増えゆく同志
序、様々な偶然の果てに
高宮の面接に来たのは、見るからにブラック企業でボロボロに使い潰された女だった。
まだ二十代半ばだろう。それなのに明らかに体を悪くしている。
IT関連の業界は、今は地獄だ。
下請け孫請けが当たり前に使われていて。
大量の人材が、文字通りすり潰されながら消耗され。
更に給金は激安。
サービス残業は当たり前。
体育会系の見本。思考能力などなく、ビジネス書とやらを読み飛ばしてマナー講師とやらが適当に作りあげた謎ルールを盲信する猿のような人間が上層部を独占し。
殆どの企業で、怒号が職場で飛び交っている。
そして横文字の謎のシステムを導入して、悦に入るだけで。
実際にはなんら根本的な問題を解決せず。
結局は人材をすり潰しておきながら。
人材がいないだの、会社は学校ではないだの、好きかってほざいている。
それが現実というものだ。
そんな業界でも、ゲーム業界はかなり厳しいという評判だったが。それでも一部の会社は改善が進んでいたようだ。
ただ、改善されていない会社も当然あり。
その黒田という女は。
改善されなかった会社で、働いていたらしかった。
月あたりの労働時間は450時間。
五年ほど働いて、とる事が出来た休日はなんと七日だけ。
それでいながら、給料は手取り17万程度だったそうである。
残業がほとんどサービス残業だったからだ。
その上、企業では毎日怒号も浴びせられていた。
こんな会社でも、労基は入らなかった。
今や労基そのものがブラック企業になりつつあるのだから、それも当然かも知れない。この国だけじゃない。
殆どの国が似たような状況。
つまり、社会そのものが壊れて行っているのだ。
黒田というこの女は。
その犠牲者と言えた。
「CG作成ならある程度出来ます。 ただ通院もあって……」
「仕事内容を見せてくれる?」
「はい」
一応、仕事の内容を見せてもらう。
なかなか出来るじゃないか。
専門の大学で一応きっちり学んできたらしい。
それで。会社では相応の待遇が貰えると思ったのだろう。
甘かった。
あまりにも、甘すぎたのだ。
IT関連でも、ゲーム会社は特に魔郷。
そういう話は昔からあった。
それでも、状態を改善しようとしていた会社もあるにはあった。
だが、どうにもならなかったのだ。
「このCG作成を、どれくらいの時間で出来ますか」
「ええと……」
時間を聞いて、頷く。
それならはっきり言って充分だ。
高宮の映画でのCGは、基本的に映画をつまらなくするために使っているものであって。他の映画のように、美しさを売りにしているものではない。
だからそれでいい。
「週休二日、定時終わりは約束します。 もしも此方が約束をやぶったら即座にやめてくれてかまいません。 ついでに通院日には休み、更にはテレワークを保証しましょう」
「え……」
「採用します」
黒田は呆然としていたようだったが。
これだけの逸材。
家で腐らせておくのはもったいない。
家にそれなりのスペックのPCはあると聞いている。
ならば。テレワークで充分だ。
呆然としている黒田を帰らせる。
井伊が来て、CGの出来をチェックする。
「これは申し分ない実力。 一線級で充分通用する」
「良い人材が捕まったなあ。 そして人材に給金を渡すのは当たり前だからねえ」
「そう考えているのは今時珍しい」
「いいんだよ。 今は普通のが狂ってるんだから」
それについては同感と、井伊は頷く。
さて、次だ。
とりあえず黒田以外に、パートで使えるCGを何人かストックしておきたい。
それには待遇の良さを約束するのが重要だ。
以前は外注の会社に頼んでいたのだが。
そういう会社はだいたい下請け孫請けだ。
だから、いっそのことそういう会社から引き抜いて。
社員待遇で雇いたい所である。
小野寺も来たので、話を聞いてみる。別室で面接は見てもらっていたのだ。
「小野寺からみて、あの黒田というのはどう思う?」
「心が砕けてしまっていますね」
「まあ、そうだろうな……」
「自宅でも仕事が出来るなら、充分でしょう。 それも定時で終わるとなれば、しっかり仕事はしてくれると思います」
同感だ。
とりあえず壊れてしまった内臓を治しつつ、出来る範囲でCGを処理してくれればそれでいい。
この仕事を井伊にやらせるのはちょっと今まで不満だったのだ。
今後井伊はブレインとして動いてほしいのである。
勿論長期的な戦略も共有する。
ただ高宮は映画監督がどうしても忙しい。
だから、動くべき所は井伊にやってもらいたかった。
この間の訴訟では、井伊は殆ど完璧に動いてくれた。
今後もこんな感じでやってほしい所である。
映画のほうも順調である。
この間の映画。「純愛ラブストーリー」と称した虚無映画。アルティメットコメディーシリーズ第十三作も、順当にヒット。映画館は満員御礼で。しかも客は殆どみんな寝ているという謎世界が構築されているらしい。
レビューも面白い。
兎に角よく眠れた。二時間の快眠をとれるので、1500円はむしろ安い。内容はさっぱり理解出来なかったが、不思議と頭に来ない。クソ映画なのは確定だがどうしてか金をドブに捨てた気にはならない。そんな感じだ。
そういったレビューは、意図して作ったとおりに客が感じていると言う事なので、むしろ高宮には好ましい。
逆に、意識高い系の評論家が。
意味不明の評価をして、高宮の作品を絶賛している方がはっきり言って苦笑しか漏れてこない。
高宮としても、こんな連中の評価なんて、どうでもいいと感じている。
実際に意図してもいない事を勝手に想定し。それに基づいて評価をするのだから、実態と乖離するのは当然だ。
それで素晴らしいだの、現代社会の風刺を的確に行っているだの。映画という文化の見本だの。
余程、何も考えずに見ている人間の方が的確に評価をしていると思う。
まあいつの間にか、意識高い系の人間が権威をつくって居座り。映画の評価を独占するようになってしまってから。
この業界は変わった。
本場ハリウッドでもそうだ。
ポリコレ思想に汚染された結果、あらゆる意味で映画はおかしくなっている。
邦画も充分に酷い。
恐らく欧州でも似たような状況だろう。
誰かが、どうにかしなければならないのだ。
だから、高宮がやる。
それだけだ。
手を叩いて、次の面接応募者を呼ぶ。
部屋に入ってきた奴は。ビジネススーツをびしっと決めた青年だが。見た瞬間に分かる体育会系だった。
そしてビジネス書通りに何だか大声で挨拶をして、それからマナー通りに座り。
何か意識高いビジネス書の文言を口にしたが。
その時点で、もうどうでもいいと判断した。
しっしっと追い払いたかったが。
穏便に済ませる。
そのまま、次を呼ぶ。
さっきの黒田という子以外、ろくなのがこないな。
そう思う。
まあそれもそうだろうか。
今、高宮は乗りに乗っている監督として知られている。
映画はクッソつまらない虚無なのに、何故かヒット作が続けて出ており。
そして模倣しようとした者全てが失敗している。
そんな中で、淡々と意味不明の映画を作り続け。
ブームは巻き起こっているのに。
後追いは誰もうまくいかない。
そんな業界の怪奇現象が高宮だ。
映画監督達は、高宮のような映画を作り稼げと言われ。一人もそれを成功させていない。
映画館では、映画放送開始三分で寝る客が出始め。
九割が最後までもたない。
頑張って最後まで映画を見た一割だって、半死半生で。しかも内容が全く頭に入っていない。
それなのに、どうしてか映画館に客は入っている。
どういうことなのか。さっぱり分からない奴は多いと聞く。
それでいい。
高宮にとっては、まあだいたい予想通り。理想的な展開だったのだから。
そして、そんな状況だからこそ。
寄生虫が寄ってくる。
高宮という金づるにすがりついて、生き血を啜り。
金がなくなった頃にいなくなる輩が。
側で甘言を囁き続け。
相手を調子に乗らせ。
金を吐き出させようとする輩が。
そもそも今回、CG作成技術者を募集して面接をしているのに。
来るのはそういう「管理職」を狙っている連中ばかり。
しかも、どいつもこいつも経歴が怪しい。
最初から、ダニとして生き血を啜りに来ている連中ばかりだ。
そんな中、黒田の存在は異質だった。
技術も悪くない。
だから、頭に残ったのだ。今の時点で、採用を決めているのは黒田だけだが。それは他がクズ過ぎるという事も理由としてある。
次、と声を掛け。
またイケメンのいかにもなのが来たので、うんざりしていた。
イケメンは別に嫌いでは無いが。
いかにも「自分はコミュニケーション能力が優れています」と顔に書いている謎の自信が、はっきりいって不快だ。
というか、高宮は。
「コミュニケーション能力が優れている」と自称する輩で。
実際に他人との意思疎通を上手に出来る奴を見た事がない。
その手の発言をする輩の九割は、コミュニケーションなんてしていない。
相手に媚を売って機嫌を良くし。
すり寄って金と権力を得る。
それだけだ。
実際の「コミュニケーション」。つまり意思疎通などまったく出来ていない。
場合によっては、相手を威圧することで言う事を聞かせ、「コミュニケーションをしている」と思い込んでいる場合もある。
誰が「コミュニケーション」という言葉を此処まで歪めたのかしらないが。
まあどうせマナー講師とか言うクズどもか。それに類する人類のゴミカスどもだろう。唾棄すべき輩だ。
また、意識高い系の事を言い出したので。
適当に聞き流して、穏便に面接を終わらせる。
次。
更に次。
百人以上来たが、どれもこれも高宮の関心を買おうとする輩ばかり。
金が集まる場所には、寄生虫が集まる。
そんな事は分かっているが。
はっきりいって此奴らは、本能で動いているダニ以下だ。
まとめて石臼ですり潰して、吸血鬼か何かのエサにしてやりたい気分である。ましてや今の企業の人事は、こういうのを優先して採用し。「人材がいない」とかほざいている有様である。
はっきりいって、今の世界の病みの縮図を見せられているようで。
不快感が限界に近付いていた。
最後の一人を呼ぶが。
