悪霊憑きの少女

 

序、罪悪の塊

 

住処は、闇の底。

いつもいつも、体は補充される。どれだけ腐り果てていても、際限なく次から次へと。きっと、それがいる限り、私は不滅なのだろう。

時々、呼ばれる。

とても強い肉片が、私を呼ぶ。

そして呼ばれる度に、戦いになる。

殺し殺され、際限なくつぶし合い、やがて追い返される。

傷だらけになっても、また体はいくらでも補充される。いくらでもいくらでもいくらでもいくらでも。

連鎖する憎悪。

それこそが、私の体。

泡立つ闇の底で、再び意識が上向く。

どうやら、また私を呼ぶ声がする。誰が呼んでいるか、それはどうでもいい。

どうして呼び声に応えるのかは、よく分からない。ただ一つ、はっきりしていることがある。

それは。

己自身の中にある、焼け付くような憎悪が、そうさせるのだ。

連鎖する憎悪の中で培われた、灼熱の殺意。練りに練り上げられたそれこそが、私自身のルーツであり、全てを焼き尽くすべく願う心の源泉。

さあ、今回も殺そう。

奪い尽くして、焼き尽くして。私を願った者を殺し、そうで無い者も殺して、全てを破壊し尽くそう。

私の名前は、サルファー。

全ての闇を司る者。そう呼ばれている事を、知っている。

悪霊達の主。そうも言われているらしい。

だが、そのようなことは、どうでも良い。私は滅ぼしに行く。この不完全な体に、肉を注ぎ込む、あのおぞましき生き物どもを。

この連鎖は、終わることが無い。

あの生き物どもが、滅びない限りは。

そう、あの。

ヒトとか言う、生き物どもが。

浮上する私の体。だが、まだ世界の壁を突き破るには至らない。だから、まずは小さな分身を送り込み、橋頭堡とする。

全てを滅ぼすために。

この痛みと苦しみを、終わらせるために。

 

イヴォワール。

無数の島々が美しき海に浮かぶ、楽園とも呼ばれる穏やかな世界。様々な特性を持つ島があるが、気候は基本的に安定していて、争いも少ない。群小の国家が乱立しているが、紛争は滅多に起こらず、経済も比較的安定している。

だが、此処は。見た目通りの場所では無い。

楽園という割に人口は少ない。幾つかの種族が共存しているが、その全てが共通して、他の世界に比べると平均寿命が短い。

病が原因では無い。

この地域こそ、世界から見捨てられた悪霊の住処だと言う事を、スプラウトは知っている。たびたび現れるサルファーという、世界を滅ぼしかねない邪悪。それなのに、どうして大陸の強国共は、それを放置しているのか。

それは、この島々に、代々サルファーを撃退する者達が現れたから。

そして、サルファーが、どうやら復讐心というものを、持ち合わせているらしいから、である。

つまり、この島々は、サルファーの餌場として用意された、最果ての土地なのだ。

スプラウトの齢は八十五。しかして、その身は隙間無く鍛え抜かれた筋肉の塊。巨体は見上げるかのようで、さながら生きた岩山のような威容。

未だ世界最強の剣士である、通称墜ちた聖剣。それこそが、スプラウトの二つ名であった。

今日もスプラウトは、無数に存在する島を廻って、サルファーの痕跡を探す。

以前の出現以来、比較的おとなしくしているサルファーだが、その下僕は時々各地に姿を見せる。

そして見つけ次第、スプラウトの能力であるダークエボレウスで喰らい尽くす。

それが、スプラウトの日課だった。

巨大な剣を担ぎ、スプラウトは歩く。今は、密林が全体を覆っている小さな島が、探索の舞台だ。

この島は、よこしまな術式で作られた動く屍が多数生息していて、住民は辺縁にしか生活していない。

こういう場所こそが、サルファーにとって、まず姿を見せる橋頭堡となりやすい。

あの日。

家族を皆殺しにされたあのとき以来、大陸に渡りさえしてサルファーについて調べ尽くしたスプラウトは、それを知っている。

そして、サルファーが復讐心を持っていることも、理解していた。

奴の下僕を潰して潰して徹底的に潰して廻れば、いずれ必ず奴が現れる。その時こそ、長年の復讐を果たすときだ。

30年前以来、それは全く変わらぬスプラウトの目的。

これを果たすまでは、スプラウトは死ねない。

既に、とっくに引退すべき年齢になっていても、現役のままの肉体を維持するのには、相当な無理を必要とする。

闇の剣シヴァと、ダークエボレウスを使って取り込んだ力で、既にスプラウトの肉体は、人外のものとなり果てていた。

島に生息する、人肉を好む生きた屍も、スプラウトを見ては姿を隠す。

戦っても勝ち目が無いのが明白だからだ。

スプラウトも相手をしない。

目的は、あくまでサルファーだ。

泥にぬかるんだ地面を踏み固めながら歩いていると、視界を遮ったものがある。小さな人間。

いや、人間だったものか。

形は人間をしているが、肉は崩れ、既にもはや生物の気配は無い。いわゆる生ける屍だ。子供でも女でも、こういった状態になる事がある。邪悪な力が満ちている場所であったり、或いは後天的に力を加えられたり。

もう一つの例もあるが、この死体は違う。それが、専門家であるスプラウトには一目でわかった。

「どけ。 邪魔をするなら潰す」

緩慢な動作で、死体はスプラウトの視界から消えていく。茂みに死体が消えたのを見計らうと、スプラウトは思い出す。

そういえば、あのくらいの大きさだったか。

殺されて、原型も無いほど悲惨な肉塊にされた孫娘は。

より、復讐心が滾る。

滾れば滾るほど、スプラウトの中の力は増す。

やがて、小高い丘に出た。

其処からは、密林の樹冠が一望できる。無数の木が林立するこの島では、豊富な生態系が存在しており、逆に言えば視界が遮られ探索しづらい。

ざっと見たところ、無駄足であったらしい。

舌打ちをする。

「姿を見せ始めている様子なのだがな……」

此処ではないという事だ。ならば、別の島に行くまでの事。

奴を根本的に滅ぼすまで、スプラウトの生は終わらない。終わらせる訳にはいかないのだ。

若い頃は、この復讐の連鎖を食い止めようと、あがいたこともあった。

だが、既に生き方を変えられる年では無くなっている。何より、生き方を変えられる体では、無くなっているのだ。

密林を出て、海岸に。

この世界で、主流の移動手段であるボトルシップ。文字通り、大形の瓶を中心に、魔法による推進力を付けた船だ。スプラウトも、かっての英雄であるから、所有している。もっともスプラウトのものは、四十年以上も使い込んでいる骨董品だが。

今はもう、スプラウトは英雄では無い。

どの国も、腫れ物のようにして扱う、恐怖の対象なのだ。

スプラウトのボトルシップはいわゆる双胴型で、魔力の噴出口である二つの瓶を左右に並べ、その中心に板を渡しているタイプである。かっては専門の舵取りを行う船長がいたのだが、彼は30年前に命を落とした。

命を落としていなくても、暇を出していただろう。

スプラウトの側には、誰かを近づけてはならない。今は孤独で、それがむしろ好都合であった。

既に相当に痛んでいる船だが、どうにか動く。

板きれ同然の胴体部分に乗り込んで、レバーを引くと、たくわえ込んでいた魔力を放出して、船が動き始める。やがて加速した船は、浅い水深の海を蹴り立てるようにして、前進し始める。

この島の近くだと、可能性がありそうなのは。

あの決戦の場となった島。魔島か。

今は、これといった英雄もいない。かって九つ剣とさえ言われた英雄戦士達も、今は殆ど生き残っていないか、老いさらばえてしまった。

目にもとまらぬ早さで水面に手を突っ込む。

その手には、鮮やかな鱗を持つ、二の腕ほどもある魚が握られていた。

火も通さず、そのまま食べ始める。スプラウトは、食事を楽しむという感覚も無ければ、獲物に感謝することもしない。

ただの栄養だ。だから、そのまま囓り、何もかも食い尽くす。

骨ごと魚を食べ終えてしまうと、スプラウトはレバーを握り、船を別の島へ向ける。

其処に、獲物の痕跡がある事を願って。

今や、人生の手段と目的は、入れ替わっていた。

輝ける聖剣と呼ばれた自分が、墜ちた聖剣と恐れられるようになったように。

全ては、30年前の惨劇が原因である。

 

1、孤独のクローム

 

荒事を中心に、様々な仕事をする何でも屋がいる。

イヴォワールでも最も下層に位置する者達。いわゆるクロームである。クロームという呼び方は、便利な使い捨ての駒であり、荒事専門の解決屋として、イヴォワールの人々に認識されている。

基本的に資格のようなものはなく、なるには条件がたった一つだけ。

荒事に耐えられる肉体か、もしくは特殊能力を有している、という事。

特殊能力持ちがいくらでもいるこの世界では、決して高いハードルでは無い。定職が無い人間や、荒事しか出来ないような者達、ごろつきやあぶれ者の類も、クロームと名乗ることが多いのが実情だ。

もっとも、彼らの中でも様々に階層があり、盗賊同然まで落ちぶれるとベリルと呼ばれることになる。しかもクロームの中にも、他人の仕事を奪う(オクサイドと呼ばれる)ことを専門とする連中がいるので、境は曖昧だ。逆に国からある程度の活躍を認められると、傭兵団として呼ばれるようになる事もある。傭兵団となると、準軍事的組織として、様々な大規模な仕事に動員されるようになり、その地位は格段に向上することになる。場合によっては、国から爵位を貰ったり、土地や多大な財産を得て、裕福な暮らしを出来るようになる事もある。

最低限まで墜ちるか、踏みとどまるか。

その境目にある仕事が、クロームだ。

そういった仕事であるから、クロームになる人間は、年齢人種、様々だ。だから、マローネのような、幼い女の子であっても、クロームとなれる。

それが故に、仕事は、決して安全なものでは無いのだ。

息を切らせて走っていたマローネは、やっと安全圏まで逃れたことを悟って、呼吸を整えた。

今年十三才になった人間族のマローネは、しかし発育が悪い。特に二年くらい前まで、著しく栄養状態が良くなかったからだ。良くて十才くらいにしか見えないと、時々言われる。豊かな商業階級(フォーン)や、そこそこ食べ物を豊富に得られる生産階級(フラックス)の子供なら、もっと背も高いだろう。マローネは二次性徴もまだはっきり出ていない。胸もまな板同然だ。

だが、少なくともマローネは。自分が恵まれていない、とは思っていない。

クロームは、荒事が中心とは言え、様々な仕事で、「人を助けられる」から。

栄養状態が良くなかったから、それほど体も強くない。

それでも、荒事で働けるのは。両親から受け継いだ力のおかげだった。

「アッシュ、ついてきてる?」

「ああ」

後ろから、声。

マローネは振り返ると、呼吸を整えながら、周囲を見回した。

既に、夜中である。辺りは真っ暗だ。

鬱蒼とした森の中。人里は遠く、人間の気配は無い。さっきまで追い立てるためにちらついていたたいまつも、もう側にはいない。空に輝く星はマローネを見守ってくれてはいるが、何もしてくれはしない。

後ろには、何ら人の姿は無い。

だが、マローネには見える。

ずっとマローネを守ってくれている、アッシュの姿が。

緑色の髪の毛を持つマローネは、白いワンピースを着込んでいる。服は泥だらけで、彼方此方破れもしていた。

足下のサンダルも酷い有様だ。

足も手も、傷だらけである。右手の中指の爪は、アッシュには内緒だが割れてしまっていて、血が出ていた。石を投げられたとき、顔をかばったからだ。指自体も酷く痛むので、骨が折れていなくても、肉離れくらい起こしているかも知れない。顔だけは、傷つけられなかった。それで良かったでは無いかと、マローネは思う。

「僕に言ってくれれば、多少脅かすくらいはしたのに」

「駄目っ! 絶対駄目!」

「マローネ、悪いのは相手だ。 君に正統な報酬を支払わず、そればかりか言いがかりを付けて君を……」

「それでも駄目だよ、アッシュ。 私大丈夫だから、そんなに怒らないで。 ね?」

笑顔でアッシュを諭すが、しかし実のところ、全身が酷く痛む。マローネのゆっくりしたしゃべり方は、それ自体が痛みを助長しているかのようだった。

今回も、酷い仕事だった。だが、それを恨んではいけないと、マローネは思う。村の人達を苦しめていた元凶は、取り除けたのだから。

クロームとして、マローネが今回引き受けた仕事は、村の側に住み着いた怪物の退治だった。怪物と言っても、実際にはある程度知性がある野生動物で、世の法則から外れた存在では無い。さほど危険性が高い生物では無く、村人を捕食した訳でもない。ただ、村の側にある畑を荒らして、諍いの最中に飼い犬を何匹か殺したくらいだった。

