深淵オーディション
序、もはや理解の範疇外
アカデミー賞映画直後、という事もある。
女優の卵、日野茜がオーディション会場に出ると、それなりの人数の候補者が出ていた。
高宮監督は筋金入りの変人と聞かされているので。
今の時点で既に緊張がマックスである。
これが最後の戦いと思え。
そう自分に言い聞かせながら、緊張を必死に押し殺す。
オーディション会場は、配給会社の一室だったが。既に来ていた俳優や女優は一人ずつ呼ばれているようだった。
そして全員が、例外なく青い顔をして出てくる。
一体どんなオーディションが行われているのか。
まさか枕関係とか。
いや、流石にこの人数を全員。
首を横に振って、怖い想像を追い払う。
いずれにしても、ここから先は、想像もしたことがない恐ろしい場所なのは確かなようだった。
ともかく、順番を待つ。
泣きながら出てくる子はいないが。
なんだか深淵の邪神を見たような顔になっている子が多かった。
SAN値が心配になりそうな状況の子もいる。
場慣れしているはずの俳優達だ。
それがこうなっているのである。
まさに恐ろしい話だった。
とにかく、順番を待つ。
実際このオーディションが駄目だったら、茜は首を言い渡される可能性がある。
もう随分、オーディションに受かっていない。
モブですら駄目なのである。
これはかなり厳しい状態だ。
もしも駄目だったら、俳優は諦めよう。
そう考えている内に、茜の番が来た。
ついに来てしまった。
呼ばれて、部屋に入る。面接と同じように、色々なマナーを守って部屋に入ると、思わずひっと声が漏れていた。
奧にいるのは、パーカーにサングラス、マスクをした不審者そのものの人物だ。それもタッパがかなりあるから、はっきりいってこわい。
長身の女性だとは聞いていたが。
その良さを全て消し去り、恐怖にだけ置き換えている。
更に、だ。
どういうわけなのか、いきなり手元にあるキーボードを叩き始める。
凄いスピードだ。
打鍵速度が凄い人は何人か見たことはあるが、その中でもトップクラスだと言えるだろう。
更にターンとエンターキーを高宮監督らしき人物が叩くと。
いきなり音声合成ソフトが喋り始めた。
確かボイスロイドとかいうのか。
コレを使う動画が非常に多いので。当然現代っ子である茜も、それについては知っていた。
「高宮葵です。 それでは自己紹介をお願いします」
「は、はいっ!」
立ち上がって、自己紹介をする。
何度も練習してきたのだが。
この部屋は明らかに異空間だ。
部屋は面接をする雰囲気ではなくて、なんか部屋中が妙な感じにデコレーションされている。
まるで邪神のおなかの中。
こんな場所で、面接なんて初めてである。
しかも前に座っているのは、完全に人相を隠した不審者の権化。
ついでに自分では喋らないときた。
「わかりました。 高宮の映画の世間的な評判は、聞いていますね」
「は、はい……その、哲学的な映画を撮る人だと」
「……」
何か逆鱗を踏んだか。
いずれにしても、真っ青になる。
まさかこんな調子で、クソ映画と答える俳優を探しているのではあるまいか。
撮影現場はホワイトそのものだと聞いていたのに。
どうしてこんな怖い目にあっているのだろう。
泣きたくなる。
だけれども、茜はぐっと堪えた。
「そ、その、とても変わった映画を撮ると聞いています! 私も一作品だけ拝見しました!」
「どれを拝見したのかな」
返事が無茶苦茶早い。
指が残像を作っている程の打鍵速度だ。
これではボイスロイドの方が追いつかないのではあるまいか。
「ええと、九作品目です! その、シュールな作品だと思いました!」
「本音は?」
「え……」
「本音ではないね?」
まずい。
冷や汗が背中を伝う。
これは、このまま行くと駄目と言われる。
こんな面接はそもそも初めてだが。それでも分かった。百件以上の面接を伊達にこなしていないのだ。
泣きそうになりながら、もう本音を言った。
「映画として面白くなりそうな所を全部潰している作品だと思いましたっ! ごめんなさい!」
「ふっ。 それを高宮の前でいうか。 面白い」
「……」
涙を堪えるので必死だ。
今の台詞だって、可愛いボイスロイドの声で喋られているのである。
それなのに威圧感が尋常では無かった。
この部屋の雰囲気と。
何より不審者全力全開の、高宮監督の威圧感がヤバイのだと思う。
茜はなんとか踏みとどまろうとするが。
上手く行くだろうか。
いずれにしても、ぎゅっと膝の上で拳を握りしめることしか出来ない。
深淵の邪神を間近にしたような恐怖で。
もう正気を保つだけで精一杯だった。
まどに一杯なにかいても驚かないと思う。
ああ窓に窓に。
なんだか正気がなくなりそうな気がする。
「じゃ、結果は後で知らせるので。 もう戻ってよろしいですよ」
「え……は、はい。 演技とかは……」
「いや、もう実際の様子は見せてもらったので」
「?」
なにやら打鍵し始めているのを見ると、何か評価をつけているらしい。
仕方が無い。
面接の部屋を後にする。
続いている他の俳優や女優達は。
みんな青ざめて出てくる俳優や女優を見て、何をされるのだろうと戦々恐々の様子だった。
安心しろ。
下手すると発狂するかも知れないが。
安易に枕営業とかはさせられないから。
ただ、多分だけれども。
もっと怖い目にあうけれども。
そう呟きながら、茜はそのまま。
営業と一緒に、ビルを後にする。
営業が何か言っていたが、殆ど右から左へ抜けてしまって、頭に入らなかった。
それくらい、恐怖で受けたダメージが大きかったと言う事だ。
途中から営業も諦めたのか、何か言うのをやめた。
そのまま駅で解散する。
生きて家まで戻れるだろうかと、茜は心配したが。
泥酔していても自宅まで案外戻れるように。
普通に戻る事が出来たので、良かったとする。
ただ、家に着くなり洗面器に戻した。
別に酒なんかいれていないのに。
それくらい恐ろしかったのだ。
他の俳優があんな恐怖を味あわされていたのかどうかは分からないけれども。それでも茜が味わった恐怖は本物だった。
良く心地よい空間を母の体内のようだの何だのと言う事があるけれども。
あの面接会場は、圧迫面接だとか、枕営業だとかの場とは違うものだったと判断していい。
それこそ邪神の胃袋の中。
下手をすると、そのまま正気度を失って。
最終的には。
ひっと声が漏れて、思わずもう一度吐いていた。
喉が焼けるようにいたい。
胃酸が喉で色々悪さをしているのだ。
声優ほどでは無いにしても、俳優である茜にとっては喉はとっても大事なものだ。だから、すぐに処置をする。
うがいをして。必死に痛みを緩和するが。
呼吸を整えながら、なんとかある程度落ち着いた頃には。
今日食べただろうものを、全部戻してしまっていた。
洗面器にたまった吐瀉物を流す。
涙を何度か拭いながら。
もしもあのオーディションに受かったら。
あの監督に、気に入られたと言う事だろうと思ってぞっとする。
ただ、そもそもだ。
あの監督のオーディションが、あんなに厳しかったという話は聞いていない。
実は以前にあの監督の映画に出た俳優に話を聞いたのだけれども。その時はそもそも面接に監督は出てこなかったらしいし。
オーディションにもほとんど誰も来なかったので。
すんなり決まったそうである。
それがどうしてか。
いや、分かりきっている。
アカデミー賞だ。
誰も彼もが、アカデミー賞の名前に寄ってきた。
だから、あの監督も。
ふるいを厳しくするつもりになったのだろう。
そして、その結果。邪神が本性を現した、というわけだ。
恐ろしい話だ。
本当に怖い。今でも、窓の外に何かが貼り付いていて。此方を覗いているような恐怖を感じる。
布団にくるまって寝る。
恐怖で、ずっと震えが止まらなかった。
都合120人強のオーディションを終えた高宮葵は、大きくため息をついていた。
肩を自分で揉みながら、結果を見る。
そして、すぐに会社に通知した。
元々数人程度しか俳優を使わない高宮の映画だ。
それも意図的につまらなくしている作品だ。
それなのに、120人もオーディションに来るとは。
以前は無名監督の上に、クソ映画で有名だったから、殆どオーディションに人なんて来なかったのに。
現金なものである。
なお、背後に暴力団だの半グレだのがいる事務所もあったが。
それらは基本的に断った。
だが、それらの事務所の二次団体が存在する。
俳優事務所にしてもアイドル事務所にしても、どんどんランクが下がると背後関係が怪しくなる。
勿論ランクが上の方でも背後関係が怪しいものもある。
そんなものだ。現状の芸能界というものは。
そういう怪しい事務所から派遣されてきていたのもいたので。それは後から調べて弾いておいた。
何人かを会社に告げて、採用として。
後は撮影の準備を始めるとするが。
一人気になったのがいる。
この地獄みたいな雰囲気の面接で、それでも本音を口にしたのがいた。
日野茜だったか。
もしも演技力次第では、今後も使ってやってもいいかなと思う。
まあそもそもだ。
高宮の映画では、演技力が極めて高い映画俳優なんて今まで使った事がなかった、というのもある。
高宮の映画で、無茶な注文をうけながら。
腕を上げていけば良いだろう。
あの様子だと、一応劇団とかを通って来ている、それなりに修羅場で揉まれて来た俳優とみた。
一番まずいのはアイドル崩れとかアイドルとかで。
そういうのはプライドばかり高かったり、演技のえの字も知らなかったりで。指導にも苦労するものなのだが。
きちんと劇団経由でこの業界に来ているという事は。
それなりに基礎は出来ているだろう。
だが、そんな人材がこうも全く仕事がとれないというのは。
