九つ剣双つ
序、裏方の者達
部屋とも言えぬ広い空間。置かれているのは、雑然としたいろいろなもの。
マホガニー製のテーブル。魔界桐で作られた座り心地のよい椅子には、柔らかい毛皮で快適性を上げる工夫が為されている。
その椅子に座りながら、魔王ソロモンはずっと不機嫌だった。
結果のレポートに目を通しながら、ソロモンは何度か舌打ちをしていた。
将来性は高い。だが、あまりにも甘すぎる。
カレルレアスの指示でこんなイヴォワールなどと言う辺境世界まで来ておいて、やっているのが小娘の成長のお膳立てとは。魔王ソロモンと言えば、知将と呼ばれ周囲からも怖れられているというのに、何をこんな馬鹿な。
如何にサルファーを倒せる好機とはいえ、あまりにも使い走りの度が酷すぎる。大魔王と言っても、所詮は奴が作っている連合の長という程度の立場でしか無い。魔界では、それは絶対者では無い。
ただ、ソロモンとしても、サルファーは面倒だ。それに大魔王カレルレアスと事を構えるのも避けたい。配下になっているのは、勝てないから。魔界では、それが全てなのである。
それに不満も多いが、どちらかと言えばカレルレアスは接しやすい大魔王だ。以前の大魔王は更に強欲で、暴虐で、時に気分次第で殺しをするような奴だった。人間の血が七割ほど入っているという事だったが、それも頷ける残虐さで、何度辟易したか分からない。カレルレアスに倒され、辺境に幽閉されたときには、快哉まで叫んだほどだ。
カレルレアスも人間とのハーフらしいが、性格はずっとマシだ。少なくとも、前に出るときに怯えなくても良い。
嘆息すると、ソロモンはレポートを更にもってくるように、部下達に命じた。
此処は、イヴォワールの一角、富と自由の島。
ただし、かなりの地下深くである。地上で暮らしている人間達が知ることも無いだろう、大深度の空間。
其処に、ソロモンはいた。
周囲は鍾乳洞のような空間だが、魔界の技術で作られたゴーレムが多数働き、湿気を取り、排水を行い、研究を行いやすい環境を作っている。幾つかの場所には転移装置があり、ソロモンの存在を知っている数少ないイヴォワールの住人や、他の魔界からの使者も来る。
気配が近づいてくる。
退屈していたソロモンは手を止めると、気配の主に振り返った。
「なんだ、セルドレス。 地上には飽きたのか」
「ちげえよ。 ふん、相変わらず薄暗いところだな」
魔王セルドレス。
ソロモンと同じように、カレルレアスの麾下として動いている魔王である。岩のような姿をしていて、知的で無い事この上ない。
担当分野が違うので我慢できるが、そうで無ければこんな奴と一緒にいるのは、ごめん被るというのが素直なところだ。
「どうだ、勇者様は」
「さてね、自分のやり方で進めているとは言うが、サルファーの倒し方に心当たりがあるようには見えないな」
「そうか。 こっちは、まあ予定通りの成長をしているよ」
「ああ、お前が指揮してた部隊を蹴散らしたんだろ?」
げらげらと、セルドレスは下品に笑った。思わずソロモンは激高しそうになった。
だが、カレルレアスの麾下である以上、他の魔王との戦闘は御法度だ。破ればカレルレアスと戦う事になる。
苦労しながら、戦意を納める。
「今のは、聞かなかったことにしておく」
それだけ吐き捨てると、ソロモンは椅子に深く座った。
ソロモンは見かけ人間族の老翁そのものだ。魔族とのハーフであり、実力は魔王と呼ばれるに遜色ないものを持っている自負がある。
人間の血が入っているため寿命もかなり短いが、それはいずれ魔術でカバーしようと考えていた。そして、寿命が短いとは言え、人間などよりは遙かに長い。
だからこそ、相手が育ちそうか、そうでは無いか位は見当も付く。
確かに伸びしろがとんでもなくでかい。このイヴォワールには、強力な能力者がそれこそごろごろいるが、その中でも図抜けた素質の持ち主だ。どうしてか差別されて苦しんでいるようだが、それを一生懸命跳ね返そうとも努力している。
だが、サルファーがまた動き出そうとしている今。
その成長を、悠長に待ってはいられないのも事実だ。
「俺が見てきたが、実力はもう魔神クラスは充分に満たしてるぜ。 サルファーの襲来まで、そこそこに強い魔王くらいにまで育てば、例の作戦通りにやってどうにかできるんじゃねえか?」
「そうだな。 どちらにしても、我ら魔界の者はサルファーには勝てぬ。 しかし、まだ不安が多い」
まだ一手、足りない気がするのだ。
カレルレアスがどう動いているかは分からない。しかし、このまま状況の分析と、命じられたことだけをしていても、芸が無い気がする。
この辺りで、仕掛けるのも良いかも知れない。いずれにしても、どうしてかサルファーは、イヴォワールを食い尽くす気が無い様子だ。此処で失敗しても、全てが終わるわけではないだろう。
「ソロモン、何を考えてやがる
「簡単なことだ」
勝率を更に上げるには、小娘の成長を更に加速させる必要がある。
それには、外圧が必要不可欠だった。
立ち上がると、鈴を鳴らす。伝令に使っている小悪魔が、ぱたぱたと走ってきた。見かけは人間によく似ているが、背中に生えているのは黒いコウモリを思わせる翼だ。子供そのものだが、淫魔と呼ばれる種族である。
将来は異性の夢に入り込んでは、淫夢を見せ、エネルギーを根こそぎ吸収していく種族なのである。
子供の頃は普通に食事をしているのだが、大人になってからは食事をしなくなると言う。ある意味、究極の寄生種族だ。
「なんですかー? ソロモンさまー」
「この手紙を、奴に届けてくるように」
「はい。 かしこまりましたー」
ぱたぱたと走り去っていく。まだ翼が貧弱で飛べないのだ。
その背中を見送ると、ソロモンは口の端をつり上げた。
「もう少し、小娘には酷い目に遭って貰おうか」
「お前、この鬼畜人間どもの世界でも、充分にやっていけるんじゃねえのか? この世界、俺から見てもひっでえぜ。 これ以上、子供を酷い目に遭わせるなよ……」
「だが、それが故に小娘は強靱に育った」
ソロモンだって、この世界の人間共の下劣さにはほとほと呆れる。吐き気を催したこともある。
呼び方と裏腹に、悪魔より人間の方が遙かに下劣だ。親子兄弟で平気で殺し合いをするし、弱者を虐待してそれを誇りさえする。そんな生物に、悪魔呼ばわりされるのは、どうにもおかしいとしか思えない。
人間とは、悪魔と全く違う倫理が働いている。姿はよく似ているのに、おかしな話だ。
あの小娘は不幸きわまりない。魔界に生まれていれば、いずれ魔王にもなれた器であっただろうに。
世界から迫害されて、すっかり鬱屈してしまっている。心がねじ曲がってはいないようだが、それはそれで妙だ。
何かしら歪んでいると言えるのかも知れない。
だが、その歪みが、短期間での爆発的な成長を促しているのも、また事実なのだ。
「サルファーを倒すためには、手段は選んでおられぬ」
「てか、この間お前が使った道具、そう考えて人間共が好き勝手やった結果、暴走したんじゃなかったんだっけ?」
「それは過ぎたこと。 我はそのような失敗を犯すほど、甘くは無いぞ」
肩をすくめると、セルドレスは下品な足音と共に出て行った。
さて、他にも幾つか手を打っておかなければならない。このいけ好かない世界をさっさと出て、なおかつサルファーを葬り去るためにも。
1、闖入者
マローネが物資輸送の仕事を終えて、おばけ島に戻ってくると。ファントム達が騒いでいるのが、遠くからでも分かった。
他の島に行くたびに、行き場の無いファントムに声を掛けて、連れてきているマローネである。今でもおばけ島には、輪廻の輪に戻りかけているファントムがそれなりの数いる。マローネと基本同行しているファントム達以外にも、おばけ島は賑やかな者達が少なくないのだ。
「アッシュ、何だろう」
「誰か来ているんだろうね」
ボトルシップを砂浜に停めると、すぐに誰が来ているのか分かった。
派手な意匠の、小型ボトルシップが停泊している。カボチャのような独創的なデザインで、非常にカラフルに原色で塗装していた。何かのパレード用ボトルシップだろうか。今回はカナンに残って貰っていたのだが、彼女が小走りで来るのが分かった。
「マローネちゃん、お客さんですよ」
「カナンさん、どなたですか?」
「おー。 帰ってきたか」
口をつぐむ。
砂浜で座り込んで待っていたらしい、キバイノシシ族の男性が歩いて来るのが、マローネにも見えた。
見覚えがある。
確か、以前パティを見世物にしていたサーカス団の団長、シシカバブだ。何名か、護衛らしいキバイノシシ族の男性を連れていた。ただ、彼らは上半身をむき出しにしていて、なおかつ若干痩せているように見えた。サーカス団の団員かも知れない。
「お嬢ちゃン、久しぶりだな。 俺を覚えているかい?」
「ええと、シシカバブさん、ですか」
「覚えていてくれたか。 お嬢ちゃンは賢いな」
シシカバブはそう言いつつも、マローネに何かしらの疑いの目を向けている。それが、マローネには分かった。
何か理由があるのだろう。そうマローネは思う。
「うちに、何か御用ですか?」
「うち? 此処、レンタル島じゃ無いのか?」
「お金を一生懸命貯めて、少し前に、大家さんから買い取りました」
「おお、それは良かったな」
或いは、シシカバブも定住先が無い苦悩は分かるのかも知れない。初めて、マローネを疑って掛かっていたシシカバブの目に、優しい光が宿った。
人は誰でも、優しい心を持っている。マローネはそう信じたい。だから、少しだけ嬉しかった。
「で、だ。 実はな、パティがまた脱走した。 この近くの島に移動している途中に、しかも海に飛び込ンで逃げたらしくてなあ。 で、こっちの方に泳いで逃げたという目撃例があるンだ」
「……!」
「疑うわけじゃ無いが、お嬢ちゃンに随分パティは懐いていたからな。 ちょっと家捜しさせてくれないか?」
随分と非礼な話だ。
側でにやにやしているコリンは、きっとマローネの苦悩を見て楽しんでいるのだろう。
ボトルシップで運ばれている途中に、海に飛び込んだのか。そうだとすると、確かにこの島に来た可能性は高い。
だが、此処で疑われるのも心外だ。無言でマローネは家に団員達を案内すると、入って貰った。
中はひんやりしていて、人の気配が無い。
ファントム達がいるからか、どうしてかマローネの家の中はいつも若干涼しい。異様な空気を感じ取ったが、不安そうに辺りを見回していた団員達は、全ての部屋を見て、パティがいないことを確認すると、足早に出て行った。
シシカバブに、団員達が何か耳打ちしている。
「非礼なやつらじゃのう。 儂をコンファインしてくれれば、ちょっと脅かしてやるが?」
ヴォルガヌスに、マローネは苦笑いを返した。
分からないでも無いが、そんなことをすればきっとみんなマローネのことを嫌いになってしまう。
それは困る。
「すまなかったな、お嬢ちゃン。 で、だ。 もしもパティが来たら、引き渡さなくてもいいぞ」
「え……?」
「実はな、あいつ、俺の大事なものを盗ってにげちまったンだ。 写真なんだけどな、それさえ帰ってくれば良いンだよ」
パティはもういらんと、シシカバブは目に強い闇を湛えて言った。
その代わり、写真と口にするとき、シシカバブの口調は、とても切実だった。本当に大事なもので、盗られたことに非常に強い怒りを覚えている。
それが、マローネにはよく分かる。
パティがシシカバブに見つかったら、どんな目に遭わされるかも分からない。それを考えると、胸が痛んだ。
「写真が見つかったら、教えてくれ。 礼は弾むから、な」
「分かりました。 その時は、必ず」
「頼むぞ」
シシカバブが去る。
それを見届けると、マローネはアッシュをコンファインした。アッシュがマローネの肩に手を置く。
「よく我慢したね」
「確かに酷かったけど、あの人、とても悲しんでいるのが分かったから」
「で、パティだけど、どうするの?」
コリンがコンファインされて、言う。
そういえば、彼女には心当たりがあるようだった。家の中に手を引かれて入ると、空間に歪みが生じる。
そして、パティが。
恐らくあのときのパティが、姿を見せたのだった。
シシカバブの勘は、真相を射貫いていたのである。ただし、パティの能力が、シシカバブの勘を上回ったのだが。
パティはマローネにしがみついたまま、ずっとぶるぶる震えている。よほど怖かったのだろう。
