちゃ駄目だからね」

「……」

やはり、ああいう直接的な悪意をぶつけられると、今でもこたえる。涙が流れるほどでは無いが、心は痛かった。

街の彼方此方に散っていた白狼騎士団の団員が、代表者達を連れてくる。みな青ざめていて、気力も根こそぎ無くしているようだった。

いくつかある集落の代表が、狂気を発してしまった島長を除いて集まったのは、夕刻である。

まだ、悪霊は動きを見せない。

だが、最悪の事態を考慮して、会議は港で行う。住民も、病人や体が弱っている者から順番に、港へ移動を開始させていた。

ハツネはずっとコンファインして、一番背が高い島長の屋敷の屋根に張り付いている。いつ悪霊が動き出しても、すぐに分かるようにするためだ。周囲はガラントとバッカスが交代で見張ってくれているので、最悪の事態が来ても、回避は難しくない。

ただし、守ることが出来るのは、この周辺の住民だけだろう。

「どうして、すぐに島を脱出させてくれんのかね」

「脱出しようとした船がどうなったか、忘れたのですか?」

「それは……」

やはり、島の人達に話を聞くと。悪霊達は最初いきなり港に現れ、船という船を破壊したのだという。逃げようとした住民もいたが、船ごと悪霊の餌食になってしまったそうだ。

更に、この風である。

体調を崩す者が大量に出て、身動きが取れない状態になってしまった。

この島の者達は、皆恐怖に打ち震えている。一番最初に、島長への突き上げがあった。そして、どうにもならない状況に、島長はパニックを起こして、発狂してしまった。

どうにかボトルメールで救援要請を出すことが出来ただけでも、マシかも知れない。

「今、増援を呼んでいます。 増援が到着し次第、脱出作戦を開始します」

「それは、いつ来るのかね」

「早く俺たちだけでも脱出させろよ!」

勝手な事を、自警団の団長がほざいた。ごついキバイノシシ族の戦士だが、近接戦の知識があまりないマローネから見ても、そんなに腕は立ちそうに無い。

「もう他の奴らはたすからねえよ! だ、だから、早く!」

「貴殿は自警団の長だろう。 守るべき民を見捨てて、自分だけ逃げるというか」

「きれい事はたくさんだ! 丘の方はもう悪霊だらけで、港ももう駄目だ! 俺たちに、人間に、何が出来るっていうんだよ!」

そうだそうだと、声が上がった。

マローネは悲しくなった。となりでガラントが眉の間にしわを見る間に増やしている。

人間は、こうも自分勝手になれる生き物なのか。

ハツネがよく人間を批判しているが、反論する事が、これでは出来そうにない。そして救えないのは、マローネにも、これが普通の人間の普通の行動だと、分かってしまっている事だろう。

うつむくマローネをかばうように、リーナが指を鳴らす。

同時に、その場で騒いでいた全員が、床にたたきつけられていた。リーナは笑顔のままだが、目は全く笑っていなかった。

「貴方たちを縛って悪霊達の囮兼エサにすれば、今体調を崩して寝込んでいる人達位を逃がすことくらいは出来るって、分かってます?」

「ひいっ!」

リーナは能力者だと聞いていたが、今の光景は。

能力を使うことを、彼女はためらっていない。日常の一風景に馴染むほど、能力に慣れ親しんでいる証拠だ。

咳払いする隊長。リーナが能力を解除する。

「手荒なまねをして済みませんな。 だが、今のような勝手な事をいうようなら、我々も勝手な行動を取らせて貰いますぞ。 弱者を犠牲にして自分だけ助かりたいというような唾棄すべき行動を取る輩を生け贄にして、助けるべき存在を助ける、とかね」

「そ、そんな!」

「今、増援が此方に向かっていると言ったことは覚えていますな。 とにかく、悪霊が仕掛けてくるようなら、命に代えても皆を守ります。 増援が来たら、どうするかはその時判断します」

何だか、救われた気がする。

マローネは、隊長さんのような、リーナのような行動を取れない。相手を暴力も用いて諭す事は出来ない。

しようとも、思わない。

しかし、二人の行動に、今救われたのは事実だ。

外に出ると、ハツネが厳しい表情で待っていた。

「悪霊共が動き出した。 西側の集落の住民が、此方に来るのを横から襲うつもりだ」

「何っ!」

「分かりました。 私が行きます」

「頼むぞ。 我々は、此処で守りを固める」

今、勇気は貰った。

だから、マローネは、守るべき存在を守るべく、戦う。

バッカスをコンファインすると、乗るように言われた。マローネが走るよりも、バッカスが走った方が速い。

だから、マローネは、そうさせて貰う。

バッカスがマローネを背中に乗せると言う。

「ツヨクナッテキタナ」

「有り難うございます」

「ハシルゾ。 ツカマレ」

バッカスが、風を切るようにして、疾走した。

 

白狼騎士団の騎士一人が、数体の悪霊を同時に渡り合っていた。

周囲は大混乱である。既に数人の住民が、悪霊に食いちぎられてしまったようだった。マローネは唇を噛むと、まずは敵陣にまっすぐ行く。ハツネが放った矢が、横殴りに悪霊の群れを掃射するのを見た。

敵陣に、突入する。

ガラントが、無言で剣を縦横に振るい、敵を斬り伏せる。

悪霊が此方に気付くよりも速く、ハツネの矢が敵を次々射すくめた。敵の数は五十を少し超えるくらいだろうか。

ハツネは立ったままで、その場で理想的なフォームを維持し、敵を射貫いている。逃げ惑う住民の間を通して悪霊を貫くような神業も平然と披露していた。

激しい戦いになると、弓兵であるハツネは真っ先に狙われる傾向がある。そのため損耗も激しく、いつも酷い打撃を受けている印象がある。

だが、それが故にかも知れない。

ハツネの中には、大海の真ん中にある岩のような、揺るぎない平常心があるように見えた。

「こっちへ! 急いでください!」

バッカスが敵の一角を、力に物を言わせて蹴散らした。マローネが叫ぶと、悲鳴を上げながら逃げ惑っていた住民達が、此方に走ってくる。その背中を襲おうとした悪霊を、飛びかかったバッカスが食いちぎり、更にもう一匹を掴むと、地面にたたきつけ、卵のようにひねり潰した。