何というか、業界の闇を感じてしまう。
重要なのはコネと金か。
はっきりいって反吐が出る。
海の向こうの、映画の本場米国でもその辺りは同じだと聞く。
だから、人間とはそういうものだと言う事なのだけれども。それでも不愉快なものは不愉快である。
さて、と。
会社に連絡は終えたので。
色々片付けて家に帰るとする。
それにしても近年のボイスロイドは優秀だなあと感心してしまった。
キーボードでタカタカターンと打ってやれば。
抑揚とかもほぼ完璧に喋ってくれる。
以前も必要に応じて使った事があった。
映画で、だが。
クソ映画での使用にもかかわらず、規約さえ守ればちゃんと許可してくれたのは懐が深い。
その縁もあって、今回も面接で使わせてしまったのだが。
圧をかける目的で使ってしまったのは、ちょっとばかり申し訳ないかなとも思ったりはした。
ノートの電源を落としてしまって、それで帰る事にする。
帰路は比較的楽だった。
まあ、これで映画の撮影に入ることが出来る。
今回は、アカデミー賞云々で色々ばたついた事もあって。本来だったらとっくに撮影を開始している新映画の撮影まで、手間暇が掛かってしまった。
ただ、それでも今も映画館では高宮の映画が公開され。
ホラー映画とは別の意味で阿鼻叫喚が続いているようだ。
中には高宮の映画を最初のシリーズから順番に流している奇特な映画館も存在しているらしく。
SNSでは全て見たら気が狂いそうになったと、とても素晴らしい褒め言葉を書き込んでいるユーザーもいた。
まあ感謝である。
そもそもクッソつまらないように敢えて作っているのだ。
見て面白かったというのは余程の事である。
つまらない映画をわざわざぶっ通しで見続ければ、それは精神に色々アレな異常が出るのも当然であって。
高宮としてはその反応こそ望んでいたものだった。
自宅に安全運転で帰宅。
後は寝る。
高宮は酒の類はほぼ入れない。
一応宴会とかでは飲むには飲むが、それも業病の流行以来めっきり減った。
更には、酒そのものが好きでは無い。
何というか、元からある精神とは別のものを無理矢理持ってきているような感じがするからだ。
だから、高宮は酒を普段は飲まない。
冷蔵庫にも入っていない。
また、別にねむるのに酒を使うつもりもない。
そもそも、不規則な生活をしていてねむれなくなるようでは。
酒云々関係無いし。
だいたい連日酒を飲んでいたら。
沈黙の臓器と言われる肝臓だって悲鳴を上げる。
どれだけ酒に強くとも、だ。
まあそれらはそれら。
実際の所は単に酒が好きでは無いだけ。
酒が好きな人の事を貶める気は無い。ただ、健康は少し心配かなあと思うけれども。
次の映画は、得体が知れない何かに襲われ続けるホラーという皮を被った虚無作品を撮るつもりだ。
アルティメットコメディーシリーズの第十二作。
ハイペースで映画を撮り続けているが。
誰も新作が出る事なんて望んでいないだろう。
意識が高い所に逝ってしまった業界人以外は。
さて、どんどん意図的につまらなくしている作品を作っていってやろう。
それで、目的に近付くのだ。
ずっと昔から。
高宮が、温めてきた目的に。
1、恐怖の撮影現場
オーディションに受かった。
本当に、と声が出た。
それも主演女優だ。
日野茜は大喜びするべきだったのだろうが、とてもその気にはなれなかった。まあそれはそうだろう。
あの高宮監督の映画だ。
一応作品には目を通したが。
最後までねむらずに見られた自分を本当に褒めてあげたい所だった。頭をなでなでしてあげたい。
とにかくおっそろしくつまらなくて。
どういうわけか、感じたのだが。
面白い部分を全て潰して、敢えてつまらなくしているようにさえ思った。
いずれにしてもオーディションに受かったので。
世界観を知るべく、高宮監督の映画は全て見た。
どれもこれもがやばすぎる。
特に最新作は危険度マックスだった。
映画館で、三分でねむる客が出始めるというのは噂でも何でも無いと、実際に見てみて分かった。
立方体達が意味不明な背景の中で、哲学的な会話をし続けるという。一周回るとギャグになりそうな映画なのに。
虚無過ぎて、もはや脳が拒否するレベルの作品に仕上がっている。
これを見てみて、やはりと感じたのだ。
これは敢えてこうしているのではないかと。
以前の作品を観ても、そうは思ったのだが。
それが確信に変わった感触がある。
いずれにしても、ともかく怖いと言う言葉が前面に出る。
高宮監督の映画は、意図的にああしていながら。意識がとても高い業界人に絶賛され。それでいながら一般ファンには見る睡眠導入剤になっている。
それを全て意図的にやっているのだとすれば。
はっきりいって、とんでもない怪物だという結論しか出てこないのである。
いずれにしても恐ろしい事だ。
青ざめたまま、映画撮影開始の日をまつ。
それまで、喉の訓練とかはしたが。
ただ、どの映画でも俳優は適当に演技をしていたようなので。
一応、ある程度は安心して良いのかも知れなかった。
映画の撮影現場はとても過酷だ。
厳しい映画監督になると、何十回でもNGを平気で出す。
そういう所で、精神を病んでしまう俳優は多いし。
薬とかカルトとかに手を出してしまうケースもある。
犯罪に走る人もいる。
それでも不思議な魅力があるのが芸能界という恐ろしい場所で。まるで麻薬のようだとも思う。
数日で、脚本が送られてきた。
仮にも主演だ。
まずは全暗記、と思ったのだが。
内容を見て、しばらく言葉が出なかった。
誤字脱字は一切無い。
それは凄い事だと思う。
結構分厚い脚本の映画だって存在しているのである。
それはそれとして、この映画は。
内容を、理解させる気が全く無い。
一瞬にしてまた正気度が底をついた茜は、しばらく呆然としていたが。ともかく、震える指で脚本をめくりながら。
なんとか内容を必死に暗記したのだった。
劇団時代からの特技だ。
脚本は自分の内容だけではなく、全員分のを暗記する。
そうすることによって、そもそも作品の全容を把握して。
それにそった演技をする。
自分の役だけ覚える、というような事をしていると。
やはりなんというか、色々といい加減な部分が出て来てしまう。
だから、プロ意識を働かせて、必死に頑張らなければならないのである。
それが俳優としてのプライド。
だけれども。
そもそも、金やコネで主演を射止めているような人間が多数出ているのを見ると。そういう信念がまるでゴミのように思えてきていた。
もっと媚を売れ。
そう営業にはっきり言われたこともある。
不愉快極まりない話だが。
営業の言葉は、現状の俳優の立場とかを考えると、ある程度は妥当なものだということなのだろう。
これだから現実主義を拗らせると。
そうぼやきたくなってしまう。
ともかく。脚本は全員分覚えた。
本当にコレを書いた人間は、深淵の邪神かと思った。
いや待て。
そもそも高宮監督の他に、こんなヤバイ脚本をかく人間がいるのか。
ある大河ロボットアニメシリーズを作っている会社は、共通ペンネームを使っているというのは有名な話だ。
また、苦労の末に見た高宮監督の「アルティメットコメディシリーズ」についてだが。
毎回脚本家が正体不明の人物で。
今までの映画などを調べても、同一人物が一切見当たらない。これはある意味驚異的である。
特に直近の映画では、「や」なる人物が脚本を書いていて。勿論今までの経歴は一切不明。
本当に舐めているとしか思えない。
これは、一体何処で脚本家を見つけているのか。
だけれども、そう思って一番最初に脳裏に浮かんだのが、高宮監督だった。
まさか。
高宮監督が書いているのか。
この狂った内容を鑑みるにあり得るのが恐ろしい。
大きくため息をつくと。
茜は、もうどうにでもなれと思うのだった。
あまり激しい撮影内容は無い。
触手にもみくちゃにされたりとか。
しかしながら、今までの映画を見ると組み体操とかする事はあるようなので(しかもそのままサメとかワニとかのエサになる!)。
ある程度体を使う現場ではあるのだろう。
腹筋とかして、体を鍛え直して仕事日に備える。
日野茜はこれでもプロのつもりだ。
だから、例え今まで公的な仕事を一回もやっていないとしても。
そのプロとしての誇りだけは。
捨てるつもりはなかった。
撮影が始まる。
スタジオはそこそこの大きなものである。
なんでも高宮監督はここのところずっと、映画文化を保護するための法を利用して作品を作っていたらしいが。
今放映中の「アルティメットコメディシリーズ」十一作目で、ついに黒字が出たという。
そのため、黒字分から。
今まで映画で貰っていた補助金について、補填をしているのだそうだ。
そんな話は、現場に向かう途中で聞いた。
SNSを途中で確認する。
高宮監督は今日もコーヒーの写真を上げている。
インスタントのコーヒーで、毎日銘柄が違うのだが。
それら全てに丁寧にコメントもしている。
毎回同じ時間にきっかりSNSに上がるコーヒーから。高宮監督は「bot」とか「時計」とかSNSでは言われているそうだが。
むしろこれは恐ろしいと茜は思った。
というのも、農家みたいな時間におきて、完璧にルーチンをこなしていると言う事であるからだ。
中々にできる事じゃあない。
普段から鍛えている茜にしてみれば。
これが結構精神力も体力もいることだと分かるから。
中々凄いと言う言葉しか出ないのだった。
いずれにしてもスタジオに到着。
一番乗りかと思ったが。
高宮監督が。まるで幽霊のように音も無く移動しながら、点検作業をしていた。音も無く動き回る様子は。本職の幽霊が、思わず声を掛けてしまうようなリアル感に満ちていて。チープなホラー映画の俳優よりも、よっぽど幽霊っぽかった。