まあなんか大学でラグビーか何かやってました、という雰囲気の奴で。
そして体育会系そのものの雰囲気で、「コミュニケーションがどうのこうの」と言い出したので。
もういいと思って、適当に言わせるだけ言わせて。
そのままお帰り願った。
小野寺が来る。
「なんかクズばっかり来ましたね」
「黒田という子がいただろう」
「ああ、一人だけ来た技術者肌の人ですね。 何だか内臓を幾つも壊してしまっているようでしたけど」
「ブラック労働の犠牲者だ。 毎月450時間、五年間休日もろくになしで働き続けてああなったそうだ。 そうなるに決まっている」
勿論、そういう風に働いて体を壊さない人間だって中にはいる。
だが、そういう人間が必ずしも仕事が出来るわけでもない。
大半の人間は、朝起きて夜寝て。
それでやっと普通に生きる事が出来る生物だ。
今の時代は産業革命時代の英国と大差ないレベルにまで、労働というシステムが先鋭化しており。
その現場にいる人間は常にすり潰され続けている。
結果として人材はいなくなり。
媚を売ることに特化した、いにしえの国家を潰して来た佞臣に等しい連中がはびこるようになっている。
どこの国のどこの企業でもだ。
末期状態だが。
それについて、嘆く人間が少ないというのは。
色々と更に末期的だなと、高宮は思うのだった。
「あの黒田というのだけ採用。 他は履歴書突っ返しておいてくれ」
「分かりました。 それにしても厳しい面接ですね」
「……単にCG作成の技術者がほしかっただけなのにね。 「今をときめく」私に取り入って、金を出来るだけむしり取りたい。 そう顔に書いているダニ以下の連中ばかりが来た。 だから採用しない。 それだけだよ」
「はは、厳しいですね」
実は、小野寺を初任給40万で雇い入れた事は既にどこからか噂になっているらしい。
まあ井伊は分かる。
大学何てどこでも入れるレベルの天才児として有名だったらしいし。
この間の訴訟関連を鮮やかに終わらせた手腕と知識は、社内でも話題になったそうだから、である。
だが、小野寺が世間一般でいう「コミュニケーション」、つまり媚を売る能力などではなく。
相手と意思疎通を円滑に行う本当の意味での「コミュニケーション」を得意とするレア人材である事はあまり知られていない。
そして小野寺自身は、女子同士でグループを作ったり。
スクールカーストをつくって、その内部で抗争している連中を心の底から軽蔑している。それでいながら、その中で虐めにあったりもせずに、すんなりとやり過ごしてきているらしい。
つまるところ、本当の意味での意思疎通能力の達人であり。
努力だ何だので得られない才覚の持ち主である。
これがどれだけ貴重なのか。
まあ、さっきわんさか押し寄せた猿のような連中には、一生理解出来ないだろう。
ダニをたくさんぶら下げても、やがて宿主が血を吸い尽くされて死ぬだけだ。
その程度の事も分からない人間が人事や役員をやっていて。
更にはダニを積極的に役員にする。
今の時代、人材がいなくなるのも当たり前だと言えた。
「晴、お前から見てもカスしかいなかったでしょ」
「まあ確かに。 関わり合いになりたくない体育会系の、マナー本だけ丸暗記している連中だけでしたね」
「というわけで、とりあえず黒田という奴を採用したら、リモートでのCG作成を中心にやってほしい。 しばらくは井伊の補助だ。 井伊は知的活動を本格的にやってもらうから、CG作成ばかりやれないからね」
「分かりました、そういう風に連絡しておきます」
小野寺が行くと。
大きく溜息をついた後。
罪も無い机に、高宮は拳を思い切り叩き込んでいた。
タッパのある高宮だから、机はドカンと悲鳴を上げたが。壊れる事はなかった。
大きな溜息が出る。
ああいう連中が。
この間老人ホームを回って確認した、壊されてしまった監督達を。文字通り壊してしまった。
そしてあの手の連中の同類が。
今、映画界隈に蔓延り。
広告代理店や、配給会社の役員となって。
無能ぶりを発揮し。
ろくでもない映画を宣伝したりピックアップしたり。
スポンサーの要望をまともに聞いて、演技もロクにできない連中を映画に出演させたり。
そうだとしても、ロクな演技指導もさせずに、連中を増長させる。
だから嫌なんだよと、何回か呟いたが。
まあ今回、自分の周りに寄ってきたダニは、全部殺虫剤で追い払った。
それでいいので、もう我慢することとする。
机とか部屋の内装とかを片付けた後、定時でしっかり自宅に戻る。
いずれにしても、もう次の映画の撮影は始まっているし。
この間の第十三作。「純愛ラブストーリー」は、相変わらず三分で眠れる見る睡眠導入剤として映画館で大人気だ。かなりの売り上げを出しており。高宮と同じ配給会社に所属する、他の趣味で色々な映画を作る小粒な監督の分も稼いでいる。
そうするたびに、高宮の会社内での発言力は大きくなっていく。
やがて、会社は完全に高宮に依存することになる。
それで、次のフェーズは完了だ。
もう少し同志が欲しいところだが。それはまだ先でいいだろう。
今の腐りきった映画界隈を叩き潰すためにも。
まだまだ、爪を出すわけにはいかないのだから。爪は隠しておかなければならないのだ。
1、裏方のお仕事
黒田恵子はほっとしていた。面接が通った。
それも完全リモート。しかも定時が約束されている。病院に行く日の休みについても、だ。
お給金は初任給としても、前の会社よりもぐっと高い。ありがたい話だとおもったけれども。
問題はそれらが本当に守られるか、だが。
契約書には、守られなかった場合は即座にやめていいという事と。
更に違約金を払うという事まで書かれていた。
こんな契約書は初めて見る。
前にいた会社は、黒田が体を壊して辞めたとき。
「休日に筋トレを五分すれば全て治る」だの、「気合いが足りていないから内臓を壊す」だの好きかってほざき。
医者が言う事を信用するなだの。お前は五年間何もしていなかっただの罵声を叩き込んできた挙げ句。
辞めた後にも労基に対してごね散らかした後。
労基が抜き打ち検査をちらつかせて、やっと会社都合での退職を認めたクズの集まりだったのだ。
そして、それがむしろ今の時代の普通の会社だと言う事も黒田は理解している。
それ故に、高宮監督の会社はあまりにも異質。
今の時代、こんな会社があるのか。
そう驚かされた。
ともかく、リモートで作業を始める。
高宮監督の映画は全て見た。
他の人が言うように、眠くはならなかったのだけれども。
感性は人次第だと思う。
前の会社の重役は、勝手に他人の感性を決めつけて。その趣味はおかしいだの、感性がおかしいだの人格否定を平然としていたし。
お前の顔は気持ち悪いだの、好き勝手なことをほざいていて。それがパワハラに相当するとすら理解出来ていないような輩だった。
それでも、この就職難の時代に拾ってくれたことを恩義だと考えて頑張り続けたけれども。
何一つ報われなかった。
CG作成の技術だけは身についたが、代償が大きすぎた。
いずれにしても、今日の仕事が終わったら、病院に出向いて。
幾らかのお薬を受け取ってこなければならない。
今、一日七錠の薬を飲んでいるが。
医者に言われている。
一年や二年で治る状態ではないから。
じっくりやっていくように、と。
理解している。
だから、もう諦めて。薬を飲みながら、仕事をしていくしか無かった。
特に自律神経が壊れているのは致命的で。
今もかなり強い睡眠導入剤を貰っているのに、それでも睡眠は全くというほど安定していない。
睡眠障害について告げたときに、根性が足りないからそうなるとかほざきちらした上司の事は絶対に生涯許さないだろう。
病院から戻ると、後は寝る。
CG作成については身についているし。
家のPCはゲーミングPCをやれる程度のスペックはあるので、特に問題はない。
幸い、社畜をしていた事もある。
起きるのは絶対に出来る。
淡々と作業を行っていき。
朝昼もちゃんと食事を取る。
食事は殆ど、近くの量販店で買う癖がついていた。
場合によってはコンビニの半額である。
ただし量販店の場合は、あからさまに品質が落ちる商品がまれに売っている事があるので。
気を付けて、そういうものは弾くようにしていたし。
そういうのを見分けることも、いつの間にか出来るようになっていた。
かといって自炊が得意かというとそうでもないので。
いつも苦労はしていたが。
定時まで仕事をして、進捗をメールで送っておく。
直接の上司は井伊というもっと若い子なのだが。
この子がとんでもない切れ者で。
的確な指示を毎度送ってくるので、はっきりいって困る事が全く無く。仕事はとんでもなくスムーズだった。
「コミュニケーションが得意」とか抜かしていた、今までの上司達とは雲泥どころか、完全に別物だ。
たまーに産まれると言われる一種のスペシャルなのだろうが。
それにしても、本当にこう言う子がいるんだなと、感心させられる。
そしてやはりと確信する。
高宮監督は、馬鹿じゃ無い。
世間一般では、変な映画ばかり作っている人と思い込んでいるようだけれども。実際に仕事の一部を任されて理解した。
あの人は、多分だけれども。
実態は、世間一般で馬鹿にされている存在とは別物だ。
映画を見ても、眠くならなかった。
それは黒田が、自律神経を徹底的に壊されている、というのも原因なのだろうけれども。
それはそれとして、高宮監督を馬鹿にする奴は、見る目が無いんだなと言う事を黒田は理解していた。
仕事が定時で終わる。
かといって、体を壊しているから、これからが本番だ。
風呂にはゆっくり入るように。
これは医者から言われている。
適度に歩くように。
これも医者から言われている。
できるだけ、無理をしてでも規則正しく生活するように。これも当然、しっかり守っている。
今の時代。
社会人をやっていたら、どれもできない事ばかりだが。
それでも出来るのは、この職場だから。
勿論他にも出来る職場はあるかも知れないが。
そんなものは稀少なのだと。
黒田は身で知っていた。
実際、何度か仕事で他のオフィスに足を運んだこともあるが。それらもだいたい似たような職場だった。