しかも実際には、村の連中が森を荒らした結果、食料が無くなり、仕方が無く畑を荒らすことになったのだと、一目でマローネにはわかった。

マローネはその怪物、リザードマンと呼ばれる超大型種の知能を持つカメレオン達数体をよその島に連れて行った。密林で食料も豊富にある場所で、同種も多くいる場所だった。元々の島ではリザードマン族は絶滅寸前であり、ここにいた方が良いという事もあった。密林にいた先住のリザードマン達も、同胞を受け入れることを承知してくれた。

リザードマン達に感謝されて、事態は解決。マローネは村に報酬を受け取りに行ったのだが。

そこで、言いがかりを付けられたのだ。

リザードマンと結託して村を脅かし、報酬をせびろうとしていたのだと。

元々マローネには、負い目がある。

世間的に、マローネの能力は悪霊憑きと呼ばれていて、その名を出すだけで差別の対象になるほどのものだ。

あとは石を投げられ、報酬を受け取るどころではなくなった。

命があっただけでも、幸運だったかも知れない。村中の人間が、恐ろしい殺気を放っていた。飛んでくる石から、逃げてくるだけで精一杯だった。村人達の中には、槍や剣を振るい上げ、追いついたらマローネを刺そうとしている者達だっていた。

勿論、実際に追いつかれたら、手足を切り落とされるくらいではすまなかっただろう。

アッシュは、他の人には見えない。

マローネの意思がないと、物理的な干渉だって出来ない。

アッシュは憤慨しているが、マローネは村の人達を恨んでいない。彼らを救えたのは事実だし、何より全てが丸く収まったのだ。お金を貰えなかったのは残念だが、それは仕方が無い事だとも思う。

右足が、酷く痛む。

見ると肌が割けて、手の人差し指分くらいの長さ、肉が露出していた。当然血は止まらず、流れ出続けている。石をぶつけられた結果だ。必死に走って逃げたときには、気付かなかった。認識してしまうと、酷く痛い。でも、泣いてなんていられない。

足を引きずりながら、海岸に。

岩だらけの岩礁地帯で、巨大な貝殻が多数流れ着いている。この辺りの島は、砂浜もあるが、それ以上にこういった岩礁が多い。故に、ボトルシップの操縦を誤ると、大変な事故に発展しやすい。

岩間に、中古のボトルシップが係留されている。仕事でマローネが使っているものだ。双胴型の平均的なボトルシップで、中央に大形の樽を付けることで、内部を居住空間にしている。しかし小さな樽だし、マローネが載るとそれで一杯一杯だ。嵐に遭ってしまうと、転覆してしまう程度の強度しかない、最低限のものである。一応後ろや前にも乗れるが、快適とは言いがたい。リザードマン達を運ぶときは、随分窮屈な思いをさせてしまった。

縄を解くのを手伝って貰おうと思って、マローネはアッシュを具現化させることにした。

「アッシュ、手伝ってくれる?」

「ああ。 解ってる」

「まだ怒ってるの?」

「当たり前だろう?」

アッシュが怒っているのは、マローネが虐げられたからだ。それが解っているから、これ以上アッシュには強く言えない。

様々な能力を持つ人間がいるイヴォワールに暮らすマローネ。だからか、マローネにも、能力が一つ備わっている。

精神を集中して、近くにある大岩に意識を向ける。

其処に、アッシュの姿を思い浮かべ、丁寧に人の形を思い浮かべる。全身を流れる魔力を練り上げ、集中させ、そして形にする。

そして、最後に能力の発動時の決まりである、能力名を述べた。

これは、能力者が誰でも行う行為である。しっかりやればやるほど能力の発動は強くなる。だから、誰も恥ずかしがったり、躊躇はしない。能力者を補助する人間は、それを邪魔させないように、ガードもしなければならない。そういうものだ。

「さまよえる魂よ、導きに従い現れ出でよ! 奇跡の能力、シャルトルーズ!」

淡い光に包まれた岩が、人の形を取っていく。

マフラーをした、顔色の悪い人間族の青年。淡い蒼を帯びた黒髪の、背が高い、痩せた人物だ。

彼こそが、アッシュ。

マローネの側で、ずっと彼女を守り続けてきた相棒。しかし、肉体を持たず、消えることも無い存在。

いわゆる、霊魂だけの者。ファントムである。

そしてマローネは、そんなファントムに、媒介をする物質を利用して、一時的に肉体を与える能力の持ち主だった。

様々な制限があり、特にその中でも時間制限が厳しいが、心さえ通わせればどんな達人でも理論上は呼び出すことが出来る。実際には、数ある能力の中で、マローネが持っているこの力は「シャルトルーズ」とは呼ばないらしいのだが。大好きな父の能力にちなんで、自分でそう勝手に呼んでいるのだった。

不思議な話で、自分がそう決めた能力で、呼び名は構わないらしい。事実、シャルトルーズと呼ぶと、一番強く能力は発現してくれる。

アッシュは生前クロームとしては腕利きであったし、持っている能力も強力なものだ。それが故に腕力も強く、てきぱきとボトルシップの縄を解いてくれた。

星明かりの下だから、気付かれていないと思っていたのだが。アッシュは、心を痛めた様子で指摘してくる。

「マローネ、指の怪我、早く手当てするんだ。 足もだよ。 黴菌が入ったら大変なことになる」

「気付いてたの?」

「ああ。 気付いていないと思っていたのか」

「ううん、ありがとう。 これくらいなら、自分で直せるから」

縄を解き終えて、アッシュを元の岩に戻す。

船に乗り込むと、蓄えていた魔力を噴出して、発進した。しばらくはレバーを手放せないが、岩礁地帯さえ抜けてしまえば、あとは羅針盤を見ながら、根城にしているレンタル島を目指すだけで良い。

もう、此処まで来れば、島の人達がマローネを殺そうと追いかけてくる事もないだろう。村の人達はたいまつを持ち出して、島中を探しているようだが。流石に海上までは追いかけてこない。

各人に備わる事がある能力の他に、魔法がこの世界では普及している。

マローネには魔法の素質が少しあり、回復の術式については、師匠が良かったこともあってある程度の力を持っていた。

まず、右手の中指を掴んで、魔力を通わせていく。

そして、回復力を高める術式を発動した。

眉をひそめたのは、酷く痛むからだ。条理をねじ曲げるのが術式だが、何でもかんでも癒やされるほど便利なものではない。直るときには酷く傷が痛む。死にかけの人を蘇生させたときは、いつも死にそうなほど苦しむ。

でも、この痛みの分、リザードマン達も、村の人達も、みな救われたのだ。

そう思うから、マローネは我慢することが出来た。

次に足の傷。

傷跡が残らないと良いのだけどと思いながら、マローネは傷を治していく。羅針盤を見て、空いている左手でレバーを動かして、航路をちょっと修正。この辺りはとても浅い海が多くて、濡れることさえ覚悟すれば、場合によっては歩いて隣の島まで行くことも出来る。珊瑚礁はどこまでも広がっていて、人間より大きな貝や、とてもはさみが大きくてカラフルな蟹もいる。でも、そんな美しい自然を、今は楽しんでいる暇など無かった。夜であっても、この辺りの海は美しいのだが、それでも、である。

大きな傷は、一通り治した。

右手を見ると、血だらけだ。

かなり精神的な疲弊が激しいが、島まで戻ればそれでいい。それに、ただ働きだった訳では無い。アッシュの提案で、前金として半額は貰っていたのだ。それで充分ではないかとも思う。

疲弊が溜まっているのと、怖いのから解放されたから、だろうか。痛みを眠気が超越しはじめる。

うとうとするマローネに、時々アッシュが声を掛けてくれた。

「大丈夫かい、マローネ」

「うん、ちょっと寝てた」

「あと少しだ。 頑張って」

「解ってる」

島に到着。

通称おばけ島。今、マローネが住み着いている、小さな島だ。周囲を歩いて三百歩ほど。真ん中にマローネの家があって、ボトルシップを停泊するちょっとした岩礁があって、椰子の木が二三本生えていて、それでおしまい。

島の周りは砂浜で、人間よりも大きいような貝殻がたくさん転がっている。この辺りの海に、いくらでも生息している大形の貝類の亡骸だ。以前住んでいた孤児院の周囲は海産資源が貧弱で、食事もろくに取れなかった。アッシュが言うには、反抗の気力を削ぐために孤児達を敢えて飢えさせていたという話だが、マローネは信じていない。マローネが見たところ、孤児院の院長先生は優しい人だったし、食事が出なかったのは仕方が無い事情があったのだろうと思っている。

ただ、たくさん食べられることは、密かに嬉しい事ではある。お魚さんや貝さん、蟹さん達には、いつもマローネは感謝している。

今日も無事に帰ってきたことを、マローネはまず島に報告した。

この手の小さな島は、地主が権利を握っている事が多く、場合によっては借家の類としても利用されている。こういう扱いを受けている小島は多く、俗にレンタル島と呼ばれる。マローネが住んでいる島は、シェンナと呼ばれる地元の有力者が土地の権利を有していて、今は毎月の家賃を払うので精一杯。でも、マローネの目標は、この島を買い取って、静かに暮らすことだった。

水平線の彼方から、朝日が昇ってくる。

痛む体を、ボトルシップから引っ張り出しながら、あかね色に染まる砂浜を見る。とても綺麗な砂浜。アッシュが、側にいるのが解る。その一角には、誰も埋まっていないお墓。マローネは、今はもう生きていない両親に、語りかける。

お父さん、お母さん。

今日もマローネは、みんなに好きになって貰おうと思って、頑張りました。でも、好きにはなって貰えませんでした。

でも、マローネは諦めません。

みんなのために頑張れば、いつかきっとみんなに好きになって貰えます。

そう信じて、頑張ります。

砂浜に流れ着く綺麗な海水で顔を洗う。やっぱり、手も顔も泥だらけ血だらけだった。ごしごしと、顔をこする。そして拭く。少しだけ、気分が晴れた。

「へへへ、徹夜になっちゃったね」

「疲れてるだろう。 手紙とかは僕がみておくから、早めに寝ておくんだ」

「もう、アッシュったら。 そんなこと言われなくても、解ってます」

笑顔で返すが、マローネは知っている。

クロームの中でも、マローネは特に評判が悪いことを。悪霊憑きのクロームだと言う事で、名を聞きつけた人達が、中傷するような手紙をたくさん送ってきているのだ。

おばけ島に戻ると、アッシュは椰子の木の一本を使って具現化して、島を出るまでそのままでいて貰うのが日常だ。この島は特別マローネと相性が良いらしく、他のところで働く時間制限が無い。この島でならば、いくらでもアッシュを具現化しておけるのだ。

アッシュは、この島にいるときは、ずっと具現化して欲しいと言う。

表向きには、不審者が来たときに対応できるように、との事だが。違うことを、マローネは知っている。

一度見てしまったのだ。

大量の手紙を燃しているところを。

それから、アッシュよりこっそり早起きして、確認した。来ている手紙の大半が、自分を中傷する内容だと知ったときはショックだった。その手紙の内容も、謂われの無い悪意に満ちたものばかりで、見ているだけで涙がこぼれて来た。

アッシュは、そんな世間の悪意から、マローネを守ろうとしてくれている。それを知って、胸が痛くなった。そして嬉しくもなった。こんなに自分を思って、守ろうとしてくれている人がいるのだと、解ったからだ。

だが、マローネは歯がゆい。

両親の言葉を思い出して、いつも人々のためにあろうとする。だが、それが報われていないと思うからだ。

本当に、みんなが好きになってくれるのだろうか。

そう、疑問を感じてしまうことも、多い。

二階に上がって、外を見た。

アッシュは外で、手紙をチェックしている。魔法生物であるボトルメールが届けてきた手紙は、今日も中傷するものばかりで、クロームとしての仕事の依頼は殆ど無い様子だ。アッシュの様子から分かる。

寝室に入ると、枕に顔を埋めて、呻く。

酷く、体中が痛いからだ。

回復術で無理矢理治した傷は、反動で酷く痛んだ。アッシュの前では笑顔を維持していたが、一人でいるとどうしても涙がこぼれてくる。

最初の頃は、吐くこともあった。

だが、今はそうしない。アッシュを心配させてしまうからだ。

体中の細かい傷を、順番に治療していく。石がかすめたもの、走って逃げる最中に草の葉っぱで切ったもの。色々あった。

サンダルは駄目になってしまっていて、もう履けそうに無い。今まで鼻緒を直しては使って来たのだが、もう駄目だ。お気に入りのサンダルだったのに、悲しくなる。

ワンピースはもっと酷い。彼方此方かぎ裂きになってしまっていて、とても人前に着ていける代物では無くなっている。

両親の形見は、年々減っていく。このワンピースも、その一つである布を自分で一生懸命縫って、作ったものだったのだが。

膝を抱えて、マローネは思う。

今は、誰にも見られたくないと。涙がこぼれるのが分かった。本当にみんなが好きになってくれるのか、自信が無くなりかけている。

でも、アッシュがいてくれる。アッシュは絶対にマローネを裏切らないで、支えてくれる。そんな人がいることは、とても幸せなことだ。だから、これ以上の事を、望みすぎてはいけないのだ。

