孤独の中の正義
序、正義のありか
振るう場所が無い力というものは、確かにある。
キャナリーは、幼い頃からずっと力の使い方について、悩み続けてきた。
彼はサムライと呼ばれる、イヴォワールでは主流に属さない戦士の家系出身である。サムライは幼い頃から剣の鍛錬一筋に生き、その剣を主君のために振るう事を信条とする。主流では無いのは、その修練があまりにも苛烈で、なおかつ生き方に報われる部分が少ないからだ。
元々、イヴォワールでは、個人主義が横行している。何かしらに忠義を尽くす生き方よりも、民のために働いたり、自身の名誉のために武を尽くすやり方が好まれる傾向があるのだ。そんな中、サムライという生き方は、息苦しいのも事実だった。どれだけ武勲を積み重ねても、過去の戦いで激しく戦っても、そもそも根本的な考え方が、イヴォワールではサムライに逆風をもたらすのだ。
それでも、立派に生きることが出来るサムライもいる。
若い頃から天才的な剣の腕に恵まれ、十五歳で免許皆伝を取得。十七歳で初陣を飾ったキャナリーは、戦場で怪物数体を屠り去り、めざましい戦果を上げた。
だが、周囲は彼を認めようとはしなかった。
正確には、彼自身の武勇には敬意を払った。だが、サムライという存在には、相変わらず冷たい目を向け続けていた。
時代錯誤の、犬のような生き方だ。
そういう陰口を、直接聞いたこともある。
若いし、腕もある。名誉欲は、当然それに付随してくる。プライドもあるし、キャナリーは悩んだ。
本当に、サムライの生き方で良いのだろうかと。
それで訓練を繰り返した。剣の腕を更に磨こうとしたし、武勲も積み重ねようと思った。
だが、そうすればそうするほど、キャナリーは周囲との溝が開いていくことを感じるのだった。
実家に戻って、悩みを打ち明けもした。
だが、それは誰もが抱える悩みだと言われ、具体的な答えは出なかった。
剣を振るうにも、守る対象が無い。
傭兵団はたくさんある。だが、イヴォワールでは、軍は現状維持の性質が強く、この状態から更に兵力を増やそうという動きは、どこの国でも無かった。当然のことだが、腕利きだろうが、そもそも兵士の徴募もしていないし、王族近辺の護衛をする者は、そのたびに雇われるという有様だった。
傭兵団に出てみようかとも思ったが、其処でもどちらかと言えばキャナリーは煙たがれる事が多かった。
やはり、生き方がおかしいと、周囲は口を揃えるのだった。
やがて、キャナリーは若くはなくなっていた。
何かしら問題があるときは、腕が立つ武人として声が掛かる。積み重ねた武勲は大きかったから、生活にも困らなかった。
だが、このまま各地を放浪しながら、あてもなく武を振るう事に。キャナリーは、どうしても価値を見いだせなかった。
何か、守るべきものはないのだろうか。
だが、被差別階級はあっても、基本的にこの世界で守るべき存在は、中々見つけることが出来なかった。
悩みは剣を鈍らせる。
それを分かっていたから、キャナリーは焦りもした。
やがて、ようやく天恵を得た。
別に守るべき対称は、人間で無くても良いでは無いか。
そう思えば、いくらでも、守るべき対象はあった。数十万に達すると言われるイヴォワールの動物たち。その中でも、特に怪物と呼ばれる、危険性の高い動物の中でも、絶滅に瀕している種族は軽く数百に達している。
こういった存在の保護について目を向ける人間は、未だにいない。
キャナリーは、保護に向けて動き出した。
だが、周囲の風当たりは、強くなるばかりだった。しかし、キャナリーは、それを止めようとはしなかった。
やっと得られた天恵なのだ。捨てるわけには行かなかったからである。
富と自由の島。
イヴォワールの一角、ウィステリア地方のメインアイランドである。正確には、ウィステァリア地方と言うのが正しいが、発音が難しいこともあって、ウィステリアと呼ばれることの方が多い。
地方のメインアイランドだが、此処は現在イヴォワールでも屈指と言って良い発展の中にある。現在規模を拡大中の製薬会社、バンブー社の本社が島の中央に巨大な姿を見せつけ、其処から流れ出る利潤で、島中が潤っているからだ。
だから、此処にて開かれたサーカスも、大変な賑わいを見せていた。
キャナリーは、サーカスを楽しもうと其処へ入ったのでは無い。チラシを見て、明らかに稀少怪物である存在が、虐待を受けていることを悟ったからだ。
当然、抗議をしようと思ったが、取り合って貰えなかった。ただし、話をすると、団長は直接会ってくれた。
「あんたが優れた武人だってのは、俺も聞いてる。 クロームとしての戦歴も、たいしたもんだ」
そう、団長であるシシカバブはいう。小柄なキバイノシシ族で、戦場でよく見かける同胞と違い、知恵でのし上がってきた男だ。
そういえば、バンブー社の社長も、キバイノシシ族だとか聞いている。或いは、親類かも知れない。
「だが、その話はきけねえな」
「何故か」
「確かに見世物であるパティは稀少な存在だ。 だが此奴らはな、狩られるに相応しい理由があるんだよ」
「ほう?」
シシカバブの話によると、パティ族は森の盗人と言われているという。
何でもいたずらでものを何処かに隠してしまうことが多く、しかもどうしてもそれを発見できないのだとか。
しかも恩を仇で返すように、助けたりした場合に、その習性を見せることが多い、というのだ。
それが故に様々な島でパティ族は嫌われ、狩られてきた。
今では一部の島でしか姿を見ることが出来ないのも、人間との摩擦の結果だという。一時期は人間種族に含めるという案も出たらしいのだが、コミュニケーションを図ることが出来ないこと、更に習性もあって、何度も立ち流れているという事だ。
「まあ、人を襲って喰うわけじゃ無いが、奴らの存在は地味に厄介なンだよ。 実際団員の中にも、ものを隠されたって奴が何人か出ててな。 元を取るためにも、うちとしては離すわけにはいかねえの」
「話し合って、分からないのだろうか」
「無理だね」
パティ族は、知能が高く、人里離れた場所に、独自のコミュニティを形成しているらしい。
しかし、今までコミュニケーションに成功した人間はいないという。
理由はいくつかあるのだが、最大のものは、彼らの特異性にある。
「彼奴ら、元は植物らしくてな。 どうやら音を重視していないらしいンだわ」
「なるほど、喋り掛けても、言葉を理解していないと」
「というか、言葉って概念が無いみたいだな。 コミュニケーションも、俺たちが言う魔術みたいなもので、頭の中で直接やりとりしている可能性が高いそうだ。 テレパシーとはまた波長が随分違うとかで、コミュニケーションは著しく難しいな。 当然、文字を使ったコミュニケーションにも成功していないそうだ」
「そうか」
話を聞いてくれただけでも、御の字かも知れない。
キャナリーは礼を言うと、団長室を出た。テントに併設されている、大形の馬車の中の一室だったのだが、移動式のサーカスなのだし、まあこんなものだろう。
事情はよく分かった。
だが、諦める気にはならなかった。
最後に、パティを見に行こうと思ったのだが、客としてそうするのはどうも気が引けた。理由と事情はよく分かったが、虐待に荷担する気にはなれなかったからである。
裏口から忍び込むことは造作も無かった。それなりの腕利きを警備員にしている様子だったが、それでも実戦で磨き抜いたキャナリーの歩術は、気配を周囲に感じさせることは無い。
滑り込むように裏手から中へ。
檻の中には、いろいろな珍獣が入れられていた。ざっと見るが、興味を引くものは存在しない。中には、名前を間違えて札が付けられているものもあった。まあ、こういう所にある見世物小屋に来る客など、最初から水物を見るつもりでしかないから、誰も気にはしないのだろう。
一番奥に、パティはいた。
檻の中で、ちょこんと座っている。
幼い人間族の子供くらいの背丈がある。緑色の帽子と服を着て、丸い顔の中に大きな目が二つ。
ただし、口や鼻らしいものは見受けられない。手足もそれぞれ一対だが、つるんとしていて、他の人間種族に比べると、とても簡素な作りに見えた。
遠くから見れば人形のように愛らしいが、近くで見ると多少不気味かも知れない。
元気が無いのは、団長が言っていたとおり、植物だから、だろうか。キャナリーも稀少な怪物を保護すると考えはじめた頃から勉強をしたのだが、どうやら植物は光を浴びて力にしているらしいのである。
「貴殿、パティか」
檻の中から、じっと見つめられる。
大きく嘆息した。
これは窃盗に当たることは分かっている。だが、どうにかして、故郷に戻してやりたい。もう一度団長に交渉して、或いは金で買おうかと思ったが。クローム業は、さほど儲からない。なのあるクロームであるキャナリーは、それなりの稼ぎはあるが、それでもパティの想定される金額は、遙かに収入を超えている。
キャナリーの手持ちで、このパティを解放できるとは、思えなかった。
非常手段だ。
腰のものに、手を掛ける。
一閃。磨き抜いた技は、鉄の檻をまるで飴細工のように切り裂いていた。カタナと呼ばれる独自の片刃剣の破壊力は凄まじく、磨き抜いた免許皆伝の技と合わさればこの通りである。
「好きなところに行かれよ」
しばらくきょとんとしていたパティだが。
やがて、小動物のようにせわしない動きで、檻の隙間からぱたぱたと逃げていった。キャナリーも気配を消すと、そのままサーカスを後にした。
どのみち、公演は既に終盤である。
パティについては、ごまかしが利くだろう。
一旦安全圏まで逃れてから、ふと思い当たる。このままだと、掴まって連れ戻されるのがオチか。
しかし、キャナリーが追っ手を叩くのは、何かとまずい。峰打ちなどと言う器用な真似は苦手だ。多分斬り伏せてしまう。
此処で警備をしている連中くらいなら、十把一絡げに斬り伏せることも出来るが、それは確実に犯罪になる。今の行為でさえ、既に褒められたものではないのだ。
シシカバブには顔も知られてしまっているし、下手をすると故郷の一族にも迷惑を掛けるかも知れない。
腕組みして考えた末に。
キャナリーは呟く。
「やむをえんな」
クロームを雇う金くらいなら、ある。クロームがクロームを雇うというのもおかしな話だが、前例がないわけでもない。
そのままキャナリーはクロームの登録事務所へ足を運んだ。
そして、適当な人材を探す。やがて、彼は悪霊憑きと噂がある、マローネのところで視線を止めたのだった。
1、不可思議な依頼
変な船が来た。
そう聞いて、マローネは早くから起き出していた。
イヴォワールではマナを使った推力機関を用いたボトルシップが主流の移動手段だが、その船は明らかに人力だという。お着替えをしてから外に出て、マローネも驚いた。
確かに、何か変な船が来る。
丸木舟とでも言うのか、或いは違うのか。いずれにしても、三角形の舳先を持つ、一人乗りの船だ。
しかも、乗っている人物が、力強くオールで漕いでいるのが、遠目にも見て取れた。
アッシュが傍らに来る。
「何だろうね、あれは」
「さあ。 でも、きっとお客様だわ」
「ほう。 あれは珍しいな」
「知っているの? ガラントさん」
側に来ていたガラントが頷く。何でもあの形状の船は、サムライと呼ばれる集団が使うものだという。
オールは櫂と呼ぶそうで、いずれも独自の文化の産物だと言う事だ。
やがて、船が砂浜に接舷。
降り立った人物は、今まで見たことも無い格好をしていた。着ているのは、確かキモノと呼ばれる衣服だ。雲島で遠目に見かけたことがある、一枚布を使った独自の服である。エキゾチックで、遠目にとても面白かった。
足下はサンダルのような履き物である。そして、腰には大小二本の剣をぶら下げていた。
背丈はさほど高くないが、目つきは鋭い。髪の毛は後頭部で結わいていて、顎の辺りは無精髭がぼうぼうに生えていた。
多分同業者だろうと、マローネは思う。
何となくだが、そう感じるのだ。そして人並み外れて魔力が強いマローネの勘は、良く当たる。
「貴殿がマローネどのか」
「あ、はい」