ある職場では、泣いている新人に対して一日中怒鳴り散らしている奴が複数存在していた。
仕事がその間とまることなんてお構いなし。
つまり仕事なんてどうでも良く。
新人叩きが名目なのだ。
その怒鳴り声を耳に。仕事のやり過ぎで遠くなりかけている意識を必死に叱咤して仕事をして。
提出物に駄目出しをされ。
何度も何度も修正し。
それでいながら、また駄目出しを受ける。
やっと完成した成果物を提出しても、それが採用されるとは限らない。
明らかに出来が悪い成果物が採用されることも多く。
そういう成果物を作ったのは、上司に媚を売るのがうまい奴であるケースが珍しくもなかった。
更に書類関係は悲惨だ。
職場ごとに独自のルールが存在していて。
テンプレートに沿って内容を入力して、それでも文句が出る。
勿論テンプレートなんかない職場もあって。
そういう所では、上司の気分次第で書類の是非が決まるのだった。
思い出したくも無いものばかりだが。
今回の仕事は、井伊という上司の的確極まりない簡潔な指示と。
それに成果物をごく全うに評価してくれる事もあって。
ストレスは零に等しい。
前は連日胃がいたくて。
血尿血便なんて日常茶飯事だったのだけれども。
今は、それもない。
とにかく、淡々と仕事をして。
その後は、治療に専念する事が出来ていた。
「まるで天国と地獄かな……」
黒田は、一人でぼやいていた。
風呂から上がると、夕食にする。
かなり早い時間だ。
前の職場だと、次の日になってから夕食なんて珍しくもなかったし。職場でおにぎりだけ食べるとかもザラだった。
今は袋麺にしても卵を入れる事が出来るし。
かなりバランスを考慮して食事を取ることが出来ている。
とてもいい傾向だと思う。
だけれども、これが本来の人間の生活というものであって。
そもそも今の労働環境がおかしすぎると言う事を考えると。
あまりこれに感謝するのも、変な気もした。
いずれにしても、この職場は手放したくない。
メールは翌朝にならないとこない。つまり深夜作業は一切強要されない。
井伊という人物も、仕事は大半リモートでやっているそうだ。
何度かテレビ会議で顔を合わせたが、口数が極端に少ない小柄な女の子だ。女として綺麗とかそういう事は一切無く。
ただ仕事が出来る、ハイスペック人間だと思った。
他の会社だと、この子は一切評価されなかったんだろうな。
いや、高宮監督でなければ、この子を見いだせなかったんだろうな。
そうテレビ会議で思って。
暗澹たる気持ちになったっけ。
寝る時間が来た。
まだかなり早い時間だが、本来は人間は、日没とともに寝て夜明けとともに起きていたのだ。
それが電球とか言うものが開発されたせいで。
一日中ずっと起きて仕事をするのが当たり前になっていった。
電球は人間世界を便利にしたけれど。
幸せにしたのかは微妙だと、高宮は思う。
勿論エジソンが、えぐい性格の変人だったことも知っている。
それを加味しても。
なんだか世の中は上手く行かないのだなと、色々考えながら眠りにつく。
勿論自律神経を壊しているから、簡単には眠れない。
うんうん唸って、途中で何度も目が覚めて。
それでやっと眠って。
眠れるのは、生きるのに最低限の時間だけだ。
こんな体にしてくれた会社には、賠償をする義務があると思うけれど。
残念ながら。
今の時代は、そんな義務は機能しておらず。
責任ばかりが要求されるのが、実情なのだった。
幾つか任されていた仕事を納品していく。
高宮監督のCGは、とにかくシュールな場面。笑える場面。怒りを覚える場面。そういった感情の起伏が生じそうな場面を、悉く潰して行く。そういう傾向で作られているようである。
それについて疑問は口にしない。
そもそも口に出来る立場ではないし。
なんとなく、見る睡眠導入剤扱いされているのも、それが理由だろうと分かるからである。
そしてこの仕事をしていると、見えてくる。
高宮監督は、意図的に作品をつまらなくしている、と。
だけれども、どうでもいい。
淡々と仕事をやっていく。
CGを作っている時に。デザインのセンスがどうのこうのと、いつも罵声を浴びせられたっけ。
おかしな話だ。デザインについては、デザイナーが作ったものを正式に採用しているのに。
そのままCGにしているのに。
それどころか、明らかに歪んでいたり。
デザインから逸脱したものが。
上司のお気に入りの人間が作ったというだけで、採用される例を黒田は何度も見てきている。
だが、今の仕事ではそういう理不尽はない。
とにかく作業指示が的確極まりなく。
作業はやりやすくて仕方が無かった。
上司である井伊も、確実に仕事をする黒田を褒めてくれる。
これはとても嬉しい。
年下の、下手すると小学生くらいに見える子に褒められて嬉しいと言うのも妙な話だが。
それはそれだ。
見かけで人間を判断する事がどれだけくだらないか、というのもあるし。
そもそも井伊は本当に仕事が出来る人間だ。
だったら敬意を払うのが残当である。
だから黒田は敬意を払う。
実際、井伊はどうやら高宮監督のブレインとして働いているらしい。高卒で会社に入ったのに、である。
学歴社会が崩壊してそれなりに長いが。
大学で遊んでいる暇があったら、会社の第一線で働いてほしい。
そう言われて、そうしているようなので。
まあとにかく、凄い逸材であることは確かだ。
病院に行く日なので、有給の申請を出す。
勿論すんなり通る。
そもそも休日なんてものが存在しなかった前の会社に比べると、本当に有り難い話である。
ただ、病院に行く日は。
全日潰れてしまうし。
採血とかもさせられてしまうので。
それはそれで、嬉しいとは言えなかったが。
納期通りに仕事は出来ている。
無理のある仕事量はこない。
これだけで、どれだけ有り難いか。本当に感謝しながら、病院に必要なものを準備して。それでねむる。
睡眠障害に関しては、十年単位で治療に時間が掛かる事を覚悟しろと言われているが。それについてももう覚悟は決めている。
それでも。
どれだけ環境を整えても。
結構強いお薬を入れても。
全く眠れない事については、一切変わりが無い。
それはそれで辛いものだ。
起きる。
時間通りだ。
睡眠は四時間ちょっと、と言う所か。眠れる日は六時間程度眠れる事もあるのだけれども。
今日はこのくらい。
病院にいくまでに、気絶したりしなければいいけれどと思ったけれども。
何とか耐え抜くしかないだろう。
会社で何度か気絶して。
その度に、顔を真っ赤にした上司に。気合いが足りないだの、社会人としての意識が薄いだの、凄まじい勢いで罵倒され。
医者に書いて貰った診断書を見せたら、そのままシュレッダーに掛けられた事は忘れていない。
どこもこんな場所なのだと諦めていたが。
今はもう、それもない。
病院に到着。
予約を入れていても、今は病人で一杯なのがこういう場所だ。
業病がこういうところでクラスターを起こすのも納得である。
手を消毒して、保険証を出し。そのまま診察を待つ。
かなり早めに来たのに、たっぷり三十分以上待たされてから、診察を受ける。そして、採血された。
前は枯れ木のように痩せていて、医者にどういう食生活をしているんだと怒られたのだが。
今は多少はふっくらして来ている腕。
太らないように気を付けてはいるが。
これは健康的にふっくらしてきているので。むしろ喜ぶべき事だろうと思う。
いわゆる拒食症になって、本当に骨と皮だけになった人の写真を見た事はあるけれども。
あれは本当に悲惨な状態で。
見ていて可哀想になってくる。
だから、今の状態はこのましい。
最近は、目の下の隈も薄くなってきている。有り難い話だった。
それはそれとして、採血は苦手だが。
ともかく、健康診断をしたあと、医者に言われる。
「だいぶ改善してきたけれども、まだ当面投薬を続けるので、規則正しい生活をしてください」
「分かりました」
「ともかく無理はしないように」
こくりと頷くと、診察を終える。
医者も医者で激務だ。
相当に大変だと聞いているので、気持ちは良く分かる。
そのまま病院を出る。朝一番に来たのに、もう十時をだいぶ過ぎていた。
後は移動して、薬局に。
お薬を受け取るが。
お薬の値段に、思わずうえっと声が出てしまう。
まあ一日七錠も飲んでいるのだ。
薬漬けもなにもない。
そうしないと、内臓がもう駄目なのだ。
肝臓は壊滅状態。
腎臓もかなりヤバイ。
体がこんな状態なのに、気合いだのなんだの精神論を口にしていた上司の異常さが良く分かる。
「みんな頑張っているのになんだその態度は」とか抜かしていたっけ。
そしてこれで保証も一切受けられない。
何のために生きてきたんだろうと、泣き濡れたこともあったっけ。
結局死なずに生きていられるけれども。
それも厳しい状態だ。
お薬を貰った後、家に戻る。
二時を過ぎていた。
外に出たので、色々生活物資も買い込んだからだ。
貯金はあっても一切使い路がない状態だったが。今は新しい仕事で給金が出るので、カツカツであるが何とか黒字にはなっている。
無言で家事を済ませている内に、夕方に。
昔はゲームが好きだったけれど。
今は、ゲームは大嫌いになっていた。
あれだけの事があったのだ。
当然と言えば当然である。
ただ、CGを使っていないようなインディーズゲームは割と好きである。
そういうのはたまに、ちょくちょくとやったりする。
低予算だけあってチープだったり。ゲームバランスがあらゆる意味でおかしかったりするのが難だけれども。
それはそれとして独自の魅力がある。
グラフィックがーとか。CGがーとか。
ゲームハードの性能がーとか。
そういう事をほざいて、作品を貶す阿呆がいるが。
実際にゲームを作っていた立場から言わせて貰うと。
ゲームの価値は面白いかどうかだ。
グラフィックがなんぼ綺麗でも、駄目なゲームは駄目だし。
そもそもとして、そのCGにどれだけ金が掛かっているか、考えた事はあるのかと。金が掛かっていると言う事は、どれだけの血涙が流れているか考えた事はあるのかと問いただしてやりたい。