だから、明日からも頑張ろう。そう、マローネは思うのだった。

 

2、亡霊青年

 

このままで良いのだろうかと、アッシュは天を仰いだ。

お化け島の暮らしは、とても心地よい。少なくとも、マローネが孤児院にいた頃に比べれば、ずっと平穏だ。あの頃は強突く張りの外道院長が、いつ子供を人買いに売り飛ばそうか、値踏みしていた。マローネは元々造作がかわいらしいから、珍しい緑色の髪の毛もあって、高く売れるだろうと院長は舌なめずりしていた。

その頃に比べれば、食事をしっかり出来る此処は、天国も同然である。それ以外は地獄だが、少なくとも環境だけなら良い。

だが、分かるのだ。

マローネが、笑顔で気丈に振る舞っている裏で、とても心を痛めていることを。

アッシュは、亡霊になってから八年間、マローネの側にいる。実際にマローネを知ったのは更に前だ。元々クロームだったアッシュは、ある事情からマローネの父母と一緒に仕事をするようになり、そして。

一緒に、死んだ。

その時、マローネの父であるヘイズが、最後の力を振り絞って、アッシュを生かそうとしたのだが。しかし、実際には肉体は滅び、魂だけが生きることとなった。いわゆるファントムの状態である。

五歳だったマローネは、最初何が起こったのかも理解できなかった。アッシュの事を具現化することも出来ず、ただし当時からアッシュの事を見ることは出来た。声も聞こえていたようである。

やがて、孤児院に引き取られたマローネだったが、それからも波乱は続き、アッシュは何も出来ない自分に随分苦悩した。裏でマローネをはじめ孤児達を商品としてしか見ていない院長に、どれだけ腹が立っても、物理的干渉は一切出来なかった。

そして悲劇は加速する。孤児院がベリルに襲撃された時、マローネの力が覚醒したことが、決定的な切っ掛けとなった。

悪霊憑き。

そう呼ばれることが、確定してしまったのである。

孤児院は潰れた。国から派遣されてきた傭兵団の調査で、人身売買がはっきりしたからだ。多くの孤児達は救われたが、傭兵団の者達さえ、マローネを化け物のように扱った。何かよく分かっていない孤児達だけが、ベリルを撃退したマローネに感謝していたが、子供の感謝がマローネに何の社会的貢献をするだろうか。

以降、マローネは逃げるように、様々な場所を転々としながら生きてきた。この島に落ち着いたのはほんの少し前。それまでは、それは悲惨な生活を続けてきたのだ。クロームとして経験があるアッシュは側でアドバイスすることは出来たが、何しろデリケートな年頃の女の子である。どうして良いか分からない場面も多く、一人泣いているのを影から見守るしか無い日も多かった。

危うく人買いに連れ去られそうになったときが、一番危なかった。アッシュが間に合ったが、あのときは人買いを殺しかけて、マローネが必死に止めなかったら決定的な亀裂が関係に入っていたかも知れない。幸いマローネには魔法の素養があったから、どうにか一年ほどで、自衛の技だけは身につけることが出来たが。

シェンナと言う有力者が、どういう気まぐれかレンタル島を貸してくれてからは、生活も少しだけ安定した。

だが、それからもマローネに対する世間の風当たりは強い。

アッシュが今まで見てきた中でも、特に善良で、心優しいマローネが、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。悪霊憑きという能力が、かのサルファーを思わせるが故に、恐れられることはアッシュも知っている。サルファーについては、様々に因縁もあるし、恨む人々のことも分からないでも無い。

だが、身近な人が苦しんでいるのを見ると、どうしても我慢できない。

死んでから八年。体だけでは無く、心の成長もアッシュは止まってしまっている。それが故に、苦悩も堂々巡りを繰り返していた。

ふと、海の方を見る。

顔にもの凄い向かい傷がある人間族の男が、海から上がってくるところだった。上半身は裸で、大きな剣を背負っている。腰にも、とても大きなナイフをぶら下げていた。目つきは鋭くて、筋肉も引き締まり、一目で歴戦の戦士だと判断可能だ。口ひげは白く、相当な年配である事が見て取れる。

そして、アッシュはファントムだから分かる。

この男は、既にこの世の存在では無い。アッシュと同じファントムだ。

「マローネ嬢はご在宅か」

「あんたは」

「さっきまでマローネ嬢がいた山枯れ島の者だ」

しゃべり方もゆっくりしていて、落ち着きがある。よほどの戦歴を誇る戦士だろう。武芸にも相当な自信がある様子だ。

もう一人、来た。

一人と言うべきなのだろうか。此方も、向かい傷がもの凄い。ただし人間では無く、リザードマンであったが。体格は並のリザードマンより更に大きく、筋肉の付き方も尋常では無かった。

そして、このリザードマンも、既にこの世の存在では無かった。

「マローネは今寝ている。 昨晩徹夜になったからな」

「経緯は見ていた。 俺の子孫達が、済まないことをした」

皮肉を込めてアッシュが言うと、戦士は素直に頭を下げてきた。いい大人が謝罪をするのは、とても難しいことを、アッシュは知っている。

だから、少しは怒気も紛れた。

「あなたは?」

「俺はガラント。 あの山枯れ島の先々代の長で、かって傭兵団の団長をしていた事もある。 此奴は、俺の腐れ縁の親友だ。 バッカスという。 あの島のリザードマン達の先祖で、迷惑を掛けたから一緒に謝りに来た」

「スマナカッタ」

言葉短く、リザードマンの戦士が頭を下げた。

リザードマンはカメレオンに形状が似ていて、かなりの猫背だ。ただし全体的な体格は巨大で、身体能力はとても高い。武器を使っての戦闘となると、人間族の並みの戦士程度では、束になっても叶わない。能力持ちか、キバイノシシ族の戦士でも連れてくれば話は別だが。

マローネが起きてきたのは、昼過ぎだ。

多分来客の気配を感じ取ったのだろう。もっと寝ていて欲しかったのだが、幼い頃から規則正しい生活をする癖が身についているため、こういうときには体が反応するらしい。

「アッシュー、お客さん?」

「ああ。 ファントムだよ」

「へえ? あ、こんにちは。 どなたですか?」

ひょいと顔を見せたマローネ。多分泣いていただろうに、既にひまわりのような笑顔を浮かべている。

この年でマローネは、既によそ行きの顔の作り方を覚えている。心が弱い子なら、ずっと閉じこもって泣いていてもおかしくないだろうに。常に前向きであろうとして、外に出ては、他の存在と一生懸命コミュニケーションを取ろうとしているのだ。

ただし、着ているのはいつものお気に入りのワンピースでは無い。その意味を知っているアッシュは、やはり悔しくて歯がみしそうだった。

老戦士のファントムは、マローネを見ると、片膝を突いて頭を下げる。それが戦士がする最敬礼だと、アッシュは知っていた。

「マローネ嬢。 俺の村の若造共が迷惑を掛けた。 すまない」

「え……?」

「ファントムの俺が頭を下げても意味が無いかも知れないが、この通りだ。 あの馬鹿者共を、許してやってくれぬか」

「オレモアヤマル。 スマナカッタ」

「ちょっと、頭を上げてください」

マローネは、気にしていないと言う。だが、嬉しそうに顔がほころぶのを、アッシュは見て取っていた。

生きている人間に認められなくても、ファントムにはきちんと理解して貰える。それだけは、救いなのかも知れなかった。

 

マローネは、気丈に振る舞っているが、決して人並み外れて強靱な心を持っているわけでは無い。

幼い頃から彼女を見守っていたアッシュは、それをよく知っている。

霊を見ることが出来る体質についても、最初は随分怖がって泣いている事が多かった。徐々に霊の善悪を見抜けるようになってきたのは、両親の死を理解した頃から、急激に、だろうか。

ファントムは、決して善良な存在ばかりでは無い。

死の記憶を強く残しているファントムの中には、おぞましいほど体が崩れてしまっている者もいる。死を理解できず、ただ恐怖と絶望に支配されて、辺りを漂っている者もいる。マローネは、そういった、もはや自我がはっきりしていないような霊にも分け隔て無く好かれた。

昔は、アッシュがあまりにも悪質な霊は追い払っていた。

だが今では、霊の本懐を遂げさせ、自然に消える(どういう現象かは分からないが、消滅すると言うよりも輪廻の輪に帰るような現象であるらしい)ように仕向ける技術をある程度得ている。故に、このお化け島に、様々な霊が訪ねてくることは珍しくない。

悪意がある怨霊が来ることもある。

だが、大体の霊は、マローネに好意を持っている。

皮肉な話だ。生者がもう少し、ほんの少しだけで良い。マローネを見てくれれば、今のような境遇は変わるだろうに。

何が気に入ったのか、ガラント老人は、バッカスと共に島に居座るつもりであるらしい。たまにこういうファントムがいる。マローネは賑やかになると喜んでいたが、アッシュとしては、あまり嬉しくない。

マローネには、生者の世界で生きて欲しいからだ。

実は、マローネの母が、丁度そういった能力の持ち主だった。彼女のような能力の持ち主は、孤島で孤独に暮らすことが多く、むしろ死者と交わって生の世界を放棄してしまう事が珍しくなかったという。

マローネの母ジャスミンは、そんな中で珍しく現実社会の中で生きることを選んだ女性だった。夫のヘイズとも大変に仲睦まじく、悪霊憑きと言われながらも、幸せを掴んだ希有な例だったと言える。

それが故に、娘を強く心配していたのだ。

クロームという危険と隣り合わせの仕事をしていたから、アッシュはよく言われていた。いざというときには、娘を頼むと。

そして、文字通り頼まれた今となっては、アッシュは思うのだ。マローネはこのままでは、死者と交わり、この世に背を向けてしまうのでは無いかと。そうやって、魂が溶けるように死んでしまった者は多くいるのだとか。

今は、まだいい。

マローネは苦境の中、気丈に振る舞っている。考え方も前向きで、疑うより信じる事を優先する。

だが、分かるのだ。

時々、マローネの心が折れそうになっている事が。当然の話である。マローネは、まだ幼いのだから。本当は、まだ両親が恋しい年頃である。アッシュでは代わりにはなれない。どんなに頑張っても、母親の代わりはいないのだ。父親の代わりさえ出来ないのに、母親になどなれるわけが無い。

心は、絶対にきしむ。傷はふさがらない。

マローネは気丈に振る舞っていても、どうしても心に傷は出来ていく。それをどうにも出来ないアッシュは、歯がゆかった。

ガラントが来た。

肉弾戦を得意としていたアッシュは、拳法の心得もある。だから歩き方や体重の移し方などからも、相手の強さが大体読める。

ガラントはマローネのシャルトルーズで具現化すれば、相当な戦力になる。頼もしくはあるのだが。しかし、前述のような理由で、余計に心配なのだった。

理解者の霊が下手に増えすぎると、マローネは、生の世界より死の世界を選んでしまうかも知れない。

しかもガラントは、荒々しい戦士であるが、それ以上に良識のある大人だ。アッシュのような若造と違って、本当の意味で保護者に相応しい人間である。それを考えると、余計にまずい。だが、アッシュが嫉妬しているだけかも知れないと思い、考えを一旦切った。

マローネの保護者が増えることは、今は喜ばしいと思うべき事だからだ。もしも問題になるようなら、アッシュが一言言えば良いのである。

「島を見て廻ったが、良いところだ。 ところで、アッシュ殿」

「アッシュで良いですよ。 貴方の方が戦士としても格上のようだし、経験年数も遙かに長い」

「そうか、ではアッシュ。 マローネ嬢の話をしてくれないか」

「どうしました。 お孫さんにでも似ていますか」

茶化して言うと、ガラントは首を横に振る。

彼は家族に恵まれなかったらしい。

若い頃はずっとクロームとしてならし、ある程度の力が付いてきたところで仲間達と一緒に傭兵団を立ち上げたという。

そのうち、傭兵団の仲間の一人と結婚。武勲を立てたことで島長として認められ、引退後は島で静かに暮らしたのだとか。

此処までだったら、めでたしめでたし、なのだろう。

だが、霊体としてこの世に残っているというのは、それだけ未練が強いという事だ。

「俺は、あの子と同じように、悪霊憑きと呼ばれ迫害される子供を見たことがある。 そして助けられなかった」

「ガラントさん」

「俺も島長になってからは、色々と厄介なしがらみやら政治的判断とかが増えてきてな」

気付くと、手遅れになっていたという。

村を挙げての集団リンチが実行され、その子は正義の名の下に、襤褸ぞうきんのようにずたずたにされて殺された。内気で口べただったが、とても可愛い子だったのに。しかも殺されたあと、見せしめとして死骸は言葉にするもはばかられるような無惨な扱いを受けたという。

