どこにもいない勇者
序、焦土の中で
これでいくつ目か。
会議に呼ばれた魔王セルドレスは、いらだちに机を何度も指先で叩いていた。彼は見かけ巨大な岩に手足が生えたようなごつい姿をしており、顔に当たる部分には目が十五個、肩や腹にも点々と目が付いている。口は頭頂部にあり、其処には鋭い牙がずらりと並んでいるのだ。
恐ろしげな姿だが、セルドレスはベジタリアンであり、食糧は植物に限定されている。
資料がやっと回ってきた。その資料に、近場の魔界が壊滅した経緯が書かれていた。
またサルファーだ。魔界が一つ潰され、其処に住んでいた住民達が皆殺しの憂き目にあったのである。
魔界は無数に存在し、それらが対立しているのが普通だ。いくつもの魔界を支配する大魔王と呼ばれる存在もいるが、それでも実際は信託統治の形を取ることが多く、実務は殆ど現地の配下に一任している。
カオスの世界。
力が全てを決める場所。だから戦争も多い。だが苛烈な環境で鍛えられた住民達は、簡単にやられることもまずない。泥沼になりやすいから、双方が本気での殲滅戦は、ほぼ起こらない。
そのため、魔界での戦争は、幹部同士が戦って、勝敗をもって決着とすることが多いのだ。
残虐な闘争の坩堝に見えて、実際には人情的な感情も働く。親子で殺し合うことはまずない。戦いでも捕食を目的とした場合を除けば、相手を殺す事は殆ど無い。此方に移り住んできた人間が、居着いてしまった例さえある。奴隷制度というものも存在しておらず、魔王の子だろうが魔神の兄弟だろうが、実力があれば権力を得るし、実力が無ければ底辺の生活をする。
また、強者が弱者を支配するのは当然だという考えがある一方で、強者が弱者から搾取することは恥だとも考えられているのが、魔界の秩序を保っている一つの原因だろう。また、弱者を蹂躙することは戦士の恥という風潮も強く、戦争自体の規模は、人間が行うよりもずっと小さく、穏便に済んでしまう事も多いのだ。
要するに魔界は、魔王という最強の存在が大まかな方針だけを伝えるだけで巧く廻ってしまう、そんな不思議な世界なのである。恐らく、魔界に住んでいる生物が、人間よりずっと単純な思考回路をしていることが、その要因だろう。
不思議なバランスの上に立っている世界が、魔界なのである。
何名か、近場の魔王達がテーブルに着く。石造りの部屋で、テーブルは普通の黒檀製。この辺りは、人間の文化とあまり変わらない。違うのは、部屋が桁違いに大きいという事くらいか。
此処は大魔王として名高いカレルレアスの居城である。一応セルドレスもカレルレアスの配下と言うことになっているが、実情は信託統治というのも名ばかりの、独立も同じ状態だ。
魔王達は仲が悪いが、人間ではあるまいし、だからといって戦争をすぐに行うわけでも無い。
それに何より、今はサルファーだ。
大魔王が来ると、一応形だけは礼をする。この中で最強の存在だし、まあそれは当然だろう。
カレルレアスは妖艶な女の大魔王である。背中には鋭い翼があるが、それ以外はあまり人間と変わらない。噂によると、人間とのハーフだそうだ。顔立ちは美しいが、頬の辺りに鋭い向かい傷が一筋走っていた。彼女が歴戦の猛者である証だ。
非常に貪欲な大魔王で、とりあえず光り物を送っておけば機嫌が良くなる。だが頭脳が劣悪なわけでは無く、隠し事を見抜くのも得意なので、話すときは緊張する。最上座で足を組むと、大魔王は高い声で、だがゆっくりと喋った。
「諸君に集まって貰ったのは、他でも無い。 既に聞いていると思うが、第二十七魔界がサルファーに滅ぼされ、魔王センダックが戦死した」
「センダックをやったか。 相変わらず無軌道な暴れぶりだな」
他の魔王が軽口を叩くが、口調と裏腹に余裕が無い。
誰もが分かっているのだ。次に蹂躙されるのは、自分の魔界かも知れないと。
「それでだ。 少し前に、こんな手紙が来てな」
「手紙、ですか」
大魔王が指を鳴らすと、テーブルの中央に、映像が具現化する。
幾つかの魔界で共通言語として使われている黒文字だ。黒文字と言っても実際にその場に書かれている訳では無くて、魔術に寄る意思伝達手段だが。それにざっと目を通すが、とんでもない事が書かれている。というか、情報が伝わってくる。
「ああ、彼奴ですか。 確か闇の武器商人とか名乗っている」
「何々、サルファーが暴走をはじめた。 支援するから、助けて欲しい? はあ?」
「この愚か者は、少し前にある道具を用いて、サルファーを制御できたと私に手紙を送ってきてな。 兵器として活用しないかと、持ちかけてきたのだ」
勿論断ったと、大魔王は言う。
そうすると、そいつは性能実験だとかで、魔界の一つの紛争にサルファーを使って介入した。勿論脅しの意味もあったのだろう。
だが、それがまずかった。
サルファーはその魔界を、紛争どころか住民ごと丸ごと食い尽くしたのだ。
以降は、何の制御も効かなくなったという。
「馬鹿な話だ……」
「サルファーの正体は、魔界でも分かっておらん。 噂に聞く超魔王バールでさえ、その正体には大まかな仮説が出ているらしいが、此奴については全く不明だ。 そんな訳が分からんものを、小手先の技で作ったこざかしい道具で制御しようなどと……」
聞いて呆れると大魔王が締めた。
とりあえず、そいつからの連絡は絶えている。サルファーに喰われたのだろうというのが、推察される結末だ。逃げたのかも知れないが、どちらにしても、もうどうでも良い。
そういえば、聴いたことがある。
カレルレアスは少し前、人間の女戦士を部下にしていたという。女戦士は、カレルレアス直接統治下の魔界に伝わる未来を見通す力を欲し、闘争の世界に身を投じたのだとか。やがて女戦士が魔界を去り、そしてサルファーがおとなしくなった。
その件について、大魔王が正式にコメントを出したことは無い。
だが、魔界では噂になっている。その女戦士が、サルファーを一時的におとなしくしたのでは無いかと。
大魔王の部下の一人、知恵に長けると噂の魔神リネルが、眼鏡を直しながら言う。此奴は元々生粋の人間で、住んでいた世界を去って魔界に来た。魔界で修練を重ね、魔術の腕を磨いて、魔神として認められた変わり種だ。
「推定されるサルファーの戦闘力は、レベルにしておよそ2000。 その上、タチが悪い特殊能力を多数備えていることが分かっています」
「2000……」
魔王の一人が絶句した。
レベルとは、魔界で使われる強さの概念の一つだ。総合的な戦闘力を数値化したものである。
これが50前後で魔神と言われ、魔王は最弱でも200くらいはある。普通は300〜400くらいで、噂によると1200を超えている魔王もいるという。だがそれは、例外的に強い魔王だ。
この場にいる魔王達と大魔王が共同戦線をとっても、とても勝ち目は無い。レベル2000というのは、それだけ常識外で、破格の数値なのだ。
これ以上の数値を備えている存在となると、そうそうはいない。ごく限られた条件下で、そういった猛者がたくさんいる世界もあると言うが、それはあくまで例外だ。今セルドレスがいる近辺の魔界に、それはない。
更にタチが悪いことに、サルファーの場合、ただのレベル2000相当では無い。実数値で考えると、更に上と見込むべき相手なのだ。
「正直、それほどとは思わなかった。 洒落にならん」
「しかも話に聞くところによると、我ら悪魔の攻撃が、奴には通用しないというではないか。 剣も魔術も、まるで効果を示さんとか」
「ただでさえ絶望的な戦力差だというのに、どうやって覆せば良い」
このまま放置すれば、サルファーはまた現れ、魔界を喰らい尽くして去って行くだろう。
それだけは、避けなければならない。
不安の顔を見合わせる魔王達に、大魔王は言う。
「其処まで悲観する事はない。 まず第一に、サルファーは今満腹しているようで、活動を停止した」
腹に詰まっているのは同胞の亡骸だと言うことを考えると、流石に不快だが。しかし、動きを止めているというのは、不幸の中の幸いだ。
「第二に、奴はイヴォワールに目を向けている。 魔界は奴にとって餌場に過ぎず、しばらくは見向きもしないだろう」
「イヴォワール?」
「どこだ、其処は」
「テラと呼ばれる通常惑星の一地域だ。 其処にかってサルファーを打ち破った戦士がいる。 元々水準より遙かに人間の能力が高い場所で、能力者もごろごろいるようだな」
そんな場所があったのか。
人間は脆弱だと思っている魔族がいるが、それは間違っている。実際人間の世界から来て、魔神、それに魔王や大魔王になった奴は歴史上いくらでもいる。事実、カレルレアス麾下の魔神の何名かは人間である。
「それで、どうするのです」
「イヴォワール側の迎撃態勢に期待したい所だが、そうも行くまい」
「確かにレベル2000となると、宇宙艦隊でも繰り出さないと迎撃は無理でしょうな」
この近辺の魔界に、そんな技術は無い。自嘲的な発言である。
大魔王は、話を進めていった。
「戦況を見極める。 サルファーが勝ちそうになるようだったら、支援する」
「それしかありますまい」
他の魔王達も、おおむね同意した。
一旦会議は解散になる。空間に穴を開ける技術が魔界では発達しており、移動は非常に便利だ。魔王達は会議室から、それぞれの城に直接帰還していく。その中で、呼び止められたのは、まだ若い魔王だった。
メンツの中で、最年少である。とはいっても、見かけはかなり老けている。
彼も人間の血が混じっているという噂だ。
「魔王ソロモン、話がある」
「何でしょうか、大魔王陛下」
「セルドレス、お前もだ」
まさか、自分まで呼び止められるとは思わなかった。
しばらく、直接話をされる。
それが終わったとき、度肝を抜かれたのは、セルドレスだけでは無かった。ソロモンも唖然として、口をぽかんと開けている。
「正気ですか……?」
「私は大まじめだ」
大魔王はそう言うと、腕組みしたまま妖艶な笑みを浮かべたのだった。
1、勇者の影
マローネが熱心に手紙を書いている様子を、アッシュは目を細めて見守っていた。
ここのところマローネは、以前より更に修練に打ち込むようになっていた。島の周囲の浅瀬を走り込むことで、効率よく体力を付ける。泳ぎもやる。元々イヴォワールの民は泳ぎが達者で、マローネもそれは例外では無いが、ガラントの指示の元かなりの距離を毎日泳いで、持久力を付けた。
更にコリンの指示で座禅を組み、魔力を練り上げる。練り上げた魔力を、細かく調整して、シャルトルーズの強化につなげる。回復系の魔術をカナンに教わり、副作用の緩和に努める。
仕事が無い日も、ゆっくりは出来ない。だが、マローネは今までと違い、強くなることに貪欲になり始めている。実際、かなり強くなってきているのが、実感できるのだ。
勿論、アッシュも強くなるための努力をしている。ファントムになってしまった今、体を鍛えることは出来ない。その代わり技を増やしたり磨いたりすることは、肉体があったときよりも、むしろ効率よく出来ているような気がした。
そして、マローネは修練の合間に字を勉強している。そして、こうして手紙を書いているのだ。
相手は勿論カスティルである。
手紙の内容を覗くような野暮はしないが、ボトルシップの使用料金を考えて、やりとりは最小限にしているようだ。紙だって、マローネはそんなにたくさん持っていないし、インクにも限界がある。
だからマローネは、毎度頭を絞りに絞って文面を考えている。良くしたもので、カスティルも最初から意図的に字を小さくして、たくさん均一に書けるように工夫をしているようだった。
カスティルも、あまり裕福とはいえない環境にいる事は、この間の事件で分かっている。その辺りでも、マローネは親近感を感じるのかも知れない。
いつの間にか、ハツネが降りてきて、手紙を見ていた。
いつも家の屋根に登って、何も無いときは弓の鍛錬ばかりしているハツネだから、珍しい。