「拙者はキャナリー。 貴殿に仕事を依頼しようと思い、参上つかまつった」
「何だか嫌な予感がするな。 断るなら今のうちだよ」
アッシュが言うが、流石にそれは失礼かも知れないと、マローネは思った。マローネ自身も、あまり良い印象は受けなかったのだが。
キャナリーを家に上げる。
マローネの家は、もともとおばけ島に付属していたものだ。内部は二階建てで、衣食住を満たす条件はいずれも整っている。一階にはキッチンと居間があり、少なくとも前に住んでいた人は几帳面だったようで、マローネが来た日には、すでに生活できる状況が整っていた。
居間に通すと、茶を出す。お客がおばけ島に直接来ることは滅多に無いので、ちょっと緊張する。
キャナリーは寡黙な雰囲気で、触ると斬られそうな気配があった。だからちょっと怖かったのだが。しかし、話を聞いてみると、もっと驚くことになった。
「護衛任務、ですか」
「そうだ。 拙者がサーカスから逃がしたパティ族を、護衛して欲しい」
「マローネ、それって犯罪だ。 引き受けない方が良い」
アッシュはそう言う。
確かに、一種の窃盗罪になるだろう。パティ族だろうが何だろうが、確か法的にはサーカス団の所有物になるはずだから、である。
だが、マローネは話を聞く内に、キャナリーがとても悲しい意味で歪んでいる人なのだと言う事が、わかりはじめてきた。
「恥ずかしい話だが、拙者はこれまで散々戦いを積み重ねてきたのに、未だにどうやってこの剣を生かせば良いのか分からん。 何かを守るにしても、全くそのやり方が分からぬでな」
「稀少な存在の保護をしようと思ったのも、剣を生かしたいから、なんですか」
「そうだ。 まずは見本を見たいのだ」
「……」
アッシュが肩をすくめる。
この人は、常識の枠外から完全に外れてしまっている存在だ。少し話を聞いてみるが、どうやら人生そのものが剣の鍛錬のみで構成されているらしい。
「あの、子供の頃に、お父さんやお母さんとはどう接されていたんですか?」
「両親共に、剣術の師だ。 礼儀作法から徹底的に叩き込まれ、どうやって剣を扱うか、それだけを仕込まれた」
「え……っ」
「拙者の一族は、戦場での働きが認められていて、それなりに裕福でな。 子育てでさえ、シッターを雇って行わせる位なのだ。 だから拙者も、子供の頃から世間一般で言う愛情というものを感じたことが無いし、見たことも無い」
おいおいと、アッシュがぼやく。
苛烈すぎる環境だ。戦闘関連のジャンキーみたいな人が、一族の基礎を作ったのかも知れない。
アッシュはずっと渋い顔をしている。きっとこの依頼、受けることは反対なのだろう。
だが、マローネは決める。
「分かりました。 ご依頼をお受けいたします」
「そうか、ありがたい。 無茶な依頼を受けてくれた礼だ。 料金は前金で払おう」
そして、驚くほどの金額が手渡された。金貨の袋が、ずっしりと来る感触を、マローネは初めて感じたかも知れない。
驚くマローネに、キャナリーは笑顔の一つも浮かべず言う。
「下世話な話だが、拙者は生活をする以上の意味で、金をどう使って良いのかもよく分からん。 どうせ使い道も無い金だ。 遠慮無く受け取って欲しい」
「そんな、せめて半金で」
「貴殿と話してみて、信用できると思ったから先に金を渡すのだ。 拙者には良く世間一般での常識とやらは分からないが、クロームとしてこれが最大限の敬意だと言う事は理解しているつもりだ」
そう言いながらも、キャナリーは満足している様子も無く。ただ、淡々としていた。そして最初から最後まで、笑顔の一つも浮かべることはなかった。
キャナリーは料金を渡すと、一旦おばけ島を離れた。富と自由の島に戻り、パティがどうしているか、一度調べてくると言う。
どうやるのかと聞いたら、とんでもない事を言い出した。
「これでもレンジャー部隊にいたことがあるから、野山に潜む方法は熟知している」
筋金入りである。
戦場では生き生きしている人なのかなとも思ったのだが、今までの会話を聞く限り、そうでもないようだ。
とても乾いているのだなと、マローネは感じた。
クローム業を始めてから、いろいろな人を見てきたが、今回の人は筋金入りの変わり者だ。何というか、何か一つのことしか知らないと、ああいう風に心に大きなゆがみが出来てしまうのかも知れない。
しかし、それはマローネも、人のことは言えないだろう。
「またあんな変人の依頼を受けて。 ああいう人に気に入られでもすると、面倒な事になりかねないよ」
「まあ、アッシュ。 そんなことをいってはいけないわ」
靴を履きながら、マローネは応える。
外に出てから、手を叩いて皆を呼び集めた。先に相談をしておきたいと思ったからである。
まず、依頼についての話。それからキャナリーについての印象を話す。
腕組みしたまま、ガラントは言う。
「サムライか。 戦場で何度か見かけたが、確かに男女関係無しに良い腕をした戦士が多かったな。 だが、あまり話したことは無かった。 ひょっとすると、そんな風に心にゆがみを抱えた戦士も多かったのかも知れん」
「ちょっと面白そうな奴だね」
コリンは話を聞き終えた後、興味津々に目を輝かせている。
マローネは苦笑する。この人は、本性を隠せていると思っているのだろうか。時々アッシュと喧嘩をしているのを、マローネも実は気付いている。何度か殺し合いになりかけたこともあるようだ。
ただし、どうこうしようとは思わない。コリンは怖い人かも知れないが、きっといつかはマローネのことを好きになってくれると思うからだ。
「センシトシテハ、オモシロイヤツダナ」
「バッカス、何か気になるのか」
「トクニナイ」
バッカスはそれだけ言うと、後は黙りだった。或いは、何か嫌な感じがあるにしても、それを具体的に言葉に出来ないのかも知れない。
この間、おばけ島に現れたヒーラーのファントムであるカナンは、じっと笑顔のまま皆の話を聞いていた。
極端にマイペースなこの人は、いつも笑顔で皆を見つめていることが多い。それでいながら、何かを考えているかというと、そうでもないようなので、驚かされる。きっと、心が最初から、湖のように穏やかなのだろう。
「カナンさんは?」
「怪我をすることも多そうですし、助けがいがありそうですね」
「は、はあ……」
「いずれにしても、だ」
キャナリー個人の談義から、ガラントが仕事の話に移る。
ちょっとマローネも困っていたので、そうしてくれるととても嬉しい。
「もしも富と自由の島で保護をするとなると、急いだ方が良いな」
「どうしてですか?」
「この間富と自由の島にマローネ殿が行ったとき、俺は近くを見て廻ったが、街の外にはそれなりに広い森があり、其処に怪物が住み着いている様子だった」
なおもガラントは言う。
コリンはにやにやしながら、その様子を見ていた。
「パティ族には俺もあまり詳しくないが、戦闘能力が高い種族だとは思えんな。 早めに保護に動かないと、怪物の餌になるぞ」
「そうですね」
「やっぱり僕は気が進まない」
アッシュはそう言うが、もう引き受けてしまった仕事だ。
それにマローネは、誰かを見殺しにしたくなかった。
とりあえずファントム達にも同行を願ったのだが、一人だけ、カナンはついてこないと言った。
どうやら、まだおばけ島で輪廻の輪に戻れていないファントム達が気になるらしい。彼女がヒーラーの技で、ファントム達の心の苦しみを和らげていることを、マローネは知っている。
「何人か、とても苦しい思いをしているファントムがいます。 彼らを見てあげたいのですが、よろしいですか」
「お願いします」
「次は同行させていただきますね」
にこりと、カナンが笑みを浮かべる。
裏表のない、優しい笑みだなと、マローネは思った。
富と自由の島はバンブー社の本社がある事でも知られる、ウィステリア地方のメインアイランドである。その繁栄は他の島とは比較にならず、多種多様な人種が生活している。セレストやネフライトの姿も頻繁に見られるほどだ。
建物も大きい。二階建て三階建ては当たり前で、中には石造りの塔のような高いものもある。バンブー社の本社に至っては、天を突くほどの高さで、見上げてしまう。
「コリンさんは、此処で働いていたんですか?」
「あたし? 違うよ。 あたしはね、王室付きの魔術師だったから」
「王室付き?」
どうもぴんと来ない。
ウィステリア地方に限らず、この世界で一番権力を持っているのは、各地のセレストだ。王族はどこの国でも象徴に過ぎず、実際にはたいした権力を持っていない。それくらいは子供でも知っている。
勿論、独自の研究所があったりとか、わざわざおつきの魔術師がいるとは思えなかった。
だが、疑問はガラントさんが解消してくれる。
「まさか、三百年以上前のファントムか」
「正解」
「三百年以上前?」
「ずっと昔、サルファーの侵攻によって一度世界が壊滅しかけたときがあった。 その前には、王室はそれなりの権力を持っていたらしい」
ガラントさんが教えてくれたので、マローネは思わずへえと呟いてしまった。
ずっとずっと昔の人だったわけだ。そうなると、ガラントさんよりも、コリンさんの方が年上と言うことになる。
先に待っていたキャナリーと合流。
キャナリーは所在なげに立ち尽くしていた。辺りの人も、あまりに異質な武人の姿に、自然と道を開けている様子である。確かに、戦場帰りと言われても違和感がないほど、キャナリーの姿は平和な街では浮いていた。
軽く打ち合わせをする。キャナリーは必要なことしか喋らないので、誘導的に尋問をしなければならず、喋るのが得意ではないマローネは苦労した。
だが、キャナリーがマローネを差別していないことは分かる。だから、どうにか仲良くなりたいと思うのである。
しばらく仕事の話をした。他の話もしようと思ったのだが、キャナリーはそれらに全く興味が無い様子だったので、仕方が無かった。
まずは、町外れに。
其処で動きを見たいのだという。何の動きかは、キャナリーは説明してくれなかった。
町外れに行くと、辺りを見回しながらキャナリーが足を止めた。
「サーカスが無くなっているな」
「サーカスですか? パティを逃がしたっていう?」
「そうだ。 もう少し公演期間はあったはずだが、切り上げたのか。 パティを追っている連中がいるのなら、外から見れば分かると思ったのだが」
マローネは当然サーカスなど行ったことは無い。毎月かつかつの生活をしていて、生活物資さえも揃わない状態なのだ。娯楽施設や遊興施設など、どうなっているか中も見たことが無い。
ファントム達に話を聞かせては貰うのだが、それだけだ。
行ってみたいとは思う。
だが、お金が無い。クロームをやってみて、お金の価値はよく分かった。それに縛られたら本末転倒だとは思うが、実際になければ何も出来ないのが、お金なのだ。
この一張羅の白ワンピースが駄目になったら、もう直すことは出来ないかも知れない。
「サーカスって、どんなものですか」
「見世物だ。 興味が無いから分からん」
「……」
「こっちだ。 パティが逃げていったのは、あの方角だ」
マローネはうつむく。
こんな冷たい切り返しが来るとは思っていなかったからだ。
この人は、ある意味、獣よりも遊興に興味が無いのかも知れない。そうなると、コミュニケーションを取るのが、とても難しそうだ。
だが、少なくとも、今の時点でマローネを差別してはいない。
マローネに偏見無く接してくれている人と仲良く出来ずに、他の人と仲良く出来るだろうか。そうとはとても思えない。
しばらく歩いていると、人家がまだらになってきた。
石畳が整備されてはいるが、おそらくは古くに廃棄されたのだろう家屋が、点々と見え始める。
「この辺りは、ベリルが潜むこともある。 気をつけられよ」
「どうして、こんな風になったんですか」
「サルファーとの戦いで、放棄された集落はいくつもある。 これはその一つだな」
ガラントさんが教えてくれる。
油断無く彼方此方を見回していたキャナリーが、やがて一点を指さした。
「いたぞ。 あれだ」
2、パティ追跡