そういえばアカデミー賞の作品でも。
幽霊役の女優さんは、終盤では本当に錯乱しそうになっているのか。本物の幽霊が見たら同情しそうな表情をしていたが。
「お、おはようございます!」
「……おはよう。 その辺に座っていて」
「はいっ! ……え?」
「これ自主的にやってるの。 だからその辺に座っていて」
そういうと、高宮監督は音も無く移動しながら。気配すらもなく、セットなどの状態を確認している。
これは動くべきなのかと思ったが。
あの高宮監督が相手である。
逆らったら何をされるか分からない。
怖くてとても動けなかった。
しばしして、俳優達が来た頃には。高宮監督は点検作業を終えていた。
なかなかの手際だ。
劇団でも、若手がこういう作業をしたりするものなのだけれども。
そういう経験者から見ても、相当に手だれている。
この人、SNS等では近年評価が二分されていて。
以前はただのクソ映画監督としか思われていなかったのだが。
ある番組で、俳優達のインタビューから、ものすごく難しい哲学的な命題を作品に盛り込んでいる事が発覚。
以降は、実はむっちゃくちゃ頭が良いのではないか、という疑惑が持ち上がってきているそうだ。
そしてその疑惑は、多分正解だ。
この人が、意図的にクソ映画を作っているのだとしたら。
もしも意図的に面白い部分を全部潰しているのだとすれば。
恐らくだけれども、凡百の監督には無理である。
だいたいの駄目映画は、作り手が傑作だと思い込んでいるか。
原作がある場合に、その原作を舐め腐っている場合である。
たまに犯罪組織とか詐欺師とかが、投資家を騙すために作るような映画が、まるでやる気がなくてクソ映画になるケースがあるらしいが。
それは近年の邦画では聞かない。
アニメでは聞いたことがあるが。
それは大きなスキャンダルになったし、何よりテレビ局の株価まで大きく下げた事もある。
今後は多分だが、似たような事件はあまり起きなくはなるだろう。
俳優達と顔合わせはもうしてあるが。
ともかく揃った所で、しっかり挨拶をする。
主演をさせてもらうという事で。
余計に数人しか俳優がいない作品だと言う事もある。
茜も、他の俳優達と徹底的に強調しなければならない。
ましてや映画が映画である。
高宮監督はとても頭がいい可能性がある。
それを考えると、巫山戯た真似など絶対に出来なかった。
他の俳優達もすくみ上がっている。
多分面接で怖い目にあったんだろうなと思って、茜は同情していた。
「はい、では6ページのカットから」
すぐに脚本をめくる俳優もいるが。
茜は内容を全暗記していたので、すぐにそのまま動く。
無言で移動して、スタジオの海っぽい場所に。
このスタジオは湖に隣接しているのだが。
この湖が日本でも屈指の大きさなので。海に見えるのである。
良い感じに波打ち際もある。
そのまま、撮影を開始する。
まずは側転をしながら、浜辺を移動し。最後にバクテンをする。その途中で、三人の俳優が会話をして、その声だけが入る。
そんなシーンを撮る。
なんだよそれとぼやきたくなるが。
実際にそういうシーンなのである。
シュールなギャグになりそうなのだが。それをCGとかの特殊効果とかで、砂を噛むような拷問に変えるらしい。
訳が分からないが。
そういうものだと思って諦めるしか無い。
ともかく、側転を二回して、更にバクテンを決める。
その間、淡々と演技をする俳優達。
脚本を見て適当に演技しろ。
なんと、監督の指導がこれである。
このため、自分の台詞だけか、或いは脚本全てか。目を通してきただろう俳優達も、みんな青ざめていた。
一応ホトケの高宮という呼び方は皆も知っているのだろうが。
アカデミー賞監督である。
つまり、たくさんの人が映画を見るという事を意味している。
変な演技でもしたら。
それこそ以降ネットで何をされるか分からない。
実際問題、今まだ公開中の前作では。
出演していた俳優達がSNSでからかい目的で突入してきた荒らし達にもみくちゃにされ。
一時アカウントを停止していた程なのである。
それだけならまだいいだろう。
今後の映画生命に関わるかも知れない。
それこそ、絶対に気は抜けなかった。
ともかく、バクテンをしおえ。
皆が発言を終えたところでカットが入る。
「はいOK。 次以降ね。 次、シーン9」
さっと、皆が動く。
今度は茜以外の俳優達が、湖畔で扇形の組み体操をするシーンである。
よく学校で事故を起こすピラミッドは、高宮監督の映画ではやらない。安全度が高い組み体操をする。
ここで笑い声とかいれたら安っぽいコントになってしまうが。
謎の音楽と謎の台詞で。
これらの全ては虚無と化すのだ。
組み体操は高宮監督の映画における名物であり。
実に様々な組み体操が行われるのだが。
それら全てが笑えるシーンに出来そうなのに、何一つ面白いシーンにはならないのである。
それが不思議を通り越して。
恐怖さえ感じる要素となっていた。
ともかく、撮影を進めていく。
淡々と撮影をするが、NGは出無い。
今のはいいのか、というシーンが幾つもあったが、それでも全く気にする様子がないのが不気味だ。
監督によっては、「出来が悪い」俳優に当たり散らしたりするケースが散見されるそうだが。
高宮監督は、事前の噂通り。
ホトケの高宮そのもの。
一切怒鳴ったりはせず。
静かに静かに。
ただ茜から見ると、獲物を狙う邪神のように深淵から。ただ静かに撮影の指揮を執り続けていて。
そのまま何事も起きていないかのように、ただ無言で映画を撮影し続けるのだった。
ともかくとして、だ。
夕方が来ると、手を叩く高宮監督。
本当に定時で終わりにするのか。
劇団の時は、夜遅くまで練習とかざらだったのに。
そう思うと、ちょっと不思議だった。
「はい、では今日はここまで。 ゆっくり休んで、明日以降に備えるようにね。 では解散」
「はい、解散」
さっとスタッフも散る。
配給会社から派遣されているだろうスタッフは、既に高宮監督のやり方になれているのだろう。
あっと言う間に散って行く。
そのまま、高宮監督もてきぱきと片付けをして、スタジオを後にする。
俳優達はこんなに早くて良いのと困惑していたが。
茜もそのまま、帰ることにした。
帰り道に、軽く話をする。
事務所はバラバラ。
みんな知らない俳優。多分みな新人ばかりだ。
野心的な子もいるし。
親が俳優だ、というだけの子もいる。
分かっているのは、はっきりいって演技力とかはあまり要求されていないだろう、ということだけ。
ただ高宮監督の思うままに。
皆が動けば、それでいいのだろう。
何だか色々と悲しい話だが。高宮監督の映画というのはそういうものなので、仕方が無い。
スタジオの最寄り駅で別れる。
後は、事務所がとってくれた宿に止まるもの。
自宅に帰るもので。
三々五々に散って行った。
茜は自宅組だ。
帰り道、何度も溜息がでた。それでも、どうにかしなければならないのが俳優というものだ。
本当に意味不明なシーンばかりとるのだなと思う。
そしてパニックホラーは、そもそも日常的な風景から。徐々に狂気を織り交ぜていくものなのに。
高宮監督の映画では。
そんなもの、最初から気にもしていないようだった。
二日目。
やはり高宮監督は最初に来ていて、作業をしていた。
セットの確認作業である。
それも、とても手慣れている。
たまりかねて、茜は声を掛けた。
「その、私も作業の経験はあります。 お手伝いをいたしましょうか」
「不要。 というか、これは私の映画だから。 私が責任を取って、皆の安全を確保しているわけ」
ああ、なるほど。
空挺兵が、パラシュートは自分で畳むという話があるが。
それと同じ感覚なのかも知れない。
いずれにしても、手を動かしながら高宮監督は言う。
「君、もうちょっと遅く来ても大丈夫だよ。 監督が最初にいるからって、君がそんなに早く来る理由も無い。 それならリラックス出来る場所、要は家で練習なりなんなりしてから来た方がいいんじゃないのかな」
「は、はい……」
「一時期の会社だと、一時間前出勤とかやらせてたみたいだけれどね。 此処ではそんな文化はないから」
「分かりました……」
なんだか気が抜ける人だな、と思う。
少し時間があるので、湖畔に出向いて少しボイストレーニングをする。
やり方は分かっているので、本番で失敗しないように喉を調整しておく。散々劇団時代にもやってきたことだ。
トレーニングが終わった後、のど飴を入れて調整。
自分の体に対して、茜は極めて気を遣っている。
その辺りは、俳優なら当然と思っているのだが。
どうも俳優としての仕事よりも。
周囲との「コミュニケーション」を重視する輩の方が多いのでは無いかと、近年は思い始めている。
そういえば劇団でも、そういうのが出世しやすかったし。
会社でも同じか。
その結果今は、色々な業界でどんどん人材が枯渇しているそうだが。
それは何だか悲しい事だなと思う。
無言のまま、茜は演技を幾つか練習しておく。
これからやる演技は覚えている。
脚本はぜんぶ頭に入っている。
どんな映画でも。
例えクソ映画でも、だ。
演じるからには、脚本を全部暗記するのは、俳優としての最低限の仕事だとも茜は思っていた。
だから、今後何を求められるかも理解しているし。
他の子が何をするのかも知っている。
だから、それらも全て出来るようにしておく。
スタントできる。
そう言われるほど、身体能力があるのだ。
この職場である。
正気度がなくなって病院送りになる俳優がいるかも知れないし。代役をしなければならなくなるかも知れない。
そう思うと、今のうちに。
あらゆる事態を想定して、やれることは全部やっておかなければならなかった。