「あ、ハツネさん、見ちゃ駄目」
「心配しなくても、この世界の文字は読めん」
「あ。 そうか」
「でも不思議だな。 どうして会話が成立するんだ?」
アッシュの疑念は当然である。だが、ハツネの方が、それに応えてくれた。この子は真面目だが単純で、自分の方が知識的に優位に立っていると、機嫌よく何でも喋ってくれる。
人間社会では、ちょっと生きていけないかも知れない。何というか、子供のようなと言うか、子供そのものというか。
少し違う。単純なのだと、アッシュは気付いて、納得がいった。
「魔界では、実際には言葉を使っていない」
「え?」
「言葉というツールは、遙か昔に廃れた。 コミュニケーションのツールとしては問題が多々あったからな。 だから私達魔界の者は、幼い頃から対話用の魔術を身につけて、それで相手の意思を翻訳をしている。 種族によっては、生体情報に魔術を入れて、最初から会話が出来るようにしている」
「へえー」
だから、喋ることはそのまま出来ると、ハツネは薄い胸を誇らしげに張るのだった。マローネは素直に感心しているが、アッシュはちょっとげんなりした。何だかそれは良いことなのか、判断が出来なかったからだ。
確かに言葉は未成熟なツールだ。万能では無く、欠点も多い。神経質な輩になると、ちょっとした言葉尻を捉えて相手の人間性を否定したりもするし、何より意思が伝わりにくい。
かといって、単純なハツネのような人達ばかりの世界ならともかく、イヴォワールのように多くのヒトが住んでいる世界で、そのツールはどうなのだろうと思う。細かい言葉の上での駆け引きが出来ないから、いやがる人間も多く出そうだ。
そういえば、ハツネがはじめからコリンを警戒していて、マローネを信じていたことにもこれで納得がいった。マローネの言葉に全く無い悪意。それにコリンの言葉に大量に塗りたくられている悪意。それぞれを、敏感に察していたのだろう。会話をしているツールが、それぞれ違っていたから、起きた出来事だ。
ハツネは幾つか会話用術式の話をしてくれる。便利な部分も、確かに多い。
しかし、残念ながら、文字の解読は出来ないのだという。
「それはカスティルへの手紙か」
「はい。 いつも何を書くのか、とても考えなければならないから、大変です」
「勉学は有用だ。 私は生きている間、もっと勉学をするべきだったかも知れない」
ハツネは寂しそうに言うと、また屋根の上に戻っていった。
ボトルメールに手紙を詰めると、マローネは海へ流す。流されたボトルメールは、さっそく目的地である癒やしの湖島へ向けて泳ぎはじめた。
それと入れ違いに、凄く豪華なボトルメールが泳いでくるのが見えた。
金色だと言うだけでは無く、細かな装飾が付いている。泳ぐ早さも、かなりのものだ。
どうやら、仕事の依頼らしいなと、アッシュは見た。
ボトルメールが来たので、捕まえて開ける。ざっと手紙を見るが、マローネに対する害悪は無い。
手紙を渡す。
マローネはさっと目を通すが、文面よりも手紙自体に驚いていた。
「見て、アッシュ。 この紙、最上紙だわ。 私、触るの初めて」
「すごいね」
最上紙。それは植物の中でも選び抜かれたものを厳選して繊維を取りだし、魔術まで使って不純物を取り去って作る紙である。
非常に美しい白を作る事が出来るのだが、手間暇が尋常では無いため、とんでもない高値が付く。この紙も、売り飛ばせばそれなりの値段がつくかも知れない。
だからか、手紙の内容は、シンプルきわまりなかった。
「仕事の依頼をしたい。 雲島へ来られたし。 モルト伯カーマイン」
「伯爵って言うと、セレストの中でも中級クラスか。 いや、この人の名前、何処かで聴いたことがある」
「有名なセレスト様?」
「多分ね。 ちょっとすぐには思い出せないけど、結構力のあるセレストの筈だよ」
いずれにしても、セレストの依頼だ。指定している店も、結構高級な場所である。
アッシュがクロームをしていた時代、セレストから依頼を受けたことは二度だけあった。報酬が破格なのは当然だが、それよりも難易度が高かった。セレストは基本的に傭兵団などと専属で組んでいる事が多く、それがその場でクロームを雇うというのは、結構な難事である事が多いのだ。
とにかく、待たせればそれは相手を怒らせることにもつながる。
「きっと困っているんだわ。 すぐに行きましょう」
「ああ。 分かってる」
マローネが手を叩いて、皆を集める。
この間、癒やしの孤島での戦いの後、かなりの数のファントムを引き取った。島で多くの死人が出たのだから、当然だろう。
カナンは彼らの面倒を見たいと言って、島に残る事になった。
実際、彼女がファントムを輪廻の輪に戻しているところを、何度かアッシュも見た。今回引き取ったファントムの中には、まだ幼い子供もいた。熊のぬいぐるみを抱えた小さな男の子で、多分何が起こったかも分かっていない。きっとあの悪霊に寝ている間にでも襲われて、殺されてしまったのだろう。
確かに、そんな子を放置はしておけない。カナンにはなついているようだから、一緒にいてあげれば安心だ。
「カナンさんが残ってくれれば、私も安心です」
「気をつけて言ってきてください。 相手がセレストだからって、無理な依頼は聞いては駄目ですよ」
「僕も同意見だ」
「もう、二人とも」
笑うと、マローネはボトルシップに乗り込む。
そして、船を発進させた。
船が、がくんと凄い加速を見せる。明らかに以前よりパワーアップしている。
最初吃驚した様子だったマローネだが、それでもすぐに立て直す。ひょいと居住部になっている樽の上から、逆さまにコリンがのぞき込んできた。
「どう? 速くなったでしょ」
「な、なな、なんですかこれ!」
「大丈夫、駆動系をマローネちゃんとつなげたりはしてないから」
そういえば、前そんなことを言っていた。アッシュは背筋が冷えるのを感じた。
少し前、コリンがコンファインして欲しいと、マローネに言っていたことを思い出す。その時、色々と何か作業をしていたようだが、こんな事をしていたのか。
凄い加速を見せるボトルシップだが、マローネが出力を絞ると、いつもくらいの速度に戻る。
ただし、メーターはがくがくと触れていて、見るだけで不安になるほどだ。
「コリンさん!」
「マナを燃焼させる術式に、改良を加えただけだよ。 もともとこのボトルシップ、マナの容量で困ったこと無かったでしょ? だったら速くしても問題ないよね?」
「そうですけど、もっと早くいってください!」
「忘れてた」
ぺろりと舌を出すコリンだが。
絶対に嘘だと、アッシュは思った。此奴のことだから、マローネが吃驚する様子を、おもしろおかしく楽しみたかったのだろう。相も変わらず最低である。
意外にも、同じように屋根に乗っていたハツネは、妙におとなしい。
見ると天井に張り付いたまま、真っ青で無言のままである。いつもなら文句を言いそうなものだが、或いは。速い乗り物が怖いのかも知れない。
コリンが細かくマローネに、新機能の説明をしている。
「このレバーで、速度を調整するの」
「これですか?」
「そうそう。 前は速度があんまり変わらなかったから、使ってなかったでしょ。 本来はこれを操作することで、速度を自前で調整できるんだけど、何しろ古い機械だから、壊れてたみたいだね」
「コリンさん、詳しいですね」
300年前くらいのネフライトだというのに、何でこんなに詳しいのかは、アッシュも気になる。
霊体化して付いてきているガラントとバッカスはずっと無言なので、嫌々ながらコリンに聞いてみる。
「あんたにしてみれば、この機械でさえ、新型じゃないのか」
「そうだよ? だから調べて覚えた」
「……」
「ファントムだって、知識や技術は成長するんだって。 まあファントムとして彼方此方をうろついているときに、見て覚えた知識もあったから、だいぶ楽だったけどね」
マローネが、少しずつレバーを使って、速度調整をしていく。
徐々に速度が上がったり、下がったりしているのは、操縦に丁度良い速さを確かめているのだろう。
やがてマローネは、いつもより少し速いくらいに落ち着かせた。
「あれ? そんなでいいの?」
「はい。 事故が起こったとき、大変ですから」
「ふうん……」
遠くの方で、銛を持った人間族の男の子達が、素潜りで魚を捕っている。マローネより小さいくらいの男の子達だが、海で鍛えているから、肌はこんがり焼けて、筋肉はかなり付いている様子だ。
確かに、これ以上速度を上げると、ああいう子達にぶつかったときにただでは済まなくなってくる。マローネらしい優しい配慮だ。
海が深くなってくると、マローネは速度を上げた。
こういった所では、大形のボトルシップが増える。以前から煽ってくる大形のボトルシップに遭遇することがあって、マローネも眉根を下げて困り果てた顔をしていたものである。
こういう場所では素潜りしているヒトも少ないし、速度を上げても大丈夫だと言うことだ。
マローネは急激に、ボトルシップの新機能に順応してきている。
前は此処まで学習能力が高くなかった。多分霊木の魂と融合したことや、それ以上にカスティルという友達を得たことが大きいのだろう。
雲島へ、予定よりだいぶ前倒しして到着することが出来そうだ。
途中、雨が降り始めた。
雷雨になると厄介だ。海での嵐は、遭遇すると命に関わる。だが、それを見越したように、ハツネが遠くを見ながら言う。
「積乱雲は確認できないし、雲も厚くない。 突破すれば、危険は無いだろう」
「分かりました! でも念のため、少し急ぎますね」
「それがいい」
ボトルシップが、更に若干速度を上げる。
右手に小さな島が見えた。小さいが、しかしかなりの密林地帯だ。巨大な木が生え茂り、カラフルな鳥が飛んでいる。雨の中でも、むしろ騒がしいほどに、生の臭いが濃い島である。
やがて、雨が小降りになる。
本降りになるようだったら、近くの島に避難することを考えなければならなかったが、その危険性も通り過ぎた。海も若干波が高いくらいで、転覆の危険性は無い。
「そろそろかな」
「うん。 ずっと以前より早く着けそうだね」
「そうだね。 でもこの便利さになれると危ないわ」
マローネはそう言って、速度を敢えて落とした。
雲島は巨大な依頼人との斡旋場だ。少しずつ世界に危険な臭いが満ち始めている今、仕事を頼む人間は増えてきている。
海難事故を避けるためにも、速度を落とすのは正解だ。
やがて、マローネが港に到着。切符を貰って、船を停泊させた。他にもクロームのものらしい小さな船が、点々と停泊している。
今回指定された店は、以前ここに来たときとは、地区からして違う。雲島の奥の方にある高級店である。
こういう店の支払いは依頼人がすると決まっているが、しかし周囲を見ると、見たことも無いような高級服で着飾った人達ばかりで、マローネは度肝を抜かれている様子だ。アッシュはきょろきょろしているマローネをたしなめる。
「マローネ、田舎者だと思われるよ」
「あら、正真正銘田舎者よ」
「そうだけどさ……」
「あ、あのお店みたいね」
無邪気に笑顔を浮かべているマローネ。
まだ、きっと心の傷は癒えていない。ましてやこの雲島では、色々とつらいことがあったのだ。
それなのに、マローネは笑っている。
アッシュは少し胸が痛むのを感じた。
店は通りの奥にあった。左右に立ち並んでいるのは、いずれも食事をするための店の筈だというのに。看板どころか、料理の料金表も出ていないような場所ばかりだ。そもそも、お客は殆どがお金持ちで、仕事の依頼のためだけに使うのだろう。それでお店側も、商売が成り立ってしまうと言うわけだ。
もっと等級が下がる店でも、根本的な仕組み自体は同じだ。
マローネが店の中に入ると、左右にずらりと使用人が並んで、完璧な連携で一礼。それだけで度肝を抜かれたというのに、いきなり名前を呼ばれる。
「マローネ様ですね」