荒れ狂うバッカスの上で、マローネは見る。

以前、飴をくれようとしたオウル族の子供が、母親に手を引かれて走っている。子供が転んだ。母親が戻ろうとする所を、悪霊が真上から、二人とも食いちぎろうと躍りかかる。

マローネはその時。印を切って、躊躇無く火球の術式を発動していた。

練度が低くても、マローネの魔力はかなり高まっている。瞬時に炎に包まれた悪霊が、おぞましい悲鳴を上げる。

子供を抱きかかえると、母親が逃げ去る。

悪霊が、形勢不利とみたか、逃げ始める。コリンをコンファイン。既に霊体の状態で詠唱を続けていた彼女が、コンファインと同時に大技を敵の群れの中に叩き込んでいた。

「ふっとべ! ギガファイヤ!」

空中に、紅蓮の大輪が出現した。

炎の火力よりも、爆発の余波が、悪霊を根こそぎなぎ倒す。

更に、取りこぼしは、容赦なくハツネが射貫ききった。

敵は一匹も逃さなかった。

ガラントが剣を振る。逃げ惑う住民達の間を走り回って、適切に守り抜いた。地味ながら、十体以上は斬っていたはずだ。

白狼騎士団の戦士も、攻勢に出てからは、敵を容赦なく打ち倒していた。流石の手練れである。

「助かりました。 流石ですね」

「散った住民をまとめて、急いで街の港に向かうぞ。 他の集落からの避難が、襲われる可能性もある」

「分かりました。 急ぎましょう」

命を落とした人達は、簡易に埋葬する。

バッカスが力強く穴を掘ってくれた。墓標を立てて黙祷すると、白狼騎士団の戦士が、手際よく皆をまとめている手伝いをするべく、そちらに向かった。

「被害は出たから、完勝とは言えないな」

全てを戦いに考えられるハツネが、この時は羨ましかった。

彼女に悪気は無い。

そして、きっと単純が故に。彼女の方が、この時は正しかった。

カナンに出て貰い、代わりにガラントに戻って貰う。けが人の手当をして貰い、その間の哨戒はバッカスとハツネにしてもらった。巨躯のバッカスを見て怖がる住民もいたが、今悪霊を倒しているのを見ていた子供は、笑顔を浮かべて話しかけていたりした。

やはり、子供の方が。偏見に心を浸されていないのかも知れない。

走れないほどの怪我をした者が何名か出ていた。カナンが手際よく治療して、他の村人が背負ったり、担架を担いで歩き始める。

まだ街までは少しある。もう一度、敵の襲撃があってもおかしくない状態だ。

「妙だな……」

「ハツネさん、何か来ましたか?」

「そうじゃない。 丘の上にいた悪霊どもの数が減っていない」

いる事は確かだと、ハツネは言う。彼女の目は信頼出来るから、確かにいるのだろう。

しかし、そうなると。

今襲撃してきた悪霊は、どこから沸いて出てきたのだろう。島の周囲を回ったが、隠れられるような場所は、無かったはずなのだが。

緊張を強いられながらも、進む。

マローネはバッカスから降りて、けが人を何人か背負って貰った。リザードマンに背負われることを怖れる村人もいたが、今は非常時だ。

風の翼団が来るまで、守りに徹するしか無い。

行軍が、かなり厳しい。カナンが倒れそうな人に回復の術式をその都度掛けているが、それも限界がある。

坂道にさしかかった。普段はどうと言うことも無い風が、横殴りに吹き付けてくる。禍々しい風の恐ろしさを、マローネは文字通り肌で感じた。

悪霊は、いない。

街が見えてきて、ほっとしたのか。住民達の気が緩む。

此処を襲われたら危ないと、マローネが思うよりも先に。気が先走った一人が、街へ走り出してしまった。

それに続いて、いっきに避難民がめいめい走り出したりする。秩序が一気に崩壊する。

助かった、と思ったのだろう。

血相を変えた白狼騎士団の戦士が、先に駆けだした。バッカスが困惑したように、周囲を見回す。

けが人を背負っている状態で戦うのは難しい。

マローネは印を組む。詠唱開始。空に、影。

やはり、多数の悪霊が、まるで此方を嘲笑うように出現した。もう街なんて、彼らにとっては襲う意味も無い場所なのだ。狩り場はこの島全体。隙を見せた奴から襲えば良い。そう考えているのは、明らかだった。

ハツネが矢を引き絞り、コリンが詠唱を開始。

「こっちはクリスタルガードで守ります! 先に行った人達を!」

「分かった! 全く、世話が焼ける!」

見る間に、マローネの周囲に、悪霊が集まってきた。

けが人ごと、クリスタルガードの術式で周囲を囲う。悪霊が次々体当たりしてきて、住民が悲鳴を上げた。抱き合って震えている足弱の人達を背中にかばうように、マローネは目を閉じて、術式に集中する。

外では、激しい戦いが行われているはずだ。

バッカスがけが人を下ろして、クリスタルガードの防壁から飛び出していった。一瞬だけ解除するタイミングが難しかったが、信頼関係がそれを成功させる。まだ、クリスタルガードへの攻撃音が響いている。

外で、鋭い悲鳴。

目を開けると、逃げ惑っていた一人が、悪霊につり上げられた所だった。ハツネが間髪入れず悪霊を叩き落とすが、多数の悪霊が一気に群がり始める。

「マローネ!」

「分かってる! でも……!」

クリスタルガードの術式は、消耗が大きい。外には多数の悪霊がいる。

コンファインもこの状態では出来ない。

だが、そこで。

駆けつけてきたリーナが、敵の中に割り込むと、縦横無尽に敵を切り裂き始めた。一気に攻勢に出た味方が、悪霊を蹴散らし始める。

どうにか戦いに勝つ。

だが、けが人は、また増えた。

えもいわれぬ疲労感と共に、白狼騎士団と合流する。他の地点でも、攻撃はやはりあったらしい。

以前の悪霊騒ぎの時は、死者は出なかった。だが、それは、悪霊が船を攻撃しなかったからだ。

悪霊が学習していたのか、或いは別の理由かは分からない。

港に、島の住民があらかた集まるまでに。

10人以上が、命を落とすことになった。

増援は、まだ来ない。

 

3、焦燥と狂気

 

奇声が上がった。

走り回る男を、白狼騎士団の人達が取り押さえて連れて行く。港に集まった数百人は、既に極限状態にあった。

街は既に危険地帯と化している。白狼騎士団が三名一組で見回りをしているのだが、昼間から異常な空気が充満し、悪霊が散見された。既に岡の上を飛んでいたはずの悪霊達は、自分たちが街の中に入り込めることを、隠そうとさえしていなかった。

安全と思い込んで自分の家に閉じこもっていた者が何名か悪霊に食い殺されて、それで白狼騎士団は、港に作ったキャンプに、生き残りを集めることに決定。

食料と、水は、それなりにある。

だが、既に極限状態は到来していると言っても良かった。

膝を抱えて座っているマローネは、側にハツネが来たのに気付く。顔を上げると、彼女は焦燥しきっていた。

「街の中だけでも、三百はいる。 岡の上にいた連中は、最初から陽動だったのだろうな」

「怖いですね」

「今、リーナという女が、能力を使って港にある建物を壊して廻っている。 悪霊が中に潜んで、攻撃をしてくるのを防ぐ目的だろう」

ボトルメールは、一応行き来に成功している。

ハツネも、隣に座って膝を抱えた。ずっとコンファインを解除していない。マローネも疲弊が溜まっているが、彼女も疲れ切っている。コリンが来て、無言で氷の入った袋を差し出してきた。