イヴォワールは数多の民族の集う地だ。人間族が一番多いが、知的生命体だけでもウサギリス族やウェアウルフ族、キバイノシシ族にマーマン族やオウル族と、この群小の島が林立する地域としては不自然なほどに多数の民族が寄り集まっている。

だから、人種間での差別は殆ど無い。一つの村を見ても、実に多彩な民族が共同して生活しているのを見かける。特定の種族が支配階層を独占しているという事もなく、いわゆる貴族階級であるセレストには、様々な種族が顔を揃えているほどだ。

あるのは、もっと別のもの。精神面での差別。

そして、マローネの例を挙げるまでも無く、それはとてつもなく闇が深い。

ガラントも、そんな闇がある事は分かっていた。だが、蛮行を止められなかった。そのことが、最後まで悔いになっていたという。よそ者の子供だと、誰も罪悪感を持たない様子だったことが、余計に心残りとなったのだと、老いた戦士は無念そうに言った。

「死んで気がつけば、俺はファントムになっていた。 今も、あのときの事は後悔している」

「大丈夫、僕がマローネをそんなことにはさせませんよ」

「頼もしいことだ。 罪滅ぼしというわけでは無いが、俺にも手伝わせて貰えるか」

「喜んで」

少しだけ、ガラントに好意がもてる。まだ信用したわけでは無いが、悪霊では無さそうだった。

 

その日は、依頼用のボトルメールは来なかった。代わりにクローム登録者に無料で配布されている新聞と、中傷メールが少し来ただけだった。

マローネが起きてきたので、メールのことは誤魔化して廃棄する。新聞の方は、マローネにとっては読み書きの勉強に大事なので、そのまま手渡した。

「マローネ、水の蓄えは?」

「まだ少しあるけど……」

「今のうちに、買い足しておこう」

「分かったわ」

こういった孤島の生活で、一番困ることになるのが真水の確保だ。真水は炊事、洗濯、風呂と、いくらでも用途がある。

ある程度お金がある場合は、魔術による海水の濾過装置を使うことになるが、これはマローネのような貧乏人には手が届かない存在だ。マローネは魔術をある程度使えるが、この濾過装置はネフライトが技術を独占していて、一般には流れてこない。比較的マローネに親切だった師匠も、それは教えてくれなかった。或いは、本当に一部のネフライトしか技術を持っていないのかも知れない。

後は自分で蒸留する方法があるが、これは燃料が必要な上に、ある程度の量を手に入れるためにはそれなりの時間が掛かる。燃料を使わない場合もあるが、それには更に多くの時間が掛かってしまう。

マローネは格安の装置を持っているが、これは気候によって真水の出来る速度に差がある上、数日かかってちょっとの水しか出来ない。だから、いつも真水を買うために、出かけることになるのだ。

よそ行きの服を着て、マローネが戻ってくる。

「ガラントさん、留守を頼みます」

「水を買いに行くのか。 行き先は富と自由の島か?」

「はい」

「彼処なら治安も安定はしているが、気をつけろよ」

丁寧に礼をするマローネを横目に、アッシュは先にボトルシップに乗り込んだ。魔力は充分に蓄積している。この島にいる限り、魔力の蓄積は心配ないか。

行く先は、富と自由の島。

近辺にある最も大きな島で、一応島長はいるものの、実際はバンブー社という大手企業の独占支配下状態にある。

この島は近隣の経済を一手に引き受けるほどの場所で、あらゆる物資が揃うほか、多くの人が集まる。勿論、真水も格安で手に入れることが可能だ。

マローネはヒトが多く集まる場所を怖がらない。だから、島に出ることの不安そのものはなかった。

アッシュが行くのは、こういう場所で何度か危険があったからである。

マローネがボトルシップに乗り込むのを見ながら、声を掛ける。

「財布は、首から掛けたね。 余分なお金は、持ってきていないね」

「大丈夫よ、アッシュ」

「それじゃあ、行こうか」

船が出る。

富と自由の島は、比較的深い海を経由する必要があるので、ボトルシップは必須だ。大きな船が停泊するためには、水深のある港が必要だかららしい。

港にも、使える等級が決まっている。お金持ちの入れる港には、警備員がいて、しっかり出入りを守られる。一方でマローネのようなクロームが使う港は、比較的寂れている。だが、近年、バンブー社が仕切るようになってからは、こういう小さな港にも警備員が入るようにはなった。

一時間もボトルシップを走らせると、もう到着だ。

大きな島である。それ以上に、開発が良く進んでいて、遊興施設もかなりの数が建ち並んでいる。特に中央部にあるバンブー社の本社は、どんな技術で作られているのか、天を突くような高さだ。

空いている場所に停泊させると、船を下りる。警備員らしいキバイノシシ族の戦士が、切符を切ってきた。時々顔を見かける、バンブー社お雇いの警備員だ。戦闘経験がある様子からして、元はベリルだろうかと、アッシュは考えていた。顔には凄い向かい傷があるが、意外に温厚な性格で、マローネに怒鳴ったことは一度も無い。子供が好きなのかも知れない。

「水を買いに来ました」

「おう、いつも大変だな」

「ありがとうございます」

ぱたぱたと走るマローネを、警備員は少しだけ見送っていたが、すぐに視線をそらした。

水は、港から少し歩いたお店で売っている。以前より少しお値段が安くなっているのには、アッシュが他のファントムから聞いたところでは、理由があるらしい。

バンブー社は製薬会社なのだが、自社利益の確保のため、多くのネフライトを囲い込んでいるらしいのだ。

その中に、水の製造技術を持つネフライトがいた。そこで、大量生産を始めた結果、一機に水の価格が下がり、慌てた水の売り手達が、値段を下げたというのが実情らしい。

バンブー社は阿漕なやり方でも知られているが、少なくとも物価を下げることで、庶民には助かっている部分もある。

マローネがいつも水を買っているお店は、オウル族の気むずかしいおばあさんが経営している。マローネを見る度にいつも文句を言うが、この店から変えない。理由は、このおばあさんが、マローネが悪霊憑きだと知っていても、他の客と態度を変えていないからだ。

「ふん、今回は早かったね」

「安かったけど、お仕事のお金が入ったんです」

「その怪我じゃ、割に合わないだろ。 ファントム使えるんだったら、もっと荒事を想定した方法で稼ぎな」

マローネはおばあさんの容赦の無い物言いに苦笑いしていたが。

アッシュは、その通りだと思う。

性格は悪いが、このおばあさんは、マローネを嫌っていないのかも知れない。

牽引してきた、古いコンテナを渡す。コンテナの下にはコロコロがついていて、水を引いていくことが出来る。

帰りはボトルシップで、そのまま牽引していく。水を入れたコンテナは言うまでも無く浮くので、運ぶのは大変だが、持ち帰るのは難しくないのだ。

「悪霊、そこにいるんだろ」

マローネが外に出ている間、おばあさんが話しかけてくる。

勿論アッシュは見えないので、明後日の方向にだが。

「なんてざまだい。 あんなに怪我させて。 可愛いのに、毎度生傷が絶えないじゃ無いか」

言い返せない。

言い返す力があったとしても、言い返せなかっただろう。

程なく、水の注入は終わった。水の品質を、おばあさんはしっかり確認している。最初に入れた水は洗浄のために捨てていたから、料金はちょっと増える。

「ほら、きちんと冷やして保管しな」

機嫌が悪そうに、おばあさんが水を入れたコンテナの蓋を閉める。

マローネを呼びに行くアッシュの気分は、少し重かった。

コロコロがついているから、コンテナを運ぶこと自体は問題ない。あと、ソーイングに必要な雑多な材料を少し買って、帰路につく。

この間のもうけは、大体無くなってしまった。

「マローネ、今度稼ぎが入ったら、靴を買おう」

「どうしたの、急に」

「もう小さくなっているだろう? 靴は仕立て直すのも難しいし」

「そうね……」

マローネがうつむく。

あまり思い出させたくは無いが、仕方が無い。

港を出る。キバイノシシ族の警備員は、しっかりボトルシップを見張ってくれていた。警備員ががっちり警備をするようになってから、この辺からこそ泥目的のベリルはいなくなった。

「もう帰りか」

「はい。 今日もありがとうございました」

「ああ。 もうちっと喰いな。 そんな細い腕じゃ、今後大変だぞ」

そんな言葉にも、マローネはいちいち礼を言う。

島を出た頃には、昼少し前になっていた。

「今日は、ちょっと多めに食べたいな」

「分かった。 少し大きな魚を狙うよ」

幸い、食べることだけには困らない。

最悪の状態が訪れても、マローネを餓死させることだけはない。それが、此処で暮らしている事の、救いかも知れない。

故に、島のレンタル代のだけは、きっちり払いきらなければならなかった。

依頼が無い日は、ゆっくり過ぎていく。

それも、アッシュにとっては、嬉しい事だった。

 

3、悪意と悲しみ

 

海から上がって来た小さな影。

ボトルメールだ。

文字通り、瓶に手足が生えたような姿をした魔法生物である。このイヴォワールで、手紙を輸送配達するのに主に使われている。大きさや種類は様々だが、共通して海流や航路の知識を持っており、驚くべき速さで海を泳いで渡って目的地に辿り着く。自衛能力もあるらしいのだが、アッシュは見たことが無い。

普通、ボトルメールが来ると警戒してしまう。

マローネへの中傷を目的とした手紙が多いからだ。クロームの仕事を始めてからと言うもの、悪霊憑きの悪評は尋常では無くなっている。まだ、マローネへ仕事を頼む人はいるにはいるが、どれもこれも実入りは良くない。仕事も選んでいられない。

だが、マローネは、どんな仕事もいやがらずにこなす。仕事の料金を値引きされても、笑ってみんなが助かったのなら良かったという。

これでは、いつかマローネは壊れてしまう。

マローネが玄関から出て来た。

霊感が強いことは、勘が鋭いことも意味している。ボトルメールが来ると、マローネはすぐに気付く。だから、アッシュは自然と早起きが身についた。早寝早起きの幽霊というのも、おかしな話だが。

「アッシュ、どうしたの」

「ボトルメールだ。 仕事の依頼だと良いのだけど」

「また間違いの手紙だって言うの?」

「まだ分からないし、見てみるよ」

幸い、仕事の手紙だった。よく見ると、緊急依頼用の金色のボトルメールである。ちょっと神経過敏になっていたが、これなら最初から冷静に見れば、仕事の依頼だと断言できただろうに。アッシュは、自分の判断力が焦りで鈍っていることを実感して、内心舌打ちしていた。

目的地は、石産み島。お化け島の比較的近郊にある小さな島で、文字通り宝石の産出によって支えられている。ただし、今はかってほどの産出量が無く、島の経済は縮小する一方だそうだ。

「ガラントさんも、手伝ってくれるの?」

「ああ。 この老骨、少しでも役立ててくれ。 勿論バッカスも手伝ってくれる」

「アア。 オレハ、ガラントノ、トモ。 マローネ、マモル」

「よかった。 よろしくね、ガラントさん、バッカスさんも」

口数が極端に少ないリザードマンだ。この間何回かに分けて別の島に運んだリザードマンは、とにかく良く片言で喋ったのだが。

マローネに手紙を渡す。

孤児院にいた頃、マローネは読み書きを一生懸命勉強していた。今では書くことは若干怪しいが、読む方はすっかり問題なくこなせるようになっている。

「ええと、至急石産み島まで来られたし。 内容は言えないのかしら」

「緊急性が高いって事だろうね」

多分それだけでは無い。

手紙に報酬を書いていないのは、現地で適当に値段を決めるつもり、という事だ。更に言えば、相当な荒事の可能性も高い。本来は慣れたベテランクローム相手の仕事と見て良いだろう。

こういうクローム宛ての依頼は、複数の相手に大量送信されることが多く、仕事の奪い合いに発展することが珍しくない。だから依頼所まで距離がある場合や、危険性が見込まれる場合は拒否することが賢いやり方だ。もう一つ、可能性がある危険もある。だがそれに関しては、今は考えなくても良い。

アッシュはその辺りの破落戸ベリル程度ならまとめて畳む自信があるが、この世界には通称九つ剣などと言われる強者がいる他、有名な傭兵団をまとめているボス達はいずれも劣らぬ猛者である。