「は、はい!」
「モルト伯は此方でお待ちです」
一番偉いらしい使用人に案内される。木で出来た建物の、狭い階段を上がって、二階へ。とても良いにおいがする。香木でも焚いているのだろうか。
階段も踏んでいて、とても良い感触だ。靴を脱いで上がらなければならなかったので不安だったのだが、足の裏に来るひんやりした木の感触が、むしろ気持ちいいくらいである。質が悪い木の床だと棘が刺さったりもするのだが、これならその心配も無さそうである。
壁や天井にも、とても凝った装飾が為されている。
或いは、イヴォワールの外からの由来品かも知れない。明かりは魔術を使っているようなのだが、それ自体を見せず、紙の箱のようなもののなかに光源を入れている。何というか、とても綺麗で幻想的だ。
「凄い高級店だな。 俺もこんな所に入ったのは初めてだ」
ガラントが後ろで呟く。
マローネは生唾を思わず飲み込んでいた。そんな場所に来てしまって良かったのだろうかと想ったからだ。場違いでは無いのだろうか。
部屋に案内される。
畳という、草を編んだ床である。部屋の真ん中には四角くて小さな机があり、もてなし用らしい小さな器があった。既に茶を淹れられていて、湯気を立てている。
座っているウサギリス族の老人が、多分モルト伯だろう。非常に上品な雰囲気の老紳士で、ふさふさの髭で顔が隠れそうである。小柄だが、落ち着いた雰囲気と、知性を感じさせる佇まいが、いかにも名君という印象だ。
向かいに座る。
ザブトンという敷物を用意してくれた。使用人が、マナーを色々耳打ちしてくれるので、どぎまぎしながらそれに従う。
一段落したところで、モルト伯が言う。
「君が、マローネだね」
「はい! よ、よろしくお願いします」
「楽にしてくれてかまわない。 君については、事前に色々と調べさせて貰った」
緊張が、背筋に走る。
そもそもセレストからの依頼である。無礼があったら、セレストどころか、他の依頼人からも仕事が来なくなる可能性も高い。
元々マローネは、仕事でトラブル続きだ。悪霊憑きという風評がその原因の一つだが、以前ウォルナットに言われたことを思い出す。
周囲が定義すれば、人間社会ではそれが真実になる。
マローネが悪霊憑きだと周囲中の人間が言えば、そう言うことは悪では無くなる。現実など、どうでも良い。
オクサイドを専門にしているというあの男は、そんなことを言った。今でも、心に傷は残っている。
「君は仕事上では非常にすぐれた実績を上げているが、不思議と依頼人からの評判が良くないようだね。 理由は、悪霊憑きだと君が呼ばれていることが原因かね」
「ごめんなさい。 仕事の依頼主さん達とトラブルが多いのは認めます。 でも、私は、悪霊なんか操りません」
「ふむ、そうか。 では、話を変えよう。 少し前の、癒やしの湖島での事件について、私なりに調べさせて貰った。 君の獅子奮迅の活躍で、癒やしの湖島が救われた。 悪霊達を相手に、命を惜しまない働きをする君の姿は、複数のクロームに目撃されて、多くの人を救ったことが証言されている。 その時君は、霊を具現化させて、戦わせていたそうだね」
「はい。 それが私の力、シャルトルーズです」
「なるほど、霊を使っていること自体は確かなのか。 悪いが、見せて貰えないだろうか」
しばらくためらった後、マローネはシャルトルーズを使うことにした。
こういった面接が仕事の時に行われることは珍しくない。依頼人の中には、そうやって話して、相手の印象から能力を割り出す者がいるのだ。
アッシュを、側の花瓶にコンファインする。
凄く高い花瓶だろうから、マローネも緊張したが。花瓶がヒトの形を取り、アッシュになったのをみて、流石のモルト伯も、更に驚いたようだった。
「素晴らしい。 これは驚天の奇跡だ」
「アッシュと言います。 伯爵閣下、お見知りおきを」
アッシュを、すぐに花瓶に戻す。
花瓶は傷んだり、傷ついたりはしていなかった。ちょっと不安だったが、触ってみて特に痛んでいなかったので、マローネは内心胸をなで下ろしたのだった。
咳払いしたモルト伯の方に向き直る。
使用人さんが、そそくさと無言のまま花瓶を片付けていた。これ以上変なことをされたらたまらないというのだろう。
「話してみて分かったが、君は言葉に嘘が無い。 手札を隠すような真似もしないし、何より私の言葉を疑っていない」
「はい。 それで、時々酷い目に遭うこともありますけれど」
てへへと、苦笑いする。
本当は「時々」どころでは無い。だが、それでもマローネはヒトを信じたいのだ。お父さんとお母さんが残してくれた言葉の通りに。
「ならば、私も君を信じるとしよう。 仕事を任せたい」
どうやら、モルト伯は、マローネを気に入ってくれたようだった。
ボトルシップに乗り込みながら、マローネは仕事の内容と、モルト伯との会話を頭の中で反芻していた。
仕事とは、他でも無い。勇者スカーレットの捜索である。
30年前、サルファーを倒した後失踪したスカーレットは、未だに生死が分かっていない。各地のセレストが血眼になって探しているのは、サルファーが死んでいないことが確実で、またいつ現れるか分からないからだ。
今までも、サルファーは何度となくイヴォワールに襲来した。
蹂躙されるだけ蹂躙されたときも、誰か勇者の手によって撃破された事もあった。スカーレットはサルファーに挑戦した歴代の勇者の中では特に武勇が優れていたらしく、単独で挑んで撃破したのだという。
だが、どうしてだろうか。その後、スカーレットは忽然と姿を消してしまった。それだけではない。スカーレットについては解らない事が多く、どこで武勇を磨いたのかもはっきりしていないのだ。
セレスト達の思惑は様々だ。サルファーにぶつけてもう一度撃退させようと思っている者、撃退する方法を知りたがっている者、或いはどうやってか後進を育てたいと考えているものもいる。
中には、スカーレットの圧倒的な力を、軍事利用しようと思っている者もいるようだった。
モルト伯は違う。
彼は、スカーレットと協力して、サルファーに立ち向かいたいと言った。
「世界には異変が訪れはじめている。 ここしばらく、各地の島で、悪霊騒ぎが頻発しているのは、知っている事だろう」
「はい。 恐ろしいことです」
「そうだ。 君も当事者だから、あの悪霊達の恐ろしさは思い知っているだろう。 恐怖を知らず、引くことも無く、只ひたすらに攻め寄せてくる狂気の軍勢。 忘れもしない、30年前。 私も軍を率いて、あのおぞましき怪物達と戦ったのだ」
だが、どうにもならなかったという。
一体一体は、さほど手強くも無い。だがどこからでも現れ、いくらでも現れる。やがて絶え間ない攻撃に兵力はすりつぶされ、戦線さえ維持できなくなり、強者達も倒れていった。
そんな中、敵中を突破した勇者がスカーレット。そして、サルファーを打ち破ったのも、スカーレットだった。
そして、今回、モルト伯の下に情報が入った。
「先に断っておくが、今回の情報は精度が高くない。 誤情報である事を君には確かめて欲しいのだ」
「情報が間違っている事を、ですか」
「そうだ。 私としても、確度が高い情報に全力で諜報を行いたい。 そこで、君のような有能なクロームに動いて欲しいのだ」
「ありがとうございます」
ちょっと照れてしまう。だが、モルト伯は、幾つかの情報を渡すと、後は頼むと突き放してきた。
まあ、無理も無い事だ。
指定されたのは、草の茂み島。
名前とは裏腹に、全島が密林になっている、言うならばジャングル島である。しかも土壌の栄養が豊富なのか、生えている草はどれも巨大に成長しており、人間大の食虫植物など、危険な植物も散見される。
来る途中に見かけた、あの島らしい。
ボトルシップを操作しつつ、マローネは海図を見て確認。どうやら間違いは無さそうだった。
「マローネ、今回は露払いだ。 危険は少ないとは思うが、ただし島の環境があまり良くない。 油断はしないようにね」
「分かってるわ、アッシュ。 でも、モルト伯は私を信頼してくれたんだし、それに応えなければね」
快調にボトルシップを飛ばす。
やがて、見えてきた。まだ昼少し過ぎだし、今から探索を行っても問題は無いだろう。さっきの雨雲はもう何処かに行ってしまったらしく、姿は見えなかった。
島の北端に、居住区がある。
この島は見た目の通り植物資源が豊富で、しかも農作業をほとんどせずとも収穫が見込める。幾つかの果実は特産品になっており、栄養価が豊富で評判も良いという。しかし果物はしょせん果物。それほどの量が取れるわけでも無く、島民の生活はさほど裕福では無いそうだ。
上陸してみる。
桟橋も粗末で、見張りもいない。漁用のボトルシップが散見されるが、それだけだ。住民はウサギリス族が主体らしく、家が変わっている。
どうやら、此処に生えている巨大な植物の内部をくりぬいて、住み着いているらしい。木のうろがそのまま家になっているらしく、非常に面白い光景が周囲に広がっていた。
それにしても、巨大な木々が林立している島だ。
しかも、異常に暑い。もう少し薄での服があれば良かったのだが、そうも言っていられない。
今回はセレストの依頼と言うこともあるから、報酬に期待は出来る。お洋服をもう一着くらいは、買えるかも知れなかった。
それにしても、どうしたのだろう。
住民達の視線が、痛い。マローネが一人で船を出てから、値踏みするようにじっと見ている。
後ろにいたガラントが、マローネに耳打ちしてくる。
「一人だけだと言うことを示しておけ」
「どうしてですか?」
「この島はな、昔後ろ暗い事を島ぐるみでやっていたのだ。 今では足を洗っているようだが、その頃の関係者では無いかと疑っているのだろう」
後ろ暗い事。小首をかしげているマローネは、全身が総毛立つのを感じた。
凄まじい恨みが籠もった視線が、周囲から向けられている。それはいわゆる、怨念という奴である。
森の中に、無数のファントムがいる。
しかもどちらかというと、怨念と恨みを蓄えた、本当の意味での悪霊に近い者達だ。しかも、女子供ばかりである。
いろいろな種族がいるが、ウサギリス族はいない。それも異常さを際立たせていた。
ファントムが見える人間は、魔力の強い者の中に散見される。マローネほどはっきりではないが、見える人には見えるものなのだ。
どうして、こんな事になっている。子供達の中には、頭をかち割られたり、手足を失っていたり、酷い有様のままファントムになっている者も多いようだった。サルファーの襲撃による死では無いだろう。
「ガラントさん、これは」
「言うな。 口にするも不快だ。 俺の傭兵団が、ここにいた連中をぶっ潰したことがあったが、その時のことは思い出したくも無い」
大体、マローネには事情が分かった。
この島は、恐らく奴隷商売、しかも違法のものの、中継地点だったのだろう。
貧富の格差が激しいイヴォワールでは、奴隷になる者は少なくない。
しかも、金持ちの中には、いるのである。普通の奴隷にはさせられないような、極めて下劣な欲望を満たすためだけの奴隷を必要とする存在が。
ここにいる子供のファントム達が、どんな目にあって命を落としたのかはよく分からない。だが、事情を聞けば、恐らく吐き気を催すような事を延々と話してくれることは疑いない。
幸い、最近はそう言うことも減ってきていると聞いている。
だが、マローネも幼い頃、人さらいにさらわれ掛けた事がある。まだ、世界から、悪徳は消えていない。今後も消えることは無いだろう。
とりあえず、あの子達は後回しだ。彼処まで怨念を蓄えてしまっていると、後が大変である。
カナンに任せるにしても、時間は掛かることを覚悟しなければならないだろう。それだけ、長い間蓄え込んだ怨念というのは、厄介なのだ。
「オレガツレテイク」
「バッカスさん、お願いします」
「ワカッテイル」