ハツネは嫌そうにそれを受け取ると、目に当てた。多少は楽になるのだろう。ずっとコンファインしていると、新陳代謝は無いにしても、もともと奇跡によって身を得ている事の反動が出始める。

「増援は、まだ来そうに無いですか」

「ボトルメールも襲われはじめたみたいだね」

「……っ!」

悪霊達も、人間を急速に学習してきている、という事だ。コリンはこんな時でも、マローネの反応を見て楽しそうにしていた。

恐らく今後は、マローネを集中的に狙ってきてもおかしくない。そうなれば、もうこの島の人達は。白狼騎士団の人達は手練れであるが、それでもどうにもならないだろう。逆に言えば、マローネを孤立させてくる可能性もある。

隊長さんが来た。手にスープを持っている。

まだ元気な一部の島民が、炊き出しに協力しているのだ。隣に座ると、一緒に食べ始める。

食べるかとハツネは言われて、首をゆっくり横に振った。

「そうか。 死人になると、食事はいらないのだな」

「食べる事も出来るが、無駄になるだけだ」

今は、長期戦になる可能性が高い。そう、ハツネは判断したのだ。彼女らしい、ドライな考えである。

島の人達は一カ所に固まり、恐怖に震えている。島長は完全に発狂してしまって、縛られたまま転がされていた。

「味気ないな。 塩の利いた、カド島のスープの方が美味い」

「どんな島ですか?」

「ヴァーミリオン地方にある小さな島でな。 島じたいには産業が無いんだが、スープだけは絶品で、たまに休暇になると食べに行く。 マローネくんも一度行ってみると良いだろう」

こんな話をするのも、隊長さんは次の休暇に行けるか分からないと思っているからなのだろう。

アッシュが来た。ファントムの状態だが、コンファインしているガラントと一緒である。

何かあったと見ていい。

「マローネ、コンファインして貰えるかい?」

「何かあったの?」

「交代の時間だよ」

「えっ! あああっ、そうだった! ごめん、アッシュ、ガラントさん」

そう言われて、慌てた。どうもマローネも、神経衰弱に陥っていたらしかった。

アッシュとガラントを交代。少し前からバッカスは霊体に戻り、丸まって休んでいる。カナンも一段落した後は、同じ状態だ。

ヴォルガヌスが丘の上を見に行っては、時々報告をくれる。悪霊の数は相変わらず。以前見かけた、空間の穴のようなものもある。其処から定期的に悪霊が沸いてきているのだが、どこへ消えているのかは分からないそうだ。

状況に、改善の兆しは見えない。

リーナが来た。

隊長さんに話は聞いたが、彼女は天才的な剣の腕と、優れた能力から、ラファエル団長に目を掛けられて、重要な任務には必ず顔を出しているという。

癒やしの湖島の戦いでもそれで声が掛かったのだろう。

彼女は、下半分が砕けて、命が消えたボトルメールを手にしていた。悪霊に襲われたのだろう。

自然の動物は、ボトルメールには興味を示さない。狙うのは、人間のベリルか、或いは知性がある存在くらいだ。

「隊長、やられましたよ。 しかも彼奴ら、どうも風の翼団宛てのメールばっかり狙ってるみたいです」

「そうか」

「何だか気味が悪いですね。 マローネちゃん、こっちは変わりない?」

「今のところは。 リーナさんも食べますか?」

一緒に座って、円座になってスープを食べる。休んでいたハツネは腰を上げると、アッシュと連れだって見回りに行った。

怒声が聞こえたのは、住民同士で喧嘩をしているのだろう。いつ悪霊に襲われるか分からない恐怖、先が見えない絶望感。誰もが、怖がっている。マローネが見ていても、痛々しいほどだ。

白狼騎士団の人達も協力して休憩を取っているが、それでも限界がある。隊長さんは、目の下に隈ができていた。

何個か出していたボトルメールの一つが生還したらしい。手紙を広げる。嘆息した隊長さんが、首を横に振った。

「我が軍の主力は、火山活動を開始した別の島に向かった。 危機的状況で、此方よりも優先しないとまずいらしい」

「そんな、こっちだって!」

「向こうは人口千二百人の島だ。 しかも此方に向かっていたら、全滅が確定するんだぞ」

悲痛な声を上げた若い戦士に、隊長さんは言い聞かせる。

白狼騎士団の人達も、限界が近い。

毎日、悪霊との小競り合いが起こっている。向こうは無尽蔵な上に、此方の戦力は極めて限られている。

如何に歴戦の強者達とは言え、それは同じだ。

白狼騎士団の人達が、時々話しているのを聞く。健康な者だけを選りすぐって、逃げるという手もあるかも知れない、と。

だがそれは、最も恥ずべき行為だ。それに、そんなことをすれば、海上で悪霊の大軍に襲われるのが目に見えている。

何も進展しないまま、夕刻が来て、そして陽が水平線の下に消える。

流石に限界が来たハツネが、一度コンファインを解除。

代わりにコリンがコンファインをして、周囲を見回り始めた。彼女は術者としては超一流だが、早期警戒能力はハツネに及ばない。だから、術式でトラップをかけて廻っている様子である。

ぎゅっと身を縮めるマローネの側に、アッシュがいてくれる。

「どうにかならないのかな……」

「悪霊が出現している穴をどうにか出来れば。 でも、僕たちがそちらに出向けば、当然悪霊は避難している人達を狙ってくるだろうね」

「……」

今は、耐えるしか無い。

一度共闘したリエールは、非常に頼りになる戦士だった。決断力も優れていて、紳士的で。きっと、この島を見捨てるようなことは無い筈だ。

夜が来る。

住民が何名か、隊長の所に来たようだ。話し声が聞こえるが、徐々に怒声が混じり始める。

「許可できない」

「どうせ死ぬんだ! 故郷の村や家で死なせてくれ!」

「こんな生活もう耐えられない! どうせ援軍なんか来ないんだろ!」

昨日くらいから、ヒステリックな意見が増え始めていた。実際、夜中の内に脱走する者もいた。

そうして、ほとんど街から出ることさえ出来ずに、朝には無惨な亡骸として見つかるのだった。

「気を強く持つんだ、マローネ」

「分かってる」

色々、アプローチはしているのだ。

カスティルに通信を行って、そちらから援軍を呼んで貰ってもいる。現在の状況が如何に危機的かは、皆が分かっている筈だ。

だが、隣の島でさえ、援軍には来ない。

歴戦をくぐり抜けてきた白狼騎士団の戦士達でさえ、疑心暗鬼を覚え始めているのである。戦いの経験が無い非戦闘員が、どうしてこの極限状態に耐えられようか。

ヴォルガヌスが、側に霊体のまま降り立つ。

「どうやら、援軍が来たようじゃぞ」

「……!」

「南から、大きな船が接近してきておる。 だが、当然それに悪霊も気付いておるじゃろうな」

思わず立ち上がる。

援軍が来たのなら。状況は、一気に改善する。

 

