絶え間なき恐怖
序、恐怖の始まり
その日は朝から漆黒に包まれていた。朝四時に目が覚めた私は、突然鳴り響く恐怖の権化にすくみ上がっていた。
それは目覚まし時計というあまりにも恐ろしい代物なのだ。
私を叩き起こして学校に行かせようとする。
両親はこの時間にはどうやっても起きてこない。
そして私は自力で起きるしかないのだ。
目覚まし時計からは恐怖の音が鳴り響き続けている。
それはさながらのこぎりにて生きたままの人間の首を切断するかのような音であり。私は悲鳴を上げて起きると、布団の中で震え上がっていた。
たっぷり十分ほど恐怖の音を奏でると、目覚まし時計は黙る。
私は慎重に呼吸を落ち着かせながら。
ゆっくりと目覚まし時計に手を伸ばす。
ぶるぶると震える手が、目覚まし時計の恐ろしさを物語るようである。
がちり。
不意に音がしたので、私は跳び上がるかと思ったが。
しかしながら、目覚まし時計の方が怖いので、何とか生唾を飲み込むだけで耐える事が出来た。
荒い呼吸が漏れる。
震える指先を伸ばすと。
おぞましくもカエルの形をした目覚まし時計のスイッチに触れ、止める。
危ない所だった。
もう少しで、またあのおぞましい音が鳴り始めるところだった。
心臓がばくばく言っている。
恐怖に首をすくめながら、周囲を見回して、やっと電気のスイッチを発見。震えながらリモコンを、辺りをまさぐって探す。
見つけた。
スイッチを入れると、灯りがつくが。
なんといきなり、窓の外でけたたましい声が響き渡った。
思わず私が悲鳴を上げそうになると、驚くべき大きな羽音と供に何かが飛び去っていく。
何かの鳥がいたらしいが。
私にはその正体が分からなかった。
目覚めた時からコレだ。
いつも私は怖い目にばかりあうのだけれど。
今日もロクな目にあいそうになかった。
半泣きになりそうな状態で、パジャマで洗面所に。
其所には恐ろしい歯ブラシが四本も並んでいて、一本は痛んでいるのでもう少しで捨てる予定だ。
がたりと音がしたので、背が伸びる。
ゆっくり、ゆっくり振り返ると。其所には何もいなかった。
立て付けが悪い洗面所の扉が、ちょっと傾いだだけのようだった。
深呼吸。
荒い呼吸は収まらない。
恐怖に心臓を鷲づかみにされたまま、歯ブラシを掴んで。必死に歯を磨く。何で四時に。それは私が部活とか言う非人道的行為に手を染めているからだ。
なお、私は部長なので。
いつも最初に部活に出なければならない。
歯磨きを終えて、鏡を見る。
すくみ上がるような恐怖だ。
まだ早朝、いや深夜である。
深夜の鏡は例えようがないほどに恐ろしい。
部長だから普段は舐められるわけにはいかないし、情けない声も出せないので、家でせめてこうやって普段の分も怖がっておくのだけれど。
その分家では恐怖がぶり返して仕方が無いのである。
呼吸がまた乱れる。
後ろから、何かが現れて。
触手を伸ばして、私の首を掴んだりとか。
巨大なハサミを持った怪人が、突然襲いかかってきたりとか。
そんな想像をして、一歩も動けなくなってしまう。
涙目の私だが、必死に唇を噛みしめて、恐怖を押さえ込むと。
自分で適当に朝食とお弁当を作る。
この作業が難儀で。
うちの全く料理が出来ない母親と。
全く仕事しか考えていない父親のせいで。
料理を作る技術だけは無駄に高くなり。
その結果「完璧超人」とか呼ばれて部長を押しつけられ。
正体がばれるのが怖くて慎重に行動している内に勝手に誤解されて。
いつの間にか「不動の部長」とか「学園の女王」とか呼ばれている。
訳が分からないが。
そんなものである。
料理を手早く済ませて弁当箱に詰め込むのだが。
この弁当箱が、かなり古くなってきているし。
無機質なので怖い。
本当はなんか可愛い弁当箱を買いたいのだが。そんなものを買ったら、きっと塗装がはげたりしたら凄く怖くなる。
街道脇にある、塗装のはげたタイヤの笑顔を思い出して、私は身震いすると。
震える手で、卵焼きとかウインナーとか入った弁当箱を閉じるのだった。
弁当を鞄に詰め込むと、教科書とかをチェック。
全て揃っている。
もしも何か忘れた場合、私の場合は誰かから貸して貰える可能性とかは皆無だ。学校では完璧超人とか勘違いされているので、周囲は絶対に話しかけただけで恐怖に逃げ散る事だろう。
呼吸を何度も整えながら教科書をチェック。
授業の表もチェック。問題なし。
よし、家を出よう。
家を出ると、家の前になんと鳩が落ちていた。鴉が殺したのだ。ひっと小さな悲鳴を零しそうになる中、朝日が血だらけの鳩の死体を照らす。
獲物を横取りされてたまるかと言わんばかりに鴉が来ると、大きさ的にも大して変わらないように見える鳩の死骸をむんずと掴んで、飛んで行った。
私が震えて動けないでいる前を、ごっと音を立てて恐ろしいものが通り過ぎる。
車だ。
そこそこ都会そこそこ田舎の中途半端な場所だから、家の前を道路が通っている。
だからこんな時間にも車が通っていくのである。
生唾を飲み込むと、私は無駄に長い足を踏み出す。身長174センチとか、無駄に伸びた背。そのせいか運動神経は良いのだが、心臓は兎どころか蚤である。周囲からは「モデル並み」とか呼ばれる背格好で、自覚はないが顔の方も良いらしい。
そのせいで何故か女子にはモテモテ。
男子は恐れ多そうに見ているだけで全くよってこない。
たまによってくる奴もいるが、「目が怖い」とか言ってすぐに逃げていく。
こんな風に言うと怒られるかも知れないが。
逃げたいのはこっちである。
何もかもが嫌で仕方が無い。
かといって、今から家に閉じこもっても未来はないし。
何よりあの生活力が皆無の両親だ。
閉じこもっても、最大限の不幸しか見えない。
学校に向かう。
途中で、凄まじいスキール音と供に、爆走してくる黒い車。横をガンガン訳が分からない音楽を垂れ流しながら通り過ぎていく。
一瞬だけ見えたが、乗っていたのは馬鹿なイキリ散らかした学生では無くて。世も末なことにいかにもアレな服を着て髪を染めたおっさんである。今何時だと思ってるんだと思ったが、無視。
この辺りは半端に田舎なせいか、ああいうのが多い。
当然事故も多い。
最近、この辺りの角で、あの手のがトラックと正面衝突。一時停止を守らなかったからである。
当然車体はぐちゃぐちゃ。
乗っていた何をしているかよく分からないおっさんと、その愛人らしいのがミンチより酷い有様になった。
丁度その場に居合わせてしまったので、私は色々と悲しくてならない。
トラックの運転手が気の毒でしょうがない。
ちなみに花を供える人もいない。
まあそうだろうなとしかいえなかった。
凄いブレーキ音がした。
首をすくめそうになるが、外ではあくまで静かに冷静に。
無表情のまま歩く。
さっきのなんか分からない大きな車が、カーブを曲がり損ねたらしく、派手にコンクリ壁に片側を削られていた。
誰にも怒る事も出来ず、おっさんが車から飛び出してきて、呆然と立ち尽くしていたが。多分通報があったのだろう。お巡りが来る。
そうなると、さっと青ざめるおっさん。
お巡りがパトカーを止めて、何人か出てくるのを横目に、私はさっさと通り過ぎる。
あんなのに関わっていられるか。
わめき始めるおっさん。
だが一緒に交通標識もなぎ倒していたらしく。
更に法定速度を40キロもオーバーしていたようで。
ついでに免許も持っていなかったらしく。
まあトリプルコンボで逮捕のようだ。
後ろでそんな風なやりとりが聞こえる。
どうでもいい。
まああの様子では、お巡りの世話になったのも一度や二度では無いだろう。はっきりいってもう刑務所から出てこないでほしい。
高架下を通って、駅の近くに出る。
相変わらず治安が悪いなあ。
思わず呟きそうになるが、無視。
どこの国から来たのか分からないのが、獲物を物色している。
薬か何かの売人だろう。
お巡りもいるが。
はてさて、役に立つかどうか。
駅に入って、電車を待つ。
電車の中にまでは追ってこない。
というか、そもそも私は、あの手のに声を掛けられたことがない。
後輩とか曰く、何か近寄るなオーラとか出ているそうで、それが人を遠ざけているのだとか。
こっちは怖くて近寄らなくてほしいと思っているだけなのだけれど。
世の中には不思議な話もあるものである。
いきなり電車が急停車。
運動神経は鍛えているので、別に転ばないが。
鋭い音と共に電車が急激に止まったので、流石に口をつぐむ。
数分、停止していたが。
電車の中で、やがてアナウンスが流れる。
アナウンスのための装置が古いためか。
声がやたらと不気味に軋んでいた。
「えーあー。 前の踏切で、立ち入りがありました。 安全が確認できましたので、出発します」
立ち入りか。
一時期踏切を無視して渡る人間が目立ったとか言う話を聞くが。
そういう類だろうか。
あの手のは、自分が格好良いとでも思ってやっているのだろうか。
電車に轢かれたら即死確定なのに。
兎も角無表情を保つ。
そのまま、電車は多少遅れながらも進み。最終的に学校の最寄り駅に着いたときには、遅れを取り戻していた。
三十分揺られるのは少し疲れる。
だが、本当に疲れるのはこれからだ。
学校まで十分。
距離そのものは短いが、坂がきつい。
この坂で転んだら。