バッカスが、自主的に先導役を買って出てくれた。
今回はさほどの激戦が想定されないとは言え、主力として前衛を務めてくれるバッカスが外れるのは痛い。
ただし、あの気の毒なファントム達を放置も出来ない。おばけ島に連れて行って、どうにかしてあげたいのも事実なのだ。
バッカスを見送ると、マローネは目を乱暴にこする。
そして、ウサギリス族の島民達に向け、歩き始めた。露骨に警戒していた彼らだが、マローネがクロームである事、人を探しに来たことを告げると、安心したようだった。
「そっかあ、ベリルじゃねえだか」
知的なイメージがあるウサギリス族だが、この島の人達は随分と素朴だ。
或いは、此処にあったという犯罪組織は、外部の連中が作り上げたものだったのかも知れない。
ただ、今でも同じようなことをしていないとは言い切れない。人を疑うのは嫌だが、警戒はしなければならないだろう。まず、信用する。裏切られたら、その時だ。その時のために、備えをしておけばよい。
自分に言い聞かせながら、マローネは、一つずつ、話を聞いていった。
2、濃厚なる密林
モルト伯の話によると、スカーレットは能力者だったという。
能力者は、例外なくある特性がある。体に、特殊な形の痣が出来るのだ。
マローネの場合は、胸の少し下辺り、おへその少し上に、双葉の芽のような痣がある。きっと命を芽生えさせるという意味があるのだろう。
スカーレットは、炎の形の痣を持っていたのだとか。
その話をすると、一人のウサギリス族の青年が、心当たりがあると言う。それに他の村人も同意した。
ただ、その同意の際に、妙な間があった。
「多分それは、変わり者のミロリだの」
「ああ、あいつだか!」
「ミロリさんと言うんですか?」
「そだ。 島のおくさ隠れて、基本外にはでてこねえだ。 確か、顔の真ん中に、すげえ炎型の痣がある」
礼を言うと、マローネはその場を離れる。
村の人達は、純心に見えた。きっと、疑わなくてもいい。信用して良いのだ。自分にそう言い聞かせる。
村を出ると、其処は既に密林。
周囲からは、濃厚な獣の臭いがする。また、此方をうかがっている気配も、四方からした。
「私をコンファインしてくれ」
「ハツネさん?」
「奇襲を防ぐにはそれがいい。 上から見張る。 在来の猛獣くらいなら、たいした消耗もせず仕留められるだろう。 マンティコアくらいまでなら大丈夫だ」
「分かりました。 お願いします」
森の生命力が豊富だからか、辺りにはコンファインできそうなものが無尽蔵にある。
ブッシュがどこまでも続いていて、普通に歩いていると、膝も足も傷だらけになりそうだ。
そんな中、警戒までするのは確かに大変である。ハツネに任せるのが良いのだろう。
側にあった、葉っぱが四方に伸びている草に、ハツネをコンファイン。身の丈ほどもある草が、見る間にマローネと背格好があまり変わらないハツネに変化していった。
変化自体の速度も、かなり上がっている。
だが、それでも。奇襲を受けた場合は、間に合わない。
具現化したハツネは、するすると木を登り、枝の一つに上がる。手をかざして周囲を見始めた彼女は、不快げに言った。
「何だこの森は」
「どうしたんですかー?」
「全く手が入っていないのは良いが、無秩序と自由は違う。 これは在来の密林では無くて、外来種が無秩序に繁殖した結果だ!」
よく分からないが、ハツネはぷりぷりと怒っていた。
いずれにしても、今の時点で、周囲に奇襲の恐れは無いらしい。足を切ったりしないように、気をつけながら歩く。
いざというときは、ガラントをまずコンファインして、次はコリンだ。やはり、アッシュは最後の切り札になって貰う。
そういった打ち合わせは、事前に済ませてある。
しばらくは、無言で密林を行く。
凄い鳴き声がして、びっくりして見上げると、極彩色の鳥だった。くちばしが湾曲していて、しかもストライプに色が付いている。
大きな猿が、木の上の方を跳ね回っているのが見えた。ギャッギャッと、鳴き声が聞こえる。多分意味がある音声で、コミュニケーションを取っているのだろう。
「わあ、お猿さん」
「猿の腕力は同じ大きさの場合、人間の数倍に達する。 あれは比較的攻撃的な種類だから、近寄るな」
「ガラントさん、詳しいですね」
「……昔、嫌な光景を見てな。 あの種類では無いが、猿に無防備に近づいた子供が、引き裂かれて喰われてしまった事があった。 そういえば、この島の事だったな……」
流石に足を止めてしまう。
ジャングルは過酷な環境だ。住んでいる動物は、餌を得るために必死だというのは分かる。
だが、そういう実例を聞かされてしまうと、流石に今までと同じ目では見られない。
こんな恐ろしい所の、しかも奥地で暮らしているというのは、どういうことなのだろう。猛獣に襲われないのだろうか。
川にさしかかる。
比較的大きな島だけあって、川の幅も広い。見ると、ジャングルは傾斜があって、山の裾に張り付くように出来ている様子だ。当然川は、山頂近くから流れてきていると見て良いだろう。
直接川に入ることは止めた方が良いと、ガラントが教えてくれる。
「こういった川には、危険な生物がいる可能性が高い」
「肉食の魚ですか?」
「そんなものは危険とは言えないな」
アッシュの言葉に、川をのぞき込みながらガラントが言う。
ハツネはと言うと、既に川を渡るのに適切な地点を探している様子だ。熟練のレベルが違う。
「たとえば、リチという小さな魚だ。 これだが」
「わ、小さくて可愛い。 細長い魚ですね」
「これは体の穴から中に入り込んで寄生する。 穴は何でもいい。 そして生き血をすすり、病気を媒介する」
笑顔のまま固まるマローネに、更にガラントは続ける。
川の側の、水がよどんで溜まっている場所にしゃがみ込んだまま、かって傭兵団を率いていた熟練戦士のファントムは遠慮せず言う。
「此奴の媒介する病気は非常にタチが悪い。 下手をすると子供を産めなくなるぞ。 分かったら、川に入るなんて事は考えずに、自然の橋を探すか、浅瀬を探す事だな」
「ガ、ガラントさん」
「本当のことを言ったまでだ。 表現を軟らかくすれば、何か事態が好転するとでも言うのか」
「見つけた。 此方にわたれそうな所がある」
アッシュの抗議を、ガラントはものともしない。何を子供みたいなことを言っていると、一蹴した。
やりとりを知ってか知らずか、ハツネが声を掛けてくる。
しばらく、恥ずかしくて、気まずくて、何も喋ることが出来なかった。リチという魚が恐ろしいと言うよりも、ガラントの言葉で寄生されたときのことを想像してしまい、真っ赤になった後真っ青になった。
十三歳ともなれば、性知識も少しずつ入ってくるようになる。むしろ一番デリケートな時期であることは、マローネも自覚している。だからこそ、何というか、多少は誤魔化して欲しかったのだが。
この辺り、無骨な男の人は接しにくい。
少し川を遡上して、ハツネが言っていたわたれそうな所を見つける。
川の水は非常に濁っていて、中に恐ろしい怪物がいてもおかしくない。ただでさえ非力な人間は、水の中では更に非力になる。泳げるマローネでも、それに違いは無いし、こんなにごった水ではそもそも視界も確保できない。
どのみち、此処を泳いで渡るという選択肢は無かったのだ。
「俺をコンファインしろ。 渡るときの手助けをする」
「え、ええと」
「先の哨戒や、殿軍も兼ねる」
すぱすぱと話を進めていくガラント。ありがたいが、だが何というか、もう少しデリカシーというものを考えて欲しかった。
そのままだと担いで渡るとか言い出しかねないので、マローネは気まずい中、ガラントをコンファインした。
わたれそうな場所というのは、石が点々と並んでいて、其処を跳んでいけば良い形状だ。当然石の間は、他よりも水が激しく流れている。途中一カ所、かなり石が離れている場所があった。
多分島の人達が、橋代わりに作ったものだろう。
ガラントが先にわたって見せて、見本を見せてくれる。要所ではマローネが落ちないように、手を引いてくれた。
最近は鍛えているが、それでもまだまだ付け焼き刃だ。ガラントの太い腕は丸太のように感じるし、力強い手で手首を握られると骨が軋むようである。
川を渡り終えると、ガラントはしばらく周囲を偵察して来てくれた。木陰に丁度良い岩があったので、其処に座る。
ため息が漏れた。
ガラントに対してでは無い。というか、ガラントがごくまともな正論しか言っていないことは、マローネも分かっているのだ。
ため息は、自分に対して、である。
あれくらい笑って受け流せなければいけない。もう少し年を取れば、もっと露骨な性的な話題を振ってくる依頼主も出てくるだろうし、異性からはそういう意味でのアプローチだってされる。
島によっては、マローネくらいの年で、子供を産むケースもあると聞いている。生活環境が厳しい場合、女の子は子供が産めるようになったら即座に大人扱いになるのだ。そうしないと、そもそも生活が廻らないのである。
しかも、ガラントは嫌がらせをしようとして、ああいう話をしたのでは無いのだ。マローネのことを思っているからこそ、ああいうことを言ったのである。
アッシュに肩を叩かれる。
「どうしたの」
「うん。 ふがいないなと思って」
「大丈夫。 マローネは頑張っているよ」
「ありがとう。 でも、自分で乗り越えてみせるわ」
ハツネが戻ってくる。コンファインして肉体があるのに、どういう技を使っているのか、ブッシュの中を歩いているにもかかわらず音も気配も無い。
「この少し先に、大形の怪物がいる」
「えっ!」
「大きな犬のような奴だ。 牙が鋭く、毛が長い。 大きさはマローネの背丈の三倍くらいはありそうだな。 肩までの高さも、マローネの背丈の1.5倍はある」
「ベヒモスだね」
アッシュが特定してくれた。
ベヒモスは、ドラゴンに次ぐ体躯を持つ大形の怪物で、知能は高くないし比較的性質がおとなしいものの、怒らせるとかなり危険だという。
食性は雑食で、普段は草食なのだが、たまに草食動物を襲って喰らうのだとか。
「ベヒモスとしては小さい方だと思う。 僕が依頼で遭遇した奴は、もっとずっと大きかったよ」
「できれば、戦いたくは無いわ。 避けて通れないの?」
「戦う必要は無いと思うよ。 ただ、相手に姿も見せない方が良いだろうね。 たまに肉を食べたいタイミングかも知れないからさ」
「そうね」
ガラントも戻ってくる。
そして、ハツネとは別方向を指さした。
「そちらに行くと、更に森の奥に行ける。 一番奥は坂のようになっていて、民家らしいものがあるな」
「なら、そうしましょう」
「……」
ハツネが目を細めて、やりとりを見ていた。
好意的な雰囲気では無い。退屈そうにしているコリンが、あくびをしているのが、視界の隅で見えた。
「コリンさんは、何か意見は無いの?」
「なーし。 こういう非文化的な場所は興味感じなーい」
「いざというときには働いてくれよ」
「わーってるって。 あたしもマローネちゃんがいないと、何も出来ないことに変わりは無いからね」
ひらひらと手を振るコリンは、ベヒモスの方にちょっとだけ行きたそうな顔をしていた。
退屈を紛らわすために、見たいと思ったのかも知れない。
ずっとコンファインしていると、いざというときに動けないことも想定される。だから時々休憩を入れつつ、交代にコンファインも解除して、比較的ゆっくり進んだ。
密林を奥へ奥へ。
途中、いきなり海に出て驚いた。此処は所詮離島だと言うことを、こういうときに思い出す。歩いていれば、そのうち海岸に出ることは自明の理だ。
流石に繁殖力旺盛な密林の木々も、砂浜にまでは生息していない。
そろそろ夕刻になる。今日はここでキャンプするのが良さそうだ。
一応、野営の準備はしてきてある。
「バッカスさん、もうおばけ島についたかしら」
「多分ね。 カナンさんが、あの可哀想な子供達を助けてくれるよ」
