月夜の死闘

 

序、末路

 

悲鳴を上げて逃げ回るベリル達。

その中で立ち尽くすオワンドは、自分がこれから死ぬ事を、嫌と言うほど悟らされていた。

此処は癒やしの湖島にある古城。

悪霊が出てから、すっかり寂れた保養地となった癒やしの湖島に来たのが、一月前。空き家になった別荘や、その周辺にある石畳や放置された家具などを売り払って、しばらくは良い生活をすることが出来た。

だが、人間はどうしても、現状には飽き足らない。良い生活をしていると、欲が出てくるものなのだ。

十五人のベリルを率いて上陸したオワンドは、島荒らしをした事もある生粋の悪だった。人間族のベリルとしては屈強で、残虐なことから、同業者からも怖れられていた。しばらくは廃屋からの略奪で、良い収入を得ていたが、やがてもっと稼ぎたくなった。

島にあった古城に目をつけたのは、一週間ほど前。

以前悪霊が出たという事で、ベリルさえ近づかない其処には、逆に宝があるに違いない。そう思ったオワンドは、今日、部下達をつれて古城に侵入した。そして、その半ばほどで、地獄に足を踏み入れてしまったのだ。

周囲を不意に取り囲まれた。

丸い体と、全身が口だけの化け物ども。巨大なものから、小さな奴まで、それが無数に襲いかかってきた。

最初に、一番血の気の多かった部下が、食いちぎられた。文字通り頭から上が、綺麗に臼歯だらけの口で噛み千切られたのである。噴き出す鮮血を見て、散り散りに逃げ出す部下達の前に、地響きを立てて、そいつが現れる。

見た瞬間に、分かった。

自分は死ぬのだと。

骨のような白い姿。肩から先は無く、何か杭のようなものが刺さった手のひらだけが、地面を叩いている。

手が、動く。

そして、部下の一人をつかみ取り、無造作に口に運んだ。かみ砕かれる。咀嚼される。悲鳴は、すぐに聞こえなくなった。血を一杯に浴びながら、また巨大な化け物が、部下に手を伸ばす。そして喰う。

逃げ惑う部下達は、すぐに化け物共の餌食になった。一番大きい丸い奴は、人間を丸ごと頭から飲み込んで、噛み潰していた。呆然と立ち尽くしているオワンドは、過去の出来事が、流れるように見えるのを覚えて、乾いた笑いを漏らす。

やがて。全滅した部下達。

周囲の目が、一斉にオワンドに向いた。

掴まれる。巨大な口が迫ってくる。口の中は闇そのもので、酷い臭いがした。

狂気が頭を支配する。もがいても、もはや逃げる術も無い。

かみ砕かれる瞬間、オワンドは悟る。

そうか。

此奴が、サルファーの。悪霊共の、元締めか、或いはその部下なのだろうと。頭をかみつぶされた瞬間、オワンドは、この島に来たことを、今更ながらに後悔していた。

 

癒やしの湖島自警団の戦士、オウル族のグライネは。もの凄い瘴気を感じて身震いしていた。

以前、これと同じものを感じたとき、島中が悪霊だらけになった。今回も、そうなることは間違いなかった。なぜなら、以前化け物と戦った古城の上に、露骨すぎるほどの邪悪な黒い雲がわき上がり始めたからである。

「こりゃあ、やべえぞ」

「すぐにボトルメールの準備! クロームギルドと、傭兵ギルドに!」

「残ってる住民にも声を掛けろ! すぐに家に逃げ込んで、外に出ないようにするんだ!」

周囲が慌ただしく走り回り始める。

気弱そうなキバイノシシ族の隊員が言う。

「あの、ベリルの連中にはどうします。 警告しておきますか?」

「ほっとけと言いたいが……」

今は残念ながら、船虫の手も借りたい状況だ。手が空いている者はいないが、無理矢理一人をベリルがいる方に走らせる。

住民の点呼開始。

この時のために備えておいた住民票が、意味を持ってくる。最近は状況が安定していたのに、大変にいたましい。家を巡回して廻るグライネは、気付く。サフラン社長の家が、留守になっている。

そうだと思い出す。今日はよりによって、あのマローネの親友であるカスティルが、調子が良いからと外に出た日だ。車いすで、丘の辺りを廻るという話をしていたはず。世話をしているメイドも、今日に限っては休日を貰っていたはずだ。

丘に急行するが、其処では既に悲劇が起きた後だった。

倒れているサフラン夫妻。

相当にこっぴどくやられたらしく、サフランは意識が無い。妻のジョーヌは、助け起こすと、わっと泣き崩れてしまった。

何が起きたのかは、一目でわかった。側にある、粉々にされた車いすの残骸が痛々しい。

「ああ! カスティル! なんと言うこと!」

「すぐにマローネにボトルメールを!」

二人を、自宅に担ぎ込む。

こっぴどくたたきのめされているサフランは、栄養状態が最悪なようだった。仕事が忙しすぎて、頬が痩けていると聞いていたが。これは本当に、よほど無茶をして時間を作ったのだろう。

島に残っていたヒーラーを呼び、回復術を掛けて貰う。

それくらい、サフランの状態は酷かった。ヒーラーが、栄養失調寸前だと、怒声を張り上げたほどである。

「あんたたち、滅茶苦茶な働き方をしてるって聞いてはいたが、死ぬ気かい! もう若くないのに、こんな事していたら、体の中が病巣だらけになるよ!」

「ごめんなさい。 全ては娘のためなの! 主人を責めないで」

「……!」

難病にかかっているカスティルのことは、ヒーラーも聞き覚えがあったのかも知れない。舌打ちすると、視線をそらす。美貌で知られていたジョーヌも、髪の毛に白いものが混じり始めていた。

それだけ激務だと言うことだ。

会社のお金に手を付けないために、二人が無茶な仕事をしていることは分かっている。そのため、会社自体は業績がうなぎ登りだとか。だが、役員報酬を増やすために、それだけ無茶な仕事をして、最終的に体を壊しては意味が無いような気がする。

しばらくして目を覚ましたサフランは、カスティルと呟くと、また意識を失ってしまった。

外では、既に騒ぎが起こり始めている。

古城に、おかしな影が見えるというのだ。実際手をかざして見ると、以前大暴れした悪霊と思わしき存在が、無数に蠢いているのが分かった。

カスティルをさらったのは、十中八九あれだろう。

非常にまずい。薬の投与などもあるし、もたついていたら助からない。ただ、解らない事がある。

どうして、わざわざさらうなどという事をしたのか。

さっきの事だ。青ざめたベリル達が、詰め所には顔を揃えていた。彼らの一人が、古城から逃げ帰ってきたのだという。そいつからどうにか話を聞き出したところによると、古城に巨大な怪物が出て、そいつに仲間が食い殺されたというのだ。泡を食ったベリル達は、今までの好き勝手も忘れ、保護を求めてここに来たのだ。そうしていない連中は、みんなボトルシップで逃げたという。

城の怪物は、以前見た悪霊の親玉と判断して間違いないだろう。

その悪霊達は、躊躇無くベリルを喰らったという。おかしな話である。ならば何故、カスティルだけはさらわれたのかが分からない。

緊急ボトルメールが、返事をもって戻り始める。案の定と言うべきか、あまり芳しくはないようだ。

「獣王拳団は駄目だ。 少し前に大ダメージを受けて、再編中だとか」

「くそっ! 白狼騎士団もだ! ヴァーミリオン地方で仕事中で、こっちに来るまで三日はかかるとかぬかしてやがる! 一個小隊だけは急行させるとかほざいているが……」

「朗報だ! アマゾネス団は来てくれるぞ!」

アマゾネス団は、まず一流どころに分類される傭兵団で、ある島出身の女性人間族戦士だけで占められている、一種の血族集団だ。

その戦闘力は男の戦士達に勝るとも劣らず、結束から見事な連携戦術も見せるという。

一流どころのクロームにも、声を幾つか掛けている。だが、誰も彼もが、あまり良い返事をしてくれない。ぽつぽつと来る声は、いずれも中堅どころばかり。返事さえよこさない相手も多かった。

ほどなく、マローネの所に出した緊急ボトルメールが戻ってくる。

「マローネは、来るか。 良かった!」

「クローム一人で、なにをそんな大げさな」

「阿呆。 新聞読んでないのか?」

馬鹿なことをほざいた同僚を諭す。マローネは今や、単独傭兵団と呼ばれるフォックスに匹敵するか、それ以上と評価されている、希有なクロームの一人だ。つまり、中規模の傭兵団が、丸ごと来てくれるのと同等以上の安心感がある。

それだけではない。

マローネの側に控えているガラントの指揮能力は、非常に高い。側にいる青年アッシュの、短時間での爆発力。魔術師コリンの火力、いずれもが侮りがたいものがある。一緒に戦ったグライネは分かる。

彼らが来れば、きっと。

希望を取り戻したグライネは顔を叩くと、来られる戦力についてまとめさせた。

そして、自警団の中からも、戦える者を選抜しなければならない。

勿論、グライネは出る。今日のために、可能な限り鍛えてきたつもりだ。以前のような無様は絶対にしない。

武者震いをする。

悪霊共に、これ以上、好き勝手は絶対にさせない。そう、グライネは誓ったのだった。

 

富と自由の島に戻ってきたウォルナットは、不快感に顔を歪めながらも、なじみの酒場を訪れていた。

コールドロンに目をつけられてから、裏方の仕事は一切出来なくなった。だから民間の仕事を中心にこなしてきた。具体的には、主に危険を伴う輸送を、朝から晩まで行った。危険海域を自前の襤褸ボトルシップで、何度往復したか分からない。それで稼げる金は、今まで荒事で得ていた金の何分の一か。とてもではないが足りない。歯がみしながらも、必死にウォルナットは、自分の疲弊を無視して、働き続けていた。

オクサイドは一切出来ない状態である。クロームギルドからも目をつけられていて、下手な仕事はそもそも回してもらう事も出来なかった。

焦りばかりが募る。

これでは、足りないのだ。

既に、医師からも言われている。金が払えないのなら、薬代を値上げすると。元々ウォルナットの大事な存在に供与されていた薬は、医師に金を払うことで、「特別に」格安にしてもらっていたのだ。

この事情は、多分誰も知らない。今は必死に働いて金を稼いでいるが、今までの稼ぎを全てつぎ込んでも足りていない。

医師は絶対的立場にある事を良い事に、既に薬の値上げをしている。そして今後も、ウォルナットからの上納金が無ければ、薬を値下げすることは無いだろう。

そうなれば、いずれ彼奴の両親は倒れてしまう。

そうなったら。

全てが終わりだと言うことは、ウォルナットも分かっていた。

安酒を注文する。酒でも飲んでいなければ、やっていられなかった。荒れているのを見て、店長が止めようとするが。血走ったウォルナットの目を見て、押し黙った。荒ぶる魔物に触らず。危険を避けるための格言だ。

「よお、腐ってるな」

「ふん……」

パーシモンが来て、隣に座る。当然のように良い酒を注文したパーシモンは、一口呷ると言った。

「あんだけあった金を、全部使っちまったって聞いたぜ」

「ああ。 収入が断たれちまったからな……」

「お前、一体何に……」

「こればっかりは、お前にも言えねえよ」

パーシモンに対しては、後ろめたさがある。本当だったら、今頃クロームギルドから追放されていてもおかしくなかったのだ。

それを、関係各所に頭を下げて廻ってくれたパーシモンのおかげで、輸送などの、裏方では無い仕事だけは未だにある。

それがどれだけありがたいことかは、身にしみて分かっている。

もしもパーシモンがいなかったら、今頃ウォルナットはベリルにまで身を落としていただろう。そうなると、今までのオクサイドなどとは比較にならない悪事に手を染めなければならなかったはずだ。

当然、傭兵団が今度は討伐に出てきただろう。

そうなれば、ウォルナットは。

ウォルナットは腕自慢だが、荒くれ揃いの傭兵団を、まともに相手できるほどの自信は無い。

何より、犯罪はそもそも儲からないことを、昔の経験でウォルナットは嫌と言うほど知っていた。

「今日は、説教は勘弁だ。 酒でも飲まないとやってられない気分なんだよ」

「心配するな、ちげえよ」

「何……」

「コールドロンの息が掛かっていない仕事を見つけてきた」

思わず手を止める。

パーシモンは、ただし、と言葉を切る。

「一つ問題がある」

「何だ、問題って」

「癒やしの湖島のヤマなんだよ」

パーシモンは、以前癒やしの湖島の仕事を、ウォルナットが不可解な蹴り方をしたことを、覚えていたのだろう。

今だって、そんな仕事は受けたくない。

だが、内容を聞いて、ウォルナットは顔色を変えていた。

「また悪霊が出たそうでな、既に死者が出ているらしい。 パニクった癒やしの湖島の自警団が各地に救援を求めてきていてな。 傭兵団のアマゾネス団も、既に出撃を決めているほか、白狼騎士団の一小隊も出向くそうだ。 それで、先ほど追加の情報が入ってきたが、どうやら娘が一人、さらわれたそうだ」