日当たりが良いと言うよりも、おそらく照り返しを浴びているのだろう。
石畳の、整備されていない道上に、それはいた。
小さな子供くらいの背丈で、緑の帽子を被っている。手足はするっと細く、肉食性の動物にはとてもみえない。
面白いのは、殆ど動く様子がないという事だ。
キャナリーから聞いた話によると、パティは植物から進化した種族なのだという。それならば、動かないのは、その特性なのだろうか。
お日様を浴びれば、植物が元気になることくらいは、マローネも知っている。きっとパティもああして食事をしているのだろうと、マローネは推測した。
いずれにしても、あの姿。事前に聞いていた特徴とぴったり一致する。
「サーカス団の団員が探しに来てはいないのかな」
「さてな。 サーカスは消えていたし、今はどうなっているのか、さっぱり分からん」
マローネの言葉に、キャナリーは言葉短く答える。
そして、腕組みしたまま、その場で見ているのだった。
そう、見ているだけ。
確かに仕事の内容は、マローネが保護をすることだ。それに、キャナリーという人が、戦う以外には何一つ持っていないことも、知っている。
アッシュが舌打ちした。
「何だ彼奴、見てるだけなら帰ればいいのに」
「駄目よアッシュ、そんなこといっちゃ」
「そうはいうけどね、マローネ。 今回の仕事、思った以上にリスクが大きいよ。 受けるべきじゃなかったのに」
確かに、パティを捕まえた場合、その後の展開次第では、マローネによる窃盗にされる可能性がある。
マローネの社会的な信用は零に等しい。もしもサーカス団の団長が、マローネが盗んだと主張し、キャナリーが責任を押しつけようとしてそれを肯定したら。恐らく、牢に入れられる。
そうなったらおしまいだ。クロームどころか、今後は定住生活も出来ず、下手をすれば獄死。牢から出られたとしても、もうクロームとしての仕事なんて来ないだろうから、ベリルにでもなるしかない。
それは、絶対に嫌だ。お父さんとお母さんに、顔向けできないからである。
だからといって、体を売って生活するのは、もっと嫌だった。
幸い、キャナリーはマローネに偏見を持っていないようだし、全額で支払いを済ませてくれるという、大変良心的な対応をしてくれた。それに何より、実際キャナリーがいっていたように、パティが牢に入れられたままで幸せだとは思えないのだ。
とにかく、コミュニケーションを取ることである。
ゆっくり、音を立てずに近づく。
アッシュがとなりで、肩をすくめるのが分かった。
「どうするんだい、マローネ」
「まずはパティとお友達になって、それから考えましょう」
「分かったよ」
呆れながらも、マローネのことを認めてくれるアッシュ。それが嬉しい。
パティが、ぐるりと振り返った。
丸い顔には、大きな二つの目がある。しかし、口も鼻も見当たらない。食事は必要ないのだろうか。
そう思ったら、どうやら何か食べていたらしい。石畳の上の土を食べていたのだろうか。だとすると、それも植物と同じというわけだ。
「こんにちは。 私、マローネと言います」
腰を落として、目線の高さを合わせる。動物とコミュニケーションを取るとき、最低限するべき行為だ。
子供に対しても同じだが、上から見下ろされるという状況は、心理的な圧迫感を作り出す。
だから、まずはそれを取り去る。
子供のファントムと接したこともある。世に対する情念が薄いからか、子供がファントムになる事はあまりない。だが、それでも、何度かは目撃した。輪廻の輪に帰れるようにするまで、世話をした。
だから、やり方は知っている。
近づいてみると、パティの白い手には一応指がある。とはいっても、人間のものに比べると本数も少ないようだ。人間の指ほど、器用に動きもしないだろう。
にこりと、笑みを浮かべた。
パティは反応しない。
「こっちに来て。 この森は、おっかない動物が、たくさんいるから」
「マローネ、パティ族に音は通じないって聞いていただろ」
「分かってる」
声でコミュニケーションを取ろうとしているのではない。表情と、態度で取ろうとしているのだ。
しばらく、にらみ合いが続く。
パティは不意に視線をキャナリーに移す。そして、じっと見つめていた。
「拙者がどうかしたか」
そう言った途端。
ぱっと転がるようにして、パティはその場から逃げ去ってしまったのだった。
大きく嘆息したマローネが、振り返る。
キャナリーは自分が悪いとさえ思っていない様子だった。
「あの、すみません、パティが怖がっていたようですので」
「何だ、拙者のせいであったか」
「出来れば、怖い声を出さないで欲しいです。 パティはキャナリーさんの、怖い雰囲気で逃げてしまったと思いますから」
「実感はないのだが、拙者の声は怖いのか」
それは、怖い。
話していて思うのだが、一言一言に少なからず威圧感があるのだ。もっと幼い子供だったら、それだけで泣くかも知れない。
恐らくこの人は、あらゆる事が戦場仕様なのだろう。何もかもが戦場になるような世界だったら、何も考えずに生きることが出来たのかも知れない。そう考えると、不幸な人なのだろうかと、マローネは思った。
ぼりぼりと、キャナリーは頭を掻く。
「拙者にも問題があることは分かっている。 だからどうすれば守ることが出来るのか、拙者は見て覚えたい」
「それならば、少し離れて、静かにしていてくだされば」
「やむを得ぬか」
「マローネ、怒るべき時は怒って良いんだよ」
本当に残念そうに、キャナリーは言う。この人が悪い人でないことは分かる。アッシュは憤慨しているようだが、マローネはコンファインしない。最近アッシュがイライラして機嫌が悪いことは分かるのだが、この人にも責任はないからだ。
マローネが言えたことではないが、多分キャナリーは、戦う事以外は子供と同じ水準だ。子育てでさえ専門の人間を雇ってやらせる家の出身だというし、彼に文句を言うのも筋が違うだろう。
パティが逃げ去った先は、森の奥だ。
コリンは退屈そうにしているし、手伝ってはくれないだろう。バッカスを近くの立て札にコンファインする。
流石に驚いた様子のキャナリーに説明する前に、頼んだ。
「バッカスさん、臭いを追跡できますか」
「マカセロ」
元々が、大きなカメレオンのような姿をしているバッカスである。
四つ足になると、むしろその姿の方が堂に入っていた。動きも、大きなトカゲっぽい。しかも、戦闘で激しく動いているわけではないから、消耗時間も比較的多めに見積もることが出来る。
しばらく大きな顔を地面に近づけて臭いを嗅いでいたバッカスは、すぐにかさかさと動き出した。
頼りになる。
パティを見つける。
今度は、キャナリーは離れているから、特に問題は起こらないだろう。
また手を広げて、じっと陽光を浴びている。そして時々動いては、土を口に運んでいるようだった。
「面白い生態だなあ。 間近で観察したい。 解剖もしてみたいや」
コリンさんが、物騒なことを言うが、聞かなかったことにしておく。
ゆっくり、驚かさないように、抜き足差し足で歩く。
パティが、振り返った。
意外に、危機探知能力は高いのかも知れない。
笑顔を浮かべて、腰を落とす。一旦近づくのはやめだ。相手の気持ちを尊重しながら、ゆっくり距離を詰めていかなければならない。
実際、パティは怖がっている。今はやっと安心して食事をしている、というような状態なのだろう。
「さっきの動きを見る限り、その気になれば捕まえられるけど?」
「駄目よアッシュ。 そんなことをしたら、怪我をさせてしまうわ。 ごめんなさい、バッカスさん。 戻ってくれますか」
「ワカッタ」
バッカスは一度コンファインを解除して、立て札に戻った。倒れそうになる立て札を受け止めて、ゆっくり地面に横たえる。
一連の状況を、じっとパティは大きな双眼で見つめていた。
しかし、あの目も、本当に人間と同じ目なのかは分からない。全く生態が違う生物を、人間と同じ常識で考えてはいけない。
「怖がらないで。 大丈夫だから、こっちに来て」
話しかける。
パティはしばらくじっとしていたが、やがて、そろり、そろりと近づきはじめた。
見たところ、仲間が此処にいるとはとても思えない。その上、知らない場所の筈で、孤独な中、不安で怖がっているはずだ。だから、マローネも悪意無く近づく。助けてあげたいと念じながら。
そうすれば、きっと心は通じると思うからだ。
しばらく、マローネは笑顔を続ける。
中腰の姿勢で、しかも陽光を浴び続けるのである。ちょっと疲れてきた。だが、少しずつ近づいてくるパティは、もっと疲れているし、怖いし、何もかもが不安で仕方が無いはずだ。
だから、我慢できる。
やがて、手が届くほどの距離まで、パティは来た。
だが、森の奥で、何かの咆哮が聞こえる。それは獲物を求める猛獣のものに違いなかった。
吃驚したパティは、さっときびすを返すと、一目散に逃げ出す。
細い手足を一生懸命動かしていたが、動きはそれほど早くもないし、鋭くもない。どうやって自然では身を守っているのか、マローネは不安になった。
「逃げてしまったか」
「急ぎましょう。 キャナリーさん、ありがとうございます」
「ん? ああ、何も手出しをしなかったことか。 気にするではない。 拙者はそういった事はまるでわからぬでな。 勉強させて貰う」
大まじめにキャナリーが応えたので、アッシュがぼやく。
「よくもまあ、アレで世間の荒波の中生きてこられたものだなあ」
「俺が生きていた時代は、あんなふうに戦場しか知らない男がちらほらいたよ。 彼らは戦場の怖さを知り抜いていたが、それ以外は何も出来ないって言うことが多かった。 戦いの中で傷ついたのに、平和になると迫害されることもあるようだったな。 だから、あまり責めてやるな」
ガラントが、キャナリーを擁護する。
コリンは退屈そうにやりとりを見ていたが、あくびをした。
「あーあ、やり方が手ぬるいなあ。 それより、早く追っかけないと、あの緑色、森の怪物のランチになっちゃうよ」
「分かっています。 バッカスさん!」
再び、バッカスを呼び出す。
立て札は先に倒しておくべきかも知れないと、マローネは今の教訓から思った。
街道を進んでいくと、森が深くなってきた。
正確には、放棄された集落を、森が飲み込んで行っている感じだ。石畳の間からも、雑草が生えているのが目立ちはじめる。整備がされていない証拠である。
元々開発が進んでいたこの島である。サルファーの攻撃で放棄した集落も、それなりの広さがあったのかも知れない。
見ると、石畳などには、戦闘の痕らしいものも残っていた。綺麗に整備されていただろう石畳の上で、大量の血が流されたのだと思うと、少し悲しかった。血が流されたという事は、たくさんの人も死んだという事なのだから。
しかし、相手は誰なのだろう。以前見た、あの恐ろしい丸い姿をした、憎悪の塊みたいなファントム達だったのだろうか。
家々を包み込むようにして生えてきている木や、辺りを覆い尽くそうとしている雑草には、そんなことは関係ない様子だったが。
キャナリーは大まじめに、一定距離を保ったまま付いてきている。
「アッシュ、まだ怒ってる?」
「ああ。 確かに優れた武人かも知れないが、常識外れにもほどがある」
「仕方が無いさ」
苦笑して、ガラントがアッシュをなだめる。
さっき怒っている間もずっと黙っていたガラントだが、ようやくアッシュをなだめてくれる気になったらしい。
「それよりも、今はパティを穏便に保護して、その後どうするかを考えよう」
「あの人に押しつければ良いんじゃないんですか?」
「アッシュ! それは酷いわ」
「ごめん、分かってるよ」
マローネも、そんなことは考えたくない。
パティは見てみたが、気の小さな普通の子供のような、心を持ち合わせた存在だ。キャナリーが言うように、サーカスでは虐待も受けていただろうし、悲しい目にも遭っていただろう。
しかも、マローネが生きるために食べなければいけない存在でもなければ、襲ってくるから退けないとならない相手でもないのだ。出来れば、どうにかして助けてあげたいと、マローネは思う。依頼であるという以上に。