実際、インディーズゲームでもいいものは幾らでもある。
そう考えると、黒田は今はたまにインディーズゲームをやるだけだが。
さかしげにゲームハードが云々と口にする輩は、反吐が出る程嫌いなのだった。
夕食の時間が来る。
明日の予定を確認。
納期の成果物についても確認しておく。
仕事に追われ続けた故、身についてしまった習性だが。
この程度の手間なら、楽なものだ。
今、かなり納期が厳しいものは特にない。
というか、どれも余裕を持ってやれる仕事ばかりである。
前倒しで出来る仕事すらある。定時の仕事なのに、である。
そして前倒しで仕事を終わらせると、井伊が的確に新しい仕事を回してくれる。それも有り難い。
仕事は面白い。
はっきりいって、今までの身を削って日銭を稼いでいた状態とはまるで違う。
これが本当の意味での、信頼関係で結ばれた上司と部下なのかなとも思う。
忠誠心と献身ばっかり要求して、自分では何もしない今までの会社とは大違いである。
翌日に、希望が持てている。
それだけでも、とても大きかった。
2、速度上昇
高宮は井伊とテレビ会議で連絡をする。
この間、補助要員として雇い入れた黒田についてだ。
一ヶ月後に、軽く話をしようというのは決めていた。
緊急事態でない限りは、基本的に定時以外でテレビ会議は行わない。
今日も、それは同じだ。
それで、最初っからあけすけに話をする。
そもそも井伊の事は同志だと考えているからである。
公的な場では勿論分別はつける。
だがこう言う場では、同志として振る舞うと、井伊と小野寺には話をしてあるし。向こうもそれを承知してくれている。
勘違いされやすいのだが。
忠誠心というのは、勝手に相手が持っているのが前提となるものではない。
こうやって、作っていくものなのである。
誰が使い潰す気前提で扱ってくる相手に、忠誠心なんて抱くだろうか。
そんな程度の事も理解出来ない連中が、今の時代は社長だの重役だのを当たり前にしている状態だ。
これは映画業界だけではなくて、全ての会社でそうである。
嘆かわしい話である。
バイトテロなんてものが起きるのも、当たり前だろう。それは、そんな事をされて当然の状態を、会社側が作っているのにも一利ある。
むしろ、バイトテロ程度で済ませているのだから。本邦の労働者は穏便なのかもしれない。
「それであの黒田という子はどう?」
「なかなか」
「ふむ」
「仕事は的確に出来る」
いや、井伊の指示が良いのだろうと高宮は思う。
メールのやりとりは見ているのだが、とにかく指示が恐ろしく的確で。やるべき事を必要なだけ伝えている。
これは実際にはあまりできない事だ。
コミュニケーション能力がどうのこうのと口にする人間がやたらと増えている現在社会だが。
実際に意思疎通を相手ときちんと出来ている奴はほとんどいない。
自分にも問題があると考える者は、特に殆どいないのが現状だ。
いずれもくっだらないビジネス書とやらを無責任に書き散らかした連中の責任なのだろうが。
今はそれはいい。
井伊は小野寺のアドバイスを受けながらメールを書いているようだ。
本当に女房役なんだなと思うし。
井伊もその辺り、小野寺に依存していると言う事だろう。
小野寺は小野寺で、井伊の能力を最大限に評価している。
理想的なコンビだ。
この二人こそ、高宮の宝である。
勿論日野茜も大事だ。
毎回泣きそうになりながらも、しっかり高宮の無茶ぶりに答えてくれる。
今撮影しているアルティメットコメディーシリーズ第十四作。「正当派コメディ映画」でも、しっかり脇役をこなしてくれている。
わざと意味不明にした脚本を、自分なりに頑張って解釈しながら。
ここに、黒田も加わるかも知れない。
それが、高宮には嬉しかった。
「分かった。 それなら、無理がない程度にしごとを回して、今後は昇給も考えてくれるかな」
「私がそれを判断して良いと?」
「うん」
「分かった。 そうさせてもらう」
井伊も仏頂面だが、まんざらでもなさそうだ。
そう。
こういう行為が、忠誠心を作る。
今回の場合は同志だから、忠誠心というのとは少し違うかも知れないけれども。
信頼と利。
この両輪がなければ。
命を賭けて尽くしてくれる人材なんて、生じる訳もないのである。
そんな程度の事も分からない猿が、今は多すぎると言う事だ。
「晴とは上手く行ってる?」
「晴は私に取っての刎頸の友だ」
「これはちょっと古い表現だなあ」
「古くてもかまわない。 これに勝る表現を思い浮かばない」
刎頸の友。
その友のためなら、首を刎ねられてもかまわないと言う程の友情を指す。
苛烈な表現だが、小野寺と井伊の場合は確かにこれが最適な表現だろう。
いずれ高宮と小野寺。高宮と井伊の間にもこの関係を作っていきたいし。
やがては高宮と黒田の間にも、この関係を作っていきたい所だ。
もしもその関係にまで至ったら。
黒田に真相を話すのも、それはそれでいいだろうと思う。
「今後は仕事のペースを上げられそう?」
「それについては任せてほしい。 私は知的活動が来たらやるけれど、普段はCG作成を黒田と一緒にやる。 その他にも、誤字脱字のチェックとかやる」
「お。 それはありがたいな」
「……」
誤字脱字が全く無いことで有名な高宮の脚本だが。
毎回毎回苦労に苦労を重ねて誤字脱字をとっているのである。
これが相当な重労働であり。
いつも苦労しながら、誤字脱字をとるために何度も敢えて虚無にしている脚本に目を通している。
既に井伊は、その敢えて虚無にしているのを理解しているから。
誤字脱字のチェックのみに集中してくれるはずだ。
実に労力を短縮できる。
「分かった。 それなら、今手元にある三十作ほどの脚本をそっちに送るから、誤字脱字のチェックをしてほしいかな」
「了解」
この了解も。
一時期どこかのマナー講師が失礼だのなんだのほざいて、物議をかもしたことがあったっけ。
ご苦労様とお疲れ様が、本来同じ意味だったのに。
マナー講師がくだらない理屈で勝手に優劣をつけ。
それがいつの間にか定着してしまった例だけではない。
マナー講師が勝手に作りあげたルールのせいで世間は大混乱を続けている。
パワハラ上司になると、この手の本を読んでは。部下にぎゃあぎゃあ言葉一つで失礼だのなんだのわめき散らし。
それが毎度変わるのだから、本当に始末におえない。
これらについては。高宮もスタッフが俳優や後輩にやるのを見た事がある。
そして、その場で首にされたスタッフは。
真っ青になり。
周囲はいい気味だと、その様子を見ていたのも覚えている。
誰も彼もがうんざりしている。
圧政のためのシステムをつくって悦に入っているマナー講師と。それを利用しているクズ共にだ。
それは間近で見ているから。高宮も知っていた。
さて、脚本のデータを送ると。
さっさと次の作業に入る。
明日の撮影についてのスケジュール構築だ。
今回もシュール極まりない作品を撮っているから。俳優だの副監督だのに頼る事はできない。
基本的に撮影は、ホトケの高宮の言葉通りに進めていくが。
それには事前に、念入りに準備をしておくことが必要なのだ。
寝る前に、頭の中で撮影のスケジュールを組んでおく。
今まで終わった撮影についても確認しておく。
全ての確認が終わるまで三十分ほど、頭をフル活動させた後。
寝る事にする。
会社の人間にも教えていない個人用のメールアドレスは、今の時点で小野寺にも井伊にも渡してある。
同志であるからだ。
それについては、二人も理解してくれている。
そして、今の時代。初任給で四十万。更にボーナスで二ヶ月分、なんてのが出る仕事が。一部の余程景気が良いか、もしくは悪事でもしているような会社でもないかぎりあり得ない事も。
いずれ二人の給金はもっと上げるつもりだ。
稼いでいるんだから、会社にああだこうだと文句を言わせるつもりもない。
会社に対する影響力は、更に映画で稼いでいけばもっと強くする事が出来る。
あの盆暗の社長に、高宮ははばめない。
更にこの間、専務だったかにも大きなくさびを叩き込んでやった。
小野寺が会社に目を光らせている状態だ。
このまま上手にやっていけば、いずれ苦も無く配給会社は高宮の魔の手に落ちることになるだろう。
良い傾向である。
すっきりねむって。
すっきり起きる。
朝になると、決まった時間に起きて伸びをする。
芸大時代から。いや、高校時代には、もうこの生活スタイルは確立していたっけ。どれだけ文句を言う高校の教師も芸大の講師も。高宮が電車遅延以外で絶対に遅刻しないことだけは認めていた。
まあ、遅刻しないだけの奴だとか陰口をたたいていたようだが。
いつも通りの時間にコーヒーの写真をSNSに上げる。
相変わらず速攻で拡散されて。
大量にコメントがぶら下がる。
最近は、一時期の攻撃的なコメントをしてきた連中は完全に沈黙した。
まあ実際に告訴で一人潰したのが大きいのだろう。
あれ以降、高宮は地蔵の高宮とも言われるようになったようだ。
地蔵菩薩は、地獄における閻魔大王の別姿だという説がある。
つまり。普段は穏やかな地蔵のようだが。
一度怒らせると閻魔大王に早変わり、というわけである。
おかしな話だ。
閻魔大王は地獄の最高裁判所の裁判長のような存在であって。
西洋で言うような大魔王だとか、悪魔だとかではないのだけれども。
まあそれはいい。
今日もルーチンを全てこなすことにする。
それだけ、背後関係が。高宮の周囲では、充実し始めていた。
黒田は少しずつ、体が良くなって来ているのを感じていた。
定時で仕事が終わる分だけ来る。
井伊という上司は本当に有能だ。
最初の数回の納品で黒田の技量を見極めると、後は定時で上がれる分の仕事を的確にまわしてくるようになった。
本当にこの辺りは、年下の相手とは思えない。
老獪さすら感じる程だ。
更に、病院に行くスケジュールに関して、事前申告してほしいという連絡をしてきた。
これについても、事前に連絡を入れておく。
有給は、毎回おりた。
更に、である。
睡眠障害などの病気に対しても、井伊は理解がある。