港に停泊した巨大な船。

風の翼団のボトルシップだ。降りてきたリエールは、港の様子を一瞥して、敬礼する隊長さんに言う。

「酷い有様ですね」

「増援、感謝いたします」

敬礼をかわす二人。

マローネも一礼する。リエールは精悍な顔をわずかにほころばせたが、それだけだ。今は戦場にいるに等しいからだろう。

リエールが、遅れた理由について話してくれる。説明してくれなくても、甲板に大量に飛び散った返り血や、負傷者が多数いる有様から、ある程度予想できたが。

海上で、三回悪霊に襲撃されたのだという。しかも、だ。二回目に至っては、二百体を超える悪霊の襲撃を受けたそうだ。

着港したのは、風の翼団だけでは無い。幾つか小さい船もある。

どれも、セレストからの補助金目当てのクロームのものだろう。ただし、どのボトルシップもぼろぼろだった。海上で如何に激しい戦いが行われたのか、よく分かる。

団員達が降りてくるが、けが人は決して少なくない。ヒーラーの姿もあるが、これではすぐに救援活動に取りかかるのは難しいだろう。

リエールが状況を見聞した後、言う。

「考え時ですな」

「といいますと」

「ピストン輸送で、民を逃がすか。 一気に戦力を集中して、敵の本拠を叩くか」

「ならば、民の護衛は此方にお任せを」

船からは、救援用の物資も次々に下ろされ始める。

歓声を上げて群がる住民達。だが、大きいとは言っても、リエールの船に100人以上乗せることは無理だろう。

海上で襲撃を受けることを想定すると、何度も往復していると、船がもたない可能性もある。

しばらく、話し合いが続く。だが、意見は攻撃が優勢だった。マローネも意見を求められた。ガラントは戦うべきだという。逃げるべきだという意見を挙げた人は、誰もいなかった。

マローネ自身も、その意見に賛成だ。

この数日で、嫌になるほど悲しい光景を見た。ぶちまけられた血、内臓、散乱した手足、そして食いちぎられた体。猛獣だって、此処までの事はしない。獲物を嬲る猛獣もいるが、それにも限度がある。

悪霊達は、殺すために殺している。

今日、今こそ。それを終わらせる。

ふと、気付く。

悪霊達の他に、もう一種類だけ。こういうことをする生き物がいないか。サルファーの手先が悪霊だとすると、それは。

頭を振って、雑念を追い払う。

マローネの意見が出ると、それで作戦が決定した。

「マローネ殿」

「はいっ!」

「これから少しファントムの皆を休ませて欲しい。 三刻後、此処にいる最精鋭を選抜して、一気に敵の本拠に攻撃を掛ける。 君には中核の戦力として、最前線で活動して欲しいのだ」

「分かりました!」

気合いが入る。

全員のコンファインを、一度解除。これだけの戦力が来たのである。悪霊側が総力での攻撃を仕掛けてこない限り、充分に二度か三度くらいは押し返せる。もしも仕掛けてきたときは、逆に好機。敵を引きつけ、一気に以前見たあの恐ろしい「穴」を塞いでしまえばいい。

以前はあの恐ろしいおじいさん、スプラウトが穴を「喰らった」。だが、そうでなくても、今回は二回目だ。コリンがどうにかしてくれる。

王手を掛けられていた。

だが、今は逆に王手を掛けた。

顔を上げたマローネに、リエールは頷く。以前雪沼峠の島で激しい戦いを共にしたときよりも、ぐっと安心感が強い。

リエールが、マローネを信頼してくれているのが、分かる。

戦いは、既に始まっていた。

 

4、悲しき世界最強

 

どこに隠れていたのだろう。

空が真っ黒になるほどの悪霊が、彼方此方から現れる。ハツネは三百以上と言っていたが、それどころでは無い。

向こうも、総力戦をやる気になったのだ。

頭は。

突破口は。

考えるより先に、ヴォルガヌスが吠える。

「まずは儂じゃ!」

「はいっ! さまよえる魂よ、導きに従い現れ出でよ……!」

怒濤のごとく殺到する無数の悪霊を、飛び出したリエールが、絶倫の技量で突き、打ち抜く。

雄叫びと共に、その全身が淡い緑に包まれた。

轟と、音が響く。

風が、刃となって、辺りを斬り伏せていく。かまいたちを発生させる特殊能力か。悪霊達がひるむ。

「奇跡の力、シャルトルーズ!」

コンファインの素材にしたのは、既に朽ちかけていた大きな建物。

丸ごと、ヴォルガヌスの姿へ変わっていく。逃れようとする悪霊の大軍に、偉大なる古代竜が、全身を震わせ、雄叫びを放った。

「今日はちいと手荒いぞ! 覚悟して、ふっとべい! 雑魚共ッ!」

這いつくばるようにしたのは、恐らく衝撃を殺すため。

マローネは、全身にわき上がる疲弊を感じつつも、だが。

見る。

撃ち放たれたブレスが、ぼろぼろの街の一部ごと、悪霊の群れを、光に返していく光景を。

爆発。思わず、耳を押さえていた。

丘の一部が、消し飛んでいた。

リエールが驚きの声を上げる。

「これは、エンシェント級のドラゴンでも、普通は此処まで出来ないぞ」

「コンファインした影響かのう。 よおし……まずは初手は成功じゃな」

ヴォルガヌスが消えていく。

今のブレスの直撃で、敵の頭数が相当に減った。だが、元々眼前を埋め尽くすようにしていた数だ。

再び、多数の悪霊が殺到してくる。

既にガラントとハツネはコンファイン済みだ。バッカスにも出て貰う。

もみ合うような乱戦の中、確実に白狼騎士団の小隊とリエール他の風の翼団精鋭十名が、敵の中に道を作っていく。

敵の一部は、港へも向かっているようだが。そちらには、風の翼団の主力と、腕利きのクローム達が手ぐすね引いて待っている。簡単には通しはしないだろう。

だが、問題もある。

これほどの数だ。敵の回復力がどれくらいあるか、分からない。

激しい戦いの中、傷つく者も出る。

それでも、進む。

街を突破。坂を上り始める。悪霊は無尽蔵に沸いてくる上に、空気が最悪なままだ。ますます異臭と違和感が強くなってくる。戦闘をしていれば、当然たくさん空気を吸うことになる。

長時間の乱戦は、人間には不利だ。

ハツネは片っ端から敵を叩き落としていくが、当然周囲に悪霊も集まってくる。途中から、白狼騎士団の戦士二人が側についた。前回の戦闘で、ハツネがどう脱落したかを聞いているからだろう。

大きい悪霊が、敵群に混ざり始めた。敵の抵抗が強固になる。

体当たりを受けたオウル族の戦士が吹っ飛ばされる。倒れたところに、敵が殺到。バッカスが飛びついて守りながら、尻尾をふるって追い払う。白狼騎士団の消耗も、激しくなってきていた。

