翼端の悲劇

 

序、日常と非日常

 

今日は、まだ何も無い。

マローネは静かな平穏の中、おばけ島の砂浜で、座ってぼんやりと遠くを見つめていた。

魔島の離島での死闘から、ひと月ほど、平穏な日が続いた。

おばけ島には、散発的に新しいファントムが来ては、カナンの手ほどきで輪廻の輪に戻っていった。それだけではない。仕事先でいろいろなファントムを見かけては、マローネはおばけ島に招き、そして輪廻の輪に帰る手助けをしていったのだ。

その結果、ひと月だけで、随分な数のファントムがおばけ島を訪れ、そして消えていった。

仕事の依頼自体は、相変わらずだ。たまにくる荒事の他は、輸送の仕事が多い。いずれも丁寧にこなして、日々の糧は充分に得られている。

中傷メールは、少なくともマローネが知る限りは、かなり数が減ったようだ。朝、アッシュが難しい顔で処分しているようなことが無くなったからである。毎日鍛錬も欠かしていない。

少し前から、ククリと呼ばれる少し長い刃物を渡されるようになった。ガラントに散々使い方を仕込まれたのは、身を守るためだ。持ち方、使い方、徹底的に馴染むように、毎日腰からぶら下げるようにと言われた。

以前使っていたナイフとは比較にならないほど大ぶりの刃物であり、切れ味も凄い。護身術の才能は無いと言われたマローネだが、これを使って守りに徹すると、少なくとも抑止力にはなる。

それと、コリンが言った。

「家を買うことにお金を使うことも無くなったし、杖を買ったら?」

「杖、ですか?」

「そうそう。 あたし達ネフライトが杖を持ってるのは、伊達や酔狂じゃ無くて、自分の魔力を増幅するためなんだよ。 マローネちゃんだったら、かなり良い杖を使わないと、杖の方が壊れちゃうだろうけど」

そういうコリンはと言うと、どこからか見つけてきたらしい杖を最近は使っている。ガラントの大剣を例に出すまでも無く、道具がファントムになると言うことは確かにある。昔はツクモガミと言ったらしいのだが、ある程度使い込まれたり、大事にされた道具は、魂を持つ。

実際に、ガラントが剣を振るっているのを見ると、それは事実だと分かる。

コリンはこの間、魔島の離島から戻ってきてから、杖を使うようになっていたから、彼処で見つけたのだろう。故郷だと言っていたし、家だった場所に、マローネが知らない間に足を運んでいたのかも知れなかった。

それにしても、コリンが使っているのは、節くれた木の、禍々しいデザインの杖だ。悪魔でも呼び出しかねない姿であり、これを手にしているコリンは、魔女という呼び名そのものの存在に見える。

ハツネはと言うと、屋根の上で、いつも弓の手入れをしていた。

声を掛けると降りてくるが、それ以外で他のファントムとはなれ合おうとはしない。それはヴォルガヌスも同じで、おばけ島の上を旋回していることが多かった。

コンファインしていたバッカスが、魚がたくさん入った網を抱えて、戻ってくる。カナンも一緒だった。

「食事にしましょうか」

「はい」

アッシュが、新聞と手紙を取って来てくれた。

テーブルを囲んで、アッシュとカナンと食事にする。バッカスは今更食事も無いと言って、またファントムに戻って、日陰で丸まっていた。

手紙の中には、カスティルの手紙もある。カスティルは、夢の中で、自分の足で外を歩いていたそうだ。

マローネは、この間の魔島での死闘で、本当の意味での自由を手に入れることが出来た。

忸怩たるものを感じてしまう。カスティルはとてもよい子なのに、どうしてこんな悲しい目に遭わなければならないのだろう。

実は今までに二度、癒やしの湖島を訪れて、カナンにカスティルを見て貰った。カスティルの両親は、マローネに合わせる顔が無い様子だったが、マローネは気にしていないと、その度に言った。

カナンの見立てでは、どうもカスティルの体には、おかしな部分が無いという。むしろ内臓などは丈夫な方だそうだ。しかし、全身の衰弱が止まらないのは事実で、それに引きずられるような形で、内臓もダメージを受けているのだとか。それには確固たる原因があるらしい。

その原因を分析できれば、治療は不可能では無いと、カナンは断言した。

問題は、その分析は、生半可な労力では出来ない、という事だ。

コリンにも見て貰ったが、どうも生物学的な問題では無く、呪術や魔術の要素が絡んでいる可能性が高いという。しかし、話を聞く限り、カスティルが誰かに恨まれるとは思えないのである。

「カスティルを、何とか助けてあげられないかな」

「難しいだろうね。 たとえばマローネが、カスティルのためにお金を出してあげるとする。 でも、それって、きっと二人の間におかしな溝を作るよ」

「……」

カスティルの父、サフランに話は聞いた。

驚くべき事に、カスティルの薬代は、月あたり六万ボルドーを超えているという。おばけ島位の島の相場を、二ヶ月で超えてしまうほどの金額である。会社のお金に手を付けない現状だと、相当生活を切り詰めないといけないようだ。そんなお金、マローネにだって用意は出来ない。

仮に用意できたとして、それをカスティルにつぎ込んで。それをカスティルが喜ぶとは思えない。

元々自分の無力感に苦しんでいることが、手紙の節々からうかがえるのである。どうにかして、根本的な治療方法を見つけない限り、カスティルは大人になる前に、天国に召されることになるだろう。

どうすればいいのだろうと、マローネは思う。

カナンが咳払いをした。

「今は、コリンさんも私もいます。 きっと治療法も見つかりますよ」

「そう、ですね」

ふと、気付く。

足下に、金色のボトルメールがいた。この意匠には見覚えがある。以前仕事を貰ったことがある、モルト伯のものだ。

ボトルメールを取り上げて、手紙を出す。前は全部アッシュがやっていたのだが、最近はマローネにも、信頼出来るボトルメールであれば最初に触らせてくれるようになってきた。

中には、久しぶりの荒事の可能性が高い依頼が入っていた。

「出来るだけ早めに雲島に来られたし、だって。 やっぱりモルト伯からよ。 食事が終わったら、すぐに出かけましょう」

「伯爵様の所に行くの?」

「ええ。 伯爵様はとても困っておられるようだし」

カスティルだけでは無い。困っている人は、世界にたくさんいる。みんなを出来るだけ助けていけば、いつかはきっとみんなから好きになって貰える。

マローネを差別迫害する人はいまだたくさんいる。

まだまだ、頑張らなければならない。

食事を終えると、皆に声を掛けて、おばけ島を出る。最近はヴォルガヌスの背中に乗ることが面白いのか、コリンはそっちにいる事が多かった。そして、当のヴォルガヌスは、晩年あまり体を動かせなかった鬱憤を晴らすように、今は飛べるときはずっと空にいる状態だ。

「あんな速い生き物に乗って、何が楽しいのか」

「ハツネさん、行きましょう」

「ああ、分かっている」

あまりボトルシップを飛ばさないでくれと、ハツネは文句を一つ言った。きっと素早い乗り物が苦手なのだろう。

ファントムになっても、こういう苦手なものは、なかなか克服できない。それを考えると、面白い。

それに、歴戦の猛者であり、戦闘では敵に一歩も退かない戦いぶりでいつも頼れるハツネの、可愛い部分だとマローネは思うのだ。

船を出す。

今、マローネは、帰るべき家を持っている。

ならば今するべき事は、更に攻める。それだけだ。

 

目を覚ましたウォルナットは、全身の酷い痛みに呻いていた。

マローネに負けた後、獣王拳団のメンバー達から徹底的なリンチを受けて、金をコールドロンに根こそぎ奪われてしまった。其処までは覚えているが、以降の記憶が無い。分かっているのは、あと少しで、ちゃんとした治療を彼奴に受けさせてやる事が出来たのに、全てが台無しになってしまったという事だ。

ベットの上で、半身を起こそうとして、失敗する。

当然のように、骨も何本か折れていたようだ。ようやく意識が戻ったというだけでも、御の字という所か。

此処は、何処か。

安宿の一室らしい。部屋に入ってきた奴がいる。

パーシモンだった。

親友は、険しい顔だった。手招きして、ネフライトのヒーラーを呼ぶ。初老の人間族の女性ヒーラーは、ウォルナットをてきぱきと診察し、回復術を掛けた後、言った。

「貴方、こんな無理をしていると、死にますよ」

「うるせえ。 知った事かよ……」

「この能力、全身に多大な負荷を掛けるものですね。 ほら、此処とか、筋肉が切れています」

腕を掴まれると、電撃のような痛みが走った。

悲鳴さえ上げられない。歯を食いしばる。冷や汗が流れる中、ヒーラーは冷たい目でウォルナットを見ていた。

「お金と心中したいなら、好きになさい」

「……畜生」

ヒーラーが出て行く。

パーシモンが、ベットの隣に、小さな椅子を出して座った。

「お前が意識が無いまま、この島の港で見つかって、その後三日間奔走したよ。 それで話は全部聞いた。 お前、よりにもよってあのコールドロンに喧嘩を売ったな」

「あと少しだったんだ。 あのガキさえ来なければ……」

「馬ッ鹿野郎っ!」

叱責するウォルナットの数少ない親友。彼は本気で怒っていた。

何度か殴り合いの喧嘩もしたことがある相手だが、それでも此処まで怒っている所を見るのは初めてだった。

「あのサメ野郎はな、本当に危険な相手なんだぞ。 その上主要な傭兵団にまで根こそぎ喧嘩を売りやがって。 俺だけじゃ無くて、クロームギルドのボスまで、何人もが関係各所に頭を下げて廻って、それでも関係悪化は改善できてねえんだ! 俺でも、もうお前には仕事を紹介するのが難しい。 もしも下手な仕事を回そうもんなら、クロームギルドの大失点になる。 それくらい、お前がやらかした事はでかいんだよ! でかい金が動いたからって、どんだけやばい橋を渡ろうとしやがったんだ、お前は! 命があっただけで、どれだけラッキーか!」

「ならば俺を放り出すか?」

「友達甲斐が無いことを言うな、阿呆。 しばらく休んでろ。 治療代は、貸しにしといてやる」

ただし、当分は裏の仕事どころか、荒事は一切紹介できないと、パーシモンは言った。だが、おとなしくしていれば、いずれまた仕事が回るように、取りはからってやるとも。

呻く。

そうなると、輸送や配達で、地道に稼ぐしか無い。

そんなことで、必要な金額など、稼げるわけが無かった。

だが、今は体が動かない。

最終的にはオクサイドをやるしかない。今度は、前とは比較にならないほど危険な賭になるだろう。だが、それでも。やらなければならないのだ。

寝ていると、熱が出た。酷使した体中が熱を発していて、何度もうわごとを呟いた。自分でもうわごとだと分かっているのに、止められなかった。

もう駄目だと思う。

絶望を感じた。どうしても、いつもの強気が沸いてこない。どんな悪徳に晒されても、食い破ってやろうというあの決意を、忘れてしまったかのようだ。

またパーシモンが来た。手際よく処置をしながら、呟くように言う。

「熱が上がってるな。 医師を呼んでくる」

「パーシモン、俺なんか放り出せ。 お前にこれ以上迷惑は……」

「そうはいかん。 俺にとって、お前は数少ないダチなんでな。 気弱になるな。 助けたい人がいるんだろう?」

「だがな……」

パーシモンは嘆息すると、視線をそらして言う。

「前に聞かせたか。 俺は剣の腕で知られるセレストの一門でな。 だが致命的に剣の才能が無くて、下野したんだ。 そんな俺だから、ダチも少ない。 人脈は広いが、それでも仕事上のつきあいだ。 心を許せる奴なんか、家族にだっていない。 お前を失うわけにはいかねえんだよ」

「……」

マローネは言っていた。

金を全てだと考えるのは、悲しいことだと。

許せないとおもう。だが、パーシモンが損得を超えて動いてくれているのを思うと、不思議と心に燃えさかる黒い炎が弱まっていくようだった。

だが、それではいけない。

ウォルナットにとって、世間は敵だ。ウォルナット自身を迫害したことは、別にどうでもいい。

だが、彼奴を迫害したことは、許せない。

一生、許すわけには行かないのだ。

「とにかく、今は寝ていろ。 医師を呼んでくる」

パーシモンは、部屋を出て行った。ウォルナットはパーシモンの温情に甘えそうな己の弱さに、反吐が出そうだった。

 

1、氷と雪の島へ

 

以前と同じく、モルト伯は雲島でも最も高級な店の一つで待っていた。以前と違ったのは、そこで同業者と鉢合わせたからだ。

確か、リエール。風の翼団の団長だ。鷹のような顔立ちの、オウル族の男性である。壮年と言うには、少し若いか。魔島の戦いでは、ガラントと互角の武勇を発揮して、激烈な死闘を行っていた。