登校にはローファーを使っているから、耐えられないかも知れない。
転んで、そのまま道路かなんかに飛び出して。
さっきの免許も持ってないようなおっさんが運転しているような車が突っ込んできて、ぐしゃぐしゃに。
ぞっとする。
前にトラックに突っ込んで、ミンチより酷い状態になったアホ二人の死骸を思い出してしまう。
あのアホにはまるで同情できないけれど。
自分がああなるのは御免被る。
必死に呼吸が乱れないように整えながら歩く。
坂が本当にきつい。
いきなり飛んできたのは雀蜂である。雀蜂は威嚇するように鋭い羽音を立てながら、やがて私を無視して飛び去っていった。
思わず悲鳴を上げそうになったが。
きっと悲鳴を上げていたら、雀蜂の方が吃驚して、逆に襲いかかってきたかも知れない。
やっぱり嫌だなあ。
静かにしているのが一番だ。
ため息をつくと。
そのまま、学校へ。
朝早すぎるが、一応校門はもう開いている。
うちの部活では私が一番だけれども。他の生徒を考えると、別にそんな事はないという訳だ。
まずは教室に行って、鞄をしまう。
その後は部室棟に出向く。
途中、職員室で鍵を受け取るが。私の場合はいつも必ず最初に来るので顔パスである。
二年生の何人かや、副部長にもやり方は教えてあるのだが。
基本的に誰も私より先に来ないので。私だけがいつも鍵を受け取っている。
まだ早朝の学校は明るいと言うより薄暗く。
教室も職員室も何だか空気が湿っていて。
嫌だなあと私は思うばかりだが。
それでも、そんな事を顔に出すわけにはいかなかった。
「平坂ぁ」
「何でしょうか」
ナマズのような顔をした、職員室の主のような教頭に言われる。
いつも威圧的に声を掛けて来るので、大嫌いなおっさんである。
「いつも一番に来て感心だなぁ。 お前の爪の垢でも他のアホ共にも飲ませてやれェ……」
「機会があったら」
「そうしろォ……」
兎に角恐ろしい声で何やらアドバイスらしきものを口にすると。
教頭はもう興味を無くしたように背を向けた。
助かった。
ナマズは自分と同じくらいのサイズの魚なら、食ってしまうと聞いた事がある。あのナマズ顔が、何度他の教師を襲って丸呑みにする姿を想像して、ちびりそうになったか。
怖いので、さっさと職員室を後にする。
その様子を見て、周囲は「きびきびと動いている」と褒めるのだが。
こっちとしてはただ怖いので急いでいるだけである。
部室に到着。
本当は手芸部とか料理部とか、ハイソなのに入りたかった。
実際得意とまでは言わないけれど、料理はいつも三人分作っている。それなりの技術は持っている。
だが一年の時。
私を見た途端に、わっと先輩に囲まれて。
わっしょいわっしょいと連れてこられたのが此処だ。
此処で、入部届を無理矢理書かされて。
そのまま何故かエース扱いにされ。
そして今では部長である。
此処は陸上部。
私は短距離走専門だが、100メートルは12秒代程度。日本記録との差は1秒少しだけれども。
その1秒がとてつもなく高い壁なのだ。
備品などをチェックしていると、容赦なく時間が過ぎていくが。
この部屋は幽霊が出るという噂で。
さっさと日中になってくれないかなと、いつも雑念を浮かべながら作業をしているのだった。
ちなみに三年間此処で着替えとか雑用をしていて。
幽霊を見た事は一度もないが。
しかしながら、怖い者は怖いのである。
私は幽霊も嫌いだ。
いるかいないかでいえば、「いないでほしい」派である。
物好きなのには「いた方が面白い」派なんているそうだが、あんなのがいたら冗談じゃない。
中には「いるわけがない」とか調子に乗っている者もいるけれど。
私は昔読まされた科学雑誌で、人間の科学力なんてどーってことも無い事を知っているので。
とてもではないけれど、そんな事を言い切ることは出来なかった。
始業までもう少しというタイミングで、やっと副部長が来る。
別に副部長なんだから、もっと堂々としていれば良いのに。
私があらかた作業を終わらせて、備品のチェックをしているのを見ると、まるで後輩のように頭をびしりと下げた。
この勢いの良い挨拶とか大きい声とか苦手だ。
背筋が思わず伸びそうになる。
だけれども、それについては一切口にしない。
「部長ッ! おはようございますッ!」
「おはよう。 備品のチェックはしておいたから、其方でも軽く目を通しておいて」
「了解ですッ!」
此処は何かの強制収容所か。
思わずぼやきたくなるが、大慌ての様子で備品をチェックし始める副部長。少し遅れて、二年や一年も来てチェックを開始する。
ミスは、新しくは見つからない。
「流石は部長ね。 ミスしたところ見た事がない」
「しっ! ミスを見た生徒が……」
「……」
口を押さえている後輩。
頭が痛くなる話だ。
何でも噂で、私のミスを見つけた生徒が、半殺しにされたというものがあるらしい。
誰が。半殺しに。するか。
抗議したい所だが。
いちいち反応していたら、噂は大きくなるだけだ。
だから黙っておく。
溜息くらいつきたいが。
この学校では、ため息をつくと失礼に当たるとか言う。マナー講師とか言う連中が作り出した謎ルールのせいで、ため息をつくのがタブーにされている。ストレスがたまるが、仕方が無い。
朝練に皆を出す。
私も朝練に出るが、誰も私を超えられそうなのはいない。
一応私は短距離専門だが、長距離でも私以上の記録を出せる生徒は副部長含めて一人もいない。
情けない話である。
朝練を終えると、それぞれ着替えて授業に出る。
幸いだが。この学校では、部活を授業に優先させるような愚行はしていない。
まあ私は一人だけ他の誰よりも早く部活に出て、誰よりも遅く部活に残っているが。
それを誰かに強要するつもりはなかった。
1、恐怖の時
授業が終わると、部活の時間が来る。
体育会系の部活だから、皆大声を出してランニングをするのだが、これがとにかく苦手である。
大きな声。
側で聞くのはとても嫌だ。
でも聞かなければならない。
更に、夕方くらいになると、また虫が出る。
別に虫は嫌いじゃないけれど、校舎の外だと遭遇率が上がるし、雀蜂とかの危ないのもいる。
わざわざ危ない虫に近寄りたいと思う程私は酔狂じゃないし。
出来れば刺されたくも噛まれたくもなかった。
トラックを十周ほどした後、軽く体をほぐして、練習をする。
これから日が暮れるまでが勝負だ。
それぞれ得意分野に分かれて練習を開始。
残念ながらスポーツというのは残酷な分野で。
まず才能がないとどうにもならない。
努力がものを言ってくるのは才能があった上での話。
基礎体力とか動体視力とか含めて。
才能がまずないと、どれだけ努力しても一切合切無駄になってしまう。
戦争とか芸術とかも同じらしい。
とはいっても、幾ら才能があっても、努力を続けなければどうにもならないのも事実である。
事実野球で伝説を作ったあのイチローは、努力を凄まじい量重ね続けて、メジャーリーグでも伝説に残る選手になった。
だから才能があるのであれば、努力は無駄にはならない。
そういうものだ。
うちの部では、最初にその才能がないタイプを弾く。
これを私はやる。
だから怖れられている。
血も涙もない悪魔のような部長だと。
こっちとしては、泣き出す生徒を前に、首を宣告するのはもの凄くつらいのだけれども。
部活なんてのは、下手をすると三年棒に振るし。
何よりも後に悪い影響をたくさん出す事になる。
だから、最初に駄目なものは駄目と言っておかないと。
その人のためにならない。
むしろその人を最終的に苦しめ続ける事になる。
私はそういう意味で恨まれ役を買っているのだが。
本当だったら教師とか、別の人にやってほしい。
何で恐がりの私が、こんな事をしなければならないのか。
下手をしたら逆恨みして、いつ後ろから刺されてもおかしくないのに。
そういうのがあるからとても嫌なのだけれども。
どうしようもない。
ともかく、部長なので。
憎まれ役を買わなければならない。
押しつけられた責任だし。
その責任は恐怖を伴うのだけれども。
それでも、どうしようもなかった。
自身の短距離のタイムを取る。
誠に不本意な話だが。
私は才能そのものはあるらしい。
短距離の記録は伸びる一方。
12秒後半だった記録は。
現在では12秒前半にまで来ている。
流石に12秒を切ることは出来なさそうだが。
この規模の陸上部の人間としては、充分過ぎるタイムである。
何本か100メートルを走って、それなりに好成績を出したので、後は体を温めて終わりにする。
後輩が何人か、後ろでひそひそと話をしているのが聞こえる。
嫌でも聞こえる。
「聞いた、部長アレでも手抜いてるって……」
「聞いたよ。 この間、別の学校の男子の陸上部の生徒がかっぱらいしたのを、捕まえたらしいね」
「そうだよ。 それもその人のベスト、百メートル10秒台だったって」
「部長人間!? 確か女子の日本記録、11秒ちょっとでしょ!?」
いや、まて。
まてまて。
思わず振り向きたくなるが、無視。
確かにこの間、不本意ながらかっぱらいを捕まえたのは事実である。そいつが男子校の陸上部の人間だったのも事実である。
だが其奴はそもそも最初にかっぱらいした店の人に盛大な足払いを食らっており、顔面からアスファルトに激しいディープキッスを噛ましていた。その状態から必死に逃げようとしたのを、私が怖がって突き飛ばし。