ただ、問題は、ガラントが言うように、保護した後のことだ。
キャナリーのくれた代金は、その保護後のケア料金も含んでいると考えなければならないだろう。
バッカスが顔を上げた。そして、唸り声を上げながら立ち上がった。
何か周囲にいる。しかも、相当な数だ。
見ると、ベリルである。それもウサギリス族ばかりだ。
ウサギリス族のベリルは初めて見たが、めいめい貧弱な武器で武装している。鎧もまちまちで、中には汚くて粗末な着衣だけの者もいた。辺りは完全に包囲されている様子で、キャナリーが鯉口を切るのが見えた。
「三十はいるな」
「突破するか」
「うん」
今回は、戦力を出し惜しみしない方が良いだろう。
マローネは、コンファインを全力で展開した。側の岩が、見る間に姿を変えていく。まずはガラントが具現化すると、ベリルの一人が放った矢を、マローネの至近でつかみ取った。
ウサギリス族は人間族に比べると、身体能力が低い分知恵と寿命に優れている。マローネなら与しやすいと思ったのだろう。だが、大柄で、見るからに戦士らしいガラントが姿を見せると、彼らはぎょっとした様子だった。
「あ、あ、悪霊だ! ひいっ!」
もう、その中傷は聞き飽きた。だが、何度聞かされても、悲しいと思うのは何故だろう。
無言で、ガラントが飛び道具を手にしている一体に突撃、拳を振るう。アッパーカットをもろに喰らったウサギリスが吹っ飛び、回転しながら飛んでいく。
更に、アッシュを呼び出す。
近くにあった朽ちかけた柵を用いる。既に誰も住んでいない家々の中からは、この闘争の結末をうかがう視線が、無数に感じられた。
まるで巨大なトカゲのように四つ足で這いながら敵に接近したバッカスが、ガラントと綺麗に連携しながら、敵を薙ぎ払っている。尻尾で敵を薙ぐと、数体がまとめて吹っ飛んだ。体格差があるから、戦闘は一方的な展開になる、と思えた。
だが、ウサギリスのベリル達は、意外に冷静だった。バッカスに対して、槍を揃えて数体が同時に牽制に掛かる。ガラントに対しては、近づくのが難しいと判断してか、逃げ回りながら弓矢を放ち、距離を取ろうとする。
それだけではない。
リーダー格らしい、顔にすごい向かい傷がある奴が、叫ぶ。
「くそっ! 化け物には化け物だ! あれを出せ!」
「分かりました!」
部下らしいのが、森の奥に駆けていく。
走るときは、どちらかと言えば兎か何かが跳ねているようで、ちょっとかわいらしい。だが、ウサギリス族は人間族よりも身体能力が低いとは言え、知的種族の一つだ。罠も使うし、武器も使いこなす。見た目よりずっと力自体も強い。
ベリルである以上、どんな悪辣な罠を使ってくるかも、分からなかった。
アッシュが加わり、残敵の掃討に入る。不意に、風。
見ると、死角に入った一体が、矢を放ってきていた。
悲鳴を上げて横転。こめかみの辺りに、灼熱を感じる。擦ったかも知れない。ガラントに護身術を習っていなかったら、直撃、即死だっただろう。しかも、倒れたところをとどめを刺そうと、更にベリルがもう一矢をつがえているのが見えた。
まずい。
アッシュは間に合わない。
ガラントも、バッカスも。
濃厚な死の臭いを感じる。ベリルが、にやりと笑うのが、見えた気がした。
だがその時、割って入ったキャナリーが、踏み込みざまに剣を一閃させた。手が見えないくらいの早さだった。
空中で真っ二つになった矢が落ちる。まさに神速の剣撃だ。
文字通り飛び上がったベリルに、アッシュが蹴りを叩き込んで黙らせる。連携が崩れ、槍衾をかいくぐったバッカスが、数体をまとめて地面にたたきつけて気絶させる。
だが、森の奥から、恐ろしい怒号が聞こえてきたのは、その時だった。
キャナリーが手をさしのべてくる。ただし、左手を。右手には、抜き身の剣をぶら下げたままだ。
「立てるか、マローネ殿」
「何とか」
手をこめかみに当てる。べったり血が付いていた。今のは相当危なかった。
今更ながら、手が震えてくる。傷を見るのが怖い。
「ほう、マンティコアか」
ガラントが、逃げようとしている一人を踏みつけ、背中の大剣を抜きながら言う。ばたばた暴れているベリルは、ちょっと滑稽だった。
茂みをかき分けて、ライオンのような姿をしたそれが現れた。ライオンのようだが、顔は人間に近い造形をしていて、しかも尻尾は炎を纏って揺らめいている。目には凶暴な光があり、飢えているのが分かった。
マローネも知っている怪物だ。
マンティコアと呼ばれ、彼方此方の島に生息している凶暴な奴である。たまに人間に飼い慣らされていると聞いていたが、それを此方に向けられるとは思わなかった。好物は人間の肉だとか言う話だが、生きたまま囓られる様子を想像すると、ぞっとしない。
しかもその口には、ぐったりしたパティが咥えられていた。
ぺっとパティを吐き捨てるマンティコア。
多分もっと食べ出がありそうな、マローネを見つけたからだろう。
獅子の雄叫びが、辺りを蹂躙した。音が圧力を伴って、辺りを叩いたかのようである。思わず耳を塞ぎたくなった。その背中には、いつの間にか、さっきの向かい傷が凄いウサギリス族のベリルが跨がっている。
「やれ! 全部ぶっ殺せ!」
だが、獣は、言うことを聞かなかった。
いきなりロデオのように跳ねると、背中に跨がっていた主君を放り出したのである。更に情けない悲鳴を上げて落ちてきた主君を、後ろ足で一蹴り。吹っ飛んだベリルは、何度か地面でバウンドして、動かなくなった。
マンティコアが、跳躍。
元々怪物に分類されるだけあり、マンティコアは摂理から外れた存在だ。そのパワーは、並のライオンなど比較にもならないと、聞いたことがある。
アッシュが間に割って入る。ベリル達は、この機会にとさっさと逃げ出した。
青い燐光を纏ったアッシュが跳躍し、空中でマンティコアとすれ違う。
だが、マンティコアは着地と同時に、まずはアッシュを撃滅しようと思ったのだろう。反転し、もの凄く太い腕で殴りかかった。当然指先には、一つ一つがマローネの親指ほどもあろう爪が覗いている。
アッシュも負けてはいない。
「邪悪なる者に打ち克つ力を! 水竜の力、エカルラートッ!」
アッシュが纏う燐光が、更に力強さを増す。
能力名を口にしたことで、そのブーストが最大限にまで高まったのだ。だが、マンティコアも全身に赤い燐光を纏う。
空中で、両者が交錯した。二度、三度、激しくぶつかり合う。
残敵の掃討を続けているガラントは、まだ介入が間に合わない。だが、バッカスは、槍を掴むと、最後の一人を地面にたたきつけた。
そして、走り出す。
着地したマンティコアが、再び跳躍しようとした瞬間だった。
体を丸めて、体当たりを仕掛けたバッカスが、凄まじい火花を散らしながら、マンティコアを吹き飛ばす。
巨体が撓むほどのチャージだった。吹っ飛び、空中でマンティコアが悲鳴を上げた。
コリンをコンファインしようとしてたマローネは、その手を止める。
アッシュが地面を踏みしめると、跳躍。
そして、空中でもがいているマンティコアを、空を突き抜くような勢いで殴り上げた。
勝負あり。
マンティコアが地面にたたきつけられ、伸びる。最後の一人を叩き伏せたガラントが、縄でその手足を縛り上げはじめた。点々としているベリル達も、そのまま順番に縛り上げていく。
「半分は逃げられたな」
「バッカスさん、ありがとうございます」
「ナニ、ヤスイヨウダ」
まず、バッカスがコンファインを解除して、消える。マローネはこめかみの傷を押さえながら、小走りでパティの元へ急ぐ。
不意に、後ろでアッシュが矢をつかみ取った。
倒れて気絶したふりをしていたベリルの一人が放ったのだ。危ないところだった。
「く、くそっ……! 化け物を、殺せたと思ったのに」
気絶するベリル。
マローネは悲しくなったが、しかし今、まだ死ぬわけには行かなかった。
今のコンファイン多用で、かなり力を使ってしまった。
だが、そのままだと、パティはかなり危ないだろう。
側で腰を下ろすと、パティの状態を見る。噛まれてはいたが、死んではいない。手足も千切れてはいなかった。
この状態なら、充分に直せるだろう。ちょっとだけ安心した。
「ごめんね、とても痛いけど、我慢して」
パティの血は緑色らしい。だらだらと流れていて、それでも大きな目は見開いたまま、マローネをじっと見つめていた。
回復術を起動する。
アッシュは、そろそろ限界時間なのに、まだ側に付いてくれていた。ガラントが全員を縛り上げたと声を掛けてくる。それで、やっとコンファイン解除。
念のためにと、ガラントはまだ残ってくれた。
「直せそうか」
「どうにか」
「カナンにも来て貰えば良かったな」
「そう、ですね」
マローネは、ファントム達の事も心配だから、あの決断が間違っていたとは思いたくない。死んでからも苦しみ続けているファントム達に、後回しにするなんて、絶対に言えないからだ。
手のひらから放出した魔力を練り上げ、回復の力に変えて、ゆっくりパティに流し込んでいく。
集中が切れると、この回復行動が阻害されてしまうこともある。だからスマートなイメージと裏腹に、回復術はとても泥臭い代物だ。傷口がふさがっていく様子などはとてもグロテスクで、子供には見せられない。
パティにも回復術が通じるかは不安だったが、どうにか効いている。パティの様子からも、それが分かる。
血が止まる。
だが、びくびくと、パティは動いていた。多分、とても痛いのだ。
以前骨が出るほどの怪我をしたとき、回復術で治したことがあるが、とんでもなく痛くて、数日は涙をこらえなければならなかった。
パティの小さな体で、あの恐ろしいマンティコアに咥えられたのだ。一つ一つの牙が、それぞれ人間族の指ほどもある相手である。人間で言えばどんな怪我になっていたか、分からない。
マローネの技術が未熟だというのもあるだろう。
だが、それ以上に、怪我の修復は、そもそも摂理を曲げた奇跡の一種なのだ。その代償は、小さくないのである。
ほどなく、治療は終わった。
戦力はあまり残っていない。アッシュはしばらくコンファインできないし、ガラントもバッカスも当分は無理だろう。コリンだけは出られるが、前衛がいない場合、魔術師は無力だ。
それに何より、回復術でマローネの力は枯渇状態である。しばらくは歩くことさえ難しいだろう。
しかし気にせず、マローネは、パティを抱きしめる。マローネ自身も、パティの血にまみれていたが、そんなことはどうでもいい。パティを救えたことだけが、今はとても嬉しい。
「良かった。 よく我慢したね」
本当は、我慢どころか、痛いので逃げることも出来なかっただろう事は、マローネも分かっている。
だが、それでも。
自分で痛みを知っているが故に、パティにはそう言いたかった。
パティを離す。
逃げようとは、しなかった。
「マローネのことを気に入ってくれたようだね」
アッシュが慰めなのか、或いは自分も喜んでいるのか、そんな言葉をかけてくれた。
ひらひらと、パティが舞のような動きをはじめる。だが、キャナリーの視線は怖いようで、キャナリーとはどうしても目を合わせようとはしなかった。
一旦キャナリーが、マローネから離れる。
何だか申し訳ない。あの人に悪気がないことは、マローネも分かっているのだが、こればかりはどうしようもない。
子供に難しい本が理解できないように。あの人が悪い存在ではないと、パティに理解させるのもまた難しいのだ。
立ち上がろうとして失敗。
苦笑いした。
パティに、出来るだけ今の窮状は見せたくなかった。自分の怪我も心配は心配なのだが、それよりも今はパティの安全を優先したかった。
「ご、ごめんね。 私運動神経鈍いから」
二度失敗して、どうにか立ち上がることに成功した。
そのまま倒れそうだったが、まだ頑張る。頑張らなければならない。
さて、これからどうしよう。
一旦この危険地帯を離れる必要がある。ベリル達は逃げていったが、それでもまだ半数は健在だった。また戻ってきたら、今度は手に負えないだろう。
だが、これだけの騒ぎがあったのだ。その心配は、不要となった。