ともかく、頭を整理してから現場に戻る。
丁度良い感じに人が集まり始めていた。俳優達もちゃんと来ている。欠席は一人もいない。
他の俳優に挨拶。
準備が終わると、すぐに撮影が始まった。
相変わらずの全部一発クリアである。本当にホトケの高宮なんだな、と思う。
ただ、演技の内容はどれもこれも狂っているので。
はっきりいって困惑させられるばかりだった。
更に、である。
茜は昼休みにスタッフに聞いた。
「そういえば、高宮監督がNG出す事ってあるんですか?」
「ああ、まだ見た事なかったっけ。 たまにあるよ。 前に見たのは、事故が起きそうになった時かな」
「えっ……」
「スタジオの事故をなんか神がかった勘か何かで察知してさ、一瞬早く俳優達を逃がしたんだよ。 セットが崩れて、遅れてたら誰か死んでたかもな。 その後の対応も的確で、とにかく手を出す暇も無かったよ。 勿論誰かを怒鳴ったりもしなかった」
ぞっとした。
それでか、あの念入りな事前調査は。
納得がいくのと同時に。少し怖くもなった。
高宮監督という人は、やはり爪を完全に隠した鷹だ。しかも、ああ見えて俳優や他のスタッフの事を考えている。
大御所を気取っているだけの老害とは完全に一線を画している存在だ。
本気になれば、面白い映画だって作れるのではあるまいか。
なのに、どうしてクソ映画にこだわっている。
趣味だとはとても思えない。何か理由があるのではないのだろうか。
やはり高宮監督を知れば知るほど、分からない事ばかりになる。
本当に何が目的なのか、あの人は。
昼メシになる。
弁当はそんなに悪くないのが来たが。はっきりいって味がしなかった。
やっぱり怖い。
深淵の邪神が側で舌なめずりをしているように思えてならないのである。食事中、高宮監督がふらっと消えてしまうのも怖い。
何だか人間とか食っていないだろうなと、ありもしない想像をしてしまう。
茜の中では、既に高宮監督は、人外のものに思えてならない。
怖い。
だけれども、それでも茜には俳優としてのプライドがある。
必死に心を奮い立たせて、やる事はやる。
そう決めているのだ。
それから午後の撮影に入る。
午後も相変わらず意味不明なシーンの撮影が続く。気が弱そうな女優の一人が、ついに耐えきれなくなったか泣き出したが。
それでも全く気にせず、良い感じだと高宮監督はカットを告げた。
恐怖でまだ泣いている俳優をちらりと見て、次のシーンにいく。
何言いたそうなスタッフに、高宮監督は告げる。
「泣き声は後の編集でカットするから問題ない」
「は、はあ……」
「一人ついていてやれ」
「分かりました」
女性のスタッフが一人、恐怖で泣いている俳優について向こうに行く。
彼女が必要ないシーンを先に撮るのだろう。
ぞくりとした事がもう一つある。
まさかとは思うが。
高宮監督、自分の中で全て撮影の順番を組んでいて。更に柔軟にそれを切り替える事が出来ているのか。
だとしたら、記憶力が良いとかそういうレベルでは無い。
化け物である。
茜も蒼白になる事を察したが。
それでも演技をするのがプロだと自分を奮い立たせる。
頬を叩くと、演技に向かう。
周囲の俳優達も、みんな死んだ顔をしていたが。それでも、まだまだ撮影は始まったばかりなのだ。
負けてはいられなかった。
2、知れば知るほど分からない
撮影が終わる。
定時で終わったというのにみんな疲労困憊している。こんなにホワイトな職場だというのに、だ。
ただ、撮影スタッフはそれほど消耗はしていないようだ。
恐らくだが。配給会社が貸し出したスタッフは、高宮監督の映画撮影に何度も参加して、慣れているのだろう。
嫌な慣れである。
「それでは今日も早めに帰って、きちんと寝ておくようにね。 解散」
高宮監督が、きっちり定時に皆を上がらせる。
既に撮影開始から三週間。
もう、皆の正気度は枯渇しかけているようだった。
茜も正直フラフラだけれども。
劇団員時代に前衛的な舞台をやったことは普通にあるし。それでなんとか持ち堪えているような感触だ。
そのまま頑張って行きたい。
無言で茜は帰宅の準備をする。
スタジオが少し遠め、と言う事もあって。
帰路の電車は、少し長かった。
そういえば、タクシーを手配しているのを見た。
高宮監督が使うのでは無さそうだ。
あの人は基本的に、いつも自家用車で通勤しているのを見る。
そこそこ年季の入った軽だ。
だから、誰かのためにわざわざ呼んだのだろうか。
なんというか、気配りをしっかりしてくれているというか。映画監督なのに、俳優をきちんと大事にしている。
かといって媚を売るわけでもなく。
独自の路線をしっかり行っている。
これで撮る映画が砂でも噛んでるような代物でなければ。ホトケの高宮という言葉は別の意味になっていただろうに。
茜は、どうしてこうなっているのだろうと思って、暗澹たる気持ちになる。
帰路の電車で揉まれながら、家に向かう。
ともかく、疲労がひどくて。
あまり周囲を見ようという気になれない。
座れる確率なんてゼロに等しいので。
もう最初から諦めている。
ただ、都心から家は微妙に離れている事もあって。
電車から降りることは苦労はしていなかった。
自宅につくと、そのままベッドに直行。しばらくぐったりする。
定時で上がったはずなのに。
この疲労具合はどういうことか。全くもって、不可解極まりない話である。
そのまま寝てしまうのも流石に何というか。
人間を捨てている気がする。
だから、しばらくぐったりした後。
風呂に入り。
夕食を取って。
それで、ぼんやりしてから寝る事にした。
ここしばらく、ずっとこんな感じだ。
SNSを確認する。
高宮監督の最新作、というか今撮影している作品の前作が。高宮監督の作品としては始めて、黒字興業になったと言う。
その一方で、見にいった人々は全員青ざめていたそうだが。
ただ、逆に二時間ぐっすりねむって健康になれるというコメントもSNSでは散見されるようで。
それは映画としてどうなのだろうとも思ってしまうが。
ともかく、ぼんやりしている内に睡眠の時間になる。
そのまま眠る事にする。
ねむっていると、夢に見る。
恋愛に対して、何の興味もなくなった事を。
茜の学校も、中学高校とスクールカーストが存在していて。本当にうんざりさせられる場所だった。
ルックスが良い茜は無理矢理スクールカーストの上位グループに入れられ。
男寄せとして使われた。
そして「パパ活」とか称する援助交際をやっているような女がスクールカーストのトップにいて。
その男漁りにつきあわされた。
茜はいやだったから「パパ活」だとかはやらなかったが。
アダルトビデオだのに極めて苛烈な当たりをしておきながら。「パパ活」とかいう援助交際を放置している政府のやり口には理解が出来なかった。
恋愛と称する金のやりとりを間近で何度も見ている内に。
二次元にて執拗に描写される恋愛などと言うものは存在しないと、茜は悟った。
高校時代に男女交際も経験したが。
ひたすらに性行為を求めてくるカレシに辟易し。
やったところで子供が出来ても責任なんか取れないだろうにと言ったら。逆上して暴力を振るわれ。
頭を四針縫う怪我をした。
それなのに暴力を振るった男には同情的な声があつまり。其奴は転校したものの、茜が悪いみたいな空気が一部で作られた。
それ以降だ。
男の側には寄りたくなくなった。
というか、女の側にもよりたくなくなった。
勿論そうだとは口にはしない。
世間的なつきあいは高校でも大学でもやった。
だが、大学では。
そもそもアホらしくなったから、サークルなんかには一切入らなかったし。
テニスサークルだとかで猿みたいな男が、女を食い散らかしている様子や。
バカの子供を妊娠した女子大生が子供を堕ろした挙げ句に大学をやめていく様子を見ながら。
人間の恋愛と称するものに、更に失望を深めた。
劇団は三回変えた。
いずれもが、交際を強要しようとしてきた相手を袖にしたのが原因だ。
彼奴はルックスを傘に来て調子に乗っている。
そういう噂が流れた。
それで、もううんざりして劇団を辞めた。
三回目に入った劇団では、人間の観察に徹した。
それで悟ったのだ。
人間の言う恋愛なんてものは幻想に過ぎないと。
性欲を如何に発散するかのものに過ぎないと。
男子は性欲を発散することを求めるし。
女子は恋愛に夢を見すぎている。
そんなものははっきりいってどうでもいいし。興味も無い。それが、劇団という魔郷で茜が経験した現実だった。
というわけで、茜はすっかり枯れた。
目が覚める。
ため息をつくと、頭を振る。
ろくでもない思い出ばかりである。
茜は夢を覚えている方で、昨晩の夢も覚えていた。
あの、茜をぶん殴って頭を四針縫う怪我をさせたカレシは、その後茜を恨みながら退学していった。
その後で退学先の学校で、女子生徒を妊娠させて。
以降は完全に人生を踏み外したらしい。
はっきりいってどうでもいい話だ。
更に最近知ったのだが。
その暴力も、茜に対して「なんだかむかつく」とかいうすこぶるどうでもいい理由から。スクールカーストのトップにいた女が仕掛けさせたものらしい。
その女も、今ではすっかりフェミニストだとかいう人権屋の手先に成り下がっているらしく。
まあ大学を出て以降、スクールカーストのトップにいた頃積み上げた負の成功体験の結果。
会社などで相手にされず。
錯乱した末の結末なのだろうと思う。
一切同情しない。
「パパ活」とやらで金を派手に使う遊びを覚えていたらしいから。
ホストか何かに散々つぎ込んで。
借金漬けになった挙げ句に。
活動家を称する人権屋の手先になったとすれば、納得がいく。
あれらはアホを使ってビジネスをしている。
茜だって知っている事実だ。