これだけで、ブラック企業に良くいる。精神論やら筋トレやらで病気が治ると本気で信じていて。
医者の言う事を信用するなとかほざき散らす阿呆とは、完全に一線を画している相手だった。
黒田は淡々と仕事をしていくが。
それによって、図らずとも規則正しく生活が出来る。
昼もゆっくり食べる事が出来るし。
定時になったら切り上げて。スケジュールを確認。
納期にあわせて仕事をする。
今は頑張る、ということをしないのが黒田の仕事だ。
頑張る、か。
都合よく悪人達に利用された結果、どれだけ人の体を壊してきたか、分からない言葉になってしまった。
今の黒田は、まず体を治さなければならない。
そのために、虚無映画のCGを作らなければならないが。
客は入っているのだし。
SNSなどを見ると、なんだかんだでみんな楽しんでいる。
だから、それでいいのだろうと思った。
次の高宮監督の映画からは、黒田のCGがかなりの比率を占めることになる。
そう思うと、中々に面白いなとも思う。
ヒット作にこんな形で関われるなんて。
割と面白い。
スケジュールは予定通りに進んでいる。
ただ、おなかがかなりきりきりと痛む事がある。
五年に達するブラック労働で、内臓がメタメタになっているのだ。
しばらく無職でいたが。
その間は、毎日生きた心地がしないレベルで、体が悲鳴を上げ続けていた。
若いうちは、ブラック労働を辞めるとみるみる健康になる、なんて人もいるようだけれども。
それももう、過去の話だ。
二十代前半で、ブラック労働で心身を壊されて自殺する人が出るようになっているのが今の時代だ。
産業革命時代の英国と大差ない無茶が行われている。
その内、子供も労働者として使うのでは無いかと黒田は思っている。
何しろ、定年退職した老人までまた仕事に狩りだしているくらいなのである。それもボランティアと銘打って無料で、である。
何を考えているのか色々言いたいが。
もう、そういう世の中であり。
労基ですら抑えきれないのだから。黒田にはどうにも出来ない。
そして体を壊された黒田には何一つ保証もされない。
とても悲しい話ではあった。
「!」
SNSを見ていて気づく。
IT関連の業界にいた黒田だ。
SNSについては、幾つかのアカウントを持っていて、使い分けている。
その中の一つ。
趣味で作った、危険な思想の人間。
テロを指嗾したり。過激な思想の持ち主の連中を監視するために作った鍵アカウント。それで、いわゆるポリコレ思想を推している人間のアカウントで、妙な動きがあるのを発見した。
高宮監督の映画に対して、どうにかケチをつけられないかと相談しているのである。
なるほど。
ポリコレもフェミニズムもそうだが。
背後にいるのは、人権を金にして喰っている連中。最悪の詐欺師である人権屋どもである。
ポリコレだのフェミニズムだのの前面で騒いでいるのは、カルトの末端信者と同じ思考能力を放棄した連中だが。
背後にいるのは、カルトを実際に運営し、人間を騙す事に特化したプロの詐欺師だ。
こう言う連中は人間心理の掌握に極めて長けていて。
カルトなどに遊び半分で神学者とかが出向くと。ミイラ取りがミイラになって信者になってしまう。
そういうことが簡単に起きうる。
この程度の事は、黒田だって知っている。
すぐに井伊に連絡。
連絡を入れると、井伊は確認を即座に取ってくれた。
「なるほど、貴重な情報ありがとう。 助かる」
「いいえ。 居心地がいい職場なので、潰されるととても困ります」
「それはともかくとして、こんな時間まで起きていて大丈夫か」
「その、井伊さんこそこんなに私を楽させて大丈夫ですか?」
ちょっと心配になったのだが。
井伊は全く声のトーンを変えないで答えてくる。
「かまわない。 黒田さんの体が壊れてしまっているのは、此方でも把握している事だから、気にせずねむってほしい。 それが今の黒田さんの仕事だ」
「……ありがとうございます。 貴方みたいな上司ばかりになったら、どれだけこの世界が良くなることか」
「残念だが、今の時代は最果ての時代だ。 それについては仕方が無い。 私だって、機会に恵まれなかったらどうせろくな人生を送らなかっただろうさ」
静かな自嘲が含まれているのが分かる。
井伊さんはとにかく頭が良い。
それについては黒田もよく分かっている。
六法全書を丸暗記しているらしいと聞いたが。
正直、部下として働いている黒田から見れば。
それも無理がない働きぶりだと思う。
言葉に甘えて、眠る事にする。
まだ黒田は三十になっていない。
だから、なんとか体は回復出来る可能性はある。
だけれども、内臓とかが滅茶苦茶になっているから。お薬をたくさんのまなければならないし。
お薬にはどうしても副作用というものがあるのだ。
睡眠導入剤をはじめとしたお薬を一通り口にして。
それでやっと床につく。
少し心配だったけれども。
それでも、夜半過ぎにはどうにか眠る事が出来ていた。
あまり明晰夢は見ない方だが。
悪夢は散々見る。
高宮監督が追い払われて。ブラック企業でまた働くようになった夢だ。
黒田は甘えていると言われた。
体なんて誰だって壊している。
だから死ぬまで働け。
そう言われて、徹底的に使われ。とうとう電車に飛び込む事になった。
電車に飛び込んだ後。
粉々に体が砕け散った後も、意識がある。
周囲からは、ひたすら罵声が聞こえてきていた。
「電車なんかに飛び込みやがってクソが!」
「迷惑だから余所で死ねって言うんだよ! 遅刻するだろうが!」
「死ね! 地獄に落ちろ!」
「クズが!」
散々感情的な罵声が聞こえてくる。
黒田も、ブラック企業時代は。徹夜開けの電車に乗ったり。終電に乗って、始発に乗ったりした。
そういう電車ですら、ぎゅうぎゅうに混んだ。
そして電車が人身事故で止まると。
似たような心ない罵声が、周囲から飛び交ったものだ。
明日は我が身。
どうしてそれが理解出来ないのだろうと、不思議でしようがなかった。体を本格的に壊し始めてからは、その思いが更に強くなった。
人身事故だと伝えても、上司は感情的にわめき散らした。
始発で乗って来ているのに、それでも遅刻する方が悪いと。
残業は異常な時間やらせて、それで給金に追加される金なんてほんのわずかなのに。
電車遅延で、別に遅刻したわけでもなく開始より早く来ているのに。
それなのに、指定通りの時間に来ていないとかいう理由で。
給金は容赦なく棒引きされたっけ。
更に場合によっては上司がずらっと集まって、黒田に対してパワハラで説教したりもしたな。
あるアニメで、残虐な支配者が部下を粛正するシーンが「パワハラ会議」として話題になったが。
あれと全く同じ構図だった。
目が覚める。
泣いていたのが分かった。
弱り切った心と体。
この仕事に偶然ありつかなかったら、もうとっくに首をくくっていただろう。
実際電車に何度も飛び込む事を考えたし。
富士の樹海に、自殺しようと出向いたりもしたのだ。
手首は怖くてきれなかった。
何度も何度も覚えていないほど自殺のやり方について検索して、首をくくるのが一番楽そうだと思って。
それでロープを取り寄せて。
完全に鬱状態になっていたから。実際にロープを使わず。
なんとか耐える事が出来たっけ。
起きだすと、歯を磨いて顔を洗う。
SNSでニュースを見ると、以前いたブラック企業が潰れていた。
まあこの時代だ。潰れるのも当然だと思う。
ざまあみろと思ったが。
ただ、不思議といずれ来る運命だと分かっていたのだろう。
それについて、どうこう今は思わなかった。
ただ、会社に残った子達が可哀想だなとは思ったけれど。
それ以上の感情は湧かなかった。
着替えをして、すっきりすると。
そのまま仕事に取りかかる。
ちょっとフレックスになるけれども。以前通勤で無駄にしていた時間を考えると、こうやって早く始めて。早く終わるのもよいだろう。
定時で仕事を行って、しっかり終われるようにスケジュールが組まれているのである。
神がかった采配であり。
仕事のお直しについても、丁寧に指示が来るのでだいたい一発で終わる。
こんな職場を手放すわけにはいかない。
だから黙々と、黒田はCGを作り続けた。
昼過ぎまで仕事をして、食事をとる。
昔は昼抜きも珍しく無かったが。
今は、昼をきちんととれるようになっていた。
大手のゲーム会社が潰れることは流石に最近はあまりなくなってきたが。
下請けや関連企業は普通に潰れる。
SNSを見ると、潰れたことに関してコメントが幾つか出ていた。
「あの会社潰れたらしいな」
「ああ、そうらしい。 まあそうだろうな。 俺も話は聞いたことがあるが、どブラックで重役連中は脳筋のイエスマン揃い。 社長も最近耄碌してきていたらしいから、当然だろうな」
「そんなに酷いのか彼処」
「何人か話を聞いてるけど、この世の有様じゃないみたいだな。 一時期の最悪のゲーム企業の状態を、今にまで引きずってるような会社だったらしいし」
その通りデース。
経験者である黒田は苦笑しながら様子を見る。
他にも、幾つかの話が出てくる。
元々技術力で評価されていた会社ではなかった。
CG作成では、もっと優れた会社がいくらでもあった。
更に、無理矢理参加させられた飲み会で。上司達が放言しているのを何度も聞いたことがある。
オタクなんか適当に仕事してればだませる。
金づるの分際で、適当に口開きやがって。金だけ払ってればどうでもいい。
従業員だって、代わりの人間なんて幾らでもいる。反抗的な奴は徹底的に調教しろ。犬だと考えて、そう扱え。それも頭が悪い犬な。
顔を真っ赤にして酔っ払い、ゲラゲラ笑いながらそう話し合っている上司達を見て。みんな同僚は死んだ顔をしていた。
その中には、実際に死んだ人もいたけれど。
誰も問題にもせず。事件にもならなかった。
ため息をつくと、顔を叩く。
会社は潰れた。
ともかく、今はこういう過去のフラッシュバックをなんとか消し去って。明日につなぐための命に替えたい。
井伊は言ってくれた。
今は体を治すために、規則正しく生活をするのも仕事だと。
そんなこと、言ってくれる企業なんて今は存在していない。
それについては、黒田は断言してもいい。