あまりパティが達者に泳ぐという話も聞かない。この海を越えてくるのも、大変だったはずだ。
それだけではない。
パティは以前、シシカバブの庇護下にいる事を受け入れた。それを今更翻したというのは、どういうことなのか。
マローネにしがみついて震えている様子からも大体見当は付く。一歩間違えば殺されるような虐待を経験したのではあるまいか。
写真を隠して逃げたとシシカバブは言っていた。
だが、順番はひょっとすると、違っているかも知れない。
「アッシュ、しばらくこの子、かくまってあげましょう」
「構わないけれど、写真はどうするの? 以前のピセのように、隠してしまったに違いないよ」
それはマローネも分かっている。
以前見た時は、衝撃的だった。パティはマローネが大事に使っていた小さな食器ピセを隠してしまったのだ。原理はよく分からないが、パティ族が嫌われる理由も、何となく分かった気もする。
ハツネが、マローネの側で何度か頷く。
「マローネ、パティと言ったか。 この生き物、異世界の生物なのでは無いのか」
「え? ハツネさんと一緒って事ですか?」
「その可能性は否定できないな。 私のいた魔界では、別の世界へ行くため、空間に穴を開ける技術が発達していた。 先にコリンに聞いたのだが、このパティも、空間の狭間にものを隠すようだ。 そうなると、似た技術の可能性は高いぞ」
「よく分からないけれど、今はそれよりも、この子をかくまいましょう。 調べることは、いつでも出来るわ」
それもそうだと、ハツネは肩をすくめた。
一度それは忘れて、マローネはポストを見に行く。ボトルメールが幾つか来ていた。
アッシュが先に中身を見る。一つ二つ捨てていた。ダイレクトメールだったと言っていたが、本当はどうだか分からない。
「これは運送の仕事だね。 魔術的に冷却の必要があるんだってさ」
「コリンさん、手伝ってくれますか?」
「いいけど?」
「良かった。 運送の仕事でも、かなり割高になりそうだわ」
特殊な条件指定がつく運送の仕事では、料金に色が付く場合が多い。
マローネは非常に真面目に運送をするので、依頼主からの評判も良い。荒事とは対照的に、此方ではマローネに仕事を頼みたいという人はかなり多いのだった。
一方、荒事の依頼も来ている。
「砂谷島の島長からだ。 島荒らしを退治して欲しい、だってさ」
「こんな時期だというのに、何を人間どうしで揉めているのだ」
「人間はそう言う生き物だ。 誰かが弱っていたら、それにつけ込んで更に悪事をしようと考えるものだ」
やきもきするハツネに、ガラントが諭すようにして言う。
マローネは何も言えない。
ハツネから聞く魔界の様子は、此方とは違うことがかなり多い。弱いものを虐げることは恥とされている、というのがその最たるものだろう。
こっちの世界の人間は、自分の力を誇示するために、弱い者いじめを頻繁に行う。弱い者を嬲ることを恥ずかしいと思う人は、あまり多くないのだ。
相手が弱ければ、何をしても良い。
そう考えている人は、残念だがたくさんいる。悲しい話だが、マローネもたくさんたくさん見てきた。
「苦しんでいる人がたくさんいるのなら、どうにかしましょう」
「……まあ、更に戦闘経験も積めるだろうから、私は反対はしない」
ハツネは、不思議そうに自分を見つめるパティから視線をそらして、そう言ったのだった。
マローネがいない間、流石にコンファインを持続することは出来ない。パティにはファントムも見えないようだし、連れて行くわけにも行かないだろう。
「いい、私は出かけるけど、お留守番をしていて」
喋っても、パティには通じるはずも無いかと思ったが、マローネは腰を下ろし、視線を合わせていった。
そうすると、パティは頷いてみせる。
分かったのだろうか。
そう信じるしか、今は無かった。
まず最初に、運送の仕事を片付けた。依頼人のいる小さな島に赴くと、コリンに手伝って貰って、受け取った荷物を冷やす。荷物は一見すると只の箱だが、二重の構造になっていて、間に空気を入れる仕組みがあり、それで温度の変化を緩和する仕組みらしい。
箱自体はさほど大きくも無かったが、輸送を引き受けてくれるネフライト自体がいなかったそうだ。
魔術を使えるマローネが、そのため白羽の矢を立てられた、と言うわけだ。
仕事をくれたのは、ウサギリス族の老人である。いつもマローネを指定して運送を頼んでくれる、親切な人だ。
冷気の術式自体はさほど難しくもなく、ただ維持することがそれなりに大変だった。
輸送先は、富と自由の島。
しかも、バンブー社だった。
どうやらあの小さな島でとれる特殊な素材を、冷やしたまま輸送する必要があったらしい。緊張はしたが、魔術が介在する以外は、ただの輸送の仕事だ。途中でベリルに襲われることも無かったし、仕事自体はすぐに終わった。
荷物の輸送が終わると、少し割り増しの料金を貰った。受け取りの人がバンブー社に戻っていくのを見送りながら、コリンを見る。コリンに手伝って貰ったので、後で何か言うことくらいは聞いてあげなければならないだろうか。そう思った時、コリンが先に言う。
「良いって。 今日はマローネちゃんがすっごい苦しむのが見られそうだし」
「え……?」
全身を冷や汗が流れる。
有能な魔術師であるコリンの勘は当たる。魔力と霊的な力は、紙一重のところでつながっているからだ。
コリンはけたけた笑いながら、先にボトルシップに戻っていった。
立ち尽くすマローネの肩を、アッシュが叩く。
「気にしちゃ負けだよ、マローネ」
「うん……」
「まあ、あの程度なら良いだろう。 むしろ警告してくれていると思って、気を抜かないように仕事をすれば良い」
ガラントもそう言ってくれたので、少し気分も楽になった。
そのまま、北東に向かう。
島荒らしが現れて、乱暴をしているという砂谷島は、かなり大きい。ただしこの辺りの海上は妙に空気が乾燥していて、島自体にも水源が無く、砂漠が広がっている。サンド地方と呼ばれる島々の特色である。
島に辿り着くまで、ほぼ丸一日が掛かる。
その間、コンファインしたアッシュやガラントに、時々操船を代わって貰った。船の後ろにも、座るスペースくらいはある。
そこで、コリンの手ほどきを受けながら、座禅をする。そして、精神を集中して、魔力を錬った。
時間が空いていても、寝転んで休んだりはしない。出来るだけ、無駄にしないように活用する。
わずかでも良いから、強くなりたい。シャルトルーズの力を、更に高めたい。
それがマローネの今の願いだ。
自分が弱い故に、みんなに苦労ばかり掛けている。それをマローネは、ずっと苦にしていた。
マローネからの魔力供給が、ファントムをコンファインした後、強さに直接代わる。つまりマローネの魔力が高まれば高まるほど、皆はきちんと本来通りの動きが出来ると言うことだ。
実際、ヴォルガヌスなどはその効果が露骨に出ている。1回目と2回目では、明らかにコンファイン時の若々しさが違った。
シャルトルーズは驚天の奇跡だと、言ってくれた人もいた。
確かに、マローネの努力次第で、それを誰もが奇跡と認めるものに出来るかも知れない。
コリンは時々座禅にアドバイスをくれたが、最近は殆ど何も言わない。マローネが集中して、魔力を練り上げられていることを、認めてくれているのだろう。
後は、たくさん食べる事だ。
最近はアッシュだけでは無く、カナンも料理をしてくれるようになった。カナンはかなりの料理達者であり、とても美味しくお魚を仕上げてくれる。マローネもカナンの手料理は大好きだ。
だが、教わろうとすると、他のことをしなさいと言われる。
確かに、今マローネがするべきは料理では無く、シャルトルーズの強化だ。
しばらくして、目を開ける。
既に夜になっていた。
サンド地方に入ったのか、浅い海域でも珊瑚が少なくなってきた。イヴォワールで、浅い海域でまんべんなく見られる珊瑚だが、サンド地方では砂の海底がかなり広がっている。理由はよく分からない。
ただし、水質は良い。住んでいるお魚も良く太っていて、美味しそうだ。
運転していたガラントが、此方を一瞥だけした。そろそろ代われというのだろう。
ガラントが体力的に限界なのでは無い。有事に備えて、消耗を抑えておくためである。
「マローネおねいちゃん」
「パレット、どうしたの?」
「あたいもさわってみたい」
この間から居着いている魔導合成師のファントムであるパレットは、本当に幼いとき以外培養槽から出られなかったためか、何にでも興味を示す。
ファントムでなかったら、色々壊してしまったかも知れない。ただ、マローネとしては、初めて年下のファントムが長期でいついてくれている事もあって、少し嬉しかった。お姉ちゃんと舌足らずの口調で言われると、悪い気はしないのである。
マローネはガラントと交代すると、パレットを膝に乗せて、ボトルシップを動かす。
中古の型落ち品だが、今ではすっかり馴染んだ船である。パレットは説明を聞いていると、しばらくは無言で頷いていたが。
やがて触ってみると、非常に巧みに操って見せた。まるでずっと昔から使っていたかのような、手に吸い付くような操縦管の操作ぶりである。
「え……?」
「だいじょうぶ、あたい、これでも魔導合成師のタマゴだったから」
「そ、そうなんだ」
魔導合成師と操船をすぐにマスターすることとどうつながっているのかさっぱり分からないが、とにかくパレットがあっという間に操船を覚えてしまったのは事実だった。である以上、パレットにしか分からない理由があるのだろう。
ただ、こういった勘が働く、という現象については理解できる。何よりマローネが、幼い頃から、他人には理解できない霊感というものに苦しめられたのだから。
小さな船の上にも後ろにも、何名かのファントムがいる。アッシュは船の上でいつも静かに座っているし、コリンは上を飛んでいるヴォルガヌスの背に乗っている。バッカスはと言うと、大体ファントムとして形状を保たず、船の周囲を飛んでいるようだ。
少しへこんだマローネは、パレットが事故を起こさないように目を離さないようにしつつも。
自分も死んだら、ああいう風に自由になれるのかなと思った。
砂谷島は、地図と少し形状が違っていた。といっても、ほんのわずかに、だが。
来る途中ガラントが説明してくれたのだが、砂漠は元々砂ではないのだそうだ。元は岩石砂漠と呼ばれる状態であり、昼と夜の激しい寒暖差で岩が砕け、徐々に砂になっていく。そして皆が知っている、砂丘が連なる砂漠になる。
見ると、砂谷島はその岩石砂漠の状態であるらしい。
つまりそれは、今も風化と劣化が進んでいる、という事だ。
島の中央には、名前の由来となっている砂の谷がある。流砂があり、落ちたら危ないかも知れない。
島の全域にはサボテンが生えていて、これが身動き撮れなくなった場合、数少ない水を取得できる生命線となる。
ガラントに、サボテンからの水の取り方を教えて貰った。流石によく知っているなあと感心したのだが、ガラントは情け無さそうに眉をひそめた。
「これは今だから言うのだが、若い頃には俺も無茶をしてな。 砂漠で遭難しかけて、先輩にこっぴどく怒られたことがある。 その時に、色々と体で覚えたのだ」
「ガラントさんにも、そんな時期があったんですね」
「俺は天才肌じゃ無かったからな。 傭兵団の団長になったのも、四十代になってからだった。 腕っ節だけでどうにかなった若い頃の事は、今でも思い出すと冷や汗がでるわ」
「ファントムなのに」
アッシュが言うと、一本とられたと、ガラントは珍しく大笑いした。
そんな風に笑うガラントを見るのは初めてだったので、マローネもつられて笑ってしまった。
見ると、砂状になった岩石は、海に流れ込んでいる様子だ。
つまり、海の中まで砂漠は続いている、ということである。形状が今でも変わり続けているのも、無理も無い話である。
この地形の場合、上陸できる場所が限られてくる。
マローネが乗っているような小型のボトルシップは良いのだが、大型船になってくると、沖合に停泊して、小型のボートで上陸しなければならないような砂浜が多い。従って、村が出来る場所も限られてくる。
島の南側に向かうと、長い桟橋が架かっていた。
比較的水深があり、底が見えない。幾つかボトルシップが停泊しているが、どれも漁業用のものらしい。