眼前の悪霊を突き伏せたリエールが、頭を振って汗を飛ばした。既に相当な手傷を受けている。

だが、リエールの闘志は、まだ衰えていなかった。

「少し、大きいのを行く。 時間を稼いで欲しい」

「任せろ」

ガラントが、リエールの前に出た。

リエールが槍を地面に突き刺すと、素早く印を組んだ。さっきのかまいたちの能力だろうか。

マローネは、バッカスに跨がるように言われ、その背に上がる。

最近気付いたのだが、バッカスの背に乗っていると、視点の高さが上がるので、戦況が分かり易くなる。

リエールに接近する敵を、ガラントが瞬く間に数体斬り伏せた。だが、悪霊もさるものである。上空から落ちるようにして、次々襲いかかってくる。恐れを知らないから、どれだけ味方が叩き落とされようと平然としている様子は、おぞましくさえあった。

リエールの周囲の空気が、不意に静かになった。

来る。反射的にマローネは、身を低く伏せた。

「大空の支配者一族が命ずる!」

気付く。

さっきは周囲に放っていたかまいたちの力を、リエールはその体に纏っている。そして、跳躍と同時に、かまいたちの力を纏ったまま、敵の密集部分に突入した。翼を広げて滑空しているが、恐らく風の能力で加速しているのだろう。とてつもなく速い。

「風神の能力! オウル・ミョゾティス!」

それは、刃物の塊が、密集している悪霊の群れを強引に通り過ぎるような光景だった。

吹っ飛び、千切れ飛ぶ。

無惨に切り裂かれた悪霊が、悲鳴さえ残さず砕け、飛び散っていく。一気に周囲に間隙が出来、その間を走り抜けた。

辺りを跳び回っていたリエールが、着地。

肩で息をついている。流石にあれほどの大技である。一瞬で倒した敵の数も、相当数に上っていた。

疲弊しないわけが無い。

「以前、穴を見た場所とは……」

「このもう少し先です!」

「よし、突破……」

不意に敵が乱れる。

ハツネがこの機をのがさじと、数体を瞬く間に射落とした。だが、ハツネもそろそろ汗でびしょびしょになるほど疲弊している。

コリンが、隊形を乱した敵に、雷撃の束を浴びせかける。爆裂するように広がった雷撃が、逃げ遅れた悪霊をまとめて焼き払った。

「何か、別方向から来たかな」

「増援か?」

「この様子では、悪霊に敵対はしているようだ。 急いでこの隙に距離を稼ぐ!」

マローネは、不意に何か嫌な感触を覚えていた。

この嫌な感じ、何処かで覚えがある。

そして、怖い以上に、何処か悲しかった。

坂を駆け上がって、敵をねじ伏せる。空間を渡る非常識な能力で、悪霊は抵抗を続けている。

だが、総力戦である以上、打撃は確実に響いてくる。

隊長さんが、悪霊のタックルをもろに受けた。銀色の兜が吹き飛ばされ、中空に舞った。はげ上がった隊長さんの頭が露出して、兜が転がる。

倒れた隊長さんに、真上から数体の悪霊が躍りかかる。円状の体そのものを構成している巨大な口が、かぶりつこうと迫る。

飛び出したリーナが、剣を向ける。

ひしゃげた悪霊が、吹っ飛んだ。そして、遠くで爆散する。能力による攻撃だろう。呼吸を整えながら、隊長さんが立ち上がる。目元のしわが、汗で濡れていた。

そろそろ限界が近そうだ。

カナンが駆け寄り、回復術を掛ける。

「くっ、年だな。 数ばかりの雑魚に、息が上がる」

「なんの。 体力の消耗は、技で補えばよい」

バッカスよりも大きな悪霊を、ガラントが一息に斬り倒すのを見て、勇気づけられたのだろう。

隊長も立ち上がると、兜をひろい、かぶり直した。

見えてくる。

丘の中腹の空間に、黒い穴が空いている。今も悪霊が現れ続けているようだ。あの巨大な魔物がいるかも知れない。気をつけろとガラントが叫んだが。

だが、それどころでは無い事態が発生する。

「伏せて!」

真横から、超高密度の殺気を感じ取ったマローネが絶叫。

ほんの目と鼻の先の空間が。

漆黒の力の奔流で、文字通り消し飛んでいた。

 

それは、まさに生きた破壊だった。

悠然と歩いて来るスプラウト。そう、あのラファエルが言っていた、大剣士スプラウトだ。彼が巨大な剣を振るう度に、その剣の軌道の先が、空間ごとえぐれ、そして消し飛ぶ。悪霊など、もう紙くず程度の相手にしか見えていないようだ。

ただ、歩いて剣を振るっている。

それだけで、三桁どころか四桁に達しようかという悪霊の大群が、壊滅していくのである。あのラファエルが世界最強と評したのは、全く誇張でも何でも無い。上級の能力者には非常識な使い手がいると聞いているが、これは。

地面がえぐれて、吹っ飛ぶ。剣撃の余波が、地面をかすめただけだ。思わずマローネは、耳を塞いでいた。

ついに、逃げ始める悪霊達。だが、スプラウトが手にしている巨大な黒い剣を空に掲げると、それだけで彼らの運命は決まってしまった。

「食らいつくせ、魔剣シヴァ! 冒涜の力、ダーク・エボレウス!」

絶叫が轟く。

渦が巻くようにして、黒い瘴気が剣に吸い込まれていく。よく見ると、悪霊が分解されて、その瘴気を構成しているのだ。

まるで、水筒の中身でも飲み干すようにして。

スプラウトは単独で、周囲の悪霊を皆殺しにしてしまった。桁が違うとか、そういう話では無い。

根本的に、存在の次元が異なっている。

「あれは……もう並の魔王を超えているぞ」

弓を下ろしたハツネが呟く。

それは、彼女としても信じられないことなのだろう。

この世界最強の使い手の、デタラメきわまりない実力を。今、マローネは目にすることとなった。

残存勢力の最後の一体を、ガラントが斬り倒す。

周囲に、悪霊の姿はなくなった。仮にいたとしても、スプラウトを前に、出てくるだろうか。今まで全く恐怖を見せなかった悪霊達が、スプラウトの手に掛かると、まるで臆病な子ネズミのように逃げ出したのである。

今まで、何度か会って。

圧倒的な強さを持つ人だと言う事は知っていた。だが、まさか、これほどまでとは。スプラウトが剣を、胎動し続ける黒い穴に向ける。空間に空いた穴は、まるで世界が悲鳴を上げているように、奇怪な音を発し続けていた。