慌てて一礼するマローネに、リエールはしばらく厳しい視線を向けていたが、静かに言う。精悍な顔をしているだけあって、結構怖い。

「貴方も来ていたか」

「あの、この間のことは」

「分かっている。 貴方が仕掛けた罠では無かったのだろう。 団員にも死人は出なかったし、よしとしよう」

使用人さん達に、一緒に部屋に案内される。

元々狭い通路で、なおかつ幅が小さい階段だ。オウル族は足も鳥に似た形状をしているからか、とても歩きにくそうにしていた。

部屋自体は以前と違った。二人で、並んで座る。

オウル族は足の構造からか、正座が苦手なようだ。何度かザブトンの上で苦しそうにリエールは足を動かしていたが、やがてモルト伯が来た。

モルト伯は、どうやら護衛か或いは秘書役らしい人間族の年老いた騎士を伴っていた。騎士が、てきぱきと机上に地図を広げていく。

見たことが無い島だ。多分アクアマリン地方の島のようだが。島の名前は、雪沼峠とある。

やはり聞き覚えが無い。仕事で行ったことも無いし、或いはセレストの個人所有として、外部からの立ち入りを制限しているのかも知れない。

「待たせたね。 早速だが、仕事の話をさせてもらいたい」

「よろしくお願いします」

「うむ」

地図をしばらく見つめていたモルト伯だが、若干深刻そうな口調で言った。

「実は、この島には、かって勇者スカーレット様が魔物を封じたのだ」

「魔物、ですか」

いわゆる怪物の中でも、特に桁違いに強い存在を、魔物という。

そう言う意味ではサルファーも魔物に分類される。もっともサルファーの場合は、魔物と呼ばれるような強力な怪物よりも、更に桁違いに力が上だが。

「そうだ。 正確には魔法生命体らしいのだが、詳しいことはよく分からん」

「ゴーレムかも知れないね」

コリンがマローネに教えてくれる。

ゴーレムとは、土塊に命を吹き込み、兵士や見張りとして仕立て上げた存在だという。簡単な命令に従って行動を行うため便利で、ネフライトの中には専門の技師も存在するらしい。きちんと管理していれば、危険な存在では無いと言う。

問題は、作り主が命令を与えたまま放置しているようなゴーレムだ。そういったゴーレムは、無差別攻撃を繰り返す危険な怪物と化す可能性があると言う。

特に強力なゴーレムになると、気候を変動させたり、一軍を相手にしたりも出来ると、コリンは言った。

「その魔物の封印が、解けてしまったかも知れないのだ。 それを君達には、調査して欲しい」

「調査だけで、腕利きのクロームに、我ら風の翼団を?」

「それだけ危険な魔物と言うことだ。 もしも封印の解除が確認されたら、即座に撤退して欲しい。 後はこの時のために用意していた私の部隊と、それに更に傭兵団を増員して対応する」

リエールが腕組みする。

「分かりました。 すぐに取りかかります」

「頼むぞ。 くれぐれも無理はしないように」

礼をすると、マローネはリエールと一緒に、伯爵の前から退出した。

リエールに言われて、そのまま港近くの小さな店に場所を移す。打ち合わせをしなければならないからだ。

小さいと言っても、多分傭兵団やクロームが打ち合わせをすることを想定しているのだろう。内部はくつろぎやすい喫茶となっており、防音の術式を展開するサービスも行っているようだ。

煉瓦造りの、シックな作りの店である。リエールはこういう店に入り慣れているのか、案内されるまま奥のテーブルに。

其処には、風の翼団の幹部らしいオウル族の戦士や術者が、何名か集まっていた。

ネフライトも抱えているという事は、かなりの規模の傭兵団だ。前回の魔島でのいざこざでは、全戦力を投入していなかった、ということだろう。

「団長、そちらは」

「前回の魔島での戦いで、私を負かしたクロームのマローネ殿だ」

「……!!」

敵意に満ちた視線が、多数マローネに突き刺さる。眉根を下げて困り果てるマローネに、リエールが助け船を出してくれた。

「彼女は何一つ卑怯なことはしていない。 負けたことは私の力不足によるものだ」

「団長がそう仰るなら」

「会議を始めるぞ。 まずは、今回の任務についてだが……」

敵意を緩和してくれたリエールは、紳士的な態度だった。

マローネを貶めようとか、論破しようとか、そんな雰囲気は無い。この会議で、作戦が成功するか失敗するかの決め手にもなるから、皆一気に真剣になった。

リエールは、まず全体的な任務について説明。提供された地図から、封印地点への行動ルートに加え、防寒服の手配を指示していた。

そういえば、マローネもこの服だけでは厳しいだろう。

雪沼峠の島は、かなり寒冷な場所だと、マローネはさっきモルト伯に聞いた。今は幸い、多少の出費は許される状態だ。雲島を出る前に、防寒着は買っておいた方が良さそうだ。その時は、ガラントに指示を受けて、しっかりしたものを買わないと危ない。

「しかし魔法生物というと、ゴーレムでしょうか」

「強力なものになると、天候をも変えるというあれですか。 なるほど、確かに偵察任務にこれだけの戦力を動員するだけのことはありますな」

「マローネ殿は、何か意見は?」

「えっ! ええと、はい!」

不意に話を振られて、マローネは背筋が伸びる。

周囲の視線も集中して、見る間にマローネは真っ赤になるのを感じた。こういう空気には、慣れていない。

「その、何も問題は無い、と、思います」

「そうか、ならば翌日の早朝、現地のこの東側海岸に集合。 その後、此処にある集落で情報を収集し、それから出発する」

「なるほど、理想的だな」

てきぱきと、リエールが決めた。腕組みしたまま、ガラントが、その様子を褒めていた。

店を出ると、そこでやっと別行動になる。

凄く疲れたマローネは、服屋さんに向かう前に、ベンチに腰掛けて、ぐったりした。集団行動は苦手だ。いつも作戦とかはアッシュやガラントが決めてくれるから、マローネは採決だけで良かった。

だが、今後力を付けてくると、傭兵団や、複数のクロームでの連携ミッションも増えてくるだろう。

今のうちになれておかなければならない。

「大丈夫かい、マローネ」

「うん。 平気だけど、疲れたわ」

「リエールという男、まだ若いのに良く傭兵団を統率していたな。 あの男のように振る舞っていると良いかもしれんぞ」

「分かりました、ガラントさん」

少し休んで、気分転換してから、服屋さんに。

耐寒装備で注意すべき事をガラントから聞きながら、揃えていった。

ガラントが言うには、体が出来るだけ露出しないようにすることが、耐寒装備の基本だという。

指や耳などは、外気に触れるのは絶対に避けなければならない。凍傷になると指を失うこともあると言う。

靴なども新調した方が良いと言われたので、見繕って貰う。分厚い毛皮で覆った重たい靴を買う。幸い、足にぴったりのものが売られていた。

「アッシュは大丈夫?」

「ファントムになってからいろいろなものを失ったけど、熱を感じる力もその中に入っているよ。 大丈夫、寒さは平気さ」

「そう。 ごめんなさい」

「気にしなくてもいいよ」

動物の毛皮から作ったコートを、幾つか見繕う。デザイン的には良さそうなものもあったのだが、ガラントが言うには寒さが中に入ってしまうような構造は絶対に駄目だという。

手袋についても、分厚いものを買う。指を守るためには、毛皮でしっかり遮熱をしなくてはならないそうだ。

マローネの痩せた体を一瞥して、ガラントはなおも言った。

「もう少し太った方が良いかもしれないが、それは仕方が無いな」

「ああ、皮下脂肪?」

「軟弱な。 鍛え方が足りないから、そんなものに頼ることになる」

「魔界生物のあんたと、人間を一緒にしちゃ駄目だよ」

ハツネが脳筋的な思考をすると、コリンがそれに冷静な突っ込みを入れた。実際問題、此処とは比較にならないほど環境が悪い魔界で暮らしていたのなら、多少の寒さなら何でも無いだろう。

それよりも、寒さ対策として太った方が良いという提案の方が、マローネには問題だった。前からデリカシーなど欠片も気にしないガラントだったが、ちょっとそれにはげんなりしてしまう。

一通り防寒具は調えた。

後は、水筒も毛皮で包んだ方が良いと言われたので、それも買いに行く。他にも細かい装備類を揃えていくと、前金の三割ほども使ってしまった。今回の任務は厳しいことになりそうだから仕方が無いが。

今後寒冷地帯の島に出かけるときの、先行投資と割り切って、諦めることにする。

それに、今回は。損得を抜きに、マローネには良い仕事だ。

「ねえアッシュ、同じ人から仕事が来たのって、輸送業とかを除くと、初めてよね」

「ああ。 しかもあの伯爵様はとても良いお客だ」

「あんな人に信頼して貰ったら、とても嬉しいわ」

今回は頑張らなくちゃと言いながら、マローネは港へと歩く。身軽なことが、マローネにとってはこういう場合ありがたい。

港で荷物を整理して、ボトルシップに詰め込む。

その後、防寒靴を履いて、少し周囲を歩き回った。いきなり履いて靴擦れを作らないようにするための処置だ。

それを終えた後は、ストレッチ。

ボトルシップから降りると、いきなり寒い島に出ることになる。少しでも体を温めた方が良いというのが、ガラントのアドバイスだった。

風の翼団も来た。

今回は40名ほどを動員するようだ。かなりの人数のオウル族が、ぞろぞろボトルシップに乗り込んでいく。ボトルシップも、マローネのものとは比較にならないほどに大きい。掲げている旗は梟をかたどっていて、緑で染め抜いていた。

「そろそろ、私達も行きましょうか」

「ああ、そうしよう」

雲島を、船で出る。

此処から現地までは、四半日ほどかかる。途中、何度か仮眠を取った方が良いなと、マローネは思った。幸い途中の海域は安定している。今回は相当に危険な相手との戦闘も想定されるし、それが良いだろう。

「雪沼峠の島か。 儂が昔、少しだけ行ったことがあるのう」

海上で、思い出したらしく、ヴォルガヌスが朗々と言う。アッシュは少し呆れていた。

「ヴォルガヌス老、もっと早くその事を思い出してくれていれば、会議などで話が出来たのですが」

「すまんすまん。 だが、行ったと言っても、少し顔を出したくらいだ。 その頃は、だが魔物などはおらんかったな。 確かええと、人間の基準で言うと、百二十年ほど前だったか」

「モルト伯はウサギリス族だから、寿命は百年を遙かに超えているはずです。 あのご老体から考えると、モルト伯の時代に現れた魔物という可能性が高そうですね」

或いは、スカーレットが封印したという話通り、30年程度しか歴史の無い魔物なのかも知れない。

ガラントが首を捻る。

「そうなると、サルファー来襲の時代真っ盛りの頃だな。 混乱が続いていた時代だし、ゴーレムの正体を推察するのは難しいか」

「魔界でも、お前達がゴーレムと呼ぶ存在については一般的だ、いやだった、だな。 首都の方では、魔界の術者達がそういった生体兵器を作っていたらしいとも聞いている」

「戦いが避けられそうに無い場合、何か対策はあるの?」

「基本的に、強くてもまがい物の生き物だからね。 普通の生物の急所になるような場所は、攻撃しても駄目だよ。 心臓とか頭とか。 代わりと言っては何だけど、多分魔力の制御装置があるから、それを壊せば止まると思う」

コリンは死ぬと言わず、止まると言った。

マローネが困るのを見て楽しむ傾向があるコリンがそう言うのなら、多分本当にゴーレムは生き物では無いのだろう。

だが、そもそもゴーレムということ自体が、類推に過ぎないのだ。

これ以上の話は、無意味かも知れない。

船が沖合に出ると、皆が静かになった。あまり喋っていても仕方が無いと、思ったからだろう。

ふと、気付く。

隣を航行しているオウル族のボトルシップの上から、此方を見ている視線を感じたのだ。しかも、ファントムの。

もしも輪廻の輪に戻りたいと思っているファントムなら、手伝ってあげなければならない。

広い航路に出て、安定したところで、マローネは仮眠を取ることにした。

向こうについて、休む時間はある。

だが宿を確保できるか分からないし、今のうちに休んで、体力を蓄えておく必要があるからだ。

何度か仮眠を取りつつ、長い航路を行く。

途中、幾つかの島を通り過ぎて、アクアマリン地方に。この辺りは不思議と寒冷地の島が多く、海でも流氷が漂っていることがある。

当然危ないので、もう仮眠は禁止だ。

それだけではなく、夜間の航行も避けた方が良い。夜間では、水面下にある流氷に気付きにくく、座礁する可能性が出てくるからだ。マローネの船の場合、流氷などにぶつかったら、ひとたまりも無い。

海をのぞき込んでみると、非常に深い青だ。魚では無く、無数のクラゲが泳いでいるのが見えた。クラゲはどれもとても大きく、中にはマローネのボトルシップより大きいものまでいるようだった。

鯨もいる。海の透明度がとても高いので、かなり深いところまで見える。鯨は悠然と泳いでいて、周囲の小さな者には全く興味が無い様子だ。或いは、おなかが一杯なのかもしれないが。

雄大な自然に圧倒されながらも、マローネは目的地へ急ぐ。

海図を見ながら、位置を確認。もう目的地の島は、すぐ側だ。

水平線の向こうで、陽が沈もうとしていた。完全に陽が落ちる前に、目的地に辿り着いておきたい。もう少しマローネは、速度を上げた。

 