それを思うと、アホが相応の末路を迎えたことは、悲劇でも何でも無いし。
鬱陶しいから性病かなんかでさっさと死んでほしいとさえ思う。
朝の家事などを済ませると。
茜はSNSを見る。
幾つかニュースは確認しておく。
俳優として、プロとして食っていくと決めたのだ。その関係のものだ。
有名な俳優が、スキャンダルをすっぱ抜かれていた。
中学生を妊娠させたというものだ。
パパ活とやらの蔓延である。
丁度それをやった結果、中学生を妊娠させたとかで。
流石に俳優としての生命が絶たれたようだ。
自業自得だと思うが。
それに対して、フェミニストだのが猛反発しているようである。
SNSは大荒れになっているようだが。
そもそもフェミニストとやらが人権屋の手先になっているのは、すでに大半の人間が知っている。
連中は狂人扱いされていて。
また暴れていると、後ろ指を指されて笑われているようだった。
まあ茜も同じ意見だ。
あの醜悪なスクールカーストのトップ女の事を思い出すと、そういう意見しか出てこない。
高宮監督のアカウントも覗く。
今日も相変わらず、コーヒーの写真をアップしていて。コメントを幾つかしていた。
それが結構拡散されている。
コメントもかなりついていた。
かなり前まで遡ってみるが、たまに例外的に夜にもコーヒーの写真をアップしている日があったが。
それを除くと毎日同じ時間に必ずコーヒーの写真をアップしている。
何というか、不可思議極まりないアカウントだ。
これを見ているだけで、頭がくらくらしそうだが。
まあそれはそれ、これはこれ。
着替えなども済ませたので、いつでも出られる。
時計を見て、時間を確認してから。
茜は家を出ていた。
撮影現場に、以前より少し遅めにつく。
高宮監督に言われたので、少しゆっくりつくように調整したのだ。
それでも多少時間は余ったので、喉の調整とかをやっておく。
それで充分だと思ったからである。
「日野さん」
「はい」
戻った所で声を掛けられる。
スタッフの一人だった。
「今日は……」
今日は撮影の関係上、俳優が一人休みだそうだ。彼が出るシーンを撮影しないから、だとか。
主演である茜だって、そもそも出番がないシーンが結構ある。
それを考えると、今後は恐らくそういう日が出てくるだろう。
そうなると、休みが入るのかも知れない。
他の現場では考えられない事だが。
「分かりました。 そのつもりで演技します」
「はい、お願いします」
礼儀正しく頭を下げると、スタッフは行く。
こういう所のスタッフは、体育会系というのが基本で。
怒鳴り散らしたり、場合によっては暴力も当たり前というのが普通のようだけれども。
此処ではそういうことはない。
恐らく高宮監督の方針なのだろう。
少し前に聞かされたのだけれども。
ホトケの高宮と言われる一方で、高宮監督は暴力を振るったりするスタッフには容赦がないらしく。
その時点で首を宣告するそうだ。
そういう理由から、追い出されたスタッフは何人かいるらしい。
また、同じスタジオで怒鳴り散らかしているような奴がいると、無言で幽霊のように消えて。
その怒鳴っていた奴は、いつの間にか消えているらしい。
大御所だろうがベテランだろうが関係無い。
文字通り幽霊のようにいつも恐ろしい気配を発している高宮監督だが。
五月蠅いのは食糧的な意味で喰ってしまっているのでは無いのか、という噂まであるほどだ。
怖い。
だが、それでも職場が快適なのは事実である。
他の監督も、ここだけは見習ってほしい。
どうしてか、未だに劇団や映画の撮影現場は体育会系が正解とされている事が多いようであり。
それについては茜もうんざりしているのが実情だ。
だから、今回、それについてだけは助かる。
「はい、それではシーン29」
声が掛かる。
さっと皆で動く。
茜も役作りはしているつもりだが、何度読み返しても脚本もキャラクターも一切理解出来ない。
そろそろ人が襲われて死ぬシーンとか描かれるようになりはじめているのだが。
そもそも、何に襲われているのか。
どう襲われているのか。
それら全てが映らないのである。
魔郷と言われるサメ映画などでは、本当に酷い映画だとサメの姿が一切出てこない代物とか。
一カットだけ背びれが映るだけだとか。
そんな代物もあるらしいのだけれども。
それを思わせる。
それでいながら、何というか撮影は計算され尽くした様子で行われている。
やっぱりわざとやっているなコレ。
そう茜は思うが。
高宮監督は涼しい顔で、淡々と撮影を進めているのだった。
たまりかねたのか。死ぬシーンを描かれた後。俳優の一人が、高宮監督に質問をしていた。
「その、役作りのためにも聞きたいのですけど!」
「なに」
「どんなモンスターに襲われているのかくらいは教えてください! CGで作るにしても、です!」
「自分で脚本から想像してね」
さらりと爆弾発言を飛ばす高宮監督。
それが!分かっていたら!誰もこんな質問なんかしない!
そう激高したくなるが。
しかしながら、相手が怖すぎるのでそんな事はとても出来なかった。他の俳優達も怯えきっている。
何となくだが、分かるのだろう。
深淵の邪神のごときオーラが、である。
それでも勇気ある俳優は食い下がった。
「せ、せめてその、演技指導をもう少し細かく」
「君達はプロでしょ。 私は素人は一切映画で採用しないの。 おわかり?」
さらりというものだ。
確かに高宮監督は、アカデミー賞をとった今でも、アイドルやお笑い芸人、大物芸能人とかは映画で使っていない。
使うようにと指示があったらしいのだけれども。
そもそもこんなスタイルの映画ばかりとっている人だ。
途中から、スポンサーも使えとはいわなくなったそうだ。
それが常態化していき。
更にはアカデミー賞を取った頃には、クソ映画の監督として。現在のエドウッドとまで言われるようになっている有様である。
いつの間にか、その手の要求からは無縁となったのだろう。
「だから、プロとしてきちんと考えてね。 以上」
「……」
崩れ落ちそうになる俳優を、スタッフが支える。
何事もなかったかのように、次のシーンの撮影に入る。
やはり怖い。
何事も、問題が起きないように徹底的に先回りして手を打ちながら。
それでいながら、俳優達には圧倒的な恐怖をまき散らし、全員の精神を貪り喰らっていく。
やっぱり魔族か邪神だと思う。
それでも、なんとか必死にやっていく。
それが茜が、プロである証明になるから、である。
今日の撮影も何とか終わる。
みんな疲労困憊だが、高宮監督は定時で上がり、休むように告げた。
そして、解散直後に言われる。
「日野さん」
「は、はいっ」
「君、三日後休みだから。 疲れているようなら、しっかり休みを取っておいてね」
「わ、分かりました」
劇団とかだと、体育会系の先輩から。
どもったりすると、それだけでプロかお前はとか怒鳴られたりする事が珍しくもなかったのだが。
高宮監督はそんなパワハラと指導を勘違いしているような輩とは違って。優しかった。
それが逆に恐ろしさを倍増させるのだが。
或いはそれすら計算の内に入っているのかも知れない。
ともかく全く理解出来ない。
俳優達も三々五々戻っていくが。
女優の一人が声を掛けて来た。
「あの、日野さん。 少し良いかな」
「はい、なんでしょうか」
「その、今日……」
どうやら彼女も。今日高宮監督に勇気を振り絞って質問し、跳ね返された俳優と同じようにして。
そもそも何に襲われているかさっぱり分からず、混乱しているようだった。
そんなものは。茜だって知りたい。
だけれども、プロなんだから任せるとか言われたら。
しぶしぶ任されるしかないというのが事実だ。
「私も分かりません。 ごめんなさい」
「そう、そうだよね……」
「他の映画でも、俳優さん達が高宮監督の映画を理解しながら演じていたとはとても思えません。 だから、ある程度気楽にやって良いのだと思います」
「……うん」
彼女は確かそれなりに大きな映画にも出たことがある、完全な初心者ではないはずだ。
修羅場である撮影現場の経験だってあるはず。
それがこれほど怯えきってしまっているのは異常だ。
如何にこの職場が狂っているか。
その証左とも言えそうだ。
スタッフは黙々と引き揚げて行く。
みんななれている様子だけれども、本当にそうなのだろうか。
他のスタッフはみんな淡々とやっているけれども。
アレはひょっとしてだけれども。
とっくに全員正気度が枯渇してしまっていて。
笑顔しか浮かべられないとか、そんな状態なのではあるまいか。
ぞくりと背中に恐怖が走った。
はっきりいって、それはあり得ない話ではないから、である。
本当に怖い。
高宮監督は、自家用車で帰っていった。
いなくなっても。
あの人は恐怖をまき散らし続けている。
いずれにしても、ぼんやりスタジオに残っていても仕方が無い。
監督によっては、夜までスタジオを使う者もいる。
場合によっては徹夜だってする。
高宮監督の撮影現場がホワイト過ぎるだけだ。
別の意味で。
例えば、邪神が巣くう南極の山脈のような意味でホワイトという意味もあるかも知れないが。
それと職場がとても快適な環境である事は矛盾していない。
快適な環境にも邪神は住んでいる。
別にそれでも、不思議では無いだろう。
自宅に電車に揺られながら戻る。
途中、電車が止まって。線路内に立ち入りがどうのこうのとアナウンスが流れたが。
それは痴漢が出たことの隠語である事を、茜は知っていた。
まったく、今の時代も痴漢は出るんだな。
そう思ってげんなりしたが。捕り物は終わったのだろう。
すぐに電車は動きだし。
遅延もすぐに回復した。
自宅には少しいつもより遅れたが、きちんとついた。そういう意味では、日本の電車というのは優秀だ。