能力者がいくらでもいる世界だと言う事は、それに殉じて強者も多いという事だ。下手をすれば、幼児でさえ油断できない相手に早変わりする。当然、荒くれや盗賊の中にも、とんでもない使い手が混じっていることがある。

だからこそに、クロームは命がけなのだ。

幸い今回はガラントがいるが、それでもどうなるかは分からない。

「断るなら今のうちだよ、マローネ」

「ううん、緊急用ボトルメールでの依頼なのよ。 きっと大勢の人が困っているわ」

出かける準備を始めるマローネの後ろ姿を見守りながら、アッシュは誓う。

今回も、絶対にマローネを守るのだと。

たとえ、何があろうと。

 

石産み島は全体的に良く整備された島で、かっては存在した鉱山を中心に開発が進められた形跡が見て取れる。

港は不自然に大きいし、自然も彼方此方でえぐり取られたように傷跡が残っていた。ただし、かなり前に鉱山の規模が縮小したらしく、島の周囲から見る限り、さほど酷い状態では無かったが。

周囲の美しい珊瑚礁の海と、欲望によって切り刻まれた島の対比が凄まじい。

こういった島は、かなりの数が存在している。基本的に豊かな海産資源で、食べて行くには困らない。しかし豊かな生活をするには、どうしても経済の流通と外貨の獲得が必要になってくるのだ。

だから、欲望のままに、種族を問わず、ヒトは島を喰らう。

種族を問わず、自然にとって、ヒトは敵だ。

「ほう。 俺が知っていた頃の石産み島よりも、だいぶ自然が戻っているな」

「ガラントさん、来たことがあるの?」

「ああ。 この辺りは昔荒くれの巣窟で、ベリルが大暴れすることが珍しくなかったんだよ。 その殆どは、宝石を掘って一山当てようとして、失敗した連中のなれの果てだったがな」

「何だか、可哀想」

マローネが、表情を曇らせる。

普通だったら、なんて酷い話とでも言って怒るだろう。だがマローネは、そうやって一山当てようとしている連中が、実際には故郷に居場所が無かったり、借金を抱えていたりする人達だと知っているのだ。

普通の子供より知識があるのは、荒事も行うクロームを生業にしているから。だが、それでもなお、マローネは人を信じる事を信条としている。

ガラントは咳払いすると、フォローを付け加えてくれた。

「今では村に溶け込んだか、或いは他に移動して、おとなしくなっているだろう。 俺が現役を引退する頃には静かになっていたしな」

「だと良いんですが」

アッシュが苦笑して、会話を一旦切った。

いわゆる島荒らしと呼ばれる連中は、ベリルの中でも特にたちが悪い。

こういった連中は、徒党を組んで小さな村や島に出かけては、軍や傭兵団が出てくる前に略奪をして去って行く。

近年はその手口も巧妙化していて、組織化、凶悪化が目立つ。中には傭兵団が仕事先と巧く折り合いが付かなかった場合、たちまち盗賊団に早変わりというケースまであるようだ。

マローネのボトルシップはおんぼろだが、それでも島から近かったからか、或いは依頼内容を怪しいと見たのか。他のクロームは、まだ到着していなかった。

波止場から上陸する。この近辺での履き物は基本的にサンダルだ。他の島に出向く際、波止場でどうしても足下が濡れるからである。マローネはこの間のとは別のサンダルを履いていたが、かなり小さくなってしまっていて、何度も修繕した跡が見て取れる。今回の仕事が上手く行ったら、新しいサンダルくらいは買えると良いのだけどと、アッシュは思った。

だが、その希望は。

島の人達の目を見た瞬間、消し飛んだ。

マローネを見る島の人達の目が、最初から敵意に満ちている。人間とオウル族が半々くらいに混じった村だが、そのどちらもが敵意に充ち満ちていた。

これは、最悪だ。

多分この島の連中は、マローネが「悪霊憑き」だと、既に知っている。クロームの間では、既にマローネは悪い意味で有名人だと聞いている。当然、クロームを通じて一般人の間にも、悪い情報は流れている。

だが、マローネは笑顔を保ったまま、村長宅へ歩く。

ガラントが言う。

「マローネ殿。 いざというときは、俺かアッシュをコンファインなされよ」

「大丈夫よ、ガラントさん」

「見たところ、君はそれほど身体能力が高い様子では無い。 魔法が使えるにしても、近接戦闘に持ち込まれると不利だ。 護衛が付いていると、不測の事態に対して抑止力にもなる。 君一人なら侮る相手も、俺かアッシュがいればそうではない。 二人いれば、更に抑止力は強くなる」

「僕もガラントさんに賛成だ」

アッシュが言うが、マローネは平気だという。一人でやってみせると、笑顔を保つ。

先にコンファインさせるべきだったかと、アッシュは少しだけ後悔した。

マローネを出迎えた人間族の村長は見るからに陰険そうな老人で、口元だけ笑っていた。漁で鍛えたらしい半裸の体はそれなりに引き締まっていたが、肉体の鍛錬と精神の高潔さはなんら関係が無い。その陰険な目はマローネを上から下までなめ回すように値踏みしていた。にこにこしているマローネに、村長は言う。

「良く来てくださいましたな」

「いいえ。 それよりも、お仕事は」

「おほん。 実は村の外れにタチの悪いベリルが住み着きましてな。 もはや残り少ない宝石の鉱脈を、好き勝手に荒らしているのです」

そら来たと、アッシュは思った。

クロームは、どこまで行っても使い捨て。冒険者だの請負業だのと格好付けて呼ばれることもあるが、あくまで使い捨ての荒事業者。

富裕層の中には、クロームを人間と見なしていない輩も多い。

「賊は白狼騎士団のラファエルと名乗っておりましてな」

「白狼騎士団……」

マローネはぴんと来ないようだが、隣にいたガラントが鼻を鳴らす。アッシュは、どうしたものかと一瞬迷った。

白狼騎士団。

この業界にいるなら、誰もが知っている。最強最大の規模を持つ傭兵団であり、そのルーツは名前の通りイヴォワールの小国の軍事精鋭組織である。その国が滅んでから、騎士団という名前だけをひっさげて、今では傭兵団として活動している。規模だけでは無く実績も高く、例年イヴォワールで最大の賞金額を稼ぎ続けているのが、この白狼騎士団なのだ。今は獣王拳団という傭兵団が追い上げてきているが、それでもとても白狼騎士団には及ばない。

しかも、この白狼騎士団、団長はずば抜けた豪傑なのだ。隊長であるラファエルはイヴォワール最強の武人の一人、九つ剣の一員である。通称無限剣のラファエル。特殊能力持ちらしく、それも圧倒的に強力であるらしい。

今のアッシュだったら、十人がかりでも、一蹴されて終わるほどの相手だ。

だが、妙だ。

ラファエルといえば、30年前の大戦でも活躍した英雄であり、それからも各地での活躍著しい。倒した怪物は数も知れず、幾つかの国から爵位を受け、得ている賞金額もあって、裕福な生活をしているはず。しかもその気になれば寝て暮らせる所を、各地の平和と安全のためにと、未だに現役で傭兵団を率いて働いている高潔な人物だ。

30年前に活躍した勇者スカーレットに、一番近いとさえ言われているほどなのだ。

そんな英雄が、こんな小さな島を荒らして、小金を稼ぐために名声を落とすようなマネをするだろうか。

だが、万が一という事もある。

「マローネ、この件は断ろう」

「どうしたの? アッシュ」

「白狼騎士団と言えば、最強の名も高い傭兵団だ。 僕たちにどうにか出来る相手じゃ無い」

「そんな、やる前から諦めるなんて。 暴力が駄目なら、話し合いで解決しましょう」

マローネは、冗談を言っているのでは無い。大まじめだ。

そして、こういうことを言い出すと、マローネはてこでも意見を変えない。何度か大けがをしたにもかかわらず、である。

何度かアッシュと口論にもなった。

だが、マローネはそれでも人を信じたいと言う。そう言われてしまうと、アッシュは弱いのだ。

流石にガラントも度肝を抜かれた様子で、やりとりを見ていた。だが、問題はそこでは無い。

「だ、誰かそこにいるのですかな」

島長の恐怖と猜疑に満ちた目。

マローネとは小声で会話していたが、それでも此処は衆目がある。色々とまずい。

「あ、あの。 大丈夫です。 すぐに現場に向かいますから」

「そうですか。 出来るだけ早く頼みます」

周囲のひそひそ声が聞こえてくる。

頭がおかしいんじゃ無いのか。

やっぱり悪霊憑きの周りには、色々と気味が悪い奴らがいるんじゃないのか。

悪霊に取り憑かれていて、そいつらと会話してるんだろうよ。

悪意に満ちた会話が聞こえている筈なのに、マローネは、何も言わない。

それが、アッシュには歯がゆかった。

 

石産み島は、非常に簡単な構造をしている。南部に港となっている集落があり、其処から北部に向かうと、かって鉱山だったはげ山がある。はげ山との間には大きな街道があって、その左右には小規模な集落が点々としていた。集落はいずれも活気が無く、住んでいる住民の目にも生気が無かった。

かっては、此方よりも鉱山の麓にあった集落の方が、規模が大きかったという。鉱物資源を掘り出し、加工する場所なのだから、当然とも言える。

だが、今では細々と宝石を掘り出す人々だけが住んでおり、経済的にはこの島は既に死んでいる。昔は傭兵団が常駐していたという話だが、今ではそもそも略奪するものも無いし、傭兵団を雇う金も無いので、軍事的な空白地帯になっている、と言うわけだ。

道すがら、そんな難しい話を、ガラントはマローネにしてくれた。

ファントムは比較的融通が利く。道を歩くことも出来るし、ある程度器用な者は周囲に浮いていたり、或いは物品に憑依することも可能だ。ガラントはあまりそういったことをしたくないらしく、ボトルシップを動かしているとき以外は、マローネに歩く速度を合わせてくれていた。

「さっきの事は、気にするな」

「え? 大丈夫ですよ」

アッシュが、眉をひそめるのが分かった。

さっきの事。

村の出口で、オウル族の可愛い子供が、マローネに興味を持ったのか、よちよちと歩いてきたのだ。

オウル族は文字通り梟の特徴を持った知的種族で、日光に弱いため遮光グラスを掛けて生活している者達である。短時間飛ぶことが出来るだけでは無く、魔法も武術も器用にこなすため、彼方此方の集落に溶け込んでいる。梟が立ったような姿をしている彼らは、当然夜行性なのだが、他の種族に合わせて無理矢理日中に生活している様子が見られる。

当然、子供は可愛い。マローネも、子供は大好きだ。

だが、腰をかがめてマローネが視線を合わせ、話をしようとした途端。

母親のオウル族が、子供を抱え上げて逃げ去ってしまったのだった。

捨て台詞は、耳に残っている。

あの人に近づいちゃ駄目だって言ったでしょ。

金切り声は、恐怖に満ちていた。

この差別は、マローネが異物だから生じている。それは分かっている。一朝一夕に解決するものでもないと理解している。

だが、ガラントに言われたとおり、やっぱりこたえる。

アッシュが足を止めた。少し前から、ガラントもである。

路を塞ぐようにして、何名かの人間族の男がいる。いずれも柄が悪く、目つきも良くない。

いずれもが、待ち構えていたのは間違いない。周囲に人気も無く、しかも連中は例外なく剣や槍で武装していた。へらへら笑いながら、マローネに対して敵意と欲望のまじった視線を向けている。

アッシュが構えを取る。拳法家であるアッシュは、腰を据えて、右手を若干前に出した戦闘態勢を使う。

「マローネ、ベリルだ。 話が通じる雰囲気じゃ無い。 コンファインして」

「うん……」

以前は、こういった連中とも、マローネは何ら備えなく会話しようとした。

だが、何度か酷い目に遭い、一度人さらいにさらわれかけてから、ようやくアッシュをコンファインすることには同意した。

だが、それさえも、胸が痛む。

「出来るだけ、怪我はさせないでね」

「ああ、分かってる」

「さまよえる魂よ、導きに従い現れ出でよ! 奇跡の能力、シャルトルーズ!」

マローネの全身から、光の粒子がらせん状に迸る。それが高密度の魔力である事は、どこの誰でも一目で分かる。

一度天に向けて放出された魔力は、辺りに雪のように降り注ぎながら、やがてマローネが念じた存在に集中していくのだ。

近くにあった岩に魔力が集まり、人の形を取っていく。

どんな岩でも良いというわけでは無い。自然界に流れる魔力であるマナが集まっていたり、何かしらの謂われがあったり。様々な条件があるが、いずれにしてもマローネには使えるものかそうでないかは、一目で分かる。

いずれにしても、そういった物品は決して少なくは無い。もっとも、アッシュの力を引き出せる物品がどこにでも転がっているというわけではなく、戦闘が行われる地点によっては、かなり苦労させてしまうことになるのだが。