海の上でも、既に寒かったが。上陸すると、その異様な寒さは、肌身にしみるほどになった。

早速買い込んだ防寒着に身を包む。ガラントに言われたように、空気が外に漏れないように、入らないように注意。更に、途中でカナンに教わった術式を展開。

体の周囲を、柔らかく熱の幕で包む術だ。

熟練者になると、これだけで防寒着がいらなくなると言う。マローネが使っているのは、どうしても必要な顔の周囲だけを覆う術式で、他の部分は、毛皮を通して寒さが伝わってくる。

集落に行くと、既にリエールがいた。

リエールは二人、女性の術者を連れて聞き込みをしていた。分厚い羽毛に覆われているからか、彼らの防寒着はマローネが着ているものよりも薄い。

また、この島には、ウサギリス族がかなりの数いる。彼らに至っては、体そのものが毛皮だからか、更に着ている防寒着も薄かった。

「来たか。 此方は私が聞き込みをする。 君はあの辺りの集落を担当して欲しいのだが、頼めるか」

「分かりました」

分担を向こうが決めてくれたのは、マローネとしてはありがたい。

警戒心丸出しで見ているリエールの護衛にも一礼すると、そそくさとその場を後にする。出来れば、無意味な争いは避けたい。今、彼らの信頼を得られる方法は無い。むしろ、信頼を失わないように、丁寧に接していくことだけが、今のマローネに出来ることだった。

奥の方の集落に行くと、ウサギリス族の青年達が、ひそひそと話し合っていた。

マローネはよそ者だから、どうしても目立つ。物珍しいからか、青年が一人、近づいてくる。

「あんたも、風の翼団の仲間か? でも人間族だな」

「はい。 この件で雇われたクロームの、マローネと言います」

「クローム、その年で? てことは能力者か?」

「はあ、まあ」

ひそひそと、後ろで話をしているのが聞こえる。

マローネという言葉が聞こえた。知っているのだろうか。もし知っているとすれば、あまり良い意味で、では無いだろう。

少し前に、新聞でまたマローネのことが載った。魔島での大規模戦闘がニュースになったのである。

そして、その記事の一つ。あのフィルバートと言う記者が、複数関係者の談話として、重要人物として戦闘にマローネが関わっていたという話を載せたのだ。今回は、マローネという名前を、もろに挙げていた。

それを調べ上げたのも凄いが、だがマローネとしては、これで更に悪評が広がるのでは無いかと、冷や冷やしていた。この記事に対して、カスティルがものすごく怒っていたが、それは友達としてとても嬉しい事ではあった。

「あんたも、あの恐ろしいほこらに行くのか?」

「ほこら、ですか」

「そうだ。 バケモンを勇者様が封じたほこらだよ。 あっちでも聞かれてるみたいだから知ってることは全部言うけど、最近何かあったらしくてよ、道中は化け物が出るわ、変な叫び声は聞こえるわで、村の奴らはみんな近づかねえ。 それに最近は異常に寒くてよ、地元の人間でも遭難しかけたりして危ないから、絶対に村からでない有様よ」

「村から出られないほど危ないんですか?」

青年はそれだけじゃないという。

ここしばらくは、村の近くまで、怪物の姿が見かけられるようになってきたという。モルト伯が派遣してくれた軍は毎晩出動しては、村の近くにいる怪物を退治してくれてはいるが、けが人が絶えないという。

「しかも、だ。 怪物はどんどん強いのが出てきてるみたいでな、軍の連中もそろそろ村からみんなを逃がした方が良いかもしれないとか考えてるらしい」

「ええっ」

「傭兵団でもクロームでもいい。 出来るだけ早くどうにかしてくれよ。 この村は確かに田舎で辺鄙で産業も無いけどよ、生まれ育った場所なんだ。 怪物のせいで追い出されるのは、つらいよ」

「分かりました。 頑張ります」

頼むぜと言うと、青年は仲間達の間に戻っていった。

風の翼団の人達と、合流する。風の翼団のボトルシップに入れて貰い、中で会議をすることになった。

流石に傭兵団が使っているボトルシップである。中には居住スペースだけでは無く、会議をする場所もある。武器庫や食料庫、お酒をたくさん集めている場所もあるようだった。古い軍艦を譲り受けたのかも知れない。

会議室の壁には、風の翼団の旗が掛かっていた。丸テーブルに着く。リエールは、自分の左となり、普通はゲストが座る席に、マローネを案内してくれた。この辺りは、リエールがとても紳士だと言うことが分かって、少しばかり嬉しい。

情報交換をするが、さっき聞いた以上の目新しい話は無かった。

ただし、深刻な事態である事に、変わりは無かったが。話を一通り聞き終えると、リエールは唸った。

「これは、調査するまでも無く、もう化け物とやらは復活しているんじゃ無いのか」

「まだ、ひょっとすると封印は解けていないかも知れません。 現地を見れば、封印しなおせる可能性もあります」

「どうだろ」

オウル族のネフライトの言葉に、ぼそりとコリンが呟く。

ファントムは、マローネの側にいると、周囲に物理干渉能力を限定的に得られる場合がある。今の声も周囲に聞こえていたようで、リエールは眉をひそめて周囲を見回した。

「いずれにしても、一刻を争う事態なのは確かだ。 明日の早朝、出発しよう。 幸いこの島はさほど大きくない。 早朝に出れば、何もトラブルが無ければ、昼前には現地に着くだろう」

問題は、トラブルがあった場合。

そして今回は、そのトラブルが、ほぼ確実に発生する。村の近くまで怪物が出現しているくらいである。道中は、歴戦の傭兵団でも手こずるくらい、怪物が襲撃してくるのは疑いない所だ。

「今回は我が傭兵団から二個小隊が参戦している。 それにマローネ殿がいるから、戦力は三小隊分と考えて良い」

「え? クローム一人を、一小隊としてカウントするんですか?」

「ああ。 それだけの戦力は充分以上に備えていると、私は見る」

この場にいる風の翼団幹部達の反感と興味がない交ぜになった視線が、マローネに降り注いだ。

恐縮して、身を縮めてしまう。

リエールがマローネを高く評価してくれるのはとても嬉しいが、やはりこういう大人数での反発は体に応える。今まで、迫害を散々受けてきたからだろうか。やはり怖いと感じてしまうのだ。

だが、此処は我慢だ。

さっき話したウサギリス族の青年を例に挙げるまでも無く、今回は多くの人達が、本当に困っている。

「そこで、二チームがアタック、一チームが支援。 この体勢をローテーションしていく事で、現地までの道を効率よく開く。 現地に到達したら、状況を見て、調査を行う」

「調査ならあたしもやろうか?」

「……?」

「マローネ、コンファインして」

言われるままに、マローネはコリンをコンファイン。

形を取ったコリンに、周囲の人達は、誰もが驚いた。一度コンファインを見ているリエールさえ、眼鏡を直したくらいである。

「えー、ネフライトの魔術師、コリンです。 マローネちゃんを守る護衛の一人ですよ」

「そ、そうか。 しかし、凄いな……」

「我々もネフライトの魔術師だ。 調査なら……」

「多人数の方が効率が良いでしょ? それに今回、現地に辿り着いたとき、魔術師が無事だって言う保証はどこにも無いんじゃ?」

周囲がざわめく。

アッシュが、頭を抱えていた。コリンはどうしてこう、反発をいちいち買うような言い方をするのだろうか。

咳払いしたリエールが、皆をまとめてくれた。

「確かに今回は危険な任務だ。 調査が行える魔術師は、多くいた方が良い」

「しかし、団長」

「魔島での醜態を忘れたか? 連携が取れなければ、どんな大兵力でもまともには機能しないものなのだ。 此処の何名かも、あのとき同士討ちを止められなかっただろう」

それを言われると、風の翼団の幹部達も弱いようだった。

会議はそれで終了となる。マローネは第三集団扱いとして、最初は支援に徹し、次からアタックチームに加わる編制として決まった。

元々マローネには指揮能力は無い。ガラントに色々教わってはいるが、それでもまだとてもこんな人数を指揮できる状態には無い。

リエールが周囲をまとめるのは当然のことで、マローネは一小隊分の扱いを受けるだけでも、破格と言えた。

だから不満は無い。

会議室から、風の翼団の幹部がぞろぞろと出て行く。皆が出ると、リエールが、声を掛けてきた。

「マローネ殿」

「はい、なんでしょうか」

「ガラント殿はおられるか」

「います。 今、コンファインしますね」

一旦コリンにファントムに戻って貰い、側の椅子にガラントを代わりにコンファインする。

コンファインされたガラントは、しばらく肩を掴んで腕を回していた。調整は十分、という所か。

「以前は手合わせ、有り難うございました。 己の未熟を思い知った次第です」

「何、貴殿も現在を担うに相応しい有能な戦士だ。 俺も何度も冷や汗を掻いたぞ」

「恐縮です」

なにやら難しい話を始めたので、マローネは邪魔にならないように、隅っこの方に移動する。

世間話をした後、ガラントとリエールは、作戦の展開について、細かい話を始めたようだった。編制について、それにローテーションの回転についてのタイミングなど。いずれも、専門家で無いと分からない話だった。

マローネに理解できた部分はと言うと、援護に入っている部隊と、アタックチームとの間で、負傷者のやりとりを行うと効率的だ、という内容だった。要するにアタックチームからでた負傷者を援護部隊が引き受け、援護部隊から柔軟に人員をアタックチームへ派遣すると。

そして交代する前に、援護部隊のヒーラーが、負傷者を出来るだけ回復していく。

なるほど、確かにローテーションを上手に使った戦い方である。

よほど部隊が上手に組織化されていないと出来ないような気もするが、リエールならそれくらいは出来そうな気がした。戦略も戦術も素人のマローネから見ても、リエールは優秀な指揮官である。

もしかすると、リエールは戦士としてよりも、此方の方が向いているのでは無いかと、思えるほどだ。

一通り話を終えると、ガラントはコンファインを解除して欲しいと言ってきた。

ガラントのコンファインを解除すると、今度は別の要件があると、リエールは言う。

「マローネ殿、君は幽霊が見えるのか?」

「はい。 ファントムだけでなく、一応は悪霊も」

「そうか。 実は今、この船で幽霊騒ぎが起きていてね」

ああ、多分あの視線の主だろうと、マローネはぴんと来た。

未練が強いファントムになると、ある程度の物理的干渉能力を持つ事がある。船の中で、何か悪さをしていたのかも知れない。

ファントム同士になると、互いに干渉能力がある。

アッシュを見るが、首を横に振る。見ていないと言うことか。

「私も、さっき視線を感じました。 ファントムはいると思います。 でも、悪意のあるファントムだとは思えません」

「そうだな。 目撃者の話によると、どうも子供らしい。 君よりも年下に見える女の子のようでな。 ちょっとしたいたずらを繰り返しているそうだ」

子供のファントム。それは気の毒な話だなと、マローネは思った。

基本的にファントムは、この世に強い未練が無いとなる事が出来ない。殆どの人間は、死んだときに輪廻の輪にそのまま魂を戻してしまう。この世がファントムでいっぱいにならない原因がそれだ。

ファントムになっても、殆どの場合はそのうちに悪意や未練が霧散して、やがて輪廻の輪に自分から戻っていく。未練が強いファントムでも、何千年もこの世に残っている例は殆ど無いと、以前おじいさんのファントムから聞いた。

子供の場合は、更に簡単な場合が多い。

たとえば、親に愛されなかった子供のファントムの場合、一緒に遊んであげたり、優しく接してあげるだけで満足して輪廻の輪に戻っていくこともある。憎悪と敵意をため込んだ悪霊に近い状態でも、それは同じだ。厄介なのは、自我が芽生える更に前、赤ちゃんの頃に命を落としてしまったファントムだが、それでもマローネがおばけ島に連れて行って、カナンが一緒に過ごしてあげれば、それほど長い時間を掛けずに輪廻の輪に戻してあげることが出来るだろう。

「兵士達も、悪霊では無いかと怖れている。 君がどうにかしてあげられないか」

そう言われると、心苦しいものがある。

この世界で悪霊は、非常に恐怖を誘うものなのである。むしろそのファントムが可哀想だ。

術者の中には、限定条件でファントムが見える者もいる。そう言う人に攻撃されたりしたら、きっと酷いことになってしまう。

「分かりました。 私がすぐに連れて行きます」

「ありがとう。 これに関しては、別口で報酬を支払うよ」

リエールに一礼すると、会議室を出た。

甲板に出ると、皆が集まってきた。人目がある中でファントムと会話すると、色々と問題も送りやすい。

物陰に移動してから、皆に話を聞いてみる。

「私達以外のファントム?」

「ええ。 心当たりはありませんか?」

「私が見たよ」

さっそくコリンが楽しげに言った。コリンの話によると、マローネより二〜三歳ほど年下に見える人間族の女の子で、しかもファントムになってから時間が無さそうだったとか。

コリンは意地汚く船の設備を見て廻っていたらしく、武器庫や倉庫まで漁ったそうだ。その時、倉庫の奥で、膝を抱えて座っているその子を見かけたらしい。

「ロングヘアの可愛い子だったよ。 アッシュが大喜びしそうな」

「はい?」

「どゆこと?」

アッシュとマローネが同時に小首をかしげる。アッシュが可愛い女の子が大好きだなんて話は、初めて聞いた。多分アッシュもそれは同じだったのだろう。

呆れたように苦笑いしているのはカナンである。ガラントは咳払いすると、くだらないことを言うなと、視線でコリンを刺す。バッカスは最初から興味が無さそうで、側を飛んでいる蠅を見ていた。