「帰ったら、みんなとお話がしたいわ。 少しでもそれで、苦しみを和らげてあげたい」
ガラントが、密林で、肉厚の木の実を幾つか取ってくる。土留め色の堅い殻に覆われていたが、石で割ってみると、中からは汁気のたっぷりある茶色い果肉が出てきた。しゃぶってみると、とても甘い。
海では、コリンが小規模の術式で爆発を起こし、気絶した魚をたくさん拾ってきた。ハツネが手際よく捌く。
その間にマローネは、火の術式を使って、たき火を熾していた。戦闘に使えるほどの術式はまだ自信が無いが、たき火くらいならこの程度だ。枯れた葉や枝は、辺りにいくらでも落ちていたので、たき火を作るのは難しくなかった。
「ハツネさん、お料理上手なんですね」
「野戦料理しか出来ないがな」
手際よく捌いた魚を串に刺し、火であぶりながら、ハツネは嬉しそうにはにかんだ。素直でとてもかわいらしい。
皆をコンファインして、そのまま食卓を囲む。
焼いたお魚とよく分からない果物だけだ。だが、それでもみんなで食べると、とても美味しい。
「食事をするのは久しぶりだ」
「密林から栄養が流れ込んでるのか分からないけど、美味しいねえ」
普段他の人と仲が悪いコリンも、無邪気な笑顔を浮かべて魚をほおばっている。焼いたばかりのお魚は、基本的にとても美味しい。
食事を終えた後、コンファインを解除。
肉体がある内に食べたものは、消えてしまうらしい。不思議な事だ。
そのまま、砂浜にござを敷いて寝る。裸で寝ていても風邪を引かない程度に辺りは暖かいから、それで問題ない。
空は、文字通り満天の星空だ。
誰もいない砂浜だが、此処は穴場かも知れなかった。
早朝から、勇者捜しを再開する。
昨日ガラントが言っていた民家が一番怪しい。マローネは朝から体操をして体をほぐしたりして、やる気満々だ。
「ねえアッシュ。 勇者様って、どんな方なのかしら」
「そういえば、不思議な人だよね。 誰もが名前を知っているのに、どこの誰か知っている人は誰もいない」
「やっぱりこう、筋肉が凄くて、かっこいい剣を持って戦うのかしらね」
「うーん、どうだろうね」
スカーレットは、名前からすると女性的だ。
イヴォワールでは、色を名前に付けることは珍しくない。たとえばアッシュはそのまま灰色だし、他にも色を名前に持つ人は何名も見たことがある。
ただ、赤系統の色は、女性名になる場合が多いのだ。故に、そのまま考えると、勇者スカーレットは女性だったことになる。実際、歴代の勇者には、他にも女性が何名かいる。
しかしながら、一概にもそうとは言い切れない。例外があるからだ。
「炎の形の痣を持つと言うことは、火炎系の能力という可能性が高いんじゃないのかな」
「ああ、それでスカーレットなのね」
「可能性はある。 実際、通り名や二つ名を使うクロームは多いからね」
実力が伴うようになると、仕事上の名前を使うクロームや傭兵は多い。それは二つ名と呼ばれたり、通り名と呼ばれたりする。
これは家族などに報復が向かないようにするためや、自分の情報を特定されないようにするためだ。荒事をしていると、あらぬ方向から、恨みを買うことも多いのである。平和な国では二つ名など物笑いの種でしか無いが、安全が確保できない国では、決して縁遠い存在では無い。
スカーレットは勇者と呼ばれているが、他のいにしえの勇者達と比べると、経歴がはっきりしていない。
その事から、彼女をベリル上がりの人間や、奴隷出身者だと思う者もいるという事は、モルト伯も言っていた。
面白いのは、だからといって、スカーレットの名声が揺らがない、という事だろうか。
「モルト伯も、勇者様には会ったことが無いのかしら」
「どうだろうね」
連れてきて欲しいと、モルト伯は言っていた。
それならば、会ったことがある可能性は高い。見れば分かるという事なのだろうから。それに長命なウサギリス族とは言え、モルト伯はかなりの高齢に見えた。あの外見なら、30年前の異変にも、当然立ち会っているだろう。
「やっぱり勇者様って、かっこいいオジサマなのかしら」
「考えても始まらないよ」
もしもサルファーを葬ったとき二十歳だったとしても、今は五十過ぎだ。それを考えると、おじさんと言うよりはおじいさんと言うべきかも知れない。女性だった場合には、おばあさんと言うことか。
現役で戦えるのだろうか。アッシュはそれが不安になる。
アッシュは少し興奮気味のマローネを時々たしなめながら、上の方で偵察を続けているハツネに視線をやった。彼女の視力と判断力は頼りになる。文句が多いのが玉に瑕だが、しっかり仕事をしているのが凄い。
ガラントが戻ってきた。
「止まれ」
「どうしたんですか、ガラントさん」
「この先で、ベヒモスが狩をしている。 このまま進むと、巻き込まれる可能性が高いな」
「えっ! 分かりました」
マローネが慌てて道を変える。そういえば、遠くで凄い断末魔の声が聞こえる。
多分密林に住んでいる鹿か何かだろう。
ベヒモスが、たまに肉を食べる事は昨日話をしたが。その運が悪いタイミングに遭遇してしまったという事だ。
マローネが耳を塞ぐ。
断末魔が消えると、密林はまた騒がしくなった。
「本当に、怖いところね。 ジャングルって」
「ああ。 でも環境としては、人間が多数住んでいる都会の方が、動物にとっては過酷かも知れないな」
密林が不意に開けて、小高い丘に出る。
それが見えた。
巨大な犬のような怪物だ。犬と言っても狼のような雰囲気では無く、大量の毛を蓄えた、重厚なタイプである。しかも口からは長い二本の牙が覗いている。
食べているのは、かなり大きな鹿の一種だろうか。バリバリと凄い音が、岡の上まで聞こえて来ていた。
マローネはすぐに視線をそらす。
ベヒモスは夢中になって、獲物の内臓をむさぼり喰っている。鹿の首がへし折れているのは、ベヒモスの前足で一撃されたからだろう。
残酷な光景だが。
人間だって、食事は似たような事をしているわけで、他者のことは言えない。
もっと残酷な食べ方や、料理だってある。
「アッシュ、早く行きましょう」
「そうだね。 ベヒモスが、此方に興味を持ったら面倒だ」
そそくさと、その場を離れる。
まだ、密林の中枢へは、遠い。
3、勇者とその影
モルト伯は、今でこそ年老いているが、かっては剣術の達人だった。幾つかの流派で免許皆伝を受け、前線で戦っていたバリバリの武闘派だったのである。
とはいっても、それも百年も前の話であるが。
ウサギリス族は、イヴォワールに生息する人間種族の中で、ずば抜けた長寿を誇る。身体能力は最低レベルだが、一方で身の軽さと知恵に関しては他の追随を許さず、高名な賢者や学者の多くはウサギリス族だ。
その中で、剣術で名をはせたモルト伯は、異色の存在であったとも言える。
若い頃は、とにかく血の気が多かった。
常に愛剣を手に前線に出て、どんな怪物を相手にも恐れずに戦った。今考えると、冷や汗が出るような無茶も散々した。
元々妾腹だったにもかかわらず家督を継ぐことが出来たのも、ずば抜けた活躍があったからである。もっとも、度重なるサルファーの襲来で、跡継ぎ達が殆ど命を落としていた、という事情もあったが。
戦いそのものが、好きだったのかも知れない。
勿論、剣術と、自分の強さに関する自信もあった。実際真剣勝負で、名のある敵や怪物を下したことは一再では無い。剣術の師範達も、セレストだという以上に、モルト伯の剣を褒めていた。
だから、何処かで調子に乗っていたのだろう。
やがて、自分の剣が、全く通用しない規格外の怪物に、モルト伯は遭遇することになった。
それこそが、サルファーである。
モルト伯は、二度、サルファーが原因の異変に立ち会った。
一度目は、彼が壮年の頃。まだ若々しく、気力も剣腕にも優れていた。だが、それが故に。危うく命を落としかけたのである。
サルファーの大軍勢は、完全に規格外の存在だった。一匹一匹はたいしたことが無い。だが際限なく、なおかつどこにでも現れる。倒しても倒してもきりが無い。やがて討伐のために出した軍勢は支離滅裂に壊滅し、モルト伯は信じられない思いを引きずったまま、戦地から撤退する事になったのだった。
撤退する海上でも、訳が分からなかった。何が起きたのか、理解できなかった。
その時の異変は、当時の九つ剣が、ほぼ全員戦死するという大きな犠牲を払いつつも、どうにか納めることが出来た。
だが、サルファーが死んだわけでは無かった。
それからも、小規模な襲来は何度となくあり、そのたびに大きな犠牲が出た。島民がまとめて食い尽くされた例さえもある。
そのたびにモルト伯は最前線に立って、絶望的な戦いを指揮した。
そして、30年前。
この時のサルファー襲撃は、最初にモルト伯が遭遇したときとは、規模も被害も、桁違いだった。
勿論入念な準備をしていた。
優れた武人を育てるために投資は欠かさなかったし、優秀な傭兵団やクロームの育成にも積極的に立ち会った。九つ剣との連携も高めてきたし、軍の練度も上げた。サルファーの研究も進めて、過去に効果的だった戦術も、いくつも周囲に浸透させた。
だが、そのことごとくが、サルファーには通じなかった。
被害がうなぎ登りに増えていく。国さえも、幾つかが滅んだ。丸ごと食い尽くされ、消滅した島さえあった。住民が全滅したのでは無い。島が、文字通りこの世から消滅したのである。
対応策など、想像さえ出来なかった。
もはや、絶望しか残らない中、必死の戦いの指揮を続けたモルト伯の前に。
その人が、姿を見せた。
九つ剣さえ及ばない圧倒的な武力と、全身に纏った焼け付くような闘気。
名前は、スカーレットと言った。
今日も、モルト伯の所には、様々な情報が来る。
一部のセレストが先走って、墜ちた聖剣スプラウトにちょっかいを出しているという事は、モルト伯も知っていた。
30年前、家族を皆殺しにされた当時の九つ剣筆頭スプラウトは、今では鬼神のような存在になってしまっている。修羅として各地をさまよいながら、独自の研究で、如何にしてサルファーを殺すか模索しているようだ。
これに、一部のセレストが反発している。特にサルファー戦の恐怖を知らない若いセレストの中には、結束を乱すとか、権力闘争の関係とかで、スプラウトを排除することをもくろんでいる者がいるらしいのだ。
たった30年、比較的平和な時代が続いただけでこれである。
サルファーがもしもう10年も次の侵攻まで間隔を開けたら、すっかり弱体化したイヴォワールの民は、ひとたまりもなく蹂躙されてしまうのでは無いかとさえ、モルト伯は思う。
幸い、今は戦時を知るラファエルが率いる白狼騎士団などの精鋭が活躍しており、その実力は30年前と変わらない。だが、現状維持では、サルファーには勝てない。長年続いた戦いに終止符を打つためには、奴を超える力が必要なのだ。
そのためには、スカーレットに、戦いの経緯を聞かなければならない。
助力も仰がなければならないだろう。
勿論、スプラウトにも協力を願いたいところだ。30年前の実力を完璧に維持しているとすれば、充分な戦力なる。それ以上の力を手にしているのだとすれば、或いはサルファーにさえ届くかも知れない。
しかし、それでも単独では無理だろう。
机上の資料に目を通しながら、モルト伯は新しい情報について、確度別に分類していく。
既に、サルファーは近いうちに姿を見せるだろうという確信が、モルト伯にはある。そして、スカーレットが恐らく生存しているだろう事も、確信はしている。
だが、どうしても、その足取りが掴めない。
少し休憩することにした。
執務室から出る。
ベランダに出ると、辺り一面が雪景色だった。民の暮らす家も、全てが雪化粧して、真っ白である。白い半円状の家が無数に建ち並んでいる光景は、何処か幻想的だ。
モルト伯の住んでいるのは、アクアマリン地方のメインアイランドである雪島である。ウサギリス族は、寒冷地や熱帯雨林など、比較的環境が厳しい場所に喜んで住む傾向があり、モルト伯も例外では無い。