だが今回は、手紙に同業者がいるとあった。桟橋の辺りには同業者のボトルシップは見当たらない。まだ来ていない、という事なのだろうか。
まず上陸してみる。
空気が酷く乾燥していた。足下も、非常にじゃりじゃりと音がする。
「本来だったら、絶対に子供は連れて行けない場所だ。 それを良く理解して、マローネから離れるな」
「うん、わかってる、おじいちゃん」
「そうかそうか」
ガラントも少し対応がパレットに対しては柔らかい。
目を細めてその光景を見つめる。二人が生者だったら、もっともっとずっと良かったのにとも思う。
村には人がいる。
人間族が中心なのは、恐らく毛皮がある種族にこの地域は厳しいからだろう。ウサギリス族などは毛皮で全身が覆われているから、寒さには強くとも砂漠での生活はかなり厳しいはずだ。
村の人達は、露骨に不審の目をマローネに向けていた。
能力者か、というような声も聞こえてくる。つまり、クロームだと認識はしているのだろう。
基本的に、半裸の人が多い。年頃のマローネには目の毒な格好の人もたくさんいた。上半身は裸の男性が殆どで、中には胸を露出している女性もいた。それだけ、暑いという事である。
イヴォワールは、地方ごとに気候が別物といってよいほどに違う。
サンド地方とアクアマリン地方は、高速のボトルシップならば二日もあれば行ける距離にもかかわらず、完全に正反対だ。
マローネは出来るだけ、小麦を通り越して真っ黒に焼けた人達から視線をそらしつつ、話を聞いて廻る。
中には、マローネくらいの年で、赤ちゃんを背負っている女の子もいた。
それだけ、環境が厳しいという事である。貧富の差が激しい上に、環境が厳しいと。女の子は、子供を産めるようになったら、即座に一人前として扱われるものなのだ。
島長の所に案内されると、先客がいた。
冷たい瞳の、痩せた壮年の男性。魔術師のような黒ローブを身に纏い、ねじくれた恐ろしい形状の杖を手にしている。
確か、死人使いのフォックスだ。腕組みして、島長の話を聞いていたフォックスは。マローネを見ると、更に目の光を冷やした。
「貴様……あのときの」
「お久しぶりです、フォックスさん」
「ふん、まあな。 私の方の話は終わった。 後は好きにしろ」
フォックスは露骨に不快そうに顔を歪めると、一人で勝手に行ってしまう。以前もコミュニケーションが難しい人だと思ったが、やはり対人経験が少ないのだろう。否、おそらくは違う。
以前にも思ったが、対等に接した人が、あまりいなかったのだ。
フォックスはマローネの話が終わるまでは待つつもりのようで、木陰に入ると、そこで何かをなで始めた。
ぎょっとしたのは、それが蜘蛛のような骨の足をはやした人間の頭蓋骨だという事だ。しかも、フォックスの表情はぐっと緩んでいる。目には優しい光さえもあり、周りの人間達は皆怖れて距離を取っていた。
この人は、確か一人きりの傭兵団と呼ばれているはずだ。島荒らしを潰すには、大規模すぎるかも知れない。
だが、島長から聞いた名前で、なるほどとマローネは納得した。
島長は、背が曲がった小柄な老人で、草のつぼみのような帽子を被っていた。体中は黒く焼けていたが、たくましさは全く感じられない。非常に痩せていて、筋肉もついていなかった。
「あんたも、クロームか。 ラファエルとかいう島荒らしを退治して欲しいのだが……」
「ラファエル、ですか」
「そうだ。 何でも白狼騎士団の団長とかいうじゃないか」
島長は、不満そうに何度も鼻を鳴らした。
ガラントが、耳元で告げてくる。
「兵役経験者だな。 体は細いが、戦士として鍛えた形跡がある」
「へえー……」
「どうしましたかな」
「いえ、何でもありません。 ええと、島荒らしの人を暴れないようにすれば良いんですね。 それなら、何とかなると思います」
フォックスが顔を上げた。
だが、すぐに興味なさげに視線をそらす。島長が眉をひそめるが、マローネは続ける。
確信があった。ラファエルは一度会ったが、大変紳士的な人だった。島荒らしなんか、間違ってもしない。
「相手はイヴォワール九つ剣の筆頭だが、大丈夫かね」
「もしも本人だったら勝ち目は無いと思います。 でも、おそらくは本人ではありませんから」
「ほう……」
「待っていてください。 すぐに結果を出せると思います」
誰かは分からないが、ラファエルの名を騙るような人は、多分あまり賢くは無い筈だ。
魔島の離島で出会ったラファエルは、優しそうな人には見えた。だが武人としてもしっかりした人にも見えたから、自分の名を騙るような悪人には容赦しないだろう。それはつまり、偽物さんはラファエルの怒りを買うと言うことになる。
フォックスはずっとしゃれこうべを撫でていたが、マローネが側に来ると、視線も向けずに言った。
「終わったか」
「はい。 ええと、フォックスさんも、同じ仕事ですか」
「そうだ。 ラファエルが島荒らしとして現れたと聞いて、島長も泡を食ったんだろう」
立ち上がったフォックスだが、やはりマローネの目を見るどころか、視線も向けてくれない。
その周囲には、たくさんのファントムがいる。マローネの周囲よりも、多いくらいである。
どのファントムも、フォックスを心配しているのが分かった。
この人も、悪霊憑きと呼ばれていると聞いている。気付くが、額に何か模様のようなものがある。
能力者特有の痣かと思ったが、違う。魔力を感じないからだ。
虐待の痕かも知れない。そう思うと、胸も痛んだ。
「それでどうする。 プランが無いなら、私は勝手に行くが」
「待て。 この広い島をばらばらで探し回ると、却って効率が悪いのではないのかな」
ガラントが言う。当然フォックスは聞こえているようで、舌打ちして視線をそらした。それに関しては、マローネも同意見である。しばらくどうしようか迷った末に、マローネは提案した。
「あの、ヴォルガヌスさんに、空から探して貰って、見つけたら退路を塞ぐように追い詰めましょう」
「ヴォルガヌスとは、あのドラゴンのことか。 確かに遮蔽のない砂漠では、空からの探索が効率が良いが」
「はい」
「悪くない提案だな。 私の方からも、空を飛べる偵察要員を出そう」
何らためらうこと無く、フォックスは村の中で能力を使う。彼の周囲に魔法陣が出現し、真っ黒な魔力が吹き上がると、周囲の村人達が悲鳴を上げた。
だが、フォックスは全く気にしない。
マローネの方が驚いてしまったくらいである。
「精霊は我が意に従い、怨敵を滅ぼさん! 魔道の力、ヴィリディアン・カッパー!」
ずるりと、何も無かったはずの地面から、腐敗しきった手が伸びてくる。
フォックスの全身から吹き上がる黒い魔力に包まれ、それを貪り、歓喜の声を上げながら姿を見せるそれは。
鷲の翼を持つ獅子に、人間の腕を無数にくっつけ、更に尾にはサソリの毒針がついているという異形だった。しかも体は腐り果て、周囲に異臭を放っている。
多分マンティコアをベースにしているのだろう。それに墓場などで得た死骸を無数に組み合わせ、作り出した存在に違いなかった。
「よし、偵察を頼むぞ」
「また、集落の中でこのような事を」
「気にするな。 愚民共など、放っておけば良いのだ」
翼のあるライオンが、フォックスに苦言を呈すると。普段とは全く違う優しい目つきで、フォックスはその体を撫でつつ、言うのだった。以前と同様、フォックスは死人だけには心を開いている。
力強く羽ばたくと、翼獅子が飛び去っていく。
それを見送ると、側にヴォルガヌスが降りてきた。此方はファントムのままなので、村人は至近に着地されても、怖がることも無かったが。
「どれ、儂は上空を旋回しながら、周囲を見回るとしようか。 見つかるまでは、二人一緒に行動した方がよいじゃろ」
「ふん、勝手にしろ」
フォックスは、相変わらずマローネの方を見てもくれない。
嫌われているのかなと、少し不安になった。
村を出ると、砂漠に踏み込む。
コリンが先に直射日光遮断の術式を掛けてくれてはいたが、それでも非常に暑い。フォックスは自前の凄まじい魔力で術式を展開し、汗一つかかずに砂漠を歩いていた。
岩石砂漠だからか、砂は思ったよりも少ない。
周囲にはサボテンが林立していて、いずれもがとてつもなく大きかった。サボテンの表皮には鋭い棘があるのだが、住んでいる虫には関係が無いらしい。表皮を這い回る虫は、かなりの数を確認できた。
今のところ、フォックスの翼獅子からの連絡は無い。
ヴォルガヌスは、このくらいの直射日光はむしろ気持ちが良いらしく、楽しそうに空を旋回している。勿論敵を探してくれてはいるだろうが、背中に乗せているコリンとパレットが、時々黄色い楽しそうな声を上げているのが、下のマローネまで聞こえてきていた。
半日近く歩く。
時々、サボテンに標識を付けて、迷わない工夫をした。それを横目に、フォックスは自分の水筒に口を付ける。
周囲に点在している岩は非常に脆くなっているものもあり、割れていたり砕けていたり、踏むとつぶれるものもあった。
確かに、此処に点在している岩は、どれもが砂の先祖なのだ。
「フォックスさん、少し休憩にしませんか?」
「ああ、好きにしろ」
フォックスはどうしたいのかを聞きたかったのだが。冷たい返事が来て、マローネはへこんだ。
アッシュがマローネの肩に手を置く。
「大丈夫。 他の人よりは、心も許してくれているようだから」
「そうなのかな、アッシュ」
「さっきから見ていると、近づかれてもいやがっていないようだよ。 マローネの方を見てくれるようになるには、もう少し時間が掛かりそうだけれど」
よし、とマローネは自分に気合いを入れる。
マローネは、みんなに好きになって欲しい。ましてやフォックスは、同じように迫害されている人間なのだ。
傷をなめ合ったり、なれ合ったりするつもりはない。だが、この人に好きになって貰えれば、他の人だって。
逆に言えば、この人にさえ認めて貰えないようでは、他の人に好きになって貰えるわけも無い。
お弁当を見せながら、マローネはフォックスに笑みを浮かべる。
「あ、あの。 フォックスさん、一緒に食事に……」
「一人で喰え」
そっぽを向かれた。
涙目になるマローネの肩を、アッシュが叩いた。
「マローネ、まあ、焦らずにやっていこう」
フォックスはと言うと、何かの草の葉で包んだらしい肉を、そのまま手づかみで食べている。揚げている様子も無く、ピセも使っていない。
いつの間にかヴォルガヌスから降りていたらしいコリンが、音も無くフォックスの側でのぞき込んでいた。
フォックスが手を止める。コリンは相変わらずだ。大胆にもほどがある。
「へえ。 保存の術式」
「貴様、前に見かけたな。 そこの小娘を護衛しているネフライトのファントムか」
「そうだよー。 ところでその術式、妙に洗練してるね。 あんたネフライト仕込みとみたけど?」
フォックスはコリンをにらみつけていた。多分無視するだろうなと思ったが、結果は違った。
この人にとって、ファントムは誠実に応対しなければならない相手らしい。きちんと、コリンに、しかも正直に応じていた。
「私の両親が、ネフライトだった。 それだけだ」
「なーるほどねえ。 その桁違いの魔力も、それで納得できるわ」
「コリンさん?」
「天才とか、生まれ持った素質って言うけど、残念ながら通常の条件だとある一定ラインはどうしても超えられないんだよねえ。 マローネちゃんは両親が能力者で、このフォックスちゃんは両親がネフライト。 それで、超えられているの。 ラインをさ」
ちゃん付けで呼ばれて、フォックスは流石に苛立ったか。じろりとコリンをにらみつけた。
だがコリンは軽く舌を出すだけで、平気で受け流してみせる。フォックスはガラントと比べると、随分与しやすい相手、という事なのだろう。
「で、能力が発現してから、虐待を受けたのかな」
「それくらいにして貰おうか」
フォックスを守るように、ファントムがいつの間にか立っている。
非常に長身の筋骨たくましい人間族の男性で、ガラントのよりも大きそうな、非常に長大な剣を背負っていた。見た感じ、ガラントと同年代だ。立派な威厳のある顎ひげを蓄えている辺りが、ガラントとは違うが。
コリンはガラントに拳骨を貰ってから、どうも年上に見える男性に苦手意識があるらしい。
舌打ちすると、肩をすくめて離れる。
「エルフォゼル、すまない」
「何、気にするな。 しかしあの娘の護衛ファントムにしては、随分と性格が悪いな」