「娘、だと」

「カスティルという名前だそうだ」

世界が、止まったような気がした。

ウォルナットは、自分が世界に見捨てられていると思っている。世界の狭間であがいてもがく虫が自分だと、自嘲していた。

だが、これはあまりの仕打ちでは無いのか。

「分かった。 すぐに出向く」

「そうか。 今回は悪霊がらみと言うことで、モルト伯はじめ何名かのセレストが、ギルドに報酬額を渡してくれるそうだ。 事情は聞かねえから、行ってきな」

「ああ……」

恩に着ると言い残し。ウォルナットは乱暴にテーブルに勘定を置くと。すぐに店を出て行った。

外は大雨である。そういえば、パーシモンのコートが濡れていたことに、今更ながら気付く。

ウォルナットは、完全に酔いも覚め果てていた。

嗚呼。カスティル。お前だけは。お前だけは、俺が。

世界に嫌われたウォルナットにとって、カスティルは唯一の光だった。絶対に、この光だけは。世界から、消すわけには行かなかった。

 

1、再び、悪霊の宴

 

緑の守人島の結界が復旧したことを確認。更に結界を強化するべくコリンにいろいろなアドバイスを受けて、パティ達に指導。特定の手順を踏まないと、入れないことを確認してから、マローネはおばけ島に戻った。

数日、お風呂にも入ることが出来なかったが。でも、これで簡単にはパティ達の楽園には踏み込まれることも無くなった。

おばけ島に戻って、まず最初にしたのは、お風呂に入って垢を落とすこと。さっぱりした後は、部屋の埃を払って、それからお布団を干して。そして、お日様のぬくもりを吸ったお布団に包まれて、ぐっすり眠った。

ここのところ、ゆっくり休むことが出来なかったから、とても気持ちが良かった。

それから数日は平穏な日々が続いた。ガラントに護衛術を習い。時間を見てはコリンに魔力の練り上げ方を教わり。そして、富と自由の島に買い出しに行って、その帰り。

平穏な日は、終わりを告げた。

ポストから、緊急用ボトルメールが飛び出してきたのである。何かあったのだと、一目で分かる。ボトルメールから手紙を取り出す。慌てていたからか、一度失敗して、手紙を砂浜に落としてしまった。

慌てて拾い上げて読む。

「癒やしの湖島で、悪霊が再度発生……!」

背筋が寒くなるのが分かった。

それだけではない。どうやらグライネから送られてきたらしいこの手紙には、更に恐ろしい文章が書かれていたのだ。

「カスティルがさらわれたですって!?」

気を失いそうになる所を、アッシュに支えられる。気をしっかり持たなければならないのに。

カスティルは、マローネに取っての精神的なアキレス腱だ。嫌われたらと思うと、食事も喉を通らなくなる。何かあったらと思うと、心配で夜も眠れなくなる。

比較的体調が良くなって、やっと外に車いすで出られると聞いていたのに。

手の震えが止まらない。怒りよりも先に、悲しみと嘆きが、体中を覆っているのが分かった。

「やれやれ、休む暇も無いな」

「アッシュ、すぐに出ましょう。 一刻を争うわ」

「分かってる。 マローネ、準備をしよう」

癒やしの湖島は比較的気候も穏やかで環境的にも安定しているが、それでも着の身着のまま飛び出すわけには行かない。

焦りを押さえながら、準備を整える。

いざというとき、コンファイン出来るような道具類も確認。問題なし。後は戸締まりなども、アッシュに見て貰った。

前回の戦いで、マローネはバンブー社に喧嘩を売ったも同然だ。だから、しばらくの間は、護衛が必要だとガラントが言っていた。今の時点ではおかしな影は周囲にちらついていないが、それも隙を見せればどうなるかは分からない。

「よし、準備は整ったね」

「うん。 急ごう」

「運転は俺がする」

ガラントが、マローネを運転席から抱えだした。

多分、焦りが事故につながることを見越しての事だろう。少し悲しいが、運転はガラントにしてもらう事にする。

アッシュもそれが良いと、表情で言っていた。

「それにしても、やっぱりまた出たかあ」

「コリンさん?」

「いやね、あたしの時代も、あのバケモンはサルファーが出る前に現れてさ、波状攻撃を得意としてたから。 一度退治しても、何度も何度も同じ場所に沸いてきてね。 軍が対処する度に消耗して、悲鳴を上げてたもんだよ」

「どうすれば良いんですか?」

どうにも出来なかったと、無情なことをコリンは言う。

そうこうしているうちにサルファーが出てきて、蹂躙の限りを尽くして。英雄やら勇者やらが総出でどうにかサルファーを撃退して、それでしばらくは静かになるという。そうなると、サルファーをどうにかしないと、やはり埒があかないという事か。悪霊の親玉と言うことでサルファーとの関連は疑っていたが、やはり間違いないらしい。

ボトルシップが出航する。

ガラントの運転はやはり安定している。パレットが次は運転したいと言っているが、ガラントは適当に頷いているだけだった。だが、しばらくして、道半ばほどで、本当にパレットに代わってやる。

この辺り、実際に子育てに関わった事はある。ガラントは人生経験の塊だ。マローネも、いずれこんな風になれるのだろうかと、時々思い知らされる。

パレットは以前見たとおり、運転に才能があるらしく、非常に達者に操船を行う。全く危なげが無く、しっかり周囲も見えている。危なげない運転を横目に、アッシュはガラントに言う。二人ともファントムのまま、深刻な話をしていた。

「やっぱり、あのときに、倒せていなかったんですね」

「倒した時に、手応えを感じなかったのだろう?」

「はい。 妙に脆いと思いました」

「おそらくは、力をまだ蓄えきっていなかったのだろう。 今度は以前とは比較にならないはずだ。 心して掛からないとな」

不意に、大きなボトルシップが見えてきた。

古い型落ちの軍艦のようだが、丁寧に整備されている事がうかがえる。見ると、珍しい帆を備えているようだ。今は畳んでいたが。

向こうも、癒やしの湖島に向かっているらしい。船の上には、女性戦士の姿が多数見えた。皆槍を手にしている、たくましい体つきの女性ばかりだ。髪の毛も短く切っている者が多いようである。

一人、見覚えがある人がいる。

確か、フレイム。アマゾネス団という傭兵団の首領で、以前魔島で戦ったことがある能力者だ。相当に手強かった印象がある。能力自体も強力だったが、非常に老獪な戦い方をする人で、随分酷い目に遭わされた。

向こうも、マローネに気付いた様子だ。

だが、手を振ってくることも無く、逆に此方をにらむようなことも無かった。

「同じ仕事かな」

「悪霊がらみの任務となると、確かセレストから特別報酬が出るはずだ。 前回はともかく、今回はクロームギルドも状況を把握しているだろうし、傭兵ギルドも同じだろう」

だから、傭兵団が出てきてもおかしくは無い。そうアッシュは言う。

マローネは、相手のことを恨んでいない。戦いの中だから、仕方が無かったとも思っている。

「一緒に戦えると嬉しいわ。 フレイムさん、とても強かったし」

「そう、上手く行けば良いんだけれどね」

しばらく併走していたが、やがて元軍艦の性能を発揮して、此方を置いて先に行った。パレットが言う。

「マローネおねいちゃん。 このおふね、今度改造してもいい?」

「いいけど、もっと速くするの?」

「うん」

「お、じゃああたしも協力する」

屋根の上で、ハツネが青い顔をしているのが分かった。そういえば、ハツネは速く動く乗り物が苦手なのだと、マローネは思い出した。前もコリンが改造したせいで凄いスピードが出て、その時は真っ青になっていた。

「事故を起こすと危ないから、ほどほどにね」

「分かった。 じこたいさくも、する」

この間、癒やしの湖島で通信機を作ってくれたときも思ったが、どうもパレットは変なところで凝り性である。

何か、おかしな方向に情熱が暴走しなければよいのだが。

そう、マローネは思った。

今のうちに、カスティルの通信装置に連絡を入れてみる。だが、カスティルは、出なかった。部屋に置き去りにしているのかも知れない。

モカは一緒にいるだろうか。

一緒にいるなら、無事だろうか。それも、不安だった。

しばらくすると、癒やしの湖島が見えてくる。ぞっとしたのは、あまりにも禍々しい黒雲が、島を覆い尽くしていることだ。

稲光が、時々雲の中を走り回っているのが分かる。島そのものからも、凶悪な魔力が吹き上がっているのが、視認できた。

怖い。

あの島に行けば、恐ろしい怪物と当然相対することになる。そうなれば、とても残酷な戦いになる事だろう。

だが、カスティルの命が掛かっているのだ。今は、怯えている場合では無かった。

マローネはわき上がる恐怖を無理矢理押し殺すと、顔を上げる。

カスティル、待っていて。

決意と共に、口中で呟く。カスティルを助けられるのなら、たとえドラゴンの群れの中に飛び込むことになってでも、マローネは行く。槍が降る中にでも、飛び込む。

世界の中で、孤立していると思っていた。

そうではないと、カスティルは教えてくれたのだ。ファントム以外に理解者はいないと思っていた。

違うと、カスティルは示してくれたのだ。

ならば、今度はマローネが彼女を助ける。お薬の代金を払うことは出来ない。その代わり、物理的な脅威は、この全てをマローネがどうにかする。

「マローネ、冷静にね」

「うん。 アッシュ、頼りにしてるわ」

いつも、いざというときはきちんと諫めてくれるアッシュの存在は、とてもありがたい。マローネは膝を抱えると、必ずカスティルを助け出すと、自分に誓ったのだった。

 

港に上陸する。

人気は、あった。だが、皆島の住人では無いだろう。クロームが数人屯していた。いずれも見たところ、名を知られた腕利きばかりだ。マローネも最近は名前と顔が知られてきているから、彼らもマローネを見て、何か話をしている様子だ。陰口で無ければ良いのだが。

挨拶をしながら行く。驚いたように挨拶を返してくる人もいた。

慌てて隠れたのは、視界の隅にフィルバートが見えたからだ。護衛に槍のレーアをつれている。あの人の嗅覚は相変わらず超人的だ。もうこの事態をかぎつけてきているとは。港には、大小のボトルシップが多数停泊している。コリンに防犯用の術式を掛けて貰うと、すぐにマローネはカスティルの家に向かう。

此処でフィルバートにつかまると、根掘り葉掘り話を聞かれて、面倒そうだと思ったからである。

「そういえば、アマゾネス団の姿は無いね」

「そうだね。 アッシュ、どうしたのかな」

「恐らく、今回の作戦で主力になるのは彼女たちだろう。 先に島の自警団に呼ばれて、話を聞いているんじゃ無いのかな」

アマゾネス団の船も、既に入港していた。堂々たる様子で停泊していて、なんら男性の傭兵団に劣るところは見受けられない。

各地で見事な戦歴も挙げている、立派な戦士達である。アマゾネス団を、単純な腕力で男性に劣るからといって、見下す者達は誰もいない。

小走りでカスティルの家に急ぐ。

護衛のためにコンファインするようにと言われていたので、側にはガラントがいる。ガラントはずっと険しい表情なので、マローネも不安は少し残っていたが、だがそれ以上に信頼感が大きい。

空が真っ黒な雲に覆われているからか、辺りは昼なのに、夜のように暗かった。以前、この島に「悪霊」が出たときと同じような状態だ。それだけではない。周囲からは、監視する視線や、殺気を絶え間なく感じる。