無言でまたベッドにダイブする。
そのまま寝てしまいそうだが。
人間としての尊厳を維持するために、風呂にも入るし夕食だって取る。ただ、料理なんてしている暇はないから。
途中のコンビニで買ってきた料理を食べるしかなかったが。
また、夢を見る。
なんだか深淵から這い上がってきたような邪神の夢だった。
高宮監督の第二形態だろうか。
明晰夢が多い茜だ。
夢の内容はかなりしっかり覚えている。
巨大な肉塊にたくさんの目がついていて。触手があって。口とかがデタラメにくっついている怪物。
見るだけで正気度がマッハでなくなりそうなそいつが。
今日、高宮監督に食ってかかっていた俳優を貪り喰っていた。というか触手で捕まえて、口にポイである。
ばりばりと凄い音がするが、どうしてか茜は突っ立って見ているだけ。
何となく分かる。
アレに襲われる事は無いと。
そのままその怪物はずるずると触手で体を引きずって泳いで行き。
手当たり次第に人間を食い始める。
触手で逃げ惑う人間を捕まえては口にポイ。
バリバリムシャムシャ。
なぜだか、あんまり怖いとは感じない。
こんなのよりも、高宮監督の方が、ずっと恐ろしいからだ。
そして、着想を得る。
こいつを、映画の恐怖存在として認識してみよう。
此奴に襲われていると思えば、役作りだって。
目が覚める。
明確に、怪物のイメージは頭の中にあった。
触手で襲われるシーンというのは、結構難しいものなのだけれども。
それはそれ、これはこれ。
アドリブで何とかやっていけばいい。
さっとスケッチをとる。
明晰夢を見る事が多い茜は、そうしてたまに夢に出て来たものをスケッチする事があるのだ。
そうすることで、演技につなげる。
これで食っていくと決めてから、そうするようにしている。一種の生活習慣であり、癖だった。
ささっと描き上げた怪物は、中々に恐怖を誘うデザインに仕上がった。
これで充分だろうと思ったので。
茜は頷く。
はっきりいって高宮監督のが十倍は怖いなと。
理解も一切できないなと。
まだこの人食いクリーチャーの方が、会話が成立しそうな気がする。
だけれども、だからこそ。
少しだけ、前に進める気がした。
3、撮影の山場を越えて
高宮監督は黙々と撮影を続ける。
茜は多少は、顔色が良くなって来たかも知れない。
他の俳優達がもう正気度が底をつきかけて、時々虚空を見てぼんやりしていたりするのを、さりげなくフォローしたり。
疲れている相手に対して、ある程度サポートしたりと。
少しずつ、スタジオで動けるようになっていた。
高宮監督は完全にマイペースだが。
どうやら茜が見た所、結構柔軟に撮影のスケジュールを入れ替えているらしい。
脳内でどういう風に撮影するか、順番とかを全て完璧に決めているのだとすると。
やはり怪物じみている、という言葉しか出てこないのが実情だ。
ともかく、撮影はクライマックスに入った。
怪物によって、街が襲撃され。
辺りが阿鼻叫喚の地獄絵図と化す様子が描かれる。
パニック映画だったら山場になる所の筈なのだけれども。
実際には、何というか殺風景極まりなく。
恐怖感どころか、盛り上がりも皆無になるだろう状況になっていた。
一応大道具小道具が頑張って色々やってくれているのだけれども。
恐らくだが。
高宮監督は、恐怖を煽る演出も。
或いはクライマックスで盛り上がる演出も。
ことごとくを潰して、無味乾燥な代物にしてしまうだろうという予感がある。頑張って皆が演技をしても。
それは無味乾燥の、恐ろしい代物になってしまうのだ。
それこそ、五分で寝るいや三分で充分。
そう言われている代物に、だ。
恐ろしい。
意図的にそれらをやっているとしたら、本当に目的は何なのだろう。
クライマックスのシーンを撮っていくが。スタジオ外でも撮影は行っていく。
流石にスタジオでも、あらゆるシチュエーションを再現出来る訳では無い。
良く特撮で、謎の赤土の崖地とか。
謎の工場とかが出てくるが。
あれらは撮影の名所として使われている場所であって。
スタジオの中にある訳では無い。
そういう場所も、撮影に使う。
勿論撮影に使える期間は限られているので。
そういう場所で撮影をするときは、色々と大変だ。
ともかく全く盛り上がらないクライマックスを取り終えて。
映画の撮影はどうにか一段落したと思う。
後はスタジオに戻って、細かい所を順番に撮っていけば終わりなのだけれども。役者の顔はみんな死んでいた。
まあそうだろう。
茜だっていつそうなってもおかしくない。
狂気に満ちた脚本。
恐怖の権化の監督。
どっちも正気度を削り取って行くには充分過ぎる程だ。
それほどに恐ろしいのだから、まあ当然と言えるだろう。
「では、今日はここで解散」
しかしながら、だ。
出先で撮影をした後。その場で解散を指示する高宮監督。まだ三時くらいである。
皆驚いた顔をしていたが。
茜は、何となくそうなるのではないかと思ったので、淡々と帰宅の準備を始めていた。俳優の一人が、流石に慌てていたが。
咳払い一つで、場が静寂になる。
高宮監督の咳払いは、それだけの圧があった。
「心配しなくても、撮影はスケジュール通りに進んでいるので、気にしないように。 それより皆疲れている様子だから、早めに帰って休むように」
「はい、解散解散」
手を叩いたのは、全く存在感がない副監督。
そういえば聞いた事がある。
高宮監督は、以前副監督を途中で首にして、そのまんま撮影を続けた事があるのだとか。
その事もあるのだろう。
以降副監督は、サポート役では無い。
置物としての役割しか、求められていないのだそうだ。
ともかく解散となる。
普通だったら、若さ溢れる皆がそのまんま遊びに出たりするのだろうが。流石に高宮監督の現場で正気度を失いかけている状態だ。
皆、そのまま帰宅するようだった。
茜もそのまま帰宅する。
流石にこの時間は、帰りの電車もガラガラだった、
有り難い話ではあるのだが。
それもまた、不思議な気分だった。
翌日からは、休みがまばらに入るようになった。
撮影に人数が必要なシーンを先に撮影しておいて。
後からこういう風に、それぞれに休みを入れていく。
それが高宮監督の撮影の仕方らしい。
非常に先進的ではあるのだけれども。これって、撮影の内容とか順番とかが、脳内に全部先に入っていないととてもできない。
管理ソフトとかで色々対応する方法もあるのだが。
そもそも役作りとかをしっかりやっている場合。
それだって、きちんとやれるかはかなり怪しい所だろうと茜は思う。
つまり、敢えてクソ映画を作っている高宮監督だから出来る手法であって。しかも高宮監督はスペックが恐らくは凄まじく高い。
そのスペックを壮絶に無駄遣いしている。
その結論で、間違いは無さそうだった。
自宅に着いたのは、まだ夕方前。
とりあえず、今日は自炊しようと思って、素材をスーパーで買ってきた。
劇団員だった頃の方が忙しいくらいだ。
ともかく自炊をして、風呂に入って。疲れを取って。手作りの夕食を口にすることする。
そのまましばらく無言で過ごしていると。
SNSをふと思い当たって、確認した。
そういえばアカデミー賞監督だ。
更に、やっと見に来ている人が増え始めていると言う事で、つぎの映画にも期待が掛かっているはず。
そろそろ特集とかやっているのだろうなと思ったら。
SNSの方がむしろ盛り上がっていた。
「何だか次はパニックホラーらしいぜ」
「パニックホラーか。 多分内容を誰も理解出来なくて、観客がパニックを起こすんだろうな……」
「違いない(笑)」
「サメとかワニとか今までもあったらしいな。 どんなだった?」
見ない方が良いぞと即答されていて、それで内容を察するらしい周囲の人々。
流石に高宮監督の作品を、全部寝ずに観る強者は多くは無いらしい。
ただ、それでもちらほらとはいるようだ。
「新作が出るらしいって事で、今までの高宮の作品全部見た。 勿論寝ずに」
「すごいな。 それでどうだった?」
「砂を噛みながら、石抱きをさせられている気分だった」
「そうか……お疲れ」
石抱きというのは江戸時代の有名な拷問だが。
実際に行われていたのかどうかはよく分かっていない。
本当に行っていたのなら、恐らくだが足が潰れて二度と立てなくなってしまっただろう事は疑いない。
昔は拷問で吐かせる方法がかなり多かったのも事実で。
それで無実の人間を犯罪者にしたてるケースも少なくなかったようだ。
ただ、江戸時代のいわゆる岡っ引きは、元犯罪者がなるケースが多かった。
これは犯罪者の手口を知り尽くしているからで。
拷問で体を壊されてしまった場合は、岡っ引きになる事はできなかっただろうと言う事もある。
或いは、そういうものなのかも知れない。
あくまで伝説は伝説だ。
「この間、ちらっと撮影の様子みたぜ」
「ああ、ネタバレしない程度に頼む」
「ネタバレも何も、見ていて何もわからんかったよ。 それに役者達みんな目が死んでた」
「いつもそうらしいな。 まあ映画を見る俺らの目も死ぬんだけどな」
なる程。
どうやら客観的に見てもそう見えるらしい。
一時期はともかく。
今の時代、特に子役などは非常に過酷な扱いを受けている。
子役の目が死んでいる、というのは有名な話で。
俳優への道をさっさと諦め。
演技のノウハウを生かして、声優に行く者も多い。
そういう者がかなり成功したりするのだ。
声優に行った人間を馬鹿にする俳優もいるようだが。
俳優のブラックぶり。
勘違いした大御所の滑稽さ。
それを考えると、声優になった方がまだマシだと茜は思う。まあそれはそれ、これはこれだが。
「何か他に情報とかは?」
「うーん、あったとしてもどうせ次も虚無で見る睡眠導入剤だろ?」