そしてすっころんだ所に、駆けつけた鬼のように怖いおっさんたちが集まって。
囲んで棒で叩き、囲んで棒で叩き、囲んで棒で叩いたのだ。
私は無言のまま、それを見ているしか無かったが。
確かにたまたま、スーパーの特売に私が向かい、その場に居合わせていなければ。あのアホ男子は逃げおおせていたかも知れない。
何だかお手柄だとかワッショイされたけれど。
私としてはちびりそうなほど怖かった。
飛び出してきた血だらけの男子生徒も。
その後繰り広げられた鮮血の宴もである。
というわけで此方は冗談じゃないとしかいえないのだが。
余計な事を言うと、更に余計な噂が広がりかねない。
中学の時はそれがあったので。
今では完全に口を閉じるようにしているのだ。
溜息を零しそうになるが。
とにかく我慢。
適当なタイミングで、生徒達を切りあげさせる。
うちの陸上部は正直大きな方ではなく、周辺の学校と比べても成績が良い生徒は多くは無い。
顧問の先生もそれほど経験は多く無いので。
私くらいしかエース級はいない。
一応国体に出たことはあるが。
それなりの成績をそれなりに上げただけ。
とても日本記録には届かない。
だが、顧問の先生が、嬉しそうに来る。
その笑顔が、まるで獲物を前にした蛇のようなので。私には怖くて仕方が無いのだけれども。
「平坂くぅん」
「はい」
「今日も素晴らしい記録だったねぇえ。 この分だったら、今年の、最後の国体では良い記録が出そうだねぇえ」
「はい」
視線をそらしたいが。
そうもいかないだろう。
教師が咳払いをする。
なんの咳払いの必要があるというのか。
「期待しているよぉお」
「分かりました」
「それじゃあ、適当な所で切り上げるようにねぇえ」
教師が行く。
手を叩くと、音速で生徒達が集まってくる。
どいつもこいつも真っ青になっているけれど。
この音速の集まりぶり。
規律を乱すと、私に殺されるという噂が流れているため、らしい。
何で私が殺人なんてしなければならなければならないのか、さっぱり分からないのだけれども。
生徒の大半は何故かそれを信じている。
本当に勘弁してほしい。
泣きそうになる。
だけれども、ともかく集まった生徒達に訓戒する。
「今日は解散とする。 明日も朝礼の時間までには集まるように」
「分かりましたあッ!」
副部長が威勢良く頭を下げて、ポニテがびよんと空中に跳び上がる。私ははっきりいってその勢いが怖くて仕方が無いのだけれど、勿論無表情を保つ。そして、他の生徒達に解散を指示して。
そして自身も着替えをする。
着替えをさっさと済ませるのは。
覗きなどの被害を受けるリスクを減らす為なのだが。
その作業の速さが周囲では人間離れしていると言われている様子で。それもまた、頭痛の種になっていた。
「余計な事はしないで上がるように」
「分かりましたッ!」
副部長が周囲を急かして、さっさと切り上げていく。
噂が聞こえる。
「聞いた? この間部長、夜の十時まで練習してたって」
「マジ? 本当に人間?」
「だってマラソン大会でも、ぶっちぎりで一位だったでしょ。 男子も混じってるのに」
「……そうだったね」
勿論噂にはああだこうだは言わない。
確かにマラソン大会で男子も混じっているのに一位を取ったのは事実だが。
それはこの学校の男子生徒が不甲斐ないだけだ。
別に全国ベースの男子陸上部が相手だったら、勝てる見込みは薄いと思うし。私が特別凄いわけでもない。
何か噂だけが勝手に先行し、そしてロケットブースターがいつの間にか取り付けられて、宇宙までブッ飛んでいる。
噂というのはそういうものだと知っているけれど。
それでも何だか色々ともやもやする。
片付けが終わった後、備品のチェック。
幾つかの備品が駄目になっていたので、リストを作っておく。
部室の鍵を掛けた後、職員室に出向き。
頼りにならない顧問に対して、リストを渡す。
顧問はリストだけ受け取ると、発注しておくと言った。
私は頷くと、さっさと学校を出る。
これからスーパーの特売である。まず家に帰ってから着替え、それからスーパーの特売に出る。
この過程で洗濯機を動かしたり。
夕食の準備もしたりで。
家事RTAの開始である。
後は放っておけば良い状態になったら、家の外に出るが。
思わずひっと声が漏れそうになる。
外は既にまっくら。
ついでに、近くの電信柱と電線に、鴉が鈴なりに止まっていた。
さてはアレだな。
鴉は噂によると知能が高く、自分を虐めた人間を忘れないとかいう話である。つまり、朝鳩を横取りしようとしたと勘違いしていると言う事か。
おのれ。
勝手な勘違いを。
だけれども、私がじっと鴉を見上げると。
鴉たちは不意に動揺し始める。
そして、凄まじい雄叫びを一匹が上げる。私も悲鳴を飲み込む。
同時に鴉たちは、おぞましい羽音を立てて、電線を揺らしながら飛び散って逃げていった。
呼吸が乱れそうになるのを、必死に整える。
まさか、私の視線を受けて。
恐怖を感じて逃げ去ったのか。
野生の鴉が。
むしろ逃げたかったのは私の方なのだけれど。
鴉まで私を過大評価して、勝手に逃げ散るというのだろうか。
何だかぐっと疲れた。
ともかく、近くのスーパーの特売に出なければならない。
この辺りは治安がお世辞にも良くないから、やはりおかしなスピードで飛ばしている車もいる。
朝変なおっさんが事故っていた場所は、何だか警察が屯していたが。私を見ると、ひそひそと小声で何か話していた。
今度は犯罪者扱いですか。
そう言い返せる胆力があればどれだけよかったか。
私の蚤の心臓では。
ただひたすら恐縮して、何もしていないように側を通り過ぎるだけである。
やがてスーパーに到着。
特売している品を適当に買い込む。あんまり欲は掻かない。安すぎる品は傷みかけの場合も多いのだ。
特売を切り上げて、さっきの道を引き返す。
現場検証だとかが終わったからか、もうお巡りはいなかった。
ため息をつく。周囲に誰もいない。
やっと、周囲に誰もいない状況が来た。
だが、足音がして、すくみ上がる。
すぐに歩き出す。
さっさと足音から距離を取る。
足音の正体が誰かは分からないが、多分ただの通りすがりだったのだろう。
別に追いかけてくる事はなかった。
家に到着。
買った品を確認すると、夕食と明日の朝ご飯を作る。お弁当は今のうちに作るといたんでしまうので、明日の朝だ。
洗濯を干して。取り込んで畳んで。
そして家事が終わった後に勉強。
夜の十時まで部活の練習はしていないが。
勉強の時間は、それくらいになる。
それで朝四時に起きているのだから。
色々と体に無理が出てしまうのも、致し方がないことだろう。若いうちからこんな事をしていると、三十過ぎた頃にはボロボロだと、以前ネットの友達に言われた事があるのだけれども。
残念ながらこの状況は。
改善する方法が思いつかなかった。
十時まで勉強して、それで眠る。
というか、以降の時間は怖くて起きていられないのである。
私は怖いもの見たさで色々調べてしまうので。
それ以降の時間になると、どうしてもそういう怖い話を思い出してしまうのだ。
勉強に身が入らなくなってくる。
そういう時間になったのだ。
パジャマにさっさと着替える。
勿論裸で寝たりはしない。
余所の国だとそういう習慣があるらしいが。
風邪を引かないか心配になる。
電気を消すが。
この時が一番怖い。
私はやっぱり恐がりだし。
暗いのは嫌だ。
だから基本小さい電気はつけているのだが。
部屋が暗くなると、どうしても怖い話が頭の中で大合唱を始めるのである。
普段は外で鉄面皮を保ち。
大魔王のように怖れられている私の実体がこれだ。
情けないかも知れないけれど。
こう体の芯から来る震えは、どうしようもないのである。
今後もこの体質は直りそうもない。
私は。
恐がりなのだ。
気がつくと、時間だ。世にもおぞましい目覚まし時計に叩き起こされて、必死に身支度を調える。
両親は私が眠りにはいる頃に帰ってきて。
それでそのまま夕食を貪り喰って寝てしまう。
二人とも何だかのエンジニアだとかをやっているらしく。
月に100時間とか200時間とかの残業をし。
文字通りいのちを削って、会社に搾取されているろくでもない状態だ。
そんなに働いているのに、サービス残業だとかで給料は散々天引きされて、とても安いらしいし。
それでいながら、会社は人材がいないとか毎日喚いているのだとか。
当然のような気がするが。
私もいずれそんな中に混じるのだと思うと。
はっきりいってぞっとしなかった。
倫理観が壊れ始めている今の時代。
クズみたいな男と早々にくっついて、ただれた人生を送る人間も増えてきているかも知れない。
援助交際をパパ活とか言い換えて、体を金に換えて。場合によっては取り返しがつかない性病とか借金とか背負ったり。望まない子供を孕んだ挙げ句に捨てられたり。
これでも「先進国」では状況がマシな方らしいのでとても頭が痛い話だ。
要するに、逃げる場所なんて何処にも無い。
憂鬱である。
朝ご飯を作っている間は、こういう風な地獄の未来に対して、憂鬱でいられる。家を出て、誰かが見ている所に出たら、もうそれどころではなくなってしまう。だから、今だけ。今だけでも。