コリンは意地汚く笑うと、案内してくれた。

倉庫はひんやりしていて、中には食料が大量に積み込まれていた。歩哨がいたが、ファントムの話をすると、顔色を変えて中に入れてくれた。

この世界で、悪霊はそれだけ怖れられているという事だ。

確かにいる。上下が一体になっている、ワンピース型の服を着たロングヘアの女の子だ。マローネを一瞥だけして、すぐに視線をそらしてしまう。

側で腰を落として、視線の高さを合わせた。

「こんにちは。 私、マローネと言います」

「あたいが見えるの?」

驚いたように、女の子が顔を上げる。

どうも舌足らずらしく、自分をあたいと言っている。顔立ちはとても整っていて、栄養状態も悪く無さそうだ。

見たところ、不幸な事情でファントムになった訳では無さそうで、マローネはほんの少しだけ安心した。

たとえば、親に虐待されてファントムになったような子供の場合、気の毒なぐらいやせこけていることが珍しくないし、心の傷が体中に現れていることも多い。

この子の場合、格好はしっかりしているし、年上の人間を怖がってもいない。そればかりか、まだファントムと人間の区別が、あまりついていないようだ。

「ん? この子ネフライトかな」

「そうなの?」

「うん。 あたいネフライト。 魔導合成師のパレット」

「魔導合成師か。 これは面倒だなあ」

コリンが口にした魔導合成師というのは何だかよく分からないが、話は後で聞けば良い。

船の皆が怖がっていること、マローネの周りには同じ境遇のファントムが一杯いるから寂しくないことを、ゆっくり伝えていく。

最初は疑心暗鬼だった様子のパレットは、マローネの周囲にたくさん同類がいる事に気付いたのだろう。何よりマローネが、自分を見ることが出来る事が、信頼の要員となったらしい。

この子も気付いていたはずだ。周囲の人間の殆どが、自分を見ることが出来ないことに。

手を出すと、半信半疑だが、それでも掴んでくる。

手をつないで、一緒に倉庫を出る。マローネより少し年下に見えるとコリンは言ったが、話してみた感触では、それはどうだろう。元々マローネは発育が悪く、実年齢よりかなり年下に見えると言われる事が多い。逆にこの子はネフライト出身だから、栄養状態はとても良かったはずだ。

そうなると、実はかなり幼いのかも知れない。

だとすれば、気の毒だと、マローネは思った。

リエールに、ファントムを見つけたこと、連れて行くことを告げる。一応念のため、他にもファントムがいないか船の中を探ったが、いなかったことも告げておいた。

「流石だな。 後で別口に報酬を支払わせていただく」

「いえ、そんな」

「船に乗っていた皆の不安を取り除いてくれたことは大きい。 感謝の印として、受け取ってくれ」

そこまで言われると、マローネも断ることが出来なかった。

 

外では、風の翼団の人達が、野営地の建設をはじめていた。

村の一角を借り受けたらしく、其処に天幕を張り始めている。マローネも使って良いと言われたが、ボトルシップの中で寝る方が慣れているので、そちらを使うことにした。本当は風の翼団の人達ともっと話をしたかったのだが、これから戦闘があるのだ。コンディションはベストに保っておきたい。

夕方、村を守っている軍部隊と、リエールが会合を行うことになった。情報の交換が目的である。マローネも参加して欲しいと言われて、村で買い出しをしていたのを中断して、そちらに出る事となった。

出撃前の、最後の調整である。

村の護衛は、合計で30名ほど。ただし前はその倍の人数がいたという。

隊長は年老いたウサギリス族の軍人で、もう弓も引けないほどに衰えている様子だった。それを見てリエールは眉をひそめた。

「遠いところ、良く来てくださった」

「いえ。 それよりも、ご老体。 話を聞かせていただきたく」

「おう、おう。 そうであったな」

地図を広げると、隊長が色々と話をしてくれる。それを、順番にリエールが聞き返していった。

「なるほど、怪物は主に大きな動物が主体ですか。 フェンリルにギガビースト、エリンギャーも」

「この村の周辺に来るのは、そのくらいですなあ。 噂によると、この島には昔とんでもなく大きな蛸がいたとかで、それが出てきたら面倒かも知れませんな」

フェンリルは知っているが、残りの二つはマローネには分からなかった。

アッシュが耳元で教えてくれる。

「ギガビーストは岩が歩いているみたいな、大形で重厚な草食獣だよ。 ただし気性が非常に荒くて、人間を見るとなりふり構わず攻撃してくることが多いみたいだね」

「エリンギャーは?」

「キノコが立って歩いているような姿をした者達だよ。 普段はあまり戦闘的ではないけれど、身体能力はかなり高いらしくて、油断したクロームが一撃でのされたって話も良く聞くよ」

「この世界にもエリンギャーがいるのか。 彼奴らはどこにでも生息しているな。 たくましい奴らだ」

そうぼやいたのはハツネである。

ハツネの言葉が正しいとすると、彼女が前にいた魔界にも、エリンギャーがいたのだろう。魔界でも生きられる、強靱な種族と言うことになる。

「噂ですが、サイクロプスがいるという話も」

「ふむ、それは面倒ですな」

「ほこらの辺りで、そんな影を見たという話があるだけですがのう。 何にしても、勇者様の封印はもう解けとるじゃろうってのが、村の者達の一致した見解ですじゃ。 何しろ、村を守るだけで負傷者が続出で、既に戦える人数は半分をきっておりますでな」

「この風の翼団団長リエール、誇り高き空の翼の名にかけて、どうにかいたしましょう」

サイクロプスと言えば、マローネも知っている、伝説級の怪物だ。魔物として分類する方が多い。

サイクロプスも気になったが、今はそれよりも、敵の戦力分析だ。

リエールが話を進めて行くが、どうも怪物の数は相当に多いらしい。この小さな島には不釣り合いなほどの数の様子だ。

そうなると、ほこらに辿り着くだけで、相当に大変だろう。

場合によっては遭難を見越して、ビバークの準備が必要かも知れない。こういう用語については、マローネは船でこの島に来る途中、ガラントから聞いたので知っていた。

「怪物の頭数を削るだけで、大きな意味があるな」

「元々、あの怪物達はこの島にいた者達だとは思えないのです」

「その可能性が高そうだ。 この島の生態系のキャパシティを明らかに超えている」

ふと、隣を見ると。

何故か悲しそうに、パレットがうつむいていた。

どうしてかは、マローネには分からなかった。

いずれにしても、出撃については、予定通りに決まった。現状の戦力で、どこまで行けるかの勝負になる。

最悪の場合は、引き返す。

リエールがそう宣言してくれたので、マローネは少しだけ安心した。

 

2、極寒の戦い

 

早朝。

毛布にくるまってボトルシップの中で寝ていたマローネが起き出すと、周囲は完全に銀世界だった。

家々は白く積もった雪に包まれ、まるきり氷菓子である。

これが、戦いに来ているので無ければ、思わず見とれてしまうほどに美しい。遠くに見える山も、真っ白で幻想的なまでに美しかった。

冷気を緩和するための術式をコリンがかけてくれていたのだが、船を出ると一瞬で寒さが全身を包む。

防寒着を着てこなければ、この場で凍えてしまっていたかも知れない。

服の中に寒気が入ってこないように、もう一度念入りに服の状態を確認。手袋や靴の状態も確認してから、野営地の方に向かった。

風の翼団は、既に出撃の準備を整えていた。

驚いたのは、かなり軽装の人が多いことだ。オウル族は暖かい羽毛で全身を覆っているためか、ウサギリス族同様に、かなり寒さには強いらしい。ただし、眼鏡はいつものと違って、ゴーグルみたいな重厚なのをつけていた。

「アッシュ、凄い眼鏡だね」

「元々オウル族は光には弱いからね。 雪の照り返しは、人間にとっても有害なくらいだから、彼らには必須なんだろう」

鐘の音が響く。

野営地の中では無い。どうやら、軍が鳴らしているようだ。

怪物の襲撃だろう。リエールが側近達と出てきて、団員達を見回した。

「行きがけの駄賃だ。 叩き潰していくぞ!」

「おうっ!」

勇ましい雄叫びが上がった。

手に手に武器を持った風の翼団の団員が、ぱらぱらと整列する。マローネはどうしようかと迷ったが、リエールに手招きされたので、その側に立った。所在なくて、少し不安である。

「では、予定通り、A集団B集団でまずは攻撃を行う! マローネ殿はC集団として、支援をお願いしたい!」

「分かりました!」

「よし、戦闘を開始する! GO! ATTACK!」

村の外での戦闘音は、徐々に大きくなっていく。

どっと駆けだしていくオウル族の戦士達に続いて、リエールは悠々と村の門を出て、外に。手にしている凄い槍は、獲物を求めているかのように、雪の照り返しで何度も光を放っていた。

マローネも続いた。既にいつ怪物に襲われてもおかしくない状態である。

「アッシュ、何だか不安だね」

「今後の事を考えると、味方がいる戦闘での組織戦には慣れた方が良い」

「僕もそう思う。 大勢の人が周囲にいると落ち着かないかも知れないけれど、これは進歩だよ、マローネ」

ガラントとアッシュが口々に言った。確かに言われて見れば、その通りかも知れない。

緊張で少し遅れたが、カナンとハツネをコンファインする。護衛にバッカスかガラントと思ったが、今は良いだろう。

上空を旋回していたヴォルガヌスが、相も変わらず朗々と言った。

「敵の数は十前後、というところじゃのう。 今のところ、優勢に戦っておるわい」

「全然見えないですね」

背伸びして、遠くを見ようとするマローネだが、ときの声しか聞こえない。

大きな爆発音。味方の術者が、何かぶっ放したのだろう。

コンファインが終わった。ハツネが、何かとんでもないものでも見るかのように此方を見つめているリエールの護衛を無視して、後方に下がる。殿軍を勤めてくれるという事なのだろう。

カナンはリエールに一礼。丁寧に挨拶をしている。難しい会話だったので、マローネにはよく分からなかったが。リエールも紳士的に応対している様子だ。

話を終えると、リエールが護衛の者達に言った。

「もう少し前線に出よう」

「分かりました」

「負傷者です!」

前線から、負傷者が送られはじめる。

何人か、手酷い怪我をしている様子だ。早速カナンが、担架で運ばれてきた患者を見始めた。

まだ、空は明るい。

吹雪になり始めると厄介だなと、ガラントは言う。

少しして、敵を殲滅したという報告が入った。全く実感が無いのは、戦闘の様子がマローネの所では見えないからだろう。だが、それも歩いて行くと、過去の話になった。

無数の傷がある怪物の死体が、辺りに転々とし始めたのである。

よってたかって槍で突き刺したらしいフェンリルの死骸。白目を剥いて、舌をだらしなくだした亡骸は、最後まで抵抗したらしく、血みどろだった。

ずたずたに切り裂かれているキノコらしい巨大な死体。人間大ほども大きさがあるが、原型が分からないほど武器で抉られている。手らしいものが側に落ちていた。此方がエリンギャーだろうか。

鳥のような死体もあった。

足が非常に発達した大形の鳥で、首を切り落とされて、横倒しに死んでいた。足には凄い爪が生えていて、その一つは血に染まっていた。そういえば、負傷して運ばれてきた団員が、凄い向かい傷を貰っていた。

「敵の戦力が大きいな。 逃げた敵は」

「今のところは。 各個撃破には成功したと思います。 奇襲を警戒せず、進めるかと」

「まて。 あの辺りから、この地点は丸見えだ」

風の翼団の小隊長に、ハツネが異議を申し立てる。マローネにはよく分からないが、この先の真っ白な山の麓に、此方を覗くのに絶好の場所があるらしい。

辺りは入り組んでいて、周囲には身を隠せる場所も多い。

他の兵士達は、もう少し先まで行っていると、小隊長はいう。逃げ出した敵を追い、殲滅した結果だそうだ。

「まだ待たせています。 いつでも先に進めますが」

「危険だ。 少し下がって、様子を見た方が良い」

「黙れ小娘、貴様の意見など聞いていない」

「これでも私はお前よりは長生きしていた。 小娘呼ばわりされる覚えは無い」

さらりととんでもない事を言うハツネ。

そういえば、魔界の住人は、此方の世界の住人と比べて、ずっと長生きだという話は、前にハツネに聞いた。

ガラントの年を聞いて、安堵したような顔をしていた事もある。下手をすると、百歳とかもっと年上なのでは無いのだろうか。

「ガラント殿の意見は?」

「あ、コンファインします」

まだ戦闘には入っていないこともあり、多少のコンファインは平気だ。

実体化したガラントは、地形と小隊長の意見を聞き比べた上で言う。

「一旦兵を集中した方が良いな。 地形の問題もあるが、戦線が伸びきっている。 奇襲を受けると面倒だぞ」

「何を悪霊が……」

小隊長の悪態を遮るように、狼煙が上がる。

どうやら、ガラントの懸念は、図に当たったようだった。

 