茂みが揺れて、振り返ると、武装した人達が現れる。どうやら自警団らしい。十人以上はいるだろうか。キバイノシシ族の、時々ボトルシップの停泊切符を切ってくれる人が混じっている。自警団に入っていたとは知らなかった。
こういう島の自警団は、下手な傭兵団よりも戦力が充実していることがある。富と自由の島の場合、バンブー社が強力なバックアップをしている事もあり、腕利きが多数混じっているらしいと話は聞いていたが。迅速な動きだ。
「おや、マローネか」
「お久しぶりです」
「これは。 この辺りを荒らし回っているベリルの連中を一人で潰したのか。 報告にあったマンティコアまでとらえているじゃないか」
「すげえ。 流石悪霊憑き……」
一人が喉を鳴らした。
どう考えても、好意的な発言ではない。暴力的な悪意、いうならば悪魔のような存在を見ているかのような視線。
とにかく、とらえたベリルの人達を引き渡す手間が省けたのも事実である。
「この人数をとらえたのはお手柄だ。 後で俺から報告しておく」
「あの……」
「どうした」
「あまり酷いことはしないであげてください。 きっと生活が苦しくて、どうしようもなくてベリルになったんだって思いますから」
おじさんは頷いてくれたが、他の人達はしらけた目でマローネを見ていた。
ベリルの人達を、自警団の人達が引っ立てていく。もとより体格が貧弱なウサギリス族は、手も足も出ずに運ばれていった。
マンティコアは目を覚ましていたが、前後足をしっかり縛られた上に、丸太を噛まされて顎までしっかり縛り込まれていた。迅速にガラントが処置してくれたのである。マンティコアももがいて抵抗しようとするが、どうしようもない。そのまま、数人がかりで運ばれていった。
キバイノシシ族のおじさんが、唯一心配そうに声を掛けてくれた。
「怪我は大丈夫か」
「はい。 平気です」
「出来るだけ早めにヒーラーに見せろ。 跡が残ったら台無しだぞ」
「まだ、お仕事がありますから、それが終わったら」
街にいるような、胡散臭いヒーラーだったらかかるお金はあるかも知れない。でも、マローネは自分で回復術も使えるし、少し休めばどうにかなる。
それよりも、パティだ。
ずっと多くの人間が不意に現れたことで、明らかに怯えていた。マローネの影に隠れて震えているパティが、痛ましくてならない。
キャナリーがやったことは確かに犯罪だ。
だが、パティが酷い扱いを受けていたのは事実だ。それは、否定できない事だった。この様子からしても、疑う余地はない。
「一度おばけ島に戻りましょう」
「なるほど、そこで善後策を練るんだな」
「はい。 パティ達がいる島を見つけられれば、其処に送ってあげることが出来ると思うのですが」
「分かった」
キャナリーは、結局最後まで、何も手伝ってはくれなかった。
だが、マローネに当たりそうになった矢を切り落としてくれたのは事実である。キャナリーがいなければ死んでいたことを思えば、これ以上何も言うことは出来ない。それに何より、依頼主なのだ。
どうにかして仲良くなりたいとは思う。
だが、どうしても、超えるのが難しい壁がある事を、マローネは感じていた。
先に、キャナリーが行く。
マローネも、パティの手を引いて、街道を戻りはじめた。キャナリーの船は速度が出ないので、先に港へ向かって貰う方が良いだろう。
街の近くで、少し休みたい。
少し休めば、回復も出来るのだから。
3、現実と理想
街の近くまで戻る。
本当はもう、立っているのもつらい状態だ。だが、もっと怖い思いをしているだろうパティに、そんな弱みは見せられなかった。
手を引いてみて分かったが、パティはとても体温が低い。植物が元になっているというのも、何となく納得できる。
少しずつ、暑さが和らいできた。
様々な島には、それぞれの気候がある。この富と自由の島は、比較的気温が高く、一年中活動が可能だ。それが故に、バンブー社が本社を構えたのだという噂もある。
「そうだ、お弁当食べよっか」
腰を下ろして、座る。
パティは不思議そうにマローネを見ていたが、弁当を広げるのを見ると、意図を察したらしい。
マローネの方はというと、弁当箱を開けるだけで相当な重労働で、実は冷や汗を全身に掻いていたのだが。
お弁当と言っても、基本的に油ものばかりだ。いつ食べられるか分からないので、しっかり火を通しておかないと危なくて仕方が無いからである。
油は魚から簡単に捕れるので、それを使ってあげる。意外に料理上手なアッシュに教わって、マローネはある程度料理が達者だ。とはいっても、手間暇掛けて料理している暇は無く、大きなカニさんや貝さんの身を上げたりして、日持ちするようにして凌いでいるのだが。
大きなカニさんは、一度捕まえることが出来れば、数日分のご飯になる。
魚さんも、網に掛かったものの中から、食べられるものを捌いて干物にすれば、かなり長持ちする。
アッシュは食べ物にはかなり五月蠅くて、マローネが食べないでいるとすぐに気付く。だから、定時に食べる習慣が出来ていた。特に、マローネが孤児院にいた頃はろくに食べさせて貰えず、それが故にとても背が低いのを、凄く気にしているらしい。今はおなかがいっぱいでも食べさせようとするので、たまに太らないか心配になる。
この辺りでは、食器は使うが、経済力によって、何を使うかが決まってくる。マローネのような貧乏人はピセという先が二股の棒のみを用いて、それを使ってものを刺して食べる。箸とかフォークとか、いろいろな食器をお金持ちは使うらしいのだが、それはあくまでお金持ちの生活に根ざしたものだ。
ライスにしても、麦にしても、穀類は食べる機会が少ない。食べるとしても油で揚げて固めるので、処置はピセだけで充分なのだ。
「カニさんのはさみ、食べる?」
揚げた蟹さんのお肉を、パティはしばらくじっと見ていたが。
やがて、黙々と土を食べ始めた。どうやら食指が動かないようだ。
まだ、魔力は戻らない。
隣にコリンが座った。
「そういや、マローネちゃん。 聴きたいことがあったんだけど」
「どうしたんですか?」
「あたしが火炎の術式を使ったり、アッシュ君がエカルラートで身体能力強化したときとか、魔力消耗早くなる?」
「いえ……」
なるほどねと、コリンは呟いた。
そして、図に書いて見せてくれる。
「マローネちゃんはね、この真ん中の貯水タンク。 それであたし達が、この周囲にある小さな水入れで、このパイプでつながってる」
「は、はあ」
「で、普段はこの水入れは貯水タンクからの水で満タン。 使うときは、マローネちゃんの所にあるスイッチを切り替えれば使えて、そして水を出すことで能力を展開していく」
そして、水がなくなったら、コンファイン時間終了、と。
水は少しずつマローネから補充されているが、貯水タンクの水には限りがある。消耗する方が、遙かに早い。
だから、エカルラートなどを使っていると、あっという間に残り時間は尽きてしまう、というわけだ。
水入れの大きさは、恐らくファントム個人の情念の強さで決まると、コリンはいう。だが、水入れ自体を強くしたり、大きくしたりも出来るのではないかとも、コリンは付け加えた。
「ファントムが成長するって言うことですか」
「おそらくは可能だね。 あたしも試しに知らない術を幾つか勉強してみたけど、覚えられたし」
「……」
アッシュが苦しんでいることを、マローネは知っている。
技を新たに増やしたり、強さそのものを増すことが出来れば、今後の戦況はきっと有利になる。
だが、アッシュは何処かで、それを喜んでいない。
最近ガラントさんが来たときも、最初は喜んでいなかったのが、マローネには分かった。
ゆっくり食事をしているのを見て、コリンが肉食獣めいた笑みをとなりで浮かべている。それを見て、アッシュが怒っているのも分かった。
きっとコリンは、マローネが苦しむのを見て、おもしろがっているのだろう。
事実マローネは、全身の疲弊と痛みが合わさって、笑顔を保つだけでやっとの状態だったのだから。
少し風に吹かれて休む。
パティは、何処かに行ってしまうことも無く、光を浴びてずっとぼんやりしている様子だった。
或いは、光を浴びることで、体の中に栄養を作っているのかも知れない。
座ってじっとしていると、少しずつ体力が戻ってくるのは分かる。だが、それと同時に、痛みもはっきりしてきた。
このままだと、化膿したりするかも知れない。
もっと痛くなるが、回復をするしかないだろう。
手鏡を出して、顔を見る。背筋が凍るかと思った。こめかみに、人差し指くらいの長さがある切り傷が出来ていた。そして、顔の半分くらいに血が飛んでいた。なるほど、痛みさえ感じないわけである。
刺さっていたら、脳の奥まで鏃が入って、即死だっただろう。
弓矢の破壊力を、改めて思い知らされる。まず顔の血を拭き取る。持ってきていたバックパックから脱脂綿を取り出し、アルコールを掛けて傷口に。びりっと痛んだが、我慢して血を取った。
まだ傷口は固まっていない。
傷口に手を当てて、回復術を発動。弱々しい光だが、今大事なのは、一刻も早く出血を止めることだ。患部の消毒は早めに済ませたし、傷口の修復と、患部の殺菌を術式で同時に行ってしまえば、それで処置は終了である。
酷い痛みが、頭中を襲う。
まるで、頭を引き裂かれるみたいだ。笑顔を保つのが、苦痛になってきた。だが、それでも、マローネは我慢する。
「マローネ!」
「だ、大丈夫。 アッシュ、酷い、わ。 こんなになってるのに教えてくれない、なんて」
「ごめん。 だけど、ショックを受けると思ったから」
「これくらいは平気よ」
今はそれより、パティを助けることの方が大事だ。
傷はふさがった、手鏡で見る限り、ほつれていたり、跡が残ったりする事はなさそうである。
嘆息するマローネは、自分が押し倒されたことに気付く。
食事を終えてはいたが、何があったのだろう。
違う。
押し倒されたのではない。
起きている余力も無くなったのだ。
からんと音を立て、石畳の上にピセが転がった。瞳孔が開いているのが分かる。呼吸は、妙に安定していた。動けない。冷や汗が、全身から流れているのが分かった。
気付くと、空があかね色に染まっていた。
長時間、意識を失っていたらしい。パティは。いるにはいる。自分にすがりついている。体を起こす。鉛のように重い。
脱力感が酷い。
アッシュ達はいるが、臨戦態勢だ。理由は、すぐに分かった。
周囲を、どうやら相当な使い手らしい者達が取り囲んでいた。人間族だけではなく、キバイノシシ族も、オウル族もいる。いずれもが油断無く武器をマローネに向け、その後ろには檻車もあった。
「だ、誰ですか」
「なあに、そのパティの飼い主だよ。 お嬢さン」
ンの発音に特徴がある。どうやら、声の主はキバイノシシ族らしい。キバイノシシ族は、人によっては成長すると犬歯が非常に大きくなり、口の外まではみ出す。その関係で、発音が上手に出来なくなる。
元々出来ていた発音が出来なくなるので、将来的にも矯正が出来ない場合が多く、苦労している人は多いようだ。
パティは気の毒なぐらい怯えていて、ひたすらに震えているのが分かった。
飼い主と名乗ったのは、タキシードを着込み、シルクハットを被ったキバイノシシ族の中年男性だ。体つきはさほどたくましくないが、口には葉巻を咥えている。そして、非常に立派な犬歯が、口の外へ上向きにはみ出していた。あまりにも立派な犬歯である。そういえば噂に、お金持ちのキバイノシシ族は、自分の魅力を更に強調するため、犬歯にかぶせものをするのだとか。そうすることで、犬歯をもっと大きく見せるらしい。
側には何名か、上半身裸の、スリムなキバイノシシ族の男性が控えている。
何となく、分かってきた。
この人達が、キャナリーがパティを逃がしたという、サーカス団の所属者だろう。そして側にいるのは、雇ったクロームか。いや、この規模だと、小さな傭兵団か。
「俺のパティを拾ってくれてありがとうよ」
「は、離れてください。 すごく怯えています。 どんな酷いことを、この子にしてきたんですか」