この声、聞き覚えがある。
確か、フォックスと魔島で交戦したときにきいたものだ。
マローネも鬱々としながら、弁当を綺麗に平らげた。手を合わせて、マローネの栄養になったカニさんや魚さんにお礼。カナンが作ってくれたお弁当は、今日も絶品だった。
日差しが、更に強くなってきた。
「そろそろ、行きましょうか」
「分かった」
反論もしないで、フォックスも立ち上がる。
ひょっとして、この人は。自分が主導で、何かをすると言うことに、慣れていないのかも知れない。いや、そんなことは無い。だったら、戦場を渡り歩く傭兵団として、やっていけない。
或いは、集団行動で、リーダーシップを取ることが苦手なのか。
「マローネ、悩んでいても仕方が無い。 それに、そろそろかなり人里から離れているし、護衛を呼んでおいた方が良いよ」
「そうだね、アッシュ」
無数のサボテンがある中、視界も良いとは言えない。
それに、これだけ広大な砂漠である。餌を見つけたら、逃がさず捕らえようとする気概が必要になってくる。
怪物だって必死なのだ。
まずは、ハツネとバッカスをコンファインする。バッカスは今回、ずっと休養していたから、気力も充分だ。
コンファインに必要なものは、周囲にたくさんあった。とくに千年以上を経ているらしいサボテンは最適だ。最初にコンファインしたハツネは、岩を何度か踏んでいたが、不満そうに眉をひそめる。
「これは、まずいな」
「どうしたんですか」
「私が得意な機動戦をこれでは行えない。 バッカス、私は今回ディフェンスに廻りたいが、良いか」
「ソレガヨサソウダ」
分からないマローネに、ハツネが説明してくれる。
密林の中や、足場がしっかりしている場所であれば、ハツネが得意な機動射撃戦を行える。
だが雪が積もっていた、以前戦った雪沼峠島。それに崩れやすい岩や棘だらけのサボテンだらけのこういう場所では、ハツネは機動力を喪失し、ただの砲台になる。それは戦術的な価値を、著しく減殺するものなのだという。
そういえば、ゴーレム戦で、ハツネの動きが悪かったような気がした。あのときハツネは、不利を承知でアッシュの道を作るために頑張ってくれたという事なのか。分かってくると、知らなかったところで高度な駆け引きが行われていたことも理解できてくる。
魔力を高める鍛錬の合間に、ガラントから勉強は教わっている。難しい単語も、最近は理解できるようにはなってきた。
その度に、周囲がプロ集団である事、無力な自分であることを、思い知らされてしまうのだが。
「私は今回、迎撃射撃をマローネの側で行う。 代わりにバッカスが、中距離で敵の殲滅を担当する。 バッカスの代わりでガラントが出てきた場合も同様だ」
「お任せします」
「アア。 オマエハ、ソコデシッカリカマエテイロ。 ソレダケデイイ」
バッカスが、少し下がる。追撃を防ぐためだろう。
やりとりを見ていたフォックスが、鼻を鳴らす。そして、岩だらけの砂漠を、歩き出したのだった。
2、砂上の戦闘
砂谷島に来る前に、マローネもクロームギルドに寄ってきた。タイミングは勿論運送の仕事中、富と自由の島に行ったときである。
二階で資料を貸してもらい、生息しているモンスターなどについては、調べが付いている。
砂漠であるからか、やはり熱に強い生物が多い。怪物と呼ばれるものになると、人間大のサソリや、マローネの背丈の倍くらいの長さになる毒蛇、更には蟻地獄の怪物などがいるという。
このほかにも、魔法生物系の怪物も珍しくないそうだ。
元々この島は資源的な価値があまり無い上に産業も少ない。唯一外貨を稼げるのは、呪い師達が作る魔法の道具だったのだが、それも限界がある。昔から駐屯している軍もいないため、たびたび島荒らしに襲われることがあったそうだ。ただし、貧しい村しかない島を襲っても、すぐに引き上げていくことが多かったらしい。。
島にあるのが砂漠だけとなると、抑えていても何も面白いことは無い。元々村人達は過酷な環境の中、ぎりぎりの生活をしているのである。島荒らしに来ても、奪うものなど何も無いのだ。
更にこの島は無駄に広すぎるため、支配するには著しく効率が悪い。村人が逃げた場合は追跡が難しい上、近隣には軍が駐屯している島もある。それらの事情から、島荒らしが来ても、少し我慢すれば出て行くのが常だった。
だが、今回は少し様子がおかしかった。
島長と話をしたとき幾つか細かいことは聞いたが、島荒らしと言うよりも、殆ど怪物に近いという。
島の砂漠に巣くい、村人を襲っては身ぐるみを剥いでいくというのだ。
島荒らしの様子もおかしく、正気だとはとても思えなかったという証言も出ていたそうだ。しかし、怪物が出る砂漠で平然と生きている輩である。島の者達では追い払えるとは思えず、やむを得ず腕利きを雇ったという事だった。
砂漠をしばらく歩いていると、陽が落ちた。
最悪、同じ方角に歩いていれば海に出る事は出来る。だが、砂漠の怖さは暑さよりも温度差なのだ。
しかも、この時間。最も体力を消耗している相手を狙うべく、怪物も仕掛けてくる。
無数の気配が、この時刻を待っていたかのように、周囲にわき上がった。
舌打ちしたフォックスが、印を切った。
「魔道の力、ヴィリディアンカッパー!」
印を切ったことに気付いたか、怪物達が一斉に四方八方から躍り出てきた。マローネを背後にかばうと、ハツネが弓を引き絞る。
「死角は頼むぞ!」
「ワカッテイル!」
バッカスが低い体勢のまま、巨大な口を開いて躍り出た。
怪物達は、不定形のブロブと呼ばれる種族を中心に、ろうそくのような形状をしたシャドウ、それにサソリの怪物が多数だった。
ブロブはスライムに似ているが、相手の魔力を吸い尽くすことを目的としている。シャドウはもっと厄介で、相手の命を吸い尽くすことで、自分の糧とするそうだ。いずれにしても本体は軟体で、獲物にしがみついて、魔力を吸い尽くす。吸血性の動物のように、口は管になっていて、それを刺すらしいのだが。刺されたところを想像すると、ぞっとしない。
サソリは勿論肉を食うわけだが、ブロブとシャドウが食事して満足した後、ゆっくり獲物を仕留めるわけである。
魔法生物と怪物だが、綺麗に生態系の中で連携をしている訳だ。
バッカスが、最初に飛びついてきたブロブを掴むと、放り投げる。灰色の不定形の塊が、赤茶けた溶けかけのろうそくのようなシャドウに張り付き、一緒に地面に落ちる。ハツネが矢を放ち、数体のブロブをまとめて吹き飛ばした。
「一つ! 二つ! 三つ! 数が多い、油断するな!」
マローネも詠唱を続け、まずはガラントの呼び出しに入る。
その時、地面が揺れる。
地面を吹き飛ばし、マローネの至近に、触手が現れる。それが、ブロブを掴んで、放り捨てた。
「蹴散らせ、アインスアイゼン!」
「承知っ!」
姿を見せたのは、無数の人体と触手を融合させたような、見ただけで吐き気を催すような存在だった。砂を押しのけ、岩を吹き飛ばし、体を揺らしながら、全貌を現す。
フォックスが作ったのだろう。以前見た、ヴィリディアンカッパーの能力でも、同じような不死者が姿を見せていた。
触手が振るわれる度に、周囲のブロブやシャドウが吹き飛ばされ、薙ぎ払われる。ハツネがその隙を縫って、矢を次々放つ。バッカスはその取りこぼしを順番に、かつ丁寧に片付けていた。
ほどなく、敵は姿を見せなくなった。皆殺しと言うよりも、形勢不利とみて殆どが逃げてしまったのである。死体も殆ど無い。身動きできなくなって痙攣しているのは点々としているが。
怪物だって、生き物だ。
死ぬために現れるのでは無い。獲物を捕食するために出てきているのであって、死にたい訳もない。
少し遅れて、ガラントのコンファインが終わった。
出現したガラントに、わびをしようとしたマローネだが。老剣士は、厳しい表情のままである。
「ガラントさん?」
「気をつけろ。 まだいる」
「えっ!? どこ……」
ガラントが、マローネを抱えて飛び退く。
激しい揺れと同時に、アインスアイゼンが吹き飛ばされた。空に投げ上げられたハツネが、岩壁にたたきつけられ、人形のように落ちてくる。
まるで砂の海を泳ぐかのように、砂の間に、とんでもなく大きな腹が、ずるずると動いているのが見えた。蛇の腹のように見えたが、それだけではない。地面からは巨大な太い触手が、多数見えている。触手は蛇の尾のようにシンプルな形状だが、全体に毛が生えていて、獲物を逃がさない工夫を凝らしている様子だ。
触手が、散らばっている怪物を集めて、砂の中に引きずり込んでいく。
その度に、ぐしゃり、ぶちゃりと、つぶれる音がした。
逃げ出そうとするサソリを、触手が降ってきて、粉砕した。そしてつぶれた死体を、触手が掴んで、砂の中に引きずり込んでいく。
口をガラントに塞がれる。コリンも、酷い痛みをこらえたまま、その場で動きを止めていた。
フォックスも、わなわなと震えたまま、近くの岩の上で静かにしていた。バッカスはと言うと、最初から何が起こるか分かっていたかのように、まるで岩のように静かにしていた。そのせいか、無事だった。
フォックスが行ったのは、手酷く痛めつけられた相棒を救うための、ヴィリディアンカッパーの解除だけである。それと同時に、彼自慢のアインスアイゼンは、闇に解けるように消えていった。
「マローネ! 儂を下ろせ! 吹き飛ばしてくれる!」
上で、ヴォルガヌスが言っているが、マローネは震えが止まらず、身動きできなかった。
やがて、巨大な蛇のような何かは、遠くへ去って行ったらしい。時々散発的に地面が揺れたが、それも納まった。
「ありゃあサンドウォームだねえ」
コリンが岩に腰掛けたまま、他人事のように言う。
名前だけは聞いた事がある。この近辺の幾つかの島に住んでいる、超弩級の魔物だ。怪物の域を超えているので、当然魔物指定されている。小さな村を丸ごと囲うほどの大きさがあり、巨大なミミズのような姿をしていて、口から多数の触手をはやしている。振動を頼りに餌を探し、触手を使って捕食する。
動きは鈍いが、そのとんでもない大きさから、ドラゴンにも匹敵すると言われる化け物だ。
ただし、柔らかい砂地でしか移動できないことが弱点で、なおかつあまり村に近づいてくるような場合は討伐隊に処理される。超弩級と言ってもドラゴン並みという事は、強力な傭兵団が来れば退治できるという事なのだ。習性も単純なので、実際には準備さえしておけば、さほど狩るのは難しくないかも知れない。
村の人達が何も言わなかったと言うことは、この島の真ん中辺りでしか活動できないのだろう。
幼生の頃は岩場でも動けるらしいのだが、その時代はミミズ程度の大きさしか無いらしい。あのサイズになるには、何千年も掛かるのだそうだ。
コンファインしたカナンが、けが人を診始める。ハツネは手酷い打撃を受けていたが、どうにか意識はあった。だがひどい出血である。
「マローネちゃん、コンファインを解除して」
「はいっ!」
慌ててコンファインを解除するが、霊体に戻っても、ハツネは苦しそうにしていた。
「私としたことが、とんだていたらくだ」
「すまん。 サンドウォームの性質を教えていなかった俺のミスだ」
「ガラントのせいではない。 無念だが、しばらく休ませて貰う」
ガラントとハツネが互いに謝り合っていた。
なるほど、先ほどは誤解をしていたのだと、マローネにも分かった。怪物達は、命が惜しくて逃げ出したのは確かだったが、それは此方を怖れたのでは無い。
振動によって、サンドウォームが来るのを怖れたのだ。
「フォックス殿!」
「……っ」
「分かっているな。 以降、この砂漠で、あの不死者は使ってはならぬ。 サンドウォームはそれほど敏感な生物では無いが、また使えば、必ず姿を見せるぞ」
フォックスは、ガラントの叱責から、視線をそらした。自分のミスだと言うことには気付いているのだろう。
彼も歴戦の傭兵団だ。だが、彼の場合、対人コミュニケーションに、著しい問題があって、情報に疎漏があったのだろう。
マローネだって、クロームギルドに行ったとき、アッシュに教えて貰わなければ、サンドウォームの知識は得られなかった。
「ふん、マローネ。 儂ならば彼奴を葬れたというものを」
「ごめんなさい、ヴォルガヌスさん」
「おじいちゃん?」