雪島は文字通り年中冬のような気候の島で、此処から流れる流氷が、夏でも近隣の島に届くほどである。
小さな宮殿にモルト伯は住んでいるのだが、他のセレストに比べればささやかな規模である。地方を納める貴族なのにこんな小さな屋敷に住んでいることを揶揄する声もあるのだが、モルト伯の動かせる金は、サルファーの撃退のためにほぼつぎ込んでいる状態なのだ。
自分が贅沢をする余裕などは、ない。たまに豪勢な食事を取ったりもするが、それは殆ど政治的な駆け引きに用いたり、必要時クロームや傭兵団と会合をしたりするときのためのものだ。
「モルト伯」
「どうしたのかね」
振り返ると、護衛においている騎士だった。
30年前も、護衛として活躍してくれた人間族の騎士だが、流石に年老いてきている。今度の戦いには参戦させないことを、モルト伯は決めていた。
「草の茂み島の件ですが、お耳に入れたいことが」
「結果が分かったのかね」
「いえ、それはまだクロームが調査中なのですが。 なにやら不穏な空気がございます」
眉をひそめたモルト伯に、騎士は言う。
罠の臭いがすると。
密林探索、三日目。
二日目は、途中からスコールに見舞われて、洞窟に逃げ込まなければならなかった。幸い浅い穴だったので、中に猛獣が住み着いているようなことも無かったのだが。それからは豪雨のために身動きが取れず、熱帯雨林にもかかわらず、マローネは膝を抱えて寒さに耐えなければならなかった。
夜半に、雨は止んだ。
見張りの際、コンファインしたガラントがどこからか木の葉を持って来る。いぶして体に煙を良く付けるようにと言われた。
「凄い臭いですね」
「虫除けだ。 後、人間の臭いを消すことで、肉食獣も避ける」
そういえば、蚊が非常に危険な病気を媒介すると言うことは、マローネも知っている。密林に住む蚊だと、熱病とかを媒介することも考えられる。
そもそも、一張羅で仕方が無いとは言え、マローネは密林に来るにしては軽装過ぎるのだ。こういった処置の他に、出来れば魔法的な対応もしておきたいくらいである。
だが、ガラントの言葉は、予想を超えていた。
「さっき見かけたが、ヒトキセイバエがいる。 対応をしておかないと危ない」
「何ですか、その怖そうな名前……」
「文字通りの性質を持つ昆虫だ。 蠅の一種だが、人間の体に幼虫を植え付ける。 傷口などから入ったり、或いは自分で肌を噛み裂いて肉に潜り込んだウジは、人間の肉をかじって成長する。 成虫になるまで、傷口に居座り続ける。 そうなると厄介で、下手に取り出そうとすると却って傷口が広がる。 場合によっては粘膜や目などにも寄生するから気をつけろ」
思わず吐き気がこみ上げてきた。
けが人の傷口にウジが集ることがあると言う話は聞いたことがあるが、これは更に危険な種類と言うことなのだろう。
他の地域では、ウマバエなどと呼ばれることもあると、ガラントは教えてくれる。
だが、へえとかふうんとか頷いている余裕は無かった。せっせと虫除けの煙で体を覆っておく。
生理的な嫌悪感以上に、単純に怖い。
「コリンさん、虫除けの術とかないですか」
「ごめん、専門外」
「知ってても使いそうに無いな、君は」
「よく分かってるじゃん」
アッシュの冷たい言葉に、満面の笑みでコリンは肯定。次の瞬間、ガラントがコリンに拳骨をくれた。
ちょっと吃驚した。
「普段は大目に見ているが、最近は目に余るぞ。 いい加減にせい」
「いったあ……。 もう、分かったよ。 でも、本当に知らないよ」
本当に痛そうだったので、マローネは何も言えなかった。まあ、ガラントの大きな拳でげんこつをもらったら、それは痛いだろう。ガラントはコリンにとって天敵と言える相手かも知れない。
よく考えれば、ガラントの方がコリンよりずっと年下の筈なのだが。精神的な年齢は、ガラントの方がずっと年上に思える。何百年ファントムをしていても、子供みたいな性格のまま変わらなかったのだと思うと、ある意味コリンは凄いのかも知れない。かなりはた迷惑ではあるが。
ハツネが降りてきた。かなり険しい表情をしている。
「どうしたんですか?」
「客だ。 私としたことが、追撃に気付かなかった。 戦闘要員三、護衛をされているらしいのが一。 定距離を保って付いてきている。 一人はジャングルファイトの知識がある人間だ」
一気に場に緊張が走る。
そういえば、さっきから見ていると、ハツネには蚊とかアブとかが集る様子が無い。ファントムがコンファインで肉体を得ている場合、ご飯を食べたりする事も可能であることは、既に実証済みだ。
それを考えると、不思議である。
或いは、特殊な魔術を、事前に掛けているのかも知れない。
「どうしよう、アッシュ」
「何か誤解があるのかも知れない。 でも充分に気をつけた方が良いだろうね」
「だが、おかしいな。 オクサイドをするにはリスクばかりが高い仕事だし、非戦闘員が来ていると言うのは妙だ」
「良くは分からんが、機先を制することは難しくないぞ。 一人を除けば相手の実力は、こちらよりだいぶ落ちる。 ただし密林の行動には相当に手慣れているから、油断は出来ないが」
マローネはいぶすのに使っていた葉を地面におくと、皆を見回した。
戻って話し合おう。そう提案。
アッシュは当然反対した。だが、マローネは笑みを浮かべる。
「もしも私を追っているなら、理由を聞いておきましょう。 何か私が悪いことをしたというのなら、謝っておきたいわ」
「君は人が良すぎる」
「私も賛成だ。 奇襲を防ぐためにも、相手の懐に飛び込むことは選択肢としては悪くないな」
ハツネは再び木の上に。
確かに、先回りされてブービートラップでも仕掛けられたら大変だ。ガラントが側にいれば大丈夫かも知れないが、それでも危ない。
コリンが小さくあくびをした。
だが、その目が背徳に輝いているのに、マローネは気付いていた。相変わらず、状況を楽しんでいる。
一度、戻る。
昨晩の豪雨に濡れた密林は、地面がぬかるんでいて、非常に危険だ。ちょっと油断すると転ぶ。
そして密林での怪我は大変に危ない。
起伏も富んでいる地形だし、気をつけて少し戻る。
物陰に隠れて、様子をうかがうと、いた。
多分護衛はクロームだろうと思っていたのだが、違う。見たことのある人が一人いる。少し前に、癒やしの湖島で見かけた小規模な傭兵団のリーダー。槍のレーアという人間族の女戦士だ。
彼女が色々指導しながら、他の二人に周囲を警戒させている。他の二人はどちらもキバイノシシ族だが、あまり頭が良さそうには見えないし、多分ひよっこなのだろう。どうも動きが悪いように見えた。
護衛されている人が、よく分からない。かなり度が強そうな眼鏡を掛けた、オウル族の男性だ。
こんなジャングルだというのに、仕立てが良い服を着て、文句も言わず黙々と歩いている。ずれた雰囲気があるが、これだけの悪所にもかかわらず、音を上げている様子は無い。
「何だろう、あの人。 アッシュ、知ってる?」
「いや、僕にも分からないな」
「仕掛ける? 何なら吹き飛ばしてあげようか? 木っ端みじんに出来るよ?」
「コリンさん、怖い事は言わないで。 ハツネさんも、本当に最後の最後まで、撃っちゃ駄目ですよ」
既に、レーアは気付いているようだ。
苦笑いして、こっちを見ている。マローネは何回か咳払いした。他の護衛の二人も、武器を構える。
マローネが物陰から姿を見せると、ようやくそれで、護衛されている人も気付いたようだった。
「あの、何か御用でしょうか」
「ほう。 気付いていたという訳かね」
「少し前に、ですが」
「どうやら、荒事にはそれなりに慣れているようだな」
オウル族の男性が、メモ帳らしいものを出す。黒革で装丁された、かなり高そうなメモ帳である。
「取材時のマナーだから、先に名乗っておこう。 イヴォワールタイムズの記者、フィルバートだ」
「え? 記者さん、ですか」
「悪霊憑きのマローネ。 本当は、君が勇者という存在に接触したときどうするのかを、影から見届けたかったのだが、仕方が無い。 此処で取材させて貰いたい」
イヴォワールタイムズと言えば、いくつかある新聞の中でも最大手として知られている。マローネも、文字の勉強のために取っているほどだ。クロームであるマローネにはただで配布されているので、都合が良いのである。
以前少し何処かで聞いたのだが、イヴォワールタイムズはセレストやフォーンをスポンサーに付けており、彼らにとって有益な情報を提示する代わりに、給金を得ているらしい。このフィルバートと言う人は、眼鏡の奥に見える目つきが鋭く、どう見てもカタギでは無い。
レーアが肩をすくめる。
大まじめな様子で、立ち尽くしているマローネに、フィルバートは言う。
「近年、君の活動が活発化しているが、同時に悪霊騒ぎも頻繁に起こるようになってきている。 ずばり聞きたい。 これらは、君の仕業か?」
「違います」
「しかし、君の能力は悪霊を操るものではないのかね。 情報によると、君は悪霊を使って荒稼ぎをしているということだが」
「誰がそんなことを」
怒ると言うより、悲しくなってきた。
それに、思い出してしまう。ウォルナットと戦ったとき、依頼人がそんなことを吹き込まれていた。
記者はメモをしていたが、視線を木の上でいつでも臨戦態勢に入れるように構えているハツネに向ける。
「彼女は悪霊か?」
「ファントムです。 貴方が言う悪霊と交戦したときも、ハツネさんは命を捨てて戦ってくれました」
「ふん、どうだかな。 確かにそういう証言はあるが、自作自演という可能性は否定できない」
「黙って言わせておけば……」
アッシュが隣で苛立っている。
だが、コンファインはしない。ハツネもガラントも、力の消耗を最小限に抑えて、いざというときに備えてくれているのだ。アッシュには本当に最後の最後で、道を切り開くために出て欲しいのである。
最悪の場合に備えて、ガラントが近くに控えてくれている。だが、マローネには気配を感じ取れない。
「質問を変えよう。 君はモルト伯の依頼でここに来ているようだが、それは勇者スカーレットを探してのことだね」
「どこでそれを」
「わが社は、未知の出来事ならともかく、人間社会で起こっている事くらいは、大体掴んでいるんだよ。 多くの資産家を背後に抱えている我が社が知らないことは無いといってもいいくらいだ」
薄ら笑いを浮かべるフィルバート。
だが、それは単にマローネの反応を楽しんでいるコリンとは少し雰囲気が違う。何というか、マローネを知るために、敢えて棘を刺してきているというような感じだ。
負けない。マローネは、視線に射すくめられないように、しっかり背筋を伸ばす。
記者は楽な仕事では無いと聴いたことがある。この人だって、たくさん苦労して、競争の中でもまれているはず。正直に話せば、きっと分かってくれる。そう信じて、対応するべきだ。
「ずばり聞こう。 君がここに来たのは、勇者スカーレットを抹殺するためではないのかね」
「そんな恐ろしいことはしません!」
「君がサルファーの手先というのなら、それで納得がいく。 勇者スカーレットは、30年前に、単独でサルファーを退けたほどの戦士だ。 此処で倒しておけば、後顧の憂いを断つ事が出来る」
アッシュがキレそうになっているのが分かる。
だが、マローネは、むしろ悲しくなって、記者を見つめるのだった。
「どうして、そんな恐ろしいことばかり考えつくんですか?」
「さあね。 だが、社会という奴は、人間の業が固まったものだ。 何が起きても不思議じゃないし、どんな残虐なことだって起こりうる。 そして、正しいことを知らせるのが、我々の仕事なのでね」
しばらく、無言の間が続く。
レーアが咳払いした。他の二人の護衛が、驚いたようにレーアを見る。
「記者さん、そろそろ退屈なんだけど」
「君は黙っていたまえ」