岩が見る間に人になっていくのを見て、ベリルの男達が、流石に足を止めた。ほどなく、多少顔色が悪いが、生前のままの姿となったアッシュが立ち上がる。コンファインは、成功したのだ。制限時間はあるが、多分充分だろう。

アッシュが、肉体を得て、構えを取ったままベリル達を見据える。更にマローネは続けて集中し、ガラントも近くの枯れ木にコンファインする。

ベリル達は、目に見えて怯える。

「あ、悪霊だ! 悪霊が出やがった! あのガキ、噂の悪霊憑きかっ!?」

「ひるむんじゃねえ! ボスに殺されるぞ!」

アッシュが、彼らに乗じて動いた。

左右のステップを利用してジグザグに近づくと、一人目の腕を掴み、顎を掌底で跳ね上げる。

更にもう一人が慌てて振るった腰の入っていない剣を避けながら、回し蹴り。顎を跳ね上げられた男が倒れた頃には、もう一人が吹っ飛んでいた。

最後の一人が、アッシュの後ろから槍を突き出そうとしたが、白目を剥いて倒れる。

いつの間にか、音も無く後ろに回り込んだガラントが、延髄に手刀を入れていたからだ。

ファントムとは言え、肉体を得ている状態では傷つきもする。あまりにも酷いダメージを受けると、しばらくコンファインは出来なくなってしまう。

今までに何度かあった。だから、マローネは内心、戦闘にシャルトルーズを使いたくは無かった。

だが、生きていくためには仕方が無い。無抵抗で酷いことをされる方が、もっとアッシュは悲しむ。人買いにさらわれそうになった時なんて、まるで鬼のような形相だった。

今回は、ガラントの的確なフォローで、アッシュは怪我しなくて済んだ。それだけで、マローネは寿命が縮む思いだった。

「良かった。 たいした腕じゃ無いですね」

「同感だ。 準備運動にもならんな。 今も昔も、ベリルになる奴は徒党を組まないと何もできん屑が多いようだな」

呆れたように、残りを制圧しながらガラントが呟く。武器を持っている相手なのに、まるでものともしていない。剣さえ抜いていなかった。

全員の武器を取り上げ、縛り上げるアッシュ。元々腕利きのクロームだけあって、こういう作業は非常に手慣れている。

マローネは、痛そうに呻くベリルの人達が心配になった。

「大丈夫ですか? 怪我はしてないですか」

「ひ、ひいいっ!」

「来るな! 何でも言うから、俺たちを悪霊の餌にしないでくれ!」

悪霊の餌。

酷いことを言う。コンファインした状態だと、確かにファントムは食事をすることも出来る。

だが、いくら何でも人を食べたりはしない。

「マローネ、向こうを向いていて。 僕が聞くから」

「駄目。 酷いことはしないで」

あとは村の人達に任せることにする。いくら何でも、死刑にしたりはしないだろう。

バッカスをコンファインすると、ベリルの人達は更に怯えた。バッカスはリザードマンで、しかも普通のリザードマンよりも更に大柄だ。頭に来たらしいバッカスが目を剥いて口を大きく開くと、泡を吹いて気絶する人まで出た。恐怖のあまりおしっこを漏らしている人もいて、マローネは可哀想だなと思った。

力持ちのバッカスは、無言で彼らを全部担いで運んでいく。その様子を横目に、ガラントが咳払いして言う。

「あんな連中に情けを掛けずとも良いだろう」

「ガラントさん、あんな連中なんて言わないで」

みんなきっと悲しい事情があって、悪いことをしている。もともと悪いことをしないと生きていけないのなら、それはもっと悲しいことだ。

マローネはいろいろなファントムに身の上を聞いた。とても酷い話も散々聞いて来た。

世の中を恨みたくなる彼らの気持ちも、分かるのだ。

一度村まで戻る。

ベリルの人達は、歯の根があっていなかった。互いに身を寄せ合って、この世の終わりが来たみたいな顔色をして、マローネを魔王か何かのように見ている。縛り上げた彼らを見て、村の人達は、どう復讐するか、ひそひそと話し合っている様子だった。

 

鉱山のあった辺りまで行くと、もう完全に人気は無かった。

むしろ低級の怪物が、辺りをうろついている気配がある。人間の食べ残しとか、或いは人間がいなくなった場所で繁殖している動物とかを目当てにしている者達だ。

こういった人気が無くなった場所では、人間が残したものがたくさんあるから、低級の怪物達は集まりやすい。人間にとってはゴミでも、彼らにとってはごちそうである事が、珍しくないからである。

それが行きすぎると、人間がごちそうになるような怪物も集まりはじめる。そうなると、傭兵団や腕利きのクロームが出張ることになる。

朽ち果てた家屋が、かっての栄華を懐かしむように、左右に並んでいる。家屋の中には、鍛冶の道具や、見たことも無いものがたくさん放棄されていた。分厚く埃を被っていて、まるで使われなくなったことを恨むかのように、彼らは無言でたたずんでいる。

ファントムも、幾らかいる。

一攫千金を狙って、この島に来て、事故死してしまった人だろうか。体が半分潰れていて、それなのに自分が死んだことにも気付いていないオウル族の男性。恐らく、些細な諍いで刺されてしまったのだろう。脇腹にナイフを突き刺したまま、黙々と辺りを歩き回っている人間族の男性。

いわゆる春をひさぐ仕事をしにきたのか、着飾った女性のファントムもいた。ただし、病気で見る影も無いほどやつれ果てていて、それでも自分が現役だと思っている様子だ。既に、命はこの世から離れてしまっているというのに。

みんな、お金に集められて、此処で命を落としていった人達だ。

死ぬと、確実にファントムになる訳では無い。いろいろな条件が重なって、なおかつ未練が残っていると、ファントムになる。必ずしもヒトだけがファントムになる訳では無い。バッカスの例を出すまでも無く、場合によっては怪物の王と言われるドラゴンなども、ファントムになる事がある。

「アッシュ、あとで此処のファントム達、助けてもいい?」

「分かってる。 仕事が終わってから、だよ」

「はん、随分とまあ、余裕だな」

不意に、第三者の声が割り込んでくる。

至近に、着弾。

墜ちてきたのは、人間の胴体ほどもある大岩だった。マローネに直撃していたら、即死だっただろう。

すぐにシャルトルーズを発動。

家の中にあった金床が、適している。アッシュをコンファインするのと同時に、すぐに第二射が飛んでくる。

家の腐りかけた壁を蹴り破って躍り出たアッシュが、飛来した岩を気合いを入れた拳で迎撃する。勿論、アッシュのパワーでは岩を拳でたたき落とせるわけが無い。空中で岩が止まる。アッシュの額に、汗が浮かぶ。

アッシュは能力持ちだ。それを用いているのである。

ファントムになっても、特殊能力は基本的に消えない。

岩の直撃をアッシュが防ぐが、地面に落ちた岩が二つに割れると同時に、次が来る。悲鳴を上げたマローネが、尻餅をつく。

アッシュが対応しきれず、至近に直撃したからだ。

「きゃあっ!」

「マローネ!」

「噂の悪霊憑きだか何だか知らないが、この白狼騎士団団長ラファエル様の前には子供も同然! なぶり殺しにしてやるぜ!」

「待って! 話し合いに来ました! 岩を投げるのは止めて!」

マローネが言うが、ラファエルとやらは姿を見せない。けたけた笑いながら、言う。

「そういって騙すつもりだろう! 引っかかると思うか!」

「どうも様子がおかしいな」

服の汚れをはたきながら立ち上がるマローネに、アッシュが構えを取ったまま目配せする。

きっと、偽物だというのだろう。

だが、マローネはそんなことよりも、まず話をしたい。粘り強く話をしていけば、かならず酷いことにはならないはずだ。

また、何か飛んできた。

アッシュが迎撃しようとするが、失敗。直撃を受けて、横転する。

見ると、スライムと呼ばれる軟体状の怪物だ。それほど凶暴な種族では無いが、投げつけられて吃驚しているらしく、アッシュに必死にしがみついている。この辺りに人気が無くなって、住み着いた者達だろう。

更に、もう一匹、スライムが飛んでくる。

だが今度は、ガラントのコンファインが間に合う。ガラントが剣を抜くと、一閃。風圧でスライムが吹き飛び、目を回したままその辺りの地面に落ちた。ガラントは能力持ちではないようだが、充分にそれを補うほど強い。

自分の体からスライムを引きはがしたアッシュが、叫ぶ。

「ガラントさん、守りをお願いします!」

「応ッ!」

アッシュが走り出す。

もう、ラファエルの居場所を特定したのか。スライムがまた二匹、三匹と飛んでくるが、ガラントが余裕を持って叩き落とす。

だが、その体が、透けはじめた。

「む?」

「アッシュ! 急いで!」

コンファインにはいくつか弱点がある。その一つ、時間制限。

様々な条件によって左右はされるのだが、激しく動き回ったり、コンファインに使う道具の特性によっても、かなり変わってくる。

今、ガラントをコンファインした木材が、相当に弱っていたという事だろう。

アッシュの姿は見えないが、激しい土しぶきが上がるのが見えた。

悲鳴と共に、空に投げ上げられる大きな人影。

青い毛並みを持つ、ウェアウルフ族の大柄な男性だ。そのまま狼が直立したような姿を持つ種族で、独自の社会を作っているため、あまり人前に姿を見せない。

マローネの至近に、ウェアウルフが墜ちてきた。

アッシュが歩み寄ってくる。

その全身が、青い光の粒子に包まれていた。彼の能力、エカルラートを使ったのだ。しかも、全身の能力を強化するフルパワーでの使用である。これを使うと、殆ど一瞬でコンファインの制限時間を使い果たしてしまう。文字通りの切り札だ。

「観念しろ、島荒らし」

「ひいっ! な、何だお前っ!」

アッシュが、コンファインの制限時間を使い果たし、金床に戻る。

それを見たウェアウルフの男性は、それこそ腰を抜かさんばかりに驚き、解読不可能の金切り声で悲鳴を上げながら、文字通りこけつまろびつ走り去っていった。

「ああっ! 待って、ラファエルさん!」

「どう見ても、偽物だと思うけど」

ファントムに戻ったアッシュが、肩をすくめる。

大きく嘆息して、同じようにファントムに戻ったガラントが、近くの石に腰を下ろした。元々、どれだけたくましくてもおじいさんなのだ。やはり体力的にも厳しいものがあるのだろう。勿論マローネには、そんな弱みは一切見せないが。

「おばけ島にいる間、アッシュから話は聞いていたが。 こんなに制限時間が厳しいのか」

「はい。 アッシュもガラントさんも、もう今日はコンファインできないと思います」

「分かった。 さっきの奴はもう大丈夫だとは思うが、残党がいるかも知れん。 いざというときは、バッカスをコンファインしてくれ。 あの程度の雑魚なら、数人まとめて畳んでくれるだろうよ。 バッカスは寡黙だが良い奴だ。 信頼してくれて構わない」

「分かりました。 その時はお願いします」

マローネは、そんなことはしたくない。

だけど、そうせざるを得ないときは、出来るだけ酷いことにならないように祈った。

 

コンファインは、マローネにも負担が掛かる。

どんな種類の能力でもそうなのだが、基本的に負荷が存在しない能力は無い。これに関しては、例外はない。ましてや、マローネのシャルトルーズは、既に命を落とした者に、一時的に肉体を与えるという、驚天のものだ。勿論時間制限があったり、本人も完全に生前の状態では無いなどいろいろな問題はあるが、それでも摂理を大幅に曲げているものに違いは無く、奇跡と呼べるレベルである。ファントムの状態で、本人がいないとどうにもならないという致命的な前提条件があるが、それは仕方が無い事だろう。

死者を操作するネクロマンシーという術は存在しているが、マローネのコンファインはそれとは更に数段階格が上だと言っても良い。

ただし、それが故に、負担も大きい。

今回は荒事と言っても、アッシュとガラントで十分に対処できる程度の相手だったから、さほど苦労は無かった。

だが、今までにも経験があるのだが。

四人以上の同時コンファインは、まだ今のマローネでは難しい。

それに、そもそも摂理をねじ曲げる作業であるからか。あまりファントムに無理をさせると、この世から消滅させてしまう事にもつながりかねない。

また、コンファインだけでは無い。実はファントムと関わるのも、結構体力を消耗する。相手に伝わるように喋ったり、或いは相手に触ったりすることもそれは同じだ。

ファントムと接することは、マローネにとっては心身を削ることにつながる。

だが、今日はもう少し、無理をしなければならなかった。

立ち上がると、マローネは手を叩く。

周りにいたファントムが、マローネを見つめるのが分かった。

「私の声、聞こえますか? 側に来てください」

「う、ああ、ああああああ」

千鳥足で、歩み寄ってくる体が半分潰れたオウル族男性のファントム。体を売っていたらしい女性は、何かの病気なのか、酷いあばたが体の彼方此方にあった。刺されて死んだらしい人間族の男性が、娼婦らしい女性を支えて、此方に来る。