朝食を食べる。
親の分は冷蔵庫にしまう。
昨晩の夕食は綺麗に片付いていた。まずいとか文句を言われたこともあったけれど、今は何も文句を言わなくなっている。
それはそうだろう。
両親とも、文字通り死の寸前まで働いているのだ。
もはや味どころじゃないだろう。
昼食だって、食べるのが夕方四時とかになるのがザラだと聞いている。
労基は何をしているのか問いただしてやりたいが。
その労基がそもそもブラック労働をしているらしいので。
世も末である。
お弁当をこしらえたあと。
今日分の勉強の教科書とかを用意する。二回チェックするのは、絶対に人間はミスする事を知っているから。
これを早い内に知る事が出来たのは良かったと私は思っている。
知った切っ掛けは中学の時。
ミスをするな。
ミスをする奴はクズだと言っていた教師が。
自分で生徒の前で盛大に大ミスをやらかしたのを見たのである。
生徒は笑いそうになったが。真っ先にその教師がやったのは、一番手近にいた生徒を半殺しにすることだった。
それが許される学校だったのだ。
それですくみ上がった生徒達は笑うことなど出来なかったが。
私はその狂態を忘れなかった。
だから、今でも。
自分ではミスは必ずするのだから。ミスに対するリカバーの姿勢を整えると言う事について、しっかり学んでいた。
これは多分未来に財産になると思う。
教科書を片付けると、一息つく。
両親はどうせまだ起きてこない。
弁当と朝ご飯を冷蔵庫に入れると、着替えを済ませて、学校に出る。
そして、家の外に出ると。
思わずひっと声が漏れていた。
其所には、たくさんの鳩の死体が散らばっていたのである。
そして、鴉の群れが、怯えた様子で此方を見ていた。
まさかこれは。
鴉の群れが、わび賃を置いていったと言う事なのだろうか。
鴉たちは、私を見ると、恐怖の目でひれ伏すように頭を下げ。
一斉に飛び立って逃げていった。
逃げたいのは私の方なのだけれども。
ともかく、朝一番で申し訳ないけれど、保健所に連絡。
家の前にたくさん鳩が死んでいると連絡して、引き取って貰う。学校にいかなければならない事も告げると、幸い受付はしてくれた。両親はどうせ何もしないどころか、鳩の死体に気付くかも怪しいので、脇に避けておく。
何なんだよもう。
私はぼやきたくなるが、ぐっと飲み込む。
鴉共め。
勝手に私が鳩を捕ろうとしたと勘違いし。
挙げ句喧嘩を売りに来た挙げ句に勝手に敗北を悟って逃走。
わび賃を置いて逃げていくとか。
一体何なんだもう。
変な噂流れなければいいけど。
涙目になりそうなのを必死に堪えながら処置を終え、後は駅まで走る。
駅まで行く途中、後ろからかっぱらいらしいバイク乗りが来たが、私が振り返るといきなり急ブレーキを掛け。
全速力でUターンして逃げていった。
色々ともう突っ込む気にもなれない。
鉄面皮を保ったまま。
私は駅に駆け込んでいた。
2、加速する恐怖
教科書を見ながら歴史の授業を受ける。結構難しめだが、まあ何とかなるかなあと言う印象である。
ただ、幾つか分からない事がある。
近年は歴史研究が進んでいるらしく、様々な新説が出ているらしい。
授業の後、スマホとかで調べているが、どうしても教科書と一致しない箇所が出て来てしまう。
それについて質問したいところだが。
これ以上変に目をつけられたくない。
だから黙っていると。
隣の席にいる女子が挙手していた。
ありがたい。
質問も、丁度私が思っていた内容だ。
教師は手を止めると、恐ろしく冷たい話をする。
「歴史の授業は暗記だ。 事実がどうであろうがどうでもいい。 ただ何年に何が起きたかだけを覚えろ。 教科書を作った人間がそうだと考えている年月だけが重要で、それ以外は必要ない」
高圧的な言い方だなあ。
そう思って、ちらりと横を見ると。女子生徒は涙ぐんでいる。
歴史に興味を持つかも知れない芽を摘んでる。
ろくでもない教師だなあ。
そう思っていると、教師が不意に狼狽し始める。
「だ、だが確かにそういう意見もある。 試験では丸暗記が重要になってくるが、史実の最近の説が違う事もあることは事実で、覚えておくと良いだろう。 次」
何だ。
隣の女子生徒が、何だか感謝するようにこっちを見ているし。
男子生徒は畏怖を込めてこっちを見ているし。
とても怖いのだが。
理由を聞けない。怖いので。
ともかくだ。退屈な授業を済ませると、内容を頭に叩き込んでおく。
これが一番楽だ。
家では勉強できる時間が限られるので。
こうやってあんまり良くない頭を補っておくのである。
とはいっても、殆ど補助にしかならないが。
記憶力はそんなに良い方じゃない。
次の授業も面白くない。
この学校に限った話ではないらしいが。
そもそも今の時代、苛烈な労働に耐えかねて、まともな教師は殆ど生き残っていないらしい。
それはそうだろうなと私も思う。
何時に学校に出ても先生いるし。
何時に帰るときも先生いるし。
こんな状態では、心身を壊してしまうだろう。
それでいながら、新しい人を雇うこともなく。
何より育てることもなく。
人材が足りない。人材がいないとわめき散らしている。
どれだけ贅沢なのかと、高校生でも分かる程に呆れ果ててしまう。
人材が湧いてくると考えているからこその思考。
どうしようもない。
あくびをしたくなるが。
学校で舐められるのは致命的だ。
散々虐めを見て来たが。
その最初は「舐められる」だ。
人間という生き物は、相手を自分より下だと見た瞬間に、相手の全ての尊厳を否定しても良いと考えるようになる。
それは平均的な人間の平均的な思考。
相手が何を言っても間違いだと決めつけて良いと考えるようになるし。
相手を自殺に追い込んでもへらへらと笑っている。
私は自殺に相手を追い込む奴までは幸い見た事がないが。
類例は幾らでも見ている。
私自身が被害者にならないためにも。
隙は一切見せられない。
隙を見せたが最後。
周囲は一斉に牙を剥いてくるのだから。
優しい等というのは、この社会では舐められる要因にしかならない。
それが現実である。
人間がそういう生物なのだから。
どうしようもない。
私に出来る自衛策は。
ただ他人に隙を見せない。
それだけだ。
授業が淡々と進んでいき。
終わった。
此処からは部活だ。てきぱきと片付けを済ませると、部活に出る事にする。部活棟に最初につくのは私だ。
基本的にこれはいつも同じである。
ぎぎいと、軋むような音を立てて戸が開くと。
暗澹たる部室の様子が見える。
まだ夕方と言うには早いが。
其所は薄暗く。
そして据えたような臭いが漂っている。
備品のチェックをしていると。
副部長が来る。
冷や汗を掻いている様子だが、どうでもいい。
「部長ッ! 今日もお願いしますッ」
「よろしく」
此奴の大きな声はいつも怖くて仕方が無いのだが。
我慢するしかない。
備品のチェックが終わった頃には、他の生徒も来るので、順次グラウンドに向かわせる。
準備運動をそれぞれやらせる。
顧問は役に立たないので、書類とか書いてくれればそれで良い。
何も期待はしていない。
軽く準備運動を始める他の生徒を横目に、私も準備運動を開始。
トラックを軽く数周すると。丁度からだが温まったので、短距離を始める。
タイムを計らせて、軽く走るが。
まあいつもとほぼ同じか。
ほんのちょっとずつタイムは伸びているが。
別に全国一位を狙えるようなタイムでもないし。
勿論オリンピック何て興味も無い。
あんな如何にばれないように薬漬けにして。
審判を買収して。
それで勝ちを買うような代物、何が面白いのか。
その上負けた選手は未来も断たれる。
そんなものに意味はない。
私は単に内申をよくする事が出来れば良い。
部長だってやりたくてやってるわけじゃない。
そもそも、部長をやっている事で、更に舐められないようにするのが難しくなったのも事実だ。
他だったら、静かにしていれば良かったのに。
部長だと嫌でも存在感を見せつけなければならないし。
何から何まで大変すぎる。
他の生徒の様子にも目を配り。
問題なしと判断。
タイムが伸びなやんでいる人間には、アドバイスを入れる。
精神論なんて何の役にも立たない。
だから、どうすれば具体的に伸びるのかをアドバイスする。
とはいっても自分で調べた事であって。
自分で見つけたことでは無い。
うちの運動部はレベルが低いから。
私でも単にアドバイスが出来る。
それだけだ。
適当な時間に、それぞれ切りあげさせる。
こんなもの。
部活なんて。
無くなれば良いのに。
昔の学生は、もっと楽をしていたと聞いている。
大学に入るのはとても大変だったようだが。
それはまた別の話。
その代わりに部活で締め上げられて。殆どロクに何もできない。
それだけじゃない。
大学に行けるかも分からない。
今はみんな貧乏だ。
うちだって、そもそも私の大学費用を出してくれるかどうか。
大学には行けるならいっておきたいが。
親の考え次第では諦めるしかないだろう。
着替えを済ませると、備品のチェック。先に上がるように声を掛けて、生徒を順次帰らせる。
備品のチェックが終わった時には。
もう他の生徒はいなかった。
不意に、人の気配。
ドアから内部を覗いていた様子だ。