港に集まっていたクロームや傭兵団も、これではどれだけ生きて帰れるのか。一刻も早く、カスティルをさらったという魔物をやっつけなければならないだろう。

カスティルの家は、真っ暗だった。

チャイムを鳴らすと、げっそりと頬が痩けたジョーヌが出る。彼女は、マローネを見ると、泣き崩れた。

「ああ。 来てくださったのですね」

妻の肩を抱きながら、遅れて出てきたサフランが、頭を下げる。

子供相手に、社長がそんなことをするのである。彼らがどれだけ追い詰められているか、一目瞭然だった。

家の中には、他に誰もいない。

以前は護衛の自警団が張り付いていた記憶があるが、それさえ手が回らない状況だと言うことなのだろうか。

明かりを付けると、ジョーヌが真っ青になっているのが分かった。

きっと、悪霊に襲撃されることを、怖れているのだろう。

「以前は本当に済みませんでした。 このような身勝手な依頼を聞いていただき、感謝の言葉もありません」

「カスティルは、私の友達です。 ですから……」

「夫は、ずっとあのときの事を後悔していたのです。 許してあげてください」

ジョーヌも、カスティルに話を聞く限り、冷酷な企業の論理で揉まれて来た人間である。金と経済が全てを支配する生き馬の目を抜く社会で、会社の利益を優先に生きてきたはずの彼女なのに。

今は、相当に参っているのだろう。

それだけ、カスティルを愛しているという事でもある。

ガラントが咳払いをすると、前に出てくれた。

「まず、娘さんがさらわれたときの状況を」

「はい。 車いすで、この辺りにさしかかったとき、あの悪霊が数匹不意に現れて、カスティルを掴んで連れて行きました。 パティのモカも、一緒にさらわれました。 モカは、カスティルにしがみついていて、そのまま連れて行かれた感触ではありましたが」

「……それで、悪霊はあの城に?」

「はい。 まっすぐに飛んでいったようです」

腕組みすると、ガラントは解せないと呟く。

確かにガラントが言うとおりである。あの悪霊が、わざわざそんなことをするだろうか。実際来る前に調べたところだと、襲われてひとたまりも無く殺されてしまった人もいると聞いている。

つまり、何かの目的があると言うことだ。

「分かりました。 まだ娘さんは生きている可能性が充分にあります。 これから悪霊の掃討作戦に参加し、奪還を目的に動きますので、自警団の本部か港に避難を。 ここにいるよりは、生存確率が上がることでしょう」

「カスティルが戻ってきたときのために、此処にいたいのですが」

「残念ながら、足の悪いお嬢さんが自力で脱出することは不可能です。 戦闘力が低いパティが一緒にいても、それは同じ事。 帰ってきたお嬢さんが嘆くことが無いようにすることが、今は大事でしょう」

ガラントの理性的な説得に、ジョーヌは泣きはらした目でうなだれた。

二人を港にガラントが送り届けてくれる。家の外には、グライネが待ってくれていた。多分、マローネを見かけた自警団員がいたのだろう。

すぐに、現在の自警団本部に案内してくれる。グライネは、闇の中に希望を見たという顔をしていた。

「早く来てくれて助かるぜ。 これで今日中には作戦を実施できそうだ」

「アマゾネス団の人達も、本部に?」

「ああ。 島民も今は順次港に向かって貰ってる。 最悪の場合、アマゾネス団のボトルシップなら、今残ってる住民くらいなら輸送できそうだからな」

30年前のことを、最近調べたのだと、グライネは言う。

オウル族の青年は、地獄が其処にあったと、吐き捨てた。

「こんな風に、悪霊が現れて、島ごと全滅したって事が何度もあったらしい。 殆どの場合は、逃げる暇も無かったそうだ」

「酷い話ですね」

「ああ、そうだ。 だが、俺たちも30年前と一緒じゃねえ。 悪霊だか何だかしらねえが、思い知らせてやる」

乾いた音を立てて、胸の前でグライネが拳を打ち合わせた。滾る戦意が伝わってくるが、無謀にも思える。

だが、こういう揺るぎない意思こそが、逆境を跳ね返す力になるはずだ。

自警団の本部は、恐らく放棄されたセレストの別荘なのだろう。三階建てくらいある、大きな石造りの建物だった。庭などにはかって珍しい植物が植えられていたようだが、今では気の毒なことに、朽ち果ててしまっている。

歩哨に立っていたのは、この島の自警団員では無く、アマゾネス団の戦士だ。髪を短く刈り込んだ、たくましい女戦士達である。彼女たちはマローネの挨拶を冷たい目で見ていた。そういえば、以前小競り合いをした相手だった。恐縮して、どうしたら良いか分からないでいるマローネに、向こうから声を掛けてくれる。ただし、声色はとても冷たかったが。

「リーダーがあんたが来たら呼ぶようにって。 中にいるはずだ」

「分かりました」

「何だよ、態度がわりいな。 俺は奥で、仲間と話がある。 もうすぐ作戦会議が始まるはずだから、あんたも参加してくれ。 あんたが加わってくれれば、きっと大きな力になる」

「頑張ります。 グライネさんも、無理しないでください」

どうしてか、グライネはマローネにとても良くしてくれる。

こういう人がもっと増えてくれると嬉しいなと、別荘に入りながらマローネは思った。

別荘の中も、アマゾネス団の戦士が数名巡回していた。以前の話を聞く限り、いつどこに悪霊が出ても不思議では無いようだし、無理も無い事だ。奥の方に会議室があった。とは言っても、元は庭に面したリビングであったようだが。

壁際には島の地図と、それに城の地図。地図を手にした棒で指しながら話をしているのは、以前アッシュと互角以上の戦いを見せた、フレイムだった。

フレイムはすぐにマローネに気付いた。だが、今は並べられた席に着いた人達が、みな話を聞いている状態だ。マローネもそそくさと後ろの方の席に着く。そうすると、なんと隣にフィルバートが座っていたので、げんなりした。

この人は、作戦に参加しないだろうに。

フレイムの説明は非常に淡々としていたが、そもそも傭兵団の長だから、説明には慣れているのだろう。

現在の状況を的確に説明してくれていた。やはり悪霊は城に集中しているようで、数は最低でも三百に達するという。下手をすると四桁に達する可能性さえあるそうだ。敵を殲滅するには、もう一つくらい傭兵団が必要かも知れない。

そういえば、見ると白狼騎士団の人達もいる。ラファエルはいない様子だが、それでも充分に頼りになる。

「以上で説明を終わる。 何か質問は」

「攻略作戦については、これからだろうか」

白狼騎士団の人が挙手した。

以前見かけたことがある、実直そうな中年の騎士だ。その隣には、ちょっとおっちょこちょいそうな、分厚い鎧を着た女性の騎士もいる。

「それはこれからだ。 幸い、今待っていた戦力も到着したことだしな」

皆が一斉にマローネを見たので、顔から火が出そうになった。

其処からは、そのまま作戦会議に入る。

現在、全体で一番大きな戦力を持つアマゾネス団が、やはり中心となって活動するという。彼女らは今回、百名強の団員を連れてきているそうだ。かなりの大人数だが、アマゾネス団の全戦力だとかで、この仕事に本気で臨んできている事が分かる。

元々アマゾネス団は、第一級とされる傭兵団としても歴史が長い。マローネが調べたところ、百年以上前から存在している傭兵団だそうだ。今のフレイムは六代目の団長だとかで、戦歴は既に十年以上。歴代の傭兵団長の中でも、評価はかなり高いそうである。

「我々が突破口を開く。 以前城に悪霊が出たときは、クロームのマローネを主戦力に、島の自警団だけで対処したと聞いているが」

「間違いない。 その時は、マローネの側にいるガラントっておっさんが、指揮を執ってくれた」

自警団の人が、そう証言してくれる。

フレイムがマローネを見る。ガラントを呼んだ方が良いのだろうか。そろそろ、此方に到着するはずだが。

と思っていたら、きた。部屋に堂々と入ってきたガラントは、周囲を見回す。あの人だと自警団員が言ったので、小首をかしげる。

「ああ、そう言うことか。 以前の作戦についての情報だな」

地図の方に行くと、ガラントはとても難しい戦術用語を駆使して、話を始めた。フレイムは腕組みをして話を聞いていたが、やがて結論を出す。

「その作戦は、もう使えそうに無いな」

「同感だ。 以前の作戦を使えば、敵に裏を掻かれる可能性が高い」

「ならば、こういう作戦は」

白狼騎士団の人が提案を行い、フレイムとガラントが話をして、中身を詰めていく。マローネはする事が無くて肩身が狭い。

ただ、今するべき事は、ガラントを信頼することだというのは分かっている。

今後は、自分でも出来るようになりたいと、思うことはある。だが、それは欲張りというものかも知れない。

作戦が決まるまで、半刻程度。フレイムが指導力を発揮してくれたため、会議は紛糾することも無かった。

大規模な仕事には、マローネはあまり出たことが無い。ただ、クロームのギルドで情報を得たとき、リーダーが無能だと会議が紛糾して、時間を浪費することがあると言う話は聞いていた。

一刻一秒でも早くカスティルを助けに行きたいマローネとしては、ありがたい限りだ。

終わると、会議は解散となった。休憩を半刻ほど入れた後、早速出撃である。今日中に作戦開始と言ったグライネの言葉は当たった。一旦ガラントにはファントムに戻って貰い、マローネ自身も庭に出て休む。目を閉じて、集中して休憩することにした。フィルバートにつきまとわれたら大変だと思ったのだが、意外にもかの新聞記者はフレイムや自警団員に聞き込みを行っていて、マローネは一瞥しただけだった。

作戦は、頭に入っている。

マローネにも理解できた部分をまとめると、今回は三つの部隊を主に運用する。

一つは白狼騎士団が中心となり、クロームやこの島の自警団をまとめた混成部隊。驚くべき事に、この島に来ていたベリルも此処に配置するようだ。本当だったらあり得ない事だが、ベリル達の顔役が悪霊に惨殺されたそうで、彼らも覚悟を決めているらしい。ただ、信頼度の低い戦力を、まとめて白狼騎士団が引き受けてくれるという意味もあるとか。

もう一つはマローネである。これは中央で相互支援を担当し、最終的に敵の首魁を叩く役割を持つ。

アッシュの実力は、ガラントが太鼓判を押すほどにまで上がっている。ガラントは真ん中にいて、指揮の補助をする方が望ましいと、フレイムは言っていた。確かに指揮官が二人いては、現場は混乱するだけである。

ガラントもそれに同意していた。

最後は、フレイム達アマゾネス団である。主に敵中を切り開く役割を果たす。兵力と言い練度と言い、当然の役割であろう。

基本的に、フレイム達が敵中を突破し、後方を白狼騎士団が守る。真ん中にいるマローネは、適宜前衛後衛を支援。

地形は割れているから、作戦は大体これくらいで大丈夫だ。後は指揮官達が、状況に応じて柔軟に対処すれば済む。

あまりにも緻密すぎる作戦を立てても、敵の戦力に予想される幅が大きい現状、混乱したとき立て直しが効かない可能性が出てくるという。専門家達がそう言うのだから、その通りなのだろう。

しばらく目を閉じて休んでいたが、近づいてくる気配がある。

顔を上げると、フレイムだった。

「今回は重要な役割を任せることになる。 すまないが、頼むぞ」

「はい、此方こそ」

立ち上がってぺこりと頭を下げるが、フレイムはにこりともしない。

嫌われているのかなと思ったが、どうも違うらしい。他のアマゾネス団隊員達も、表情は皆硬かった。

「悪いが、団員の掟でな。 男がいる所では、表情は作らない」

「え……?」

「別にお前を嫌っているわけでは無いから安心しろ。 元々我らは、女しかいない島の出身だ。 色々と身を守るために、努力をしているのさ」

アマゾネス団は、かなり特殊な島の出身だとは聞いていた。だが、それでは苦労も多いような気もする。

外の人間は、全て敵。

もしそう考えているのだとすれば、悲しい事なのかも知れなかった。

休憩時間が終わると、鐘が鳴らされる。それぞれの編制された部隊ごとに、古城へと進撃を開始する。

これだけの規模の作戦に参加するのは、マローネとしてもあまり経験が無い。以前風の翼団と一緒に作戦を行ったときも、兵力はこれよりもずっと少なかった。今回はアマゾネス団百七名、白狼騎士団二十名に加え、自警団員五十名、クローム十四名、それにベリルを加えると五十名が追加される。合計して、二百名を大幅に超える戦力である。

古城には既に此方の動きを察した悪霊が、多数集まり始めている様子だ。城の外からも視認できるほどだから、内部は非常に危険だろう。

激しく、鐘が叩き鳴らされた。

マローネもコンファインを開始する。戦いが、始まるのだ。

 

2、月夜の城の激闘

 