強烈な執念を残してこの世に残るファントムと、そうではなく、死を実感できずに何となくこの世に残ってしまっているファントムがいる。前者の場合、憎悪が強すぎると自我まで消えてしまうことがある。後者の場合は意識が希薄となってしまい、そもそも何のためにこの世に留まっているのか、忘れてしまうケースも珍しくない。

マローネはいろいろなファントムを見てきたが、意識を保ったままファントムになっているケースは珍しい。アッシュやガラントのような例は特別で、殆どの場合は、今周囲にいるファントムのように、曖昧な状態になってしまうものなのだ。いわゆる、悪霊と呼ばれる状態に近い。こういう状態になると、無意識のまま、現世に悪影響を与えてしまう事がある。

他にも、何体かのファントムが、マローネの側に集まってくる。

「みなさんは、その……。 もう、亡くなられています」

ファントム達は、すぐには応えない。

だが、それを自覚しているファントムもいるようだ。ナイフを腹に刺されている男性は、挙手した。

「ああ、分かってるよ。 でも、どうしたら良いか分からないんでね」

「私が暮らしているお化け島に来ませんか? とても居心地が良い場所で、其処でならあまり時間を掛けずに、輪廻の輪に戻る事が出来ると思います」

「輪廻の輪に戻ると、どうなるんだ。 俺たちは消えちまうのか」

そう言われると、困る。

実際にマローネも死んだことがある訳では無いからだ。おかしな話だが、ファントムを扱う専門家であるマローネも、死後の世界についてはよく分からない。一度輪廻の輪に戻ってしまったファントムが、二度と姿を見せないことも、その理由の一つである。

悲しいことだが、アッシュもいずれ消えてしまうだろう。それは、マローネもよく分かっていた。

「どっちにしても俺たち、そのうち消えちまうんだろ?」

忌々しげに言う声。

筋骨隆々とした、首が無いキバイノシシ族の男性だ。キバイノシシ族は、そのまま猪が直立したような姿をした人間種族で、非常に腕力が強く、たくましい体つきをしている。多分この島の鉱山が全盛期の頃には、多くのキバイノシシ族が働いていたのだろう。

首はどうしたのかと思ったら、小脇に抱えている骸骨だけのがそうらしい。

色々凄惨なファントムは見てきたが、気の毒なことである。

「あんたの言うお化け島、心地が良いんだな?」

「はい。 ファントムにとって、これほど良い環境は無いって聞いたことがありますし、私も見たことはありません」

「なら、そっちに行くわ。 正直、もう何も無いここにいても、心が腐るだけだからな」

ガラントに、案内を頼む。

ぞろぞろとファントム達が、鉱山街の跡地を離れていった。お化け島にいくと、殆どのファントムはあまり時間を掛けず、輪廻の輪に戻る。それは本当だ。心地がとても良い理由についてはよく分からないが、土地の関係かも知れない。

ファントム達の中に、一人マローネと同年代に思える女の子がいた。どうしてここにいたのかはよく分からない。マローネは相手の事情を見るだけである程度洞察は出来るが、それでもあまり複雑なことは分からないからだ。

魔術師用のローブを身につけて、いわゆる三角帽子を被っている所からして、ネフライト(術者)階級の人間らしい。

ネフライトは、回復系の術者はヒーラー、攻撃系の術者はウィッチやウィザードと呼ばれる。更に格闘戦闘能力を持っている場合、ミスティックと呼称されることもある。

特殊能力は無いものの、独自の修行で魔術を身につけて、社会的に大きな貢献をしている人間は、ネフライトと呼ばれてセレスト(貴族)に次ぐ社会的地位を認められる。ネフライトは若くても年老いていても周囲からもてはやされるからか、妙に気取っていることが多くて、上から目線で物を言うことが多い印象がマローネにはあった。場合によっては、自分たちは世界で一番偉いとさえ思っている事さえあるようだ。高位のミスティックになると、宗教団体を取り仕切っていることもあるようだから、無理も無いのかも知れないが。

だが、その女の子は、どうも妙にひょうきんな雰囲気があって、気取ったところが無かった。

マローネと一瞬だけ会釈をすると、他のファントム達と一緒に、ガラントにつれられて消えていく。

実は、これでよい。

多くのファントムは、大体の場合、土地に縛られてしまっていることが多いのだ。その土地から離してやると、自分がどうして現世に留まっていたかを忘れて、やがて自然に輪廻の輪に戻っていくことが多い。

それでも駄目でも、霊体にとって心地よいお化け島にいれば、しばらくすれば怨念や未練を忘れて、輪廻の輪に戻れることが多い。其処までしてもまだ駄目な場合は、ゆっくり時間を掛けるか、或いは未練の元を断ち切るしか無い。

その代表例が、アッシュだろう。

アッシュを見上げる。

そういう日が、いつか来ることは分かっている。だが、アッシュには、本音から言えば、消えて欲しくない。

輪廻の輪に戻る事が、正しいことだと分かっていても、だ。

ファントム達を輪廻の輪に戻すことは正しいのだろうかと、マローネは思う。だが、消えるとき、ファントム達がとても幸せそうな顔をしていることを、マローネは目撃している。この世に留まり続けているファントム達が、怨念や妄念で苦しんでいることを同時に見ているマローネとしては、それから解放してあげたいと思うのだ。それに、本能的にも、分かるのである。その方が幸せなのだろうと。

「マローネ、報酬を貰いに行こう。 相手が何者であれ、島荒らしを追い払った事は事実だ」

「うん。 あんなに怖がらなくてもいいのに」

「マローネの力は、摂理を曲げるほどのものだからね……」

悪霊憑きと呼ばれ、差別され恐れられる力。

マローネの受ける差別は、決して主体性が無いものではない。どれほど凄まじい能力者でも、風を起こしたり氷の塊を振らせたり、己の肉体を強化したりと、術式の域を超えていないものなのだ。

マローネの使っているものは、奇跡に属するほどのもの。

ましてや、この世界で、悪霊と言えば。

「行こう、マローネ。 ああ、ガラントさんが言っていたように、いつでもバッカスさんをコンファインできるようにしておくんだよ。 まだベリルがいるかも知れないからね」

「分かったわ」

あとは、報酬を貰うだけ。

それが一番大変だと言う事は、マローネも分かっていた。

 

村では、相変わらず敵意に満ちた視線が、マローネを待っていた。

バッカスがすぐ側で、唸り声を上げている。

「マローネ。 オレ、何時でもタタカエル」

「うん。 大丈夫だから、ね」

バッカスはあまり自己主張をしない。

それがこれほどのことを言うということは、よほど危険なのだと、マローネにも分かる。だが、今はコンファインに頼ってはいけない。

もう殆ど顔も覚えていないお父さんとお母さんは言っていた。

お前は、その能力で、いろいろな人達から迫害を受けることになるだろう。

だが、決してそれを憎んではいけない。恨んではいけない。

みんなにどれだけ嫌われても、みんなを脅かしてはいけない。むしろ、みんなを好きになろうと、みんなのためになろうとしなさい。

そうすれば、いずれはきっと、みんながお前を好きになってくれる。

実際に、お母さんはそうして、悲しい運命を逃れ、お父さんと一緒になったのだという。それならば、マローネだって。

村長は、さっきより明らかに非好意的な視線をしていた。

マローネが歩み寄ると、ぞんざいに金貨の袋を渡してくる。袋は、大変に軽かった。

中に入っていた金額を改めると、相場の三分の一が良いところである。しかも入っている質が低い金貨のことを考えると、更に実際の金額より安いと見て良さそうだった。

「あの、これは……」

「すみませんなあ。 ベリルどもに荒らされたおかげで、村の財産はとても寂しいことになっているのです。 それだけではない。 荒れ果てた村を復興するためにも、今はいくらでもお金が必要な状態でしてな。 これしか払えんのです」

「マローネ。 これは正統な報酬じゃ無い」

アッシュが言う。

村はさほど荒らされてもいない。実際に打撃を受けたのは、既に枯れかけている宝石の鉱山で、しかもそちらはマローネが見たとおり殆ど何年も前から手つかずの状態だったのだ。側に暮らしている人達も無気力で粗末な格好で、島の経済にろくに貢献していないのは明らかだった。

多分、ガラントがいたら同感、とでも言うだろう。

「言うんだ、マローネ。 ちゃんとした報酬をくださいって」

「……」

悩む。

だが、マローネは。この村長を信じる事を選んだ。

「またのご利用をお待ちしております」

「おお、すまないな。 また困ったときには、声を掛けさせて貰うよ」

マローネの眼前で、ばたんと戸が閉じられる。

ぴたりと扉にくっついたバッカスが言う。

「誰が悪霊憑きに正統な報酬なんぞ払えるか。 ソウイッテル」

「ううん、良いの。 島が荒らされて大変だって言うのも、嘘じゃ無いはずだから。 それにみんな幸せになったんだから、これで良しとしましょう」

「マローネ、それはお人好しって言うんだ。 こういうときはぴしっと言わないと」

「行こう、アッシュ」

分かっている。

分かっているんだ、そんなことは。

自分が差別されていることも。

今の村長のようにもっと狡猾な人がいて、そういう人は差別を利用して、更に悪いことを平気でするって事も。

でも、それでもマローネは。

人を信じたい。

波止場に歩いて行く。

村に来たときに見かけた子供のオウル族がいた。

小さくて可愛い子供は、手に飴を持っていた。オウル族の翼は半分手のようになっていて、器用にものを掴むことが出来るのだ。その分梟と比べて飛翔力は低下して、短時間しか飛ぶことが出来ないのだが。

腰を落として、マローネは視線の高さを合わせる。

子供と話すときにそうするべきだと、知っているからだ。

「どうしたの?」

「あげゆ。 悪い人、おいはらってくれたから」

「まあ。 ありがとう……」

子供が、いきなり視界から消える。

見れば、鬼のような形相の母親が、子供を抱え上げていた。シーッと音がする。オウル族が、敵に対して立てる警戒音だ。

「化け物っ! うちの子に近づかないでっ! この子にまで悪霊が取り憑いたらどうするのっ!」

そのまま、母親が走り去る。

あとには、飴が一つ、落ちているだけだった。

いつかきっと、皆がマローネを好きになってくれる。

その言葉が、頭の中で、反響し続けていた。

それからどうやってボトルシップに乗ったのか、覚えていない。アッシュも、何も言わなかった。

お化け島に着いた頃には、日が暮れていた。

今日の仕事は、あまり報酬を貰えなかった。でも、報酬は貰えたし、石を投げられることも無かった。

怪我もしなかったし、怖い目にも遭わなかった。

それなのに、どうしてだろう。

心が、切り裂かれたように痛むのは。

自室に入ったあと、マローネは枕に、自分の涙を吸わせた。

誰にも泣いているところは見せない。そう決めた。

だから、マローネは声を殺して泣く。

いつか、きっと。みんなが自分を好きになってくれる。そう、信じているから。

たくさん泣いたあとは、また頑張ろう。

そう決めて、マローネは、涙を流した。

 

4、黄昏

 

何も言えなかった。

マローネが一番苦しんでいるときに、何も出来ない自分に、アッシュは何度憤っただろう。

それなのに、今日も何も出来なかった。

砂浜で、打ち寄せる波を見つめる。

この辺りは海が穏やかで、水深も浅いから、波はとても静かだ。前にマローネが暮らしていた孤児院の辺りは、この真逆の環境だったのだが。

少し前に戻っていたガラントは、この結果を正確に予想していたらしい。戻ってきたアッシュを見て、何も文句は言わなかった。

人間だったら酒が飲めるのにと呟いただけで、あとは一人にしてくれた。

「は。 難儀なもんさね」

誰かの声。

振り返ると、石産み島にいた、ウィッチのファントムだった。

石産み島から来たファントム達の中には、既に消え始めている者もいるようだ。それなのに、彼女は死を自覚しているにもかかわらず、平然と飄々としている。ここへ来たのも、多分おもしろ半分で、だろう。

アッシュは知っている。

こういうタイプが、一番深い闇を奥に抱えているという事を。悪人と世の中で言われているような奴は、大体が小悪党だ。この女は違う。筋金入りの悪党という奴は、大体表には本性を見せない。