レンチを手に取る。
覗きは昔からいたので、対策にレンチを持つようにしている。
フルスイングでぶん殴ってやれば、普通に余程体格が良い相手で無ければ倒す事が出来るし。
何よりもレンチは重さが強烈なので、力を入れず振り回すだけで相手に対しては脅威になる。
勿論怖いけれど。
舐められて、ずっとつけ回されるよりはマシだ。
部屋の外に出るときも、出来るだけ堂々と。
怯えているように見せたら、相手をつけあがらせるだけだ。
だから堂々と部屋を出て。
堂々と周囲を見回した。
手に持ったレンチをぽんぽんしながら、周囲を睥睨していると。怯えきった様子で、誰か逃げていった。
女子生徒か。
と言う事は、覗きではなさそうだ。
部屋にレンチを戻すと、鞄を担いで帰ることにする。
職員室に鍵を戻して。
不審者がいたことを告げる。
やる気がない顧問。というよりも、連日の激務で気力を根こそぎやられているだろう顧問は。
そうかとだけ呟くと。
鍵を受け取った。
辛いのは分かる。
だから、何も言わない。
だが、教師が私を何か怖い者でも見るように視線を向けてくるのは何だ。むしろ人が少ない職員室で、教師と話している私の方が怖いのだが。
ともかく鍵を返すと、引き上げる。
今日もセールで安く買い物をしておきたい所だが。
そんな余裕があるかどうか。
今日は疲弊はそれほどではないが。
電車に揺られながらスマホを弄って調べて見ると。いけそうなスーパーでは特売はやっていない。
じゃあ、別に今の分の蓄えでいいか。
特に買うべき物もない。
嘆息はしない。
電車の中でも、一切隙は見せない。
人が少ないから痴漢とかの危険はないが。
それでも隙を見せると、どんなのが絡んでくるか知れたものではないからである。
無言で電車から降りる。
ぼんやり空を眺めたくなるが、そんな余裕は無い。
まっすぐ直帰。
家事をこなさなければならない。
父母ともに服は放りっぱなしだ。
本当にどうしようもない。
洗濯機に掛けて、しばらくぼんやりとしていると。
不意に不気味な音が外で聞こえた。
思わずすくみ上がりそうになったが。
ただの豆腐屋だと気付いて、安心する。
何であんな不気味な音を鳴らして移動しているのか。それが分からない。時々利用はするけれども。
夕食を作り始める。
暖かい夕食を自分だけしか食べなくなって、何年だろう。
小学校高学年の頃には、もう夕食は始めていた。
誰にも教わってはいない。
母は料理が壊滅的で、豚肉も鶏肉も半生で出してくるような人間だった。いうまでもなく、どっちも寄生虫が極めて危険である。
それどころか、仕事が忙しくなり始めてからは自分で料理をどうにかしろと言いだした。
コンビニ弁当を買ってくる親の方が、まだマシだっただろうか。
いや、高くて美味しくもないコンビニ弁当では、まともな栄養なんか得られなかったかも知れない。
父親に至っては、料理どころか調理さえしない有様。
必然的に私は、自分で料理を覚えなければならなくなった。
幸い相性でも良かったのか、料理はすぐに出来るようになったけれど。
そうしたら両親は、此方の分も作れと高圧的に命令してきた。
私はなくなく今も、料理を三人分作っている。
夕食を終えると。冷蔵庫に両親の分を放り込んで、後は勉強に入る。
夜の十時くらいまでは勉強をするが。
その時間帯に両親が帰ってくることはまずない。
誰がこんな世の中にしてしまったのか。
私にはどうにも出来ないけれど。
ただ悲しくてならない。
勉強を済ませると、後は寝る。
もう一年以上。
両親の顔は、見ていなかった。
翌朝。
凄まじい音がして、目が覚める。目覚まし時計よりも更に早い。
何かと窓を開けると、どうやら鳥がぶつかっていたらしい。
聞いた事がある。
鳥には硝子が見えない。
だから、ああやってぶつかる事があるそうだ。
何の鳥かは詳しくは分からないが。
怪我でもしていないといいのだけれどと思い。そのまま飛んで逃げていく鳥を見送る。
そして目覚まし時計を止めた。
どうせ後五分もすれば鳴るのだ。
おぞましい目覚ましの音なんて、聞きたくも無い。
そのまま、起きだして、学校の準備を始める。
夕食を食べた跡があったが。
勿論片付けなんてしている筈も無い。
教科書とかを揃えた跡。
夕食の跡を片付ける。
両親が疲れている事は分かっているが。
それにしても、私は使用人か何かか。
夏場だと、放置していると痛んで虫が近づいて来ている事もあるので。色々な意味で冗談じゃない。
幸い今はそこまで気温が高くは無いが。
せめて洗い場に突っ込んでいてくれればいいのにとしか思えない。
口をへの字にして、作業をする。
そして、洗い物を終えると。
弁当や朝食を用意し。
朝食を食べてから、家を出る。
家の前の道路を、いきなり不気味なおじさんが横切った。
近所に住んでいるだけの不気味なおじさんで、別に無害だが、怖い。
怖いが、勿論顔には出さない。
そのまま見送る。
相手が不気味だからって、相手を下に見るのは良くない事だ。周りを見て、私はそれを良く知っている。
歩いて駅に向かうが。
この間事故って警察に囲まれていたのとは別の無駄に大きい車が、また通り過ぎていく。朝っぱらから音楽をがんがん鳴らして鬱陶しい。
どういう神経をしているのかと思ったが、絡まれると鬱陶しいので無視。
無視していると、前から来た車とぶつかりそうになる。
相手はきちんと左側通行を守っていたので、明らかにあの無駄にデカイ車が悪い。それなのにクラクションを鳴らしまくり、蛇行したところを、思いっきり真っ正面からブロック塀に突っ込んだ。
凄まじいクラッシュ音。
首をすくめそうになる。
わらわらと出てくるのはヤクザ者である。
その家、ヤクザの事務所なのだ。
悲鳴を上げるならず者達を、ヤクザが引っ張り出す。
まあ、おしおきをされた方が良いだろう。
私は知らないので、無言で通り過ぎる。車から引っ張り出されていたのは、それが格好いいと思い込んでいるのか。金髪で鼻にピアスをした、DQNとしか言いようが無い輩だった。
まあ埋められてしまえば良いだろう。
存在するだけ有害だあの手の輩は。
聞き苦しい悲鳴を上げながら、DQNがヤクザの事務所に引きずり込まれて。静かになった。
まあそのまま失踪してくれれば一番良い。
この辺りが静かになる。
なお、音楽はもう止まっていた。
手慣れた様子で、ヤクザが止めたらしかった。
ちょっとだけ良い気分だ。
社会のゴミが、社会のゴミを片付けた。
今度はあのヤクザもこの世から消えてくれれば言う事がないのだが。
まあ其所までは期待出来ないだろう。
駅に到着。
パトカーが出ているのが見えた。
ひょっとすると、さっきのDQNの事故を、誰かが通報したのかも知れない。
余計な事をするなーと思いながら。
改札を通る。
そうすると、いきなり変な音がして、私は驚きそうになった。
どうやら定期が切れていたらしい。
それだけか。
胸をなで下ろすと、定期を更新。
その程度のお金ならある。
定期を更新するのも、充分に時間がある。
そこまでギリギリの生活をしていない。
何かトラブルに備えて、少しずつ前倒しで生活しているのだ。そしてこう言うときに、その習慣は役立つ。
今日は席に座れたので、座っていく。
電車につくまでに、確認することは確認しておく。
入れておいたスケジュールは再度把握。
小テストがあるが、毎日勉強しているので、別に問題は無い。
どうせ今日もろくな事は起きないだろうが。
学校に着くと、朝練の準備を始める。
教室に着くのも。
部室につくのも。
また私が最初だった。
朝練を淡々と実施する。
そのうち他の部員も来る。全員把握しているので、一人いないことを確認は出来ていた。
「矢那は」
「通院だって聞きましたっ!」
「通院?」
昨日は聞かされていなかったが。
何で副部長が知っている。
ああ、思い出した。
同じクラスだったか。
「何か持病でもあったのか」
「いえ、それがどうも……」
周囲に離れるように目配せすると、副部長は耳打ちしてくる。
「生理が来ないらしいでス」
「……」
「彼氏が出来たって話は聞いてたんですけど、まさかの事もあるので、両親つきそいで産婦人科に、だそうです。 誰にも言っては駄目ですよ」
「ああ、分かった」
思わず聞き返しそうになったが。
よく我慢した私。
自分で自分を褒める。
そうか、身に覚えがあると言う事か。
呆れた話だ。
責任が取れない行動はするな。
基本中の基本だろうに。
とはいっても、生涯未婚率五割ともいわれるこの時代である。むしろ、無理矢理既成事実を作ってしまう方が良いのかも知れない。
いや、流石にこうなると堕胎か。
どっちにしても、あまり良い結果だとは私には思えなかった。
そのまま、朝練を終わらせる。
生徒を引き上げさせると、矢那に連絡を入れた。
そうすると、どうやらビンゴだったらしかった。
退学を視野にするという。
何でも発覚が遅れたので、堕胎はリスクが大きすぎるとか。
そんなにおなかは目立っていなかったのだが。
「それで相手はなんといっている」
「その、これから相談します……」
「ちなみに相手は何者だ」
聞いて呆れた。
どうやら社会人らしい。
少女漫画なんかだと、社会人との恋愛はなんか夢のある行為のように描かれていたりするけれど。