マローネが駆けつけると、辺りは阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

完全に誘い込まれたらしいA集団が、敵の猛攻を受けている。地面を走る大鳥に地面に押さえつけられ、もがいているオウル族の戦士。魔術師を守ろうとしている戦士を、大きな熊のような怪物が、豪腕で薙ぎ払っている。

一人、跳ね上げられた。

巨大なキノコの怪物が、なんとアッパーカットを浴びせたらしい。地面に激突した戦士は、身動きできない。

しかも辺りは岩だらけで、どこに敵が潜んでいるか分からない有様だ。

「ガラントさん! ハツネさん! 時間稼ぎをお願いします!」

「よし……」

無言で、ガラントが手近な大鳥に斬りかかった。大剣での抉りあげるような一撃を、長い首をそらして避けようとする大鳥だが、それはフェイクだった。先に倍する勢いで振り下ろされた剣が、大鳥の首の付け根を一撃する。

鋭い悲鳴が上がる。

前足を振り上げた白い熊。その前足が、ハツネの炸裂矢に吹き飛ばされた。

無数に集っている魔物が、一斉に此方を向く。乱入してきたB集団が、敵に襲いかかるが、それでも手数が足りていない。

サソリのような怪物が、凄い勢いで迫ってくる。立ちふさがったガラントが、大剣で相手を牽制しながら、時間を稼いでくれる。

だが、後ろ。至近。

マローネが振り返ると、其処に足を高々振り上げた、大鳥の姿があった。

足には鋭い爪がある。あれで突き刺されたら、マローネの小さなからだなんて、ひとたまりも無い。

だが、慌てず、そのままコンファインの詠唱を続ける。

鳥に、横殴りに数本の矢が突き刺さった。悲鳴を上げて横倒しになる大鳥を踏みつぶすようにして、バッカスがコンファインされる。

「コウセイニデロ、ガラント!」

「応ッ!」

相棒が出現して意気上がったらしいガラントが、繰り出された毒の針を、大剣で跳ね上げる。折れた毒針が回転しながら宙を舞い、毒をまき散らしながら雪原に突き刺さった。更に返す刀で、サソリを頭から叩き潰す。サソリの甲殻はさほど堅くはないようで、ガラントの一撃で文字通りひしゃげて潰れていた。

ハツネが矢を連射しながら、傭兵団員に叫ぶ。

「負傷者をマローネの側に! カナンが回復してくれる!」

「分かった!」

もう、意地を張っている余裕も無い。傭兵団員達が、倒れている仲間達を引きずって連れてくる。見たところ、どう見ても助かりそうにない傭兵団員もいるようだ。だが、カナンだったらきっと何とかしてくれる。そう信じて、マローネはアッシュをコンファインに掛かる。

まだまだ力は増しているのだ。今は戦力を出し惜しみしている場合では無い。

この乱戦、カナンを呼ぶより、アッシュの方が役に立つはずだ。バッカスが、突進してきた大鳥を組み伏せると、投げ飛ばして、地面にたたきつけた。ただし、その鱗も鋭い爪で抉られている。

ハツネの放った矢が、大きな熊の怪物の頭を吹き飛ばした。横倒しになる熊の爪は、傭兵団員達の血に染まっていた。

アッシュが具現化する。

エカルラートは使わない方が良いかもしれないと、マローネは思った。この先何が控えているか、分からないのだ。

アッシュが走る。

そして、倒れている傭兵団員を咥えて走り去ろうとした熊の前に立ちはだかり、その眉間に突きを入れた。熊が悲鳴を上げて、獲物を離す。急所への一撃だったのだろう。

後ろ足で立ち上がった熊に、アッシュが怒濤のラッシュを入れる。前足が飛んできた。紙一重で、下がる。頬に鋭い傷が入るのが見えた。だがアッシュが、熊の顎を、貫くように蹴り上げた。

熊が白目を剥き、雪原に横転する。

アッシュの格闘技は、既に人間以外の猛獣にまで、十分に通用する様子だった。エカルラートを使えば、さらなる上位の存在にも、充分対抗できるだろう。

傭兵団員の悲鳴が上がった。

雪原を斬り破るようにして、巨大なタコが現れたのである。あの触手に捕らえられたら、ひとたまりも無いだろう。

「触手は私が封じる! アッシュ!」

「頼みますよ、ハツネさん!」

「任せろ! 一つ!」

鋭い叫びと共に、ハツネの放った矢が、触手を一本貫き、爆散させる。それを見て、勇気を取り戻した傭兵団員達が、アッシュと一緒に、蛸の怪物に突撃した。

 

ガラントとハツネの奮戦もあって、徐々に戦況は好転し、しばらくしてようやく敵を追い払うことには成功した。

だが、被害はさんさんたる有様である。

今全部隊は、雪山の中腹、狭い平野のような場所に布陣している。前後に道が延びていて、入る事は其処からしか出来ない。守りには堅いが、逃げるのも難しい場所だ。後方にある坂を下りていけば村にまっすぐ帰り着くことが出来るが、それを許すほど怪物達は甘くないだろう。

袋の鼠とは、この事である。

辺りには、けが人が寝かされている。こういう寒冷地での処置は大変に難しいと先にカナンは言っていたのだが、それはマローネにも分かる。

下手をすると凍傷になったしまう上に、傷口を長時間むき出しにするわけにも行かない。

「命は取り留めました。 だが、この方達は、もう武器を持って戦う事は出来ないでしょう」

カナンが宣告する。

倒れている何名かの傭兵団員の中には、手足を失っている者もいた。これが、傭兵という仕事だ。

死ななかっただけ、運が良かったとも言える。

カナンの処置は、マローネから見ても、完璧だった。一人に至っては、熊に食いちぎられた腕をつなげて貰ったのだ。

辺りに散らばっている無数の羽毛が痛々しい。A集団は半数が戦闘不能状態。B集団の被害も小さくない。

マローネの介入が遅れていたら、壊滅していただろう。

「一度村まで引き返しますか」

沈鬱な表情で、リエールの護衛が言う。

リエールも、後方から襲撃してきた敵戦力に対処していて、此方を支援どころではなかったらしい。

「いや、此処は攻勢に出よう」

「正気でありますか」

「敵の動きを見ている限り、此方の手を先読みする傾向がある。 多分退路に罠を張っているぞ」

ガラントが言うと、オウル族の戦士達は互いに見合わせる。

しかしこれでは、軍の部隊が壊滅しなかったのは、今までもっと大きな餌を呼び込むために、敵が手加減していたとしか、マローネには思えない。

服の袖を掴まれた。

パレットだった。

「マローネ、おねい、ちゃん」

「どうしたの?」

「あの、あたい、みんなにいいたいことがあるの」

腰を落として、視線を合わせる。

相手の名前も分かっているし、コンファイン自体は問題なく出来る。だが、今は一刻一秒が惜しい。

この子は、船に乗り込んでまで、ここに来た可能性がある。それならば、何か理由があるのなら、皆と話させてあげたい。

だが、子供らしくただ寂しがっているのなら、残念だがそんな時間は無いというのが正直なところなのだ。マローネも、こういう現実的な思考は、少しずつ身につけなければならないとは思っていて、訓練はしていた。

相手を信じる事については、いまでも第一だと思っている。

それだけではなく、実戦の場では、状況を判断して動かなければならない。それは皆に教わったことで、マローネ自身もそうだと思う。

今は戦闘が休止してはいる。

だから、少し悩ましい。少し悩んだ後、マローネはパレットの話を聞くことにした。

「何を言いたいの?」

「このしまから、かんじるの。 あたいのおとうちゃんとおかあちゃんが、つくった、にせもののいのちのけはい」

「……!」

「きっと、あのこ、さびしがってる。 あたいがなんとかしてあげたいの」

「ふーん、やっぱりね」

コリンが何か知っていたかのように言う。

マローネはもう少し悩んだ後、パレットをコンファインした。

実体をとったパレットを見て、オウル族の魔術師が驚く。

「その子供は、船の幽霊!」

「あ、あたいが見えてたおばちゃんだ」

「お、おまえ……!」

露骨に怯える魔術師に、何も分からない様子で、にこにことパレットは年相応の無邪気な笑顔を浮かべている。

可哀想だ。幼い頃の子供は、大人に嫌われたいと思わない。無条件の愛情を受けられると思っている。

だから、分からないのだ。大人の悪意が。

「パレットちゃん、お願い。 何を知っているのか、話してくれる?」

何だか、マローネは。

アッシュがマローネに抱いていた気持ちが、少し分かるような気がした。

 

3、魔物の正体

 

雲島で状況の経過を待っていたモルト伯は、一旦料亭を離れ、クライアントが寝泊まりする専門の宿泊施設に移っていた。

雲島では、こういう施設も充実している。客のランクに応じる棲み分けがあるが、基本的にクロームや傭兵団に依頼を行おうとするクライアントは、困らないようにあらゆる設備が整っているのだ。

中には歓楽街や娼館もある。流石に、富と自由の島ほどの規模では無いが、遊ぶための設備は一通り揃っている。

モルト伯は、そういったサービスにはもう興味が無い。

ウサギリス族としても老境に入っている上、既に子供達も孫達も、独立している年齢だ。酒を今では少しだけたしなむ程度である。それも嗜好品としてでは無く、むしろ眠るために、体を温める用に度数が低いアルコールを飲むことにしている。

イヴォワールでは、老いてなお盛んという人物は多い。

元々の成立事情からか、周辺の地域に比べて、生物的な平均寿命がとても長いのだ。人間族でありながら、五十近くても若々しい人物も散見される。九つ剣筆頭、ラファエルはその代表格だろう。

だが、彼らと同じように振る舞おうとは、モルト伯は思わない。

今は少しでも長生きして、サルファーを倒すために動かなければならない、と思っているからだ。

自分のための戦い。それが、今モルト伯がやっていることなのである。

秘書にしている騎士が来た。彼に、今回の件について、調べさせていたのだ。

30年前、サルファーが襲来する少し前に、雪沼峠の島で、怪物騒ぎが起きた。やがて怪物は魔物と認定され、討伐隊を何度も撃退した。

その時期、イヴォワールは混乱の最中にあり、情報はあまり残っていなかったのも事実である。かろうじてスカーレットが怪物を退治してくれたため、事件は沈静化したのだが。

どうも、当時からきな臭い噂は流れていたのだ。

「伯爵様、此方が調査の結果にございます」

「流石イヴォワールタイムズの資料庫だな。 どれ……」

資料には、その当時、不思議な魔術師の一派が主流になろうとしていた事実が書かれている。

その流派の名前は、魔導合成師。

「魔導合成師、だと」

「資料によりますと、生物同士を掛け合わせたり、或いは魂を融合させることによって、より強き存在を生み出そうとしていた者達、とあります」

「なんと……」

恐ろしい流派もあったものだ。

そのような技術が世界的に大流行していたら、世にも恐ろしい地獄絵図が到来していたのでは無いかと、モルト伯は思える。

資料を見ると、魔導合成の骨子は、二つの存在を融合し、その強みを取り入れることだとある。それだけではない。老人は寿命を延ばし、若者は才能を更に伸ばすことが出来たのだという、

道具類も、著しい強化を行うことが出来たとある。確かに一見すると、サルファーに対抗する希望を作り出すことが出来た可能性もある。

だが、それには、激しい倫理的な問題が、壁として立ちふさがった。

事実、魔導合成師の研究施設には、多くの奴隷や実験動物が集められ、世にも恐ろしい実験が毎晩繰り返された、とある。当然のことながら、合成されてしまえば元には戻らない。

これが実用化されていたら、権力者は長生きするために若者を多数自身に合成したりと、命が非常に安い世界が到来していただろう。ただでさえ貧富の差が激しいイヴォワールである。奴隷の法的な権利保護などは現在でもなかなか上手く行っていない。このような技術が汎用化していたら、地獄絵図によって、サルファーが到来する前に、世界が崩壊してしまったかも知れない。

「技術的には、四百年以上前からあったものだそうです。 しかし、倫理的な問題から術者の間でも禁忌中の禁忌とされ、ごく一部の下法と呼ばれるネフライト崩れだけが研究していたのだとか。 それが、30年前、不意に脚光を浴びたわけです」

「なるほど、セレストの誰かが研究を命じたのか」

「おそらくは。 此処には明記はされていませんが、王族の可能性もあるそうです」

毒を食らわば皿まで。確かに、九つ剣でもどうにも出来ないサルファーの軍勢に対して、そう考えるものが出ても不思議では無いだろう。

そして、ある夫婦の魔導合成師が脚光を浴びた。

彼らに要求されたのは、まず第一に、サルファーを撃破しうる存在の作成。その存在は、単独でサルファーと戦うため、動物を自在に制御し、気候さえも制御できる機能を要求されたのだという。