「それは聞きづてならねえな」
紫煙をゆっくりはき出すと、団長らしい人物は言う。
「パティ族はな、森の盗人って言われてる。 何でだか分かるか?」
「知りません……」
「そのピセ、くれてやってみろ」
何だか分からない。
だが、パティに向けて、ピセを見せる。しばらくマローネの方を見ていたパティが、ピセを触る。
その瞬間、ピセが淡い光に包まれ、重力を無視して、浮き上がった。光の粒子が、ピセの周囲を回り続け、音もなく小さな食器は浮上していく。
そして、どこともなく、消えてしまったのである。
「あ……」
「そういうことだ。 そいつらは、親切にしてやると、その返礼に忘恩を返すのさ。 どうやっているのかは良くわからねえがな。 俺はそいつを保護してやっていたンだよ」
「保護……」
「そうさ。 放っておけばそいつは周囲の人間にいじめ殺されるか、そうでなけりゃ怪物共の餌になっていただろうよ。 お嬢さンが命がけで守ったらしいが、それも今の行動で返されて、気分が良いか?」
頭が酷く痛むから、混乱してよく考えられない。
だが、パティが憎まれる理由は、よく分かった。マローネは今くらいのことは気にしない。きっとパティなりの親切の結果だと思うからだ。だが、他の人達は、きっと怒るだろう。
そして、何となく分かってきた。この状態を作った原因は、自警団の人達だ。
あの人達が、きっとこの人に通報したのだろう。彼らは悪くない。落とし物を、見つけただけなのだから。
悪いのは、弱い自分だ。
団長さんは、パティを睥睨すると、視線で檻をさした。
「言ってることは分からんでも、何を指示してるかは分かるな。 お前の居場所は其処にしかねえ。 たとえ檻の中が嫌でも、お前は自力で生きていくことが出来ない生物なンだよ。 だったら多少嫌でも、俺の監視下で、見世物になって生きていくンだな。 そうしないと、今度はそのお嬢さんに、もっと迷惑が掛かる」
正論だ。それは、マローネが反論できないほどに、全くというほど現実を射貫いている言葉だった。
誰も、パティには優しくしない。
外で生きていく力もない。
だったら、こういう人の下で、生きていくほか無い。
まだ、マローネの力は回復しきっていない。この人数を相手に、血路を開くことも、絶対に不可能だ。
パティが、マローネから離れた。
そして、歩き出す。
ピセを盗んだことは、怒っていない。それなのに、どうしてだろう。
手を伸ばす。陽光の透ける、薄くて小さな手。パティのもっと小さな白い手には、届かない。
檻の戸が、落ちた。
パティは、檻の中に戻ったのだ。
表情が消えている事に、マローネは今更ながら気づく。嗚呼。世の中は、どうしてこうも無情なのだろう。
団長は、紫煙をはき出す。
「お嬢さンが、パティを盗んだとは俺も思っちゃいねえ。 だが、ただで助けてくれたとも思ってねえ。 あンた、どうせクロームだろ? これを逃がした奴に頼まれたって所じゃないのか?」
「いえません」
「それでいい。 あっさり喋るような奴だったら、逆にこの場で取り押さえて、檻に一緒に放り込んでいたよ。 ふン、感情を優先して動くような奴は、この世じゃ生きていけないし、生きていける命だってフイにするんだ」
何だろう。そういう団長は、妙に目の奥に、悲しい光を秘めているような気がした。
何かを投げてよこされた。
サーカスのチケットらしい。ちょっと重めの紙で作られているらしく、風にも舞い上がらず、地面に落ちた。
「気が向いたらきな。 何かの縁だから、くれてやるよ」
「……」
「野郎共、引き上げだ! 次の島での公演に向けて準備をするぞ!」
ぞろぞろと、サーカス団が引き上げていく。
チケットには、シシカバブ団長のわくわくサーカスと書かれていた。その名前は、新聞で見たことがある。
そうか、あの人は、シシカバブというのだと、マローネはぼんやり思った。
パティを回収したシシカバブは、鼻を鳴らして、富と自由の島のシンボルになっている、バンブー社本社を見た。
世界一気に入らない建物だ。
本当だったら、この島にも来る気なんか無かった。万が一にでも、奴に出くわしでもしたら、感情を抑えられる自信が無かったからだ。
だが、感情で動いていたら、この世界では生きていけない。
傭兵団に賃金を渡す。
「ありがとう。 迅速に解決が出来たよ」
「いいや、俺たちもあんな小さな子供を殺さないで済んで良かったよ」
「あの子、悪霊憑きって話だけど。 あんな疲弊してまでパティを守ったのか……」
そう呟いたのは、まだうら若い女性の戦士だ。大きな槍を手にして、ざんばらな紅茶色の髪を、ざっくり鉢巻きでまとめている。
彼女こそ売り出し中のこの傭兵団の団長、槍のレーアだ。まだ未熟なところもあるが、特殊能力持ちで、何より判断力に優れている。それは見ていて、シシカバブも分かった。
部下達がパティの側にいた女の子を殺そうと言い出すのを、二度彼女は止めた。戦力だけを有効活用して、誰の血も流さず済んだのは、冷静な判断力の賜である。
「また、何かあったら依頼を受けて欲しい」
「分かりました。 それじゃ、あたしらは失礼します」
傭兵団を見送ると、シシカバブはサーカスのテントに戻る。
檻を確認していた団員が、礼をしてきた。
「親方、これを見て欲しいのですが」
「うン?」
かって、パティが入れられていた檻。
その格子の一つだけが、綺麗に外れている。どうしても理由が分からなかったのだが、どうやらとんでもなく鋭い刃物で切った、というのが原因であったらしい。
「これだけを、ピンポイントで切ったのか」
「どうやらそのようで」
「そうなると、犯人はやはり彼奴か……」
心当たりがある。
腕利きのクロームで、少し前にパティを解放して欲しいと言ってきた奴がいるのだ。証拠がないので押さえようがないが、もしあの場にいたら、多少面倒であったかも知れない。
いずれにしても、パティは戻ったのだ。
このサーカス団を、世界一にする。それはシシカバブの夢だ。いずれイヴォワールだけではなく、全世界に名前が轟く存在にしたい。
そのためには、どんなことだってする。
サーカス団は水物だ。出し物は危険だし、動物たちだって良い環境にいるとは言いがたい。
荒くれの団員も少なくないし、世間に居場所がないような者だっている。
パティだってそうではないか。別に、パティにだけ冷たく当たっている訳ではないのである。
この世界は、感情を優先していては、生きてはいけない。
それは幼い頃、嫌と言うほど思い知ったではないか。
「今後は、優秀な用心棒を雇う必要があるな」
「親方?」
「多少の出費にはなるが、仕方が無い。 腕利きのクロームを、リストアップしておいてくれ」
紫煙をはき出すと、新しい檻に入ったパティを一瞥し、シシカバブは歩き出す。
この島を出すまでに処理しなければならない書類は、山のようにある。島を出てからも、やるべき事はいくらでもあるのだ。
サーカス団がおもしろおかしく楽をして稼いでいると思っている奴がいたら、ぶん殴ってやりたい。これほど泥臭い商売は他にない。場合によっては、地元を仕切っている犯罪組織に近い連中と渡りを付けたり、或いはセレストに賄賂を渡して興行権を勝ち取ったり、あらゆる汚い手管が必要になってくる。
いつ破綻してもおかしくない綱渡りを続けて、此処まで来たと言っても良い。シシカバブにとって、このサーカス団は、人生の全てだった。
草原で、しばらくぼんやりしていたが。
陽が落ちた頃、無言で弁当箱を片付けて、しまった。
パティの救いを求めるような目。そうだ。檻がしまるとき、パティはどうにもならない現実を嘆くように、マローネにそんな目を向けていた。
網膜に、その悲しみに満ちた目は、焼き付いている。助けられるのは、マローネだけだったのだ。
それだけではない。
キャナリーに、なんと説明をしたら良いのだろう。貰った代金は、全部返金しなければならないだろう。
虚ろな目のまま、歩く。
誰かを恨むのは、筋違いだ。マローネは、力がなかった。あのとき、気絶したのも、パティを守れなかったのも。全て自分のせいだ。
それが分かっているから、マローネは、虚ろな心のまま、足を引きずって歩く。
港に着いた。
どうキャナリーさんに説明しよう。今からでもパティを救出しに行くべきだろうか。
「お、おい。 どうした?」
顔を上げると、さっきのキバイノシシ族のおじさんだった。
切符を手渡して、ボトルシップに乗り込む。顔色が悪いようだが、どうしたのだろう。
「私が、どうかしましたか」
「どうもこうも、なんて顔色だ。 すぐに家に帰って休め! 死んじまう」
「ありがとうございます。 でも、まだ、仕事がありますから」
まだ後ろで何か言っていたようだが、そのまま船を出した。そういえば、家に今から帰るところだと言って、安心させてあげればよかった。
ぐるぐると、頭の中で思考が堂々巡りしている。それが自分の体を、責となって突き刺しているのが分かった。
弱い。だから救えなかった。あの子は今でも、牢屋の中で悲しい思いをしている。それは全て、自分のせいだ。
団長さんが言っていたのは、本当だ。
だがそれだって、自分が強ければ、覆せたのに。
馬鹿。自分の馬鹿。無能。低脳。役立たず。恥知らず。
罵声が、頭の中をぐるぐると巡り続ける。
どうやって、おばけ島まで戻ったか、全く覚えていない。気がつくと、砂浜に船が着いていた。
転覆してしまえば良かったのだろうかと、マローネは思った。
だが、それは駄目だ。お父さんとお母さんが、とても悲しむ。今あの世に行っても、二人は笑顔では迎えてくれないだろう。
キャナリーが、砂浜の向こうから歩いて来る。
そして、マローネを見て、無表情のまま言った。
「パティは、連れ戻されたか」
「ごめんなさい。 料金はお返しします」
「否。 まずは事情を話して欲しい」
「私が、弱くて無力で、何も正しい言葉に対して言い返せなかった。 それだけです」
アッシュに肩を叩かれる。
僕に説明させて欲しいと、アッシュは言った。そういえば、おばけ島に戻ったら、アッシュをコンファインすることも忘れていた。今回のシャルトルーズの負担があまりにも大きすぎて、或いは無意識的に、敢えて忘れていたのかも知れない。
アッシュをいつも通り、椰子の木にコンファインする。
具現化したアッシュは、一礼すると、キャナリーと話し始めた。
殴り合いになる事もなく、話し合いは半刻ほどで終わった。少し心配していたのだが、アッシュは思ったよりもずっと冷静だった。最近はとても気が短くなっているので、ちょっとやきもきさせられた。
マローネの元に、キャナリーは歩いて来る。アッシュは熱くなることもなく、淡々と説明をしていた。キャナリーも話を静かに聞いていた。
きっと、二人とも、この結末は予想していたのだろう。
「なるほど、事情は全て分かった。 つらい思いをさせてしまって、済まなかったな」
「そんな、私は」
「だが、拙者も、これでどうしていいか、また分からなくなった。 何をすればこの剣の腕を生かせるのか、拙者は知りたい」
払い戻しは必要ないと、キャナリーは言う。
そして、自身の船に歩きながら、何度か嘆息した。
この人の行動に、今回は振り回されたのと同じだ。だが、それを恨む事は出来ない。もっとこの人がどうしようもない道化だったら、マローネは怒ることが出来たのだろうか。否、それも違う気がする。
結局の所、善意からの行動であったことに、違いはないのだろうから。
正義でありたいと、キャナリーは思っている。
戦場で人も斬ったりして、散々血を浴びて生きてきただろうに。それでも、その剣を正しい方向に振るいたいと思っている人を、どうして悪く思えようか。
マローネは、自室に戻る。
貰った金貨の袋が、重い。この結末に関しても、キャナリーは少なくともマローネを責めることは無かった。
それが、余計に今は苦しかった。
4、世界のあり方
魔島を一通り廻ったスプラウトは、舌打ちしていた。どうも様子がおかしい。
サルファーに対する復讐心だけで生きている彼にとって、正しいことは一つしか無い。サルファーを殺す事だけである。