「あたしさ、その子と何度か会ったことあるけど、サルファーの手先とか、そんなおっそろしい代物じゃないと思うけどなあ」
じろりとレーアをにらむ記者だが、蛙の顔に水である。
記者は舌打ちすると、メモ帳をしまった。
「まあいい。 君が誤解を解きたいというのなら、私の同行を認めて貰えないか」
「一緒に来る、という事ですか」
「そうだ。 君にはいろいろな噂があるが、今の彼女の話のように、好意的な意見も無いわけでは無いのだ。 私としても、君という存在が危険なのか、それとも違うのか、見極めておきたいのでね」
もしも、だが。
マローネが本当にサルファーの手先だった場合、それは命取りになりかねない行動である。
だが、この記者は躊躇無く、危険を承知で懐に飛び込んできたことになる。
少なくとも臆病者ではなさそうだ。
どちらかと言えば恐がりなマローネは、単純に感心した。
「邪魔はしない」
「……分かりました」
ハツネが身軽に降りてくると、記者を一瞥だけして、殿軍を勤めてくれた。
ガラントはまだ出てこない。
油断はしない方が良い、という意思表示だろう。
密林の奥へ、再び進み始める。
何も言わず、フィルバートは後を付いてきた。レーアだけはマイペースで、マローネの隣に並んで話しかけてくる。ハツネが気色ばむのも気にしていない。
「またあったね」
「さっきはありがとうございました。 嬉しかったです」
「良いって事よ」
森は、ますます深くなってくる。
巨木が、まるで辺りの地面を独占するかのように、太い根を張り巡らせていた。根だけでも、人間よりも大きいくらいである。
異臭。巨大な花が咲いていて、其処からだ。もの凄い臭いがしていて、蠅がたくさん飛んでいた。
近くには、巨大な食虫植物もある。筒状の葉を持ち、その中に消化液を蓄えているタイプだ。人間が丸ごと入るほど大きい。
怪物もいるこの密林では、これくらいの異形な植物で無いと、食物連鎖の中で勝ち抜いていけないのだろう。恐ろしい話だった。
もし、此処で暮らすことになったら。
とても毎日が大変だろうなと、マローネは思う。
「あの、レーアさん。 記者さんの護衛、しなくて良いんですか?」
「森の歩き方は一通り教えたし、木の上の縦ロールの子が後ろ警戒してるでしょ?」
「それは、そうですけど」
「それに少し先、隠れてもう一人護衛の人がいるね。 気配をわざと見せてくれなかったら気付かなかったけど」
凄い人だ。まだ売り出し中の、小さな傭兵団の主だと言う話だが、相当な腕利きである。
クロームとしてもそれほど長い経歴が無いマローネは、色々と話を聞きたいと思ったが。アッシュが、渋い顔をしている。
アッシュが怒るのは分かる。いつ敵対するか分からない相手なのだし、あまり油断すると危ないというのだろう。
だが、マローネは、皆を信じていきたい。
そろそろ、民家があると言う場所だ。
不意に、側にハツネが降りてきた。表情がかなり険しい。
この先は崖になっていて、かなり危ないと、ハツネは言う。それだけではない。
「嫌な気配がある」
「嫌な気配、ですか」
「そうだ。 ガラント! そっちはどうだ!」
不意にハツネが声を張り上げる。
茂みが揺れ、姿を見せたガラント。ただし、マローネのすぐ後ろである。こんな側にいたのに、今まで気づけなかった。
先にいると言われて、後ろに位置を変えたのかも知れない。レーアがつれていた戦士二人は、吃驚した様子でガラントを見つめていた。記者はというと、平然とやりとりを見ている。
やはりこの人、元はカタギでは無いのだろう。
「少し先まで見てきた。 人影がある。 数は七から八」
「人がいるんですか? そうなると、変わり者のミロリって人もいるかも知れないですね!」
「落ち着け、マローネ嬢」
ガラントは記者を一瞥だけすると、言う。
「あれは人間では無いな」
「え……?」
「見るのが一番早いだろう。 此方だ」
ガラントが、案内してくれたのは。どうしてか、わずかにずれた方角だ。
其方は違うのでは無いかと言いそうになったが、行ってみて、理由はすぐに分かった。
粗末な墓がたくさんある。土を盛っただけのものだ。
だが、おかしな事に、掘り返した跡がある。獣がやったのかと思ったのだが、どう見ても違う。
内側から、中身が出てきたかのような堀出し方なのである。
しかも、相当に古い。かなりの間、放置されていたらしいことは明白だ。
そして、ガラントが言うまま、崖を見下ろせる場所に来る。
息を呑んだ。
確かに、それらは人の形をしている。恐らく、子供だろう。
だが、皆がそれぞれ、体が腐り、内臓が露出し、皮膚は変色してしまっている。異臭を漂わせながら、崖に座り込んで、無気力そうに遠くを見ている、かっては子供達だったもの。
もう、性別さえも分からない。思わず、口を押さえていた。気持ちが悪いからでは無い。あまりにも酷い結末に、絶望さえ感じてしまったからだ。
彼らは、既に人では無い。確かにガラントが言うとおりである。
ゾンビだ。
何かしらの理由で、動き出した死体をこう称する。ネクロマンシーと呼ばれる術式で、簡易で頑強な兵隊として作られる場合もあるのだが、これは恐らく違う。
ファントムと同じように、あまりにも無念だったり、情念が残っていたりすると、こういった状態になる事がある。希に墓場などで発生して、そのたびにクロームが焼き払ったりして、動かないように処理するのだ。
どうしてこんな事になっているかは、分かる。
この島に来たときの、ガラントの憤りを思い出す。
此処はかって、違法奴隷を売り買いする中継地点だった島だった。多くの子供が、非道に晒され、そして暴力や悪徳の中命を落としていった。此処で死なず、売られていった子供達も、きっと明るい未来は無かったはずだ。
奴隷商人から、隙を見て逃げた子供もいたのだろう。
だが、不慣れなジャングルで、無知な子供が生き残れる訳が無い。それはマローネ自身が、身にしみて分かった。ガラントやハツネに支えられなければ、どうなっていたか分からなかった。
此処の子供達は、かろうじて森の奥まで逃げ込んだものの、皆、病気や毒の食べ物にやられ、或いは猛獣に襲われて。
そして、死んだのだ。
無念だっただろう。悲しかっただろう。お父さんやお母さんに、もう一度会いたかったに違いない。慟哭は誰にも届かず、悲嘆は空に流れてしまった。そして、無惨な死だけが、子供達に与えられた。
肩を叩かれる。
アッシュだった。
「楽にしてあげよう」
「うん」
目をこする。
そして、声のチャンネルを切り替えた。
ファントムに、聞こえやすくするのだ。
知られていないことだが、ゾンビは人間と意思疎通が出来ない訳では無い。ファントムと同じなのだ。
会話は出来るが、普通の人間が喋っても、相手には伝わらない。
コンファインとは違う形で、不自然に体を得てしまっているファントムと思えば、分かり易い。
中には人間の肉を食おうとするようなゾンビもいるが、それはファントムでは無い、もっと邪悪な何かがとりついている場合だ。
「此方に来てください!」
緩慢に、ゾンビ達が振り返る。
そして、ゆっくり歩いてきた。レーアが流石に一歩下がり、槍を構える。記者の側にいる二人も、剣を抜いた。
ゾンビになると、当然体は腐る。近づけば凄まじい腐臭がするし、見かけのインパクトも凄まじい。だが、マローネは、それを怖いとは思わない。幼い頃は怖かった。だが、今は、むしろ可哀想に思える。
コリンをコンファインする。
岩が、膨大な魔力に包まれ、輝きはじめるのを見て、流石に記者が目を見張る。
「それが、悪霊憑きの技か」
「さまよえる魂よ、導きに従い現れ出でよ。 奇跡の力、シャルトルーズ!」
マローネが力を注ぎ込み、コンファイン成功。
肉体を得たコリンは、肩を回しながら、ゾンビ達を見た。
「ふうん、ネクロマンシーによるのじゃないね。 天然ものか」
「ええと。 あの、心を強く持ってください。 みなさんは、既に亡くなられています」
マローネは言いながら、ゾンビ達を見回す。
顔の中央に、巨大な炎の痣があるゾンビがいる。多分彼が、ミロリだろう。しかし、疑念はある。これは本当に痣のだろうか。
もしも、焼きごてか何かで付けられた火傷痕だとしたら、とても悲しいことだ。
島の人達の言葉からして、この子達もしばらくは生きていたのだろうか。或いは、ミロリという子だけが生き延びて、墓守をしていたのかも知れない。
あの島民は、まだ若く、それを知らなかったのだろう。そして他の人達は、それを敢えて無視したか、知らないふりをしたというわけだ。
とても悲しい物語が、この島にはあった。終わらせなければならない、悲劇が。
「し、知ってる」
「私は、みなさんを楽に出来ます。 楽に、してあげたいです」
「ほ、本当か」
「嬉しい。 苦しいの、もう、いやだ」
口々にゾンビ達が言う。
まだマローネよりも小さいような子もいた。密林の中を逃げ回り、恐怖の中に死んでいったこの子達に、救いを与えたい。
ミロリは、黙っている。
最後のぼそりと一言だけ。それも極めて謙虚な内容だった。
「俺は、みんなの、あとで、いい」
「わかりました。 まず、みなさんの肉体を浄化します。 そして、みなさんをファントムの状態にします」
「ファントム! それ、いい。 おれ、もう腐った体やだ。 どうにか、したい」
「何も食えない。 何も飲めない。 どうにか、したい」
女性のゾンビが、悲しそうに呻く。
ファントムになっても、どうにかなるわけではない。だが、苦しみを終えることは出来る。
コリンが準備を終えた。
「出来るだけ、痛くないようにしてあげてください」
「わーってる」
コリンが指を鳴らすと、ゾンビの一人が白い炎に包まれて、溶けて消えていった。
炎の術式というのとは、少し違う。
多分、不浄な存在を、浄化する術式だろう。肉体が溶け消えると、其処には子供の姿があった。半裸で、何があったのか分からないという様子で、周りを見回している。
「あれ? ここ、どこだ? かあちゃんは?」
「おお! シャトーが! もとにもどった!」
他のゾンビ達が、我も我もとコリンに詰め寄る。
コリンが順番に、一人ずつ浄化していった。記者がその様子を、メモに取っている。マローネは、ガラントに指示。
「この子達を、先におばけ島に案内してあげてください。 お願いします」
「分かった。 連れて行って、あとはカナンに引き継いでおく」
ほどなく、ゾンビの群れは、ミロリ一人になった。
他はみなファントムになり、元の子供達に戻っている。みんな可愛い子ばかりである。マローネは本当に胸が痛くなった。こんな子供達を守ろうともせず、売り飛ばした親たち。或いは、孤児院だろうか。何故こんな酷いことをしたのだろうと、悲しく思う。
子供の命の価値は、時代や土地によって違うと、聞いたこともある。
だが、これはあまりにも酷い。
マローネには、この子供達をおばけ島に連れて行き、輪廻の輪に戻してあげることしか出来ない。
それは苦痛からの解放であると同時に、この世の束縛の解除でもあった。
「みんな、たすけてくれて、ありが、とう」
「ミロリさん、あなたも」
「俺のこと、さがしてるひと、いる、んだろ。 そのひとと、あってから、でいい。 おれい、だ」
ミロリは腐った体を不器用に曲げて、頭を下げた。
マローネは、それ以上何も言えなかった。コリンのコンファインを解除すると、ミロリをつれて、帰路についた。
記者が熱心にメモを取っている。一旦海岸に出て、其処から周回して、村にまで出る。ちょっと距離はあるが、ガラントが先に戻った今、こうするのが一番安全だ。敵からの奇襲も防ぎやすい。
丁度丸一日を掛けて、村に。
村人達が、ミロリを見て、ひそひそと話している。あの若いウサギリス族だけが、無邪気に話しかけてきた。
「おうミロリ、どうしただ。 そんなにそのおじょーさんがきにいったべか。 めんこいもんなあ」