出向で、幾つもの会社を見て来たけれど。
どこも状況は同じだった。
支配しているのは人面獣心の畜生以下。
だから、此処からは、もう離れたくなかった。
黙々と仕事をする。
学んできた技術をフル活用して、仕事を続けていく。
成果物が出来たので、徹底的にチェック。
満足がいったので、定時の少し前に納品した。
井伊から殆どノータイムで返事が飛んでくる。定時前に、だ。
これも前はなかったっけ。
普段はエロ動画ばかり会社で見ているくせに。成果物を提出すると、忙しいだのなんだの言って。
七時とか八時とかになってから、此処が駄目だから今日中に直せとか言ってくるクソ上司とは偉い違いだ。
それだけじゃあない。
「修正箇所は以上だ。 明日にもう一度提出してほしい。 チェックリストも作っておいたから、修正時には活用してほしい」
「分かりました。 使わせて貰います」
「ん」
連絡終わる。
きっちり定時だ。
少しフレックスで仕事をしたけれども。これならば、別に文句はない。それに、明日は早めに仕事を切り上げられそうだ。
んーと伸びをする。
まだまだ、壊された体は治る気配もない。
同じ会社にいて、死んでしまった同僚は。事故と言う事で片付けられて、労基も一切動かなかった。
黒田が辞めたあと、残った同僚達は無事だっただろうか。
仲が良い同僚はいなかった。
これは会社の方針で。
無理矢理会社で開催するスポーツ大会とかには参加を強制する事があったけれども。
横での連携を取られると、労働組合とかを作られる可能性があるとかで。それで監視されていた。
密告も奨励されていたっけ。
それについては、誰もやらなかったが。
どんな企業にも、カスみたいな奴はいるもので。自分より下の奴を探して血眼になっていたりするものだが。
あの場所では、そんな事をする余裕も誰にも無く。
それで、上司は誰もやる気が無いとか、訳が分からない理由で憤慨していたなあ。
ソファで横になる。
このソファ、初任給で買った。
久々の贅沢だった。
横になってみると、いい感触だ。
しばらくぼんやりしながら、涙を拭う。まだ、体も心も。当分、ついた傷は癒えそうにもなかった。
だが、加速している。
仕事も、人生も。
良い方向に。
それだけは、確かな事実で。本当に、黒田にとっては嬉しい事だった。
3、補助のありがたさ
はいカット。
そう高宮が声を掛けると、俳優達はぐったりした様子で一旦体を弛緩させる。
まあそれもそうだろう。
意味不明のシーンが続くのは相変わらずだ。
それに、訴訟の件もあったからだろう。
高宮の評価は。以前はホトケの高宮として俳優達には意味不明だけれども温厚な人だと思われていたようだが。
今ではすっかり地蔵の高宮と変わり。
閻魔大王の側面を持つと思い込まれている。
別に閻魔大王に対する誤解はどうでもいいのだけれども。
俳優に怖れられるのは。
まあいいか。面白いし。別に恐怖で人間を統制しようとか高宮は思っていないので。これについては、許容するつもりでいた。
「次はシーン202。 それまで五分休憩」
声を掛けると、スポーツドリンクを飲む。
そして、休憩所に行くと。
スマホの電源を入れ、メールを受け取っていた。
井伊からだ。
連絡があったのだ。
どうもポリコレを裏から指嗾している人権屋が、高宮作品に目をつけたらしい、という情報を。
情報の出所は黒田からだ。
趣味で以前から危険思想のアカウントを調べているらしいのだが。その結果偶然見つけたものらしい。
ともかく井伊の方でも調べて貰って。
その結果をすぐに出して貰った。
「例の件だが、結論から言うと貴方の作品に対して今ケチをつけるのは難しいという事になっている様子だ」
「ほう。 何でも骨までしゃぶり尽くす連中なのに」
「それだけ貴方の作品が難解……というか意味不明という事だ。 あの手の連中は、なんでも分かりやすく落とし込んで叩きに掛かる。 フェミニズムが良い例だが、立場が弱い女性がこの作品ではモノ扱いされているとかぬかして、人権を盾に攻撃する」
その通りだ。
そのくせ、自分達は立場が弱い男性を差別して平然としている。
おぞましい矛盾だが。正義だと錯覚しているから気づくことさえできない。
フェミニズムの尖兵となっている連中は、正義の棍棒を渡されているから。鬼の形相になって夢中になって暴力を振るっているが。
客観性という鏡を持っていないので、自分の顔を見る事が出来ない。
鬼の形相になっていることも。
血まみれの棍棒を持っている事も。
おぞましい顔で暴力を振るっていることさえも。
分かっていないのである。
そんなだから、人権屋の手先にされるのだが。
「貴方の作品には、そういう分かりやすい攻撃をできる点がない。 欧州だと特定人種だけ使うのは差別だというのが今のトレンドだが、貴方の作品は、特に最近のものは人間すら使っているとは言い難い」
「確かにポリコレという観点から私の作品を攻撃するのは無理があるね」
「そういうことだ。 ただ、もしも攻撃の糸口を連中が見つけた場合にはすぐに私が対処する。 ポリコレによる炎上は厄介だ。 先に手を打って置かないとまずいかも知れないから、私はしばらく先手を打つのに回る」
「CG作成は大丈夫?」
問題ないと、井伊は即答した。
まあ井伊の見立てなら大丈夫だろう。
あの黒田が、予想以上に出来ると言う話は聞いている。
代わりは幾らでもいる。
そういう思想の元、そんな出来る人材をつぶしかけた会社は許しがたいが。
残当な事に。その会社は潰れたそうである。
社長は失踪。
恐らくだが、闇金業者か何かに埋められたか沈められたか。
役員連中も概ね同じ運命を辿ったことだろうと言う事だ。
闇金の連中は反吐が出る程嫌いだが。
まあ今回については、警察も何故か裁かない連中に、恐怖と死をくれてやったということだけでは評価する。
そのまんまお前らも潰れて死ね、と思うが。
はっきり言って、それ以上は何とも思わなかった。
「では後は任せる。 危険な相手だから、油断はしないでね」
「承知している。 了解した」
通話を切る。
まあ通話と言っても、殆ど亜音速で指を動かしてスマホでメールのやりとりをしていたのだが。
それはそれ、これはこれだ。
ともかく、次である。
撮影のペースは一時期よりも遅れていたのだが。最近、またペースが上がって来ている。
全部自分でやっていた状態から、同志が加わった事で。状況が変わったからである。
これは高宮にとっても有り難い事だ。
今後も取り巻きはいらない。
同志は増やして生きたい。
大望のために。
休憩を終えて、監督の椅子に戻る。俳優達は、すでにスタンバイしていた。
「はい、じゃあ撮影開始」
カメラが回る。
「正当派コメディ映画」として撮影している今の映画だが。
実際の内容はシュール過ぎてジャンルを分類することすら出来ない状況になっている。
俳優達も、場の空気がコメディ映画の撮影では無いと思っているようで。
みんな目が死んでいるが。
目が死んでいるのは、高宮映画の撮影ではいつもの事なので。
まったく気にする必要はない。
今は、階段を横に転がりながら、いわゆる暗黒舞踏を行っているシーンを撮影している。
前衛的なダンスだが、まあそれはそれで別にどうでもいい。
階段を転がり落ちるのだから、色々と危険が伴う。
そのため、危険を徹底的に排除するべく、さまざまな工夫をしていた。
なお、暗黒舞踏するのは日野である。
スタントいらずと本人が申告していた通り、実際に大した身体能力である。
なお全身黒タイツで顔も隠している状態なので。
ポリコレもクソもあったものではない。
「はいカット。 それでは五分休憩後、シーン21」
慌てて俳優達が脚本をめくる中、次のシーンに出番がないと知っている日野は着替えにいった。
この撮影では。皆普段着で撮影するという画期的な試みをしている。
というのも、今回はCGで優秀なバックアップが加わった事もある。全員の服をゲーミング仕様にしてみようと思っており。
以前は手間が大変だろうなと思っていたのだが。
基礎的な設定なんかは全部井伊がやってくれたので。
それにそって応用部分を黒田が作り。
色々と、実際にやれそうになっているのである。
まあ、編集は流石に高宮がやるのだが。
「はい、撮影開始。 スタート」
俳優達が動き出す。
今度は五人の俳優が、息をあわせて頭上で手を打ち合わせるシーンである。
足を交差させ、何度か手をうちあわせて。そしてシュールで哲学的な台詞を喋るシーンだ。
流石にプロだけあって、全員が一発で台詞をあわせてくる。
なおずれた場合には、後で声だけ吹き込む。
そもそもこのシーンでは、全員をCGで黒子にするつもりなので、何ら問題はないのである。
はいカット。
高宮がいうと、全員がげっそりした様子で、椅子に座る。
十分休憩を指示して、時計を確認。
日野が戻って来た。
ささっと着替えを済ませたらしい。
まあこう言う場所だ。劇団時代に、早着替えはマスターしたとか言っていたっけ。まあ高宮に言ったのでは無く。
泣きながら相談を求めて来た新人俳優に相談に乗っているのを、影から聞いたのだけれども。
「はい次はシーン71ね」
すぐに俳優達が動く。
全員が普段着だから、全くもってよく分からない状況ではあるが。
それでも、頭の中に。高宮の頭の中には、全体像が出来ている。
そして創作者の仕事は、この頭の中のイメージを的確にアウトプットすることだ。
高宮の場合は、敢えて虚無にアウトプットすることが重要なのだけれども。
それは現時点では客観的に出来ている。
撮影を開始する。
今度のシーンでは、交差するように側転する俳優達と。その真ん中で、手を空に掲げた脇役が。
哲学的な台詞を喋るというシーンである。
うんうん。
完全に無意味だ。
これぞ実に虚無。これでいい。
そう思いながら、OKを出す。
俳優達の目は死んでいる。何をもうどうすればいいのかと顔に書いているし。そして精神的な疲弊も凄まじい。
ここで高宮が無茶ぶりをすれば、心が壊れてしまう人もいるかも知れないが。勿論そんな事はしない。
日野茜だけいれば充分。