つまり、今回の魔島には、奴の姿はなかった。それだけではなく、奴の配下も、全く見ることが出来なかったのである。
どういうことだろうと、自身のボトルシップに乗り込みながら考える。
奴の配下は、既に世界中で活動を開始している。それは知っている。見かけ次第殺してダークエボレウスで喰らっているのだから、間違いないことだ。
だが、奴にとって一番心地が良いはずの此処で、どうして姿を見られない。それが分からないのである。
この海域を含む無数の島々がある地域をイヴォワールという。その外側の世界は、己のことをガイアと称していたり、テラと呼んでいる。いずれもが大地という意味で、主要な国々には大体スプラウトも足を運んだ。
彼らは圧倒的な技術力や軍事力を持ちながら、豊かな資源があるイヴォワールには絶対に干渉しない。
理由は簡単。イヴォワールがサルファーの餌場であり、今も昔もそれに変わりが無いことを、誰もが知っているからだ。それに、外の国々は国力は豊かでも、能力者は滅多にいないし、戦士の能力も基本的に低い。どれだけ見て廻っても、スプラウトを唸らせる戦士は、一人もいなかった。
下手にサルファーに手出しをすれば、必ず報復される。その時は、下手をすると国ごと滅びてしまうことになる。
大陸側にも、そうやって滅んだ国がいくつかある。それが絶対的な恐怖と共に、伝承として残っているのだ。
「解せんな……」
船を動かしながら、呟く。
サルファーは何も恐れない。本能のまま暴れ回り、殺し、喰らい、そして復讐する。その正体については、未だにスプラウトもよく知らない。様々なデータを照合して、おぼろげに輪郭は見えてきた観があるが、それでも分からないのである。
殺すために、奴を知ることは絶対条件だ。
だからこそに、今は調査を続けている。
船を動かしながら、思考を進める。思うに、奴が各地に配下を派遣している理由は、何かしらの目的があると思える。
それは何だ。
一番考えやすいのは、復讐だ。
しかしサルファーが復讐を考えるとすれば、その相手は誰か。一番考えやすいのは、勇者スカーレットだろう。
30年前の大戦については、スプラウトも当事者だ。その時、サルファーを一度仕留めてさえいる。
スカーレットは、サルファーを倒しただけではない。何かしらの方法で、近年まで身動きが出来ないほど、徹底的な打撃を与えた。それに対する復讐心が、サルファーの中には、確実にある。
しかし、スカーレットについては行方が全く分からない状態である。死んだという説も根強い。スプラウトもサルファーをおびき出すために必要だと考えて、スカーレットを探しているが、未だにその痕跡を追うことは出来ていない。
可能性としては、まだスカーレットが生きていて、それを血なまこに探しているのか。復讐のために。
或いは、スカーレットを感じさせる何かが、世界で活動しているのだろうか。
分からない。
いずれにしても、その復讐心を、スプラウトに向けさせるべきである。
サルファーを倒すのは、スプラウトであるべきだからだ。姿を見せるように、仕向けなければならない。
船を適当な沖合で停泊させると、海図を広げる。羅針盤を見ながら、次の行き先を吟味する。
海図には、びっしりと情報が書き込まれていた。サルファーの配下が現れた場所と時間、その数と戦力。一番至近は、風遊びが島である。だがその時は、数こそ多かったが、たいした奴はいなかった。
もしもサルファーが力を入れるとしたら、必ず闇の下僕と呼ばれる強力な配下を派遣してくるはず。
それの姿は、ここ数年見ていない。一番最近は、8年前だ。
「さてはサルファーめ。 スカーレットの存在をおぼろに感じてはいるが、その居場所を特定できずにいるな……」
様々な推論の結果、その結論が導き出される。
そうなると、監視すべきは、スカーレットを探しているというモルト伯か。だが、モルト伯は戦時中色々と世話になった。修羅になった今でも、あまり迷惑は掛けたくない相手なのである。
それに何より、未だにスカーレットを探しているという事は、見つけていないのであろう。
しかし不可解なのは、今頃になってどうしてスカーレットがまた動いているか、という事だ。奴については解らない事も多い。スプラウトも姿を見たことはあるが、それくらいだ。性別と外見は分かるが、それ以上の経歴はよく分からないのである。
噂なら、聞いている。
一時期魔界に行っていたとか、何だとか。いずれにしても、勇者と褒め称えられるような、清潔な雰囲気では無かった。今のスプラウトと同種の、鮮血を浴び続けた修羅のように見えたものである。
時間はある。
腕組みして、思考を進める。
或いは、スカーレットが動いているのでは無い、のかも知れない。何かをスカーレットと勘違いして、動いているとしたらどうか。
それならば、可能性はあり得る。
たとえば、スカーレットが使っていた能力を持っている奴がいる。あり得ない話では無い。同じ能力を持つ奴は、稀少だとしても時々現れるからだ。それが少しずつ成長していて、サルファーがそれに気付いたとしたら。
術式による通信装置を取り出す。
呼び出すは、クロームギルドの知り合いである。とはいっても、戦士では無い。情報屋だ。
ウサギリス族の、ラッドという男である。いわゆるけちな情報屋なのだが、不思議な人脈を持っていて、情報はかなり早い。そして、スプラウトを裏切らない。
理由は簡単である。彼の妻子を、サルファーの悪霊共から助けたことがあるからだ。勿論そんな意図は無く、ただ食事をしただけだったのだが。それ以来、仲間内からも鼻つまみ者として嫌われているラッドが、どうしてかスプラウトにだけは絶対に忠誠を誓っているのだった。
寿命が長いウサギリス族だけあって、ラッドは既に六十を超えているが、人間で言えば少壮くらいである。通信装置で呼び出すと、ラッドは非常に卑屈な声でしゃべり出した。
「これは旦那。 如何なさいやしたか」
「スカーレットについて調べろ」
「勇者様、いやスカーレット、でやんすか。 残念でやすが、あのモルト伯の情報網にも引っかからない相手ですぜ。 情報屋の中じゃ、死んでるって説が主流で」
「どうもサルファーは、スカーレットに復讐するために動いているらしい」
ラッドの軽口が止まる。
これは、スプラウトにとっても推測の積み重ねでしか無い。だが、根拠の無い話とは違う。
ラッドも、声を落とした。
「実は、最近掴んだ情報なんでやすが」
「どんな情報だ」
「スカーレットは、どうも火炎系の能力を持っていたらしいって噂なんすよ。 それは知っていると思いやす」
「有名な話だ」
それなら、これは知っているかと、ラッドは一旦言葉を切る。
「どうもそれは嘘らしい、んすよ」
「何……?」
「最近流れてきた情報によると、スカーレットは自分の能力を極限まで強化する能力の使い手だったらしくて、凄い早さで動き回ったり、マナを噴出したりして、周囲の空気が燃え上がっているように見えたんだとか」
どこから来た情報かは分からない。
だが、ラッドは情報屋としての年期で言えば、そこいらの連中とは格が違っている。既に妻子とも死に別れたが、葬式代も出してやった。今では酒だけが楽しみの、くたびれた男。
だが、情報に関してだけは、スプラウトも一目置くほどなのだ。
「三十枚。 追加は」
「ありがとうございやす。 此処からはちょっと信用がおけない所なんでやすが、スカーレットはどうも死んでいない可能性がある、らしいんすよ。 あの30年前の戦いで、サルファーが滅ぶところを見たことがある奴が何人かいて、その中の一人が、姿を消すスカーレットを見たことがあるとか」
やはりそうか。
もしもサルファーが復讐をするなら、死んでいる相手にそんなことはしないだろう。何処かでスカーレットが生きていると知っているから、そういう行動に出ている。
つまり、餌は用意できる。
全盛期のスカーレットは、魔王に匹敵する実力を持つとかいう噂もあった。隣り合う異世界である魔界。その王として君臨する魔王の戦闘能力は、単独で国一つを焦土に化すほどとか言われている。九つ剣でもどうにも出来なかったサルファーを倒した実績から考えて、それは荒唐無稽な噂ではあるまい。今のスプラウトでも、かなり危険な相手であろう。
だが、サルファーに対して積極的な動きを見せないという事は。
つまり、深手を負ったか、力を失ったか。いずれにしても、スプラウトがつけ込む隙は、充分に存在する。
「居場所を突き止められないか」
「正直、モルト伯の捜索賞金額を見ても、もしいたら即座に突き止められている可能性が高いと思いやす。 生きていると仮定した場合、国家上層の、セレスト級の人間がかくまっているか、或いは盲点になるような場所に潜んでいるか、そのどっちかでやしょうね」
「なるほど、分かった。 金はいつもの所に振り込んでおく。 五十枚だ」
「いつも助かりやす」
通信を切る。
金など、腐るほどある。そして、使い道など存在しない。
相場は知っているから、的確な料金程度はすぐにはじき出せる。だから、適切な量、ラッドにくれてやることで、復讐の肥やしにすることは何ら問題ない。
不意に、向こうから通信をかけてきた。
ちょっと不機嫌になりながら、スプラウトは出る。相手はラッドか、他にも少数しか考えられない。
「旦那、俺でやす」
「どうした」
「俺は今でも、旦那のことを輝ける聖剣だと思っておりやす。 それを承知で、聞いて欲しいんでやすが」
「……言って見ろ」
たとえスカーレットを見つけても、戦わないで欲しい。もし戦うとしても、殺さないで欲しいと、ラッドは言う。
ラッドにとって、家族との平穏な生活をくれたのは、スプラウトと、命を賭けてサルファーを倒してくれたスカーレットなのだそうだ。
しばらく黙り込んでいたが、スプラウトは応える。
「そうか。 分かった。 善処はしてやる」
「旦那のことを、俺は何があろうと信じていやす」
今度こそ、通信は切れた。
舌打ちすると、スプラウトは船の速度を上げる。このまま闇雲に探していても埒があかない。効果的な手を打つべきかも知れなかった。
5、静かな日
アッシュが目を覚まして砂浜に出ると、マローネはもっと早くから起きていた。ちょっと慌てたが、ポストは見ていないようだ。
しかも、砂浜に正座して、コリンの話を聞いている。余計なことを吹き込まれていないか、とても不安になった。
「なるほど、それじゃあみなに効率よく力を送るには、私の精神をもっと鍛えなければいけないんですね」
「そういうこと。 どんな特殊能力だって、それは魔術とかと系統的には根本的には違っていないの。 驚天の奇跡を起こすシャルトルーズだって、それは同じなんだよ」
「参考になります」
余計なことを吹き込まれていないか心配になったが、違うらしい。
少し前の、パティの一件で、何か思うところがあったのだろう。マローネはここのところ、心身を鍛えることに、以前とは比べものにならないほど熱心になった。
ガラントに護身術を習い、コリンに精神の鍛え方を習い、戦い方そのものをバッカスに習っている。今後は、カナンに回復系の術式についても習おうと思っているようだ。
「まずは座禅」
「はい」
「もう少し、左腕はこう」
座禅と言われるポーズを組んだまま座ったマローネを、コンファインされているコリンが、あれこれ微調整する。
邪魔をしては悪いと思ったので、アッシュは無言でその場を離れ、ポストを確認。中傷メールを分別した後、仕事の依頼を確認した。ざっと、今の時点で来ている仕事について、整理しておく。期日的に近いものは来ていない。ただし、荒事になりそうなものが、幾つか混じっている。
マローネの心の傷は、もう癒えただろうか。
この間の収入は、マローネは手を付けていない。恐らく、相当に後ろめたいからだろう。今度こそ、ちゃんとした形で収入を得て、身の回りの品だけでも整えさせてあげたいと、アッシュは思った。
そのためには、仕事を選んではいられない。