「ふん、また空いたか。 空く度に儂の食事が増えるだけだがな」

「待って!」

「うん?」

バッカスから降りたマローネを見て、スプラウトが鼻を鳴らす。

以前はその辺りにある物体程度にしかマローネを見ていなかったスプラウトだが、今はどうやら、生き物として見てくれているようだ。

歩み寄る。歴戦のリエールでさえ、青ざめて固まっている。他の戦士達も全員、恐怖で硬直して身動きできない状態だ。

アッシュが、マローネにコンファインするように言う。だが、マローネは、首を横に振った。今は、戦うときでは無い。話をするときだ。

「おじいさん、その体……」

「どういうことだ、子供」

「今の能力で、闇の力を、蓄えているんですか?」

間近で見ると、スプラウトはとんでも無い巨漢だ。長身と言えばウォルナットを見た時も凄いと思ったが、人間族でありながら、キバイノシシ族で傑出した巨漢だったドラブよりも更に体格が優れている。

何より、その全身。

鍛えに鍛え抜いた筋肉だけでは無い。

今のマローネには分かった。その体を強化しているのは、あまりにも高密度の闇。悪霊を喰らい続け、闇の穴を吸い込み続け、そして得た力だ。

もはやこの人は、人間でありながら、人間を止めてしまっている。

「そうとも。 あのサルファーには、尋常な技では届かぬ。 天才でも、神域の武でも、積み重ねた錬磨の技でも、奴の前には意味をなさぬのだ。 だから、儂が出した結論こそ、これよ」

サルファーと同じ力を得て、奴の中枢に力を届かせる。

そして、砕く。

「今まで、どんな英雄も達人も、サルファーを退けることは出来たが、殺す事は出来なかった。 それは、奴と違う土俵で戦っていたからだ。 儂は、奴と同じ土俵に上がる事で、奴を殺す!」

「そんなことをしたら、おじいさんの体は……! おじいさんの体が、おかしくなってしまう!」

「儂はもはや死人も同然。 儂が死のうが生きようがどうでも良いことだ。 儂は、ただサルファーを殺すためだけに剣を取る!」

ずるりと、嫌な音がして。

空間の穴が、剣に吸い込まれた。スプラウトの目は、充血しているのか、殺気に満ちているのか、或いは闇の力の影響か。真っ赤に染まっていた。

マローネは、いたたまれない気持ちになる。

この人に、悲しい事情があることは、何となく分かっていた。だが、此処までの事をすると言う事は。

マローネの想像を超える悲劇が、裏にあった事は確実だったからだ。

「子供、貴様、何故泣いている」

「……え?」

「ブリアンも……儂の孫娘も、お前くらいの年にサルファーに八つ裂きにされ、原型をとどめぬほど悲惨な死骸にされたな。 覚えておけ。 動機はどうであれ、理由はどうであれ、そして結果はどうであれ! 誰かが奴を殺さなければならんということを」

スプラウトは、ファントムが見えているのか、マローネを守ろうと立ちふさがっているアッシュを一瞥すると。

剣を担ぎ直して、山を下りていった。

その背中は、全てを拒絶していた。マローネは、あの人に言葉を届かせる自信が無かった。

あれほど充満していた嫌な空気が、その時には。全く無くなっていた。

それだというのに、マローネは悲しくて、涙をこらえるのが大変だった。人前では、絶対に泣かないと、決めていたのに。

 

激しい戦いが嘘だったように、街に降りると悪霊はいなくなっていた。生き残りはみんな逃げたか、或いは退治された後だったのか。

避難民達を守っていた風の翼団の戦士達は、戻ってきた団長とマローネを見て喜んだが。リエールの反応を見て、小首をかしげた。白狼騎士団の戦士達が、シンボルにもなっている板金鎧にたんまり返り血を浴びているのを見て、余計に違和感が募ったらしい。隊長の一人が、敬礼しながら言う。

「団長、大勝利でありましょう」

「ああ、その通りだ」

「喜ばれないのですか?」

「……そうだな」

気が抜けてしまったリエール。

激戦の中、最後まで立っていた隊長さんも、つらそうだった。あんな怪物みたいなかっての九つ剣筆頭を見ては、無理も無い話だ。

あれは、もう人間とは言いがたい。

鬼神のようなと言う形容がぴったりあう。だが、マローネには分かったのだ。あの人が、どれほど深い悲しみを抱えているか。

戦いそのものは、勝った。

スプラウトが言っていることも、マローネには理解できる。サルファーが存在する限り、こんな悲劇はいくらでも起こる。

実際、被害もうなぎ登りに増えてきている。この島でも、30人以上が死んだ。それも、皆非戦闘員ばかりだ。

そして、マローネ達が来なければ、その被害は十倍以上に拡大していただろう。この島の住民が全滅することも、ほぼ確定だ。

スプラウトがもっと早く来ていたら、どうなったのだろう。

だが、それを言うのは、何処かがおかしい気もした。

「気を落とさないで、マローネ」

アッシュに肩を叩かれる。

誰よりも信頼出来る人は、マローネの苦悩を理解してくれているのだろうか。分からない。少なくとも、理解しようとはしてくれている。

港で、首脳陣と合流。悪霊の殲滅に関しては、しばらく風の翼団が残って、警戒を続ける事で決定した。

リエールが、別れ際に言う。

「遅れてすまなかった。 もっと早くに来ていれば、あのような暴虐が全てを終えるところを、見せずにすんだかも知れぬのに」

「リエールさん……貴方のせいじゃありません。 きっと、スプラウトさんのせいでも」

「そう言ってくれると嬉しい。 それにしても、何だか、武芸を極めようと思うことが、そもそも愚劣なことにさえ思えてきた。 武芸を極め、最強の地位にまで上り詰めたほどの人が、あのような暴悪に落ちてしまうなんて」

リエールは言う。

彼はサルファーが消えてから生まれた世代だ。だから、本当の意味で、サルファーの怖さは理解できていないのかも知れないと。

だが、それを承知で、敢えてリエールは、疑念を呈している。

あのような力の使い方は、間違っているのでは無いか。

「私は、これから技を更に磨こうと思う。 それには実戦が最適だ。 サルファーの到来が近いのは、異常の蓄積からも間違いない。 もしも、サルファーが来たときは、私の戦士としての名前に恥じない戦いをしたい」

それは、マローネに対して話している事では無いのかも知れない。

戦士としての誓いを、自分に対して立てているのかも知れなかった。

 

この島を出る前に、港で、白狼騎士団の人達と最後に話した。

隊長さんは疲弊しきっていた。多分、リエールと同じ理由だ。体以上に、心がダメージを受けてしまったのだろう。

リーナがてきぱきと指示をして、帰路につく準備をしている。

島をどうしても離れたいという人もいるらしく、彼らは白狼騎士団のボトルシップに乗せていくそうだ。恐らく、状況が落ち着いた後は。島を離れたいと思う人は、もっと出てくる事だろう。

だが、もしもサルファーが来たら。

イヴォワールに、安全な場所など、無くなる。

「ありがとう。 今回は一緒に戦えて、頼もしかったよ」

「白狼騎士団は、サルファーとの戦いの最前線に立つんですか?」

「そうなるだろうね」

リーナが、表情に影を湛えた。

かって、サルファーとの戦いの最前線にいたスプラウトが、今やあのような有様である。九つ剣筆頭のラファエルが団長をしている白狼騎士団としては、きっと思うところが多いのだろう。