日野にしても、事務所に掛け合って当分うちの映画で使うのでヨロシク、とは伝えてある。
その内、いっそのこと引き抜くつもりだ。
話によると、日野の今の給金は手取りで十五万程度だそうである。
これだけヒットした映画の主演も務めた俳優が、である。
流石に映画ヒットの直後には、ボーナスは出たそうだが。
それでもいくら何でも少なすぎる。
芸能事務所なんてのがろくでもない場所であるのは分かりきっているが。それでも何とかならないのかと思う。
役にも立たない脳筋のイエスマン重役にバカみたいな給金を払うくらいだったら。
それこそこういう前線で仕事をしている人に金を回すべきだろうに。
さて、撮影を再開。
日野は淡々と、死んだ目で撮影に応じるが。
そろそろ他の俳優が限界かな、と思う。
今回も正気度をゴリゴリ削る撮影内容だ。
まあ色々と、心がおかしくなっていく人も増えていくだろう。
だが、それすらも。
高宮は織り込み済みである。これでも、伊達に既に十四作も映画を撮っていないからだ。まあどんだけ映画を撮っても全然成長しない監督もいるが。これでも高宮は高IQが自慢だ。常に成長と改善を求めている。
故に、スケジュールについても大丈夫。
五時を少し過ぎた所で、きょうの撮影は終了。
定時の前に、俳優達に話をしておく。
「明日から休暇を順番で入れるのでよろしく。 休暇の間は絶対に呼び出さないので、温泉なりなんなり使って心を休めるように」
顔を見合わせる俳優達。
まあいつもどんなブラック職場にいるのかそれだけでも分かってしまうのが悲しい。
定時になったので、皆を上がらせる。
さて、此処からだ。
幾つか、やっておかなければならない事がある。
定時後に仕事をするつもりはない。
ただ、同志とのやりとりはする。
自宅にささっと戻り。
それでメールで連絡を入れて。同志とテレビ会議をする。会社の人間とテレビ会議をする頻度はめっきり減った。
基本的にクレームの類は一切入れて来ない代わりに。
下手に触ると大やけどする。
それが現状の高宮の、会社側からの認識らしい。
更に世間的には小娘の分際で、小野寺がもの凄く上手に立ち回っていることもあって、下手に手を出す事も出来ない。
普通だったら小野寺くらいの年の人間だと、会社で必死に修行と称して顎で使われている年代なのだが。
自分の役割を理解している小野寺は、会社の重役とバチバチにやりあっていて。
もう舐めて掛かっている役員はいないようだった。
それでいい。
本来の能力主義というのはこういうもので。
ついでに本来のコミュニケーション能力というのもこういうものだ。
上司の機嫌を伺う能力の事ではない。
意思疎通をするための能力である。
それは才能に依存し。
小野寺は才能をきっちり持っている。
故にコミュニケーションが必要な職場にいて。それを十全に生かす事が出来ている。高宮にとっては、本当にいい拾いものだった。
小野寺も井伊も、本来だったら会社組織に埋もれてしまい。
才覚の一割も発揮できなかっただろう。
特に井伊の場合、あまりにも駄目すぎる現状の会社というシステムに早々に嫌気が差してしまい。
さっさと株式取引などで稼ぐ道を選んでしまったかも知れない。
井伊のIQだったらそれも難しく無く。
後は人材を無駄に、この世界はしてしまうところだっただろう。
ともかく、同志達のおかげで。高宮はとても動きやすい環境にいる。
普段はメールでやりとりをしているが。
たまにこうやって、テレビ会議で状況確認をするようにもなっていた。
ただし、ごく短い時間だ。
ベタベタするのが同志だとは思わないし。
無駄に時間を使うつもりもない。
「それでは晴。 何か問題は起きている?」
「いいえ。 会社側では、もう高宮監督には好きなようにやらせるべきだと諦めているようです」
「いい傾向だな」
井伊がいうが、その通りだと高宮も思う。
何か勘違いしている役員が、変な風に介入してくるくらいだったら。
好き勝手にやらせて貰う方が高宮としては万倍もいい。
ともかく淡々と話を進めて行く。
「井伊の方で、何か気になる事は」
「現時点ではない」
井伊はどうも名前で呼ばれるのがいやらしく。
それを小野寺に言われたので、名字で呼ぶようにしている。
戦国大名徳川家の家臣井伊家の血脈を引いているらしいのだが。
それについては本当かどうか、良くわからないそうだ。
有名な井伊直政は、関ヶ原の戦いでの傷が元で死んだとか言う伝説があるが。
実際の所は、単に過労死をしただけである。
ただ、井伊を井伊直政のように過労死はさせたくはない。
元々体力にそれほど自信がある方でもなさそうだし。
高宮の方で、気を遣わなければならなかった。
二人とも大丈夫そうだ。
だが、黒田については、先に聞いておく必要がある。
そのうち同志として迎えたいと思っているのは、現時点では日野茜と黒田恵子。
この二人だけ。
他にも今後は増やしていきたい所だが。
まあ、現時点ではまだ適材は見つかっていない。
適材から、丁寧に吟味していきたいところだ。
「あの黒田という子について、どう思うか二人の意見を聞きたい」
「では私からですけれど」
小野寺が軽く話をしてくれる。
黒田は元々生真面目で、体さえ壊していなければずっと同じ会社で働いていたのだろうと言う。
確かにそれは同意見だ。
ただ、話に聞く労働環境を鑑みると。
多分長くはもたなかっただろうと思うが。
五年も頑張っただけで立派である。
狂った環境で、良くも五年頑張ることが出来たと言える。
そして、そんな狂った環境を当たり前にしているのが、今の社会情勢という奴なのである。
映画業界も狂っているが。
今の時代は、社会全てが狂っている。
更にいうと。
そんな狂った社会に対して、順応するように求めるような風潮まである。
社会そのものを変えなければならないと、誰かが声を上げなければならないのだ。
そうしないと、いずれこの文明そのものがクラッシュするだろう。
「黒田さんは、無理をさせないで、少しずつ同志に引き込めるかを見極めていくべき相手だと思いますね」
「……井伊は?」
「私も同感」
井伊も静かに言う。
小野寺の言葉と概ね同意らしい。
とにかく頭のスペックが違う井伊だが。
人間とコミュニケーションを取ることについては、かなりの部分で諦めているらしい。
良くある、「バカにも説明できる人間が賢い」とかいう言説。
あれは完全に間違いである。
そもそもそんなバカにでもかみ砕いて説明したところで、どうせバカは自分の好感度が高い相手の言葉しか信用しない上に。逆に言うとどんなトンチキな説明でも、好感度が高い相手の言葉は何でも平気で鵜呑みにするという事を忘れている。
そういう意味でも、むしろ分かりやすく説明してくる相手というのは、最も疑って掛からないといけない存在であり。
そんな事すら分からない人間が蔓延り。
更に狂った言説が蔓延している現在に。
井伊は相当に、マイナスの評価をつけているようである。
ただそれに関して、高宮はほぼ同意できるので。
特にどうこういうつもりはない。
小野寺も現在社会には相当に思うところがあるようだが。
ただ小野寺は、匠極まりない意思疎通能力を使って、どうにでも出来ているので。
それはそれ、これはこれだ。
「黒田のカルテをこの間見せてもらった。 此方で確認した所、医師のいうことはほぼ間違いは無い」
「え。 医術も出来るの?」
「出来るかは微妙だが、知識はある」
それは凄い。
六法全書を丸暗記と言うだけでもかなりの超人ぶりだが。
現在医学も、かなりの所まで記憶しているのか。
生半可なスパコンよりもオツムのスペックは上なのでは無いか。
そう思えてしまうが。
それは流石に、専門分野の違いという所だろう。
「いずれにしても、黒田さんは後数年はまともに体を動かすことはさせない方が良いと思う。 今もやっと精神が安定してきたところで、何か下手なアクションが周囲で起きたら自殺してもおかしくない」
「……分かった。 それなら、適切量の仕事だけ回してほしい。 もしも病気で黒田が動けないようなら、補助してほしい」
「分かった。 ただ私も忙しい時は動けないから、やはり補助要員がほしい」
「それについては、二人が来る前に手伝って貰ってた下請けを紹介しておく。 必要に応じて使ってほしい」
こくりと頷く井伊。
これでいいか。
軽く話だけして、後は会議を終える。
夕食を取って、もう少しで映画の撮影が終わるな、と思った。
井伊からは、誤字脱字の修正が終わって。既に脚本が戻って来ている。
井伊は文字通り淡々とやってくれるし。
何よりも敢えて意味不明の内容にしているとも理解しているので。
その辺りは、ああだこうだ言い合う事も無く。
推敲はすんなり終わっていた。
高宮はかなり誤字脱字が少ない方なのだが。
それでも一部はあったので、修正をしておく。
普段は脚本を世に出す前に、最終チェックをして。誤字脱字を取り除くのだけれども。
それは結構精神的に大きな負担が掛かる。
これで、面倒を減らせるのは有り難かった。
風呂にゆっくり浸かって疲れを取る。
人間はそもそも、十五時間とか働くように体が出来ていない。
疲れを取った後は、ゆっくりねむる。
それで、次の日を迎える。
それが、自然な人間の体の使い方、というやつであり。
そもそもとして、そうすることで。
やっと健康について、考える事が出来るのだった。
黒田は黙々と、渡された仕事をこなす。
現在やっているのは、どうやら今後想定される仕事のベースになる部分のCG作成らしい。
何でも少しだけ聞かされた所によると。
井伊という人は、高宮監督から今後公開する脚本について見せてもらっているらしく。
それで、いっそのこと必要になるCGを先に作っておき。
今後の手間を減らそう、と言う事らしかった。
そこで言われるままにCGを作っていくのだが。
定期的に休みを入れながら作業をする。
というのも、文字通り正気度がゴリゴリ削られるような、意味不明な仕事ばかりだからである。
黒田も自分の精神が不安定なことは自覚している。
会社にいたころは何度も電車に飛び込む事を本気で考えたし。