クロームの仕事の中には、内職同然のものや、ただものを運搬したりするだけのものも混じっている。そういった内容の仕事に関して、マローネは確実に仕事をするので、クロームのギルドでも評判が良い。
確実に稼げるそういった仕事を先にこなして、早めに手持ちのお金を増やしておきたい所だった。
日が高くなってきた頃、マローネが家の中に戻ってくる。
「おはよう、アッシュ」
「おはよう。 仕事が来ているよ」
「どれどれ、ええと。 また広告の便せん詰め。 今回は二万枚ね」
「ちょっと数が多いけど、小金は稼げるね」
便せんの中に、折りたたんだ広告を入れるだけの仕事だ。ボトルシップで運ばれてきた手紙を、黙々と折りたたむだけの簡単な作業である。畳んだ手紙は、各地の島に運ばれる。いわゆるダイレクトメールという奴だ。
後は、輸送が二件。二件とも、島に受け取りに行って、そのまま別の島まで運ぶ。ボトルシップを持っていると、こういう仕事をこなせるので、便利である。
ただし、クロームにわざわざ来る輸送任務は、治安が良くない島から来ている場合が多く、当然途中でベリルに襲われる可能性がある。海上でも当然ベリルが出る事はあるので、油断は出来ない。
「広告は後回しにしましょう。 みんなに手伝って貰えば、すぐに終わるから」
「そうだね。 輸送を先に片付けようか」
「ええ。 荷物が届かなくて、困っている人もたくさんいるでしょうし」
やっぱりそう考えるか。
マローネは、変わらない。それが嬉しくもあり、悲しくもある。
時々、アッシュは思うのだ。マローネはいっそ、心がひねくれてしまった方が、幸せなのかも知れないと。優しい心を持っているが故に、世間から迫害されている部分が、少なからずある。
ボトルシップに乗り込むマローネ。
心なしか、少しずつアッシュの肉体は、少し強度を増している気がする。ここのところマローネが熱心に自分を鍛えているからだろうか。
アッシュ自身も、ガラントさんと技について話し合ったり、自身で鍛えたりもしている。だが、技を覚える事は出来ても、肉体を磨くことはもうどうしても出来ない。やはりアッシュが強くなるには、根本的にマローネの力量が上がらなければ無理だろう。
「今回のお仕事は、失敗も無さそうだし、終わったらすぐにシェンナさんの所に行って、家賃を納入しましょう」
「そうだね。 延滞する前に、さっさと納入した方が良い」
「後は靴ね。 もう、この靴、そろそろ限界みたいだし。 お客様の前に出るには、ちょっと失礼な状態になってしまっているし」
ボトルシップのエンジンを掛けながら、マローネはそう言った。自覚があるのなら、それで良い。
というよりも、マローネは自分の事を後回しにしすぎる。靴のことを自分から言い出してくれたのには、内心ほっとしたくらいだ。
船が出る。
今日の海はとても穏やかで、波もとても静かだ。日当たりも悪くなくて、変な風に日焼けしたりはしなさそうだ。
「良い天気。 帰ってきた頃には、お洗濯も乾きそうね」
「ああ。 船を動かしながら昼寝したら駄目だよ」
「もう、アッシュったら。 分かっています」
すぐに船は加速して、目的地の島まで動き始める。今回の島はちょっと遠くて、輸送の仕事を終えると、帰りは夕方になるだろう。途中何度か海図を見ながら、航路を微調整。途中深い海に入ってからは、何度か大きなボトルシップとすれ違った。巨大なボトルを左右にたくさん付けた大形の艦船も、見受けられる。何処かの大形傭兵団かと思ったら、案の定だった。
船の後ろに、戦利品のつもりなのか。大きな死体を吊している。ドラゴンかも知れない。ずたずたにむしられてしまって、もう原型も分からない。
傭兵団の翻る旗には見覚えがある。獣王拳団だ。
現在、白狼騎士団を猛追している大規模な傭兵団である。荒くれ揃いの団員は、いずれも腕自慢ばかり。とにかく強いことが入団の条件らしく、中には元ベリルや、騎士として名を上げた者まで混じっているそうだ。
「凄い血の臭い……」
「何処かの島で、討伐任務をしてきたんだろう」
海の中には、サメの姿が見える。血の臭いに引かれてきたのだ。
小さなマローネのボトルシップが、大形のサメに食いつかれると面倒だ。さっさとこの場を離れるに限る。
また、大きなボトルシップとすれ違う。
今度の船は、傭兵団のものではない。どうやらセレストの私船らしかった。全体的に優雅な作りで、推進力よりも外見を重視しているのがよく分かる。いかにも金持ちが道楽で作りました、という雰囲気だ。
「綺麗なボトルシップね。 いつかあんな船に乗ってみたいわ」
「護衛任務でなら、機会があるかも知れないよ」
「そんなの緊張しちゃうわ」
事実、船の上には、護衛らしいクロームの姿が散見された。或いは傭兵団かも知れない。
今日は穏やかな日になりそうだと、アッシュは思った。今のところ、争いの火種は、見受けられない。
ここのところ、仕事はトラブル続きだった。
マローネは酷く心を傷つけられてばかりだったし、たまにはこういう日があっても良いはずだ。
今日は、天からの贈り物。
そんな穏やかな日でも、良いでは無いか。
船が着いたのは、いかにも辺境と言った風情の、小さな島だった。周囲の海域はかなり荒れていて、渦もかなり見受けられる。港に入るまで、相当に気をもまなければならなかった。
港で待っていた依頼人は、高齢の人間族だった。白くて長い髭を蓄えていて、いかにも偏屈そうな雰囲気である。
辺りの海域が座礁の可能性がある岩だらけの場所であるから、漁業はどうも盛んでは無いらしい。かといって島が良く開発されているというわけでも無さそうで、岩山が目立ち、地肌が露出している様子も散見された。
「それじゃあ、あの荷物を運んでくだされ」
老人が指さしたのは、ふたかかえもありそうな大きな箱。それも二つである。中を見せて貰ったが、島の数少ない特産品だという干した果物であった。
この、中を見せて貰うというのは、怪しい仕事では無い事を証明するために行う儀式のようなものだ。実際問題、人身売買や奴隷の輸送を目的として、秘密裏の仕事を依頼してくる人間はいる。こういう依頼の場合は、逆に荷物を見ることは御法度とされているので、面白い。
今の時点では、マローネは法に触れるような輸送には関わったことが無い。だが、評判が更に悪くなってくれば、クロームのギルドはそういった仕事を回してくる可能性も低くは無いだろう。
いずれにしても、輸送にわざわざクロームを使うには、理由が大体ある。
「ささやかな島の収入源でしてな。 必ずや、無事に届けてくだされ」
「分かりました」
マローネがぺこりと一礼するのを、言葉とは裏腹の冷たい目で、島長はずっと見ていた。
ボトルシップに乗り込むと、据え付けの道具類を幾つか見ておく。杖だけでは無く、バケツやじょうろ、スコップもある。
こんなものをどうして積んでいるのか、理由は簡単である。
これらはおばけ島に長年おいていた事で、マローネの魔力と馴染んだ道具類だ。つまり、シャルトルーズによるコンファインの対象に出来るのである。
いざというとき、皆をコンファインするには、こういう備えが必須なのだ。話し合いが出来そうな相手なら、それでもいい。だが海賊の場合、最悪いきなり遠くから砲撃してくるし、掴まったらほぼ確実に殺されるか、運が良くてもまわされたあげくに売り飛ばされてしまうだろう。
そういった事態は、絶対に避けなければならない。
船をだしながら、マローネは皆と打ち合わせをする。海流が激しいので、船を暗礁にぶつけないように、気をつけなければならなかったが。
「アッシュ、いざというときはお願いね」
「分かってる。 海上でベリルの船に追いかけられたら、多分この小舟では速力が足りないから、戦うしか無い」
「順番はあたしからね」
「分かっています」
まずは砲撃戦になる可能性もあるから、コンファインする順番はいつもと変えていく必要がある。
普段は前衛になれる者を先にコンファインする必要があるが、まず遠距離での戦闘が想定される場合は、コリンのように長距離からの攻撃が可能な者から出す必要があるだろう。アッシュやガラントさんの出番は、相手の船が近づいてきてからだ。
無事に危険な海域を抜ける。
しかしそれはあくまで操船に関しては、である。
右手に、非常に美しい島が見えてきた。保養地として知られる島で、まだマローネは上陸したことが無い。点在している家はどれもこれも大きくて、お金持ちが住んでいることが一目でわかった。
島の中央には、湖もあるようだ。陽光を反射して、きらきらと輝いている。気候も落ち着いている様子である。
ただし、島の外れには、明らかに廃城となっている城が見える。あれは、既に放棄されたセレストの城だろうか。いずれにしても、この世界で廃城となっているものは、大体サルファーの攻撃を受けた結果である。
今は平和でも、かなしい出来事があったのだろう。そう思うと、保養地とは言え、安心できない。
「マローネちゃん、ああいう家に住んでみたい?」
「私、おばけ島のおうちが気に入っていますから」
「ん? そっか」
「はい。 ファントムのみんなもいてくれますし」
その言葉を聞いて、アッシュが眉をひそめるのが、マローネには分かった。だが、此処で議論しても仕方が無い事だ。
コリンは逆ににやにやしている。
もう少し、アッシュと仲良くしてくれると嬉しいのだけど。そう、マローネは内心で思う。
幾つかの島の横を通り過ぎて、目的地の半ばほどまで来た頃だろうか。
不意に、背筋を悪寒が通り抜けた。
「気をつけて!」
「何か感じたのか!」
「うん! 何かいる!」
マローネは感覚を研ぎ澄ませる。
どうも近づいているという雰囲気では無いのだが、とてつもなく嫌な予感がする。マローネからだいぶ離れたところを、それはゆっくり通り過ぎている様子だ。
身を縮めて、恐怖が通り過ぎるのを待つ。
今は荷物を牽引している状態だ。いざとなったら逃げるのは難しいので、戦うほか無いのである。
緊張の時が、過ぎていく。
ほどなく、何か嫌なものは通り過ぎたのか。悪寒は納まった。
船の上の方に登っていたらしいコリンが、ひょいと逆さまにマローネのいる居住空間をのぞき込んでいた。
「何だか筏みたいのが見えたよ」
「誰か乗っていましたか?」
「うーん、遠くでよく分からなかったけど、毛並みがふさふさだったから、アレは多分ウェアウルフ族かな。 何だか様子がおかしかったけど」
あまり、近づかない方が良い相手だろう。マローネとしても、あんな悪寒を起こさせる相手とは、出来れば戦いたくないし、近づきたくも無い。
相手を刺激しないように距離が保てたことを確認すると、再び船を出す。
まだ、仕事は終わっていないのだ。
輸送先に到着。指定された宛先に荷物を届ける。
明らかにカタギでは無い人が、荷物を受け取りに来た。全身の筋肉が盛り上がった、禿頭の人間族のおじさんである。しかも片目には眼帯を付けていて、顔と言わず体中にすごい向かい傷があった。
「あの、お届け物です」
「見せて貰おうか」
干した果物を、おじさんは確認していく。
やがて、嘆息したおじさんは、料金をくれた。
「予定通りの品だ」
「ありがとうございます」
「なあ、お嬢ちゃん。 途中の海路で、変な奴に出くわさなかったか? そいつのせいで、今まで船が二度、大きな被害を受けているんだが。 クロームの護衛を頼んだのも、それが原因でな」
「心当たりはありますけれど、襲われることはありませんでした」
きっと、さっきのウェアウルフがその相手だろう。
確かに戦いたくは無い雰囲気だった。
「いずれにしても、荷が無事だったのは何よりだ。 帰り道も気をつけな」
「はい、ありがとうございます」
頭を下げると、マローネは次の仕事だと思って、船に戻る。
途中、言われたことが気になった。
あの気配の正体が何なのか。どうして、一人のヒトに、あれほど嫌な気配を感じたのか。
考えても、分からなかった。
ただ、嫌な予感だけが残り続けていた。
(続)
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