カスティルは、生きた心地がしなかった。

両親と外に出て、日差しの暖かさを楽しんでいたその時。いきなり以前襲ってきた悪霊に、連れ去られたのである。必死に飛びついてきたモカも一緒に、さらわれた。「悪霊」は球体状の体をしていて、殆ど口しか無く、至近で見ても目や鼻は確認できなかった。本当にこれが、悪霊なのかもよく分からない。だが、以前資料で見た、サルファーが現れるとき世にはびこる悪霊と、酷似していたのは事実である。

城にまで運ばれて、乱暴に放り出されて。

そして、見ることになった。

無惨な人間の亡骸の山を。

恐らくベリルだった人達の、成れの果てなのだろう。食いちぎられた人体の残骸が、其処にはうずたかく積もっていた。既に腐敗が始まっており、むき出しになった内臓には、蠅が集っている。どうも、食い散らかしたと言うよりは、かみ砕いて吐き捨てたという方が正しい様子だ。死体は例外なくおぞましい粘液にまみれ、体の外も中もごちゃ混ぜにされて放置されていた。

思わず吐き気を催す臭気が、周囲に漂っている。

もの凄い足音が近づいてくる。モカが抱きついてきた。震えているのが分かる。歩くのも逃げるのも不可能なカスティルは、それが近づいてくるのを、只見つめることしか出来なかった。

それは、まるで骸骨のような怪物だった。ただし、大きさはとんでもなく、人間の五倍も六倍もある。

頭部と胸部しか無く、肋骨の中からは光る心臓らしい部分と垂れ下がった内臓がむき出しに見えている。肩から下の両腕は無いが、手のひらだけは存在し、それで地面を叩きながら近づいてくる。手には、杭のようなものが刺さっている様子だ。体は浮いているのか、或いは見えない腕で支えられているのか。それは、見ているだけでは分からなかった。

モカと抱き合って震えるカスティルに、化け物は顔を近づけてくる。

後頭部に向けて角のような突起が尽きだしている怪物、いや実力から言って魔物だろう。それは、確かに人間の言葉を、発した。

「コレダ、マチガイ、ナイ。 コレデ、マローネ、コロス……!」

「……っ!」

マローネと、確かに魔物は口にした。

カスティルは祈るしか無い。この恐ろしい魔物が、どうにか退けられるようにと。そして悟る。

この魔物が、マローネを恐ろしい目に遭わせるために、カスティルをさらったのだと。

「モカ。 いい?」

魔物から見えないように、カスティルはモカを話すと、その目の前で手を動かした。

無力すぎる自分に出来る事は限られている。

だが、カスティルは、マローネのためならどれだけでも勇気を振り絞れる。今、カスティルに出来るのは、足手まといにならない事。

そして、位置を知らせる事だ。

位置さえ分かれば、歴戦のクロームであるマローネは、きっと何とかしてくれる。この恐ろしい魔物を退治するか、或いは逃げるか。どちらにしても、絶対に何とかしてくれるという信頼がある。

泣いているだけではいけない。

嘆いているだけの時間は、もう過ぎた。

今、カスティルは、自分に出来る事を、しなければならなかった。

 

アマゾネスと呼ばれる集団は、イヴォワールの北部、ヴァーミリオン地方のある島出身である。例外はただの一人もいない。誤解されがちだが、アマゾネスといっても、全員が女戦士では無い。

アマゾネス団は、一族の中でも戦士階級の者を集めて結成された傭兵団なのだ。目的は主に外貨の獲得である。故郷の島は中規模の広さと、そこそこ豊かな資源に恵まれているとは言え、それでもやはり外部からの金が入らないと、貧しくなる。それが現実なのだ。島の者達のために、お金を、それが生み出す物資を稼いで戻るという、大事な義務がアマゾネス団にはある。

イヴォワールでも現在十の指には入る傭兵団の一つとして活躍する女性のみの戦闘集団。そういうと華やかにも聞こえるが、実体は違う。

そして、傭兵団長であり、皆の命を預かってもいるフレイムは知っている。元々アマゾネスというのは、どす黒い因縁と過去と、切っても切り離せない集団だと言うことを。

戦士達が、既に城の入り口にまで到達している。

かってサルファーに滅ぼされたという城には、今。その手先と呼ばれる悪霊が、無数に集結しつつあった。

アマゾネスの戦士達が、威力偵察しつつ、陣形を組み始めている。フレイムが赴いたときには、既に数体の敵の死骸が散らばっていた。よく見ると、まだ死んではいないらしい。フレイムが痙攣している敵に槍を突き刺すと、風化するように消えていく。

「気味が悪い連中だな」

「入り口付近には、ざっと百三十。 大きな奴は、人間を丸呑みしそうなサイズです」

「分かった。 まだ仕掛けるな。 後続の到着を待て」

同じアマゾネス達だけの時には、表情もある。

今は最前線だから、みな緊張しているが。

火山諸島の出身らしく、浅黒い肌を持つアマゾネスは。かって一種の「逃げ込み島」の住人だった。

結婚したが、夫の暴力に耐えられなかったり。或いはギャンブルや育児放棄をする夫に愛想を尽かしたり。

そういった理由で、島に逃げ込んできた女性達をかくまっていたのが、アマゾネスの先祖達である。彼女らはそういった事情から、極端な男嫌いばかりだった。だが、それでも。よりを戻しに来た男と一緒に島を出たり、場合によっては男を島に受け入れたり。特殊な環境とは言え、男が全くいない、という状況では無かったのだ。実際、離婚調停には便利な環境と言う事もあり、国にも存在を認められていた。

少なくとも、200年ほど前までは。

やがて、夫から逃れて島に逃げ込んできた女達の中に、能力者が一人混じっていたことが、このいびつな集団を作り出すきっかけになる。

能力の名前は、アヌシアシオン。

受胎可能な女性を妊娠させる能力である。力を弱くして発動すると、性欲の抑制効果も同時にもたらす。島はこの性欲抑制の結界に包まれていて、能力者は女神のように崇められているのだ。

これにより、男性が必要なくなったアマゾネスは、非常に閉鎖的で、独特の文化を創り出していくことになった。島に伝わる踊りは、自分たちに理想的な能力を持つ巫女の到来に驚喜する光景を再現したものだ。

外に出たから、フレイムは知っている。

200年続いているとはいえ、このアマゾネスという集団が、如何にいびつか。

島では、男は敵で害悪だと、子供達に教えている。男女の区別は悪だとされているし、島に入り込んだ男は必ず殺す。弓矢も槍も幼い頃から叩き込み、素質が無ければ生産階級に回される。

生産階級は、死ぬまでに十五人は子供を産む。能力で安定して子を授かるとは言え、無茶な母体の酷使で、寿命を縮める者も少なくない。フレイムの母もこういう生産階級の一人で、体を壊して死んだ。

生産階級で無くても、アマゾネスである以上、最低一人は子を産むことを義務づけられてもいる。そうしないと、島から出ることさえ許されない。

フレイムも生理が来てからアヌシアシオンで授かった子供を一人産んだが。その子のことは、出来るだけ思い出したくない。

実際、掟に背いて、島の外でこっそり男と寝てみたこともある。あまり面白いものでもなかったが、かといって否定する意味も見いだせなかった。恋人はいずれも長続きしなかったが、それはフレイム自身の性格が原因でもあったのだろうと、今は思っている。文化も考え方も違いすぎるし、何より相手がアマゾネス出身のフレイムを「頭が面白い奴」くらいにしか考えていない事を、敏感に感じ取れるからだ。この辺り、変に頭が回ると、損なのかも知れない。

若い頃は随分反発もした。生まれた場所を子供は選べないと、本気で世間を恨んだこともある。

だが、今ではある程度自分の中で結論も出ている。自分は、この集団から結局逃れられない。

なんだかんだで面倒を見るのは好きだし、いきなり200年続いた閉鎖的な社会を壊して、皆が生きられると思うほど子供でも無い。だが、アヌシアシオンの能力で作った子供が男の子だったら奴隷商に売り飛ばすような文化は、間違っていると思う。それが男に対する怨念に起因するとしてもだ。

外でも生きていける自信はある。

鍛えに鍛えた能力に、戦闘の知識。並の男の戦士なら、片手で五人はあしらえるほど、武技も戦術も磨き抜いている。

だが、それでも。

やはり島のことを考えてしまう以上、フレイムは「アマゾネス」なのであった。

たまに、フレイムは、掟に背いて島を去る若い戦士を目こぼしもしている。追撃も熱心にはやらない。気持ちはよく分かるから、だ。だが、それ以上は、今する気は無い。

最終的に、悪習を一つずつなくすようにしていきたい。そうは思っていたが。島の経営に関わるようになるには、まだ実績が足りなかった。

「リーダー!」

「何だい」

「マローネというあの娘が来ました」

突出しすぎだろうと思ったが、来るように来させる。団員の中には、以前フレイムを負かしたマローネを良く想っていない者もいるようだが、此処は戦場だ。文句は言わせない。実際、あの陰気なフォックスと同等以上まで評価を上げている戦士を活用しなければ、戦略の意味が無いのである。

マローネが来た。側に、あのガラントという老戦士はいない。代わりに、弓矢を手にした、妙な格好の女を連れている。間近で見ると、気配が人間のものとは少し違う。

この女は魔島で見かけた。かなり優秀な弓使いで、戦術眼にも優れている。侮りがたい相手だ。

「フレイムさん、状況は、その、どうですか」

「問題ない。 これから体制が整い次第仕掛ける。 後衛の様子は」

「白狼騎士団の隊長さんがまとめてくれています」

フレイムとしては、あのガラントという老戦士の見解が聞きたいところだが。この様子から言って、後ろに控えているか、事前の指定通りの中間地点辺りで戦況のコントロールを行う準備に入っているのだろう。

「其処の柱、使っても良いか」

弓使いの方が言ったので、顎をしゃくって好きなようにさせる。

城の入り口に残っている柱に、するすると猿のように登り上がると。女は目を細めて、城の方をのぞき込んでいた。

服装といい動きといい、やはりこの世界の住人では無さそうだ。それにしても木登りの達者なこと。思わず口笛を吹きそうになった。体格は幼いが、充分以上にいっぱしの戦士だ。

「まずいな。 敵の数が多いぞ」

「何?」

「入り口近辺だけでも三百五十はいる。 配置からいって城の真ん中辺りにも、百五十以上は控えていそうだ」

「三百五十だと!? おい、いい加減なことを言うな!」

偵察をした戦士が、不平の声を漏らす。彼女の証言と、倍以上も食い違いがある。

だが、弓使いも引かない。

「私は弓の専門家だが?」

「信用できないと言っている! 我々だって、戦闘のプロだ!」

「まて。 弓使い、名前は……」

「ハツネだ。 これでも、目の方は人間よりは良いつもりだ」

やはりこの者、イヴォワールの住人では無いか。

少し考え込んだ後、フレイムは戦力の配置を換えるように指示。不満そうな戦士達に、言い聞かせる。

「敵を侮って被害を受けること、慎重に進んで簡単に勝つこと、どちらがいい」

「後者に決まっています!」

「ならば、後者を選ぼう。 油断して負けることは、今許されない。 相手に専門家がいることを悔しいと思うのは大事だが、現実を見ろ。 そうしなければ、此処からは生き残れないと思え!」

「ハイ! リーダー!」

ハツネは意外そうな顔をしていたが、マローネと連れだって、中衛に戻っていった。

程なく、攻撃の準備が整う。

愛用の長大なハルバードを手にすると、フレイムは鬨の声を上げた。

「お前達、油断するんじゃ無いよ! 総員、攻撃開始!」

「1班2班3班、突入!」

鬨の声に続いて、どっとアマゾネス団の戦士達が、古城に突入を開始する。勿論、悪霊どもも黙ってはいない。

すぐに、凄まじい肉弾戦が開始された。

 

徐々に戦線が進み始める。

突入と同時に、マローネも走り出す。これは事前の打ち合わせ通りだ。後衛もすぐに動き始めるはずである。

今回は側にバッカスをコンファインして、全体を見るためにガラント、それに支援のためにハツネとコリンを最初からコンファインしている。

以前此処で戦ったときとは、マローネの力は比較にならないほど上がっている。四人同時のコンファインでも、充分に余裕がある。後は切り札としてヴォルガヌスを、そして最後の締めにアッシュを、それぞれコンファイン出来るだろう。