「気候さえも制御する怪物、だと……」

「この辺りは記録が曖昧なのですが、間違いない所でしょう。 ただ、何しろ相手はあのサルファーです。 どれだけ強力な能力を備えていても、足りると言う事はないでしょうから」

「ふむ……」

しかしそれは、人間の領域をあまりにも超えている力のような気がする。

案の定、その怪物の実験は上手く行かなかった。

ネフライトの夫婦は、自分たちの娘を触媒にして、怪物を操作できるようにしようとしたらしい。

それ自体が吐き気を催すほど下劣な行動だが、怪物はそれにより、防衛対象の優先順位を、人類からその娘として認識してしまったのだ。

結果、怪物は暴走した。

手に負えなくなった組織は、怪物を雪沼峠の島に捨てた、という事であるらしい。

「なるほど、そうであったのか。 その組織は」

「現在、クロームギルドに掛け合って内偵を進めています。 どうやら、まだ存在している可能性があるとか」

「しかしそれほど大規模な組織であれば、私の耳に入らないはずもあるまい」

30年前の戦でも、先頭に立って作戦を指揮したモルト伯の所には、今でも大量の情報が集まってくる。

分からないのは勇者の行方とサルファーの倒し方、などと揶揄されるくらいで、実際にモルト伯は大小の犯罪組織の実情までも把握している。

そういった存在が、いざ来たりしサルファーとの決戦時に足を引っ張らないようにと言う配慮からなのだが、それにしてもそれほどダークサイドにある組織が、今まで内偵に引っかからなかったというのもおかしな話であった。

「風の翼団とマローネは大丈夫だろうか」

「勇者様が封じたほどの魔物です。 いざとなったら、大規模な傭兵団を動員して、総力で仕留めなければなりますまい」

「うむ……」

モルト伯は部下を下がらせると、今後の情勢を分析するべく、老いた脳を働かせはじめたのだった。

 

「あたい、実際は35さいなんだ。 生まれてすぐにおとうちゃんとおかあちゃんに培養ケースに入れられて、それから30年、ずっとこのすがただったの」

唖然とするリエールとマローネの前で、ファントムとなった魔導合成師、パレットは己の出自を語る。

多分、サラブレットの家系なのだろう。舌っ足らずの幼い子でも、専門的なことに関しては親顔負けの様子だった。

「サルファーをやっつけるために、それにせけんのすみにおいやられている魔導合成師をすくうために、しんでくれっておとうちゃんとおかあちゃんは、あたいにいったの」

「死んでくれ、か……」

リエールは、自分がセレストの家系出身だと話してくれる。

貴族にも、そう言うことが希にあるそうだ。生まれてはならない命。家を混乱させるだけの存在。

そういった子供に、死を要求することが。

ひどいと、マローネは呟く。涙を抑えるのが、困難だった。

「あたい、おとうちゃんもおかあちゃんもだいすきだったから、ゴーレムのコアになったの。 でも、ゴーレムおおあばれして、けんきゅうじょめちゃくちゃになって。 おとうちゃんとおかあちゃん、どこかいっちゃった。 ゴーレムも捨てられて、そのあと誰かにねむらされたんだってわかったんだ」

培養ケースは、研究所が壊れても、そのままであったそうだ。

もともと地下洞窟にあった研究所であったらしい。殆ど生き埋めという状態が正しかったのかも知れない。パレットは意識をもてる状態に無く、だが何となく外のことや、ゴーレムの状態、両親の事も分かったそうだ。だからこそ、怖かったという。

培養ケースからは、栄養が徐々に無くなっていった。

生きるために必要なものが、どんどん減っていくことも分かった。

ゴーレムがパレットを助けようと、睡りながらも暴れようとしていることも分かった。だが、パレットにはどうにも出来なかった。

少し前。

ついに、パレットの生命維持システムが停止した。

それと同時に、ゴーレムが目覚めたのだという。目覚めるのが、最後の意識の中、パレットが分かったことだったそうだ。

「パレットちゃんは、どうしたいの?」

「ゴーレムを、ずっと静かに眠らせてあげたい」

「何か方法は」

「コアを壊せば良いの。 もともと、パレットが死んだことで、ゴーレムはとても不安定になっているから。 今、かいぶつたちがあばれているのも、混乱したゴーレムにふりまわされているだけ」

それならば、ゴーレムを叩けば、一連の事態は解決する可能性が高い。

だが、問題はいくつもある。

まずゴーレム自体が、サルファーと戦うことを想定して設計され、勇者がやっと封印したという代物だと言うこと。

次は味方の戦力。既に三分の一近くが失われていて、進むのは困難だと言うことだ。

どちらも解決しなければ、事は進展しない。

ほこらに辿り着くどころでは無い。

「さいしょのもんだいは、だいじょうぶ」

「どうして?」

「ゴーレムは、ずっとねむっていて、ちからをもらっていないから。 だから、天気をあやつるちからと、かいぶつをあやつるちからしか、ほとんどつかえないはずだよ」

「なるほど、力を使い果たしてしまっているか。 それならば、近接戦に持ち込めば、勝機は出てくるな」

リエールの目に、鋭い光が宿る。

コンファインしたままのガラントと、頷きあった。

「よし、道を作る。 アッシュだったな」

「はい」

「君のエカルラートの力については、ガラント老に聞いている。 ゴーレムまでの道を、どうにかして切り開くから、君が一気に首魁を叩いて欲しい」

「でも、どうやって」

いつの間にか、その場から離れていたハツネが戻ってきた。

ガラントと何か相談していたのは、マローネも見ていた。深刻な話を、パレットが始める少し前だ。

「やはり敵は後方に集中している。 数は30を超えるな」

「そうか。 前方は」

「20前後。 ただし、象のような大きな奴がいる。 多分あれが一番手強い怪物の筈だ」

「それを叩きつつ、後方の敵を引きつければどうにかなるな」

ガラントが、作戦を説明する。

風の翼団の幹部達の顔が、見る間に青くなっていった。かなり危険な作戦である。

一番古参らしい、種族の名前通り梟によく似た参謀が、震える手でゴーグルを直す。彼も戦闘の中では、既に無傷では無い。

「本隊をおとりにすると仰いますか」

「そうだ。 ゴーレムを叩けば、怪物達は散り散りになる」

「しかし、その悪霊の言うことが本当だとは思えません! 悪霊憑きの言うことに、命を賭けるおつもりですか、坊ちゃん!」

「そうだ、リリチェラフ。 理にかなうし、他に方法も無い」

この様子からして、参謀はきっと、リエールがセレストだった時代からの守り役か執事か、そんな関係なのだろう。

悪霊憑きと呼ばれたことに、不快感は無い。

リリチェラフはきっと、リエールのことを心底から心配しているのだろうから。アッシュが若干不快そうにしていたが、マローネは気にしていない。

「あたい、やっぱり悪霊なの?」

「ううん、ファントムよ」

マローネは、パレットを抱きしめて、頭を撫でる。

驚いたように目を見開いたパレットだが、されるがままになっていた。

 

リエールが、無事な精鋭を率いて村への帰路を進み始める。

数は十名ほど。

傍目からは、支援を呼びに行くための部隊に見えるだろう。当然、戦力を分散したのだから、叩く好機でもある。

「そろそろ来る」

ガラントが言う。

頷いたマローネは、ヴォルガヌスを呼び出す準備に入った。

殆ど間を置かず、狼煙が上がった。前方で、凄まじい闘争の音が始まる。リエールがいきなり全力で能力をぶっ放したらしく、敵が吹き飛び舞い上がるのが見えた。

そのまま、此方に逃げてくるリエール。

その前途を遮ろうとした敵が、蹴散らされるのが見えた。

手をかざして見ていたハツネが、叫んだ。

「今だ! マローネ、放て!」

「はい! さまよえる魂よ、導きに従い現れ出でよ! 奇跡の力、シャルトルーズ!」

全身から魔力が吸い尽くされるような、凄まじい消耗。

此処ひと月で随分鍛えてきたつもりなのに、まだまだだと思い知らされる。だが、具現化したヴォルガヌスは、以前より更に若返っているように見えた。

着実に、成長しているのだ。

風の翼団の団員達が、畏怖の声を上げる。

それを嘲笑うように、ヴォルガヌスが全力での火球を撃ち放った。

耳を思わず塞ぐ。

キノコ雲が上がる。リエールを追撃していた怪物達が、まとめて消し飛ぶのが見えた。狭い通路に密集していたから、ひとたまりも無かっただろう。

「よし、GOっ!」

「先頭は団長が切り開く! 最後尾は私が引き受ける! けが人を真ん中に、走り抜けろ!」

リエールが、部下達を叱咤。

混乱する怪物の群れを蹴散らしつつ、一気に撤退に掛かる。けが人を担架に乗せた兵士達が走る。リエールは先頭に立って敵を蹴散らす。最後尾は、リリチェラフが勤めていた。

ゴーレムを守るように、行く手の道に立ちふさがっていたという、ハツネが言及していた20体が動き出す。

さっきまで布陣していた窪地になだれ込んできた。リリチェラフは、退路に逃げ込みながら、自ら炎の術式を放って、怪物の出鼻を挫く。コリンほどの威力は無いが、それでも雪原に突如吹き上がる炎の柱を見ては、怪物達もその鋭鋒を鈍らせざるを得ない。

まだ無事な団員達も、槍を揃えて、敵の突進を防ぎに掛かっていた。

ハツネが言っていた、象のような怪物が姿を見せたのは、その時だった。

象、なのだが。全身に長い毛が生えていて、重厚な雰囲気である。目は非常に大きく、額にもあるようだった。巨体を揺らして象が迫る中、リリチェラフが確実に皆を叱咤して下がる。

マローネはその時、脇道に逃げ込んでいた。そして、此処から、ハツネが言うとおり、北を目指す。

殆ど獣道だ。風の翼団が敵の主力を引きつけてくれているから良いが、失敗したら単独で逃げなければならなくなる。

しかも雪が分厚く積もっていて、倒れでもしたら救助はまずこないと言える。

「こんな危険な作戦、良く思いつきましたね」

「何、相手が怪物にしては賢いからな。 兵学の初歩を突いてみせれば、多分乗ってくるだろうと思っただけだ」

「獣に対するやり方だから失敗した。 そういうことか、ガラント」

「ああ」

マローネは無言で走る。

難しい話に加わっていても、今は仕方が無いからだ。

マローネ同様、風の翼団の人達も、命を賭けてくれている。この作戦が失敗したら、大きな被害を出すことになるだろう。

上空を旋回していたヴォルガヌスが言う。

「前方に少しおるぞ。 そろそろ山を下りる頃じゃ。 気をつけてな」

つまり、丸見えという事だ。

もたもたしていれば、風の翼団を追撃していった敵の主力が戻ってくるだろう。それくらいのことは、マローネでも分かる。

奥歯を噛む。

獣道を抜けた。

勢い余って、数歩走ってしまう。下り坂から、平原になったからだ。

其処には、凍り付いた湖があった。

湖の中には、とても現世の生き物とはおもえない、巨大な骨が複数凍り付いている。あれは一体何だろう。怪物なのか、それとも。

中には親子のように寄り添う骨もあって、マローネは胸を痛めた。

雪が降り始めている。山の方では、まだ激しい戦いの音がしていた。リエールのがんばりを無駄にしないためにも、マローネは行かなければならない。

自分の顔を叩いて、気合いを入れる。

そして、一歩を踏み出した、瞬間だった。

「マローネ!」

アッシュの声が、下に聞こえる。

どうしてだろうと気付いて、分かる。湖から出てきた触手に、足を掴まれて、釣り上げられていた。

さっきの蛸の同類だろうか。

この分厚い氷を破って、触手を伸ばしてきたのか。そして空中で捕らえられたらしい。全身が酷く痛い。吹き飛ばされたときに、氷の欠片でしたたかに打ったのだろう。それで意識を失っていたというわけだ。

蛸の足はその全てが筋肉の塊だ。強力な吸盤もあってパワーは凄まじく、人間よりだいぶ小さい蛸でも、引きはがすのは一苦労である。海でも結構大きいのを見かけるが、これはとにかく桁違いのサイズだ。

逆さづりにされたマローネの体の方に、触手が絡みついてくる。

もがくが、外れない。筋肉のパワーが違いすぎるからだ。そのまま、氷にたたきつけられる。

悲鳴も出ない。これは、死ぬ。

たたきつけられる寸前、不意に、妙な力が掛かるのが分かった。

投げ出される。蛸の足を引きはがしている人がいた。ガラントだった。

ガラントが、絶妙なタイミングで、触手を斬ったのだ。

「なるほど、こんな奴がいたか。 だから守りは薄かった訳か」

「マローネ!」

「アッシュ、ついていてやれ。 ハツネ、行くぞ!」

「任せろ!」

酷い痛みの中、ぼんやりマローネはアッシュを見上げた。

回復しないと。

カナンを呼び出すには、少し集中力が足りない。いや、カナンの手の感触がある。痛みで、現実を認識する能力がおかしくなっていたのか。

向こうで、ガラントが鬼神のような暴れぶりを見せている。蛸の怪物をざくざく斬り、その傷口にハツネが更に矢を叩き込んでいた。足を殆ど失った蛸の頭に、容赦なく剣を突き刺すガラント。