実際には、学生に手を出す社会人なんてタダのアホだ。
それも矢那の相手は妻がいるらしく。
これから修羅場になるのが容易に予想された。
くすんくすんと向こうは泣いているけれど。
勝手に「大人っぽくて格好いい」とアホに夢を見て孕まされたのでは、同情も出来ない。
というか、私だって他人事じゃない。
彼氏なんて作るつもりはないが。
分別がついているように見える人間が、何かの切っ掛けで一瞬で足を踏み外すことは珍しくもない。
実例は何度も周囲で見ている。
恐ろしい話だ。
もしそんなになったら、私の両親は何の役にも立たないだろうし。
下手をしたら弁護士こみで相手の妻が殴り込んできて。
それで滅茶苦茶にされてしまうかもしれない。
私も馬鹿に引っ掛からないように気を付けよう。
何度も何度も、自分の中で念押しをした。
本当に世の中は様々な恐怖で満ちている。
私も、いつその恐怖に飲み込まれるのか。
分かったものではなかった。
3、更に膨れあがる恐怖
結局すったもんだの末に矢那は退学。案の定裁判沙汰になったらしい。おなかの子供を堕ろすわけにも行かず。交際相手に養育費を出させる事には成功したらしいが。どっちみち人生終わりだ。
怖いなあと思う。
良く学生時代に関係を持った事を周囲に自慢して回ることがあるが。
その結果がこれである。
責任を持てないことをするものではない。
ただでさえ欲求のコントロールが出来ない年頃だ。
何が起きるかくらい、ほんの少しでいいから考えなければならない。
勿論私だってそれは例外では無い。
今後魅力的に見える相手が現れても。
気を付けなければならないだろう。
私は拡散していないが。
誰かが噂を広めたのだろう。
矢那が運動部どころが学校を止めたことも。
それがアホを相手に不倫したからだということも。
既に広まっていた。
まあ広まるのは避けられなかっただろう。
こんな学校では、私や副部長が言わなくても、絶対に情報は漏れる。
それにしても何というか。
怖い。
さっそく袋だたきに出来る相手が出来たからか。
周囲の生徒は、その場にいない矢那をサンドバックにして、言いたい放題のようだった。
聞き苦しい悪口が散々聞こえてくるが。
要は「要領が悪い」という事を馬鹿にする事だけ。
そもそも最初の時点で、行動が軽率で間違っていた事に触れている者は一切いない。一人もみない。
別に彼氏を持とうが恋愛しようがどうでもいいが。
子供では対応出来ないことがある事や。
どのようなリスクがある事くらいは。
既に性教育だのなんだので学んでいるはずだ。
それをすっかり忘れ去り。
今では馬鹿丸出しになっている様子を見ると、本当に怖いと言う言葉しか出てこない。
此奴らに混じって暮らす事。
それそのものが恐怖だ。
勿論表には出さない。
こんな連中を相手に。怖がっているなんて事を悟られたら。
それこそ一瞬でずたずたにされてしまうだろう。
授業が終わると。
部室に一番に出向く。
また、何かの気配を感じる。
苛立ちが募ってきたので、レンチを手に外に出ると、副部長が真っ青になっていた。
へたり込む。
それで、首を嫌々と振った。
「こ、ころさないで、ころさないで……!」
「外に変な気配があったから、自衛のためにレンチを持って来ただけだ。 誰か見なかったか」
「……!???」
完全にパニックになった副部長が泣き出したので。
泣きたいのはこっちだと内心で呟きながら、部室に入れる。
他の生徒が来るまで、奥で横になっていろと指示。
生理が重いとでも言えば誤魔化せるだろう。
私はレンチを手にしたまま、外をまた窺うが。
変な奴の気配は、もう無くなっていた。
まあ、これなら大丈夫だろう。
いきなり頭の上にぽとんと音。
振り払うと、アシダカグモだった。
かさかさと逃げていく。
まあ別に害は無いからいい。
アシダカグモを怖がるようでは、両親に家事一切を押しつけられている現状を乗り切る事なんて不可能だ。
今更アシダカグモなんて怖くないし。
むしろゴキブリを狩ってくれるので感謝している。
その様子を見ていて、ひいっと副部長がまた声を上げる。
私が視線を向けると、毛布に潜り込んで、殺さないで殺さないでと懇願しているので、どうしたものか本当に困った。
泣きたいのはこっちだし。
不審者がさっきまでいたのに、誰にも頼れなくて怖いのもこっちなのに。
悲劇のヒロインぶって泣く余裕があるのなら。
副部長らしく私を支えてほしいのだが。
ため息をつきたい。
だがため息なんかついたら弱みを晒すことになる。
レンチを戻すと、備品の確認に戻る。そろそろ他の生徒が来る頃だ。
生徒が来始めたので、副部長は体調が悪いから休ませていると説明。そのまま、部活を開始させる。
副部長には、落ち着いたら適当に参加するように告げて。
そのまま部室を出た。
いきなり何かが顔に貼り付いたのは、その時だった。
無言で顔からそれを剥がすと、蝙蝠である。
この辺をたまに飛んでいるのを見かけるのだが、顔に貼り付かれたのは初めてだ。
他の女子生徒がキャーとか悲鳴を上げる。
キャーって何だ。
本当に怖いときはギャーとか汚い裏声になるものだ。
さては此奴ら、怖がっていないな。
ぽいと蝙蝠を捨てると、タオルで顔を拭く。変な伝染病は持っていないとは思うし、噛まれてもいないけれど。
一応手は洗って、更に消毒しておくか。
こわごわ聞いてくる。
「ぶ、部長、さ、ささ、さっきの」
「キクガシラコウモリだろう。 別に害は無い」
「でも、素手で……」
「料理くらいするだろう。 その延長線だ」
料理しないそうである。
そうですかと答えたいが、怯えきった様子を見て、心底困る。
そもそも被害を受けたのは私で。
しかも大した被害でもない。
その上アルコール消毒までしている。
だからこれで終わりだ。
さっさと部活に行くように指示すると、生徒達は怯えきった様子でグラウンドに言った。声が聞こえる。
「部長、本当に人間!?」
「だって家事も料理も全部家族の分もやってるって話だよ。 それで運動部のエースで、学年でも成績トップクラスでしょ。 人間の訳ないよ」
くらっと来るが。
勿論鉄面皮を保つ。
人間じゃないと思われていたのか。
なんだか色々悲しいが。
だが、弱みを見せる訳にはいかない。
更に恐れの表情を見せる生徒達を前に、淡々と短距離をこなす。
メンタルがどうのこうのという話がよくあるが。
いい加減である事がよく分かった。
普通に今日。
今までの最高記録が出たからである。
今まで淡々と努力を重ねてきたから、それが原因となったのだろう事は分かるけれども。メンタル的には色々不安定になっているのに。
口の端が引きつりそうである。
更に周囲が怯えているのが分かるからだ。
「あんな恐ろしいのに顔に貼り付かれたのに、最速出してる……」
「心が鉄なんだよ」
「怖い……」
怖いのはこっちなんだが。
もう勘弁してほしいと私は思ったけれども。
勿論、それを表に出すわけには行かなかった。
部活が終わったタイミングでも、副部長はまだ毛布にくるまっていた。しかも寝ていた。頭に来たので、毛布を引っ張ると。
気付いたようで、真っ青になる。
綺麗に土下座を決められたので、困り果てるのだが。
他の生徒が来るから辞めるようにと話をして。さっさと部活を終えて帰るように指示。丁度他の生徒も入ってきたので、一緒に帰らせた。
さて、ちょっと気になる。
全員が帰った後、レンチを手に周囲を見回る。
ここ数日、変な気配があるから、しっかり確認しておかなければならない。
勿論怖い。
不審者が襲いかかってきたらと思うと、怖くない筈が無い。
だが、不審者の正体が分からない方がよっぽど怖いのだ。
だから選択として、不審者を暴き出し、場合によっては殴り倒して無力化する事にする。それが一番怖くないからである。
不審者の人権なんてどうでもいい。
向こうがこっちの人権を蹂躙しようとしているのだ。
何で向こうの人権を考えてやる必要がある。
だいたいこの国の裁判が、加害者に著しく有利な事は誰でも知っている。弁護士は基本的に凶悪犯罪者の味方だ。殺人だろうが何だろうが、被害者の人権を無視して無罪にしようとして。仕事だからと宣う。
この国の法律が弁護士共々まるで宛てにならない以上。
自分の身は自分で守るしか無い。
周囲を伺いながら、物陰などをチェック。
やがて、不意に何かが。
後ろから迫ってきた。
踏み込みつつ、半回転して。
フルスイングでレンチを叩き付けに掛かる。
勿論狙うのは頭だ。
レンチは重量が一キロほどある大きいのを持って来ている。これをフルスイングでぶち込まれれば、大人の男だって無事では済まないはずだ。
だが、手を寸前で止める。
へたり込んでいるそれは、この間。いじわるな歴史教師から助けた、女子生徒だった。
あわあわと震え上がっている。
手を止めると、私は呆れて声を掛けた。
「何をしている」
「そ、その……」
「何だ」
「こ、この間のお礼を言おうと、思って……」
レンチを降ろす。
それと同時に相手が泣き出したので。
私はまた思った。
泣きたいのはこっちだと。
いずれにしても、保健室に送っていく。その途中で話を聞くと、何でも教室ではチャンスがなかったので、一人になるタイミングを狙っていたらしい。