まだカナンはコンファインしていない。

これは戦況を見て、順次コンファインしようと思っているからだ。いくら余裕があると言っても、いつも戦闘ではギリギリの結果になる事が多い。それを踏まえて、余裕があるときには、力を温存したい。

それに、アマゾネス団にもヒーラーはいる。

後陣に下がっているが、数は四人。いずれも腕利きの術者と言うことで、しっかり守りきれば、戦いは有利になるはずだ。

ハツネが、さっき登った柱の位置にまで来た。既に城に入り込んだアマゾネス団は、激烈な死闘の中にいた。

槍と斧を合わせたハルバードを振り回し、フレイムが鬼神のように荒れ狂っている。手をかざして見ていたガラントが、隣で弓を引き絞っているハツネに言う。

「妙に敵が薄いな。 相当に分厚い陣を敷いていると聞いていたが」

「さっきと陣立てが違っている。 敵が百体以上少ない」

ハツネの言葉が終わるや否や。

空中に、多数の影が出現した。悪霊の本領発揮だ。

前陣と後陣の中間にいるマローネの元に、百体以上の悪霊が、空間を転移していきなり殺到してきたのである。

それだけではない。

空に無数の悪霊が、不意に出現する。

どうやら、後陣にも大量の悪霊が襲いかかったようだった。

「ふん、良い肩慣らしだ。 バッカス! マローネ嬢とコリンをかばいながら戦え! マローネ嬢はタイミングを見計らって、後衛の上空にヴォルガヌスで一撃! 後は適宜支援!」

「分かりましたっ!」

マローネは、ガラントを信じる。

必ず、上手く行く。

 

悲鳴を上げながら空中につり上げられた自警団の男が、かみつぶされて、動かなくなる。大量の鮮血を滴らせながら、顔中口になっている悪霊が、嘲笑うようにして躍りかかってきた。

白狼騎士団の面々は、それぞれ小隊規模の雑兵の面倒を見ながら戦わなければならなかった。しかも敵の数が数だ。不意を打たれたこともあり、彼方此方で死者が出始める。グライネは、四方八方から悪霊がかぶりつこうとしていた若い男を突き飛ばすと、槍を旋回させる。

この日のために、鍛え抜いてきた技だ。

瞬時に、四体の悪霊が、切り裂かれて地面に落ちた。小さい奴ばかりだが、これで戦況は少しでも有利になる。そう思えば、多少は気も良い。続けて一体を串刺しにしながら、叫ぶ。

「怪我は!」

「大丈夫、です!」

「よしっ!」

白狼騎士団の戦士達は、流石に格が違う。全く危なげの無い戦いで、敵を寄せ付けずにいた。おっちょこちょいな行動が目だった女剣士でさえ、能力さえ使いこなし、手当たり次第に敵を切り払っている。

だが、それ以外は違う。

また、悲鳴を上げながら、一人が空中につり上げられた。それを見て、無数の球状の悪霊共が、大口を開けてかぶりつきに掛かる。

もう、作戦も何も無い。

敵は、空間を好き勝手に移動できるという最大の地の利を生かし、一撃離脱の、最悪の意味での機動戦を仕掛けてきているのだ。どこにでも現れ、いつの間にか逃げている。奴らは、そんな戦いを行っていた。

跳躍すると、悪霊を貫く。そしてそいつを踏みつけながら、空中で旋回し、着地するまでに二体を切り裂いた。

マローネの活躍を、新聞で、何度も見た。

いずれも好意的な記事では無かった。明らかな飛ばし記事も多かった。悪意に満ちた記事もあって、時々マローネの実像が歪みそうにもなった。

至近。大口を開けた悪霊。そのままもつれ合って、地面にたたきつけられる。思わず呻く。

噛まれるのを避けるのに必死で、身動きが取れない。助けを求めようにも、周囲は阿鼻叫喚。

徐々に、万力のような力で、相手の口が閉じていくのが分かる。

悪霊はとんでもなく巨大なサイズだ。噛まれたら、ひとたまりも無いだろう。呻く。だが、冷や汗を流しながらも、諦めない。

この島の住人であるグライネが、此処で諦めたら。一体この戦いで死んでいった者達に、どうわびれば良いのか。

大量の唾液が、降りかかってくる。

酷い臭いは、悪霊の口の奥からする。それにしても、本当に訳が分からない連中だ。そもそも此奴らは、本当に「悪霊」なのか。

「お、おおおおおおおおおっ!」

気合い一閃、投げ飛ばす。

落ちていた自分の槍で、相手が体勢を立て直す前に、串刺しにした。何度も突き刺し、大量の返り血を浴びた。相手が動けなくなり、塵になる。

視界の隅。

ぼっと、もの凄い炎が上がった。白狼騎士団の戦士を取り囲んだ悪霊が、一斉に何かの術式を発動したのだ。

炎の中で、踊るようにしてもがく鎧の騎士。

雄叫びを上げながら、周囲を囲んでいる悪霊の一匹を、後ろから串刺しにした。更にもう一匹。勇気づけられた味方が、他の悪霊も刺す。

炎の術式が、途切れる。

だが、倒れた騎士は動かない。

「ヒーラーだ! 早く呼べ!」

叫ぶ。此処は地獄だ。ヒーラーも何名かいるはずだが、今は一体どこにいるのか。

後ろ。至近。

槍を盾にして、かぶりついてきた悪霊を受け止める。腕に力が入らなくなってきた。今日だけで、十五体は敵を殺した。もう一匹。不意に力を抜き、口を閉じようとした相手の喉の奥を、槍で貫く。

おぞましい絶叫を挙げながら、悪霊が消えていった。

気付く。

どうやら、グライネは、悪霊共に強敵と認識されたらしい。無数の悪霊が、此方をにらんでいるのが分かった。目が無いのに、どうしてかにらんでいると認識できるのだ。詠唱している。

ああ、あの炎か。

呻きながら、騎士が体を起こそうとする。まだ生きている。

これ以上、やらせてたまるか。叫んだのは、注意を引きつけるため。躍りかかり、至近の一匹を貫く。

だが、次の瞬間、炎がグライネの全身を包み込んでいた。

熱いというのとは、少し違う。体が、何かおかしくなっていくのが分かった。燃えるような赤の視界の中、至近のもう一匹を滅茶苦茶に突き刺して、殺した。笑いが漏れる。もう一匹。刺す。殺す。

だが、そこまでだ。体が、もう動かない。その場で、倒れる。意識が、強制的に切断された。

仰向けに、転がされているのが分かった。

ヒーラーがのぞき込んでいる。死なずに済んだらしい。空を見ると、何か、とんでもない爆発が起こった跡が、巨大な煙の塊として残っていた。

「な、なんだ……」

「ドラゴンが、ブレスを悪霊共の群れに叩き込んだんだ! 百匹以上が、一気に消し飛んだぜ!」

「それで戦況は有利になった! 今、けが人を後ろに移動させて、隊を再編成してる」

周囲の自警団員達が、口々に言う。マローネだなと、グライネは思った。

ヒーラーの術式が、身を包む。思わず悲鳴が漏れた。

痛いとか、痛くないとか、そういう問題では無い。戦っているときはさほど痛くなかったのに、今は指を動かすだけで死にそうだ。全身が焼けただれて、もう今日は戦えそうに無い。見ると、槍は熱でか、或いは無茶な使い方をしたからか、ひん曲がっていた。

ごめんな。

未熟故に、使い物にならなくなってしまった槍にわびる。

後は、この島の事を、マローネに託すしか無い自分が、とてもふがいなく思えた。

 

思ったより敵は少ない。その代わり、後方が阿鼻叫喚の有様だ。

悪霊共は、文字通りどこから現れるか分からない。油断した瞬間、味方の戦士が頭から食いつかれるのを見た。もがく戦士に食いついている悪霊を突き殺す。倒れた戦士の意識は無い。

後方に下げる事も、今の状況では不可能だ。

「けが人を中央に! 一旦防御隊形を取る!」

「リーダーっ!」

前衛の戦士が、下がってくる。

理由は分かった。とんでもなくでかい悪霊がいる。人間の倍くらいは体のサイズがあり、その手に戦士を掴んでいた。悲鳴を上げて逃げようとする戦士を、その口に運ぼうとしていた。

フレイムの中で、怒りが燃え上がる。

印を切り、能力を発動。

「吹っ飛びな! 乙女の力、コバルト・ブルー!」

悪霊の口の中に、氷の塊が出現し、爆発的に巨大化する。

これぞ、フレイムの切り札、コバルト・ブルー。能力としては魔術に近い系統で、ユニークスキルとは言いがたい。使い手も比較的多いと聞いたことがある。氷を発生させて、それを操作する能力だ。

能力としては、比較的ありふれている。

だが、此処まで磨き抜いているのは、フレイム以外にいないだろう。

口を内側から引き裂かれた巨大悪霊が、戦士を放り出してもがく。そこに、他の戦士達が殺到して、見る間に忌まわしい悪霊をずたずたに切り裂いてしまった。

既にフレイムだけで数十は敵を潰した。だが、まだまだ敵の数は減る様子が無い。

その時だった。

空に、巨大な爆発が出現する。後衛に襲いかかっていた悪霊共が、百体以上は瞬時に巻き込まれ、吹き飛び、消滅した。

ドラゴンだ。

見覚えがある。あれは魔島の離島で、マローネの逃走を助けた奴だ。しかも、以前とは火力が桁違いに上がっている。

成長しているのだ。

あの戦いからそれなりに時間が過ぎたが、子供とは言えとんでもない成長速度だ。これは、ぞくぞくする。

フレイムは、今。

サルファーを倒せる、英雄の誕生に立ち会っているのかも知れない。

「今ので後衛が盛り返しました! 敵を駆逐し始めています!」

「これは、此方も負けてはいられないねえ。 お前達、マローネ一人に良い格好させるんじゃないよ! その辺の悪霊共を、一匹残らず駆除するんだ!」

歓声が上がる。

敵の猛攻を凌げば、今度は此方の番が来る。飛びかかってきた悪霊を、一息で一刀両断に斬り伏せながら、フレイムは笑う。

今、歴史の目撃者になろうとしているのが、楽しいのか。或いは、高揚で少し頭の栓が緩んだのか。

或いは、戦場の狂気に、いつものように浸されたのかも知れなかった。

良い気分だ。

こんな時だけは、あのときの事を、完全に忘れられる。フレイムは薄ら笑いを浮かべながら、ハルバードを振るい、また敵を斬り伏せた。

 

3、戦の大渦

 

潜入は、得意だ。

オクサイドをやって稼いでいた頃から、これがウォルナットの十一番だった。恐らく幼い頃から、得意だったからだろう。

昔から、ウォルナットは。日陰でずっと生きてきた。

大勢で遊んでいる子供達の輪に加わることは無かった。孤児だったからだ。それ以上に、体が弱い妹を守らなければならなかったからだ。

人一番からだが強いこと、両親がいないことが、使命感に拍車を掛けていたかも知れない。

それが、却って反発を招くことになった。

孤児院の頃から、ウォルナットは知っていた。自分の両親が、ベリルだと言うことを。しかも指名手配を掛けられるほどの、筋金入りの悪党だったらしい。そして悪逆の限りを尽くしたあげく、白狼騎士団に殺されたそうだ。

妹には絶対に聞かせなかったが。或いは、知っていただろうか。それは、分からない。

城の中に入ったウォルナットは、周囲を見回す。子供の頃、散々一人で遊んだ場所だ。どこに何があるか熟知している。細かい地形はかなり変わっているようだが、それでもどうにか理解できる範囲内だ。