大量の血が噴き出し、蛸はまだもがいていたが。程なく、動かなくなった。

マローネは、カナンの光に包まれているのを感じた。体が、少しずつ動くようになってくる。

蛸の吸盤には、牙のような爪のような突起がたくさん突いている。それがマローネの体に食い込んで、たくさん血を流していたらしい。カナンの術式が納まると、何度も呼吸した。肺が圧倒的な力で圧搾されて、呼吸もろくに出来なかったからだ。

やっと視界がはっきりしてくる。

アッシュが見えた。ファントムのままだ。

カナンは、そうだ。さっきからずっとコンファインしたままだった。ようやく、現実が見えてくる。

目を乱暴にこする。

頭に登りすぎていた血が、少しずつ正常に巡りはじめていた。痛い。生きている故の痛みだ。

更に新手が来るかも知れない。カナンが肩を貸してくれた。

「コリンさんをコンファインした方が良いかも。 或いはバッカスさんが良いかしら」

「ご、ごめんなさい。 頭が、まだ動かなくて」

「いずれにしても、この場に留まるのは、まずいですね」

カナンが、人ごとのように言う。

見える。

此方に突進してくる、巨大な白い熊。ガラントはと言うと、湖から出てきた青白い巨大キノコの塊と交戦しており、ハツネも其方で手一杯だ。

他の敵主力は、リエールが引きつけてくれている。だが、それでも大丈夫なだけの戦力が、敵にはあったのだ。

「さまよえる、魂よ、導きに、従い……」

体中の打撲傷が酷く痛んで、なかなか集中が出来ない。

カナンは足が遅い上に非力なので、マローネを連れ出そうとしても上手く行っていない。その間に、白い巨大な熊は、まるで岩が転がってくるかのような勢いで迫ってくる。

「奇跡のちか、ら……シャルト……」

至近。

熊が後ろ足で立って、前足を振り上げるのが見えた。まずい。熊のパワーは、桁違いだ。ましてやあの大きさ、通常の熊とは、比較にならない。

一撃でマローネの頭なんか、粉みじんだ。

ゆっくり、世界が動いていくように見える。死ぬ。確実に。マローネは、恐怖と絶望に、心臓をわしづかみにされた。

カナンが右手を向ける。

同時に、熊が氷にたたきつけられる。

ホーリーライトの術式。確かヒーラーが護身のために用いる、殺傷力が低い術だ。相手を地面にたたきつけるような動作を行う不思議な術で、何度か見せて貰ったが、どこが聖なる光なのか、何度見ても理解できなかった。

世界が、動き出す。

「マローネちゃん、今ですよ」

「シャ、シャルト、ルーズ!」

詠唱終了、どうにか印を切る。

すぐ側の氷った岩の塊が、見る間にバッカスの形として具現化していく。そして、具現化するやいなや、バッカスは起き上がろうとした熊の頭上に覆い被さり、その後頭部にかぶりついた。

以前バッカスが話していたが、熊の後頭部は弱点らしい。虎などは、熊を喰うときに後頭部にかぶりつき、頭蓋骨をかみつぶすのだそうだ。

熊が空気を切り裂くような悲鳴を上げた。

耳を塞ぐ気力も起こらない。

普通の人間だったら、熊に振り払われていただろう。

だが、能力者だったら。或いは、単純な身体能力が遙かに普通の人間を凌ぐリザードマンだったら。

バッカスの顎が、熊の頭蓋骨を凌ぐ。

大量の血が飛び散り、飛び散る端から凍り付いていく。銀白の世界が、見る間に赤茶色に染まっていった。

耳も、目も、塞ぐ余力が残っていない。

意識を保つのでやっとだ。

見る間に、穴が空いた氷湖がふさがっていく。それだけ寒気が強いという事である。コリンが、手を振ってくる。コンファインしろというのだろう。

顔に、寒気。

寒気緩和のための術式が、今ので破られたか。隣では、とうとうバッカスが、熊の頭蓋骨を食い潰し、頭を食いちぎっていた。

カナンが、マローネを横たえると、本格的な治療に入る。

舌なめずりして熊の血を舐め取ると、バッカスがまた突進してきた何かを受け止めた。今度はワニだ。

何度か激しいもみ合いの末に、顎を無理矢理閉じると、口を塞ぐようにしてかぶりつく。そして二度三度、豪快に振り回して氷にたたきつけた。ワニは口を閉じられると、後は尻尾しか武器が無いと、バッカスは言っていた。マニュアル通りの戦い方というわけだ。あくまでバッカスにとっては、だが。

何度も氷にたたきつけられ、グロッキーになったワニの首を押さえ込みながら、空中でバッカスが捻りを加え、そして氷にたたきつけた。

首がへし折れる嫌な音が、マローネにも良く聞こえてきた。

バッカスの凄まじい暴れぶりに、まだいるらしい他の怪物も動きを止める。

マローネの側で、バッカスが死んだワニを何度も氷にたたきつけながら、周囲に殺気をばらまいているのが分かった。氷にひびが入る。

来るなら来い。

ただし、死ぬ覚悟をして、だ。

そう、バッカスは無言のまま、周囲に言っていた。

酷い光景にも思えるが、何となくマローネには分かる。こうすることで、戦闘での被害を抑えるのだ。

バッカスは寡黙でわかりにくい所もあるが、普段はこんなに残酷では無い。マローネは、バッカスを信じる。

カナンは眉一つ動かさない。

「カナンさん、ごめんなさい。 私が、力が、足りなくて」

「貴方は私達に体を与えるという驚天の奇跡を起こしているのですから、それで充分です」

怖くは無いのだろうかと思ったが、そんなはずは無い。

だが、カナンは恐怖以上に、何度も見てきたバッカスの戦闘力を信頼している。それだけなのだ。

信頼は、時に痛い。

遠くで、キノコの怪物が、唐竹に切り倒される。

呼吸を整えながら、ガラントが吠えた。

「行くぞ! 突破する!」

カナンが頷くと、ファントムに戻る。

代わりに、コリンが実体化した。若干嫌そうだったが、バッカスが背中に乗せる。そして、腕の中に、マローネを抱え込んだ。

見ると、コリンの後ろに、ファントムのままのパレットもしがみついていた。

「ヴォルガヌス老! 敵の首魁は!」

「おう、どうやらこの湖の先じゃな」

「よし!」

バッカスが重量を見せつけながら、氷上を走り始めた。

 

村の人達に聞いた。

そのほこらは、かって小さな土盛りであり、勇者が術式で作ったらしい魔法の鎖でがんじがらめに縛られていたと。

此処で暴れていた魔物が、勇者に打ち倒された。

だが、勇者は魔物を殺さず、封印したのだという。

そして、ほこらを踏みにじるようにして、すでにそれはいた。

其処は、湖の中にあった島だったのだろうか。氷面よりわずかに盛り上がった土の塊で、雪が積もっていても妙な存在感があった。

周囲には、力任せに引きちぎられたらしい鎖の破片。ほこらは小さな社のようになっていたようだが、既に建物は木っ端みじんに砕かれて、辺りに凍り漬けになって散らばっている。

雪が、降り始めていた。

ガラントが、剣を構えたまま、パレットに言う。

「弱点はどれだ」

「ウルスラ……」

パレットが、涙を両目から零しているのが分かった。ガラントは視線をそらすと、間合いを計りはじめる。

マローネはファントムのままのパレットを抱き上げて、バッカスから下ろす。抱きしめたまま、言う。

「お願い。 教えて」

「ゆうしゃさま、きっとウルスラのこと、わかってころさなかったの。 それにウルスラ、きっとあたいがにんげんにころされたんだっておもって、すごくおこってるの」

お願い。

ウルスラを、いじめないで。

子供として、時を止められたパレットは、ファントムのまま、泣いていた。本当は号泣したいのだろう。

だが、訴えかけたいのだ。だから、必死に感情を抑えて、マローネに。唯一頼れる、人と霊体の架け橋に。訴えかけてくる。

「うん。 できるだけ、一瞬で痛いの終わらせる。 だから」

「……あたいを、コンファインして」

パレットをコンファインする。

パレットは、ゴーレム、ウルスラに向けて一歩、二歩と歩く。

マローネは、続けてアッシュのコンファインに入る。既に作戦は、決まっている。

今、此処にはバッカスにガラント、ハツネにコリン、マローネが動員できる突破戦力の全員が揃っている。

其処に、アッシュがコンファインされた。

舞台は、整った。

パレットが、足を止めた。視線の先には、巨大な人影がある。

それは、岩で出来たヒトとでも言うべきなのだろうか。背丈はマローネの五倍、いや七倍は優にある。

手足は太く、そして岩そのものの質感だった。顔は人間と言うよりもむしろトカゲに似ていて、酷く大きな口の中には、鋭い牙がたくさん並んでいる。

胸の中央にある宝石。頭に植え込まれている宝石。手足にも、宝石らしいものが見受けられた。

何となく、サイクロプスを見たという噂の理由が分かった。宝石が、一つ目のように輝いているからだ。

闇夜で見たら、一つ目を持つ巨人に見えたかも知れない。

あれらは、弱点なのか。

まだ、分からない。

「ウルスラ、あたいだよ。 分かる?」

ゴーレムは、動かない。

パレットが、小さな手を伸ばす。かわいらしい、子供そのものの。そして、其処から成長することが無かった、手。

「あたい、死んじゃった。 でも、ウルスラがしんぱいで、ここまできたよ」

「守護対象……確認。 守護対象、保護。 最優先任務。 第二任務、守護対象を抹殺した者達を、これより抹殺する」

「だめ……ウルスラ……! この人達にひどいことしないで」

「命令拒否」

アッシュが手袋を直す。

たとえ、今は出力が相当に落ち込んでいるとしても、サルファーと戦うことを想定し、作られた存在だ。

周囲に殺気が満ちる中、パレットはまた歩き出す。

ゴーレムが、腰をかがめて、パレットを掴もうとした。その時のパレットは、どんな顔をしていたのだろう。

マローネの位置からは、見ることが出来なかった。

「おねいちゃん! ウルスラのあたまのほうせきをはずして。 くだいちゃだめ」

それが、開戦の合図となった。

 

まず、マローネが、コンファインを解除。パレットの姿が消える。ファントムに戻る。

間を置かず、ハツネが全力での矢を放った。

光の線では無く、もはや光の筒と言って良いほどの太さのそれが、ゴーレムに迫る。ゴーレムが、動いた。

ハツネの矢が、はじき飛ばされる。意外に速い動きで、ゴーレムが払ったのだ。

だがその時には。

既にゴーレムの右上方に、バッカスの背を使って飛んだガラント。

大剣を振り下ろす。剣が、ゴーレムの肩に食い込んだ。血は出ない。だが、ガラントを振り払おうと、ゴーレムが動いた時には、既に絶妙の連携で、バッカスがその軸足に組み付いていた。

一瞬、動きが止まる。

コリンの詠唱が終了。

放たれた巨大な火球が、正面からゴーレムを直撃。

爆炎の中、アッシュが突貫する。

煙の中から、ガラントとバッカスが、吹き飛ばされるのが見えた。今の瞬間、爆炎から逃れたのでは無い。

ゴーレムが、体を旋回させ、手足でそれぞれ払ったのだ。

だが、それにより、ゴーレムの頭はがら空きになる。

アッシュの体が、青い燐光に包まれる。

ゴーレムの口が開く。其処に、光が集まっていく。何か、危険な術式を放つつもりか。コリンが珍しく慌てきった様子で、印を組む。

「目ぇつぶれ、アッシュ!」

アッシュが、真上に跳躍。コリンが、術式を発動。

バッカスとガラントが、地面にたたきつけられる。口に向けて、ハツネが第二矢を放ち、それに合わせてコリンが中級の火術を打ち込む。

だが、ゴーレムの口から放たれた光の槍が、それをまとめて消し飛ばし、吹き飛ばしたのである。

ハツネが回避したが、爆風の余波が、彼女を吹き飛ばすには充分だった。要領よく逃れたコリンの表情にも余裕が無い。

遠く、山の頂上辺りが、綺麗に消し飛んだのが見えた。

流石に衰えていると言っても、勇者が封印した魔物。

魔物が、アッシュを見ようと、顔を上げる。

だが、その時。

至近には、マローネ自身が迫っていた。

両手を向け、放つ術式は、火球。コリンに比べれば、冗談のような威力の、弱々しい火。

だが、その光と熱が、ゴーレムの顔面を覆うには、充分だった。

聞き取れないほど恐ろしい怒号を、ゴーレムが挙げる。

振り回される腕が、マローネをかすめた。それだけで、吹っ飛ぶには充分。悲鳴がこぼれる。雪上を何度か転がって、マローネはまた動けなくなる。

見上げる。

ゴーレムが、拳を振り上げている。

熊などとは、比較にならないその豪腕。振り下ろされれば、マローネは木っ端みじんになってしまうだろう。

その時。

柔らかく、アッシュがゴーレムの頭上に着地した。

そして、パレットが言った宝石の側に、全力で拳を叩き込む。

空に、青い光が舞った。

それが、宝石だと分かったとき。

ゴーレムは、動きを止めていた。

 