「クラスメイトなんだから別に良いだろう」
「そ、そんな、恐れ多い!」
何が恐れ多いのか。
私はスクールカーストとかいうものをこの世で一番嫌っているが。
それに自ら自分を当てはめるような卑屈な行動は更に嫌いだ。
私が不機嫌になっているのを見て。
更に泣き出すその生徒。
本当に泣きたいのはこっちなのだが。
保健室に預けると。
もう帰ることにする。
今日はタイムセールもあるし。
もう学校にはいたくない。
そろそろ夜の訪れも早くなってきている。
さっさと帰るのが一番だ。
家に帰ってきて。
そして気付く。
父がいる。
一年以上、顔を見ていなかった気がする。
ビールをテーブルの上に林立させているが。何だこれ。どういう状況だ。
「なんだあ……」
こっちを見る父。
私に気付くと。
へらへらと笑う。
会社を首になったそうだ。
このご時世だ。不思議な話じゃない。いつ誰が会社を首になっても不思議じゃない世界なのだ。
人材はその辺から生えてくる。
会社経営者クラスの人間がそう考えている時代である。人材なんて概念は存在していないのだ。
母も同じらしい。同じタイミングで首にされるというのは、何というか。不運の極地というか。
金は大丈夫だそうだ。
今まで働き詰めで、当分食っていくだけの金はあるとか。
だが。
そもそも首になったのが許せないらしい。
誰よりも真面目に働き、成果だって出してきた。
今回会社の業績不振で首にされたが。
赤字確定の仕事を取って来た営業共はそろって残留。
現場で必死に働いていた人間だけが首にされたそうである。
「悪いが話しかけないでくれ」
「……」
最初から話なんて聞く気は無い。
母に聞いて貰えば良いだろう。
私に対して、父が何かしてくれたか。
それを思うと、とてもではないが愚痴なんて聞いてやる気にはならなかった。
それに確か、過重労働の結果、貯金は三千万を超えているはずである。それも父だけで。
まあ確かに、当面は生活の心配をする必要はないだろう。
理不尽だと怒るのは分かる。
だけれども、私に何もかも押しつけていたのは、理不尽では無いというのか。
何だか何もかも、どうでも良くなった。
夕食を作るが、食欲がないとか一蹴される。母は自室から出て来さえもしない。
余程ショックだったのだろう。
ただ、一応夕食は残しておく。
夕食を、テーブルから弾いてばらまくような事だけは、父もしなかった。
自室に籠もると、黙々と勉強する。
不思議な話で。
こういう現実的な事態には、まるで怖いと思わなかった。
学校で散々腐りきった人間関係を見て来ているからだろうか。
そもそも両親と会話したのが(父だけだが)随分久しぶりだから、だろうか。
勉強を終える。
勉強なんて、意味があるのだろうか。
ふと思ったけれど。気にしない。
ただ、両親の事は学校でばれないようにしなければならないだろう。
どんな風に悪用されるか、わかったものではない。
弱みを見せたら骨の髄まで貪り喰われる。
それがこの世界の事実。
だから私は、周囲にどんな弱みも見せる訳にはいかないのだ。
うんざりしたので、私は窓を開ける。
雨戸の所に、木の枝とかが突っ込まれていた。幸いまだ量は多くないし、卵もなかったので、捨てる。
鳥が雨戸に巣を作ってしまうことはよくある。
特に長年雨戸を閉めたままにしておくと、木のうろか何かと勘違いしてしまうらしい。
今回は早めに気付けて良かった。
気付けたのも、街灯の明かりが変だったからだけれども。
悪いけれど、鳥には別の場所に巣を作ってもらおう。
窓に鳥がぶつかった時点で。
嫌な予感はしていたのだ。
だから覚えていた。
枯れ枝の処理を終えると。
再び勉強に戻る。
鳥には恨まれるかも知れないが。
だけれども、卵を捨てたりとか。雛を放り出したりするよりはまだマシである。
それにもしも雛が孵ってしまうと、窓の外が地獄絵図になる。
糞だらけ。たくさん蟻だって来る。
一度それを処理したことがあるので。
私としても、鳥も私も不幸になるその事態は避けたかったのだ。
勉強も終わったし。
軽く下を見に行く。
驚いたことに、ちゃんと料理は二人分片付いていた。いつの間にか母も部屋から出て、食事をしていったらしい。
それなら最初から。
自分でやってほしかったな。
何もかも全部。
そう思うのは、贅沢だろうか。
そして案の定だけれども。
食器類は、一切片付けられていなかった。
軽く片付けをしておく。
後は寝るだけだ。
両親はもう寝室だろう。同じ寝室で寝るのは何年ぶりなんだろうね。そんな風に思えてきた。
二人ともそもそも関係は冷え切っているが。
離婚の話は出たことはないらしい。
その辺り、私には分からない事情があるか。
それとも離婚のリスクを理解出来るだけの頭が二人にあるか。
或いは、離婚するのさえ面倒くさいのかも知れない。
洗面所を見ると、二人とも歯ブラシを使った形跡があった。
この辺りの生活習慣はちゃんとやっているんだな。
一番忙しい時は、食事だけ済ますと、そのまんまベッドに直行。
起きたら食事だけして、そのまま会社に直行なんて時期もあったようだし。
まだマシなのかも知れない。
私もある程度身繕いはしたいし。
そんな状態で会社になんか出たくないけれど。
さぞや地獄絵図だったのだろう。
ブラック企業度し難い。
抜けた途端に、人間らしい感情とかが両親に戻ってくるのだから。
ため息をつくと、自身も歯を磨いて寝に入る事にする。
鏡を見て、硬直する。
誰か後ろに立っているように思ったからだ。
実際はただのタンスの見間違い。
何でタンスを誰かに見間違えたのかはさっぱりわからないけれど。こう言うとき、いつもの憶病な私が戻ってくる。
危なく歯磨き粉をのむところだったが。
何とか堪えた。
歯磨きを終えると、もう寝る。
二人とも急に首にされたようだし、当面は家にいるだろう。
体もボロボロの筈だ。
何年も受けていない健康診断を、受けに行くのも良いかも知れない。
布団に入る。
電気を薄暗くする。
真っ暗にすると眠れない。
薄暗くすると、後は疲れ切っていることもあって、すぐに眠る事が出来た。
明日何をすれば良いのかは。
全て叩き込んである。
だから私は。
安心して、眠る事が出来る。
例え両親が、失職したとしても。
朝起きる。
当然両親は起きてこない。
朝の家事をこなしている。
両親はやはり起きてこない。
それはそうだろう。
毎日無茶苦茶な労働をしていたのだ。二人に対しては色々思うところもあるけれど、40過ぎて毎月300時間から400時間に達する労働をしていたのである。仕事を不意に首になった翌日くらい、ずっと寝ていても罰は当たらないだろう。
それより怖いのは、過重労働の結果の体内の荒れ具合である。
昔は不健康自慢なんてのが流行ったらしいが。
その不健康自慢世代は、みんな体を壊して滅茶苦茶である。
戦時中に書かれた日本に対する研究書では、日本の労働者は何も楽しみを必要としないように働き、40で死ぬという言葉があったらしいが。
事実、ブラック労働大全盛の今。
三十代で致命的に体を壊している人はザラ。
40を待たずに死ぬという人も珍しくもないらしい。
だから私は怒らない。
それよりも怖いのは。
私が帰ってきたら、気が抜けた結果二人が死んでいた、という事である。
自殺の可能性もある。
ブラック労働が無茶苦茶である事は、同級生などからも聞いている。精神をやられてしまう人も多いらしい。
実際父も昨晩はまともなようには見えなかった。
だから、私も。
怒るには怒れない。
家事を済ませて、弁当を作る。両親用には弁当箱に詰める必要はないのだが、癖で詰めてしまう。
まあいいだろう。
ひょっとしたら、早速彼方此方出かけるかも知れないのだから。
失職すると市役所とかで色々手続きがいるらしい。
そういうのを、早速やるかも知れない。
私には流石に関係無い。
天井を見上げる。
この家は、確か父が祖父母から引き継いだもの。
家だけは大丈夫だが。
それも、いつまで大丈夫なのか、正直分からないと言うのが、素直な所である。
全ての準備が終わる。
教科書もばっちり揃えた。
鏡を見て、制服に皺とか無い事も確認する。
そうしておかないと、隙を見せる事になるかも知れないからだ。
スクールカーストなんて最悪の代物を半ば学校が許容し。
生徒も受け入れてしまっている今の時代。
誰かに隙を見せるというのは致命的だ。
周りは全部敵と思え。
本音は絶対に口にするな。
周囲とは過剰に仲良くするな。絶対に裏切る奴が出てくる。
それらの思考は恐怖から来ている。実際に、それらを破ってスクールカーストの底辺に落とされた人を何人も見ている。
そうやってスクールカーストの底辺に落とされると。
人はもう戻って来れないことも多いし。
周囲も嬉々として暴虐を加え始める。
それが現実だ。
私はそんな現実に巻き込まれたくはないのだ。
家を出る。
外に出ると、家の前を黒猫が横切っていった。
黒猫か。
毛並みは良かったし、どっかの飼い猫なのかも知れない。まあ、正直どうでもいい事である。
そのまま学校に向かう。
家の一つが、ブルーシートで封鎖されていた。
そういえば、この家。
怒鳴り声が時々していたっけ。
後で電車の中で確認でもしてみよう。
歩いていると、ついてくる黒猫。