首をくくって死ぬ事だってしかり。
男を作って慰めて貰おうとか、そんな事は一切考えなかった。
そんな精神的な余裕がそもそも無かったし。
今の時代、稼いでいる人間は。
それこそ自分の命を削りながら金に換えているか。
悪逆の限りを尽くしている外道か。
そのどちらかと相場が決まっているからだ。
稼いでいる男が良いかというと、そうでもないのだけれども。
ブラック企業が蔓延している今。
いわゆる「理解のある彼」なんて都合がいい生物はいないし。
いたとしても、何かしらの裏がある事はほぼ確定だろうとも思っている。
ましてや世間的な風潮からも、結婚した後も働け、というのが今の時代である。
そうなれば、どっちも余裕が無くなるのは当たり前の話で。
そんな状態でも他者を自分より大事にしてくれる「理解のある彼」なんて生物は、存在し得ないし。
存在したとしても、黒田みたいなのの所にはこないと分かりきっていた。
ため息をつくと、狂気を刺激されるCGをガンガン作りあげていき。
一段落したので、井伊に送る。
送信すると、殆どノータイムで指摘が来るので。それにあわせて修正をしていく。たまに、作業中にどこをミスするのか見透かしているかのようにメールが来て。それを実際に調べて見ると、本当にミスしていたりもする。
何というか、超人だ。
黒田はCG職人だが、それはあくまで勉強して身につけたもの。
自分の限界だって今は分かっているし。センスだって限定的なのだと知っている。
勿論黒田がいた会社にも、高いスキルを持った人間はいたが。
体育会系のクソ上司に文字通りすり潰されて命を落としたり、或いは仕事を辞めていったり。
その力を十全に発揮できているとはいえなかった。
井伊はそれが出来ている。
本当に羨ましいなあ。
最初からその職場にいたかったなあ。
そう思う。
CGだったらゲームという固定観念が、何処かにあったのかも知れない。
その昔の固定観念をぶん殴りたい気分だけれども。
もはや、どうにもならないのが。悲しい所だ。
作業を済ませて、定時になったら切り上げる。
進捗については大丈夫だ。
そもそも井伊に言われている。
今やっているのは前倒しの作業だ。
出来れば進捗を守ってはほしいが、それよりも体の方を優先してほしい、と。
更に井伊は、以前カルテを要求してきて。
それを把握したらしい。
要するに医療関係にも知識がきちんとあるようで。カルテも読める、ということだ。
これは凄い事だと、今の黒田は分かっている。
やれ根性だ、やれ筋トレだで全てが解決し。
鬱は甘えからくるとか本気で信じている阿呆どもには、一度地獄に落ちてほしいと思っているが。
少なくとも井伊は違う。
そんな井伊の下に。相手がずっと年下だとしてもつく事が出来たことは、どれだけ幸せなことは。
黒田はよく分かっていた。
ぼろぼろになっている体は、こんな良い環境で仕事をしていても。なおも時々悲鳴を上げる。
五年分の無茶な生活で、どうしても体中はズタズタ。
こればかりは、どうしようもならないのだ。
家の側の量販店に出向き。
夕食の材料を買ってくる。
本当に疲れている時は、料理をしないこともあるが。
今日はしようと思って、料理をきっちりする。時間はある程度掛かるが。マニュアル通りにやっていくのがメインとなる料理というものは。
プログラミングやCG作成と同じで。
黒田にとっては、趣味とまではいかないにしても。
それなりに悪くないものであるのは事実だった。
夕食を終えて、風呂に入って休む。
まだフラッシュバックで、会社時代に受けたダメージが心の奥にぐさぐさと突き刺さる。
それで飛び起きることもある。
人間の心が受けた傷は、外からは見えない。
人間は他人に傷をつけるときは全く自覚しない生物だと言う事も、この間聞かされた。
ましてや近年は、虐めを弄ると言う言葉で誤魔化し。
それによって自分の醜悪な行為を正当化する。
そんな連中が増えに増えすぎている。
黒田はもう、会社には。
少なくとも普通の会社。
ブラック企業が当たり前になり。スタンダードになってしまった今の会社には、いきたくなかった。
起きだす。
布団からもぞもぞと出ると、泣いていたのに気づいた。
酷い夢でも見たのだろうか。
前はもっと、寝ている間に泣いている事が多かった。
夢は記憶の整理作業だと聞いたこともある。
つまるところ、黒田はそれだけ頭に負荷を掛けていて。今もその後遺症が残っているという事なのだろう。
涙を何度か拭く。
理解ある彼くんなんて生物はいない。
甘言で近付いてくる奴ほど危険だ。
それがわかる程度の頭はあるから、ヒモにも引っ掛かる事は無かったし。宗教にはまるような事も無かった。
だけれども、人間にはすがる相手が必要なのだとも思う。
誰も彼もが。
自分の足だけで立って、生きていけるほど強くないというのが現実だ。それは、黒田もよく分かっていた。
歯を磨いて、うがいをして。
朝ご飯を食べて。PCを起動。
時間を見るが、フレックスで作業をすればいい。それも会社の方で認めてくれている。
フレックスで今日も仕事をしよう。
温泉にでもいこうかな。
ぼんやりと、PCが起動するまでの間。
黒田はそう考えていた。
4、着々と集う同志
石山芳野は、うんざりした。全てに幻滅した。
会社のデスクに退職届を置いてきた。
上司はしらけた目で石山を見た。
それだけで、受理した。
後は、職安で失業保険を貰って。
それで全てだ。
会社を出ると、反吐を吐きたくなったが。我慢する。
この会社は違うかも知れない。
そう思っていたのだが。
違った。
マスゴミはマスゴミ。
所詮は、ゴミだった。
石山は元々、新聞部員だった。中学時代には、大まじめに真実を追究して、人々の目に正しく伝えるのが仕事だと思っていた。
だが、既に高校時代には、新聞部がおかしい事に気づき始めた。
記事というのは、主観で書くものだ。
真実なんてのはどうでもいい。
むしろ真実は我々が決める。
そう、新聞部の部長は傲岸不遜に言い放った。
唖然とする石山の前で、部長はどのマスコミもそうだと言い放ち。それがマスコミのあり方だともほざいたのだった。
呆れ果てた石山は。それでも新聞部内で記事を書いたが。
ことごとく駄目出しされた。
お前の記事ははっきりいってカスだ。
そう何度も言われたっけ。
どれだけ真実に客観的に迫った記事であっても、そういう風に駄目出しをされていく内に。
石山はだんだん頭に来て、完全に幽霊部員になった。
教師に呼ばれて、何故部活に出無いのかと聞かれ。
そして話をしたけれども。
教師もそもそもマスコミに対して興味が無いようで。石山の主張はまるで受け入れられなかった。
周囲がそう言っているのだからそうしなさい。
部長がそう言っているのだから言う事を聞きなさい。
それだけを言われて、うんざりしたので。
以降はネットで、記事を書くようになった。
裏取りをする。
客観的になるように、出来るだけ多方面から情報を集める。
情報は一次資料が好ましい。
主観は可能な限り入れるな。
そう言い聞かせながら、石山は記事を書くようになった。
記事の内容は、どれもこれもそれほどだいそれた内容ではないもの。
世間にありふれている食べ物や、あるいは服などにについて。
それらの記事を書いていく内に。石山のブログは自然と人気が出始めていた。
学校では散々ぶちぶち言われたが。
むしろ、マスゴミに対して相当に怒りを感じているらしい世間の人々は、ネットでの石山は受け入れてくれた。
嬉しかった。
そして、まだ石山は。
この時点でどこかで、マスゴミでは無い報道があると信じていたのかも知れない。
高校が終わって、大学に入って。
それからマスコミ各社を精査した。
クオリティペーパーを自称する新聞社は、今はあらかたカスだ。
そんなことは、小学生でも分かっている。
かといって週刊誌はネット記事と同レベルである。
あからさまに石山のかく記事よりも酷いのをかく会社もあった。
だから、それらを自分で弾きながら。
マイナーながらも、そこそこ良い記事を書く会社を見つけた。
しかしだ。
苦労しながらその会社に入ってみて。
見た現実は。
部活と同じだった。
その会社は、単に記者がいないだけで。記事に関しての考え方は、殆ど大手と同じだったのである。
主観で記事を書いて良い。
客観なんて必要ない。
スポンサー様の喜ぶものをかけ。
なぜならそれがマスコミだからだ。サラリーマンなんだから、他の事は一切必要ない。そう、真顔で上司は言い切った。
流石に抗議した石山だが。
それらは一笑に伏せられた。
やがてストレスで胃を壊した石山は血を吐いた。
それを知っても。
単に世間を舐めているだけとか。
気合いが足りていないだとか。
そういう事を言われるばかりだった。
ここに客観性はなく。真実を人々に伝えようとする気概も無い。主観で記事を書き、己の書いた記事を真実だと信じ込む。
そんな蛆のような最低レベルの記者しかいない。
それを石山は悟った。
勿論分かっている。
今は、そんな連中が、むしろスタンダードだと言う事は。
いわゆる「オタク」と呼ばれる人々が迫害されるきっかけになった記事を書いた奴がいる。その記事は既にねつ造だと言う事が発覚している。
それによって、社会的に殺され。
実際に自殺にまで追い込まれた人は百人や二百人ではきかない。
大量虐殺をしたのと同じだ。
それなのに、一切責任を取るという事をしないのが今の報道だ。ねつ造で記事を書き、裏取りもしないでかってに真実を作った挙げ句、何百人も、いやもっと多く人を殺しても何とも思わない。
そんなのは人非人だとしか言えない。
だがそれが受け入れられている。
少なくともマスコミでは。
石山には、それが許せなかった。
会社を出た後は、どうしようか迷った。
映画館に足を運んだのは、偶然だった。
そこから、石山の人生はまた大きく狂い始める事になる。だが狂気は、石山にはむしろ相性が良かったのかも知れない。
(続)
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