パレットが、どうしてか不機嫌そうにしているヴォルガヌスの首筋の辺りをなでなでした。ヴォルガヌスは、恐らく頂点に立つ者としてのプライドを刺激され、怒っているのだろう。出られる状態で、敵をつぶせたのに、そうさせて貰えなかった。老いても強き者の王者、ドラゴンだと言うことだ。
子供が怪訝そうにしている上に、怖がっているのを感じたのだろう。ヴォルガヌスは黙り込むと、無言でまた空に舞い上がっていった。
マローネは、単純に怖かった。
今までも怖い目には散々あってきたが、今回のは多分何かびっくりするツボに入ったのだろう。体中が震えて、怖くて動けなかった。
アッシュが側で、言ってくれる。
「大丈夫、僕たちがついてるから」
「うん……」
分かってはいる。
マローネは、只怖かった。そして、何だか、責められているフォックスが、気の毒に見えた。
だが、いつまでも、震えてはいられなかった。
マローネは、幼い頃の思い出を、良く想っていない。それをアッシュは知っていた。
両親と死に別れてからのマローネは、孤児院を転々として過ごした。最初の頃は人なつっこいマローネは好かれ、愛されていたが。やがてマローネが、霊が見える事が分かるようになると、周囲の態度は一変した。
アッシュの声は、この頃からマローネには聞こえていた。姿もすぐに見えるようになった。アッシュは間近にいたから、それを知っている。
それは不幸の始まりだった。悪霊と関係する能力は、イヴォワールでは禁忌そのものだ。幼いマローネはそれが分からず、周囲との関係は、一気に冷え切っていった。
やがて、孤児院がベリルに襲撃された。
その時、皆を守るためにマローネは、シャルトルーズの能力を覚醒させた。だがそれが致命的な事になった。
孤児院を追い出されたマローネは、随分泣いた。たとえ、どれだけ露骨な冷遇を受けていたとしても。実際、子供の中には、マローネに同情的な者もいたのである。
マローネの悲劇をどうにも出来なかったアッシュは、とにかく歯がゆかった。コンファインされたアッシュがベリルをことごとく叩き潰したが、それは皆に「悪霊憑き」である事を、見せつけたも同然だったからだ。
マローネは、この時、本能的に悟ったはずだ。
自分が、世界にとって嫌われる存在だと。異物なのだと。
幾つかのレンタル島を転々としながら、餓死だけはしない生活を送りつつ、マローネの傷ついた心は癒えなかった。子供でも、やはり心がずたずたになれば、立ち直るのに時間は掛かる。
アッシュはクロームをするべきかも知れないと、マローネに提案。
マローネは、そうして思いだした。両親に言われたことを。
思うに、ジャスミンとヘイズは、ずっとこの事態を予想していたのだろう。マローネは、世界から否定され、拒絶される。だが、マローネが努力すれば、きっといつかは報われると。
やがて、おばけ島に定住してからは、クロームを続けるようになったが。だが、マローネの心には、やはり大きな傷が残っている。
時々、その傷が開く。
サンドウォームの襲撃があった場所から、少し行くと。岩場があった。此処ならば、サンドウォームに襲われることは無いだろう。というよりも、ガラントが言うとおり、攻撃術でもぶっ放さない限り、サンドウォームはまず寄ってこないようだが。
まず岩場の上に、フォックスが術式を展開。
寒気を緩和する術だ。やはり一人だけの傭兵団と言うだけあり、相当な腕前である。ネフライトとしても、この男は間違いなく一流だ。ガラントの手ほどきで、寝床を準備するマローネの方をみないまま、フォックスは言う。
「すまなかったな……」
「フォックスさん?」
「あれは確かに私のミスだ。 以降気を付ける」
アッシュは知っている。
あのとき、ガラントが助けなければ、マローネは触手に掴まれていた。そして、多分サンドウォームの餌になっていただろう。
それを、フォックスは至近で目撃していた。
フォックスも、マローネと同じ悪霊憑きと呼ばれ、迫害されて育った人間だ。それなのに、自分のミスで、「同胞」を失ったら。
世間を拒絶してきたフォックスが、気付いたのかも知れない。
自分と友好的な関係を望んでいるマローネとさえ、今の状態では小さな「世間」を作る事が出来ないのだと。
マローネが薄い毛布にくるまって、睡り始める。
だが、アッシュは気付いている。マローネが眠っていないことを。時々震えを殺すように、肩を掴んでいる。瞳孔は開ききっていて、恐怖で脳内が塗りつぶされているのは疑いない。
アッシュは側に座る。それだけで、マローネは随分安心する。だが、今日の発作はかなり酷いようで、マローネが寝るまで、随分時間が掛かった。
やっと寝息が聞こえ始めたのは、夜半過ぎである。
コリンは、まるで聖画を見る宗教家のように、恍惚たる様子でマローネの苦悩を見つめていた。本気で殺してやりたいが、今コリンがいなくなると、マローネのクローム業は文字通り詰む。
それを理解した上で、コリンはこの悪趣味きわまりない行動を続けていた。
ふとフォックスの方を見ると、向こうもあまり気分は良さそうでは無い。ファントムによる見張りを頼んだ後、ふて寝をしているようだ。
ファントムに睡りは必要ない。
気付くと、パレットが見上げていた。
「どうしたんだい?」
「まけて、みんなかなしんでるの?」
「そうだね」
「アッシュおにいちゃんもくやしい?」
悔しいと答えた。
事実、好転しつつあるとは言え、マローネの環境はまだまだ不安だらけだ。
戦闘時にいざというとき、アッシュは最後の切り札として活躍は出来る。実際、今までそれで多くの敵を葬り去っても来た。
だが、燃費が悪いアッシュの能力では、常時マローネの側にいることが出来ない。
基礎能力を鍛えるにも、それは出来ない。ファントムである自分がもどかしい。肉体があれば、きっともっとずっとまともに戦えるのに。
シャルトルーズは、その希望を、一部だけ答えてくれていると言える。
だが、ある意味大変残酷な能力だ。ファントムでは体を鍛えようが無い。技を練るにしても、結局威力はマローネ頼みなのだ。
「でも、だいじょうぶだから。 おじいちゃんのところに行っておいで」
「うん。 あたいね、ごみとかいらないのとかだったら、合成してもいいっていわれてるの。 いつか、おにいちゃんとかおねいちゃんとかの、役に立つね」
あんな子供にまで、気を遣わせている。
情けないと思い、アッシュはせめてマローネの安心を作りたいとだけ願った。
夜が明ける。
周囲に怪物はいない。サンドウォームによる襲撃で、よほど警戒しているのだろう。
何度かマローネに声を掛けて起こす。無理に起こすことも無いので、無難な言葉だけを掛けた。
伸びをして起き出したマローネは、何度か目をこすり、周囲を見回す。
まだ調子は悪いようだが、此処は何が起きてもおかしくない場所だ。ぼんやりはしていられない。
「いこう、マローネ」
アッシュに出来る事は、言葉と存在で支えるだけ。
だから、それを最大限、今は果たす。
フォックスの、翼の生えた獅子が戻ってきた。しばらくその側で頷いていたフォックスが、此方を見る。
「見つけたぞ」
「どの辺り、ですか」
「今、説明する」
言葉は少ないが、フォックスの対応は、随分柔らかくなった。地図を広げて、場所を確認。
此処からは、かなり近い。
「サンドウォームの縄張りの中だとすると、厄介ですね」
「そうだな。 砂の質を上空から確認したのだが、恐らくサンドウォームの縄張りはこの辺りまでになるそうだ」
翼のある獅子が側で頷く。
マローネには何となく、フォックスの能力が分かってきた。フォックスの能力は、不死者を操作する事では無い。
不死者を、移動させることだ。おそらくは、ファントムを作った死体人形の中に入れることも含まれている。
移動はさせるが、ファントム自体の人格はあるし、心も変わっていない。だから死体を継ぎ合わせた体に入っていても、普通に喋ることが出来るのだろう。
おそらくは、死体を動かしているのも、その能力の延長線の筈だ。マローネのシャルトルーズに比べると、一長一短がある力である。ただ、一度に大戦力を投入できるという意味では、マローネはまだまだフォックスには叶わない。
「フォックスさんは、ファントムと感覚の共有も出来るんですか?」
「残念ながら、其処までは出来ない。 お前と同じで、ファントムが色々と教えてくれるだけだ」
「……昔から、ですか」
「そうだ。 ファントムにも、見える相手に飢えている者が多い。 だから、優しくもしてくれたのだろう」
獅子が大きな前足で、フォックスの頭を触った。
よく分からないが、愛情表現だろうか。しばらくぐりぐりしていたが、やがて背を向けて、飛んでいった。
「監視を続行してくれるそうだ」
「はい。 この地図から確認して、おびき出した方が良くありませんか?」
「そうだな。 相手は一人だと聞いているが、様子がおかしいらしい。 万全を期した方が良いだろう」
少しずつ、フォックスが多弁になってきているのが分かる。
岩場を伝うようにして、移動。砂地に降りるときは、マローネも少し緊張したが、何歩か歩いてみる限り、大丈夫だった。
ガラントが側についていてくれる。
いつ襲われても、対処できるようにだ。ハツネはまだ具合が悪そうなので、バッカスに出て貰う。
とりあえず、これで奇襲を受ける可能性はぐっと減る。
「行きましょう、フォックスさん」
「ああ」
バッカスは、フォックスを一瞥だけして、以降は何も言わなかった。
しばらく歩くが、怪物は仕掛けてこない。
日差しが凄まじい。軽装できているが、さっきフォックスが掛けてくれた術式で緩和していても、なお汗が大量に出てくる。
時々水を口に含むが、やはりもう足りなくなっていた。早めに決着を付けないと、緊急措置としてサボテンから水を補給しなければならなくなってくる。
「アッシュー、暑いよー」
「もう少しの辛抱だよ、頑張って」
「鍛え方が足りないな」
フォックスは細いが、今まで全く弱音を漏らしていない。
考えて見れば、この人はそもそも、甘える相手さえいなかったのだろう。だから、そもそも誰かに頼るとか、助けをこうとか、そういう発想が無いのだ。
砂に足跡を残しながら、砂漠を行く。
また、翼ある獅子が戻ってきた。どうやら、目的の人は至近にいるらしい。
「お前に相手は気付いているか」
「いや、どうも様子がおかしい。 村で聞いたとおりだ」
獅子が言うには、相手はウェアウルフ族が一人。青い毛並みで、かなり大柄だという。
問題は、明らかに目つきがおかしく、ぶつぶつとうわごとを呟いているらしい、という事だ。
「精神に異常をきたしているのか?」
「いや、どうもそれにしては妙だ。 全身から溢れるような力の波動を感じる。 正直な話、かなりの使い手だぞ」
「どんなことを呟いているのですか?」
「俺は白狼騎士団のラファエルだ、とずっとな」
鼻を鳴らすフォックス。
マローネも知っているが、白狼騎士団のラファエルは、人間族の男性だ。ウェアウルフ族では無い。
偽物だと言うことは、これで確定した。
しかし、溢れるような力というのは、どういうことだろう。
「実は、ラファエルを名乗る賊は、今までにも出たことがある」
「私も会ったことがあります」
「そうか。 それと同一人物であるかは分からないが、いずれもラファエルの名声を悪用しようとした、小悪党ばかりだった。 まさか今更大物の悪人が、わざわざラファエルを名乗るとは思えん」
たとえば、白狼騎士団に対するネガティブキャンペーン、という可能性はある。
だが、そもそも傭兵団の間では、武勲で力を示すべしと言う風潮がある。それは一種の仁義であり、掟に近い。
もしやるとすれば、そういったルールの埒外にあるセレストや、あるいは個人的な恨みを持つベリルか。
「まずは、サンドウォームの縄張りから引っ張り出したら?」
コリンが、考え込むフォックスをのぞき込むようにして言う。
舌打ちしたフォックスだが、確かにその通りだとマローネも思う。悪いことをしている人を止めるにしても、まず会わなければならない。
「引っ張り出せるか」
「やってみる」
獅子が翼を広げる。だが、マローネは引き留めた。
ふと、以前ラファエルを名乗っていた賊のことを思い出したのだ。
偶然かも知れないが、確かその人も、ウェアウルフ族だった。
「ええと、以前私が会った人と同じだとすると、凄く投げる力が強かったと思いますから、気をつけてください」
「アドバイスに感謝する」
飛び立った獅子を見送ると、待ち伏せする地点に決めた場所へ急ぐ。