今のマローネが相手にするには、ちょっと厄介かも知れない。一見ひょうきんな雰囲気を持ち、人なつっこそうなこの女は、間違いなく大悪党だった。

「そんなに警戒しなくてもいいのに。 取って食いやしないってば」

「どうだかね。 一人にしてくれないか」

「あの子の事?」

「君には、関係ないだろ」

言い方がかちんと来たのか、ウィッチは顔を近づけてくる。

そういえば、若くして死んだ上に、あまり女性に縁がある暮らしもしていなかったアッシュは、異性に好かれたことが無い。

「悪いけど、あたしって、見た目よりずっと年取ってるの。 いわゆるアンチエイジングって奴でね。 だから、年下扱いしないでくれる、坊ちゃん?」

「分かった。 年下扱いしたのは悪かったよ」

「よろしい。 あたしはコリン。 あんたはアッシュだっけ?」

「ああ。 コリンさんは、どうしてこの島に?」

難儀そうな人間関係が面白そうだからと、身も蓋も無い答えが返ってきた。

実のところ、コリンは石産み島にマローネが来たときから、後を付けてきていたらしい。それで、その結論を出したというのだから。性格の悪さは折り紙付きだ。

元々アッシュは異性がそれほど好きでは無い。というか、若い頃から性に対する興味そのものが希薄だった。

思春期の頃も、周囲が女の話ばかりしているのを見て、辟易した記憶が強い。クロームになった頃、周囲につれられて何度か風俗店に行ったことがあるが、それ以来面倒くさくなって女には接していない。別に行為自体気持ちいいとも楽しいとも感じなかったからだ。

好きな相手が出来た事はある。だが、それがどうしても性欲には結びつかなかった。その分打ち込んでいた武術の腕前に関しては、それなりのものが得られたのだし、恐らく殆どの人間は性欲に意欲を削り取られてしまうのだろうなと、何となく納得した覚えがある。

その後ファントムになってからは、更に性に対する意識は弱くなった。

だから、コリンに近づかれても、はっきりいって嫌悪しか感じなかった。マローネに対する感情も、恋愛ではなく家族愛だろうとも思っている。

コリンはアッシュの嫌悪を青年の赤面とでも感じたか、ぺらぺらと喋りはじめる。

「ありゃあ、自縄自縛って奴だ。 限りなく正しいけど、それが故に限りなく自分を苦しめて、深みにはまっていくタイプだね」

「だから?」

「そしてあんたは、何らかの理由でマローネを守ることを決めてる。 それが故に、マローネに引きずられて苦しんでると」

「そんなことは分かってる」

趣味が悪い女だと、アッシュは思った。

事実、コリンの分析は的を得ている。この辺りは、長い時を生きてきたが故だろう。

話に聞いているのだが、ネフライトは決して安泰な階級では無いそうである。元々魔術は個人の素質に依存するところが強い。誰でも使えるが、威力に関しては大きな個人差が生じるからだ。

マローネは回復系の魔術に相当な素質があるが、それは奇跡すら可能にするシャルトルーズを使いこなせるように、元々の魔力が桁違いに強いからだ。そういえば、ジャスミンもヘイズも相当に魔力が強かった。

このコリンも、多分才能でネフライトとして生きていたのだろう。

ただし、順風満帆とは言いがたかった。それは、このねじ曲がった性格を見ていれば分かる。

「それで、コリンさんはマローネが苦しむのを、見て楽しみたいってわけですか」

「それもあるけど、研究したいかな」

「何……?」

「そう怖い顔をしなさんなって。 別にあの子を実験動物扱いしたりはしないよ」

アッシュの隣に座り、膝を抱えたコリンの顔に、影が差す。

「この世界にはね、いくつか解らない事があるんだ。 あたしは元々知識欲が強くて、それでネフライトになったようなもんだからね」

「何を、研究したいんですか」

「サルファー」

「っ!!」

絶句したアッシュが立ち上がる。

だが、それを見て、コリンは薄く笑っただけだった。

「すわんなよ、良い男がみっともない」

「あんた、何を考えてる、んですか」

「まだこれは仮説の段階なんだけどね。 この世界は、あまりにも不自然な部分が大きいんだよ。 サルファーってのは、災厄の象徴であると同時に、どうしてこの世界が成り立っているかの鍵になる存在だって、あたしは思ってる」

アッシュは、背筋に悪寒が這い上がるのを感じた。ファントムになっても、こういう生体反応的な感覚は健在である。

この女は、一体何を考えている。

サルファーを知らない存在なんて、イヴォワールにはいない。

何十年かに一度現れて、世界に大規模な破壊をもたらし、そのたびに大量のヒトを殺しては去って行く化け物。現れた後は歪められ、この世の理そのものが破壊されて、全てを悲しみと混沌の坩堝に叩き込んでいく。

破壊神とも邪神とも言われるが、その正体はよく分かっていない。はっきりしているのは、それ自体がとてつもなく強大である事、どうやら配下をヒトに憑依させて操ることが出来る、という事くらいだ。

だから、この世界では霊そのものが恐れられる。悪霊はなおさらに。サルファーが現れる前には、その配下を用いて、世界を混乱に落とすと言われているからだ。事実、それを裏付ける証拠はいくらでもある。サルファーの配下に憑依されて、操られたという報告例も、多数あるそうだ。

悪霊とサルファーの関係性については、アッシュはよく分からない。だが、民間では同一と信じられることが多いらしい。

30年前、スカーレットなる性別さえ分からない勇者によって、サルファーは倒されたとされている。だがその配下が現れたという報告はそれからも何度かあり、現に8年前に、それは大規模な災厄をもたらしている。そもそもサルファーは歴史上何度となく倒されたという報告があり、そのたびに現れていることから、死なないという説が根強いのだ。

アッシュも、8年前の異変については、様々な知識がある。

なにしろ。

アッシュは、その場に居合わせたのだ。ジャスミンと、ヘイズと共に。

忘れられるわけが無い。その時のことは。

見下ろす。アッシュは、場合によっては。この女を、滅ぼさなければならない。ファントム同士なら、戦える。

相手は手練れのネフライトだが。それでも、やらなければいけない時は、ある。

「マローネに、何か危険を及ぼすようなら……許さないからな……!」

「目が据わってるよ−? 青年」

「僕は本気だ」

「フ。 安心しなよ。 あたしの目的は、サルファーの根源的な抹殺だ。 そうすれば、この世界で悪霊憑きが恐れられる理由も無くなるんじゃないのかい」

そうは思えない。

人間の愚かさは、一朝一夕で消えるようなものじゃない。それはアッシュが一番よく分かっている。

だが、そうしないよりはマシだ。

「あたしもあの子に興味がある。 そして、研究自体は、別に人体実験を伴わない。 ならば、利害は一致する。 違わないかい」

「……」

「それに、あの子はコンファインの最中、戦えるようには見えないねえ。 それにネフライト出身のあたしがいた方が、戦闘では有利に思えるが?」

その通りだ。

ネフライト崩れのベリルとクローム時代に戦ったことがあるが、凄まじい火力を武器に押してくる相手に、想像を絶するほどの苦戦をした。攻撃系の魔術の破壊力は侮れない。術者の技量によっては、単独でドラゴンを相手にすることも可能だとか聞いている。

今後、相手に術者が出てこないとも限らないのだ。

この女が、嘘をついていない保証は無い。

だが、利害が一致しているとすれば。むしろ、悪人の方が、信頼出来るかも知れない。

マローネは疑うことを知らない。

否、疑うことを禁止している。この女が指摘して見せたように、自縄自縛しているのだ。

それをアッシュは悪いことだとは思わない。尊いことだと思う。

だから、その道を行くためには、アッシュが道に生えている茨を取り除き、小石を避けなくてはならないのだ。

「分かった。 良いだろう」

「やーっと理解できたか。 とにかく、利害が一致している間、あたしは味方だ。 よろしくねえ、少年」

けたけたと笑うと、コリンは闇に消える。

ファントムとしては、闇の方が心地よい部分は確かにある。だが、アッシュは、多分泣き疲れて眠っているだろうマローネのことを思うと、そんな気分にはなれなかった。

 

海上。

粗末なボトルシップの上で、呆然としているウェアウルフの青年がいた。

青い毛並みを持つ彼の名前は、ビジオという。

いわゆる島荒らしを生業とするベリルである。ベリルという自覚は無かったのだが、そう呼ばれているのを知ってかっこいいと思って、周囲にもそう呼ばせるようになった。

彼は、不幸だった。少し前に、噂の悪霊憑きに遭遇してしまい、しかも悪霊を使う恐ろしい技を間近で見せられて、恐怖のあまり逃げ出してきたのだ。部下は全員掴まってしまったようで、また一からやり直しになってしまった。

どうしてこんな事になったのだろうと、筏も同然のボトルシップの上で、呆然としてしまう。

閉鎖的なウェアウルフ族の村は、ある島の密林の奥にある。

其処では、男として生まれると、村を出なければならない。そして別のウェアウルフの村を探し出し、結婚相手を見つける。何度か戦いをして、地位を決めると、その地位と同じ女と結婚して、子孫を残すのだ。

近親交配を避けるための工夫である。

上手く行けば、若くして村長になる事も出来る。

実際問題、腕力だったら、ビジオは村でも有数だった。だから、村を出るときは、期待に胸を膨らませていたものである。

だが元々おっちょこちょいのビジオは頭が良くなかった。何年かウェアウルフの村を死ぬ気で探し回ったが、痕跡さえ見つけられなかった。腕力だけは強かったが、原始的な生活をしているウェアウルフ族は、むしろ賢い者を求めていたのだろうと悟った頃には、すっかり大人の体になってしまっていた。

そうなると、ウェアウルフ族は冷淡だった。

やっと見つけた村では、門前払いを喰らった。そんな年になって村に辿り着くような奴はいらないと言われて、かっとしてそいつを殴り倒して。気がつくと村の男達総出で追いかけ回されていた。

腕力が優れていても、武器を持って来る相手には、どうにも出来ない。

死ぬ気で逃げ回って、やっと島を逃げ出して。他の村も見つけたが、どこでも同じような反応を返されるばかりだった。

戦士としての一族に産まれたのだから、ビジオだって分かっている。

狩に役立たない奴は死ぬしか無い。

村のために働けない奴は、生きる資格が無い。

だけど、ビジオは生きたかった。馬鹿な奴はいらないから死ねというのを、受け入れたくは無かった。

外の世界を放浪しているうちに、たまに同じような境遇のウェアウルフ族に会うこともあった。

彼らも大体同じような境遇で村を追い出されたらしかった。いずれのウェアウルフ族も、みんなすさんだ生活をしていた。

やがて、ビジオは気付く。

別に村に受け入れて貰えなくても、外で暮らせば良いのだと。

幸いにもと言うべきか、ビジオの腕力は、並の人間族やオウル族相手なら、凶器も同然のレベルだった。キバイノシシ族でも、相当な強者で無いと相手にはならなかっただろう。

ベリルをはじめてみると、簡単に儲かるので驚いた。今まで自分を馬鹿にしていた奴をぶん殴って、お金を奪い取るのは快感でさえあった。ただし、傭兵団が出てくると手も足も出ないから、さっさと逃げるしか無かったが。

だが、死ぬ思いをして逃げ回った経験が、ビジオを恐怖から遠ざける力になっていた。

だから、油断していたのかも知れない。

来たのがクローム一人と聞いて、勝てると錯覚してしまった。まだ稼げると、計算してしまった。その計算は、遠目に見た相手が、子供だと知ったとき、なお上乗せされてしまった。

まさか、実体が、あんな化け物だったとは。

「ちくしょう、せっかく此処まできたのによお……」

悔しくて、ビジオは筏を叩いた。丸太が砕けそうになって、慌てて撫でる。

一からやり直しというのは、しんどかった。

ラファエルの名を騙れば、馬鹿が勝手に恐れてくれることはよく分かった。ラファエルなんて見たことも無いが、それでも良い金づるだったのに。

酒が飲みたい。

ウェアウルフ族の女は抱けないが、金さえあれば大形の狼くらいなら何とかなる。生殖器の構造が大体同じなので、性欲の発散は難しくない。

それに、美味しい肉だって食べたい。

島荒らしに失敗し、部下達まで失った今、出来ることはもう無い。

いつの間にか、寝入っていた。

気がつくと。

周囲に、何かおぞましいものが、たくさんいるのが分かった。

恐怖のあまり、声も出ない。

それは、まるで口だけの生き物。顔がもう、口だけしか無い。それが空中に浮いている。そして、此方を見ているのだ。目も鼻も無いのに、どうしてかそれが分かる。

聞いたことがある。

これこそ、悪霊。こんな姿をした奴らが、昔村にも現れて、それで。大勢の仲間が襲われて、そして死んだ。

歯の根が合わない。

此処は海上。悲鳴を上げたところで、助けてくれる者など、いるわけが無い。ましてやビジオを助けるものなど、いるだろうか。

たくさんいるそいつらが、一斉に飛びかかってくるのを見て。

ビジオは、ああ死んだなと、思った。

 

(続く)