「さあ、ガレット隊長、いきましょう」

「ああ。 すまん、肩を貸してくれ」

すっかり気落ちしている隊長に、部下が肩を貸して、船に乗る。

マローネは、それを見送ることしか出来なかった。

世界がきしみ始めているのが分かる。彼方此方で起こっている異常現象の数々。数も頻度も質も増して襲い来る悪霊の群れ。

「あの魔物、サルファーの手下なのかしら。 そうなると、きっと悪霊と言われているあの丸いファントム達も……」

「もう、疑う余地は無いだろうね」

「サルファーって、一体何者なの? どうしてこんな酷いことばかりするの?」

誰も、その質問には答えられない。

きっと、スプラウトも、それは知らないだろう。

得体が知れない恐怖。悲しみの連鎖の中心点、サルファー。きっと言葉が通じる相手ではないし、意思の疎通も出来ない。

だが、自然現象のような存在と思うには。

其処には、あまりにも強い悪意の存在が。マローネには、感じ取れるのだった。

おばけ島に帰る最中も、ずっと心は晴れなかった。何か、何処かで、とてつもない悪意が蠢いている。

そんな気がしたのだ。

 

5、頂上会談

 

天使長リレ=ブラウが訓練を終えたばかりの天使およそ二万をつれて天界を出た。天界の技術で作られた空間移動艦二十隻に分乗しての出撃である。規模としては大変に小さな軍部隊である。もしも魔界のどれかと戦をするのならば、この百倍程度の規模が無いと、話にならない。大型の戦艦も何隻か必要になってくるだろう。

旗艦であるハイロウに座を置いたリレの護衛の一人として、ミロリは選抜された。とはいっても、護衛対象のリレが単独で艦隊をつぶせるほどの使い手なので、名目である。実体は周辺の世話をするだけであった。

ミロリが見るだけで、ハイロウは実に高い戦闘力を持っている。科学文明が優れた幾つかの世界から得た技術で作られたこの戦艦は、流線型の白銀色をしており、恐ろしい武装が無数についている。内部は近代的な機械類と、天界が得意とする守護の術式が組み合わされており、次代の主力を担う艦だと噂されていた。豪傑的存在として名高いリレの定座としては、相応しい艦だろう。

急速に軍事力を高めている天界。鳩派筆頭と言われた大天使長ラミントンを失った反動であるという声も聞かれるが、それは違うだろう事が、ミロリには分かっていた。非常に賢いリレの側にいると、色々と見えてくるものも違うのである。

今まで、無数に存在する魔界と、唯一の存在である天界の関係は、極めて良好とまで行かずとも、平穏で安泰だった。

それは大天使長が軍を縮小したからでは無い。大天使長は個人的な友人に魔王を何名も持っているなど、極めて外交手腕に長けていた。それに魔界は基本的に、力が全てを支配する世界であり、他の世界に圧倒的な強者がいる場合は戦いを挑んだりしない。

ラミントンはそれだけ魔界の猛者達にも一目置かれる存在だった、という事なのだろう。

今は何名かの後継者が天界を立て直しているが、その中にはリレのような豪傑的な存在もいる。人間時代のリレの逸話を幾つか聞いたのだが、いずれもが豪傑の呼び名に相応しいものばかりで、魔界でも怖れられていると聞いている。

ラミントンほどの抑止力になるかは分からないが。

少なくとも、存在は損にはならないだろう。

「ミロリ、紅茶」

「ただいま」

言われたら、すぐに動く。そうしなければ、最悪魔導書が顔面に飛んでくることになる。リレがいつもひもといている魔導書は、分厚く、当たるととても痛いのだ。殺したりはしないが、リレの機嫌を損ねると、後に何が起こるか知れたものではない。

茶を淹れ終えて、出す。しばらく香りを楽しんでいたリレは、満足したのか。それをすすり始めた。

ミロリだけでは無く、周囲の天使皆がほっとする。

リレは豪傑的な性格だけに、怖いところも多い。少なくとも、修羅場をくぐった経験は、この船に乗っている三千を超えるどの天使よりも上だろう。

一礼して下がると、ミロリは自室に引き上げる。相部屋だが、それぞれの兵士が居住できる空間が、この巨艦には作られている。

先に部屋に引き上げていた天使兵のカーボンが、ミロリを見て挨拶をしてきた。カーボンはミロリと同じように、スカウトされて天使兵になったばかりの魂である。だいぶ性格はフランクで、昔は暴れ者であったのかも知れないと、ミロリは推察している。背もミロリよりずっと高いカーボンは、肌の色も浅黒く、筋肉質だ。顔立ちも精悍である。

「よお、戻ったか。 リレ様のおもりは終わったか?」

「そんな風には思っていない。 色々教わる立場だからな」

「相変わらず真面目な奴」

既に支給されている食事を食べる。小さな部屋だが、食事用のテーブルはある。右手の壁には二段ベット。カーボンが上を使うと主張したので、ミロリは下を使っている。こんな所で争う気は無いし、別にベットの上下にこだわりも無いからだ。というよりも、そもそもベットを使うのが、天使になってからなのである。

睡眠が殆ど必要ない天使なのだが、ベットが用意されているのは、それでも寝て体力を養うように、という指示でもある。

渡された本をひもとく。

先に休憩に入っていたらしいカーボンは、ベットで転がりながら、話しかけてくる。

「またその本か?」

「ああ。 俺のずっと先輩が、イヴォワールの事を書き残した本だよ」

「過去の歴史って奴か」

「そうだ。 国による修正が入っていないから、限りなく事実に近い内容だろうな」

ただし、この本を書き残した天使は。以前侵攻してきた超魔王バールとの戦いで戦死しているという。

天使が死ぬと、その魂はまた何処かの世界に転生することになる。

寿命が無制限な天使であるし、何より天界は環境がとても良い。死にたがる天使はまずいないと聞いている。

さぞや悔しかったことだろう。

この本には、サルファーについての真相が書かれている。今から、およそ千年前。その怪物が誕生した経緯が、だ。

リレにその話を聞いたとき、ミロリは最初、自分が人間であった事が恥ずかしくさえなった。

だが、今は多少気も変わっている。

何故、こんな事が起こったのか。どうしたら再発を防げるのか。

それが分かれば、少しは世の中もマシになるのでは無いか。そう思い、リレからいろいろな本を借りては、頭に詰め込む毎日だった。

マローネに会うことがあったら、力になりたい。

そう思うが故に、ミロリは勉強を進めている。勿論鍛錬も怠ってはいない。イヴォワールに帰り着いたら、すぐにでもサルファーをどうにかしたい。

だが、まだ今は無力だ。

「警戒態勢をイエローに変更します。 各クルーは、所定の位置についてください」

「どうやら、おいでなすったみたいだな」

ベットからカーボンが起き出す。ミロリも本をしまうと、並んで艦橋に向かった。

この出征は、戦闘のためでは無い。

交渉のためなのだ。

艦橋に出ると、既にスクリーンには、魔界の艦隊が映っていた。宇宙空間で戦闘するにはあまりにも脆弱な技術力で、中には空気の泡で覆っているだけの帆船のようなものまで見受けられる。