体力の消耗が酷い。そろそろ、水の蓄えもなくなる。
地図を見ながら、移動。実質の地形はかなり違っていたが、それでもあまりにも酷い違いは無かった。
途中、崖に出る。
かなり深い崖で、底の方は流砂が見える。これは、落ちたら一巻の終わりだろう。ぞっとしたマローネは、崖から出来るだけ離れて走った。
崖には何カ所か、吊り橋が架かっている。
相手を迎え撃つのは、此処だ。吊り橋の向こう側が、相手のいる地点である。迎撃を非常にやりやすい。
丁度サンドウォームの縄張りからも外れているし、地盤も安定している。多少攻撃術をぶっ放しても平気だろう。
マローネはすぐに、戦闘の準備を整えた。吊り橋の側から見えない場所に腰を下ろすと、シャルトルーズの詠唱を開始。コリンとカナンにも出て貰い、頃合いを見てアッシュを戦線に投入する。ヴォルガヌスは、いざというときの切り札だ。念のため、岩の上に陣取る事も忘れない。これで最悪の場合も、サンドウォームに悩まされることは無いだろう。
フォックスはと言うと、準備を整えていくマローネを横目に、サボテンの影に隠れた。
風向きを調べた後、位置をずらす。
見たところ、フォックスが隠れている位置の方が、吊り橋から遠い。ならば、フォックスのヴィリディアンカッパーが相手の動きを止めている間に、吊り橋を抑えた方が良いだろう。
「バッカスさん、吊り橋の制圧はお願いできますか」
「ワカッタ。 マカセロ」
「見えたぞ」
ガラントが言い、マローネに頭を下げさせる。
爆音が轟いた。
見ると、巨岩が宙に舞い、左右に飛びながら回避行動をしている翼を持つ獅子を襲っている。
やはり、同じ人だったのかと、マローネは思った。
砂漠の中、歩いて来る青い人影。かなり大柄で、歩み自体は遅い。問題なのは、その異常な気配である。
マローネは、思わず息を呑んでいた。
全身から立ち上っているのは、明らかに異常すぎる魔力だ。闇というか負というか、そういうものの最上位に思えてくる。
目は赤い光を湛え、全身の筋肉の盛り上がり方もおかしい。まるで、何というか。魔に魅入られたとでも言うのか、そんな異常な光景だ。
「あれは……!」
カナンの声が、露骨な憂いを帯びる。
歩みはゆっくりしているのに、どうしてか一歩一歩が、とんでもなく早く思えてくる。気付くと、全身冷や汗でびっしょりになっていた。
フォックスも、相当な威圧感を感じている様子だ。
翼獅子が、着地。
「気をつけろ。 昨日よりも、更にパワーを増している」
「何者だ彼奴は。 見たことがあるか」
「前に見ました! でも、別人のようです!」
「……っ」
フォックスが、相手の前に堂々と姿を見せる。陽動のためだ。
相手が、吊り橋に掛かった。そう思った時には、その姿が消える。
跳躍したのだ。
そして、フォックスの至近に着地。遅れて、砂が舞い上がった。とんでもない身体能力である。
「俺は、白狼騎士団の、ラファエル、だ」
フォックスが指を鳴らす。
ウェアウルフの男性の足に、無数の腐敗した手が絡みついた。
マローネも、一気に仕掛ける。
あの跳躍力では、吊り橋を抑えていても意味が無いだろうと、誰もが分かっていた。
だから、バッカスが、最初に躍りかかる。
動きを止めているウェアウルフに、低空からのタックルを浴びせかけた。
砂が、まるで攻撃術でも浴びせたかのように、吹き飛ぶ。膨大な砂のシャワーが降り注ぐ中、何事も無かったかのようにウェアウルフの男性は立ち尽くし、片手でバッカスを押さえ込んでいた。
振り返ると同時に、バッカスの巨体が宙に浮く。
白い熊の怪物の首を食いちぎったほどのパワーを持つバッカスが、なすすべ無く砂漠にたたきつけられるのを見て、マローネは戦慄した。
鞠のように跳ねたバッカスが、遙か遠くにまで吹っ飛ぶ。
尋常な相手ではない。
フォックスが指をもう一度鳴らす。
顎が閉じるようにして、腐肉の塊が、左右からウェアウルフの男性を押しつぶした。飛び退きながら、フォックスが詠唱を開始。
コリンも、既に詠唱を終えていたようだ。
吹っ飛ぶ腐肉。何事も無かったかのように姿を見せるウェアウルフ。コリンが、極太の雷撃を放つ。ギガサンダーと聞こえていたから、雷撃系の上級術か。それが直撃し、ウェアウルフの全身を焼き尽くす。
更に、フォックスが放った火炎の術式が、躍りかかる。
無数の火球を一点に集中爆破させる術式で、マローネも見たことがある、フレアボールの術だ。
連鎖する爆発が、砂漠にクレーターを作る。
もうもうたる砂塵。
だが、それは内側から吹き飛ばされた。
姿を見せるウェアウルフ。目には煌々たる赤い光があり、そして壊れているかのように、同じ台詞を口にしていた。
全身が焼けただれているのに、ウェアウルフから立ち上る黒い魔力は、衰える様子も無い。
まるで地獄から来た、恐怖の塊のようだと、マローネは思った。
「ば、馬鹿な……! 何という耐久力だ!」
フォックスが数歩下がる。
マローネだって、逃げ出したい。この状況、ヴォルガヌスのブレスを浴びせても、打開できるかは分からない。
アッシュをこのまま投入しても、多分勝ち目は無いだろう。あれだけの火力を浴びても、平然としている相手なのだ。
また、ウェアウルフが叫ぶ。
「俺は、白狼騎士団の、ラファエルだ!」
「マローネ、僕をコンファインするんだ!」
「いや、待て」
ウェアウルフが、動きを止めた。
ガラントが手を横に出して、マローネを止めた理由が、すぐに分かった。ウェアウルフの視線の先。
歩いて来る、長身の人影。
何名か護衛をつれた、白銀の鎧を身に纏ったその人こそ。白狼騎士団の団長、ラファエルだった。
構えたまま、フォックスが言う。
「あんたが来るとは、聞いていないが」
「私の名を名乗るものが、悪さをしていると聞いてね。 以前にもあったから、様子を見に来たのさ」
マローネに軽くほほえむと、ラファエルは剣を抜く。ナックルガードがついた、とても長くて美しい剣だ。
護衛の中には、まだ若い女性の騎士もいた。
「俺は、ラファエル、だ。 白狼騎士団の、団長、だ」
「そうか、それならば、私は誰だというのかな」
「お、俺こそが、ラファエル! ラファエルなんだー!」
絶叫は、それそのものが、破壊的な圧力を伴っていた。
マローネをガラントがかばう。
フォックスは、翼ある獅子がかばった。
向こうで、バッカスがどうにか起き上がるのが見えた。今の一瞬の攻防で、力量の差は明らかだ。本来であれば、どうにもならないだろう。
だが、本物のラファエルがいれば。
そして今は、そのまさかが起きている。
「私が時間を稼ぐ。 各自、最大限の攻撃を準備し、叩き込んでくれ」
ラファエルが構えを取る。
剣を刺突中心に使うときに行う構えだ。ナックルガードのある刺突剣だから、当然だろうか。
場の空気が、瞬時に代わる。
これが、世界最強に近い人物の、強さか。
「アッシュ、全力での攻撃の後、あの人を打ち上げて」
「分かった。 任せてくれ」
アッシュのコンファインに掛かる。
二歩、その間に、ラファエルは間合いを詰めていた。
その全身から、まばゆい光が放たれる。それはらせん状に渦巻きながら、天を目指し登っていく。
「心無になりしとき、剣は無限の刃となる! 極みの能力! ヘリオトロープ!」
ラファエルの全身を覆っていた光が、剣に集中した。
3、闇の刺し手
躍りかかったウェアウルフの一撃が、ラファエルの寸前で止まる。ラファエルは、動いたようには見えなかった。
だが、よく見ると、いつの間にか構えが変わっていた。
剣で一撃をはじき返したのだと、遅れて気付く。ぶつかり合いで生じた風圧が、まるでかまいたちのように、マローネの所にまで飛んできた。
砂嵐のような有様だ。
激しい殴打音。
残像さえ残しながら、ウェアウルフがラッシュを叩き込んでいる。とんでもない早さだ。だが。
その全てを、ことごとくラファエルは見切り、防いでいる。
あれが、最強レベルの能力者か。
能力が凄いのではない。鍛えに鍛え抜いた身体能力と剣の技が、既に常人の領域を、完全に超越している。
マローネも、調べてラファエルが実は相当な高齢である事は知っていた。にもかかわらずあの容姿であるのは、この圧倒的な鍛錬に基づく実力がものを言っているから、かも知れなかった。
「あれはもう、高位の魔神に匹敵するほどの実力だな」
具合が悪そうに蹲ったままのハツネが言う。
雄叫びを上げたウェアウルフが、地面にたたきつけられる。散々斬られても、その都度再生しているようだが。しかし。
「時間稼ぎのつもりだが、手は抜かないぞ。 死なないでくれよ?」
無数に分身したラファエルが、四方八方から、数百に達する刺突をウェアウルフに叩き込む。
超高速で移動しているのかと思ったが、その割に風が巻き起こっていない。
空間を渡りながら、切りつけているのだ。
あれが、ヘリオトロープ。九つ剣筆頭の能力か。
これほどの非常識な能力、消耗もとんでもないはずだが、ラファエルは汗一つ掻いていない。
流石に格が違う。
だが、ウェアウルフも黙っていない。
強引に剣撃の弾幕を押し返すと、再びラッシュを叩き込み始める。その拳の速度は、徐々に上がっているようにさえ見えた。
ラファエルはまだまだ余裕だ。
だが、ウェアウルフの戦闘力は、一秒ごとに増しているようにさえ見えた。
ラファエルが戦術を変えた。
拳を紙一重で交わすと、ウェアウルフを蹴り上げたのだ。
足場が無い空中に出たウェアウルフの周囲に、らせん状に空間転移しながら、目に見えないほどの速度で連続して切りつける。あまりにも切りつけるパワーが凄まじいので、ウェアウルフが、一秒ごとに浮き上がっていく。
そして適当なところで、地面にたたきつけた。
鋭い悲鳴を、ウェアウルフが上げる。
だが、即座に跳ね起きる。
「きりが無いな」
「ラファエル様!」
「問題ない」
部下の声に、ラファエルは眉一つ動かさず、再びラッシュを繰り出してくるウェアウルフに、冷静に対処。
コリンの詠唱、完了。
マローネが、アッシュを呼び出す。アッシュは、最初からエカルラートの体勢に入っていた。
ガラントと、バッカスも、準備を終えた。
後はフォックスの方だ。
フォックスは、恐らく最強かと思われる死人兵を呼び出し、なおかつ自身も詠唱を続けている。フォックスの側に控えているのは、意外に小さな死人兵だ。筒状で、大砲のような形をしている。
或いは、そのまま大砲であるのかもしれない。
印を切るのが、マローネには見えた。フォックスの方も、いける。
準備は、全て整った。
「ラファエルさん!」
「応ッ!」
ラファエルが飛び離れる。
同時に、ガラントとバッカスが、仕掛けた。
ガラントが渾身での剣撃を叩き込む。それは衝撃波を伴い、立ち上がろうとするウェアウルフを、中空に跳ね上げた。
あれほどの打撃、大火力の術式を浴びているにもかかわらず、ウェアウルフの体には殆ど傷も無い。その度に回復している上に、弱威力の攻撃は、全身に纏った闇の力がはじき返しているからだ。
回転しながら、バッカスが渾身の体当たりを浴びせる。以前、悪霊と戦ったとき、見せた技だ。
回転のこぎりの直撃を受けたにも等しいウェアウルフだが、火花を散らしつつも、はじきあう。
着地。
だが既に、その時。コリンも、カナンも、そしてフォックスの死人兵も、射撃の準備を整え終えていた。
空から降り注いだ特大の火球が、さながら隕石がごとく、ウェアウルフを直撃する。
普通だったら蒸発するほどの熱量を浴びながらも、ウェアウルフはなおも、熱の中で吠え猛った。
コリンの放った術式は、とてつもない消耗を招く。威力からして当然だ。マローネの全身から、魔力が容赦なく、遠慮無く、吸い上げられていく。
まだだ。
最後の一撃のために、まだ魔力がいる。
カナンが放った光の術式が、ウェアウルフを、既に溶岩化している地面の中に叩き込む。そして、フォックスの死人兵が放った極太の閃光が、ウェアウルフを直撃した。
砂漠に、溶岩の筋が走った。それは赤い川となって、遙か遠くまで、砂漠を横断していた。
溶岩化している砂の中、全身から煙を上げつつも、まだ動こうとするウェアウルフ。
むしろ、その全身から立ち上る闇の魔力は、更に力を増そうとしている。まだ、動けるのか。
マローネは戦慄した。
だが、アッシュが、その時動いた。全身に青いエカルラートの燐光を纏い、一瞬でウェアウルフの足下まで迫る。