困ったな。
面倒なんて見られない。
そう思った私の事に気付いたのか。いきなり黒猫は凄まじい悲鳴を上げて、脇目もふらずに逃げていった。
私は困惑して振り返ったが。
勿論そんなそぶりは見せない。
隙を見せたらいつ誰につけ込まれるか分からない。
自室でさえ、出来れば隙を見せないように振る舞っておきたいのが本音である。
何が世界には潜んでいるのか分からないのだから。
駅に到着。
さっきの家の事を調べて見る。
どうやら理由が分かった。
この間の無駄にデカイ車の持ち主の家だ。ヤクザに捕まった方では無くて、警察に捕まった方である。
どうやら捕まった結果、クスリとか色々出て来たらしく。家庭内暴力も当たり前のように振るっていたらしい。
本当にどうしようもないなとぼやく。
それも両親の資産を食い潰していたようで。
それで若くしてあんなデカイ車を乗り回せていたようだ。
反吐が出る関係性だが。
それでもまあ、捕まったのなら何より。
当然離婚だろうが。
はっきりいって、それこそどうでも良かった。
最寄り駅に着く。
今日は人がやたら少なくて快適だった。黙々と学校に向かう。通学時間よりずっと早いのだから当然だが。
それでも混んでいる日は混んでいるものなのだ。
職員室に出向いて、鍵を貰う。
部室に入ると、目を細めて周囲を伺う。
何か変だ。
すぐに気付いて、籠をどかすと。
カメラがセットされていた。
今時何処の馬鹿だ。
すぐに職員室に連絡。
教師は心底面倒くさそうな顔をしたが、警察を呼んで貰う。
どうせ教師の誰かに決まっている。
そして警察が来て、カメラをチェックしたときには。状況に気付いたのか、学校に来ていない教師が犯人だとすぐに分かった。
理由は簡単。
四苦八苦しながら、カメラを仕掛けている様子が映し出されていたからである。
しかも此奴。
以前冷酷な事を口にした歴史教師だ。
ひょっとして覗き目的じゃなくて。
私に対する復讐目的か。
災難だったね。
警察はそんな事を言うが。私の表情を見て、言葉を飲み込み、せわしなく視線をそらした。
何だ。私が何かしたのか。
もうちょっとで隠し撮り画像を動画サイトとかにばらまかれる所で、とても怖かったのだけれども。
私を見て警官がびびるとはどういうことか。
いい加減苛立ちが限界に来ているが。
鉄面皮を保つ。
怒るという行為も、それ自体が隙を見せる行為につながる。
部室を鈴なりに見ている部員達に、朝練は中止と声を掛けておく。それを聞いて、部員達はわらわらと散って行った。
いずれにしても、こんな動かぬ証拠があるのではどうしようもない。
その日のうちに教師には指名手配が掛かり。
その日の夕方に、電車などの乗車記録から、二つ隣の県でフラフラしている所を捕まった。
どうやら以前からクスリをやっていたらしく。
更に怖い生徒がいるとかで、もう学校が耐えられなかったとか自供しているそうだ。
怖い生徒。
あの教師を誰かが脅していたのだろうか。
それで、この連絡を何故か夕方に、部活中の私が受けたのだけれど。
信じられない事を言われた。
「悪いですが、任意で事情を聞かせていただきたく」
「……?」
「恐ろしい生徒というのは貴方の事だそうです。 貴方の顔がいつも怖くて仕方が無かったと教師は震えながら言っています。 何か威圧とかしていませんでしたか」
「……??」
困惑する私だが。
勿論表情は崩さない。
それを見て、周囲の生徒が更に恐怖を募らせるようだった。
「分かりました。 最寄りの署に出向けば良いですね」
「はい。 話を聞かせて貰えればそれでかまいませんので」
「……」
絶対嘘だ。
電話を切ると、私はもうこれで終わりかなと思った。
警察に呼ばれたとか言う事になれば、それが絶対に弱みになる。それが原因で、何かしてくる奴が出てくる。
正当防衛で殴り倒したりしたら、それは相手の思うつぼだ。
何もできない身が歯がゆい。
溜息を零しそうになるが。
必死に飲み込む。
そして、私は覚悟を決めて、警察に出向くことにした。
逮捕されるのかな。
あの教師がある事無い事言って、全部私のせいにした可能性もある。そうだったら、少年院行きだろうか。
絶望しか無い。
両親は失職。
私は少年院か。
何だか、一体私が何をしたんだとぼやきたくなるが。
勿論ぼやくつもりはない。
副部長を呼ぶ。
そして引き継ぎを始めた。引き継ぎを受けながら、困惑する副部長。理由を告げておく。
「あの教師が、全部私のせいだとか抜かしているらしい」
「ええっ! 本当ですかッ!」
相変わらず声が大きい。
それだけで吃驚しそうになるが。
まあ我慢だ。
目を細めると。
何故か副部長が涙目になって背筋を伸ばす。
涙目になりたいのはこっちの方なのだけれども。
「今のうちの国の司法は警察ともども信用できない。 どんな濡れ衣を着せられるか分かったものじゃない。 だから、その時のために、部活の引き継ぎをしておく」
「部長……部長の鏡ですね」
「……」
「分かりましたッ! 命に替えても、もしもの時には引き継ぎを実行しますッ!」
命に替えてもか。
もう苦笑いを浮かべそうになるが。
もう此奴はこう言う奴だと思って諦めているのでいい。
引き継ぎが終わった後は、早めに切り上げて警察に出る。
本当なら最後まで残りたかったのだが。
今回ばかりはそうも行かないだろう。
ああ。
嘆きの言葉が漏れそうになる。
正直とても怖い。
だけれども、逃げたら絶対に捕まる。この国の警察は、あれでそこそこに有能だからである。少なくとも「先進国」とやらの中では一番有能だと聞いている。私が住んでいるのも、無能な東西の県警がある県じゃない。
つまり逃げられない。
警察が見えてきた。制服のまま警察に行くのは初めてだ。
受付で話をすると、すぐに婦警が来た。
どうせ殺されるのだろう。
そう思うと、もう未来はないように思えた。
4、恐怖の果てに
現行犯逮捕されることもなく、一時間ほど事情聴取をされてそれで終わった。
実の所、他の教師も事情聴取を受けていたらしい。生徒の一部も、である。
それによると。
私は「怖い」そうだった。
思わずなんだってと聞き返したくなるが。
全員が一致でそう答えていたそうだ。
意味が分からない。
今も現在進行形で怖くて仕方が無いのだが。
婦警は言っていた。
「貴方はとにかく存在するだけで周囲を威圧していたようですね。 特に貴方から脅迫を受けたりした人間は確認できませんでした。 例の教師でさえ、貴方に威圧されていたと言いながら、具体的に何をされたかというと、怖い顔を向けられていたというだけでしたので」
婦警はどうしていいのか困った様子だったが。
困っているのはこっちだ。
そんな事を言われてどうすればいいのか。
にっこり笑顔でも作ってやれば良かったのだろうか。
ともかく、家に帰る。
解放されたし、もう事情聴取はいらないらしいので。
もう殺される事を覚悟していたので、拍子抜けだった。
途中で部活の顧問と、副部長に連絡を入れておく。
連絡は最小限。
それだけで充分だ。
家に着くと、すぐに着替える。両親は案の定疲れ切って寝ているようだったが。弁当も朝食も食べたようだった。
まあどうでもいい。
もうスーパーのセールはやっている時間では無い。
だから、仕方が無い。
冷蔵庫にあるもので、あり合わせの夕食を作る。
夕食を作っているうちに、両親が起きてくるかと思ったのだが。
その様子さえ無かった。
自律神経がやられてしまっているのだろう。
そうなると体がメタメタになる。
それは私も聞いている。
大きめの吹奏楽部とか野球部とかの生徒も、そんな風になりやすいらしい。
私は。
そんな風にはなりたくなかった。
夕食を食べ終えた後は、勉強する。
十時くらいまで勉強をして、後は休む事にする。
勉強は無言で終わらせ。
その後、顔を洗って歯を磨いて。
それで夕食を確認。
両親はいつの間にか食べ終えていたようだった。そして、相変わらずお皿とかはおきっぱである。
嘆息しながらお片付けをして。
それで後は休む事にする。
だが、寝る前に、鏡だけを見ておく。
怖い顔、か。
あの歴史教師は、私が常に威圧しているとか言った。
だけれど、私は元からこう言う顔だ。
だいたい、隙を見せれば即座に陥れられて。スクールカーストの下位で痛めつけられるような場所が学校だ。
そんなところで、隙なんて作れるか。
常に鉄壁であれ。
そうしなければ、いつどんな目に遭っても不思議では無い。
それが学校だし。
その先にあるブラック労働環境だ。
鏡を見ていて、私だなとしか思わない。
恐がりな私だけれども。
流石に見慣れた私の顔を見て驚くほどではない。
私は怖いのか。
そう自問自答するが。
答えなんて出てくるわけが無い。
家だから。
大きく、何度もため息をついた。
眠る事にする。
こんな社会で、隙を見せたら終わりな状態で。
この鉄面皮を変えることは出来ないだろう。
私はむしろ。
私を怖い事にして。
責任を押しつけようとする大人や。
怖いと言う事を理由に、犯罪に手を染めることを正当化する人間がうようよいるこの社会の方が。
よほど怖くてならなかった。
(終)
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