「う、うん、それは何となく予想は出来る」
「だったらもう出るのを素直に待てよ。 かなり早いペースで撮影いつもしてるみたいだし。 アナウンスがあったという事は、その内出るだろ」
まあ、撮影ももう佳境だ。
このSNSでの発言は正しい。
SNSは所詮SNS。
頓珍漢な話が蔓延る事も多いし。SNSの運営を含めて話を聞けない奴もたくさんうごめいているものなのだけれども。
それでも、今回は概ね正解が話されていたように思う。
時間が余ったので、演技などの練習をしておく。
高宮監督はNGをほぼ出さない。
そういう事もあって、多分あの場所にいたら鈍る。そう判断しての事だ。
しばらく演技について色々練習をしておく。
そうすると、何となく勘を取り戻した気がするが。
単にそう思い込んだだけ、という可能性も高い。今までちょっと正気度を失う職場にいたからだ。
だからこそ、練習はしなければならない。
何でもOKを出していた高宮監督のやり方は、演劇をやってきた人間としてはあまり褒められないものだと思う。
ストイックな茜には、素直にそう考える事が出来ていた。
幸い、この部屋は防音仕様だ。
ある程度訓練くらいしたって、隣から苦情が来る事も無いし。
別に演劇の練習は、声を出すだけでもない。
無言で、黙々淡々と作業をしていく。
そして、しばらく思う存分演技の練習をしたら。
後は寝ることにした。
丁度時間も良い感じだ。夕食も、久々にコンビニ弁当ではなかった。
定時で帰れる。
いつの間にか、この日本では殆ど無くなってしまった概念だ。
わずかな例外だけはリモートで仕事をするようになり。
それ以外はブラック企業で命の残りカスまで絞られている。
本当に、貧困は余裕の全てを奪う。
それが現実なのだと、思い知らされる。
そして、余裕を奪われた人間は。
何もかもを失うのだとも。
映画の撮影がほぼ終わる。
やっとか、という気持ちと同時に。これがどんな映画になるのかという恐怖もあった。何しろ、そもそも演じていた上に。脚本まで読んでいたにもかかわらず。最後まで話がさっぱり理解出来なかったのである。
これは茜以外の俳優もみんなそうだったようで。
最後の方は口から魂が出ている俳優も目立つようになっていた。
ともかくドラマとかの撮影ではないので、毎週撮影をする、というような状態ではなかったとはいえ。
それでも色々厳しかったのも事実で。
むしろ仕事のスケジュールはホワイトだったのに。
それでも精神的な体調を崩す俳優が目立っていた。
かくいう茜もそれは同じである。
心から色々大事なものが抜け落ちた気がする。
最後はポエムを呟きながらふらふらと廃墟のセットを歩き。
そして謎の怪物に横からばっくりいかれるシーンで映画は終わる。
とびっきしのバッドエンドとも言えるが。
しかしながらパニックホラーはそういうものだ。
グッドエンドで終わる方が珍しいというか異端である。
というわけで、まあまともな終わり方なのだと思う。
ただ、殆ど正体不明の何かが出てこないか、恐らくはCGでこれから作られる上に。
何よりも役者もそれがどんなものなのか知らされていないという事もあって。
結局の所、茜にもどうすれば良かったのか。
正解は最初から最後まで分からなかった。
ともかく、だ。
茜のぶんの撮影は終わった。
これからは、もしも撮り直しがあるなら対応しなければならないし。その場合にはまた此処に、つまり高宮監督の所に来なければならないが。
そもそも初出演は良いとして。
まだまだ食っていける状況では無い。
だから、仕事を探しに、あの営業と一緒に面接を受ける日々の始まりである。
ただ、撮影終了から一週間ほどは待つようにと高宮監督からお達しが行っているようなので。
その間は休む事が出来そうだった。
しばしお言葉に甘えて休む事にする。
この、しっかり休ませてくれることだけは、間違いなく感謝する所である。
実際問題、正気度をゴリゴリやられていた俳優も。
この高宮監督の方針だけは、全員が指示していたし。
何より職場の空気が良かったのも事実だった。
精神面では色々と来る物があったのだけれども。それはそれ、これはこれというものである。
ともかく、撮影は終わった。
深淵の邪神に側で見られる仕事は終わった、と言う事だ。
自宅に昼には戻る。
後は人がいない部分の撮影を幾つかして、それで終わりらしい。
エキストラすら使わず。
ひたすらシュールな絵面が繰り返されるパニックホラーと称する何かよく分からない代物。
それに出る事が出来たのは、名誉なのか。
映画業界では、高宮監督の評価は極めて高い。
高尚な哲学的命題を含んでいる作品を作ると、何人もの大御所評論家が絶賛しているし。滅多に取材は受けないものの。役者などが受けた取材でも、それについては証言をしているようだ。
だから、本来は名誉なはずだ。
だが世間的には高宮監督の映画はクソ映画の見本。
エドウッドの再来という言葉すらあるらしい。
エドウッド自身については茜もちょっと調べた程度だが、本人はとても人格的に優れた人物で。
周囲には友人にも恵まれ。
愛する家族もいて。
しかしながら、映画の才能だけがなかった、という可哀想な人であったらしい。
映画の出来は最悪を極めていたが。
それでも映画に対する熱意だけは本物だったのだ。
それを思うと。
意図的にクソ映画を作り。
それを面白くしようとせずに虚無にしている高宮監督は、むしろ全く別方向の存在ではないかと思えてならない。
ともかく、終わったと思うと。
どっと疲れが来て、そのまま夕方まで寝てしまった。
若いうちは、それでも夜にまた眠れる。
ベテランの劇団員に聞かされた事があるが。
三十を超すと徹夜で受けるダメージが、露骨に命を削っていると分かるようになってくるそうだ。
シフトなどで仕事をしている人は、それでどんどん寿命を抉られていき。
体の中を滅茶苦茶にされるか。
或いは自律神経をやられるかで。
結局の所、まともな老後なんて送ることはできないらしい。
だから、生活リズムを狂わせるのは良い事では無いし。
徹夜で仕事をするなんて本来は論外だ。
会社のもうけのためにそんな事をするのは馬鹿馬鹿しい話である。
ましてや、「代わりは幾らでもいる」等と宣う連中が、そういう無茶をどんどんやらせていった結果。
どんな業界でも、今は人材がいなくなっている。
それを考えると。
色々と、忌むべき事であるし。
何よりそれをさせなかった高宮監督は、そっちの方では尊敬できる。
なんだかわからない人だ。
深淵の邪神そのものとしか思えない一方で。
職場は本当にホワイトだったし。
俳優のことだって大事にしてくれていた。
セットなどを自分で朝一番に来て確認している様子は、正直な話劇団関係者としては感動すら覚えた。
そういう事をしてくれる監督なんて、滅多にいない。
それが出来るのは、本当に凄い事だと思うし。
アカデミー賞などを取っても一切驕らないのも、素晴らしいと思うが。
一方で、やはり。
非人間的というか。
得体が知れない面ばかり目立つのも、残念ながら事実だった。
夕方に起きだしてから、色々とそんな事をぼんやり思う。
とにかく凄く疲れが溜まっているようだ。
会社からメールが来ていた。
その内容を見て、ぞっとした。
「どうやら高宮監督が君の事を気に入ったらしい。 次の映画でも、主役では無いが使いたいらいしから、ストックしてほしいと連絡が来たそうだ。 明日から面接を受けて貰うつもりだったが、というわけで仕事が入った。 悪い意味ではあるのだけれども、高宮監督に今話題性があるのは事実だ。 うちの事務所としても、話題性には出来るだけ乗って起きたい。 というわけで面接は必要はない。 しばらくは休みになるから、自腹でいいなら温泉なりなんなりで休んでくるといい」
さいですか。
気に入られてしまいましたか。
血の気が引く音を聞いたのは、始めてかも知れない。
本当にそんな音がした気がした。
劇の参考にと、色々な作品を観てきた。
本当に怖いホラー作品も幾つか見てきたし。それらを見た後は恐怖ですくみ上がる気分だった。
それなのに、である。
それらとは比較にならない恐怖が、茜の中で駆け巡っていた。
幽霊だのクリーチャーだのなんて、はっきり言って怖くも何ともない。
この恐怖。
まさに側に邪神がいて、舌なめずりしているのを実体験したようなものだ。
悲鳴を上げて布団に潜り込みたくなったが。そんな程度で消せる恐怖ではない。
全身が鳥肌になり。
そして涙が流れてきた。
笑い始める。
人は本当に怖いとき、どう振る舞うか。色々あるらしいと聞いたことはあるのだけれども。
怖がらされた後、怒る人、泣く人、色々いるらしいが。
その後恐怖で笑い出してしまう人もいるそうだ。
茜がそうだった。
そうだったのだ。
ともかく。そのダメージはもうはっきりいってどうしようも無いとしか言えないので。茜はもはや、引きつった笑いを、部屋の中で続けるしかなかった。
そして、何となく悟る。
今後、高宮映画の顔として。
日野茜という名前が出るのではないかと。
現在日本を代表するクソ映画監督の顔。
それは、俳優として名誉な事なのだろうか。
いや、違う。
名誉なわけがない。
高宮監督は、それにだ。確かに本当に得体が知れない人ではあるけれども。監督としてはとても立派だった。
俳優に対する配慮なども、しっかりしてくれる人だ。
怖いけど。
人じゃなくて、邪神かも知れないけれど。
ともかく。そういう風に貶めるのは駄目だ。それについては。茜もそう判断出来る分別くらいはついていた。
恐怖が収まってきた後、何度も頬を叩く。
そして、自分を戒めた。
茜は役者だ。