「悪いが、恨むなよ!」
渾身の一撃が、ウェアウルフを、遙か空まで、吹き飛ばした。
此処だ。
マローネは、ヴォルガヌスを、全力でコンファインした。
巨大な竜が、その場に威容を示す。
流石にウェアウルフもそれを見て、逃れようと体をばたつかせるが、もう遅い。
ヴォルガヌスの口の中には、殲滅の閃光が、既に雇っていた。
足を踏ん張り、ヴォルガヌスが、全力でのブレスを撃ち放っていた。マローネの魔力が、極限まで吸い上げられていく。
意識が、飛びそうになる。
まだだ。
マローネは、必死に踏ん張る。まだ、勝てるとは決まっていない。
だから、せめて。最後まで見届ける。
空に、炎の花が咲いた。
落ちてきたウェアウルフは、流石にもう身動きしなかった。
だが、マローネは、もう限界である。
フォックスも、さっきの死人兵の一撃と同時に力を使い果たしたようであった。恐らくあれは、フォックスの魔力を直接撃ち出すための存在だったのだろう。既に護衛の死人兵までもが消滅している。
「首でも刎ねますか」
「……」
ラファエルの配下の騎士が言う。だが、ラファエルは視線をそらす。つられてマローネも、見る。
重厚な足音が近づいてくる。
以前マローネが見た、黒い鎧のおじいさんが、そこにいた。
さながら鬼神のような迫力。全身にみなぎる凄まじい力。筋骨隆々たる肉体は、老いているというのに、全く衰える気配が無い。
「どいていろ」
おじいさんが、真っ黒い巨大な剣を引き抜く。
そして、倒れたままのウェアウルフに向けると、今までどれだけ攻撃を浴びても悲鳴を上げなかったのに。ウェアウルフが、胸をかきむしるようにして苦しみ始めたのである。
「食い尽くせ、魔剣シヴァ! 冒涜の力、ダークエボレウス!」
「ぐ、ぎぎぎぎ、ぎぎゃああああああああああっ!」
黒い何かが、ウェアウルフから引きずり出されていく。それはとんでもない量で、黒い奔流が、剣に吸い取られていくようだった。闇の力は、シヴァと言われた巨大な剣に巻き付くと、らせん状に絡みつき、そしておじいさんの体自体に取り込まれていった。
吸収しているのだ。
以前見た時よりも、更に行程が露骨である。以前闇の力があふれ出てくる空間の穴を喰らったときよりも、更におじいさんの力は禍々しくなっているようにさえ思えた。
やがてウェアウルフを動かしていた邪な力は、剣に全て吸い取られたらしく。ウェアウルフは、動かなくなった。
「カナンさん、回復してあげてください」
「正気?」
「あのままでは、きっと死んでしまいます。 それにもう、あの恐ろしい力は、無い筈ですから」
「そう。 分かりました」
マローネは、そう言いつつも、おじいさんとラファエルから目を離せない。
二人は、明らかに面識があるようだった。
「ふん、九つ剣の筆頭を受け継いでからも、相変わらず甘っちょろいやり方を変えていないようだな」
「貴方こそ、何をしているのです。 そのようなことをして、現実が変わるとお思いか」
「笑止! この闇の力こそ、唯一奴を殺せる方法よ。 儂の力は、あれから更に増している。 今度こそ、確実に奴を引き裂き、奈落の底に叩き落としてくれるわ」
「そのようなことをして、亡くなられたご家族が喜ぶとお思いか! 貴方の変わり果てた姿を見て、お孫さんがどう思われるか、考えて見たことはあるのか!」
空気が、瞬時に沸騰したかのように、思えた。
アッシュが反射的にマローネをかばう。
老人とラファエルが、剣を向け合っていた。ラファエルの配下も飛び退くと、それぞれに抜刀する。
戦気が、物質的な圧力さえ伴って吹き付けてくる。
だが、それは唐突に納まった。
「ふん、貴様は殺すべき相手ではない。 力を浪費することもあるまい」
「スプラウト殿。 モルト伯は、貴方の助力を今でも待っています。 まだ間に合いますよ」
「モルト伯か。 悪いが、奴ともなれ合う気など無い。 儂には、サルファーを殺す事だけが全てだ」
消えていく巨影。
マローネは、腰が抜けて、その場に座り込んでしまった。消えてから、分かる。下手をすると、漏らしそうなほど、全身を恐怖が包み込んでいたのだと。
怒ってからのおじいさんの闘気は、本当に凄まじかった。さっきのウェアウルフにも、単独であの人なら勝てたのでは無いかと、思えるほどだ。
以前、癒やしの湖島で、巨大な魔物と戦ったときよりも、遙かにとんでもない威圧感だった。
あの人は、本当に人間を止めつつあるのだ。
ラファエルが手を貸して、助け起こしてくれる。
マローネは、震える声を必死に押し殺して、聞く。
「あの人は……」
「君も聞いたことがあるだろう。 あの人が、大剣士スプラウト。 輝ける聖剣と呼ばれた、先代の九つ剣筆頭さ」
「あの人が……」
イヴォワールに住んでいて、スプラウトを知らない人などいないだろう。子供の頃のごっこ遊びでさえ、必ず名前が挙がるほどの有名人だ。孤児院で、スプラウトだラファエルだと、子供がごっこ遊びをするのを、何度もマローネだって見ている。
最強の九つ剣にして、数多の怪物、魔物を倒した英雄。
ドラゴンを単独で倒した逸話だけでも、枚挙にいとまが無い。異世界から来た悪魔を撃退したり、サルファーとの戦いでも大きな功績を挙げているはずだ。
「聖剣……」
「今でも、あの人は世界最強の存在だ。 齢八十を超えても、なおね。 しかし、輝ける聖剣は、既に闇に曇ってしまった。 大切なものを失ってしまった悲しみに、耐えられなかったんだよ」
ラファエルは話してくれる。
スプラウトは、一度ラファエルと組んで、サルファーを撃破したのだという。スカーレットが根本的にたたきのめす、その前のことだ。
だが、サルファーは、復讐心を備えている。
どうやってスプラウトの家族を探し出したのかは分からない。だがはっきりしているのは、スプラウトが戻ったときには、島ごと、その家族は皆殺しにされていた、という事であった。
豪放であったが、粗野では無かった。
磊落ではあったが、人の心を理解できる存在だった。
強さに傾倒する傾向はあったが、それでも何よりも誇りを大事にする人だった。
ラファエルの、自慢の師だった。
「君にも分かるかも知れないが、人は大事なものを失ったとき、心が壊れてしまうことがあるんだ。 輝ける聖剣といえども、それは例外では無かった」
「悲しい、人なんですね」
「そうだ。 悲劇は、だからこそ、終わらせなければならない」
フォックスも話を聞いていた。
嘆息すると、フォックスは焦げたまま意識を失っているウェアウルフを一瞥した。
「そいつはどうする」
「誰か、この男の素性を知っているか?」
「私が分かります」
ラファエルの部下の一人が進み出た。中年の人間族の男性だ。ラファエルと同じように、白銀の鎧を身につけている。
白狼騎士団でも、かなり偉い人かも知れない。
「島荒らしのビジオですね。 島荒らしを何度か行っていますが、たいした悪党ではありません。 人を殺したことも無い筈です」
「ならば、何処かの傭兵団でしばらく下働きをさせれば良いだろう。 連れて行け」
「分かりました」
マローネは胸をなで下ろした。
どうやら、島荒らしの人は、死なずに済むらしい。
悲しい出来事に、心が壊れてしまった人には会うことになった。
だが、可能な限り、幸せな結末だったと、マローネは思った。
4、自業自得
フォックスは平気な顔をしていたが、やはり相当に消耗は激しかったらしい。
溶岩化した砂は既に冷えて固まっているとはいえ、辺りには戦闘の痕跡がかなり露骨に残っている。
疲弊も、無理は無い話であった。
ラファエルが意識が無い島荒らしを引きずって帰ってから、しばらく無言が続いた。サンドウォームは来ないだろうが、他の魔物がどう動くか分からない。
消耗しきっている今、そのまま帰路につくのは危険だ。
「あの、一休みしてから戻りませんか?」
男の人だから、変な見栄を張るかなと、マローネは思った。
だが、フォックスは、意外に素直に頷いた。
「分かった。 飯も食っておけ」
「はい」
「さっきの連続攻撃、見事だった。 私も、もっとファントム達と心を通わせていかなければならないな」
驚いて顔を上げる。
だが、フォックスは、もう此方を見てはいなかった。
弁当は食べてしまったから、持ってきた保存食を広げる。お高い保存食になると、魔術を掛けて腐らないようにしているものもあるのだが、マローネが使っているのは、燻製肉や乾かした穀類だ。
燻製肉はそのままかじっても良いが、かなり堅いので、基本的には炙る。その時に、中に乾かした穀類を入れておくと、肉汁がしみて美味しく食べられる。
ただし、美味しいと言っても、やはりその場で料理したものに比べると、どうしても味は落ちる。
フォックスの方を見ると、やはり魔術で保存した食べ物を持ってきているようだ。ただし、自分で料理したようには見えない。クロームギルド辺りで買ってきたのだろう。
ちなみに、食べているのはジューシーな串焼き肉だ。魔術による保存は、冷気を伴うものだったようで、流石に火で炙っていたが。
マローネも、今は火をわざわざ熾すのでは無く、コリンに教わった術で出して焼いている。
火力は正直ショボショボだが、お肉を焼くくらいなら充分だった。
ピセで、火を通して柔らかくなった燻製肉を刺して、食べる。ある程度おなかがふくれたところで、岩陰に移動。
そのまま、目を閉じて、休憩に入った。
「フォックスの態度も柔らかくなってきている。 マローネ、努力が実を結んだね」
「うん。 あんな風に、他の人達とも仲良くなっていきたいな」
「そうだね」
アッシュの声を耳元に感じながら、マローネは初めて、若干リラックスした休憩を取ることが出来ていた。
太陽が、真上から若干ずれた頃、休憩を終える。
風が吹いてきていて、戦いの跡は、急速に消え始めていた。
地図を見て、現在地をもう一度確認。フォックスも、こういう確認作業には、前と違って積極的に参加してくれるようになっていた。
「帰りましょう」
「ところで、一つ言っておきたい」
「何でしょうか」
「ベリルがラファエルでは無かったことは、言わない方が良いだろうな」
小首をかしげるマローネだが、アッシュもガラントも、それに同意する。
「同感だ」
「え? え?」
「マローネ、あの島長、相当強欲な人物だよ。 もしもベリルがラファエルじゃ無かったことを正直に言ったりしたら、確実に報酬を減らすだろうね。 それだけじゃあない」
場合によっては、報酬を無かったことにしようとするかも知れない。
そう、アッシュは悲しいことを言った。
マローネは、まず人を信じようと考えている。だから、そんなことにはならないで欲しいと思う。
フォックスは困り果てた様子のマローネを見て、なおも言う。
「どうしても、本当のことを話したいのか」
「はい。 島長さんを、信じたいです」
「ならば、試してみるか」
フォックスに何か考えがあるらしい。だが、マローネには、彼が何を考えているのかは、分からなかった。
念のため、サンドウォームがいそうな場所は避けて歩きながら、島の端にある村を目指す。
そして、フォックスの予想は当たった。
村に入って最初に感じたのは、歓迎する空気でも、喜んでいる様子でも無い、という事だ。
村長は、ぼろぼろのフォックスとマローネを一瞥すると、最初とは別人のように横柄な態度で言う。
「ご苦労だったな。 それで島荒らしは」
「退治しました。 もう悪さは出来ないと思います」
「そうかそうか、それは何よりだ」
島長が、露骨に嫌な笑みを浮かべた。
周囲の村人達も、あまり好意的な態度では無い。此方を汚物でも見るような目で、見ている者も少なくなかった。
あまり考えたくは無いが、彼らはベリルとマローネとフォックスが、共倒れになる事を望んでいたのかも知れない。そんなことは考えてはいけないと、マローネは慌ててその考えを打ち消した。
「それで、ベリルはどうしたね」
「はい。 実は……」
人を信じよう。
マローネは、いつだってそう考えている。だから、フォックスが言ったことは肌で感じながらも、真実を全て話した。本物のラファエルが来たことは割愛したが、ベリルは捕らえた事も話をしておく。
島長は、露骨に笑みを浮かべる。
この笑みは、見覚えがある。
もっと幼い頃。孤児院を襲撃してきたベリル達が、浮かべていた嫌な嫌な笑み。
それだけではない。