「ガドラ、おれ、このしま、さる」
「え……? どうした、急に」
「おまえには、せわになった。 ありがとう」
お前には、という部分を、ミロリは強調していた。
それで事情がよく分かって、マローネはいたたまれない気持ちになった。
記者フィルバートが、大きく嘆息した。レーアが苦笑いする。
「思ったような記事にはなりそうに無いな」
「真実を書くのが、あんたの仕事じゃ無いのか」
「もちろんそうだ。 だが、今回の一件では、悪霊憑きの本質を見極められたとは言いがたいな」
記者にも、マローネは頭を下げる。何も介入しなかったことに対する礼だ。
マローネは、ボトルシップの後ろにミロリを乗せた。今回は、かなりスピードを控えなければならないだろう。
「落ちないように、気をつけてくださいね」
「わかった。 うみにでるの、ひさしぶりだ」
伯爵様は、なんと言うだろう。
マローネも、ミロリが勇者スカーレットだとは思っていない。だが、伯爵は最初から、確度が低い情報を潰したかったと言っていた。
きっと満足はしてくれるはずだった。
4、伯爵の本音
マローネは、全てを包み隠さず報告した。
ミロリを見たモルト伯は、一瞬だけ落胆したようだが。それでも、マローネに優しい言葉を掛けてくれた。
「密林の中を大変だっただろう。 これは報酬だ」
「こんなにですか」
「君は確度が低い一人歩きした情報を一つ潰してくれた。 これだけでも、私にとっては大きな成果なのだ。 遠慮無く受け取って欲しい」
そう言われると、マローネも嬉しい。
今回の報酬は、最近ではもっとも大きい金額だった。しかもお客様が満足してくれたのは、本当にいつぶりだろう。
輸送などの仕事では、お客様が満足してくれたことは、何度もあった。
だがこの感じがいいセレストのお客様に喜んで貰えたのは、マローネにとっては大きな収穫だったかも知れない。
店の外に出ると、ミロリが言う。
「ほうしゅう、いっぱい。 よかったな」
「はい」
「おまえのしま、いく。 おれ、そこで、らくにしてくれ」
「分かりました」
此処でコンファインを使うと、流石に騒ぎになる。ミロリはそれを配慮してくれたのだろう。
生前は、きっと優しい人だったのだ。
ゾンビになってもこんなに優しいのだから。
ミロリを落とさないように気をつけながら、ボトルシップを出す。あの島にいた、可哀想なファントム達と、ゾンビ達。みんな、一緒に輪廻の輪に戻れるといいな。そう、マローネは思った。
マローネが去った後、モルト伯は部下の報告を思い出していた。
あの件は、罠だった。
モルト伯を良く想わない勢力が存在している。彼らは、モルト伯を失脚させようと、スカーレットの情報を無差別にばらまいていた。そして、その一環として、いもしないスカーレットの捜索に大金を浪費しているという事で、モルト伯の名声を失墜させようとしていた。
今回の件も、その一つ。
モルト伯がどちらかと言えば無名のマローネを使ったから良かったが、もしも高名な傭兵団にでも声を掛けていたら、大金をつぎ込みながら見つかったのはゾンビ一人と言うことで、さぞや大きなスキャンダルになっただろう。
モルト伯の浪費、ついに此処まで来る。そんな見出しが、イヴォワール・タイムズ辺りに載ったのは疑いない所だ。
もし此処でマローネが、正直にミロリを連れてこなかったら、さらに面倒な事になっていただろう。
だが、あの娘は、島であった出来事を、全て報告してくれた。
草の茂み島で昔行われていた悪徳の宴については、モルト伯も聞いたことがあった。だが、その残滓を、こういった形で楽にすることが出来たのは、僥倖であったかも知れない。
店から出ると、モルト伯は護衛を連れて、雲島を出る。
幾つか、新しい情報が入ってきている。それらに対応するのは勿論なのだが、一つ面倒な案件が持ち上がりはじめているのだ。
麾下の島の一つで、異常気象が猛威を振るいはじめたのである。
かってその島では、勇者スカーレットが強大な怪物を封じ込めた過去がある。もしもその怪物が復活したのだとすると、大変に面倒な事になりかねない。サルファーだけでも厄介なのに、それ以上の面倒を、今抱え込むわけには行かなかった。
自家用のボトルシップで、屋敷に戻る。
運転しているのは、いつも側で身の世話をさせている老騎士だ。
「モルト伯、今回の件は、徒労でしたか」
「いや、思った以上にあの子は働いてくれたよ」
「それは僥倖でありましたな」
「うむ。 また何かあったら、仕事を頼むこともあるだろう。 ああいう有望な若者には、どんどん社会に進出して欲しいものだ」
誠実な仕事態度を、モルト伯は気に入った。
それにしても、と老騎士は舌打ちをする。
「たったの30年で、ここまで愚かな連中が出てくるとは。 伯の権力を欲するために、政治的な駆け引きをするのは良いとしても、まさか世界を守るための仕事を、裏から阻害しようとするなんて」
「サルファーの脅威が薄れはじめている現在、仕方が無い事もあろうて。 30年前の襲来でも、声高に危機を叫ぶ私を嘲笑うセレストはいたものだ」
勿論そう言うセレストは、実際サルファーの襲撃が始まると、何の役にも立たなかったのだが。
一世代も経過してしまうと、人間の危機対処能力は、著しく劣化する。
度重なるサルファーによる襲撃で、多大な被害を出しているイヴォワールでさえそうだ。実際30年前の襲撃の前は、名高い九つ剣の中にさえ、政治的な話が入り込んでいたほどなのである。
モルト伯は必死にその劣化を食い止めようと努力してきた。
だが、それも難しくなりつつあった。
或いはサルファーは、意図的に襲撃の間の間隔を開けているのかも知れない。人間の対応能力が付いてくると面倒だと、考えているのかも知れなかった。
奴に思考能力は無いという学者もいるが、モルト伯はそう考えてはいない。
スプラウトの家族は、明らかに報復に近い形で皆殺しにされた。サルファーとの戦闘を長く指揮してきたモルト伯には、似たような覚えがいくつもある。
一度、屋敷に戻る。
何名かの将軍が、既に集まっていた。殆どは傭兵上がりや、クローム上がりのたたき上げばかりだ。種族は様々で、実績を上げたものを優先するモルト伯らしい編制だった。
「討伐隊の準備は、整いつつあります」
「そうか。 どうにか出来そうか」
「耐寒装備については、充分なものを揃えました。 ただ、相手はスカーレット様が封印したほどの相手と聞いています。 一体何処まで此方の戦術が通用するかは、少し分かりません」
「スカーレット様がいるとすれば、サルファーに掛かりっきりと見るべきだろう。 サルファーでもない怪物くらい、我々で処理できなければ、来るべき日に対応できまい」
杖で床を叩くと、皆表情を引き締めた。
ただでさえ、その来るべき日は近づいてきていると、モルト伯は思っているのだ。このようなところで、足踏みはしていられなかった。
「出陣の準備を整えよ。 必ずや、この戦いに勝利する」
応と、将軍達は敬礼した。
モルト伯は一度彼らを解散させると、自室に戻る。
そして、杖、いや仕込みカタナの鞘を抜いた。白刃が、空気にさらされる。
もうこのカタナで、戦う事は無いかも知れない。だが、これは。モルト伯が生涯サルファーと戦っていくことの誓いだ。
かって剣の達人などとうぬぼれていた自分。ウサギリス族という、戦闘面でのハンデを克服したと、調子に乗っていた自分。
それを戒めるためのものでもあった。
「勇者殿。 貴方は一体どこにいるのです」
呟くと、カタナを鞘に収める。
そして、モルト伯は、次の一手について、思いを巡らせた。
おばけ島に戻ると、既にカナンが手当をはじめていた。
ファントムは、死んだときの状況に、姿が影響される。手足を失っていたり、頭部を半壊させていたりするのは、その名残だ。
カナンの回復術式は、それらの姿を、可能な限り修復することが出来る。これはファントムの状態でも使用可能だ。しかもおばけ島であれば、より強力に、持続的に行うことができる。
奴隷として売り飛ばされた子供達のファントムを、カナンは一人ずつ、元の姿に戻していた。
怨念をため込んでしまっているファントムから、邪気を抜くような作業も進めていたようだった。
マローネが戻ると、ミロリが子供達のファントムを見て、驚く。
「おお、みんな、もとにもどってる。 てがなかったり、あしがなかったり、したのに」
「カナンさん!」
「マローネちゃん、お帰りなさい。 そろそろ終わりますよ」
にこりと、カナンがすてきな笑顔を浮かべる。だが、相当に疲弊が激しいことを、マローネは見て取っていた。
コリンに教わった要領で、カナンに力を送るべく、精神を集中する。
シャルトルーズについて鍛錬している過程で、覚えた技だ。消耗は激しいが、ファントムへ力を送ることが出来る。カナンに力を移す技を教えて貰ってから、より実用的になってきている。
カナンが、少し楽になったようだった。
子供達は、明るい笑顔を浮かべて、島を走り回っている。目を細めて、バッカスがそれを見ているのが分かった。
「コドモハコレデイイ。 ワラッテイルノガイイ」
その通りだと、マローネは思う。
ミロリに手を貸して、ボトルシップから降りて貰う。
「ミロリ! やっときたか!」
「何人かもう、先に行ったよ。 俺たちも、たぶんそんなに長くは、こっちにいないと思う」
「おお……」
ミロリが喜びの声を上げる。
みんな、友達だった。ファントムになっても、それは同じだ。
地獄のような環境で、虐待を受けながら、必死に生きた。島で力尽きた仲間達を弔い続け、それでもあまり永くは生きられなかった。
ミロリは、人間だったら、涙を流していたかも知れない。
子供達のファントムが、消えていく。一人、また一人。輪廻の輪に戻っていくのだ。
やがて、カナンがミロリを見た。
「あなたも」
「みんな、おわった、か」
「はい。 マローネちゃん、お願いします」
「分かりました!」
島にあるものの中で、力を蓄えているもの。
砂浜に打ち上げられた、大きな巻き貝の貝殻がいい。もう少し小さければ、マローネが入って遊べるほどのサイズだ。
「さまよえる魂よ、導きに従い現れ出でよ。 奇跡の力、シャルトルーズ!」
貝殻が、見る間に人の姿を取っていく。
カナンは、生前の姿のまま、その場に肉体を得た。
優しい笑顔を浮かべるカナンは、印を組み、術式を発動させる。かなり長い詠唱だった。消耗も大きかったようで、だからコンファインする必要があったのだろう。
「汚れし体を、清浄へ! セント・レイ!」
天から降り注ぐ、淡い光の柱。
それに包まれたミロリの全身が、燃える。
溶けるように、消えていく。
後には、真面目そうな、少し背の高い男の子のファントムが残っていた。
コリンが使った浄化の術式とは違った。もっと穏やかで、優しい術だった。
ファントムになったミロリの顔には、炎の形の痣は無かった。やはりあれは、他の子を守ろうとしたミロリに、見せしめで行われた虐待の痕だったのだろう。
そして、マローネは気付く。
他の子達もゾンビになったのは。一人になったミロリを、孤独にさせるのが耐えられなかったのだろうと。
報われなかった絆。
せめて、安らかな最後を迎えさせてあげたい
「有り難う。 俺、何があってもこの事は忘れない。 みんな救ってくれたあんたのことは、絶対に忘れない」
「ミロリ、早く来いよー!」
どこからか、子供達が呼ぶ声がする。
ミロリは空を見上げると、最後に一つ、ほほえんだのだった。
「いつか、絶対に礼はするよ。 ありがとう」
ミロリのファントムが、消えていく。
やっと解放されたのだ。涙では無く、笑顔で送ってあげたい。
マローネは笑顔を無理矢理作って、輪廻の輪に戻る、悲劇の子を見送ったのだった。
(続)
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