ただし、乗っているのが一騎当千の悪魔達である事を忘れてはならない。中には宇宙空間で平然と活動できる悪魔も、少なくは無いのである。

「敵艦数、およそ80。 陣形は紡錘」

「向こうもおよそ二万程度と思われます。 もしも戦いになったら」

「その場合は私が蹴散らすわ。 貴方たちは後ろで見ていなさい」

リレが不敵に言うと、旗艦を進めるように指示。

向こうも、それに合わせるようにして、旗艦を進めてきた。緊張の瞬間。天使長リレと言えば、魔界でも知られる豪傑である。

若くて血気盛んな悪魔が、挑戦がてらに攻撃してこないとも限らない。そうなれば、決して面白い事態は来ないだろう。

「まもなくドッキングします」

「歓迎の準備」

「はい。 ただちに」

相手方の旗艦は、それなりに立派だ。見るとかなりの老朽艦の様子だが、それでも流石は大魔王と呼ばれる者の一角。

既に相手の力を測定する計測装置は、レベル1000オーバーの存在を四体も確認していた。限定的な条件下で生じる特殊な空間で無い場合、こんなレベルの存在は、まず存在し得ない。魔王でも、レベル1000を超える者はそうそういないのだ。

だが、此方にも。

そんな化け物がいる。事実、リレはその報告を聞いても、平然と茶を飲んでいた。

ドッキングが済み、相手が艦橋に来る。

護衛らしい三体の魔王と一緒に姿を見せたのは、大魔王カレルレアス。計測装置は、実に1340という規格外のレベルを告げていた。現在確認されている三十を超える大魔王の中でも、決して低い方では無いどころかむしろ上位に位置する。どこに出しても恥ずかしくない実力である。

しかし、見ると人間とさほど差が無い姿をしている。背中にコウモリのような翼はあるが、それを除くと妖艶な普通の女にしか見えない。格好は露出が多く、天使兵の中には無意味に肌を晒している様子に視線を背ける者もいた。

他の魔王は、姿は千差万別。蛇のような姿の者や、小型のドラゴンに見える者、ローブで姿を隠している者もいた。

「天使長リレ、会うことが出来て光栄よ。 大魔王カレルレアス、求めに応じて来てあげたわ」

「此方こそ、名高き大魔王に会うことが出来て光栄だわ。 天使長にて大魔術師、リレ=ブラウよ」

リレと大魔王が握手を交わす。

大魔王と言われるほどの存在だが、リレとあまり背丈は変わらない。握手は滞りなく行われた。むしろ緊張しているのは、大魔王の側近達にさえ思える。

ソファが手早く設置され、二人が腰を下ろす。テーブルに出された茶を運んだのはミロリである。

近づくだけで、焼け付くような凄まじい魔力が感じ取れる。

こんなとんでも無い存在達が、力を合わせなければならないほどに。サルファーとは、危険な相手なのだ。

それを思い知らされる。

しばらく雑談をしていたリレと大魔王だが、やがて大魔王から切り出した。

「それでは、そろそろ前置きは終わりましょうか。 サルファー撃滅について、天界側から資料を提出していただきたく」

「戦力は魔界が提出するというこの契約書に、まずサインを」

「ふむ……」

素早く大魔王が、契約書に目を通していく。側近らしい魔王達も、側から契約書を覗き込んでいた。

何度か、小声で相談もしている。

魔界は価値観が単純な世界だと聞いている。天界側が狡猾な条件で提案をしてきた場合、問題があると思っているのだろうか。

実際、天界は一部の人間世界同様、狡猾に動く者もいる。前回、大天使長ラミントンが命を落としたのも、ある天使長が野望に従って暴走した結果だと、ミロリは聞いたことがあった。

「この条件について、詳しく説明を」

「損害の補償はしかねると言う事? そのままですが」

「つまり、兵力は我らが、武装は貴殿らが提出するとして。 損害が出ても、天界は補充をしないと言うことかしら」

「元から、充分な武装を提供しますが、それで不満足?」

しばらく、緊張感のあるやりとりが続く。

足を組み直す大魔王。リレはマイペースに紅茶をすすっている。大魔王の茶が無くなったので、ミロリが補充。大魔王が礼を言ってきたので、少し驚いた。

茶は厳選したものを使っている。仮に毒など入っていても、過酷な環境で生きている悪魔に通じなどはしないだろうが、当然問題にはなるから、毒味はしっかりしている。幾つかの条件について、しっかり話が詰められていく。リレが譲歩する場面も、大魔王が譲歩する場所もあった。

人間とはだいぶ違うから、リレとしてはやりやすいのだろうか。

天使長待遇であり、数万年生きているも同然とはいえ、リレは人間だ。あまりにも凄まじい力を持っているから勘違いされやすいが、思考回路などは、今も人間の部分を残しているはずだ。

やがて、契約にサインが行われる。

大魔王が人差し指を噛んで血を出し、契約書に拇印を押す。この時、契約書が光った。大魔王の血である。恐らく術式による強制効果があるのだろう。

リレも同じようにする。

また契約書が光った。同じような術式を掛けたのかも知れない。それにしても、大魔王がかけた術式を上書きするとは。非常識にもほどがある。

また握手して、二人が契約書を取り交わした。

これで、サルファーに対抗する同盟が成立した。イヴォワールの民は蚊帳の外だが、それは仕方が無いだろう。

魔界の艦隊が遠ざかっていく。

イエローアラートが解除された。だが、気を抜くことは出来ない。ここからが、本番だ。リレはこの宙域に留まり、天界側からの技術、情報供給の指揮を執ることになる。何度もこれからあの大魔王と接することになる訳で、その度に今回のような緊張をミロリも強いられる事となる。

「ミロリ、紅茶」

「すぐにも」

指揮シートに戻ったリレが、再び紅茶を要求してくる。ミロリが茶を淹れて出すと、彼女は視線も向けずに言った。

「サルファーについて、どう思う」

「倒さなければなりません。 気は進みませんが」

「事情を知ると、どうもね」

どうも、此処だけは意見が一致するらしい。

サルファーとは、「絶対悪」。だが、それは、人間という種族からすればという条件がつく。

かって人間世界で作り出され。そして、天界が、魔界が育て上げてしまった化け物。それが破壊神サルファー。

マローネに会うことが出来たら、どうしようと、ミロリは思う。真実を告げるべきなのか。それとも。

窓から外を見ると、無数の星々が輝いている。

これほど進んだ文明を得ても、変わらない「人間」は。

きっと、どのように変わったとしても、結局は愚かな存在なのだろう。そう、ミロリは思った。

 

(続)