アッシュが、完全に動かなくなったゴーレムの口によじ登ると、牙を取り外しはじめた。証跡に必要だと、アッシュは言う。確かにこれだけの戦いをして、何も持ち帰らないというのも、依頼人に対する非礼に当たるだろうか。

モルト伯はとても誠実に仕事を頼んでくれた。マローネも、顔に泥を塗ったり、期待を裏切るようなマネはしたくなかった。

マローネが宝石を拾おうとすると、コリンに止められた。

「おっと、迂闊に触っちゃ駄目だよ」

「コリンさん?」

「ソレ、すっげえ魔力感じるから。 サルファー倒そうと思っただけあって、とんでもない量の魔導合成を行ったんだろうね。 山が圧縮されてるようなもんだよ、それ。 マローネちゃんみたいに魔力が強い子が触ると、暴走して爆発しかねないね」

慌てて、手を離す。

パレットは、ずっと動かなくなったゴーレムに身を寄せて、声を殺して泣いている。

無理も無い。自分の半身も同然の存在を失ったのだ。

マローネ自身も、怪我は治りきっていない。ハツネも酷い怪我をしていて、二人でカナンに怒られながら、治療を続けて貰った。特にマローネは、さっきの蛸の分も合わせて、帰りはバッカスに背負って貰えと言われたほどである。

「バッカスさんは?」

「キタエカタガ、チガウ。 ガラントモ、ダイジョウブダ」

確かに、あのゴーレムに吹っ飛ばされたのに、平然としていた。傷はあるのだが、動くのに支障は無いらしい。

男女では体の頑丈さが違うと言うが、羨ましいことだとマローネは思った。

遠くから声。

どうやら、リエールが様子を見に来たらしい。気候は落ち着いたし、怪物はおとなしくなったようだし、当然か。

さて、問題はパレットだ。

このままにしておくと、彼女は地縛霊になってしまうだろう。

パレットの側に行こうと立ち上がって、激痛に座り込んでしまう。カナンに拳骨を貰った。

「もう、駄目です。 アッシュ君に背負って貰いなさい」

「へ? ええと……」

「いいよ。 マローネを背負うのは何年ぶりだろうね」

「う、うん」

少し気恥ずかしい。肩を貸してもらうようにして、痛めている右足をかばいながら歩く。

ゴーレムの側、パレットの隣に、マローネは来た。

パレットが、此方を見上げる。ファントムでも泣く。物理的な涙は流れないが。

欲望の多くは、ファントムからは消滅してしまう。性欲はその一つらしいと、マローネはファントム達に過去聞いたことがある。性知識はあるが、まだこれといって性欲を意識したことが無いマローネにはよく分からない。

だが、消えない欲望もある。感情が全て無くなるわけでは無い。

無くなると、輪廻の輪に戻る。それが、この世の造りだ。

「ごめんね。 予想よりも、苦しい思いをさせちゃったね」

「ううん、大丈夫。 それにウルスラ、いきてるから」

あの宝石がそうだと、パレットは言った。ただしやはりコリンが言ったとおり、危ないのだという。

「どうするの?」

「あたいにはどうにもできないよ。 ほかのなにかとくっつけることだけは、できるけど、もっとあぶなくなるだけだもん」

「この島に返すことは出来ないの?」

首を横に振るパレット。

そもそもこの宝石は、あまりにも融合を繰り返した結果、意思に近いものを持ってしまっているという。それを島そのものと融合させたりしたら、文字通り何が起きるか分からないと。

自分の「操作用パーツ」であるパレットに対して、深い愛情を抱いていたのも、その一つ。そして、パレットの死に反応して、覚醒したのもそれが故。

これは、悲劇だ。

サルファーを倒すために、なりふり構わぬ行動に出た結果がこれだ。戦争は、悲劇しか生まない。

サルファーとの戦いを否定する気は、マローネには無い。

だが、誰も彼もが、あまりにもむごい方向へ動きすぎているのでは無いかと、感じてしまう。

一体、サルファーとは何なのだろう。

「わーった。 じゃああたしが、保護用の術式を掛ける。 時間掛かるし、大きな衝撃を掛けると壊れてどうなるか分からないけど、それで良いなら」

じっとパレットに見つめられて、コリンが折れた。

コリンをコンファインして、術式の準備に掛かって貰う。まずコリンは、バッカスに言って、怪物の死体を持ってきて貰った。

バッカスが引きずってきた熊の死体を、近くの岩に逆さに吊し、首を切って血を出す。凍りかけていたが、それでも分厚い毛皮に守られて、血はある程度出てきた。血を更に受けると、石の周囲に魔法陣を書き始めた。

邪魔してはいけないと思い、マローネはパレットの手を引いて、少し離れる。

魔法陣は三重で、円を三つ組み合わせた上に、中に六芒星を書いている。非常に複雑な構造で、しかも無数の文字が書き込まれていった。コリンにとっても、重労働らしい。一文字書く度に、魔力を消費しているようで、額に汗が浮かんでいるのが見えた。

「生け贄がいるなあ。 トリでもネコでもイヌでも、何でも良いけど」

「サカナハ、ドウダ?」

「いいよ別にそれで」

バッカスが、担いできたのは。マローネほどもある大きな鮭だった。割れた湖に飛び込んで、捕まえてきたらしい。

凄いなあと、マローネは感心した。

コリンが中空に鮭を浮き挙げる。魔術で浮かせているのか、魔法陣の効果かはよく分からない。

分かるのは、コリンは口だけではなくて、実際に凄い術者なのだと言うことくらいだろうか。

ただ、鮭でも良いというのは、ちょっとアバウトな気はした。鮭に心中で謝ると、マローネは術式の展開を見守る。

そうこうするうちに、リエールが護衛達と一緒に来た。一礼する。

光景を見てぎょっとしているリエールに、ガラントとアッシュが説明をはじめていた。会話の断片が聞こえてくる。

撤退作戦は成功したらしい。勢いに乗った風の翼団はどうにか村まで撤退。行方不明者や死者は出なかったそうだ。怪物は散り散りになり、ただの大きな動物に戻って、今では組織的行動を取る気配は無いと言う。

ただし、けが人はかなり多く、しばらくは風の翼団としての活動は難しいとも。専属のヒーラーは過労死しそうだとか、リエールはぼやいていた。

「しかし、見事です。 動きを止めているとは言え、この魔物を打ち倒すとは」

「出力が落ちていなければ、とても無理だっただろう。 最後に決めたのはアッシュだが、非常に無駄の無い動きで、素晴らしかった」

「そんな、照れます」

「見事な動きを称賛させたのだ。 素直に受け取るべきだろう、アッシュ君」

からからと笑う声が聞こえてくる。

コリンが、詠唱を執り行っていた。

「大いなる力よ。 禍々しき闇と、まばゆき光の中、静かに睡りたまえ。 そなたの睡りを妨げる者はここにはいない。 ただ、心を溶かし、ゆりかごの中、揺られ続けよ……」

何重にも、クリスタルガードを強くしたような術式が、宝石を覆っていく。更に石塊が周囲から集まって、宝石を覆い隠していった。

しばらくスパークを繰り返していたが、石自体が圧縮され、やがてこぶし大の、何の変哲も無い石になる。

コリンが拾い上げた。

珍しく滝のように汗を流していて、憎まれ口を叩く余裕も無い様子だ。

「はい。 落としたり叩いたり位は大丈夫だけど、間違っても攻撃術をぶっ放したりしちゃだめだからね」

「ありがとう、コリンさん」

「ありがとう、おねいちゃん」

「……」

おねいちゃんとパレットに満面の笑顔で言われて、悪い気はしなかったのだろうか。コリンはファントムに戻ると、後は一言も喋らなかった。

酷い戦いだったが、どうにか終わった。

後は、モルト伯に報告するだけだ。

カナンに言われたように、帰りはバッカスに乗せて貰う。一度、ほこらの方を振り向いた。パレットはずっとマローネにしがみついていて、何も言わない。この子が地縛霊にならなかったのは良かった。

だが、きっとしばらく未練は消えることが無いだろう。輪廻の輪に戻ることが出来るのも、ずっと先の筈だ。

それまで、自分が一緒にいてあげよう。マローネは、そう思った。

 

4、わずかずつの歩み

 

雲島に戻ると、伯爵は既に待っていた。

ぼろぼろになっているマローネとリエールを見て、さもありなんという顔をしたのは、ある程度結果を予想したからか。

何もかもが珍しいようで、マローネと手をつないだまま周囲を興味津々に見つめているパレットは、ファントムのままなので、伯爵には見えない。ただ、流石にお仕事の時まで一緒にいられると困るかなと、マローネは思った。その意図を察したか、子供に接し慣れているらしいカナンが連れて行ってくれる。

料亭に入ると、今回は一階の奥の部屋だった。あの狭い階段を上がらなくて済むと知って、リエールが小さく嘆息しているのが分かった。歴戦の傭兵団団長でも、こういう所があるのだと分かって、マローネは少しおかしかった。

奥の部屋は、庭の隣にあった。

庭には池が作られていて、色とりどりの不思議な魚が泳いでいる。更に、水を受ける竹製の容器があり、それが定期的に上下しては、澄んだ音を立てているのだった。ザブトンを用意して貰い、茶が出てくるのを待ってから、マローネはアッシュがゴーレムから取り外した牙を出した。

その牙の大きさに目を見張りながらも、伯爵は言う。

「それでは、結果を聞かせて欲しい。 やはり魔物はよみがえっていたのか」

「はい。 酷い目にあいましたけれど、どうにかやっつけました」

時が止まったかのように、伯爵が静止する。

竹が澄んだ音を立てて、やっと我に返った伯爵が、まじまじとマローネとリエールを見る。

「私も耳が遠くなったのか? やっつけた、と聞こえたが」

「はい。 どうにか」

「マローネ殿の言葉は本当です。 モルト伯」

リエールが助け船を出してくれた。マローネも、机上の牙を、伯爵に差し出した。

まだ半信半疑の様子だったが、モルト伯も、一つがマローネの二の腕ほどもある巨大な牙を見て、納得せざるを得なかったらしい。

「まさか、勇者様でも封じるしか無かった魔物を……」

「いいえ、伯爵様。 あの魔物には、とても悲しい事情がありました。 それに、魔物自体が弱体化していて、それでどうにか出来たんです。 私の力ではありません」

「いや、マローネ殿、そのように卑下してはならない。 モルト伯、彼女はここ一番の好機をしっかり掴んで、魔物を撃破するために最大限の動きをしました。 今回の武勲第一は彼女です」

「リエールさん、そんな」

しばらく黙っていたモルト伯は、用意していたらしい袋を出す。

マローネには三万ボルドー、リエールには七万五千ボルドーが入っていた。ちょっと自分には多すぎるかなとマローネは思った。四十名の団員と戦ったリエールが、七万五千なのだ。

それでも相場からすると、かなりの高値であるようだが。

「マローネ君」

「は、はいっ!」

「今回は、実は私の方でも調査を進めていてね。 ほこらに封じられている魔物の正体については、君達が出た後にある程度見当が付いていた。 だから勝ち目は無いと思い、救援のための部隊を派遣しようとさえ思っていたのだが。 まさか倒してしまうとは、思わなかったよ」

信じてくれたのか。

マローネのことを信じてくれないクライアントは多かった。だが前回も誠実な対応をしてくれた伯爵は、今回も変わっていなかった。

初めて、お客様と、信頼関係を構築できた気がする。

震える手を、ぎゅっと握り込む。人前で涙は見せないと決めているのだから。

この誠実な老伯爵を、マローネは大好きになった。この人が寄せてくれる信頼を裏切りたくは無いとも。

「君はまるでスカーレット様の再来だ。 今後も仕事を依頼させて貰うと思うが、その時はよろしく頼む」

「は、はいっ!」

「また機会あれば、共に戦いたい。 私からも願うところだ」

リエールも、マローネを信頼してくれているらしい。

何だろう。

こんな良いことばかり起こって良いのだろうか。何かに化かされているのでは無いのだろうか。

料亭を出た後、マローネは自分の頬をつねってみた。

痛かった。

生きている痛みだと、マローネは思った。

「やっと、努力が報われはじめたね」

「うん。 アッシュ、私ね。 生きていちゃいけないんじゃないかって、思っていた事もあったの」

空を見上げる。

嫌みなほど、晴れ渡っていた。

「でも、今は思うわ。 みんなのために、頑張ってきて良かったって。 これからも、頑張れるって」

きっと、いつかみんながマローネのことを好きになってくれる。

お父さんとお母さんの言葉は、間違っていなかった。

「さあ、一杯報酬も入ったし、生活必需品を買いそろえておこう。 帰りは富と自由の島に寄っていこうか。 そんな格好じゃ、ジャスミンもヘイズも嘆くよ」

「もう、アッシュったら。 それくらい、分かっています」

アッシュに見られないように、目をこすると。

マローネは、自身のボトルシップに向けて、歩き始めたのだった。

 

(続)