戦闘の音は、徐々に近づいてきている。

危険を察知する嗅覚は、磨きに磨き抜いている。後ろ、殺気。振り向きざまに、拳を叩き込んだ。

吹っ飛んだのは、以前も見た、球体状の化け物。悪霊と呼ばれている例の奴だ。

更に肘を振り下ろして、とどめを刺す。ウォルナットの鍛え抜いた肉体から繰り出される攻撃は、それそのものが凶器に等しい。

一撃で死に至った悪霊が、塵になって消えていく。

だが、今ので、恐らくウォルナットの潜入には気付かれたはずだ。

今回戦闘を繰り広げているのが、アマゾネス団と、白狼騎士団の一部と、あの悪霊憑きのガキだと言うことは、ウォルナットも理解している。

いずれもが、ウォルナットを良く想っていない連中だ。そう言う連中の避け方は心得ている。

身を潜めて、隙を見て一番奥へ行くべきだと、ウォルナットは判断した。

そこで、妹を。

カスティルを救い出す。マローネとかいうあの悪霊憑きが、相当に技量を上げていることは分かっている。

奥にいる魔物でも、簡単には勝てないだろう。戦いの隙を突いて、カスティルを救い出すことは、難しくないはずだ。

この世で、ウォルナットにとって大事な存在は二人しかいない。親友であるパーシモンと、実の妹であるカスティル。

自分を引き取ったサフラン夫妻には興味は無い。実の親としてするべき事は全てしてくれたとは思うが、それ以上でも以下でも無いからだ。

能力を使うのは、ギリギリ最後。

今はただ、好機を待つ。闇に潜むこと自体は、ウォルナットの専売特許だった。だが、それも所詮人間の範囲内。

周囲に、無数の気配がわき上がる。

気付いた悪霊が、増援を呼び込んだか。その中には、素手では対処できそうに無い気配も、多数混じっていた。

舌打ちすると、ウォルナットはコートを放り捨てる。

まだ医師には能力を使うなと言われている。だが、クソ喰らえだ。

「おぉおおおおおおおおおおっ!」

雄叫びと共に、サイコ・バーガンディの火力を、完全解放する。

待っていろ、カスティル。そう、呟きながら。

 

後衛がなだれ込んできたことで、一気に戦況は逆転した、

マローネの周囲は、それこそ必死に襲いかかる無数の敵をあしらいながら戦っていたのだが、数の暴力が悪霊の群れを飲み込む。空に逃れようとする悪霊は最悪の運命をたどった。ハツネにとって、良い的以上の何物でも無かったからだ。ハツネが好機と、矢を乱射して、空に逃げようとする悪霊を片っ端から射貫いた。

コリンは要領よく攻撃を避けながら、時々密集した敵に爆発系の術式を叩き込んでいたが、それも途中までだ。

大勢がなだれ込んできてからは、にやにやしながら傍観しているだけになった。時々襲いかかってくる悪霊を、振り向きもせずに焼き払っていたが、それは彼女にとっては余技だろう。

「カナンをコンファインして、支援に。 残りは城の中に」

「分かりました!」

「アッシュはまだだ。 魔物との戦闘に備えておけ」

「分かっています」

途中、何度か危ない場面はあったのだ。だが、バッカスもガラントも、前衛としての仕事を完璧に果たして、マローネにもハツネにも、敵を寄せ付けなかった。アッシュも今回は、悔しそうにはしていない。

最後の最後で、エカルラートの爆発力を使って道を切り開く。それが自分の仕事だと分かっているからだろう。

バッカスが、マローネに背中に乗るように促す。

さっきまではいなかった巨大なリザードマンの姿を見て、おののくベリルもいるようだが。マローネは、もう気にならなかった。

ガラントが白狼騎士団の隊長と話していた。すぐに結論は出たらしい。隊長が咳払いすると、良く響く声で、周囲に宣言する。彼の白いプレートメイルには、返り血らしい赤がべったりだった。

「これから、アマゾネス団が切り開いた道を強行突破する。 敵の戦力は半減しているとは言え、まだ相当数が潜んでいる可能性が高い。 各々方、油断召されるな!」

「応っ!」

歓声が上がる。

カナンが手を叩いて、けが人は来るようにと告げる。多分ヒーラー達は手が回っていなかったのだろう。かなりのけが人が散見された。この規模だと、当然死者も出ているだろう。痛ましいことだ。

だからこそに。

一刻も早く、決着を付ける。

「イクゾ」

バッカスが走り始める。ガラントが併走して、ハツネもそれに付いてきた。コリンはと言うと、意外に足は速いようだが、マイペースに後ろから付いてきている様子だ。

城の中庭は、以前と同じ状況である。

アマゾネス団はまだ先に行っているようで、姿は見えない。

不意に、右から巨大な悪霊が飛びかかってきた。ガラントが斬り伏せる。大剣の切れ味は、鈍っていない。

上空に、数十の新手。

どうやら、マローネを集中的に狙ってきているらしい。だが、追いついてきた後衛が、再び数の暴力で蹂躙に掛かる。

ひょっとしてガラントは、マローネを釣り針にして、敵の戦力を削りに掛かっているのだろうか。

ちらりとガラントの方をマローネは見たが。

一心不乱に戦っているガラントの本音は、読み取ることが出来なかった。疑うのは良くない。ましてや、もしそうだったとしても、ガラントが悪意を持って、マローネをエサにしているとは思えない。

だが、いずれにしても、また敵の戦力を大幅に削ることには成功する。辺りには、血の臭いが濃く漂っていた。

「ガラントさん。 マローネを囮にしていませんか?」

「している。 さっきから、あの悪霊共がマローネ嬢を集中的に狙っているのは、分かっていたからな」

「なっ……!」

「だから、効率的に戦力も削れた。 今の数から察するに、敵の戦力は既に四半減しているとみて良いだろうな。 これで恐らく、敵の首魁への突破が可能になるし、何より、俺たちでマローネを守れば済むだけの事だ」

気色ばむアッシュだが、ガラントの言うことは筋が通っていた。

今回はマローネだけの戦いでは無い。大勢の人が加わっていて、既に戦死者まで出ているのだ。

もしもガラントの機転が無ければ、もっと大勢の人が亡くなっていただろう。

ガラントは、全体のことを考えていた。これは恐らく、彼が歴戦の傭兵団団長だから、出来た事なのだろう。

アッシュは不機嫌そうにしているが、マローネは良かったと思った。

やはりガラントは信頼出来る。囮にされた事なんて、別にどうでもいい。

また、道を遮るように、悪霊が出てくる。

今度はかなりの数だ。ふと見ると、グライネを見かけない。戦いの中で傷ついたのだろうか。命を落としていなければ良いのだが。

戦いの音が聞こえてきた。

多分アマゾネス団の人達である。後ろに下がってきたのか、今現れた悪霊達を、背後から襲っているのが分かった。

バッカスが速度を上げる。

そして、遮ろうとした敵を、体当たりして吹き飛ばした。城の中に殺到してきた後続部隊は、白狼騎士団の騎士達が、巧く統率しているようだが。一人ではぐれると、たちまち悪霊の餌食にされかねない。

アマゾネス団の戦士達が下がって来て、入り乱れての乱戦になる。彼女たちは槍を使って戦っているが、戦闘時、腕に淡い魔力の光が見える。多分元の腕力を、魔力によって補っているのだろう。

辺りはかなりの数の悪霊がひしめいていて、乱戦が凄まじい。

同士討ちにはならないだろうが、気をつけないと危なそうだ。

バッカスから降りて、フレイムを探す。いた。

フレイムが手をかざすと、その先に氷の塊が出現する。落下した氷が、悪霊を粉砕して、更に周囲を冷凍した。とんでもなく冷たい氷なのだろう。

ガラントが、マローネに飛びかかってきた一匹を斬り倒し、抱えて飛び退く。

真上から襲いかかってきた一匹が、地面を抉るようにして噛み裂いたのだ。その身が、燃え上がる。

コリンが放った火炎の術式によるものだった。

呼吸を整える。

激しい戦いの中で、消耗もしてきている。ヴォルガヌスにブレスを吐いて貰って、一気に消費が増えた。

ヴォルガヌスは、今空の方で敵の動きを見てくれているが、流石にもう一度ブレスを放つのは、マローネの魔力が保たないだろう。

カスティルらしい人影も、既にヴォルガヌスは見つけてくれている。

以前魔物と戦った、あの中庭。彼処だ。

彼処まで行くには、まだ戦わなければならない。敵を突破する必要がある。

至近、迫ってきた悪霊の頭を掴むと、バッカスが地面にたたきつけた。尻尾に噛みつかれたが、そのまま尻尾を振り回し、柱とサンドイッチして押しつぶす。

マローネは小走りで行きながら、時々詠唱して、クリスタルガードの術式を展開。襲われそうになっている味方を術式で守った。

もう少しで、フレイムの所に到達。声を掛けようとして、気付く。

「……!?」

気付く。

フレイムに、周囲から妙な魔力が集中している。

フレイムには見えていないようだ。だが、それがとても危険なものだと、マローネには分かった。

「コリンさん!」

「ん? おー、これは収束術式か。 周囲の悪霊を叩くか、それとも本人に対抗術式を掛けないと、燃えちゃうかなあ」

「ハツネさんっ!」

話を聞いていたハツネが、だが困惑して辺りを見回す。

確かに、周囲は大乱戦だ。安定して呪文詠唱できる環境など無い。それに見たところ、レンズで光を集めるように、一点に術式を重ねて、発動させるタイプだ。言われれば、魔術についてコリンに教わっているのだから、判断も出来る。

此処は、城の中である。

コリンはにやにやしている。これは、状況を理解している。ならきっと、マローネなら分かる程度だと言う訳か。

気付く。

テラスへ向けて、走った。外を見る。やはりだ。

城を包囲するようにして、十体以上の悪霊が、等間隔に並んでいる。それも、どれもこれも非常に大きい悪霊ばかりだ。詠唱は、まさに今、完成しようとしている様子だ。

「フレイム! 飛び退け!」

ハツネの叫び、一瞬の躊躇。

それが、悲劇を生む。

フレイムの全身が燃え上がる。ハツネが矢を連射して、虚空に浮かぶ悪霊を端から順に叩き落としていった。

だが、フレイムは、炎を全身に浴びて転げ回っている。アマゾネスの戦士達が慌てて自分のマントや衣服ではたいたが、火が消えたときには、フレイムは瀕死の状態だった。

「ヒーラー!」

「カナンさんっ!」

カナンが気付いて、掛けてくる。

まだ煙を上げているフレイムの体から衣服を引きはがすと、素早く診察を始める。火傷の度合いが酷い。

少しでも気付くのに遅れていたら、きっともうフレイムは、黒焦げになっていただろう。火傷は肉にまで達している様子だった。

「リーダー!」

「死なないでくれっ!」

「他のヒーラーを集めてください。 私は力を使い果たしてしまいます」

悲痛なアマゾネス戦士達の叫びの中、カナンは冷静に術式を掛け始めた。

死者蘇生レベルの大術式だと、一目で分かる。マローネは、カナンの側で祈るように印を組むと、目を閉じた。

戦死者は、大勢出ている。

フレイムを特別扱いするわけでは無い。だが、此処で、力を惜しむわけにはいかない。力を惜しんだら、助けられる命が、助からないからだ。

「クレイ……?」

フレイムが、焼けただれた喉から、知らない名前を口に出す。

恋人だろうか。手を伸ばしたので、カナンが掴んで、術式を更に強く掛けた。肉が盛り上がっていく。焼けただれた肌が、内側から再生していく。

すぐ側では、無言のままガラントが、大剣を振るっていた。カナンと、フレイムを守るように。

バッカスが、マローネに飛びかかろうとした一匹に噛みつくと、そのまま二つに引き裂く。きっと、バッカスも、ガラントと同じ意図なのだろう。

アッシュが目を背けた。

全裸のフレイムは、あまりにも酷く火傷していて、色気どころでは無かったし。残酷さがより目立つからだ。マローネとしては、フレイムのためにも見てあげないで欲しいと思う。

アッシュは分からないかも知れないが、こんな姿、見て欲しいと思う女性はいない。最大の屈辱だと思う。

「ごめんね、お母さん、助けて、あげられなくて。 焼かれて、苦しかったよ、ね。 罰、受けたよ。 だから、許して……」

「リーダーの、子供の名前だ。 掟に従わずに逃がそうとして殺されたこと、まだ、悔やんでたんだな」

アマゾネスの戦士が、目を背けながら言う。

辺りを包む光は、フレイムの慟哭を示しているように、マローネには思えた。フレイムにも、とても悲しい事情がある。

混濁した意識の中で、それが露出したのだと、分かった。

だからこそ、思う。死なせてはならないと。

 