だったら、役者として。どんだけつまらなく作ろうとしている高宮監督の映画であっても。
それを台無しにするくらいの演技をしてやればいいのだと思う。
高宮監督が、何を考えて何もかも面白さを映画から奪い去っているかは分からない。
それでも、役者が出来るのは。
それに反抗するくらいの、演技をしてみせる事だ。
脚本を見る。
はっきりいって最初から最後まで、ストーリーすら理解出来ない代物だった。他の映画を見もしたが、それらも全て同じで。
しかも高宮監督は、十中八九意図的にそうしている。
だから、理解出来ないのは当然の事であるのだし。
何も恥ずかしがる事などはない。
茜はこれからやらなければならない。
もしも高宮監督に気に入られてしまったのなら。
そのクソ映画の中で、最高の俳優として、必死にもがいて頑張り続けなければならないのだ。
それが俳優としての矜恃。
俳優としての意地。
それを守り通すことを、これから本気で考えなければならなかった。
温泉宿に連絡を入れる。
今、業病もあって観光地はガラガラだ。
だから、簡単に予約は取ることが出来た。
すぐに温泉に行く事にする。もしも呼び戻されたときは、その時はその時だ。今は温泉で、少しでも体のダメージをとっておきたい。
まだ若いんだから、寝ていれば回復するという事もちらっと考えたのだが。
これはこれで、気持ちの問題である。
高宮監督という恐怖の存在の映画に出て。
その後、必死にそれに抗い続けた。
そして最後に究極の恐怖を喰らって。精神崩壊しかけたけれども。それでもまだなんとかやっていくと決めたのだ。
だから、気持ちを入れ替えるためにも。
温泉に出向いて。
それで何とか、少しでも精神的な体調を立て直したい。
それが、今の茜の気持ちであり、やる事だった。
そうと決まれば話は早い。
その日はぐっすり眠って。
翌朝一番に電車に乗り。揺られながら、温泉地に向かった。
そのまま温泉に泊まる。
疲労回復で有名な温泉だ
状況が状況なので温泉も殆ど一人で独占できたし。
旅館でも、料理をしっかり振る舞ってくれた。
こういう所はいま大変だろうなとおもうのだけれども。
それでも、一人でも泊まれば少しはマシになるだろう。
なんだかいわゆる陽キャというのか。
何も考えていなさそうなのが、マスクもしないでぎゃあぎゃあ騒ぎながらうろついていたので、さっと避ける。
ああいうのとは関わらないのが一番だ。
ナンパでもされたら最悪である。
そのまま、さっさと温泉宿に戻ると。
後は床を温めて。
徹底的に眠り。
今回の撮影で溜まった、心と体の疲れを、最後の一滴まで取り去る事にした。
大丈夫。
日野茜はまだ若いのだ。体についても、そうおうに鍛えている自負はある。
だから、そうやって寝ていれば回復は出来る。
そう信じて。ひたすら温泉宿の布団で、茜は睡眠を貪り続けたのだった。
4、邪神のお気に入り
映画が放映され始めた。
前作、アカデミー賞取得直後の第十一作目。何の悪い冗談か、アルティメットコメディーシリーズとか名付けられているらしい作品群の一つが。興行的には充分に黒字であったという事もあるらしいが。
その結果か。
今回も、怖い者見たさか、相当な客が入っているようだ。
そして茜も、それにあわせて、事前の言葉通り高宮監督に呼び出されて。
今、映画が流されているのを余所に。
配給会社の一室に来ていた。
「君は逸材だ。 今後、私が映画監督の仕事をする限り、作品には是非出て貰いたいと思っている」
「は、はい……」
「ふふ、怖れているようでも分かる。 その心には反骨が満ちている。 少しでも内容を理解しよう。 役者として最高の演技をしようと考えている。 それが私には好ましいんだ」
さいですか。もうクラクラしていて、恐怖で漏らしそうなんですけれど。
そう言いたかったが、必死に言葉を飲み込んだ。
そして、脚本を渡された。
しっかり読み込んでくるように、と。
更に念押しに言われる。
「私はその脚本について一切説明はしない。 自分で丁寧に読み込んで、内容を自分なりに理解してほしい」
出来るか、と叫びたかったが。
勿論立場的にそれは許されない。
気に入られた相手は邪神だが。
セクハラもパワハラも絶対にしない相手だ。そういう意味では、何というか極めてタチが悪い支配者ではあるのだが。
ディストピアの主のようである。
「私はそれで得られる輝きがほしい。 ただ、先に言っておくが、当面その輝きは表に出ない。 覚悟はしておいてほしい」
「……」
「それでは撮影を本格的に始めるから、明日から頼むよ」
こくりと頷くと、部屋を出た。
何となく分かってきた。
高宮監督は、何かの理由でクソ映画を撮っているが。いつかそれを止めるつもりなのだろう。
それの理由はよく分からないけれども、それは分かった。
そうでなければ、「当分」なんて言わないだろう。
だからこそ、茜は抗いたい。
高宮監督の映画で、砂を噛むような代物に仕上げられたとしても。
存在感がある演技をしたいと。
高宮葵は、駒は揃ったと判断した。
クソ映画を作っているのには当然理由がある。
だけれども。それをやめるのにはまだまだ駄目だ。
ある一点まで仕事を続けてから。
一気に畳みかける。
それまでに「信頼」とやらを得ておかなければならない。会社の信頼、それに業界人の信頼。
それらが依存に変わるのを待ち。
それからひっくり返す。
全ては計画の上だ。
アカデミー賞を取ってしまった時は、流石に困惑したのだが。
いずれはとるつもりだった。
どうせ意識が高い業界人どもなら、いずれは嫌でも押しつけてくるだろうとは思っていたし。
むしろ好都合ではあった。
そこに、日野茜という逸材を見つけた。
そしてもう二人。
手を叩いて、入ってくるように促す。
二人、部屋に入ってくる。
すらっとした、綺麗な女の子。高校を卒業したばかりであるらしい。
もう一人、同年代のように見えるが。
小柄で子供のよう。
むすっとした表情もあって、大変に対照的な二人だった。華やかさと棘だらけの容姿の違いは、特に目立つ。
「貴方が高宮葵監督ですか?」
「いかにも」
「良く私だって分かりましたね」
「ふっ……」
鼻を鳴らす。
そう、この娘こそ、小野寺晴。以前、高宮がわざと駄目映画にしていると指摘してきた人物だ。
SNSでも一応ざっとコメントを目にしているのだが。
それをピンポイントで当てて見せたのは此奴が初めてだった。
SNSにも野生の専門家は埋もれているものなのだが。
それでもまさか、ピンポイントで当ててくる奴がいるとは思わなかったし。興味を持ったのだ。
それで自分なりに調べて、辿りついた。
しかし調べて見て分かったのが。その情報の出所はこの娘ではない。
そうなると参謀がいるという事になる。
そして一月ほど自分で調査を続け。
その盟友を探し出したのだった。
「で、そちらは井伊綾音。 その子の参謀と」
「……そうなる」
「ふっ、では二人を呼んだ理由を話しておこう。 私は君達が睨んだとおり、意図的にクソ映画を撮影している。 理由はまだ話せない。 だけれども、それに君達も噛んでほしい」
先にメリットを提示する。
初任給40万。
二人とも、である。
これは配給会社に交渉した。高卒の二人に、いきなり初任給四十万。本来だったらあり得ない話だが。
この間映画がついに黒字になり。
そして今回の映画も、初日で黒字になっている今。高宮の会社内での発言力はそれだけ高まっている。
だから、許可を通させた。
今後は更に会社内での影響力は強くなる。
その時には、この二人を活用して。
更に計画を早める事が出来るだろう。
「二人への仕事は、これから連絡する。 仕事は受けてくれるか?」
「……」
困惑している様子の小野寺。
それに対して、井伊は肘で小突いていた。
受けておけ、というのだろう。
今の時代。高卒で初任給四十万なんてあり得ない数字である。昔はそれなりにあったらしいが。
腐ったコンサルと、適当に書き散らされたビジネス書。
まだ人材は幾らでもいると考えている阿呆が支配しているブラック企業の群れ。
それにどれだけ給料を絞るかしか考えていない無能な人事。
それらが支配している世界で。
初任給四十万は破格だ。
勿論ボーナスもつく。
更にはブラック労働もさせない。
これからの映画界をになう人材になってもらうつもりだからだ。そんな事をして、人間を潰してしまうつもりはない。
「分かりました。 受けさせていただきます」
「右に同じく」
「結構。 それじゃ、次の映画から、仕事をしてもらうかな」
「……」
まだ困惑している様子の小野寺の手を引いて、井伊が一礼して部屋を出て行く。
あの二人、見た感じ井伊の方に主導権があるようだが。
一方的に井伊が上というわけではなく。
スペックが高い井伊の心の安全弁になっているのが小野寺のようだ。そういう関係は世間では珍しく無い。
さて、次だ。
会社の社長の所にいく。
今回も、高宮の映画は阿鼻叫喚を映画館に引き起こしている。
恐怖から客をおそれさせているのではない。
あまりにもつまらなさすぎるのに、それなのに何故か業界で大絶賛していて。へんな話題性までついたからだ。
そのため、なんと客席満員という事態が起きていると言う。
あの客が入らないということで知られていた高宮映画で、だ。
結果黒字も増えている。
アホな業界人は、やっと客がいい映画を評価できるようになって来たのだとかコメントしているようだが。
実際は違う。
だが、それについてはまだ信頼出来る同志以外には話せない。
社長には、これからある事をやってもらう。
そのためには、直接交渉が不可避だった。
(続)
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