マローネがひとさらいに掴まりかけたとき。マローネをお金にしか見えていないらしい男が、浮かべていた笑みだ。
怒りよりも、悲しみが、マローネの心を包む。
「そうか、ならば報酬はいらんな」
「え……そんな……」
「だってそうじゃろう? 村で出した依頼は、ラファエルの退治だった。 だが、退治したのは偽物だった。 それでは報酬はださんでもええじゃろ」
絶句するマローネ。
今回は、お金が絡んだ仕事だった。だから、契約に基づいた作業ではあった。
しかし、それは信頼関係から成り立つ仕事でもあったはずだ。それなのに。
冷えた声がした。フォックスだった。
「そうか。 ならば此方としても、手を打つとしようか」
フォックスが指を鳴らす。
ぎょっとしたのは、それがヴィリディアンカッパーの能力発動だと、マローネは知っていたからだ。
砂地を押しのけるようにして、死人が姿を見せる。
それは奇しくも、ウェアウルフ族の男性の死骸だった。さっき打ち倒したベリルとは人相が少し違ったが、村人達には違うようには見えないだろう。今まで襲われていた相手だから、はっきり顔など見ていないはずだ。
今まで、ヴィリディアンカッパーの能力展開は何度も見たが、フォックスが様々な死体を集めている事については分かっていた。しかし、ウェアウルフの死体も持っていたとは、驚きである。かなりの希少種族であるはずなのだが。
悲鳴を上げたのは、島長だ。
他の村人達は、さっさとその場から逃げ出している。現金で強かな人達である。
「ひいっ!」
「ベリルは捕らえたと言ったはずだ。 報酬を出さないというのなら、此奴を解き放つだけだが?」
「そ、そんな、後生です!」
また、島長の態度が、露骨に変わる。
何より、ウェアウルフ族の死人が、あまりにも禍々しい黒いオーラを纏っているのが、恐怖を更に加速している。低い唸り声を上げているウェアウルフ族の死人。マローネは、気付く。
中に入っているのは、フォックスを守っていた、あごひげのおじいさんだ。
「最初に指定した額、払って貰おうか」
「わ、分かりました! 分かりました! 払いますから、お許しください!」
「ふん、それでいいんだよ。 ちなみに、何か勘違いしているようだから言っておくが、此奴は私より強いぞ。 此奴はドラゴンを使役する事も出来る。 本気で怒らせたら、こんな村、半刻も持たずに消し飛ぶと思え」
「ド、ドラゴン! ひいいいいっ!」
フォックスはマローネを視線で指しながら言う。
島長は、さながらマローネを、魔界から現れた魔王でも見るかのように見つめた。こんな視線で見られるのは初めてだったので、マローネは驚いた。ドラゴンは与太話ではないし、フォックスがそんなに評価してくれているのは、嬉しかった。
フォックスを止める気はしなかった。マローネも少し悲しかったし、島長さんには、ちゃんと契約の対価を支払って欲しかったからだ。フォックスが脅かして島長からお金を取り立てたのには言いたいこともあったが、しかし。
信頼を裏切った島長には悲しみも感じたし、これでどっこいどっこいかも知れなかった。
港で、遠巻きに見ている村人達を尻目に、フォックスが報酬を分けてくれる。さほどの金額では無いが、この村の人達が持ち寄ったお金としては高額の筈だ。だから、マローネは満足だった。
「お前の分だ。 受け取れ」
「はい。 フォックスさん、有り難うございました」
「否、礼を言うのは私の方だ。 色々とお前には教えられたよ」
表情を変えることは無い。
だが、外に対して鉄の壁を作っているフォックスの心が、多少柔らかくなったかも知れない。
「また、仕事が一緒になったら、お願いします」
「その時は、此方からも頼む。 お前は頼りになる」
フォックスが手を出してきた。握手をしたいのだと分かって。
マローネは笑顔を作ると、二回りも年上の、同じ境遇の人と。心を通わせる事が出来た事を喜びながら、握手を交わしたのだった。
ボトルシップで海上に出る。
砂谷島の人達を、脅かしたことはやはり後悔を伴った。フォックスに認めて貰ったことは嬉しかったが、それ以上に自己嫌悪が、時間と共にわき上がってきたのだった。
「ねえ、アッシュ」
側にいるアッシュに、マローネは語りかける。
既に船は安定した航路に乗っており、多少のよそ見くらいは平気である。近くには船も、素潜りの漁師も見当たらない。
「なんだい」
「島の人達に、悪いことをしちゃったわ」
「先に悪いことをしたのは彼らだ。 マローネが気にすることじゃない。 むしろ次からは、フォックスのやり方を真似てみると良いかもしれないね」
「もう、アッシュったら」
流石に怒ったマローネに気付いたか、アッシュはごめんごめんと謝った。
だが、咳払いして、ガラントが代わりに言う。
「信頼は大事だ。 俺から見ても、まず相手を信頼しようというマローネ嬢の姿勢は、立派だと思う」
「ガラントさん、ありがとう」
「だがな、マローネ嬢。 相手が信頼を裏切った場合、どんなに酷い内容でも、今まで泣き寝入りしてきただろう。 それは良くない」
今まで、ガラントはこういうことを一切言わなかった。
驚いて顔を上げたマローネに。ガラントはなおも言った。
「信頼は、相手との契約に近いものだ。 相手が先に契約を破棄したのなら、それ相応の対価を求めることは、悪では無いぞ。 フォックスのやり方は厳しいものだったが、今後は大人の喧嘩のやり方を、身につけるべきかも知れない」
「……」
そうなのかも知れない。
お父さんとお母さんに顔向けできないようなことは、出来ないとマローネは思う。今でもそれに変わりは無い。
だが、相手が信頼を裏切るような事をした場合。しかも事情も無くお金が目当てで、といった時は。
フォックスがやったように、仕事を破棄するべきなのかも知れなかった。
しかも今回の仕事は、相手との信頼関係と契約が大きな意味を持つ、後払い形式だったのだ。
「怒ることは、悪いことでは無いぞ。 まして今まで、マローネ嬢はずっと我慢を続けてきたのだ。 怒るべき所では怒ればいい」
そう言うものなのかも知れない。
アッシュも、頷いていた。
「もっと強くなりたいって、私思います。 それには、心の強さも、大事ですか?」
「ああ」
「分かりました。 頑張ります」
お父さんとお母さんも、きっと怒ることを禁じたりしないだろう。
誰もがマローネは好きだ。誰にも好きになって欲しいとも思う。
だから、今後は、努力の方向に、新しいアプローチをくわえて見よう。そう、思うのだった。
気がつくと、真っ白い世界だった。
声が聞こえる。
手を伸ばす。掴まれた。手首の辺りに、柔らかい暖かみがある。
「目を開けなさい、ミロリ」
言われるまま、目を開ける。
徐々に、それが見えてきた。黄金の髪を持つ、背中に翼あるもの。
天使のようだと、ミロリは思った。実際そのものは、とても美しく、性別さえもよく分からなかった。身につけている白い服は、一点の汚れも無い。
周囲を見回す。
雲の上だろうか。辺りは真っ白で、何も存在していないように見える。否、空を舞っているのは、光の群れ。あれは何だろう。
「目を覚ましましたか、ミロリ」
「あんたは?」
「私は天使セレン。 貴方を天使としてスカウトに来ました」
天使。しかもスカウトに来た。
訳が分からないと思って、頭を振る。気付くと、ミロリは腐った死体では無くなっていた。
からだは生きていたときと変わらない。身に纏っているのは、セレンとやらと同じ、純白の服。
背中には、全く質量の感じない翼がある。
「あんたが天使って事は、此処は天界とかって奴なのか」
「そうです。 友のため、その命を最後まで燃やした貴方の高潔な魂を、天界は天使に相応しいと評価しました。 此方に来なさい」
手を引かれ、起こされて。
そして、ついてくるように言われる。
足下はふわふわしていて、質感が全く無い。翼を動かしている感触は無いのだが、どうも浮力が自動的に働いているようだった。
遠くに、転々と建物が見えてくる。いずれもイヴォワールのものとは全く違う、無機質なものばかりだ。円柱状の白磁の石が建てられていて、屋根だけがついている。壁がどの建物にも存在せず、内部機構がむき出しだった。
多くの天使が行き交っている。
魔術も普通に使われているようで、空に映像が浮かんでいた。天使にも、美しいものだけではなく、醜いものもいるようだった。武器を持っている天使もいる。多くは槍を持っているが、或いは天界の兵士なのだろうか。
大きな建物の前に来た。
厳しい顔の、老翁の天使がいた。セレンに言われるまま、書類を作る。最後に拇印を押して、書類は出来た。
天使になったと言われても、実感は無い。
そもそも、みなはどうしたのか。輪廻の輪に帰ったのだろうか。
「俺は、これからどうすればいいんだ?」
「清らかな魂は、天使にスカウトされたあと、不公正が無いように別の天使に教育を受けて、一人前の天使となります。 今の貴方は天使の卵。 これから、教育を受けることとなります」
「……俺の故郷が、今、大変なことになってる。 天使は分かったが、どうにかできないのか」
「それも、師となる天使に相談すると良いでしょう。 天界は、あらゆる世界と接点を持つ、唯一の世界です。 必ずや、相談に乗ってくれるはずですよ」
セレンに言われるまま、転々と建物がちらばる中を歩く。
此処が天界のどういう場所なのかは分からないが、少なくともごみごみした印象は無い。
天使なのだ。彼方此方に自由に飛んでいけるのなら、確かに建物を密集させる必要は無いのかも知れない。
やがて、居住区らしい場所に出た。
流石に居住区は、開放的な建物では無く、白磁ながら箱状のものが並んでいる。入り口だけはあるが、それ以外は真四角で、大きさも殆ど同じだった。入り口には、半透明のドアがある。材質はよく分からない。
ある意味規則的すぎて、どこにいるのか分からなくなりそうだと、ミロリは思った。
表札を見ながら、セレンは言う。
「此方です」
「此処に、俺の師匠になる人がいるのか」
「人では無く、天使です。 とても気むずかしい方ですが、きっと貴方なら、一人前になる事が出来るでしょう」
表札には、よく分からない文字が書かれていた。
「天使長リレ・ブラウ! 新人を連れて参りました!」
「お入りなさい」
落ち着いた女性の声。
ドアは音も無く開いた。というよりも、ドアが音も無く消えて、中には入れるようになった。こういう所までも、魔術が使われているという事だ。
中に入って驚く。
明らかに、外で見たよりも、広い。空間がねじ曲げられているという事か。
とんでもなく広大な辺りには本棚が無数に並び、数名の天使が本を持って、忙しく行き来をしている。本もありとあらゆる種類があり、中には人間よりも大きなものさえもがある様子だ。
一番奥。
ネフライトの魔術師みたいな、藍色の三角帽子を被った女性がいた。美しい女性だが、目には落ち着きと、それ以上の厳しさが見て取れた。
驚いたのは、背中に翼が無い、という事だろうか。
「リレ・ブラウ。 この子が、新人になります」
「ふうん、特徴からして、イヴォワールの住人かしら?」
「ああ。 ミロリだ。 よろしく頼む」
しばらくミロリを見つめていたリレは、セレンを下がらせると、小さな杖を手にした。イヴォワールで魔術師達が使っている大きなものではなく、指揮棒程度のサイズしか無い。だが、今のミロリには、それがとんでもない力を秘めているものなのだと理解できた。
リレが杖を振るうと、本が数冊舞い上がり、ミロリの手の中に収まった。
「まずは、此処がどういう場所なのか、天使が何か、それを読んで学びなさい。 此処での学習効率は、地上とは比較にならないから、さほど時間も掛けずに覚えられるはずよ」
「分かった。 それで、一つ聞いても良いか」
「なあに?」
「あんたは天使には見えないが、本当に天使なのか?」
にこりと、リレは意味ありげな笑みを浮かべた。
基礎的なことを身につけたら、教えてやる。
そう言っているように、ミロリには見えた。
「まずは敬語を覚えなさい。 天使長「待遇」の私にそんな口を利いて許されるのは、新人の間だけよ」
やはり天使では無いのか。
ミロリは頷くと、まずは基礎的なことを覚えるため、渡された本と格闘することにしたのだった。
(続)
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