バッカスに跨がったまま、乱戦を抜け出す。

マローネは唇を噛んでいた。絶対に、この戦いは、一刻も早く終わらせる。

こんな悲劇、これ以上積み重ねてはいけない。

アマゾネス達が、壁を切り開いてくれた。悪霊達の数は、露骨に減少している。まだ城の彼方此方で戦闘が散発的に行われているようだが、既に掃討戦だ。

柱が崩れてきた。その陰から飛び出してきたのは、無数の骸骨が重なり合ったような巨魁である。みれば、どの骨も新しく、食いちぎったような痕が彼方此方に残っていた。

きっと、悪霊の犠牲者達の、成れの果てだ。

だがそれが、炎を噴いて、見る間にばらばらになる。

呼吸を整えながら、その背後から出てくるのは。見覚えがある相手だった。

「ウォルナットさん!」

「悪霊憑き、てめえか……!」

ウォルナットは、以前のように、殺気をむき出しにはしていなかった。

見たところ、隠れていたところをあぶり出されてしまった、という状況か。きっと、またオクサイドをしに来たのだろうか。

だが、今はそれどころでは無い。

「ウォルナットさん、今は争っている場合じゃありません! 酷いことはしないで!」

「ああんっ?」

「私の、大事な友達が、魔物に掴まっています! 悪霊達のせいで、今も多くの人達が苦しんでいます! 協力してください!」

「……っ! ともだち、だと……!」

ウォルナットの顔が、見る間に驚愕に彩られ、それから現実逃避の色彩を帯び始めた。ぶつぶつと、何かを呟いている。内容は聞こえない。

アッシュが肩を叩く。

「戦意は無い様子だ。 行くよ」

「でも、アッシュ」

「行けよ。 かまいやしねえ」

アッシュは一度ウォルナットをにらんだが、今はファントムの状態だ。相手には見えていない。

ウォルナットは、消耗が酷い様子だ。こんな所まで潜り込んで、悪霊相手に立ち回っていたのならなおさらだろう。コリンが小走りで付いてきて、言う。

「彼奴、焼き殺してやろうか? あの消耗なら、一瞬で殺れるよ?」

「コリンさん、お願いだから止めて。 友達って口にしたときのあの人の表情、見ていられなかったわ。 きっと、カスティルと何か関係があるのよ」

「お人好し」

コリンはマローネの反応を、明らかに楽しんでいる。

其処にあるのは、本物の悪意。

だが、今は分かる。

少し前から、分かるようになってきた。悪意の裏には、必ず悲劇がある事を。

ヴォルガヌスが言っていた中庭に出る。きっとウォルナットは、悪霊のボスとマローネの戦いの隙を突いて、カスティルを助け出すつもりだ。

だが、敵がそんなに甘いとは思えない。

実際、マローネは敵中を突破は出来たが、温存できているのはアッシュの力だけだ。乱戦の中でガラントもバッカスも消耗が激しいし、ハツネもそれは同じ。コリンは飄々としているが、それほど大きな術はもう撃てないだろう。

マローネ自身の魔力も、消耗は小さくない。

彼方此方で乱戦に介入した結果だ。戦闘を早く終わらせるためには、というような事では無い。

マローネがクリスタルガードや、低級の攻撃術を使って支援を行わなければ、その場で人が死ぬ場面が何度もあったのだ。

ガラントも、それに対しては、何も言わなかった。

「ダイジョウブカ」

「はい、行けます」

「ヨシ……」

バッカスが、振り向かないようにと言う。

気付かれている。戻って、今からでもウォルナットに手をさしのべたいと思っている事を。

だが、今はウォルナットのためにも、戻るわけにはいかないのだ。

不意に、天井が切れる。

中庭に、出た。

空にはまだ複数の悪霊がいる。だが、中庭に出るやいなや、ハツネが矢を番え、順番に叩き落とした。彼女は無言で次々に矢を放つ。

至近に空間転移してきた個体がいたが、バッカスが一瞬も存在を許さなかった。その場で食いつき、地面に何度もたたきつける。そして、かみつぶした。

まだ、魔物の気配は無い。

カスティルは。空から、ヴォルガヌスの声。こっちだと言っている。ガラントに言われ、バッカスから飛び降りた。また、至近に影。ガラントが即応し、剣で串刺しにする。だが、敵もどうやら最後の防衛線を展開するつもりらしい。数十の影が、上から前から後ろから、次々殺到してくる。

バッカスが噛みつかれ、鮮血をぶちまけた。跳躍して、地面に押しつぶすようにしてたたきつけ、粉砕する。だが、ダメージが無くなる訳では無い。コリンが雷撃で、敵の中央部分をまとめて薙ぎ払う。

流石に最後の防衛線だけあって、大きな悪霊ばかりだ。マローネならひとのみにしそうな悪霊もたくさんいる。ハツネの対応が遅れ、至近まで迫られた。矢を放ってそいつは撃ち落とすが、後ろから来た奴が、体当たりを浴びせる。

骨が砕ける嫌な音がした。ハツネの小さな体が吹っ飛んだ。何度かバウンドして、石畳の上で動かなくなる。

立ち上がろうとしているが、今までの消耗が消耗だ。更に頭に食いつこうとした悪霊を、飛び起きざまに射貫いたのが限界だろう。その場で、意識を失った。コンファインを解除。彼女は、今日だけで五十は悪霊を潰してくれた。誰が彼女が最初に離脱したことを笑うことが出来ようか。

「マローネ、防衛の層が薄くなる! 僕をコンファインするんだ!」

「まだ!」

ハツネが体を張って、敵を防いでくれたのだ。

振り返りつつ、クリスタルガードを展開。かぶりついてきた悪霊を光の壁ではじき返す。追いついてきたガラントが、最後の一匹であるそいつを斬り伏せた。

ガラントは激しい戦いで、満身創痍になっている。バッカスも同じだ。コリンも、肩で息をしている状態である。

「よし、敵は沈黙した。 後は、首魁だけだな」

「カスティルは……」

「マローネ!」

既に向こうは、マローネに気付いていた。恐らく、戦いがこの庭で始まった直後くらいからだろうか。その証拠に、足が悪いのに、しっかり柱の陰に隠れてくれていた。側では、モカも手を振っている。

小走りで駆け寄るが、その時。

最大級の悪寒が、全身を駆け抜けた。

来る。

「カスティル、隠れていて!」

事態を瞬時に理解してくれたカスティルが、モカを抱きかかえると、再び若干緩慢にだが、柱の陰に隠れてくれる。

異臭。

酷い残酷なことをされた死体が、彼方此方に転々としていることに、今更ながら気付く。もう、こんな事は終わりだ。アッシュをコンファインするのと、それが姿を見せるのは、殆ど同時だった。

「流石だね、マローネ。 僕がアドバイスするより、的確に動いた」

「うん。 だって、カスティルを助けなきゃいけなかったから!」

体の奥底から、力がわき上がってくるようである。

アッシュが手袋を直す。ガラントが剣を構え直し、バッカスが体勢を低くする。コリンが、術式の詠唱を始めていた。

虚空に、それが姿を取り始める。

以前、此処で戦った凶悪無比な魔物、その姿のままだ。

「マローネ、ミツ、ケタ! コロス!」

「私を、恨んでいるの? 貴方を倒したから?」

声にならない雄叫びを、魔物は上げた。

それは恐らく、肯定を意味していた。アッシュが叫ぶ。そんなことはさせないと。

戦いは、長期戦には出来ない。まだ掃討戦は続いているからだ。激しい戦いの中、既に死人も出ている状態で、なおかつカスティルはもう体力的にも限界が近いはず。

「まずいな。 以前とは比べものにならないよ」

「それでも……」

負けない。マローネは、己に残った魔力を、その場の四人に全て振り分けるべく、詠唱を開始した。

 

最後の一匹を爆散させたウォルナットは、中庭に出る。既に全身はずたずたなのが分かる。無茶をした結果、口からは血も伝っていた。

今は、カスティルを。救わなければならない。

その一念で、無理に体を動かす。必死に足を動かす。歩いた後に、血が転々としているのは。口から垂れたものだけではない。

サイコ・バーガンディは、体に著しく大きな負担を掛ける。人一倍からだが頑丈なウォルナットでも、現在は使いこなすことが出来ない。この能力自体はオンリーワンでは無いと聞いたことがあるが、他の奴はどうやっているのだろう。

無茶な修行で体を鍛えているのか。それとも寿命と引き替えに、能力を展開しているのか。

また吐血。

馬鹿な話だ。マローネを通すために、結局自分が露払いをしたようなものだ。これでは、隙を突いてカスティルを救出できるとは思えない。

フェイディットにいさん。そう、カスティルは呼んでくれるだろうか。最後にあったのは、まだウォルナットが成人していない頃だ。顔も覚えていないかも知れない。名前も、或いは。

自嘲の笑いが漏れる。

稼ぎをことごとく、カスティルの薬代につぎ込んで。医師に搾取されて。そして、悪逆に足を踏み入れて。師に裏切られて。

世界が自分を憎んでいることは知っていた。だが、殺されてなるものかとも思っていた。世界に一矢報いてやる。同じように世界に憎まれたカスティルを救うことで、世界を嘲笑ってやる。

そう思い続け、戦って来た。敵を殺したことだって、何度も何度もある。敵は、全部世界からの刺客だと思っていた時期もあった。

それが、ただ機械的に相手を殺せるようになったのは、何時からだろう。

周囲を見回す。視界が薄れていて、よく見えない。凄まじい轟音。嫌でも、視線がそちらに釘付けになる。

見ることになった。

巨大な骸骨のような魔物と、マローネが死闘を開始している。膨大な青い光を発しているのは、以前ウォルナットと格闘戦をした奴だろう。アッシュとか呼ばれていたか。

動きが、思わず唸らされるほどに速い。

サイコ・バーガンディをフルパワーで使っても、及ばないかも知れない。見ると、悪霊憑きのガキから、魔力が強烈に供給されている。あんな隠し技を、いつの間に身につけていたのか。

再び吐血。

カスティルは。どこにいる。

ガラントとか言う老戦士が、魔物の手を切り飛ばした。真っ二つになった手は、再生せず、魔物が体勢を崩す。

其処に回転しながら、リザードマンの戦士が、体当たりを浴びせる。顔面に直撃。更に詠唱を続けていた魔術師が、リザードマンが離れると同時に、極太の雷撃を、天から直撃させる。

見事なコンビネーションだ。

だが、魔物も黙っていない。即座に手を再生させると、薙ぎ払う。受け止めたリザードマンが、ずり下がる。魔術師は、もうガス欠だ。全身から煙を上げる魔物は、雄叫びを上げて、もう一つの手を振るい上げた。

悪霊憑きが、走り込む。

そして、クリスタルガードを。あの忌々しい術式を発動した。

魔物の手がはじき返される。

老戦士が跳び、大剣を魔物の額に突き刺す。絶叫が、辺りに轟いた。

呻いたのは、気付いたからだ。周囲から、とんでもない量の魔力が収束しつつある事に。骸骨の魔物の胸部に、その力が集まっていく。狙いが読めた。この城ごと、奴はこの周辺を木っ端みじんに消し飛ばすつもりだ。

あの魔力、空間をそのまま除去するかのような凄まじさである。自分も消し飛ぶだろうが、それを一切怖れていない。精神的にも、とんでもない化け物だ。

青い光を纏った青年が、跳ぶ。

そして、ラッシュを叩き込む。だが、魔力があまりにも濃すぎて、それ自体が分厚い膜となって、青年の拳を阻み続ける。

雄叫び。

ウォルナットは、必死に探す。あんなものを発動されたら、逃げようがどうにもならない事は分かっている。

最後だけでも、カスティルと一緒にいたいというのか。違う。

どんなに確率が低くても、カスティルを救いたいと思うのか。そうだ、それに間違いない。

物陰を伝って、行く。

凄まじい爆圧が、何度もウォルナットを吹き飛ばそうとする。柱にしがみつきながら、ウォルナットは見た。

物陰に隠れているカスティルを。

大きくなった。相変わらず体は弱そうだが。随分背も伸びたようだ。

そして、気付いてしまう。

カスティルは祈っている。あの悪霊憑きの勝利を。

薬代を払えなくなったのは、彼奴のせいなのに。それを知らないのか、知っているのか、分からない。

知っている訳が無い。

なんと、世界は皮肉なのか。世界中がウォルナットを嘲笑っているのは知っていた。だが、これこそ。その結実では無いのか。

この時。

ウォルナットは。

悪霊憑き、マローネを。絶対に殺すと、心中で決意していた。

 

まずい。

マローネにも分かる。魔物に収束していく魔力は、完全に次元が違っている。これでは、城どころか、島さえも消し飛ぶかも知れない。

どうすればいい。何か手は。

既にガス欠になっているコリンが、口の端をつり上げた。

「此奴、最初からこれだけを狙ってたな……」

「どういうことですか?」

「妙に近接戦闘能力がしょっぱいのに、マローネちゃんを見るやいなや出てきたでしょ?」

あれは、確実に、この爆発に巻き込むのが目的だったのだ。

コリンの言葉には、説得力がある。この魔物には、生きようという意思が感じられないのだ。

とても悲しい事だと思う。

「くそっ! 接近さえ出来れば!」

「手はあるよ?」

「何だよそれっ!」

アッシュの言葉に、コリンは頭上を指さした。舞い降りてくるヴォルガヌス。

確かに、おそらくは。それしか、もう手はない。

だが、保つのか。

マローネの魔力は、以前より上がって来ている。自覚は無いが、状況を見る限り、それは確かだ。

違う。

今は、行けるかわからない、ではない。

やらなければならない、なのだ。後ろには、カスティルがいる。カスティルを守るためなら。

マローネは、手足の一つくらい、失っても構わなかった。

「さまよえる魂よ、導きに従い現れ出でよ……!」

全身に、激痛が走った。

内臓を、筋肉を、持って行かれるような感触。元々、ギリギリまで魔力を絞り出している現状だ。

だが、それでも、やらなければならない。

汗が滝のように流れ出ている。

違う。これは恐らく、額の血管が破れて血が出ているのだ。目を開けない。開けることで、集中を妨げられるから。

印を切る。

「奇跡の力、シャルトルーズ!」

分かる。

全身の力が、根こそぎ奪い去られていく。意識が遠のきかける。

カスティルの笑顔を、思い浮かべた。それで、必死に意識を下支えする。

目を開ける。其処には。

青い燐光を纏うアッシュの背中。左右にて、最後の攻撃の準備をするコリンとガラント、それにバッカス。

そして、背後には。

再具現を果たした、ヴォルガヌスの、圧倒的な気配。

「行くぞ。 最後の攻撃で、此奴を消し飛ばす!」

「応ッ!」

ガラントの叫びに、皆が呼応した。

必ず、勝ってくれる。マローネは、信じる。自分を、自分なりのやり方で、いつも支えてくれる皆を。

 

城から立ち上る禍々しい気配を、フィルバートは最初丘の上から見ていた。城での死闘に直接加わる事は無かったが、一番良く確認できる地点で、フィルバートはずっとメモを取っていたのだ。

この戦いを、後世に残すために。

だが、何か胸が騒ぐ。

こんな遠くで見ていて、良いのだろうか。そう、感じ始めていた。

馬鹿馬鹿しいと思いながらも、周囲に言う。

「もう少し近づく」

「え、でも」

「護衛料金は追加する」

槍のレーアが肩をすくめた。此奴くらいの腕利きを、遊ばせておくのももったいない話だ。

城に行くと、既に戦いは終幕に向かっていた。けが人が転々としていて、ヒーラーが治療に当たっている。隅に避けられているのは、戦死者だ。

血の臭い。汗の臭い。興奮物質の臭い。

白狼騎士団のメンツは、一人が重傷を受けたが、他は無事らしい。だが、全員が、血まみれで、凄まじい有様だった。一人いた女騎士が一番無事なのは、どうしてだろう。此奴が、一番の使い手という事か。

「もう戦いは終わったのか」

「ん? 取材ですか? まだ悪霊がいるかも知れないから、その辺をうろつくのは止めていただけると助かるんですが……」

「いや、違う。 悪霊憑き、マローネは……」

もの凄い振動が来た。

転ばないようにするのが精一杯だ。辺りも騒ぎ始める。

見ろと、誰かが叫んだ。

走り、フィルバートも見る。

城の上の方。空中庭園のようになっている場所で、巨大な魔物が、ドラゴンと相対している。

間違いない。彼処に、マローネはいる。

煙草を捨てると、フィルバートは決める。結果を、必ずや見なければならないと。

「護衛を頼む。 料金は倍だそう」

「ちょっ……! あんな所、無理でさ! 行ったら瞬きする間に灰になる!」

「逃げ腰だねえ。 いいよ、記者先生。 行ってあげようじゃない」

付いてきたのは、レーアだけだ。

フィルバートは急ぐ。この城の上で、マローネの真価を、見届けられるかも知れない。

 

マローネは、其処からの意識がはっきりしていない。

夢か、幻か。よく分からないが、とにかく皆が、全力で戦ったのは分かった。

まず、ヴォルガヌスが、全力でのブレスを叩き込む。その破壊力は凄まじく、魔物の周囲を覆っていた魔力が、根こそぎはじき飛ばされ、引きはがされた。後方が、まとめて更地になり、消し飛ぶほどの火力だった。

コリンが、其処に更に術式を叩き込む。

大技では無い。だが、魔物の全身が確実に燃え上がり、むしばむ。左右から躍りかかったバッカスとガラント。魔物が苦し紛れに、まだ空いている左手を振るう。だが、その左手を、バッカスが受け止める。

そして、ガラントが。額に刺さっている剣を、踵落としで、魔物の体内にまで抉り差し込んだ。

アッシュが、走る。

収束しつつある魔力が、再び魔物を守る壁になろうとしている。

だが、アッシュの方が、この時は。速かった。それに、ガラントの一撃と、コリンの術式が、確実に魔物の力を削いでいる。

魔物の至近、アッシュが踏み込む。

崩壊しかけていた中庭が、ついに致命的な破滅に至る。アッシュが、渾身の一撃で、魔物を蹴り上げる。空に、高々と舞い上がる巨体。信じられないような光景だが、それはきっと夢では無かったはずだ。

「おぉおおおおおおおおおっ! 砕けろぉおおおおおおおっ!」

空中で追いついたアッシュが、魔物を蹴り下げる。

もはや速すぎて、空中で火花を散らしていた魔物は、悲鳴を上げながら落ちてきた。おぞましいそのからだが、空中で分解していく。

そして、地面に着弾。

木っ端みじんに、砕け散る。

全員が、ことごとく力を使い果たすのと、マローネがその場に前のめりに倒れるのは、同時。

誰かが、マローネを呼ぶのが分かった。

今は、それでも眠らせて欲しい。マローネは、そう思った。

 

4、迫り来る影の足音

 

崩れ落ちる柱を、走り込んだ白狼騎士団の女騎士が、多分特殊能力だろうか、体当たりと同時に吹き飛ばしていた。

悲鳴を上げて蹲る子供を抱える女騎士。側にいたパティも、女騎士にしがみついた。二人分の体重をものともせず、女騎士は崩壊する中庭を走り抜ける。その隣では、マローネを抱え上げたレーアが併走していた。

どちらも素人の動きでは無い。

「へえー、やるねえ」

「貴方も、ナイスアシスト」

フィルバートは、それを遠くから見ていた。隣には、護衛とは名ばかりの役立たず共がいる。

二人が中庭に飛び込んできた。もう少し下がるように言われた。言われるまま、数歩下がって、魔物の住処が壊れていく様子を見守った。

城の崩壊は、まもなく止まる。

あのような、神域の戦闘を経た後だというのに。むしろ崩壊は小さい方だったかも知れない。超一流の能力者同士による死闘が行われたのと等しい惨禍が、城を覆っていた。

「マローネ! ああ、こんなに血が……」

「大丈夫、心拍は安定してる。 力を使い果たして、気を失ってるだけ。 出血は魔力の過剰使用の結果かな」

「もう、こんなに無茶をして! 馬鹿、馬鹿っ! 起きたら、うんと説教してあげるんだからっ!」

さらわれていた子供、多分カスティルだろう。涙をぼろぼろ零しながら、マローネにしがみついていた。程なくヒーラーが来た。そして、マローネに回復の術式を掛け始めた。カスティルのほうも、診察されている。今の時点で、体に異常は無いようだ。

「マジで勝ちやがった……。 あんなの、九つ剣でもなきゃ無理だって思ってたのに……」

ベリルだろうか。柄が悪い男が、崩壊の後を見て呟いている。

フィルバートも信じられない。あんな悪夢の象徴みたいな巨大な魔物を、こんな小さな子供が。

能力者の中には非常識な存在がいると知ってはいたが、まだ知識が浅かったらしい。

世の中に、凄いものなどないと思っていた。

人間同士の醜悪な暗闘を常に見てきたフィルバートは、所詮この程度と世の中を見限ってさえいた。

だが、今の光景は。

久しぶりに、血がたぎる。フィルバートには武力も無ければ、魔術も使えない。だが、出来る事がある。

この娘が、サルファーと戦えるように、全力で舞台を整える必要がある。

今、フィルバートは。

世界を救いうる存在の誕生に、立ち会ったのだ。人間の愚行で、それを潰してしまってはならない。

「戻る。 報酬は港で払う」

「え? 取材は……」

「今見た光景こそが、取材の成果だ。 どうやら近々、良い記事が久しぶりに書けそうだな……」

そして、今日は、とても美味い酒が飲めそうだとも、フィルバートは思った。

 

何も出来なかった。

痛む体を引きずって、ウォルナットは帰路につく。この島にもう用事は無い。自分が側にいるよりも、カスティルは安全だ。

これほど、口惜しいことが、今まで一度でもあっただろうか。

孤児院から引き取ってくれたサフラン夫婦との仲は決して悪くなかった。悪かったのは、周囲との折り合いだ。

どいつもこいつも、一言目には孤児。二言目にはベリルの息子。

中には、サフラン夫婦のペットなどという声までもがあった。

ウォルナットは、そんなことをほざく連中を許さなかった。子供の頃から腕力には恵まれていたし、喧嘩も強かった。

だが、どれだけ勝っても、どれだけたたきのめしても。

ウォルナットの立場は、悪くなるばかりだった。

このままだと、カスティルの立場まで悪くなる。元々からだが弱いカスティルは、どういうわけかいじめのターゲットには絶対にならなかった。周囲からも愛されていた。ウォルナットも、妹を誰よりも大事に思っていた。

だからこそ、思ったのだ。自分は側にいてはいけないと。

サフランとは、あれからも時々連絡は取っている。医療費のことが、主な相談事だった。恐らく、サフランは、ウォルナットが悪い稼ぎ方をしていることを知っている。だが、何も言われたことは無い。

利害が一致しているからだ。

カスティルのためなら。そう思って、ウォルナットは、今まで身を削ってきた。

だが、今日確信できたことがある。結局の所、ウォルナットは、自分でカスティルを独占していたかったのでは無いのか。

自分が密かに送っている金で、カスティルが救われると思った。だがそれは、自分の金で、カスティルが生きている事を、喜んでいたのでは無かったか。

それだけではない。

たまに足を運ぶ娼館で。女を選ぶ基準は。

頭を振る。考えてはいけないことだ。だが、それを気付かせたのは。あの、悪霊憑きでは無いか。

悪意と憎悪、混乱と敵意が、ぐるぐる頭の中で回り続ける。

ふと気付くと、目の前に人間族の老翁が立っていた。反射的に飛び退いたのは、その老人が、あまりにも強いことに、本能で気付いてしまったからだろう。

それだけではない。すぐ側に控えている、人が良さそうなウサギリス族の男。此奴は、まさか。

裏家業の間では、噂になっている。最強の暗殺者が、今野放しになっていると。

「ウォルナット君だね?」

「なんだ、貴様ら……」

「君に力をあげよう。 今、君は、劣等感と敵意の中にいる。 復讐したいと、思っているのではないのかね? 君の全てを奪った相手に」

瞬間的に沸騰する怒り。

だが、拳は、空中で止まってしまった。老人が、ただ指を鳴らすだけで。四方八方の空間から、蔓のようなものが伸びてきて、ウォルナットの全身を拘束したのだ。

何だこれは。

この世界の技なのか。

「その消耗しきった体で、まだ私と戦おうという根性は見上げたものだ。 魔界に生まれていれば、良い戦士になっただろう」

「き、さま……!」

「で、どうする。 力が欲しければくれてやるといっているのだが? 何もかも、特に君のいとおしい存在を奪っていったあの娘に復讐したいのでは無いのかね」

本能的に、悟る。

此奴は、ウォルナットを利用しようとしている。おそらくは、当て馬にしようとしているのだ。

あの悪霊憑きの。

だが、好都合でもある。依頼主の裏を掻くのは、得意技だ。

「ああ、そうだ。 俺は彼奴を、焼き尽くしてやりたい! 骨の髄まで、何もかも残さずになあ……!」

「それでいい」

拘束が解かれる。

ソロモンと名乗った老人は、ウォルナットに、付いてくるように促した。

遠くで、潮騒の音がした。

やはり、ウォルナットを嘲笑っているようにしか聞こえなかった。

 

(続)